江戸時代、伊勢神宮と全国の庶民を結び付けた、
観光プロデューサーである御師(おんし)。
全国各地からはるばるお伊勢参りに訪れた人々は
彼らが提供する宿に泊まり、歓待を受けた。
この御師の宿、最盛期には現・伊勢市内
(内宮側:宇治地域と外宮側:山田地域)に
800~900軒あったと記録されている。
僕が案内された「旧御師丸岡宗太夫邸」は、
外宮側の山田地域にあり、
災害や戦災(空襲)による倒壊や焼失を免れ、
唯一、現存している御師の宿だ。
この施設が建てられたのは幕末の慶応2(1866)年。
薩長同盟が成立し、徳川慶喜が江戸幕府最後の
第15代将軍に就任した年である。
政情は不安定、どころか激変していたが、
20年ごとに社殿や神宝を新しく造り替える、
伊勢神宮の「式年遷宮制度」は継続していたとみられる。
つまり、次なる大規模なお伊勢参りイベントを見越して、
丸岡宗太夫は、この年、宿をほぼ新築に近い形に
大改造したのである。
記録によれば、建て替え費用は700両。
現代のお金に換算すると5000~6000万円くらいだろうか。
新装開店で、さらに単価アップ、
或いは新規顧客の獲得をもくろんでいたのかもしれない。
ところがその2年後、慶応がわずか4年で終わり、
元号が明治に改められた1868年から状況は一変。
華やいでいた伊勢の街に激震が走った。
新たに日本国の運営を担うことになった明治政府は、
天皇を国家の長として奉り、
伊勢神宮を国家神道の頂点に立つ聖域と定めたのである。
それに伴い、江戸時代を通じて御師が築き上げてきた
「庶民の娯楽・慰安としての参詣地」は完全に否定され、
「神職が営利目的で宿泊業を行うなど言語道断」と、
お伊勢参りの文化の礎となった御師制度そのものを廃止。
参拝の担い手は、神宮司庁(公的機関による管理)に移された。
これによって、伊勢神宮への参拝は
「みんなの楽しいお祭り・レジャー」から
「厳粛な聖なる儀式」へと180度、形を変えてしまった。
それまで内宮・外宮の参道に立ち並んでいた露店などは
軒並み撤去され、
屯っていた下賤な商売人や芸能人=河原乞食の類は、
境内への立ち入りを禁じられた。
こうした措置は風紀を正すことに役立ったかもしれないが、
伊勢の街は経済的大打撃を被った。
御師の周囲にぶら下がっていた飲食・芸人・風俗、
その他、エンタメ・商売がらみの有象無象の民草たちは、
まとめて排除され、
新しい食い扶持を探さなくてはならなくなったようだ。
まさしく諸行無常。
年中、宴に沸いていた伊勢の街は、
まさかそんな時代がやって来るなんて
夢にも思っていなかっただろう。
旧御師丸岡宗太夫邸の薄暗い室内には、
そうした江戸のお伊勢参りを楽しんだ全国の庶民たちと、
彼らをもてなして大いに儲けていた御師たちの
宴の名残がかすかに漂っているように感じた。
この施設を案内してくれた丸岡さんは、丸岡宗太夫の子孫で、
祖母がこの家で暮らしており、
幼少の頃、ときどき遊びに来ていたという。
驚くべきことに、その祖母は20年ほど前まで、
ずっとここで生活しており、
「となりのトトロ」に出てくるような
昭和レトロな台所や風呂がそのまま残っている。
いくつか御師の活動を今に伝える展示物もあり、
管理人である丸岡さんは、僕が泊った民泊のマダムをはじめ、
観光業に携わっていたり、歴史に興味があったりする
地域の人のために勉強会も開いているそうだ。
学芸員みたいな人が常駐しているわけではないので、
常時一般公開はしていないものの、
連絡して丸岡さんの都合がつけば、
一般の人も見学することができるという。
国の登録有形文化財になったとはいえ、
この遺跡の行く末はあまり明るいとは言えない。
160年あまりの風雨にさらされ続けた木造の建物は、
傷みや汚れがひどく、
どれだけ手を入れてもそう長く持たないだろう。
せいぜいあと10年といったところか。
その間に現代のテクノロジーを使った
歴史ミュージアムに改築し、
興味深いお伊勢参りの文化・ストーリーの面白さを
次代への財産として、
より多くの人たちに遺していってほしいと願う。








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