生き方に悩む人のためのリアルな参考書 「鉄道マン発 映像調理師®」

 

鉄道マン発映像調理師®

高塩博幸の人生甘辛レシピ

https://amazon.co.jp/dp/B0F7W3CWDX

AmazonKindleより好評発売中 ¥800

 

国鉄労組闘争に巻き込まれ、職場ハラスメントを受けながらも、新幹線運転士と映像クリエイター、一つの人生で二つの花を咲かせた高塩博幸さんに密着取材。市井のシニア起業家の奮闘をユーモア豊かに描くルポルタージュ!

 

(あとがきより)

彼の祖父の時代は、日本を欧米諸国に負けない、

近代的な文化国家にすることが、国民共通の目標でした。

また、父の時代は、敗戦によって物も心も貧しくなってしまった

日本を復興させ、豊かな社会を築くことが共通目標となりました。

 

しかし、高塩さんや僕の世代になると、

祖父や父の世代のような、誰もが共有できる目標は、

もはやありません。

それに代わって、僕たちひとりひとりが、

生きる目標や生きがいを設定しなければならない

状況が訪れているのです。

これは日本のみならず、経済的な成功を成し得た、

世界の先進国すべてに共通する課題でしょう。

 

「人生百年」と謳われる未知の世界は、

豊かでありながらも、未来に希望を見出しにくく、

不安があふれる世界です。

ここでは、60歳の還暦は、

かつてのように人生の終わりを意識し始めるのではなく、

新しく生き始める年代といえるかもしれません。

 

インターネットの普及、AIの進化によって、

僕たちの子供世代、孫世代も平等に知識や情報を共有しています。

子供や孫たちと、さらにそこに加わるであろう

AIやロボットたちと、

どんな人生を送り、どんな社会を築き、

どんな未来をめざせばいいのでしょうか。

そのために、あなたの生きた証、活動の足跡は、どう生かされ、

のちの時代にどんな響きを残すのでしょうか。

 

もし、あなたが、高塩さんに終活映像や人生ストーリーの

制作を依頼する機会があれば、

ぜひ、過去の記憶とともに未来へ向けても想像力を広げて、

想いを盛り込んでください。

 


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Deathフェスと有機還元葬のnanowaプロジェクト

 

●私が死んだら、お花たちよ

 

そのむかし、1970年代のこと。

イルカが「いつか冷たい雨が」という歌を歌っていた。

イルカとは「なごり雪」を歌う、

あのフォーク歌手のイルカのことだ。

 

「いつか冷たい雨が」の歌詞のなかには

「いつか私が死んだら、お花たちよ、そこから咲いてください」

といった一節があったことを覚えている。

 

自分が死んだら花になる・木になるという

夢想を抱く人は少なくない。

最近の樹木葬の流行は、そんな人々の願いを反映したものだろう。

 

この樹木葬、見た目は確かに美しく、

「自然に還った」感があるが、

粉砕した遺骨を樹木のあるエリアに撒く・埋めるだけなので、

実際に亡くなった人の遺体を栄養分にして

植物が育つわけではない。

 

ところが、これを実践する葬法が欧米で普及し始めている。

それが「有機還元葬」、別名「堆肥葬」である。

遺体を土の中に埋め、微生物を使って分解し堆肥に変える。

イルカの歌のとおり、あなたが死んだら、栄養のある土になり、

そこから花が咲き、木が育ち、森にもなりますよ、というわけだ。

 

 

●神仏の道理に悖る新葬法の開発者たち

 

環境問題の影響から、欧米では2000年代頃から

地球環境に負荷をかけない葬法=遺体の処理方法、

つまり従来の土葬や火葬以外の方法が

いろいろ考えられてきた。

 

考える人たちは真剣だが、

それを伝えるメディアの報道の多くはキワモノ扱いで、

「ほら、こんな面白い、でもちょっと怖い人や会社がありますよ」

といったニュアンスが強かったように思う。

 

はっきりと決めつけるわけではないが、

当時、葬儀に関してはまだ伝統的な宗教を尊ぶ傾向が強く、

新しい葬法の開発者たちは、神仏の道理に悖る者ども、

人間の尊厳をないがしろにする罰当たりな輩と見られていたのだ。

 

それがこの数年、潮流が変わってきた。

インターネットが浸透し、AIが広まり、

時代が変わり、世代も変わり、

「土に還る」「地球に還る」という思いを、

たんなる夢物語でなく、リアルなものとして、

肯定的に捉える人が世界各地で、

特に若い世代の間で増えているのではないかと思う。

 

 

●世界で普及の兆しを見せる有機還元葬

 

「有機還元葬」はそうした新葬法の代表格で、

呼び方や細かいシステムは違えど、

アメリカとドイツで幾つものスタートアップ企業が、

すでにビジネスとして営業を始めている。

 

営業しているということは、イコール、

法的に認められているということ。

実際、この先駆者たちは自治体に対して、

何度も粘り強くプレゼンを続け、ついに認可を勝ち取った。

 

ワシントンで、ニューヨークで、カリフォルニアで、

アメリカに限って言えば、2025年4月時点で

およそ4分の1の州、計12州で合法化されている。

メディアも、もはやキワモノ扱いできない状況だ。

 

