子どもと大人の狭間で人間は自分の一生を俯瞰するのも知れない

 

 今回書いたドラマは、葬式めぐりをしたり孤独死しそうな老人を観に行く中学生の女の子を主人公にした。

 「死に興味を抱く子ども」と聞くと、びびっちゃう大人は多いかも知れない。

 でもこれは性に興味を抱くのと同じくらい自然なことだと思う。

 

 子どもは永遠の時間を生きている。

 

 死は自分の時間の終わりであり、主観的な世界の終わりである。

 子どもはそんな終わりのあることなんて考えない。

 ただ、得体のしれない恐怖心は持っている。

 地底か、海底か、宇宙か、暗黒の中に吸い込まれていくような、そうした死につながる恐怖の瞬間があることは直観的に知っている。

 

 物語を読むなり聞くなり、ごっこ遊びをするなりして、徐々に「死とは何か」は子どもの心に取り込まれていくのだと思うが、死の概念が完全に人間の心に定着するのは、やはり生殖できる体に変わる時期なのだろう。

 

 子どもが大人になるというのは、性を含めた愛を知ること、そして死を知ることだと思う。

 その時――思春期のほんの一時期、人間は自分が生まれてから老いて死ぬまでを一挙に俯瞰できてしまうのかも知れない。

 ただ、そんなことは、ほとんどの人はすぐに忘れてしまうのだけど。

 

 主人公の女の子は「いつかみんな故郷の星に帰るのにどうして地球にいるんだろう? ここでわたしたちは何をして、どうなろうとしているんだろう?」というセリフを言った。

 

 どうせ死ぬのになんで生きているのか?

 自分自身も抱えていた疑問が遠い昔からよみがえってきた。

 書いていると、いろいろなことが起こる。