「アホな人間よりも優秀な機械ですよ」とは書かない

 

AIなど高度な技術に手を出す前に、
自社に合ったITツールの運用の仕方を見直しましょう。

 

そんな趣旨で、中小企業向けの
DX(デジタルトランスフォーメーション)の本を書いていたが、初稿からあちこち直しが入り、完成が近づいてきた。

 

コンサルタントの事例とノウハウを紹介するのがメインだが、
本であるからにはストーリーが必要ということで、
僕がその部分を担当した。

 

そのストーリーというのは、一言でいえば、
機械にできる「労働」「作業」はみんな機械にまかせて、
生産性を上げて余裕を作って、
「もっと人間らしい仕事をしましょうよ」ということになる。

 

もうちょっと言えば、
今まで「時間かけて、魂込めてやらなくちゃいかんぞ」
と思っていたところも、べつにタマシイなんぞいらんよ、
IT使って早く、ラクに、手を抜いてできたほうがいいよねーー
というわけ。

 

会議や打ち合わせなど、
その場でリアルに相手と向かい合わなければ、
ちゃんとした話し合いにならない――と言ってた人も、
コロナ禍で「大半はリモートでもOKだな」と考え直した。

セミナーもミーティングも、
リアルでなくては成り立たないというほどのものは
そう多くはないことを実感したはずだ。

 

さて、それはいいとして、
じゃあ「もっと人間らしい仕事って何?」と問われると、
クリエイティブな仕事とか、
そんな返事が返ってくるんだろうけど、
具体的なことはさっぱりわからない。

 

もちろん、僕にもわからない。
だってそれはそれぞれの業種・業態・会社によって
さまざまだから。
自分たちで考えてください、としか言いようがない。

 

考えてみたら、こういうことって、
工業化大量生産時代のフォーディズム、
要するにベルトコンベアの分担作業の頃から
ずっと言われ続けていたことだ。

 

機械を入れれば生産性が上がり、
良いものができ、会社が儲かる。
お客さまは幸せになり、働く人も幸せになる。
みんな幸せになって人間らしい暮らしが送れる。

 

場所が工場か、オフィスか。
仕事が製造・組み立てか、デスクワークか、の違いだけである。

 

と書いてみて、かれこれ30年以上前、
名古屋にある某有名家電メーカーの工場で
3カ月ほどのアルバイトで、

チャップリンしていたことを思い出した。


ちょっとコンベアのスピードが上がると
ついていけなくて、あちこち配置を代えられたことを憶えている。

 

映画「モダンタイムス」が制作されたのは1936年。
もうかれこれ80年以上前になる。
「人間らしい働き方」というのは、
そのころからの普遍的テーマなのだ。

 

20世紀の人たちからしてみれば、
21世紀の僕たちは、工場労働などの多くはロボットにやらせて、
みんなでコンピュータやスマホをいじくり、
いろんな情報を取り込んで、加工して・・・
なんてことをやってて、
実に人間らしい働き方をしているなぁ、と見えるのかも知れない。

 

よく言われているように、機械は人から仕事を奪う。
2015年に野村総研がリリースした
「日本の労働人口の 49%が人工知能やロボット等で代替可能に」
という研究報告が社会に与えた衝撃は大きく、
「いずれその日が来る」と
僕たちの潜在意識にインプットされてしまった。

 

これも時代の変化と言ってしまえばそれまでだが、
より安く、より良い製品・サービスを提供するために、
職場により進化したIT技術を導入するのは当然だろう。
そうなれば、会社が抱えきれなくなる人は続出するだろう。
これまで貢献して来ましたと言っても、もう通用しないのだ。

 

「そうした落ちこぼれる人に、
新たな活躍の場を作れないかと考えるのもDXです」
ストーリーはそんな願いを込めて、
ちょっとエモーショナルに結んでみた。

 

現実面ではともかく、本の中で
「アホな人間よりも優秀な機械ですよ」とは書かない、書けない。
僕に限らず、おそらく誰もが。
2020年の今の時点では。

 

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オナラよ 永遠に

オナラをテーマに展開する、愛と笑いとメッセージを載せたSF+ファンタジーテイストの少年少女小説。

小学5年生の小松救太郎は、ぬきうちテストの最中にオナラをもらし、クラス中からいじめられる。
じつはそのオナラの真犯人は隣の席の水城ユリカ。。彼は憧れの女の子の失敗をかばっていたのだ。しかし、ユリカはお礼を言うどころか、よけいなおせっかいだと救太郎をきびしく攻める。
その日、家に帰った救太郎は奇妙な白昼夢を見る。そこに登場するのは、26世紀から来た、オナラで音楽を奏でるプータローというキテレツな男。
この男の話 によると、500年後の世界では人間はオナラをしない生き物に進化しており、そのせいでストレスがたまり、心の病が蔓延しているという。そして救太郎こそが、失われたオナラを取り戻すための救世主であり、ユリカとラブラブになることで人類がオナラを取り戻し、不幸な歴史をやり直せると伝える。
救太郎は、潔癖症でオナラを軽蔑するステージママである母親のプレッシャーにユリカが苦しんでいること、また、人類からオナラを奪おうとする謎のヘビ魔女が彼女に取りついていることを知る。
ヘビ魔女との対決や、秘密警察から逃走するプータローとの交信を通じて、ついに自分の力で未来を変えることを決意する救太郎。
その方法はユリカのオナラをかばった日にタイムスリップして戻り、二人のよじれてしまった関係を修復するということだった。
はたして彼はユリカの気持ちを変え、オナラを失った未来の人類を救うことができるのだろうか?

読みだしたら止まらない面白さ。
オナラをこよなく愛するあなたのバイブルに。

 

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ロボットが生まれて100年が経った

 

今年2020年で、この世界にロボットが生まれて

ちょうど100年になる。

チェコの作家カレル・チャペックが
「R.U.R――原題: チェコ語: Rossumovi univerzální roboti」
という戯曲を発表したのが、1920年のこと。

 

R.U.R.とは「ロッサム万能ロボット会社」。
この劇の発表によって「ロボット」という言葉が世界に誕生した。

 

R.U.R.とはこんな物語。

 

舞台は未来のとある孤島。そこにはR.U.R社のロボット工場がある。ここで製造されたロボットたちは世界中に送られ、

さまざまな労働に使われていた。

人々はロボットによって便利な生活をしはじめていた。

ある日、社長のハリー・ドミンの元に会長の娘であるヘレナ・グローリーが訪れる。

ロボットにも心があると考えているヘレナは人権団体の代表となり、地位向上や権利保護を訴えるために来たと話す。
(ウィキペディアより)

 

日本でも「人造人間」という邦題で、
わずか3年後の1923年に翻訳が出ている。

 

「ロボット」という言葉・概念は機械文明が飛躍的に発展していた
20世紀の世界を瞬く間に席巻し、人々の想像力を刺激した。

そして小説や映画の世界、
さらに漫画の世界でも瞬く間に一つのジャンルを構築した。

アイザック・アシモフも、手塚治虫も、
カレル・チャペックとこの作品の子どもだ。

 

さて、それから100年後の今日。
ロボットは大きな進化を遂げ、

日常の様々なシーンで目にすることも多くなった。


だが、チャペックの物語のような形で
労働市場にはまだ入ってきていない。

 

ロボット(身体)の進化よりもAI(頭脳)の進化のほうが

圧倒的に早い。
従って市場への導入も早い。

 

重い物を運ぶ・持ち上げるなど、力仕事をするロボット、
人間が立ち入れない危険な区域で活動するロボットは
どんどん実用化され、早期に普及するが、
人間のように複雑な動作ができるロボットが
社会で活躍するまでにはまだまだ時間がかかるだろう。

 

今回のコロナウィルスによる災禍から生じたテレワーク、
リモートワークへの移行の状況がを見ていると、
ホワイトカラーの仕事の7~8割はAIに置き換えられる。

たぶんここ10年、いや、5年で。


しかし、現場で働くブルーカラーの大半は生き残る。

するとどうなるか?

AIの指令、マネージメントのもとに
人間が作業を行うという世界になる。


それはもうすぐそこまで来ている。

問題はそれを僕たちがどう感じるかだ。

 

機械に管理されて屈辱を感じるのか?
そういうものだと割り切るのか?

 

ロボット生誕100年は、誰もが「人間とはなんだ?」
と考える時代の元年になるのかも知れない。

 

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使徒COVID-19とエヴァンゲリオン的妄想

 

映画公開日延期のニュースによって、
頭がエヴァってしまったので、
新型コロナウィルスを「使徒」として考えてみる。

 

使徒とはAngel、つまり神が地上に遣わし天使である。

 

ウィルス蔓延で感染者が増え、
世界各地の都市がロックダウンし、
経済活動がストップすると、
やれ、武漢の空がきれいになったとか、
やれ、ベネチアの運河に魚が帰ってきた、
とかいった環境浄化現象が起こった。

 

するとネット上では、コロナは神の怒りだ、地球の逆襲だ、
人類への天罰だといった
アニメの見過ぎだろ~という言説が湧き出てきた。

 

もちろん、そんなことをまじめに論じる人たちは
ごく少数だ。

 

しかし、コロナが人類のこれ以上の環境破壊を阻む
使徒とか天使とか、地球の子ども とか、
といった捉え方はまんざら悪くないと思う。

 

そんなものを相手にして、
戦争みたいな勝ち負けを論じるのは間違っているし、
第一、殲滅させることはたぶん不可能だ。

 

この先、僕たちはこの新型コロナウィルスと
長らく付き合っていかなくてはならなくなるだろう。
1年、2年ではなく、10年、20年という長期スパンで。

 

共生しなくてはならないという覚悟もいるわけで、
このウィルスを世界全体で
懐柔するような手立てが必要になる。

 

いずれにしても環境問題で、
遠からず世界の経済活動に制限がかかってくるのは
わかっていたはずだ。

 

昨年、スウェーデンの環境活動家の少女が、
環境・生命よりも経済活動優先なのかと、
世界の首脳らに厳しく抗議していたシーンがよみがえる。

 

あれはささやかな兆しだったのか?

 

彼女らの世代は、脳の奥底で
僕たちよりもずっと強い危機感を感じているのだろう。
子どもを産む性である女は、
そのアンテナが特に鋭敏なのかも知れない。

 

使徒コロナはそうした地球の危機的現実から目を背け、
過剰な経済活動を続けようとする世界を強制的に
リセットさせるためにやってきた――
と考えることもできる。

 

これに対処するためには人類が皆、けちけちせずに
それぞれの国の資源――データも、エネルギーも、技術も、

経済も、文化も、知恵も――を出し合って、
力を合わせないと良い結果は得られない。

 

今、注目を浴びている各国の女性リーダーらの活躍は
未来の世界の再構築の布石になっていくのだろう。

 

あくまでヴァンゲリオン的妄想だけど。

 

 

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幻のエヴァvs五輪、そして明菜の残酷な天使

 

昨日、「シン・エヴァンゲリオン劇場版」の公開が延期された、
というニュースが流れてきた。

 

今年6月27日(土)に公開予定だったが、
新型コロナウィルス感染症の拡大でやむなく延期とのこと。

 

前作「Q」を高校生だった息子と一緒に見に行ったのが、
もう8年も前のことだったので、すっかり忘れてた。


去年だか一昨年だかに息子に
「2020年の夏に続きやるらしいよ」と聞いて、
「なに? もしや意図的に五輪にぶつけてきたのか?」
と思ったことを思い出した。

その「エヴァvs五輪」の対決? も幻と消えた。

こうなると新型コロナウィルスは、まさしく“使徒襲来”である。

 

映画館も劇場も、図書館さえもが閉鎖されてしまった今、
そういった場所に普通に入れて、

普通に非日常を楽しめたことは
本当に幸せなことだったと、しみじみ噛みしめる。

 

延期されたエヴァの映画の公開日もまだわからない。
いったいいつまでこれが続くのか?
今はいつかは再開するんだと信じるのみである。

 

でも劇場なんかは、この時期に特別な演劇体験をできないかなぁ。

 

舞台と客席の間を、飛沫が飛ばないよう透明な幕で仕切る。
観客は人数制限して、その劇場のキャパの1割程度しか入れない。
あえてそういうスカスカの空間で芝居をやるのだ。


プレミアムな演劇体験だから、料金は通常の10倍――
はさすがに高すぎるので、2~3倍いただいたらどうだろう?


