中年期以降の同窓会幹事の心のゆらぎ

 

 4月の同窓会まで1ヶ月を切り、ほぼ連絡が行きわたったようなので、手伝ってくれてる二人にメールを送って情報をとりまとめる。

 直前まで出欠変更は可能だけど、とりあえず人数を店に知らせておく必要があるので。

 

 この仕事、20代の頃は単なる飲み会の連絡係・会計係に過ぎなかったのだが、齢を経ると様相が変わる。

 

 飛び級で早々に人生を卒業してしまったのも二人ほどいる。

 

 それぞれの生活環境などわからないし、家族のこと・仕事のこと・お金のこと・健康のこと、ぞれいろいろ問題抱えているだろうし、長く生きているといろんなことが起こる。

 

 40年前と寸分たがわぬキャラ丸出しのメールが来て笑っちゃうこともあれば、できれば聞きたくなかったこと(相手も話したくなかったこと)を聞くことにもなる。

 

 名簿を見ながら、だれだれ出席、だれだれ欠席と、漢字4~5文字の本名を書いていると、これ誰だっけ?と認識できなくなるケースもチラホラ出てくる。

 特に女子は名字が変わっていることが多いので、なおのこと。

 

 そこでそれぞれ当時の愛称・通称・あだ名などで書き換えてみると、たちまち顔が思い浮かび、声が聞こえてきて、キャラクターが立ち上がる。

 身振り。口振り・服装・背景・いろんなシチュエーションまで再現できたりする。

 

 そうやって名前を書き出すと、今回は欠席でも次回また声を掛けようという気になる。

 

 でも連絡先がわからない・つながらないのもいる。

 また、もう連絡なんかいらないと思っているのもいるだろう。

 しかたないことだけど、幹事なんかやっていると、ここまできちゃうと、そういう人たちとはもう完全に切れちゃうだろうなと思う。

 切っちゃう権限が自分にあるのかなとも考える。

 

 もしかしたら以前は同窓会なんてどうでもいいと思っていたけど、今になってみると行ってみたいな、連絡があればなぁ、声掛からないかなぁ・・・と待っていることだってあるかも知れない。

 

 「あいつがお願いって声掛けてきたから、しかたないので来てやったよ」

 ――今ならそういうやつがいてもOKと笑えるだろうなぁ。

 

 こんなよけいなこと考えずに、クールに事務的にさっさと進めればいいのに、なんかいろいろ引っ掛かっちゃうんだよなぁ。

 


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テープ起こしの日々

 

 取材が続いたので、今週はテープ起こしと原稿書きの日々。

 きょうは先日の里山農業プロジェクトの野田君の音声を起こしました。

 録音を聞いてみて、やっと彼のヴィジョンが理解できる。

 思った以上に深く、広がりがある。

 これを一旦メモ帳に書き記して、その後、あっちこっち編集したのにプラス、合間合間に自分の文章を書き入れていく、というのが取材をした記事のオーソドックス(僕にとっては、ということだけど)な書き方です。

 

 テープ起こし(機器はICレコーダーですが)は面倒な作業で時間もかかるし、重労働ですが、手ごわい内容は、これをやらないとどうにも頭にすんなり入ってきません。

 テープ起こしをアウトソーシングすればラクに早くできるのだろうけど、そんな経済的余裕などないし、それにそう横着しちゃうと、なんだか寂しい気持ちになる。

 頭の回転が鈍いので、何度も反芻しないとよくわからないんだよね。

 この後もまだいろいろ溜っているので、どんどんやらねば。

 間もなく3月も終わり。

 こうしているとあっという間にゴールデンウィークになってしまいそうです。

 


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鎌倉新書と新連載企画の話

 

 月に一度、鎌倉新書の打ち合わせで日本橋・八重洲方面に出向きます。

 鎌倉新書というのは葬儀供養業界のWebや雑誌を作っている会社。

 以前は仏教書を出版していたのですが、現会長が社長になった20年ほど前から、機械化とかITテクノロジーとか、非人間的なイメージを嫌うこの業界において、いち早くインターネットでの情報発信にシフトしました。

 

 「いい葬儀」という、消費者と葬儀社とを仲介するポータルサイトを開設したところ、業界内では当初、白い目で見られ、あの会社は代替わりしてダメになったと言われたらしいのですが、そこは時代の趨勢であれよあれよという間に市場に浸透。

 

 特に僕が本格的に関わり出した2年半ほど前から株はうなぎのぼりで、一昨年末にこの八重洲の一等地に引っ越したと思ったら、それから1年も経たないうちに東証一部上場を果たしました。

 

 とは言え、利益分はいろいろ始めた新事業のほうに回っているようで、外部ライターである僕のギャラが上がるわけではありません。

 

 正直、割に合わんなーと思うことが多いのですが、興味のある分野だし、ある意味、高齢化・多死化代社会に関する最先端情報(テクノロジーなどではなく、社会心理的流れとしての情報)にも触れられるので、引き続き、業界誌の月刊仏事で記事を書き、時々Webの方もやっています。

 

 その月刊仏事から新しい連載企画をやりたいけど何かない?と言われたので、以前、このブログで書き散らしたネタを思い出し、「世界の葬儀供養・終活・高齢者福祉」なんてどうですか?と提案したら、じゃあぜひ、とあっさり通って取り組むことに。

 

 国内の出張費も出ないのに「海外出張費出ますか?」なんて聞くこともできず、ネット頼りの仕事になるのは必至。

 でもイラストを描いてくれる人もいるらしいので、伝統文化と最新事情をごった煮にして分析を交えた読物風の話にしようと思っています。

 ごく個人的なことでもいいので、情報あったらお知らせくださいな。

 


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野生の本能の逆流に葛藤する都会暮らしのネコ

 

 散歩がてらサクラを見に近所の大宮八幡宮に行くとネコ発見。

 例によってナンパを試みたが、例によってシカトされた。

 

 彼女には事情があった。

 上の方でガサゴソ音がするので見ると、キジバトがいる。

 落ち葉の中をつついて虫をほじくり出して食べているらしい。

 ネコは野生の本能が刺激され、ねらっているのか?

 でも、その割にはハトに対して集中力が欠けている。

 自分の中でウズウズモゾモゾ本能がうずくのを気持ち悪がっているように見える。

 

 サクラ色の首輪をつけているので、どこかの飼いネコだろう。

 家に帰ればいつもの安全安心、おいしく食べやすく栄養バランスもとれてるキャットフードが待っている。

 なのになんで鳥なんか狩らなきゃならんのか、

 だいいち、あたしが口の周りを血だらけにして鳥やらネズミやら持って来たら、飼い主さんが卒倒しちゃう。

 でも狩ったら脳からアドレナリンがドバっと出て気持ちよくなりそうだ。

 ああ、でも、そんなのダメダメ・・・と、ひどく葛藤しているように見える。

 

 飼いネコでも本能のままに生きているやつもいれば、鶏のササミや魚の切り身をあげても見向きもしないやつもいる。

 イヌもそうだけど、多くの飼い主はペットに一生自分のかわいい子供であってほしいと願う。

 人間じゃないんだから、大人になんかなってほしくない。

 恋もしてほしくないから去勢や避妊手術を施す。

 生物学的なことはよくわからないけど、そうするとホルモンもあまり分泌しなくなるだろうから、ペット動物は「子供化」して野生の本能は眠ったままになるのだろう。

 

 一生人のそばにいて、一生キャットフードを食べて、一生本能なんぞに煩わされることなく、平和に暮らせるのがサイコーだと思っているネコもいるはずだ。

 人間と一緒に都市生活をしていくにはそのほうが幸せなんだろう。

 

 けれどもイヌと違って、ネコは本能に目覚めても人間に危害を及ぼす可能性は限りなく低い。なので「最も身近な野生」を感じさせてほしいという、人間の勝手な期待を背負わされた存在でもある。

 

 おそらくネズミや鳥を狩ってくる飼いネコは、飼い主のそうした潜在的な希望を感じとって、本能のうずきに素直に従うのだ。

 ただ、そうじゃない彼女のようなネコもいて、せっかくのんびり暮らせているのに、野生時代の先祖の血の逆流に悩まされることもあるんじゃないかと思う。

 

 こんど道端で会ったネコに、そこんとこつっこんでインタビューしてみようと思うけど、答えてくれるかニャ~。

 


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東京唯一のブランド和牛・秋川牛と、むかしみらいTOKYO

 

 連荘で農業取材。

 26日(月)は秋川渓谷と美しい山並みが望めるあきる野市に出向き、秋川牛とご対面。出荷前・生後30ヵ月の黒毛和牛の体重は800キロ。でかっ。

 

 東京で唯一の肉牛生産牧場・竹内牧場では約200頭の秋川牛を飼育しています。

 このあたりは、日本各地の有名なブランド牛の産地に負けず劣らず、水も空気もきれいで豊かな環境なので、牛をはじめ、豚・鶏などを育てるには持ってこいとのこと。

 

 秋川牛は希少価値のある高価なお肉ですが、都内のホテル・レストラン・料理店なので口にするチャンスがあるかも。

 

 一方、武蔵五日市駅にほど近い松村精肉店は、地元で生産されるこの秋川牛の認知度を上げたいと、手軽に味わえる加工品としてレトルトカレーなど製作しています。

 オリンピックもあることだし、東京の名産品をアピールしていこうとブランド力UPに奮闘中です。

 

 昨日ご紹介した磯沼牧場+多摩八王子江戸東京野菜研究会でも聞きましたが、これら多摩・八王子地域の環境はこの20年ほどで劇的に改善され、川には清流が戻り、アユなども戻ってきているとか。

 

 今や都心で働く人たちのベッドタウンというイメージから脱却し、豊かな自然が楽しめ、農業も盛んな地域としてのイメージが高まっています。

 

 いつまでも「東京は緑が少ないから云々」なんて、手垢のつきまくったステレオタイプのセリフをほざいていると時代に取り残されますよ。

 

 テクノロジーとパラレルで進行する昔ながらの環境とライフスタイルへの回帰。

 「むかしみらい東京」がもう始まっているのかも知れません。

 


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楽しさ・学び・癒し満載の八王子・磯沼牧場

 

 東京にこんな素晴らしい牧場があったのか!

 噂には聞いていたけど、なかなかタイミングが合わずに来そびれていた磯沼牧場(磯沼ミルクファーム)に25日・日曜日、初めて来場。

 

 多摩八王子江戸東京野菜研究会とのコラボイベントで、牧場特製のチーズとベーコン、ソーセージ、野菜てんこ盛りのピッツァ作りです。

 

 牧場主・磯沼さん手づくりの溶岩石窯で焼いたピッツァはおいしくてボリューム満点。

 

 ランチの後は乳しぼり体験、牧場ツアー(放牧場もある)、磯沼さん×福島さん(多摩八王子江戸東京野菜研究会代表)の都市農業トークと続き、あえて取材の必要なしというところまで堪能しました。

 

 場所は京王線・山田駅から徒歩10分弱。

 新宿から1時間足らずで来れるし、横浜からも近い。

 わざわざ北海道などへ行かなくても、たっぷり牧場体験ができます。

 それも観光牧場でなく、リアルな生活と結びついている生産牧場で。

 

 環境問題、動物福祉問題への取り組みなど、牧場経営のコンセプトを通じて、さりげにいろいろ勉強でき、新しいライフスタイル、これからの哲学を考えるきっかけにもなると思います。

 

 乳しぼりをはじめ、毎週のように何らかのイベントが開かれ、牛さんをはじめ動物たちに触れあえます。

 いつでもオープンなので、ぶらっと覗きに来るだけでもいい。

 

 子供たちには超おすすめ。お年寄りにも楽しい。

 ちょっと凹んでいる人、メンタルを病んでいる人も心のケアができるのではないかな。

 直売所もあって、おいしいアイスクリームやプリンやヨーグルトも食べられますよ。

 興味のある人はホームページやフェイスブックもあるので検索してみてください。

 


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ぼくらはにおいでできている(チワワのハナちゃんに教えてもらったこと)

 

 下の妹が飼っているチワワのハナちゃんとは、たぶん2年ぶりくらいのご対面。

 前に会ったのはチビ犬の頃だったけど、ちょっとの間、くんくん嗅ぎ回って「あ、知ってる知ってる」と思ったのか、尻尾をフリフリしてくれた。

 抱き上げても安心安心。僕のにおいを憶えていてくれてありがとう。

 

 人間の子どももいろいろ情報を詰め込まれる前は嗅覚がするどい。

 一度嗅いだにおいは絶対忘れない。

 自分自身のことを考えてみると、視覚や聴覚では憶えていなくても、においというか空気感で憶えていることがいっぱいある。

 親はもちろんだけど、周りにいる大人たちはそれぞれ独特のにおいを持っていたような気がする。

 

 におうと言うと何だか臭くて嫌われそうな気がするが、完全ににおいを消し去ると、その人は透明人間になって、見えていても誰にも気づかない存在になる。

 忍者やスパイになるならいいかも知れない。

 

 大人になると鼻が利かなくなって、というか、においを感じる脳の部分が鈍くなって、刺激の強いものしかキャッチできなくなるようだ。

 なので少しは意識してにおいを嗅ぐ練習をしたほうがいいのかもしれない。

 

 基本はやっぱり食事。

 テレビやスマホを見ながらめしを食わないこと。

 

 そして手料理を楽しむこと。

 最近はそんなものより出来合いの料理の方がよっぽどうまいと言う人も多いけど、手料理にはその家・その人独自のにおい・風味がついている。

 それを知っているのと知らないのとでは随分ちがうんじゃないかな。

 

 自分が自分である基礎とか土台みたいなものは、そういう些細な目に見えないもので出来ているのではないかと思う。

 そうだよね、ハナちゃん。

 


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かわいい叔母さん

 

 父も母も昭和ヒトケタ生まれ。貧乏人の子沢山でそれぞれ8人兄弟だ。

 ぼくが生まれる前に死んでしまった人を除き、そのきょうだい、および、その伴侶の全部はしっかり顔や言動を憶えている。

 僕が子供の頃は行き来が盛んだったので、みんなインプットしている。

 

 しかし、9年前に父が亡くなったのをきっかけに、毎年バタバタと後を追うように亡くなり、大半がいなくなった。

 今年もまたひとり、先日、ヨリコ叔母さんが亡くなったと聞いた。

 

 母方は女系家族で8人のうち、7番目までが女で末っ子だけが男。

 ヨリコ叔母さんは7番目。つまり7姉妹のいちばん下の妹だ。

 

 幼稚園の時だったと思うが、結婚式に出た記憶がある。

 きれいなお嫁さんで、チビだったぼくを可愛がってくれた。

 そのチビの目から見ても、なんだかとてもかわいい人だった。

 

 6人も姉がいて、4番目の母(母は双子の妹)とさえ12歳違う。

 いちばん上のお姉さんとは16歳以上違うはずだ。

 なのでほとんどは姉というよりチーママみたいなものだ。

 母もよく子守をしたというし、日替わりでみんなが面倒を見てくれていたようだ。

 

 母の家はお父さん(僕の母方の祖父)が早く亡くなったので、女が協力して貧乏暮らしからぬけ出そうとがんばってきた。

 でもヨリコ叔母さんは小さかったので、そうした苦労が身に沁みず、物心ついたのは、お母さんやお姉さんたちのがんばりのおかげで暮らし向きも上がってきた頃だった。

 そうした中で一家のアイドルとして可愛がられて育った。

 

 そうした成育歴はくっきり刻まれ、そのせいで彼女は、ほかの姉妹らの下町の母ちゃん風の雰囲気とは違う、お嬢さん風の雰囲気を持っていた。

 だから、おとなになってもどことなくかわいいし、ちょっと天然も入っていた。

 

 最後に会ったのは父の葬儀の時。

 さすがに外見はそろそろばあちゃんっぽくなっていたが、中身はほとんど変わっておらず、ぼくをつかまえて

 「せいちゃん、大きくなったねー」と言った。

 

 50間近の男に向かって大きくなったねーはないもんだけど、そう笑顔で屈託なく声を掛けられるとすごく和んでしまった。

 その時の会話が最後の印象として残ることになった。

 

 叔母とはいえ、中学生以降はめったに会うこともなかったので、彼女がどんな人生を送っていたのはわからない。

 

 もちろん少しは苦労もあったと思うけど、べつだんお金持ちではないにせよ旦那さんは真面目で優しくユーモアもある人だったし、特に悪い話も聞かなかった。

 嬉しそうに小さい孫娘の面倒を見ていたのも印象的だった。

 

