靴みがき少年と有楽町で逢いましょう

 

 取材で有楽町の東京交通会館に出向いたら、何やら行列ができてます。

 覗いてみるとそこは靴みがきスポット。

 僕も似たようなのを被っているけど、キャスケット型帽子のレトロモダンないでたちの「もと靴みがき少年(?)」のおっさんたちが5~6人並んでキュッキュキュとお客の靴を磨いています。

 30分後、取材を終えてもう一度通ると列は倍の長さに。

 

  「おっちゃん、靴みがかせてよ」

 と、靴みがき少年が、たまたま声をかけたのが大会社の社長。

 

 その靴を磨く少年の一所懸命さに胸を打たれた社長、

 

 「小僧、わしの会社で働かんか」

 

 こうして靴を磨いたことをきっかけに少年は丁稚奉公から努力を重ねて、ついにトップに上り詰めた・・・

かつてはそんな物語がまことしやかに語られいました。

 

 どんな小さな仕事でも、まじめに丁寧に、一生懸命やっていれば、夢のようなチャンスと出会える・・・靴が汚れているから、という実用的な目的よりも、そうした古き良き時代(?)の郷愁というかロマンを感じてお客が集まってくるのでしょう。

 

 ましてや、魅惑の低音・フランク永井の歌う「有楽町で逢いましょう」の舞台ならなおさら。

 

 そんな夢とロマンの靴みがき物語に水を差すわけではありませんが、これはどうやらここに店を出している靴屋さんのレトロビジネスの仕掛けのようで1回1100円。

 

 そういえば生まれてこの方、靴磨きなんてやってもらったことがない。

 皆さんがどの程度の腕前かは分かりませんが、床屋で髭を剃ってもらうような感覚でやってもらうのもいいかもしれません。

 と思って列に並ぼうとしたところで気が付きました。

 

 「あ、おれ今日、スニーカーだ」

 残念ながら靴磨き体験はまた次の機会に。

 


eパン刑事、その愛と死とスマホ

 

 スマホを一生懸命いじくっている人を見ると、つい「何か良いニュースは入っていますか?」と訊きたくなる。

 さすがに街中で見ず知らずの人にいかなりそう問いかける度胸はないが、知り合いだと、しばしば実行している。

 

 「うれしい知らせは来ましたか?」

 「すてきな情報をゲットできましたか?」

 「心あたたまる良いニュースはありますか?」

 「幸せになる話は見つかりましたか?」

 「吉報はありましたか?」

 

 そんなふうに訊くと、みんな一様に戸惑ったような表情を見せて

 「いや何も・・・」

 「とくにこれといって・・・」

 「ぜんぜん」

 「ありません」

 「べつに・・」

 

 といった曖昧で、なんだか冴えない返事が返ってくる。

 一度も「はい」とか「うん」とか「来たけど秘密だよ。ウシシ・・」

 といった楽しいリアクションに出会ったことがない。

 

 良いニュースがないのなら、寸暇を惜しんでそんなに一生懸命見なくてもいいのに、と思うが、また次の瞬間には目を画面に戻して、再びいじくり出す人が大半である。

 これはかなり不可思議な現象だ。

 

 そう思っていろいろ考えてみると、これはもしかして喫煙に近い性癖なのではないかと思い至った。

 煙草の場合はつい口寂しくて、スマホの場合はつい手持無沙汰で、その行為で心のすき間を埋めようとする。そうするとストレスも軽減されるような気がする。

 要するに軽い中毒症状である。

 

 煙草を吸っている人に「おいしいですか?」と訊くと、やっぱりたいていは

 「いや、べつに、とくにこれといってうまくもないけど・・・」

 みたいなリアクションが返ってきて、

 「いや、そろそろやめようと思っているんだけどね」

 なんて心にもないことを言いだす。

 

 昔はちょっと違ってた。

 自分はタバコを愛している、という人は多かった。

 「おいしいですか?」と訊くと、

 「あたりめーだ。これが俺の生きがいだ!」ぐらいの啖呵を切るような人は、結構いたと思う。

 

