男が踊り出す日

 

 ロバート・B・パーカーの「初秋」というハードボイルド小説があります。

 主人公の私立探偵が、数日間、バレエダンサー志望の15歳の少年の父親代わりになるという話ですが、昔読んでとても感銘を受けました。

 

 彼の両親は離婚していて、お互いの利己的な駆け引きの道具に息子を利用しようとしています。要するに子供を精神的に虐待しているのです。

 

 それを察した探偵が双方をやり込め、少年のためにバレエの学校の学費を出させる。少年は入学し、自分の人生をスタートさせる、というストーリーですが、その探偵と少年の描写がとても情感に満ちており、またそれが引き締まった乾いた文体で書かれてあって素敵なのです。

 

 バレエのことを考えると、その小説のことがついズルズルと出てきて、二人でボクシングの練習をしたり、大工仕事をするシーンが頭の中に展開します。

 

 バレエダンサーに限らないけど、何かを求めて踊り続ける人には、それが女であれ男であれ、細くしなやかな体の中にとてつもない筋肉とエネルギーとドラマが秘められているのでしょう。

 

 ところで、バレリーナ(バレエダンサー)を目指す女の子は数多いますが、男の子は少ない。

 自分が子供の頃、そして息子のチビの頃を思い出しても、すぐ近くにそんな子は一人もいませんでした。

 

 バレエは素晴らしい芸術だし、へたなスポーツをはるかに凌駕するほどの筋肉量・運動能力が求められるので、稽古もハンパない。

 

 でもやっぱり、バレエをやる男性に対して、昔ほどではないにせよ、根強い偏見があるのは確かです。

 

 たとえば親がバレエの先生だとか、周囲にダンサーがいるとかいう環境ならともかく、まったく無縁の子いきなり「ボク、バレエやりたい」と言ったら、周りはびっくりして「なんでこの子は男なのに・・・」と訝るでしょう。

 何より親が「なんでサッカーや野球をやると言わないんだ!」と悩んだり、へたしたら怒り出すかもしれません。

 

 なんでだろう?と、ちょっと考えてみると、女の子はだいたいお姫様ワールドへの憧れを入口にバレエをやり出すので、男の子もそれと同じく、王子様になりたいといった憧れを持ってやり出す、と思い込まれているフシがあります。

 

 でもきっとそうではない。

 ちゃんと調べたわけではないけど、男子がバレエをやり出すきっかけは、ちょうど武術をやりたい人と同じように、純粋にその運動の中に秘められた、美とエネルギーと人間おドラマを感じとるから。

 そういう感性を持っているのだと思うのです。

 

 長寿化が進むと、思いがけず、ふとしたきっかけでそうした感性が目覚める人が増えるかもしれません。

 シルバーエイジになってから、人生をスタートさせるように踊り出す男が大勢出てきたら、きっと笑ってしまうでしょう。

 でもやっぱり笑えるからいいのです。

 笑って世の中が大きく変わるのではないか。

 そんなような気がします。

 


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ちょっと切なくて笑えるネバーエンディングな少女のバレエ物語

 

●妻の少女時代の話

 うちのカミさんは子どもの頃、バレエが習いたかったそうです。

 幼稚園生の時に何度もひとりでバレエ教室に通って真剣に見入っていたというから、かなりの💛度であったことが想像されます。

 

 今では小さい子がひとりでふらついていたりしたら、すぐに周りの大人から心配されて、そう長い間放っておいてくれませんが、時は昭和の真っただ中。そういうところはおおらかおおらかというか、随分いい加減でした。

 だからバレエの先生もある程度までは見過ごしてくれていたのでしょう。

 

 でもさすがに度重なると黙っているわけにもいかなくなり、とうとう「今度からはお母さんと来てね」と言われたそうです。

 

 で、意を決して勝負に出た彼女はお母さんに進言。

 が、あっけなくNGをくらって沈没。

 要は娘にバレエを習わせるという気風の家庭ではなかったわけです。

 バレエやピアノなど習っている子は、おそらく今の1~2割程度だったのではないでしょうか。

 

 しかし、相当しつこく抵抗したようで、ついにその話をお父さんへ。

 すると「そうか。そこまで習い事がしたいのなら」という話になって、ついに・・・と、期待で胸がはちきれんばかりに膨らんだところで紹介されたのが、そろばん塾。

 まぁ実用的な習い事ならいいだろう、というわけだったのです。

 

 それで彼女は「アン・ドゥ・トロヮ、プリエ、シャッセ」の声の代わりに、

 「ねがいましてーは、13円なり、125円なり・・・」の声が響く教室へ。

 そろばんの玉を弾きながら「バレエを習っているはずだったのに・・・なんでここでパチパチやっているんだろう?」という思いにとらわれていたとか。

 

 その光景を頭に思い浮かべると、ちょっと切ないけどかなり笑えて、彼女に対する💛度が著しく上ってしまうのです。

 

●僕のバレエの先生の思い出

 というわけでカミさんは結局、バレエは習わずじまいだったのですが、じつは僕の方が習った経験があります。

 高校卒業後に入った演劇学校の必修科目にバレエがあったからです。

 俳優の肉体トレーニングとしてバレエは非常に有効なのです。

 

 心ならずも「プリエ、シャッセ」の世界を2年間、週3時間ほどやったわけですが、僕はひどい劣等生で思い返せば恥ずかしい限り。

 

 けれどもその講師だった古荘妙子先生の印象は鮮烈です。

 きりっと伸びた背筋。

 凛とした立ち姿。

 なにせナマで、しかも間近でバレエダンサーを見たのは初めてだったので。

 

 最近はダンスの上手な人が飛躍的に増えましたが、それでもやはりクラシックバレエの修練を積んだ人の動き・存在感は段違いです。

 フッと腕を上げただけで、ツィと足を上げただけで、周囲の空気を一変させてしまう。

 何かを表現するための細胞が自然とその空間にこぼれ出してしまう。

 

 簡単にいえば身体の軸がブレないということなんだけど、それだけじゃない、脳と下半身を結ぶ背骨からあらゆる方向へ自在にイメージを放射できる、脊椎動物の最高進化形という感じです。

 

 そして、その時の古荘先生の年齢が、僕の母と祖母の間くらいと知って、さらにびっくり。

 女性に対する概念がぶち壊れるようなカルチャーショックでした。

 

 もうずいぶん前に亡くなられた、と聞いていますが(年齢を考えればしかたありません)、バレエのことを考えると、華やかな舞台ではなく、あの古い板張りの床と、鏡が張り巡らされた教室に凛と立つ、古荘先生の黒いレオタード姿を思い出してしまうのです。

