桜と友だちの遺影と役に立たない記憶

 

義母を花見に連れて行ったのだが、

地面に落ちているゴミばかり気にしているので

「おかあさん、ちゃんと桜を見な。

あと何回見られるかわかんないんだよ」と言ったら、

「あ、そうか、そうだよね。わー、きれい」と、

妙に素直に納得。

「これが最後かもしれない」と思って花見をする人は、

あまりいないと思うが、

もちろん、そうなる可能性はゼロではない。

めめんと・もり。

 

と考えたところで、今日(正確には昨日だったか?)が、

昨年死んだ友達の一周忌だということを思い出した。

なので、桜の花に、心の中で彼女の遺影を被せて黙とうする。

用意した遺影は劇団時代の、とびきりかわいい(?)やつだ。

 

彼女は演劇学校の同級生で、いしょに劇団をやった仲間だった。

この先、桜の季節になると、

いつも彼女のことを思い出すのだろうか?

わからない。

 

演劇学校や劇団時代やロンドン時代の仲間、

小中高の同級生・友達、

このあたり、たぶん200人ぐらいは、

わりと正確に顔と名前を記憶している。

やっぱり、それぞれ何かしらの良い思い出を共有しているのだ。

もうほとんどの人と会うことはないだろうし、

相手はとっくの昔に忘れているだろうけど。

 

だから、死んだことを知ったら、

いちいち葬式や墓参りにはいかないが、

心の中で遺影にして弔ってやることはできると思う。

何の意味もないし、何の役にも立たない。

でも、そういうことが自分にとって大事なことだと思える。

生きてる証拠でもあるしね。