 たぶん美化しているし、これは僕の勝手な想像であり願いだけど、おそらくそれなりに幸せに過ごしてきたのだろう。

 

 不幸な目に遭ったり、理不尽な苦労を強いられたり、他人にあくどく利用されたり、自分の欲に振り回されたり・・・

 人生の中のそんな巡りあわせで、人間は簡単に歪んでしまう。

 

 でも、できるだけそうしたものに心を損なわれないで、ヨリコ叔母さんのようにかわいい人にはいくつになっても、ずっと素直にかわいくいてほしいなぁと願ってやまない。

 


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里山を事業化するナチュラルボーン・サトヤマー

 

 今回の名古屋(愛知)ツアーでは、里山の概念を農業と組み合わせ、インターネットを利用して事業化するプロジェクトを掲げる人を取材しました。

 

 彼は2002年生まれ。16歳の高校生。

 田園地帯で植物や昆虫に親しみ、かたやインターネットに親しみながら育った彼は、資本主義発展拡大病の時代に育ったぼくたちの世代とはまったく違うセンスを生まれながらに持っているようです。

 

 「里山」という概念が今、世の中に浸透しつつあります。

 里山はごく簡単に言うと、自然環境と人間の生活圏の交流地帯。そのベストバランスを保つ、あるいは破壊したものを再生するという考え方を表現する言葉でもあります。

 

 人間が生活できなくてはならないので、当然そこには経済活動も含まれるし、伝統工芸・伝統芸能といった文化芸術や民俗学系の学問も含まれるのではないかと思います。

 「人間が手を入れた自然」と言い換えることもできるでしょう。

 

 また、それらを包括する懐かしいとか、愛おしいとかいった心象風景もその概念の中に入ってくるでしょう。

 人間のあり方・生き方を問い直す哲学も含まれているのかも知れません。

 

 日本独自のものかと思っていたら、他国にも通用し、国際的にも理解が進んでいる概念で、よく言われる「持続可能」な社会にSATOYAMAは不可欠とされているようです。

 

 そういう意味では、過去200年、世界を席巻し、地球を支配してきた工業化・資本主義化の流れに対するカウンターとも言えます。

 

 高校生の彼には野外でのインタビューを考えていましたが、あいにくの雨のためはやむを得ず、岡崎市内の「コメダ珈琲店」で敢行。コーヒーと、コメダ名物「シロノワール」を食べながらの取材になりました。

 

 彼は子供のころから自由研究などを通じて里山について学び、中学生のころから戦略的にプロジェクト化を画策。近所の農家の人たちなどはもとより、自分で電話やメールで東大・京大などの教授・学者に頼み込み、取材に出かけたといいます。

 

 現在はいわばサークル的なノリで同級生やネット上の仲間が集まり、大人の支援者もいますが、まだ実務のできるスタッフがいない状況。

 コンセプトは決まっているので、まずネットを通じての「ブランド化」に力を注いでいきたいとのことでした。

 

 僕としてはこうしたことを本気で考え、事業化に取り組んでいる若僧がいるというだけで十分心を動かされました。

 

 彼のことは来月、「マイナビ農業」でUPしますが、興味のある方は「里山農業プロジェクト」で検索してみてください。

 


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名古屋コーチンをめぐる冒険:ふしぎ・まったり小牧編

 「こんなやわらきゃー、水っぽい鶏はいかんわ。むかしのかしわはまっと歯ごたえがあってうまかったでよー」

 

 こんな軟らかい、水っぽい鶏はダメだ。昔のかしわ(鶏肉)はもっと歯ごたえがあっておいしかった、という声を受けて、一時期、市場から消滅した名古屋コーチンが、日本を代表する地鶏として見事復活を果たした物語を探るべく、今回は「マイナビ農業」で名古屋取材を敢行しました。

 

 市内にある「名古屋コーチン協会」で話を聞いた後、名古屋コーチン発祥の地である小牧市へ。

 明治の初め、この地に養鶏場を開いた元士族の海部兄弟が、地元の鶏と、中国(当時、清)から輸入したコーチンという鶏を掛け合わせてできたのが名古屋コーチンです。

 

 「だもんだで、まっとそのことを宣伝せんといかんわ。日本が誇れる名物だでよう」

 

 ということで昨年(2017年)、名鉄・小牧駅前にはコケー!と、おしどり夫婦(?)の名古屋コーチンのモニュメントが立ったと聞き、駅について改札を出たところ、出口が左右に分かれている。
 どっちだろう? と迷ったとき、すぐ目の前で駅員さんが掲示板を直す作業をしているので、尋ねてみました。

 

 「あのー、名古屋コーチンの像はどっちの出口にあるんでしょうか?」

 

 駅員さん、けだるそうに振り向き、ぼくの顔を一瞥。さらに一呼吸おいて

 「左の階段を下りてって、右に曲がってずっとまっすぐ行ったところに市の出張所がありますで、そこで聞いてちょーだゃー。それはうちの管轄でないもんで」

 

 ?????

 駅前って聞いたけど、そんな分かりづらいところにあるのかなぁ・・・と思いつつ、左の階段を降りると、なんと、その目の前にコーチン像があるではないか。

 

 ?????

 まさかあの駅員さんはこれを知らなかったのだろうか?
 それとも上司に、責任問題が発生するから、鉄道のこと以外は聞かれても答えるなと言われていたのだろうか?
 それとも奥さんと何かあったとか家庭の悩みでも抱えているからなのか?
 あるいはたんに鶏が嫌いで、コーチンお話なんかのしたくなかったのか? 

 

 たくさんの疑問に駆られながらも、前に進まなくてはなりません。
 海部養鶏場(跡地)にはどういけばいいのか。
 ちょうど目の前に観光案内所があったので入ってみました。

 

 平日ということもあってお客は皆無。
 ぱっと見た目、アラサーぐらいの女の子がひとりで机に向かって、わりとのんびりした感じで書類の整理みたいなことをやっています。
 そいえば時刻はちょうどランチタイムでした。

 「あのー、海部養鶏場跡地に行きたいんです」
 「え、何です?」
 「海部養鶏場です。カイフ兄弟。名古屋コーチンの」
 「あ、ああ、ああ、名古屋コーチンのね」
 「たしか池ノ内というところなんですが・・。歩きじゃちょっと無理ですよね」
 「ええと。そうだと思います。ちょっとお待ちくださいねー」

 

 と、アラサーの女性はあちこち地図やらパンフやらをひっくり返し始めました。
 市の観光スポットの一つに加えられたらしいと聞いていたので、即座に答えが返ってくるものと想定していた僕は思わぬ展開にちょっとびっくり。


 その女の子は一人じゃだめだと思ったのか、奥に入っておじさんを引っ張り出してきて、ふたりでああだこうだと大騒ぎで調べ始めたのです。

 お昼の平和でゆったりとした時間を邪魔してしまったようで申し訳ないなと恐縮しつつ、実はなんか面白いなと思いつつ待っていたら、もう一人、お昼を早めに済ませて戻ってきたおにいちゃんが加わって3人で合同会議。

 

 それで出てきた結論が「タクシーで行ったら?」というもの。
 べつにタクシーを使うお金がないわけじゃないけど、アポがあるわけじゃなし、急いでいるわけじゃないし、第一ここまで大騒ぎしたのに、それなら最初からタクシーに乗ってるよ、バスとかないんですか? 地元の人といっしょにバスに乗ると楽しいいんですよと言うと、バスルートと時刻表を調べて、やっと案内が完了しました。

 

 この間、約20分。効率主義、生産性アップが叫ばれる世の中で、このまったり感はどうだ。急いでいたら頭にきてたかもしれないけど、旅というのはこうやって余裕を持って楽しむものだ、と改めて教えてもらった気がしました。


 考えさせられる不思議な駅員さんといい、まったりした観光案内所といい、皮肉でなく、おかげで楽しい旅になりました。小牧の皆さん、ありがとう。


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リバーズ・エッジ:トラウマになった漫画を映画で観る

 

●リバーズ・エッジ:トラウマになった漫画を映画で観る

 

 岡崎京子の漫画「リバーズ・エッジ」は僕のトラウマになっている。

 この漫画に出会った1990年代前半、僕はとっくに30を超えていた。

 心のコアの部分を防御するシールドもしっかり出来上がっていたのにも関わらず、ティーンエイジャーを描いたこの漫画は、シールドに穴をあけて肌に食い込んできた。

 

 先日書いた大友克洋の「AKIRA」が世紀末時代の象徴なら、「リバーズ・エッジ」は、その the Day Afte rの象徴だ。

 

 リバーズ・エッジ(川の淵)は流れの淀みであり、尋常ではない閉塞感・荒涼感・空虚感に包まれた繁栄の廃墟だった。

 

 子供たちの残酷で不気味で鬱々としたストーリーと、ポップでシンプルな絵柄との組み合わせが劇的な効果を生み出し、ページをめくるごとにますます深くめり込んでくる。

 

 自分自身は仕事も順調で結婚もした頃。

 こんな胸が悪くなるようなものにそうそう関わり合っていられないと2~3度読んで古本屋に売ってしまった。

 けれども衝撃から受けた傷は深く心臓まで届いていた。

 

 映画化されたことは全然知らなかったのだが、先週、渋谷の公園通りを歩いていて、偶然、映画館の前の、二階堂ふみと吉沢亮の2ショットのポスターに出会ってしまった。ふみちゃんに「観ろ」と言われているようだった。

 原作に惚れた彼女自ら行定勲監督に頼んで映画化が実現したらしい。

 

 映画は原作をリスペクトし、ほぼ忠実に再現している。

 その姿勢も良いが、何よりもこの漫画が発表された四半世紀前は、まだこの世に生まれてもいなっかった俳優たちが、すごくみずみずしくて良かった。

 

 暴力でしか自己表現できない観音崎くん、

 セックスの相手としてしか自分の価値が認められないルミちゃん、

 食って食ってゲロ吐きまくりモデルとして活躍するこずえちゃん、

 嫉妬に狂って放火・焼身自殺を図るカンナちゃん、

 河原の死体を僕の宝物だと言う山田くん、

 そしてそれらを全部受け止める主人公のハルナちゃん。

 

 みんなその歪み具合をすごくリアルに演じ、存在感を放っている。

 最近の若い俳優さんは、漫画のキャラクターを演じることに長けているようだ。

 

 原作にない要素としては、この6人の登場人物のインタビューが随所に差しはさまれる。

 この演出もそれぞれのプロフィールと物語のテーマをより鮮明にしていてよかった。

 

 でも映画を観たからといって、何かカタルシスがあるわけでも、もちろん何か答が受け取れるわけではない。

 

 四半世紀経っても、僕たちはまだ河原の藪の中を歩いている。

 そして二階堂ふみが言うように、このリバーズ・エッジの感覚は彼女らの世代――僕たちの子どもの世代もシェアできるものになっている。

 

 そのうち僕は疲れ果ててこのリバーズ・エッジで倒れ、そのまま死体となって転がって、あとからやってきた子供たちに

 「おれは死んでいるけど、おまえたちは確かに生きている」と勇気づけたりするのかもしれない。

 そんなことを夢想させるトラウマ。やっぱり死ぬまで残りそうだ。

 


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ひるねして夢の記憶を情報発信

 

 齢を取ってくると昼寝が楽しみの一つになります。

 以前は時間がもったいないなぁと思っていましたが、たとえ僅かな時間でも体を横にして休むと、もう調子が段違い平行棒。

 その後の仕事の効率、クオリティを考えたら寝るに限る、休むに限る。

 

 しかし、会社のオフィスではなかなかこうはいかないでしょう。

 こういう時は自宅でやっているフリーランスで本当によかった~と思います。

 

 ただちょっと困るのが夢を見ちゃったとき。

 いや、夢を見るのはこれまた楽しいのですが、その夢の記憶が現実のものとごっちゃになることがあるのです。

 

 この間、通っていた学校を探そうと現地に行ってみると、迷宮に迷い込んだように、いくら歩き回っても見つからない。

 それで思い出したのが「移転した」という情報を耳にしたこと。

 それで、ああ、移転したんだっけと思い込んでしまったのです。

 

 ところが、あとでネットで調べてみると、改装はしているものの、ちゃんと同じ住所に存在しているではないか!

 確かに聞いていた移転情報。あれはいったい・・・

 と考えてみると、それはいつかの夢の記憶だったのです。

 

 あちゃ~、いよいよボケが始まったぁ。

 夢と現実がひとつながりになった次元へ、とうとう足を踏み入れてしまったのかも知れません。

 でもまぁいいや、気持ちよく昼寝できれば。

 

 というわけで、今後、僕の発信する情報が現実の出来事なのか、夢の中の記憶なのかは、読んでいるあなたの判断におまかせします。

 

 ではお休みなさい。ZZZ。

 


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永遠の現物支給

 

 きょうは確定申告の最終日でしたが、先週会ったお友だちの会計士さんは締切間近でストレス満載の様子でした。

 その彼がぼそっとつぶやいたセリフが

 「現物支給でも、永遠に続けばいいんだけど」

 

 え、まさか現物支給の報酬で会計を?

 そういえば、半年前に会った時は、つぶれそうな食品会社の経理を請負っているとか言ってたけど・・・。

 

 追及するのはやめときましたが、「永遠の現物支給」という言葉が頭に残ったので、それについて考えてみました。

 

 何でもお金の世の中で、ちょっとした贈り物も、冠婚葬祭の引き出物も、現金・カード・商品券などが喜ばれます。

 そうした風潮の中で現物支給――それも1回2回こっきりじゃなくて、毎月ずーっと支給が続くとしたら、何がもらえたら嬉しいだろうと考えると・・・

 

 やっぱり食べ物ですね。

 会計士さん、食品会社でよかった。

 なに、よくない?

 

 缶詰、レトルト、乾物、冷凍食品・・・

 そんなもの1か月分もらうと嵩張るし、置き場所に苦労する。

 それに毎日食べたくない。

 かといって生鮮食品は日持ちしないし・・・

 

 と考えていくと、ベストはお米だ!

 お米なら毎日食べられるい、真夏でも1カ月くらいなら保存も問題なし。

 うちはひと月10キロ食べるけど、それくらいなら置き場所にも困らない。

 

 ついこの間、イベントの仕事「五つ星お米マイスターのおいしいお米講座」でお米の食べ比べをやったけど、毎月ちがう品種のお米を支給してもらえれば、いろんなのが試食出来て、ますます楽しい。

 

 ――と話すと、そこは会計士さん、チャチャっと数字に置き換えて、

 「1カ月10キロ、平均5000円として1年で6万円。10年で60万円。17年しないと100万円超えませんよ。安すぎる~。お金でもらわなきゃだめだ~」

 

 なるほど。お金にすると確かに安い。

 でもね、お金がなくても、死ぬまでごはんだけは間違いなく食べられるという安心感は何物にも代えがたいのではないでしょうか。

 

 1カ月のギャラ・給料が5000円と考えると、わびしくみじめになるけど、今月も10キロのお米がいただけると考えると、なんだか豊かな気持ちになってくる。

 ましてやそれが永遠に続くとなると、穏やかな晴天が心の中に広がってくる。

 

 うんこれなら悪くないぞ、永遠の現物支給。

 農家さんとか、お米屋さんとか、JAさんとかの仕事なら、そんな契約を結んでもOKかも。

 会計士さんは嫌だというけど、あなたならどうですか?