 

 

●やっぱりバレエを習いたい

 最近はバレエ教室が増え、日本のバレエ人口は、なんと世界一だと聞きます。

 もちろん、子供にバレエを習わせる人が増えたからですが、

 かつて習っていたけど熾烈な競争からこぼれ落ち、バレエやその他のダンスの道から降りた人、

 また、うちのカミさんみたいに、子供の頃、やりたかったのに出来なかったという人、

 そうしたおとなの女の人たちが、健康とか美容を理由に、昔より抵抗なく教室へ行けるようになったからでしょう。

 

 子育てなどがひと段落すると、

 ああ、人生もうここまで来ちゃったよ、

 もしかして、わたしの女としての役割はここまで?と考えちゃったりすると、

 身体の奥底から、長らく眠っていたかつての夢がむくむく湧いてくるのかも。

 

 あの時はあそこでやめちゃったけど、もう一度踊りたい。

 親に言われて泣く泣く諦めたけど、今からでもやっぱり踊りたい。

 

 夫や息子に「ええっ!?」と驚かれないよう、

 表向きの理由は健康のために、美容のために。

 もしかしたら説明のために「なぜ私はバレエ教室へ行くのか」というプレゼンまでやらなきゃいけないかも知れないけど、本気でやりたい~。

 

 これもやっぱりちょっと切ない。

 そして気を悪くしないでほしいけど、かなり笑える。

 でも、笑えるからいい。

 面白くて、笑えて、だから応援もしたくなる、

 そんなおとなの夢がいっぱいあふれると嬉しいなぁ。

 


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トランプで民主主義の大バクチ

 

 

 もしやツーペアかスリーカードくらい持っているのか?

 まさかストレート? しかもフラッシュ? さらにロイヤルで?

 でもやっぱりブタかな・・・。

 

 父親の遺産があったとは言え、あれだけビジネスで成功した人だからそれなりに頭はいいんだろうと思っていたけど、連日のトランプ発言を聞いていると、すぐばれるウソをついたり、無知だったり、事実誤認をしていたり、単に放言しているのか、それとも裏に何か策略があるのか、今の時点ではよくわかりません。

 

 でも事実としてあるのは、彼はビジネスマンなので本音を喋る。

 それが痛快だ、気持ちいいと感じる人が半分いる。

 だから当選した、ということ。

 

 オバマ前大統領の時は、SNSで支持者が「Yes、We can」を合言葉に繋がったのが勝利に繋がったと、ネットの民主主義への貢献度がクローズアップされた、と記憶しています。

 

 今回の場合はSNS、特にツイッターなどで本音をぶちまける快感を覚えた人たちが、政治を動かせる立場で、自分が言いたかった本音を言ってくれるトランプ大統領に共感し、支持したということでしょう。

 いわばネット社会の別の側面が現れたということでしょうか。

 

 おめーら、世界の人たちみんなを幸せにするためにがんばりまぁ~す、皆さんも協力お願いしま~す、なんてぬかしてるけど、おれたちカネも仕事もねえのにどうやってそんなことできるんだ。やりたきゃまずオレたちを儲けさせろ。

 

 ・・・というのが約半分のアメリカ国民の声なんでしょうね。

 確かに生活するのに大きな不安を抱えていては、どんなきれいごとも耳に入ってきません。

 

 でも、現代の民主主義社会は、みんなが本音をがまんして、きれいな看板=建前を大事にすることで作られてきたのではないかな。

 建前とは夢であり、理想であり、永遠に実現しないであろうファンタジー、だとしても、です。

 

 そして、本音を代弁してくれる毒舌の芸能人・痛快なエンターテイナーがいて、笑わせてくれたり、しみじみさせてくれたり、感動させてくれたりする。

 そうした道化師たちの存在がクローズアップされ、人気を集めて全体のバランスが保たれる。

 それでなんとかやっと成り立ってきたのが、現代の民主主義社会だと思うのです。

 

 でもアメリカや、その前のイギリスのEU離脱の現状などを見ていると、もうそんな二重構造は成り立たない、続行不可能なところにきているのかな、とも感じます。

 

 ひとりひとりがネットで本音をぶちまけられる快感はドラッグのようなもので、一度覚えたら病みつきになってしまう。

 誰もそれをがまんできなくなってしまう。

 そうなれば建前を大事にすることなど、ばからしくてやっていられない。どうせウソばっかだし。

 

 そうして本音と建前の間の仕切りが崩れ、メルトダウンしたら、アメリカ社会のみならず世界中が大混乱に陥るでしょう。

 でも、もしかしら人間社会が次の段階――経済や産業にとらわれない、新しい、より高度な民主主義社会へ移行するには、そういう経験が必要なのかもしれない。

 

 そう考えるとトランプ大統領の出現は、人類の歴史上の壮大な実験になるのだろうか、という気がしてきます。

 というより大バクチ?

 


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誕生日のガーデニング

 

 FBで誕生日のメッセージをいただいた皆さん、どうもありがとうございます。

 また、いつも僕の与太話にお付き合いいただいてありがとうございます。

 

 この与太話は、このサイトのブログ「台本屋のネタ帳」のコピペです。

 

 名前の通り、基本的に自分で思いついたこと、気が付いたこと、思い出したことなどのメモ書きですが、人に読んでもらうことを意識すると、自分でも何を、どんなノリで表現・発信したいのかが明瞭になるので、ちょっと手間だけど、こんな形に成型しています。

 

 言ってみれば、これはガーデニングみたいなものです。

 今までほったらかしにしてきた自分の庭をせっせと手入れしている感じです。

 日々、いろんな雑草のタネが飛来してきたり、

 人から球根をもらったり、

 思いもかけないタネイモを掘り起こしたり。

 

 きれいに手入れするのはなかなか時間が掛かりますが、いろんなものが生えて育ってくるといいな、と思ってエンヤコラしています。

 

 もっと耕作が進んで庭が広がったら、そのうちサバイバル食糧用のイモやカボチャを作る畑や、皆さんのお土産になるベリー類などを作る畑を耕そうとも思っています。

 

 庭は出入り自由ですので、ネット内を旅する途中、ちょっと腰を一服して与太話を楽しみたくなったらいつでもお越しください。

 


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酒・タバコ、やめて100まで生きたバカ

 

 若い頃、僕は近所のおじさんや兄ちゃん、職場の上役、頼りになる年上の人たちから、よくこのフレーズ(あるいは同じ意味の話)を聞かされました。

 

