魚のいない水族館:第5話

 

驚くべきことが起こった。

魚のいない水族館に人が集まり出した。

それも半端な数ではない。“わんさか”である。

きっかけば僕のブログだった。

僕はあの日の奇妙な体験を、

自分のブログに書いて公開してみたのだ。

 

ブログを書いたのは、ほぼひと月ぶりだった。

こんなことが人々の気に止まるとも、

共感を呼ぶとも思えなかったが、

自分にとって、かなり印象深い体験だったのは確かだ。

ただし、いよいよ頭がおかしくなったかと

思われるかも知れない。

 

そんな、どうでもいいことを思い悩んで逡巡していたら、

あっという間に三日が過ぎていた。

これ以上悩むのは明らかに時間の無駄だと思って、

えいやっと投稿した。

 

そうすればすっきりするだろうと思っていた。

ところが、意に反してそうはならならない。

なんだか澱のようなものが沈殿していて、

なんとも気持ちが悪いのだ。

 

脳の深いところ――深海にうごめく魚の群れ。

僕は小型潜水艦に乗り込んで、水圧と闘いながら、

その深淵にゆっくりと降りてゆく。

 

地球の衷心――館長が「地球の脳」と呼んだ所に下りてゆく。

僕の脳と地球の脳とはどこかで繋がっている。

降りれば降りるほど確信が増していく。

数日のうちにそんな夢を何度も見た。

 

その夢を見るたびに、ブログの評判は上がり、

僕の体験談は加速度的に広がっていった。

 

魚を皆、海に返したという勇気ある行為に、

環境保護団体のみならず、さまざまな企業や団体、

政治組織から賞賛の声が上がった。

そしてまた、それが多くの人の共感を呼び起こした。

 

気が付いた時には、魚のいない水族館は、

世界中から観光客が押し掛ける、

この夏いちばんのトレンドスポットになっていた。

 

僕は再び水族館に足を運んだ。

 

館内はまるで夢遊病者の群れだった。

訪れた客たちは空っぽの巨大な水槽をただ眺め、

魚から人間はどう見えるんだろう?と考えていた。

 

その中の何人かは「私も昔は魚だった」とか

「僕も海に還らなくてはいけない」などと、つぶやいていた。

 

最初はそうした静かな人たちが多かったのだが、

そのうち、瞑想やヨガをやる者が現れた。

 

さらに今度は、コスプレイヤーがやってくるようになった。

魚の被り物をして「ギョギョギョ」っという人をはじめ、

イルカやアシカやペンギンのコスチュームを着て、

パフォーマンスする人も現れた。

 

決定的だったのは、

とある世界的に有名なファッションデザイナーが、

新作のマーメイドドレスのショーを開催したことだった。

 

水族館はいろいろな色の肌や髪をした人魚たちと、

それを追いかける人魚マニア、

そして当然のことながら、マスコミの取材陣で溢れかえった。

 

こうなると水族館人気はますますエスカレートし、

旅行代理店は「魚のいない水族館ツアー」を売り出し、

大ヒットとなった。

 

さらに信じられないことが起こった。

あの館長が人気に応えるためとして、

巨大水槽を来場者に開放したのだ。

 

女も男も服を脱ぎ棄て、

それぞれ好みの水槽に入って泳ぎ出した。

自分の鍛えた肉体・磨きをかけた肉体を誇示し、

優美な泳ぎを人に見せつける。

その快感に酔いしれる連中が続出した。

 

もはや歯止めはきかず、聖域をイメージさせた

魚のいない水族館は、

坂を転がるように、レジャー施設へと変貌していった。

 

その変貌ぶりに僕はぼう然とするばかりだった。

僕はあの時、一入場者としての感想をブログに書いただけで、

この施設に何の関係もないし、何か責任を負うすべはない。

けれども、どうしても気分が落ち着かなかった。

 

その日、訪れた時、僕は館長の姿を探した。

ごった返す館内を抜けて表に出てみると、

人々のざわめきが波音に変わり、さ

あっと吹いてきた潮風に髪が乱れた。

館長の姿が目に入る。

彼はひとりでデッキの端に佇み、海を見ていた。

ムースで撫でつけた黒い髪は、

風に晒されてもびくともしない。

 

「どうしてこんなことになってしまったんですか?

あなた、いったい何を考えているんです?」

そう問いただすはずだった。

ところが、上手く口をついて言葉が出てこない。

僕は仕方なく、ゆっくりと彼に近づき、横に立った。

何か言わなくてはと焦り、言葉を探していると、

逆に彼から質問を投げてきた。

 

「人はどうして海を見たがるのでしょうか?」

 

「海は故郷だからです。

すべての生命の源であるからです」

 

僕はほとんど考えることもなく答えた。

なぜかそう答えていた。

答えた後で、もしかしたら、

彼は僕に質問しようとしたわけでなく、

自分自身に語りかけただけではないかと思った。

けれども彼は僕の言葉を丁寧に掬ってくれたようだ。

 

「海を見られるのは幸福なことです。

中には死ぬまで海を見ないで、一生を終える人だっています。

いや、交通手段が発達するまでは、

むしろそういう人の方が多かった。

山で生まれ育った人は、

一生をその山里のあたりで過ごしていました。

海などというものは物語に出てくる異境だった」

 

館長はそこで言葉を切った。

その気になればいつでも海を見られる僕たちは、

はたして幸福なのだろうか?

 

わからない。

それに、それがこの水族館と

どういう関係があると言うのだろう?

 

「もう秋の仕事は決まっているのですか?」

 

館長は唐突にそう訊いた。

 

「もしまだなら、ここに仕事があります」

「ここに?」

「はい。この水族館は秋になったら閉鎖します。

あなたにその後片付けを手伝ってもらいたい」

                     つづく