「ゴールデンボーイ」:誰もが怪物になり得る恐怖の神話

 

「刑務所のリタ・ヘイワース」と一緒に納められた

スティーヴン・キングの傑作中編。

タイトルや表紙から一見、

「スタンド・バイ・ミー」のような

青春物語なのかと思って読み始めると、

とんでもない目に遇う。

(「スタンド・バイ・ミー」も原作「死体」は、

映画と違ってかなる陰鬱な物語だが)

 

霊だの超能力だの超常現象だのは一切出てこない。

舞台はありふれたアメリカの田舎都市。

主人公は健康でスポーツ万能、成績優秀、

家庭にも恵まれ、経済的にも恵まれ、

孤独や貧困や差別などとは無縁な、

白い歯の笑顔が似合う理想的なアメリカ少年。

 

およそ人間の心の闇だの、

社会の裏とか影だのといったところとは

遠いところにいるはずだった少年は、

雑誌のエンタメ風読み物に掲載されていた

ナチスドイツの犯罪の話に興味を持った。

 

それに対する無邪気な好奇心が、

近所に隠れ住んでいた、

老齢のナチスの戦犯を見つけるという偶然から、

腹わたをえぐり出すような物語に発展する。

 

1983年にアメリカでキングの中編集「恐怖の四季」を

ペーパーバック化する際、

この作品の衝撃的な内容に出版社がおそれをなし、

「これだけ外せませんか?」と

お伺いを立てたといういわくもついている。

 

「あとがき」にはその時のことを語った

キングのインタビューの一部が載っている。

 

「僕は自分の精神分析に興味はない。

何よりも興味があるのは、

自分が何を怖がっているかに気付く時だ。

そこから一つのテーマを発見することができるし、

さらにはその効果を拡大して、

読者を僕以上に怖がらせることができる」

 

1980年代当時、発禁ギリギリとも言えるこの物語、

そして90年代以降、頻発する猟奇殺人・無差別殺人を

予言したかのような「ゴールデンボーイ」は、

超売れっ子作家であるキングの作品だからこそ

世に出すことができたのかもしれない。

 

1990年代から一般人の間でも精神分析、

プロファイリングという概念が広まり、

「トラウマ」「アダルトチルドレン」

といった言葉も一般化した。

 

以来、日本でも海外でも、

理由のわからない殺人事件が起きると、

僕たちはその犯人の心に闇をもたらしたもの———

孤独、貧困、虐待、差別、マインドコントロール、

格差社会のひずみといった問題を探し出し、

なんとか理解しようとする。

 

しかし、40年前に書かれたこの小説を読むと、

それ以前の何か—ー80年代のアメリカ社会に象徴される

現代のゴールデンな物質文明、

さらに情報化された社会そのものが、

人間を――特に可塑性のある子どもを、

容易にモンスター化する土壌に

なっているのではないかと思えてくる。

ナチスの老人との出会いはそのトリガーに過ぎない。

 

キングは二人の3年にわたる交流の過程を、

平凡な日常の描写を積み重ねながら描いていく。

そして、それが恐るべき状況を生み出し、

戦慄の結末へとつながっていく。

 

ラスト3頁の地獄の顛末の表現はあまりに素晴らしく、

読後感はとてつもなく苦い。

しかし、不思議なことに

それは何度でも何度でも嚙み締めたくなる、

噛み締めずにはいられない苦味なのだ。

 

それはこの物語がたんなる恐怖小説でなく、

僕たちの生きるこの社会に、

人間の魂に宿る善と悪の源泉に、

そして人生の始まりから行く末にまで

想像力を馳せらることができる、

現代の負の神話、負のバイブルだからではないかと思う。