藤原カムイのウルトラQ

 

 息子から誕生日のプレゼントに貰ったのが、コミック版の「ウルトラQ」。 原作はおなじみ(かどうかは世代によるか・・・)の1960年代の特撮テレビ番組。

 1月の締めはオタクな話です。

 

 ウルトラQは初めて遭遇したのがチビッ子の時だったので、その衝撃はすさまじく、精神に完璧にインストールされました。

 

 ドロドロドロと溶けていた文字がギュルギュルっと回ってタイトル文字になって決まるギミック、そしてあのヒュルルというノコギリを震えさせて音を出していたというテーマ曲が流れるだけで怖くてドキドキしていました。

 

 ウルトラマンをはじめとする、のちのヒーローものにはストーリーの流れに一定のパターンがありますが、この作品にはそれがなく、ただ「アンバランスゾーン」というコンセプトに沿って、SF、ファンタジー、怪奇、ミステリーといった類のエピソードが1話完結方式で毎週放送されていました。

 

 マンガとして再現されているのは僕にとって、そしておそらく多くのファンにとっても傑作の誉れ高い6作品。

 

 迫りくる巨大怪獣の恐怖を描いた「ぺギラが来た」

 SFとサスペンスと寓話を融合させた「地底特急西へ」

 詩情と哲学的とさえ言える余韻の残る「バルンガ」

 宇宙人による地球侵略モノの元祖「ガラダマ」

 ミステリアスSFの原点かつ頂点。映像をネガ反転させる異常な演出と、驚愕のラストシーンがトラウマになった「2020年の挑戦」。

 幽体離脱シーンに震え上がってオシッコちびったオカルトもの「悪魔っ子」

 

 惜しむらくは、密室スリラーの「クモ男爵」とシュールコメディの「カネゴンの繭」は入れられなかったのか? 描けなかったのか?

 この2本が加われば完ぺきだったのに、と思わざるを得ません。

 

 ちなみに僕はこうした子供時代に見た映像は、初恋の思い出などと同じく、自分の記憶に刻み込まれているものがベストだと思っているので、デジタライズされてDVDが発売されたよ~ん、白黒じゃなくてカラーにされているんだよ~んと言われても、何か特別な事情・必要性がない限り、一切見ないことにしています。

 

 でもこちらはマンガ。藤原カムイの瀟洒な絵が、記憶の中の1960年代の映像と妙にミスマッチ――アンバランスゾーンになっていて、素直に読めます。

 番組を見たのはまだ5歳の頃ですが、このマンガを読むとその時の感覚がそのまま蘇ってくるのです。

 頭の中身は5歳児からほとんど進化していないのかも知れません。

 

 なにせわずか30分の番組(コマーシャルなどを抜いたら25分程度)。

 深い人間ドラマなど描いているヒマなんぞなく、ひたすら怖くて、世界観とプロットの面白さ、演出のアイデアを見せまくる作品だったはずですが、今こうしてマンガでストーリーをつぶさに追っていくと、その時代の雰囲気や、それぞれのキャラクターの秘めている物語が読み解けてきて、とても興味深いのです。

 

 そして、まだ幼稚園生だった時分に見ていた作品を、自分の息子から贈られるなんて、なんだか変な感じです。まさにこの作品のコンセプト「アンバランスゾーン」。

 

 今思えば「ウルトラQ」が放送されたのは前回の東京オリンピック終了直後のことでした。

 その時代、日本人のライフスタイルは大きく変わろうとしていたのだけど、その時代と時代のすき間に微妙なアンバランスゾーンが生まれていたのかも知れません。

 

 とすると、今回のオリンピックの後にも・・・。

 しかも「2020年の挑戦」だし。

 あなたの精神はあなたの肉体を離れ・・ヒュルルルル。

 


36年目の旗揚げ記念日

 

昨日は昔やっていた劇団の飲み会でした。

6年ぶりくらいだったと思います。

声をかけた中から約半分の8人が集結。

全員、外観はかなり劣化しましたが、頭の中はあっという間に30年以上バック。

楽しかったけど、あの頃はこんなふうになっているなんて、まったく想像できなかったなぁ。

もうこの世にいないやつもいるし。

 

たまたまだったのですが、ちょうど36年前の今日(12月4日)が旗揚げ公演の初日でした。

新宿ゴールデン街のすぐそばにあったスペースデンというキャパ100人の小さな小屋で自作を上演しました。

 

当時はパソコンはおろか、ワープロもまだ普及していない時代で、台本はわら半紙にガリ版刷りでした。

後年、メンバーの一人が残っていた台本をパソコンでデータ入力してくれたものが、今、手元にあります。

 

サン・テグジュペリの「星の王子様」をもモチーフにしていて「子供でも観られますか?」という問い合わせがあったのを覚えています。

 

話は「星の王子様」とは似ても似つかぬものだったけど、読み返してみると、今では考えられないほどのエネルギーに満ちている。

この後もいろいろ書いて、構成やら表現技術やら、客観的にうまく見せることは多少上達したと思うけど、どれもこれ以上のものになっていない気がします。

 

いったいなんでこんなものを書いたのか、書けたのか、芝居ができたのか、自分でも不思議でしかたない。

でもきっと、これは仲間がいたから書けたんだな、そのバリエーションで今までもの書いて生きてきたんだな、と思います。

 

もう36年も経っちゃったけど、この際、年月は関係ない。

昨日会った7人をはじめ、死んでしまったやつも含めて、本当にあの頃の仲間には感謝したい。

そして、単なる青春の思い出でなく、なんでこんな話を書けたのか、自分の中にあるものをもっと解明していきたい。

 

 


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eパン刑事、その愛と死とスマホ

 

 スマホを一生懸命いじくっている人を見ると、つい「何か良いニュースは入っていますか?」と訊きたくなる。

 さすがに街中で見ず知らずの人にいかなりそう問いかける度胸はないが、知り合いだと、しばしば実行している。

 

 「うれしい知らせは来ましたか?」

 「すてきな情報をゲットできましたか?」

 「心あたたまる良いニュースはありますか?」

 「幸せになる話は見つかりましたか?」

 「吉報はありましたか?」

 

 そんなふうに訊くと、みんな一様に戸惑ったような表情を見せて

 「いや何も・・・」

 「とくにこれといって・・・」

 「ぜんぜん」

 「ありません」

 「べつに・・」

 

 といった曖昧で、なんだか冴えない返事が返ってくる。

 一度も「はい」とか「うん」とか「来たけど秘密だよ。ウシシ・・」

 といった楽しいリアクションに出会ったことがない。

 

 良いニュースがないのなら、寸暇を惜しんでそんなに一生懸命見なくてもいいのに、と思うが、また次の瞬間には目を画面に戻して、再びいじくり出す人が大半である。

 これはかなり不可思議な現象だ。

 

 そう思っていろいろ考えてみると、これはもしかして喫煙に近い性癖なのではないかと思い至った。

 煙草の場合はつい口寂しくて、スマホの場合はつい手持無沙汰で、その行為で心のすき間を埋めようとする。そうするとストレスも軽減されるような気がする。

 要するに軽い中毒症状である。

 

 煙草を吸っている人に「おいしいですか?」と訊くと、やっぱりたいていは

 「いや、べつに、とくにこれといってうまくもないけど・・・」

 みたいなリアクションが返ってきて、

 「いや、そろそろやめようと思っているんだけどね」

 なんて心にもないことを言いだす。

 

 昔はちょっと違ってた。

 自分はタバコを愛している、という人は多かった。

 「おいしいですか?」と訊くと、

 「あたりめーだ。これが俺の生きがいだ!」ぐらいの啖呵を切るような人は、結構いたと思う。

 

 かく言う僕も啖呵は切らないまでも「うん、うまいよ!」ぐらい明快に応えたはずだ。

 

 僕がタバコを吸うようになったのは、周囲のいろいろな影響があるけど、大きな要因の一つとして松田優作のことがある。

 

 中学生の頃にテレビドラマ「太陽にほえろ!」で、松田優作演じる「Gパン刑事」が活躍していた。

 Gパン刑事は職務中に殉死するのだが、その最期が壮絶だった。

 彼は悪んの組織から一人の男を助け出すのだが、その男は恐怖のあまり錯乱状態になっていて、自分を助けてくれたGパン刑事を誤って撃ってしまうのである。それも何発も。

 

 Gパンン刑事は一瞬何が起こったのか、わけが分らないのだが、激痛のする自分の腹に手をやると、その手がべったりと血に染まっている。

 その自分の手を見た彼は

 「なんじゃ、こりゃあ!」と夜の闇の中で叫び、そのまま倒れ込んでしまう。

 そして仰向けになって、もう自分は死ぬのだということを悟る。

 

 どうして彼がここで、こんな形で死ななくてはならないのか?

 自分が救った人間になぜ裏切られ、なぜ撃たれるのか?

 1970年代前半の映画やドラマは、そうした人生の不条理を表現した作品、「人生に意味や目的なんてねーんだよ」とニヒルにうそぶくような作品が多く、当時の少年や若者はそこのところに心をわしづかみにされた。

 

 でも考えてみれば、人生も死も不条理に満ちているのは当たり前で、時代に関係なく、いつでもそうなのだ。

 

 それで話を戻すと、死を悟ったGパン刑事は震える手で懐中から煙草の箱を取り出す。

そして最後の力を振り絞って、タバコを1本取り出し、口にくわえ、火を点ける。

 やっとの思いで一服し、それで力尽きるのだ。

 

 死に瀕してまで吸いたいという、Gパン刑事のタバコへの偏愛が、僕がスモーカーになった大きな一因であることは間違いない。

 

 それから40年以上が経過し、この殉職シーンは、松田優作のキャリアの中でも名場面として数えられていると思うが、たぶん現代ではこういったシーンは観客に受けないし、優作のようなタバコが似合う俳優もいない。

 そもそもドラマとして成り立たないのではないかと思う。

 

 そこで僕の頭に浮かんだのは、eパン刑事の殉職である。

 暴漢に撃たれたeパン刑事は、自分の死を悟り、震える手を懐中に突っ込む。

 それで彼が取り出したのは愛用のスマホだ。

 彼は最後の力を振り絞ってスマホを見ようとする。

 そこで僕が声をかける。

 

 「何か良いニュースは入ってますか?」

 

 「いや、べつになにも・・・」

 

 その言葉を残して、eパン刑事は息絶える。

 

 現代の死の不条理。

 これはこれで感銘のある、味わい深いラストシーンではないかという気がする。

 (そんなことない?)

 


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安楽死できる国は幸せか?

●安楽死を合法化したオランダ

 

 以前、安楽死を題材にしたドラマを書いたことがある。

 「近未来SF」と評された(その頃はまだ「近未来」という言葉が結構流行っていた。今世紀になって以降、死語になった)が、20年あまりたった今、その近未来は、完全に現実に結びついた感がある。

 

 「月刊仏事」の新企画で「世界のエンディング事情」のリサーチを進めていたら、もうすでに安楽死が合法化されている国があった。

 2002年、すでに15年前、世界で最初に安楽死法を施行したのはオランダである。

 

 オランダは不思議な国だ。ドラッグも売春も安楽死も、悪徳ではないかと思えることをどんどん合法化していく。

 

 自由な意思を尊重している。

 

 と言えるが、見方を変えると、人間はどうしようもなく愚かで弱くて悪徳から逃れらえない存在である、という一種の諦観のような考え方が根底にあるのではないか。

 

 だから、たまには現実なんか忘れてラリりたいし、いろんな女とやりたいし、痛いのや苦しいのをガマンするのはイヤだから、助からないと分かったらさっさと死にたいし・・・といった素直な思いをみんな受け入れましょう、ということで、国が運営されているのかも知れない。

 

 一度、受け入れ、許されたものは再び戻ることなない。

 アムステルダムの飾り窓が観光の呼び物の一つとして定着してしまったように、安楽死もかの国の生活の中に溶け込んでいていく。

 

 そしてオランダに続いてベルギー、ルクセンブルグが安楽死を合法化している。

 ヨーロッパの中でも、どちらかというとマイナーな存在のベネルクス3国がこうした先進的(?)な社会を作っているのはとても興味深い。

 

●家族主体の日本ではやっぱNG?

 

 日本はどうか。これに倣って安楽死合法化は難しいと思う。

 日本の場合、根底に死は個人のものでなく、その周囲のもの――家族あるいは医療者に委ねられるものという暗黙の了解があるからだ。

 

 自分の命は自分の自由にしていい、という考えは許されない。

 

 そもそも安楽死するかどうかを決めるのはその人本人でなく、“させるかどうか”を決めるのは家族だ。

 

 生死を決する際は、家族の気持ちが個人のそれよりも強く働き、尊重されるようになっている。

 そうした歴史が続いてきて、ひとつの文化になっているから変わりようがない。

 

●安楽死の近未来

 

 しかし、それも僕の思い込みに過ぎないのかも知れない。

 

 最近の、人の内面を動かす時計の廻り方はとても激しく、最近は「個人」がずいぶん強調されるようになっている。

 もしかして10年後くらいには安楽死の合法化が、少なくとも検討されるところまではいくかもしれない。

 

 ちなみにオランダでは、安楽死数は2006年に約1900人だったが、2012年には約4200人までに増えているというデータがある。

 これは同国の年間死亡者数の3%に上る数でだという。

 ここから5年経った現在ではどうなのだろう?

