ペット葬・ペット供養のメッカと愛情の行方

 

「旦那はお安く直葬でいいけど、

うちのわんちゃんのお葬式は

何百万円かけてもいいから盛大にやりたいわ」

 

そういう奥さんが増えているらしい。

半分冗談だと思うが、本音度はそう低くない。

家族だろうが恩師だろうが、知人友人だろうが、

とかく人間同士の関係は、

愛情以外のいろんな感情・打算・損得勘定、

その他、いろんなしがらみがまとわりつく。

 

それに比べてワンちゃん・ネコちゃん(その他ペット)

との関係は愛情100パーセント。

そして通常は、親である飼い主が、

子供である犬・猫の旅立ちを見送ることになるので、

そのお葬式は人間のものよりも相当感情的になるらしい。

 

府中にある慈恵院の「多摩犬猫霊園」は

100年の歴史を持つ霊園。

最近でこそ、多くの飼い主が

ちゃんとペットを弔うようになったが、

大正や昭和の貧しい時代にそんな需要があったのだろうか?

 

と訝っていたが、取材でお話を聴くと、

その頃からセレブな方はちゃんと

犬猫を手厚く弔っていたようだ。

皇族をはじめ、大企業経営者、政治家、芸能人・・・

知っている有名人の愛犬・愛猫のお墓も多い。

本堂、納骨堂、霊園、色々見せてもらったが圧巻のひとこと。

広大な境内に火葬場もちゃんと設備されている。

100年の歴史はだてじゃない。

 

最近はどこのお寺・葬儀社なども

ペット葬を手掛けるようになっているが、

その多くはこちらをお手本にしたいと、

見学や相談に訪れるという。

少なくとも東京で唯一、東日本で断トツの

ペット葬・ペット供養のメッカである。

 

しかし、セレブ御用達だから、めっちゃ高いかというと、

そうでもないので、わが子を手厚く弔いたいという人は、

知っておくといいかもしれない。

 

ペットが家族化し、人間より大事に弔われる風潮を

嘆く人、怒る人もいるかと思うが、

そういう人は、自分が周囲の人たちをどんな目で見て、

どう付き合っているのかを、もう一度、考え直し、

犬・猫みたいに愛情をもって接してもらいたければ、

振る舞いや考え方を変えたほうがいいかもしれない。

 

現代人は、人間同士の愛情に希望をなくしている。

でも愛情・人情べったりより、

ほどほどの距離感があったほうがいい場合もあるので、

何とも言えない。

 


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真夏の昭和立志伝

 

とあるグループ企業のトップの方からご指名を受けて、

自叙伝を代筆することになった。

初対面でいろんな話を聴かせていただいたが、

昭和の起業家の話はやっぱり面白い。

 

僕の父もそうだったが、

戦後の復興期から高度経済成長の時代、

志を立て、ハングリー精神を持って

荒れ地を開拓するかの如く、突き進めたのは、

ある意味、幸福な時代だった。

昭和の社会は野蛮で闇も多かったは、その分、

シンプルに成功を、幸福を追求できたのだと思う。

 

そんな歴史をとどめて後進に伝えたいという思いを

抑えることができないというのだ。

高齢とは言え、聡明でダンディな方なので、

自己満足であることは、

おそらくご本人もわかっているのだろうと思う。

でも、人に迷惑をかけるものでない限り、

自己満足は徹底的に追求してほしい。

またまた仕事として、

昭和立志伝を書くチャンスをもらって、

暑さも吹っ飛ぶほど光栄だ。

 


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ロックってやっぱりカッコいい。 渋谷陽一の文章を読むとそう思う

 

音楽評論家の渋谷陽一さんが亡くなった。

雑誌「ロッキンオン」の編集長で、

ロックフェスのプロデューサーだったが、

僕の中では、若かりし頃の音楽ライター&DJの印象がほとんど。

僕がロックにハマったのは、

彼の文章やDJトークの影響が大きかったと思う。

 