彼らは年代的には私の父の世代(昭和ヒトケタ生れ)から団塊の世代、また、そうした世代たちから直接影響された、現在の60歳あたりまででしょうか。

 

職業は、職人、飲食業、商店主、運送屋、肉体労働従事者、水商売、芸術家・芸能人くずれ、ヤクザまがいの人も。

学歴はたいてい高卒以下。

彼らは公務員やサラリーマン、インテリ系の人たち――いわゆるホワイトカラーの人種をあまり快く思わず、どこか小馬鹿にしているところがありました。

 

当時、世間知らずの青二才だった僕の目から見て、彼らは(全人格的ではないにしても)尊敬すべき大人たちであり、自分の能力・才覚で生活費を稼ぎだす独立者であり、日本を支える大衆であり、民主主義社会の中心であり、地に足を着けて生活する、愛すべき市井の人たちであり・・・

いわば親父や兄貴のような人生の先輩たちでした。

 

その親父や兄貴たちは僕をとても可愛がってくれるとともに酒や煙草を勧めてきました。

断ることは困難でした。

いっしょに酒を飲み、煙草を吸うだけで彼らの仲間入りをしたような気分になれました。

時にはギャンブルにも付き合いました。これについては金がないのを知っているので、強くは勧められませんでしたが。

 

「酒はやらない、煙草も吸わない、博打も打たない。それで人生いったい何が面白い?」

 

彼らは口癖のようにそうした話をして、ワハハと笑っていました。

昭和の男たちは酒も煙草も受け付けない男を、一人前の男として認めなかったのです。

彼らは飲めない男・吸えない男を陰で、時には面と向かって馬鹿にしていました。

そしていかにカッコよく飲むか、吸うかということにこだわっていました。

彼らにとってカッコよく飲み、絵になるように紫煙をくゆらせることは、どれだけ仕事ができるか、女にモテるかと同じくらいの価値があったのです。

 

だから昔の映画スターの、酒場で飲むシーン、煙草に火を付け、煙を吐くシーンは、めちゃくちゃサマになったのでしょう。

 

そうしたシーンに「男の人生」が凝縮され反映されていました。

 

僕はそうした価値観が優勢だった時代のかなり尻尾の方を体験したにすぎませんが、昭和の男の世界(おそらくそれ以前の明治・大正も)とは、そうした酒・煙草から紡ぎ出される文化と分かちがたく結びついていました。

 

「酒・タバコ やめて100まで生きたバカ」とは秀逸なキャッチコピーです。

長くこの世に留まっていようなんて考えちゃいない、太く短く生きるのだ、といった江戸っ子的な潔さ。

人生なんかやっていられるかってんだ、というような自虐的な雰囲気。

日本の庶民(男だけだが)の抱えてきた人生観が、このわずか十数文字に集約されています。

 

昭和の男たちから洗脳されて若い時分から酒・煙草をたしなみ、その文化を愛し、どっぷり浸かっていたにも関わらず、僕は41歳の誕生日にあっさり煙草をやめてしまいました。

 

その後、何度か吸いたい衝動に襲われ、時折、ついに吸ってしまった!と、今でもまだ鮮明に記憶しているリアルな夢を3回ほど見ました。

が、それは現実にはならなかった。

半年経ち、1年経ち、3年経つうちに煙草に対する欲望と、喫煙していい気分になっていた実感は体中から跡形もなく消え去って行ったのです。

 

時々、昔の恋人や古い友だちに会いたくなるように、タバコを懐かしむことがあります。

でもきっと吸ってしまうと、自分の身体が受け入れられなくてがっかりすることがわかっている。だから吸わない。吸えない。

 

健康診断の問診票に喫煙歴を書き込むとき、いつもこうして、おれもバカになって100まで生きるのかなと考えてしまうのです。

 

 

 


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余命9ヵ月のピアニスト

 

 ずっとしがみついていたいほど愛しているものがあるのは、幸せなことなのか?

不幸なことなのか?

 

 火曜日(17日)から始まったTBSの連ドラ「カルテット」を観ました。

 脚本が良い。役者が良い。文句なく面白い。

 

 主人公は30代の4人の音楽家たち。でも、音楽では食えていない。

 で、もうみんな30代。どうすればいいのか?

 という同じ悩みを持った4人がたまたま出会ってカルテットを作って演奏活動をしていくが・・・というお話。

 

 日本の社会は20代まではなんでも大目に見てくれるけど、三十路を超えたら急にきびしくなる。もう子どもであることは許されません。

 

 クリスマスまではキラキラ夢見ていていい。どんどん夢見よう。

 けど、その辺過ぎたら、大みそかまでにちゃんと大掃除済ませて、お正月様をお迎えせえよ、それ以降はしきたり守ってちゃんとせなあかんでぇ。

 という感じです。

 

 初回、この4人に絡むのが、イッセー尾形演じるベンジャミン瀧という、「余命9ヵ月」がキャッチフレーズのピアニスト。

 

 ドラマの中で明かされるますが、彼は5年以上前から「余命9ヵ月」で、あちこちのクラブやレストランを回ってピアノを弾いて生活している。

 余命9ヵ月どころか、酒を飲んで陽気になっている様子を見る限り、健康上の問題は何もなさそうです。

 

 つまりこれは彼の営業ツールで真っ赤なウソ。

 早い話がサギ師・ペテン師なわけです。

 

 けれどもそこが泣かせるのです。

 彼はそこまでして音楽で生活したい、音楽の世界にしがみついていたい。

 すでに還暦を過ぎた彼の過去は一切明かされませんが、家族の写真を飾って一人暮らし。いったいどんな人生ドラマがあったのか。

 

 音楽の世界は、神様が放っておかないほどの才能を持った人は別格として、その下では、生きられる・生きられないのボーダーライン上を大勢の音楽家たちがしのぎを削っています。

 

 そのためには音楽の能力以外に、というか、能力以上に、運やらコネやら人間関係やら愛嬌やらハッタリやらが重要になってきます。

 

 明らかに技術も高く、表現も優れているのに食えない人がいる一方で、この程度で・・・と思える人が食えちゃったりもしています。

 これは音楽に限らず、その他の芸術・芸能分野でもいっしょだけど。

 

 だからどんな手を使ってでも、と考える人が出てくるのはごく自然です。

 

 かの佐村河内氏もその一人だったのでしょう。

 彼のしたことはサギだし、障害のある人に対する侮辱なので断罪されて当たり前だと思いますが、ほんのわずかながら、僕は彼に同情していまう。

 そこまでして音楽の世界で生きたかったのだな、と。

 

 余命9ヵ月のピアニスト・ベンジャミン瀧もそうなのです。

 サギをしてでも音楽人生、音楽で生活するということにしがみつく、あるいは、しがみつかざるを得ない。

 そんな彼の生きざまは、本当に滑稽で、哀しくて、苦い。

 けれども、どこかでひどく愛おしさを感じてしまう。

 

 このドラマの主人公たちも、そうです。

 そして、彼の姿を透して自分たちの20年先・30年先の未来を見てしまうのです。

 その滑稽さ。哀しさ。人生の苦さ。

 

 このピアニストの出番はおそらくこの第1回こっきりだと思いますが、単なる1エピソードでなく、この物語を貫く主旋律を奏でているように感じました。

 

 ずっとしがみついていたいほど愛しているものがあるのは、幸せなことなのか?