 増えこそすれ、減っているとはとても思えない。

 聞くところによると最近では“安楽死専門クリニック”まであるようだ。

 1990年代に書いた僕のドラマの世界は、とっくに追い越されている。

 


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三度目の殺人:本当に大切なものを僕たちは見ようとしていない

●この物語はファンタジーであり、寓話である

 

 是枝監督はファンタジー作家、と言うと奇妙な感じがするかもしれない。

 いわゆるスピリチュアルともちょっと違う。

 でも僕たちが生きているこの世界には、普段、目の当たりにしている日常的な「見える化した世界」と、その向こう側にある「見えない世界」がある。

 

 サン・テグジュペリが星の王子様に言わせた「本当に大切なものは目に見えない」の「見えない」。

 

 もともとドキュメンタリー畑出身の人だが、現実の人間と社会の機構をつぶさに見つめるうち、そこを通り抜けて見えない世界に入り込めるようになったのだろう。

 

 この作品は同監督初のサスペンス映画というふれこみで、表面的には確かにその通り。

 だけど、なぜか僕は鑑賞後、8年前の「空気人形」という、ダッチワイフが現実の女の子になってしまうというストーリーの、寓話風な是枝作品と重なった。

 もちろんタッチは全然ちがうのだけど。

 

●弁護士・重盛と犯人・三隅

 

 福山雅治演じる重盛は、べったり「見える化世界」を代表するビジネスライクな弁護士。

 実際に弁護士と付き合ったことはないけど、きっと現実はこういう人が多いんだろうなと思う。

 加えていえば、世間で「デキる人」――いわゆるエリートだ。

 

 これまでいろいろな映画やドラマで弁護士は正義の味方的に描かれることが多かったが、本作の中では彼は、敵役の検察官と、仲を取り持つ裁判官と一緒に法廷という舞台で芝居を演じる役者だ。

 

 そしてそのお芝居の舞台裏で「今回はこのあたりで手を打っておきましょう、シャンシャン」という感じで被告人の生き死にが決められる。

 これもまた、きっと現実はこういうパターンが多いんだろうなと思う。

 

 それに対する役所広司演じる殺人犯の三隅。

 供述一つ一つで重盛を翻弄する。

 一見穏やかで、社会の底辺部近くで朴訥に生きる庶民。

 ではあるが、30年前にも一度、殺人事件を犯している前科者。

 彼は「見えない世界」を体現する人物だ。

 

●僕たちは重盛

 

 重盛のようなデキる人ではないけれど、僕たち見える化世界の住人は、彼の目線でこの三隅と対峙し、ドラマを体験する。

 

 するといかに自分がインチキな世界で生きているか、わかる。

 そして重盛同様、「本当に大切なもの」なんてどうでもいいと思っていることも分かる。

 

 僕たちは毎日忙しい。

 お金を稼ぐために仕事をしなきゃいけないし、家事だってしなきゃいけないし、ごはんもちゃんと食べたいじ、寝る時間だって必要だ。

 とにかくやらなきゃいけないことがいっぱいある。

 

 そんな中で、毎日を少しでも心穏やかに生きていくために――言い換えれば、何とかやり過ごすためには、真実がどうだとか、本当に大切なものだどうだとか、そんなことにいちいちかまっているのは面倒くさいのだ。

 

●神の目線と半神の少女

 

 もっと率直に言ってしまう。

 犯人・三隅は、神、あるいはそれに類する観念のメタファー(暗喩)だ。

 僕にはそう見えたし、きっと多くの観客がそう感じるだろう。

 (劇中、そう感じざるを得ないシーンがいくつもある)

 

 神、あるいはそれに類する存在だから真実を知っている。

 同時に、重盛や僕たちが、そんな真実なんてどうでもいい、と思って生きていることも知っている。

 すべてを見通す三隅の心を唯一動かすのは、広瀬すず演じる少女だ。

 彼女は神と人間の間に立つ半神のような存在に見える。

 

 彼女は足に障害を負っている。

 生まれつきの障害らしいが、なぜか彼女自身は、子供の頃、屋根から飛び降りてケガをしたから・・・と弁明する。

 何らかの社会的抑圧を受けて、そう弁明せざるを得ない・・・とも見て取れる。

 

 なぜ是枝監督は、足が悪い少女という設定にしたのだろう?

 彼女が「嘘つき」なのかどうかを考えさせるギミックなのか?

 それもあるが、彼女に半神としての役割を負わせるための、何かもっと深い意味を込めているようにも思える。

 

●いい話ですねぇ

 

 終盤、是枝作品には珍しく、カタルシスが来るのか、と予感する一瞬があった。

 でもやっぱり来なかった。

 いつも通り、カタルシスもハッピーエンドもない。

 観終わったあとに胸に留まるのは、いったい何だったんだろう?というわだかまり。

 この監督はけっして観客に明快な答を差し出そうとしない。

 

 でも重盛との最後の接見で三隅が呟く「いい話ですねぇ」というセリフがたまらなく良かった。

 あの一言を聞くだけでも、何度も繰り返しこの映画を観る価値がある。

 僕も重盛と同じく、「いい話」を信じたい凡人なのだ。

 たとえその「いい話」が真実ではなかったとしても。

 

 福山雅治も、役所広司も、広瀬すずも、素晴らしい俳優だ。

 


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映画やテレビドラマの世界では高齢の犯罪者が増えている?

 

 何かデータがあるわけでなく、あくまで個人的な印象に過ぎないのだけど、最近の映画やテレビドラマでは高齢の犯罪者が多く登場しています。

 

 もちろん昔でも、ヤクザの親分とか、ギャングのボスとか、政財界の黒幕は高齢だったのですが、最近は下っ端の実行犯や、普通の市民の犯罪者も高齢者というパターンが増えている気がするのです。

 

●老人=善人のイメージの崩壊

 

 物語を作る立場で考えていくと、かつては基本的に老人=心穏やかで優しき善人、頑固だったり、ちょっとヘンテコだったりしても愛すべき心の広い善良な人、「悟っている」とは言わないまでも、世の中を達観した、それなりの領域に達した人間というイメージが強かった。

 

 作り手の思い込みもあるけれど、それ以上に、高齢者に対する社会通念と言うか、世の中の常識というものが厳然と存在していました。

 

 つまり、老人と言えば、容貌の衰えに反比例して精神は美しく磨かれた善人か、たとえ悪人でも、人の上に立つ者、大勢の部下の尊敬なり畏怖なりを勝ち取っている者でなければ、見る側の観客が納得してくれなかったのです。

 

 それはまた、人間が年齢を重ねるとともに、現世における欲望の渦とか、負の感情の濁流から徐々に遠ざかり、真の大人になっていく、人間的に完成していく・・・という、人々が共有する信念でもありました。

 

 つまり、精神の円熟した立派な大人が、同情するに価する、やむを得ない事情がない限り、殺人などをはじめとする社会を混乱させる重罪に手を染めることはないーーそう考えるのが基本でした。

 

 けれども最近は事情が変わり、影の裏ボスみたいなのに、いいように操られる高齢犯罪者が急増しています。

 彼ら・彼女らの中には、不治の病で余命いくばくもない運命で、人生の夢が絶たれてしまった人、未来をみずから絶ってしまった人も。

 それなら最後に何かでかいことをやって名を残したい・・・といった、とんでもなく自己チューな動機で犯罪に手を染める人、他人を巻き添えにして自殺してしまうような人が目立つのです。あくまでドラマの世界のことでだけど。

 

●洗脳も簡単

 

 例えば、IS(イスラミック・ステーツ)などのテロ組織は、言葉巧みに若者を洗脳して、自爆テロの犯人に仕立てあげます。

 

「この腐った社会を正すんだ」とか、

「これでキミの命が輝く」とか、

「価値ある人生にできる」とか、

「本当に人の役に立つにはこういうことをしなくちゃいけない」とか・・・

 

 まるでどこぞの自啓発セミナーで頻発しているようなセリフですが、個人のパーソナリティに合わせて、こうしたセリフを吹き込むことで、現代なら、いい齢をした高齢者でも簡単に洗脳できちゃえるのではないかと思います。

 

●現実の反映

 

 再び作り手の立場に立てば、推理ドラマ・犯罪ドラマを作る際、従来の年功序列のパターンより、若者や子供、あるいは人類の子供たる人工知能に指示されて、高齢者が犯罪を犯すーーといった物語のほうが目新しくて面白い。

 そして今ではそれが、観客も納得するリアリティを持ち得る。

 

 言うまでもなく、こうした映画やテレビドラマで起きる現象は、肥大した自己といつまでも続く欲求不満を抱え、永遠に大人になれない高齢者が急増している現実世界の反映です。

 

 肥大した自己といつまでも続く欲求不満を抱え、永遠に大人になれない高齢者は、怖ろしい犯罪の予備軍ともなり得る。

 あまり認めなくないことですが、そう遠くない未来に仲間入りする僕も、そうした現実を変えていく努力をコツコツやっていかないとなぁ、自分を大切にしないとなぁ、と思っています。

 


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ラストドライブ:人生最後の旅

 

 昨日、たまたまテレビ(NHK-BS)で「ラストドライブ」というドキュメンタリー番組を見ました。

 

 ドイツのあるボランティア組織の話で、死にゆく人のために、最期に訪れたいところに車に乗せて連れて行く。そしてスタッフが一緒に一日を過ごし、彼もしくは彼女の最期の願いをかなえるというもの。

 

●最後の願いをかなえる小旅行

 

 ある高齢の女性は、何年も前にこの世から先立った夫と一緒に行ったというオランダの海岸へ。

 夫婦間のとても美しい思い出がそこに満ちているのかと思いきや、到着して彼女の口から出てきたのは、長い間、自分を家に閉じ込め、浮気をしていたという夫に対する、呪いにも似た不平不満でした。

 

 けっして幸せな結婚生活を送ったわけでなく、子供をもうけることもなかった。

 なのに、それでも死ぬまで添い遂げた。

 一体なぜなのだろう?

 自分が犠牲にしてきた感情は、ただ安心して人生を過ごすための取引だったのか?

 でもそれだけじゃない・・・。

 そうした問答の繰り返しの果てに、オランダの海を見れば、最期にその答えが見つかるかもしれない――

 彼女はそう考えたのかもしれません。

 

 もう一人、まだ中年の男性は、現在の恋人と一緒に過ごした湖へ――と願い出ました。

 その彼女とはいずれ結婚を考えていたが、1年前に病気が見つかり、断念したとのことでした。

 まだ人生半ばだと思っていたのに、すべてが手遅れになってしまった・・・。

 

 そんな悔恨の思いがあったのかも知れません。

 こちらのカップルの場合は、スタッフはできるだけ二人だけでそっとしておこうとしていました。いつまでも一緒に湖を見ている二人の後姿が印象的でした。

 

 いずれも、このラストドライブが終わって1ヵ月経たないうちにこの世を去りました。

 

 感動を押し付けたり、人間の良心を謳い上げるような演出をするわけでなく、ゴロンとありのままを転がしたような作品で、とても素直に見られました。

 

●スタッフにとってのラストドライブ

 

 組織のスタッフの一人――60代の男性は、なぜこの仕事をしているのか、との質問に、家庭で暴力(おそらく父親から)振るわれたという話をしました。

 定年退職後、そうした幼少期の体験から人の幸せに貢献することをしたいと強く思うようになったから・・・と語っていました。

  

 また、別のスタッフ――母親の、自分の子供たちにこの仕事について説明している姿も印象的でした。

 

 ちょっと聞き逃してしまったのですが、このラストドライブ――人生最後の小旅行を実践するスタッフは登録制で、たまたま日にちが合った人が出向くそうです。

 中には休職中の看護師や介護士の人もいるようですが、特別な資格が必要なわけでなく、説明会とちょっとした研修を受ければ、誰でもできるようです。

 

●新しい社会の潮流

 

 こうした福祉(そして医療の一種でもある)サービスが、社会でどの程度浸透しているのかはよくわかりません。

 しかし番組内で出てきたオランダの海岸やドイツ国内の湖畔のレストランでは、ごく自然にこうした人たちを受け入れている様子が見て取れました。

 さすが成熟社会のヨーロッパ、さすがドイツと思わざるを得ません。

 

 現在の日本ではこうしたサービスが行われることはまだ考えにくいですが、そう遠くないうちにスタートし、定着してくるように思います。

 それくらいニーズは高いと思うし、スタッフをやりたという人も少なくないでしょう。

 これはほとんどの先進国がいずれ体験する、新しい社会の潮流なのだと思います。

 

 人間は最期まで不可思議で不条理な存在。

 死に瀕して、人が何を望み、何を語り、何を悟るのか。

 それを死に行く人が、支え送る人が、互いに直視し、実感することは、人間の未来全体のスープの素になるのではないのかな。

 


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「2020年の挑戦」への挑戦

●迫りくる祝・2020年

  

 2017年も半分過ぎました。

 待望の2020年まであと残り2年半です。

 この半年があっという間だったように、きっとこの2年半もあっという間に過ぎて、気がついたら2020年になっちゃっているでしょう。

 

 しばらく前から「2020年を境に世の中が大きく変わる」という漠然とした空気が漂っています。

 もちろん、語呂と数字の並び具合が最高にキマっているスターイヤーだというのもありますが、特に日本の場合、東京オリンピックが開催されるのでなおさら待望感大盛です。

 

 ごく一部の人は、高度経済成時代――1964年の前・東京オリンピックの時と同様、日本が再び大発展すると、かなり本気で考えています。

 

 その他の大部分の人は、「そんなことあるわけねーだろ、バーカ」と思いながらも、何か劇的な変転――できればよい方向への――を期待しています。

 

 物理的・精神的生活の両面においても、経済・産業・政治といったマクロな部分についても、この数年で変化の要因がいっぱい出ているので、そう考えたくなるのも無理はありません。

 

●ウルトラQ最高傑作「2020年の挑戦」

 

 ところで僕が子供の頃のテレビの特撮ドラマ「ウルトラQ」(ウルトラシリーズの第一弾。ウルトラマンの前の番組)で「2020年の挑戦」というエピソードがありました。

 

 まずタイトルがカッコいい。

 「ぺギラが来た」だの「ガラモンの逆襲」だの、わかりやすく怪獣の名前を盛り込んだものでなく、何やら含みを持った詩的とも言えるタイトル。

 

 内容は、2020年からやってきた未来人=ケムール人が、老化した身体を若返らせるために、現代(この当時=1965年。なんと前・東京オリンピックの翌年!)にやってきて、この当時の人々を特殊なやり方で2020年の未来へ連れ去ってしまう、要するに誘拐していくという、SF、怪奇、ミステリー、サスペンスの要素がぎっしり詰まった濃厚なストーリーの上に、画面をネガ反転させて見せる恐怖感を駆り立てる演出に、僕はトラウマになるほど震え上がりました。

 

 さらにこの事件を、ある作家が予言書のごとく「2020年の挑戦」というSF小説に描いていたという、「ノストラダムスの大予言」みたいな裏話がついているというメタ構造。

 さらにさらに、これまたトラウマになってしまった衝撃的なエンディング。

 子ども心に「すげぇえええ」と感じ、「ウルトラQ」のエピソード中、最高傑作だと思っています。

 

●ケムール人は僕たちのメタファーか?

