瓦礫の中の写真は未来への資産

 

 よく晴れた夏の朝。まだ幾分涼しく、日の光も明るく爽やかに降り注ぐ時間。僕の家の庭の花にオニヤンマが訪れた。僕は思わず、家の中からカメラを持ち出し、シャッターを切った。

 紫の可愛い花とオニヤンマの立派な体とのコントラストに「生命感みなぎる季節の歓喜」といったものを感じた。人は、いや、現代人の多くは、何か心を動かされるものに出会った時、写真を撮ろうとする。 

 

 およそ200年前までは地球上に写真は1枚も存在しなかった。世界最初の写真は1827年、フランス人発明家ジョゼフ・ニセフォール・ニエプス (Joseph icéphore Niépce) によって生み出されたとされている。

 そして、それからまた数十年の月日が費やされ、19世紀後半になってやっとその存在は多くの人々に認められるようになるのだ。 

 

 写真のない時代に生きていた人たちの世界観や人生観は、きっと僕らのものとは随分違っていただろう。もし今、この世界から写真がすべて消えてなくなってしまったら、僕たちの人生はどう変わるだろうか?

 

 今朝(7/21)のTVの被災地に関するニュースでは、瓦礫の撤去作業がなかなか進まない話、そして、そうした瓦礫の中から取り出したアルバムや家族写真を綺麗に修復し、現地へ送り返すという仕事をしている大阪のNPOの話を放送していた。 

 

 笑う子どもの顔、さりげない幸福な日常の一コマ、お祭り、お正月、入学式、結婚式、誰にも訪れるアニバーサリー、その人たちがずっと伝えたいと願っていた人生の記念すべき時……

 たとえそれが見知らぬ人、見知らぬ家族ものでも、一枚一枚の写真が人々の心に訴えるものは大きい。それはまた逆に、そうした幸福の時間を奪い取った今回の震災の悲惨さ・残酷さをも表現しているのだ。 

 

 僕は「東北太平洋沖地震生活支援協会」というNPOと少々関わっている。ここでは被災地の復興支援のため、毎週ボランティアバスを出しており、集ったボランティアの人たちの手による瓦礫の撤去作業、そして、その中から被災した人たちの写真やアルバムを分別する作業を行なっている。 

 

 瓦礫は重機などでバリバリ片付けることも出来るし、当然その方が効率的なのだが、その中に写真=「人の暮らしの大切な記憶」が埋もれている以上、それはできない。人の手で一つ一つやっていくしかないのだ。

 ハンパなく面倒であることは間違いない。けれども、その気の遠くなるほどの面倒臭さが「心を動かすものとの出会い」に繋がっていく。そしてまた、それが復興の原動力の一つになっていくのだ、と信じずにはいられない。

 瓦礫の中の写真=被災した人たちの記憶の一つ一つは、からだを形作る細胞のように、未来を創るための巨大な資産になるのだから。

 

 

2011・7・21 THU