それでも興行としては採算取れないだろうが、
実験的として面白いんじゃないかな?
寺山修司が生きていたらやりそうだ。
そういえば彼の作品の中で「疫病流行記」というのがあった。
やってみるところはないだろうか?

 

といった妄想にとらわれっつ、久しぶりに頭の中が
エヴァだらけになったので、
「残酷な天使のテーゼ」を聴こうと思ったら、
知らぬ間にいろんな歌手がカヴァーしていて、
なんと、八代亜紀や藤あや子までこの歌を歌っている。

 

中でも究極は中森明菜。
これまた久しぶりにこの人の歌を聴いたけど、
これはすごい。
とんでもなく色っぽくてエモーショナルで、完全にノックアウト。
エヴァとのシンクロ率120パーセントだ。

 

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大林宣彦監督の集大成「海辺の映画館―キネマの玉手箱―」

 

大林監督は「その日のまえに」(2008年)を作ったころから、
自分の映画人人生の終活を考えていたのかもしれない。

そうでなければ、ガンで「余命3か月」の告知を受けてから
これだけの大作はできないのではないか。


――というのはあくまで推測だが、
鑑賞してそんな感想を持った。

 

月刊仏事で数活映画特集をやっている関連で、
「海辺の映画館―キネマの玉手箱―」の
マスコミ試写会に行ってきた。
六本木にある、配給会社の試写室である。

 

すでに一度、昨年10月の東京国際映画祭で上映されているが、
4月上旬の公開に向けてマスコミ向けに数回試写会が行われる。
今回はその第1回だ。

 

渡された資料の中のコメントによると、
 幼いころ、“純真な軍国少年”だったという大林監督は、
「自由に生きよ、それが平和の証だ」と父に言われ、
形見代わりに8ミリ映写機を譲られ、
終戦から10年後の東京にやってきたという。
以来、60年以上にわたる映画作り――

 

と口で言ってしまうと簡単だが、
好きなこととはいえ、ビジネスでもある。
自分の中でさまざまな矛盾と
闘わなくてはならないこともあっただろう、

その思いは、この作品のはしばしから浮かび上がってくる。


この世の中と折り合いをつけながら、
自分のやりたいことをやり続ける、
この世界で自分をだまさずに生き続けるための矛盾。

 

3時間の長尺である。
ジャンル分けすると「戦争映画」「反戦映画」
ということになるのだろう。しかし、
一般的に思い浮かべるそれらとはだいぶ趣が異なる。

 

オープニングはほとんどSF映画。
宇宙船の中から観客に話し仕掛けるのは、
語り手のひとり、「爺ファンタ」こと、
かのYMOのドラマー・高橋幸宏氏である。

 

その宇宙から懐かしい日本の現風紀が残る広島・尾道の
海辺の映画館にシーンがぶっ飛ぶ。

そこでは映画への愛とともに、
幕末の動乱・明治維新から原爆投下で終わる太平洋戦争まで、
およそ1世紀にわたる日本の近代の歴史を軸にした、
すさまじいほどのイメージコラージュが展開する。

 

戦争とは何なのか?
僕たちが教わってきた歴史は何だったのか?
それらは歴代の権力者たちが作った、
映画のようなフィクションのようなものだったのか?
公になっている史実の裏には、本当は何があったのか?

 

嫌でもそんなことを考えざるを得ない。

 

おそらく批評としては、CGがマンガのようだとか、
合成がチャちいといった意見が出ると思うが、
むしろそれは全体のメッセージを伝え、
飲み下してもらうための
監督得意の「糖衣」のように思える。

 

実際、リアルな映像ではとても見られない残酷なシーンもある。
利己的な欲望を正義の美名に乗せて、
人を殺したり、人格を蹂躙する、
人間の卑劣さ・醜悪さが醸し出す“残酷”だ。

 

大林監督はメジャーデビュー作を製作した経験から
「ジャンルを選択すれば、如何なる純文学も
商業映画になり得ることを学んだ」
と言っているが、
この作品には、合成画面の稚拙さなどを補って余りある
真摯で深いメッセージがある。

 

これは大林監督の終活であり、集大成となる作品なのだと思う。
しかし、それでありながら、もっと前に進みたいんだという
溢れんばかりの意志を感じる。


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大林宣彦監督の終活映画

 

新年早々、「終活映画」の話です。

縁起が悪いから嫌だと言う人はスルーしてください。

 

昨年末で「月刊仏事」でページ埋める企画、なんかない?

と言われて「終活映画特集」をたりましょうと提案したら、

すんなりOKが出て進行中。

 

「人間の生と死を見つめる終活映画」と題して、

黒澤明監督の「生きる」をはじめ、

先日も紹介した、現在公開中の「私のちいさなお葬式」、

そして今年公開の新作まで、1ダースほどの終活映画を

紹介する予定です。

 

その中に大林宣彦監督の

「その日のまえに」(2008年公開)という、

重松清氏の短編小説を原作に作った作品を入れました。

 

これは死という重いテーマを扱いながら、

同監督独特の笑いとファンタジーの味付けがされていて

とても楽しく、ジンと来る映画です。

 

その大林監督、ガンに侵されている事が判明。

「まだやり残していることがある」と、

闘病しながら、まさしく命がけで

新作「海辺の映画館 キネマの玉手箱」を完成させました。

 

これは昨年10月の「東京国際映画祭」で上映され、

NHKの番組(たしか「クローズアップ現代」)でも

そのメイキングが紹介されたので、

知っている人も多いかもしれません。

 

この新作自体は終活映画のカテゴリーには

入らないと思うけど、

大林監督の映画製作に取り組む姿勢が

クリエイターの終活そのもの。

 

「その日のまえに」と合わせて、ぜひ紹介させてほしいと、

配給会社と制作会社に頼んだところ、

マスコミ用試写会のご案内を戴きました。

 

これは楽しみです。

何回かありますが、

さっそく今月下旬の第1回試写会に行ってきます。

 

なお、この「海辺の映画館 キネマの玉手箱」は

今年4月に公開予定。

 

「尾道三部作」以来、

ユーモアとファンタジーの入り混じった作風で

僕たちを楽しませてきてくれた大林監督の

集大成となる戦争映画です。

 


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私のちいさなお葬式(解凍された鯉) 終活と成功と幸福を考える、現代のロシア民話

 

●マトリューシュカみたいな現代のロシア民話

「終活映画」という振れこみで公開された

「私のちいさなお葬式」。

銀座の映画館に観に行ったが、チラシやサイトを見て

想像していた作品とは少し印象が違った。

 

終活映画というより、

現代のロシア民話みたいな印象を受ける。

 

映画館の販売店でお土産に

マトリューシュカを売っていたが、

マトリューシュカみたいな感じの映画――

というと雰囲気が伝わるかな。

 

●ユーモラスだけどシュール

主人公のおばあちゃん先生エレーナは、

可愛くてユーモラスなんだけど、

どこかシュールな不気味さも持っている。

 

だいたい、まだ死んでもいないのに

検死医のところへ死亡診断書を書かせたり、

自分で役所に行って埋葬許可証を出させたり、

棺桶を買い込んで、自分で自分の葬式の準備をする。

めちゃくちゃシュールなキャラである。

 

いわゆる終活映画の半分くらいはコメディだ。

その理由は、やっぱり人間、

行き着く所までたどり着くと、

社会人として活動していた頃には陰に隠れていた、

どうしようもなく滑稽な部分が現れるからだと思う。

 

それに加えて、わけのわからない

シュールでアバンギャルドな部分も

むき出しになってくる。

 

年寄りは敬うべきだけど、

それと同時に僕はいつも笑っている。

うちの90歳の母も、84歳の義母も、

オーガニックなボケをかまして、

僕を面白がらせてくれる。

 

●鯉は秘密の隠し味

もう一つ、この映画の民話っぽさというか、

シュールなおとぎ話感を演出しているのが、

余命宣告を受けたエレーナが、

その帰り道で出会う「鯉」である。

 

この鯉は、これも彼女の教え子だった、

偏屈そうなおっさんが、

湖で釣り上げ、頭をボコボコに打ち付け、

気絶させたのをあげると言って、

ほとんど無理やり押し付けるのだ。

 

彼女はしかたなく受け取って家に帰り、

そのまま冷蔵庫の冷凍室に押し込める。

 

ロシア料理については、

ボルシチ以外よく知らなかっので調べてみたら、

「ウハー(Уха)」という魚のスープがあって、

これによく鯉が使われるという。

あんまりおいしそうではないが・・・。

 

最初はなんでこんな鯉のエピソードを引っ張るのだろう?

と思って見ていたが、

この鯉が、実はこの映画の大きなキーポイントなのだ。

 

後から気が付いたのだが、

「私のちいさなお葬式」というのは邦題で、

原題は「Thawed Carp」――「解凍された鯉」。

メタファー感、寓話感たっぷりのタイトルである。

 

●成功=幸福なのか?

エミーナとともにもうひとりの主人公とも言えるのが、

息子のオレクである。

僕もそうだが、まだ終活するには早い男は、

たぶん彼の立場から、彼の視線で、この映画を観ると思う。

これはこの息子が再生する物語で阿もある

 

彼は故郷を後にし、母親から離れ、

都会で暮らすビジネスマン。

それも成功して、お金持ちになっている風の男で、

自己啓発セミナーを主催し、

講師として、成功したい人々を導く―

そんな役割を担っている。

言ってみれば、お母さんと同じ「先生」なのだ。

 

ところがこの成功者であるはずの彼が、

あんまり、というか全然、幸福そうに見えない。

 

「居心地のいいところに安住していてはいけない。

目標をしっかり掲げて前を向いて進まなくてはいけません」

と彼はセミナーで集まった受講生らに説く。

僕もビジネス書・啓発本の類で聞き覚えのある言葉だ。

 

ところが、受講生の一人の女性から

「わたしの目標は幸福になることです」

と返されると、なぜかしどろもどろになってしまう。

講義の内容とは裏腹に、

彼自身がもう目標を見失ってしまっているかのようだ。

 

成功と幸福はちょっと違うものなのだろう、たぶん。

いや、まったく違うのだ、きっと。

 

日本でこういう成功セミナーをやったり、

本を書いたりしている人はどうなんだろうな?

