僕たちはメディア、エンタメが
成長してきた時代とともに生きてきた。
だから、一度も会ったことがなくても
親しみを感じたり、寄り添ったり、
自分を重ね合わせる対象が大勢いる。
芸情人、アーティスト、文化人、スポーツ選手。
そのほか、本・舞台・ラジオ・映画・テレビ・ネットの
世界のあの人たち。
彼ら・彼女らの存在や活動、発言を
心のよりどころにしている部分もたくさんある。
多くの人、特に40代~60代の人たちにとって、
中山美穂さんはその代表的な一人だろう。
まだ54歳。
人生100年時代ではまだ十分に若い。
あまりに当然の死にショックを受けている人は
少なくない。
思えば今年も20世紀カルチャーをつくった、
たくさんの有名人が亡くなった。
トシだから仕方ないかと思える人もいれば、
まさか、あの人が…という人もいる。
20世紀カルチャーは終焉し、
僕らはこれから膨大なアーカイブのなかで
心を癒しながら生きることになるのかもしれない。
と思うことがしばしばある。
あなたはどうだろうか?
終わりは急にやってくる。
人生100年という言葉・イメージは、
希望の糧であるとともに、
大きな負担・不安のタネでもある。
100年、100年と言われている間に
「ライフプラン」という体のいい言葉を考えすぎ、
老後の不安ばかり膨らませ、
老後に備えることできゅうきゅうしながら
漫然と生きることになる。
自分は本当はいくつまで生きるのか?
60か70か? 90か100か?
もちろん、それを知るすべはない。
でも、「今」に集中して、
自分を活かして毎日を生きていれば、
どこかで事前にそれを知らせる声が
脳の奥から訪れるのではないかとも思う。
おまえは十分にやったと。
物語のような妄想だけど、
心の支え・励みにはなる。
生と死は表裏一体。
どう生きるのか?
どう死ぬのか?
メディアの声より自分の声を聴け。
明日から寒くなるそうなので、
今日は今年の秋の最後の日かも、
と思って、午後から義母を連れて
近所の公園を散歩する。
遠くに行かなくても紅葉をたっぷり楽しめる。
なかなか色づかなかったイチョウが
12月になってどんどん黄色くなり、
見事なゴールデンイエローに。
ほんの少しの風で落葉が雪のように舞って、
切なくも美しい。
「ほらほら、空からまたくるくる降ってくるよ」
と、高い木の枝から回転しながら降りて来る落葉を見て、
義母に促すのだが、どうも反応が鈍い。
認知症にも関わらずというか、だからこそなのか、
この人はときどき、路傍の小さな花を見つけたりして、
小さな子どものような感性の鋭さを見せることがあるが、
紅葉・落葉に関しては全然気をそそられないようで、
僕がどれだけ「ほら見て見て」言っても、
ほとんどゴミ扱いである。
そのくせ、そのへんに落ちている
お菓子の空き袋、ポケットティッシュ、
子どもが落としていったおもちゃやアクセサリーなどは
目ざとく見つけてガメようとする。
せっかく秋を楽しみに来たのに・・・。
と文句を言っても始まらない。
しかし、今日は暖かく、お天気も良く、
気分も体調もよかったようで、
なかなか帰りたがらず、2時間近くも歩いた。
こんなによく歩いたのは久しぶりだ。
ちなみにネコのいる花屋さんでは、
秋の花が終わったらクリスマスや正月を挟んで、
もう春の花。
暖かい部屋で春を楽しんでほしいのだそうだニャ。
彼女は「お花屋さんになりたい」という
少女時代の夢をかなえた。
今はとある町の小さな花屋の女主人として、
ひとりで店を切り盛りしている。
花に関する豊富な知識、
アレンジメントのセンスと技術。
加えて人柄もよく、お店の評判は上々で、
商売はうまいこといっている。
彼女自身も毎日、
大好きな花に囲まれて仕事ができて幸せだ。
ところが、明日は母の日という土曜日の朝、
店の外に出て、びっくりした。
そこに置いてあったカーネーションの花が
ネズミに食い荒らされていたのだ。
ショックを受けた彼女は、
