人を食った話

 

  人間は餓死しそうなほど飢えていればなんでも食べるのだろうか?

 生まれて一度も口にしたことのないものでも、口に入れられるのだろうか?

 敬虔なイスラム教徒は不浄な豚の肉でも食べられるのだろうか?

 ヒンドゥー教徒は神聖な牛の肉でも食べられるのだろうか?

 他の動物は、飢えれば共食いも辞さない。

 でも人間はどうなのか?

 僕もあなたも人の肉は食べられるのだろうか?

 

 すべての人間の脳には「飢える恐怖」がプリインストールされている。

 食に関する禁忌は、そうではなく生後、育つ過程で、その環境の生活・文化・宗教などによってインストールされる。

 脳に厳重なロックが掛けられる。

 その鍵は生命に危険がおよぶ極限状況に遭遇すると解除される。

 でも本当にそうなのだろうか?

 

 俗にいう「アンデスの聖餐」では、アンデス山脈の雪山で遭難した人々が、死んだ仲間の肉を食べて生き延びた。

 しかし、何人かは最後まで頑なにその「贈り物」を拒み、餓死した。

 

 どっちがいい・悪いの問題ではない。

 でもどっちか選ばなくてはならなくなったら、僕はどっちなのだろうか?と考えるのです。

 

 もちろん生きたい。

 ただ、生き延びた人のその後の人生はどうだったのか?

 食事はちゃんとできたのだろうか?

 生きたことを後悔しなかったのか?

 罪の意識に苛まれるることはなかったのか?

 

 いろんな疑問が渦巻きます。

 一度、脳のロックを解除してしまったらどうなるのだろう?

 僕は四六時中、自分で自分が怖くてたまらなくなるのではないか・・・と、想像してしまいます。

 

 人間の場合、動物とちがって、食べることは単なる栄養補給・肉体を維持するためだけの行為ではありません。

 そこにはその人が生まれてから体験してきた文化やアイデンティティの問題が、深く、複雑に絡み合っています。

 

 脳のロックは、その文化やアイデンティティに基づいて掛けられたもの。

 いわば自分がその文化圏の人間であること、自分が自分であることの証明でもあるのです。

 

 世界各地で人食い人種やカニバリズムの話が広められ、実際にそういう記録も残っているようなので、いざとなれば容易に解除されそうだけど、実際はどうなのか?

 

 たとえ死に瀕したとしても、僕はおそらくそう簡単には外せないと思うのです。

 もちろん人それぞれで判断は違うだろうけど、人間はギリギリのところまで人間であり続けようと考えるのではないか。

 他の動物に堕して生きるより、人間として死ぬほうを選ぶのではないか。

 

 だから、禁忌に対するタブーは侵さない――僕はそう思う。

 希望する、といった方がいいかも知れません。 

 

 あなたはどうですか?

 餓死の危機に陥ったら、普段はけっして口にしないもののうち、何と何なら食べられると思いますか?