社会を回す人たちの働く意欲・生きる元気

 

年末年始はデイサービスがお休みなので、

義母が毎日家にいる。

それでカミさんがカリカリしてくるので、

僕が義母を外に連れ出すことになる。

午前も午後も普段より長めの散歩をする。

正直、けっこう疲れる。

本や映画をゆっくり見ようと思っていたが、

考えが甘かったようだ。

 

お正月スペシャル散歩ということで、

帰りけに茶店に寄る。

飲食店、特にチェーン店は

コロナで落ちた売り上げを取り戻す狙いもあるのか、

けっこう元旦から開いている。

 

昨日は浜田山付近・井の頭通り沿いにある

「むさしの森珈琲」でコーヒーといっしょに

この店の名物だという

「ふわとろパンケーキ」を食べた。

 

名前の通り、ふわっとしてて

トロっと口の中で溶けるパンケーキで、

見た目はけっこうボリューミーだが、

風船みたいなので軽く食べられてしまう。

おやつにちょうどいい感じだ。

 

なかなかおいしかったので、支払いの時に

「あのパンケーキはおいしいねぇ」と言ったら、

レジを打っていたマージャーらしき人の指が一時停止して

「そう言っていただけて、本当にありがたいです」と、

えらく恐縮して言われたので、

こっちが恐縮してしまった。

でも、自分の一言で喜んでくれたようなので

悪い気はしない。

 

見た感じ、40過ぎたあたりの人だったので、

奥さんや子供といっしょにお正月を

ゆっくり過ごしたかっただろうに、

出勤せざるを得なくなったのだろうか?

そうした重荷を少しでも軽くできたのだろうか。

 

思えば、0年代の「勝ち組・負け組」あたりから、

もともとおかしかった日本社会は

ますます歪んできた。

 

マネーゲームの勝者を目指す競争社会。

儲けたもん勝ちという風潮になって、

こうして地道に働いて、現場を回している人たちを

使用人みたいに見る傾向がはびこってしまった。

それは人の心を蝕み、現場仕事の価値を認めず、

従事する人たちの自尊心を奪ってきたのではないかと思う。

 

近年、あちこちでおぞましい事件が

頻発するような社会になってしまった背景には、

こうした自尊心を奪われた人たちの、

表出されない怒りや悲しみのようなものが

マグマみたいに地下で流れているような気がしてならない。

 

社会をよくするというと、あまりに大げさだけど、

お客として良い品物や良いサービスを提供されて、

少しでも心を動かされるようなことがあれば、

「おいしかった」「助かった」「ありがとう」と

声に出してお礼を言った方が、

彼ら・彼女らの心の報酬になるのではないかと思う。

 

また、配達員とか工事員とか警備員とか、

機会があれば「お疲れさま」とか、

ねぎらいの声をかけてもいいのではないか。

 

仕事だから当たりまえだろ。

カネもらってるんだらちゃんとやるべきだろ。

 

もちろんそうだけど、やっているのは人間である。

お礼やねぎらいの言葉を報酬として求めるのは

けっして甘えでも、間違った心の在り方ではない。

人間の気持ちとして

「カネを稼ぐために働いている」だけでは

とても長くもたない。

そこに何か喜びなり、充実感がなくては働けない。

 

ほんの一言で、彼ら・彼女らの働く意欲が上がったり、

今日は良い日だと思えたり、心が軽くなったり、

元気や幸福感につながることだってあるだろう。

 

そして、それは経済にだってプラスに働くだろう。

「新しい資本主義」って、

システムがどうのこうのではなく、

働く側と生活する側・双方の関係を

良くするところか始まるのではないだろうか。