なぜ日本ではカエルはかわいいキャラなのか?

 

 「かえるくん、東京を救う」というのは村上春樹の短編小説の中でもかなり人気の高い作品です。

 主人公がアパートの自分の部屋に帰ると、身の丈2メートルはあろうかというカエルが待っていた、というのだから、始まり方はほとんど恐怖小説。

 ですが、その巨大なカエルが「ぼくのことは“かえるくん”と呼んでください」と言うのだから、たちまちシュールなメルヘンみたいな世界に引き込まれてしまいます。

 

 この話は阪神大震災をモチーフにしていて、けっして甘いメルヘンでも、面白おかしいコメディでもないシリアスなストーリーなのですが、このかえるくんのセリフ回しや行動が、なんとも紳士的だったり、勇敢だったり、愛らしかったり、時折ヤクザだったりして独特の作品世界が出来上がっています。

 

 しかし、アメリカ人の翻訳者がこの作品を英訳するとき、この「かえるくん」という呼称のニュアンスを、どう英語で表現すればいいのか悩んだという話を聞いて、さもありなんと思いました。

 

 このカエルという生き物ほど、「かわいい」と「気持ち悪い」の振れ幅が大きい動物も珍しいのではないでしょうか。

でも、その振れ幅の大きさは日本人独自の感覚のような気もします。

 

 欧米人はカエルはみにくい、グロテスクなやつ、場合によっては悪魔の手先とか、魔女の使いとか、そういう役割を振られるケースが圧倒的に多い気がします。

 

 ところが、日本では、けろけろけろっぴぃとか、コルゲンコーワのマスコットとか、木馬座アワーのケロヨンとか、古くは「やせガエル 負けるな 一茶ここにあり」とか、かわいい系・愛すべき系の系譜がちゃんと続いていますね。

 

 僕が思うに、これはやっぱり稲作文化のおかげなのではないでしょうか。

 お米・田んぼと親しんできた日本人にとって、田んぼでゲコゲコ鳴いているカエルくんたちは、友だちみたいな親近感があるんでしょうね。

 そして、彼らの合唱が聞こえる夏の青々とした田んぼの風景は、今年もお米がいっぱい取れそう、という期待や幸福感とつながっていたのでしょう。

 カエル君に対するよいイメージはそういうところからきている気がします。

 

 ちなみに僕の携帯電話はきみどり色だけど、「カエル色」って呼ばれています。

 茶色いのも黄色っぽいもの黒いのもいるけど、カエルと言えばきれいなきみどり色。やっぱ、アマガエルじゃないとかわいくないからだろうね、きっと。

 雨の季節。そういえば、ここんとこ、カエルくんと会ってないなぁ。ケロケロ。

 


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家族ストーリーを書く仕事② 個の家族

 

  「これから生まれてくる子孫が見られるように」

 ――今回の家族ストーリー(ファミリーヒストリー)を作った動機について、3世代の真ん中の息子さん(団塊ジュニア世代)は作品の最後でこんなメッセージを残しています。

 彼の中にはあるべき家族の姿があった。しかし現実にはそれが叶わなかった。だからやっと安定し、幸福と言える現在の形を映像に残すことを思い立った――僕にはそう取れます。

 

 世間一般の基準に照らし合わせれば、彼は家庭に恵まれなかった人に属するでしょう。かつて日本でよく見られた大家族、そして戦後の主流となった夫婦と子供数人の核家族。彼の中にはそうした家族像への憧れがあったのだと思います。

 

 けれども大家族どころか、核家族さえもはや過去のものになっているのでないか。今回の映像を見ているとそう思えてきます。

 

 団塊の世代の親、その子、そして孫(ほぼ成人)。

 彼らは家族であり、互いに支え合い、励まし合いながら生きている。

 けれど、その前提はあくまで個人。それぞれ個別の歴史と文化を背負い、自分の信じる幸福を追求する人間として生きている。

 

 むかしのように、まず家があり、そこに血のつながりのある人間として生まれ、育つから家族になるのではなく、ひとりひとりの個人が「僕たちは家族だよ」という約束のもとに集まって愛情と信頼を持っていっしょに暮らす。あるいは、離れていても「家族だよ」と呼び合い、同様に愛情と信頼を寄せ合う。だから家族になる。

 

 これからの家族は、核家族からさらに小さな単位に進化した「ミニマム家族」――「個の家族」とでもいえばいいのでしょうか。

 比喩を用いれば、ひとりひとりがパソコンやスマホなどのデバイスであり、必要がある時、○○家にログインし、ネットワークし、そこで父・母・息子・娘などの役割を担って、相手の求めることに応じる。それによってそれぞれが幸福を感じる。そうした「さま」を家族と呼称する――なかなかスムーズに表現できませんが、これからはそういう家族の時代になるのではないでしょうか。

 

 なぜなら、そのほうが現代のような個人主義の世の中で生きていくのに何かと便利で快適だからです。人間は自身の利便性・快適性のためになら、いろいろなものを引き換えにできます。だから進化してこられたのです。

 

 引き換えに失ったものの中にももちろん価値があるし、往々にして失ってみて初めてその価値に気づくケースがあります。むかしの大家族しかり。核家族しかり。こうしてこれらの家族の形態は、今後、一種の文化遺産になっていくのでしょう。

 好きか嫌いかはともかく、そういう時代に入っていて、僕たちはもう後戻りできなくなっているのだと思います。

 

 将来生まれてくる子孫のために、自分の家族の記憶を本なり映像なりの形でまとめて遺す―― もしかしたらそういう人がこれから結構増えるのかもしれません。

 

 

2016・6・27 Mon


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家族ストーリーを書く仕事① 親子3世代の物語

 

 親子3世代の物語がやっと完成一歩手前まで来ました。

 昨年6月、ある家族のヒストリー映像を作るというお仕事を引き受けて、台本を担当。

足掛け1年掛かりでほぼ完成し、残るはクライアントさんに確認を頂いて、最後にナレーションを吹き込むのみ、という段階までこぎつけたのです。

 

 今回のこの仕事は、ディレクターが取材をし、僕はネット経由で送られてくるその音源や映像を見て物語の構成をしていきました。そのディレクターとも最初に1回お会いしただけでご信頼を頂いたので、そのあとはほとんどメールのやり取りのみで進行しました。インターネットがあると、本当に家で何でもできてしまいます。

 ですから時間がかかった割には、そんなに「たいへん感」はありませんでした。

 

 取材対象の人たちともリアルでお会いしたことはなく、インタビューの音声――話の内容はもとより、しゃべり方のくせ、間も含めて――からそれぞれのキャラクターと言葉の背景にある気持ちを想像しながらストーリーを組み立てていくのは、なかなかスリリングで面白い体験でした(最初の下取材の頃はディレクターがまだ映像を撮っていなかったので、レコーダーの音源だけを頼りにやっていました)。

 

 取材対象と直接会わない、会えないという制限は、今までネガティブに捉えていたのですが、現場(彼らの生活空間や仕事空間)の空気がわからない分、余分な情報に戸惑ったり、感情移入のし過ぎに悩まされたりすることがありません。

 適度な距離を置いてその人たちを見られるので、かえってインタビューの中では語られていない範囲まで自由に発想を膨らませられ、こうしたドキュメンタリーのストーリーづくりという面では良い効果もあるんだな、と感じました。

 

 後半(今年になってから)、全体のテーマが固まり、ストーリーの流れが固まってくると、今度は台本に基づいて取材がされるようになりました。

 戦後の昭和~平成の時代の流れを、団塊の世代の親、その息子、そして孫(ほぼ成人)という一つの家族を通して見ていくと、よく目にする、当時の出来事や風俗の記録映像も、魂が定着くした記憶映像に見えてきます。

 これにきちんとした、情感豊かなナレーターの声が入るのがとても楽しみです。

 

 

2016・6・26 Sun


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ゴマスリずんだ餅と正直ファンタじいさん

 

おもちペタペタ伊達男

 

  今週日曜(19日)の大河ドラマ「真田丸」で話題をさらったのは、長谷川朝晴演じる伊達政宗の餅つきパフォーマンスのシーン。「独眼竜」で戦国武将の中でも人気の高い伊達政宗ですが、一方で「伊達男」の語源にもなったように、パフォーマーというか、歌舞伎者というか、芝居っけも方もたっぷりの人だったようです。

 

 だから、餅つきくらいやってもおかしくないのでしょうが、権力者・秀吉に対してあからさまにこびへつらい、ペッタンコとついた餅にスリゴマを・・・じゃなかった、つぶした豆をのっけて「ずんだ餅でございます」と差し出す太鼓持ち野郎の姿に、独眼竜のカッコいいイメージもこっぱみじんでした。

 

 僕としては「歴人めし」の続編のネタ、一丁いただき、と思ってニヤニヤ笑って見ていましたが、ファンの人は複雑な心境だったのではないのでしょうか。(ネット上では「斬新な伊達政宗像」と、好意的な意見が多かったようですが)。

 

 しかし、この後、信繁(幸村=堺雅人)と二人で話すシーンがあり、じつは政宗、今はゴマスリ太鼓持ち野郎を演じているが、いずれ時が来れば秀吉なんぞ、つぶしてずんだ餅にしてやる・・・と、野心満々であることを主人公の前で吐露するのです。

 で、これがクライマックスの関ヶ原の伏線の一つとなっていくわけですね。

 

裏切りのドラマ

 

 この「真田丸」は見ていると、「裏切り」が一つのテーマとなっています。

 出てくるどの武将も、とにかくセコいのなんのttらありゃしない。立派なサムライなんて一人もいません。いろいろな仮面をかぶってお芝居しまくり、だましだまされ、裏切り裏切られ・・・の連続なのです。

 

 そりゃそうでしょう。乱世の中、まっすぐ正直なことばかりやっていては、とても生き延びられません。

 この伊達政宗のシーンの前に、北条氏政の最後が描かれていましたが、氏政がまっすぐな武将であったがために滅び、ゴマスリ政宗は生き延びて逆転のチャンスを掴もうとするのは、ドラマとして絶妙なコントラストになっていました。

 

 僕たちも生きるためには、多かれ少なかれ、このゴマスリずんだ餅に近いことを年中やっているのではないでしょうか。身過ぎ世過ぎというやつですね。

 けれどもご注意。

 人間の心とからだって、意外と正直にできています。ゴマスリずんだ餅をやり過ぎていると、いずれまとめてお返しがやってくるも知れません。

 

人間みんな、じつは正直者

 

 どうしてそんなことを考えたかと言うと、介護士の人と、お仕事でお世話しているおじいさんのことについて話したからです。

 そのおじいさんはいろんな妄想に取りつかれて、ファンタジーの世界へ行っちゃっているようなのですが、それは自分にウソをつき続けて生きてきたからではないか、と思うのです。

 

 これは別に倫理的にどうこうという話ではありません。

 ごく単純に、自分にウソをつくとそのたびにストレスが蓄積していきます。

 それが生活習慣になってしまうと、自分にウソをつくのが当たり前になるので、ストレスが溜まるのに気づかない。そういう体質になってしまうので、全然平気でいられる。

 けれども潜在意識は知っているのです。

 「これはおかしい。これは違う。これはわたしではな~い」

 

 そうした潜在意識の声を、これまた無視し続けると、齢を取ってから自分で自分を裏切り続けてきたツケが一挙に出て来て、思いっきり自分の願いや欲望に正直になるのではないでしょうか。

 だから脳がファンタジーの世界へ飛翔してしまう。それまでウソで歪めてきた自分の本体を取り戻すかのように。

 つまり人生は最後のほうまで行くとちゃんと平均化されるというか、全体で帳尻が合うようにできているのではないかな。

 

自分を大事にするということ

 

 というのは単なる僕の妄想・戯言かも知れないけど、自分に対する我慢とか裏切りとかストレスとかは、心や体にひどいダメージを与えたり、人生にかなりの影響を及ぼすのではないだろうかと思うのです。

 

 みなさん、人生は一度きり。身過ぎ世過ぎばっかりやってると、それだけであっという間に一生終わっちゃいます。何が自分にとっての幸せなのか?心の内からの声をよく聴いて、本当の意味で自分を大事にしましょう。

 介護士さんのお話を聞くといろんなことを考えさせられるので、また書きますね。

 

 

 

2016/6/23 Thu


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死者との対話:父の昭和物語

 

 すぐれた小説は時代を超えて読み継がれる価値がある。特に現代社会を形作った18世紀から20世紀前半にかけての時代、ヨーロッパ社会で生まれた文学には人間や社会について考えさせられる素材にあふれています。

 

その読書を「死者との対話」と呼んだ人がいます。うまい言い方をするものだと思いました。

 

僕たちは家で、街で、図書館で、本さえあれば簡単にゲーテやトルストイやドストエフスキーやブロンテなどと向かい合って話ができます。別にスピリチュアルなものに関心がなくても、書き残したものがあれば、私たちは死者と対話ができるのです。

 

 もちろん、それはごく限られた文学者や学者との間で可能なことで、そうでない一般大衆には縁のないことでしょう。これまではそうでした。しかし、これからの時代はそれも可能なことではないかと思います。ただし、不特定多数の人でなく、ある家族・ある仲間との間でなら、ということですが。

 

 僕は父の人生を書いてみました。

 父は2008年の12月に亡くなりました。家族や親しい者の死も1年ほどたつと悲しいだの寂しいだの、という気持ちは薄れ、彼らは自分の人生においてどんな存在だったのだろう?どんなメッセージを遺していったのだろう?といったことを考えます。

 

父のことを書いてみようと思い立ったのは、それだけがきっかけではありませんでした。

死後、間もない時に、社会保険事務所で遺族年金の手続きをする際に父の履歴書を書いて提出しました。その時に感じたのは、血を分けた家族のことでも知らないことがたくさんあるな、ということでした。

じつはそれは当り前のことなのだが、それまではっきりとは気が付いていませんでした。なんとなく父のことも母のこともよく知っていると思いすごしていたのです。

実際は私が知っているのは、私の父親としての部分、母親としての部分だけであり、両親が男としてどうだったか、女としてどうだったか、ひとりの人間としてどうだったのか、といったことなど、ほとんど知りませんでした。数十年も親子をやっていて、知るきっかけなどなかったのです。

 

父の仕事ひとつ取ってもそうでした。僕の知っている父の仕事は瓦の葺換え職人だが、それは30歳で独立してからのことで、その前――20代のときは工場に勤めたり、建築会社に勤めたりしていたのです。それらは亡くなってから初めて聞いた話です。

そうして知った事実を順番に並べて履歴書を作ったのですが、その時には強い違和感というか、抵抗感のようなものを感じました。それは父というひとりの人間の人生の軌跡が、こんな紙切れ一枚の中に納まってしまうということに対しての、寂しさというか、怒りというか、何とも納得できない気持ちでした。

 

父は不特定多数の人たちに興味を持ってもらえるような、波乱万丈な、生きる迫力に満ち溢れた人生を歩んだわけはありませんい。むしろそれらとは正反対の、よくありがちな、ごく平凡な庶民の人生を送ったのだと思います。

けれどもそうした平凡な人生の中にもそれなりのドラマがあります。そして、そのドラマには、その時代の社会環境の影響を受けた部分が少なくありません。たとえば父の場合は、昭和3(1928)に生まれ、平成元年(1989)に仕事を辞めて隠居していました。その人生は昭和の歴史とほぼ重なっています。

 

ちなみにこの昭和3年という年を調べてみると、アメリカでミッキーマウスの生まれた(ウォルト・ディズニーの映画が初めて上映された)年です。

父は周囲の人たちからは実直でまじめな仕事人間と見られていましたが、マンガや映画が好きで、「のらくろ」だの「冒険ダン吉」だのの話をよく聞かせてくれました。その時にそんなことも思い出したのです。

 

ひとりの人間の人生――この場合は父の人生を昭和という時代にダブらせて考えていくと、昭和の出来事を書き連ねた年表のようなものとは、ひと味違った、その時代の人間の意識の流れ、社会のうねりの様子みたいなものが見えてきて面白いのではないか・・・。そう考えて、僕は父に関するいくつかの個人的なエピソードと、昭和の歴史の断片を併せて書き、家族や親しい人たちが父のことを思い起こし、対話できるための一遍の物語を作ってみようと思い立ちました。

本当はその物語は父が亡くなる前に書くべきだったのではないかと、少し後悔の念が残っています。

生前にも話を聞いて本を書いてみようかなと、ちらりと思ったことはあるのですが、とうとう父自身に自分の人生を振り返って……といった話を聞く機会はつくれませんでした。たとえ親子の間柄でも、そうした機会を持つことは難しいのです。思い立ったら本気になって直談判しないと、そして双方互いに納得できないと永遠につくることはできません。あるいは、これもまた難しいけど、本人がその気になって自分で書くか・・・。それだけその人固有の人生は貴重なものであり、それを正確に、満足できるように表現することは至難の業なのだと思います。

 

実際に始めてから困ったのは、父の若い頃のことを詳しく知る人など、周囲にほとんどいないということ。また、私自身もそこまで綿密に調査・取材ができるほど、時間や労力をかけるわけにもいきませんでした。

だから母から聞いた話を中心に、叔父・叔母の話を少し加える程度にとどめ、その他、本やインターネットでその頃の時代背景などを調べながら文章を組み立てる材料を集めました。そして自分の記憶――心に残っている言葉・出来事・印象と重ね合わせて100枚程度の原稿を作ってみたのです。

 

自分で言うのもナンですが、情報不足は否めないものの、悪くない出来になっていて気に入っています。これがあるともうこの世にいない父と少しは対話できる気がするのです。自分の気持ちを落ち着かせ、互いの生の交流を確かめ、父が果たした役割、自分にとっての存在の意味を見出すためにも、こうした家族や親しい者の物語をつくることはとても有効なのではないかと思います。

 

 高齢化が進む最近は「エンディングノート」というものがよく話題に上っています。

「その日」が来た時、家族など周囲の者がどうすればいいか困らないように、いわゆる社会的な事務手続き、お金や相続のことなどを書き残すのが、今のところ、エンディングノートの最もポピュラーな使い方になっているようだ。

もちろん、それはそれで、逝く者にとっても、後に残る者にとっても大事なことです。しかし、そうすると結局、その人の人生は、いくらお金を遺したかとか、不動産やら建物を遺したのか、とか、そんな話ばかりで終わってしまう恐れもあります。その人の人生そのものが経済的なこと、物質的なものだけで多くの人に価値判断されてしまうような気がするのです。

 

けれども本当に大事なのは、その人の人生にどんな意味や価値があったのか、を家族や友人・知人たちが共有することが出来る、ということではないでしょうか。

そして、もしその人の生前にそうしたストーリーを書くことができれば、その人が人生の最期の季節に、自分自身を取り戻せる、あるいは、取り戻すきっかけになり得る、ということではないでしょうか。

 

 


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赤影メガネとセルフブランディング

 ♪赤い仮面は謎の人 どんな顔だか知らないが キラリと光る涼しい目 仮面の忍者だ

赤影だ~

 というのは、テレビの「仮面の忍者 赤影」の主題歌でしたが、涼しい目かどうかはともかく、僕のメガネは10数年前から「赤影メガネ」です。これにはちょっとした物語(というほどのものではないけど)があります。

 

 当時、小1だか2年の息子を連れてメガネを買いに行きました。

 それまでは確か茶色の細いフレームの丸いメガネだったのですが、今回は変えようかなぁ、どうしようかなぁ・・・とあれこれ見ていると、息子が赤フレームを見つけて「赤影!」と言って持ってきたのです。

 

 「こんなの似合うわけないじゃん」と思いましたが、せっかく選んでくれたのだから・・・と、かけてみたら似合った。子供の洞察力おそるべし。てか、単に赤影が好きだっただけ?

 とにかく、それ以来、赤いフレームのメガネが、いつの間にか自分のアイキャッチになっていました。自分の中にある自分のイメージと、人から見た自分とのギャップはとてつもなく大きいもの。

 独立・起業・フリーランス化ばやりということもあり、セルフブランディングがよく話題になりますが、自分をどう見せるかというのはとても難しい。自分の中にある自分のイメージと、人から見た自分とのギャップはとてつもなく大きいのです。

 とはいえ、自分で気に入らないものを身に着けてもやっぱり駄目。できたら安心して相談できる家族とか、親しい人の意見をしっかり聞いて(信頼感・安心感を持てない人、あんまり好きでない人の意見は素直に聞けない)、従来の考え方にとらわれない自分像を探していきましょう。

 


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ベビーカーを押す男

 

・・・って、なんだか歌か小説のタイトルみたいですね。そうでもない?

 ま、それはいいんですが、この間の朝、実際に会いました。ひとりでそそくさとベビーカーを押していた彼の姿が妙に心に焼き付き、いろいろなことがフラッシュバックしました。

 BACK in the NEW YORK CITY。

 僕が初めてニューヨークに行ったのは約30年前。今はどうだか知らないけど、1980年代のNYCときたらやっぱ世界最先端の大都会。しかし、ぼくがその先端性を感じたのは、ソーホーのクラブやディスコでもなでもなく、イーストビレッジのアートギャラリーでもなく、ブロードウェイのミュージカルでもなく、ストリートのブレイクダンスでもなく、セントラルパークで一人で子供と散歩しているパパさんたちでした。

 

 特におしゃれでも何でもない若いパパさんたちが、小さい子をベビーカーに乗せていたり、抱っこひもでくくってカンガルーみたいな格好で歩いていたり、芝生の上でご飯を食べさせたり、オムツを替えたりしていたのです。

 

 そういう人たちはだいたい一人。その時、たまたま奥さんがほっとその辺まで買い物に行っているのか、奥さんが働いて旦那がハウスハズバンドで子育て担当なのか、はたまた根っからシングルファーザーなのかわかりませんが、いずれにしてもその日その時、出会った彼らはしっかり子育てが板についている感じでした。

 

 衝撃!・・というほどでもなかったけど、なぜか僕は「うーん、さすがはニューヨークはイケてるぜ」と深く納得し、彼らが妙にカッコよく見えてしまったのです。

 

 

 そうなるのを念願していたわけではないけれど、それから約10年後。

 1990年代後半の練馬区の路上で、僕は1歳になるかならないかの息子をベビーカーに乗せて歩いていました。たしか「いわさきちひろ美術館」に行く途中だったと思います。

 向こう側からやってきたおばさんが、じっと僕のことを見ている。

 なんだろう?と気づくと、トコトコ近寄ってきて、何やら話しかけてくる。

 どこから来たのか?どこへ行くのか? この子はいくつか? 奥さんは何をやっているのいか?などなど・・・

 

 「カミさんはちょっと用事で、今日はいないんで」と言うと、ずいぶん大きなため息をつき、「そうなの。私はまた逃げられたと思って」と。

 おいおい、たとえそうだとしても、知らないあんたに心配されたり同情されたりするいわれはないんだけど。

 

 別に腹を立てたわけではありませんが、世間からはそういうふうにも見えるんだなぁと、これまた深く納得。

 あのおばさんは口に出して言ったけど、心の中でそう思ってて同情だか憐憫だかの目で観ている人は結構いるんだろうなぁ、と感じ入った次第です。

 

 というのが、今から約20年前のこと。

 その頃からすでに「子育てしない男を父とは呼ばない」なんてキャッチコピーが出ていましたが、男の子育て環境はずいぶん変化したのでしょうか?

 表面的には イクメンがもてはやされ、育児関係・家事関係の商品のコマーシャルにも、ずいぶん男が出ていますが、実際どうなのでしょうか?

