クリスマスプレゼントは「ばんめしできたよ」

 

  クリスマスの夜に夢を見ました。

 タイトルは「ばんめしできたよ」。

 

 僕は台所でひたすら料理を作っている。

 何の料理だかはよくわからない。

 というか、いろんな料理を作っている。

 そこには僕の生活史が現れている。

 

 子供の頃、何か自分でめしを作りたいという衝動にかられ、寿がきやのインスタントラーメンを作っておいしかったこと。

 

 母親が留守の時に友達と初めてカレー作りに挑戦し、肉を入れなかったのでカレー粉の味ばっかりしたり、ニンジンが生煮えで固かったこと。

 

 東京に来て友達と一緒に暮らし始めたのだが、そこの部屋にはいろんな連中が入れ代わり立ち代わりやって来て、酒の肴など、代わる代わるいろんなものを作ったこと。

 

 その頃、付き合っていた女の子を家に呼んで、一緒にめしを作りながら台所で抱き合ったこと。

 

 その子に「ずいぶんいい加減に作っているのに、すごくおいしい」という、いたく愛のこもった台詞を言われ、以来、調子に乗ってめしを作り続けていること。

 

 そのいい加減なめしをカミさんと子供は毎日、文句も言わず食っていて、割と楽しみにしていること。

 

 そういえば後輩にカレーを作ってやったり、家に来た仕事の仲間に食わせたこともあって「フクシマさん、これはプロの味ですよ」とお世辞を言われたこともあった。

 

 そんなこんながコラージュみたいにごっちゃになって夢の中で展開しました。

 

●イメージ・記憶・共有データ

 

 加えて、自分が体験したことのない昔のかまどでの煮炊きの光景や、どこかヨーロッパの中世の宮廷か何かの台所の中で料理人たちがドタドタやっているようなイメージが混じっていました。

 

 また、ロボットが出てきて僕が料理しているところを手伝ってくれてくれているシーンなども。

 僕が「おまえ、めし食えるの?」と訊くと、「ええ、まぁ、なんとか・・・」なんて、実に人間らしいファジーな受け答えをしたりしていました。

 

 これらは映画の1シーンや、読んだ小説だかマンガだかの1シーンなどがビジュアル化したのかもしれません。

 

 あるいは個人的な記憶の他に、国民、人種、あるいは人類全体の共有の記憶も僕たちの中に蓄積されているので、そうした大容量データバンク由来のものがイメージとして流れ込んで、混じり合ったのかも知れません。

 僕は食べることも作ることも好きなので、「食」というキーワードがスイッチとなってそうした記憶=イメージが夢として表現されたのでしょうか。

 

●食うために生きる

 

 「人は食うために生きている」とは、通常、単に何の目標もなく、生きがいもなく、ただ生活費を稼ぐために生きている――という意味で使われ、暗に「それでいいのか」という揶揄・批判を込めれあれることが多いと思います。

 でも、これを肯定的に考えてみたい。

 僕は人間にとっての「食」は、ダイレクトに生・生活と結びつくと同時に、あらゆる人間の思想や行動・社会の営みとリンクする豊饒な概念だと思うのです。

 

 そう考えると、毎日、めったやたらと上がってくるフェイスブックのごはんの写真+記事の中にも、程度の差はあれど、言外にその人なりの自分の人生や生活に対するいろいろな思念・思惑などが込められていて面白くなります。

 

●サパーズレディ

 

 朝飯も昼飯も作って食っているのだけれど、なぜ「ばんめしできたよ」というタイトルなのかと言えば、プログレバンドの「ジェネシス」の曲で一番好きなのが「Supper's Ready:サパーズ・レディ」――そのまんま「ばんごはんだよ」という曲なのです。

 

 70年代のロッククラシックの名曲で、最近はかつてのライブ映像もYou Tubeに多数上っているので、しょっちゅう見ている。

 ヴォーカルのピーター・ガブリエルが奇妙奇天烈なコスプレで変幻自在に歌いまくる20分の組曲で、まさしく夢のように多種多様なリズムとメロデイが展開します。

 

 内容は、キリストの最期の晩餐をテーマに、現代社会への批判やパロディ、寓話、人間存在についての追究などの要素を散りばめたもので、それをエンタメ感たっぷりにやっているところが面白い。

 

 というわけで、この夢は僕にとって、来年に向けての創作や仕事のヒントとなり得る素敵なクリスマスプレゼントでした。新しいネタで新作の脚本や小説も書いていこうと思います。

 

 

2016・12・26 Mon