 かく言う僕も啖呵は切らないまでも「うん、うまいよ!」ぐらい明快に応えたはずだ。

 

 僕がタバコを吸うようになったのは、周囲のいろいろな影響があるけど、大きな要因の一つとして松田優作のことがある。

 

 中学生の頃にテレビドラマ「太陽にほえろ!」で、松田優作演じる「Gパン刑事」が活躍していた。

 Gパン刑事は職務中に殉死するのだが、その最期が壮絶だった。

 彼は悪んの組織から一人の男を助け出すのだが、その男は恐怖のあまり錯乱状態になっていて、自分を助けてくれたGパン刑事を誤って撃ってしまうのである。それも何発も。

 

 Gパンン刑事は一瞬何が起こったのか、わけが分らないのだが、激痛のする自分の腹に手をやると、その手がべったりと血に染まっている。

 その自分の手を見た彼は

 「なんじゃ、こりゃあ!」と夜の闇の中で叫び、そのまま倒れ込んでしまう。

 そして仰向けになって、もう自分は死ぬのだということを悟る。

 

 どうして彼がここで、こんな形で死ななくてはならないのか?

 自分が救った人間になぜ裏切られ、なぜ撃たれるのか?

 1970年代前半の映画やドラマは、そうした人生の不条理を表現した作品、「人生に意味や目的なんてねーんだよ」とニヒルにうそぶくような作品が多く、当時の少年や若者はそこのところに心をわしづかみにされた。

 

 でも考えてみれば、人生も死も不条理に満ちているのは当たり前で、時代に関係なく、いつでもそうなのだ。

 

 それで話を戻すと、死を悟ったGパン刑事は震える手で懐中から煙草の箱を取り出す。

そして最後の力を振り絞って、タバコを1本取り出し、口にくわえ、火を点ける。

 やっとの思いで一服し、それで力尽きるのだ。

 

 死に瀕してまで吸いたいという、Gパン刑事のタバコへの偏愛が、僕がスモーカーになった大きな一因であることは間違いない。

 

 それから40年以上が経過し、この殉職シーンは、松田優作のキャリアの中でも名場面として数えられていると思うが、たぶん現代ではこういったシーンは観客に受けないし、優作のようなタバコが似合う俳優もいない。

 そもそもドラマとして成り立たないのではないかと思う。

 

 そこで僕の頭に浮かんだのは、eパン刑事の殉職である。

 暴漢に撃たれたeパン刑事は、自分の死を悟り、震える手を懐中に突っ込む。

 それで彼が取り出したのは愛用のスマホだ。

 彼は最後の力を振り絞ってスマホを見ようとする。

 そこで僕が声をかける。

 

 「何か良いニュースは入ってますか?」

 

 「いや、べつになにも・・・」

 

 その言葉を残して、eパン刑事は息絶える。

 

 現代の死の不条理。

 これはこれで感銘のある、味わい深いラストシーンではないかという気がする。

 (そんなことない?)

 


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ナルちゃん万歳! さらば平成(ちょっと早いけど・・・)

 

 昨日、日本橋高島屋前の通りで、「ナルちゃん万歳!」という看板を正面に掲げた大型トラックに遭遇しました。

 「ナルちゃんって誰のこと?」と一瞬思ったけど、皇太子殿下・徳仁(なるひと)親王様のことだとすぐわかりました。

 そのトラックは右翼団体の車だったので(でも街宣車でなく、静かに黙って走行していた)。

 

 それにしても右翼の皆さんが「ナルちゃん」って・・・。

 時代は変わった。

 親愛の情をこめて、ということでしょうか。

 

 皇太子さまは僕の同級生。

 別段ファンでも何でもないけど、やっぱりどんな天皇になるのか興味はあります。

 それももう再来年の話です。

 

 平成が31年3月で終わることが確定して、気になるのは次の元号。

 イニシャルは明治のM、大正のT、昭和のS、平成のH以外。

 手帳やカレンダーに合わせてということか、発表は半年前というから、来年の今頃にはもう決まっています。

 

 どんな元号になるのか、もしばっちり当てたら賞金出しますとか、そんなイベントはやらないのかな?