 

 件のベビーカーにしても、今どき珍しくないだろう、と思いましたが、いや待てよ。妻(母)とカップルの時は街の中でも電車の中でもいる。それから父一人の時でも子供を自転車に乗せている男はよく見かける。だが、ベビーカーを“ひとりで”押している男はそう頻繁には見かけない。これって何を意味しているのだろう? と、考えてしまいました。

 

 ベビーカーに乗せている、ということは、子供はだいたい3歳未満。保育園や幼稚園に通うにはまだ小さい。普段は家で母親が面倒を見ているというパターンがやはりまだまだ多いのでしょう。

 

 そういえば、保育園の待機児童問題って、お母さんの声ばかりで、お父さんの声ってさっぱり聞こえてこない。そもそも関係あるのか?って感じに見えてしまうんだけど、イクメンの人たちの出番はないのでしょうか・・・。

 

2016年6月16日


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インターネットがつくるフォークロア

 

インターネットの出現は社会を変えた――ということは聞き飽きるほど、あちこちで言われています。けれどもインターネットが本格的に普及したのは、せいぜいここ10年くらいの話。全世代、全世界を見渡せば、まだ高齢者の中には使ったことがないという人も多いし、国や地域によって普及率の格差も大きい。だから、その変化の真価を国レベル・世界レベルで、僕たちが実感するのはまだこれからだと思います。

それは一般によくいわれる、情報収集がスピーディーになったとか、通信販売が便利になったとか、というカテゴリーの話とは次元が違うものです。もっと人間形成の根本的な部分に関わることであり、ホモサピエンスの文化の変革にまでつながること。それは新しい民間伝承――フォークロアの誕生です。

 

“成長過程で自然に知ってしまう”昔話・伝承

 

最初はどこでどのように聞いたのか覚えてないですが、僕たちは自分でも驚くほど、昔話・伝承をよく知っています。成長の過程のどこかで桃太郎や浦島太郎や因幡の白ウサギと出会い、彼らを古い友だちのように思っています。

 

家庭でそれらの話を大人に読んでもらったこともあれば、幼稚園・保育園・小学校で体験したり、最近ならメディアでお目にかかることも多い。それはまるで遺伝子に組み込まれているかのように、あまりに自然に身体の中に溶け込んでいるのです。

 

調べて確認したわけではないが、こうした感覚は日本に限らず、韓国でも中国でもアメリカでもヨーロッパでも、その地域に住んでいる人なら誰でも持ち得るのではないでしょうか。おそらく同じような現象があると思います。それぞれどんな話がスタンダードとなっているのかは分かりませんが、その国・その地域・その民族の間で“成長過程で自然に知ってしまう”昔話・伝承の類が一定量あるのです。

 

それらは長い時間を生きながらえるタフな生命エネルギーを持っています。それだけのエネルギーを湛えた伝承は、共通の文化の地層、つまり一種のデータベースとして、万人の脳の奥底に存在しています。その文化の地層の上に、その他すべての情報・知識が積み重なっている――僕はそんなイメージを持っています。

 

世界共通の、新しいカテゴリーの伝承

 

そして、昔からあるそれとは別に、これから世界共通の、新しいカテゴリーの伝承が生まれてくる。その新しい伝承は人々の間で共通の文化の地層として急速に育っていくのでないか。そうした伝承を拡散し、未来へ伝える役目を担っているのがインターネット、というわけです。

 

ところで新しい伝承とは何でしょう? その主要なものは20世紀に生まれ、花開いた大衆文化――ポップカルチャーではないでしょうか。具体的に挙げていけば、映画、演劇、小説、マンガ、音楽(ジャズ、ポップス、ロック)の類です。

 

21世紀になる頃から、こうしたポップカルチャーのリバイバルが盛んに行われるようになっていました。

人々になじみのあるストーリー、キャラクター。

ノスタルジーを刺激するリバイバル・コンテンツ。

こうしたものが流行るのは、情報発信する側が、商品価値の高い、新しいものを開発できないためだと思っていました。

そこで各種関連企業が物置に入っていたアンティーク商品を引っ張り出してきて、売上を確保しようとした――そんな事情があったのでしょう。実際、最初のうちはそうだったはずです。

だから僕は結構冷めた目でそうした現象を見ていました。そこには半ば絶望感も混じっていたと思います。前の世代を超える、真に新しい、刺激的なもの・感動的なものは、この先はもう現れないのかも知れない。出尽くしてしまったのかも知れない、と……。

 

しかし時間が経ち、リバイバル現象が恒常化し、それらの画像や物語が、各種のサイトやYouTubeの動画コンテンツとして、ネット上にあふれるようになってくると考え方は変わってきました。

 

それらのストーリー、キャラクターは、もはや単なるレトロやリバイバルでなく、世界中の人たちの共有財産となっています。いわば全世界共通の伝承なのです。

僕たちは欧米やアジアやアフリカの人たちと「ビートルズ」について、「手塚治虫」について、「ガンダム」について、「スターウォーズ」について語り合えるし、また、それらを共通言語にして、子や孫の世代とも同様に語り合えます。

そこにボーダーはないし、ジェネレーションギャップも存在しません。純粋にポップカルチャーを媒介にしてつながり合う、数限りない関係が生まれるのです。

 

また、これらの伝承のオリジナルの発信者――ミュージシャン、映画監督、漫画家、小説家などによって、あるいは彼ら・彼女らをリスペクトするクリエイターたちによって自由なアレンジが施され、驚くほど新鮮なコンテンツに生まれ変わる場合もあります。

 

インターネットの本当の役割

 

オリジナル曲をつくった、盛りを過ぎたアーティストたちが、子や孫たち世代の少年・少女と再び眩いステージに立ち、自分の資産である作品を披露。それをYouTubeなどを介して広めている様子なども頻繁に見かけるようになりました。

 

それが良いことなのか、悪いことなのか、評価はさておき、そうした状況がインタ―ネットによって現れています。これから10年たち、20年たち、コンテンツがさらに充実し、インターネット人口が現在よりさらに膨れ上がれば、どうなるでしょうか? 

 

おそらくその現象は空気のようなものとして世の中に存在するようになり、僕たちは新たな世界的伝承として、人類共通の文化遺産として、完成された古典として見なすようになるでしょう。人々は分かりやすく、楽しませてくれるものが大好きだからです。

 

そして、まるで「桃太郎」のお話を聞くように、まっさらな状態で、これらの伝承を受け取った子供たちが、そこからまた新しい、次の時代の物語を生みだしていきます。

 

この先、そうした現象が必ず起こると思う。インターネットという新参者のメディアはその段階になって、さらに大きな役割を担うのでしょう。それは文化の貯蔵庫としての価値であり、さらに広げて言えば、人類の文化の変革につながる価値になります。

 

 

2016年6月13日


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地方自治体のホームページって割と面白い

 

 

 ここのところ、雑誌の連載で地方のことを書いています。

書くときはまずベーシックな情報(最初のリード文として使うこともあるので)をインターネットで調べます。

 これはウィキペディアなどの第3者情報よりも、各県の公式ホームページの方が断然面白い。自分たちの県をどう見せ、何をアピールしたいかがよくわかるからです。

なんでも市場価値が問われる時代。「お役所仕事云々・・・」と言われることが多い自治体ですが、いろいろ努力して、ホームページも工夫しています。

 

 最近やった宮崎県のキャッチコピーは「日本のひなた」。

 日照時間の多さ、そのため農産物がよく獲れるということのアピール。

 そしてもちろん、人や土地のやさしさ、あったかさ、ポカポカ感を訴えています。

 いろいろな人たちがお日さまスマイルのフリスビーを飛ばして、次々と受け渡していくプロモーションビデオは、単純だけど、なかなか楽しかった。

 

 それから「ひなた度データ」というのがあって、全国比率のいろいろなデータが出ています。面白いのが、「餃子消費量3位」とか、「中学生の早寝早起き率 第3位」とか、「宿題実行率 第4位」とか、「保護者の学校行事参加率 第2位」とか・・・
 「なんでこれがひなた度なんじゃい!」とツッコミを入れたくなるのもいっぱい。だけど好きです、こういうの。 

 取材するにしても、いきなり用件をぶつけるより、「ホームページ面白いですね~」と切り出したほうが、ちょっとはお役所臭さが緩和される気がします。

 

 「あなたのひなた度は?」というテストもあって、やってみたら100パーセントでした。じつはまだ一度も行ったことないけれど、宮崎県を応援したくなるな。ポカポカ。

 

2016年6月12日


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タイムマシンにおねがい

 

 きのう6月10日は「時の記念日」でした。それに気がついたら頭の中で突然、サディスティック・ミカ・バンドの「タイムマシンにおねがい」が鳴り響いてきたので、YouTubeを見てみたら、1974年から2006年まで、30年以上にわたるいろいろなバージョンが上がっていました。本当にインターネットの世界でタイムマシン化しています。

 

 これだけ昔の映像・音源が見放題・聞き放題になるなんて10年前は考えられませんでした。こういう状況に触れると、改めてインターネットのパワーを感じると同時に、この時代になるまで生きててよかった~と、しみじみします。

 

 そしてまた、ネットの中でならおっさん・おばさんでもずっと青少年でいられる、ということを感じます。60~70年代のロックについて滔々と自分の思い入れを語っている人がいっぱいいますが、これはどう考えても50代・60代の人ですからね。

 でも、彼ら・彼女らの頭の中はロックに夢中になっていた若いころのまんま。脳内年齢は10代・20代。インターネットに没頭することは、まさしくタイムマシンンに乗っているようなものです。

 

 この「タイムマシンにおねがい」が入っているサディスティック・ミカ・バンドの「黒船」というアルバムは、1974年リリースで、いまだに日本のロックの最高峰に位置するアルバムです。若き加藤和彦が作った、世界に誇る傑作と言ってもいいのではないでしょうか。

 中でもこの曲は音も歌詞もゴキゲンです。いろいろ見た(聴いた)中でいちばんよかったのは、最新(かな?)の2006年・木村カエラ・ヴォーカルのバージョンです。おっさんロッカーたちをバックに「ティラノサウルスおさんぽ アハハハ-ン」とやってくれて、くらくらっときました。

 

 やたらと「オリジナルでなきゃ。あのヴォーカルとあのギターでなきゃ」とこだわる人がいますが、僕はそうは思わない。みんなに愛される歌、愛されるコンテンツ、愛される文化には、ちゃんと後継ぎがいて、表現技術はもちろんですが、それだけでなく、その歌・文化の持ち味を深く理解し、見事に自分のものとして再現します。中には「オリジナルよりいいじゃん!」と思えるものも少なくありません。(この木村カエラがよい例)。

 この歌を歌いたい、自分で表現したい!――若い世代にそれだけ強烈に思わせる、魅力あるコンテンツ・文化は生き残り、クラシックとして未来に継承されていくのだと思います。

 

 もう一つおまけに木村カエラのバックでは、晩年の加藤和彦さんが本当に楽しそうに演奏をしていました。こんなに楽しそうだったのに、どうして自殺してしまったのだろう・・・と、ちょっと哀しくもなったなぁ。

 

2016年6月11日


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「歴人めし」おかわり情報

 

 9日間にわたって放送してきた「歴人めし」は、昨日の「信長巻きの巻」をもっていったん終了。しかし、ご安心ください。7月は夜の時間帯に再放送があります。ぜひ見てくださいね。というか、You Tubeでソッコー見られるみたいですが。

 

 

https://www.ch-ginga.jp/movie-detail/series.php?series_cd=12041

 

 この仕事では歴人たちがいかに食い物に執念を燃やしていたかがわかりました。 もちろん、記録に残っているのはほんの少し。

 源内さんのように、自分がいかにうなぎが好きか、うなぎにこだわっているか、しつこく書いている人も例外としていますが、他の人たちは自分は天下国家のことをいつも考えていて、今日のめしのことなんかどうでもいい。カスミを食ってでの生きている・・・なんて言い出しそうな勢いです。

 

 しかし、そんなわけはない。偉人と言えども、飲み食いと無関係ではいられません。 ただ、それを口に出して言えるのは、平和な世の中あってこそなのでしょう。だから日本の食文化は江戸時代に発展し、今ある日本食が完成されたのです。

 

 そんなわけで、「おかわり」があるかもしれないよ、というお話を頂いているので、なんとなく続きを考えています。

 駿河の国(静岡)は食材豊富だし、来年の大河の井伊直虎がらみで何かできないかとか、 今回揚げ物がなかったから、何かできないかとか(信長に捧ぐ干し柿入りドーナツとかね)、

 柳原先生の得意な江戸料理を活かせる江戸の文人とか、明治の文人の話だとか、

 登場させ損ねてしまった豊臣秀吉、上杉謙信、伊達政宗、浅井三姉妹、新選組などの好物とか・・・

 食について面白い逸話がありそうな人たちはいっぱいいるのですが、柳原先生の納得する人物、食材、メニュー、ストーリーがそろって、初めて台本にできます。(じつは今回もプロット段階でアウトテイク多数)

 すぐにとはいきませんが、ぜひおかわりにトライしますよ。

 それまでおなかをすかせて待っててくださいね。ぐ~~。

2016年6月7日


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歴人めし♯9:スイーツ大好き織田信長の信長巻き

 

信長が甘いもの好きというのは、僕は今回のリサーチで初めて知りました。お砂糖を贈答したり、されたりして外交に利用していたこともあり、あちこちの和菓子屋さんが「信長ゆかりの銘菓」を開発して売り出しているようです。ストーリーをくっつけると、同じおまんじゅうやあんころもちでも何だか特別なもの、他とは違うまんじゅうやあんころもちに思えてくるから不思議なものです。

 

 今回、ゆかりの食材として採用したのは「干し柿」と「麦こがし(ふりもみこがし)」。柿は、武家伝統の本膳料理(会席料理のさらに豪華版!)の定番デザートでもあり、記録をめくっていると必ず出てきます。

 現代のようなスイーツパラダイスの時代と違って、昔の人は甘いものなどそう簡単に口にできませんでした。お砂糖なんて食品というよりは、宝石や黄金に近い超ぜいたく品だったようです。だから信長に限らず、果物に目のない人は大勢いたのでしょう。

 中でもは干し柿にすれば保存がきくし、渋柿もスイートに変身したりするので重宝されたのだと思います。

 

  「信長巻き」というのは柳原尚之先生のオリジナル。干し柿に白ワインを染み込ませるのと、大徳寺納豆という、濃厚でしょっぱい焼き味噌みたいな大豆食品をいっしょに巻き込むのがミソ。

 信長は塩辛い味も好きで、料理人が京風の上品な薄味料理を出したら「こんな水臭いものが食えるか!」と怒ったという逸話も。はまった人なら知っている、甘い味としょっぱい味の無限ループ。交互に食べるともうどうにも止まらない。信長もとりつかれていたのだろうか・・・。

 

 ちなみに最近の映画やドラマの中の信長と言えば、かっこよくマントを翻して南蛮渡来の洋装を着こなして登場したり、お城の中のインテリアをヨーロッパの宮殿風にしたり、といった演出が目につきます。

 スイーツ好きとともに、洋風好き・西洋かぶれも、今やすっかり信長像の定番になっていますが、じつはこうして西洋文化を積極的に採り入れたのも、もともとはカステラだの、金平糖だの、ボーロだの、ポルトガルやスペインの宣教師たちが持ち込んできた、砂糖をたっぷり使った甘いお菓子が目当てだったのです。(と、断言してしまう)

 

 「文化」なんていうと何やら高尚っぽいですが、要は生活習慣の集合体をそう呼ぶまでのこと。その中心にあるのは生活の基本である衣食住です。

 中でも「食」の威力はすさまじく、これに人間はめっぽう弱い。おいしいものの誘惑からは誰も逃れられない。そしてできることなら「豊かな食卓のある人生」を生きたいと願う。この「豊かな食卓」をどう捉えるかが、その人の価値観・生き方につながるのです。

 魔王と呼ばれながら、天下統一の一歩手前で倒れた信長も、突き詰めればその自分ならではの豊かさを目指していたのではないかと思うのです。

 

2016年6月6日


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歴人めし♯8 山内一豊の生食禁止令から生まれた?「カツオのたたき」

 

 「豊臣秀吉がまだ木下藤吉郎だったころ、琵琶湖のほとりに金目教という怪しい宗教が流行っていた・・・」というナレーションで始まるのは「仮面の忍者・赤影」。子供の頃、夢中になってテレビにかじりついていました。

 時代劇(忍者もの)とSF活劇と怪獣物をごちゃ混ぜにして、なおかつチープな特撮のインチキスパイスをふりかけた独特のテイストは、後にも先にもこの番組だけ。僕の中ではもはや孤高の存在です。

 

 いきなり話が脱線していますが、赤影オープニングのナレーションで語られた「琵琶湖のほとり」とは滋賀県長浜あたりのことだったのだ、と気づいたのは、ちょうど10年前の今頃、イベントの仕事でその長浜に滞在していた時です。

 このときのイベント=期間限定のラジオ番組制作は、大河ドラマ「功名が辻」関連のもの。4月~6月まで断続的に数日ずつ訪れ、街中や郊外で番組用の取材をやっていました。春でもちょっと寒いことを我慢すれば、賑わいがあり、かつまた、自然や文化財にも恵まれている、とても暮らしやすそうな良いところです。

この長浜を開いたのは豊臣秀吉。そして秀吉の後を継いで城主になったのが山内一豊。「功名が辻」は、その一豊(上川隆也)と妻・千代(仲間由紀恵)の物語。そして本日の歴人めし♯9は、この一豊ゆかりの「カツオのたたき」でした。

 ところが一豊、城主にまでしてもらったのに秀吉の死後は、豊臣危うしと読んだのか、関が原では徳川方に寝返ってしまいます。つまり、うまいこと勝ち組にすべり込んだわけですね。

 これで一件落着、となるのが、一豊の描いたシナリオでした。

 なぜならこのとき、彼はもう50歳。人生50年と言われた時代ですから、その年齢から本格的な天下取りに向かった家康なんかは例外中の例外。そんな非凡な才能と強靭な精神を持ち合わせていない、言ってみればラッキーで何とかやってきた凡人・一豊は、もう疲れたし、このあたりで自分の武士人生も「あがり」としたかったのでしょう。

 できたら、ごほうびとして年金代わりに小さな領地でももらって、千代とのんびり老後を過ごしたかったのだと思います。あるいは武士なんかやめてしまって、お百姓でもやりながら余生を・・・とひそかに考えていた可能性もあります。

 

 ところが、ここでまた人生逆転。家康からとんでもないプレゼントが。

 「土佐一国をおまえに任せる」と言い渡されたのです。

 一国の領主にしてやる、と言われたのだから、めでたく大出世。一豊、飛び上がって喜んだ・・・というのが定説になっていますが、僕はまったくそうは思いません。

 なんせ土佐は前・領主の長曾我部氏のごっつい残党がぞろぞろいて、新しくやってくる領主をけんか腰で待ち構えている。徳川陣営の他の武将も「あそこに行くのだけは嫌だ」と言っていたところです。

 

 現代に置き換えてみると、後期高齢者あたりの年齢になった一豊が、縁もゆかりもない外国――それも南米とかのタフな土地へ派遣されるのようなもの。いくらそこの支店長のポストをくれてやる、と言われたって全然うれしくなんかなかったでしょう。

 

 けれども天下を収めた家康の命令は絶対です。断れるはずがありません。

 そしてまた、うまく治められなければ「能無し」というレッテルを貼られ、お家とりつぶしになってしまいます。

 これはすごいプレッシャーだったでしょう。「勝ち組になろう」なんて魂胆を起こすんじゃなかった、と後悔したに違いありません。

 

 こうして不安と恐怖、ストレスで萎縮しまくってたまま土佐に行った一豊の頭がまともに働いたとは思えません。豊富に採れるカツオをがつがつ生で食べている連中を見て、めちゃくちゃな野蛮人に見えてしまったのでしょう。

 人間はそれぞれの主観というファンタジーの中で生きています。ですから、この頃の彼は完全に「土佐人こわい」という妄想に支配されてしまったのです。

 

 「功名が辻」では最後の方で、家来が長曾我部の残党をだまして誘い出し、まとめて皆殺しにしてしまうシーンがあります。これは家来が独断で行ったことで、一豊は関与していないことになっていますが、上司が知らなったわけがありません。

 

こうして不安と恐怖、ストレスで萎縮しまくってたまま土佐に行った一豊の頭がまともに働いたとは思えません。豊富に採れるカツオをがつがつ生で食べている連中を見て、めちゃくちゃな野蛮人に見えてしまったのでしょう。

 人間はそれぞれの主観というファンタジーの中で生きています。ですから、この頃の彼は完全に「土佐人こわい」という妄想に支配されてしまったのです。

 

 「功名が辻」では最後の方で、家来が長曾我部の残党をだまして誘い出し、まとめて皆殺しにしてしまうシーンがあります。これは家来が独断で行ったことで、一豊は関与していないことになっていますが、上司が知らなったわけがありません。

 

 恐怖にかられてしまった人間は、より以上の恐怖となる蛮行、残虐行為を行います。

 一豊は15代先の容堂の世代――つまり、250年後の坂本龍馬や武市半平太の時代まで続く、武士階級をさらに山内家の上士、長曾我部氏の下士に分けるという独特の差別システムまで発想します。

 そうして土佐にきてわずか5年で病に倒れ、亡くなってしまった一豊。寿命だったのかもしれませんが、僕には土佐統治によるストレスで命を縮めたとしか思えないのです。

 

 「カツオのたたき」は、食中毒になる危険を慮った一豊が「カツオ生食禁止令」を出したが、土佐の人々はなんとかおいしくカツオを食べたいと、表面だけ火であぶり、「これは生食じゃのうて焼き魚だぜよ」と抗弁したところから生まれた料理――という話が流布しています。

 しかし、そんな禁止令が記録として残っているわけではありません。やはりこれはどこからか生えてきた伝説なのでしょう。

 けれども僕はこの「カツオのたたき発祥物語」が好きです。それも一豊を“民の健康を気遣う良いお殿様”として解釈するお話でなく、「精神的プレッシャーで恐怖と幻想にとりつかれ、カツオの生食が、おそるべき野蛮人たちの悪食に見えてしまった男の物語」として解釈してストーリーにしました。

 

 随分と長くなってしまいましたが、ここまで書いてきたバックストーリーのニュアンスをイラストの方が、短いナレーションとト書きからじつにうまく掬い取ってくれて、なんとも情けない一豊が画面で活躍することになったのです。

 一豊ファンの人には申し訳ないけど、カツオのたたきに負けず劣らず、実にいい味出している。マイ・フェイバリットです。

 

2016年6月3日


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「歴人めし」徳川家康提唱、日本人の基本食

 

 

 歴人めし第7回は「徳川家康―八丁味噌の冷汁と麦飯」。

 「これが日本人の正しい食事なのじゃ」と家康が言ったかどうかは知りませんが、米・麦・味噌が長寿と健康の基本の3大食材と言えば、多くの日本人は納得するのではないでしょうか。エネルギー、たんぱく質、ビタミン、その他の栄養素のバランスも抜群の取り合わせです。

 ましてやその発言の主が、天下を統一して戦国の世を終わらせ、パックス・トクガワ―ナを作った家康ならなおのこと。実際、家康はこの3大食材を常食とし、かなり養生に努めていたことは定説になっています。

 

  昨年はその家康の没後400年ということで、彼が城を構えた岡崎・浜松・静岡の3都市で「家康公400年祭」というイベントが開催され、僕もその一部の仕事をしました。

そこでお会いしたのが、岡崎城から歩いて八丁(約780メートル)の八丁村で八丁味噌を作っていた味噌蔵の後継者。

 かのメーカー社長は現在「Mr.Haccho」と名乗り、毎年、海外に八丁味噌を売り込みに行っているそうで、日本を代表する調味料・八丁味噌がじわじわと世界に認められつつあるようです。

 

 ちなみに僕は名古屋の出身なので子供の頃から赤味噌に慣れ親しんできました。名古屋をはじめ、東海圏では味噌と言えば、赤味噌=豆味噌が主流。ですが、八丁味噌」という食品名を用いれるのは、その岡崎の元・八丁村にある二つの味噌蔵――現在の「まるや」と「カクキュー」で作っているものだけ、ということです。

 

 しかし、養生食の米・麦・味噌をがんばって食べ続け、健康に気を遣っていた家康も、平和な世の中になって緊張の糸がプツンと切れたのでしょう。

 がまんを重ねて押さえつけていた「ぜいたくの虫」がそっとささやいたのかもしれません。

 

 「もういいんじゃないの。ちょっとぐらいぜいたくしてもかまへんで~」

 

 ということで、その頃、京都でブームになっていたという「鯛の天ぷら」が食べた~い!と言い出し、念願かなってそれを口にしたら大当たり。おなかが油に慣れていなかったせいなのかなぁ。食中毒がもとで亡くなってしまった、と伝えられています。

 でも考えてみれば、自分の仕事をやり遂げて、最期に食べたいものをちゃんと食べられて旅立ったのだから、これ以上満足のいく人生はなかったのではないでしょうか。

 

 

 

 

 

2016年6月2日


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歴人めし「篤姫のお貝煮」と御殿女中

  絶好調「真田丸」に続く2017年大河は柴咲コウ主演「おんな城主 直虎」。今年は男だったから来年は女――というわけで、ここ10年あまり、大河は1年ごとに主人公が男女入れ替わるシフトになっています。
 だけど女のドラマは難しいんです。なかなか資料が見つけらない。というか、そもそも残っていな。やはり日本の歴史は(外国もそうですが)圧倒的に男の歴史なんですね。


 それでも近年、頻繁に女主人公の物語をやるようになったのは、もちろん女性の視聴者を取り込むためだけど、もう一つは史実としての正確さよりも、物語性、イベント性を重視するようになってきたからだと思います。