1970年代の半ばから80年代初めごろまで、

彼の書く文章をむさぼるように読んでいた。

その頃はネットなど影も形もなく、

音楽を聴くうえで信頼できる情報は、

雑誌であり、レコードに入っているライナーノーツだった。

 

レッド・ツェッペリンのライナーノーツの文章は

今でも忘れられない。

なかでも印象的だったのが7枚目のアルバム「

プレゼンス」のライナーノーツ。

 

「ロックってやっぱりカッコいい。

レッド・ツェッペリンを聴くといつもそう思う」

 

と、何のてらいもなく書き放ち、

なぜ、ツェッペリンがそれほどカッコいいのか、

数あるバンドの中で特別なのかを、

アルバムタイトル「プレゼンス(存在)」と絡めて、

さらりと、しかし、力強く言語化していた。

わずか800字程度だったと思うが、

その文章がとんでもなくカッコよかった。

 

「プレゼンス」はツェッペリンの作品の中でも、

全体的にやや地味な印象のアルバムだが、

その渋谷さんのライナーノーツのおかげで、

ひときわ輝く存在になった。

 

キング・クリムゾンの「エピタフ」を社会批評の歌、

そして「レッド」をプログレでなくハードロック、

と最初に評したのも渋谷さん、

エマーソン・レイク&パーマーを

「70年代ロックの巨大な打ち上げ花火」

と言い表したのも渋谷さんだった。

 

渋谷さんひとりではないが、

当時の音楽ライターたちの文章は、ロックをただの音楽ではなく、

僕たちに必要なカルチャーに昇華させていた。

それらは間違いなく、僕らの精神を豊かにし、

現実と未来を生きていく糧になった。

 

彼が敬愛していたジミー・ペイジも、

ポール・マッカートニーも、

ミック・ジャガーも、まだ生きている。

彼が励まし続けた佐野元春もバリバリの新作を作っている。

ロックはまだ終わっていない、と信じたい。

 

渋谷陽一さんのご冥福をお祈りします。

 


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日本には外国人もAIもロボットも必要

 

昨日の夕方、参院選の期日前投票に行ったら大混雑。

連休なので前日のうちに投票を済ませて、

日・月はお出かけしようという人が多いのかも。

 

選挙があるたびに「変わる」「変える」「変えよう」と、

捕手も革新もそろって連呼するが、

この30年、本質的なところは何も変わらなかった。

そしてちよっと変えてみたけど、全然うまくいかなかった。

(30年前の社会党、15年前の民主党)

 

さすがにそろそろ本気で変える・変わる潮目が来たのかな、

といった期待感だけはある。

消費税とともに外国人問題が争点となっているが、

僕は外国人も、AIも、ロボットも、

この先の日本には必要だと思う。

 

豊かになって精神的貴族が増えたこの国で、

昭和と変わらない考え方・やり方がまかり通るわけがない。

世界はこの先、あらゆるものがフラット化する。

どの国にいても同じ質の商品やサービスが手にでき、

ある程度のレベルの生活が保てるようになる。

そうなるには日本人だけではやっていけないし、

AIやロボットの助けがいる。

 

そんなわけで、変革のために

ちゃんと伝わる政策を掲げているれいわ新選組、

そして長期的には、

AIを駆使してやっていこうという可能性を秘めた

チームみらいに票を入れた。

新しい未来を感じられる結果が出ることを期待している。

 


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55年がかりの夏休みの宿題

 

6月からのひどい暑さにKOされてしまったが、

子どもたちはこれからやっと夏休みに入るところ。

なんだか夏休みパート1が終わって,

パート2の始まりという感じ。

もしかしたら9月以降にパート3もあるかもしれない。

 

大人になって久しいので、

もはや夏休みという言葉には郷愁しかない。

会社員になったことがないので、

お盆休みには無縁だし、

わざわざ混雑する時期に出かけることもなかった。

だから、自分の中で夏休みとは、子どもの夏休みのことである。

 