 

 もう一つ、新元号を発表するのは誰か?も気になるところです。

 

 あの小渕恵三さん(故人)が首相をやっていたことなんて大半の人が忘れているだろうけど、「平成」を発表した人だということはNever忘れません。

 

 ちなみに当時の小渕さんの役職は、竹下登内閣の内閣官房長官。

 

 もしかして娘の小渕優子さんがやるのか?

 それとも未来の総理・小泉進新次郎氏か?

 自民党はそのあたり演出するは結構うまいのではないかという気がします。

 

 そんなの政治に直接関係ないじゃんと思えることが意外と重要。

 魂は細部に宿る。 国民に良い印象を焼き付ける。

 政治も演劇なのです。

 

 小池百合子さんはそれがよくわかっていたと思うけど、民主党が政権を取った時代にゴタゴタ内輪もめしてダメになり、国民のトラウマになっていることを読めていなかったように思えます。

 

 あんなドタバタ劇を見せられれば、誰だってあの時の民主党とおんなじ。それなら自民の方がまだましじゃないの――と思わざるを得ません。

 

 そんなわけで選挙も終わり、ドラフトも終わり、10月も終わりになると、いよいよ平成の締めに入ります(正確には再来年の3月ね)。

 

 


人生の果てに辿りつきたい場所

 

 「自分の夢を話してほしい。いや、夢というより目標かな・・・人生の果てまで行って辿り着きたい自分の場所。」

 

 ラジオドラマを書いていて、こんなセリフを主人公の女が吐いた。

 最初は「自分の夢を話してほしい」だけだった。

 

 意味としてはそうなんだけど、どうも「夢」という言葉がぬるくて気持ち悪い。

 彼女は28歳の料理人で、人生の最期を迎えた男に最後の食事を作ろうとしている。

 それで彼に何が食べたいのか訊いているうちに話が展開し、自分の将来の話をする。

 

 彼女の出したい店は、自分の夢を語ってくれれば、一飯の恩義を施すという店だ。

 それでその夢の話。

 

 子どもなら良い。

 子どもには夢が似合う。

 でも、大人には似合わない。

 

 最近は大人も夢を語っていい――という風潮になっているが、自分も含めて、いいおっさん、おばさんに

「わたしの夢は・・・」

 なんて言われると、子供や若い連中に対するみたいに「そうか、がんばって!」とは素直に言えない。

 

 言い換えるなら、やっぱり「目標」なのではないか。

 けど、この言葉も何だかカッコよすぎるし、きっぱりし過ぎているし、四角四面なニュアンスがある。

 で、出てきたのが「辿り着きたい場所」。

 

 「辿り着く」という言葉には積極的なニュアンスと消極的なニュアンスが両方ある。

 夢を持って進むのだけど、半ばで崩れて、立ち直り、何とか目標を立てて進んでいくのだが、いろんな波風に遭遇して、寄り道したり、ちょっと休んだりしているうちに、いつの間にか潮に流され、漂流してしまった。

 それでも彼方に見え隠れする目標に向かって泳ぐなり、歩くなりしていく。

 

 世の中の大人って言うのは、だいたいそうなのでななのだろうか?

 完全に周囲に流されちゃったり、完全に目標を見失って漂流民になってしまっては困るけど、なんとか自分の場所に辿り着きたい・・・。

 

 人生の最期を迎えた男も、それだったら何か語れるのではないか。

 そう考えた。

 

 そう考えているうちに、ふと中島みゆきの「店の名はライフ」という曲を思い出した。

 

 ♪店の名はライフ おかみさんと娘 

  どんなに酔っても 辿り着ける

 

 中島みゆきがデビューして間もない頃、確か2枚目くらいのアルバムに入っていた。

 ドラマチックな人気曲と違って、ほぼ同じメロディー、同じリズムが淡々と繰り返され、彼女がかったるそうにズラズラと上記のような歌詞を歌っていく。

 

 劇的な世界とコントラストをなす日常的な世界――けれども、とてもタフな心とやさしさと希望を秘めた世界が広がっていた。

 