 

 テレビの人気凋落がよく話題になりますが、「腐っても鯛」と言っては失礼だけど、やっぱ日曜8時のゴールデンタイム、「お茶の間でテレビ」は日本人の定番ライフスタイルです。

 出演俳優は箔がつくし、ゆかりの地域は観光客でにぎわうって経済も潤うし、いろんなイベントもぶら下がってくるし、話題も提供される・・・ということでいいことづくめ。
 豪華絢爛絵巻物に歴史のお勉強がおまけについてくる・・・ぐらいでちょうどいいのです。(とはいっても、制作スタッフは必死に歴史考証をやっています。ただ、部分的に資料がなくても諦めずに面白くするぞ――という精神で作っているということです)

 

 と、すっかり前置きが長くなってしまいましたが、なんとか「歴人めし」にも一人、女性を入れたいということで、あれこれ調べた挙句、やっと好物に関する記録を見つけたのが、20082年大河のヒロイン「篤姫」。本日は天璋院篤姫の「お貝煮」でした。

 

 見てもらえればわかるけど、この「お貝煮」なる料理、要するにアワビ入りの茶碗蒸しです。その記述が載っていたのが「御殿女中」という本。この本は明治から戦前の昭和にかけて活躍した、江戸文化・風俗の研究家・三田村鳶魚の著作で。篤姫付きの女中をしていた“大岡ませ子”という女性を取材した、いわゆる聞き書きです。

 

 

 明治も30年余り経ち、世代交代が進み、新しい秩序・社会体制が定着してくると、以前の時代が懐かしくなるらしく、「江戸の記憶を遺そう」というムーブメントが文化人の間で起こったようです。
 そこでこの三田村鳶魚さんが、かなりのご高齢だったます子さんに目をつけ、あれこれ大奥の生活について聞き出した――その集成がこの本に収められているというわけです。これは現在、文庫本になっていて手軽に手に入ります。

 ナレーションにもしましたが、ヘアメイク法やら、ファッションやら、江戸城内のエンタメ情報やらも載っていて、なかなか楽しい本ですが、篤姫に関するエピソードで最も面白かったのが飼いネコの話。

 最初、彼女は狆(犬)が買いたかったようなのですが、夫の徳川家定(13代将軍)がイヌがダメなので、しかたなくネコにしたとか。

 


 ところが、このネコが良き相棒になってくれて、なんと16年もいっしょに暮らしたそうです。彼女もペットに心を癒された口なのでしょうか。

 

 そんなわけでこの回もいろんな発見がありました。

 続編では、もっと大勢の女性歴人を登場させ、その好物を紹介したいと思っています。

 

2016年6月1日


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生きて祭 死して祭

 

「死ぬ前に一目祭りが見たい」

そう訴える老いた罪人に対し、

首切り役人が懐から狐のお面を取り出して渡す。

罪人がその面をつけると、耳には祭囃子が聞こえてくる。

彼が恍惚となり、幸福感に包まれた刹那、役人は刀を振り下ろし、

面をつけた罪人の首が宙を舞う。

 

「子連れ狼」と同じ小池一夫原作、小島剛夕作画コンビの劇画

「首斬り朝」は、刀剣の「試し斬り」の役目を担った

山田朝右衛門を描いた物語。

山田朝右衛門は打ち首の刑になった罪人の首を斬る、

いわば死刑執行人の役を兼務していたために、

江戸の町人たちから「人斬り朝右衛門」と恐れられていた。

江戸時代に実在した人物だ。

 

ちなみに「山田朝右衛門」というのは屋号みたいなもので、

代々同じ名を引き継ぎ、明治初期までお役目を務めていたという。

武士だが幕臣とは異なり、浪士の身分だった。

先述したストーリーは、

この「首斬り朝」の一編「祭り首」という話。

 

この劇画は基本的に一話読みきりで、

どちらかというと首を打たれる罪人が主役となり、

「なぜ罪を犯すことになったのか」を描く話が多い。

しかし「祭り首」は朝右衛門自身の

人生・感情にスポットが当たっている。

 

人々から恐れられていた「人斬り朝右衛門」は、

祭りの日は外出できなかった。

武士にとって、祭りは単なる遊びだが、

江戸の庶民にとっては、

現代のそれとは比較にならないほどの大イベント、

年に一度訪れる、命がけの祝祭である。

そんな特別めでたい日に、

不吉な死神と顔を合わせたくないというのだ。

 

祭というハレの日があるから、ケ(日常)が成り立つ。

解放の日にガス抜きをさせないと、庶民の間に不満が鬱積し、

世の中がうまく回らなくなる。

お上もそうした庶民の心情を無視しては

政ができないというわけである。

 

だから外出禁止は、なかばお上からの命令で、

それは気の毒なことに当人だけでなく家族も同様なのだ。

そのため、将来、「人斬り朝右衛門」になることを

運命づけられた少年朝右衛門は相当辛い思いをした。

 

10歳くらいの頃、我慢できずに

こっそり家を抜け出した少年朝衛門は、

人に見つからないよう、裏道でこっそり祭囃子を聞いていた。

すると、その裏道の入口前を、

同じ年頃の子供の集団が遊びながら走り抜け、

そのうちの一人が狐のお面を落としていった。

 

それを見つけた少年朝右衛門は、

こっそり拾って自分の顔にお面をつけてみる。

すると祭囃子がすぐ近くで聞こえた。

それは彼の人生で最初で最後の祭り体験になった。

 

漫画の中では描かれていないが、少年はその後、

急いで家に帰り、親に見つからないよう、お面を隠した。

もしかしたらその後、ずっと祭が来るたびに

家の中で一人でこっそりお面を被り、

幻聴のようなお囃子を聞いていたのかもしれない。

或いはお面を隠し持っていたおかげで、何とか大人になり、

父の後を継げたのかもしれない。

 

数十年後、刑執行の前日、彼は罪人が

「死ぬ前に一目祭りが見たい」と嘆願していることを知り、

箪笥の奥深くから隠し持っていた、あの狐のお面を取り出し、

しばし子供時代の回想に耽った後、

大事そうに懐に入れて家を出て、刑場へ――。

 

「首斬り朝」は「子連れ狼」と同じく、

父が全巻揃えて持っていた。

僕はそれを留守中に隠れて読んでいた。

「子連れ狼」より後なので、中学生だったと思う。

子連れ以上にエログロシーンが多い大人の漫画だったが、

人情噺に近い、この「祭り首」がいちばん印象に残っている。

そして、大人になって久しい今もなお、その印象は鮮明で、

罪人と朝右衛門の人生が交錯するラストシーンは、

思い出すたび、胸にじんと響く。

 

現代ではお祭りは、一部の人を除き、安全第一で、

神社の参道に並ぶ屋台で飲み食いするだけの

季節イベントになってしまっているが、

もともとは日本人の死生観と深くつながったものだった。

 

夜の神社を歩くと、ふと周囲の雑踏が消えて

生と死の境の空間に足を踏み入れたような

錯覚に落ちることがある。

 

死の間際に、心のどこかで祭囃子を聴くことができたら、

この世に未練を残さず別れられるのだろうか?

いい人生だったと思えるのだろうか?

祭りの季節になると、そんなことを考えるようになった。

 


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認知症の義母の失踪

 

昨日の夕方、いっしょに行った近所のスーパーから

義母が忽然と姿を消した。

この店には一角にカフェコーナーがあり、

買い物客が買ったものをイートインしたり、

自販機でドリンクを飲んで休憩できるようになっている。

給水・給茶機もあり、こちらは無料だ。

この店まではそこそこ距離があるので、

来るとここに座らせてお茶を与え、休んでいてもらって、

10~15分、買い物をしている。

ところがレジを済ませて戻ってみると、姿がない。

前にも2度あったが、ひとりで店内をうろうろして

商品を見てまわっていたので、

すぐ見つかるだろうと高をくくっていたのだが、さにあらず。

2階・3階・地下を見て回ったがいない。

 

慌ててすっ飛んで帰り、

自転車で家とスーパーとの間の道をあちこち探し回ったが、

見つからない。

スーパーで事情を話し、防犯カメラを確認してもらったところ、

どうやら家と反対方向に歩いて行ったらしい。

頭はダメだが、体はじょうぶで健脚である。

以前も「自分の家(実家?故郷?)に帰る」と言い残して、

自分が知らない道を、ひとりでずんずん歩き続けたことがあった。

(その時は尾行していった)

 

日が暮れてきたので、

カミさんと相談してやむを得ず警察に届け出。

その後、家と反対方向の幹線道路を越えたあたりを

探していたら、カミさんの電話に、隣町の交番で保護された、

という連絡が入ったという。

自転車を飛ばして行ってみると、

特に疲れた様子も困った様子もなく、

交番の中にちょこんと座って涼しい顔をしている。

僕が入っていくと、わかったらしく

「この人たちはすごくいい人。それにいい男でしょ」

などと若い警官を持ち上げた。

警察の話によると、

その交番付近をウロウロしていたので声を掛けたら、

ちょっと反応がおかしいので、迷い人だなと思って保護。

さっき別の交番に届け出た本人の特徴と一致していたので、

カミさんに電話が行ったという。

最近、自分の名前が言えないこともあるが、

この時はちゃんと名乗れたらしい。

 

その交番はスーパーから約1キロ、

1時間近くひとり旅をしていたらしく、

さすがに疲れてどこかで休みたいと思っていたので、

交番を休憩所代わりに使ったのかもしれない。

そして、何よりも声をかけた警官が若くてちょっとイケメンで、

義母好みだったことも幸いしたのだろう。

帰る時は、彼の手を握って「また会いに来るからね」

などとのたまった。

こっちは2時間半探し回ってへとへとである。

 

それにしても、たまたま近所の、

わかりやすいところで保護されたからよかったが、

これは、これまで大丈夫だったからと、

目を離していた僕の大失敗。

今後、絶対に自分の都合で目を離さないと誓ったのと、

万一の時のために靴にGPSを仕込んでおこうと決めた。

 


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電子書籍新刊「あなたはどんな大人に憧れましたか?」

 

人生に迷った時、私たちは何に立ち返ればいいのだろうか。

この問いに、著者おりべまことは実体験を通して

答えを示してくれる。

 

デイサービスで出会った青年が語った

「やきいも屋のおっさんにあこがれていた」という言葉。

手っ取り早く稼ぐことが成功とされる現代において、

地に足をつけて人と向き合う生き方への憧れを語る彼の言葉は、

私たちが忘れてしまった大切なものを思い出させる。

 

本書は「生きる」をテーマにしたエッセイシリーズ第7集。

認知症を患った義母の介護体験、友人の死、

そして自分自身の老いと向き合う中で見えてきた人生の真実が、

時にユーモラスに、時に切なく描かれている。

 

特に印象深いのは、認知症の当事者として講演活動を続ける

クリスティーン・ブライデン氏の

「私は死ぬとき、本当の自分になる」

という言葉を紹介したエッセイ。

病気によって社会的な役割を失いながらも、

真の自己と向き合うことで見出した生きる意味は、

健常者である私たちにとっても深い示唆を与えてくれる。

 

また、「人生は思ったよりもずっと短い」では、

かつて才能ある批評家だった知人の変わり果てた姿を通して、

時間の有限性と行動することの大切さを説く。

若者が死について考えることを否定するのではなく、

それこそが「生きるとは何か」という

根源的な問いかけだと捉える視点も新鮮だ。

 

ブログ「DAIHON屋のネタ帳」から厳選された33

編は、どれも読者の心に深く響く。

人生の後半戦を迎えた人はもちろん、

生き方に迷う若い世代にも、

きっと新たな視点を与えてくれるはずだ。

 

Amazon Kindleより本日発売! ¥500

 

もくじ

  • 私は死ぬとき、本当の自分になる
  • 恐竜王国 福井への遠足で「生きる」を養う
  • 誕生日は誰にでも平等にある祝福の日
  • 逃亡者の死の価値
  • 女を舐めるべからず
  • なぜ昭和の“すごい”人たちは本を出せなかったのか?
  • となりのレトロより:あんたも閻魔大王様に舌抜かれるよ
  • 赤いパンツの底力 ~巣鴨とげぬき地蔵デイトリップ~
  • どんな子どもも「世界は美しいよ」と実感させてくれる
  • 人生は思ったよりもずっと短い
  • 春休みは人生の踊り場
  • 死ぬ前にもう一度ワールドツアーで歌いたい・演奏したい
  • 友の旅立ちに春の花を
  • 「パーフェクト・デイ」そして「またあした」
  • なぜ女は「死」に関心が深いのか?
  • あなたはどんな大人に憧れましたか?
  • 酒タバコ やめて100まで生きる日本人
  • 若者が死について考えるのは健全である
  • 人生の価値観を問う「天路の旅人」
  • 唐十郎さんに「君の作文は面白い」と言われたこと
  • 唐十郎式創作術「分からないことに立ち向かう」
  • 高齢者を高齢者扱いするべからず
  • なぜ医者も歯医者も早死にするのか?
  • 母の日に酒を、父の日に花を
  • 息子の誕生日に考えたこと
  • 経済が支配するユートピアとディストピアを見つめる 「父が娘に語る経済の話。」
  • 友の49日と「友だち法要」
  • 前のめりになって生きて死ね
  • 父の日の秘密の花園
  • タクシーの中にスマホを忘れたら
  • やっぱり変わらなかった東京都知事選2024
  • 「十代が!」と連呼する大人の気持ち悪さと 「母親になる可能性を持った身体」について
  • 夏休みも人生も後半はあっという間

 


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昭和歌謡・時代劇系の傑作「子連れ狼」

 

 

橋幸夫さんが亡くなった。

国民的歌手とまでいわれた、昭和歌謡の代表的な歌い手だが、

さすがに僕は、吉永小百合とのデュエットとかは、

リアルタイムでは知らない世代。

だけど子供のころ、「潮来笠」(デビュー曲)や「子連れ狼」などの

時代劇系の歌が好きだった。

 

自分ではよく覚えてないが、「潮来笠」は

♪いたこのいたろう ちょっとみなれば~

と、三度笠に見立てたザルを持って歌っていたらしい。

 

「子連れ狼」はもともと大人向けのマンガ(劇画)で

テレビドラマ化され、小学生の頃、ちょっとしたブームになった。

この曲は劇画のイメージソングとして企画され、

ドラマの主題歌になったのは後付けだったらしい。

1位にはならなかったが、

1か月くらいベスト10入りしていたと思う。

 

作詞は劇画の原作者である小池一雄。

イントロと途中で語りが入るのは、いかにも昭和歌謡らしい。

 

歌詞の1番で「しとしとぴっちゃん しとぴっちゃん」=雨、

2番で「ひょうひょうしゅるる ひょうしゅるる」=北風、

3番で「ぱきぱきぴきんこ ぱきぴんこ」=霜と、

きびしい自然を表現する、オノマトペの使い方が秀逸。

橋さんと子供合唱団の共演で3分間のドラマを生み出している。

 

訃報を聞いて、久しぶりに聴いてみたが、

やっぱりこれは名曲だなぁと感心した。

と同時に、小学生の時(確か5年生か6年生)の

友だちのことを思い出した。

 

ちなみに父がこの漫画を全巻揃えていたので、

いないときに読んでみたが、

けっこう濡れ場がふんだんに出てきて、

盗み読みするのに罪悪感を覚えた。

子供心にかなりショッキングな描写もあったが、

最近は、アニメなどでもやたらと、

刃物でズタズタ、バラバラにされる描写が出てくるので、

今思うと、かわいいものだったのかもしれない。

 

ゆるぎない昭和歌謡の傑作を世に送り出してくれた

橋幸夫さんのご冥福を祈ります。

 


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心が乱れたら両手を合わせてみる

 

ここのところ、認知症の義母の幼児化が著しい。

欲望丸出しのガキに等しいので、大人の理屈は一切通らない。

「これやっちゃダメ」なんて言っても5分後には忘れている。

息子がチビの時代もこれほど手こずらなかった。

それに子供と違って、そのうち成長してわかるようになるだろう

という希望も抱けない。

 

ほとほと疲れるのだが、

それは「大人なのに」と思って接するからだ。

以前から子ども扱いはしていたが、それでもだめだ。

そこでお地蔵様あつかい・菩薩様あつかいし、

朝夕手を合わせることにした。

すると、あら不思議。

気持ちが落ち着き、イラついたり、腹が立ったり、

疲れたりすることが少なくなった。

 

そういえば以前、仕事で

「お仏壇のはせがわ」の社長にインタビューしたとき、

「一日三回、手を合わせると人生変わりますよ」

といわれたことがある。

 

一応、両親と義父の手元供養をしているので、

朝は手を合わせるようにしているが、

まだ生きている義母を菩薩視して同じようにやっていると、

なんだかメンタルヘルスにいい気がする。

はせがわのコマーシャルで女の子がやっている

「お手手のしわとしわを合わせて、しあわせ」は、

あながちでたらめではない。

 

僕は宗教心のカケラもない人間だが、

おそらく左右の手のひらを胸の前で合わせるという運動と姿勢が、

からだ全体の血流とか、気の流れとかに

何か影響を及ぼすのかもしれない。

そうした科学的根拠もありそうだが、

なんでも理論的に説明されてしまうと、

「なんだ、そういうことか」と納得してしまって、

生きるのがつまらなくなるような気がする。

人生にはある程度、

不思議なことや神秘的なことがあったほうが面白い。

 

仏壇やお墓やお寺やお宮の前でなくてもいい。

祈願も感謝も供養の心も、神仏のイメージも必要ない。

ただ何も考えず、両手を合わせるだけでよい。

もし、頭に来たり、悲しくなったり、不安になったり、

ネガティブな感情にとらわれたら、

胸の前で手と手を合わせてみよう。

できたら一日何回も「しあわせ」をやってみる。

たったそれだけで気持ちが落ち着き、気分が良くなるよ。

 


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なぜ日本ではカエルはかわいいキャラなのか?

 

 「かえるくん、東京を救う」というのは村上春樹の短編小説の中でもかなり人気の高い作品です。

 主人公がアパートの自分の部屋に帰ると、身の丈2メートルはあろうかというカエルが待っていた、というのだから、始まり方はほとんど恐怖小説。

 ですが、その巨大なカエルが「ぼくのことは“かえるくん”と呼んでください」と言うのだから、たちまちシュールなメルヘンみたいな世界に引き込まれてしまいます。

 

 この話は阪神大震災をモチーフにしていて、けっして甘いメルヘンでも、面白おかしいコメディでもないシリアスなストーリーなのですが、このかえるくんのセリフ回しや行動が、なんとも紳士的だったり、勇敢だったり、愛らしかったり、時折ヤクザだったりして独特の作品世界が出来上がっています。

 

 しかし、アメリカ人の翻訳者がこの作品を英訳するとき、この「かえるくん」という呼称のニュアンスを、どう英語で表現すればいいのか悩んだという話を聞いて、さもありなんと思いました。

 

 このカエルという生き物ほど、「かわいい」と「気持ち悪い」の振れ幅が大きい動物も珍しいのではないでしょうか。

でも、その振れ幅の大きさは日本人独自の感覚のような気もします。

 

 欧米人はカエルはみにくい、グロテスクなやつ、場合によっては悪魔の手先とか、魔女の使いとか、そういう役割を振られるケースが圧倒的に多い気がします。

 

 ところが、日本では、けろけろけろっぴぃとか、コルゲンコーワのマスコットとか、木馬座アワーのケロヨンとか、古くは「やせガエル 負けるな 一茶ここにあり」とか、かわいい系・愛すべき系の系譜がちゃんと続いていますね。

 

 僕が思うに、これはやっぱり稲作文化のおかげなのではないでしょうか。

 お米・田んぼと親しんできた日本人にとって、田んぼでゲコゲコ鳴いているカエルくんたちは、友だちみたいな親近感があるんでしょうね。

 そして、彼らの合唱が聞こえる夏の青々とした田んぼの風景は、今年もお米がいっぱい取れそう、という期待や幸福感とつながっていたのでしょう。

 カエル君に対するよいイメージはそういうところからきている気がします。

 

 ちなみに僕の携帯電話はきみどり色だけど、「カエル色」って呼ばれています。

 茶色いのも黄色っぽいもの黒いのもいるけど、カエルと言えばきれいなきみどり色。やっぱ、アマガエルじゃないとかわいくないからだろうね、きっと。

 雨の季節。そういえば、ここんとこ、カエルくんと会ってないなぁ。ケロケロ。

 


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家族ストーリーを書く仕事② 個の家族

 

  「これから生まれてくる子孫が見られるように」

 ――今回の家族ストーリー(ファミリーヒストリー)を作った動機について、3世代の真ん中の息子さん(団塊ジュニア世代)は作品の最後でこんなメッセージを残しています。

 彼の中にはあるべき家族の姿があった。しかし現実にはそれが叶わなかった。だからやっと安定し、幸福と言える現在の形を映像に残すことを思い立った――僕にはそう取れます。

 

 世間一般の基準に照らし合わせれば、彼は家庭に恵まれなかった人に属するでしょう。かつて日本でよく見られた大家族、そして戦後の主流となった夫婦と子供数人の核家族。彼の中にはそうした家族像への憧れがあったのだと思います。

 

 けれども大家族どころか、核家族さえもはや過去のものになっているのでないか。今回の映像を見ているとそう思えてきます。

 

 団塊の世代の親、その子、そして孫(ほぼ成人)。

 彼らは家族であり、互いに支え合い、励まし合いながら生きている。

 けれど、その前提はあくまで個人。それぞれ個別の歴史と文化を背負い、自分の信じる幸福を追求する人間として生きている。

 

 むかしのように、まず家があり、そこに血のつながりのある人間として生まれ、育つから家族になるのではなく、ひとりひとりの個人が「僕たちは家族だよ」という約束のもとに集まって愛情と信頼を持っていっしょに暮らす。あるいは、離れていても「家族だよ」と呼び合い、同様に愛情と信頼を寄せ合う。だから家族になる。

 

 これからの家族は、核家族からさらに小さな単位に進化した「ミニマム家族」――「個の家族」とでもいえばいいのでしょうか。

 比喩を用いれば、ひとりひとりがパソコンやスマホなどのデバイスであり、必要がある時、○○家にログインし、ネットワークし、そこで父・母・息子・娘などの役割を担って、相手の求めることに応じる。それによってそれぞれが幸福を感じる。そうした「さま」を家族と呼称する――なかなかスムーズに表現できませんが、これからはそういう家族の時代になるのではないでしょうか。

 

 なぜなら、そのほうが現代のような個人主義の世の中で生きていくのに何かと便利で快適だからです。人間は自身の利便性・快適性のためになら、いろいろなものを引き換えにできます。だから進化してこられたのです。

 

 引き換えに失ったものの中にももちろん価値があるし、往々にして失ってみて初めてその価値に気づくケースがあります。むかしの大家族しかり。核家族しかり。こうしてこれらの家族の形態は、今後、一種の文化遺産になっていくのでしょう。

 好きか嫌いかはともかく、そういう時代に入っていて、僕たちはもう後戻りできなくなっているのだと思います。

 

 将来生まれてくる子孫のために、自分の家族の記憶を本なり映像なりの形でまとめて遺す―― もしかしたらそういう人がこれから結構増えるのかもしれません。

 

 

2016・6・27 Mon


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家族ストーリーを書く仕事① 親子3世代の物語

 

 親子3世代の物語がやっと完成一歩手前まで来ました。

 昨年6月、ある家族のヒストリー映像を作るというお仕事を引き受けて、台本を担当。

足掛け1年掛かりでほぼ完成し、残るはクライアントさんに確認を頂いて、最後にナレーションを吹き込むのみ、という段階までこぎつけたのです。

 

 今回のこの仕事は、ディレクターが取材をし、僕はネット経由で送られてくるその音源や映像を見て物語の構成をしていきました。そのディレクターとも最初に1回お会いしただけでご信頼を頂いたので、そのあとはほとんどメールのやり取りのみで進行しました。インターネットがあると、本当に家で何でもできてしまいます。

 ですから時間がかかった割には、そんなに「たいへん感」はありませんでした。

 

 取材対象の人たちともリアルでお会いしたことはなく、インタビューの音声――話の内容はもとより、しゃべり方のくせ、間も含めて――からそれぞれのキャラクターと言葉の背景にある気持ちを想像しながらストーリーを組み立てていくのは、なかなかスリリングで面白い体験でした(最初の下取材の頃はディレクターがまだ映像を撮っていなかったので、レコーダーの音源だけを頼りにやっていました)。

 

 取材対象と直接会わない、会えないという制限は、今までネガティブに捉えていたのですが、現場(彼らの生活空間や仕事空間)の空気がわからない分、余分な情報に戸惑ったり、感情移入のし過ぎに悩まされたりすることがありません。

