べらぼうな噺にありがた山でございます

 

「俺たちは屁だぁ~」と、大田南畝が叫び、

一堂に集った江戸のカルチャーヒーローたちが、

へ・へ・へ・へ・・・と、踊りながら蔦屋重三郎を送る。

そうだ、僕たちは、つかの間のにおいを残して、

すぐに跡形もなく空へ消えていく屁だ。

「べらぼう」の最終回、笑って泣けた。

 

森下佳子の脚本はさえわたり、

最終回は、すわ、最後に大事件を持ってきたのか?

と一瞬、思わせる劇的なオープニング。

従来の大河ドラマなら、

ここから手に汗握るサスペンスフルな展開と

感極まるラストシーンに持っていくのかもしれないが、

見事に肩透かしを食わせられる。

へたに劇的に盛り上げないのが、森下脚本の劇的なところ、

粋でいなせなところなのかもしれない。

 

場面転換後は淡々と、江戸における写楽プロジェクトの顛末、

そして、その後の蔦重の活動を描いていく。

淡々としてしながらも面白いのは、脚本の力とともに、

蔦重役の横浜流星の演技力というか、

表現センスに負うところが大きいだろう。

 

昭和の頃なら大河ドラマの題材としてはけっして

取り上げられなかったであろう時代の話だが、

こちらの方が現代の日本と相通じるものが多い。

 

猛々しい武士ではなく、町人中心の物語。

背景には政治の裏の陰謀、格差社会、火災・天災、

吉原の女郎の運命、毒親に与えられたトラウマなどがあり、

偶然なのか、米騒動もシンクロした。

戦乱のない、平和な世の中のドラマだけに、

その奥に潜む人間の喜怒哀楽に、

妙にリアリティが感じられるのだ。

 

最終回、後半の下りはまるで落語のようだった。

病を得て死に向かう蔦重だが、

そこにはあまり悲壮感はなく、悲劇的な演出も一切ない。

蔦重は一人一人、カルチャーヒーローたちに助言を残していく。

奥さんのおていさんもけっして泣き崩れるようなことなく、

ただ甲斐甲斐しく夫の旅立ちの準備を手伝う。

まるで夫婦そろって、視聴者に終活のお手本を見せるかのように。

こんなエンディングを演じられるのも、

横浜流星の抜群の演技センスならでは、

そして、あの強烈な黒メガネをかけた橋本愛ならでは。

メガネをはずして涙を見せるシーンがあるのかと期待したが、

それも見事に肩透かしを食った。でも、おていさん、好きだ。

 

実際、蔦重の本屋「耕書堂」は彼の死後、

いちおう2代目が継いだものの、自然死するかのように、

何年かかけて静かに店じまいしたらしい。

 

劇中、これまで要所で2回登場した、

ラストのみんなの「へ踊り」は、

そんな蔦重を見送る盛大な葬式のようだった。

そして最後の「オチ」も、このドラマらしい、

粋で格好いい幕切れ。

本当に長い落語、べらぼうな噺を堪能できた。

 

見終わって思ったのは、

蔦重の時代の人々と、現代の僕らとの違いは、

その自意識の持ち方かもしれない。

現代の日本人はあまりに自意識が肥大化している。

そのため、幸福、成功、自分らしさ、自己実現、

他者からの承認など、

本来はポジティブな意味合いを持つ言葉が仇となって、

詐欺でカネをむしり取られたり、

自分で自分を追い込んで精神を病んだりしてしまうのだ。

幸福や成功や自分らしさに心を蝕まれるなんて悲しすぎる。

 

しょせん僕たちはこの大きな世界を形作る細胞の一つに過ぎない。

だから、「おれは、わたしはこうあるべき」――

なんていう考えで頭がいっぱいになってしまったら、

「おれは、あたしは、屁だぁ~!」と叫んでみたらどうだろう?

仲間がいれば、なおのこといい。

「べらぼう」のメッセージはそんなところにあるような気がする。

みんなでへ踊りができれば、さらにいい。

 

と、僕も自意識が膨張した現代人なので、

そこまで悟るのは難しいが、

「べらぼう」を手本にこっそり「俺は屁だ」とつぶやいている。

毎日三度めし食って、あったかい部屋で時々屁をかましながら、

好き勝手なことを書き散らしていられるなんて、かたじけなすび。

そして、あなたにこんな戯言を仕舞いまで読んでいただいて、

ありがた山の寒がらすでございます。