 なんとか自分が望んだところの少しでも近くに辿り着きたい。

 僕はそう思うし、人生の最期を迎えた男もそう思うだろう。

 28歳の料理人の女にはまだ夢という言葉が似合う。

 

 けれども彼女はこの話の最後に、思ってもみなかったところに「辿り着く」ことになっている。

 一応、そうなる設定:目標を立てて書いている。

 

 


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民主化・ロボ化・個別化が進む宿泊ビジネス

 こんど初めて民泊を利用してみることにしました。

 世界最大級という民泊サイト「AirB&B」にアクセス。

 

 夏、カミさんとお出かけの約束をしていたのですが、腰を痛めて叶わなかったので、11月初旬の連休に3日ばかり京都旅行。

ということで、目的地と予定日を入力すると、たちどころに候補の宿がずらっと出てきました。

 

 ホテルや旅館のように「Welcom、ドドーン!」という感じではなく、外観や周囲の環境の一部、部屋の一部の画像がごく控えめに、雰囲気が伝わる程度にはんなり。

 

 京都なので、中には由緒ある大きな古民家をリノベしたところもあって、いいなと思うと、やっぱりそれなりのお値段。

それでもグループで行って、みんなでシェアすればホテルや旅館よりも断然お得だし、ジャパニーズテイストに浸りたい外人さんなどにとっては、こういうところに泊まること自体が目的の旅になりそうです。

 

 で、第一候補の築80年の長屋をリノベしたところが面白そうだったので申し込んだけど、こちらはNG。

 第2候補は川沿いの家。せせらぎを聞きながら京都の情緒に浸れるかと思ったら、部屋の内装がサイケすぎて、こちらもNG。

 そして第3候補。今どきのフツー感が漂うところでしたが、雰囲気は好ましく、中心地で交通の便もよさそうなので、ここに決定。

 パスポートの写真とサイト専用アプリで撮った写真を紹介して申し込み完了したら、秒速でOKの返事が到着。

 その後送られてきたDropBox内には詳細な住所・地図、家の外観、そして鍵を開けるための認証番号が。もちろん、この番号は利用客が来るたびに交換します。

 

 というのが「AirB&B」で民泊を探す際の段取りです。

 よくできたシステムでたたしかにこんなのが蔓延り人気になったら、ホテル・旅館業界は大打撃を受け、ブチ切れます。

 

 しかし、インターネットを活用した、こうした民主主義・市場主義のビジネスの流れはもう止めようがない。

 

 加えて、都心の一部のビジネスホテルのように、チェックイン・アウトはすべてコンピューターで。なんでも自動化・セルフ化して、ロボットホテルまであと一歩というところも増えてきまました。

 

 こうなると、セレブ御用達のみたいな超一流はべつにして、一般的なホテル・旅館はオンリーワンの魅力・個性をアピールし、他にはないユニークなサービスを提供しなくては集客できなくなっていくでしょう。

 

 一般的でなく、個性的でないと、また、お客のニーズ・リクエストにマッチしていないと立ちいかない時代。

 「ゲーシャロイドと楽しむ、昭和の社員旅行」とかね。

 

 業界はたいへんそうだけど、お客にしてみれば、いろいろユニークな宿が増え、面白い旅ができるのは大歓迎です。

 


カカシも応援する中学生の稲刈り実習@駒場野公園・ケルネル田圃

 田圃に入って泥だらけになりながら稲刈り実習に勤しむ中学生たち。

 農作業というよりも子供のドロンコ遊びに限りなく近い。

 すごく楽しい。

 見ているこっちも楽しくなります。

 ずらりと並んだカカシたちも笑ってます。

 

 土曜(14日)の「マイナビ農業」の取材は、じつはダブルヘッダー。

 午前中は、こちら駒場野公園にある「ケルネル田圃」と筑波大学付属駒場中・高校にお邪魔して、中学生らの稲刈り実習の現場を見学してきました。

 