と、ふと思いがよぎった。

 

これはこの息子が再生する物語でもある。

「解凍された鯉」とは、彼のことなのかもしれない。

 

●若くても観たら面白い

観に行ったのは、平日の昼間だったこともあり、

お客は年輩の、それも女性ばっかりだったが、

ちらほら若い人も見かけた。

 

「終活映画」という触れ込みだからしかたないと思うが、

自分には関係ないと思って無視するには、ちょっともったいない。

 

それほど、いろんな示唆と寓意に溢れた、

笑って深く考えられる、

大人のおとぎ話のような映画である。

若い人も観たらいいのではないかと思う。

 


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笑って泣ける終活映画「私のちいさなお葬式」公開

 

今や世界中で大きな関心事となっている「終活」は、

ヒューマンドラマのテーマとしても重視され、

近年、次々と映画が製作されている。

 

2017年製作のロシア映画「私のちいさなお葬式」は、

モスクワ国際映画祭で上映されて大反響を呼び、

観客賞を受賞。

 

余命わずかと告げられた73歳の

チャーミングな元・女性教師を主人公とした

コミカルタッチの、笑って泣ける佳作だ。

 

12月6日(金)の、シネスイッチ銀座における

ロードショー初日初回では、

(一社)終活カウンセラー協会提供の

エンディングノートが入場者にプレゼントされた。

 

また、公式サイトには同協会の会長・武藤頼胡氏のコメントも掲載されている。

2019年12月から2020年2月にかけて

全国の劇場で順次公開される。

 


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映画「典座」の主役を訪ねて

 

ビデオクリップ➔短編➔長編➔カンヌ

「寺力本願」の取材で、映画「典座」に主演した
河口智賢さんの耕雲院(山梨県都留市)を訪ねた。
悩みつつ、いろんな社会活動に取り組む
若いお坊さんと話すのは楽しい。
 
この映画は、当時、河口さんが副会長を務めていた
曹洞宗青年会が製作したインディーズ映画だ。
 
当初はちょっとしたビデオクリップのようなものを・・・
という話だったのが、短編映画になり、長編映画になり、
カンヌ映画祭に招待される作品として仕上げられた。
●ロングバージョンを期待
「上映時間1時間というのはちょっと物足りないです」
と正直に言ったら、
「そういう反響は多くあります」とのこと。
 
明解な解決とか、感動的エンディングとか、
オチがなく、問題提起のみで終わっているのも
物足りなさの一因でもある。
 
それはいいのだが、せっかく映像が美しく、
僧侶らの心情も丁寧に描かれているので、
多少中だるみがあってもいいから、
もうちょっと映画の世界に浸っていたかった、という感じ。
監督が上手にまとめ過ぎたのかもしれない。
 
女性老師との対話のシーン
(この部分は完全なドキュメンタリー)などは
2時間以上カメラを回したというので、
機会があれば、この部分だけでドキュメンタリー作品にするとか、
90分くらいのロングバージョンを作ってもいいと思う。
●高齢僧は批判、若僧・坊守は絶賛
賛否両論いろんな反響があったようだが、
面白かったのは、同じお坊さんの反応。
 
若い人がおおむね好意的なのに対し、
年齢が上がるにつれて
「僧侶があんな悩んでる姿を見せては信頼を損ねる」
といった批判が出たと言う。
 
片や、住職の奥さん方を集めた上映会などでは、
河口さんが自分の奥さんをやや邪険に扱うシーンや、
別の坊さんがお酒を飲んで酔っ払うシーンなどを観て
「現実はあんなもんじゃないわよ」と言って
盛り上がるなどして、エールを戴いたと言う。
 
ちなみに住職の奥さんを「坊守(ぼうもり)さん」と
呼ぶらしいが、
これは坊主のお守と言う意味なのだろうか?
子どものお守みたいでもある。
 
いずれにしても。そうした話を聞いて、
さもありなんと思ってしまった。
とってもわかりやすい。
昭和・平成の日本は、そういう社会だったのだ。
 
これから原稿にするので、
ちょっとまだここでは書けないが、
映画製作の裏話などもいろいろ聞けて面白かった。
 
「うんうん、映画人だったら、ドラマ性を狙って
最初はそういう脚本でやりたがるよ」という感じ。
●世界での反響と宗教者の未来
「典座」はカンヌやマルセイユ(フランス)、
カルタゴ(チュニジア)の国際映画祭、
ロンドン(英国)やベルギーなどでも上映されており、
日本国内よりも海外での関心が高いようである。
 
「宗教」と「食」を一緒に描いているところが、
日本食に興味津々の外国人に響くのだろう。
 
テクノロジーの進化によって、
宗教は現実の世界と乖離し、
だんだん生活に必要とされなくなってきた。
 
そうした環境において宗教者は、
威厳を持って上から教え説く者でなく、
俗世間の人々に混じって、
苦悩しならも明るく生きる自分の姿をさらさないと、
人々の心を引き寄せ、信頼を得られないのではないか。
 
話を聞いて、そんなことを思った。
 
AI・ロボットによる新たな社会の仕組みづくりが進み、
「人間とは何か?」の時代が深まっていくにつれて、
彼らの活動は少しずつ社会にしみていくのかも知れない。
 
そして、従来のお坊さんとは違った存在感を示すことが
できるようになるのかも知れない。

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さすらいのレコード・コレクター:男のバカバカしくて痛快な生きザマ

 

先日、レコード屋さんの仕事をやったこともあり、

たまたま近所の映画館でかかっていたので観に行った。

1時間強のドキュメンタリー映画。

 

ジョー・ハザードはクレイジーなレコードマニア。

先入観念で、いわゆるジャズマニアなのかと思ってたら、

それ以前のルーツ音楽――ブルース、カントリー、

ブルーグラスなどのレコードのコレクターなのだ。

 

製作年が2003年で、この頃、ジョーは見た感じ、

70歳前後。

今も存命中だとすれば、もう80代後半。

僕の父とそう変わらない齢だ。

ということは昭和ひとけた。

1930年代の生まれらしい。

 

彼が愛する音楽は、その自分が生まれる前と生まれた頃の

1920年代~30年代、今から1世紀近く前の、

主に黒人音楽だ。

 

音楽ソフトはもちろんアナログレコード。

それも78回転のSP盤。

僕もこんなの資料館みたいなところでしか見たことがない。

ハードは蓄音機である。

 

で、このおっさんはオンボロのアメ車を乗り回して、

要らないレコードをはるばる遠くまで出張買取に出かける。

今でいう中古レコード屋みたいなことを

1960年代頃からやっている。

 

すでにこの頃からSP盤や蓄音機は過去の遺物で、

売りたい人たちは、テレビを買うお金の足しにするために、

モノ好きなレコードコレクターに二束三文で

大量のレコードを売っていた。

取引額は$でなく、¢の世界。

10セントとか20セントだ。

 

そんなわけでジョーは、

長年溜めこんだ2万5千枚のレコードが棚に並ぶ

音楽のお城で、いつも葉巻を吹かしながら、

リズムに乗せて、5歳児みたいに

足をバタバタ鳴らし、

あげくに私設ラジオ局まで作って、

お気に入りの曲を放送する。

とんでもなお大人子どもだ。

 

当時の若者音楽であるロックが大嫌いで、

娘が親への反抗の意味もあって買ってきた

ビートルズのレコードも捨ててしまったと言う。

 

この映画は、そんなおっさんのクレイジーぶりを描くのだが、

なぜ彼がブルーグラスなどの音楽にそこまでハマったのか、

仕事は何をしている(してきた)人なのか、

音楽を聴く以外にどんな暮らしを送っているのかということなど

一切描かれない。

 

家族も、成人して中年に近くなった娘が

「こんなお父さんだった」ということをコメントするために

2,3ヵ所、短く登場するだけだ。

 

カメラは、ただひたすら楽しそうに音楽を聴き、

車に乗ってレコードを買い集めるジョーを追うだけで、

特にこれといったドラマも起こらない。

 

ジョー自身も特にこれといった

音楽に対する主義主張や評論家じみた批評や

マニア然としたうんちくをぶつわけじゃなく、

ひたすら「これがいい」「あれが最高」と言うだけ。

 

ちなみに彼はロック以前にジャズさえもいい作品は

戦前のもので、大恐慌・2次大戦以降の音楽は

とても聴けないと言う。

まさしく古き良きアメリカンフォークの偏愛者と呼ぶしかない。

 

結果的に、彼は100年後の現在のポップミュージックに繋がる

アメリカ音楽の歴史の貴重な生き証人であり、

この映画にはそういう価値があるのだが、

ジョーにとってはそんなこと、どうでもいいのだろう。

 

何も人間を深く描き、

ドラマチックで感動的な出来事を伝えるだけが

ドキュメンタリーではない。

 

「俺には生涯熱中できるものがある。

傍から見たら単なるバカに見えるかもしれないけど、

楽しい音楽を聴いてりゃ、そんなことどうでもいいんだ」

 

そんなジョーの声は聞こえてきそうだ。

 

人の役に立つわけでなく、社会に貢献するわけでもない。

感動的でもなければ、深い意味があるわけでもない。

しかし、彼の音楽に対する偏愛ぶりは痛快で、

どこか胸を打つものがある。

 

これもまた立派な男の生きザマである。

 


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酒・タバコ、やめて100まで生きたバカ:2019シガーバー&愛煙家通信編

 

★JOKERはチェーンスモーカー

先日、「JOKER」について書いたが、

あの映画の舞台・ゴッサムシティは

明らかに1970年代のニューヨークをモデルにしている。

 

世界一繁栄を誇る、と同時に、

世界一荒廃したこの都市の

底辺生活者の代表でもある、

主人公アーサー、のちのJOKERは、

ひっきりなしにタバコを吸い続ける

チェーンスモーカーだ。

 

アメリカで猛烈な禁煙運動が起こるのは、

その後、80年代に入り、

レーガノミクスという経済政策

(アベノミクスのお手本)が始まってから。

 

1970年代までの喫煙習慣は、

世界中の近代国家で、

明らかに一つの屹立した文化を形作っていた。

昭和までの日本も、もちろんその例外ではない。

 

僕より上の年代の人たちの中には、

ごくまともでも、

アーサーみたいなチェーンスモーカーが

今でも大勢いるのではないかと思われる。

 

★2020世界の模範都市・東京のシガーバー

20世紀、近代国家が成長する過程で

創り上げられた、一つの喫煙文化は、

今、絶滅の危機に瀕している。

 

2020に向けて世界の模範都市になるために、

東京都はますます喫煙に厳しくなった。

弱小の飲食店にも圧力がかけられ、

2020年4月1日から従業員を雇っている店は原則禁煙となる。

都内の少なくとも約84%の店が禁煙になる見込みだと言う。

 

僕の友人がやっている神楽坂の店は、

1950~70年代の雰囲気を売りにしていて、

常連客の大半はスモーカー。

そしてご年輩の人も多い。

 

現在、昼間カフェ、夜はバーだが、

来年4月からは「シガーバー」として営業するようだ。

そうでなければ営業できなくなるのである。

 

完全分煙のために店を改装する費用が出せないのが理由だが、

もはや店内にはタバコの匂いが深く染み付いてしまっているので、

建て替えでもしなければ、煙草嫌いは寄ってこないだろうと言う。

 

「シガーバーも受動喫煙防止法の対象で禁煙になりますか?」

なんて笑い話みたいな質問がウェブ上に載ってたりして、

これはこれで混乱が起こりそうな気がする。

 

★愛煙家通信

 

“あるホテルのシガーバーで、おばさんに「タバコやめてくれませんか」と言われて大喧嘩になったことがある”

 

そう語るのは作家の北方謙三氏だ。

 

これは「愛煙家通信」というウェブサイトに載せられた

北方氏の投稿文の一部。、

 

この文章がめっぽう面白く、こんな一節もある。

 

“男というのはね、女が価値を認めないようなものを

大事にするものなんですよ。

煙になって消えて行くようなものの価値なんて、女にはわかりませんよ。

男なんて人生そのものが煙みたいなものだから、自分と重ね合わせて、

そういう消えて行くものの価値を大切にする。

ほとんどの女は絶対、煙になって消えようなんて思ってないですからね”

 

さすがハードボイルド作家。

人生における喫煙の意味、そして女には理解困難な、

喫煙に対する男の心情を見事に言い表した

含蓄のある言葉である。

 

こじつけ?

