●この物語はファンタジーであり、寓話である
是枝監督はファンタジー作家、と言うと奇妙な感じがするかもしれない。
いわゆるスピリチュアルともちょっと違う。
でも僕たちが生きているこの世界には、普段、目の当たりにしている日常的な「見える化した世界」と、その向こう側にある「見えない世界」がある。
サン・テグジュペリが星の王子様に言わせた「本当に大切なものは目に見えない」の「見えない」。
もともとドキュメンタリー畑出身の人だが、現実の人間と社会の機構をつぶさに見つめるうち、そこを通り抜けて見えない世界に入り込めるようになったのだろう。
この作品は同監督初のサスペンス映画というふれこみで、表面的には確かにその通り。
だけど、なぜか僕は鑑賞後、8年前の「空気人形」という、ダッチワイフが現実の女の子になってしまうというストーリーの、寓話風な是枝作品と重なった。
もちろんタッチは全然ちがうのだけど。
●弁護士・重盛と犯人・三隅
福山雅治演じる重盛は、べったり「見える化世界」を代表するビジネスライクな弁護士。
実際に弁護士と付き合ったことはないけど、きっと現実はこういう人が多いんだろうなと思う。
加えていえば、世間で「デキる人」――いわゆるエリートだ。
これまでいろいろな映画やドラマで弁護士は正義の味方的に描かれることが多かったが、本作の中では彼は、敵役の検察官と、仲を取り持つ裁判官と一緒に法廷という舞台で芝居を演じる役者だ。
そしてそのお芝居の舞台裏で「今回はこのあたりで手を打っておきましょう、シャンシャン」という感じで被告人の生き死にが決められる。
これもまた、きっと現実はこういうパターンが多いんだろうなと思う。
それに対する役所広司演じる殺人犯の三隅。
供述一つ一つで重盛を翻弄する。
一見穏やかで、社会の底辺部近くで朴訥に生きる庶民。
ではあるが、30年前にも一度、殺人事件を犯している前科者。
彼は「見えない世界」を体現する人物だ。
●僕たちは重盛
重盛のようなデキる人ではないけれど、僕たち見える化世界の住人は、彼の目線でこの三隅と対峙し、ドラマを体験する。
するといかに自分がインチキな世界で生きているか、わかる。
そして重盛同様、「本当に大切なもの」なんてどうでもいいと思っていることも分かる。
僕たちは毎日忙しい。
お金を稼ぐために仕事をしなきゃいけないし、家事だってしなきゃいけないし、ごはんもちゃんと食べたいじ、寝る時間だって必要だ。
とにかくやらなきゃいけないことがいっぱいある。
そんな中で、毎日を少しでも心穏やかに生きていくために――言い換えれば、何とかやり過ごすためには、真実がどうだとか、本当に大切なものだどうだとか、そんなことにいちいちかまっているのは面倒くさいのだ。
●神の目線と半神の少女
もっと率直に言ってしまう。
犯人・三隅は、神、あるいはそれに類する観念のメタファー(暗喩)だ。
僕にはそう見えたし、きっと多くの観客がそう感じるだろう。
(劇中、そう感じざるを得ないシーンがいくつもある)
神、あるいはそれに類する存在だから真実を知っている。
同時に、重盛や僕たちが、そんな真実なんてどうでもいい、と思って生きていることも知っている。
すべてを見通す三隅の心を唯一動かすのは、広瀬すず演じる少女だ。
彼女は神と人間の間に立つ半神のような存在に見える。
彼女は足に障害を負っている。
生まれつきの障害らしいが、なぜか彼女自身は、子供の頃、屋根から飛び降りてケガをしたから・・・と弁明する。
何らかの社会的抑圧を受けて、そう弁明せざるを得ない・・・とも見て取れる。
なぜ是枝監督は、足が悪い少女という設定にしたのだろう?
彼女が「嘘つき」なのかどうかを考えさせるギミックなのか?
それもあるが、彼女に半神としての役割を負わせるための、何かもっと深い意味を込めているようにも思える。
●いい話ですねぇ
終盤、是枝作品には珍しく、カタルシスが来るのか、と予感する一瞬があった。
でもやっぱり来なかった。
いつも通り、カタルシスもハッピーエンドもない。
観終わったあとに胸に留まるのは、いったい何だったんだろう?というわだかまり。
この監督はけっして観客に明快な答を差し出そうとしない。
でも重盛との最後の接見で三隅が呟く「いい話ですねぇ」というセリフがたまらなく良かった。
あの一言を聞くだけでも、何度も繰り返しこの映画を観る価値がある。
僕も重盛と同じく、「いい話」を信じたい凡人なのだ。
たとえその「いい話」が真実ではなかったとしても。
福山雅治も、役所広司も、広瀬すずも、素晴らしい俳優だ。
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