ワシントン州 (2019年)

コロラド州 (2021年)

オレゴン州 (2021年)

バーモント州 (2022年)

カリフォルニア州 (2022年、施行は2027年)

ニューヨーク州 (2022年、施行は2024年8月7日)

ネバダ州 (2023年)

アリゾナ州 (2024年)

メリーランド州 (2024年10月1日施行)

デラウェア州 (2024年)

ミネソタ州 (2025年7月1日施行予定)

メイン州 (2024年)

 

僕はコロナ前から仕事で新葬法に関する記事を書いており、

冒頭のイルカの歌を思い出し、

有機還元葬はなかなかいいんでねーの、

土より生まれて土に還る。

僕も終わりが来たら、地球の一部になりたいと思っていた。

 

しかし同時に、これらは海の向こうの話で、

日本では到底無理だろうとも考えていた。

自分や家族をまんま土に埋めて、微生物に食わせるなんて、

考えただけでおぞましく、ほとんどの日本人は

拒否反応を示すに違いないと思いこんでいたのだ。

 

ところが、この有機還元葬を実現しようと

動いている人たちがいるのを知って仰天した。

それも「できればいいね」といったレベルでなく、

本気中の本気なのだ。

 

 

●nanowaプロジェクトの活動

 

このプロジェクト「nanowaプロジェクト」は、

年内にまず動物で、実際に国内で有機還元葬を行う予定で、

学者・研究者や、ある有名企業も支援に動いているという。

 

ちょうど1か月前、「4月14日は“よい死の日”」と謳って、

渋谷ヒカリエで6日間、Deathフェスという、

死をポジティブに考えようというイベントが開かれたが、

そこでもトークセッションの一つとして、

「有機還元葬」のコンセプト、

そして実現に向けた活動について語られた。

 

反響は大きく、

日本でも有機還元葬(堆肥葬)への潜在的なニーズは

決して低くないようだ。

 

実現にはもちろん法整備が必要で、

かなり厳しいのではないと推測するが、

この国は前例さえあれば、特にそれが欧米のものなら、

意外とあっさりクリアできてしまう可能性もある。

少なくとも安楽死・尊厳死よりもハードルは低そうだ。

 

まさか、自分が生きている間に、

この葬法がこの国で実現するとは(まだしてないが)

思いもしなかった。

「nanowaプロジェクト」のスリリングな展開は、

これから注目に値する。

 


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認知症になると、それまでの愛はどこへ行くのか?

 

母の日。

スーパーマーケットがいつも売っているデザートに

ポチっと赤いシールを貼り付けて、

「花より団子」の「母の日スペシャル」を

用意していたので、買ってきた。

 

「2個入りだけど、母の日だから、おかあさんは1個。

僕らは子供だから半分ずつね」と言っても、

何のことやらさっぱり認知しない様子。

 

だが、何か、普段あまりお目にかからないものが出てきた、

しかも自分の好物のカテゴリーに入るものだ、

ということは何となくわかるらしい。

 

けれどもやっぱり1個まるまる食べてしまっては悪いと思うのか、

半分残したので、僕とカミさんで半分ずつ食べる。

 

これは母の愛なのか?

そう言うと、カミさんは、

「わたしたちに恩を売っておいたほうが、

後から何かと有利だと算段しているんでしょ」

と、クールな分析をする。

親子ではあるが、この二人の相性はイマイチなようだ。

 

義母は時々、僕に対して「だーい好き!」と言って、

ベタベタ抱きついてくる。

たぶん、毎日、お菓子をあげて面倒を見るので

そうなるのかと思うが、相性はいいのかもしれない。

好きでいてもらったほうが、

ある程度、言うことを聞いてくれるので、

こっちとしては助かる。

 

デイサービスのスタッフに対しても、相性のいい・悪いはある。

以前、毎週土曜日の送迎に来ていた

Sさんという30前後の若い男性が、大のお気に入りだった。

その人はもう2年以上前に辞めてしまったのだが、

いまだにその記憶が残存しているのか、

土曜日の朝は概してご機嫌が良く、

なんとなくウキウキ感があるようだ。

待てど暮らせど、もうその人は来ないのだが・・・。

相性のいい人(波長が合う人)とは居心地の良さを感じる――

これも一種の愛情・愛着と呼べるものだろう。

 

 

時々、認知症になると人間が生きてきた中で

培った愛情なるものはどこへ行くのか?と考える。

 

親でも夫でも子供でも、

若い頃の恋愛の相手や友だちでもいいが、

人間、成長過程で誰かを愛し、愛されることで、

あるいは仕事や趣味などに愛を注ぐことで、

いろいろな関係を紡ぎ、人生を築いていく。

 

認知症になると、そうした愛の記憶は、ほぼすべて初期化され、

食欲などの本能的な部分と、

自分が安全に、有利に生活できるための打算が、

非言語されて内側に残る。

打算というと印象が悪いが、

これもまた生きていくための本能の一つなのだろう。

 

その一方で、幼い子供や動物を見て「かわいい」と感じたり、

花をきれいと感じたりする原始的な愛情は

ずっと消えるに持ち続けるようだ。

 