そんなわけで一度、夏休みをテーマにした話を書こうと思って、

何年も前から取り組んでいるのだが、なかなかできない。

去年の夏はザクザク進めて、こいつは行けそう

と思ったのだが、途中で止まってしまい、

そのまま、また長らくお休みしてしまった。

今年の夏、突破口を見つけてまた書き始めている。

 

この話のベースにしているのは、

小学校5年生の時に友だちと一緒に書いた

小説(のようなもの)である。

内容も登場人物もまったく違えているが、

自分の中ではあの小説を再現する感覚で書いている。

 

もちろん、そのノートは残っていない。

紙面が真っ黒に見えるほど、びっしり字で埋め尽くし、

あちこちにマンガみたいな挿絵を入れていたのは、

今でも目に浮かぶ。

 

大体のストーリーをはじめ、

キャラ設定や何がどうしたという展開も

けっこう記憶に残っており、

書いていくと、どんどんいろいろなことを思い出す。

 

ついでに小学校5・6年生の時の

クラスメートの顔や声も思い出す。

最近は小学校も高学年になると、

スクールカースト化が始まって、

子どもたちが階級で分断されていく、という。

そんな話を聴くと、いい気持ちはしない。

 

昔がよかったわけではないが、

少なくとも、そうした不幸な分断・選別が

当たり前みたいに語られることはなかった。

 

僕が子供の頃の学校では、

なんとなく仲がいい同士のグループはあったが、

みんな、グループ間を自由に行き来していた。

とくに5・6年生の時のクラスは

小中高のなかで最も好きなクラスで、

いろいろなやつがいて、毎日いろいろなことが起きて、

本当に面白かった。

 

それにしても10歳の頃に書いたものを

60歳を過ぎてまた書く気になるなんて

夢にも思っていなかった、

なんだか55年がかりで夏休みの宿題を

やっているような気がする。

秋風が吹いて涼しくなるころには完成させたい。

今年こそ。

 


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政党プロモーション動画をちゃんと作れ

 

参院選が近づいてきて、

「期日前投票行ってきました」

という投稿をチラホラ見かけるようになった。

消費税・給付金・社会保障・外国人問題・・・

争点はいろいろあるが、

一般の有権者にとっては、どうも各党の主張がわかりにくい。

これは今に始まったことでなく、

選挙があるたびに感じることだ。

 

選挙公報がある。

政見放送がある。

各党のホームページがある。

それはそうだろうし、そういうものちゃんと見て、

誰に、どの政党に投票するか、しっかり検討するのが、

まっとうな有権者だ。

 

という意見は、ごもっともだが、

現実問題、忙しい現代人がそこまでちゃんとやれるのか疑問だ。

もちろん、僕もちゃんとやれてない人の一人である。

それで面倒になって、SNSで流れてくる、

あそこがいい、あそこはだめといった情報、

それも感情的男・煽情的な情報を鵜呑みにしてしまう。

デマ情報にも簡単に踊らされてしまう。

そこでもっと活用すべきなのではないかと思うのが、

プロモーション動画である。

それも街頭演説を切り取ったようなものや、

ほんわかイメージだけのもの、

ただひたすら熱く語るだけのものではだめ。

 

その点、今回、感心したのは、

山本太郎率いる「れいわ新選組」のプロモ動画である。

データを明示して「だからこういう政策を取る」

ということを、テンポよく5分足らずで

論理的に、エンタメ的要素も入れて、しっかり見せている。

彼らの主張・政策がいいのかどうかは別の問題だが、

すごくわかりやすい。

今まで見た政治関係のプロモ動画のなかで

最もクオリティが高い。

 

どの党もこれくらいのクオリティの動画を作っ

理念・政策を訴えるべきだ。

それで興味を覚えた人は、

選挙公報・政見放送・ホームページを当たれば良い。

動画の時代になっているのに、党の顔になるプロモ動画が、

わけのわからないへぼなものではお話にならない。

 