 ケルネル田圃とは、明治10(1877)年に明治政府の肝いりで開校した駒場農学校の広大な試験田の一部で、いわば明治時代の遺産。

 

 水田土壤の研究と稲作肥料の研究によって、日本の近代農学に大きな影響を与えたと言われるドイツ人講師・オスカー・ケルネルの名が冠された田圃です。

 

 ここで駒場農学校の140年後の後輩たちが、毎年、種もみから苗を育て、春に田おこし・田植えを死、秋に収穫・脱穀・もみすりをして玄米にする一連の農業実習を行っています。

 

 駒場中・高校は、農業学校ではありませんが、この田圃の仕事をとても大事にしていて、教育活動全体の柱にしています。

 

 この話もマイナビ農業 https://agri.mynavi.jp/ で今月中に記事UPします。

 

 この田圃がある駒場野公園は、井の頭線・駒場東大前下車徒歩2分。

 

 この季節、駅前ではカカシコンクール(目黒区主催)優秀作品賞の不動明王とスーパーマリオブラザーズもお出迎えしてくれます。

 

 渋谷からわずか2駅、時間にして5分のところにこんな素敵なスポットがあるのはワンダフル!

 


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ニクいぜ品川:東京食肉市場まつり2017

 

 品川駅港南口・超近代的インターシティの裏手に広がる巨大市場。

 日本最大級の食肉の加工・流通拠点が東京食肉市場です。

 別名は「芝浦と場」。

 全国から運ばれてきた牛やブタがここで解体・加工されてお肉になり、僕たちの街のお店にやってきます。

 

 昨日・今日(14・15日)は年に一度の食肉まつり。

 今月から始めた新しい仕事「マイナビ農業」の取材でやってきました。

 

 普段は一般人は入場も見学もできませんが、この2日間だけは大開放。

 悪天候にも関わらず、お肉を求めてあちこちから人、人、人で大賑わい。

 

 普段、いろいろ作業している場内にはお店が立ち並び、牛肉・豚肉・加工肉などを大売り出し。

 肉料理の屋台やイベントステージも盛りだくさんです。

 

 牛のモウ汰と豚のトン吉もお出迎えしてくれました。

 が、ブタのほうがでかいのはなぜだブー?

 モウ太は子牛ということか?

 

 市場内センタービルの6階には「お肉の情報館」があり、

 食肉の製造工程や市場の歴史をパネル、ビデオ、模型などで分かりやすく展示していて、面白かった。

 

 この内容は今月中にマイナビ農業(https://agri.mynavi.jp/)の記事としてUPする予定です。

 


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安楽死できる国は幸せか?

●安楽死を合法化したオランダ

 

 以前、安楽死を題材にしたドラマを書いたことがある。

 「近未来SF」と評された(その頃はまだ「近未来」という言葉が結構流行っていた。今世紀になって以降、死語になった)が、20年あまりたった今、その近未来は、完全に現実に結びついた感がある。

 

 「月刊仏事」の新企画で「世界のエンディング事情」のリサーチを進めていたら、もうすでに安楽死が合法化されている国があった。

 2002年、すでに15年前、世界で最初に安楽死法を施行したのはオランダである。

 

 オランダは不思議な国だ。ドラッグも売春も安楽死も、悪徳ではないかと思えることをどんどん合法化していく。

 

 自由な意思を尊重している。

 

 と言えるが、見方を変えると、人間はどうしようもなく愚かで弱くて悪徳から逃れらえない存在である、という一種の諦観のような考え方が根底にあるのではないか。

 

 だから、たまには現実なんか忘れてラリりたいし、いろんな女とやりたいし、痛いのや苦しいのをガマンするのはイヤだから、助からないと分かったらさっさと死にたいし・・・といった素直な思いをみんな受け入れましょう、ということで、国が運営されているのかも知れない。

 

 一度、受け入れ、許されたものは再び戻ることなない。

 アムステルダムの飾り窓が観光の呼び物の一つとして定着してしまったように、安楽死もかの国の生活の中に溶け込んでいていく。

 

 そしてオランダに続いてベルギー、ルクセンブルグが安楽死を合法化している。

 ヨーロッパの中でも、どちらかというとマイナーな存在のベネルクス3国がこうした先進的(?)な社会を作っているのはとても興味深い。

 

●家族主体の日本ではやっぱNG?