豊かな時代に生まれ育った僕たちは、

周囲にあふれかえる「愛」という言葉に洗脳され、

この得体のしれない概念に、過剰に期待する傾向がある。

人間には愛があって然るべき、

愛がなければだめ、人を愛せ、みたいな。

 

女と男の愛、家族の愛、至上の愛。

時はあまりにも早く過ぎ、喜びも悲しみもつかの間だが、

ただ一つ、愛の世界だけは変わらない――

昭和歌謡にそんな歌詞の歌があった。

でも、そんなことはないのだ。諸行無常だ。

愛の世界も変わっていくし、失われていく。

 

だがしかし、それはそう悪いことでも、

悲しいことでもないのかもしれない。

純粋でありながら、どこか邪で、ご都合主義的。

義母からは、人間のニュートラルな状態とは

「こんなもんよ」と教えてもらっているような気持ちになる。

ありがとう、おかあさん。

 

 

 

 


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新刊「鉄道マン発 映像調理師® 高塩博幸の人生甘辛レシピ」

 

新刊 出ました。
AmazonKindleにおいて¥800で販売中。

 

「鉄道マン発 映像調理師® 高塩博幸の人生甘辛レシピ」

 

国鉄労組の闘争、職場ハラスメント、

そして新幹線運転士から映像クリエイターへ——。

一つの人生で二つの花を咲かせた男の物語がここにあります。

「会社のイヌ」と呼ばれながらも昇進を重ね、

還暦を過ぎて再び人生の岐路に立った時、

彼が選んだのは「映像調理師®」という前代未聞の職業でした。

人生の味わい深いエピソードを素材に、

心に残る映像作品を調理する高塩博幸さんの、

笑いあり涙ありの起業ストーリー!

 

かつて新幹線を走らせた男が、

今は人々の人生を映像に残す「調理師」として奮闘しています。

本書「鉄道マン発 映像調理師」は、

シニア起業家・高塩博幸さんの波乱万丈な人生を追った

ルポルタージュです。

 

高校生だった高塩少年は

祖父の「助役、駅長になるまで頑張りなさい」という助言を胸に

国鉄に入社。

その後、国鉄分割民営化という荒波を乗り越え、

JR東海で着実にキャリアを積み上げていきます。

しかし、組合闘争に巻き込まれ「会社のイヌ」と呼ばれる日々も。

 

それでも持ち前の向上心で課長(助役)まで昇り詰めた彼が、

還暦を迎えてなぜ映像の世界に飛び込んだのでしょうか?

映像クリエイターとしての第二の人生では、

自らを「映像調理師®」と名乗り、

終活映像市場という未開拓の分野に挑戦。

「自分史・遺言ムービー」「家系史継承箱」「死後の自分史」など、ユニークなサービスを展開しています。

運転士の教官として培ったインタビュー術を駆使し、

クライアントの人生ストーリーを掘り起こす手腕は、まさに「料理人」の腕前。AIなど最新ツールも取り入れた彼の仕事術には、

学ぶべきものがたくさんあります。

 

人生100年時代、60歳は終わりではなく新たな始まり。

足立区北千住を拠点に奮闘する高塩さんの姿は、

第二の人生を模索するすべての人の道標となるでしょう。

「映画より映写室が好きだった少年」が、なぜ映像の世界へ?

「停止位置不良」の夢に悩まされながらも前に進む姿に、あなたも勇気をもらえるはずです。

 

本書は単なる成功物語ではありません。

昭和から令和へ、激動の時代を生き抜いてきた一人の男が、

失敗や挫折を乗り越え、

常に前向きに人生を切り開く姿を描いた珠玉のドキュメントです。起業に関心のある方、自分史や社史作成を考えている方、

そして鉄道マンの皆さん必読の一冊です。

人生という料理の「下ごしらえ」から学ぶべき知恵が

ここにあります!

 


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スタジオツアーと映画シリーズ一気見「ハリーポッター」

 

一昨年、としまえんの跡地にオープンした

「ハリーポッター スタジオツアー」に行ってきた。

正式名称は「ワーナー ブラザース スタジオツアー東京

‐メイキング・オブ・ハリー・ポッター」。

約3万平方メートルの敷地内を歩いて回る

ウォークスルー型のエンターテインメント施設だ。

 

●見どころ満載6時間ツアー

 

映画ハリー・ポッターシリーズや、

ファンタスティック・ビーストシリーズ制作の

舞台裏を体験できる。

映画に出てくるセット・小道具・クリーチャー・衣装や、

実際に撮影で使われた小道具などが展示され、

視覚効果を使った体験型展示もある。

 

初めてなのでフルパッケージのチケットを買い、

音声ガイドもつけて回ったので、ぜんぶ回るのに6時間かかった。

 

かなり見どころが多く、特に熱心なハリポタファンでもない僕でも

満足のいくツアー。

6時間は長すぎるかもしれないが、普通に3~4時間は楽しめる。

施設内にレストランやカフェもあるので、途中休憩もオーケー。

 

映画ハリー・ポッターシリーズは、

ほぼ2000年代に制作されており、

CGなどは現在の映像技術の1ランク下の技術が駆使されている。

その分、アナログ的というか、

昔ながらの手作りの部分も残っていて、

セットや小道具などの作りこみがすごい。

 

魔法学校の教科書など、映らないページまで

しっかり書き込まれており、

映画スタッフの間で受け継がれてきた

「魂は細部に宿る」の精神が生きており、

職人的な意気込みが伝わってくる。

でも、こういう部分は果たして、

今後の映画作りにおいてはどうなのだろう?