もう今回は間に合わないが、

今回のれいわのプロモ動画をお手本に、

どの党も、有権者の投票行動に結びつく、

ちゃんとしたプロモ動画を作ってほしい。

 

※気になる人は「政党プロモ動画」で検索すれば、

上位にれいわのが出てくるので見てみてください。

 


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映画「国宝」 畸形の演劇と女形の生き様

 

かつてはギリシャ劇にも、シェイクスピア劇にも、

中国の京劇にも、能・狂言にも、女優は存在せず、

男の俳優だけで芝居は上演されてきた。

いろいろな事情があったと思うが、女が舞台に立つと、

多くの男がそれに現を抜かして働かなくなり、

社会が立ちいかなくなったので、為政者が禁じたのだろう。

 

しかし、社会の発展とともに演劇の世界は広く開放され、

女優もだんだん舞台に立つようになった。

21世紀の今日、世界でいまだに女優が舞台に立てない演劇は、

日本の歌舞伎だけである。

江戸幕府によって女優が禁じられてから400年。

女を演じる男優--女形は

何代にもわたってその技芸が伝承されてきた。

今や一種の世界遺産ともいえる独特のスタイルだ。

 

その女形に人生を賭け、紆余曲折を経ながら

ついに人間国宝にまでたどり着く男の物語。

吉田修一の同名小説を映画化した「国宝」。

1964年から2014年までの50年間を描いた一代記は、

歌舞伎の世界の裏側を見事に描き出している。

 

歌舞伎は一見、華やかでセレブな世界だが、

よく考えたら、何でいまだにこんな慣習・ルールが成り立つの?

と思えるような魔訶不思議な世界であり、

畸形の演劇ともいえる。

 

いまだに女が舞台に立つのが許されないことに加え、

伝統芸能でありながら、国家に守られているわけでなく、

純然たる商業演劇として運営されていること。

家・家族で伝承する技芸であるからこそ、

「血」を守っていくためのこだわりが強いこと。

 

みんな、小さな世界で生きているので、

身内・味方に対する愛情・友情・敬愛心は強いが、

一旦事情が変わると、

たとえば、父親・師匠などの後ろ盾を亡くしてしまうと、

たちまち冷淡に扱われ、干されるようになる。

要するに、この物語の主人公・喜久雄のように、

才能があれば、芸が優れていれば出世できるという

フェアな世界ではないのだ。

 

とはいえ、商業演劇なので、

客を集め、興行を打っていくため、

常に客の期待・時代のニーズに応え、

新しいスターをプロデュースする必要がある。

その微妙なバランスのなかで歌舞伎は生き延びてきた。

 

そのあたり、原作(まだ読んでないが)は

かなり詳細に買いているようだが、

この映画でも十分描き出している。

重厚なドラマは、昭和・平成の時代背景も相まって、

素晴らしく見ごたえがあって、

3時間以上の長丁場でもまったく飽きさせない。

 

吉沢亮と横浜流星の熱演が話題になっていて、

もちろん、彼らの感情表現や演技・踊りは素晴らしいのだが、

僕としては、この2人に影響を与え、

無言のうちに「女形の生き方」を示唆する

人間国宝・小野川万菊の存在が、とりわけ胸に刺さった。

 

演じるのは、長らく孤高のダンサーとして活躍してきた田中泯。

その妖怪じみた女形ぶりはすさまじく、登場シーンになると、

まるでそこだけアングラ演劇の世界みたいになる。

そして、人間国宝という栄誉ある称号にあるまじき

最後の登場シーンは、戦慄を覚えるほど印象的で、

そこに「国宝」というタイトルの意味が

込められているように思えた。

 

昭和の時代まで、歌舞伎役者は江戸時代の身分制度を引きづった

「河原乞食」だった。

今でこそセレブ扱いされるが、一般的なセレブイメージと、」

彼らの生きる世界・人生には大きなギャップがある。

映画「国宝」は、そんな歌舞伎という畸形の演劇の歴史・文化、

そしてこの特殊な世界を成立させている人間模様を感じ取ることができる奇跡的なコンテンツだ。

 

舞台のシーンの迫力、女形を演じる喜久雄(吉沢亮)と

俊介(横浜流星)の美しさ。

この映画の魅力・価値を堪能するには、

テレビやパソコンサイズではだめで、

絶対に映画館の大スクリーンで見るべきだと思う。

 


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777

 

素数である7は神秘のムードをまとい、

マジックナンバーとして古今東西、一目置かれてきた。

その7が3つ並ぶ(3ももちろん素数でマジックナンバー)

令和7年7月7日は大ラッキーデイ!