 

 日本はどうか。これに倣って安楽死合法化は難しいと思う。

 日本の場合、根底に死は個人のものでなく、その周囲のもの――家族あるいは医療者に委ねられるものという暗黙の了解があるからだ。

 

 自分の命は自分の自由にしていい、という考えは許されない。

 

 そもそも安楽死するかどうかを決めるのはその人本人でなく、“させるかどうか”を決めるのは家族だ。

 

 生死を決する際は、家族の気持ちが個人のそれよりも強く働き、尊重されるようになっている。

 そうした歴史が続いてきて、ひとつの文化になっているから変わりようがない。

 

●安楽死の近未来

 

 しかし、それも僕の思い込みに過ぎないのかも知れない。

 

 最近の、人の内面を動かす時計の廻り方はとても激しく、最近は「個人」がずいぶん強調されるようになっている。

 もしかして10年後くらいには安楽死の合法化が、少なくとも検討されるところまではいくかもしれない。

 

 ちなみにオランダでは、安楽死数は2006年に約1900人だったが、2012年には約4200人までに増えているというデータがある。

 これは同国の年間死亡者数の3%に上る数でだという。

 ここから5年経った現在ではどうなのだろう?

 増えこそすれ、減っているとはとても思えない。

 聞くところによると最近では“安楽死専門クリニック”まであるようだ。

 1990年代に書いた僕のドラマの世界は、とっくに追い越されている。

 


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三度目の殺人:本当に大切なものを僕たちは見ようとしていない

●この物語はファンタジーであり、寓話である

 

 是枝監督はファンタジー作家、と言うと奇妙な感じがするかもしれない。

 いわゆるスピリチュアルともちょっと違う。

 でも僕たちが生きているこの世界には、普段、目の当たりにしている日常的な「見える化した世界」と、その向こう側にある「見えない世界」がある。

 

 サン・テグジュペリが星の王子様に言わせた「本当に大切なものは目に見えない」の「見えない」。

 

 もともとドキュメンタリー畑出身の人だが、現実の人間と社会の機構をつぶさに見つめるうち、そこを通り抜けて見えない世界に入り込めるようになったのだろう。

 

 この作品は同監督初のサスペンス映画というふれこみで、表面的には確かにその通り。

 だけど、なぜか僕は鑑賞後、8年前の「空気人形」という、ダッチワイフが現実の女の子になってしまうというストーリーの、寓話風な是枝作品と重なった。

 もちろんタッチは全然ちがうのだけど。

 

●弁護士・重盛と犯人・三隅

 

 福山雅治演じる重盛は、べったり「見える化世界」を代表するビジネスライクな弁護士。

 実際に弁護士と付き合ったことはないけど、きっと現実はこういう人が多いんだろうなと思う。

 加えていえば、世間で「デキる人」――いわゆるエリートだ。

 

 これまでいろいろな映画やドラマで弁護士は正義の味方的に描かれることが多かったが、本作の中では彼は、敵役の検察官と、仲を取り持つ裁判官と一緒に法廷という舞台で芝居を演じる役者だ。

 

 そしてそのお芝居の舞台裏で「今回はこのあたりで手を打っておきましょう、シャンシャン」という感じで被告人の生き死にが決められる。

 これもまた、きっと現実はこういうパターンが多いんだろうなと思う。

 

 それに対する役所広司演じる殺人犯の三隅。

 供述一つ一つで重盛を翻弄する。

 一見穏やかで、社会の底辺部近くで朴訥に生きる庶民。

 ではあるが、30年前にも一度、殺人事件を犯している前科者。

 彼は「見えない世界」を体現する人物だ。

 

●僕たちは重盛

 

 重盛のようなデキる人ではないけれど、僕たち見える化世界の住人は、彼の目線でこの三隅と対峙し、ドラマを体験する。

 