 

 制作していた人たちが当時、どれくらいの年齢で、どんな時間感覚を持っていたのかは分からないけど、もしかしたら、まだ自分も生きているかも知れない「55年後」をネタにこんな話を作れるとは・・・。

 高度経済成長時代の日本人にとっては、21世紀、そして2020年というのは、本当にまだまだ遠い未来の話だったのだなぁと思わざるを得ません。

 

 僕はここで考えてしまう。

 もしかしたら、2020年に生き、若い身体を求めて過去にタイムスリップまでして人々の若さを欲しがる、このケムール人とは、僕たち現代の中高年世代のメタファー(暗喩)なのではないか、と。

 

 ケムール人とは、老いることを怖れる人間の悲しい性の具象化なのか、おぞましい根性なのか、はたまたお笑いネタなのか、「2020年の挑戦」とは何に対して、何のための挑戦なのか――。

 

 ただ変転を期待しているだけでは芸がないので、自分なりの2020年を作っていくためにも

残り2年半、マラソンしながら挑戦していきたいと思います。

 

 興味のある人は「ウルトラQ」を見て、いっしょに挑戦してみてください。

 

 

 


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映画「はじまりへの旅」の寓意とユーモア

 

 望んだとおりに生き、望んだとおりに死にたいのだけど、それがすごく難しい。

 はるか昔からほとんどの人間はそうだったのだけど、現代の先進国で暮らす人間がひどく思い悩み、そうした生き方・死に方を求めて悪あがきするのは、なまじ物質的に豊かになり、自由を手に入れているような幻想に囚われて育つからかもしれない。

 

 ということをよく考えていますが、そんな僕のような人間にとっては、素晴らしく面白い映画でした。

 

 そうでもない人には、ただのヘンテコな家族の巻き起こす大騒動、という物語でしょう。

 もちろん、それでも面白いと思えればいいけど。

 

 例によって息子が面白いというので、だいぶ遅れて観てきました。

 以下は、これまた例によってネタバレ。

 

●「生きる力」を身に着ける最強の子育て

 アメリカの森の中で暮らす、現代文明を拒否するかのような生活を送るサバイバルファミリー。

 

 父親は「生きる」ということに真剣で、18歳から8歳まで6人の子供たちとともに、森の中を駆けてナイフを使って動物を狩り、獲物を屠り、その肉で食事をする。

 また、岩登りなどにも挑戦し、過酷な自然環境の中での適応能力をつける。

 そうして鍛えられた子供たちの身体能力はアスリート並み。

 文字通り「生きる力」を養う教育・生活だ。

 

 体力のみならず、夜は火を囲んで本を読み、あらゆる学問に通じ理解し、学校なんか行かなくても子供たちの知力はみんな超一流。

 

 これは一種の理想的父親像であり、最強の子育て・教育の在り方だと思います。

 称賛されこそすれ、非難されるものではないはずなのですが、そうは問屋が卸さないのが現代社会のオキテです。

 

●現実と理想の間で引き裂かれた母の死

 ここに唯一欠けているもの――それは母親の存在です。

 母親はほとんどこの物語の中に登場しないのだけど、その存在が物語を動かす大きなテーマ。

 なんと、父子と離れて都会の病院に入院していた彼女は、精神を病んで自殺してしまうのです。

 

 物語の前半で、母(妻)が精神を病んだことが、消費文明をボイコットし、森の中で生きる・子供を育てることを選ぶ、大きなきっかけになったことが示唆されます。

 

 この両親は、自分たちを含む現代人の精神が不健康になるのは、資本主義社会、物質文明に支配された生活環境が原因なのだと考えたのです。

 

 ところがその考え方は違っていた。

 結局、子供たちの母――父にとっての妻は、現実の文明社会と、彼女と夫自身が理想とした自然の暮らしとの間で引き裂かれてしまった。

 

 そうした重苦しいテーマをはらんで、物語は軽快なテンポの、コミカルなロードムービーへ展開。

 一家は、母の葬式に出るべく、森を出て都会へ向かって旅します。

 その旅の中で、理想の父に最強の教育を受け、真の「生きる力」を身に着けたはずの子供たちが、現実のアメリカ社会の中では、ひどく脆く、奇異な存在であることが露呈されてしまいます。

 

 ひとりひとりの個性を尊ぶというアメリカでも、やはりこれだけ極端な個性は忌避されてしまう現実。

 日本の場合だったら、言わずもがなでしょう。

 

 この子供たちが皆、かわいくて素敵です。

 長男役は若い頃のジョニー・ディップに、次男役はレオナルド・ディカプリオに似ている。なんとなく。

 女の子たちも、名前は出てこないけど、みんな誰か先輩女優に似ている気がします。

 

●これがホントの家族葬?

 最も感動的だったのは、終盤の母親の「葬送」です。

 父と子供たちは埋葬(キリスト教の伝統で土葬)された母親を掘り起こし、遺体を森の中へ運んで自分たちで音楽を演奏しながら火葬します。

 そして残った遺灰を空港のトイレに流してしまうのです。

 

 こう書くとギョッとするかも知れないけど、この一連のシークエンスは、とても愛のこもった、心温まる、なおかつ神聖な場面です。

 

 これが母が遺書に遺した「自分の望む死」だったのです。

 

 最近、日本でも家族葬や散骨に人気が集まっていますが、これぞ真の家族葬であり、散骨。

 

 僕もこういう終わり方がいいなぁ。

 現代人らしく、最後の最後は水洗トイレでジャーッと流れていきたい。

 

 でも、実際にはこんなことは社会で許されないのです。

 日本ではトイレに遺灰を流すのは明らかに違法行為、たぶんアメリカでも同じだと思います。

 

●改めて子供の未来のこと

 長男(実は彼はアメリカ中の超一流大学にすべて合格している)はその空港から新しい環境に向けて旅立っていき、残った父やきょうだいたちは、なんとか現実と自分たちが培ってきたライフスタイルとの折り合いをつけた、新しい生活を送り始めます。

 

 今の若い連中、そしてこれから生まれ、育つ子供たちは、どんなライフスタイルを理想と考え、どう行動するのか?

 大人が示すライフプラン、ライフデザインは、はたして彼ら・彼女らにどれくらい有効なのか、改めてとても気になりました。

 

 監督さんはこの作品が長編2本目とかで、ちょっと青臭さも目立つけど、そこがまたいい。

 テーマは重く、とても考えさせるけど、寓意にあふれ、ユーモアたっぷりなところがいい。

 ミニシアターでの公開だけど、僕の中では大ヒット作品です。

 もっと大勢の人に見てほしいけどね。

 

 


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茨城・葬式の撒き銭のルーツを探る

 

 この夏場所、残念ながら郷土の英雄・稀勢の里は途中休場してしまいましたが、依然として「ひよっこ」で盛り上がる茨城県。

 

 先日から茨城の葬式の「撒き銭」の話をしているのですが、お金だけでなく、お餅やキャラメルなどのお菓子もばら撒くと聞いて、子供の頃、お嫁さんの出る家で「菓子撒き」をしていた(昭和40年代の名古屋の話です)のを思い出し、アレと関係があるのかな?と調べたら、ビンゴ!

 

 民俗学博士である成城大学文芸学部の田中宣一教授の「祀りを乞う神々」という本。

 その中の一文「散米と撒き銭」に詳しいルーツが書かれています。

 

 もともと神道の打撒(うちまき)=散米(さんまい)に由来するもので、米を打ちつけて、ケガレや不幸をはらう風習なのだそうです。

 

 節分の豆まきと同じみたいですが、厳密に言うと、対象となるのは鬼とか邪気とかではなくて、ちょっと低級な神様。

 

 ここが「八百万の神」がいる日本らしいところで、神坐に鎮座する、いわば正式の神様とは別に、レベルの劣る、その他大勢の神様が、お祭りの時になるとうじゃうじゃ湧いて出てきて、お詣りするべき神坐へ向かう道をふさいでしまう。

 なので、「はらう」のではなく、撒くというラフな形でお米を「お供えする」――つまり、神様へのお供えのスタイルの一つというわけです。

 

 このお米が、お金・お餅・お菓子などに、下級の神様が、その地域の子どもをはじめ、民衆一般に転化し、「撒き銭」という風習になったとか。

 ちなみに神社の「お賽銭」も同じルーツを持っています。

 

 葬式で撒くのは、やはり長寿で亡くなった人が仏様=神様になったというお祝いの意味合いが強いようです。

 

 かなり端折って紹介しましたが、この「撒き銭」は、江戸時代には全国の広い地域で行なわれており、山岳信仰で富士山などにお詣りのために上る人たち、お伊勢参りに詣でる人たちなどは、その旅程で、撒き銭を期待する地域の子供らが寄ってきたとのこと。

 

 なんだか進駐軍に「ぎぶ・みー・ちょこれーと!」と集まってきた戦争直後の子供たちみたいだなぁ。

 そういえば、あれも一種の「菓子撒き」ですね。

 

 撒き銭をあげないと「ケチ」「ボケ」「カス」とののしられ、「途中で悪いことが起こるぞぁ」と、呪いまでかけられたそうです。

 まったくしょーもないガキどもだ。

 

 それにしても、いくら撒くのは小銭とはいえ、目的に辿り着くまであっちこっちでやっていたら、これだけで破産してしまいそうですね。

 それとも、ある程度のお金持ちじゃないとやらなかったのでしょうか?

 

 興味のある人は読んでみてください。

 

 しかし「葬式の長寿祝いの撒き銭」という形で、なぜ、とりわけ茨城に伝えられ、最近まで残っていた(今でも残っている)のか?

 そこのところはまだ謎のまま。

 

 「ひよっこ」には朝ドラなので、よもや葬式シーンは出てこないと思いますが、もし出てくるなら、ぜひ、この撒き銭をやってほしいものです。

 


昭和39年の奥茨城に電話はなかったけど、テレビと葬式の「撒き銭」はあった?のお話

 

●時代考証は〇か✖か?

 

  朝ドラ「ひよっこ」に対して、昭和39年の茨城の田舎に、テレビがあって電話がないのは、時代考証がおかしいのでは?という意見が寄せられているようです。

 

 イマドキの携帯・スマホの普及率・進化度から考えると、テレビより電話の歴史のほうが長いように思えますが、じつは逆。

 

 世に出たタイミングはともかく、テレビの普及率が、昭和34年の現・天皇陛下のご成婚を境にググンと急激に上がったのに対して、電話の普及率は遅々としていました。

 僕も自分の置き電話を購入したのは、やっと1980年のこと。

 電話網のインフラ整備に時間が掛かったり、7万円だか8万円だかしていた権利金の高さが普及のネックになっていたのでしょう。

 そういえば昔、電話ってテレビよりも財産価値が高い物でした。

 今ではウソみたいな話だけど。

 

 というわけで、 日本中、ほとんどの家に電話があるという状況になったのは、1980年よりもっと後のことなのではないかな。

 

 だから「ひよっこ」の主人公・ミネコの実家にもテレビはあったが、電話はまだなかったという時代考証は正しいのです。

 

●葬式の「撒き銭」の意味は?