コスト削減のためにそぎ落とされているのではないか?

 

「ハリーポッター」は20世紀の映画文化の集大成。

映画が娯楽の王者だった最後の時代を飾る傑作シリーズ。

そんな言い方もできるのかもしれない。

 

●全8作再確認、そしてリメイク版ドラマも

 

というわけで、このツアー後、

アマプラで「賢者の石」から「死の秘宝」まで

全8作を一気見した。

(最後の「死の秘宝」は2パートに分かれている)

 

主役の3人が可愛い少年少女から青年に成長していくにつれ、

映画各話のトーンが変わっていく。

第1作・2作あたりはコミカルで明るい要素が多いが、

ヴォールデモートとの対決の構図が鮮明になる

中盤から後半にかけて、

ダークでハードな物語になっていく変化が面白い。

そして、やっぱり最終作における謎解き――

ハリーの運命をめぐる、

ダンブルドアとスネイプの人生をかけたドラマに感涙。

 

何でもテクノロジーでできてしまう昨今の映画製作だが、

演者の子供たちが青年に成長していく過程は、

さすがに機械では実現できない。

それをやってしまった「ハリー・ポッター」は、

やはり空前絶後の作品だろう。

 

こんな作品は二度と作れない――

と思っていたら、

何とアメリカで連続テレビドラマとしてリメイクされる。

キャストはもちろん全とっかえ。

(映画版の誰か生徒役が先生役として出れば面白いと思うが)

 

映画版では割愛された詳細な部分が描かれたり、

出番がなかった原作の脇役なども登場するらしい。

製作はすでにけっこう進行していて、

今年の夏には撮影開始予定とのこと。

製作総指揮は、原作者のJ・K・ローリング。

1作につき1シーズンで、最低7シーズン。

後半は内容が膨らむので、回数はさらに増えるかも。

いずれにしても10年スパンで、

映画同様、子役たちが大人になる過程を描き出す。

この時代にすごい構想だ。

「ハリー・ポッター」で一時代を築いたローリングももう還暦。

このドラマ化で、みずからの終活をしたいのかもしれない。

 

どうしても映画版と比較してしまうだろうが、

かなり楽しみにしている。

小説ももう一度、全巻ちゃんと読み直してみようと思う。

 

 


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ジャイアント太鼓in府中

 

昨日、府中駅から東京競馬場に向かう途中、

出くわした、直径2メートルはあろうかという大太鼓。

バットみたいなバチで打つと、

すごい音が街中に響きわたる。

 

毎年4月30日〜5月6日の1週間、

大國魂神社を中心に府中市内で開催される

「くらやみ祭り」の一つ、「大太鼓送り込み」だ。

東京都の無形民俗文化財に指定しているらしい。

初めて見たが、間近で見るとすごい迫力。

偶然出会えてラッキーだ。

 

それにしても、この太鼓の皮は何だろう?

大きさからして牛以外に考えられないが、

どうやって作っているのか気になった。

ぜひ職人さんの仕事を取材してみたい。

 

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ご購入いただいた方、ありがとうございました。

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引き続き、AmazonKindleにおいて、

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東京競馬場ローズガーデンで漫遊

 

どこに行っても混雑しているゴールデンウイーク。

穴場はないかと、大穴狙って府中にある東京競馬場へ行く。

大あたり!ガラガラだ。

土日は競馬はやっていない。

お目当てはバラである。

東京競馬場にはバラ園――ローズガーデンがあって、

無料開放しているのだ。

 

6月1日の日本ダービーに合わせて調整しているので、

見頃としてはまだ少し早いが、十分に美しく、見ごたえがある。

全体が7つのエリアで構成されており、

300品種を超えるバラと脇役の小さな花・葉・草も充実している。

歩いているとロンドンの公園にいるようだ。

歴代のダービー馬の記念碑と、騎手の人形がかわいい

ダービーホースアベニューもいい感じだ。

 

そして何より有名な庭園と違って、

あまり知られていないので来園者が少なく、すいていて、

ストレスフリー。ついでに入園料もフリー。

人の映り込みなども気にせず、写真も好きなだけとれる。

 

テーブルやベンチもたくさんあるので飲食も自由だ。

だだし、自販機も含めて飲食関係の販売施設はないので、

府中駅周辺でドリンクとかサンドイッチとか

お弁当とか持っていくといい。

 

連休はもう終わりだが、5月・6月の平日はおすすめ。

正門前に電車の駅があるが、

競馬が開催される土日しか運行していないので、

アクセスは府中駅から。ぷらぷら歩いても15分程度です。

 

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「認知症のおかあさんといっしょ2(に)無料キャンペーン開催中」

 

「お母さんのところに帰る」と言って家を出ようとする義母。

「こんにちは!元気ぃ~!」と女子高生に突然声をかける義母。

幻の家族と会話する義母。

笑いあり、涙あり、驚きありの認知症介護エッセイ。

認知症になっても人生は続く。

むしろ、新たな人生の幕開けかもしれない。

この異色のエッセイ集は、社会が抱える高齢化問題の一面を、

ユーモアとリアリティで描き出しています。

忌避されがちな認知症を、新たな視点で捉え直す試みです。

 