今後、二度と店にネズミを寄せつけないよう、
ネコを飼う決心をする。
保護猫サイトを探すと、
かわいらしい子猫たちにまじって大人のネコがいた。
人間に保護されるまで1年間、
野良猫として生き延びてきた頼もしそうな奴だ。
しかも彼は、オスの三毛猫というレアものである。
女主人は彼を引き取り、
「ダビ」と名付け、自分に言い聞かせた。
「寂しいからじゃない。癒されたいからじゃない。
ネズミよけのためにこのネコを飼うんだ」と。
そして、自分とネコとの関係を明確にするために、
雇用契約を結ぶ。
彼女は仕事の依頼主。
その報酬として彼に食事と寝床を与える。
こうして花屋の女主人と三毛猫ダビの
暮らしが始まった・・・。
花好き・ネコ好きに贈る、
楽しいなかにもピリリとスパイスの効いた中編小説。34,000字。AmazonKindleより¥500で発売中。
踊りに性別は関係ない。
誰でも踊っていいんだけど、
男はある年齢を過ぎると、踊らなくなる。
(人それぞれなので、あくまで一般論だけど)
ところが、女はいくつになっても踊る。
年齢は関係ない。
というのは、昨日、女性の友だちが
ダンス公演に出るからとお誘いを受けたので、
割と近所なので、自転車を飛ばして観に行ってきた。
場所は甲州街道沿い。
下高井戸と桜上水の間あたりにある
「G-ROCKS」という音楽スタジオである。
こんなところにこんな施設があるとは知らなかった。
ダンスというのはアフリカンダンス。
西アフリカにあるマリの民俗舞踊である。
(公演用にいろいろアレンジしているらしい)
アフリカンダンスはエネルギッシュで好きだが、
正直、マリもガーナもケニアもナイジェリアも
区別がつかない。
かつては他のアフリカ諸国同様、
フランスの植民地だったが、1960年に独立。
「マリ」とは国語である
バンバラ語で「カバ」という意味で、
首都バマコにはカバの銅像があるという。
どういう経緯で、かの国の音楽家・踊り手たちが
日本にやって来て根付き、
文化の伝達者になったのかは定かでないが、
世界的なワールドミュージックの広がりと
関係があるのかもしれない。
英米のロックミュージシャンたちの多くが
1980年代頃から、アフリカの音楽に魅せられ、
積極的に自分たちの楽曲にも取り入れるようになった。
こうした音楽ビジネスの隆盛によって、
アフリカンリズムやアフリカンダンスが
日本にも紹介されるようになり、愛好家も増えたようだ。
今では各国の音楽や文化を教える教室が
都内のあちこち(おそらく他の地域にも)あるらしく、
友だちが通っているのも、そうした教室の一つらしい。
なぜ、ガーナでもケニアでもナイジェリアでもなく、
カバのマリだったのかはわからないが、
これも「ご縁」というのものかもしれない。
司会役でもあり、歌も歌うダンスの先生は
マリ人(?)のお姉ちゃんで年齢不詳。
その生徒さんたちは、わが友をはじめ、
大半が高齢の女性。
たぶん浴衣を着て盆踊りをしていたら、
近所のおばちゃん・ばあさんといったところだが、
デザインされた民族衣装をまとって、
激しく体を動かすマリダンスをやっていると、
なんだかアフリカの民話に出てくる精霊の類に見える。
みんな、実に楽しそうに踊る。
その顔を見ていて何に似ているのかと考えていたが、
今日、近所の公園を散歩していて、
夢中になって遊んでいる女の子たちに遭遇し、
そうだ、こんな弾けるような笑顔に
似ているのだと思い至った。
ここで踊ることになるまで、
皆さんがどういう人生を歩んできたのかは
僕には知る由もないが、
せっかくここまで生き延びたのだから、
思い切り楽しんでしまおうという気概が感じられた。
失礼な言い方かもしれないが、
妻なり、母なり、愛人なりの務めを終えて、
もうセクシーであり続ける必要はないという意識が、
彼女らを良い方向へ解放している面もあると思う。
遊ぶ子供と踊る高齢女性の共通項は、