 

 それで昨日の話ですが、この前・東京オリンピックの時代、県北部にある架空の「奥茨城村」にも葬式の撒き銭の風習は厳然と残っていたと思われます。

 

 僕がよく参考にする「日本民俗調査報告」の茨城編のページをめくると、現在の日立市や北茨城市の地域を調査した資料に

 

 「死者が高齢の時は、年齢を赤色で書いた投げ餅や小銭をまく」

 

 「出棺時に金と餅をまくが、80以上の人には門口で拾わせないで手渡すこともある」

 

 といった記述が見受けられます。

 

 こうした記述からわかるのは、この「撒き銭」という風習は、故人が長寿だった――大往生だったということの証であり、そのご祝儀を集まった人たちに配るということです。

 

 まさしく「人生卒業おめでたい」といったところでしょうか。

 だから同じように長寿の人には「あなたももうすぐだから」と、確実に手にできるよう、手渡しもするのでしょう。

 

 さらに調べていくと、「撒き銭」については、お祭り・宗教と合わせて詳しく研究している民俗学者がいるので、その人の書いた本ものぞいてみたところ、さらに面白いことが。

 長くなるので、これはまたto be continue。

 


●稀勢の里と「ひよっこ」と「撒き銭」でイバラキ人気 赤マル上昇中

 

 茨城県では葬式の時にお金をばら撒く。

 福島県では葬式まんじゅうとして、紅白まんじゅうが配られる。

 

 え、なにそれ?とリサーチ開始。

 

 次回の月刊仏事の「全国葬儀供養事情」は茨城県と福島県の特集です。

 

 茨城県は都道府県別魅力度ワーストワンという不名誉を背負った県。

 それはお気の毒に、県はさぞかしがっくり肩を落としていらっしゃるだろう・・・と思いきや、

それを逆手にとって「のびしろ率ナンバーワン県」と謳っている。

 

 なにしろ茨城には黄門様もいるし、納豆もあるし、梅だってきれいだ。

 でも、いつまでもそれに頼っていちゃあな・・・と思っていたら、

今年になって強力な援軍が現れた。

 

 久々の日本人横綱として角界人気ナンバーワン力士となった、牛久市出身の稀勢の里。

 そしてこの4月から始まった、有村架純主演、可愛い茨城弁満載のNHK朝ドラ「ひよっこ」。

 

 必殺ダブルカウンターパンチで茨城人気 赤マル上昇中です。

 

 ちなみに「ひよっこ」の舞台である「奥茨城村」というのは架空のもので、昔も今もそんな村は存在しないのですが、どうやら福島県に近い県北部がモデルのようです。

 

 そして、葬式でお金をばら撒く「撒き銭」という風習も、文献を調べるとこのあたりで長く行なわれていたことが書かれています。

 それがちょうどこのドラマと同じ、前・東京オリンピックの時代――昭和40(1960年代半ば)頃までのこと。

 その後の経済発展と都市化によって、こうした昔からの風習は急激に廃れていきました。、

 

 しかし希少ではあるけれど、ネット情報によれば今でもまだチラホラ残存しているようです。

 テレビで外国に移住した日本人妻が、その国の生活風習にびっくりしたことをレポートする番組がありますが、ここでも他県から来た奥さんなどが、そうした仰天レポートを載せています。

 そりゃびっくりするよね。

 なにせ人が死んだのに「「こりゃめでたい」と言って、来た人たちにお金をばらまくっていうんだから。不謹慎にもほどがある。

 

 ところが、この「撒き銭」、要は家の建築の時の上棟式や、結婚式などの時にやる「菓子まき」「餅まき」などと根は同じなのです。

 その話はちょっと長くなるのでまた明日。

 

 いずれにしても、稀勢の里と「ひよっこ」がもたらした千歳一隅のチャンス。

 この好機にどこまで人気を伸ばし、舞い上れるか?

 がんばれ、イバラキ!(イバラギではありません)

 


カルテット:おとなとこども、あるいはアリとキリギリスのハイブリッドライフスタイルと友だち家族の未来

 

 TBSのドラマ「カルテット」は音楽、ミステリー、コメディの要素がとても上手にブレンドされ、丁寧に作られた、楽しいドラマでした。

 何よりも主役の「カルテット・ドーナツホール」の4人がチャーミング。

 

 そのチャーミングさは、仕事がなかったり、家族を失っていたり、アイデンティティがボロボロになっていたり・・・と、いろいろ複雑なおとなの事情を抱えながら、大好きな音楽を捨てない(捨てられない)子供であり続けているところからきていると思います。

 

●子供を卒業しない大人/アリにならないキリギリス

 

 芸術を志す若者たちが互いの夢を温め合いながら共同生活を送る、というドラマは昔からありました。

 その結末はだいたい夢破れて皆ちりぢりになっていくか、ひとりが成功してバランスが崩れて終わる、といったパターンがほとんど。

 つまり青春時代から卒業し、キリギリスからアリに変っていくというのが、一時代前までの、まっとうなドラマでした、

 

 ところがこの4人は「おとなこども」から卒業しようとしない。

 21日の最終話は、とんでもなくいびつな手段を使って、大ホールでコンサートを開く夢を実現させるのですが、それを経て、この4人は「友だち家族」のようにつながるのです。

 

 ドラマの中で控えめに描かれた恋愛も曖昧なまま、音楽を仕事にするのか、趣味にするのか、という人生の命題も曖昧なままでのエンディング。

 

 なんだかゆるゆるした、一種のメルヘンともファンタジーとも取れる終わり方ですが、「おとなこども」を卒業しない生き方、キリギリスをどこまでも続けていこうという生き方は、新しいライフスタイルと言えるのかも知れません。

 

●アリとしての幸せに確信が持てるか

 

 現代はおとなと子供の境界線があいまいになりました。

 20歳前後まで子供として教育を受け、社会人として仕事をし(つまり大人になり)、結婚し、子育てをして、60代で退職・引退し、人生の総括をするというライフスタイルは、もちろん、いまだ主流ではあるけれど、以前ほど厳然としたものでも、誰にも口答えさせないほど説得力のあるものでもなくなっています。

 

 特別な才能がない限り、生きていくためには、キリギリスなど早くやめてアリとなって働くべきという鉄板常識の人生観は、かつてはアリで十分幸せになれるという言葉を信じられたからこそ成り立っていました。

 けれども今は、その確信が揺らいでいるのではないでしょうか。

 アリとしてずっと働き続け、人生を全うする――それで幸せなのか?

 本当に好きなこと、やりたいことを我慢してアリになることにどんな意味があるのか?

 多くの人はそう感じているのではないかと思います。

 

 豊かな時代は、いくつになってもモラトリアムであり続けられる。

 それは非常に困ったことだと言われてきましたが、むしろかつての鉄板常識のおとなよりも、子供の部分をたくさん残している「おとなこども」のほうが、これから先も立て続けに起こるであろう社会環境の変化に対応しやすいのではないだろうか。

 

 みんな無意識の領域でそう思っているから、子供っぽいおとな――もうちょっと良く言えば、エイジレスが増えているのではないだろうか。

 

●これからのライフスタイルはハイブリッド、そして友だち家族?

 

 おそらくこれからは、大人と子供、アリとキリギリスのハイブリッドのライフスタイルが大きな流れになっていくのでは・・・と感じるのです。

 そうしたライフスタイルを実践する手立ての一つとして、カルテット・ドーナツホールのような「友だち家族」がある。

 

 現在、仕事に、家庭に恵まれている人でも、あの4人のような生き方、友だち家族のような在り方、音楽への純粋な愛で繋がり合える関係が羨ましいと思う人は結構多いのではないでしょうか。

 

 そして単に純粋なだけでなく、インチキ・ペテンだらけの大人の事情にまみれて葛藤する、彼らの子供の部分に共感を覚える人もまた、大勢いるのではないだろうか、と思うのです。

 


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余命9ヵ月のピアニスト

 

 ずっとしがみついていたいほど愛しているものがあるのは、幸せなことなのか?

不幸なことなのか?

 

 火曜日(17日)から始まったTBSの連ドラ「カルテット」を観ました。

 脚本が良い。役者が良い。文句なく面白い。

 

 主人公は30代の4人の音楽家たち。でも、音楽では食えていない。

 で、もうみんな30代。どうすればいいのか?

 という同じ悩みを持った4人がたまたま出会ってカルテットを作って演奏活動をしていくが・・・というお話。

 

 日本の社会は20代まではなんでも大目に見てくれるけど、三十路を超えたら急にきびしくなる。もう子どもであることは許されません。

 

 クリスマスまではキラキラ夢見ていていい。どんどん夢見よう。

 けど、その辺過ぎたら、大みそかまでにちゃんと大掃除済ませて、お正月様をお迎えせえよ、それ以降はしきたり守ってちゃんとせなあかんでぇ。

 という感じです。

 

 初回、この4人に絡むのが、イッセー尾形演じるベンジャミン瀧という、「余命9ヵ月」がキャッチフレーズのピアニスト。

 

 ドラマの中で明かされるますが、彼は5年以上前から「余命9ヵ月」で、あちこちのクラブやレストランを回ってピアノを弾いて生活している。

 余命9ヵ月どころか、酒を飲んで陽気になっている様子を見る限り、健康上の問題は何もなさそうです。

 

 つまりこれは彼の営業ツールで真っ赤なウソ。

 早い話がサギ師・ペテン師なわけです。

 

 けれどもそこが泣かせるのです。

 彼はそこまでして音楽で生活したい、音楽の世界にしがみついていたい。

 すでに還暦を過ぎた彼の過去は一切明かされませんが、家族の写真を飾って一人暮らし。いったいどんな人生ドラマがあったのか。

 

 音楽の世界は、神様が放っておかないほどの才能を持った人は別格として、その下では、生きられる・生きられないのボーダーライン上を大勢の音楽家たちがしのぎを削っています。

 

 そのためには音楽の能力以外に、というか、能力以上に、運やらコネやら人間関係やら愛嬌やらハッタリやらが重要になってきます。

 

 明らかに技術も高く、表現も優れているのに食えない人がいる一方で、この程度で・・・と思える人が食えちゃったりもしています。

 これは音楽に限らず、その他の芸術・芸能分野でもいっしょだけど。

 

 だからどんな手を使ってでも、と考える人が出てくるのはごく自然です。

 

 かの佐村河内氏もその一人だったのでしょう。

 彼のしたことはサギだし、障害のある人に対する侮辱なので断罪されて当たり前だと思いますが、ほんのわずかながら、僕は彼に同情していまう。

 そこまでして音楽の世界で生きたかったのだな、と。

 

 余命9ヵ月のピアニスト・ベンジャミン瀧もそうなのです。

 サギをしてでも音楽人生、音楽で生活するということにしがみつく、あるいは、しがみつかざるを得ない。

 そんな彼の生きざまは、本当に滑稽で、哀しくて、苦い。

 けれども、どこかでひどく愛おしさを感じてしまう。

 

 このドラマの主人公たちも、そうです。

 そして、彼の姿を透して自分たちの20年先・30年先の未来を見てしまうのです。

 その滑稽さ。哀しさ。人生の苦さ。

 

 このピアニストの出番はおそらくこの第1回こっきりだと思いますが、単なる1エピソードでなく、この物語を貫く主旋律を奏でているように感じました。

 

 ずっとしがみついていたいほど愛しているものがあるのは、幸せなことなのか?

不幸なことなのか?

 

 きっと、どっちも、ですねぇ。

 


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この世界の片隅に居所を見つけられる未来のために

  今日は成人の日でした。

 ニュースで流れる成人式は「目立ちた~い!」という20歳の子供たちが大勢紹介されていました。

 

 彼らのような目立ちたい意識は、ぼくたちの時代からあったもので、今に始まったことではありません。

 アメリカがピカピカ輝いていた時代に生まれ育った戦後世代は「アメリカでは目立たないやつ、自分の意見を主張しないやつは、この世に存在しないもいっしょだ」という話をよく聞かされました。

 

 「それはたいへんだ」と思って、僕も自分の個性なるものを追い求め、演劇などの表現活動を始めたのだと思います。

 そして、社会に出てみれば、同じような人たちがゴマンといました。

 

 昨日観た「この世界の片隅に」の主人公のすずさん(彼女は20歳前にお嫁に行って主婦になった)や、その姪っ子の晴美ちゃんは、ごく純粋に絵を描くのが好きで描いていました。そこに自己表現を、自己主張を・・なんて意識はまったくありません。

 

 たぶん、あの時代の人たちは、ごく一部の特殊な職業の人たちを除いて、自己表現を、自己主張を・・・なんてことはほとんど考えていなかったと思います。

 

 それはきっとそんなこと考えなくとも、家族や地域社会が自分の生を保証してくれて、安心して生活できていたからでしょう。

 

 でもそれは家や村や町のおきてに従わなくてはいけない、自由な言動を制限され、「ちがう」と思っても容易に抗えない・・・といったことと引き換えの安心です。

 社会・集団を維持するため、そうしたそれぞれの「個」を認めない因習に自己を引き裂かれる人も少なくなかっただろうと思います。

 

 それが嫌で、戦後、僕たちは大家族から核家族へ、核家族から個家族へと生活形態・社会形態をシフトさせてきました。

 ところがそれと引き換えに、絶えず孤独と未来への不安を抱えながら生きなくてはならなくなってしまった。

 

 成人式でなんとか目立とうとしている子供たちを見ていると、迫ってくる「未来」に飲み込まれまい、押しつぶされまいと、必死に自分の「個」を守ろうと頑張っているように見えるのです。

 

 おそらく僕たちが目指す未来は、かつてのつながっている、支えられているという安心感のある生活と、現代の自由で個を主張できる生活、双方を「いいとこどり」した世界です。

 レトロな古民家を、雰囲気はそのままに、トイレやお風呂やキッチンや冷暖房は、現代の便利な機能を採り入れる――あの世界です。

 

 そうした世界を実現しようと進み、そして、おのおのがこの世界の真ん中でなくてもいい、片隅にでも自分の居場所を見つけていくのだと思います。

 もしかしたら、双方の「いいとこどり」と引き換えに、そこでまた何か大きなものを失ってしまうのかもしれないけれど。

 

 


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「この世界の片隅に」を観ると、世の中そうたやすく悪くはならないと思えてくる

 

 「老いては子に従え」

 というわけではないのですが、最近のネット情報、小説、映画などについては、わが息子を先生にしています。

 

 で、これも彼のおすすめ作品ということで見に行きました。

 戦争映画――正確には戦争時代の庶民の日常生活を描いた映画、それもアニメ。

 自分ひとりだったら、たぶん見ない――少なくとも、わざわざ映画館に足を運ぶことはないだろうカテゴリーのものですが、子供―若者に評判、ってどういう作品?