もくじ

  • 幸せの歌と認知症の女
  • 春だけど自分にいいこと何かやってる?
  • サスペンスフルな認知症映画「ファーザー」
  • 蛭子能収さんと「with弱者」の社会の実現について
  • 認知症 花のアートワーク
  • 二度と洋食屋には連れていくべからず
  • 認知症患者に安心とハピネスを
  • 食卓のマナーと認知症
  • また今日もざしきわらしがやってきた
  • 赤ちゃんはおとなになって働いています
  • 要介護認定更新の日
  • 認知症と回想療法士
  • リス系認知症患者の冬じたく
  • 京風お地蔵さん人形と義母のまぼろし家族
  • 認知症の義母がぬくぬくする光と音の暖炉
  • 認知症患者のごあいさつを受け止められますか?
  • みかんせんべいに秘められた物語
  • 魔女っ子カーチャン
  • 親の介護は5年で卒業(というマイルール)
  • どんな子どもも「世界は美しいよ」と実感させてくれる
  • 認知症患者の純粋な「かわいい」の価値
  • 鏡の国のお義母さん
  • 「痴呆症」は老害ワード?
  • 義母の入院
  • 食べ物の恨みは死ぬまで残る
  • 入院していたことなんて記憶にありません
  • お母さんといっしょの夏休み
  • 義母の回復と阿佐ヶ谷の七夕まつり
  • 笑える遺影
  • 秋の最後の日の散歩
  • 年末の認知症ミステリー
  • 義母のお正月スペシャル
  • 90歳は人生卒業の齢?
  • 生きるとは死ぬまで幻想を抱き続けること
  • 認知症になっても人生は続くか?
  • AI・ロボットが“理想的・人間的な認知症介護”を実現する

(全36編採録)

 


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今また、唐十郎 襲来!

 

かつてのアングラ演劇シーンのヒーロー 唐十郎の一周忌。

昨年11月に出された追悼本

「唐十郎 襲来!」(河出書房新社)を読んだ。

現代演劇を研究し、過去、唐十郎界隈の評論も出している

評論家・編集者の樋口良澄氏がまとめたものだ。

 

同氏を含め、30人以上の人が、

それぞれの「唐十郎体験」を、

証言・エッセイ・読解・インタビュー・短歌・俳句など、

様々な形の文章で語っている。

 

中には寺山修司、蜷川幸雄のものも。

もちろん、過去の原稿を転載したものだが。

あの演劇界の巨人たちがみんなそろって、

あちらの世界に行ってしまったんだなぁと改めて実感。

 

蜷川幸雄のパートは、2011年の唐さんとの対談になっており、

二人の対談は、これが最初で最後だったようだ。

唐さんが「蜷川くん」と呼んでいるのが面白い。

 

●不破万作のインタビュー:伝説の舞台裏

 

特に心に残ったのは、状況劇場の初期から劇団員として

長年、活躍し、名脇役として名を馳せた不破万作のインタビュー。状況劇場が活動した1960~80年代は、

まだインターネットがなかったので、

この劇団にまつわる話題、唐十郎にまつわる逸話は、

良きにつけ、悪しきにつけ、いろいろな尾ひれがつき、

事実を大いに誇張した伝説として語られていた。

 

1969年、新宿西口公園で芝居を強行上演して逮捕された事件、

寺山修司の天井桟敷との乱闘事件、

そして、何度も行われた海外ゲリラ公演――

しかも当時まだ治安も環境も劣悪だった

アジアから中近東地域の旅公演などの話を本や雑誌などで読み、

当時学生だった僕たちは、唐十郎と状況劇場に対して、

途方もないスケールとエネルギーを持った、

天才、怪物演劇集団のイメージを抱いたものである。

 

不破万作はその舞台裏を明かし、いろいろ事件を起こしたものの、唐十郎も普通の人間だったのだなぁと、

ほほえましい思いになった。

特に妻だった李麗仙の前では小さくなっていた――

という話には笑ってしまった。

 

昨年も書いたが、僕も状況劇場の入団試験を受けに行って、

一度だけ、じかにこの夫婦に会ったことがある。

李麗仙は攻撃的でちょっと怖かったが、

唐さんは抱いていたイメージとのギャップもあって、

ずいぶん優しい人だなぁという印象が残っている。

そして唐さんに「きみの作文は面白かった」と言われたことが、

今の自分を支える柱の一つになっている。

 

●久保井研のインタビュー:

後半の創作活動を継続可能にした作劇スタイル

 

現在、座長代行・演出として唐組をまとめる

久保井研のインタビューもよかった。

彼と編集者・樋口との対話で、

状況劇場時代、「戦後復興した街に対する違和感」を

創作活動の根源にしていた唐十郎が、

唐組として再出発するにあたり、

「新しいメディアによる新しい現実を描き、

豊かさの中で右往左往する人間を描く」という

手法に切り替えたという話は、とても興味深い。

 

過去の実績・作劇法にこだわらず、自分の演劇を続けるために、

テーマとなる現場に出かけ、独自の取材をして戯曲を書くという、状況劇場の頃とは違う作劇スタイルは、

唐十郎の後半の創作活動を継続可能にした。

 

