週末の懐メロ128:赤いハイヒール/太田裕美

 

松本隆+筒美京平の70年代の斬新な歌謡マジック。

太田裕美の代表曲と言えば「木綿のハンカチーフ」だが、

明るい爽やかさの裏に悲しみが潜むあちらの歌に比べ、

この「赤いハイヒール」は、

アンニュイでミステリアスな曲調。

ちょっと禍々しいブラックメルヘンの味付けもある。

僕はこっちの方が好きで、このレコードも持っていた。

1976年。高校2年の時である。

 

「木綿」と同様、男女のダイアローグで進むが、

冒頭、「ねえ、友だちなら聞いてくださる?」と

リスナーに語り掛けて歌の世界に誘い込むという、

のっけから松本隆のマジックが炸裂する。

今ならそう珍しくないかもしれないが、

当時、こんな曲はなかった。

 

白のイメージカラー、

都会に出た男の子×田舎にいる女の子。

赤のイメージカラー、

都会に出た女の子×田舎にいる男の子。

という設定の対比に留まらない。

 

「木綿」では人物やドラマの描写が

割とあいまいで抽象的だったのに対して、

こちらは、東京駅に着いた・

おさげでそばかすのある女の子・

ハイヒール買った・お国訛りを笑われた(らしい)・

タイプライター打つ仕事をやってるなど、

主人公の状況がかなり具体的に描かれている。

 

このあたり、ただのアンサーソング・二番煎じとは

絶対に言わせない。

「木綿」よりもいい曲にする・面白くするという、

松本+筒美の情熱とプライドを感じる。

そして何よりもその根底に太田裕美への愛情を感じる。

 

「松本隆のことばの力」(藤田久美子インタビュー・編/インターナショナル新書)によると、

当時、すでに大御所作曲家だった筒美京平は、

既にスターになった歌手にほとんど関心を示さず、

自分の曲で新人を育て上げたいという

強い思いを持っていたという。

 

太田裕美はその筒美が目を付けた宝石だった。

そこで売り出し中の作詞家だった松本隆に声をかけて、

太田裕美のためにコンビを組んだ。

 

その第1弾「木綿のハンカチーフ」が大ヒットしたのだが、

一発屋で終わらせない、

彼女を後世まで残る歌手にするのだ、

と気合を込めて作ったのが、この「赤いハイヒール」

だったのではないかと思う。

 

とにかく詞も曲も編曲も凝りまくっているが、

それをここまで可憐に、軽やかに、

それでいながら心に沁みるように歌えるのは、

昔も今もやっぱり太田裕美しかいない。

——聴く者にそう思わせるだけのものがある。

 

ちなみに「おとぎ話の人魚姫は死ぬまで踊る赤い靴」

という一節は、松本隆の創作である。

 

「赤い靴」は美しい少女が、美しさゆえに傲慢になり、

病気の親を見捨てて、強欲に快楽を求めたがために

呪いの赤い靴を履いて死ぬまで踊ることになる。

そして、その呪いを解くために

首切り役人に頼んで両足を切断するという、

子供に読んであげたらトラウマになること必至の

衝撃的な展開の物語だ。

同じアンデルセンの童話だが「人魚姫」とは

別々の話である。

 

それも含めて松本隆の数多い作品の中でも

「赤いハイヒール」は屈指のドラマ性と

独特のイメージを持った世界観を作っている。

 

もちろん、この令和の感覚からすれば、

ツッコミどころ満載の歌詞なのだが、

これぞ懐メロ、これぞレトロ昭和ワールド。

 

まだ1970年代(昭和50年代)は、

今では考えられないくらい

東京と地方とでは情報格差があった。

地方出身者にとって、

東京はほとんど異国と言ってもよいくらいだったのだ。

それもとっておきの、ピカピカの。

 

僕は名古屋の出身で、名古屋は当時、

日本で4番目に人口の多い都会なのだが、

それでも東京に行って暮らす、というと

ただそれだけで周囲から羨望の目で見られた。

ウソのようだが、ホントの話だ。

 

今でもこの季節になると、

東京に出てきて演劇学校に入った頃のことを思い出す。

そして、演劇や音楽にうつつを抜かした

東京暮らしを良い思い出にして、

田舎に帰って行った多くの仲間のことも。

 

元気にまだ生きているだろうか?と無責任に考えるが、

そんな自分は、結局、呪いの赤い靴を履いたまま、

どこにも帰らず、だらだら東京暮らしを続けている。

たぶん、死ぬまで呪いが解けることはない。