不幸なことなのか?

 

 きっと、どっちも、ですねぇ。

 


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世界の大半は書かれた言葉・文章でできている

 

 昨日の動物病院からは残念ながらお断りの通知をいただきました。

 案の定、更新回数を増やしてアクセス数を増やしたかったそうです。

 でも、僕の提案は受け入れてもらえませんでした。

 手間暇をかけずに何とかしてほしい、というニーズなんでしょうね。

 

 以前は何としてでもお客の要望に応えるのがプロの務め、と思っていましたが、最近は「これはできないので自分で書いて。そのほうがいいから」と言うのもライターの仕事の一つかな、と考えています。

 

 特にお医者さんなどはその人柄が勝負になる。

 患者さんとの相性もあります。

 ブログなどはそれを伝える絶好のツールなので、絶対自分でやったほうがいいと思うのだけど。

 

 マーケティングの本などでよくブログは毎日書かなければいけない、とか言われているけど、その提言を鵜呑みにして、中身のない記事、義務感で書いている記事、ほとんど同じパターンの記事を、いくら毎日上げていても、またこれかとスルーされるだけ。

 みんな忙しいので、そんなものに構っちゃいられません。

 ヘタでも何でもちゃんと心を込めて自分で書いたものを週1で、でも途切れないように継続してUPしていけばいいと思います。

 

 これからのネット社会、ますます言葉の力・文章力が重要視されます。

 世界の半分以上―――過去の歴史も、未来の計画も、書かれた言葉・文章によって出来上がっています。

 だから、作家やライターの仕事はなくならないし、ライターでなくても文章力を磨くことは人生をよりよくつくっていくためにも、とても大事だと思います。

 皆さん、どんどん感じたこと・考えたことを書いてスキルアップしましょう。

 

 


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世界で一つだけの自分の言葉・自分の文章

 

 編集マン・M氏から動物病院のサイトに載せるコラム記事を書いてくれないか、という依頼がありました。

 そのサイトを見ると、院長と3人のスタッフの獣医がやっているところで、たいへん素晴らしい、充実した内容。

 ペットを飼っていない僕でも引き込まれたので、これなら飼い主さんの信頼を得られるでしょう。

 

 その分、これは安易に取り組めないな、と思いました。

 

 いちおう、犬のしつけコーチの代筆で、しつけマニュアルの本を書いたり、動物学校連盟の機関誌の記事などを書いたりして、多少はかじったことがあるものの、動物に関する習性や医療の知識など、素人レベル。

 

 そんな素人のライターが、そのへんの本やネット上から拾ってきた知識を貼り合わせた文章を載せても、共感も信頼も得られないと思います。

 

 文章のうまい・へたではないのです。

 

 この動物病院の例で言えば、現場で日々、診療にあたっているスタッフだからこそ書けること・醸し出せる味があるのです。

 それに地域情報やこの病院ならではの仕事感も感じられたので、関係のない外部の人間が1から書くのは困難でしょう。

 

 それで僕が知りたかったのは、クライアントさんは外部のライターに何を期待されておられるのか?ということ。

 

 このサイトのブログの欠点を挙げれば、更新回数が少ない。

 とても丁寧に書いてあるので、忙しい日々の業務の中、4人いても頻繁に更新するのはたいへんです。

 だいたい平均すると週1くらい。

 あいてるときは月2~3回。

 頑張っている時で週2回。

 

 それで回数を上げたいけど、人手が足りないので・・というのが主な理由だと思います。

 取材に行ければよいのですが、遠いのでそう頻繁に足を運ぶこともできず、メール中心のやりとりにならざるを得ないのは必至。

 で、「以下のようなやり方ならお役に立てるかもしれません」と返答しました。

 

●日々の医療の中で感じたこと・考えたこと・エピソードなどをもとに、それぞれの記事の企画はスタッフ自身に立てていただく。

読者に何を伝えたいかもできるだけ明確に。

 

●それをメモ書きにして送って頂く。専門的な医学知識を入れるならその疾患名・キーワードなども。独自の知見があればその説明を。一般的なことでよければこちらで調べる。

 

●いただいた企画メモをもとに、読み物として面白くなるよう、こちらで構成・肉付けを考え、文章化する。

 

 ざっとこんな感じ。

 

 僕は基本的にブログなどは、そのサイトのオーナなり、スタッフなりが自分で書くべきだと思います。

 たとえばあなたが自分の会社やお店でサイトを持っていて、うまく書けないから、ライターにアウトソーシングしたい場合は、そうすることでいったいどんなメリットがあるのか、デメリットはないのか、よくよく吟味したほうがいい。

 

 どんなに優秀なライターでも、有名な作家でも、あなた自身の発信は、あなた以上によく書けません。

 僕も4~5年前は、SEO対策として、指定キーワードを入れて、社長ブログの代筆をする・・・といった仕事をよくやっていました。

 でも、もうそんな時代ではないと思う。

 読んでいる人たちもネットリテラシーが上がって、ブログなど、少しまとまった文章なら、ヘタでも本人の書いた信頼できる文章か、他のライターが代筆した、まとまっているけどカッコだけの文章か、すぐ見破られると思います。

 

 なんだか自分の仕事を減らす自虐ネタみたいになってしまったけど、みんな、自分の言葉・自分の文章を大事にしたほうがいい。

 それを心得たうえで、どこを自分以外の人に書かせるか、考えるといい。

 

 長くなりそうなので、また明日、この続きを書きます。

 

 


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今年は酉年でなく鳥年、不死鳥の年だ

 

 お寿司屋さんで鳥の絵を見ました。

 

 カミさんの誕生日が週の真ん中で、いったんスルーしてしまったので、今日はその代わりにハッピーバスデー。

 