 ということでいきました。

 

 で、ウケている理由が分かった。

 なんと表現すればいいのか・・・かわいい映画。

 「かわいい」というのは、けっして軽んじて言っているのではなく、心のどこかでずっと抱いていたくなるというか・・・70年以上前のこの国で、こういう人たちがこういう生活をしていて、それが深いところでは今でもずっと続いているんだ。もちろん、僕たちもその気持ち・その感覚を持続しているんだ、と思えるのです。

 

 本当に見事な表現だな、と感心しました。

 力んでいない、大げさでない、淡々と粛々とストーリーが進んでいく。

 けれども、そこに劇的なものが秘められており、囁くように物語れる。

 

 そして、この作品がクラウドファンディングで支持されて制作されたという事実にも胸打たれました。

 本当に良い作品、力を持った作品は、いずれにしても世に生まれる運命にあるのです。

 

 世の中、まだまだ捨てたもんじゃなない。

 世界はそうたやすく悪いほうにはいかないぞ。という気持ちになりました。

 すすめてくれた息子には、えらいえらいと頭をなぜなぜしてうやりたい(やったら殴られそうだけど)。

 


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ナオトラちゃんGOGO!

 

 ここ3日、名古屋に帰省していたので、東名・浜松サービスエリアを通過。

 浜松は今年の大河ドラマのご当地ということで、「ナオトラちゃんコーナー」が設置され、お土産・グッズがラインナップされていました。

 

 「おんな城主」なんて、ほとんど宝塚歌劇みたいな設定ですね。

 浜松・静岡としてはこれまでタヌキおやじの徳川家康しかいなかったので、色気のある武将キャラが発掘・ドラマ化されて大喜びでしょう。

 

 最近はゲームなどでカッコいいイケメンキャラになることもあるみたいだけど、基本的に判官びいきの日本人にとって、最後まで勝ち残った家康は不人気だもんね。

 その点、「真田丸」の内野聖陽の家康は、悪くてセコくて面白かった!

 

 でまぁ、今年は「おんな城主・直虎」。

 浜松・静岡はナオトラちゃんイベントをいろいろ企画していると思いますが、お姫様モード・尼さんモード・武将モードなど、モード別・部門別に「ミス・ナオトラ・コンテスト」なんてイベントでもやったら、コスプレギャルが大挙して応募して盛り上がるのではないだろうか・・・などと考えています。

 

 どう展開するのか、ドラマも地域も楽しみです。

 

 

2017・1・6 Fri


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二階のお兄ちゃん

 

 うちはカミさんが女性と子供用の鍼灸院をやっているので、週に半分以上は小さな子供らが来ています。

 で、その子供たちの興味は階段の上に注がれます。

 

 「あの2階はどうなっているの? 誰かいるの?」と質問するものだから、カミさんが「おじさんとお兄ちゃんがいるんだよ」と答えると、彼ら・彼女らの興味は「おじさん=僕のこと」は完全にスルーして、「お兄ちゃん」の方に集中し、目をキラキラさせながら言うのです。

 

「ほんと? お兄ちゃんがいるんだ!」

 

 幼稚園や保育園、あるいは小1・2くらいまでの子供の想像する「お兄ちゃん」あるいは「お姉ちゃん」というのは、だいたい上限どれくらいの齢なのか?

 やっぱり小学校5~6年くらいまででしょうか。

 

 と、自分の子供の頃を振り返ってみると、やっぱりもう中高生くらいのお兄ちゃん・お姉ちゃんだと距離感を感じていました。

 当時は制服を着ている姿を見ることが多かったせいもあると思うけど、やっぱり子供の直観というのは素晴らしく、思春期になった人間には自分と違うフィールドに属する「におい」を感じてしまうのかもしれません。

 

 で、先週、夕方に来た、幼稚園年長の女の子はけっこう粘っていて(2階の部屋で仕事をしていると声が聞こえる),「今日はお兄ちゃんは? ねえ、いるの? ねえ、せんせい・・・」と食い下がっている。

 カミさんが「今日はお仕事に行っていてお留守だよ」(実際いなかった)とたしなめて、やっと帰っていきましたが、彼女の中ではどんなお兄ちゃんの姿が輝いていたのか?

 

 残念ながら、うちのお兄ちゃんはもう来年成人式なんだよね~。

 彼女にとっては、お兄ちゃんだか、おっさんだかわかんないくらいだろうね~。

 きっと見たらびっくりしちゃうでしょ。

 「子どもの夢を壊すから出てこないように」と息子に言っておきました。

 

 で、またその後、インターネットを見ていたら、昨年、「お兄ちゃん、ガチャ」というテレビドラマを放映していたことを発見。知らんかった~、不覚。

 どうも忙しい日々を送る小学生の女の子が、ガチャポンで理想のお兄ちゃんを次々にゲットするというお話らしい、ガチャポンなので、当然、当たりもあればハズレもあって・・・ということでドラマが展開するようです。

 

 「彼氏も結婚相手も所詮は他人だけど、お兄ちゃんは永遠不変」というのが、このドラマのキャッチフレーズ。

 

 女性の方々、そうなのですか?

 実際にお兄ちゃんのいる方々、どうなのでしょう?

 

 どうもきっとここでいうおにいちゃん・おねんちゃんは、リアルな兄・姉とはまた別物のファンタジーの世界なのだろうな。なんと豊饒な日本語のイメージ。うーん、すごく興味を持ちました。おにいちゃん・おねえちゃんの世界、探究したい。

 

 

 

2016・12・12 Mon


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ドラマシンポジウム企画:伝統家族の崩壊と未来

 先日もご紹介したドラマシンポジウムの企画の仕事でもう一つ、「ドラマで表現される20~21世紀のアジア社会」というのを書きました。

 

 ここ15年ほど、つまり21世紀になってからアジア諸国の経済発展は著しく、社会が大変動しています。

 それはあたかも70年前の戦後日本をほうふつとさせる有様で、そこには当然、戦前・戦中・戦後といった世代間ギャップが生まれます。

 

 たとえばベトナムなどは、ベトナム戦争を体験した親世代とその後に生まれた子世代では、ずいぶんと生活スタイルやものの考え方・感じ方が違っているようです。

 20世紀育ちと21世紀育ち、アナログ・マスコミ世代とデジタル・ネット世代、といった切り分け方もできるでしょう。

 

 こうした世代間ギャップは、どの国でも家庭や職場での人間関係や人生観に大きな影響を及ぼしています。

 各国のテレビドラマにはそうした現実が色濃く反映されているのではないか、そしてそれはどのように表現されているのか・・・ということをシンポジウムのテーマにすると面白いのでは・・・という内容でした。

 

 これは実際、とても気になるところで、現在も着々と進行している都市化・近代化・経済発展は、日本がそうであったように、あっという間に伝統社会の秩序を崩してしまうでしょう。

 

 日本の場合、20世紀前半までの伝統的な大家族から戦後=20世紀後半の核家族へ、21世紀になると核家族からさらに個別化した家族へと、家族像が大きく変わり、今や半世紀前まであった生活習慣・冠婚葬祭のしきたりなどは、ほとんど「文化財」の部類へ。

 意識して大切に守らなくてはいけない、絶滅危惧種になりました。

 

 タイ、ベトナム、フィリピン、インドネシアなどの場合はどうなのでしょうか?

 これらの国の情報は断片的にしか伝わらないので、その国の特徴ということで、どうしても伝統文化=異文化の印象が強いのですが、実際はすでに人々の日常生活は、かなり日本と共通する部分が多いのではないでしょうか。

 

 

 やはり大きいのはインターネットでしょう。

 外国の情報もリアルタイムで共有できるので、特にカルチャーの世界では世界中の人に共通認識・共有コンテンツが生まれます。(最近ボーダーレスで大流行した「ピコ太郎」がいい例かも)

 

 これは世界にとっていいことなのか。世界を面白くすることなのか?

 

 この先さらに各国の経済状況、社会環境、文化レベルはどんどん均一化していくことは間違いないと思います・

 しかし、その均一化のうえで、それぞれの文化をどう発信受信するかが、未来の世界を楽しむコツなのかな、という気がします。

 伝統文化とそれをアレンジするセンス・技術が価値を持つ時代になるのでしょうか?

 

 

2016・10・28 FRI


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真田丸:起業家・フリーランス軍団の戦い

 

●真田丸の世界は現代のビジネス科会

 

「真田丸」がいよいよクライマックスに近づいてきました。

 三谷幸喜の脚本は、歴史ものでも限りなく現代社会のカリカチュアになっているので面白い。

 

 戦国武士たちの勇ましく美しい伝説をことごとくひっくり返し、勇将・猛将の類も、野心満々ではあるけれど、やることは騙し合い、ゴマスリ合い、裏切り合いという、ペテン師野郎どもばかり。

 

 そもそも堺雅人演じるヒーロー・真田幸村。

 「戦国一の強者」という伝説に彩られた人物なのに、このドラマではずっと親父の陰に隠れていて、どうも目立たないなぁと思っていたら、ここにきて親父の実績を自分の実績だとすり替えて、とんだハッタリ野郎として一躍ヒーローに浮上。

 

 そして徳川VS豊臣の最終決戦は、現在のビジネスの世界になぞらているようです。

 戦後の成り上がり大企業・徳川につく武士たちは、忠誠心などないのだけれど、このままうまいこと食い扶持をキープするためには、いやいやでも徳川CEOに媚びていたほうが得策と考える大企業サラリーマン軍団。

 

 かたや、真田幸村はじめ、豊臣につく武士たちは、豊臣ブランドを利用して、食い扶持を分捕って成り上がりたい中小企業・起業家・フリーランス軍団って感じでしょうか。

 

 われらが真田幸村も大ぼら吹いて、みんなの期待の星になったけど、どう実践を追いつかせるのか?  どうやってただのハッタリ野郎から、みんなが納得するカリスマにのし上がるのか?

 

 ビジネスしている人たちは、そんな視点でこのドラマを観ると楽しめると思います。

 起業家・フリーランスの人たちは幸村たちに自分をなぞらえてみてね。

 

●最後はどうする?

 

 さすがに三谷さんでも歴史をねつ造するわけにはいかないので、結末として豊臣=真田は負け組になるのはわかっています。

 だけど、その負け方・エンディングにどんな意味をつけるかが問題です。

 

 12年前の三谷脚本「新選組!」のラストは、首を斬られる近藤勇の主観で、太陽をバックに振り下ろされる白刃が画面を横切りホワイトアウト。

 よけいな余韻を残さない、大河ドラマとしては斬新な終わり方で、なかなかかっこよかったけど、1年間、近藤と新選組の活躍を観てきた視聴者にとっては、ちょっと寂しい幕切れだったと思います。

 

 三谷さんもそのへん意識していそうなので、前回と同じく負け組の真田の最期をどう描くのか?

 しかも「新選組!」の時はお茶の間では無名だった堺さんが、今回晴れて主役を張っているわけだしね。

 いずれにしても楽しみにしています。

 

 

2016・10・27 THU


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ドラマシンポジウム企画

 

 「おしん」「Gメン75」「赤い疑惑」「東京ラブストーリー」「ロングバケーション」・・・

 一世代前、メイドインジャパンのテレビドラマはアジア各国で大人気を誇り、社会現象にまでなることも珍しくありませんでした。

 しかし、2000年あたりを境にその勢いはどんどん衰えてきたようです。

 

 以前は「文化交流」という美名のもとに各国間でコンテンツのやりとりがされることが多かったのですが、この10~15年で状況は大きく変わりました。

 

 グローバル化が進み、インターネットで手軽にコンテンツを楽しめ、各国間の生活水準・文化水準の差が次第に小さくなってきた現在は、しっかりとビジネスマインドを持ち、市場におけるその作品の価値を見定めた上で売り買いする時代になっているのだと思います。

 

 今後はそうした海外市場での販売も視野に入れてドラマ制作を行う必要性があるのかも知れません。

 その際のドラマづくり・プロモーションのアイデア・ノウハウについて、どう考えるか。

 というのが、ざっくり企画提案の内容。

 

 補足すると、日本のドラマは当然、日本の視聴者に向けて、日本の文化・生活習慣をベースに作品を作っているので、内容を海外市場に合わせて作ることは難しいでしょう。

 そして、昔のようにアジアの人たちが日本に憧れ、日本のドラマをキラキラ目で観たがる、という状況はこの先、もう訪れない。

 それを売り方の工夫・ネットの活用などでどれだけカバーできるか?