 するといかに自分がインチキな世界で生きているか、わかる。

 そして重盛同様、「本当に大切なもの」なんてどうでもいいと思っていることも分かる。

 

 僕たちは毎日忙しい。

 お金を稼ぐために仕事をしなきゃいけないし、家事だってしなきゃいけないし、ごはんもちゃんと食べたいじ、寝る時間だって必要だ。

 とにかくやらなきゃいけないことがいっぱいある。

 

 そんな中で、毎日を少しでも心穏やかに生きていくために――言い換えれば、何とかやり過ごすためには、真実がどうだとか、本当に大切なものだどうだとか、そんなことにいちいちかまっているのは面倒くさいのだ。

 

●神の目線と半神の少女

 

 もっと率直に言ってしまう。

 犯人・三隅は、神、あるいはそれに類する観念のメタファー(暗喩)だ。

 僕にはそう見えたし、きっと多くの観客がそう感じるだろう。

 (劇中、そう感じざるを得ないシーンがいくつもある)

 

 神、あるいはそれに類する存在だから真実を知っている。

 同時に、重盛や僕たちが、そんな真実なんてどうでもいい、と思って生きていることも知っている。

 すべてを見通す三隅の心を唯一動かすのは、広瀬すず演じる少女だ。

 彼女は神と人間の間に立つ半神のような存在に見える。

 

 彼女は足に障害を負っている。

 生まれつきの障害らしいが、なぜか彼女自身は、子供の頃、屋根から飛び降りてケガをしたから・・・と弁明する。

 何らかの社会的抑圧を受けて、そう弁明せざるを得ない・・・とも見て取れる。

 

 なぜ是枝監督は、足が悪い少女という設定にしたのだろう?

 彼女が「嘘つき」なのかどうかを考えさせるギミックなのか?

 それもあるが、彼女に半神としての役割を負わせるための、何かもっと深い意味を込めているようにも思える。

 

●いい話ですねぇ

 

 終盤、是枝作品には珍しく、カタルシスが来るのか、と予感する一瞬があった。

 でもやっぱり来なかった。

 いつも通り、カタルシスもハッピーエンドもない。

 観終わったあとに胸に留まるのは、いったい何だったんだろう?というわだかまり。

 この監督はけっして観客に明快な答を差し出そうとしない。

 

 でも重盛との最後の接見で三隅が呟く「いい話ですねぇ」というセリフがたまらなく良かった。

 あの一言を聞くだけでも、何度も繰り返しこの映画を観る価値がある。

 僕も重盛と同じく、「いい話」を信じたい凡人なのだ。

 たとえその「いい話」が真実ではなかったとしても。

 

 福山雅治も、役所広司も、広瀬すずも、素晴らしい俳優だ。

 


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大宮八幡宮・十五夜の神遊びとやさしい闇

 ぶらっと歩いて15分。

 近所のお宮で中秋の名月のイベント。

 17年前から始まり、恒例になりました。

 竹の灯篭は1200基。

 神殿前で松明もたかれて幻想的な雰囲気に包まれます。

 

 ついでにアンパンマンとドキンちゃんもライトアップ。

 つーか、ただ伝統に照らされてるだけだけど。

 

 神楽殿では「月の音舞台」と題して雅楽、そして尺八とバイオリンの演奏。

 バックにシンセを使ってきれいにまとめるのはちょっといただけなかったなぁ。

 素朴で完成度が低くてもいいから生音だけでやってほしい。

 

 でも帰りの参道で、虫の合唱が大きく響く中、離れたところからで尺八とバイオリンの音色が聴こえてくるのは味わい深かった。

 

 都心でもこうした広い杜があると、やさしい闇を楽しめます。

 夜空を流れる雲と、帰り道でやっと顔を出した月。

 久しぶりにゆったりとした夜の時間を過ごした感じ。

 


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八王子・冨士森公園のスローバラード駐車場で、ポップミュージックをこよなく愛した僕たちの時代の妄想力について考える

 

八王子緑化フェアのメイン会場である富士森公園の駐車場は、ある一部の人たちにとってスペシャルな駐車場である。

 

