あの世に行った父と話す

 

 男は父親や祖父の年齢を基準に自分の寿命を考えています。

 つまり父が、あるいは祖父が何歳で死んだかを気にかけます。

 女の人の場合は、やはり母親・祖母のほうでしょうか。

 僕も父が80歳で死んだので、漠然と自分の寿命は80と思って生きています。

 もちろん、明日死ぬかもしれないし、もしかして100まで生きる可能性もあるけど。

 

 その父はやはり自分の父――僕の祖父の享年77を気にしていて、その齢を超えた時、「親父の齢を超えた」と感慨深げに語っていました。

 

 一緒に芝居をやっていた僕の友達は、両親がまだ生きているのにも関わらず50歳で死にました。

 もちろん意図して死んだわけではないけど、親不孝者になってしまった。

 「父の日」や「母の日」になに贈ろう、どうしようなんて考える必要はありません。

 子供はすべて7歳までに親孝行をすませています。

 七五三だって、親が子供に孝行してもらうためにあるのです。

 あとは親より先に死なないだけ。

 それで親孝行なんてオーケーなのです。

 

 僕の父が死んだのは8年前の12月。

 意識のある父と会ったのは、その年のちょうど今頃でした。

 いっしょにうどんを食べたのが最後の食事ですが、ぼろぼろこぼすので、途中から食べさせてあげました。

 

 その時、「もう会うのも話すのもこれで終わりかも・・・」と予感したのですが、

 案の定、12月に入ってすぐに倒れたという知らせを受け、病院に行ったときはすでに意識がなく、そのままぼ半月後に亡くなりました。

 

 「ハムレット」「アマデウス」など、主人公が父親の亡霊に悩まされる話は欧米によくありますが、これはキリスト教の神とリアルな父親のイメージを重ねているのでしょう。

 

 それとはちょっとニュアンスが違うけど、父親というのは死後も、というか、いなくなったからこそ影響力を振るうものだと最近、気が付きました。

 こういう時、親父ならどうするかとか、あの時、親父は何を考えていたかとか、無意識によく思い巡らせているのです。

 

 生前、大してコミュニケーションしておらず、死後、なんにも親父のことを知らなかったなぁと後悔することしきりでしたが、最近は、むしろあまりいろいろ知らないほうがいい。その隙間は自分の想像力で補えばいい、と思うようになりました。

 そのほうがいつも父の顔を思い浮かべられるし、会話ができるのです。

 

 もちろん会話というのは比喩ですが、生前より身近に父という人間に触れられるような気がするのです。そのベースには幼い頃にかわいがってくれた時に嗅いだ父親の匂い――陽だまりとタバコが入り混じったような匂いの記憶があります。

 嗅覚は原初の記憶を留めるとともに未来をイメージするための資料にもなり得るのだと感じています。

 

 ハムレットやモーツァルトみたいに、まだ父の幽霊にはお目にかかっていませんが、

そのうち夢の中にでも出てくるかもしれません。

 

 

 

2016・11・3