最後の晩餐の演出

 

●再確認のための晩餐

 

 ネット上に数多見かける「人生の最期に何を食べたいか?」という質問。

 それに対する答を見てみると、自分の好物や、食べたくても普段なかなか食べられないもの(高価なもの、贅沢なもの、あるいは太るのを怖れていつも我慢している・・・といった理由で)がほとんどを占めています。

 

 一度も味わったことがないもの――たとえば「チベットの秘境に伝わる伝説の○○料理」――を、この世の食い納めに味わいたい、という人はほとんどいません。

 一度味わったあの味を、あるいはそのワンランク上のレベルもの(同じマグロのお寿司でも○○産のクロマグロの・・・)を欲しがる人が、ほぼすべてです。

 

 つまり最期に所望するのは、脳の奥深くに刻み込まれている、あの美味しさをワンスモア。

 再確認するためというわけ。

 

●人生の美味しいところが凝縮された晩餐

 

 それでアンケートでは、好きな食べ物・料理やお菓子そのものを挙げるのですが、実際にはそう単純ではありません。

 その食べ物・料理・お菓子の背景には、ひとりひとり独自の膨大な思いがあります。

 逆に言えば、その思いをギュッと凝縮し、具象化したのが、その食べ物・料理・お菓子なのです。

 

 いくら寿司や刺身やステーキや焼肉といった好物・贅沢品の皿がずらりと並んだとしても、そこがひとりぼっちでカラッポの病室だったら、「ああ、これが最後の晩餐だ」と感動して迎え入れ、美味しく食べられるでしょうか?

 

 おそらくはその食べ物に、その人の人生における体験や人間関係にまつわるシーン、シチュエーション、ストーリーが伴っていないと、最後の晩餐たる食卓にはなり得ません。

 

 それは子供の頃、おふくろが作ってくれた○○であったり、

 かつて旅の途中で入った異国の片田舎のレストランの○○であったり、

 友だちとみんなでわいわい言いながら突き合った○○であったり、

 貧乏な時代、家族や仲間と分け合って食べた○○であったり。

 栄光を勝ち取り、人生が輝いていた席での○○であったり。

 

 でも、そんなシーン、シチュエーション、ストーリーを再現するのはまず不可能です。

 希望に叶った「あの味」を口にしても「あんなに食べたかったのに……こんなもんだっけ?」という結果になってしまうでしょう。

 

 失望に終わる最後の晩餐ほど悲しく残酷なものはない。

 

●最期の想像力で創り上げる晩餐

 

 でもその時、人間は失望で終わらせないために、人生最後で最大の想像力を発揮して、その食べ物をコアとした、記憶の中のあの空間・あの時代・あの世界を創り上げるのではないだろうか。

 その食卓には、失われた家族や友だち、仲間、自分自身さえ集ってくるかもしれない。

 

 その好物の味と匂い、そして、何かのきっかけがあれば、たとえ認知症だとしても、人間の脳はそれくらいの幻想を構築できるのではないかと思います。

 

 問題は食事を作る者・出す者が、どうやってそのきっかけを作れるか。

 それが最後の晩餐を提供する者の腕前なのでしょう。

 

 (たとえ幻想だとしても)本当に望んだとおりの最後の晩餐が出来れば、たとえ実際にはとてもつまらない、スカスカの人生を送ってきたとしても、その人は幸福だった、充実していたと締め括れるのではないか。

 

 そんなブラックな妄想から「ばんめし できたよ」を構想しています。