そう、タフガイらしい、そのこじつけ力が素晴らしい。

 

この「愛煙家通信」の投稿コーナーは、

「禁煙ファシズムにもの申す」と題され、

さまざまな著名人の意見やエッセイが載っている。

 

ちなみに杉浦日向子氏や上坂冬子氏など、

女性作家や学者なども寄稿している。

 

「たばこはわたしの6本目の指」なんて、

そそられるタイトルで書いているのは女優の淡路恵子氏。

こんな色っぽいことを囁かれたら、

夜のブラックホールに吸い込まれそうだ。

 

好き嫌い、良い悪いはともかく、

なぜ、20世紀の近代国家の成長段階で、

あれほど喫煙が持てはやされ、

一つの文化を7築いたのか、

歴史を知る意味でも

「愛煙家通信」は一読の価値があると思う。

 

★かつては愛煙家、じつは今も

僕はかれこれ20年近く前に25年間の喫煙習慣を捨てた人間だ。

心情的には喫煙者・禁煙者、双方の間を、

コウモリみたいに、どっちつかずで行ったり来たりしている。

 

だから性懲りもなく、毎年思いついたように

この「酒、タバコ、やめて100まで生きたバカ」という

シリーズを書き続けている。

 

それはやっぱり体はタバコを受け付けなくなったが、

心のどこかで、過去の自分を含め、

タバコを吸っていた人たちを愛していたいからだと思う。

早い話、ノスタルジーや思い出の世界。

変わりゆく世界への抵抗、なのかもしれない。

 

時々、あのまま吸い続けていたら、

今ごろどうなっていたか?と考える時もある。

 

もしかしたら今と変わらず元気でいるかもしれなし、

重大な健康障害に陥っていたかも知れない。

中年以降の人生は今とは違ったものになっていたかもしれない。

 

そんなこと、誰にもわからない。

自分にもわからない。

ただ、やめてしまったからこそ、

一つの世界、一つの文化として

却って興味をそそられる部分がある。

 

酒もタバコも人間の愚かしい習慣だと思う。

でも、その愚かしいストーリーがある世界から

たぶん一生離れられない。

  


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なぜ人はJOKERに魅了されるのか?

 

●JOKER誕生の物語?

これは、バットマンのライバルとなる

あの究極の愉快犯「Joker」が

どのように生まれたのか?

 

ひとりの平凡な男が、

なぜ稀代の大悪党になったのか?

 

それを解き明かす物語だと思っていた。

 

観たいなと思った映画は、

いつもなるべく事前に情報を入れないようにしているけど、

どうしてもチラホラと小耳に挟んでしまう。

 

だから、子どもの頃、

親に虐待されたトラウマがどうだとか、

 

分断された格差社会の犠牲者だとか、

 

自分を貶めた偽善者たちへの復讐だとか、

 

いろんな悲劇の上に、

あの残虐な笑いを湛えたサイコパスが生まれた

――という説明がなされるのだと思っていた。

 

それをすごいクオリティでやってのけたから、

ハリウッド製のメジャーな映画は賞が獲れないとされる

ヴェネチア国際映画祭で最高賞を獲ったのだろう。

そう思ってた。

 

そうした先入観はぶち破られた。

 

●原因と結果はそう簡単に結びつかない

悲劇であることは間違いないのだ。

 

ジョーカーになってしまう主人公アーサーの

家庭環境は酷すぎる。

父親も母親もめちゃくちゃだ。

 

それが原因となって、

彼は精神障害を抱えて生きざるを得ない。

 

あのジョーカーキャラの最大の特徴となっている、

誤ってキノコのワライタケを食べてしまったような、

マッドで素っ頓狂な笑いは、その症状であり、

重い十字架になって、差別や誤解のもとになっている。

 

そして当然のように極貧の生活を送り、

社会の底辺から這い上がれない。

それでも彼は年老いた母親のために尽くす良い息子なのだ。

 

そんな彼を社会は蔑み、嗤い、潰そうとする。

その中にはバットマンも含まれている。

 

そりゃ可哀そうだ。

そりゃ恨んだり憎んだりもするわな。

そりゃ悪党・犯罪者になってしまってもしかたない。

 

・・・というふうに、

主人公に同情し、部分的に共感し、理解を示し、

この物語を解釈してしまうことも可能だ。

 

でもそんなにクリアに「わかった、理解した」とは

とても言えない。

そう言ってしまうと、とてもつまらない。

何か違う。

原因と結果がそう簡単に結びつくわけではないのだ。

 

●道化の仕事

主人公のアーサーには一つだけ希望の灯がある。

それは仕事だ。

道化の仕事。

もちろん底辺の仕事だが、

少なくともそれは奴隷労働ではない。

 

彼はいやいやそれをやっているわけではない。

人を笑わせることが好きなのだ。

それで自分もハッピーになれると信じている。

生きがいなのだ。

 

そしてそれは彼の夢である

スターコメディアンの道に繋がっている。

 

ロジカルに説明するなら、

アクシデントによってその仕事を失った時から、

彼が自分の中に潜む悪魔に気付き、

Jokerへの変貌が始まる。

 

けれどもやっぱりそう単純ではない。

 

●現実か妄想か

1970年代の最も治安が悪かった頃のNYC。

その負の部分を凝縮したかのような

ゴッサムシティを舞台にした

このドラマの中にはもっと不条理な何かが渦巻いている。

 

そこには機械化による人間性の喪失を描いた初めての映画、

チャップリンの「モダンタイムス」や、

主人公が破滅していく「タクシードライバー」や

「カッコーの巣の上で」などの

1970年代のアメリカンニューシネマの

オマージュも溶け込んでいる。

 

途中挟まれる、

隣人の女への愛が成就したかのようなシーン。

少し後にそれは彼の頭の中の

妄想だったことがわかるのだが、

その他も全て――殺人をはじめ、

この中で起こるドラマチックな出来事すべてが

アーサーの妄想に過ぎなかったのではないか、

という疑惑さえ抱かせる。

 

●「笑う」という行為の奥底に広がる宇宙

これは1週間以上前に観たのだが、

いったい何をどう書いていいのか、わからなかった。

 

そろそろ書けるかなと思って書いてみたけど、

やっぱりダメだった。

 

ただただ、圧倒的なクオリティ。

娯楽映画のはずなのに、その行間にある深淵がすごい。

 

悲劇も喜劇も、悪も正義も、

愛も憎悪も哀しみも、すべてを包みこんだ「笑い」。

 

人間の「笑う」という行為の奥底に

天使と悪魔がせめぎ合う宇宙が広がっている。

 

遥か昔から数多の作家や芸術家たちが、

その宇宙の秘密をつかもうとしてきた。

この映画は漆黒の宇宙に浮かぶ

星のカケラを見せてくれる。

 

僕はフェニックスのJokerに魅了されている。

 


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映画「典座―TENZO―」はおいしい精進料理映画

 

全国曹洞宗青年会が映画を製作した。

今年のカンヌ映画祭・特別招待部門に出品された作品だ。

 

タイトルの「典座(てんぞ)」とは、

禅宗の寺院で僧侶や参拝者の食事を司る役職。

平たく言うと「調理師」「料理番」だ。

 

曹洞宗では日常におけるすべての行いが修行の一環であり、

修行堂において、典座職は特に重んじられている。

そしって典座の教え(典座訓)は調理のみならず、

仏道を歩むうえで非常に大切な教えをたくさん含んでいるという。

 

主人公は修行時代、その典座職を経験した二人。

3・11で寺も檀家も家族も失い、

今は瓦礫撤去の土木作業に携わる僧侶と、

その弟弟子で、

ひどい食物アレルギーの息子を抱えて暮らす僧侶。

 

とても人間臭い若僧らが日々の生活に苦闘しながら、

一般人からの電話での「人生相談」に応じる姿には、

とても美しいものを見た気がした。

 

宗教臭い、小難しい映画ではない。

映像はあくまで美しく、今を生きる人間の呼吸を感じられる。

 

もちろん、いわゆるエンターテインメントではないが、

「おいしい精進料理映画」といった趣だ。

 

同青年会が映画製作を思い立った理由として、

3・11以降、自分たちが「求められる」と感じており、

世に活動を見せたい、奮闘する姿を知らせたいという思い、

また、自分たちを鼓舞したいという思いががあるようだ。

 

彼らの思いとは違って、

僕には世界の宗教離れはますます進んでいると感じている。

江戸の昔、地域のお寺には人生のすべてが詰まっていたが、

今は子育ても、教育も、医療も、人生相談も、冠婚葬祭も、

すべてが産業化されてしまった。

 

その中で僧侶は、、お寺は、いかにして生きていくのか?

社会のために働けるのか?

大きな課題となっている。

 

実は月刊仏事の連載企画「寺力本願(じりきほんがん)」で

この映画の主人公を演じた、

山梨のお寺の僧侶を取材することになっている。

 

この映画を体験した意義、

日本の、世界の観客の反応について訊いてみたい。

 


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東京ブラックホールⅡ 「老いた東京」は美しいか?

 

●夢と希望にあふれていた1964の光と闇

Nスペ「東京ブラックホールⅡ」を観た。

10月13日(日)と16日(水)※15日深夜 の放送。

 

一昨年(2017年)8月放送の

「戦後ゼロ年 東京ブラックホール」は

タイトル通り、戦後直後の東京を描いていた。

 

それに対し、回はそれから約20年後。

人口1000万人の巨大都市に育ち、

高度経済成長の最中の

「日本が最も夢と希望にあふれていた年」と

持ち上げられることが多い1964年。

前回の東京オリンピックの年だ。

 

もういろんな人が言ってるけど、

「最も夢と希望にあふれていた」というのは、

半分真実、半分欺瞞。

結局、社会の内情は現代とさして変わらない。

 

変わったのは、現在は外国人労働者などに頼っている

底辺の労働力を、

55年前は地方の農村からの出稼ぎ労働者や集団就職の若者

(東京の場合は東北地方からが多い)が担っていたということ。

 

オリンピック開催を迎えて

好景気に沸く東京。

仕事はいくらでもあったようだ。

 

●過酷な労働環境

産業振興・経済発展が優先された時代なので、

労働時間の長さ・過酷さは現代の比ではない。

 

パワハラ、セクハラはもちろん、

カローシなんて言葉もない、

 

つまり概念として存在してないから、

実質的な過労死者も、当たり前のように続出していたようだ。

人権なんかも現実問題として、どれくらい認められていたか怪しい。

 

ここで働いていた若者たちというのは、

現在の70代以上の人たちだ。

 

僕が子どもの頃や若い頃、

周囲の大人はみんな口をそろえて、

「世の中きれいごとじゃねえ」と言っていた。

 

こんなドキュメンタリーを見ると、なるほどと頷かざるを得ない。

「よくぞかこんな世界の中で生き残り、生き延びてきましたね」

と、改めて頭が下がる思いがする。

 

番組内のナレーションでも語られている通り、

光が眩しい分、影も濃いのだ。

その舞台裏がいかにひどかったか、

国の体面のために、いかに多くの人たちが

悲惨な目にあったか。

 