 


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現実世界が「AKIRA」の近未来世界を追い越すとき

 

 渋谷パルコの建て替え工事現場の囲いに大友克洋のマンガ「AKIRA」が描かれている。

 この大きさだとすごい迫力。そして、内側の解体されたビルの風景が、「AKIRA」の世界観と符合して、リアルで巨大なアートになっている。

 人通りの多い公園通りだけにアピール度は抜群だ。

 

 最近あまり渋谷に行かないので知らなかったけど、このアートワークが搭乗したのはすでに昨年(2017年)5月半ばのこと。ネットでいろいろ話題になっていたらしい。

 

 というのも「AKIRA」の舞台は2019年の「ネオ東京」。翌2020年にはそのものずばり「東京オリンピック」が開催される予定・・・という設定。

 その中で抑圧された若者たちをい中心に超能力バトルが繰り広げられ、ネオ東京が崩壊していくというストーリー展開なのだ。

 

 というわけで「AKIRA」をパネルにしたパルコはオリンピック開催に異議を申し立てているのではないかという憶測が飛び交ったが、当のパルコ側は、さすがにそれは否定したという。

 

 僕が思うに、おそらく渋谷の街の再生劇のメタファーとして、かのマンガを用いたのだろう。それも「西武・パルコの渋谷」の。

 

 「AKIRA」が連載され、映画化され、一種の社会現象にまでなったのは1980年代のバブル上り坂の頃で、パルコの黄金時代、西武・セゾングループカルチャーの最盛期とぴったり重なる。

 

 一時は東急グループと渋谷の覇権を二分していた西武・セゾンにとって、昨今の東急の圧倒的な大改造計画に一矢でも報いたいという思いで、「AKIRA」を持ち出してきたのではないかと思われる。

 

 あの頃は経済の繁栄と裏腹に「近未来」「世紀末」という言葉が跳梁跋扈した。

 「AKIRA」はその象徴と言える作品だった。

 

 この繁栄・この豊かさはインチキなのではないか、まがいものではないのか。

 そんな違和感が当時の若者たちの心の中にトゲのように突き刺さっていた。

 そんな違和感によって支えられ、膨れ上がった「AKIRA」のような作品世界が、好景気で沸き返る、どこかうそくさい日常世界とのバランスを取っていたのかも知れない。

 

 その状況は終わったわけでなく、実はもう30年以上も続いている。

 だからなのか、現代の渋谷に「AKIRA」が出現することに時代遅れ感どころか、ベストマッチ感さえ感じてしまう。

 

 「世紀末」が過ぎても、東京の街は崩壊していない。

 終わりのない日常がダラダラと続き、僕たちはズルズルと前の時代の太い尻尾を引きずりながら、時には波に呑まれて漂流しながら前に進もうとしている。

 もうすぐ現実世界が「AKIRA」の近未来世界を追い越していく。

 


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秋田からきりたんぽ鍋セット到着

 

 今日は何の予告もなく、クール宅急便で「きりたんぽ鍋セット」が送られてきてびっくり。

 仕事をいただいている秋田の方からサプライズの贈り物です。

 これまでメールでしかやりとりしていなかったんだけど、そういえばこの間、住所を聞かれたので、紙にした資料を送ってくるのかなと思ってたら・・・どうもごちそうさまです。

 

 ちょうど今夜は家族が揃っていたので、早速いただきました。

 肉も野菜も一式入っていて比内地鶏のスープ付き。あったまりました。

 

 秋田県は、かなり昔に大潟村(かつての大干拓地・八郎潟にある村)の干拓資料館の仕事をやりましたが、それ以来の仕事。

 来週は名古屋コーチンの取材で名古屋に行きますが、いずれ比内地鶏も取材したいです。

 


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五つ星お米マイスター・小池理雄のおいしいお米講座:絶品ごはんの食べくらべ

 

 10日(土)・11日(日)の二日間、渋谷のNHKの敷地で「にっぽんの食・ふるさとの食」のイベント開催。JA全中ブースで「五つ星お米マイスター・小池理雄のおいしいお米講座:絶品ごはんの食べくらべ」をやり、台本と演出を担当しました。

 

 原宿の米屋・小池さんの作った「お米の通知表」を参考に、岩手・宮城・福島・福岡、各地産の4種類のブランド米を食べ比べ、その品種を当てる、クイズ形式のワークショップです。

 

 五つ星お米マイスターとしてメディアから引っ張りだこ、講師としても大活躍の小池さんですが、この二日間の受講生(1ステージにつき35人ほど)は、ぜひ「参加したくて来ているというよりも、ここに一休みに来たり、冷やかしに来たり、ただ単にごはんが食べられるからという理由で入ってきたた一般大衆。ぶっちゃけ、まじめにお米のことが知りたいと思っている人は1割、2割しかいません。講師にとっては最も手ごわい相手です。

 

 二日間で4ステージにありましたが、1日目の参加者の反応を見て、その夜、台本を書き直し、2日目は大きく違う構成でやってみました。

 

 ちなみに30分の台本のセリフ部分はほとんどMC(司会)用で、それに応じながら小池さんが自由にトークを展開していくというつくりです。

 

 イベントはまさしく生ものなので、その時の参加者の発するSomethingによって1回目も2回目も3回目も4回目も、まったく違ったステージになります。

 これが正解、これが完成という形はなく、きっちりできたのに反響が薄い場合もあれば、グダグダになっても大ウケという場合もあります。

 もちろんグダグダでいいというわけにはいきませんが、面白いものです。

 

 それにしても、その場に応じて自由自在にセリフを変えられる小池さんのお米ボキャブラリー宇宙は素晴らしい。

 ますますこなれて星雲のように年々膨らんでいます。

 


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天国への階段の上まで冒険

 

おなじみ階段シリーズ。

 うちは1階が「野の花鍼灸院」という鍼灸院になっています。

 カミさんが小児鍼のエキスパートなので、女性と子供を診ています。

 

 で、毎日、いろんな子供が来るのだけど、玄関を入ってすぐある階段にどうしても目が行ってしまう。

 特に好奇心旺盛で冒険好きの幼児には、たまらない魅力なのでしょう。

 

 もちろん進入禁止で、連れてきたお母さんは「怖いおじさんがいるのよ」なんて脅すのだけど、ある年齢を過ぎると、そんな脅し文句などヘのカッパになる。

 好奇心が抑えられず、のこのこ上ってくる子もいるのです。

 

 今日来た4歳児のショウちゃんもその一人で、お母さんとカミさんの制止を振り切り、階段を登り切ってパソコンやってた僕の背中に話しかけてきたので、ニヤッと笑って振り返ったら、むこもニコッ。 下からは「ショウちゃん!降りてきなさい」と呼ぶ声が。

 なので、ぺちっとハイタッチをしたら満足したように引き上げていきました。

 本日の冒険、おわり。

 

 あとから聞いたら、怖いおじさんなんていないよ~。やさしいおじさんだよ~って言っていたようだ。

 

 うーん、これに味をしめてまた上がって来るかも。

 今度はオバケのお面でもつけてふり返ってやろうか。

 でも、あんまり怖がらせ過ぎてもなぁ~。

 好奇心・冒険心は子供の宝物ですから。

 侵入されてもいいように、ちょっとは二階をちゃんと片付けて掃除しておかないとね。

 


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ミケランジェロ的冒険:誰もが自分の中に人生でしたいこと・すべきことを持っている

 

 ミケランジェロは石の中にダビデの像を見出し、解放したと言われています。

 そのダビデ象という「ヴィジョン」は最初から彼の中に存在していた。

 そして石と向き合うことでそれを見ることが出来た。

 芸術家として自分が何をするべきか分かった。あとは手を動かすだけ。

 

 これは芸術家に限らず、誰にでも起こりうることなのだと思います。

 

 誰もが自分が人生の中でしたいこと・すべきことはちゃんと持っていて、本能的に認知している。それは人生のいたるところで、日常生活のあちこちで顔をのぞかせる。

 

 けれども僕らはそれを取るに足らないこと、おかしなエゴが作り出す妄想だとして処理してしまう。

 この忙しいのに、そんなことに関わっているヒマはない、と。

 だから何となく分かっているのにそれははっきり見えない。

 そして見えたとしてもそれを実行しようとはしない。

 

 なぜならほとんどの場合、それは社会的必要性が認められない、人々が求めていることに応えられない、早い話、そんなことをしたって「食えない」。

 そういう事情があるからでしょう。

 なので、ますますその内在するものを見ようとしない。

 見るのを怖れ、目をそらしてしまうし、もちろんやろうとしない。

 その結果、不満だらけの人生が世の中に蔓延することになります。

 

 これはきっと人生の途上で、立ち止まって考えてみるべき課題なのだと思います。

 ミケランジェロのダビデのように、芸術家じゃなくてもあなたにはあなたが創るべきもの、やるべきことがある。

 そう静かに思いを巡らせると、「あれがそうだ」と人生のどこかで見たサインを再発見できるかも知れない。

 深い海の底から、ぽっかりと浮かび上がってくるかも知れない。

 

  あなたの中に何があるのか、することは何か、まず見つけ出す冒険。

  そして、それをやり始める冒険。

 


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星のおじい様と孤独なエイリアン

 

 その少女は一人暮らしの老人と友達になった。

 老人は近隣から奇異な目で見られている。

 彼は特殊な能力を持っており、それで人助けをしたりもするのだが、普通の人たちにはそれが気味悪く映る。

 だから少女にも、あの老人の家へ行くな、近寄るなと言う。

 両親にとってもそれは家族の一大事と受け取られていた。

 

 少女はなぜその老人にひかれるのか?

 老人の語る宇宙の話、昔の話、妄想のような話が好きなのだ。

 彼女は老人がじつは宇宙人で、永年地球で過ごし、近いうちに故郷の星へ帰ろうとしているのではないかと思っている。

 

 老人には少女以外にもう一人だけ訪ねてくる人がいる。

 それは彼の身元保証人だ。

 老人はちゃんとお金を払ってその会社と契約し、自分の死後の後始末をつけてくれるよう段取りしている。

 彼は宇宙人なんかではない、まっとうな人生を歩んで齢を取り、社会人として最期まで人に迷惑をかけずに人生を終えようと考えている、普通のおじいさんなのだ。

 

 そうした現実を知っても、少女は彼がやっぱり本当は宇宙人なのではないかと疑念をぬぐえない。

 彼女はしだいに何とか老人の秘密を探りたいと考えるようになる。

 

 しかし、そんな彼女の行動を心配した両親は、それ以上、老人に近づくことを許さず、彼女を学習塾のトレーニング合宿に送り込んでしまう。

 

 数日を経て帰ってきた少女は両親の目を盗み、再び老人に会いに行くが、彼は呼び鈴を押しても出てこない。と同時に何か気になる匂いがする。

 彼女は身元保証人を電話で呼び、家の中に入る。

 そこには布団の中で孤独死した老人の遺体が横たわっていた。

 

 少女には老人が物理的に死んだことは分かったが、地球から消滅したとは映らない。

 彼女は遺体を運ぶ人たちが到着するまでの間、その老人――「星のおじい様」の時間軸に入り込み、孤独なエイリアンとして、奇妙な冒険に出掛ける。

 


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孤独な老人は本当に可哀そうな存在か?

 

 一人暮らしの高齢者というと、最近はすぐに「孤独死」が連想され、何やらくら~いイメージがつきまとう。

 そうでなければ、家族がなく、身寄りがなく、孤独で可哀そうとか、同情される。

 いずれにしてもネガティブなイメージであることに変わりない。

 

 でも本当にそうなのだろうか?

 彼らはけっこう孤独を楽しんでいるのではないか。

 本当にいっしょにいたいと思う家族ならいいけど、ただ同じ屋根の下にいるだけ、同じ空気を吸っているだけの家族なんて鬱陶しいと思ったりしていないのだろうか?

 

 血が繋がっていたって形だけの家族はいっぱいいる。

 財産などをあてにしてすり寄ってくる家族や親族なんかに、あれこれ気を遣ってもらったって不愉快なだけ。

 

 メディアの「家族は素晴らしい」「家族がいないと気の毒だ」といった大合唱もなんだか胡散臭いね。

 

 それよりも最期まで一人でやっていく、という気概のある生き方をを見せるほうがいい。

 あるいは、血縁にこだわらない、常識にとらわれない、損得勘定抜きの、心の深いところで繋がり合える人たちとの暮らし。

 齢を取ったからこそ、そうした自由や愛情に満ちたものを優先できるという面もある。

 

 幸いにも、そうした人たちをサポートするセーフティネットはあちこちにでき始めているようだ。

 

 「家族の絆」という美名のもとに隠した損得勘定や惰性的な繋がりよりも、自分の意思に基づいて生き、死ぬ「個の尊厳」を優先する時代がすぐそこまで来ている。

 


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のりしろ時間

 

 元来、コアラとかナマケモノ体質で、自分のペースで動けないと調子悪くなっちゃうので、効率悪いことこの上なし。

 ヘタにビジネス書など読んで勉強して、時間を有効活用しようなんて意識すると、なんだかイライラしてきて、自分が今何をやっているんだか分からなくなってきます。

 

 とは言え、仕事をする以上、そんなこともいっていられない。

 相手のペースに合わせなきゃいけない場合もある。

 そんな時、最近、心がけているのが「時間ののりしろ」を作ることです。

 

 自分のペースでOKの時間帯と、相手に合わせる必要のある時間帯。

 この2種類のカテゴリーの時間帯が、ポンとカットで繋がると脳の切り替えがうまくできない場合があり、気持ちの負担も大きいので疲れます。

 やっぱリカットつなぎでなく、オーバーラップさせたほうがショックが和らげられる。

 

 なので、相手に合わせる時間帯に入るときは脳が自然に準備できるよう、「のりしろ時間」を作るようにしています。

 

 具体的に言うと、打ち合わせ、取材などの時は約束の時間より30分早く行って、その現場周辺の空気を吸っておくようにするのです。

 そうするとリラックスして、少しはその環境に入り込みやすくなります。

 つまり100%アウェイの空気でなく、10~20%くらいはホームの空気をまぜるようにする。

 するとある程度リラックスして、よりよいパフォーマンスが期待できます。

 

 昨日は思いのほか早く着いたので、待ち時間に近所の神社で、ぼやーっと木などを眺めて、ああ鳥の巣がある、何の鳥だろう。まだ作っている最中かなぁ・・・と思ったり、ネコの家族が来て日向で遊び出したりするのを見ていました。

 

 仕事の役に立つだけじゃなく、ちょっとおまけみたいなものを拾ってトクした気分になります。 もしかしたらそんなどうでもいいことが、あなたの人生を救ったりするかもしれません。

 スケジュールぱんぱんにして毎日アクセクしちゃうと、ほんと疲れますから。

 


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児童館でおチビらがビッグな牛さんの乳しぼりに初挑戦

 

 八王子市の児童館で、子供たちが乳しぼり体験。

 マイナビ農業の取材で、八王子界隈の酪農家の仲間たちがボランティアで提供しているイベントを見学してきました。

 

 でっかい開閉式トラックに牛を乗せて、そこに上って子供たちが搾乳するというやり方。総勢5人の酪農家さんたちがお世話をします。

 まったくこういうシステムを想像していなかったのでびっくりしました。

 このお乳パンパンの牛さんはマーガレットちゃん7歳。

 

 マーガレットちゃんの乳しぼりに挑戦するのは、幼稚園前の幼児クラス(+そのきょうだい)なので2歳児中心。たぶんその子たちの目から見たら、牛さんはゾウさん、いやもしかしたら怪獣並みの大きさだ。

 そりゃこわいに決まってる。

 

 勇気を出してぎゅっとつかめればいいのだけど、おそるおそるおっぱいに触るので、「なにやってんのよ、モ~」って、穏健温和なマーガレットちゃんもバフォンと荒っぽく鼻息をして体を揺する。

 すると、もうだめです。大半の子がこわがって泣き出す始末です。

 

 お父さん・お母さん、「うちの子は情けない」なんて言わないで。

 だいじょうぶ。 一度は失敗・撤退したほうがいい。

 また大きくなった時、トライしたら今度はできるから。

 

 最初からすんなりうまくできちゃうより、やったぜ感、リベンジできた感があって、自分は成長しているんだと実感できる。

 そのほうが却って自信になるんです。

 

 子供時代はまだ長い。

 人生はもっとずーっと長い。

 幼稚園・保育園で、小学校で、またトライして、こんどはマーガレットちゃんのおっぱい、いっぱい搾ってね~。


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ラストドライブ日本版 出発

 

 わたしを思い出の場所に連れてって――

 そんな末期患者の願いをかなえるのが「ラストドライブ」。

 この数年、ヨーロッパで静かに広がってきた、いわゆる終活支援です。

 

 昨年夏、ドイツでの事例を取材したドキュメンタリー番組がNHK-BSで放送されました。たまたまそれを見て感想をブログに書いたら、その時だけアクセス数が5倍くらいに跳ね上がってびっくりしました。けっこう関心の高い人が多いようです。

 

 じつは今年から日本でもこれと同様の終活支援サービスが始まりつつあります。

 さいたま市の「タウ」という会社がCSR(社会貢献事業)として始めた「願いの車」がそれ。余命少なく、一人では外出困難な患者を希望の場所に無料送迎するというものです。

 

