2018年の4月も「4月のある晴れた朝に100パーセントの女の子に出会うことについて」を読んだ。

  

4月になると僕は本棚から

村上春樹の「カンガルー日和」という本を取り出して、

その中の2つ目に収録されている短編小説

「4月のある晴れた朝に100パーセントの女の子に出会うことについて」を読む。

 

ほんの15分もあれば読み切れる短い話だ。

そして次の15分、これはいったいどういう話なのだろう? と、

ぼんやりと自分に問いかけてみる。

 

答はいつも少しずつ違っているけど、

今年はこんなふうに考えた。

 

僕たちは自分にとって何が大切なのか、

本当はとっくの昔に知っている。

それはごく若い頃、

もうほとんど子どもと言ってもいいくらいの時にわかっている。

 

ところがいつしか、

「ちがうだろ」

と心のどこかでもう一人の自分がささやくようになるのだ。

 

その声は年を追うごとに大きくなってくる。

やがて「ちがうだろ」だけじゃなく、

「おまえ、それじゃダメだ」と言うようになる。

もう一人の自分というのは、

顔のない大人の言うことを聞く自分だ。

 

顔のない大人は、子どもや若い連中を

教え導かなきゃいけないという責任感と慈愛に満ち溢れている。

信奉するのは知識と経験だ。

 

それがなくては生きちゃいけない。

もっと勉強しろ。

もっと知識を仕入れろ。

あれも覚えろ。これも覚えろと、

ズカズカ僕たちの胸の中に上がり込んで、親切な指導をする。

 

すると、そのうちに僕たちは信じられなくなるのだ。

自分がとっくの昔に

本当に大切なものを見つけてしまっていたことを。

 

そんな大切なものを、知識も経験もない、

ほとんど子どもみたいなやつに見つけられるはずがない。

何か大きなカン違いをしているんだ。

そんなカン違いしたままでいると、

人生取り返しのつかないことになってしまう―ー

そんなふうに思い始めてしまう。

 

やがてもう一人の自分は、

教え導いてくれたのと同じ顔のない大人になって、

苦労して勉強しようよとか、

我慢して仕事しようよとか、

損せず得して賢く生きようよとか、

まっとうでやさしい言葉を使って僕たちを励ます。

 

そうなるともう、大切なものを見つけた記憶なんて

すっからかんになってしまい、

あの人は得しているのに自分は損している。不公平だ。

損するのはいやだ。得しなきゃ、得しなきゃ・・・って、

そんなことばかり考えるようになって、

それで死ぬまで頭がいっぱいになってしまうのだ。

  

この小さな物語は「悲しい話だと思いませんか」

というセリフで終わるのだけど、

僕たちはもうすでにそれが悲しいとさえ感じなくなっている。

 

ということも、この2018年になって

やっと考えられるようになったのだけれども。