どんな天才でも、何十年にもわたって、クオリティが高く、

パターンに頼らない創作を続けるのは至難の業だ。

唐十郎が偉大なのは、なりふり構わず変えるべきところは変えて、好きな演劇を、けっしてブレることなく、

半世紀以上、死ぬまでやり続けたことである。

 

●永堀徹のエッセイ:唐十郎の原点

 

そして、もう一つ感動的だったのが

「唐十郎の原点」という唐十郎=大鶴義英の、

明治大学時代の一つ年上の先輩である永堀徹のエッセイだ。

1960年の安保闘争の挫折によって、活動継続の危機に瀕した、

彼らの明治大学実験劇場は、

都市の中での演劇に距離を置こうと、

茨城県の農村に地方公演に出かける。

 

都会と田舎との情報格差・ライフスタイルの違いが大きな時代に、若者たちが見知らぬ土地で、

どのように芝居をやり、何を得たのか?

タイトル通り、「唐十郎の原点」が、

まるで昨日のことのように鮮やかに、

朴訥な文章でつづられている。

最後のほうは読みながら涙してしまった。

 

本当に唐十郎はこの若き日の体験を基点に、

生涯、紅テントを持続し続け、それは今また、

後進に受け継がれた。

1960年代の日本の演劇ルネサンスが生んだ奇跡である。

あれから1年。

永遠の演劇少年・唐十郎に改めて合掌。

 

 

電子書籍

認知症のおかあさんといっしょ2

5月6日(火)15:59まで

無料キャンペーン開催中。 

もくじ:

・京風お地蔵さん人形と義母のまぼろし家族

・認知症の義母がぬくぬくする光と音の暖炉

・認知症患者のごあいさつを受け止められますか?

(ほか 全36編採録)

 


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義母の「むき出しの欲」から人生の幸福度について考える

 

先月、義母をショートステイに預けたら、

ちょっとしたトラブルがあった。

他の利用者が持っていたぬいぐるみを

「これは自分のものだ」と言い張り、

ガメてしまったのである。

 

どうやらその持ち主さんは安心のために、

いつもそのぬいぐるみを持ち歩いているらしいが、

義母に取られて、かなりパニクったようだ。

怒り心頭だったのか、泣き喚いたのか、わからないが、

とにかく大げんか。

スタッフの人は双方をなだめるのに苦労したらしい。

 

とはいえ、そこは認知症のありがたいところで

執着はいつまでも続かず、5分か10分、

気をそらすと忘れてしまう。

そして、それ以降は義母の目に触れさせない

という措置を取って、一件落着したらしい。

 

まるで保育園や幼稚園の幼児みたいで、

やれやれという感じだが、ここのところ、

こうしたトラブルが増えてきた。

家のなかでも、自分の食べ残したお菓子や食器、

家族共用のタオルや、使用済みの包み紙などに対して

「わたしのものだ」と異様な執着心を見せ、

それを取り上げようとしたカミさんとケンカになることが多い。

 

こうした「物に対するむき出しの欲」は

認知症患者特有のものというわけでなく、

今どきの年寄りの「あるある現象」だと思う。

人間らしいと言えば人間らしいし、

子供の場合は可愛さにもつながるが、

おとなの場合は、そうではない。

 

齢を取ったら聖人のように悟るべきだとは言わないが、

欲に取りつかれた老齢の人間の姿は、

やっぱり醜いなと思うし、哀れさを感じてしまう。

 

3年前に亡くなった実母(義母より6歳上)には、

こうした傾向はほとんどみられなかった。

いっしょに暮らしていなかったので確かなことは言えないが、

帰省で何泊かした時見ていても、

娘である妹とケンカすることはなかったし、

妹からそれで困ったという話も聞かなかった。

そして施設に入ってからは、

神様の領域に入ったような、穏やかな顔をしていた。

 

二人の違いは、人生全体の幸福度の違いなのかなと思う。

やはり幸福度が低く、

不満やストレスが多い生き方をしていると、

あるところまでは我慢が効いて体裁を保っていても、

高齢化して社会人としての枷が外れてしまうと、

抑えつけていた欲がむき出しになってしまう。

 

さらに言うと、母世代(戦前生まれ)の女性は、

やはり伴侶との結婚生活の影響が大きいのだと思う。

僕の両親は、適当に仲良く暮らしていて、

父は一切家事をしない人だったが、

あまり母にやかましいことは言わなかった。

 

7回忌なので悪いことは言いたくないが、

義父は亭主関白で、かなり義母の「しつけ」にうるさく、

彼女の希望を抑えつけ、

単独で外出することをめったに許さず、

家に縛りつけていたらしい。

 

いっしょにあちこち旅行に出かけるなど、

表面的には仲良し夫婦と見られていたようだが、

その見た目は、義母が我慢することで

成り立っていたのかもしれない。

もちろん、幸福度はそれだけで決まるものではないだろうが、

いっしょに暮らす人間との相性はかなりウェイトが高い。

 

今、女性の生き方は昔と比べて多様化して、

もう「すべては男次第、亭主次第」というわけではない。

結婚式のころはテンションが上がっているので、

互いに「幸福にします・なります」と、

ペロッと言えちゃうが、

数年たって、こりゃだめだなと思ったら、

迷わずさっさと離婚したほうが人生を汚さずに済む。

 

