魚のいない水族館:最終話

 

 こんな形で秋の仕事が入ってくるなんて、思いもしなかった。

 僕は水族館の閉鎖作業を手伝うことになった。

 

 いろいろな業者がやってきて作業するが、いちばん大がかりなのは、やはり水槽の水を抜くことだった。

 何トンにもおよぶ水がポンプで汲み取られ、強大なタンク車に移され、運び去られた。この水も海に還っていくという。

 

 地球の70パーセントは海の水。頭の中に漆黒の宇宙の闇の中、ぽっかりと青い惑星が浮かび上がった。確かに地球は“水球”だ。

 水を抜いて空っぽになった水槽は、古代文明の遺跡のように見えた。僕は後に残された残骸を拾い集めて可燃ごみ・不燃ごみ・リサイクルごみにきちんと分別した。

 

 閉鎖することを決めてから、館長は館の奥にある、海底基地みたいな事務所にこもってパソコンをいじりながら事務処理をしていた。

 閉鎖するという情報は特に公開しなかったようだ。

 彼の言い分はこうだ。

 

 「人間は忘れる生き物です。それも割とすぐに。夏のことなんて、みんなとっくに忘れています。

 いったん涼しい風に慣れてしまえば、もう夏がどれくらい暑かったかなんて、ほとんど思い出せないでしょう?

 でも、それでいいんです。新しい暮らしが始まれば、過去のことなど忘れてしまっていい。

 また同じことが巡りくるようなら、その時はその時で、また対処して順応すればいいだけの話です。

 人間だけじゃなく、地球上の生きものはみんなそうしています」

 

 館長の言うとおりだった。

 みんな、「ああ、そう言えば、そんな水族館もあったよね」とは思っても、詳しいことは思い出せない。

 魚はいなかったということは記憶にあるが、もはやその輪郭は霧に包まれたようにぼやけている。

 

 しかし、何かが終わろうとする時は、人は見逃さない。

 どこからか情報を掘り出して――というか匂いを嗅ぎつけて、と言った方が適切かもしれない――ざわざわと集まってくる。

 そう、まるでサメが獲物の血の匂いを嗅ぎつけるように。

 

 そして、一度も来たことのない人でも、みんな、昔ながらの愛好者、顔なじみの友だちであるかのように主張するのだ。

 

 彼らはまた。遺跡を発掘する探検隊のようでもある。目ざとく金目のものを見つけ出し、「どうせもう要らないガラクタなんでしょ」と言って自分の物にしようとする。

 たぶん、「売れば値のつくものがいっぱいありそうだ」と、どこかの誰かがネットで書き込んだのが広まったのだろう。

 

 というわけで連日、大勢の“自称・魚のいない水族館の友だち”が、水槽に貼ってあった解説プレートやら、売店にあった魚の図鑑、模型、文房具、日持ちのするお土産のお菓子屋らの類を、僕がいいとかダメとか言う間もなく、持ち去って行ってしまった。

 おかげで片付け作業は半分くらいに減ったのだけど。

 

 僕はそのことを館長に事後報告した。

 館長は僕をとがめることなく、感情を顔に表さず、ただ「わかりました」とだけ言った。

 そして「あなたがいてくれて本当に良かった。助かります」とも。

 ほとんど感情を顔に表さないが、この人ならではの感謝の気持ちが伝わってきた。

 

 僕はいつの間にか、この館長の人柄に惹かれていたのだろう。

 最初はほんの1週間ほど手伝うつもりだったのに、「あと少しだけお願いします」と頼まれると、嫌とは言えなかった。

 

 それに自分でもこの仕事が結構気に入っていた。楽しいわけではないが、少なくとも嫌々だったり、辛かったりはしない。

 あれよあれよという間に1か月以上が過ぎ、秋の仕事の半分を水族館での後片付けに費やした。

 

 けれども、冬が来るまでやっているわけにはいかない。

 僕は「幸福の王子」のつばめではないのだ。

 もともと予定していた秋の仕事に入らなくてはいけない。

 閉鎖作業はまだ完全に終わってはいなかったが、僕は館長にそのことを申し出た。

 