 ということで、寿司でもテイクアウトして食うかと思って近所のお寿司屋に行ったら、直径1メートルくらいありそうな巨大な絵皿。

 

 そこにはおめでたい象徴として鳥が描かれている。

 

 目玉模様の羽と全体のイメージはクジャクだが、その顔つき、鋭い目、胸の筋肉、そして逞しい足の蹴爪は、猛禽そのもの。

 美しさと強さを併せ持つ合成鳥ということでしょうか。

 

 で、 今さらのように思い出したけど、今年は酉年。

 普通、酉といえばニワトリで、いただいた年賀状には可愛いいタマゴやヒヨコやコッコちゃんが多かったけど、そんな飛べないコケコッコじゃサマにならん、ということで、特に社会的影響力の強い人は拡大解釈し、「鳥」という大きなカテゴリーで捉えたがるようです。

 

 やっぱ、政治家とか企業経営者など、威勢のいいことを言いたい人たちは、

 

「今年は大空を飛ぶ鳥のように飛躍する1年に」とか、

「鳥のように全体像を俯瞰することが大事だ」とか、

「不死鳥のように灰の中からよみがえる!」とか、

 

 カッコいい比喩表現をスピーチに混ぜられるから、とてもありがたい。

 

 こうした人たちの頭の中では、酉年の鳥は、龍や虎と並ぶ、鳳凰・朱雀・火の鳥・不死鳥などのイメージなのでしょう。

 青龍、白虎、朱雀・・・

 ついでに「玄武」のカメ年というのがあればよかったですね。

 

 去年は「申年ですからウッキッキーと楽しい1年に」

 来年は「戌年ですからクンクンと鼻をきかせる1年に」

 再来年は「亥年ですから、ブタのように肥え太る1年に」

 

 ・・・というスピーチをやってくれると面白いと思うけど、たぶんダメなんだろうな、やっぱり。

 



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藤圭子と宇多田ヒカルの歌う力の遺伝子について

 

 家中に歌声があふれている。

 というと楽しそうですが、実際にそういう世界にいると、なんだか変な感じです。

 僕の家の者は毎日しじゅう歌っているのです。

 それも鼻歌程度のボリュームでなく。

 まぁ、近所迷惑にはなっていないようだし、そこそこ気分良く暮らしている、ということだと思うので黙認していますが。

 

 というわけでここ数日、カミさんはテレビで放送された「宇多田ヒカル特集」を録画してヒマがあれば見て歌っています。

 それで僕もその番組を観るのですが、やっぱり宇多田ヒカルはすごい。

 あの「ファーストラブ」を初めて聴いたときの衝撃はいまだに忘れられません。

 

 歌い始めたばかりの少女のような初々しさと・清新さと、もう何十年も歌い込んだような円熟味が同居するような歌声。15歳という年齢が信じられませんでした。

 

 あとから藤圭子の娘だと知って、なるほど。

 彼女の歌にある円熟味は、母親の分が含まれているからなのかなと思いました。

 

 藤圭子も確か18歳くらいでデビュー。

 僕は子供だったので、あの演歌っぽい歌にはとてもついていけませんでしたが、それでも「圭子の夢は夜ひらく」の歌唱は強烈で、一度聴いたらあの声・あの歌世界が耳に貼りついて離れませんでした。

 

 歌唱の中にこもる濃密なエモーション。

 色艶。

 切なさ。

 哀しさ。

 そして可愛らしさ。

 

 この母娘の歌の力の遺伝子はいったいどこから来て、どんな時代を経て、どのように伝承されてきたのだろう?

 ファミリーヒストリーが知りたくなります。

 

 年末の紅白で、宇多田ヒカルは初出場で、トリの一つ前という重要なポジションでしたが、イベント最終章で大盛り上がりの会場のことなど、どこ吹く風。

 ルーティンワークをこなしてます、といった感じで、ロンドンのスタジオで「花束を君に」を歌っていました。

 その様子は宇宙の彼方からメッセージソングを送信する異星のプリンセスのように見えました。

 


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がまんしないでオナラをしよう

 

 お正月も冬休みも終わって、また仕事だ学校だ、つまらん日常がもどってきてしまった~、あ~、やんなちゃうな~、うつになっちゃうな~~

 

 と、ぼやいているあなた、嫌なことをガマンしているとおなかにガスがたまります。

 たまっちゃったら、一発オナラをかましましょう。

 がまんしてても、洩れるものはいずれ洩れるんだから。

 ガマンしてると体に悪い。病気になってしまう。そしてあなたのオナラはより臭くなってしまう。

 

 なので一発、ププっと。ブーッ!とでもいい。スカッとでもいい。

 ああ、すっきり。もうすっきり。

 

 というわけで、只今、オナラをテーマにした物語を執筆中。

 好きな女の子が学校の授業中にオナラをしてしまったので、それを「ぼくがやりました」と庇った男の子に、女の子はすなおにありがとうと言えなくて、「余計なおせっかいするんじゃねーよ、ばか」といって関係がこじれてしまう。

 はたして二人はラブラブになることができるのか・・・という愛の物語です。

 

 いずれオナラのサウンド付きで電子書籍化する予定。さすがににおいまではつけられないけど。

 

 そういうくだらない企画をやりたいな。ププっ。

 


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この世界の片隅に居所を見つけられる未来のために

  今日は成人の日でした。

 ニュースで流れる成人式は「目立ちた~い!」という20歳の子供たちが大勢紹介されていました。

 

 彼らのような目立ちたい意識は、ぼくたちの時代からあったもので、今に始まったことではありません。

 アメリカがピカピカ輝いていた時代に生まれ育った戦後世代は「アメリカでは目立たないやつ、自分の意見を主張しないやつは、この世に存在しないもいっしょだ」という話をよく聞かされました。

 

 「それはたいへんだ」と思って、僕も自分の個性なるものを追い求め、演劇などの表現活動を始めたのだと思います。

 そして、社会に出てみれば、同じような人たちがゴマンといました。

 

 昨日観た「この世界の片隅に」の主人公のすずさん(彼女は20歳前にお嫁に行って主婦になった)や、その姪っ子の晴美ちゃんは、ごく純粋に絵を描くのが好きで描いていました。そこに自己表現を、自己主張を・・なんて意識はまったくありません。

 

 たぶん、あの時代の人たちは、ごく一部の特殊な職業の人たちを除いて、自己表現を、自己主張を・・・なんてことはほとんど考えていなかったと思います。

 

 それはきっとそんなこと考えなくとも、家族や地域社会が自分の生を保証してくれて、安心して生活できていたからでしょう。

 