 タウは事故車の買い取り・販売を手掛ける会社で、社長がかの番組に心を揺すられ、「自分たちも車を扱う仕事をしているので」と、立ち上げました。

 当面は近隣の病院やホスピスに声をかけて説明し、希望者を募るというやり方で進めていくそうです。

 

  あらかじめ民間救急会社と提携しており、車両は酸素ボンベ、吸引機、自動体外式

 除細動機(AED)などを装備した民間救急車を使用。外出には看護師やボランティアが同行。ただし外出は日帰りのみ。

 主治医の了承と、家族の同意を得た上で送迎です。

  

 僕は「月刊仏事」の記事を書くために電話で広報の方と話したのですが、この事業に誇りを持ち、かといって気負うこともなく、たいへん美しい応対だったことにも心惹かれました。

 

 今後、提携先を県内の病院などに広げ、将来的には、活動に理解を示す企業からの協賛も。2019年には公益社団法人にして全国的活動を目指すそうです。

 

 これも高齢化社会・多死化社会における一つの文化になり得るでしょう。 これからの展開が楽しみです。

 


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「スターウォーズ エピソード8 最後のジェダイ」は舞台劇にしてOK

 

 今さらながら「スターウォーズ エピソード8 最後のジェダイ」。

 2月のうちに書いてこうと思って、つい書きそびれていました。

 

 あちこちでもうすっかりレビューも出尽くしていると思います。

 まったく読んでいないので、世間的な評判はさっぱり分かりませんが、僕的にはかなり面白かった。

 (特にこのシリーズの熱心なファンでないけど)全部見た中では、これが一番入り込めたな~と思いました。

 

 率直な印象を言うと、かつてのスペースオペラ的な部分が薄まり、シェークスピア劇みたいに見えました。

 

 世界政治とか抗争を含めた宇宙スケールの活劇だったはずが、なんだか家族ドラマみたいなスケールになってきた(これは批判ではありません)。

 

 あくまで個人的な印象です。

 

 実際には戦闘シーンは相変わらず多いし、チャンバラもあるし、絵作りも凝っているし、迫力もある。

 そうしないと、スターウォーズブランドにならないからね。

 

 ただ以前はそっちの方がストーリーを完全に凌駕していたのだけど、今回はドラマのほうが引き付けられる、ということ。

 戦闘状況なんかを全部セリフで説明させてしまって、舞台劇にしたらいいんじゃないかと思ったくらい。

 

 これまでのスターウォーズであまり魅力ある登場人物ってお目にかからなかった(ダースベイダーが悪役としてどうしてあんなに人気があるのか、さっぱりわからない)けど、若い二人の主人公――レイとカイロ・レンがはいい。

 

 スターウォーズ過去40年の歴史というか、遺産というか、おっさんファンたちの降り積もった愛着やら怨念やらを背負わされても、最終的にそんなもの蹴っ飛ばして、カウンターのロングシュートでゴールを決めちゃいそうな「フォース」を感じます。

 古いキャラクターはすべてこの二人の引き立て役ね。

 

 いっそのことエピソード9は完全にオールドファンを裏切りまくって、戦闘シーンなしにしてしまったらどうだろう?

 登場するのはレイとレンとBB-9(ロボット)だけとか。

 ま、そんなのあり得ないはわかっているけど。

 

 勝手にエピソード9の予測をすると、前回の3部作(エピソード1~3)は、史実(?)を変えるわけにはいかないので、主人公のアナキンがダークサイドに落ちてベイダーになってしまうという悲劇的ラストで後味が悪かった。

 けど、今回の9は必ずやハッピーエンド、希望ある結末に持っていくでしょう。

 なんといっても制作の大元はディズニーだし。

 

 王道としてはレンの魂が救われ、レイと結ばれる・・・というのが落としどころだと思うけど、それだと単純すぎるかなぁ。

 


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生きて祭 死して祭

 

「死ぬ前に一目祭りが見たい」

そう訴える老いた罪人に対し、

首切り役人が懐から狐のお面を取り出して渡す。

罪人がその面をつけると、耳には祭囃子が聞こえてくる。

彼が恍惚となり、幸福感に包まれた刹那、役人は刀を振り下ろし、

面をつけた罪人の首が宙を舞う。

 

「子連れ狼」と同じ小池一夫原作、小島剛夕作画コンビの劇画

「首斬り朝」は、刀剣の「試し斬り」の役目を担った

山田朝右衛門を描いた物語。

山田朝右衛門は打ち首の刑になった罪人の首を斬る、

いわば死刑執行人の役を兼務していたために、

江戸の町人たちから「人斬り朝右衛門」と恐れられていた。

江戸時代に実在した人物だ。

 

ちなみに「山田朝右衛門」というのは屋号みたいなもので、

代々同じ名を引き継ぎ、明治初期までお役目を務めていたという。

武士だが幕臣とは異なり、浪士の身分だった。

先述したストーリーは、

この「首斬り朝」の一編「祭り首」という話。

 

この劇画は基本的に一話読みきりで、

どちらかというと首を打たれる罪人が主役となり、

「なぜ罪を犯すことになったのか」を描く話が多い。

しかし「祭り首」は朝右衛門自身の

人生・感情にスポットが当たっている。

 

人々から恐れられていた「人斬り朝右衛門」は、

祭りの日は外出できなかった。

武士にとって、祭りは単なる遊びだが、

江戸の庶民にとっては、

現代のそれとは比較にならないほどの大イベント、

年に一度訪れる、命がけの祝祭である。

そんな特別めでたい日に、

不吉な死神と顔を合わせたくないというのだ。

 

祭というハレの日があるから、ケ(日常)が成り立つ。

解放の日にガス抜きをさせないと、庶民の間に不満が鬱積し、

世の中がうまく回らなくなる。

お上もそうした庶民の心情を無視しては

政ができないというわけである。

 

だから外出禁止は、なかばお上からの命令で、

それは気の毒なことに当人だけでなく家族も同様なのだ。

そのため、将来、「人斬り朝右衛門」になることを

運命づけられた少年朝右衛門は相当辛い思いをした。

 

10歳くらいの頃、我慢できずに

こっそり家を抜け出した少年朝衛門は、

人に見つからないよう、裏道でこっそり祭囃子を聞いていた。

すると、その裏道の入口前を、

同じ年頃の子供の集団が遊びながら走り抜け、

そのうちの一人が狐のお面を落としていった。

 

それを見つけた少年朝右衛門は、

こっそり拾って自分の顔にお面をつけてみる。

すると祭囃子がすぐ近くで聞こえた。

それは彼の人生で最初で最後の祭り体験になった。

 

漫画の中では描かれていないが、少年はその後、

急いで家に帰り、親に見つからないよう、お面を隠した。

もしかしたらその後、ずっと祭が来るたびに

家の中で一人でこっそりお面を被り、

幻聴のようなお囃子を聞いていたのかもしれない。

或いはお面を隠し持っていたおかげで、何とか大人になり、

父の後を継げたのかもしれない。

 

数十年後、刑執行の前日、彼は罪人が

「死ぬ前に一目祭りが見たい」と嘆願していることを知り、

箪笥の奥深くから隠し持っていた、あの狐のお面を取り出し、

しばし子供時代の回想に耽った後、

大事そうに懐に入れて家を出て、刑場へ――。

 

「首斬り朝」は「子連れ狼」と同じく、

父が全巻揃えて持っていた。

僕はそれを留守中に隠れて読んでいた。

「子連れ狼」より後なので、中学生だったと思う。

子連れ以上にエログロシーンが多い大人の漫画だったが、

人情噺に近い、この「祭り首」がいちばん印象に残っている。

そして、大人になって久しい今もなお、その印象は鮮明で、

罪人と朝右衛門の人生が交錯するラストシーンは、

思い出すたび、胸にじんと響く。

 

現代ではお祭りは、一部の人を除き、安全第一で、

神社の参道に並ぶ屋台で飲み食いするだけの

季節イベントになってしまっているが、

もともとは日本人の死生観と深くつながったものだった。

 

夜の神社を歩くと、ふと周囲の雑踏が消えて

生と死の境の空間に足を踏み入れたような

錯覚に落ちることがある。

 

死の間際に、心のどこかで祭囃子を聴くことができたら、

この世に未練を残さず別れられるのだろうか?

いい人生だったと思えるのだろうか?

祭りの季節になると、そんなことを考えるようになった。

 


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認知症の義母の失踪

 

昨日の夕方、いっしょに行った近所のスーパーから

義母が忽然と姿を消した。

この店には一角にカフェコーナーがあり、

買い物客が買ったものをイートインしたり、

自販機でドリンクを飲んで休憩できるようになっている。

給水・給茶機もあり、こちらは無料だ。

この店まではそこそこ距離があるので、

来るとここに座らせてお茶を与え、休んでいてもらって、

10~15分、買い物をしている。

ところがレジを済ませて戻ってみると、姿がない。

前にも2度あったが、ひとりで店内をうろうろして

商品を見てまわっていたので、

すぐ見つかるだろうと高をくくっていたのだが、さにあらず。

2階・3階・地下を見て回ったがいない。

 

慌ててすっ飛んで帰り、

自転車で家とスーパーとの間の道をあちこち探し回ったが、

見つからない。

スーパーで事情を話し、防犯カメラを確認してもらったところ、

どうやら家と反対方向に歩いて行ったらしい。

頭はダメだが、体はじょうぶで健脚である。

以前も「自分の家(実家?故郷?)に帰る」と言い残して、

自分が知らない道を、ひとりでずんずん歩き続けたことがあった。

(その時は尾行していった)

 

日が暮れてきたので、

カミさんと相談してやむを得ず警察に届け出。

その後、家と反対方向の幹線道路を越えたあたりを

探していたら、カミさんの電話に、隣町の交番で保護された、

という連絡が入ったという。

自転車を飛ばして行ってみると、

特に疲れた様子も困った様子もなく、

交番の中にちょこんと座って涼しい顔をしている。

僕が入っていくと、わかったらしく

「この人たちはすごくいい人。それにいい男でしょ」

などと若い警官を持ち上げた。

警察の話によると、

その交番付近をウロウロしていたので声を掛けたら、

ちょっと反応がおかしいので、迷い人だなと思って保護。

さっき別の交番に届け出た本人の特徴と一致していたので、

カミさんに電話が行ったという。

最近、自分の名前が言えないこともあるが、

この時はちゃんと名乗れたらしい。

 

その交番はスーパーから約1キロ、

1時間近くひとり旅をしていたらしく、

さすがに疲れてどこかで休みたいと思っていたので、

交番を休憩所代わりに使ったのかもしれない。

そして、何よりも声をかけた警官が若くてちょっとイケメンで、

義母好みだったことも幸いしたのだろう。

帰る時は、彼の手を握って「また会いに来るからね」

などとのたまった。

こっちは2時間半探し回ってへとへとである。

 

それにしても、たまたま近所の、

わかりやすいところで保護されたからよかったが、

これは、これまで大丈夫だったからと、

目を離していた僕の大失敗。

今後、絶対に自分の都合で目を離さないと誓ったのと、

万一の時のために靴にGPSを仕込んでおこうと決めた。

 


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電子書籍新刊「あなたはどんな大人に憧れましたか?」

 

人生に迷った時、私たちは何に立ち返ればいいのだろうか。

この問いに、著者おりべまことは実体験を通して

答えを示してくれる。

 

デイサービスで出会った青年が語った

「やきいも屋のおっさんにあこがれていた」という言葉。

手っ取り早く稼ぐことが成功とされる現代において、

地に足をつけて人と向き合う生き方への憧れを語る彼の言葉は、

私たちが忘れてしまった大切なものを思い出させる。

 

本書は「生きる」をテーマにしたエッセイシリーズ第7集。

認知症を患った義母の介護体験、友人の死、

そして自分自身の老いと向き合う中で見えてきた人生の真実が、

時にユーモラスに、時に切なく描かれている。

 

特に印象深いのは、認知症の当事者として講演活動を続ける

クリスティーン・ブライデン氏の

「私は死ぬとき、本当の自分になる」

という言葉を紹介したエッセイ。

病気によって社会的な役割を失いながらも、

真の自己と向き合うことで見出した生きる意味は、

健常者である私たちにとっても深い示唆を与えてくれる。

 

また、「人生は思ったよりもずっと短い」では、

かつて才能ある批評家だった知人の変わり果てた姿を通して、

時間の有限性と行動することの大切さを説く。

若者が死について考えることを否定するのではなく、

それこそが「生きるとは何か」という

根源的な問いかけだと捉える視点も新鮮だ。

 

ブログ「DAIHON屋のネタ帳」から厳選された33

編は、どれも読者の心に深く響く。

人生の後半戦を迎えた人はもちろん、

生き方に迷う若い世代にも、

きっと新たな視点を与えてくれるはずだ。

 

Amazon Kindleより本日発売! ¥500

 

もくじ

  • 私は死ぬとき、本当の自分になる
  • 恐竜王国 福井への遠足で「生きる」を養う
  • 誕生日は誰にでも平等にある祝福の日
  • 逃亡者の死の価値
  • 女を舐めるべからず
  • なぜ昭和の“すごい”人たちは本を出せなかったのか?
  • となりのレトロより:あんたも閻魔大王様に舌抜かれるよ
  • 赤いパンツの底力 ~巣鴨とげぬき地蔵デイトリップ~
  • どんな子どもも「世界は美しいよ」と実感させてくれる
  • 人生は思ったよりもずっと短い
  • 春休みは人生の踊り場
  • 死ぬ前にもう一度ワールドツアーで歌いたい・演奏したい
  • 友の旅立ちに春の花を
  • 「パーフェクト・デイ」そして「またあした」
  • なぜ女は「死」に関心が深いのか?
  • あなたはどんな大人に憧れましたか?
  • 酒タバコ やめて100まで生きる日本人
  • 若者が死について考えるのは健全である
  • 人生の価値観を問う「天路の旅人」
  • 唐十郎さんに「君の作文は面白い」と言われたこと
  • 唐十郎式創作術「分からないことに立ち向かう」
  • 高齢者を高齢者扱いするべからず
  • なぜ医者も歯医者も早死にするのか?
  • 母の日に酒を、父の日に花を
  • 息子の誕生日に考えたこと
  • 経済が支配するユートピアとディストピアを見つめる 「父が娘に語る経済の話。」
  • 友の49日と「友だち法要」
  • 前のめりになって生きて死ね
  • 父の日の秘密の花園
  • タクシーの中にスマホを忘れたら
  • やっぱり変わらなかった東京都知事選2024
  • 「十代が!」と連呼する大人の気持ち悪さと 「母親になる可能性を持った身体」について
  • 夏休みも人生も後半はあっという間

 


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昭和歌謡・時代劇系の傑作「子連れ狼」

 

 

橋幸夫さんが亡くなった。

国民的歌手とまでいわれた、昭和歌謡の代表的な歌い手だが、

さすがに僕は、吉永小百合とのデュエットとかは、

リアルタイムでは知らない世代。

だけど子供のころ、「潮来笠」(デビュー曲)や「子連れ狼」などの

時代劇系の歌が好きだった。

 

自分ではよく覚えてないが、「潮来笠」は

♪いたこのいたろう ちょっとみなれば~

と、三度笠に見立てたザルを持って歌っていたらしい。

 

「子連れ狼」はもともと大人向けのマンガ(劇画)で

テレビドラマ化され、小学生の頃、ちょっとしたブームになった。

この曲は劇画のイメージソングとして企画され、

ドラマの主題歌になったのは後付けだったらしい。

1位にはならなかったが、

1か月くらいベスト10入りしていたと思う。

 

作詞は劇画の原作者である小池一雄。

イントロと途中で語りが入るのは、いかにも昭和歌謡らしい。

 

歌詞の1番で「しとしとぴっちゃん しとぴっちゃん」=雨、

2番で「ひょうひょうしゅるる ひょうしゅるる」=北風、

3番で「ぱきぱきぴきんこ ぱきぴんこ」=霜と、

きびしい自然を表現する、オノマトペの使い方が秀逸。

橋さんと子供合唱団の共演で3分間のドラマを生み出している。

 

訃報を聞いて、久しぶりに聴いてみたが、

やっぱりこれは名曲だなぁと感心した。

と同時に、小学生の時(確か5年生か6年生)の

友だちのことを思い出した。

 

ちなみに父がこの漫画を全巻揃えていたので、

いないときに読んでみたが、

けっこう濡れ場がふんだんに出てきて、

盗み読みするのに罪悪感を覚えた。

子供心にかなりショッキングな描写もあったが、

最近は、アニメなどでもやたらと、

刃物でズタズタ、バラバラにされる描写が出てくるので、

今思うと、かわいいものだったのかもしれない。

 