オリンピック応援団のNHKが、

これだけ前回のオリンピックに対して

批判的な表現ができるというのも、

ちょっと面白いし、安心できる気がする。

 

●ドラマ+ドキュメンタリー×合成映像

この番組はドラマ仕掛けの基本的にドキュメンタリーだ。

山田孝之演じる主人公は、2019年に生きる若者。

売れないマンガ家で、アルバイトで食いつないでいるという設定。

 

その彼が過去にタイムスリップし、彼の視点で1964が描かれる。

俳優以外はすべて本物の映像が使われている。

「戦後ゼロ年」の時も驚いたが、 

よくこれだけ貴重な記録映像を集めてきたものだ。

 

それを優れた技術で、俳優の演技部分を合成させており、

ほとんど違和感を感じさせない。

 

こういうところもさすがNHK、

さすがNスペと、素直に感心した。

 

ドラマの部分は、あくまでドキュメンタリーを見せるための

演出手段なので、かなり大ざっぱなつくりだが、

ラストシーンはとても良かった。

 

現代に戻った主人公は2020年になり、

自分の作品(マンガ)を発表。

それを抱えて都内のあるバーに行く。

 

バーは「KOYUKI」という店名だ。

主人公はそのオーナーと1964年に出会っていた。

秋田からやってきた、昼間は団子屋の娘、

夜はバーテンダーとして働く女の子。

彼女は自分の店を出すのが夢で、

彼は自分のマンガを出すのが夢で、

淡い恋愛もあった。

 

彼は自分のマンガをその夢をかなえた女に

プレゼントし、ドラマは締め括られる。

 

タイムスリップものにはよくある設定だが、

こうしたSF風抒情的なシーンには

滅法弱いので、つい涙ぐむ。

 

●今、はるかに生活環境はよくなったけど

「年老いた小雪さんは美しかった。

年老いた東京は・・・美しいだろうか?」

 

主人公のモノローグで物語は締めくくられる。

「年老いた東京」というのは新鮮な響きがあった。

 

55年前より、はるかに衛生的で、はるかに安全で、

はるかに豊かで、はるかに便利で、

はるかに命も人権も重んじられるようになった東京、日本。

 

本当はありがたく思うべきなのだろうが、

それがイコール幸福に繋がるかというと、

そうならないのが人間のやっかいなところ。

 

はるかに生活環境はよくなったものの、

年老いた東京、日本。

 

ちなみに1964年の平均年齢は29歳。

現在は45歳。

16歳も若かった55年前。

 

「2020東京」は「1964東京」ほどの熱狂は起こさないだろう。

また、起こす必要もないと思う。

 

ビッグイベントに頼っても、年老いた東京は若返らない。

人の心を根っこから揺り動かすことはできない。

そんな時代はもう終わっている。

 

東京を、日本を若返られせるのは、ひとりひとりが抱く

新しい夢の形だ。

 

でも、それがなかなか見えてこないので、

みんな、じんわりと息苦しい。

 


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食欲のないお話

 

「食欲のないお話」というのは、

高校演劇でやった芝居の題名だ。

 

全ての欲望を制御した未来人たちは、

食事も錠剤一つでOK。

 

南極だか北極だかで氷漬けになっていた古代人、

つまり現代の僕らを掘り出し、

興味を持っていろいろ実験する

というSF話だった。

 

ちょっと星新一のショートショート

みたいな話だったような気がするが、

細かい所は忘れてしまった。

 

登場人物がコオリ博士だの、レイコだの、ユキノだの、

クールな連中だったことだけ憶えている。

 

なんでそんなことを思い出したかというと、

ここ数日、久しぶりに体調不良で2回ほど嘔吐。

胃がむかついて食欲がなく、

リンゴを薬代わりに食べていたからだ。

 

すりおろしたリンゴがおいしい。

ほとんど離乳食である。

リンゴが出回る季節でよかった。

 

リンゴがあれば医者いらず。

あなたもちょっと胃腸の調子を崩して

食欲が亡くなったら、

リンゴに頼ってみてください。

 

 


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かなりヤバそうな「人間失格」

 

「わたしは灰皿なんか投げないですよ」

と言ったかどうかわからんが、

今朝のテレビで蜷川実花監督が出ていた。

 

よく知らない人は、どうも怖い女、

怖い監督のイメージで自分を見ているようだ、

と話していた。

 

父親(舞台演出家の故・蜷川幸雄氏)のイメージが

まとまりついていると言う。

「あの世から営業妨害されてます」

というセリフで笑った。

 

ちょっと見てただけだが、とても可愛い女性だ。

 

その蜷川監督の新作映画が

「人間失格 ~太宰治と3人の女たち」

 

太宰治は小栗旬。

3人の女をやるのは、宮沢りえ、沢尻エリカ、二階堂ふみ。

端役らしいが、藤原竜也まで出ている。

 

すごいキャスティング。

これはヤバすぎる。

 

ちらっと出てきた映像は、まんま「ヘルタースケルター」の極彩世界。

 

しばらく映画館に行ってないが、これはぜひ観たいなぁ。

 


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田町駅のペディストリアンデッキの鳩

 

「鳩がクソを垂れて飛び立つ」

 

これは平成の終わりとともに逝った名優、

ショーケンこと萩原健一の代表作

「傷だらけの天使」の第1話の冒頭にあるト書きだ。

あの名作はこの1行から始まった。

 

この脚本を書いた故・市川森一氏は

「傷だらけの天使とは何だったのか?」と回想した際、

自分で書いたこのト書きに,

その答えを発見した、と語っていた。

 

「鳩=平和のシンボル。

 傷だらけの天使とは、1970年代の平和と繁栄の“クソ”だったのだ」

 

今日、仕事(三田の方で取材があった)で

久しぶりに田町駅で降りたら、

三田方面に向かうペディストリアンデッキの手すりの上に、

あまり美しくない鳩がズラリと居並んでいた。

 

女の人などは、汚いものを見るようにイヤ~な顔をして通り過ぎていく。

 

鳩が平和のシンボルだと言われても、

今や「?」の人が多いのではないか。

僕たちは平和にも繁栄にも慣れ切ってしまっている。

 

でも、巨大なビルが立ち並び、

あまり人が始終行き交う大都会の真ん中で、

僕たちのようにあまり美しくもなく、強くもなく、特別でもなく、

もちろん偉大でもない、平々凡々とした鳩たちが、

わやわや集まって仲良く生きている光景を見たら、

やっぱり平和とはいいものだよなと思った。

PEACE。

 


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さらば平成――みんなが昭和に帰りたがった30年

 

平成もいよいよ残り1週間ということで、家族で「平成の最高傑作映画」は何か、議論した。

ギロンと言うと大げさだけど、ま、めしの時に話してたわけです。

「平成の」と冠詞が付いているので、邦画限定。

 

僕としては岩井俊二監督や是枝裕和監督の作品を選びたいところだが、クオリティの高さにも関わらず、このお二人の映画はあまり一般受けしているとは言い難い。

 

そこで選んだのは「ALWAYS 三丁目の夕日」である。

選んだと言っても僕とカミさんと息子の3人の意見が一致しただけです。

あとはアニメ部門として、ジブリの「もののけ姫」と「千と千尋の神隠し」。

 

興行収入の面から見ても「ALWAYS 三丁目の夕日」は、トップクラスだと思う。

そして、そこから平成とはどういう時代だったのか、時代精神が見えてくる。

 

「昭和に帰りたい」

 

これこそが平成の本質だったのではないか。

あくまで僕の印象だが、平成前期、日本人の心は荒れに荒れた。

 

バブル経済から始まり、あっという間にそれが崩壊。

「ジャパン・アズ・ナンバーワン」と胴上げされて宙に舞ったと持ったら、ドカンと落されて愕然としているところに、

阪神淡路大震災。

続いて、自分たちの妄想を現実にしてしまおうとする、

オウム真理教の地下鉄サリン事件が起きた。

 

さらに続いて神戸の連続児童殺人事件など、子どもの妄想狂の不可解な犯罪、

精神がイカれてしまったような連中の、

あたかもホラー映画のような殺人事件が頻発し、

それまでとはまったく違った社会が始まってしまった。

 

そして、経済の落ち込みがそれに拍車をかけた。

 

大勢の人がその地殻変動に恐れ戦き、

ああ、昭和はあんなに幸せだったのに・・・と過去を美化した。

 

昭和だって不可解な事件は山ほどあったはずだが、

情報化が進んでなかったせいで

表に出てこなかっただけだと思う。

あるいは隠ぺいされていたか。

 

いま振りければ、社会全体が格段に貧乏(ビンボーだけど幸せだよねなんて言ってる余裕のある人は、本当の貧乏人ではない)だったし、差別もセクハラもパワハラも横行していたし、人権だってないがしろにされていた。

 

昔が良かったはずはない。

 

けれども、いやなこと・ダメだったことに目を瞑り、

いいこと・楽しかったことだけをかき集めて貼り合わせ、

心の中に「懐かしい、ハッピーだった昭和」を築いた。

 

そうしなければ、みんなの精神のバランスが崩れてしまっていたかもしれない。

 

「みんなが昭和に帰りたがった時代」というのがあまりに後ろ向きというなら、

「みんが昭和とは何だったんだろう?と検証した時代」と言い換えてもいいかもしれない。

 

文化的にも新しいものは生まれず、昭和生まれの文化の焼き直しが目立った。

 

平成生まれの、うちの息子のような若い連中も

昭和文化の方が圧倒的に面白いと言う。

 

最近はネットのアーカイブの発達・充実で、

いつの時代のものも見放題・研究し放題。

彼は僕より昭和カルチャーについて詳しいくらいだ。

 

だけど、そんな30年に及ぶ流れも令和になったら終わる。

たかが元号が変わるだけだけど、この国において言霊は強力だ。

 

もう十分に検証も終わって、来年のオリンピック・パラリンピックを境に、昭和は彼方に遠去かっていくだろう。

 

さらば平成、さらば愛しき昭和よ。

いったいこれからどうなってしまうのか?

たぶん令和がどうなるか、最初の3年で時代のトーンが決まると思う。

 

楽しみもあるけど、僕はやっぱり恐れおののいています。

あなたはどうですか?

 

とりあえず、ゴールデンウィークは

「ALWAYS 三丁目の夕日」を見て心を休めようかな。

 

 

 

 

 


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茨城県の納豆―カレーーアニメ―あんこう―ライブの不思議な螺旋現象

 

 納豆カレー、メロンカレー、栗カレー、しじみカレー。

 あなたが食べたいカレーはどれですか?

 

 これらのカレーはいずれも「マイナビ農業」の茨城県タイアップ記事の取材で出向いた、笠間市のドライブインにあったお土産。

 

 カレーになっている納豆、メロン、栗、しじみは茨城の名産品。

 いずれも全国有数の産出量を誇ってます。

 

 カミさんに話したら、他の3つはおいしそうだが「メロンカレーはNG」とのこと。

 彼女はメロンファンなので、おいしいメロンちゃんをカレーにぶちこむのが許せないらしい。

 

 僕が疑問だったのは納豆カレーのパッケージ。

 どうしてアニメのメイドちゃんなのか?

 裏を見ると「ご主人様に健康に良いものを召し上がってもらいたくて作りました云々」と、メイドちゃんのナレーションで書いてあります。

 

 一緒に行ったカメラマンが茨城には「アニメの聖地があるからだよ」という情報を得て調べてみたところ、あった~!