 でもそれは家や村や町のおきてに従わなくてはいけない、自由な言動を制限され、「ちがう」と思っても容易に抗えない・・・といったことと引き換えの安心です。

 社会・集団を維持するため、そうしたそれぞれの「個」を認めない因習に自己を引き裂かれる人も少なくなかっただろうと思います。

 

 それが嫌で、戦後、僕たちは大家族から核家族へ、核家族から個家族へと生活形態・社会形態をシフトさせてきました。

 ところがそれと引き換えに、絶えず孤独と未来への不安を抱えながら生きなくてはならなくなってしまった。

 

 成人式でなんとか目立とうとしている子供たちを見ていると、迫ってくる「未来」に飲み込まれまい、押しつぶされまいと、必死に自分の「個」を守ろうと頑張っているように見えるのです。

 

 おそらく僕たちが目指す未来は、かつてのつながっている、支えられているという安心感のある生活と、現代の自由で個を主張できる生活、双方を「いいとこどり」した世界です。

 レトロな古民家を、雰囲気はそのままに、トイレやお風呂やキッチンや冷暖房は、現代の便利な機能を採り入れる――あの世界です。

 

 そうした世界を実現しようと進み、そして、おのおのがこの世界の真ん中でなくてもいい、片隅にでも自分の居場所を見つけていくのだと思います。

 もしかしたら、双方の「いいとこどり」と引き換えに、そこでまた何か大きなものを失ってしまうのかもしれないけれど。

 

 


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「この世界の片隅に」を観ると、世の中そうたやすく悪くはならないと思えてくる

 

 「老いては子に従え」

 というわけではないのですが、最近のネット情報、小説、映画などについては、わが息子を先生にしています。

 

 で、これも彼のおすすめ作品ということで見に行きました。

 戦争映画――正確には戦争時代の庶民の日常生活を描いた映画、それもアニメ。

 自分ひとりだったら、たぶん見ない――少なくとも、わざわざ映画館に足を運ぶことはないだろうカテゴリーのものですが、子供―若者に評判、ってどういう作品?

 ということでいきました。

 

 で、ウケている理由が分かった。

 なんと表現すればいいのか・・・かわいい映画。

 「かわいい」というのは、けっして軽んじて言っているのではなく、心のどこかでずっと抱いていたくなるというか・・・70年以上前のこの国で、こういう人たちがこういう生活をしていて、それが深いところでは今でもずっと続いているんだ。もちろん、僕たちもその気持ち・その感覚を持続しているんだ、と思えるのです。

 

 本当に見事な表現だな、と感心しました。

 力んでいない、大げさでない、淡々と粛々とストーリーが進んでいく。

 けれども、そこに劇的なものが秘められており、囁くように物語れる。

 

 そして、この作品がクラウドファンディングで支持されて制作されたという事実にも胸打たれました。

 本当に良い作品、力を持った作品は、いずれにしても世に生まれる運命にあるのです。

 

 世の中、まだまだ捨てたもんじゃなない。

 世界はそうたやすく悪いほうにはいかないぞ。という気持ちになりました。

 すすめてくれた息子には、えらいえらいと頭をなぜなぜしてうやりたい(やったら殴られそうだけど)。

 


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杉並就労支援センターの仕事をやったけど・・・

 

 昨年のお仕事。

 AD岸部氏とやった杉並就労支援センターのチラシ。

杉並産業振興センター(起業家向けキックオフ・オフィス)に続く、ワーキングシリーズ第2弾です。

 

 メインの対象は引きこもり、ニートなど、働いたことのない人たち。

 あるいはいったん就職したけど、すぐやめちゃって何年も働いていませんという人たちも。そういう人たちの相談・トレーニングをしよう、仕事の紹介もしますよ、というわけです。

 行政機関がここまで面倒見なきゃいかんのか、という気がしますが、それだけ深刻化しているということなのでしょう。

 仕事に就かない子供のことを心配して、親御さんが見学とか相談に来るケースも多いとか。

 

 でも、他の国みたいに若者の失業率が2ケタになることもなさそうだし、単に条件のいいところじゃなきゃ働きたくない、という人が大勢いるだけじゃないの、というふうにも見えます。

 いろんな権利意識がみんなに浸透して、ブラックな職場では仕事なんかしませんよ、

やりがいのある仕事しませんよ、本当にボクがイキイキ喜んで取り組める、アタシの才能がフルに生かせる仕事じゃなきゃイヤですよ、という人だらけなのでしょうか?

 

 それはそれで良いことだと思うけど、それで選り好みして、ぜんぜん仕事しないでも、ちゃんと生活はしていけるってこと?

 

 いったいどうなっているんだろう?

 

 そういえば、30年前にロンドンの日本食レストランで働いていた頃、どんなにスタッフを募集(市内に複数店舗あったけど)しても応募してくるのは移民や留学生ばかりでした。

 

 当時はサッチャー首相が社会保障の打ち切りなどに大ナタを振るっていた頃で、街中にはかなりホームレスがあふれていました。

 会社は行政から「英国人を雇用しろ」とかなりうるさく言われており、僕も入国の際、就労ビザを持っていたにも関わらず、イミグレのおばさんにヒースローの秘密の小部屋に連れていかれて、あけこれ絞られました。

 「日本人め、みんなが失業している時に仕事とりやがって」。

 

 という状況でもイギリス人はレストランの仕事などやろうとしなかった。

 たまたまだろっていえばそれまでだけど、やっぱり「日本人に使われるなんて」とか、「移民の連中といっしょに働くなんて」といったプライドというか差別意識が、彼ら・彼女らの中にまったくなかったとは思えません。

 「それなら働かないほうがマシ」とか言って。

 

 今も欧米では「移民に仕事を奪われる!」なんて声高に叫ぶ人が大勢いるけど、実際そういう危機感もあるのだろうけど、僕は話半分にしか聞けないな。

 先進国の社会を底で支えているのは誰? 本当に移民を締め出したらそういうかっこよくない仕事をする人は足りるの? 街は動くの? あなたたちの生活は回るの? と思ってしまう。

 

 豊かで成熟した日本でも同じ現象。

 「働いているフリーターより、働かないニートの方が社会的ステータスが上」なんてネット上でのたまっている人がいた。

 そういう人は自分は貴族かなんかの特権階級の生まれ変わりだとでも思っているのかな?

 あくせく働いてお金を稼ぐなんて、奴隷かロボットのやるとだとでも思っているのかな?

  

 僕たちの仕事、働くことって、これからどうなっていくのでしょうかね?

 

 


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ナオトラちゃんGOGO!