ゆるぎない昭和歌謡の傑作を世に送り出してくれた

橋幸夫さんのご冥福を祈ります。

 


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心が乱れたら両手を合わせてみる

 

ここのところ、認知症の義母の幼児化が著しい。

欲望丸出しのガキに等しいので、大人の理屈は一切通らない。

「これやっちゃダメ」なんて言っても5分後には忘れている。

息子がチビの時代もこれほど手こずらなかった。

それに子供と違って、そのうち成長してわかるようになるだろう

という希望も抱けない。

 

ほとほと疲れるのだが、

それは「大人なのに」と思って接するからだ。

以前から子ども扱いはしていたが、それでもだめだ。

そこでお地蔵様あつかい・菩薩様あつかいし、

朝夕手を合わせることにした。

すると、あら不思議。

気持ちが落ち着き、イラついたり、腹が立ったり、

疲れたりすることが少なくなった。

 

そういえば以前、仕事で

「お仏壇のはせがわ」の社長にインタビューしたとき、

「一日三回、手を合わせると人生変わりますよ」

といわれたことがある。

 

一応、両親と義父の手元供養をしているので、

朝は手を合わせるようにしているが、

まだ生きている義母を菩薩視して同じようにやっていると、

なんだかメンタルヘルスにいい気がする。

はせがわのコマーシャルで女の子がやっている

「お手手のしわとしわを合わせて、しあわせ」は、

あながちでたらめではない。

 

僕は宗教心のカケラもない人間だが、

おそらく左右の手のひらを胸の前で合わせるという運動と姿勢が、

からだ全体の血流とか、気の流れとかに

何か影響を及ぼすのかもしれない。

そうした科学的根拠もありそうだが、

なんでも理論的に説明されてしまうと、

「なんだ、そういうことか」と納得してしまって、

生きるのがつまらなくなるような気がする。

人生にはある程度、

不思議なことや神秘的なことがあったほうが面白い。

 

仏壇やお墓やお寺やお宮の前でなくてもいい。

祈願も感謝も供養の心も、神仏のイメージも必要ない。

ただ何も考えず、両手を合わせるだけでよい。

もし、頭に来たり、悲しくなったり、不安になったり、

ネガティブな感情にとらわれたら、

胸の前で手と手を合わせてみよう。

できたら一日何回も「しあわせ」をやってみる。

たったそれだけで気持ちが落ち着き、気分が良くなるよ。

 


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レット・イット・ビーTAKE28、そして、もう新しいものはもういらない

 

何万回聞いても飽きないビートルズの

「レット・イット・ビー」。

最近出てきたこの「テイク28」は衝撃的。

間奏のギターソロとオルガンの響き、

曲終盤のマッカートニーの

ちょっと外した歌い方が超新鮮でしびれまくる。

生涯最高のバージョンだ(今のところ)

 

2020年10月から2024年2月まで、

毎週末に「週末の懐メロ」という記事を180本書いて、

すごく楽しくて、いずれまた再開しようかなと思っていたが、

全然そんな気にならない。

自分にとってのベストはもう書き尽くし、

すっかり満足してしまったのだ。

 

音楽についてもう新しいものはいらない。

てか、街の中でもテレビやラジオでも、

懐メロしか耳に入ってこない。

お前が年寄りだからだろと言われればそれまでだけど、

若い衆も20世紀ロック・ポップスや昭和歌謡に

ご執心のように見える。

今や1960~90年代も、2020年代も変わりがない。

 

懐メロだけど、ネット上に初めて聴く別テイク、別バージョン、

秘蔵のライブ音源などが次から次へと上がってくる。

いまや音楽は進化ではなく、深化する時代。

古いも新しいも関係なく、

流行っているか・いないかも関係なく、

歴史的な価値があるのかどうかも関係なく、

パフォーマーが生きているのか、死んでいるのかだって

もう関係なくて、いいものはいい、好きなものは好き、

面白いものは面白いで、なんでもOKの時代になった。

みんな楽しく聴いて、

自分の魂に響くベストオブベストを掘り起こそう。

 


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ファッションチャンネルの備蓄米

 

夏休みで遊びに来た20代の息子。

帰り際に「おまえ、家で備蓄米食ってるの?」と聞いたら、

「そんなまずい米食わねーよ」との返事。

「でも、おまえがうちで食っていったの、備蓄米だよ」

と言ったら、「え?」と目を丸くした。

「変わんないね」

 

というわけで、ぼちぼち新米の季節だが、

カミさんがショッピングチャンネルのQVCで10キロ、

備蓄米を頼んだ。

普段、おしゃれなファッションがどうだらこうだら

キャーキャー言っているチャンネルが、

なんで備蓄米を売っているのか、わけわからんが、

食費を節約してもらって、

その浮いた分を服に回してくれということなのか?

 

それはいいのだが、じつはこれ、

7月頭に頼んでから到着するのに1か月近くを要した。

まだ一袋目は1週間分くらい残っているので、

9月半ばあたりまで持ちそうだ。

 

「備蓄米ブーム」も過ぎ、ぼちぼち新米の季節だが、

これを喰い終わらないと新米には手を出さない。

てか、わざわざ倍以上のカネを出して

新米を食べようという気にならない。

 

うちの息子同様、古米・新米を

たんなるイメージでとらえている人が大勢いるのだろう。

ガチで何種類か食べ比べをしたら、

たしかに違うのかもしれないが、

僕は安い備蓄米で充実した食事ができれば、それで十分。

よい食卓・よい家庭は、ぜいたくなものを使わなくてもできる。

9月・10月まで、どんどん売ってほしい。

 


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鬼滅の刃:「親孝行」という圧倒的正義

 

この物語の一貫したテーマは「親孝行」。

お盆休みの午後、吉祥寺という土地柄もあってか、

映画館の観客の大半は家族連れだ。

さすがに幼児はいないが、小学校低学年くらいの子が多かった。

こんなチビどもが2時間半以上もある映画をずっと見られるのか?途中で騒ぎだしたら嫌だな、と思った。

 

が、余計な心配だった。

これだけの大ヒットは、

過去の実績や宣伝のうまさだけでは達成できない。

文句なしのクオリティでまったく飽きさせない。

 

このアニメ(マンガ)の特徴は、

少年漫画と少女漫画のベストミックス。

少年マンガ得意のバトルアクションをベースに、

少女マンガ得意の内面ドラマがどんどん入ってくる。

 

スピード感あふれるアクションの合間に、

それぞれの登場人物の脳裏をよぎる数秒間の回想が、

10分、20分の主観的な物語として描かれるのだ。

その物語が次から次へと語られる。

双方のリズムが素晴らしく、長尺を感じさせない。

 

もう一つ、この映画が受け入れられるのは、

冒頭に挙げた「親孝行」というテーマの明快性。

何が正義がわからないこの時代に、

親・師匠を大事にすることの尊さを訴え、

親孝行、家族愛、兄弟愛といった圧倒的な正義を提示する。

観客にとってともわかりやすく、安心して観ていられる。

 

鬼殺隊は、親方様である産屋敷を父とする大家族であり、

曲者ぞろいの9人の柱は家族を支える兄弟。

主人公の炭治郎たちはその年若い弟である。

 

そして、彼らが闘う鬼の中でも、人間だった時代、

父親を救おうとしたり、養父であり、義父になるはずだった師匠を敬った猗窩座には同情・共感が寄せられる。

 

それと反対に、その美貌や天才性ゆえ、

両親を馬鹿にしていた童磨は嫌われる。

ただ、僕は彼の異常な心の闇がどのように形成されたのか、

とても興味がある。

これだけの狂気を表現できる声優さんの演技力はすごい。

 

近年、世間を震撼させる事件・犯罪は、

猗窩座のような、社会や他者に対する怨恨と、

童磨のような、お道化たサイコパス性が

混合したもののように思える。

 

「親孝行」をテーマに大成功を収めた「鬼滅の刃」。

しかし、圧倒的な正義は、巨悪に転じることもある。

宗教が、政治が、悪徳ビジネスが、

親孝行や家族愛を語りながら、巧妙に心を支配し、

金をだまし取ったり、個人の自由を侵したり、

人生を破壊するなど、人を喰う鬼に化けることがあり得る。

 

かつてこの国は、そこを利用して、

日本人は天皇を中心とした家族であるという夢を見せ、

富国強兵を進めて、アジア随一の軍国国家を創り上げた。

 

終戦の日の翌日に見たせいもあって、

どうしてもそのことが気になった。

娯楽なのだから、気にせず楽しめばいいのだが、

時として、娯楽は支配者にとって

都合の良い洗脳教育にも使われることは覚えておきたい。

 


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終戦の日 昭和人の責任

 

戦争に負けた国だから、戦争の悲惨さを語れる、

原爆の悲惨さを語れる。

けれども「戦争の悲惨さなんて知ったこっちゃない」

という輩は、今、世界中で増えている。

同じ日本人の中にもそういう人は少なくないだろう。

 

だからこれからは悲惨さを語るだけでなく、

「なぜ、どうやって日本は戦争を始めたのか?」

そして「なぜ負けたのか?」を考え、

語り継ぐことがさらに重要になる。

 

あの時代、真珠湾攻撃など、緒戦の戦果に

「血沸き、肉躍った」という人が大勢いた。

「勝てば幸せになる」と信じていた人がたくさんいたのだ。

 

後から考えれば、そんなバカなと思えるが、

そうした愚かな熱狂があったこと、

その時の指導者層にだまされていたこと、

カルト宗教的なものが国民を洗脳していたこと。

忘れていけないと思う。

それは今の時代、近い将来にも十分起こり得るからだ。

 

それを防ぐためには、

ただ戦争は悲惨だと感情的に語るだけでなく、

なぜそうした愚かな考え方・愚かな行動をしてしまったのか、

冷静に考え、積極的に批判していかなくてはいけないと思う。

 


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現代人の修行寺 檜原村・天光寺

 

奥多摩・檜原村の天光寺へ。

数十人が般若心情を唱える声が響いてくる。

ここは葬儀や供養と関係なく、「修行」に特化したお寺。

修行と言っても僧侶の修行でなく、対象は一般人で、

年間1万5千人が訪れるという。

 

「月刊終活」の取材でやってきたが、

メディア取材も多く、テレビ・新聞・雑誌はもとより、

ヒカキンをはじめ、いろいろなYouTuberも

体験レポートを発信している。

 

今日も本堂では、若者から中高年まで

40人近い人たちが修行に励み、写経、瞑想、お百度参り、

そして、滝行などを行っていた。

そして、10人以上の子供たち。

不登校や引きこもりの子たちもここで修行をする。

 

大人数が修行する場はもちろん、

食事や宿泊のための設備も整っており、

名だたる企業も修行・研修に訪れる。

お寺というより、研修センターに近い。

 

住職はもともと成功した実業家で、

20代の頃から飲食・不動産など、

さまざまな事業を手掛けていたが、

30代半ばで仏門を志願し、

それから10年以上かかって事業を整理したのち、

密教の修行を積んで僧籍を取得。

はなから葬式仏教に興味はなかったとのことで、

資産を投入して土地を買い、一般人の修行専門の天光寺を開いた。

 

ここはいわば、現代社会における「駆け込み寺」。

家庭・仕事・人生、様々な面で悩みや課題を抱える人たちや団体の

救済装置としての役割を担っているのだ。

 

修行した人に話を聴いたわけではないので、

本当に生き方・人間が変るのか、

ここでは悟りを開いたような気分になっても、

娑婆に戻ったらどうなるかはわからない。

でも、精神を整える施設として、

仏教の教えを活かした、こういう場所は

今の日本には必要なのだろうと思う。

 

秋川渓谷のある山の中だが、車でも、

電車・バスの乗り継ぎ

(五日市線・武蔵五日市駅からバス30分)でも、

都心や首都圏各地から日帰りで行ける。

 

座禅をやっているお寺は数あるが、

滝に打たれて修行とかって、僕は漫画でしか見たことない。

イメージの世界でしかなかったものを

リアルに体験できるお寺はそうないはず。

初心者向け修行メニューが用意されているので、

興味のある人、自分を変えたい人、

人生に変革を起こしたい人は、

ぜひ一度、体験してみるといいかも。

 


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はんざき祭りと「ハンザキを喰った話」

 

人や牛馬を襲う巨大ハンザキ(オオサンショウウオ)を

村の若者が退治したという伝説が伝わる、

岡山県真庭市の湯原地域。

その温泉街一帯で8日、「はんざき祭り」が開かれた。

大はんざきをモチーフにしたねぶたや山車が練り歩き、

河川敷では「はんざき囃子(ばやし)」に合わせて

みんなで踊り、花火や餅まきまであるという。

 

グロテスクな風貌から、恐るべき怪物と

みなされてきたハンザキだが、

昭和30年代には特別天然記念物に指定。

伝説とは裏腹に、獰猛さのかけらもなく、

清流で静かでのんびりした生涯を送り、

井伏鱒二の「山椒魚」みたいに

岩屋から出られなくなったりもする?

 

最近はそんな、ちょっとトロい生き様が

「グロかわいい」ということで、全国にハンザキファンが急増。

真庭市湯原温泉の「はんざき祭り」にも

東京などから、そうしたファンがやってくるようだ。

 

僕もハンザキに興味があり、

いろいろ聞いた話をもとに小説を書いてみた。

よろしければ、この夏休みに読んでみてください。

 

ハンザキを喰った話/おりべまこと

(AmazonKindleにて¥500)

https://www.amazon.com/dp/B09PGDSQMP

 

2000年、20世紀最後の年。

文福社の雇われライター神部良平のもとに、

一風変わった依頼が舞い込む。

クライアントは自称発明家の堀田史郎、齢100歳の老人だった。

かつて折りたたみ式ちゃぶ台の発明で財を成しながら、

親友の裏切りによってすべてを失った堀田は、

人生半ばに自殺の旅に出た。

 

しかし島根県のある村で思いがけない歓待を受け、

まだ天然記念物に指定される前の

ハンザキ(オオサンショウウオ)を食したという。

そしてその時から自分は不死身になったのだと語るのだ。

 

最初は老人の妄想だと疑っていた神部だが、

なぜか半分は信じたくなり、みずからハンザキの村を訪れる。

 

美しい清流に恵まれたその村では、

もはや半世紀前の因習は失われ、

ハンザキを食べていた記憶すら途絶えていた。

ところが神部は、人間と両棲類が混じり合った

怪物との衝撃的な遭遇を体験する。

 

古代から地球上に生き続ける最大の両棲類オオサンショウウオ。

その神秘的な生命力は、明治・大正を生きた発明家と、

昭和・平成のライターという二人の男の運命を

不可思議に結びつけていく。

 

夢と現実のバランスが崩れた世界で展開される、

現代日本文学の新たな幻想譚がここに誕生した。

ミレニアムという時代の転換点を背景に、人間の記憶と妄想、

そして生命の根源的な力について問いかける、

15章からなる本格長編小説。

読者は神部とともに、

真実と幻想の境界線上を歩むことになるだろう。

 


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「ひとりでしにたい」最終回:愛や自由について語る時代の再来

 

愛とか自由とかについて考えたり、語り合ったりする時代が

今また帰ってきたのじゃないか。

綾瀬はるかのNHKドラマ「ひとりでしにたい」の

最終回(2日)を見てそう思った。

 

やっぱり鳴海(綾瀬)と那須田(佐野勇斗)は結婚するのか、

それだとなんだかつまらない、

でも、ちゃんと恋人同士として付き合うことになるんだろうなと思っていたら、そうはならなかった。

すごく面白くて毎回見てしまったが、

従来のドラマのセオリーとしては大失格の作品である。

 

ドラマとは人間の変化を見せるものなのに、

そもそも主人公が始まったときと全然変わらない。

クライマックスも家族の食事会シーンで口論になるだけで、

盛り上がりもへったくれもない。

視聴者がこんなもの見るもんか!と、

90年代のトレンディドラマのロデューサーに

脚本を見せたら、びりびりに破かれそうだ。

 

この手の若い男女を主人公にしたドラマは、

一昔前まで感動ものであれ、コメディであれ、

劇的アクション、もしくはドタバタ狂騒曲をへて、

結婚に限らずとも、何らかの形で結びつくのがお決まりだった。

ハリウッドのドラマメソッドは1980年代に確立され、

80年代後半から00年代前半、アメリカでも日本でも

多くの映画やテレビドラマは

そのメソッドに基づいて作られていた。

 

簡単にいえば、紆余曲折を経て、ラストは平安が訪れる。

恋愛や友情や家族が色濃く絡めば、

ラストは結婚や子供の誕生など、

新しい家族が生まれるという喜びに満ち、

未来へ希望をもたらす終わり方にするべき。

もちろん例外はあるが、少なくともそれが王道であり、

視聴者の心を満足させる鉄板パターンであり、

そうでないものは大衆に受けいられるのは難しい。

 

僕がドラマの脚本を勉強をしていた頃はそう教えられた。

それはまんざら昔話でもないようで、

割と最近、シナリオ教室に行ったという人からも、

そうやって教えられたと聞いた。

けど、もう現実は違っている。

このドラマに共感を寄せる多くの視聴者--

鳴海と同じアラフォーやその下の年代は、

一見、何も変わらず、始まったときと同じく、

ひとりで自分らしく生きようとする鳴海の

内面の変化を感じ取っているのだろう。

 

しばらく前まで、家族が価値観の最上級、

唯一絶対の価値であったこの国では、

結婚すること、子どもを授かることは、

紛れもない、揺らぐことない幸福の証であり、

完全無敵の善だった。

 

しかし、今となっては、それは幻想だった。

それは何者かによる洗脳だったと、

現実に裏切られた人たちが気づいてしまった。

そして、家族って一種の「負債」ではないか?