 しかし、もしかしてこれまで同様ドラマというパッケージで売ろう、という考え方がもうすでに違っているのかも・・・。

 

 難しいけど、面白い時代になってきたと思います。

 

 

 

2016・10・25 TUE


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マッシモ・タヴィオ、月9で商売大繁盛

 

「マッシモ、月9デビュー」と店の前に堂々とポスターが。

 ご近所のマッシモさんでロケがあってから1ヵ月余り。

 今週17日から始まったフジTVの月9ドラマ「カインとアベル」の第1回でお店が登場しました。

 

 登場人物がめしを食いに来る1シーンくらいの出番かと思っていたら大間違い。

 不動産会社が新しい商業施設の入札コンペに勝つため、人気店舗の支店誘致に挑む、その社員(社長の息子でもある)HeySayJUMP!の山田涼介クンが説得のために足しげく通う、おまけにピッツァも食べる・・・という流れで、この回のメインストーリーにグイッと食い込んでいて、出番もてんこ盛りでした。

 しかもドラマでありながら、店名は実名。「マッシモ・タヴィオ」と連呼され、十分視聴者に伝わったと思います。

 

 ドラマ内のオーナーシェフは、ピッツァに対して愛情のかけらも感じられない、「こんな奴においしいピッツアが作れるの?」とツッコミを入れたくなるような嫌なやつだった。

 そのくせ、最後には山田クンの情熱にほだされ、彼の誘致の要請に応じ、山田クンの会社はコンペに勝つという予定調和の結末。どうも気に食わなかったなぁ。

 

 本物の大将のマッシモさんは、行列をさばく整理係のおっさん役でチラリと映った程度。ちょっとがっかりです。まぁ、ドラマだからしゃーないけど。

 

 いずれにしても、ずいぶん名前を売ったマッシモさん。

 今時は名前さえ憶えてもらえば、どこにあるとか、どんな店とか、よけいなことは言わなくても、勝手にみんながパパッと検索してホームページを見て、ご来店してくれます。

 ホームページちゃんと作っておかないとね。

 

 というわけで、月9効果・山田クン効果でお店はますます繁盛。これぞマーケティングの王道というべきでしょうか。

 でもまぁ、もともと繁盛店だし、品質がいいからこういう流れが引き寄せられるわけですが。

 

 商売上手と言いたいところだけど、当のマッシモさんは儲けようというより、こうした状況を余裕で楽しんでいるように見受けられます。

 いずれにせよ、おいしくてお店の雰囲気が良ければ、言うことなし。

 

 

 

2016・10・22 SAT


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ヒトラーの人間力

 

●負の部分への興味

 

  「ヒトラーが好きだ」とiいうわけではない。けれども「興味がある。それもかなり。

 これは僕だけでなくて割と多くの人がそう考えているのではないかと思うのです。その証拠にここ数年、ヒトラーに関する出版や映画がたくさん作られている。

 読む人・観る人がいなければ、こんな現象はあり得ません。

 

 僕の印象から言うと、こうしたリリースは21世紀になって以降、倍増という感じ。

 20世紀の間はヒトラーやナチスについてあれこれ語るのには重しがついており、少しでもホメたり共感しようものなら、その人間も罪人扱い(今でも多少あると思う)されましたが、世紀が変わって、その枷が外れたようです。

 

 最強警察国家アメリカの威光が衰えたせいもあるでしょうし、いろいろ研究が進んで、より多角的に、より深く、ヒトラーやナチスについて考えられるようになったせいもあるでしょう。

 僕は、人間や人間の組織の「負の部分」に目を向けたがるのは自然なことだと思います。

 

●帰ってきたヒトラー

 

 「帰ってきたヒトラー」は息子が面白いと言っていたドイツ映画。彼は原作本も読んだようです。

 公開されたのは6月で、僕は見逃していたのですが、先日、近所の2番館(下高井戸シネマ)でやっていたので観てきました。

 

  ヒトラーが現代にタイムスリップ。お笑い芸人としてテレビ界でスターになり、人々に受け入れられていく、という、あらすじだけ見ると荒唐無稽なコメディなのですが、そこには現代社会への痛烈な風刺・批判が込められており、すごく考えさせられます。

 以下、ネタバレ。

 

●本物だからウケる、でも誰も本物だと信じない

 

 ヒトラーがお笑い芸人になるのは、何も本人が積極的にそうするわけでなく、彼の言行を現代社会の枠に当てはめるとそうなってしまうということ。

 ドイツ国内でいかにヒトラーというキャラクターが公に露出しているかということが分かります。だからこの物語の中では、誰も彼が「本物」だと信じない。彼をヒトラーの演技が最高に上手い芸人とみなしてしまうわけです。

 当然、マスコミを通じて大人気になる。

 

 現代はインターネットがあるからそう簡単に情報操作はされないだろう、と思ったら大間違いで、結局ネット情報は「火に油」を注ぐことになっていく。

 

 物語の中で唯一、彼を本物だと見抜くのはユダヤ人の老婆ただひとり。

 彼女には直感で、こいつが芸人や俳優や詐欺・ペテンなどではなく、家族や仲間を殺戮した張本人だとわかるのです。

 描く側もさすがにこの大罪だけは見逃すわけにはいかない、ということでしょう。

 

 考えてみれば、ドイツ国内でも今や社会全体の8割方の人は第2次世界大戦を体験しておらず、伝説・物語・情報の中でしか、ヒトラーやナチスのことを知らない。

 日本など国外ならなおさらです。

 だから、興味があるとか、人気があるどころか、英雄視する輩が出てきてネオナチなどと名乗ってもおかしくない。

 

●なぜヒトラーは支持されたのか?

 

 以前から僕は、そして多分、多くの人は、あの1930年代、どうしてヒトラーはあそこまでドイツ国民に支持され、国を動かし得たのだろう?と考えてきました。

 よく言われるのは「演説がうまかった」「宣伝がうまかった」ということですが、それだけでは納得できる説明にならない。

 もちろん、当時の時代状況、政治状況があって、ヒトラーとナチスの政策がそれに対応し、人々の生活を救った。ニーズに応えた・・・ということはあるでしょう。

 しかし、それも全体の要素の半分に過ぎないと思います。

 ではあとの半分は何なのか?

 

 この映画ではエンディング近くにその一つの答えになるようなセリフが、ヒトラー自身の口から放たれます。

 正確ではないけど、だいたいこんな意味です。

 

 「私が人々を扇動したのではない。人々が私の中に自分を見つけたのだ。だから人々は私に従った・・・」

 

●自分の中にヒトラーがいる

 

 この映画のヒトラーは、すごく人間的です。

 けっして極悪非道な悪人とか、冷酷非情なマシーンのようには描かれません。

 時おり爆発するエキセントリックさも、狂人的というよりは人間の持つ弱さの表れ、と取れる。

 今風にいえば、そうした弱さ・ダメダメさ・滑稽さも共感を呼び起こす要素で、それらも含めて「人間力」のある人として描かれるのです。

 

 僕の中にもヒトラーがいる。

 大勢の人に影響を及ぼし、気に入らないもの、自分を傷つけ、自分を貶めるものを差別し、可能なら抹殺したいという願望が心のどこかに潜んでいる。

 

 これはこのヒトラー役の俳優さん(および監督の演出)の力だと思いますが、その目には何とも言えない優しさ、人間であることの哀しさ・切なさを湛えていて、それがひどく印象に残りました。

 

 いずれにしてもドイツの人々、それに日本も含め、世界の人々は、現代社会に生きる限り、ヒトラーやナチスの幻影から逃れられない。

 この70年以上前の事象を抱え、折に触れて考えながら生きていかなくてはならないのだと思います。

 

 

2016・10・19 WED


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「ねほりん ぱほりん」と人形劇の文化

 

●なんとレギュラー化!

 

 NHK-Eテレの「ねほりん ぱほりん」という番組が面白い。

 以前、単発で何度か見たことがあるのだけど、この秋からレギュラー化されたようです。山里亮太とYOUが声を演じるモグラのキャラクターが、ブタキャラクターの顔出しNGゲストに根ほり・葉ほりのインタビューをして本音を聞き出して行くという趣向。

 

 ゲストは芸能人とか有名人とかではなく、一般のワケありの人たち。国会議員の裏方とか、薬物中毒患者とか。

 

 昨日出てきたブタさんは「偽装キラキラ女子」なる人で、リアル世界では関西の片田舎のサエないOLなのに、ネット上では東京港区界隈のリッチでセレブなOLを偽装しているという20代だか30代だかの女性です。

 

●キラキラ女子の真実を追究

 

 ホテルのラウンジでリッチなランチだかディナーだかデザートを食べたとか、電〇マンの彼氏がベンツでお迎えに来ただとかの話を、いかにも本当らしく写真入りでSNSで伝えていて、フォロワーがいっぱいついている。

 が、これらの記事がみんな大嘘で、写真はネット上にあるのをあちこちからパクってきて、バレないように加工してのっけているというのです。

 記事のコンセプトの立て方から、そうした加工技術、せっせと作業するマメさまで、その努力と工夫たるや、僕も見習わなければいけないと思うくらいすごい。それこそ涙ものです。

 

 一方でもちろん、そのエネルギーをどこか他のところに使えんのか、と思うわけだけど、彼女は半ばリアルサイドの人生は諦めているところがあって、今のところはネット上で注目されることで精神の安定を得ていると言います。

 

 う~む。そういう人たちがいっぱいいるんだろうな。まだ若いけど、いったいいつまでそれで持つのかな、と心配になって来てしまうのですが・・・。

 

●生き残った人形劇文化

 

 つまりこの番組、NHK-Eテレらしく、社会派番組なわけです。

 ニュースの特集コーナーでもこういう顔出しNGのインタビューはやってるけど、ぼかしをかけたりして、なんか陰険なムードになりがち。そこをキャラ=人形劇で可愛くやっちゃおうというのが、この番組の面白いところ。

 

 もともと演劇は情報伝達手段が乏しかった時代、現実に起きたニュースを人々に伝えるために発展したものです。

 そして人形劇は、生身の役者が演じると生々しくて却って伝わらない――人間の脳はあまりにも自分と距離が近すぎると拒否反応を起こしたり、そこにある本質を理解しようとしない――のを、人形というツールを使って、よりわかりやすく、より効果的に伝えようと編み出されたもの。

 だから見る側もそこで表現されていることを理解しやすいし、社会風刺に適しているわけです。子供だけが見るものじゃなんですね。

 

 こういう番組が作れるのは、やっぱり人形劇を長くやってきたE―テレ(教育テレビ)ならではだと思います。人形劇の類は制作コストの問題で、他のチャンネルではもうずいぶん前から作らなくなりました。

 

 公共放送の強みで、Eーテレは制作を続け、コツコツとこの文化を守ってきました。こういうものは一度やめると、二度と作れなくなる。人形操作をはじめ、できる人をゼロから育て上げるのは不可能に近い。要は伝統芸能の継承問題です。

 もう10年以上前、E-テレ関係の仕事をやったと時、担当者の人が「いつ切られてもおかしくない」と漏らしていましたが、それがこういう形で生かされるのは、とてもうれしい。

 番組も面白いけど、日本の人形劇そのものも応援したい。

 

 

 

2016・10・17 MON


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命あるものは樹から落ちた

 

命あるものは樹から落ちた 命あるものは樹から落ちた

人だけは落ちてしまえないので 繰り返し また 繰り返し

眠ったり起きたりしている

 

(岡本おさみ:作詞、岩沢弓矢:作・編曲)

 

これだけの歌詞をひたすら繰り返す2分30秒の歌。

歌詞も曲も、なんとも言えない不思議でのびやかな雰囲気に満ちていました。

アナログレコードは持っていますが、プレイヤーがないので長らく耳にしていなかった

(探したけどCDは出ていなかった)のですが、

最近、You Tubeにアップされていたので愛聴しています。

 

ヴォーカルは東京キッドブラザーズの女優だった坪田直子。

「ピーターソンの鳥」という、60~70年代のレクイエムみたいな映画のサントラです。

 

頭の中の空気を入れ替えて、深呼吸する時に聴きたい曲です。

 

2016・9・19


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永福町の名店マッシモ・タヴィオ、10月スタートの連ドラに登場!

 

今週月曜日、うちのポストになんか紙ぺらが入っていました。

またなんか「工事します。ご迷惑かけてごめんちゃい」ってやつかな?と思ったら、

テレビドラマ撮影のごあいさつでありました。

 

ロケ場所はわが町・永福町の大人気イタリア食堂、マッシモ・タヴィオ。

うちから徒歩1分弱です。

水曜日は資源ゴミ回収の日なので、朝8時前、段ボールとペットボトルの袋を抱えて表に出たら、駅の方からわさわさ人がやってくる。

立ち止まって見ていると並ぶわ並ぶわ。もちろんエキストラのお客さん役の皆さんです。

 

というわけで、夜明けから日がとっぷり暮れたディナータイムの頃まで、昨日(14日)1日、マッシモさんのお店は撮影スタッフのきびきびした声が行きかい、いつもと違う活気がありました

 

気になるのは何のドラマかということだけど、今朝、お店のスタッフの人に聞いたら、10月スタートのフジの月9で、Hey!Say!JUMPの山田涼介くんが主演――ということが判明。(今、けっこう人気があるんだとか)

さらにネットで調べたらタイトルは「カインとアベル」で、旧約聖書のアダムとイブの息子である兄弟をモチーフにしたラブストーリーということ。

 

共演者とか、それ以上のことはよくわからんけど、昨日撮影したシーンは第1回で放映されるよか。で、オーナーシェフのマッシモさんも出演するらしい。

ピッツアを焼くだけでも絵になるイタリア男だけど、せっかくだから、ついでにカンツォーネを歌って聞かせるとか、山田涼介くんに恋の指南をするとか、それくらいの芝居をしてほしいのですが・・・どうだったのか?