 

 ここ3日、名古屋に帰省していたので、東名・浜松サービスエリアを通過。

 浜松は今年の大河ドラマのご当地ということで、「ナオトラちゃんコーナー」が設置され、お土産・グッズがラインナップされていました。

 

 「おんな城主」なんて、ほとんど宝塚歌劇みたいな設定ですね。

 浜松・静岡としてはこれまでタヌキおやじの徳川家康しかいなかったので、色気のある武将キャラが発掘・ドラマ化されて大喜びでしょう。

 

 最近はゲームなどでカッコいいイケメンキャラになることもあるみたいだけど、基本的に判官びいきの日本人にとって、最後まで勝ち残った家康は不人気だもんね。

 その点、「真田丸」の内野聖陽の家康は、悪くてセコくて面白かった!

 

 でまぁ、今年は「おんな城主・直虎」。

 浜松・静岡はナオトラちゃんイベントをいろいろ企画していると思いますが、お姫様モード・尼さんモード・武将モードなど、モード別・部門別に「ミス・ナオトラ・コンテスト」なんてイベントでもやったら、コスプレギャルが大挙して応募して盛り上がるのではないだろうか・・・などと考えています。

 

 どう展開するのか、ドラマも地域も楽しみです。

 

 

2017・1・6 Fri


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お年玉はムダづかいしよう!

 

 小学生の4年生だか5年生の時、お年玉でガツン!とラジカセを買いました。
 値段は覚えてないけど、1万円ちょっとだったかな。とにかく、その正月のお年玉をほとんどはたいて買ったと思います。
 小学生にとっての当時のラジカセ、今なら新車1台、ニコニコ現金払いや!という感じでしょうか。
 小心者の僕としてはかなりドキドキする買い物でしたが、何とも言えない快感があったし、そのMYラジカセで一生懸命、深夜放送などを聴きまくりました。


 けど最近のお子様がたはお年玉はみんな貯金しちゃうという子が大半らしい。


 アホか!


 せっかくもらったお年玉、大人になったらNeverもらえないお年玉を、まんま貯金しちゃうなんて、なんてもったいないことをするんや!
 大人になってから自分のラジカセ買ってもたいした感動はないが、子供の心に与えるインパクトは段違い。
 「これは自分で買ったラジカセなんや」という強い気持ちを持てる、胸に深く深く食い込む経済体験をすることこそが大事なのです。


 モノでなくても、いわゆる「ムダづかい」もいい。
 たとえば、お年玉み~んな使って食べ歩きするとか、

 ぜんぶマンガ買っちゃうとか、

 高校生ぐらいだったらメイドカフェをハシゴするとか、年齢詐称してキャバレーで一晩豪遊しちゃうとか、それくらいのことをやってもいい。


 なぜならそんな世界に触れる体験は、お年玉というボーナスをもらったときじゃないと、なかなかできないからです。


 大人から見れば単なる「ムダ遣い」かもしれないけど、子供や若者にとってこれらはすべてビッグな「自己投資」です。
 大人になってからマンガ三昧、メイドカフェ三昧、キャバレー三昧をやっても、ただのお遊びや気休め、へたすりゃ人生脱線につながるけど、これらの非日常な体験・買物は、若さ・未熟さと掛け合わせると、感受性豊かな子供時代でしか得られない、貴重な「財産」「世界観」になると思うのです。


 貯金が一概に悪いとは言いません。
 目標額まで貯めて旅行に行くとか、どでかいものを買うとか、明確な目的があっての貯金ならいいのです。
 でも、「なんとく将来のために役立てよう貯金」はそれこそムダ遣いに等しい。

 数万円、数十万円は子供にとってはビッグマネーだけど、大人になったらせいぜい1~2か月分の生活費とか、要するに大したお金じゃありません。

 何の感動もともわないものに使ってしまったら本当に生きたお金にならないのです。


 加えて、親が管理するというのはサイテー。
 小学校の低学年あたりまでならわかるけど、10歳過ぎた子供のお年玉を取り上げて「あなたのためよ」なんて言って貯金通帳に入れてしまうのは、明らかに過干渉。僕に言わせれば子供をスポイルする行為です。


 使うにしろ、貯めるにしろ、子供が自分の責任で管理しなければ、経済感覚が育ちません。
 お年玉をどう活用するのが一番なのか、子供が自分で考えることは、自分の人生をどう生きるか考えることにつながると思います。

 こんな先行き不安な時代、ケチケチしたくなる時代だからこそ、「オレのお年玉」「アタシのお年玉」をもっともっと大事にしようよ、子供たち。

 

 

2017・1・5 Thu


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親子漫才・ジジババ孫漫才・ロボット漫才

 

 落語・漫才は好きなのだけど、普段はほとんど見ていない。

 ので、正月は例年3日にやっているNHKの「東西寄席」をコタツでグダグダしながら観るのを楽しみにしています。

 NHKも最近はゆるくなってきていて、「だいじょうぶか」と思えるような、結構きわどいネタも飛び出してきて面白い。

 同時に芸人の方も「なんだかんだって、NHKだからな・・・」という意識がはたらくのか、程よく抑制が効いていて、そのバランス感が正月らしくて良い感じなのです。

 

 特に高齢域に達したベテラン芸人さん――ケーシー高峰や大助・花子らは「まだまだ生きるでぇ~」と言わんばかりに、自分たちの老いや病も笑いのネタに。きっと彼らは、少なくとも舞台上では、相方の死・自分の最期さえも笑い飛ばしてしまうでしょう。

 存在そのものを賭けて、でありながら軽やかに。

 

 笑いと気合をいただき、これが終わるとお正月も、ああ堪能した。そろそろ仕事モードに移行するか・・・、という気分になれるのです。

 

 今年気になったのは「漫才と家族」。

 漫才は昔から家庭内手工業というか、家族でやる場合が多く、今でも夫婦、兄弟、従妹などでやっているコンビがいます。

 それでふと、そろそろ親子漫才というのが出てきてもいいんじゃないかと思いました。

 

 ツッコミ息子とボケ父ちゃん。ボケ娘とツッコミ母ちゃん。もっと飛んで、ジジ・ババ×孫でやっても面白いのではないかな。

 

 また、いずれロボットとの漫才があってもいい。

 故人となった名人の芸の録音データをアンドロイドのボディに入れて公演するということも実際行われているようです。

 日本のAI・ロボット技術は芸能・芸術分野でもこれからどんどん活用されていくでしょう。

 今年は久しぶりに寄席に足を運びたいなぁ。

 

 

2017・1・4 Wed


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お正月のワクワクすごろく

 

 お正月は近所の大宮八幡宮へカミさんと息子と初詣。

 参道にある材木屋には今年も干支の絵が描かれています。

 

 もちろんチビの頃の話ですが、お正月には息子とよく双六を作って遊びました。

 一反木綿やろくろ首に乗って6コマも10コマも進んじゃう「妖怪すごろく」、ワープ航法をしたり、ブラックホールにはまっちゃって1を出さないと永遠に抜け出せない「宇宙すごろく」、恐竜大行進の過去からロボットと暮す未来を行き来する「タイムマシンすごろく」など、いろいろ作りました。

 遊びに来る友達も盛り上がって遊んでいました。小学生の低学年頃までですが。

 

 そういえば、人生山あり谷ありの人生ゲームも、早い話がすごろくです。

 一生懸命早く「あがり」の億万長者に到達して、まだ上がれない連中を高みの見物する、というのが快感でしたが、リアルな人生で「あがり」とは何だろう?