セクシーでいなくちゃという女の義務感と
社会人としての責任から自由なことだ。
もちろん、いくら齢をとっても
社会人であり続けているわけだが、
男がいくつになっても、
長年身に着けてきたプライドや役割から
逃れられないのに比べて、
最近は、女の方が第3・第4の人生を
楽しめる傾向が強くなっていると思う。
上手いか下手かなんて、どうでもよくて、
見ている側がちょっと笑っちゃえるくらいでいい。
死ぬまで笑って踊って、
かつまた、それで人を笑わせられたら、
それが最高である。
久しぶりに映画館で、
倉本聰・作の映画「海の沈黙」を観る。
すごくよかった。
久しぶりにずしっと腹に応える映画を味わったなぁという感じ。
派手でわかりやすくておいしいけど、
あまり栄養になりそうにもない、
おやつみたいな映画が多い中、
これこそ主食となる、心の栄養になる映画。
「生き残り」と言ったら失礼かもしれないけど、
倉本聰さんは日本のテレビドラマ黄金期、
そして衰退傾向だったとはいえ、
まだまだ映画が娯楽の王座にいた時代を支えた
作り手の「生き残り」だ。
(こんな言い方は失礼だと思うけど)
今年で齢89歳。うちの義母と同い年。
改めて履歴を見ると、
なんと、僕が生まれる前、1958年から
ドラマ作りのキャリアをスタートさせている。
この20年ほどの間に
同じ脚本家の山田太一・市川森一をはじめ、
同時代に活躍した作家や監督や俳優が
次々とこの世を去っていったが、
倉本聰さんは依然健在で、
「どうしても書いておきたかった」と、
60年温めてきた構想を実現した。
キャリアが長けりゃいい作品が書けるわけじゃない。
ものを書くには気力も体力もなくてはできない。
体内のエネルギー量がどれだけあるかの問題なのだ。
こんな気力溢れる作品を書く力が残っているなんで、
驚きと尊敬の何物でもない。
セリフの一つ一つ、シーンの一つ一つが重く、深く、
濃厚な内容は、昭和の香りがプンプン。
サスペンスの要素もあり、画面には2時間の間、
緊張感がみなぎって面白いので、
若い人にも見てほしいが、やっぱりこういうのは
ウケないんだろうなとも思う。
かくいう僕も、20代・30代の頃に
こういう映画を見て傑作と思えたかどうかは怪しい。
やっぱり齢を取らないとわからないこと、
味わえないものがあるのだ。
出演陣も素晴らしい。
なかでも中井貴一は飛び抜けてシブい。
それに比べて、主演の本木雅弘は
いま一つ軽いかなぁという感じ。
これまで小泉今日子をいいと思ったことは一度もなく、
倉本作品に合うのかなと思ったが、最高だった。
もと「なってたってアイドル」なので、
この類の人は、何かにつけて「経年劣化」を揶揄される。
けれども最近、不自然な修正画像やアニメ顔、
整形美女の不気味な顔を見過ぎているせいだろうか、
たびたびアップになる、しわの寄った顔が、
リアルでナチュラルで美しい。
そう思ったのは、やっぱり自分も齢を取ったからだろう。
カミさんと朝イチ(といっても11時半)の回に行ったが、
僕たちを含めて、観客はシニア割の人たちばかり。
やっぱり昭和の作り手、昭和の観客の世界だ。
間もなくこうした世界はむかし話になるだろう。
でも僕は、リアルで深遠な昔ばなしを
大事にしていきたい。
神妙な顔で「人生とは・・・」とうなっている人も、
ひたすら働いて、仕事と貯金と投資に明け暮れている人も、
ただ毎日むなしい思いで時間を浪費している人も、
ぜひ、この本を読んでみてください。
たぶん元気になる。
ちょっとは心が楽になる。
サブカルチャーの担い手・みうらじゅんと
とぼけた才人・リリーフランキーの
抱腹絶倒の対談集(っつーか、飲み会の雑談のノリ)。
内容はまさしくこのタイトル通り、
ワハハとあきらめて人生を語り倒す。
さて、今年もあと1か月ちょっとだけど、
時間がないない。
10~20代の1年は、40代だと半年、50代で4カ月、
60代になるとせいぜい2カ月。
いや、1か月半かな?
