魚のいない水族館:第3話

 

「あのぅ、魚は何処に行ったんですか?」

 

「海に帰りました」

僕の質問から2秒、間を置いて男はそう返答する。

 

「全部?」

「はい、全部。1匹残らず」

今度の間は1秒だった。

 

僕は一瞬ためらってから3つめの問いを発した。

「なんで?」

「魚たちが海に帰りたいと言い出したからです」

今度の間は0・5秒。

いや、0・3秒くらいだったかもしれない。

 

ストップウォッチで測っているわけではないので、

正確な秒数ではない。

でもだいたいわかる。返答の間がだんだん短くなっている。

 

けれども男の口調はけっして慌ただしいものではない。

落ち着いた、冷静な口調だ。

さりとて事務的というのでもない。

静かな中に、どこかあたたかみを感じることができる。

落ち着いた話し方に、力強さ、説得力がある。

 

じわりと水圧がかかったような気がした。

しばし黙っていると、男のほうが言葉を継いだ。

 

「そうなんです。魚たちが言い出したことです。

だからこうしました。

魚あっての水族館。魚が軸の水族館。魚ファーストです。

それなら魚の言うことを聞いてあげなくてはなりません。

魚の希望をかなえてあげなくては」

 

「だけど・・・」と、僕は口を挟もうとした。

しばし、男の説得力ある口調に圧倒されていたが、

「ああ、そうだったんですね」と、

簡単に納得するわけにはいかない。

男の言い分に正当性はあるものの、

人間側からすれば、「魚がいるからこそ水族館」とも言える。

 

しかし、僕がそのことを口にする前に、

男はさらになめらか話を継いだ。

 

「あなたの言いたいことはわかります。

その通りです。魚あっての水族館です。

魚が1匹もいないのでは水族館としての存在意義がないのではないか?

どうしてオープンしているのか?」

 

男はそこでまた間を取り、やや大げさに息を吐き、吸った。

 

男は僕の顔を改めて見据える。

僕も気持ちを整え、ちゃんと男の顔を見る。

 

二つの目が大きくて丸い。

そして目と目の間が奇妙に離れている。

7~8センチ位あるのではないか。

 

額は広く、やや前方に膨らんでいる。

鼻は低く、口は小さいが、これもまた前方に突き出している。

きりっと結ばれておらず、微妙に半開き状態で。

 

真横から見たら、額と口が前に突き出して、

真ん中にある鼻が窪んでいるように見えるだろう。

そんな気がした。

なんとなく魚類を思わせる顔だ。

一瞬、こいつは半漁人ではあるまいな、

という疑惑が頭をよぎった。

 

「あなたが訝しく思うのは、ごもっともです」

ひと呼吸おいて、男はまた、僕より先に言葉を継いだ。

 

「あなたは館長さんですか?」

僕は違う方向から質問を投げかけた。

「そうです」

男はゆっくりと首を縦に振る。

「だったら従業員だって・・・」

僕がそういうと、館長と名乗った男はまばたきをした。

魚はまばたきしない。

半漁人もまばたきはしないだろう、たぶん。

僕は頭から疑惑と妄想を払い落とした。

ちゃんと人間である男は会話を進める。

 

「そうですね。従業員だって、魚が好きで、

水族館で働いて幸福だったのに、

その魚がいなくなってしまった。

魚だけではない。イルカもアシカもペンギンもいない。

みんな、海に帰ってしまった。なので失業です。

わたしはここで、夢を持って働いていた従業員を

みんな失業させてしまった」

 

そこで館長は初めて悲しそうな感情を少しだけ見せ、

顔を伏せた。

 

「どうして・・・」

僕は緊張しながら、喉の奥から声を絞り出した。

少しかすれているのが分かる。

「どうして返す必要があったんですか?」

 

館長は顔を上げて僕の顔を見た。

 

「そのために仕事を失ってしまった人たちがいる。

いやいややってた仕事じゃないでしょう。

魚やイルカやアシカやペンギンが好きで、

そんな自分が大好きで、誇りを持ってやっていた仕事だ」

 

するするとお腹から出てきた言葉を、そのまま声に出した。

そうせざるを得ない何かが僕の中にあった。

声には自然と力がこもる。

そして、なおも続ける。

 

「あなたが館長なら、その責任がある。

僕の問いにもちゃんと答える義務がある」

 

そこで言葉を切り、僕は大きく呼吸した。

責めるような口調になっていたのではないか?

なぜ、そんなに強く質してしまったのか?

 

ちょっと後悔したが、時間はもとには戻らない。

それに間違ったことを言ったわけでも、失礼なことを言ったわけでもない。

自分にそう言い聞かせ、もう一度、頭の中で疑問を整理し、

質問文を構成し直して、館長に投げた。、

 

「どうして魚を海に帰し、水族館を閉じ、スタッフを解雇したんですか?」

 

館長は動揺したそぶりも見せず、

また、1秒の間を置いて、言葉を返した。

 

「それは地球がそう望んでいるからです」

 

その台詞を日常の生活空間の中で聞いたら、正気を疑うだろう。

「んなわけねーだろ」

と、思わず腹を抱えて笑いころげていた可能性だってある。

 

けれどもここは、水だけをたたえた、

静謐で巨大な水槽が並ぶ、魚のいない水族館だ。

そんなことができるはずがない。

 

言葉はどんな空間で発せられるかで、響きがまったく変わる。

そして、響きが変われば意味も変わってくる。

 

僕は、館長の語る話を聞かなくてはいけないと思った。

もっと聞きたい、とも思った。

なぜなら、そこには世間に浮遊している藻屑のような言葉よりも、はるかに価値のある真実が含まれているような気がしたからだ。

 

しかし、館長はそれ以上、僕と向き合おうとしなかった。

彼はくるりと90度、からだの向きを変え、

空っぽの水槽と向き合った。

透き通った水槽の表面に、魚によく似た顔が映し出される。

館長は僕ではなく、鏡の向こうにいる自分自身に、

丁寧に言い聞かせるようにつぶやいた。

 

「そうなんだ、これは地球の意思なんだ」

つづく