今の日本で「我慢が美徳」と思って生きていると、

欲望むき出しの醜い高齢者になるリスクが高まるのだ。

義母には申し訳ないが、つくづくそう思う。

 

彼女の名誉のために言っておくと、

欲にかられるのは、あくまで部分的であり、

四六時中そうなっているわけではない。

むしろ普段とのギャップが大きいので、

悲しい気分になり、考えさせられるのだ。

 

いずれにしても、愛されるジジババにならなくてもいいが、

ある程度きれいで、

子供たちから多少はリスペクトされる人間にりたい。

 

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昭和の価値観はどこまで生き延びるのか?

 

昨日は、昭和100年の「昭和の日」だった。

最近は、なんでもデオドラントしないと気が済まない

ホワイト社会が進行中で、

昭和の価値観が次々とバッシングされている。

 

中居正広の性暴力問題から発展したフジテレビの問題しかり。

八代亜紀のヌード写真入りCDの問題しかり。

 

●性暴力を受けた女性がセクシー写真集を出すふしぎ

 

中居くんを擁護するわけではないが、性被害を受け、

PTSDになったという元フジテレビの女性アナが、

自身でカミングアウトした本や

セクシーな写真集を出しているのは、僕には理解しがたいし、

同性の間でも首をかしげている人は多いのではないか。

いろいろ理屈や事情があるのだろうけど、

いちいちそれに耳を傾ける人はそんなにいないだろう。

 

そしてまた、不思議なことに、彼女のこうした奇異な行動には、

僕が知る限り、あまり批判的な意見を聞かない。

 

被害者なのだから、

ということで優しくしなくてはいけないからか?

下着や水着の写真集を買うことで彼女を応援しようということか?それとも中居くんの擁護者・性暴力の容認者と思われるのが

嫌だから?

これもやっぱり僕には理解できない。

 

まだまだ昭和の価値観に染まっている人たちは、日本人の大半を占めていると思うが、みんな、このホワイト社会化についていっているのだろうか?正直、僕は息切れしている。

 

●昭和歌謡の女性歌手は花魁である

 

八代亜紀さんのCDの件は、裁判沙汰に発展する気配だが、

当のレコード会社は、そうなる前に発売してしまった。

転売目的で買った人も大勢いるようで

早くも高値を付けて売られている。

これは裁判になる前に商売完了という筋書きだ。

 

裁判に持ち込まれたとして、どんな裁きになるかはわからないが、倫理的にはともかく、

このレコード会社の社長が法律的に重罪になるとは思えない。

 

今でこそ「昭和歌謡」は、音楽通からもリスペクトされているが、昭和の時代、歌謡曲の歌手、

特に女性はクラブのホステスとほぼ同様の扱いだった。

という言い方に語弊があれば、江戸時代の遊郭の女郎、

あるいはもう少し上の花魁という扱いである。

 

今年のNHKの大河ドラマ「べらぼう」の主な舞台・吉原は、

江戸最大の遊郭があった街。

とびきり歌のうまい花魁は大人気で、

彼女のためなら大金を貢ぐという旦那は大勢いただろう。

ただし、社会的には身分制度の埒外で、

身請け制度があったことからも、

人間ではあるが「商品」としてのニュアンスが

強かったと思われる。

 

昭和はまだこうした江戸時代の芸能文化の流れを引きづっていて、歌ったり踊ったり芝居をしたりする人たちは、

一種の「商品」として見られていたと思われる。

たとえ八代さんほどの大歌手だとしてもだ。

 

だから「権利を買い取って所有している」という、

かの社長の主張は、

(下品だが)昭和の価値観からすれば正当なものだし、

その権利を使って商売するのが、どうして悪いのだ?となる。

 

亡くなって自分の意思を示せない八代さんの写真を出すことには

僕も反対だ。

だが、かといって

「八代さんが生きていたら絶対に認めないはずだ」という意見は

勝手な決めつけだろう。

僕は「多くの人に自分が若い頃の美しい姿を見てほしい」と

希望することも十分あり得ると思う。

女性の方々はどう思うだろうか?

 

●人間臭さ・エロ臭さにおう昭和の価値観はいずこへ

 

エロい方向の話に偏ってしまったが、

今後、AIが浸透し、様々な情報が整理され、

管理社会・デオドラント社会が進展してくると、

その一方で、ある意味野蛮で、汚く、

下品でいい加減な昭和の価値観は

ますます重要性を増してくるだろう。

 

なぜなら昭和が(もしくは20世紀が)人間による、

最後の、人間臭い時代、

最後のエロ臭い時代として認識されるようになるからだ。

 

その後、人間臭さ・エロ臭さを脱臭された人間はどこへ行くのか?昭和の価値観はどこまで生き延びるのか?

とても楽しみである。

それにしても、こんなことを考えている時点で、

僕はもう、時代に取り残された昭和人なのだろうと思う。

 

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認知症患者専門店は商売繁盛?