という認識にも至ってしまった。

 

このドラマでは、特に那須田のセリフに顕著だが、

家族の問題・人生の問題を

経済用語で語る場面がやたらと出てくる。

今の世のなか、価値観の主軸が経済になっていて、

特にアラフォー以下の年代の人たちにとっては

それがデフォルトなのだろう。

 

家族主義の時代が終わって、

自分らしさを追求する個人主義の時代になった、

といえばそれまでだが、

家族という負債から解放された、自分らしさって何だろう?

愛とか自由とかの意味ってどうなってしまうんだろう?

と考えてしまった。

ただ、大いに笑った後にいろいろ考えられるということは、

よくできたドラマなんだろうな、やっぱり。

続編を望む声も多いが、すぐにやったら面白くない。

10年後の話だったら、また見てみたい。

それにしてもアラフォーになっても、綾瀬はるか、かわいい。

 


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アスリート芸人・宇野けんたろうさんのガチトレーニングイベントを取材

 

吉本芸人随一のアスリート 宇野けんたろうさんの

「走力アップ×夏バテ対策イベント」を取材。

題して「目指せサブ4!in 3Po 

 低酸素ルーム × 宇野メソッドで走力UP」を

今週水曜(30日)の夕方に行った。

 

宇野けんたろうさんは、おそらく長距離走にかけては、

当代きっての芸能人最速ランナー。

間寛平、猫ひろしの後継者ともいわれ、

フルマラソン2時間30分台の記録を持つ。

オリンピックなど世界レベルの大会の出場者が2時間10分台。

東京マラソン・男子出場者の平均が4時間30分前後。

タイトルにある「サブ4」とは

「フルマラソン4時間切り」のことで、

3時間台で走れば、市民ランナーと言えども

「エリートランナー」の仲間入りをすることになる。

 

宇野さんはそんな人たちを指導する、

すごい実力の持ち主であるとともに、

芸人なのでコミュニ―ション力や

人を楽しませることにも長けている。

 

というわけで、地元の江東区をはじめ、

あちこちのマラソン大会、スポーツイベントに

コーチやゲストとして引っ張りだこ。

彼を中心としたランナーたちのコミュニティもできているという。

 

そんな宇野さんと、江東区・亀戸にある

低酸素リカバリーフィットネスサロン「3Po(さんぽ)」が

タッグを組み、初めてのイベントを開催。

といっても大げさなものではなく、

宇野さんといっしょに走って

低酸素トレーニングを体験してみよう、というものだ。

 

約90分のタイムスケジュールは、

1.施設案内&ウォーミングアップ

2.宇野けんたろうさんと一緒に外ラン(約20分)

3.低酸素ルームでトレーニング体験(約20分)

4.本格リカバリーマシンで疲労ケア

5.お土産配布

 

午後6時半に10代~50代の男女8人が集合し、

3キロ外を走った後に、3Poの低酸素ルームに入り、

4人ずつ分かれて、バイクとウォーキングマシンを

交互に体験した。

「マイマウンテン」というウォーキングマシンは、

トレイルランニング(山歩き・山走り)の練習に利用する

特製マシンで、速度を変えられるだけでなく、

傾斜角度を50度まで上げ下げできる。

 

軽く外ランの後に低酸素ルームのマシンで追い込む、

という計画通り、

たった20分だが、室内で猛烈なトレーニングが繰り広げられた。

低酸素ルームは、常圧低酸素の環境を創り出し、

高地トレーニングを代替。

肉体を細胞レベルで作り変えていくというもので、

近年、アスリートの間で急速に広がっている。

 

ここでの運動は、普段の状態での運動の3倍以上の効果、

つまりここで20分トレーニングすると、

単純に1時間以上のハードトレーニングをしたのと

同等の効果が得られるのだ。

 

そのため、負荷のかけすぎで体が悲鳴を上げたのか、

途中でバテてリタイアする人も。

終わった後、宇野さんに聞いてみたところ、

「今日はちょっとうやり過ぎたかも」

 

僕もここでバイクとマイマウンテンをやったり、

高齢者たちが健康増進のために利用するのを

取材したりしてきたが、今回、ガチランナーたちが思いきり、

マシンと格闘するのを目の当たりにして、

奇しくも、低酸素トレーニングのすごさ・クオリティを実感した。

 

最後、宇野さんは、

「こんな猛暑の季節に外で

ガチなトレーニングを続けるのは難しい。

できるのは早朝3時間、夜3時間くらい。

日が暮れても地面は熱をたくわえているので、

下手にやりすぎると危険です。

その点、こういう施設があると心置きなく、

からだに負荷をかけ、トレーニングに励める。

地元の亀戸にこんな施設ができて、うれしい」と話した。

 

トレーニングの後は脚の血流を癒すメドマーや、

筋肉をほぐすバイブレーションチェアなどで

癒しのひと時も。

 

今回のイベント企画者・スポーツメンタルコーチの

押田海斗さんのメンタル新聞、

新小岩でグルテンフリーのクレープ店

「おこめのおくりもの」を営む

和田あいりさんの「グルテンフリーフィナンシェ」の

お土産もついて、みんな大満足の楽しいイベントになった。

 


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真夏の昭和スイカ子ども伝説

 

夏の食べ物と言えばスイカ。

他にもいろいろあるが、やはり圧倒的に迫力がちがう。

 

でかくて丸くて重い。

もしこれで大谷選手が時速160キロの剛速球を投げたら、

バットは確実にへし折られるだろう。

デッドボールを食らったら死ぬかもしれない。

 

それでいながら、丸くて色鮮やかでかわいい。

これほど夏に似合う食べ物もないだろう。

 

昭和の時代、スイカは子どものものだった。

大人は子どものおこぼれを預かっていた。

そうなのだ、スイカ食いの主役は子どもだ。

子どもが食べるから、スイカは楽しくて面白かった。

 

あのでかいやつをかち割って、

いとこたちと、近所のガキどもと、町内のクソガキどもと、

学校のバカどもと、みんなで分けて食った。

 

もちろん、家でも家族みんなで食った。

じいちゃんの記憶はほとんどないが、

なぜか真夏にいっしょにスイカを食っていたことは覚えている。

おじさんも、おばさんも、みんないてスイカを食った。

 

僕が生まれたのは、ひどくボロい借家だったが、

小さな内庭があって縁側があった。

その縁側から家族や友だちとタネ飛ばし競争をやった。

じいちゃんがタネを飛ばしていた映像が頭の片隅に残っている。

 

「スイカは英語で『タネプップー』にしましょう」

明日アメリカに行くというのに、

頭をぶつけて英語を忘れてしまった友人に

そう提案したのは、バカボンのパパである。

 

「天才バカボン」のマンガ家・赤塚不二夫は、

スイカに思い出やこだわりがあったらしく、

夏になるとマンガの中に必ずスイカが登場した。

 

その中で面白かったのが、「おそ松くん」などで

スイカの皮が紙のようにペラペラに薄くなるまで

食べるというやつである。

スイカをペラペラになるまで食う、というのは貧乏人の証だった。

「ほら、これ、あそこの家のスイカ」

「うわぁ、ぺっらぺら」

「ギャハハハ」

という会話で貧乏人を笑ってギャグが成立した。

その頃はみんな貧乏だったので、それでよかったのだ。

昭和の貧乏はあたたかくて楽しくて、

今となってはノスタルジーだ。

 

というわけで、僕はその赤塚ギャグが大好きで、

いとこや友達と「スイカペラペラ競争」をよくやった。

どっちがより薄くスイカを食べられるか競うのだ。

 

昔のスイカは、今のより皮が厚く、

白い皮の部分はぜんぜん味がない。

それでもひたすらかじりまくった。

そして笑った。

そういうばかばかしさがスイカにはよく似合った。

 

夏は子どものものだった。

まだ暑いことが、元気で楽しかった時代。

今、夏休みでも、昼間の公園に子供の姿は

ほとんど見当たらない。

これほどの猛暑、熱中症の危険があるからしかたがないが、

日本の夏もサマーがわりしてしまった。

 

でも、スイカは暑ければ暑いほど、甘くなるらしい。

明日から8月。スイカをいっぱい食べよう。

 


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ペット葬・ペット供養のメッカと愛情の行方

 

「旦那はお安く直葬でいいけど、

うちのわんちゃんのお葬式は

何百万円かけてもいいから盛大にやりたいわ」

 

そういう奥さんが増えているらしい。

半分冗談だと思うが、本音度はそう低くない。

家族だろうが恩師だろうが、知人友人だろうが、

とかく人間同士の関係は、

愛情以外のいろんな感情・打算・損得勘定、

その他、いろんなしがらみがまとわりつく。

 

それに比べてワンちゃん・ネコちゃん(その他ペット)

との関係は愛情100パーセント。

そして通常は、親である飼い主が、

子供である犬・猫の旅立ちを見送ることになるので、

そのお葬式は人間のものよりも相当感情的になるらしい。

 

府中にある慈恵院の「多摩犬猫霊園」は

100年の歴史を持つ霊園。

最近でこそ、多くの飼い主が

ちゃんとペットを弔うようになったが、

大正や昭和の貧しい時代にそんな需要があったのだろうか?

 

と訝っていたが、取材でお話を聴くと、

その頃からセレブな方はちゃんと

犬猫を手厚く弔っていたようだ。

皇族をはじめ、大企業経営者、政治家、芸能人・・・

知っている有名人の愛犬・愛猫のお墓も多い。

本堂、納骨堂、霊園、色々見せてもらったが圧巻のひとこと。

広大な境内に火葬場もちゃんと設備されている。

100年の歴史はだてじゃない。

 

最近はどこのお寺・葬儀社なども

ペット葬を手掛けるようになっているが、

その多くはこちらをお手本にしたいと、

見学や相談に訪れるという。

少なくとも東京で唯一、東日本で断トツの

ペット葬・ペット供養のメッカである。

 

しかし、セレブ御用達だから、めっちゃ高いかというと、

そうでもないので、わが子を手厚く弔いたいという人は、

知っておくといいかもしれない。

 

ペットが家族化し、人間より大事に弔われる風潮を

嘆く人、怒る人もいるかと思うが、

そういう人は、自分が周囲の人たちをどんな目で見て、

どう付き合っているのかを、もう一度、考え直し、

犬・猫みたいに愛情をもって接してもらいたければ、

振る舞いや考え方を変えたほうがいいかもしれない。

 

現代人は、人間同士の愛情に希望をなくしている。

でも愛情・人情べったりより、

ほどほどの距離感があったほうがいい場合もあるので、

何とも言えない。

 


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真夏の昭和立志伝

 

とあるグループ企業のトップの方からご指名を受けて、

自叙伝を代筆することになった。

初対面でいろんな話を聴かせていただいたが、

昭和の起業家の話はやっぱり面白い。

 

僕の父もそうだったが、

戦後の復興期から高度経済成長の時代、

志を立て、ハングリー精神を持って

荒れ地を開拓するかの如く、突き進めたのは、

ある意味、幸福な時代だった。

昭和の社会は野蛮で闇も多かったは、その分、

シンプルに成功を、幸福を追求できたのだと思う。

 

そんな歴史をとどめて後進に伝えたいという思いを

抑えることができないというのだ。

高齢とは言え、聡明でダンディな方なので、

自己満足であることは、

おそらくご本人もわかっているのだろうと思う。

でも、人に迷惑をかけるものでない限り、

自己満足は徹底的に追求してほしい。

またまた仕事として、

昭和立志伝を書くチャンスをもらって、

暑さも吹っ飛ぶほど光栄だ。

 


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ロックってやっぱりカッコいい。 渋谷陽一の文章を読むとそう思う

 

音楽評論家の渋谷陽一さんが亡くなった。

雑誌「ロッキンオン」の編集長で、

ロックフェスのプロデューサーだったが、

僕の中では、若かりし頃の音楽ライター&DJの印象がほとんど。

僕がロックにハマったのは、

彼の文章やDJトークの影響が大きかったと思う。

 

1970年代の半ばから80年代初めごろまで、

彼の書く文章をむさぼるように読んでいた。

その頃はネットなど影も形もなく、

音楽を聴くうえで信頼できる情報は、

雑誌であり、レコードに入っているライナーノーツだった。

 

レッド・ツェッペリンのライナーノーツの文章は

今でも忘れられない。

なかでも印象的だったのが7枚目のアルバム「

プレゼンス」のライナーノーツ。

 

「ロックってやっぱりカッコいい。

レッド・ツェッペリンを聴くといつもそう思う」

 

と、何のてらいもなく書き放ち、

なぜ、ツェッペリンがそれほどカッコいいのか、

数あるバンドの中で特別なのかを、

アルバムタイトル「プレゼンス(存在)」と絡めて、

さらりと、しかし、力強く言語化していた。

わずか800字程度だったと思うが、

その文章がとんでもなくカッコよかった。

 

「プレゼンス」はツェッペリンの作品の中でも、

全体的にやや地味な印象のアルバムだが、

その渋谷さんのライナーノーツのおかげで、

ひときわ輝く存在になった。

 

キング・クリムゾンの「エピタフ」を社会批評の歌、

そして「レッド」をプログレでなくハードロック、

と最初に評したのも渋谷さん、

エマーソン・レイク&パーマーを

「70年代ロックの巨大な打ち上げ花火」

と言い表したのも渋谷さんだった。

 

渋谷さんひとりではないが、

当時の音楽ライターたちの文章は、ロックをただの音楽ではなく、

僕たちに必要なカルチャーに昇華させていた。

それらは間違いなく、僕らの精神を豊かにし、

現実と未来を生きていく糧になった。

 

彼が敬愛していたジミー・ペイジも、

ポール・マッカートニーも、

ミック・ジャガーも、まだ生きている。

彼が励まし続けた佐野元春もバリバリの新作を作っている。

ロックはまだ終わっていない、と信じたい。

 

渋谷陽一さんのご冥福をお祈りします。

 


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日本には外国人もAIもロボットも必要

 

昨日の夕方、参院選の期日前投票に行ったら大混雑。

連休なので前日のうちに投票を済ませて、

日・月はお出かけしようという人が多いのかも。

 

選挙があるたびに「変わる」「変える」「変えよう」と、

捕手も革新もそろって連呼するが、

この30年、本質的なところは何も変わらなかった。

そしてちよっと変えてみたけど、全然うまくいかなかった。

(30年前の社会党、15年前の民主党)

 

さすがにそろそろ本気で変える・変わる潮目が来たのかな、

といった期待感だけはある。

消費税とともに外国人問題が争点となっているが、

僕は外国人も、AIも、ロボットも、

この先の日本には必要だと思う。

 

豊かになって精神的貴族が増えたこの国で、

昭和と変わらない考え方・やり方がまかり通るわけがない。

世界はこの先、あらゆるものがフラット化する。

どの国にいても同じ質の商品やサービスが手にでき、

ある程度のレベルの生活が保てるようになる。

そうなるには日本人だけではやっていけないし、

AIやロボットの助けがいる。

 