会ったらちょっと聞いてみよう。

 

第1回は10月10日でしょうか。

永福町の皆さんも、イタリアのも皆さんも、

マッシモのピッツアが大好きな皆さんも、まだ食べたことのない皆さんも、

そしてこのブログをお読みの皆さんも、ぜひともフジの月9ドラマ(第1回だけでいいけど)を見よう!

 

 

 

 

2016・9・15 THU


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今、そこにゴジラが立っている

 

●息子の解説

 

 息子がチビの頃はよくゴジラ映画に連れて行き、自分もいっしょに楽しんでいましたが、この10年くらいはさっぱり興味がなくなり、観る気がおきませんでした。

 庵野監督が撮る、と聞いても「へ~、エヴァンゲリオンの完結編はどうなっちゃってるの?」という感じ。モスラやキングギドラなど、ほかの怪獣などとバトルすることのない、いわばゴジラ単独作品は、1954年(もう62年も昔だ!)のオリジナル作品を超えるものは作れないだろうと思っていたからです。

 

 さて、大喜びでバトルものを観ていた息子が成人し、一人で「シン・ゴジラ」を見てきて感想を報告したのが7月末。

 「中身を話せ」と話させたら、えんえん1時間ほど解説。それを聞いたらすごく見たくなりました。

 最近、新しい映画だの小説だのは息子に紹介してもらって観ています。

 親バカ丸だけど、彼の鑑賞眼はなかなかのものであります。

 

●シン・ゴジラ鑑賞

 

 で、それから1ヵ月。遅ればせながらやっと観てきました。

 日曜日の渋谷ということも関係しているのか、子供連れからオヤジ層まで観客の年代は幅広い。ただし、子供と言ってもあんまりオチビはいません。怖そうだしね。

 さらに意外だったのは女性客が多いこと。カップルもいるが、女子同士のチームも結構いる。シニアな女子会の人たちまで来ている。怪獣映画を女子がこんなに見に来ているとはちょっとサプライズ。

 てなわけで鑑賞記ですが、これは完全ネタバレ記事です。僕のようにネタを聞いてから観るという人でなければ読まないでください。

 

●超オリジナルな庵野ゴジラ

 

 最初に言ってしまうと、これはオリジナルを超えている――ということはゴジラ映画の最高傑作。

 いや、制作の時代背景が全く違うので、単純に比較なんかできません。

 けれど、戦争も、戦後の荒廃と復興も知らない、そして原爆投下にいまいちリアリティを感じることができない、1960年代以降生まれの僕らの世代――もとい、同年代でもちゃんと感じとっている人もいると思うので、僕とします。

 

 僕にとってはオリジナルバージョンよりも身体の芯に響いてきました。そこにはやはりあの5年前の原発事故を目の当たり(テレビやネットを通じてだけど)にしてしまった体験が効いているのでしょう。

 

 なにせゴジラが放射能光線を吐くシーンで、これほどビビったことはありませんでした。建物が倒壊し、街が炎上し、人が殺戮される――それまでの秩序あるものが一発で崩壊する恐怖。

 

 最近はアクション映画やスペクタクル映画が山ほど作られているし、テレビでもゲームでも、こうした爆発・炎上・壊滅シーンは見慣れています。いわばエンタメコンテンツにおいては日常茶飯事のようなもの。

 けれどもこれだけ怖いのは、虚構の世界の出来事と割り切って考えられない何かが、僕ら、観客の内側にあるからだと思います。

 

●虚構を成立させるためのリアリティ

 

 庵野監督自身も語っているように、ゴジラという壮大な虚構を成り立たせるためには、その周りは限りなく現実に近いものでなくてはなりません。

 つまり、ウソはゴジラだけ。それに対する人間の反応・行動はすべて本物。

 なので、こうした事態に対する政治システムの対応にしても、自衛隊の作戦・活動にしても、徹底的にディテールまでこだわって作り込んでいます。

 まさしく魂は細部に宿る。

 

 もちろん、東宝・ゴジラ・庵野秀明といったビッグネームがあって可能になることなのでしょうが、演出スタッフの取材力、その前提となる脚本のち密さ(実際に読んだわけじゃないけど、相当細かく書き込まれていると思う)には舌を巻きます。

 

 実際、台本は通常の2時間もの映画の倍の厚さがあったとか。

 セリフの量は膨大で、それを無数の俳優たちが聞き取れないほどのスピードで喋りまくる。

 全体の3分の2くらいのカットには、これまた読み切れないスピードで、役職名付き人名や乗り物や武器などの名前、作戦名などがダブりまくる。

 現実世界と同じく、高密度の情報の洪水が、ゴジラ襲来という異常事態を煽り立てるのです。

 

 これまでのこういうスぺクタクル映画にありがちな、気休めの恋愛・家族愛・友情、あるいは息抜き用のちょっとしたお笑いなどの甘っちょろいシーンは一切なし。

 息つく間もなくドラマはひたすらゴジラと人間の戦いに集中されます。 けれどもそんなハードな展開から、そのバックグランドにあるのであろう人間ドラマがにじみ出てくるのです。

 

●変態し、進化する

 

 そして何と言ってもゴジラのキャラクター造形がすごい。

 最初に出てくるのは手足がなく、ズルズルと地を這う、まるで陸に上がった古代の肺魚のような「幼体ゴジラ」。

 心なしか、エヴァンゲリオンの使徒の中にこなのいたんじゃなかったけか?と思わせます。なんと、このゴジラはモスラのように変態し進化するのです。こんなの初めて。

 

 魚のような真ん丸な目が印象的な幼体ゴジラは、生物としての意志も感情も何も感じさせません。ただ自分が生きるため、存在するために人間の作った街を破壊している感じ。

 そして途中で立ち上がり、二足歩行する第3形態に変態して、いったん海へ引き上げます。

 みんな、ほっと一安心と思ったら、今度は倍の大きさの最終形態となって再び東京へ上陸。 まるで大都市・東京から人間のエネルギーを吸い取って進化したようです。

 

●完全生物?地球の化身?

 

 庵野監督は、ゴジラを「完全生物」と設定しています。

 つまり、人類も含めた、太古から現代までの地球上のすべての生物の要素が結集した生命体が、核廃棄物を食べて実体化したのがゴジラというわけ。

 

 最終形態になっても、やっぱり何の意志も感情も感じさせず、ただ破壊するだけ。けれども、けっしてマシンのようではない。

 その奥底に「超意志」とでも言えばいいのか、通常の人間や動物の意志・感情を超えた、何か巨大なビジョンを秘めているかのように進んでいくのです。

 

 1954年の、モノクロ画面の中の禍々しい原爆怪獣よりも、さらにいっそう禍々しく、そして神々しくさえ見えるゴジラ。

 「ゴジラ」という名が「荒ぶる神」という意味付けがされるようになったのじは、いつごろからだか分かりませんが、この映画のゴジラはモンスターなどではなく、まさしく神と呼ぶのがふさわしい。でなければ「地球」の化身と呼んでもいかもしれません。

 

●日本ならではのイメージ

 

 こうした発想は、八百万の神という概念を持つ日本人ならではのものではないかと思います。

 神は妖怪になり得るし、妖怪は神になり得る。ゴジラ誕生の物語を考えれば、「核」もまた人類に巨大な力と、巨大な災厄をもたらす八百万の神の一つと言えるのでしょう。

 そして、図らずもその災厄を体験してしまったことが、日本を「ゴジラのいる国」にしてしまったのです。

 

●ゴジラと共存する未来

 

 ネタバレついでにラストもバラすと、対策チームは、ゴジラの身体組織を解析し、血液を凍結させる薬剤を開発。それを口から体内に投入してゴジラを「凍結」させます。

 これまでの映画のように、海の底へ、あるいは宇宙のかなたに姿を消したりはしません。凍結したゴジラはまるで巨大なモニュメントのように東京のど真ん中に屹立します。

 そこで主人公がそのモニュメントのようなゴジラを背景に一言セリフをこぼします。 

 「われわれはゴジラと共存して生きていかねばならない」――

 

 ゴジラとの共存。災厄との共存。核との共存。あらゆる生物との共存。地球との共存。神との共存。なんだか矛盾している・・・矛盾との共存。

 それが人類の未来であり、逃げられない世界なのでしょう。

 目に見えないけれど、今そこに凍結したゴジラは存在しているのだ。そう思いました。

 

 

 

2016・8・30 TUE


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エンディング時代の遺産相続を考える

 

●遺産ものドラマ

 

 かつての少年少女小説に「遺産もの」というジャンルがありました。

 不幸な生い立ち(多くの場合、孤児とか、親戚などに引き取られていじめられて暮らしている)にもめげず、清く明るい心を持ち、勇気ある善行で、汚れた心のおとなたちをギャフン!と言わせたり、涙を流させ、悔い改めたりします。

 そして、そうした清さや勇気や正義の数々が評価され、どこかのお金持ちから莫大な遺産を贈られて、めでたくエンディング・・・というパターンの一種のサクセスストーリーです。

 このお金持ちは地上に降臨した神様のような人で、正体を隠しているけれども、少年少女の善行を、いつでもどこでもちゃんと見ているのです。

 1つや2つは読んだこと、あるいは映画かテレビドラマで見たことあるでしょ?

 

 「遺産もの」というジャンルがある、というのは、ぼくのでっち上げですが、そういった話が19世紀の英米文学から、日本なら昭和初期から、ぼくが子供だった1960年代くらいまでよくありました。

 

 けど、そういうお話を読んだり見たりしていた少年少女が大人になり、お年を召して死期が近づくと・・・というのが今回のテーマ。またもやマクラが長くなってすみません。

 

●エンディング産業展2016

 

 ただいま、レギュラーワークの月刊仏事(鎌倉新書)の仕事で、22日(月)から24日(水)までやっている「エンディング産業展」の取材をしています。

 

 最近は団塊の世代を中心に、終活、エンディングという言葉がポピュラーになってきました。いわば「どう自分の人生を締めくくればいいのか?」を、多くの人が真剣に考えるようになってきたのです。

 

 というわけで、ちょっと前まではそれぞれ勝手に商売をやっていた葬儀屋さん、お墓屋さん(墓石屋さん)、仏壇屋さんなどが「エンディング産業」――人の死にまつわるビジネスの名のもとに一堂に会する大規模な展示会が、去年から東京ビッグサイトで開かれるようになったのです。

 

 超高齢化社会でこれから人がどしどし死ぬ。

 だからエンディング産業もこれから数十年、膨らみ続けます。

 とは言っても、ただ時代の流れに持っていれば儲かるわけではありません。

 「葬式なんかいらない」という人も増えていて、そのまま火葬場へGO!というパターンも最近は珍しくありません。

 そうした状況を踏まえて、それぞれ工夫を凝らしたり、先述の3つのおもなカテゴリーの他にもニッチなビジネスがいろいろ生まれたりしています。

 

 そのあたりのことはまたおいおい書きますが、急速にニーズが高まっているものに、行政書士やら税理士やら不動産鑑定士といった士業関係の仕事があります。

 要は遺産相続の件をどう処理すればいいのか――愛する人、大事な人が死んでも、おちおち悲しんでなどいられないのが現実なのです。

 

●士業⇔葬儀屋さんのセミナー

 

 そんなわけで、初日だった昨日(22日)はその士業の人たちのセミナーの取材をしました。受講者は主に葬儀屋さん。ただ葬儀を請け負うだけじゃなく、そうした遺産相続の窓口にもなり得る葬儀屋さんになろう!というわけです。

 たしかに葬儀屋さんと士業の人たちがチームを組むというのはいいかもしれません。

 その先の内容は、まだこれから記事を書くところなので、ここでは明かしませんが、このセミナーの最後に出てきた、実際に行政書士の人が遭遇したトラブルの話には愕然。

 

●遺産をめぐるトラブル

 

 奥さんが亡くなったのだけど、なんと夫が知らなかった○百万円(後半です)の借金が。それも夫名義で借りられていた!という負債の話とか、

 凶暴な息子――詳しくはわからないけど、家庭内暴力を振るう子供が、そのまま大人になったらしい――に「遺産は残さない」と遺書を書いて父が亡くなったけど、その息子が怖くて遺書を鑑定に出さなかった(鑑定で認められなければ遺書は無効になる)話とか・・・。

 

 ちなみに友達の介護士さんにこの話をして、「お金持ちのお客さんが、『家族ではなく、あのやさしくて清らかな介護士さんに私の遺産を贈る』と遺書に書いたらどう?」と持ち掛けてみました。

 「アハハ、そんな~」と彼女は笑っていましたが、あり得ない話ではありません。

 

●もしも遺産が転がり込んだら?

 

 あなたが介護士ならどうでしょう?

