「三銃士」はドキュメンタリーを含んでいるからモテる

 

 もう一つ、僕が挙げる「三銃士」がモテる理由は、この物語が「ドキュメンタリー」の要素を色濃く持っていることだ。

 

★三銃士は歴史小説

 

 ご存知の通り、アレクサンドル・デュマが描いたこの物語は、19世紀の新聞の連載小説だった。大革命を経たナポレオン時代に生まれ、かの皇帝の失脚、王政復古、7月革命を目の当たりに育ったデュマは、その時点からおよそ200年前のルイ13世の時代に目をつけてこの物語を書き上げる。

 

 主人公のダルタニアンも実在の人物がモデルになっている。「三銃士」(正確にはこの後も延々と続く大河ドラマ「ダルタニアン物語」の一部分)は、いわゆる歴史小説なのである。 

 

 もちろん、史実に基づく物語が優れており、まったくの架空の物語が劣っているということではない。

 ただ、現代に生きる僕たちはテレビやインターネットの影響で情報の送受信のスピードに慣れている。「帝国劇場、なう」と、ついツイッターで発信したくなってしまう感性を持っている。

 つまり今、目の前で起こっている事実・ニュースにより積極的に反応する体質になっており、無意識のうちにそこから何かの物語を見出し、組み立てられるようになってきたのだ。 

 

★人生も企業活動もテーマに基づいて展開する“物語”

 

 個人の人生も、組織や企業の活動なども、単に事実の連なりと捉えるのでなく、あるテーマに基づいて展開する“物語”だと考えると俄然面白くなる。つぎつぎと関連性のある事象とリンクしていき、世界が広がっていく。 

 

 「三銃士」の場合も、ダルタニアン(のモデルになった人)の人生と、17世紀のフランスの歴史は、放っておけばそのままだが、デュマが双方の情報を紡ぎ合わせることによって複層的なドラマに仕立てた。

  そしてそこには当時の風俗、人の生活、街の様子など、様々なものを取り込める。それらのすべてを巧みに構成し「事実をきっちり踏まえた、普遍的なエンターテインメント」にしたところが、この物語が近年、ますます人をひきつけてやまない理由になっているのだと思う。 

 

★デュマは黒人の血を持つクォーター

 

 ちなみに作者であるデュマの父親はフランス人と黒人奴隷の混血で、デュマ自身はクォーターということになる。この父親はナポレオンの軍の将軍を務めていたことがあり、この事実も興味深い。もしこの時代にシェイクスピアが生きていたとしたら、芝居に書きそうである。 

 

 話をデュマに戻すと、自分の中に黒人奴隷の血が流れていること、そして実際に様々な差別を受けたであろうことは、妖婦ミレディーやリシュリュー枢機卿のような陰影のある人物の造形に何がしかの作用を及ぼしたのかもしれない。 

 

 また、物語の基盤がしっかりしているので、映画化・舞台化などに当たって多種多様なアレンジが出来るところも強い。ダルタニアンの内面にスポットを当てたドラマにも出来るし、この秋に公開される映画のうように大胆な演出も可能だ。映像をド派手にして思い切りエンターテインメントにする分、脚本にも相当の配慮と工夫がされているはずである。その点もどうなっているのか、楽しみにして観たい。

 

 

2011・8・24 WED


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三銃士は「成長」に希少価値がある時代だからモテる

 

 「三銃士」はとてもわかりやすい成長物語である。

 主人公がそのストーリーを通して成長していく物語は数多くあるが、ここでは田舎から大都市パリに、いわゆる立身出世のために出てきたダルタニアンが、様々な壁にぶち当たりつつ、ぐんぐん成長していくドラマが描かれる。

 

 彼は彼なりに内向的になってあれこれ悩んだりもするのだが、それも明朗なトーンで描かれるので、違和感なく万人が共感できるし、感情の起伏もしかり受け入れられる。つまり、気持ちがいいほどわかりやすいのだ。 


 その成長の様子をより際出せるのが、この物語の中で「メンター(師匠/指南役)」として機能する三銃士である。しかも三銃士はダルタニアンから見て、厳格な父親とか、権威ある先生というような存在ではない。

 俗にこの話は「友情物語」という紹介のされ方をするが、双方の関係を見ると、先輩・後輩のニュアンスも含めた「兄弟愛」に近いのではないかと思う。いずれにしても、メンターである三銃士も彼らより年下のダルタニアンと同様に悩み成長する。そんな人間味のあるところが醍醐味になっている。

 これが時代の変化に関わらずウケる要因の一つといえる。

 いわゆる成熟社会となった先進諸国では成長はすこぶる重要なキーワードだ。未熟だろうが、ダメダメなところがあろうが、成長を感じさせる、言い換えれば、未来への可能性を感じさせる人や集団や企業は、すこぶる魅力的に映る。 

  つまり、今、それだけ成長というものに希少価値があるのではないだろうか。 
 成熟し、伸びきってしまった大人にはそうした魅力が見出せない。しかも環境の変化のせいもあり、信頼感も失墜しているのでなおさらだ。 
 ちなみにこれは実年齢のことを言っているのではない。10代・20代はもちろん、50代・60代でも成長しなくてはならない(少なくともそういう意志を見せなくてはならない)世の中になっているのだ。そして、若いダルタニアンと年長の三銃士のように、互いに影響を与え合いながら伸びていくことが求められている……三銃士の物語は、そうした現実を映し出す鏡のような機能を持っているのでは、と感じる。 

 

 

2011.08.23(Tue)


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人生のすべては高校時代にある?

 

 うちの息子は中3。高校受験生である。

 どこの高校を受験するのか決めなくてはいけない時期に来ているので、今日は学校見学に出向く。

 午前・午後のダブルヘッダー。2校とも家から近いので、午前のA校から午後のB校まで自転車で移動。

 どちらも校長挨拶と教務主任による学校の特徴説明、そして、校内見学というメニューになっている。

 

 B校の方は見学者が整理番号ごとにグループに分かれ、在校生がガイドの役目を担って、校内のあちこちを案内して回ってくれる。

 僕らのグループの担当になったのは、2年生の演劇部の 女の子で、よく声が通る、ハキハキしたいい子だった。僕も高校演劇をやっていたので、 何となく波長が合うなぁと思って、いろいろ質問したら結構会話が弾んでなかなか楽しか った。

 そういえば、若い頃、こういうタイプの子がいたなぁ……と、おじさんっぽく考えてしまった次第である。 

 

 以前、ある本で「15歳で人生は終わってしまう」という一文に出会い、新鮮な衝撃を受けた。つまり、中学までに何を体験か、何を吸収したかで、その後の人生が決まってくるというのである。

 

 自分自身を振り返ると「20歳で」というのなら同意できる。人生のすべての萌芽は10代に培われる。特に高校は僕にとって劇的な転換期だった。高校演劇との出 いは、その後の僕の人生を決定付けてしまったからだ。そういうターニングポイントは、おそらく誰にとってもあるのではないかと思う。 

 

 いずれにしてもやはり小学校と中学校、中学校と高校の間には大きなギャップがある。不登校などの適応障害を起こす子どもたちを慮って、小中一貫教育、中高一貫教育を行うところが増えてきているが、僕は出来れば、子どもたちにはこうした成長過程のギャップを楽しんで欲しいと思っている。 

 

 

 

2011・8・18 THU


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