 

 人気アニメ「ガールズ&パンツァー」。

 

 2012年秋の放映開始以来、舞台になった茨城県の小さな港町・大洗はいまなおガルパンの舞台として多くのファンが訪れています・・・とのこと。

 

 全然知らなかった。

 

 昨年11月の大洗の「あんこう祭り」の時は、メインキャスト(声優?)にやってきて、テーマソングのライブもやったらしい。

 うーん、これが納豆カレーのメイドちゃんに繋がっているのか、と妙に感心しました。

 

 全国魅力度ランキング最下位の茨城ですが、納豆―カレーーアニメ―あんこう―ライブといった不思議な螺旋現象はなかなか魅力的です。

 


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アナ雪を鑑賞して想い巡らせる男と女の未来

 

 子どもの時に出会う物語は、実体験と同じくらい、いやもしかしたらそれ以上に重要で、脳の奥深くに沁み込んで、その後の人生全般に影響を与えるのではないかと思う。

 

 なんでそんなことを言い出したかというと、正月の3日に「アナ雪」をテレビでやってたので、また見てしまったからだ。

 このお話を見た女の子は大人になった時、これまでの女性――母欧亜や祖母の世代とはだいぶ違った世界観・男性観を持つに至るような気がする。

 

 「アナ雪」は文学性も兼ね備えたエンターテインメントだ。

 観客のメインである少女(および大人女子全般も)の心をしっかり掴む、よくできたストーリー展開になっている。

 

 そして制作陣がどの程度意識しているかは分からないが、世界各地に国家というものが出来て以来、女性がどう扱われてきたかの歴史が凝縮されて入っている。

 

 考えてみれば女性が全般的にこれほど社会で活躍できるようになったのは、ほんのこの数十年―ー僕が大人になった後のことである。

 

 というわけで気が付くと、こっちも頭の中が女の子になっていて、ハンス王子の悪行が明かされるシーンでは「こいつは絶対ゆるせーん!」と叫んだりしている。

 

 日本の貴族や武家もそうだが、欧州の王侯貴族の間では権力を手にするために、彼が仕組んだような陰謀はほとんど日常茶飯事だったのだろう。

 で、たいていの場合、女はその道具にされてきた。

 

 もう一人の男のクリフは30年前のバブリーな時代だったら「いい人なんだけどねー」で終わっていそうなタイプ。ところが現代では見事にアナのハートも、たぶん観客の大半の女の子のハートも射止めている。

 時代はいい人に順風を送っているようだ。

 

 そんなこんなでまた楽しめたのだけど、この作品を観た後は、いつも漠然とした不安に駆られてしまう。

 

 これからの男の存在意義って何? 

 

 だって女だけで暮らしが成り立っちゃうじゃん、幸せになれちゃうじゃん、という感じがしてしまう。

 

 エルサやアナも子どもが欲しくなったら、男なんて別にいらんからと言って、精子バンクから精子を調達してきそうだ。

 

 というのは冗談だけど、少なくともマッチョなヒーローみたいな男はいらんポイ。

 労働もAIやロボットにお任せになったら、スポーツ・芸能・芸術などの分野で花を咲かせるか、そんな才能がなければクリフのようなサポート役になるか、しかなくなってしまうのでは・・・?

 

 そんなことを考えてると、頭の中はすっかり普段の男に戻ってて、ハンスも末子王子なんていう辛い立場なので表舞台に立つには、ああした陰謀を企てるのもしかたないよな、あいつも人生大変だよな、牢屋にぶちこまれてしまってこれからどうなるんだろう、何とか情状酌量してやってくれんかね?・・・なんて結構同情的になってしまうのだ。

 


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Moher&Daugthter:フロリダ・プロジェクト&レディ・バード

 

 高田馬場の早稲田松竹に映画を観に行った。

 「フロリダ・プロジェクト」と「レディ・バード」の2本立て。

 この映画館はいつもテーマを設けて常に2本立てで上映している。

 今回は「Moher&Daugthter 大切な時間を過ごしたあの場所」というテーマだ。

  フロリダ・プロジェクトは息子のおススメ作品の一つ。

 最近の新しい映画や小説や漫画の情報は息子頼みだ。

 

 舞台はディズニーワールド付近の安モーテル地域。

 真っ青な空のもと、観光客をターゲットに、極彩色のフェイク感たっぷりのモーテルやギフトショップや飲食店が立ち並ぶ。

 そのモーテルの一つはシングルマザーらの住処になっていて、主人公の母娘もそこでひと夏を暮らしている。

 

 6歳の娘のワルガキぶり、その母親のBitchぶりがすごいパンチ力だ。

 

 見た目30出たとこのこのかあちゃんは、実はかあちゃんじゃなくて、15歳で妊娠・出産しちゃった娘の子を引き取ったのだという。

 つまりこの母娘は、ホントはばあちゃんと孫娘というわけだ。

 

 いわゆる底辺に生きる人たちを子供の目線から描いており、ちょっとファンタジックでコミカルな世界が広がる。

 その中でリアル感を発散しているのがモーテルの管理人のおじさん。

 このろくでもない母娘に手を焼きながらも、観ていて泣けるほど優しく暖かくてシブくてカッコいい。思いっきり感情移入してしまった。

 

 最後の方になんと本物のディズニーワールドが現れるのだが、このラストシーンはめちゃくちゃ斬新だ。

 

 

 「レディ・バード」はカリフォルニア州サクラメントの高校からニューヨークの大学に入学する女の子の青春&ファミリードラマ。

 

 サクラメントというのは行ったことないけど、この映画で見る限り、田舎町といえどもそこそこ豊かで、余計な夢や野望など抱かず、適当に周りと合わせていればぬくぬく暮らせるような街。

 日本でいえば、昔の名古屋みたいなところかなぁ。

 

 主人公の自称レディ・バードはそこから飛び立ちたいと願って母親と衝突するのだけど、これはこの子どもと母親・父親の両方の気持ちになれて面白かった。

 齢を取ると、こうした青春&ファミリードラマは二重に楽しめる。

 

 

 早稲田松竹は昔ながらの面影を残す、好きな映画館の一つだ。

 古い体質なのかも知れないけど、映画は基本的に家では見ないので、こうした街の名画座があるのはとてもありがたいし、がんばってほしい。

 


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恐竜の唐揚げ

 

 映画「ジュラシックパーク」では人間が肉食恐竜のチラノサウルスやヴェロキラプトルに襲われ食われてしまうが、人間は日常的に恐竜を唐揚げや鍋物や焼き竜などにして食っている。

 そう、恐竜とはニワトリのことだ。

 

 近年はニワトリが恐竜の末裔だという説がメジャーとなり、実際にアメリカやチリの大学の研究者の間で「逆進化」の研究がされているらしい。

 

 これはニワトリを遺伝的に操作して、その遠い祖先の隔世遺伝的特徴を取り戻させて、恐竜に似た生物をつくり出そうとする研究で、すでにその気になれば実現できる段階まで来ているようだ。

 

 ちょっとにわかには信じがたい話だが、すでに最初の「ジュラシックパーク」が作られた頃からこの分野の研究は進められていたらしい。

 先日はクローン犬ビジネスの話をしたが、遺伝子工学の進歩は、まさに「事実は小説より奇なり」の領域に達している。

 

 そういえばこの春、マイナビ農業の仕事で都内のある牧場に行ったとき、割とでかい雄鶏が放し飼いにされていて、そいつがしつこく嘴で攻撃を仕掛けてきた。

 ジーパンをはいていたので特にけがなどはしなかったが、半ズボンだったらふくらはぎのあたりをガシガシやられ血だらけになっていた可能性もある。

 

 後から思い返すと、前夜の夕食に鶏の唐揚げを食べていた。

 ぬぬ、もしや仲間の敵討ち?

 

 だったのかどうかはともかく、軍鶏みたいなケンカ屋じゃなくても、ニワトリのオスはなかなか凶暴で好戦的だ。

 そしてよく見ると、たしかに恐竜に似ている。

 脚がもう何倍か太かったらますます似ている。

 まさに「チキノザウルス」だ。

 

 僕を含め現代人は自分で鶏を押さえつけて

シメるという経験がないので、わりと怖い。

 あいつらが恐竜だと思うともっと怖い。

 もう怖くてチキンは食べられない。

 ――というのは大うそで、今日のお昼も恐竜の照り焼きを食べた。

 

 にしても何らかのインセンティブが働いて倫理的問題が氷解すれば、そう遠くない将来、チキノザウルスが歩き回るジュラシックパークが生まれるかもしれない。

 


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カメラを止めるな!:つきぬけた笑いとスパイシー&スイートな人間ドラマ

 

 巷の評判を聞いてみたいなと思っていたけど、ちょうど近所の映画館(下高井戸シネマ)でやっていたので、遅ればせながら鑑賞。

 ゾンビ映画とそのバックステージの物語。

 確かにこれはめっちゃ面白い。

 むかし三谷幸喜がつくった「ラヂオの時間」をちょっと思い出した。

 

 とにかく面白けりゃいいってことで、エンターテインメントに徹しているけど、隠し味になっている人間ドラマがまたスパイシーかつスイートで感情を揺さぶる。

 

 映画や演劇、イベントなどに携わったことのある人(たぶん誰でも一度や二度は経験している)なら思わす笑ってしまう、と同時に心に沁み込むシーンが満載だ。

 

 特にメインの監督親子三人の、家族ドラマは好きだなぁ。

 今の家族って、うん、こんな感じ。

 

 ラストシーンはすごくバカバカしくてあさといんだけど、見終わった後はなんだかジーンとして、心がポカポカした。

 

 ストレス解消にもってこい。

 笑いとしみじみ感とドタバタ感と気持ち悪さ(ゾンビ映画なので)をいっぺんに味わえる貴重な一本。

 


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女目フィルターの少年像と少女版スタンドバイミーについて

 

 「スタンド・バイ・ミー」の映画を観た同年代やもう少し若い女の子たちから「あれは男の子にしかわからない世界だよねー。男がうらやましー」といった趣旨のコメントをよく耳にした。

 

 うん、確かにそうかもしれない。

 そもそも女の子は野ざらしになった死体を見に行くなんてバカげた目的のために何マイルも歩いて命がけの冒険するなんてアホくさいことはネバーしない。

 

 そんなのは人生の無駄使いだ。

 女の子の時代は短い。彼女らはすぐにオンナになることをあらかじめ知ってるし、(生みの)母親になるのにだってタイムリミットがあることも小さなころから知っている。

 いつまでも遊んで飲んだくれてて、60になっても70になっても生物学上の父親になれる男とは事情が違うのだ。

 

 「男っていいな」という彼女らの呟きからはそうした潜在的な女の宿命が感じられた。

 

 と思ったのは30年前のことだけど、それと同時に彼女らはどうも「少年」という、男になる一歩手前の存在に大いなる幻想を抱いているようだとも思った。

 

 特に「スタンド・バイ・ミー」のリーダー格のクリスは、タフでクールで勇敢で優しく友だち思い。抱きしめたくなるような可愛い一面もある。

 そして彼は自分を取り巻く過酷な運命との闘いを余儀なくされている。

 女性から見れば理想の少年像に近いのではないだろうか。

 

 しかも映画ではそのクリスの役を当時売出し中の美少年俳優リバー・フェニックスが演じていた。幻想はますます肥大する。

 

 ちなみにフェニックスはこの映画からわずか7年後に夭折。生きていればあのルックスと演技力からハリウッドのトップ俳優になっていた可能性も高いだけに残念だ。

 

