逃亡者の死の価値

 

50年間逃亡生活を送った桐島聡容疑者

(正確には同容疑者とみられる男)が

死亡したというニュースに

ネット上では大勢の人たちが感想・コメントを寄せている。

 

人生とは何か、よりよい生き方とは何か、

取り返しのつかない失敗をしでかしてしまった時、

人はどうすればいいのか?

そうしたことを大勢の人に考えさせた、

語らせたという点については

桐島容疑者の50年間にも価値があったのでは、

と思わせるほどだ。

 

半世紀の間、街の交番の前で晒され続けたのだから、

彼の顔を知っている人は世代を超えて多岐にわたる。

おそらく現在の成人の8割以上は

あの顔を知っているだろう。

 

数ある指名手配犯のなかでも

桐島容疑者の写真は異質だった。

他の容疑者がいかにも悪党面で写っているのに比べて、

彼だけがいい人っぽく笑っている。

20歳前後の若者で長髪で黒ぶちメガネ。

60~70年代、フォークやロックのコンサートに

必ずこういうタイプの若者がいたなかと、

なんだか青春を感じさせる。

親近感とまではいかないが悪い奴には見えない。

 

50年前は学生運動が終焉した後の火の粉が

当時の若者たちの頭上にまだ少しは舞っていた時代だった。

彼はかの組織の思想に

深く染まっていたわけではないだろう。

 

活動に参加して事件に関わってしまったのは、

今で言えば、オタクの若者がマンガやアニメやアイドルに

のめり込んだのとさして変わらない気がする。

要するにノリである。

たんに青臭い正義感にかぶれ、妄想を見ていただけなのだ。

 

しかし、彼は活動に参加して一線を越え、

大事件に関わってしまった。

ちょっとオウム真理教の信者に似ている。

 

逃亡生活を始めた時はまだ若かったから

「逃げ切ってやる」と野心を燃やしていたに違いない。

リアルゲームのプレイヤーになったような

高揚感・緊張感もあったのだろう。

 

しかし、時間の流れは容赦なく、

逃亡生活自体が彼の心も体も蝕んでいった。

彼は捕まらず、牢獄に入れられることもなかったが、

その代り、身分証も住民票もなく、

保険も入れず銀行口座も作れず、

ろくに人と関われず、その日暮らしの連続で、

いつか発見されるのではないかと絶えず怯え、

年齢と共に当初の野心も夢も希望もボロボロになっていく。

 

その心の有様は、娑婆にいても

終身刑を受けていたのと変わりなかったのではないか。

なぜどこかで考えを変えて、自首できなかったのか?

40になり、50になり、

もう今からでは遅すぎると思ったのか?

 

少なくとも1年前、ガンが発覚した時に出ていこう

という気にならなかったのか?

逃げ続けた意地があったのか、

それとも病身で治療も受けられない状態になって、

自業自得だからこの懲罰を引き受けようと考えたのか?

 

結局、彼は若い頃に心に決めたことをやり遂げた。

死ぬまで逃げきったのだ。

けれどもそれは勝利だろうか? 成功だろうか?

警察を相手に、社会を相手に

「どうだ、ざまあみろ」と笑えただろうか?

 

本当のことは本人にしかわからないが、

勝利と思うには、あまりに哀れで寂しい最期に見える。

死ぬ前に「本名に戻りたかった」

「自分に還りたかった」と素性を明かしたのは、

心の底からの本音に違いない。

自分を偽り続けることこそ最も不幸な生き方。

きっと多くの人がそう思ったのではないかと思う。

 

あの事件で被害を受けた人にはとても申しわけないが、

僕は少し桐島容疑者に同情し、

彼の心の変遷を考えずにはいられなくなっている。

 

 

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