インヴァネスのベーコンエッグ

 

Good Morning。GWスペシャル。
以前、「ロンドンのハムカツ」という話を書いたので、今度はその姉妹編を書きました。

ブログにしてはちょっと長い、小説のような、エッセイのようなお話です。

 

 真っ白なブラウスに真っ白なエプロン。

 金色の髪に琥珀色の瞳。齢はおそらく15か16。中学生か高校生ぐらいだろう。

 けっして美人ではないけれど、愛嬌のあるファニーフェイス。

 何よりも白い肌に映えるリンゴのような真っ赤なほっぺが可愛らしい。


 彼女は「わたし、アマンダと言います」と自己紹介してくれた。

 そして、ダイニングのテーブルに着いたぼくの前に、湯気の立つ焼きたてのベーコンエッグの皿を運んできた。

 香ばしいにおいが鼻をくすぐる。

 そのにおいとともに、彼女が少し緊張気味であることも伝わってきた。

 あまり接客に慣れていないようだ。

 なんとなく動きがぎこちない。

 もしかしたら泊り客に食事をサーブするのは初めてなのかもしれない。

 口元に湛えた微笑みも心なしかこわばっている。

 

 ぼくは自分が池袋の喫茶店で初めてアルバイトをした時のことを思い出した。

 黒い蝶タイで首が締めつけられていたせいか、ひどく息苦しかった。

 コーヒーカップがソーサーの上で小刻みに震え、カチカチ音を立てているのがやたらと大きく耳に響いた。

 客は男だったか女だったか、若かったか齢を取っていたのか、まったく憶えていない。

 そんな顔のわからない客が、じっとぼくの動きをいぶかしげに観察していた。その視線だけがよみがえってくる。

 

 彼女も同じことを感じているのだろうか?

 せっかく一生懸命やっているのに、それではちょっと気の毒だなと思い、とりあえず「ありがとう、アマンダ」と、お礼を言った。

 きっと彼女は「どういたしまして」と返そうとしたのだろう。

 しかし、微笑みを湛えたたまま唇がうまく動かせない。

 そこまで余裕がないようだ。

 そこでぼくはもうひとこと付け加えた。


 「きょう、ぼくはネッシーに会いにここまで来たんだ」

 

 その時代、ネッシーは人々の心の中に実在していた。

 子供の頃、「世界のふしぎなんとか」という本を読んでから、ぼくの中でもその影が消えたことはない。

 イギリスに来て、秋が過ぎ、冬が過ぎ、春がめぐってきた。北にあるスコットランドも5月の声を聞いて、やっと春めいてきたという。

 だからぼくはレストランの仕事を3日間休み、ロンドンからこのインヴァネスを訪れたのだ。


 インヴァネスはネス湖のすぐ近くにある町で、ぼくが宿にしたこのB&B(ベッド&ブレックファースト=イギリスの民宿)は、町の中心からちょっとだけ外れた、ネス川のほとりに佇んでいた。

 周囲の緑に溶け込んだ、田舎風だが、おしゃれな家だ。

 

 夜、シャワーを浴びたあと、ベッドの上にごろんと横になると、しじまの中から水の流れる音がさやさやと聞こえてきた。

 ネス湖に注ぎ込む水がささやきかけている――そんなふうに感じた。

 するとぼくの頭に、明日、実際に起こるかもしれないネッシーとの遭遇シーンが浮かび上がった。

 

 どんよりと重く垂れこめた雲の下、濃い霧が出て、湖はミステリアスな雰囲気に包まれている。

 湖畔を歩いていると、湖の真ん中でにわかに水面がざわざわと波立った。

 あっと思ってその場所を見る。

 水中からなにか黒い大きなものが現れたかと思うと、するするとそれが灰色の中空に伸びていき、弧を描いた。


 その長い首の持ち主はそこでひとつ、咆哮を轟かせた。

 自分ははるか昔の地球の子供であることを、ぼくたち人間に知らしめるように。

 そして、この惑星の何億年という時の堆積の上に、今の人間の暮らしがあることを訴えるかのように。


 その映像と音声は、目を覚ましたまま想像を巡らせているのか、それとも眠りに落ちて夢を見ているのか、自分でも判然としなかった。

 ぼくはそんなふうにインヴァネスでの最初の一夜を過ごしたのだ。

 

 「そうですか。ネッシーに会えるといいですね」


 アマンダはそう言って、ひと息ついた。

 そしてまた、にっこりと微笑みなおした。

 少しはにかみ気味ではあるものの、今度のはこわばりが溶けた自然な微笑みだった。

 心からそう願っている、ぼくの幸運を――

 それがひしひしと伝わってくる。

 そして、「トーストやコーヒー、紅茶は何杯でもお代わりできますよ」と言った。

 

 

 食事がまずいと言われるイギリスだが、朝食は別だ。

 アマンダにサービスされたボリュームたっぷりのベーコンエッグ。

 それにはソーセージもついているし、焼いたトマトやマッシュルームも添えられている。

 それにもちろん、トーストにはバターとマーマレードをたっぷり塗ることができる。

 あまりにおいしく、また、ボリューム満点で、ぼくは朝からおなかを満たし、心の底から満足した。

 

 美しい朝の光がダイニングルームの窓から注いでいる。

 ネス川のせせらぎに混じって、小鳥のさえずる声が聞こえてくる。

 やわらかなそよ風が吹き、庭の花も一段と鮮やかに色づく。

 地面から、空中から、春の暖かさがあふれ出してくるようだ。


 その日のインヴァネスは昨夜の夢想、そして、ぼくが子供の頃から胸に抱き続けていたミステリアスなネス湖のイメージとは、あまいにもかけ離れたものだった。

 

 「ぜひ、ネッシーに会ってくださいね」

 出かけるとき、アマンダは玄関でぼくを見送りながら、もう一度、そう言ってくれた。
 「うん、期待してるよ」


 彼女にはそう言いながらも、ぼくにはわかっていた。

 ぼくはきっとネッシーに遭遇することはないだろう。

 なぜなら、ぼくのインヴァネスとネス湖に対する印象は、その時すでにまったく変わってしまっていたから。

 

 こんがり焼けたベーコンエッグ。
 それを運んできてくれた女の子。
 そのリンゴのような赤いほっぺと、ちょっとはにかんだような愛らしい微笑み。

 

 

 長い首を持った、太古の地球の子供は、昨夜の夢想を最期に、もう過去のものになりかけていた。
 空は青く澄みわたり、遅れてやってきた春があたりにさざめいている。 

 その後ろから夏もくっついてやってくる。

 そんな気持ちにもさせられる5月の朝。

 ぼくは麦わら帽子をかぶり、ゴールデンピクニックにでも出かけるような気分で、ネス川に沿って湖に向かって歩いて行った。

 今でも鮮やかによみがえる小さな旅。
 アマンダ、おいしいベーコンエッグとインヴァネスをどうもありがとう。