あなたや僕が死んだら、サイバー空間の存在証明と お金にならない自分の財産はどこへ行くのか?

 

●遺された文章

フェイスブックから送られてくる、

友達のお誕生日のお知らせ。

昨日来たお知らせはスルーせざるを得なかった。

なぜなら、その人はもうこの世にいないから。

 

そっと覗いてみたら、今年も何人かのおめでとうメッセージが

入っていて、何とも奇妙な気持ちになった。

 

ついでに、と言っては何だが、

10年前に亡くなった友達のアメブロも覗いてみた。

最後の更新からすでに3700日近く経っているが、

こちらも依然として存在している。

 

●きっとそれは遺産

フェイスブックは、生前に追悼アカウント管理人を

指定しておけば、後始末を任せられる。

ただ、他の財産管理と同様、条件は厳しく、

本人が確かに認めたという証明も必要とされるので、

かなり面倒だし、責任も重い。

たかがSNS、たかがブログと侮れない。

 

そう考えると、いま書いているこのサイバー空間の文章も、

あなたや僕のアイデンティティの証であり、

世界の一つだけの存在証明であり、

お金にはならないけど貴重な遺産・財産なのだ。

 

●だけど運営会社が潰れたら・・・

ただし、それも運営会社次第と言えるのかもしれない。

もしフェイスブックやアメブロが倒産したり、

「もう仕事辞めます」と言って閉鎖したら、

いったいどうなるのだろう?

 

煙のように消えてしまうのだろうか?

 

最近、「デジタル終活」という言葉をよく聞くようになり、

故人が持っていた仕事上のデータ、

金銭がらみのアカウントなどどう処理すればいいのか、

大きな問題になっている。

 

SNSやブログの文字や映像がお金になることは

滅多にないと思うが、

その人の生きた証をどうと扱うか、

これもまたデジタル社会が進むにつれて

大きなテーマになっていくだろう。

 

●そして文は永遠に残る

こう書いてみて思うのは、

いまや人生の半分はパソコンやスマホの中の

サイバー空間に入っているんだなぁということ。

 

そして、それが残っている限り、

肉体は滅んでも、

僕たちは永遠に生き続けるのではないかということ。

 

レッド・ツェッペリンの歌に

「The Song Remains the Same(永遠の詩)」

というのがあったが、まさしくそれだ。

 

自分を取り巻く世界が、

ますます奇妙で不思議なものに見えてくる。