魚のいない水族館:第4話

 

「そうなんだ、これは地球の意思なんだ」

 

横向きになった館長の顔は。やはり魚っぽかった。

もう半魚人だとは思わなかったけど、代わりに、

人間は母親のおなかの中にいる時、つまり胎児の期間中、

生物の数億年にわたる進化を経験するという話を思い出した。

受精卵が成長する過程の、ほんの数日間、

人間も魚のかたちをとる時間がある。

人は昔、魚だった。

この水族館は胎内だ。

 

「地球は宇宙に浮かぶ1個の生命体です」

水槽に向き合う館長の言葉は、僕に向けられているのか、

自分自身に対して語っているのか、判断がつかなかった。

 

「だとすれば、魚も人間も、もちろん他の動植物も、

地球を構成する一つ一つの細胞なのです。

細胞は日々、新しく生まれ変わる。

古い細胞は死んでいく。

永遠に存在し続けるということはあり得ない。

それが正しい細胞としての在り方です」

 

こう見えても僕はわりと気が短い。

こうしたもったいぶった話し方を聞いていると、

だんだんイライラしてくる。

言いたいことがあるなら、もっとはっきり言えばいい。

 

「つまり、こういうことですか?

水族館なんて無駄なんじゃないか。

水族館を作って、人間に娯楽を与えたり、

魚たちの生態を研究させたところで、

ちっとも地球のためには役立たないという・・・」

 

館長はちらりと僕を一瞥して、また水槽に向き直った。

 

「わたしたちの足元を何万キロも掘り進んだところに、

“地球の脳”があります」

 

僕は図鑑で見た地球な内部の図を思い浮かべた。

丸い地球の真ん中に赤い玉のようなものがあった。

図鑑を見た時、僕は心臓のようだなと思ったが、

この人は脳だと言う。

意思があるというのだから、

心臓じゃなくて脳という例えが適切なのだろう。

 

「マントル層があって、その中心に核(コア)があるってやつですね?

脳っていうのは、ちょっと擬人化しすぎじゃないですか?」

 

館長は僕の言ったことをスル―する。

 

「人間は一つの細胞に過ぎなかったはずなのに、

地球の脳はその行動をコントロールできなくなった。

それをいいことに人間は、他の細胞を食い荒らし始めた」

 

「人間が地球にとって癌細胞だ、という話は聞いたことがありますが。

あのぅ、いったい何が言いたいんでしょうか?」

 

今度は館長は黙っている。

気を付けてものを言ったつもりだが、

心のイラつきが混じって表に出たかも知れない。

 

僕は環境保護団体も、環境保護運動も嫌いだ。

あんなことは、カネもヒマもあり余っている連中の

趣味だと思っている。

 

仕事とか、家族のこととか、健康のこととか、貯金と借金と保険のこととか、

買物とか、情報収集とか、メールやSNSのチェックとか、

ニュースや流行もののチェックとか・・・

 

こっちは生活するので精いっぱいでだ。

地球のことなんて、いちいち考えちゃいられない。

僕は毎日、ゴミだってちゃんと分別して出している。

電気もガスも水道も、できるだけ節約して使っている。

それでいいじゃないか。

それ以上、僕が地球のために何ができるというんだ?

 

自分たちが趣味として取り組んでいる分には、

勝手にどうぞという感じだが、

価値観を押しつけられるのはまっぴらごめんだ。

 

それに水族館の館長なら、その前にやるべきことがあるだろう。

まだ夏休みなんだ。

魚やイルカやアシカやペンギンやクラゲに会うのを

楽しみにやってくる子どもだって大勢いるはずだ。

子どもだけじゃない。

最近は、疲労が蓄積した大人たちの癒しの場にもなっている。

 

水族館にはそうした、かけがえのないミッションがあるはずだ。

地球環境がどうのこうのと言う前に、

まず、人間社会における役割をきちんと果たすべきだ。

 

そんな抗議の言葉が頭の中を右往左往した。

しかし、ここでこの男と議論を戦わせて、

いったいどんないいことがあるだろう?

いたずらに消耗するだけではないか。

そう考えたらバカバカしくなった。

 

「まだ遅くないんです。今ならまだ引き返せる。

人間自身もそのことに気付き始めた」

 

そう言って、館長は首から上を僕に向けた。

魚のような目が合う。

僕は再び言葉を飲みこみ、顔を伏せた。

そして、踵を返してその場を立ち去ろうとした。

もうこれ以上、こんな話に関わり合うのはごめんだ。

考えたってしかたがない。

面倒な問題からは逃げるが勝ちだ。

僕は忙しい。時間がないのだ。

 

けれども歩きながら別の声が聞こえてくる。

いや、ウソだろ。忙しくなんかない。

僕は今、失業中だ。

ヒマだからここに来たのではなかったのか?

たしかにそうだ。

たしかにそうなのだが。

 

「その水槽を見てごらんなさい」

 

心の隙を突くように、館長が鋭い矢を放った。

射止められて、僕は足を止めた。

 

「わたしのほうは見なくてもいい。

すぐ横にあるその水槽をご覧なさい」

 

僕は自分の身体の右側にあった水槽を見た。

水面ははるか上の方にある。

僕は見上げて思った。

ここにはどんな魚が入っていたのだろうか?

 

「さあ、それでは、あなたがそこに入っていると思いなさい」

僕が? 水槽に入る?

 

館長はそれ以上、何も言わなかった。

けれどもなぜか、僕はその突然の、奇妙な提案をすんなりと受け入れた。

なにも抵抗感はない。

まるで自分が、ずっと以前からそうしたかったかのようだ。

 

僕はもう水槽の中に入っていた。

水が流れている。

ポンプの音が聞こえてくる。

それに混じって、何か無数のメロディーのようなものが聞こえてくる。

それは魚の歌う歌のように聞こえた。

魚がいなくなっても、その一匹一匹の記憶だけが水の中に残っている。

 

その歌のような音の中からは、魚の感情の波のようなものが感じられた。

それはいやがおうでも想像力を刺激し、

僕は魚の目を持つにいたった。

 

水の中から館内のプロムナードを見る。

透明なガラスの向こうに集っている人間たち。

魚は人間という生き物をどう認識するのだろう?

 

人間が、同じ惑星で、今、同じ時間を生きている生き物だと、

魚たちは認めるのだろうか?

それとも・・・

つづく