と大騒ぎになることもなく過ぎ去ろうとしている。

 

思い返すと、7はやはりミステリアスな数字。

かの「ノストラダムスの大予言」も、

空から大魔王が降ってくるのは「7の月」だった。

他の数字だったら、あそこまで話題にならなかったのではないか。

 

おとといの予言だか予知夢だかの「7月5日」も、

本当は7月7日にしたかったのだと思う。

でも、777だと、さすがに出来過ぎ感がするので、

少しずらして5日にしたのだろう。

 

「セブンイレブン」が成功したのは、

もちろんコンビニエンスストアという

新しい商形態を生み出したからだが、

「7(セブン)」のマジックも侮れない。

 

11も素数。素数を二つ並べ、韻を踏み、語感も抜群。

もともと午前7時開店、午後11時閉店という営業だったので、

理屈も整い、説得感も抜群。

誰でも一発で覚えられる最強のネーミングだ。

もし店名が「セブンイレブン」でなかったら、

コンビニエンスストアはこれほど普及しなかっただろう。

というのは言い過ぎ?

 

世の中のことはともかく、

自分の人生で7がつく日に何か大きな出来事があっただろうか、

と思い返してみた。

2つ思い当たった。

息子の誕生日が5月17日。

父の命日が12月17日。

ついでに言うと、祖父の享年が77歳だった。

こうなると、自分の命日や享年が気になるが、

それは考えずにおこう。

 

雨が降らなかったので、織姫と彦星は無事に会えただろう。

7は星や宇宙とも相性抜群。

ウルトラセブンもシックスやエイトじゃサマにならない。

やっぱりセブンはミステリアスでファンタジックで大好きだ。

 


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佐野元春朝イチ出演 本物の還暦ロック

 

NHK朝イチ・プレミアムトークに佐野元春がゲスト出演。

僕は見ていないが、カミさんが見て「カッコイイ」と感激。

いろいろ内容についても教えてくれた。

ネットでも盛り上がり、ひと騒動だったようである。

佐野元春は若い頃よりカッコよく、

全世代にメッセージを伝えられる数少ない「ポオラ・スター」だ。

 

いま還暦を超えて活躍するミュージシャン・

アーティストは珍しくない。

いったん消えたが、高齢化する世の中の様子を見て

「まだできそう」と思って戻ってきた人もいるだろう。

あるいは、視聴率を取れるネタに困った

テレビなどのメディアに呼ばれるのかもしれない。

 

ただ、多くはどうしても「あの頃はよかったワールド」になり、

かつて青春を共有したファンたちが、彼・彼女らを囲んで

懐メロという暖炉であったまる――

という同窓会みたいな図式になっている気がする。

いわば懐メロ専門スターが増えているのだ。

 

それが悪いことだとは言わない。

懐メロで心を癒し、過去を振り返ることも大切だと思う。

でも終始それでいいのか?面白いのか?