 あなたが清く明るい心と勇気ある善行で、汚れた心の人々を悔い改めさせられる介護士さんなら・・・。

 かなりビミョーです。お金が入るのは喜ばしい。「あの人の気持ちなのだからいただかなければ」と殊勝な思いに駆られるかもしれない。生活費やら医療費やら教育費に困っている人ならなおさら。

 

 しかし、もらったが最後、あなたはそのお金持ちの遺族から買わなくても済んだ恨みを買ってしまう可能性もあります。

 「その介護士というのはどこのどいつだ?」と、誰もあったことのに甥だか姪だかが突如現れてつきまとってくるかも知れません。そのせいで人生を狂わせてしまうリスクもハンパありません。

 こういう話、小説やドラマならおいしいネタですが・・・。

 

●というわけでエンディング

 

 いずれにしても、トラブルの裏で蠢くその家族の人生ドラマに頭が行ってしまい、その後の取材がなかなか進みませんでした。

 家族との付き合い、お金との付き合いには生前から十分気を付けたほうがよさそうです。さもないと、最後にどんでん返しが待っている?

 

 いやぁ、最近、オバケや妖怪の話をよく書いてたけど、そんなものより生きている人間の方がよっぽど怖いなぁ。

 

 

 

 

2016・8・23 TUE


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ぼくはセイウチロウ

 

氷の世界の恐怖のセイウチ

 子供の頃、動物図鑑で初めてセイウチの写真(イラストだったかも知れない)を見た時は、そのモンスターのような姿・形に心の底から驚愕しました。

その時の僕のセイウチのイメージは、世界の果ての暗くて冷たい氷の世界で巨大な牙をむき出しにして世にも恐ろしい咆哮を轟かせる孤独な怪物。

こわかったなぁ。

 人生の中でもしこんな怪物に出会うことがなあったら、僕は一瞬のうちにカチンコチンに凍り付いて、冷凍食食品になってこいつに食べられてしまうだろうと思い、どうぞそんなことになりませんように、と、何度もお祈りを唱えました。

 

夢の世界でセイウチロウと邂逅

 という衝撃が消えたのはいつのことだろう?

いろいろ本を読んだりテレビを見たりするうちに、セイウチは割とおとなしくて温かい生き物。孤独ではなく、群れをつくってのんびり暮らしていることなどを知りました。

それどころか、近年は日本水族館にも住んでいて愛嬌を振りまいてくれています。

 

 そのセイウチ君に僕もお世話になっています。

 夏、お昼寝するときは涼しい水族館のイメージを抱いて横になり、水中を魚がうようよ泳いでいる中をうつらうつらしつつ彷徨っているのですが、15分ないし30分ほどすると、コツコツと頭を何かがつつく。

「おい、起きろよ、セイイチロウ」

と目を覚ますと目の前には強大なセイウチが。やつはその牙の先で僕の頭をつついいたのです。

 こいつはセイウチロウといってクールな夢のアラーム係として30分経ったから起こしにくるのです。それ以上寝ちゃうと夕方まで頭が働かなってしまうので。起きない時は歌を歌って起こします。

 もちろん、歌はビートルズの「I am the Walrus」。

 

●ビートルズフェスでセイウチ登場

 そういえば昨夜、録画しておいてずっと見ていなかったNHK-BSの「BEATLESフェス」なる3時間番組を見ました。

  ビートルズ来日50周年ということで、当時の逸話――ビートルズにはっぴを着せた日航のスチュワーデスさんの話やら、独占取材に成功した星加ルミコさんやら湯川レイコさんの話――昔、音楽雑誌でよく記事を読んでいましたが、音楽ジャーナリズムのリーダーだった彼女らはまだ20代の女の子だったんですね――やら、を中心に、年寄りから若者まで入り混じったスタジオトークや、ビートルズ番組お約束のリバプール―ロンドン紀行(森高千里がキャバーンクラブに行ってドラムを叩いてた)などがてんこ盛りのバラエティ。

 しかし、目玉は何といっても、新旧いろいろな日本のミュージシャンたちがやるビートルズナンバーのトリビュートライブでした。

 

 財津和夫「Yesterday」や平原綾香「Hey Jude」などは、ま、定番の、という感じ。仲井戸麗市(チャボ)の「The Long and Winding Road」はほとんど自分で歌詞を書き換えた替え歌で、清志郎へのレクイエムにしか聞こえない。歌い方もそっくりだ。やっぱ寂しいんだろうね。

 

 その中で一番面白かったのがラブ・サイケデリコの「I am the Walrus」。

 ぐにゃぐにゃしたサウンドとともに、「おまえはあいつ、あいつはおいら、おいらタマゴ男、おいらセイウチ」なんていう、ジョンのナンセンスでファンタジックでグロテスクな詩の世界がぐりぐり脳天にねじ込まれてきて、めっちゃカッコいい!  こんな新鮮なアレンジでこの曲を聞けるとは思ってもいなかった。まったく感動モノでした。

 

 オリジナルを聞いて育ったおっさん・おばさんたちは、どうしてもリスペクトが先に立ってしまってアレンジも表面的で徹底しない。けど、「むかし、ビートルズっていうバンドがいたらしいね」と言っているような若い連中は、遠慮なくぶっ壊して、さらにおいしく料理していけると思います。

 ジョンやジョージがあの世から「おいおい」と言って止めに来るくらい、ガンガンすごいアレンジをしてほしい。

 

セイウチロウよ永遠に

 おまえはあいつ、おまえはおれ、だからあいつはおれ、おまえはセイウチロウ、ぼくはセイイチロウ、おまえはセイイチロウ? ぼくはセイウチロウ?

 まだまだ暑い。北極の氷の上でごろごろ寝そべる夢を見て毎日過ごすことにいたします。またセイウチロウと会うのを楽しみにして。

 

 

 

 

2016・8・11 THU


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四国化け猫➡猫神さま伝説

 

 この夏は四国をお遍路しています。

 ただし、オン・マイ・マインドで。

 葬儀・供養の業界誌の仕事で、ネット~メール~電話で取材しては原稿書きの日々。

四国の葬儀の風習や、お遍路についていろいろ勉強しました。

 

 で感じたのが、やたら四国にはネコが多いな、ということ。

 そういえば香川県のある島でネコがいっぱいいるのをテレビで見たことがあります。それで有名になって、観光客が出向いて、かわいい、かわいいとエサをあげまくるのでさらにネコ天国となっているようですが・・・。

 

 一方、僕が出会うのは、お葬式・お墓関連ので話からなので、この世とあの世の境界線上でニャーニャー鳴いているネコばかり。

 

●四国の葬儀における猫の存在

 

 徳島や愛媛で、家で人が亡くなると枕元にホウキや刃物などを置く、という風習があります。(正確には「あった」という過去形。日本の昔ながらの葬儀・供養の風習のほとんどは全国どこでも、この20~30年の間に9割以上消滅している)

何のためにこんなことをするかというと、ネコがご遺体の上をまたがないようにするため。ニャアとまたぐと死人が生き返って歩き出すとか、逆にネコがバケネコ化するというのです。

 ということは、この辺りではネコを飼っていた家が多のか?

 いや、飼っていたというよりも、ネコだのタヌキだの、動物たちが「こにゃにゃにゃちは~」と、自由にあちこちの家を出入りしていたのではないか、と思います。

 昔の日本の田舎の家は戸締りもいい加減で、常にオープン状態だったし、ネズミ退治にも役立つからね。だけど、キミはやばいからお葬式の時は来ちゃだめよ、という感じでしょうか。

 

日本三大化け猫伝説「お松大権現」の猫

 

 そんなわけでネコ伝説がはびこる四国。

 徳島県阿南市には「日本三大化け猫伝説」の一つに数えられている「お松大権現」という神社があります。

 ここに由来するお話は、借金苦にまつわるもので現代人にとってもリアル。

 むかし、困っている村人たちを救うために金貸しから多額の借金をした庄屋さんが金貸しに裏切られ、借金を残して死んでしまう。

 その妻・お松は「借金はちゃんと返したのに」と異議申し立てをしたのですが、その土地の奉行(きっと金貸しとつるんでいたと思われます。これも現代に繋がる政治とカネの問題です)が「わしゃ、返してもらとらんぞ」と、それを認めず、お松と、彼女が可愛がっていたネコを死刑にしてしまうのです。

 なんでネコまで処刑されるのかわからないけど、「わしの命に背く者は一族郎党皆殺しじゃ」という論理だったのでしょうか? 

 ネコも一族郎党に加えられてしまったのですね。

 

 で、この手の怪談兼勧善懲悪・庶民の味方ストーリーのセオリーとして、もちろん、この後、このネコはウソつきの金貸しと、権力乱用の奉行のところに化けて出て、悪者どもを地獄に叩き落とすというオチ。

 めでたし、めでたしということで、この正義のバケネコはこの神社にまつられることになったのです。

 

●今や霊験あらかた、招き猫だらけの観光スポット

 

 こうした因縁話があるせいか、なんと、この神社、今では受験と勝負ごとにご利益があるとして大人気に。バケネコになったネコはリベンジを果たした結果、「猫神様」に昇華。勝負ごとにご利益と言うので、全国からギャンブラーが詣でているようです。

 そして猫神様は招き猫の姿になって降臨したので、境内は招き猫だらけになっているようです。いやー、すごい。でも、借金は勝負事――ギャンブルに頼らず、地道にコツコツ返したほうがいいと思うなぁ。

 

 というわけで、妖怪も神様になってしまう四国。

 そういえば「千と千尋の神隠し」で、妖怪だか神様だかわからない者たちが湯あみに来る湯婆の湯場も愛媛の道後温泉がモデルになっていました。

 四国の旅・オン・マイマインド、まだまだ続きそうです。

 

 

2016・8・6 sat


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いちご畑で抱きしめて

 

Strawberry Fields Forever

 

 いちご畑と言えばジョン・レノン。

 かの名曲「ストロベリーフィールズ・フォーエバー(いちご畑よ永遠に)」からの連想。

 Strawberry Fieldsっていうのは、もともとリバプールにあった救世軍の孤児院の名前で、僕も参拝したことがあるけど、門柱は世界中のビートルズファンの落書きでいっぱいでした。

 救世軍の孤児院というイメージもあいまって、もちろん曲も素晴らしいのだけど、それ以上にタイトルが秀逸。この名前を使ったお店やら商品やら本やら昔から結構あって、最近はウェブサイトにもたくさんいちご畑が広がっています。

 可愛いし、いろいろ想像力が広がる言葉だもんね。

 現代では割とありきたりなネーミングかも知れないけど、1960年代当時、楽曲にこういうタイトルをひねり出して付けたジョン・レノンのセンスはやっぱり一味違うと思います。

 

 僕もその一人で、ちょうど35年前の今頃、新宿のゴールデン街の一角にあった芝居小屋で「いちご畑で抱きしめて」という芝居をやりました。

 「いちご畑」と「抱きしめたい(I Want to Hold Your Hand)」を足したタイトルだけど、話の内容はジョンにもビートルズにも救世軍にもまったく関係なく、不思議の国のアリスと核戦争をモチーフにした支離滅裂な話で、なんであんな芝居を書いたのか、逆にいえば「書けた」のか、今考えると不思議なのですが、最近、頭の底から何かが浮かび上がってきて、同じタイトルでまったく違う話を書こうと考えています。

 

★稀代のペテン師

 

 そのモチーフはやっぱりジョンの生きざまです。

 僕のジョンに対する基本的なイメージは「ペテン師」。

 もちろん若くから音楽的才能を開花させ、声もルックスも魅力的だったことは認めるけど、それ以上に彼は天才的なペテン師だった。みんな、彼の醸し出す言葉やパフォーマンスに翻弄され、その結果として現在の世界のある部分(多くは現代人の精神構造に関わる部分)が形成された・・・というところに、すごく興味があるのです。

 

 リバプールの悪ガキから音楽家へ、世界最高峰のスーパースターへのぼりつめ、やがて世界平和を訴え、愛の使者になり、イエス・キリストみたいになったかと思ったら、いきなり家庭の世界に入り(今ではすっかりポピュラーになった「主夫」――ハウスハズバンドという言葉と概念は、ジョンが創ったか広めた、というのが僕の印象)、そしてミュージシャンに復帰したとたん、この世を去った彼の40年の人生は、いまだに、というか、今だからこそ僕たちに、文化・芸術、お金・ビジネス、社会・時代、家族・子供、愛、そして「生きるとは?」とういう哲学的考察に至るまで、いろいろなことを考えるヒントを与えてくれている気がします。

 

★人間ジョン・レノンの魅力

 

 こんなことを言うとジョンやビートルズファンの人は怒るかもしれないけど、その基本が胡散臭いサギ師・ペテン師のキャラクター。

 僕はそこにとても人間的なもの、それこそ人工知能が、アンドロイドがひっっくりかえっても叶わない人間ならではの魅力を感じるのです。

 

 そう考えるきっかけになったのが、ジョンの最初の妻であるシンシア・レノンが書いた「わたしが愛したジョン・レノン」という本でした。

 いわゆるビートルズ本の一つに数えられますが、これは家族論・幸福論・人生論としても読める優れた本です。

 たぶん長くなるので、この続きはまた後日。

 

 ちなみにリバプールのStrawberry Fieldsは、現在は修道施設となっているようです。いろいろなストーリーを詰め込んで祈祷と瞑想の施設に変ったことを思うと、なんだか胸にじんとくるものがあります。

 

 

 

 

2016・7・20 WED


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