 適度な距離を置いてその人たちを見られるので、かえってインタビューの中では語られていない範囲まで自由に発想を膨らませられ、こうしたドキュメンタリーのストーリーづくりという面では良い効果もあるんだな、と感じました。

 

 後半(今年になってから)、全体のテーマが固まり、ストーリーの流れが固まってくると、今度は台本に基づいて取材がされるようになりました。

 戦後の昭和~平成の時代の流れを、団塊の世代の親、その息子、そして孫(ほぼ成人)という一つの家族を通して見ていくと、よく目にする、当時の出来事や風俗の記録映像も、魂が定着くした記憶映像に見えてきます。

 これにきちんとした、情感豊かなナレーターの声が入るのがとても楽しみです。

 

 

2016・6・26 Sun


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ゴマスリずんだ餅と正直ファンタじいさん

 

おもちペタペタ伊達男

 

  今週日曜(19日)の大河ドラマ「真田丸」で話題をさらったのは、長谷川朝晴演じる伊達政宗の餅つきパフォーマンスのシーン。「独眼竜」で戦国武将の中でも人気の高い伊達政宗ですが、一方で「伊達男」の語源にもなったように、パフォーマーというか、歌舞伎者というか、芝居っけも方もたっぷりの人だったようです。

 

 だから、餅つきくらいやってもおかしくないのでしょうが、権力者・秀吉に対してあからさまにこびへつらい、ペッタンコとついた餅にスリゴマを・・・じゃなかった、つぶした豆をのっけて「ずんだ餅でございます」と差し出す太鼓持ち野郎の姿に、独眼竜のカッコいいイメージもこっぱみじんでした。

 

 僕としては「歴人めし」の続編のネタ、一丁いただき、と思ってニヤニヤ笑って見ていましたが、ファンの人は複雑な心境だったのではないのでしょうか。(ネット上では「斬新な伊達政宗像」と、好意的な意見が多かったようですが)。

 

 しかし、この後、信繁(幸村=堺雅人)と二人で話すシーンがあり、じつは政宗、今はゴマスリ太鼓持ち野郎を演じているが、いずれ時が来れば秀吉なんぞ、つぶしてずんだ餅にしてやる・・・と、野心満々であることを主人公の前で吐露するのです。

 で、これがクライマックスの関ヶ原の伏線の一つとなっていくわけですね。

 

裏切りのドラマ

 

 この「真田丸」は見ていると、「裏切り」が一つのテーマとなっています。

 出てくるどの武将も、とにかくセコいのなんのttらありゃしない。立派なサムライなんて一人もいません。いろいろな仮面をかぶってお芝居しまくり、だましだまされ、裏切り裏切られ・・・の連続なのです。

 

 そりゃそうでしょう。乱世の中、まっすぐ正直なことばかりやっていては、とても生き延びられません。

 この伊達政宗のシーンの前に、北条氏政の最後が描かれていましたが、氏政がまっすぐな武将であったがために滅び、ゴマスリ政宗は生き延びて逆転のチャンスを掴もうとするのは、ドラマとして絶妙なコントラストになっていました。

 

 僕たちも生きるためには、多かれ少なかれ、このゴマスリずんだ餅に近いことを年中やっているのではないでしょうか。身過ぎ世過ぎというやつですね。

 けれどもご注意。

 人間の心とからだって、意外と正直にできています。ゴマスリずんだ餅をやり過ぎていると、いずれまとめてお返しがやってくるも知れません。

 

人間みんな、じつは正直者

 

 どうしてそんなことを考えたかと言うと、介護士の人と、お仕事でお世話しているおじいさんのことについて話したからです。

 そのおじいさんはいろんな妄想に取りつかれて、ファンタジーの世界へ行っちゃっているようなのですが、それは自分にウソをつき続けて生きてきたからではないか、と思うのです。

 

 これは別に倫理的にどうこうという話ではありません。

 ごく単純に、自分にウソをつくとそのたびにストレスが蓄積していきます。

 それが生活習慣になってしまうと、自分にウソをつくのが当たり前になるので、ストレスが溜まるのに気づかない。そういう体質になってしまうので、全然平気でいられる。

 けれども潜在意識は知っているのです。

 「これはおかしい。これは違う。これはわたしではな~い」

 

 そうした潜在意識の声を、これまた無視し続けると、齢を取ってから自分で自分を裏切り続けてきたツケが一挙に出て来て、思いっきり自分の願いや欲望に正直になるのではないでしょうか。

 だから脳がファンタジーの世界へ飛翔してしまう。それまでウソで歪めてきた自分の本体を取り戻すかのように。

 つまり人生は最後のほうまで行くとちゃんと平均化されるというか、全体で帳尻が合うようにできているのではないかな。

 

自分を大事にするということ

 

 というのは単なる僕の妄想・戯言かも知れないけど、自分に対する我慢とか裏切りとかストレスとかは、心や体にひどいダメージを与えたり、人生にかなりの影響を及ぼすのではないだろうかと思うのです。

 

 みなさん、人生は一度きり。身過ぎ世過ぎばっかりやってると、それだけであっという間に一生終わっちゃいます。何が自分にとっての幸せなのか?心の内からの声をよく聴いて、本当の意味で自分を大事にしましょう。

 介護士さんのお話を聞くといろんなことを考えさせられるので、また書きますね。

 

 

 

2016/6/23 Thu


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死者との対話:父の昭和物語

 

 すぐれた小説は時代を超えて読み継がれる価値がある。特に現代社会を形作った18世紀から20世紀前半にかけての時代、ヨーロッパ社会で生まれた文学には人間や社会について考えさせられる素材にあふれています。

 

その読書を「死者との対話」と呼んだ人がいます。うまい言い方をするものだと思いました。

 

僕たちは家で、街で、図書館で、本さえあれば簡単にゲーテやトルストイやドストエフスキーやブロンテなどと向かい合って話ができます。別にスピリチュアルなものに関心がなくても、書き残したものがあれば、私たちは死者と対話ができるのです。

 

 もちろん、それはごく限られた文学者や学者との間で可能なことで、そうでない一般大衆には縁のないことでしょう。これまではそうでした。しかし、これからの時代はそれも可能なことではないかと思います。ただし、不特定多数の人でなく、ある家族・ある仲間との間でなら、ということですが。

 

 僕は父の人生を書いてみました。

 父は2008年の12月に亡くなりました。家族や親しい者の死も1年ほどたつと悲しいだの寂しいだの、という気持ちは薄れ、彼らは自分の人生においてどんな存在だったのだろう?どんなメッセージを遺していったのだろう?といったことを考えます。

 

父のことを書いてみようと思い立ったのは、それだけがきっかけではありませんでした。

死後、間もない時に、社会保険事務所で遺族年金の手続きをする際に父の履歴書を書いて提出しました。その時に感じたのは、血を分けた家族のことでも知らないことがたくさんあるな、ということでした。

じつはそれは当り前のことなのだが、それまではっきりとは気が付いていませんでした。なんとなく父のことも母のこともよく知っていると思いすごしていたのです。

実際は私が知っているのは、私の父親としての部分、母親としての部分だけであり、両親が男としてどうだったか、女としてどうだったか、ひとりの人間としてどうだったのか、といったことなど、ほとんど知りませんでした。数十年も親子をやっていて、知るきっかけなどなかったのです。

 

父の仕事ひとつ取ってもそうでした。僕の知っている父の仕事は瓦の葺換え職人だが、それは30歳で独立してからのことで、その前――20代のときは工場に勤めたり、建築会社に勤めたりしていたのです。それらは亡くなってから初めて聞いた話です。

そうして知った事実を順番に並べて履歴書を作ったのですが、その時には強い違和感というか、抵抗感のようなものを感じました。それは父というひとりの人間の人生の軌跡が、こんな紙切れ一枚の中に納まってしまうということに対しての、寂しさというか、怒りというか、何とも納得できない気持ちでした。

 

父は不特定多数の人たちに興味を持ってもらえるような、波乱万丈な、生きる迫力に満ち溢れた人生を歩んだわけはありませんい。むしろそれらとは正反対の、よくありがちな、ごく平凡な庶民の人生を送ったのだと思います。

けれどもそうした平凡な人生の中にもそれなりのドラマがあります。そして、そのドラマには、その時代の社会環境の影響を受けた部分が少なくありません。たとえば父の場合は、昭和3(1928)に生まれ、平成元年(1989)に仕事を辞めて隠居していました。その人生は昭和の歴史とほぼ重なっています。

 

ちなみにこの昭和3年という年を調べてみると、アメリカでミッキーマウスの生まれた(ウォルト・ディズニーの映画が初めて上映された)年です。

父は周囲の人たちからは実直でまじめな仕事人間と見られていましたが、マンガや映画が好きで、「のらくろ」だの「冒険ダン吉」だのの話をよく聞かせてくれました。その時にそんなことも思い出したのです。

 

ひとりの人間の人生――この場合は父の人生を昭和という時代にダブらせて考えていくと、昭和の出来事を書き連ねた年表のようなものとは、ひと味違った、その時代の人間の意識の流れ、社会のうねりの様子みたいなものが見えてきて面白いのではないか・・・。そう考えて、僕は父に関するいくつかの個人的なエピソードと、昭和の歴史の断片を併せて書き、家族や親しい人たちが父のことを思い起こし、対話できるための一遍の物語を作ってみようと思い立ちました。

本当はその物語は父が亡くなる前に書くべきだったのではないかと、少し後悔の念が残っています。

生前にも話を聞いて本を書いてみようかなと、ちらりと思ったことはあるのですが、とうとう父自身に自分の人生を振り返って……といった話を聞く機会はつくれませんでした。たとえ親子の間柄でも、そうした機会を持つことは難しいのです。思い立ったら本気になって直談判しないと、そして双方互いに納得できないと永遠につくることはできません。あるいは、これもまた難しいけど、本人がその気になって自分で書くか・・・。それだけその人固有の人生は貴重なものであり、それを正確に、満足できるように表現することは至難の業なのだと思います。

 

実際に始めてから困ったのは、父の若い頃のことを詳しく知る人など、周囲にほとんどいないということ。また、私自身もそこまで綿密に調査・取材ができるほど、時間や労力をかけるわけにもいきませんでした。

だから母から聞いた話を中心に、叔父・叔母の話を少し加える程度にとどめ、その他、本やインターネットでその頃の時代背景などを調べながら文章を組み立てる材料を集めました。そして自分の記憶――心に残っている言葉・出来事・印象と重ね合わせて100枚程度の原稿を作ってみたのです。

 

自分で言うのもナンですが、情報不足は否めないものの、悪くない出来になっていて気に入っています。これがあるともうこの世にいない父と少しは対話できる気がするのです。自分の気持ちを落ち着かせ、互いの生の交流を確かめ、父が果たした役割、自分にとっての存在の意味を見出すためにも、こうした家族や親しい者の物語をつくることはとても有効なのではないかと思います。

 

 高齢化が進む最近は「エンディングノート」というものがよく話題に上っています。

「その日」が来た時、家族など周囲の者がどうすればいいか困らないように、いわゆる社会的な事務手続き、お金や相続のことなどを書き残すのが、今のところ、エンディングノートの最もポピュラーな使い方になっているようだ。

もちろん、それはそれで、逝く者にとっても、後に残る者にとっても大事なことです。しかし、そうすると結局、その人の人生は、いくらお金を遺したかとか、不動産やら建物を遺したのか、とか、そんな話ばかりで終わってしまう恐れもあります。その人の人生そのものが経済的なこと、物質的なものだけで多くの人に価値判断されてしまうような気がするのです。

 

けれども本当に大事なのは、その人の人生にどんな意味や価値があったのか、を家族や友人・知人たちが共有することが出来る、ということではないでしょうか。

そして、もしその人の生前にそうしたストーリーを書くことができれば、その人が人生の最期の季節に、自分自身を取り戻せる、あるいは、取り戻すきっかけになり得る、ということではないでしょうか。

 

 


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赤影メガネとセルフブランディング

 ♪赤い仮面は謎の人 どんな顔だか知らないが キラリと光る涼しい目 仮面の忍者だ

赤影だ~

 というのは、テレビの「仮面の忍者 赤影」の主題歌でしたが、涼しい目かどうかはともかく、僕のメガネは10数年前から「赤影メガネ」です。これにはちょっとした物語(というほどのものではないけど)があります。

 

 当時、小1だか2年の息子を連れてメガネを買いに行きました。

 それまでは確か茶色の細いフレームの丸いメガネだったのですが、今回は変えようかなぁ、どうしようかなぁ・・・とあれこれ見ていると、息子が赤フレームを見つけて「赤影!」と言って持ってきたのです。

 

 「こんなの似合うわけないじゃん」と思いましたが、せっかく選んでくれたのだから・・・と、かけてみたら似合った。子供の洞察力おそるべし。てか、単に赤影が好きだっただけ?

 とにかく、それ以来、赤いフレームのメガネが、いつの間にか自分のアイキャッチになっていました。自分の中にある自分のイメージと、人から見た自分とのギャップはとてつもなく大きいもの。

 独立・起業・フリーランス化ばやりということもあり、セルフブランディングがよく話題になりますが、自分をどう見せるかというのはとても難しい。自分の中にある自分のイメージと、人から見た自分とのギャップはとてつもなく大きいのです。

 とはいえ、自分で気に入らないものを身に着けてもやっぱり駄目。できたら安心して相談できる家族とか、親しい人の意見をしっかり聞いて(信頼感・安心感を持てない人、あんまり好きでない人の意見は素直に聞けない)、従来の考え方にとらわれない自分像を探していきましょう。

 


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ベビーカーを押す男

 

・・・って、なんだか歌か小説のタイトルみたいですね。そうでもない?

 ま、それはいいんですが、この間の朝、実際に会いました。ひとりでそそくさとベビーカーを押していた彼の姿が妙に心に焼き付き、いろいろなことがフラッシュバックしました。

 BACK in the NEW YORK CITY。

 僕が初めてニューヨークに行ったのは約30年前。今はどうだか知らないけど、1980年代のNYCときたらやっぱ世界最先端の大都会。しかし、ぼくがその先端性を感じたのは、ソーホーのクラブやディスコでもなでもなく、イーストビレッジのアートギャラリーでもなく、ブロードウェイのミュージカルでもなく、ストリートのブレイクダンスでもなく、セントラルパークで一人で子供と散歩しているパパさんたちでした。

 

 特におしゃれでも何でもない若いパパさんたちが、小さい子をベビーカーに乗せていたり、抱っこひもでくくってカンガルーみたいな格好で歩いていたり、芝生の上でご飯を食べさせたり、オムツを替えたりしていたのです。

 

 そういう人たちはだいたい一人。その時、たまたま奥さんがほっとその辺まで買い物に行っているのか、奥さんが働いて旦那がハウスハズバンドで子育て担当なのか、はたまた根っからシングルファーザーなのかわかりませんが、いずれにしてもその日その時、出会った彼らはしっかり子育てが板についている感じでした。

 

 衝撃!・・というほどでもなかったけど、なぜか僕は「うーん、さすがはニューヨークはイケてるぜ」と深く納得し、彼らが妙にカッコよく見えてしまったのです。

 

 

 そうなるのを念願していたわけではないけれど、それから約10年後。

 1990年代後半の練馬区の路上で、僕は1歳になるかならないかの息子をベビーカーに乗せて歩いていました。たしか「いわさきちひろ美術館」に行く途中だったと思います。

 向こう側からやってきたおばさんが、じっと僕のことを見ている。

 なんだろう?と気づくと、トコトコ近寄ってきて、何やら話しかけてくる。

 どこから来たのか?どこへ行くのか? この子はいくつか? 奥さんは何をやっているのいか?などなど・・・

 

 「カミさんはちょっと用事で、今日はいないんで」と言うと、ずいぶん大きなため息をつき、「そうなの。私はまた逃げられたと思って」と。

 おいおい、たとえそうだとしても、知らないあんたに心配されたり同情されたりするいわれはないんだけど。

 

 別に腹を立てたわけではありませんが、世間からはそういうふうにも見えるんだなぁと、これまた深く納得。

 あのおばさんは口に出して言ったけど、心の中でそう思ってて同情だか憐憫だかの目で観ている人は結構いるんだろうなぁ、と感じ入った次第です。

 

 というのが、今から約20年前のこと。

 その頃からすでに「子育てしない男を父とは呼ばない」なんてキャッチコピーが出ていましたが、男の子育て環境はずいぶん変化したのでしょうか?

 表面的には イクメンがもてはやされ、育児関係・家事関係の商品のコマーシャルにも、ずいぶん男が出ていますが、実際どうなのでしょうか?

 

 件のベビーカーにしても、今どき珍しくないだろう、と思いましたが、いや待てよ。妻(母)とカップルの時は街の中でも電車の中でもいる。それから父一人の時でも子供を自転車に乗せている男はよく見かける。だが、ベビーカーを“ひとりで”押している男はそう頻繁には見かけない。これって何を意味しているのだろう? と、考えてしまいました。

 

 ベビーカーに乗せている、ということは、子供はだいたい3歳未満。保育園や幼稚園に通うにはまだ小さい。普段は家で母親が面倒を見ているというパターンがやはりまだまだ多いのでしょう。

 

 そういえば、保育園の待機児童問題って、お母さんの声ばかりで、お父さんの声ってさっぱり聞こえてこない。そもそも関係あるのか?って感じに見えてしまうんだけど、イクメンの人たちの出番はないのでしょうか・・・。

 

2016年6月16日


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インターネットがつくるフォークロア

 

インターネットの出現は社会を変えた――ということは聞き飽きるほど、あちこちで言われています。けれどもインターネットが本格的に普及したのは、せいぜいここ10年くらいの話。全世代、全世界を見渡せば、まだ高齢者の中には使ったことがないという人も多いし、国や地域によって普及率の格差も大きい。だから、その変化の真価を国レベル・世界レベルで、僕たちが実感するのはまだこれからだと思います。

それは一般によくいわれる、情報収集がスピーディーになったとか、通信販売が便利になったとか、というカテゴリーの話とは次元が違うものです。もっと人間形成の根本的な部分に関わることであり、ホモサピエンスの文化の変革にまでつながること。それは新しい民間伝承――フォークロアの誕生です。

 

“成長過程で自然に知ってしまう”昔話・伝承

 

最初はどこでどのように聞いたのか覚えてないですが、僕たちは自分でも驚くほど、昔話・伝承をよく知っています。成長の過程のどこかで桃太郎や浦島太郎や因幡の白ウサギと出会い、彼らを古い友だちのように思っています。

 

家庭でそれらの話を大人に読んでもらったこともあれば、幼稚園・保育園・小学校で体験したり、最近ならメディアでお目にかかることも多い。それはまるで遺伝子に組み込まれているかのように、あまりに自然に身体の中に溶け込んでいるのです。

 

調べて確認したわけではないが、こうした感覚は日本に限らず、韓国でも中国でもアメリカでもヨーロッパでも、その地域に住んでいる人なら誰でも持ち得るのではないでしょうか。おそらく同じような現象があると思います。それぞれどんな話がスタンダードとなっているのかは分かりませんが、その国・その地域・その民族の間で“成長過程で自然に知ってしまう”昔話・伝承の類が一定量あるのです。

 

それらは長い時間を生きながらえるタフな生命エネルギーを持っています。それだけのエネルギーを湛えた伝承は、共通の文化の地層、つまり一種のデータベースとして、万人の脳の奥底に存在しています。その文化の地層の上に、その他すべての情報・知識が積み重なっている――僕はそんなイメージを持っています。

 

世界共通の、新しいカテゴリーの伝承

 

そして、昔からあるそれとは別に、これから世界共通の、新しいカテゴリーの伝承が生まれてくる。その新しい伝承は人々の間で共通の文化の地層として急速に育っていくのでないか。そうした伝承を拡散し、未来へ伝える役目を担っているのがインターネット、というわけです。

 

ところで新しい伝承とは何でしょう? その主要なものは20世紀に生まれ、花開いた大衆文化――ポップカルチャーではないでしょうか。具体的に挙げていけば、映画、演劇、小説、マンガ、音楽(ジャズ、ポップス、ロック)の類です。

 

21世紀になる頃から、こうしたポップカルチャーのリバイバルが盛んに行われるようになっていました。

人々になじみのあるストーリー、キャラクター。

ノスタルジーを刺激するリバイバル・コンテンツ。

こうしたものが流行るのは、情報発信する側が、商品価値の高い、新しいものを開発できないためだと思っていました。

そこで各種関連企業が物置に入っていたアンティーク商品を引っ張り出してきて、売上を確保しようとした――そんな事情があったのでしょう。実際、最初のうちはそうだったはずです。

だから僕は結構冷めた目でそうした現象を見ていました。そこには半ば絶望感も混じっていたと思います。前の世代を超える、真に新しい、刺激的なもの・感動的なものは、この先はもう現れないのかも知れない。出尽くしてしまったのかも知れない、と……。

 

しかし時間が経ち、リバイバル現象が恒常化し、それらの画像や物語が、各種のサイトやYouTubeの動画コンテンツとして、ネット上にあふれるようになってくると考え方は変わってきました。

 

それらのストーリー、キャラクターは、もはや単なるレトロやリバイバルでなく、世界中の人たちの共有財産となっています。いわば全世界共通の伝承なのです。

僕たちは欧米やアジアやアフリカの人たちと「ビートルズ」について、「手塚治虫」について、「ガンダム」について、「スターウォーズ」について語り合えるし、また、それらを共通言語にして、子や孫の世代とも同様に語り合えます。

そこにボーダーはないし、ジェネレーションギャップも存在しません。純粋にポップカルチャーを媒介にしてつながり合う、数限りない関係が生まれるのです。

 

また、これらの伝承のオリジナルの発信者――ミュージシャン、映画監督、漫画家、小説家などによって、あるいは彼ら・彼女らをリスペクトするクリエイターたちによって自由なアレンジが施され、驚くほど新鮮なコンテンツに生まれ変わる場合もあります。

 

インターネットの本当の役割

 

オリジナル曲をつくった、盛りを過ぎたアーティストたちが、子や孫たち世代の少年・少女と再び眩いステージに立ち、自分の資産である作品を披露。それをYouTubeなどを介して広めている様子なども頻繁に見かけるようになりました。

 

それが良いことなのか、悪いことなのか、評価はさておき、そうした状況がインタ―ネットによって現れています。これから10年たち、20年たち、コンテンツがさらに充実し、インターネット人口が現在よりさらに膨れ上がれば、どうなるでしょうか? 