全部でなくていいが、できれば半分、

せめて2,3割くらいは現役感・未来感があってほしい。

 

それに齢を取ると、その人の生き方が自然と佇まいに現れる。

どんなに着飾ろうが、若づくりしようが、

カッコよくはならない。

若い頃なら許された、だらしない言動、

人を不愉快にさせるような言動は、

無意識のうちに、かなり醜い形で表に出てしまう。

逆に誠実に、自分らしく生きてきた人はカッコよくなっていく。

これはミュージシャンや芸能人に限った話ではないと思う。

 

佐野元春が歳を取れば取るほどカッコよくなっていくのは、

おそらくそうした原理が働いているからだろう。

バックバンドやスタッフに恵まれているのかもしれない。

しかし、それは彼の才能と人柄、

もっと具体的に言えば、時代に応じて表現を変えつつも、

一貫して自分の思いや意見を、

誠実に音楽にし続けてきたからこそ、

強い味方となる周囲の人々を引き寄せるのだ。

 

むかし、「つまらない大人にはならない」と吠えていた

ミュージシャン、アーティストは大勢いた。

そのうち、何人がそれを実践できただろう?

いま、実践しているだろう?

 

佐野元春はつまらない大人にならなかった。

70歳に近くなった今、自信を持って

「ガラスのジェネレーション」をリメイクし、

魂を込めて歌える彼を、リスペクトせずにはいられない。

 


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小さな生き物たちの夏ものがたり

 

7月の声を聴くと、すぐに近所の公園でセミが鳴きだした。

やつらはカレンダーがわかっているらしい。

というわけで、いよいよ夏本番。

といいたいところだが、もうとっくに夏は真っ盛り。

関東はまだ梅雨明けしていないが、連日の暑さでうだっている。

 

そういえば雨が少なくて暑すぎるせいか、

近年、カタツムリをあまり見かけない。

息子がチビだったころには、

いっしょにでかいカタツムリを見つけて喜んでいた。

前の家の庭にもガクアジサイの葉の上を

よくノロノロ歩いていた。

 

今は家を出てすぐに大きな公園と川があり、

草木も豊富、アジサイの花も咲いているのだが、

カタツムリをまったく目にしない。

まさか知らぬ間に絶滅したのではないかと、

ちょっと心配になる。

 

夏になると、生き物たちの活動は活発になる。

昨日は廊下の窓にぺったりとヤモリが貼りついていた。

ガラスにへばりついていると、

ひんやりして気持ちいのかもしれない。

ちょっと窓をズラしてやると、

驚いてペタペタ動きまわる。

ヤモリは可愛いし、家を守ってくれる「家守」なので愛している。

トカゲもちょろちょろしていて可愛い。

 

このあたりの輩は高速移動できるからいいが、

悲惨だなと思うのはミミズである。

ここのところ毎日、

道路のアスファルトの上でひからびているミミズに出会う。

それも一匹や二匹ではない。

赤黒くなったゴム紐状のミミズの乾燥した死体が

数メートルおきに道路の上に貼りついているのだ。

まさしく死屍累々という言葉がぴったりである。

 

それにしても、なぜだ?

果てしない砂漠の真ん中で息絶えてしまった、

無数のミミズたちに僕は問いかける。

 

おまえたちは土の中で生まれたのだろうに、

なぜこんな真夏の日にアスファルトの上にはい出てきて

熱線で焼かれて死ななくてはならなかったのか?

なぜ故郷をあとにしたのか?

なぜ命がけの旅に出なくてはならなかったのか?

この道路の向こう、この地獄を超えた先に、

おまえたちの目指す楽園があったというのか?

それはあの植え込みか、草むらか?

もちろん、誰も答えてはくれない。

 

ヤモリやトカゲのように高速移動できれば。

セミやハチやチョウのように空を飛べれば。

せめてバッタのようにピョンピョン跳ねることができれば。

しかし、ミミズはミミズ。

地を這い、土に潜る。

それが宿命づけられた生き方だ。

その生き方を目指して、ここでお天道様に焼かれて死ぬのなら、

それは本望だと、ミミズ生をまっとうできたのだろうか?

 

というわけで死屍累々の写真も撮ってみたが、

ちょっと悲惨過ぎて載せられない。

ま、元気溌剌のヌルヌルしたミミズくんの写真を見るのも

いやだという人が多いだろうが。

なので本日は、クールビズしている

元気なヤモリくんの写真だけにしておきます。

 


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