 ある一部の人たちというのは、僕を含むRCサクセション、あるいは忌野清志郎の音楽が好きな人たちだ。

 この駐車場は彼らの名曲「スローバラード」の舞台なのである。

 

 ♪昨日はクルマの中で寝た

  あの娘と手をつないで

  市営グランドの駐車場・・・

 

 ここはもともと運動公園で、陸上競技のグランドになっていた。

 おそらく清志郎がこの歌を作った若かりし頃は、こんなにきちんと整備・舗装されていない、土の駐車場だったのだと思う。

 

 そんなイメージを抱きながら、僕は仕事の合間にこの入口に立ち、頭の中にスローバラードの切ないメロディを響かせてみた。

 

 すると一瞬のち、この場所はもう何の変哲もないただの駐車場ではあり得ず、光り輝くロックの聖地に変貌を遂げたのだ。

 

 おそらく僕だけでなく、60~70年代のロック・ポップミュージックに浸っていた輩は、こうした想像力が旺盛だ。

 

 当時はインターネットはおろか、まだミュージックビデオさえもなかった。

 

 僕たちが得られる音楽周辺の情報は、一部の音楽雑誌に載る記事と、ごく限られた写真、ラジオ、ごくたまにテレビ、そしてレコードジャケットのアートワークとライナーノーツだけだった。

 

 現代と比べればごくわずかなそれらの情報をタネに、僕たちは想像力を駆使して、その音楽の中から迸る感情を受け止め、現出する世界に没頭し、ひとりひとりが自分の感性によりぴったりくるよう頭の中でアレンジを施し、「自分の歌・自分の音楽」に育てあげていた。

 

 こうなると想像というよりは妄想に近い。

 

 より情報の少ない海外のミュージシャンのもの、さらにより前衛的なプログレバンドの音楽世界などは、そうした妄想力をますますパワフルにかき立て、際限なくストーリーを膨らませることができた。

 

 だから情報過多な現代とは、まったく聴き方の作法が違っていたのだ。

 

 それは単にミュージシャンから提供してもらった音楽を聴くというより、脳内で彼らの歌や演奏とともに、めくるめくイメージの世界を築き上げる「共同作業」をしていたと言える。

 

 もちろん、はなはだしい勘違いもあっただだろう。

 でも僕たちはそこまで楽しませ、刺激し、生き方の指針を示してくれるミュージシャンたちを心からリスペクトしていた。

 

 そうした情報レスな妄想リスニングの時代は、ミュージシャンとリスナーのとても幸福な関係が結ばれていたのではないかと思う。

 

 ♪ぼくら夢を見たのさ

  とってもよく似た夢を

 

 そう歌った清志郎も、もうこの世にいない伝説の人になってしまっている。

 八王子緑化フェアで賑わう、10月の日曜日の富士森公園の、ただ車を停めておくだけの空間でその歌声が胸にしみこんだ。

 


●八王子緑化フェア―「趣味の園芸・やさいの時間フェア」

 

 1日の日曜日は八王子フェア第3弾でした。

 「趣味の園芸・やさいの時間フェア」。

 ガーデンデザイナー・吉田祐治さんのデザインによるカルチャーステージは八王子の里山を表現したものです。

 

 出演の杉浦太陽くんを見て、幼稚園生くらいの子に「ほら、コスモスだよ」と言っているのを見てびっくり。

 うちの息子が保育園生の時に見ていたので、彼がウルトラマンコスモスをやっていたのってかれこれ15年以上前の話。

 いまはいつだ?っていきなり頭の中がタイムスリップです。いつもビデオでみているのかなぁ?

 

 第2部のトークショーは講師の藤田智さんと地元の「江戸東京野菜」の生産者のお話。八王子は都心に近い農産物の拠点。「江戸東京野菜」という東京ならではの伝統野菜がたくさんあり、最近、都内の一流シェフの間でも人気を集めています。

 「八王子ショウガ」など、八王子独自のストーリーを持つ野菜も人気です。

 この江戸東京野菜や、近郊農業の話は今後もちょくちょく書いていこうと思っています。

 


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