 

おそらくその現象は空気のようなものとして世の中に存在するようになり、僕たちは新たな世界的伝承として、人類共通の文化遺産として、完成された古典として見なすようになるでしょう。人々は分かりやすく、楽しませてくれるものが大好きだからです。

 

そして、まるで「桃太郎」のお話を聞くように、まっさらな状態で、これらの伝承を受け取った子供たちが、そこからまた新しい、次の時代の物語を生みだしていきます。

 

この先、そうした現象が必ず起こると思う。インターネットという新参者のメディアはその段階になって、さらに大きな役割を担うのでしょう。それは文化の貯蔵庫としての価値であり、さらに広げて言えば、人類の文化の変革につながる価値になります。

 

 

2016年6月13日


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地方自治体のホームページって割と面白い

 

 

 ここのところ、雑誌の連載で地方のことを書いています。

書くときはまずベーシックな情報(最初のリード文として使うこともあるので)をインターネットで調べます。

 これはウィキペディアなどの第3者情報よりも、各県の公式ホームページの方が断然面白い。自分たちの県をどう見せ、何をアピールしたいかがよくわかるからです。

なんでも市場価値が問われる時代。「お役所仕事云々・・・」と言われることが多い自治体ですが、いろいろ努力して、ホームページも工夫しています。

 

 最近やった宮崎県のキャッチコピーは「日本のひなた」。

 日照時間の多さ、そのため農産物がよく獲れるということのアピール。

 そしてもちろん、人や土地のやさしさ、あったかさ、ポカポカ感を訴えています。

 いろいろな人たちがお日さまスマイルのフリスビーを飛ばして、次々と受け渡していくプロモーションビデオは、単純だけど、なかなか楽しかった。

 

 それから「ひなた度データ」というのがあって、全国比率のいろいろなデータが出ています。面白いのが、「餃子消費量3位」とか、「中学生の早寝早起き率 第3位」とか、「宿題実行率 第4位」とか、「保護者の学校行事参加率 第2位」とか・・・
 「なんでこれがひなた度なんじゃい!」とツッコミを入れたくなるのもいっぱい。だけど好きです、こういうの。 

 取材するにしても、いきなり用件をぶつけるより、「ホームページ面白いですね~」と切り出したほうが、ちょっとはお役所臭さが緩和される気がします。

 

 「あなたのひなた度は?」というテストもあって、やってみたら100パーセントでした。じつはまだ一度も行ったことないけれど、宮崎県を応援したくなるな。ポカポカ。

 

2016年6月12日


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タイムマシンにおねがい

 

 きのう6月10日は「時の記念日」でした。それに気がついたら頭の中で突然、サディスティック・ミカ・バンドの「タイムマシンにおねがい」が鳴り響いてきたので、YouTubeを見てみたら、1974年から2006年まで、30年以上にわたるいろいろなバージョンが上がっていました。本当にインターネットの世界でタイムマシン化しています。

 

 これだけ昔の映像・音源が見放題・聞き放題になるなんて10年前は考えられませんでした。こういう状況に触れると、改めてインターネットのパワーを感じると同時に、この時代になるまで生きててよかった~と、しみじみします。

 

 そしてまた、ネットの中でならおっさん・おばさんでもずっと青少年でいられる、ということを感じます。60~70年代のロックについて滔々と自分の思い入れを語っている人がいっぱいいますが、これはどう考えても50代・60代の人ですからね。

 でも、彼ら・彼女らの頭の中はロックに夢中になっていた若いころのまんま。脳内年齢は10代・20代。インターネットに没頭することは、まさしくタイムマシンンに乗っているようなものです。

 

 この「タイムマシンにおねがい」が入っているサディスティック・ミカ・バンドの「黒船」というアルバムは、1974年リリースで、いまだに日本のロックの最高峰に位置するアルバムです。若き加藤和彦が作った、世界に誇る傑作と言ってもいいのではないでしょうか。

 中でもこの曲は音も歌詞もゴキゲンです。いろいろ見た(聴いた)中でいちばんよかったのは、最新(かな?)の2006年・木村カエラ・ヴォーカルのバージョンです。おっさんロッカーたちをバックに「ティラノサウルスおさんぽ アハハハ-ン」とやってくれて、くらくらっときました。

 

 やたらと「オリジナルでなきゃ。あのヴォーカルとあのギターでなきゃ」とこだわる人がいますが、僕はそうは思わない。みんなに愛される歌、愛されるコンテンツ、愛される文化には、ちゃんと後継ぎがいて、表現技術はもちろんですが、それだけでなく、その歌・文化の持ち味を深く理解し、見事に自分のものとして再現します。中には「オリジナルよりいいじゃん!」と思えるものも少なくありません。(この木村カエラがよい例)。

 この歌を歌いたい、自分で表現したい!――若い世代にそれだけ強烈に思わせる、魅力あるコンテンツ・文化は生き残り、クラシックとして未来に継承されていくのだと思います。

 

 もう一つおまけに木村カエラのバックでは、晩年の加藤和彦さんが本当に楽しそうに演奏をしていました。こんなに楽しそうだったのに、どうして自殺してしまったのだろう・・・と、ちょっと哀しくもなったなぁ。

 

2016年6月11日


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「歴人めし」おかわり情報

 

 9日間にわたって放送してきた「歴人めし」は、昨日の「信長巻きの巻」をもっていったん終了。しかし、ご安心ください。7月は夜の時間帯に再放送があります。ぜひ見てくださいね。というか、You Tubeでソッコー見られるみたいですが。

 

 

https://www.ch-ginga.jp/movie-detail/series.php?series_cd=12041

 

 この仕事では歴人たちがいかに食い物に執念を燃やしていたかがわかりました。 もちろん、記録に残っているのはほんの少し。

 源内さんのように、自分がいかにうなぎが好きか、うなぎにこだわっているか、しつこく書いている人も例外としていますが、他の人たちは自分は天下国家のことをいつも考えていて、今日のめしのことなんかどうでもいい。カスミを食ってでの生きている・・・なんて言い出しそうな勢いです。

 

 しかし、そんなわけはない。偉人と言えども、飲み食いと無関係ではいられません。 ただ、それを口に出して言えるのは、平和な世の中あってこそなのでしょう。だから日本の食文化は江戸時代に発展し、今ある日本食が完成されたのです。

 

 そんなわけで、「おかわり」があるかもしれないよ、というお話を頂いているので、なんとなく続きを考えています。

 駿河の国(静岡)は食材豊富だし、来年の大河の井伊直虎がらみで何かできないかとか、 今回揚げ物がなかったから、何かできないかとか(信長に捧ぐ干し柿入りドーナツとかね)、

 柳原先生の得意な江戸料理を活かせる江戸の文人とか、明治の文人の話だとか、

 登場させ損ねてしまった豊臣秀吉、上杉謙信、伊達政宗、浅井三姉妹、新選組などの好物とか・・・

 食について面白い逸話がありそうな人たちはいっぱいいるのですが、柳原先生の納得する人物、食材、メニュー、ストーリーがそろって、初めて台本にできます。(じつは今回もプロット段階でアウトテイク多数)

 すぐにとはいきませんが、ぜひおかわりにトライしますよ。

 それまでおなかをすかせて待っててくださいね。ぐ~~。

2016年6月7日


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歴人めし♯9:スイーツ大好き織田信長の信長巻き

 

信長が甘いもの好きというのは、僕は今回のリサーチで初めて知りました。お砂糖を贈答したり、されたりして外交に利用していたこともあり、あちこちの和菓子屋さんが「信長ゆかりの銘菓」を開発して売り出しているようです。ストーリーをくっつけると、同じおまんじゅうやあんころもちでも何だか特別なもの、他とは違うまんじゅうやあんころもちに思えてくるから不思議なものです。

 

 今回、ゆかりの食材として採用したのは「干し柿」と「麦こがし(ふりもみこがし)」。柿は、武家伝統の本膳料理(会席料理のさらに豪華版!)の定番デザートでもあり、記録をめくっていると必ず出てきます。

 現代のようなスイーツパラダイスの時代と違って、昔の人は甘いものなどそう簡単に口にできませんでした。お砂糖なんて食品というよりは、宝石や黄金に近い超ぜいたく品だったようです。だから信長に限らず、果物に目のない人は大勢いたのでしょう。

 中でもは干し柿にすれば保存がきくし、渋柿もスイートに変身したりするので重宝されたのだと思います。

 

  「信長巻き」というのは柳原尚之先生のオリジナル。干し柿に白ワインを染み込ませるのと、大徳寺納豆という、濃厚でしょっぱい焼き味噌みたいな大豆食品をいっしょに巻き込むのがミソ。

 信長は塩辛い味も好きで、料理人が京風の上品な薄味料理を出したら「こんな水臭いものが食えるか!」と怒ったという逸話も。はまった人なら知っている、甘い味としょっぱい味の無限ループ。交互に食べるともうどうにも止まらない。信長もとりつかれていたのだろうか・・・。

 

 ちなみに最近の映画やドラマの中の信長と言えば、かっこよくマントを翻して南蛮渡来の洋装を着こなして登場したり、お城の中のインテリアをヨーロッパの宮殿風にしたり、といった演出が目につきます。

 スイーツ好きとともに、洋風好き・西洋かぶれも、今やすっかり信長像の定番になっていますが、じつはこうして西洋文化を積極的に採り入れたのも、もともとはカステラだの、金平糖だの、ボーロだの、ポルトガルやスペインの宣教師たちが持ち込んできた、砂糖をたっぷり使った甘いお菓子が目当てだったのです。(と、断言してしまう)

 

 「文化」なんていうと何やら高尚っぽいですが、要は生活習慣の集合体をそう呼ぶまでのこと。その中心にあるのは生活の基本である衣食住です。

 中でも「食」の威力はすさまじく、これに人間はめっぽう弱い。おいしいものの誘惑からは誰も逃れられない。そしてできることなら「豊かな食卓のある人生」を生きたいと願う。この「豊かな食卓」をどう捉えるかが、その人の価値観・生き方につながるのです。

 魔王と呼ばれながら、天下統一の一歩手前で倒れた信長も、突き詰めればその自分ならではの豊かさを目指していたのではないかと思うのです。

 

2016年6月6日


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歴人めし♯8 山内一豊の生食禁止令から生まれた?「カツオのたたき」

 

 「豊臣秀吉がまだ木下藤吉郎だったころ、琵琶湖のほとりに金目教という怪しい宗教が流行っていた・・・」というナレーションで始まるのは「仮面の忍者・赤影」。子供の頃、夢中になってテレビにかじりついていました。

 時代劇(忍者もの)とSF活劇と怪獣物をごちゃ混ぜにして、なおかつチープな特撮のインチキスパイスをふりかけた独特のテイストは、後にも先にもこの番組だけ。僕の中ではもはや孤高の存在です。

 

 いきなり話が脱線していますが、赤影オープニングのナレーションで語られた「琵琶湖のほとり」とは滋賀県長浜あたりのことだったのだ、と気づいたのは、ちょうど10年前の今頃、イベントの仕事でその長浜に滞在していた時です。

 このときのイベント=期間限定のラジオ番組制作は、大河ドラマ「功名が辻」関連のもの。4月~6月まで断続的に数日ずつ訪れ、街中や郊外で番組用の取材をやっていました。春でもちょっと寒いことを我慢すれば、賑わいがあり、かつまた、自然や文化財にも恵まれている、とても暮らしやすそうな良いところです。

この長浜を開いたのは豊臣秀吉。そして秀吉の後を継いで城主になったのが山内一豊。「功名が辻」は、その一豊(上川隆也)と妻・千代(仲間由紀恵)の物語。そして本日の歴人めし♯9は、この一豊ゆかりの「カツオのたたき」でした。

 ところが一豊、城主にまでしてもらったのに秀吉の死後は、豊臣危うしと読んだのか、関が原では徳川方に寝返ってしまいます。つまり、うまいこと勝ち組にすべり込んだわけですね。

 これで一件落着、となるのが、一豊の描いたシナリオでした。

 なぜならこのとき、彼はもう50歳。人生50年と言われた時代ですから、その年齢から本格的な天下取りに向かった家康なんかは例外中の例外。そんな非凡な才能と強靭な精神を持ち合わせていない、言ってみればラッキーで何とかやってきた凡人・一豊は、もう疲れたし、このあたりで自分の武士人生も「あがり」としたかったのでしょう。

 できたら、ごほうびとして年金代わりに小さな領地でももらって、千代とのんびり老後を過ごしたかったのだと思います。あるいは武士なんかやめてしまって、お百姓でもやりながら余生を・・・とひそかに考えていた可能性もあります。

 

 ところが、ここでまた人生逆転。家康からとんでもないプレゼントが。

 「土佐一国をおまえに任せる」と言い渡されたのです。

 一国の領主にしてやる、と言われたのだから、めでたく大出世。一豊、飛び上がって喜んだ・・・というのが定説になっていますが、僕はまったくそうは思いません。

 なんせ土佐は前・領主の長曾我部氏のごっつい残党がぞろぞろいて、新しくやってくる領主をけんか腰で待ち構えている。徳川陣営の他の武将も「あそこに行くのだけは嫌だ」と言っていたところです。

 

 現代に置き換えてみると、後期高齢者あたりの年齢になった一豊が、縁もゆかりもない外国――それも南米とかのタフな土地へ派遣されるのようなもの。いくらそこの支店長のポストをくれてやる、と言われたって全然うれしくなんかなかったでしょう。

 

 けれども天下を収めた家康の命令は絶対です。断れるはずがありません。

 そしてまた、うまく治められなければ「能無し」というレッテルを貼られ、お家とりつぶしになってしまいます。

 これはすごいプレッシャーだったでしょう。「勝ち組になろう」なんて魂胆を起こすんじゃなかった、と後悔したに違いありません。

 

 こうして不安と恐怖、ストレスで萎縮しまくってたまま土佐に行った一豊の頭がまともに働いたとは思えません。豊富に採れるカツオをがつがつ生で食べている連中を見て、めちゃくちゃな野蛮人に見えてしまったのでしょう。

 人間はそれぞれの主観というファンタジーの中で生きています。ですから、この頃の彼は完全に「土佐人こわい」という妄想に支配されてしまったのです。

 

 「功名が辻」では最後の方で、家来が長曾我部の残党をだまして誘い出し、まとめて皆殺しにしてしまうシーンがあります。これは家来が独断で行ったことで、一豊は関与していないことになっていますが、上司が知らなったわけがありません。

 

こうして不安と恐怖、ストレスで萎縮しまくってたまま土佐に行った一豊の頭がまともに働いたとは思えません。豊富に採れるカツオをがつがつ生で食べている連中を見て、めちゃくちゃな野蛮人に見えてしまったのでしょう。

 人間はそれぞれの主観というファンタジーの中で生きています。ですから、この頃の彼は完全に「土佐人こわい」という妄想に支配されてしまったのです。

 

 「功名が辻」では最後の方で、家来が長曾我部の残党をだまして誘い出し、まとめて皆殺しにしてしまうシーンがあります。これは家来が独断で行ったことで、一豊は関与していないことになっていますが、上司が知らなったわけがありません。

 

 恐怖にかられてしまった人間は、より以上の恐怖となる蛮行、残虐行為を行います。

 一豊は15代先の容堂の世代――つまり、250年後の坂本龍馬や武市半平太の時代まで続く、武士階級をさらに山内家の上士、長曾我部氏の下士に分けるという独特の差別システムまで発想します。

 そうして土佐にきてわずか5年で病に倒れ、亡くなってしまった一豊。寿命だったのかもしれませんが、僕には土佐統治によるストレスで命を縮めたとしか思えないのです。

 

 「カツオのたたき」は、食中毒になる危険を慮った一豊が「カツオ生食禁止令」を出したが、土佐の人々はなんとかおいしくカツオを食べたいと、表面だけ火であぶり、「これは生食じゃのうて焼き魚だぜよ」と抗弁したところから生まれた料理――という話が流布しています。

 しかし、そんな禁止令が記録として残っているわけではありません。やはりこれはどこからか生えてきた伝説なのでしょう。

 けれども僕はこの「カツオのたたき発祥物語」が好きです。それも一豊を“民の健康を気遣う良いお殿様”として解釈するお話でなく、「精神的プレッシャーで恐怖と幻想にとりつかれ、カツオの生食が、おそるべき野蛮人たちの悪食に見えてしまった男の物語」として解釈してストーリーにしました。

 

 随分と長くなってしまいましたが、ここまで書いてきたバックストーリーのニュアンスをイラストの方が、短いナレーションとト書きからじつにうまく掬い取ってくれて、なんとも情けない一豊が画面で活躍することになったのです。

 一豊ファンの人には申し訳ないけど、カツオのたたきに負けず劣らず、実にいい味出している。マイ・フェイバリットです。

 

2016年6月3日


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「歴人めし」徳川家康提唱、日本人の基本食

 

 

 歴人めし第7回は「徳川家康―八丁味噌の冷汁と麦飯」。

 「これが日本人の正しい食事なのじゃ」と家康が言ったかどうかは知りませんが、米・麦・味噌が長寿と健康の基本の3大食材と言えば、多くの日本人は納得するのではないでしょうか。エネルギー、たんぱく質、ビタミン、その他の栄養素のバランスも抜群の取り合わせです。

 ましてやその発言の主が、天下を統一して戦国の世を終わらせ、パックス・トクガワ―ナを作った家康ならなおのこと。実際、家康はこの3大食材を常食とし、かなり養生に努めていたことは定説になっています。

 

  昨年はその家康の没後400年ということで、彼が城を構えた岡崎・浜松・静岡の3都市で「家康公400年祭」というイベントが開催され、僕もその一部の仕事をしました。

そこでお会いしたのが、岡崎城から歩いて八丁(約780メートル)の八丁村で八丁味噌を作っていた味噌蔵の後継者。

 かのメーカー社長は現在「Mr.Haccho」と名乗り、毎年、海外に八丁味噌を売り込みに行っているそうで、日本を代表する調味料・八丁味噌がじわじわと世界に認められつつあるようです。

 

 ちなみに僕は名古屋の出身なので子供の頃から赤味噌に慣れ親しんできました。名古屋をはじめ、東海圏では味噌と言えば、赤味噌=豆味噌が主流。ですが、八丁味噌」という食品名を用いれるのは、その岡崎の元・八丁村にある二つの味噌蔵――現在の「まるや」と「カクキュー」で作っているものだけ、ということです。

 

 しかし、養生食の米・麦・味噌をがんばって食べ続け、健康に気を遣っていた家康も、平和な世の中になって緊張の糸がプツンと切れたのでしょう。

 がまんを重ねて押さえつけていた「ぜいたくの虫」がそっとささやいたのかもしれません。

 

 「もういいんじゃないの。ちょっとぐらいぜいたくしてもかまへんで~」

 

 ということで、その頃、京都でブームになっていたという「鯛の天ぷら」が食べた~い!と言い出し、念願かなってそれを口にしたら大当たり。おなかが油に慣れていなかったせいなのかなぁ。食中毒がもとで亡くなってしまった、と伝えられています。

 でも考えてみれば、自分の仕事をやり遂げて、最期に食べたいものをちゃんと食べられて旅立ったのだから、これ以上満足のいく人生はなかったのではないでしょうか。

 

 

 

 

 

2016年6月2日


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歴人めし「篤姫のお貝煮」と御殿女中

  絶好調「真田丸」に続く2017年大河は柴咲コウ主演「おんな城主 直虎」。今年は男だったから来年は女――というわけで、ここ10年あまり、大河は1年ごとに主人公が男女入れ替わるシフトになっています。
 だけど女のドラマは難しいんです。なかなか資料が見つけらない。というか、そもそも残っていな。やはり日本の歴史は(外国もそうですが)圧倒的に男の歴史なんですね。


 それでも近年、頻繁に女主人公の物語をやるようになったのは、もちろん女性の視聴者を取り込むためだけど、もう一つは史実としての正確さよりも、物語性、イベント性を重視するようになってきたからだと思います。

 

 テレビの人気凋落がよく話題になりますが、「腐っても鯛」と言っては失礼だけど、やっぱ日曜8時のゴールデンタイム、「お茶の間でテレビ」は日本人の定番ライフスタイルです。

 出演俳優は箔がつくし、ゆかりの地域は観光客でにぎわうって経済も潤うし、いろんなイベントもぶら下がってくるし、話題も提供される・・・ということでいいことづくめ。
 豪華絢爛絵巻物に歴史のお勉強がおまけについてくる・・・ぐらいでちょうどいいのです。(とはいっても、制作スタッフは必死に歴史考証をやっています。ただ、部分的に資料がなくても諦めずに面白くするぞ――という精神で作っているということです)

 

 と、すっかり前置きが長くなってしまいましたが、なんとか「歴人めし」にも一人、女性を入れたいということで、あれこれ調べた挙句、やっと好物に関する記録を見つけたのが、20082年大河のヒロイン「篤姫」。本日は天璋院篤姫の「お貝煮」でした。

 

 見てもらえればわかるけど、この「お貝煮」なる料理、要するにアワビ入りの茶碗蒸しです。その記述が載っていたのが「御殿女中」という本。この本は明治から戦前の昭和にかけて活躍した、江戸文化・風俗の研究家・三田村鳶魚の著作で。篤姫付きの女中をしていた“大岡ませ子”という女性を取材した、いわゆる聞き書きです。

 

 

 明治も30年余り経ち、世代交代が進み、新しい秩序・社会体制が定着してくると、以前の時代が懐かしくなるらしく、「江戸の記憶を遺そう」というムーブメントが文化人の間で起こったようです。
 そこでこの三田村鳶魚さんが、かなりのご高齢だったます子さんに目をつけ、あれこれ大奥の生活について聞き出した――その集成がこの本に収められているというわけです。これは現在、文庫本になっていて手軽に手に入ります。

 ナレーションにもしましたが、ヘアメイク法やら、ファッションやら、江戸城内のエンタメ情報やらも載っていて、なかなか楽しい本ですが、篤姫に関するエピソードで最も面白かったのが飼いネコの話。

 最初、彼女は狆(犬)が買いたかったようなのですが、夫の徳川家定(13代将軍)がイヌがダメなので、しかたなくネコにしたとか。

 


 ところが、このネコが良き相棒になってくれて、なんと16年もいっしょに暮らしたそうです。彼女もペットに心を癒された口なのでしょうか。

 

 そんなわけでこの回もいろんな発見がありました。

 続編では、もっと大勢の女性歴人を登場させ、その好物を紹介したいと思っています。

 

2016年6月1日


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生きて祭 死して祭

 

「死ぬ前に一目祭りが見たい」

そう訴える老いた罪人に対し、

首切り役人が懐から狐のお面を取り出して渡す。

罪人がその面をつけると、耳には祭囃子が聞こえてくる。

彼が恍惚となり、幸福感に包まれた刹那、役人は刀を振り下ろし、

面をつけた罪人の首が宙を舞う。

 

「子連れ狼」と同じ小池一夫原作、小島剛夕作画コンビの劇画

「首斬り朝」は、刀剣の「試し斬り」の役目を担った

山田朝右衛門を描いた物語。

山田朝右衛門は打ち首の刑になった罪人の首を斬る、

いわば死刑執行人の役を兼務していたために、

江戸の町人たちから「人斬り朝右衛門」と恐れられていた。

江戸時代に実在した人物だ。

 

ちなみに「山田朝右衛門」というのは屋号みたいなもので、

代々同じ名を引き継ぎ、明治初期までお役目を務めていたという。

武士だが幕臣とは異なり、浪士の身分だった。

先述したストーリーは、

この「首斬り朝」の一編「祭り首」という話。

 

この劇画は基本的に一話読みきりで、

どちらかというと首を打たれる罪人が主役となり、

「なぜ罪を犯すことになったのか」を描く話が多い。

しかし「祭り首」は朝右衛門自身の

人生・感情にスポットが当たっている。

 

人々から恐れられていた「人斬り朝右衛門」は、

祭りの日は外出できなかった。

武士にとって、祭りは単なる遊びだが、

江戸の庶民にとっては、

現代のそれとは比較にならないほどの大イベント、

年に一度訪れる、命がけの祝祭である。

そんな特別めでたい日に、

不吉な死神と顔を合わせたくないというのだ。

 

祭というハレの日があるから、ケ(日常)が成り立つ。

解放の日にガス抜きをさせないと、庶民の間に不満が鬱積し、

世の中がうまく回らなくなる。

お上もそうした庶民の心情を無視しては

政ができないというわけである。

 

だから外出禁止は、なかばお上からの命令で、

それは気の毒なことに当人だけでなく家族も同様なのだ。

そのため、将来、「人斬り朝右衛門」になることを

運命づけられた少年朝右衛門は相当辛い思いをした。

 

10歳くらいの頃、我慢できずに

こっそり家を抜け出した少年朝衛門は、

人に見つからないよう、裏道でこっそり祭囃子を聞いていた。

すると、その裏道の入口前を、

同じ年頃の子供の集団が遊びながら走り抜け、

そのうちの一人が狐のお面を落としていった。

 

それを見つけた少年朝右衛門は、

こっそり拾って自分の顔にお面をつけてみる。

すると祭囃子がすぐ近くで聞こえた。

それは彼の人生で最初で最後の祭り体験になった。

 

漫画の中では描かれていないが、少年はその後、

急いで家に帰り、親に見つからないよう、お面を隠した。

もしかしたらその後、ずっと祭が来るたびに

家の中で一人でこっそりお面を被り、

幻聴のようなお囃子を聞いていたのかもしれない。

或いはお面を隠し持っていたおかげで、何とか大人になり、

父の後を継げたのかもしれない。

 

数十年後、刑執行の前日、彼は罪人が

「死ぬ前に一目祭りが見たい」と嘆願していることを知り、

箪笥の奥深くから隠し持っていた、あの狐のお面を取り出し、

しばし子供時代の回想に耽った後、

大事そうに懐に入れて家を出て、刑場へ――。

 

「首斬り朝」は「子連れ狼」と同じく、

父が全巻揃えて持っていた。

僕はそれを留守中に隠れて読んでいた。

「子連れ狼」より後なので、中学生だったと思う。

子連れ以上にエログロシーンが多い大人の漫画だったが、

人情噺に近い、この「祭り首」がいちばん印象に残っている。

そして、大人になって久しい今もなお、その印象は鮮明で、

罪人と朝右衛門の人生が交錯するラストシーンは、

思い出すたび、胸にじんと響く。

 

現代ではお祭りは、一部の人を除き、安全第一で、

神社の参道に並ぶ屋台で飲み食いするだけの

季節イベントになってしまっているが、

もともとは日本人の死生観と深くつながったものだった。

 

夜の神社を歩くと、ふと周囲の雑踏が消えて

生と死の境の空間に足を踏み入れたような

錯覚に落ちることがある。

 

死の間際に、心のどこかで祭囃子を聴くことができたら、

この世に未練を残さず別れられるのだろうか?