 ファンタジーや児童文学や少年マンガに出てくる女目フィルターのかかった少年像は僕も好きだ。

 ある程度幻想が混じっている方が、キャラクターが生き生きして、のびやかに動ける。一言でいえば魅力的になる。

 だからこうした分野は女性作家が大活躍できる。

  こうした女性たちにも「スタンド・バイ・ミー」は大きな影響を与えたのではないだろうか。

 

 女に男の世界のことはわからないと思うけど、わからなくていい。男のしょーもない現実など知って得することなんてほとんどないし、もし知ってしまったら必要最低限の部分を残して、あとは目をつぶった方がいい。

 

 さて今回「スタンド・バイ・ミー」を読み返してみて唐突に、30年前とは正反対のことを考えた。

 

 そもそも女の子は野ざらしになった死体を見に行くなんてバカげた目的のために何マイルも歩いて冒険するなんてアホくさいことはネバーしない。

 

 その時は確かにそう思い、ずっとそう思い続けてきたけど、いや待てよ。1960年ではなく、1980年代も通り過ぎた今ならそうとも言えないのではないか。

 

 とんでもなくバカバカしい目的のために、何人かの女の子たちが命がけの冒険をする。

 今の時代ならそういう「少女版スタンド・バイ・ミー」も成り立つのではないかと思う。

 なんでかという根拠は特にないんだけど、そういう話はあるんだろうか。あったら読んでみたいんだけど。

 


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30年ぶりのスタンド・バイ・ミー

 

 およそ30年ぶりくらいにスティーヴン・キングの「スタンド・バイ・ミー」を読んだ。

 この4人の12歳の少年の小さな冒険物語はロブ・ライナー監督によって映画化され、80年代に大ヒット。そして今も語り継がれる名作映画になった。これはその原作だ。

 

 定番となっているレビューには「この年齢特有の男の子の世界」「友情」「成長物語」というキーワードが必ずと言っていいほどくっついている。

 確かに映画はそうしたニュアンスを強調して作られており、僕の中でも観終わった後の甘い感傷のようなものが、エンディングテーマ「スタンド・バイ・ミー」のメロディとともに残っている。

 

 以前読んだのは20代半ば頃だった。

 映画を見て読んだので、映画とほとんど同じという印象を持っていた。

 もちろん今回も当初は同じイメージを持っていて、もう一度どんなだったか確かめてみようと思ってページをめくってみたのだ。

 

 そうしたらぜんぜん違っていた。

 自分の齢のせいだろうか?

 50代の男には、これは12歳の男の子たちの成長物語とも、友情物語とも映らなかった。

 成長や友情という言葉が放つ明るいイメージ、爽やかなイメージとはまったくかけ離れているのだ。

 

 実はこの原作の題名は「Stand By Me」ではない。

 原題は「The Body」。これは死体のことだ。

 

 自分たちと同じ12歳の男の子が列車に轢かれて死んだという情報を得て、その死体を見に行こうと4人の少年が冒険に出かける。これはそういうストーリーなのだ。

 死の誘惑にかられた子供たち。

 ちょっと考えれば、明るく爽やかになるはずがない。

 小説の底辺にはむしろ暗く陰鬱なトーンが響いている。

 

 その暗さ・陰鬱さの原因が、キングの他の多くの小説と同じく「恐怖」だ。恐怖と言っても霊や悪魔が出てくるわけではない。

 それは少年たちが生まれ育ってくる中で体感し、植えつけられた生活の中の恐怖。生きる上での根源的な恐怖。否応なく背負わされた人生に対するリアルな恐怖だ。

 

 彼らはそんな恐怖心を覚えざるを得ない環境で育った。

 それを象徴するのが暴力的な父親だ。テディの父親は精神を患い、幼いテディの両耳を焼いてしまう。クリスの父親はしじゅう酔っぱらって子供たちを殴りつけている。

 

 その父親たちをフォローするかのように、不良化した兄たちがこれまた暴力的で少年たちを震え上がらせる存在になる。

 

 そして教師や周囲の大人たちは、あんな家で育った子供らはろくな人間にならないとはなっから決めつけている。

 

 1960年のキャッスルロックというアメリカの片田舎は、そういう生活習慣の世界だったのだ。

 

 12歳ともなればそんな諸々の事象が何を意味し、自分たちの将来にどう響くのか感じ取れてしまう。

 

 ここで描かれる少年たちの友情とは、自分たちを取り巻く大人たちや地域社会から受ける恐怖や不条理から互いの身を守るために必死でしがみつき合う――そうした類の友情だ。

 

 そして何とかその恐怖を乗り越えたとき――それを成長と呼ぶなら成長した時、少年たちはバラバラになってしまう。

 

 友情はある夢の一時だけ空に掛る虹のようなもの。

 主人公(語り手である)ゴードン=作者キングの分身の3人の友人たちは皆、ここで描かれた冒険から10年あまりの間にこの世から去っていく。

 

 後味は何とも苦い。20代の頃に感じた、感傷を帯びた甘い味は何処へ行ってしまったのだろう?

 

 だからといってこの作品が嫌いになったわけではない。

 むしろその重層的な味の深さに感心すことしきり。30年前は僕は面白おかしいストーリーの上っ面しか読んでいなかったのだ。

 

 今回、読み返してみて本当に良かったと思う。

 やはりこれは少年小説のバイブルともいうべき名作なのだ。

 


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マンガで見た映画:雨を浴びる裸の女

 

 雨が降ってすっかり季節が変わった。

 そして雨はすっかり忘れていた記憶の引き出しをあげる。

 

 たぶん中学1年の時だったと思うが、「明星」というタレント情報雑誌を購読していて、その中に編集部おすすめの映画のあらすじをマンガにして紹介するというコンテンツが載っていた。

 その一つに、「裸身を雨にさらす少女」の映画があった。つまり女の子が裸で雨に打たれるのだ。

 それも森の中の草むらのようなところで寝そべって。

 

 マンガの絵柄のせいか、西洋人だからか、顔つきも体もずいぶん大人の女に見えたけど「少女」という言葉が

これだけ書くとずいぶんエロチックな映画のように思えるが、けっしてそうでなく、全体はちょっとアートの匂いがするような青春恋愛映画といった感じ(と、僕の頭の中ではそうなっている)。

 この雨と裸のシーンも何か若い女の神秘性みたいなものを表現していたような気がする。

 

 マンガの絵柄のせいか、西洋人だからか、顔つきも体つきもずいぶん大人の女に見えたけど、ナレーション的な文章に「少女」という言葉が入っていたので、たぶん16~7歳くらいの設定だったのだろう。

 穢れを洗い流しているとか清めているとかいう感じで、けっして悲壮感はなく、むしろ愉しんでいるようにも見えた。

 だが、いったいどういう文脈で、どういう感情の表出で彼女がこうした行為に及んだのかはわからない。

 

 ただ、そこに父親くらいの年齢の男が現れ、その男は悪さをするどころか、彼女に服だかタオルだかを黙ってわたす。見開きでそんな展開思う。

 確か主人公は若い男だったので、この少女をめぐってこの年配の男と三角関係になる・・・というストーリーではなかったか。

 とするとツルゲーネフの「初恋」みたいな話だったのだろうか。

 

 このシーンと全体のイメージだけは憶えているのだが、今となってはなんて映画か題名も内容もさっぱりわからない。

 そもそも実際に映画を見たわけじゃなくて、あらましを描いたマンガを見ただけだし。

 

 1972年か73年くらいに日本で公開されたアメリカ映画かフランス映画だと思うが、もし誰か知っていたら教えて下さい。

 

 それにしても引き出しにはいろんなものが入っている。

 40年以上思い出したことなんてなかったけど、憶えていたということは、マンガとはいえ、中1の小僧には相当刺激的だったんだろうなぁ。

 

 この頃は雨もパニック映画さながらすっかり情緒がなくなって危険なものになってしまったけど、夢を育てたり、記憶を開かせてくれるようなやさしい恵みの雨を降らせてほしい。

 


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シェイプ・オブ・ウォーター:もし人魚姫が生き延びたら

 

 人魚姫は船から身を投げて海の泡となって消える運命だったのに、幸か不幸か、人間の姿のまま、声を失ったまま生き延びた。

 四半世紀が過ぎ、15歳だった少女は中年となり、1962年のアメリカ・ボルチモアの宇宙科学研究所で清掃員の職を得た。

 

 自宅のアパートと職場を往復する淡々とした毎日。

 風呂場で自慰に耽るときだけ、失われた人魚だった頃の記憶がかすかによみがえる。

 

 まだアメリカが「強いアメリカ」で、セクハラもパワハラも当たり前だったこの時代、障害を持ち、底辺の歯車として、しかも汚れ仕事で働く独身の中年女なんて社会は見向きもしない。

 

 彼女のことを気にかけてくれるのは、いつもしょーもない亭主の愚痴ばかり言っている同僚の黒人女と、アパートの隣の部屋に住んでいて、若い男に失恋する、年老いた絵描きのゲイだけだ。

 

 それでも彼女は自分がさして不幸だとも思わす、ささやかな日常を大事にして生きていた。

 

 そんなある日、研究所にある特異な生き物が運ばれてくる。

 その生き物――「アマゾンの半魚人」に出会ったことで、恋に焦がれる人魚姫の記憶がよみがえる――

 という、改めて辿ってみると、とんでもなく奇をてらったストーリー。

 

 ところが、これがいい。

 甘く切ないラブストーリーをベースに、古典SF、ホラー、ファンタジーの要素が絶妙にブレンドされて、ちょっとコミカルだったり、エロチックだったり、といったスパイスもまぶされている。

 すっかりツボにはまってしまった。

 

 ヒロインは若くも美人でもないし、子供時代のトラウマのせいで声が出せないということ以外、生い立ちも謎のまま。

 けれどもその感情表現は素晴らしく、ラストシーンは本当に人魚に帰っていくのではないかと思った。

 

 また、1962年という「近過去」の設定もいい。

 リアリズムとファンタジーのハーフ&ハーフが、ギリギリのバランスで成り立つ美味しい時代だ。

 そしてまた、トランプ政権下の現代のアメリカを風刺しているかのような映画でもある。

 

 こうした寓話性の高い物語は、よく「大人のおとぎ話」と呼ばれるけど、それで片付けるのはつまらないし、何だかもったいない気がする。

 人間が生きる本質は思わぬところに隠れている。

 それを見つけるためにも、こういう映画は役に立つのではないかと思う。

 


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唐組「吸血姫」観劇で思ったこと・考えたこと

 

 解散後のビートルズは、あるいはとっくの昔に衰退したパンクロックは、今もなお物語を紡ぎ続け、英国の文化の一つとして血肉化している。

 それと同様、テント芝居はビートルズであり、パンクであり、現代の日本においての一つの異文化として脈動している。

 

 日本一の大都市・繁華街と言える新宿の真ん中。

 黄昏時の光と闇が入り混じる、ぽっかりと空いた異空間に朱色の鳥居と、みずみずしい緑が浮かび上がる。

 そしてその向こう側。まるで僕たちの心の故郷のように、昔ながらの紅いテントが建っている。

 開場を待ってその周辺でうろついている観客は、もちろん懐かしさに駆られた年寄りが多いが、若い観客も少なくない。

 じいちゃん・ばあちゃんに話を聞かされた子供や孫たちなのかなぁと想像する。

 