そんなわけで、変革のために

ちゃんと伝わる政策を掲げているれいわ新選組、

そして長期的には、

AIを駆使してやっていこうという可能性を秘めた

チームみらいに票を入れた。

新しい未来を感じられる結果が出ることを期待している。

 


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55年がかりの夏休みの宿題

 

6月からのひどい暑さにKOされてしまったが、

子どもたちはこれからやっと夏休みに入るところ。

なんだか夏休みパート1が終わって,

パート2の始まりという感じ。

もしかしたら9月以降にパート3もあるかもしれない。

 

大人になって久しいので、

もはや夏休みという言葉には郷愁しかない。

会社員になったことがないので、

お盆休みには無縁だし、

わざわざ混雑する時期に出かけることもなかった。

だから、自分の中で夏休みとは、子どもの夏休みのことである。

 

そんなわけで一度、夏休みをテーマにした話を書こうと思って、

何年も前から取り組んでいるのだが、なかなかできない。

去年の夏はザクザク進めて、こいつは行けそう

と思ったのだが、途中で止まってしまい、

そのまま、また長らくお休みしてしまった。

今年の夏、突破口を見つけてまた書き始めている。

 

この話のベースにしているのは、

小学校5年生の時に友だちと一緒に書いた

小説(のようなもの)である。

内容も登場人物もまったく違えているが、

自分の中ではあの小説を再現する感覚で書いている。

 

もちろん、そのノートは残っていない。

紙面が真っ黒に見えるほど、びっしり字で埋め尽くし、

あちこちにマンガみたいな挿絵を入れていたのは、

今でも目に浮かぶ。

 

大体のストーリーをはじめ、

キャラ設定や何がどうしたという展開も

けっこう記憶に残っており、

書いていくと、どんどんいろいろなことを思い出す。

 

ついでに小学校5・6年生の時の

クラスメートの顔や声も思い出す。

最近は小学校も高学年になると、

スクールカースト化が始まって、

子どもたちが階級で分断されていく、という。

そんな話を聴くと、いい気持ちはしない。

 

昔がよかったわけではないが、

少なくとも、そうした不幸な分断・選別が

当たり前みたいに語られることはなかった。

 

僕が子供の頃の学校では、

なんとなく仲がいい同士のグループはあったが、

みんな、グループ間を自由に行き来していた。

とくに5・6年生の時のクラスは

小中高のなかで最も好きなクラスで、

いろいろなやつがいて、毎日いろいろなことが起きて、

本当に面白かった。

 

それにしても10歳の頃に書いたものを

60歳を過ぎてまた書く気になるなんて

夢にも思っていなかった、

なんだか55年がかりで夏休みの宿題を

やっているような気がする。

秋風が吹いて涼しくなるころには完成させたい。

今年こそ。

 


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政党プロモーション動画をちゃんと作れ

 

参院選が近づいてきて、

「期日前投票行ってきました」

という投稿をチラホラ見かけるようになった。

消費税・給付金・社会保障・外国人問題・・・

争点はいろいろあるが、

一般の有権者にとっては、どうも各党の主張がわかりにくい。

これは今に始まったことでなく、

選挙があるたびに感じることだ。

 

選挙公報がある。

政見放送がある。

各党のホームページがある。

それはそうだろうし、そういうものちゃんと見て、

誰に、どの政党に投票するか、しっかり検討するのが、

まっとうな有権者だ。

 

という意見は、ごもっともだが、

現実問題、忙しい現代人がそこまでちゃんとやれるのか疑問だ。

もちろん、僕もちゃんとやれてない人の一人である。

それで面倒になって、SNSで流れてくる、

あそこがいい、あそこはだめといった情報、

それも感情的男・煽情的な情報を鵜呑みにしてしまう。

デマ情報にも簡単に踊らされてしまう。

そこでもっと活用すべきなのではないかと思うのが、

プロモーション動画である。

それも街頭演説を切り取ったようなものや、

ほんわかイメージだけのもの、

ただひたすら熱く語るだけのものではだめ。

 

その点、今回、感心したのは、

山本太郎率いる「れいわ新選組」のプロモ動画である。

データを明示して「だからこういう政策を取る」

ということを、テンポよく5分足らずで

論理的に、エンタメ的要素も入れて、しっかり見せている。

彼らの主張・政策がいいのかどうかは別の問題だが、

すごくわかりやすい。

今まで見た政治関係のプロモ動画のなかで

最もクオリティが高い。

 

どの党もこれくらいのクオリティの動画を作っ

理念・政策を訴えるべきだ。

それで興味を覚えた人は、

選挙公報・政見放送・ホームページを当たれば良い。

動画の時代になっているのに、党の顔になるプロモ動画が、

わけのわからないへぼなものではお話にならない。

 

もう今回は間に合わないが、

今回のれいわのプロモ動画をお手本に、

どの党も、有権者の投票行動に結びつく、

ちゃんとしたプロモ動画を作ってほしい。

 

※気になる人は「政党プロモ動画」で検索すれば、

上位にれいわのが出てくるので見てみてください。

 


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映画「国宝」 畸形の演劇と女形の生き様

 

かつてはギリシャ劇にも、シェイクスピア劇にも、

中国の京劇にも、能・狂言にも、女優は存在せず、

男の俳優だけで芝居は上演されてきた。

いろいろな事情があったと思うが、女が舞台に立つと、

多くの男がそれに現を抜かして働かなくなり、

社会が立ちいかなくなったので、為政者が禁じたのだろう。

 

しかし、社会の発展とともに演劇の世界は広く開放され、

女優もだんだん舞台に立つようになった。

21世紀の今日、世界でいまだに女優が舞台に立てない演劇は、

日本の歌舞伎だけである。

江戸幕府によって女優が禁じられてから400年。

女を演じる男優--女形は

何代にもわたってその技芸が伝承されてきた。

今や一種の世界遺産ともいえる独特のスタイルだ。

 

その女形に人生を賭け、紆余曲折を経ながら

ついに人間国宝にまでたどり着く男の物語。

吉田修一の同名小説を映画化した「国宝」。

1964年から2014年までの50年間を描いた一代記は、

歌舞伎の世界の裏側を見事に描き出している。

 

歌舞伎は一見、華やかでセレブな世界だが、

よく考えたら、何でいまだにこんな慣習・ルールが成り立つの?

と思えるような魔訶不思議な世界であり、

畸形の演劇ともいえる。

 

いまだに女が舞台に立つのが許されないことに加え、

伝統芸能でありながら、国家に守られているわけでなく、

純然たる商業演劇として運営されていること。

家・家族で伝承する技芸であるからこそ、

「血」を守っていくためのこだわりが強いこと。

 

みんな、小さな世界で生きているので、

身内・味方に対する愛情・友情・敬愛心は強いが、

一旦事情が変わると、

たとえば、父親・師匠などの後ろ盾を亡くしてしまうと、

たちまち冷淡に扱われ、干されるようになる。

要するに、この物語の主人公・喜久雄のように、

才能があれば、芸が優れていれば出世できるという

フェアな世界ではないのだ。

 

とはいえ、商業演劇なので、

客を集め、興行を打っていくため、

常に客の期待・時代のニーズに応え、

新しいスターをプロデュースする必要がある。

その微妙なバランスのなかで歌舞伎は生き延びてきた。

 

そのあたり、原作(まだ読んでないが)は

かなり詳細に買いているようだが、

この映画でも十分描き出している。

重厚なドラマは、昭和・平成の時代背景も相まって、

素晴らしく見ごたえがあって、

3時間以上の長丁場でもまったく飽きさせない。

 

吉沢亮と横浜流星の熱演が話題になっていて、

もちろん、彼らの感情表現や演技・踊りは素晴らしいのだが、

僕としては、この2人に影響を与え、

無言のうちに「女形の生き方」を示唆する

人間国宝・小野川万菊の存在が、とりわけ胸に刺さった。

 

演じるのは、長らく孤高のダンサーとして活躍してきた田中泯。

その妖怪じみた女形ぶりはすさまじく、登場シーンになると、

まるでそこだけアングラ演劇の世界みたいになる。

そして、人間国宝という栄誉ある称号にあるまじき

最後の登場シーンは、戦慄を覚えるほど印象的で、

そこに「国宝」というタイトルの意味が

込められているように思えた。

 

昭和の時代まで、歌舞伎役者は江戸時代の身分制度を引きづった

「河原乞食」だった。

今でこそセレブ扱いされるが、一般的なセレブイメージと、」

彼らの生きる世界・人生には大きなギャップがある。

映画「国宝」は、そんな歌舞伎という畸形の演劇の歴史・文化、

そしてこの特殊な世界を成立させている人間模様を感じ取ることができる奇跡的なコンテンツだ。

 

舞台のシーンの迫力、女形を演じる喜久雄(吉沢亮)と

俊介(横浜流星)の美しさ。

この映画の魅力・価値を堪能するには、

テレビやパソコンサイズではだめで、

絶対に映画館の大スクリーンで見るべきだと思う。

 


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777

 

素数である7は神秘のムードをまとい、

マジックナンバーとして古今東西、一目置かれてきた。

その7が3つ並ぶ(3ももちろん素数でマジックナンバー)

令和7年7月7日は大ラッキーデイ!

と大騒ぎになることもなく過ぎ去ろうとしている。

 

思い返すと、7はやはりミステリアスな数字。

かの「ノストラダムスの大予言」も、

空から大魔王が降ってくるのは「7の月」だった。

他の数字だったら、あそこまで話題にならなかったのではないか。

 

おとといの予言だか予知夢だかの「7月5日」も、

本当は7月7日にしたかったのだと思う。

でも、777だと、さすがに出来過ぎ感がするので、

少しずらして5日にしたのだろう。

 

「セブンイレブン」が成功したのは、

もちろんコンビニエンスストアという

新しい商形態を生み出したからだが、

「7(セブン)」のマジックも侮れない。

 

11も素数。素数を二つ並べ、韻を踏み、語感も抜群。

もともと午前7時開店、午後11時閉店という営業だったので、

理屈も整い、説得感も抜群。

誰でも一発で覚えられる最強のネーミングだ。

もし店名が「セブンイレブン」でなかったら、

コンビニエンスストアはこれほど普及しなかっただろう。

というのは言い過ぎ?

 

世の中のことはともかく、

自分の人生で7がつく日に何か大きな出来事があっただろうか、

と思い返してみた。

2つ思い当たった。

息子の誕生日が5月17日。

父の命日が12月17日。

ついでに言うと、祖父の享年が77歳だった。

こうなると、自分の命日や享年が気になるが、

それは考えずにおこう。

 

雨が降らなかったので、織姫と彦星は無事に会えただろう。

7は星や宇宙とも相性抜群。

ウルトラセブンもシックスやエイトじゃサマにならない。

やっぱりセブンはミステリアスでファンタジックで大好きだ。

 


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佐野元春朝イチ出演 本物の還暦ロック

 

NHK朝イチ・プレミアムトークに佐野元春がゲスト出演。

僕は見ていないが、カミさんが見て「カッコイイ」と感激。

いろいろ内容についても教えてくれた。

ネットでも盛り上がり、ひと騒動だったようである。

佐野元春は若い頃よりカッコよく、

全世代にメッセージを伝えられる数少ない「ポオラ・スター」だ。

 

いま還暦を超えて活躍するミュージシャン・

アーティストは珍しくない。

いったん消えたが、高齢化する世の中の様子を見て

「まだできそう」と思って戻ってきた人もいるだろう。

あるいは、視聴率を取れるネタに困った

テレビなどのメディアに呼ばれるのかもしれない。

 

ただ、多くはどうしても「あの頃はよかったワールド」になり、

かつて青春を共有したファンたちが、彼・彼女らを囲んで

懐メロという暖炉であったまる――

という同窓会みたいな図式になっている気がする。

いわば懐メロ専門スターが増えているのだ。

 

それが悪いことだとは言わない。

懐メロで心を癒し、過去を振り返ることも大切だと思う。

でも終始それでいいのか?面白いのか?

全部でなくていいが、できれば半分、

せめて2,3割くらいは現役感・未来感があってほしい。

 

それに齢を取ると、その人の生き方が自然と佇まいに現れる。

どんなに着飾ろうが、若づくりしようが、

カッコよくはならない。

若い頃なら許された、だらしない言動、

人を不愉快にさせるような言動は、

無意識のうちに、かなり醜い形で表に出てしまう。

逆に誠実に、自分らしく生きてきた人はカッコよくなっていく。

これはミュージシャンや芸能人に限った話ではないと思う。

 

佐野元春が歳を取れば取るほどカッコよくなっていくのは、

おそらくそうした原理が働いているからだろう。

バックバンドやスタッフに恵まれているのかもしれない。

しかし、それは彼の才能と人柄、

もっと具体的に言えば、時代に応じて表現を変えつつも、

一貫して自分の思いや意見を、

誠実に音楽にし続けてきたからこそ、

強い味方となる周囲の人々を引き寄せるのだ。

 

むかし、「つまらない大人にはならない」と吠えていた

ミュージシャン、アーティストは大勢いた。

そのうち、何人がそれを実践できただろう?

いま、実践しているだろう?

 

佐野元春はつまらない大人にならなかった。

70歳に近くなった今、自信を持って

「ガラスのジェネレーション」をリメイクし、

魂を込めて歌える彼を、リスペクトせずにはいられない。

 


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小さな生き物たちの夏ものがたり

 

7月の声を聴くと、すぐに近所の公園でセミが鳴きだした。

やつらはカレンダーがわかっているらしい。

というわけで、いよいよ夏本番。

といいたいところだが、もうとっくに夏は真っ盛り。

関東はまだ梅雨明けしていないが、連日の暑さでうだっている。

 

そういえば雨が少なくて暑すぎるせいか、

近年、カタツムリをあまり見かけない。

息子がチビだったころには、

いっしょにでかいカタツムリを見つけて喜んでいた。

前の家の庭にもガクアジサイの葉の上を

よくノロノロ歩いていた。

 

今は家を出てすぐに大きな公園と川があり、

草木も豊富、アジサイの花も咲いているのだが、

カタツムリをまったく目にしない。

まさか知らぬ間に絶滅したのではないかと、

ちょっと心配になる。

 

夏になると、生き物たちの活動は活発になる。

昨日は廊下の窓にぺったりとヤモリが貼りついていた。

ガラスにへばりついていると、

ひんやりして気持ちいのかもしれない。

ちょっと窓をズラしてやると、

驚いてペタペタ動きまわる。

ヤモリは可愛いし、家を守ってくれる「家守」なので愛している。

トカゲもちょろちょろしていて可愛い。

 

このあたりの輩は高速移動できるからいいが、

悲惨だなと思うのはミミズである。

ここのところ毎日、

道路のアスファルトの上でひからびているミミズに出会う。

それも一匹や二匹ではない。

赤黒くなったゴム紐状のミミズの乾燥した死体が

数メートルおきに道路の上に貼りついているのだ。

まさしく死屍累々という言葉がぴったりである。

 

それにしても、なぜだ?

果てしない砂漠の真ん中で息絶えてしまった、

無数のミミズたちに僕は問いかける。

 

おまえたちは土の中で生まれたのだろうに、

なぜこんな真夏の日にアスファルトの上にはい出てきて

熱線で焼かれて死ななくてはならなかったのか?

なぜ故郷をあとにしたのか?

なぜ命がけの旅に出なくてはならなかったのか?

この道路の向こう、この地獄を超えた先に、

おまえたちの目指す楽園があったというのか?

それはあの植え込みか、草むらか?

もちろん、誰も答えてはくれない。

 

ヤモリやトカゲのように高速移動できれば。

セミやハチやチョウのように空を飛べれば。

せめてバッタのようにピョンピョン跳ねることができれば。

しかし、ミミズはミミズ。

地を這い、土に潜る。

それが宿命づけられた生き方だ。

その生き方を目指して、ここでお天道様に焼かれて死ぬのなら、

それは本望だと、ミミズ生をまっとうできたのだろうか?