いい人生だったと思えるのだろうか?

祭りの季節になると、そんなことを考えるようになった。

 


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認知症の義母の失踪

 

昨日の夕方、いっしょに行った近所のスーパーから

義母が忽然と姿を消した。

この店には一角にカフェコーナーがあり、

買い物客が買ったものをイートインしたり、

自販機でドリンクを飲んで休憩できるようになっている。

給水・給茶機もあり、こちらは無料だ。

この店まではそこそこ距離があるので、

来るとここに座らせてお茶を与え、休んでいてもらって、

10~15分、買い物をしている。

ところがレジを済ませて戻ってみると、姿がない。

前にも2度あったが、ひとりで店内をうろうろして

商品を見てまわっていたので、

すぐ見つかるだろうと高をくくっていたのだが、さにあらず。

2階・3階・地下を見て回ったがいない。

 

慌ててすっ飛んで帰り、

自転車で家とスーパーとの間の道をあちこち探し回ったが、

見つからない。

スーパーで事情を話し、防犯カメラを確認してもらったところ、

どうやら家と反対方向に歩いて行ったらしい。

頭はダメだが、体はじょうぶで健脚である。

以前も「自分の家(実家?故郷?)に帰る」と言い残して、

自分が知らない道を、ひとりでずんずん歩き続けたことがあった。

(その時は尾行していった)

 

日が暮れてきたので、

カミさんと相談してやむを得ず警察に届け出。

その後、家と反対方向の幹線道路を越えたあたりを

探していたら、カミさんの電話に、隣町の交番で保護された、

という連絡が入ったという。

自転車を飛ばして行ってみると、

特に疲れた様子も困った様子もなく、

交番の中にちょこんと座って涼しい顔をしている。

僕が入っていくと、わかったらしく

「この人たちはすごくいい人。それにいい男でしょ」

などと若い警官を持ち上げた。

警察の話によると、

その交番付近をウロウロしていたので声を掛けたら、

ちょっと反応がおかしいので、迷い人だなと思って保護。

さっき別の交番に届け出た本人の特徴と一致していたので、

カミさんに電話が行ったという。

最近、自分の名前が言えないこともあるが、

この時はちゃんと名乗れたらしい。

 

その交番はスーパーから約1キロ、

1時間近くひとり旅をしていたらしく、

さすがに疲れてどこかで休みたいと思っていたので、

交番を休憩所代わりに使ったのかもしれない。

そして、何よりも声をかけた警官が若くてちょっとイケメンで、

義母好みだったことも幸いしたのだろう。

帰る時は、彼の手を握って「また会いに来るからね」

などとのたまった。

こっちは2時間半探し回ってへとへとである。

 

それにしても、たまたま近所の、

わかりやすいところで保護されたからよかったが、

これは、これまで大丈夫だったからと、

目を離していた僕の大失敗。

今後、絶対に自分の都合で目を離さないと誓ったのと、

万一の時のために靴にGPSを仕込んでおこうと決めた。

 


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電子書籍新刊「あなたはどんな大人に憧れましたか?」

 

人生に迷った時、私たちは何に立ち返ればいいのだろうか。

この問いに、著者おりべまことは実体験を通して

答えを示してくれる。

 

デイサービスで出会った青年が語った

「やきいも屋のおっさんにあこがれていた」という言葉。

手っ取り早く稼ぐことが成功とされる現代において、

地に足をつけて人と向き合う生き方への憧れを語る彼の言葉は、

私たちが忘れてしまった大切なものを思い出させる。

 

本書は「生きる」をテーマにしたエッセイシリーズ第7集。

認知症を患った義母の介護体験、友人の死、

そして自分自身の老いと向き合う中で見えてきた人生の真実が、

時にユーモラスに、時に切なく描かれている。

 

特に印象深いのは、認知症の当事者として講演活動を続ける

クリスティーン・ブライデン氏の

「私は死ぬとき、本当の自分になる」

という言葉を紹介したエッセイ。

病気によって社会的な役割を失いながらも、

真の自己と向き合うことで見出した生きる意味は、

健常者である私たちにとっても深い示唆を与えてくれる。

 

また、「人生は思ったよりもずっと短い」では、

かつて才能ある批評家だった知人の変わり果てた姿を通して、

時間の有限性と行動することの大切さを説く。

若者が死について考えることを否定するのではなく、

それこそが「生きるとは何か」という

根源的な問いかけだと捉える視点も新鮮だ。

 

ブログ「DAIHON屋のネタ帳」から厳選された33

編は、どれも読者の心に深く響く。

人生の後半戦を迎えた人はもちろん、

生き方に迷う若い世代にも、

きっと新たな視点を与えてくれるはずだ。

 

Amazon Kindleより本日発売! ¥500

 

もくじ

  • 私は死ぬとき、本当の自分になる
  • 恐竜王国 福井への遠足で「生きる」を養う
  • 誕生日は誰にでも平等にある祝福の日
  • 逃亡者の死の価値
  • 女を舐めるべからず
  • なぜ昭和の“すごい”人たちは本を出せなかったのか?
  • となりのレトロより:あんたも閻魔大王様に舌抜かれるよ
  • 赤いパンツの底力 ~巣鴨とげぬき地蔵デイトリップ~
  • どんな子どもも「世界は美しいよ」と実感させてくれる
  • 人生は思ったよりもずっと短い
  • 春休みは人生の踊り場
  • 死ぬ前にもう一度ワールドツアーで歌いたい・演奏したい
  • 友の旅立ちに春の花を
  • 「パーフェクト・デイ」そして「またあした」
  • なぜ女は「死」に関心が深いのか?
  • あなたはどんな大人に憧れましたか?
  • 酒タバコ やめて100まで生きる日本人
  • 若者が死について考えるのは健全である
  • 人生の価値観を問う「天路の旅人」
  • 唐十郎さんに「君の作文は面白い」と言われたこと
  • 唐十郎式創作術「分からないことに立ち向かう」
  • 高齢者を高齢者扱いするべからず
  • なぜ医者も歯医者も早死にするのか?
  • 母の日に酒を、父の日に花を
  • 息子の誕生日に考えたこと
  • 経済が支配するユートピアとディストピアを見つめる 「父が娘に語る経済の話。」
  • 友の49日と「友だち法要」
  • 前のめりになって生きて死ね
  • 父の日の秘密の花園
  • タクシーの中にスマホを忘れたら
  • やっぱり変わらなかった東京都知事選2024
  • 「十代が!」と連呼する大人の気持ち悪さと 「母親になる可能性を持った身体」について
  • 夏休みも人生も後半はあっという間

 


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昭和歌謡・時代劇系の傑作「子連れ狼」

 

 

橋幸夫さんが亡くなった。

国民的歌手とまでいわれた、昭和歌謡の代表的な歌い手だが、

さすがに僕は、吉永小百合とのデュエットとかは、

リアルタイムでは知らない世代。

だけど子供のころ、「潮来笠」(デビュー曲)や「子連れ狼」などの

時代劇系の歌が好きだった。

 

自分ではよく覚えてないが、「潮来笠」は

♪いたこのいたろう ちょっとみなれば~

と、三度笠に見立てたザルを持って歌っていたらしい。

 

「子連れ狼」はもともと大人向けのマンガ(劇画)で

テレビドラマ化され、小学生の頃、ちょっとしたブームになった。

この曲は劇画のイメージソングとして企画され、

ドラマの主題歌になったのは後付けだったらしい。

1位にはならなかったが、

1か月くらいベスト10入りしていたと思う。

 

作詞は劇画の原作者である小池一雄。

イントロと途中で語りが入るのは、いかにも昭和歌謡らしい。

 

歌詞の1番で「しとしとぴっちゃん しとぴっちゃん」=雨、

2番で「ひょうひょうしゅるる ひょうしゅるる」=北風、

3番で「ぱきぱきぴきんこ ぱきぴんこ」=霜と、

きびしい自然を表現する、オノマトペの使い方が秀逸。

橋さんと子供合唱団の共演で3分間のドラマを生み出している。

 

訃報を聞いて、久しぶりに聴いてみたが、

やっぱりこれは名曲だなぁと感心した。

と同時に、小学生の時(確か5年生か6年生)の

友だちのことを思い出した。

 

ちなみに父がこの漫画を全巻揃えていたので、

いないときに読んでみたが、

けっこう濡れ場がふんだんに出てきて、

盗み読みするのに罪悪感を覚えた。

子供心にかなりショッキングな描写もあったが、

最近は、アニメなどでもやたらと、

刃物でズタズタ、バラバラにされる描写が出てくるので、

今思うと、かわいいものだったのかもしれない。

 

ゆるぎない昭和歌謡の傑作を世に送り出してくれた

橋幸夫さんのご冥福を祈ります。

 


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心が乱れたら両手を合わせてみる

 

ここのところ、認知症の義母の幼児化が著しい。

欲望丸出しのガキに等しいので、大人の理屈は一切通らない。

「これやっちゃダメ」なんて言っても5分後には忘れている。

息子がチビの時代もこれほど手こずらなかった。

それに子供と違って、そのうち成長してわかるようになるだろう

という希望も抱けない。

 

ほとほと疲れるのだが、

それは「大人なのに」と思って接するからだ。

以前から子ども扱いはしていたが、それでもだめだ。

そこでお地蔵様あつかい・菩薩様あつかいし、

朝夕手を合わせることにした。

すると、あら不思議。

気持ちが落ち着き、イラついたり、腹が立ったり、

疲れたりすることが少なくなった。

 

そういえば以前、仕事で

「お仏壇のはせがわ」の社長にインタビューしたとき、

「一日三回、手を合わせると人生変わりますよ」

といわれたことがある。

 

一応、両親と義父の手元供養をしているので、

朝は手を合わせるようにしているが、

まだ生きている義母を菩薩視して同じようにやっていると、

なんだかメンタルヘルスにいい気がする。

はせがわのコマーシャルで女の子がやっている

「お手手のしわとしわを合わせて、しあわせ」は、

あながちでたらめではない。

 

僕は宗教心のカケラもない人間だが、

おそらく左右の手のひらを胸の前で合わせるという運動と姿勢が、

からだ全体の血流とか、気の流れとかに

何か影響を及ぼすのかもしれない。

そうした科学的根拠もありそうだが、

なんでも理論的に説明されてしまうと、

「なんだ、そういうことか」と納得してしまって、

生きるのがつまらなくなるような気がする。

人生にはある程度、

不思議なことや神秘的なことがあったほうが面白い。

 

仏壇やお墓やお寺やお宮の前でなくてもいい。

祈願も感謝も供養の心も、神仏のイメージも必要ない。

ただ何も考えず、両手を合わせるだけでよい。

もし、頭に来たり、悲しくなったり、不安になったり、

ネガティブな感情にとらわれたら、

胸の前で手と手を合わせてみよう。

できたら一日何回も「しあわせ」をやってみる。

たったそれだけで気持ちが落ち着き、気分が良くなるよ。

 


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レット・イット・ビーTAKE28、そして、もう新しいものはもういらない

 

何万回聞いても飽きないビートルズの

「レット・イット・ビー」。

最近出てきたこの「テイク28」は衝撃的。

間奏のギターソロとオルガンの響き、

曲終盤のマッカートニーの

ちょっと外した歌い方が超新鮮でしびれまくる。

生涯最高のバージョンだ(今のところ)

 

2020年10月から2024年2月まで、

毎週末に「週末の懐メロ」という記事を180本書いて、

すごく楽しくて、いずれまた再開しようかなと思っていたが、

全然そんな気にならない。

自分にとってのベストはもう書き尽くし、

すっかり満足してしまったのだ。

 

音楽についてもう新しいものはいらない。

てか、街の中でもテレビやラジオでも、

懐メロしか耳に入ってこない。

お前が年寄りだからだろと言われればそれまでだけど、

若い衆も20世紀ロック・ポップスや昭和歌謡に

ご執心のように見える。

今や1960~90年代も、2020年代も変わりがない。

 

懐メロだけど、ネット上に初めて聴く別テイク、別バージョン、

秘蔵のライブ音源などが次から次へと上がってくる。

いまや音楽は進化ではなく、深化する時代。

古いも新しいも関係なく、

流行っているか・いないかも関係なく、

歴史的な価値があるのかどうかも関係なく、

パフォーマーが生きているのか、死んでいるのかだって

もう関係なくて、いいものはいい、好きなものは好き、

面白いものは面白いで、なんでもOKの時代になった。

みんな楽しく聴いて、

自分の魂に響くベストオブベストを掘り起こそう。

 


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ファッションチャンネルの備蓄米

 

夏休みで遊びに来た20代の息子。

帰り際に「おまえ、家で備蓄米食ってるの?」と聞いたら、

「そんなまずい米食わねーよ」との返事。

「でも、おまえがうちで食っていったの、備蓄米だよ」

と言ったら、「え?」と目を丸くした。

「変わんないね」

 

というわけで、ぼちぼち新米の季節だが、

カミさんがショッピングチャンネルのQVCで10キロ、

備蓄米を頼んだ。

普段、おしゃれなファッションがどうだらこうだら

キャーキャー言っているチャンネルが、

なんで備蓄米を売っているのか、わけわからんが、

食費を節約してもらって、

その浮いた分を服に回してくれということなのか?

 

それはいいのだが、じつはこれ、

7月頭に頼んでから到着するのに1か月近くを要した。

まだ一袋目は1週間分くらい残っているので、

9月半ばあたりまで持ちそうだ。

 

「備蓄米ブーム」も過ぎ、ぼちぼち新米の季節だが、

これを喰い終わらないと新米には手を出さない。

てか、わざわざ倍以上のカネを出して

新米を食べようという気にならない。

 

うちの息子同様、古米・新米を

たんなるイメージでとらえている人が大勢いるのだろう。

ガチで何種類か食べ比べをしたら、

たしかに違うのかもしれないが、

僕は安い備蓄米で充実した食事ができれば、それで十分。

よい食卓・よい家庭は、ぜいたくなものを使わなくてもできる。

9月・10月まで、どんどん売ってほしい。

 


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鬼滅の刃:「親孝行」という圧倒的正義

 

この物語の一貫したテーマは「親孝行」。

お盆休みの午後、吉祥寺という土地柄もあってか、

映画館の観客の大半は家族連れだ。

さすがに幼児はいないが、小学校低学年くらいの子が多かった。

こんなチビどもが2時間半以上もある映画をずっと見られるのか?途中で騒ぎだしたら嫌だな、と思った。

 

が、余計な心配だった。

これだけの大ヒットは、

過去の実績や宣伝のうまさだけでは達成できない。

文句なしのクオリティでまったく飽きさせない。

 

このアニメ(マンガ)の特徴は、

少年漫画と少女漫画のベストミックス。

少年マンガ得意のバトルアクションをベースに、

少女マンガ得意の内面ドラマがどんどん入ってくる。

 

スピード感あふれるアクションの合間に、

それぞれの登場人物の脳裏をよぎる数秒間の回想が、

10分、20分の主観的な物語として描かれるのだ。

その物語が次から次へと語られる。

双方のリズムが素晴らしく、長尺を感じさせない。

 

もう一つ、この映画が受け入れられるのは、

冒頭に挙げた「親孝行」というテーマの明快性。

何が正義がわからないこの時代に、

親・師匠を大事にすることの尊さを訴え、

親孝行、家族愛、兄弟愛といった圧倒的な正義を提示する。

観客にとってともわかりやすく、安心して観ていられる。

 

鬼殺隊は、親方様である産屋敷を父とする大家族であり、

曲者ぞろいの9人の柱は家族を支える兄弟。

主人公の炭治郎たちはその年若い弟である。

 

そして、彼らが闘う鬼の中でも、人間だった時代、

父親を救おうとしたり、養父であり、義父になるはずだった師匠を敬った猗窩座には同情・共感が寄せられる。

 

それと反対に、その美貌や天才性ゆえ、

両親を馬鹿にしていた童磨は嫌われる。

ただ、僕は彼の異常な心の闇がどのように形成されたのか、

とても興味がある。

これだけの狂気を表現できる声優さんの演技力はすごい。

 

近年、世間を震撼させる事件・犯罪は、

猗窩座のような、社会や他者に対する怨恨と、

童磨のような、お道化たサイコパス性が

混合したもののように思える。

 

「親孝行」をテーマに大成功を収めた「鬼滅の刃」。

しかし、圧倒的な正義は、巨悪に転じることもある。

宗教が、政治が、悪徳ビジネスが、

親孝行や家族愛を語りながら、巧妙に心を支配し、

金をだまし取ったり、個人の自由を侵したり、

人生を破壊するなど、人を喰う鬼に化けることがあり得る。

 

かつてこの国は、そこを利用して、

日本人は天皇を中心とした家族であるという夢を見せ、

富国強兵を進めて、アジア随一の軍国国家を創り上げた。

 

終戦の日の翌日に見たせいもあって、

どうしてもそのことが気になった。

娯楽なのだから、気にせず楽しめばいいのだが、

時として、娯楽は支配者にとって

都合の良い洗脳教育にも使われることは覚えておきたい。

 


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終戦の日 昭和人の責任

 

戦争に負けた国だから、戦争の悲惨さを語れる、

原爆の悲惨さを語れる。

けれども「戦争の悲惨さなんて知ったこっちゃない」

という輩は、今、世界中で増えている。

同じ日本人の中にもそういう人は少なくないだろう。

 

だからこれからは悲惨さを語るだけでなく、

「なぜ、どうやって日本は戦争を始めたのか?」

そして「なぜ負けたのか?」を考え、

語り継ぐことがさらに重要になる。

 

あの時代、真珠湾攻撃など、緒戦の戦果に

「血沸き、肉躍った」という人が大勢いた。

「勝てば幸せになる」と信じていた人がたくさんいたのだ。

 

後から考えれば、そんなバカなと思えるが、

そうした愚かな熱狂があったこと、

その時の指導者層にだまされていたこと、

カルト宗教的なものが国民を洗脳していたこと。

忘れていけないと思う。

それは今の時代、近い将来にも十分起こり得るからだ。

 

それを防ぐためには、

ただ戦争は悲惨だと感情的に語るだけでなく、

なぜそうした愚かな考え方・愚かな行動をしてしまったのか、

冷静に考え、積極的に批判していかなくてはいけないと思う。

 


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現代人の修行寺 檜原村・天光寺

 

奥多摩・檜原村の天光寺へ。

数十人が般若心情を唱える声が響いてくる。

ここは葬儀や供養と関係なく、「修行」に特化したお寺。

修行と言っても僧侶の修行でなく、対象は一般人で、

年間1万5千人が訪れるという。

 

「月刊終活」の取材でやってきたが、

メディア取材も多く、テレビ・新聞・雑誌はもとより、

ヒカキンをはじめ、いろいろなYouTuberも

体験レポートを発信している。

 

今日も本堂では、若者から中高年まで

40人近い人たちが修行に励み、写経、瞑想、お百度参り、

そして、滝行などを行っていた。

そして、10人以上の子供たち。

不登校や引きこもりの子たちもここで修行をする。

 

大人数が修行する場はもちろん、

食事や宿泊のための設備も整っており、

名だたる企業も修行・研修に訪れる。

お寺というより、研修センターに近い。

 

住職はもともと成功した実業家で、

20代の頃から飲食・不動産など、

さまざまな事業を手掛けていたが、

30代半ばで仏門を志願し、

それから10年以上かかって事業を整理したのち、

密教の修行を積んで僧籍を取得。

はなから葬式仏教に興味はなかったとのことで、

資産を投入して土地を買い、一般人の修行専門の天光寺を開いた。

 

ここはいわば、現代社会における「駆け込み寺」。

家庭・仕事・人生、様々な面で悩みや課題を抱える人たちや団体の

救済装置としての役割を担っているのだ。

 

修行した人に話を聴いたわけではないので、

本当に生き方・人間が変るのか、

ここでは悟りを開いたような気分になっても、

娑婆に戻ったらどうなるかはわからない。

でも、精神を整える施設として、

仏教の教えを活かした、こういう場所は

今の日本には必要なのだろうと思う。

 

秋川渓谷のある山の中だが、車でも、

電車・バスの乗り継ぎ

(五日市線・武蔵五日市駅からバス30分)でも、

都心や首都圏各地から日帰りで行ける。

 

座禅をやっているお寺は数あるが、

滝に打たれて修行とかって、僕は漫画でしか見たことない。

イメージの世界でしかなかったものを

リアルに体験できるお寺はそうないはず。

初心者向け修行メニューが用意されているので、

興味のある人、自分を変えたい人、

人生に変革を起こしたい人は、

ぜひ一度、体験してみるといいかも。

 


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はんざき祭りと「ハンザキを喰った話」

 

人や牛馬を襲う巨大ハンザキ(オオサンショウウオ)を

村の若者が退治したという伝説が伝わる、

岡山県真庭市の湯原地域。

その温泉街一帯で8日、「はんざき祭り」が開かれた。

大はんざきをモチーフにしたねぶたや山車が練り歩き、

河川敷では「はんざき囃子(ばやし)」に合わせて

みんなで踊り、花火や餅まきまであるという。

 

グロテスクな風貌から、恐るべき怪物と

みなされてきたハンザキだが、

昭和30年代には特別天然記念物に指定。

伝説とは裏腹に、獰猛さのかけらもなく、

清流で静かでのんびりした生涯を送り、

井伏鱒二の「山椒魚」みたいに

岩屋から出られなくなったりもする?

 

最近はそんな、ちょっとトロい生き様が

「グロかわいい」ということで、全国にハンザキファンが急増。

真庭市湯原温泉の「はんざき祭り」にも

東京などから、そうしたファンがやってくるようだ。

 

僕もハンザキに興味があり、

いろいろ聞いた話をもとに小説を書いてみた。

よろしければ、この夏休みに読んでみてください。

 

ハンザキを喰った話/おりべまこと

(AmazonKindleにて¥500)

https://www.amazon.com/dp/B09PGDSQMP

 

2000年、20世紀最後の年。

文福社の雇われライター神部良平のもとに、

一風変わった依頼が舞い込む。

クライアントは自称発明家の堀田史郎、齢100歳の老人だった。

かつて折りたたみ式ちゃぶ台の発明で財を成しながら、

親友の裏切りによってすべてを失った堀田は、

人生半ばに自殺の旅に出た。

 

しかし島根県のある村で思いがけない歓待を受け、

まだ天然記念物に指定される前の

ハンザキ(オオサンショウウオ)を食したという。

そしてその時から自分は不死身になったのだと語るのだ。

 

最初は老人の妄想だと疑っていた神部だが、

なぜか半分は信じたくなり、みずからハンザキの村を訪れる。

 

美しい清流に恵まれたその村では、

もはや半世紀前の因習は失われ、

ハンザキを食べていた記憶すら途絶えていた。

ところが神部は、人間と両棲類が混じり合った

怪物との衝撃的な遭遇を体験する。

 

古代から地球上に生き続ける最大の両棲類オオサンショウウオ。

その神秘的な生命力は、明治・大正を生きた発明家と、

昭和・平成のライターという二人の男の運命を

不可思議に結びつけていく。

 

夢と現実のバランスが崩れた世界で展開される、

現代日本文学の新たな幻想譚がここに誕生した。

ミレニアムという時代の転換点を背景に、人間の記憶と妄想、

そして生命の根源的な力について問いかける、

15章からなる本格長編小説。

読者は神部とともに、

真実と幻想の境界線上を歩むことになるだろう。

 


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「ひとりでしにたい」最終回:愛や自由について語る時代の再来

 

愛とか自由とかについて考えたり、語り合ったりする時代が

今また帰ってきたのじゃないか。

綾瀬はるかのNHKドラマ「ひとりでしにたい」の

最終回(2日)を見てそう思った。

 

やっぱり鳴海(綾瀬)と那須田(佐野勇斗)は結婚するのか、

それだとなんだかつまらない、

でも、ちゃんと恋人同士として付き合うことになるんだろうなと思っていたら、そうはならなかった。

すごく面白くて毎回見てしまったが、

従来のドラマのセオリーとしては大失格の作品である。

 

ドラマとは人間の変化を見せるものなのに、

そもそも主人公が始まったときと全然変わらない。

クライマックスも家族の食事会シーンで口論になるだけで、

盛り上がりもへったくれもない。

視聴者がこんなもの見るもんか!と、

90年代のトレンディドラマのロデューサーに

脚本を見せたら、びりびりに破かれそうだ。

 

この手の若い男女を主人公にしたドラマは、

一昔前まで感動ものであれ、コメディであれ、

劇的アクション、もしくはドタバタ狂騒曲をへて、

結婚に限らずとも、何らかの形で結びつくのがお決まりだった。

ハリウッドのドラマメソッドは1980年代に確立され、

80年代後半から00年代前半、アメリカでも日本でも

多くの映画やテレビドラマは

そのメソッドに基づいて作られていた。

 

簡単にいえば、紆余曲折を経て、ラストは平安が訪れる。

恋愛や友情や家族が色濃く絡めば、

ラストは結婚や子供の誕生など、

新しい家族が生まれるという喜びに満ち、

未来へ希望をもたらす終わり方にするべき。

もちろん例外はあるが、少なくともそれが王道であり、

視聴者の心を満足させる鉄板パターンであり、

そうでないものは大衆に受けいられるのは難しい。

 

僕がドラマの脚本を勉強をしていた頃はそう教えられた。

それはまんざら昔話でもないようで、

割と最近、シナリオ教室に行ったという人からも、

そうやって教えられたと聞いた。

けど、もう現実は違っている。

このドラマに共感を寄せる多くの視聴者--

鳴海と同じアラフォーやその下の年代は、

一見、何も変わらず、始まったときと同じく、

ひとりで自分らしく生きようとする鳴海の

内面の変化を感じ取っているのだろう。

 

しばらく前まで、家族が価値観の最上級、

唯一絶対の価値であったこの国では、

結婚すること、子どもを授かることは、

紛れもない、揺らぐことない幸福の証であり、

完全無敵の善だった。

 

しかし、今となっては、それは幻想だった。

それは何者かによる洗脳だったと、

現実に裏切られた人たちが気づいてしまった。

そして、家族って一種の「負債」ではないか?