 天井も側面も血肉色に包まれた紅テント内は胎内であり、繰り広げられる芝居は子宮の中の旅である。

 飛び交うセリフと役者の動きは、日常のリアル感とはまったく趣の違う、本質的なリアル感にあふれており、一緒に見に行った21歳の息子が目を白黒させていた。

 

 わけがわからないけど面白い。

 それでいいのだと思う。

 

 人間が生きることは、わけがわからない神秘にあふれている。

 それがなくて、ただ仕事をして生活しているだけなら、ロボットと変わらない。

 飯を食ったり休んだりする分、非効率でロボット以下だ。

 

 唐十郎の芝居にはそうしたことを再認識させてくれる価値がある。

 

 そして何よりも圧倒的なセリフの面白さ・美しさ。

 その一つ一つは詩であり、感情の表出であり、社会批評であり、精神分析であり、哲学であり、そうしたものすべてをひっくるめて物語全体を形作るピース(断片)になっている。

 

 物語はタイトルが示すように「吸血鬼」という存在を最初に思い浮かべると読み解きやすい(というか正解があるわけでなく、自分のものとして解釈できる)。

 

 吸血鬼はすでに遠い昔に死んでいるとも、永遠の命を持っている存在とも捉えられる。

 そんな幻想にとりつかれた主人公が、初演時の1971年を起点に、東京が焦土と化した戦後、大正末期の関東大震災、それに続く、アジア大陸における満州国建国と、幾つもの積み重なった時間と空間の中を旅する。

 

 インターネットが進んだ現在、僕らはこれと似たようなことができるようになっている。

 僕らは今という時間だけを生きるわけではない。

 リアル世界では若さを失っても、ネットにアクセスすれば脳内はたちまち時間を遡れる。

 情報は誰でもいつでもどこでも手に入れられ、知識としてだけならいくらでも異文化を吸収し、深入りすればバーチャル体験も可能だ。

 

 たとえば何の知識もなしにこの芝居を見ても、「愛染かつら」とはどういう話なのか、高石かつえ、川島浪速、川島芳子(東洋のマタ・ハリ)ってどんな人物なのか、関東大震災や満州建国で何が起こったのかなど、帰り道にスマホで調べれば家に帰る頃、そうした歴史的事象はわかっているのである。

 

 そう考えると、すでは僕らは半ば吸血鬼のような生き方をしているのかも知れない。

 

 それにしても唐さんが倒れてから、もう6年も経つとは知らなかった。

 病状のことはわからない。

 でももしかしたら自分が創った文化の後継者たちを育てるために、あえて病気になってみたのかも知れない。

 

 いや、もしかしたら病気というのは唐流の芝居で、じつは世界旅行にでも出掛けているのかもしれない。

 そして後継者らの成長を確信したらまさかの復活を遂げ、みずから「帰ってきた唐十郎」を舞台で演じるのかもしれない。

 

 その時、唐芝居は幕末~明治期に書かれた歌舞伎の名作同様、後世までずっと引き継がれる伝統芸能になるのではないかと思う。

 


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紅テント伝説の名作「吸血姫」まさかの再演・まさかの家族観劇

 

 劇団唐組が伝説の名作「吸血姫(きゅうけつき)」を上演すると聞いて、日曜日に新宿・花園神社まで出かけることになりました。

 

 状況劇場で初演されたのは1971年。

 その後、紫テントの新宿梁山泊が2000年と2002年にやったらしいが、大御所の紅テントでやるのは47年ぶりとのこと。

 そうそう、かの状況劇場は、常に唐十郎の新作を上演していて、一切再演なんてやらなかったんです(僕の記憶の限りでは)。

 

 1971年の初演時、小学生だった僕は当然、紅テント・アングラ演劇のアの字も知らなかった。

 10代後半で演劇を始めた頃、「吸血姫」は状況劇場の歴史の第1幕(60~70年代初頭)のクライマックスを飾る集大成・最高傑作と評され、すでに伝説化していました。

 

 家にはなんと、ちゃんとこの戯曲があります。

 「唐十郎全作品集・第2巻」。

 若かりし頃の唐十郎が、演劇界の芥川賞と言われる岸田戯曲賞を受賞した当時の作品がずらり収録されています。

 

 初演時の上演記録も入っていて、唐十郎・李礼仙をはじめ、当時の主力役者の麿赤児、四谷シモン、大久保鷹といった名怪優たち、そして今は亡き根津甚八がやっと頭角を現してきた時代だったことがわかります。

 

 というわけで、ちゃんと読んだかどうか覚えもないこの作品集を、たぶん30年ぶりにくらいに開いて「吸血姫」を読んでみました。

 

 愛染かつら。

 看護婦と献血車。

 関東大震災。

 満州。

 

 わ、わけがわからん。

 そ、それなのにめちゃくちゃ面白い。

 

 この作品に限らず、唐作品は誇大妄想で練り上げられたセリフが繋がって、あっという間に化け物のように巨大化して暴走するのだが、それが物語としてちゃんと成立してしまうという摩訶不思議な世界。

 

 ということは分かっていたけど、やっぱりすごい。

 でも随分久しぶりに接した割に、とてもすんなり妄想世界に入っていけました。

 なんか若い頃読んだ時よりもイメージが広がりやすかった。

 

 今回の公演では、初演時、四谷シモンが演じた「狂える看護婦・高石かつえ(愛染かつらの主題歌を歌っていた歌手をもじった役)」を最後のアングラ女優・銀粉蝶が、

麿赤児が演じた「袋小路浩三(愛染病院の院長)」を唐さんの長男・大鶴佐助が、

李礼仙が演じた「海之ほおずき」を長女の大鶴美仁音が演じる。

 

 もうこれだけでストーリーができあがっちゃってるね。

 

 と、こんなに詳しくじゃないけど、メシ食ってるときにちょっとカミさんと息子に話したら、「わたしも行く」「僕も見たい」と言い出して、前売り券も取れたので、結局、連休の締め括りに3人で出かけることになってしまった。

 

 この時代にまさか家族そろって花園神社にアングラ・テント芝居を見に行くことになるとは夢にも思わなかった。

 

 久しぶりのテント芝居、2~3時間座って見るにも体力が要るので、観客として最後まで持つかどうか、いささか心配ですが。

 


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リメンバーミー:「わたしを忘れないで」のメッセージ

 

 昨年見た映画「はじまりへの旅」は、コメディでありながら妙に感動的な作品だった。

 

 文明生活に反してワイルドライフを送る父と子供たちが、都会暮らしで、精神疾患が原因で死んだ(らしい)妻(母親)の遺体を奪還。

 遺言通りに家族自らの手で火葬し、遺灰をトイレに流す、というのがストーリーだ。

 

 この家族はオートメーション化し、形骸化した現代社会の慣習に対する反抗精神を持って生きてきた。

 かつてのいヒッピー世代、フラワーチルドレンのメタファーのように思える。

 

 したがって遺灰をトイレに流すという行為(=流してほしいという遺言)は、その反抗精神の表現であると同時に、逆説的に「わたしを忘れないで」という妻(母親)のメッセージでもあり、家族の記憶の中に永遠にとどまりたい、という思いが込められている。

 

 こうした映画が生まれた背景は、やはり少子高齢化社会だ。

 

 半世紀前、ロック文化が盛り上がり、「Dont Trust Over Thirty」と皆が叫んでいた時代、アメリカの人口は、およそ半分が25歳以下だった。

 

 その圧倒的多数のベビーブーマー世代が高齢化し、自分のエンディングを意識せざるを得なくなった今、ハリウッド映画もそうした社会状況を反映するものが増えている。

 

 世界最高峰のアニメを送り出すディズニー/ピクサーもまたしかり。

 その最新作「リメンバー・ミー」は、メキシコの「死者の日」という民俗をモチーフに作られた。

 

 「死者の日」は毎月11月はじめに行われ、家族や友人達が故人・先祖への思いを馳せて語り合うために、みんなで集まるという。

 

 日本のお盆に共通する伝統文化であり、欧米のハロウィーンの原型とも言われている。

 

 死者の精霊が帰ってくるその日は、家々に先祖を祭る祭壇が飾られ、街は華やかで賑やかなお祭りムードに包まれる。

 

 「リメンバー・ミー」は、その雰囲気を映画表現に置き換え、世にも美しいカラフルでゴージャスな死者の国で、ガイコツの人々が“いきいきと”“楽しく”生活している。

 暗いムード、おどろおどろしいムード、また神聖な雰囲気などみじんもない。

 

 つまりこの死者の世界は、生者の世界と同時に存在するパラレルワールドになっていて、年一度の「死者の日」にだけ2つの間に橋が架かり、死者たちは生者の世界に里帰りする。

 

 こうした設定はメキシコの死生観が下敷きにされているという。

 

 メキシコは16世紀にスペインに征服され、以後、約300年間植民地化。19世紀にそこから独立して新たな国を作ったという経緯から、現在はカトリック教徒が多いが、植民地化される前のアステカ帝国の文化を引き継いでいる。

 

 このアステカ文化の影響で、死を象徴するものが独自の発展を遂げており、「死は、新たな生へと巡る過程のひとつ」という考え方が社会生活の基盤になっている。

生の世界と死の世界を分け隔てる壁がとても薄く、行き来することもそう難しくないと考えられているのだ。

 

 映画ではそこにもう一つ、「二度目の死」という設定を作っている。

 生者の世界で、誰一人としてその人の記憶を持つ者がいなくなってしまったら、その人は死者の世界からも消滅してしまうのである。

 

 テーマである「家族・先祖・伝統」に則った世界観の設定で、とても普遍的なものだが、同時にタイトル通り、そして「はじまりの旅」と同様に「わたしを忘れないで」という、ベビーブーマー世代の強い自己主張を感じる。

 

 ・・・といった面倒なことなど、あれこれ考えなくても、極上のエンターテインメントとして単純に楽しめちゃうところが、ディズニー/ピクサー映画のすごさであり、ハリウッド映画の底力である。

 

 観客対象はもちろん家族向けだけど、お父さん・お母さんとだけじゃなく、おじいちゃん・おばあちゃんも一緒に連れて見に来てね、というメッセージもこめられているんだろうなぁ。

 


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アナ雪短編 充実度1時間分

 

 大ぴらに言うのは初めてだけど、けっこうアナ雪が好きなんです。

 ストーリーもビジュアルも音楽も素晴らしい。

 最近、ミュージカル映画なんて全然見ない(そもそも作られているのだろうか?)けど、アナ雪だけは別格。何度聴いてもいい。

 この映画は本当にディズニー/ピクサーの力を思い知らされた。

 

 で、今日は「リメンバー・ミー」を見たんだけど、その前座がアナ雪。

 なんと贅沢な!

 20分そこそこのクリスマスをテーマにした短編だけど、ひとかけらの手抜きもなく充実度満点。

 「自分たちには伝統がないね」と、ちょっと悲しむアナとエルサのために、雪だるまのオラフが伝統を集めて回るが・・・という、いかにもアメリカらしい発想のストーリーで、これがまたとても面白く、かつ美しくまとまっている。

 もちろんアナとエルサの歌も最高で、1時間分くらい見た気になりました。

 

 けどあくまで前座なので、あまり胃にもたれず、ちゃんとメインを食べられるように軽くしてあるのがミソ。

 ちょっと完璧過ぎるバランスです。いずれにしてもこの2本立ては超お得です。

 

 メインの「リメンバー・ミー」については、いろいろ考えさせられたので、また後日。

 

 今日はほとんど映画会社の回し者になってしまいました。

 まぁ良いものは良い。好きなものは好きなので、ということで。

 


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