 

というわけで死屍累々の写真も撮ってみたが、

ちょっと悲惨過ぎて載せられない。

ま、元気溌剌のヌルヌルしたミミズくんの写真を見るのも

いやだという人が多いだろうが。

なので本日は、クールビズしている

元気なヤモリくんの写真だけにしておきます。

 


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綾瀬はるか「ひとりでしにたい」大ヒットで 1億総終活時代到来

 

NHK・綾瀬はるか主演の終活ドラマ

「ひとりでしにたい」が大人気で、大河・朝ドラを凌駕する勢い。

カレー沢薫の同名マンガをドラマ化した作品で、

僕も土曜日に見たが、確かに面白い。

 

それにしても僕の中では、

綾瀬はるかはまだ若手女優だったのに、

そんな、終活なんて…と思って調べたら、彼女ももう40。

役柄はもっと年上の設定らしいが、

もはや40から終活を考えるのが当たり前になってきたようだ。

 

そういわれてみると、4月に参加したデスフェスの

スタッフも多くは40代

(はっきりとは知らないが、平均とったら多分)。

来場者もそのあたりの人が多かったような気がする。

今や60・70代よりも40・50代のほうが

しっかり死生観を持っており、終活に熱心なのではないか?

 

それどころか、20・30代も

「今から終活だ!悔いなく生ききるぜ!」と言っている。

どうやらがんばって終活するためには、

若いエネルギーが必要なのだ。

60・70代からじゃ遅すぎる?

いったいどうなっちょるんじゃ?

あっという間に1億総終活時代に突入だ。

 

「ひとりでしにたい」本当に面白いので、

観てない人は、NHKプラスで観てみてください。

 

電子書籍「僕たちはすでにセンチメンタルなサイボーグである」

無料キャンペーンは本日終了。

ご購入ありがとうございます。

よろしければレビューをお願いしますね。

 


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AIライフ、サイボーグ人生に興味のある方はぜひどうぞ

エッセイ集:AI・ロボット2

僕たちはすでにセンチメンタルなサイボーグである

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あとわずか。この機会にぜひどうぞ。

 

 

私たちが「純粋な人間」だった時代はもうとっくに終わっています。

住環境から身体機能まで、あらゆるものがテクノロジーに支えられた現代において、人間とは何かを問い直す時が来ました。

本書は、AI・ロボット時代を生きる現代人の等身大の心境を綴った、

おりべまことの面白まじめエッセイ集「AI・ロボット編」の第2弾です。

その内容の振り幅には驚かされます。

アンドロイド観音への戸惑いから始まり、

生成AIに「これは60点だ。他の奴はもっといいのを出してくるぞ」と

罵倒する「パワハラプロンプト」の実践、

パリ五輪のヒューマンエラーをAIと哲学的に語り合う日常、

さらには「自分好みの女がいくらでもAIで作れる世界」への言及まで——

26編のエッセイが現代人の赤裸々な本音と葛藤を

容赦なく描き出しています。

 

特筆すべきは、著者がAIを恐れるのでも崇拝するのでもなく、

まるで「ちょっと変わった友人」のように接していることです。

終活・終末期医療における

「差別・偏見なきAIの目」に希望を見出す一方で、

SF映画のアンドロイドたちの変遷から人間観の変化を読み解く。

 

この絶妙なバランス感覚こそが、本書を単なるテクノロジー論から

人間ドラマへと昇華させています。

「センチメンタルなサイボーグ」である私たちが、

これからどこへ向かうのでしょうか。

AI時代の人間のあり方を考えるすべての人に贈る、

示唆に富んだエッセイ集です。

 

もくじ

アンドロイド観音とどう向き合うか?

100万回生きたロボット

ロンドンのAI孝行孫娘をご紹介します

生成AIへのパワハラプロンプトと人間の価値

ヒューマンエラーまみれのパリ五輪についてAIと語る

自分好みの女がいくらでもAIで作れる世界

終活・終末期医療における差別・偏見なきAIの目

人生の半分はオンラインにある

AIはマンガのロボットみたいな相棒

AIエロコンテンツが現実世界を変えていく

 

ほか全26編採録

 


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「どうして僕はロボットじゃないんだろう」から 「僕たちはすでにセンチメンタルなサイボーグである」へ

 

 

子供は、強くて賢くて、何でもできちゃうロボットっていいな、

カッコいいな、僕もロボットだったらよかったのにな、

と憧れるのに、

大人になると「わたしはロボットじゃないんだ!」と言いだす。

なんで?

 

でも、齢を取ってくると、ふたたび、

ロボットだったらよかったのに、と思うかもしれない。

だってロボットはアンチエイジングだし、死ぬこともない。

 

最近思う。

人間として生まれた以上、

僕たちは一生ロボットにはなれないが、

技術の力で限りなくロボットっぽく生きることはできる。

私はそんなのごめんだ、

という人もこの時代に生きているかぎり、

じつは刻一刻とすでにサイボーグ化しているのだ。

 

そんな思いを込めて、AI・ロボット・エッセイ集第1弾

「どうして僕はロボットじゃないんだろう」から

第2弾「僕たちはすでにセンチメンタルなサイボーグである

AIライフ、サイボーグ人生に興味のある方はぜひどうぞ。

 

6月30日(月)15:59まで

2025年半分終了記念 無料キャンペーン開催中!

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「僕たちはすでにセンチメンタルなサイボーグである」無料キャンペーン開催

 

おりべまこと電子書籍 エッセイ集:AI・ロボット2

 

僕たちはすでに

センチメンタルなサイボーグである

 

本日6月27日(金)16:00~30日(月)15:59

2025年半分終了記念 4日間無料キャンペーン開催

 

私たちが「純粋な人間」だった時代はもうとっくに終わっています。

住環境から身体機能まで、

あらゆるものがテクノロジーに支えられた現代において、

人間とは何かを問い直す時が来ました。

 

本書は、AI・ロボット時代を生きる現代人の等身大の心境を綴った、

おりべまことの面白まじめエッセイ集「AI・ロボット編」の第2弾です。

 

その内容の振り幅には驚かされます。

アンドロイド観音への戸惑いから始まり、

生成AIに「これは60点だ。他の奴はもっといいのを出してくるぞ」と

罵倒する「パワハラプロンプト」の実践、

パリ五輪のヒューマンエラーをAIと哲学的に語り合う日常、

さらには「自分好みの女がいくらでもAIで作れる世界」への言及まで——

26編のエッセイが現代人の赤裸々な本音と葛藤を

容赦なく描き出しています。

 

特筆すべきは、著者がAIを恐れるのでも崇拝するのでもなく、

まるで「ちょっと変わった友人」のように接していることです。

終活・終末期医療における

「差別・偏見なきAIの目」に希望を見出す一方で、

SF映画のアンドロイドたちの変遷から人間観の変化を読み解く。

 

この絶妙なバランス感覚こそが、本書を単なるテクノロジー論から

人間ドラマへと昇華させています。

「センチメンタルなサイボーグ」である私たちが、

これからどこへ向かうのでしょうか。

AI時代の人間のあり方を考えるすべての人に贈る、

示唆に富んだエッセイ集です。

 

もくじ

アンドロイド観音とどう向き合うか?

100万回生きたロボット

ロンドンのAI孝行孫娘をご紹介します

生成AIへのパワハラプロンプトと人間の価値

ヒューマンエラーまみれのパリ五輪についてAIと語る

自分好みの女がいくらでもAIで作れる世界

終活・終末期医療における差別・偏見なきAIの目

人生の半分はオンラインにある

AIはマンガのロボットみたいな相棒

AIエロコンテンツが現実世界を変えていく   ほか全26編採録

AIにご興味のある方、この機会にぜひご購入下さい。  

 


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山口百恵版「伊豆の踊子」に描かれた 日本人の差別意識とエロ意識

 

なぞの演出満載の山口百恵版「伊豆の踊子」

 

小説(原作)と映画は別物。

それはそれでいいのだが、

そのギャップが大きければ大きいほど。

ツッコミがいがあって面白い。

「伊豆の踊子(1974年:三浦友和・山口百恵版)」は

その最たる例と言えるかもしれない。

 

川端康成の原作は、割と淡々とした小品だが、

映画にするなら、

全体をもっとドラマチックにしなくてはいけない。

それも当時のスーパーアイドルが初めての主役とあれば、

その見せ場もいろいろ作る必要がある。

 

というわけで、この作品の場合は、

そうした娯楽映画・アイドル映画のセオリーを踏まえながら、

社会問題を盛り込んでやろうという野心が込められていて、

謎めいた演出が随所に散見される。

 

日本人の差別問題が裏テーマ

 

社会問題とは差別問題だ。

1960年代のアメリカの公民権運動や女性解放運動などの余波は

ちょっと遅れて日本にも及んだ。

70年代前半は、学生運動の挫折があり、

昭和の高度経済成長という繁栄の陰にあった、

ダークなるもの・ダストなるものが見えてきた時代。

 

当時の先鋭的な文化人や屈折した若者たちが、

当時、まだあまり表沙汰になっていなかった、

日本社会における差別問題を掘り起こし始めていたのだ。

 

川端康成はそんなに意識していなかったと思うが、

大正末期に書かれた「伊豆の踊子」には、

そうした日本人の差別意識が、

いかんともしがたい悪しき現実として、

随所にちりばめられている。

映画はそれらの材料をかき集め、

大きく増幅して裏テーマみたいな形で描きだしている。

 

「あんな連中とは関りにならないほうがいい」という呪文

 

 

三浦演じる旧一高の学生は超エリートのボンボンで、

彼が旅路で出会う商人や旅館の人たちは皆、彼にやさしい。

旅芸人たちは、そうした商人たちの下の階層に置かれていて、

下賤な職業の人間として蔑視されている。

 

物語冒頭、学生と踊子たち旅芸人一座が出会った

休憩所(だんご屋)の婆さんは、

旅芸人たちと親しげに話していたが、

学生に対しては

「あんな連中とは関りにならないほうがいいですよ」と、

親切な(?)アドバイスのような呪文をささやく。

 

実はこれはこの映画のオリジナルのセリフで、原作では

「あの人たちは今日の宿も決まっていない

(放浪者みたいなものだ)」と言っている。

映画ではこの婆さんの差別意識を、

いっそうあからさまに表現しているのだ。

 

セクシー少女・百恵の魅力の開花

 

なおかつ、同じ旅館に泊まった客(商人)などは、

「あの子(踊子かおる)を一晩世話しろ」と

一座をまとめるおふくろに迫ったりもする。

彼女らのような芸人の女は、売春対象とみなされていたのだ。

これらは原作にはなく、この映画における演出である。

 

山口百恵は昭和のレジェンドアイドルだが、

彼女の人気に火が付いたきっかけは、

シングル2枚目「青い果実」3枚目「ひと夏の経験」と、

当時ローティーンながら、

セックスをイメージさせるきわどい路線の歌が

大ヒットしたからだ。

 

男はもちろん、当時の女もその歌にハートを貫かれた。

他の可愛い路線の甘ったるいアイドルにはまねできない、

子供が禁断の領域に踏み込むような、大胆で刺激的な表現は、

多くの人に圧倒的に刺激と感動を受けて支持され、

アイドル百恵の誕生につながった。

 

この伊豆の踊子もそうしたセクシー路線の成功を

踏まえたものであり、

観客の期待に応える娯楽映画であるとともに、

山口百恵の独特の、青い性的魅力を

うまく引き出したアート風味の映画とも言えるだろう。

 

ラスト1分 衝撃の不協和音

 

そして見せ場は最後の最後にやってくる。

学生は東京に帰るため、一座と別れ、波止場から船に乗る。

見送りに来たのは、

かおるの兄(中山仁)だけで彼は内心がっかりするのだが、

船が出た後、埠頭で手を振るかおるの姿を見つけ、

大喜ぶで叫び、手を振り返す。

離れ離れになってはじめて

「ああ、この感情は恋だったのだ」と気づく青春純情ドラマ。

その切なくて、あたたかな余韻を残しつつ、

きらきら輝く海をバックにエンドマークが出て終わり、

というのが、この手の青春映画・ロマンス映画の常道だと思うが、最後の1分で、またもや謎の演出が施される。

 

叫んだ学生の頭の中に、あのだんご屋の婆さんに聞かされたセリフ「あんな連中とは関りにならないほうがいいですよ」が

唐突によみがえり、まさに呪文のようにこだまするのである。

 

え、なんで?と思った瞬間、旅館のお座敷のシーンに転換。

かおるが酔客相手に笑顔で踊っている。

ところが彼女に酔っぱらったおやじが絡みついてくる。

しかも、そのおやじの背中にはからくり紋々の刺青が。

ひきつりながらも笑顔を保ち、

懸命にそのおやじを振りほどこうとする踊子かおる。

最後は顔をそむける彼女と、おやじの刺青がアップになり、

ストップモーションになってエンドマークが出るのである。

 

なんとも奇妙で、

まるで二人の恋心を容赦なく切り裂くようなラスト。

なぜラストショットが、

若い二人の清純な心を映し出す伊豆の海でなく、

汗臭く、いやらしい酔っ払いおやじの刺青なのか?

夢は終わりだ、これがわれわれの現実だよ。

ととでもメッセージしたいのか?

 

せっかくモモエちゃんの映画を観に行った当時の観客が、

このラストシーンに遭遇してどう感じたのか、

怒り出す人はいなかったのか、知る由もないが、

50年後の今見た僕としては、美しい予定調和でなく、違和感むんむんのこうした不協和音的エンディングが、けっこう好きである。

 

あなたも日本人なら「伊豆の踊子」体験を

 

ちなみに川端康成の原作も、二人の別れでは終わっていない。

船が出る前、学生は地元の土方風の男に、

3人の幼子を連れた婆さんを

上野駅(その婆さんの田舎が水戸)まで送っていってやってくれ、と頼まれるのである。

 

現代ならとんでもない無茶ぶりだが、

大正時代、エリートたるもの、

こうした貧しい人たちの力になってあげるのが当然、

みたいな空気があったようで、

彼は快く、この無茶ぶりを引き受ける。

 

そして踊子との別れを終えた後、

伊豆の旅で下層の人たちと心を通わせた、

東京では味わえない体験が、旅情とともによみがえってきて

彼は涙を流すという、なかなか清々しい終わり方をしている。

 

当時の読者はきっと、この学生は一高(東大)を出たら、

庶民の気持ち、さらにその下の被差別者の心情もわかる、

立派な官僚か何かになって、日本の未来を担うんだな――と、

そんな前向きな感想を持っただろう。

 

ちょっと悪口も書いたが、世界の文豪にして、

少女大好きロリコンじいさん 川端康成先生の、

古き良き日本人の旅情・人情に満ちた「伊豆の踊子」。

本当に30分から小一時間で読めちゃう小説なので、

まだ読んだことがない人はぜひ。

 

そしてその50年後、戦争と復興、高度経済成長を経て、

豊かになった昭和日本で、

この物語がどう解釈され、リメイクされたのか、

令和の世からタイムトラベルして、

若き山口百恵・三浦友和の映画で確かめください。

 


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母の命日に自分の女運について考える

 

むかし、女ともだちから

「あんたは釣った魚に餌をやらないタイプだね」

と言われて、割とショックを覚えた。

 

でも、なかなか彼女は鋭かった。

確かに思い返すと、若い頃はつき合った女の子に

いろいろ申し訳ないことをしたような気がする。

 

女は好きだし、愛すべき存在だと思うが、

同時にめんどくさかったり、怖かったり、

時々いやになったりもする。

それが態度や行動に出ていたかも。

 

その感情の遠因には、子供の頃、

母と叔母と祖母と、同じ家で三人の女と

一緒に暮らしていたことがあるのかもしれない。

 

その頃は母のことがあまり好きではなかった。

よく怒られたからである。

叔母と祖母はそれを見ていたせいか、

僕にやさしく、猫かわいがりした。

それを見た母の心中が穏やかであるはずがない。

 

だから、母と叔母・祖母は仲が悪かった。

一触即発みたいなこともしばしばあったような気がする。

母は母親であるがゆえに、叔母や祖母のように

むやみに僕を可愛がれない悔しさがあって、

よけいにイライラを募らせたのだろう。

なんだかみんな自分のせいみたいに思えて、気が重たくなった。

父や叔父と、男同士でいるほうがよっぽど気楽だった。

 

べつにモテたわけではないが、それでも思い返すと、

女運はよかったのかもなと思う。

思い出の中の女は、みんな可愛い。

 

この齢になると出会いも限られてくるので、

あとは身近に残っている身内--カミさん、義母、妹たちが

できるだけ穏やかに暮らせるよう努めるだけだ。

 

みんな齢を食ってしまったが、

女はいつまでも女であり、大半は娘時代と変わらない。

こんな言い方は何だけど、ちゃんと釣った魚にごはんあげてます。

 

今日は母の命日だった。

天国では僕に免じて、叔母や祖母と仲良くやってほしい。

 


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