という認識にも至ってしまった。

 

このドラマでは、特に那須田のセリフに顕著だが、

家族の問題・人生の問題を

経済用語で語る場面がやたらと出てくる。

今の世のなか、価値観の主軸が経済になっていて、

特にアラフォー以下の年代の人たちにとっては

それがデフォルトなのだろう。

 

家族主義の時代が終わって、

自分らしさを追求する個人主義の時代になった、

といえばそれまでだが、

家族という負債から解放された、自分らしさって何だろう?

愛とか自由とかの意味ってどうなってしまうんだろう?

と考えてしまった。

ただ、大いに笑った後にいろいろ考えられるということは、

よくできたドラマなんだろうな、やっぱり。

続編を望む声も多いが、すぐにやったら面白くない。

10年後の話だったら、また見てみたい。

それにしてもアラフォーになっても、綾瀬はるか、かわいい。

 


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アスリート芸人・宇野けんたろうさんのガチトレーニングイベントを取材

 

吉本芸人随一のアスリート 宇野けんたろうさんの

「走力アップ×夏バテ対策イベント」を取材。

題して「目指せサブ4!in 3Po 

 低酸素ルーム × 宇野メソッドで走力UP」を

今週水曜(30日)の夕方に行った。

 

宇野けんたろうさんは、おそらく長距離走にかけては、

当代きっての芸能人最速ランナー。

間寛平、猫ひろしの後継者ともいわれ、

フルマラソン2時間30分台の記録を持つ。

オリンピックなど世界レベルの大会の出場者が2時間10分台。

東京マラソン・男子出場者の平均が4時間30分前後。

タイトルにある「サブ4」とは

「フルマラソン4時間切り」のことで、

3時間台で走れば、市民ランナーと言えども

「エリートランナー」の仲間入りをすることになる。

 

宇野さんはそんな人たちを指導する、

すごい実力の持ち主であるとともに、

芸人なのでコミュニ―ション力や

人を楽しませることにも長けている。

 

というわけで、地元の江東区をはじめ、

あちこちのマラソン大会、スポーツイベントに

コーチやゲストとして引っ張りだこ。

彼を中心としたランナーたちのコミュニティもできているという。

 

そんな宇野さんと、江東区・亀戸にある

低酸素リカバリーフィットネスサロン「3Po(さんぽ)」が

タッグを組み、初めてのイベントを開催。

といっても大げさなものではなく、

宇野さんといっしょに走って

低酸素トレーニングを体験してみよう、というものだ。

 

約90分のタイムスケジュールは、

1.施設案内&ウォーミングアップ

2.宇野けんたろうさんと一緒に外ラン(約20分)

3.低酸素ルームでトレーニング体験(約20分)

4.本格リカバリーマシンで疲労ケア

5.お土産配布

 

午後6時半に10代~50代の男女8人が集合し、

3キロ外を走った後に、3Poの低酸素ルームに入り、

4人ずつ分かれて、バイクとウォーキングマシンを

交互に体験した。

「マイマウンテン」というウォーキングマシンは、

トレイルランニング(山歩き・山走り)の練習に利用する

特製マシンで、速度を変えられるだけでなく、

傾斜角度を50度まで上げ下げできる。

 

軽く外ランの後に低酸素ルームのマシンで追い込む、

という計画通り、

たった20分だが、室内で猛烈なトレーニングが繰り広げられた。

低酸素ルームは、常圧低酸素の環境を創り出し、

高地トレーニングを代替。

肉体を細胞レベルで作り変えていくというもので、

近年、アスリートの間で急速に広がっている。

 

ここでの運動は、普段の状態での運動の3倍以上の効果、

つまりここで20分トレーニングすると、

単純に1時間以上のハードトレーニングをしたのと

同等の効果が得られるのだ。

 

そのため、負荷のかけすぎで体が悲鳴を上げたのか、

途中でバテてリタイアする人も。

終わった後、宇野さんに聞いてみたところ、

「今日はちょっとうやり過ぎたかも」

 

僕もここでバイクとマイマウンテンをやったり、

高齢者たちが健康増進のために利用するのを

取材したりしてきたが、今回、ガチランナーたちが思いきり、

マシンと格闘するのを目の当たりにして、

奇しくも、低酸素トレーニングのすごさ・クオリティを実感した。

 

最後、宇野さんは、

「こんな猛暑の季節に外で

ガチなトレーニングを続けるのは難しい。

できるのは早朝3時間、夜3時間くらい。

日が暮れても地面は熱をたくわえているので、

下手にやりすぎると危険です。

その点、こういう施設があると心置きなく、

からだに負荷をかけ、トレーニングに励める。

地元の亀戸にこんな施設ができて、うれしい」と話した。

 

トレーニングの後は脚の血流を癒すメドマーや、

筋肉をほぐすバイブレーションチェアなどで

癒しのひと時も。

 

今回のイベント企画者・スポーツメンタルコーチの

押田海斗さんのメンタル新聞、

新小岩でグルテンフリーのクレープ店

「おこめのおくりもの」を営む

和田あいりさんの「グルテンフリーフィナンシェ」の

お土産もついて、みんな大満足の楽しいイベントになった。

 


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真夏の昭和スイカ子ども伝説

 

夏の食べ物と言えばスイカ。

他にもいろいろあるが、やはり圧倒的に迫力がちがう。

 

でかくて丸くて重い。

もしこれで大谷選手が時速160キロの剛速球を投げたら、

バットは確実にへし折られるだろう。

デッドボールを食らったら死ぬかもしれない。

 

それでいながら、丸くて色鮮やかでかわいい。

これほど夏に似合う食べ物もないだろう。

 

昭和の時代、スイカは子どものものだった。

大人は子どものおこぼれを預かっていた。

そうなのだ、スイカ食いの主役は子どもだ。

子どもが食べるから、スイカは楽しくて面白かった。

 

あのでかいやつをかち割って、

いとこたちと、近所のガキどもと、町内のクソガキどもと、

学校のバカどもと、みんなで分けて食った。

 

もちろん、家でも家族みんなで食った。

じいちゃんの記憶はほとんどないが、

なぜか真夏にいっしょにスイカを食っていたことは覚えている。

おじさんも、おばさんも、みんないてスイカを食った。

 

僕が生まれたのは、ひどくボロい借家だったが、

小さな内庭があって縁側があった。

その縁側から家族や友だちとタネ飛ばし競争をやった。

じいちゃんがタネを飛ばしていた映像が頭の片隅に残っている。

 

「スイカは英語で『タネプップー』にしましょう」

明日アメリカに行くというのに、

頭をぶつけて英語を忘れてしまった友人に

そう提案したのは、バカボンのパパである。

 

「天才バカボン」のマンガ家・赤塚不二夫は、

スイカに思い出やこだわりがあったらしく、

夏になるとマンガの中に必ずスイカが登場した。

 

その中で面白かったのが、「おそ松くん」などで

スイカの皮が紙のようにペラペラに薄くなるまで

食べるというやつである。

スイカをペラペラになるまで食う、というのは貧乏人の証だった。

「ほら、これ、あそこの家のスイカ」

「うわぁ、ぺっらぺら」

「ギャハハハ」

という会話で貧乏人を笑ってギャグが成立した。

その頃はみんな貧乏だったので、それでよかったのだ。

昭和の貧乏はあたたかくて楽しくて、

今となってはノスタルジーだ。

 

というわけで、僕はその赤塚ギャグが大好きで、

いとこや友達と「スイカペラペラ競争」をよくやった。

どっちがより薄くスイカを食べられるか競うのだ。

 

昔のスイカは、今のより皮が厚く、

白い皮の部分はぜんぜん味がない。

それでもひたすらかじりまくった。

そして笑った。

そういうばかばかしさがスイカにはよく似合った。

 

夏は子どものものだった。

まだ暑いことが、元気で楽しかった時代。

今、夏休みでも、昼間の公園に子供の姿は

ほとんど見当たらない。

これほどの猛暑、熱中症の危険があるからしかたがないが、

日本の夏もサマーがわりしてしまった。

 

でも、スイカは暑ければ暑いほど、甘くなるらしい。

明日から8月。スイカをいっぱい食べよう。

 


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ペット葬・ペット供養のメッカと愛情の行方

 

「旦那はお安く直葬でいいけど、

うちのわんちゃんのお葬式は

何百万円かけてもいいから盛大にやりたいわ」

 

そういう奥さんが増えているらしい。

半分冗談だと思うが、本音度はそう低くない。

家族だろうが恩師だろうが、知人友人だろうが、

とかく人間同士の関係は、

愛情以外のいろんな感情・打算・損得勘定、

その他、いろんなしがらみがまとわりつく。

 

それに比べてワンちゃん・ネコちゃん(その他ペット)

との関係は愛情100パーセント。

そして通常は、親である飼い主が、

子供である犬・猫の旅立ちを見送ることになるので、

そのお葬式は人間のものよりも相当感情的になるらしい。

 

府中にある慈恵院の「多摩犬猫霊園」は

100年の歴史を持つ霊園。

最近でこそ、多くの飼い主が

ちゃんとペットを弔うようになったが、

大正や昭和の貧しい時代にそんな需要があったのだろうか?

 

と訝っていたが、取材でお話を聴くと、

その頃からセレブな方はちゃんと

犬猫を手厚く弔っていたようだ。

皇族をはじめ、大企業経営者、政治家、芸能人・・・

知っている有名人の愛犬・愛猫のお墓も多い。

本堂、納骨堂、霊園、色々見せてもらったが圧巻のひとこと。

広大な境内に火葬場もちゃんと設備されている。

100年の歴史はだてじゃない。

 

最近はどこのお寺・葬儀社なども

ペット葬を手掛けるようになっているが、

その多くはこちらをお手本にしたいと、

見学や相談に訪れるという。

少なくとも東京で唯一、東日本で断トツの

ペット葬・ペット供養のメッカである。

 

しかし、セレブ御用達だから、めっちゃ高いかというと、

そうでもないので、わが子を手厚く弔いたいという人は、

知っておくといいかもしれない。

 

ペットが家族化し、人間より大事に弔われる風潮を

嘆く人、怒る人もいるかと思うが、

そういう人は、自分が周囲の人たちをどんな目で見て、

どう付き合っているのかを、もう一度、考え直し、

犬・猫みたいに愛情をもって接してもらいたければ、

振る舞いや考え方を変えたほうがいいかもしれない。

 

現代人は、人間同士の愛情に希望をなくしている。

でも愛情・人情べったりより、

ほどほどの距離感があったほうがいい場合もあるので、

何とも言えない。

 


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真夏の昭和立志伝

 

とあるグループ企業のトップの方からご指名を受けて、

自叙伝を代筆することになった。

初対面でいろんな話を聴かせていただいたが、

昭和の起業家の話はやっぱり面白い。

 

僕の父もそうだったが、

戦後の復興期から高度経済成長の時代、

志を立て、ハングリー精神を持って

荒れ地を開拓するかの如く、突き進めたのは、

ある意味、幸福な時代だった。

昭和の社会は野蛮で闇も多かったは、その分、

シンプルに成功を、幸福を追求できたのだと思う。

 

そんな歴史をとどめて後進に伝えたいという思いを

抑えることができないというのだ。

高齢とは言え、聡明でダンディな方なので、

自己満足であることは、

おそらくご本人もわかっているのだろうと思う。

でも、人に迷惑をかけるものでない限り、

自己満足は徹底的に追求してほしい。

またまた仕事として、

昭和立志伝を書くチャンスをもらって、

暑さも吹っ飛ぶほど光栄だ。

 


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ロックってやっぱりカッコいい。 渋谷陽一の文章を読むとそう思う

 

音楽評論家の渋谷陽一さんが亡くなった。

雑誌「ロッキンオン」の編集長で、

ロックフェスのプロデューサーだったが、

僕の中では、若かりし頃の音楽ライター&DJの印象がほとんど。

僕がロックにハマったのは、

彼の文章やDJトークの影響が大きかったと思う。

 

1970年代の半ばから80年代初めごろまで、

彼の書く文章をむさぼるように読んでいた。

その頃はネットなど影も形もなく、

音楽を聴くうえで信頼できる情報は、

雑誌であり、レコードに入っているライナーノーツだった。

 

レッド・ツェッペリンのライナーノーツの文章は

今でも忘れられない。

なかでも印象的だったのが7枚目のアルバム「

プレゼンス」のライナーノーツ。

 

「ロックってやっぱりカッコいい。

レッド・ツェッペリンを聴くといつもそう思う」

 

と、何のてらいもなく書き放ち、

なぜ、ツェッペリンがそれほどカッコいいのか、

数あるバンドの中で特別なのかを、

アルバムタイトル「プレゼンス(存在)」と絡めて、

さらりと、しかし、力強く言語化していた。

わずか800字程度だったと思うが、

その文章がとんでもなくカッコよかった。

 

「プレゼンス」はツェッペリンの作品の中でも、

全体的にやや地味な印象のアルバムだが、

その渋谷さんのライナーノーツのおかげで、

ひときわ輝く存在になった。

 

キング・クリムゾンの「エピタフ」を社会批評の歌、

そして「レッド」をプログレでなくハードロック、

と最初に評したのも渋谷さん、

エマーソン・レイク&パーマーを

「70年代ロックの巨大な打ち上げ花火」

と言い表したのも渋谷さんだった。

 

渋谷さんひとりではないが、

当時の音楽ライターたちの文章は、ロックをただの音楽ではなく、

僕たちに必要なカルチャーに昇華させていた。

それらは間違いなく、僕らの精神を豊かにし、

現実と未来を生きていく糧になった。

 

彼が敬愛していたジミー・ペイジも、

ポール・マッカートニーも、

ミック・ジャガーも、まだ生きている。

彼が励まし続けた佐野元春もバリバリの新作を作っている。

ロックはまだ終わっていない、と信じたい。

 

渋谷陽一さんのご冥福をお祈りします。

 


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日本には外国人もAIもロボットも必要

 

昨日の夕方、参院選の期日前投票に行ったら大混雑。

連休なので前日のうちに投票を済ませて、

日・月はお出かけしようという人が多いのかも。

 

選挙があるたびに「変わる」「変える」「変えよう」と、

捕手も革新もそろって連呼するが、

この30年、本質的なところは何も変わらなかった。

そしてちよっと変えてみたけど、全然うまくいかなかった。

(30年前の社会党、15年前の民主党)

 

さすがにそろそろ本気で変える・変わる潮目が来たのかな、

といった期待感だけはある。

消費税とともに外国人問題が争点となっているが、

僕は外国人も、AIも、ロボットも、

この先の日本には必要だと思う。

 

豊かになって精神的貴族が増えたこの国で、

昭和と変わらない考え方・やり方がまかり通るわけがない。

世界はこの先、あらゆるものがフラット化する。

どの国にいても同じ質の商品やサービスが手にでき、

ある程度のレベルの生活が保てるようになる。

そうなるには日本人だけではやっていけないし、

AIやロボットの助けがいる。

 

そんなわけで、変革のために

ちゃんと伝わる政策を掲げているれいわ新選組、

そして長期的には、

AIを駆使してやっていこうという可能性を秘めた

チームみらいに票を入れた。

新しい未来を感じられる結果が出ることを期待している。

 


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55年がかりの夏休みの宿題

 

6月からのひどい暑さにKOされてしまったが、

子どもたちはこれからやっと夏休みに入るところ。

なんだか夏休みパート1が終わって,

パート2の始まりという感じ。

もしかしたら9月以降にパート3もあるかもしれない。

 

大人になって久しいので、

もはや夏休みという言葉には郷愁しかない。

会社員になったことがないので、

お盆休みには無縁だし、

わざわざ混雑する時期に出かけることもなかった。

だから、自分の中で夏休みとは、子どもの夏休みのことである。

 

そんなわけで一度、夏休みをテーマにした話を書こうと思って、

何年も前から取り組んでいるのだが、なかなかできない。

去年の夏はザクザク進めて、こいつは行けそう

と思ったのだが、途中で止まってしまい、

そのまま、また長らくお休みしてしまった。

今年の夏、突破口を見つけてまた書き始めている。

 

この話のベースにしているのは、

小学校5年生の時に友だちと一緒に書いた

小説(のようなもの)である。

内容も登場人物もまったく違えているが、

自分の中ではあの小説を再現する感覚で書いている。

 

もちろん、そのノートは残っていない。

紙面が真っ黒に見えるほど、びっしり字で埋め尽くし、

あちこちにマンガみたいな挿絵を入れていたのは、

今でも目に浮かぶ。

 

大体のストーリーをはじめ、

キャラ設定や何がどうしたという展開も

けっこう記憶に残っており、

書いていくと、どんどんいろいろなことを思い出す。

 

ついでに小学校5・6年生の時の

クラスメートの顔や声も思い出す。

最近は小学校も高学年になると、

スクールカースト化が始まって、

子どもたちが階級で分断されていく、という。

そんな話を聴くと、いい気持ちはしない。

 

昔がよかったわけではないが、

少なくとも、そうした不幸な分断・選別が

当たり前みたいに語られることはなかった。

 

僕が子供の頃の学校では、

なんとなく仲がいい同士のグループはあったが、

みんな、グループ間を自由に行き来していた。

とくに5・6年生の時のクラスは

小中高のなかで最も好きなクラスで、

いろいろなやつがいて、毎日いろいろなことが起きて、

本当に面白かった。

 

それにしても10歳の頃に書いたものを

60歳を過ぎてまた書く気になるなんて

夢にも思っていなかった、

なんだか55年がかりで夏休みの宿題を

やっているような気がする。

秋風が吹いて涼しくなるころには完成させたい。

今年こそ。

 


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政党プロモーション動画をちゃんと作れ

 

参院選が近づいてきて、

「期日前投票行ってきました」

という投稿をチラホラ見かけるようになった。

消費税・給付金・社会保障・外国人問題・・・

争点はいろいろあるが、

一般の有権者にとっては、どうも各党の主張がわかりにくい。

これは今に始まったことでなく、

選挙があるたびに感じることだ。

 

選挙公報がある。

政見放送がある。

各党のホームページがある。

それはそうだろうし、そういうものちゃんと見て、

誰に、どの政党に投票するか、しっかり検討するのが、

まっとうな有権者だ。

 

という意見は、ごもっともだが、

現実問題、忙しい現代人がそこまでちゃんとやれるのか疑問だ。

もちろん、僕もちゃんとやれてない人の一人である。

それで面倒になって、SNSで流れてくる、

あそこがいい、あそこはだめといった情報、

それも感情的男・煽情的な情報を鵜呑みにしてしまう。

デマ情報にも簡単に踊らされてしまう。

そこでもっと活用すべきなのではないかと思うのが、

プロモーション動画である。

それも街頭演説を切り取ったようなものや、

ほんわかイメージだけのもの、

ただひたすら熱く語るだけのものではだめ。

 

その点、今回、感心したのは、

山本太郎率いる「れいわ新選組」のプロモ動画である。

データを明示して「だからこういう政策を取る」

ということを、テンポよく5分足らずで

論理的に、エンタメ的要素も入れて、しっかり見せている。

彼らの主張・政策がいいのかどうかは別の問題だが、

すごくわかりやすい。

今まで見た政治関係のプロモ動画のなかで

最もクオリティが高い。

 

どの党もこれくらいのクオリティの動画を作っ

理念・政策を訴えるべきだ。

それで興味を覚えた人は、

選挙公報・政見放送・ホームページを当たれば良い。

動画の時代になっているのに、党の顔になるプロモ動画が、

わけのわからないへぼなものではお話にならない。

 

もう今回は間に合わないが、

今回のれいわのプロモ動画をお手本に、

どの党も、有権者の投票行動に結びつく、

ちゃんとしたプロモ動画を作ってほしい。

 

※気になる人は「政党プロモ動画」で検索すれば、

上位にれいわのが出てくるので見てみてください。

 


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映画「国宝」 畸形の演劇と女形の生き様

 

かつてはギリシャ劇にも、シェイクスピア劇にも、

中国の京劇にも、能・狂言にも、女優は存在せず、

男の俳優だけで芝居は上演されてきた。

いろいろな事情があったと思うが、女が舞台に立つと、

多くの男がそれに現を抜かして働かなくなり、

社会が立ちいかなくなったので、為政者が禁じたのだろう。

 

しかし、社会の発展とともに演劇の世界は広く開放され、

女優もだんだん舞台に立つようになった。

21世紀の今日、世界でいまだに女優が舞台に立てない演劇は、

日本の歌舞伎だけである。

江戸幕府によって女優が禁じられてから400年。

女を演じる男優--女形は

何代にもわたってその技芸が伝承されてきた。

今や一種の世界遺産ともいえる独特のスタイルだ。

 

その女形に人生を賭け、紆余曲折を経ながら

ついに人間国宝にまでたどり着く男の物語。

吉田修一の同名小説を映画化した「国宝」。

1964年から2014年までの50年間を描いた一代記は、

歌舞伎の世界の裏側を見事に描き出している。

 

歌舞伎は一見、華やかでセレブな世界だが、

よく考えたら、何でいまだにこんな慣習・ルールが成り立つの?

と思えるような魔訶不思議な世界であり、

畸形の演劇ともいえる。

 

いまだに女が舞台に立つのが許されないことに加え、

伝統芸能でありながら、国家に守られているわけでなく、

純然たる商業演劇として運営されていること。

家・家族で伝承する技芸であるからこそ、

「血」を守っていくためのこだわりが強いこと。

 

みんな、小さな世界で生きているので、

身内・味方に対する愛情・友情・敬愛心は強いが、

一旦事情が変わると、

たとえば、父親・師匠などの後ろ盾を亡くしてしまうと、

たちまち冷淡に扱われ、干されるようになる。

要するに、この物語の主人公・喜久雄のように、

才能があれば、芸が優れていれば出世できるという

フェアな世界ではないのだ。

 

とはいえ、商業演劇なので、

客を集め、興行を打っていくため、

常に客の期待・時代のニーズに応え、

新しいスターをプロデュースする必要がある。

その微妙なバランスのなかで歌舞伎は生き延びてきた。

 

そのあたり、原作(まだ読んでないが)は

かなり詳細に買いているようだが、

この映画でも十分描き出している。

重厚なドラマは、昭和・平成の時代背景も相まって、

素晴らしく見ごたえがあって、

3時間以上の長丁場でもまったく飽きさせない。

 

吉沢亮と横浜流星の熱演が話題になっていて、

もちろん、彼らの感情表現や演技・踊りは素晴らしいのだが、

僕としては、この2人に影響を与え、

無言のうちに「女形の生き方」を示唆する

人間国宝・小野川万菊の存在が、とりわけ胸に刺さった。

 

演じるのは、長らく孤高のダンサーとして活躍してきた田中泯。

その妖怪じみた女形ぶりはすさまじく、登場シーンになると、

まるでそこだけアングラ演劇の世界みたいになる。

そして、人間国宝という栄誉ある称号にあるまじき

最後の登場シーンは、戦慄を覚えるほど印象的で、

そこに「国宝」というタイトルの意味が

込められているように思えた。

 

昭和の時代まで、歌舞伎役者は江戸時代の身分制度を引きづった

「河原乞食」だった。

今でこそセレブ扱いされるが、一般的なセレブイメージと、」

彼らの生きる世界・人生には大きなギャップがある。

映画「国宝」は、そんな歌舞伎という畸形の演劇の歴史・文化、

そしてこの特殊な世界を成立させている人間模様を感じ取ることができる奇跡的なコンテンツだ。

 

舞台のシーンの迫力、女形を演じる喜久雄(吉沢亮)と

俊介(横浜流星)の美しさ。

この映画の魅力・価値を堪能するには、

テレビやパソコンサイズではだめで、

絶対に映画館の大スクリーンで見るべきだと思う。

 


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777

 

素数である7は神秘のムードをまとい、

マジックナンバーとして古今東西、一目置かれてきた。

その7が3つ並ぶ(3ももちろん素数でマジックナンバー)

令和7年7月7日は大ラッキーデイ!