 

 子供が成人しちゃったら、あとは定年まで働いて、退職金と年金で何とかやりくりして、趣味を楽しみながら、孫と遊ぶのを楽しみにして・・・というのが「あがり」なのでしょうか?

 

 これまではそうだったのかも知れない。

 現に僕の父親(サラリーマンではなかったけど)はそうでした。

 でも、これからはそうではない。おそらくそうではあり得ない。

 10年くらい前までは考えられなかったけど、そんな人生の定番モデルはここ数年でメルトダウンしてしまった。

 僕らは100まで生きるかもしれない。だとしたら、もしかしたら僕らはまだ「青年」なのかもしれない。体力は落ちてるけどね。

 もう70,80まで働くのは当たり前、みたいな世界が始まっている。

 そして生活のためにお金を稼ぐとともに、みんな、自分にとって何が面白いのか、何が大事なものかを再び発見し、確かめながら生きる――そんな未来が始まっている。

 

 なんだか子供が大人になったら、こっちの方は「ふりだしにもどる」になってしまったみたいだ。

 そういえば、息子に作ってやったすごろくには、「あがり」の寸前でふりだしにもどされてしまう落とし穴を作っていました。

 でも、そうやすやすと上がってしまった面白くないよね。

 自分にとっての「あがり」は何なのだろう?

 と考えつつ、ワクワク・・・というよりもドキドキしながら、またサイコロを振ることにします。

 

2017・1・3 Tue


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神ってるナマケモノ

 

 年末年始はナマケモノになる。

 と決めていたのですが、結局、大みそかの昼まで仕事をして、半日、最低限の掃除をしてやっとこさ静かな夜を迎えました。

 

 久しぶりに紅白歌合戦を頭から最後まで見ました。

 今までなんとも思っていなかったけど、SMAPの不在は大きい。

 失ってみて、その存在感の大きさをひしひしと感じました。

 

 さて、あけましておめでとう、となってしまいましたが、ナマケモノの話。

 超過労働の人が増えているのか、最近、この動物のファンが急増しているということです。

 僕もファンというわけではないけど、そのライフタイルには興味を持っています。

 

 英語名はそのものズバリ、「Sloth―怠惰」。

 これはキリスト教の教義では傲慢、強欲、暴食、淫乱、憤怒、嫉妬と並ぶ七つの大罪の一つ。の動物は存在そのもの、生き方そのものが罪であり、否定すべきものなのです。

 つまり、敬虔なキリスト教徒の西洋人にとってこ

 そのため、南米大陸で発見され、研究者によって生態がわかってくると、侵略―植民地政策―帝国主義―資本主義という歴史を突き進んできた、野心溢れる西洋人にとって侮蔑の対象となりました。

 地上最低のノロマで低能な生き物だと、19世紀・20世紀を通じてバカにされてきたわけです。

 

 ところが近年、21世紀になる頃には風向きが変わり、彼らの省エネでエコな生き方こそ、現代人が見習うべきではないかと意見があちこちから聞かれるようになりました。

 

 同時にあくせく働くこと(働かされること)に嫌気がさし、そうしたストレスフルな人生に疑問を抱く人々の心をつかむようになりました。

 

 そのナマケモノ、毎日ぶら下がっているだけの人畜無害な「いい人」だからと言って、厳しい自然はそんなことで容赦なんかしてくれません。

 しめしめ、おいしいごはんがぶら下がっている、と空から、地上から、狙ってくる猛禽・肉食獣がいっぱいいます。

 

 そんな時、彼はどうするのか?

 普段はのんびりウスノロだけど、いざ窮地に陥ればすごいパワーを出して敵に牙をむく、あるいは想像もつかなかったスピードを出してピンチから脱出する。

 

 ・・・なんて大逆転劇はまったくありません。

 狙われたら最期、何の抵抗をすることもなく、逃走を試みることもなく、ただ諦める。

そして全身の筋肉を弛緩するのです。

つまり、「あ、ねらわれちゃった」と思ったとたんに「はい、これまでよ」となり、「どうお召し上がりください」と、単なる肉塊と化してしまうのです。

 

 ああ、なんて情けないと思うでしょうか?

 やっぱりこいつらは史上最低のノロマで低能でダメダメなのでしょうか?

 

 けれども不思議なことに、そんな最低・最弱な哺乳類のナマケモノは進化の勝者。

 生き残るためにどんどん強く、速く、大きくなっていった動物たちが次々と進化の途上で滅びていく中で、ナマケモノは太古から連綿とその遺伝子を伝え続けている稀有な動物なのです。

 

 考えようによっては、狙われたとたんに全身の筋肉を弛緩させる。つまり、完全にリラックスした状態にできるなんて、ほとんど神技。

 人間にも他の動物にもできない芸当なのではないでしょうか。

 今年の、いや、もう昨年になりますが、流行語になった「神ってる」です。

 

 もしや彼らは低能どころか、あまりにも高度な頭脳、崇高な魂を持っていて、自らの哲学を実践し、この世の生の終わりを悟り、命を捧げることで逆に捕食者の命を飢餓から救っているのかもしれない。

 

 また、筋肉を弛緩させることで、襲われる恐怖と肉体を引き裂かれる苦痛から自由になり、精神を解放するのかも知れない。

 

 そして、食われることで捕食者と同化し、猛禽となって大空を翔たり、肉食獣となってジャングルを駆け回るのではないでしょうか。

 翔るナマケモノ、走るナマケモノ、神ってるナマケモノ。

 

 というわけでナマケモノの生き方に思いをはせつつ、三が日は僕も神って怠けていようと思います。

 

 

2017・1・1 SUN


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