この世界の片隅に居所を見つけられる未来のために

  今日は成人の日でした。

 ニュースで流れる成人式は「目立ちた~い!」という20歳の子供たちが大勢紹介されていました。

 

 彼らのような目立ちたい意識は、ぼくたちの時代からあったもので、今に始まったことではありません。

 アメリカがピカピカ輝いていた時代に生まれ育った戦後世代は「アメリカでは目立たないやつ、自分の意見を主張しないやつは、この世に存在しないもいっしょだ」という話をよく聞かされました。

 

 「それはたいへんだ」と思って、僕も自分の個性なるものを追い求め、演劇などの表現活動を始めたのだと思います。

 そして、社会に出てみれば、同じような人たちがゴマンといました。

 

 昨日観た「この世界の片隅に」の主人公のすずさん(彼女は20歳前にお嫁に行って主婦になった)や、その姪っ子の晴美ちゃんは、ごく純粋に絵を描くのが好きで描いていました。そこに自己表現を、自己主張を・・なんて意識はまったくありません。

 

 たぶん、あの時代の人たちは、ごく一部の特殊な職業の人たちを除いて、自己表現を、自己主張を・・・なんてことはほとんど考えていなかったと思います。

 

 それはきっとそんなこと考えなくとも、家族や地域社会が自分の生を保証してくれて、安心して生活できていたからでしょう。

 

 でもそれは家や村や町のおきてに従わなくてはいけない、自由な言動を制限され、「ちがう」と思っても容易に抗えない・・・といったことと引き換えの安心です。

 社会・集団を維持するため、そうしたそれぞれの「個」を認めない因習に自己を引き裂かれる人も少なくなかっただろうと思います。

 

 それが嫌で、戦後、僕たちは大家族から核家族へ、核家族から個家族へと生活形態・社会形態をシフトさせてきました。

 ところがそれと引き換えに、絶えず孤独と未来への不安を抱えながら生きなくてはならなくなってしまった。

 

 成人式でなんとか目立とうとしている子供たちを見ていると、迫ってくる「未来」に飲み込まれまい、押しつぶされまいと、必死に自分の「個」を守ろうと頑張っているように見えるのです。

 

 おそらく僕たちが目指す未来は、かつてのつながっている、支えられているという安心感のある生活と、現代の自由で個を主張できる生活、双方を「いいとこどり」した世界です。

 レトロな古民家を、雰囲気はそのままに、トイレやお風呂やキッチンや冷暖房は、現代の便利な機能を採り入れる――あの世界です。

 

 そうした世界を実現しようと進み、そして、おのおのがこの世界の真ん中でなくてもいい、片隅にでも自分の居場所を見つけていくのだと思います。

 もしかしたら、双方の「いいとこどり」と引き換えに、そこでまた何か大きなものを失ってしまうのかもしれないけれど。