と大騒ぎになることもなく過ぎ去ろうとしている。

 

思い返すと、7はやはりミステリアスな数字。

かの「ノストラダムスの大予言」も、

空から大魔王が降ってくるのは「7の月」だった。

他の数字だったら、あそこまで話題にならなかったのではないか。

 

おとといの予言だか予知夢だかの「7月5日」も、

本当は7月7日にしたかったのだと思う。

でも、777だと、さすがに出来過ぎ感がするので、

少しずらして5日にしたのだろう。

 

「セブンイレブン」が成功したのは、

もちろんコンビニエンスストアという

新しい商形態を生み出したからだが、

「7(セブン)」のマジックも侮れない。

 

11も素数。素数を二つ並べ、韻を踏み、語感も抜群。

もともと午前7時開店、午後11時閉店という営業だったので、

理屈も整い、説得感も抜群。

誰でも一発で覚えられる最強のネーミングだ。

もし店名が「セブンイレブン」でなかったら、

コンビニエンスストアはこれほど普及しなかっただろう。

というのは言い過ぎ?

 

世の中のことはともかく、

自分の人生で7がつく日に何か大きな出来事があっただろうか、

と思い返してみた。

2つ思い当たった。

息子の誕生日が5月17日。

父の命日が12月17日。

ついでに言うと、祖父の享年が77歳だった。

こうなると、自分の命日や享年が気になるが、

それは考えずにおこう。

 

雨が降らなかったので、織姫と彦星は無事に会えただろう。

7は星や宇宙とも相性抜群。

ウルトラセブンもシックスやエイトじゃサマにならない。

やっぱりセブンはミステリアスでファンタジックで大好きだ。

 


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佐野元春朝イチ出演 本物の還暦ロック

 

NHK朝イチ・プレミアムトークに佐野元春がゲスト出演。

僕は見ていないが、カミさんが見て「カッコイイ」と感激。

いろいろ内容についても教えてくれた。

ネットでも盛り上がり、ひと騒動だったようである。

佐野元春は若い頃よりカッコよく、

全世代にメッセージを伝えられる数少ない「ポオラ・スター」だ。

 

いま還暦を超えて活躍するミュージシャン・

アーティストは珍しくない。

いったん消えたが、高齢化する世の中の様子を見て

「まだできそう」と思って戻ってきた人もいるだろう。

あるいは、視聴率を取れるネタに困った

テレビなどのメディアに呼ばれるのかもしれない。

 

ただ、多くはどうしても「あの頃はよかったワールド」になり、

かつて青春を共有したファンたちが、彼・彼女らを囲んで

懐メロという暖炉であったまる――

という同窓会みたいな図式になっている気がする。

いわば懐メロ専門スターが増えているのだ。

 

それが悪いことだとは言わない。

懐メロで心を癒し、過去を振り返ることも大切だと思う。

でも終始それでいいのか?面白いのか?

全部でなくていいが、できれば半分、

せめて2,3割くらいは現役感・未来感があってほしい。

 

それに齢を取ると、その人の生き方が自然と佇まいに現れる。

どんなに着飾ろうが、若づくりしようが、

カッコよくはならない。

若い頃なら許された、だらしない言動、

人を不愉快にさせるような言動は、

無意識のうちに、かなり醜い形で表に出てしまう。

逆に誠実に、自分らしく生きてきた人はカッコよくなっていく。

これはミュージシャンや芸能人に限った話ではないと思う。

 

佐野元春が歳を取れば取るほどカッコよくなっていくのは、

おそらくそうした原理が働いているからだろう。

バックバンドやスタッフに恵まれているのかもしれない。

しかし、それは彼の才能と人柄、

もっと具体的に言えば、時代に応じて表現を変えつつも、

一貫して自分の思いや意見を、

誠実に音楽にし続けてきたからこそ、

強い味方となる周囲の人々を引き寄せるのだ。

 

むかし、「つまらない大人にはならない」と吠えていた

ミュージシャン、アーティストは大勢いた。

そのうち、何人がそれを実践できただろう?

いま、実践しているだろう?

 

佐野元春はつまらない大人にならなかった。

70歳に近くなった今、自信を持って

「ガラスのジェネレーション」をリメイクし、

魂を込めて歌える彼を、リスペクトせずにはいられない。

 


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小さな生き物たちの夏ものがたり

 

7月の声を聴くと、すぐに近所の公園でセミが鳴きだした。

やつらはカレンダーがわかっているらしい。

というわけで、いよいよ夏本番。

といいたいところだが、もうとっくに夏は真っ盛り。

関東はまだ梅雨明けしていないが、連日の暑さでうだっている。

 

そういえば雨が少なくて暑すぎるせいか、

近年、カタツムリをあまり見かけない。

息子がチビだったころには、

いっしょにでかいカタツムリを見つけて喜んでいた。

前の家の庭にもガクアジサイの葉の上を

よくノロノロ歩いていた。

 

今は家を出てすぐに大きな公園と川があり、

草木も豊富、アジサイの花も咲いているのだが、

カタツムリをまったく目にしない。

まさか知らぬ間に絶滅したのではないかと、

ちょっと心配になる。

 

夏になると、生き物たちの活動は活発になる。

昨日は廊下の窓にぺったりとヤモリが貼りついていた。

ガラスにへばりついていると、

ひんやりして気持ちいのかもしれない。

ちょっと窓をズラしてやると、

驚いてペタペタ動きまわる。

ヤモリは可愛いし、家を守ってくれる「家守」なので愛している。

トカゲもちょろちょろしていて可愛い。

 

このあたりの輩は高速移動できるからいいが、

悲惨だなと思うのはミミズである。

ここのところ毎日、

道路のアスファルトの上でひからびているミミズに出会う。

それも一匹や二匹ではない。

赤黒くなったゴム紐状のミミズの乾燥した死体が

数メートルおきに道路の上に貼りついているのだ。

まさしく死屍累々という言葉がぴったりである。

 

それにしても、なぜだ?

果てしない砂漠の真ん中で息絶えてしまった、

無数のミミズたちに僕は問いかける。

 

おまえたちは土の中で生まれたのだろうに、

なぜこんな真夏の日にアスファルトの上にはい出てきて

熱線で焼かれて死ななくてはならなかったのか?

なぜ故郷をあとにしたのか?

なぜ命がけの旅に出なくてはならなかったのか?

この道路の向こう、この地獄を超えた先に、

おまえたちの目指す楽園があったというのか?

それはあの植え込みか、草むらか?

もちろん、誰も答えてはくれない。

 

ヤモリやトカゲのように高速移動できれば。

セミやハチやチョウのように空を飛べれば。

せめてバッタのようにピョンピョン跳ねることができれば。

しかし、ミミズはミミズ。

地を這い、土に潜る。

それが宿命づけられた生き方だ。

その生き方を目指して、ここでお天道様に焼かれて死ぬのなら、

それは本望だと、ミミズ生をまっとうできたのだろうか?

 

というわけで死屍累々の写真も撮ってみたが、

ちょっと悲惨過ぎて載せられない。

ま、元気溌剌のヌルヌルしたミミズくんの写真を見るのも

いやだという人が多いだろうが。

なので本日は、クールビズしている

元気なヤモリくんの写真だけにしておきます。

 


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綾瀬はるか「ひとりでしにたい」大ヒットで 1億総終活時代到来

 

NHK・綾瀬はるか主演の終活ドラマ

「ひとりでしにたい」が大人気で、大河・朝ドラを凌駕する勢い。

カレー沢薫の同名マンガをドラマ化した作品で、

僕も土曜日に見たが、確かに面白い。

 

それにしても僕の中では、

綾瀬はるかはまだ若手女優だったのに、

そんな、終活なんて…と思って調べたら、彼女ももう40。

役柄はもっと年上の設定らしいが、

もはや40から終活を考えるのが当たり前になってきたようだ。

 

そういわれてみると、4月に参加したデスフェスの

スタッフも多くは40代

(はっきりとは知らないが、平均とったら多分)。

来場者もそのあたりの人が多かったような気がする。

今や60・70代よりも40・50代のほうが

しっかり死生観を持っており、終活に熱心なのではないか?

 

それどころか、20・30代も

「今から終活だ!悔いなく生ききるぜ!」と言っている。

どうやらがんばって終活するためには、

若いエネルギーが必要なのだ。

60・70代からじゃ遅すぎる?

いったいどうなっちょるんじゃ?

あっという間に1億総終活時代に突入だ。

 

「ひとりでしにたい」本当に面白いので、

観てない人は、NHKプラスで観てみてください。

 

電子書籍「僕たちはすでにセンチメンタルなサイボーグである」

無料キャンペーンは本日終了。

ご購入ありがとうございます。

よろしければレビューをお願いしますね。

 


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AIライフ、サイボーグ人生に興味のある方はぜひどうぞ

エッセイ集:AI・ロボット2

僕たちはすでにセンチメンタルなサイボーグである

AIライフ、不老不死サイボーグ人生に興味のある方は必読。

 

6月30日(月)15:59まで 2025年半分終了記念 

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あとわずか。この機会にぜひどうぞ。

 

 

私たちが「純粋な人間」だった時代はもうとっくに終わっています。

住環境から身体機能まで、あらゆるものがテクノロジーに支えられた現代において、人間とは何かを問い直す時が来ました。

本書は、AI・ロボット時代を生きる現代人の等身大の心境を綴った、

おりべまことの面白まじめエッセイ集「AI・ロボット編」の第2弾です。

その内容の振り幅には驚かされます。

アンドロイド観音への戸惑いから始まり、

生成AIに「これは60点だ。他の奴はもっといいのを出してくるぞ」と

罵倒する「パワハラプロンプト」の実践、

パリ五輪のヒューマンエラーをAIと哲学的に語り合う日常、

さらには「自分好みの女がいくらでもAIで作れる世界」への言及まで——

26編のエッセイが現代人の赤裸々な本音と葛藤を

容赦なく描き出しています。

 

特筆すべきは、著者がAIを恐れるのでも崇拝するのでもなく、

まるで「ちょっと変わった友人」のように接していることです。

終活・終末期医療における

「差別・偏見なきAIの目」に希望を見出す一方で、

SF映画のアンドロイドたちの変遷から人間観の変化を読み解く。

 

この絶妙なバランス感覚こそが、本書を単なるテクノロジー論から

人間ドラマへと昇華させています。

「センチメンタルなサイボーグ」である私たちが、

これからどこへ向かうのでしょうか。

AI時代の人間のあり方を考えるすべての人に贈る、

示唆に富んだエッセイ集です。

 

もくじ

アンドロイド観音とどう向き合うか?

100万回生きたロボット

ロンドンのAI孝行孫娘をご紹介します

生成AIへのパワハラプロンプトと人間の価値

ヒューマンエラーまみれのパリ五輪についてAIと語る

自分好みの女がいくらでもAIで作れる世界

終活・終末期医療における差別・偏見なきAIの目

人生の半分はオンラインにある

AIはマンガのロボットみたいな相棒

AIエロコンテンツが現実世界を変えていく

 

ほか全26編採録

 


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「どうして僕はロボットじゃないんだろう」から 「僕たちはすでにセンチメンタルなサイボーグである」へ

 

 

子供は、強くて賢くて、何でもできちゃうロボットっていいな、

カッコいいな、僕もロボットだったらよかったのにな、

と憧れるのに、

大人になると「わたしはロボットじゃないんだ!」と言いだす。

なんで?

 

でも、齢を取ってくると、ふたたび、

ロボットだったらよかったのに、と思うかもしれない。

だってロボットはアンチエイジングだし、死ぬこともない。

 

最近思う。

人間として生まれた以上、

僕たちは一生ロボットにはなれないが、

技術の力で限りなくロボットっぽく生きることはできる。

私はそんなのごめんだ、

という人もこの時代に生きているかぎり、

じつは刻一刻とすでにサイボーグ化しているのだ。

 

そんな思いを込めて、AI・ロボット・エッセイ集第1弾

「どうして僕はロボットじゃないんだろう」から

第2弾「僕たちはすでにセンチメンタルなサイボーグである

AIライフ、サイボーグ人生に興味のある方はぜひどうぞ。

 

6月30日(月)15:59まで

2025年半分終了記念 無料キャンペーン開催中!

https://www.amazon.com/dp/B0FBM6D67S

 


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「僕たちはすでにセンチメンタルなサイボーグである」無料キャンペーン開催

 

おりべまこと電子書籍 エッセイ集:AI・ロボット2

 

僕たちはすでに

センチメンタルなサイボーグである

 

本日6月27日(金)16:00~30日(月)15:59

2025年半分終了記念 4日間無料キャンペーン開催

 

私たちが「純粋な人間」だった時代はもうとっくに終わっています。

住環境から身体機能まで、

あらゆるものがテクノロジーに支えられた現代において、

人間とは何かを問い直す時が来ました。

 

本書は、AI・ロボット時代を生きる現代人の等身大の心境を綴った、

おりべまことの面白まじめエッセイ集「AI・ロボット編」の第2弾です。

 

その内容の振り幅には驚かされます。

アンドロイド観音への戸惑いから始まり、

生成AIに「これは60点だ。他の奴はもっといいのを出してくるぞ」と

罵倒する「パワハラプロンプト」の実践、

パリ五輪のヒューマンエラーをAIと哲学的に語り合う日常、

さらには「自分好みの女がいくらでもAIで作れる世界」への言及まで——

26編のエッセイが現代人の赤裸々な本音と葛藤を

容赦なく描き出しています。

 

特筆すべきは、著者がAIを恐れるのでも崇拝するのでもなく、

まるで「ちょっと変わった友人」のように接していることです。

終活・終末期医療における

「差別・偏見なきAIの目」に希望を見出す一方で、

SF映画のアンドロイドたちの変遷から人間観の変化を読み解く。

 

この絶妙なバランス感覚こそが、本書を単なるテクノロジー論から

人間ドラマへと昇華させています。

「センチメンタルなサイボーグ」である私たちが、

これからどこへ向かうのでしょうか。

AI時代の人間のあり方を考えるすべての人に贈る、

示唆に富んだエッセイ集です。

 

もくじ

アンドロイド観音とどう向き合うか?

100万回生きたロボット

ロンドンのAI孝行孫娘をご紹介します

生成AIへのパワハラプロンプトと人間の価値

ヒューマンエラーまみれのパリ五輪についてAIと語る

自分好みの女がいくらでもAIで作れる世界

終活・終末期医療における差別・偏見なきAIの目

人生の半分はオンラインにある

AIはマンガのロボットみたいな相棒

AIエロコンテンツが現実世界を変えていく   ほか全26編採録

AIにご興味のある方、この機会にぜひご購入下さい。  

 


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山口百恵版「伊豆の踊子」に描かれた 日本人の差別意識とエロ意識

 

なぞの演出満載の山口百恵版「伊豆の踊子」

 

小説(原作)と映画は別物。

それはそれでいいのだが、

そのギャップが大きければ大きいほど。

ツッコミがいがあって面白い。

「伊豆の踊子(1974年:三浦友和・山口百恵版)」は

その最たる例と言えるかもしれない。

 

川端康成の原作は、割と淡々とした小品だが、

映画にするなら、

全体をもっとドラマチックにしなくてはいけない。

それも当時のスーパーアイドルが初めての主役とあれば、

その見せ場もいろいろ作る必要がある。

 

というわけで、この作品の場合は、

そうした娯楽映画・アイドル映画のセオリーを踏まえながら、

社会問題を盛り込んでやろうという野心が込められていて、

謎めいた演出が随所に散見される。

 

日本人の差別問題が裏テーマ

 

社会問題とは差別問題だ。

1960年代のアメリカの公民権運動や女性解放運動などの余波は

ちょっと遅れて日本にも及んだ。

70年代前半は、学生運動の挫折があり、

昭和の高度経済成長という繁栄の陰にあった、

ダークなるもの・ダストなるものが見えてきた時代。

 

当時の先鋭的な文化人や屈折した若者たちが、

当時、まだあまり表沙汰になっていなかった、

日本社会における差別問題を掘り起こし始めていたのだ。

 

川端康成はそんなに意識していなかったと思うが、

大正末期に書かれた「伊豆の踊子」には、

そうした日本人の差別意識が、

いかんともしがたい悪しき現実として、

随所にちりばめられている。

映画はそれらの材料をかき集め、

大きく増幅して裏テーマみたいな形で描きだしている。

 

「あんな連中とは関りにならないほうがいい」という呪文

 

 

三浦演じる旧一高の学生は超エリートのボンボンで、

彼が旅路で出会う商人や旅館の人たちは皆、彼にやさしい。

旅芸人たちは、そうした商人たちの下の階層に置かれていて、

下賤な職業の人間として蔑視されている。

 

物語冒頭、学生と踊子たち旅芸人一座が出会った

休憩所(だんご屋)の婆さんは、

旅芸人たちと親しげに話していたが、

学生に対しては

「あんな連中とは関りにならないほうがいいですよ」と、

親切な(?)アドバイスのような呪文をささやく。

 

実はこれはこの映画のオリジナルのセリフで、原作では

「あの人たちは今日の宿も決まっていない

(放浪者みたいなものだ)」と言っている。

映画ではこの婆さんの差別意識を、

いっそうあからさまに表現しているのだ。

 

セクシー少女・百恵の魅力の開花

 

なおかつ、同じ旅館に泊まった客(商人)などは、

「あの子(踊子かおる)を一晩世話しろ」と

一座をまとめるおふくろに迫ったりもする。

彼女らのような芸人の女は、売春対象とみなされていたのだ。

これらは原作にはなく、この映画における演出である。

 

山口百恵は昭和のレジェンドアイドルだが、

彼女の人気に火が付いたきっかけは、

シングル2枚目「青い果実」3枚目「ひと夏の経験」と、

当時ローティーンながら、

セックスをイメージさせるきわどい路線の歌が

大ヒットしたからだ。

 

男はもちろん、当時の女もその歌にハートを貫かれた。

他の可愛い路線の甘ったるいアイドルにはまねできない、

子供が禁断の領域に踏み込むような、大胆で刺激的な表現は、

多くの人に圧倒的に刺激と感動を受けて支持され、

アイドル百恵の誕生につながった。

 

この伊豆の踊子もそうしたセクシー路線の成功を

踏まえたものであり、

観客の期待に応える娯楽映画であるとともに、

山口百恵の独特の、青い性的魅力を

うまく引き出したアート風味の映画とも言えるだろう。

 

ラスト1分 衝撃の不協和音

 

そして見せ場は最後の最後にやってくる。

学生は東京に帰るため、一座と別れ、波止場から船に乗る。

見送りに来たのは、

かおるの兄(中山仁)だけで彼は内心がっかりするのだが、

船が出た後、埠頭で手を振るかおるの姿を見つけ、

大喜ぶで叫び、手を振り返す。

離れ離れになってはじめて

「ああ、この感情は恋だったのだ」と気づく青春純情ドラマ。

その切なくて、あたたかな余韻を残しつつ、

きらきら輝く海をバックにエンドマークが出て終わり、

というのが、この手の青春映画・ロマンス映画の常道だと思うが、最後の1分で、またもや謎の演出が施される。

 

叫んだ学生の頭の中に、あのだんご屋の婆さんに聞かされたセリフ「あんな連中とは関りにならないほうがいいですよ」が

唐突によみがえり、まさに呪文のようにこだまするのである。

 

え、なんで?と思った瞬間、旅館のお座敷のシーンに転換。

かおるが酔客相手に笑顔で踊っている。

ところが彼女に酔っぱらったおやじが絡みついてくる。

しかも、そのおやじの背中にはからくり紋々の刺青が。

ひきつりながらも笑顔を保ち、

懸命にそのおやじを振りほどこうとする踊子かおる。

最後は顔をそむける彼女と、おやじの刺青がアップになり、

ストップモーションになってエンドマークが出るのである。

 

なんとも奇妙で、

まるで二人の恋心を容赦なく切り裂くようなラスト。

なぜラストショットが、

若い二人の清純な心を映し出す伊豆の海でなく、

汗臭く、いやらしい酔っ払いおやじの刺青なのか?

夢は終わりだ、これがわれわれの現実だよ。

ととでもメッセージしたいのか?

 

せっかくモモエちゃんの映画を観に行った当時の観客が、

このラストシーンに遭遇してどう感じたのか、

怒り出す人はいなかったのか、知る由もないが、

50年後の今見た僕としては、美しい予定調和でなく、違和感むんむんのこうした不協和音的エンディングが、けっこう好きである。

 

あなたも日本人なら「伊豆の踊子」体験を

 

ちなみに川端康成の原作も、二人の別れでは終わっていない。

船が出る前、学生は地元の土方風の男に、

3人の幼子を連れた婆さんを

上野駅(その婆さんの田舎が水戸)まで送っていってやってくれ、と頼まれるのである。

 

現代ならとんでもない無茶ぶりだが、

大正時代、エリートたるもの、

こうした貧しい人たちの力になってあげるのが当然、

みたいな空気があったようで、

彼は快く、この無茶ぶりを引き受ける。

 

そして踊子との別れを終えた後、

伊豆の旅で下層の人たちと心を通わせた、

東京では味わえない体験が、旅情とともによみがえってきて

彼は涙を流すという、なかなか清々しい終わり方をしている。

 

当時の読者はきっと、この学生は一高(東大)を出たら、

庶民の気持ち、さらにその下の被差別者の心情もわかる、

立派な官僚か何かになって、日本の未来を担うんだな――と、

そんな前向きな感想を持っただろう。

 

ちょっと悪口も書いたが、世界の文豪にして、

少女大好きロリコンじいさん 川端康成先生の、

古き良き日本人の旅情・人情に満ちた「伊豆の踊子」。

本当に30分から小一時間で読めちゃう小説なので、

まだ読んだことがない人はぜひ。

 

そしてその50年後、戦争と復興、高度経済成長を経て、

豊かになった昭和日本で、

この物語がどう解釈され、リメイクされたのか、

令和の世からタイムトラベルして、

若き山口百恵・三浦友和の映画で確かめください。

 


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母の命日に自分の女運について考える

 

むかし、女ともだちから

「あんたは釣った魚に餌をやらないタイプだね」

と言われて、割とショックを覚えた。

 

でも、なかなか彼女は鋭かった。

確かに思い返すと、若い頃はつき合った女の子に

いろいろ申し訳ないことをしたような気がする。

 

女は好きだし、愛すべき存在だと思うが、

同時にめんどくさかったり、怖かったり、

時々いやになったりもする。

それが態度や行動に出ていたかも。

 

その感情の遠因には、子供の頃、

母と叔母と祖母と、同じ家で三人の女と

一緒に暮らしていたことがあるのかもしれない。

 

その頃は母のことがあまり好きではなかった。

よく怒られたからである。

叔母と祖母はそれを見ていたせいか、

僕にやさしく、猫かわいがりした。

それを見た母の心中が穏やかであるはずがない。

 

だから、母と叔母・祖母は仲が悪かった。

一触即発みたいなこともしばしばあったような気がする。

母は母親であるがゆえに、叔母や祖母のように

むやみに僕を可愛がれない悔しさがあって、

よけいにイライラを募らせたのだろう。

なんだかみんな自分のせいみたいに思えて、気が重たくなった。

父や叔父と、男同士でいるほうがよっぽど気楽だった。

 

べつにモテたわけではないが、それでも思い返すと、

女運はよかったのかもなと思う。

思い出の中の女は、みんな可愛い。

 

この齢になると出会いも限られてくるので、

あとは身近に残っている身内--カミさん、義母、妹たちが

できるだけ穏やかに暮らせるよう努めるだけだ。

 

みんな齢を食ってしまったが、

女はいつまでも女であり、大半は娘時代と変わらない。

こんな言い方は何だけど、ちゃんと釣った魚にごはんあげてます。

 

今日は母の命日だった。

天国では僕に免じて、叔母や祖母と仲良くやってほしい。

 


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