何のために僕たちは豊かになろうとしているのか?

 

バブル経済の崩壊後、物質的な豊かさは手に入れたので、
次は精神的豊かさを勝ち取ろう、
といった掛け声がよく聞かれました。
では「精神的豊かさ」とは何なのか?
コマーシャルで流れるような、

もっと自分たちの衣食住の質を上げたり、

高尚な趣味を持つことなのか?
 
それらも含まれると思いますが、一番の本質は、弱者といわれる人たちの存在価値を認め、彼らといっしょに生き、暮らせる社会を実現することなのだと思います。
逆にいえば、それ以外に豊かになる意味、豊かな社会を作る意味などあるのでしょうか?


2017年7月に起こった相模原事件の裁判が始まりました。
その27日に僕はブログに
「僕たちの豊かさと貧しさと相模原事件」と題して、
上記のような文章を書いていたので、
改めて読み返してみました。
この時の気持ちと全く変わっていません。

 

ビジネスやテクノロジーは3年半もあれば
劇的に進化しますが、
人間にとって本質的なこと、
社会にとって最も大事なことは遅々として変わらない。

 

「生産性」とか「効率化」といったことが
声高に言われるけど、
何のために効率化し、
生産性を上げなくてはならないのか?

 

もっと豊かになるために?
でも、何のために豊かになるのか?

 

セレブになってぜいたくな暮らしをするためか?
人々に、社会に影響力を持つためか?
では、それは何のために、そうしたことをしたいのか?

エゴが、自己顕示欲が満たされればOKなのか?

 

その「何のために」が決定的に抜け落ちているから、
精神を病む人たちが増えているのではないか?
生きてて空しくなってしまうのでがないか?

 

ただ、そういう自分も病人や障がい者を
厄介者として感じることもあります。

認知症の義母の面倒を見なきゃいけないと思うと、
あ~ と思う時があるし、
正直、仕事のペースを乱され、集中力が上がらず、
イライラすることもある。

なので、あの容疑者の言い分の何割かは
聞けてしまう。

 

でもやっぱり彼のような考え方は
否定しなくてはならない。
そうでないと自分が成長しないし、社会が進化しない。

 

いろんな個性を持つ人間がいることを認め、
こうした貧しき心を克服していくのが、
これからの僕たちの生きていく上での
優先的な課題ではないかと思います。

 

それにしても、こうした障がい者に対する差別意識って
いわゆる世界基準で世界的に見たらどうなんだろう?
日本独特のことなんだろうか?

もしそうであれば、
日本は「いつまでたっても下流国」
と言わざるを得ません。

 

裁判では容疑者の量刑がどうこうというよりも、
こうした僕たちの意識、
日本人の社会の意識が少しでも動かされるほどの
何かが生まれるのか? ということに注目しています。