ほんとだよ。
あと20年ある、30年ある、
50年あるなんて考えない方がいい。
そんな時間はありません。
「人生100年」なんて言葉に騙されず、
あなたの短い人生を大切に。
兵庫県の知事選で当選した
斎藤元彦氏の公職選挙法違反疑惑の件。
これは斎藤氏がどうこうではなく、
広報戦略を作ったという
PR会社の女性社長がナゾナゾ。
「ほらほら、アタシがやったんですよ。
皆さん、知ってましたぁ?
あの人が復帰できたのって、
やっぱ、アタシのお手柄じゃないですかぁ」
斎藤氏の大逆転復帰劇で
舞い上がってしまったのだろうか?
自慢したい気持ちはわかる。
ビジネス拡大の大チャンス!って気持ちもわかる。
けど、SNSに自分の手柄を書いて、
見せびらかすって、ちょっとあり得ないゾ。
クライアントに対する守秘義務厳守って、
広報の仕事の基本中の基本だゾ。
それを社長自ら破ってどうする?
最近はやりのマウント大好きキラキラ女子なのか?
僕の周りには優秀な女性が多いけど、
こういう人がいるから、
「やっぱり女は・・・」なんて言われちゃう。
もっとちゃんと仕事しようよ。
電子書籍・おりべまことの
新しいノンフィクションシリーズ
「市井の賢者」(仮題)の制作にご協力いただいてる
高塩博幸さんの取材で北千住へ。
高塩さんは、新幹線のぞみ第1号の運転士。
JR東海を定年退職の直前に辞めて、
みずから映像ディレクターのスキルを学び、
シニア起業家として
映像制作の会社「ブルーオーシャンスターズ」を立ち上げた。
今日はAIの研修講師である宮田剛志さんと組んで
「30秒CM動画制作講座」を開催した。
テクノロジーの発達で、
小規模な会社でも、お店でも、個人事業主でも、
手軽にCM動画がつくれる時代は、
これからどんどん進むだろう。
動画制作のノウハウと
AIの活用法を同時に学べるお得な講座だ。
初めての講座開催とのことだったが、
JR時代に運転士の教官をやっていたという
高塩さんの指導はとても丁寧でわかりやすく、
自信に満ちていて、すでに円熟の域。
動画CM制作のノウハウと
AIの知識を同時に学べるお得な講座で、
参加者も大いに満足した様子だった。
以前、「卒業式の詩と死」という
ブログ記事を書いた。
息子の高校の卒業式で聴いた
谷川俊太郎さんの詩についての話だ。
息子が卒業したのは、都立豊多摩高校。
谷川さんの母校である。
ただし、ご本人は学校が嫌いで、
戦後の混乱期だったこともあり、
ろくに登校していなかったという。
今でいう不登校の生徒だったらしい。
その谷川さんがOBとして、
1968年の卒業生の要請を受け、
「あなたに」という長編詩を創作して贈った。
以来、半世紀以上にわたって読み継がれてきており、
2015年の息子の卒業式の時も
ラス前に演劇部の生徒が朗誦した。
長いので、最後のフレーズのみ引用する。
あなたに「火のイメージ」を贈り、
「水のイメージ」を贈り、最後に「人間のイメージ」を贈る、
という構成だ。
あなたに
生きつづける人間のイメージを贈る
人間は宇宙の虚無のただなかに生まれ
限りない謎にとりまかれ
人間は岩に自らの姿を刻み
遠い地平に憧れ
泣きながら美しいものを求め
人間はどんな小さなことにも驚き
すぐに退屈し
人間はつつましい絵を画き
雷のように歌い叫び
人間は一瞬であり
永遠であり
人間は生き
人間は心の底で愛しつづける
――あなたに
そのような人間のイメージを贈る
あなたに
火と水と人間の
矛盾にみちた未来のイメージを贈る
あなたに答は贈らない
あなたに ひとつの問いかけを贈る
けっして上手な朗誦ではない。
しかし、圧倒的な言葉の連なりに、
会場は神聖な空気に包まれた。
こんな体験ができた子供も親も
本当に幸福だったと思う。
今も胸に残響している。
半世紀経とうが、1世紀経とうが、
色褪せるどころか、ますます鮮烈になるイメージ。
命の息吹溢れる言葉、呼吸し鼓動する詩。
日本最高峰の詩人・谷川俊太郎さんの
ご冥福をお祈りします。
台本ライター・福嶋誠一郎のホームページです。アクセスありがとうございます。
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