 館長は一瞬、眉を寄せ、口を歪め、目を閉じて、ちょっとだけさびしそうな表情を見せ、空を見上げた。その後、すぐに顔を戻し、いつもの、感情を内側に宿したままの平坦な口調で

 

 「ここまでやっていただき、ありがとうございました。あなたにはたいへんお世話になりました」とだけ言い、おもむろにデスクの引き出しをあけた。

 

 そこには少し厚みを帯びた封筒が入っていた。まるで僕が今日、申してくることを予測していたかのように準備万端だ。封筒の中には賃金が入っていた。お札とコイン。

 

 僕は「失礼して」と断って、中の金額を確認し、「確かに」と伝えた。1か月分の賃金としては悪くない。

 

 「これは記念品です」館長はやはり表情を変えず、「これは記念品です」と言って、今度はポケットから小さな箱を取り出して手渡した。青いラッピングペーパーに包まれているが、リボンなどはかけられていない。

 

 僕は小さな声で「ありがとうございます」と言い、こちらは中身を開かず、そのまま自分のズボンのポケットにしまった。

 館長はもうそれ以上、何も言わなかった、

 これで本当に最後だ――そう思った僕は、以前からこの人に尋ねたかったことを、思い切って訊いてみた。

 

 「あなたも海に還るのですか? 魚たちと同じように」

 

 冗談とも取れるように、ほんの軽く訊いたつもりだったのに、思いがけずそれは事務室の空気を重く変えた。

 しばらくの間、ずしっと水圧がかかるような沈黙が流れた。初めて会った時と同様、何秒か過ぎた後に、館長はようやく唇を動かした。

 

 「わたしは山で育ちました」

 それからせきを切ったように自分の物語を語り出した。

 

 「海なんて少年の頃は一度も見たことがなかったのです。

 私の家族も海のことは知らなかった。

 私はその山の周辺で一生を終えるはずだった。

 

 ところがある時期から海へのあこがれが募り始めた。

 なぜかはわかりません。何がきっかけだったかも忘れてしまった。

 この間も言ったように、人間は忘れっぽい生きものですからね。

 

 わたしの中に――心の奥底に、海を求める何かが潜んでいたとしか言いようがない。とにかく、抑えがたいものを感じて、わたしは山を下り、旅に出た。

 もしかしたらずっと山にいた方が気楽に暮らせただろうなと思うことも何度かあった。

 けれども始まってしまったものは今さら止められない。

 

 夏も、秋も、冬も、春も、わたしは働いた。

 暑い時も寒い時も休まず働いた。

 そしてこの水族館を作ったのです。

 これは、わたしの夢の結晶でした。

 たくさんの魚たちに囲まれて、時には魚たちといっしょに夜も過ごして、わたしは幸福だった」

 

 彼はそこで話を止めた。すべてを語り終えたとは思えなかったので、僕は重ねて質問しようと思ったが、これ以上訊いたところで、何がぢうなるわけでもない。

 

 「ここの閉鎖が完了したら、わたしは故郷の山に帰ります」

 「そうですか。わかりました」

 「どうぞお元気で」

 「あなたも」

 

 それで僕たちは別れた。

 物事の終わりはいつもあっけない。

 人生は尻切れトンボのストーリーの連続だ。

 

 僕は家に帰って、館長からもらった記念品のことを思い出した。青いラッピングペーパーをあけると白い小箱が現れた。

 その蓋を取ってみると、中に入っていたのは、銀色のペンダントだった、少し大きめの魚のウロコのようにも見える。

 

 どうしてこんなものをくれたのか訝ったが、中には何のメッセージも入ってない。

 突然、僕はひどい不安に襲われた。このペンダントの意味や、魚のいない水族館の意味が分かる時は来るのだろうか? 

 これまで何十年も生きてきたが、僕には大事なことがなに一つ分かってないのではないか、という気がする。

 

 けれども僕はいったん考えるのをあきらめた。

 そうそういつまでもあの水族館のことを気に留めている暇はない。これから本当の秋の仕事が始まる。忘れてもいいのだ。

 

 忘れなくては前に進めないことがある。僕は自分にそう言い聞かせ、そのペンダントの入った小箱を机の引き出しの奥にしまった。

 浜辺で拾った小さな貝殻を、遥かな沖合まで出かけて行って、そっと沈めるように。

 

END