1976年の夏休みの星空と自己の存在証明について

★1976年の夏休み、岐阜の山の中で

 

 9月ももう1週間過ぎたのに、いまごろ夏休みの話かよ~、と言われそうですが、昨日、若い連中との座談会のことを書いたら、ふと思い出したので。

 

 40年前の夏休み、高校生だった僕はなぜか他の学校の合宿についていき、岐阜の山の中にいました。

 その夏の地域の演劇大会で友達になった連中から誘われたのです。

 合宿と言っても大したことをするわけでなく、飯盒炊爨で作ったメシなど食いながら、星空のもと、(男ばっかりだったので)女の子の話などに花を咲かせました。

 

 またたく星の光に勢いづいたのか、そのうち、マジな方向に話が行って、どういう過程を経たのかはわからないけど、「自分がこの世に生きた証を立てたい」といった壮大なテーマに拡大。

 そして、その証明のために「芝居の脚本とか映画のシナリオを書こう」という話になりました。自分のことだけど、さすがティーンエイジャー、青春してたんだね、という感じです。

 まぁ、そんなことがあって、そういう類のものを書き始め、えんえん40年経ってしまったというわけです。

 

★存在証明への欲求

 

 そんなことを話して盛り上がるのは、演劇部とか映画研究会とか、そういうやつらだけ、それも若いうちだけ――と思っていたのですが、どうやらそんなことはないようで、ある程度、齢を取っちゃうと、文科系だろうが、体育会系だろうが、多くの人は脳がその「生きた証」やら「存在証明」やらのキーワードに反応して動くようになるみたいです。

 

 ブログやフェイスブックにあれこれ書くのも、そうしたことの一つの表れだと思いますが、戦後生まれの人たちはそれだけでは飽き足りません。

 

 最近はやたら「自伝」とか「自分史」の書き方みたいな本を書店や図書館で見かけますが、これもそうしたニーズが高まってきていることを表す現象の一つと言えるでしょう。先日のエンディング産業展でも、その類のメディアサービスがいくつか出展されていました。

 みんな、この世とオサラバする前に一矢報いねば、という想いにとらわれるのではないでしょうか。

 

 仕事をしてお金を稼いで、家族を養う必要があれば養って、ちゃんと国に税金を払って、そこそこ社会の役に立つことをやった気がして・・・人生それで十分OK――と考えたってよさそうなもの。それで十分立派な人生だと思うのですが、どうもそうは問屋がおろさない。自分で自分が納得できない――という思考になるのでしょう。

 

★ぜんぜん得にならないけど、人間はそこから逃れられない

 

 ついつい「俺の生きた証は・・・」とか「わたしの存在証明は・・・」など、めんどくさいことに足を踏み入れてしまう。

 損得勘定で考えたら、あんまり、というかまったく得になることとは思えない。それなのに・・・なぜ?

 それが人間。とりあえず、ロボットとは違う部分なのでしょう。

 そうじゃないとロボットと差別化できない。

 そんな時代がもうすぐそこまで来ています。

 

 さて、あなたの存在証明は今、どうなっているでしょうか?

 僕の場合はどうなのだろう?

 たまには星空を見上げて考えてみよう。

 

 

2016・9・8 THU