さらば、おれの牛丼

 

東京に来た時は、右も左も分からない田舎者の童貞だった。

中毒と言うほどではないが、わりと牛丼にハマった。

どれくらいかわからないが、

まああ普通の若者程度に売上に貢献したと思う。

 

ところが34歳のとき、突然、食べられなくなった。

新宿だったか、渋谷だったか、池袋だったか、

定かでないが、

夜、腹を減らしてフラフラ歩いていて店の前を通った。

あのいい匂いが鼻を刺激する。

即座に心は決まった。

店に入り、席に着き、並を注文すると、

1分で湯気を上げた丼が出てくる。

いつものようにベニショウガをどっちゃりのっけて

その上から七味をかなり多めにふりかける。

 

その一連の作業の間に、

肉とタマネギとめしとベニショウガを同時に

口内にかっこみ、その味と食感の混じり合ったイメージが

エアー状態で脳に伝達される。

すでに脳は「うめー」と歓喜のうめきを上げている。

 

それよりやや遅れて、フィジカルにそうなるはずだった。

ところが異変が起きた。

最初の一口をかっこんだところで、

「うっ」となったのである。

 

喉を通らない。

いや、その前にほおばっている口が、

正確にはあごにマヒが走り、動かせない。

 

なんとかその分だけは飲み下したが、

もうそれ以上はだめだ。

 

ここから先、食道に入れたら戻す。

 

脳がそう言っていた。

脅しではない。

やつは本気だ。

そういったら必ずそうする。

 

まさかりっぱな社会人であるおれが、

いくら何でも飲食店でゲロを出すわけにはいかない。

冷や汗がタラリと流れる。

何か不気味ない生き物が腹の底から

這い上がってくるような感覚にとらわれる。

 

これはやばい。

お茶をガッと飲む。

少し気分が落ち着く。

もう一度、ほとんど減ってない

丼の中ににチラと目をやるが、

やはりもう一度トライするのは無謀だと観念し、

そのまま席を立ち、金だけ払って店を出る。

 

いったいどうしてしまったのか?

もしや何か異物が入っていたのか?

それとも体調が悪かったのか?

おそらくそうだろう。

このおれが牛丼を喰えなくなるなんてありえない。

 

しかし、あり得たのだ。

それから1週間後、1か月後、3ヵ月後。

やはり同様に匂いに魅かれ、食べようとトライしたのだが、

まったく同じ現象が起きた。

 

もう体が牛丼を受け入れられなくなっていた。

意思と反して、脳が異常な圧力をかけてくる。

超常的な何かが、おれに牛丼を食わせなくなったのだ。

思えば17年の付き合いだった。

 

高校生のとき、初めて食べた名古屋の牛丼。

上京してやたらハイになって食べた明大前の牛丼。

池袋の芝居のけいこ場で仲間と食べた牛丼弁当。

徹夜の仕事帰りに食べた渋谷の牛丼。

飲み会の後に友と語り合い合いながら食べた新宿の牛丼。

 

思い出が走馬灯のようによみがえる。

けれども涙を拭って決別しなくてはならない。

さらば牛丼。青春の牛丼。

 

好きなのにどうして別れなくてはならなかったのか、

あれから28年経つがいまだに謎だ。

人生は謎だらけだ。

そんなわけでおれの人生から牛丼は消えた。

 

なお、このお話は本日、話題になった

某大学における某牛丼チェーン店役員の

「田舎の生娘、牛丼シャブ漬け発言」とは

何の関係もありません。