 

先日、義母を美容院に連れて行った。

前にも書いたが、お抱え美容師(?)のTさんは、

腕はそこそこだが、接客の達人である。

義母は普段ニコニコしているが、

自分の体をいじくられるのが大嫌いで、

医者などでも随分と手こずる。

なので、正直、なるべく連れていきたくない。

 

美容院も何かされる、どこかいじくられるに違いないと、

カンがはたらくのだろう。

カミさんと二人がかりで、

できるだけご機嫌のいい状態で連れていくのだが、

店のドアの前まで来るとさっと顔色が変わり、足が止まる。

断固として入ろうとしないこともあり、

そういう時はやむを得ず、そのまま近所を

一回りして戻ってきたりする。

 

しかし今回はちょうどいいタイミングで、

Tさんがドアを開けてくれて、目が合うと

義母の表情がふわっと崩れた。

 

Tさんは、認知症患者の扱いに慣れているのか、

それとも単純に相性がいいのかわからないが、

一旦店に入ってしまえば安心してまかせられる。

すごく丁寧な接客というわけでなく、

適度にフレンドリーなところがいいのだ。

何かあったときのために、

一応、僕たちは店内の待合スペースにいるのだが、

これまでトラブルが起こったためしはない。

 

今回はピンクっぽい金髪にして

「ほぉら、かわいくなりましたよ」と言われ、

義母はご満悦である。

家からすぐ近くというわけでなく、

徒歩15分程度(義母を連れていると20分程度)。

あちこちいろんな店を試したが、

もうここしかないと、この2,3年は完全に御用達である。

 

もしこれから認知症患者が増えるとしたら、

そういうお客に対しても、柔軟に対応してくれる店は重宝され、

繁盛するだろう。

どのジャンルにも「認知症患者専門店」

なんてものができるかもしれない。

 

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21世紀の「傷だらけの天使」(小説版)をどう読むか?

 

「傷だらけの天使―魔都に天使のハンマーを―」は、

作家・矢作俊彦が2008年に出した小説(講談社文庫)である。

題名で察しがつくように、これは「傷だらけの天使」の小説。

30年後の後日談だ。

 

今年になってからAmazpn Primeで

「傷だらけの天使」全26話を見た僕は、

頭の中で、かつての傷天熱が再燃。

いろいろネットで情報をあさり、書籍として出版されている

解説本「永遠なる『傷だらけの天使』

(山本俊輔・佐藤洋笑/集英社新書)」を、

そして、この小説を読んでみた。

 

●1か月近く書けなかった感想

 

あの衝撃の最終回でラスト、

いずこともなく去った小暮修(萩原健一)は、

30年後、どうなったのか?

それを描いた物語となれば、

傷天ファン、ショーケンファンなら、

興味を持たずにはいられないし、ぜひ読むべき作品である。

……と言いたいところだが、

同時に「読まないほうがいいよ」とも言いたくなる内容である。

 

思い出は思い出のまま、大事に取っておいたほうがいい。

昔の恋人にはもう一度会おうなんて思わず、

かつての美しい面影だけを抱きしめていたほうがいい。

正直、そんな心境になってしまった。

 

これを読み終えたのは3月末だったが、

どんな感想を書けばいいのか、うまく整理がつかず、

かれこれ1か月近く経ってしまったのは、そのせいだ。

 

●トリビュート小説の傑作だが

 

誤解がないように言っておくと、

「傷だらけの天使―魔都に天使のハンマーを―」が、

読むに堪えない駄作というわけではない。

むしろその逆で、これは傑作だと思う。

探偵小説、ハードボイルド小説、エンタメ小説、

どの呼び方が一番いいのかわからないが、

とにかく、こうしたジャンルにおいて、

構成、文体、表現、リズムなど、

相当質の高い作品であることは確かだ。

 

作者自身が傷天ファンであり、

読者も完全に傷天ファンを対象としているので、

原作ドラマに対するリスペクトも十分すぎるくらい十分。

 

たとえば冒頭部分は、僕たちがこぞってマネをした、

あの伝説的なオープニング朝食シーンの

完全なオマージュになっている。

同時に、30年後、55歳になったオサムの現状を

ビビッドな表現で読者に伝える始まり方になっており、見事だ。

 

この冒頭部分が象徴するように、

トリビュート小説として非常によくできており、

いちいち納得できる。

しかし、だからこそ、この物語が、

多くの傷天ファンに与えるダメージ(?)も

大きいのでないかと思う。

少なくとも僕にとってはそうだった。

 

●萩原健一と市川森一の置き土産

 

1974年秋から1975年春にかけて日本テレビ系で放送された

「傷だらけの天使」は、

当時、その圧倒的存在感で人気を誇った俳優・

萩原健一を主役にした、

コミカルさとハードボイルドテイストと

人情味を併せ持つ探偵ドラマで、

斬新な内容・演出と、日本映画界を代表する監督らが参加した

「テレビ映画」として話題になった作品だ。

 

視聴率は振るわなかったが、

その「カッコ悪いカッコよさ」「ろくでなしの生き様」は、

当時の若者たちの心にずっぽり突き刺さり、

大量のファンを生み出し、半世紀を超えて続く伝説となった。

そうしたファンの一人である作者の矢作俊彦は1950年生まれ。

まさしくショーケンと同級生である。

 

彼はこの作品の執筆に際して、

主演の萩原健一と、脚本家の市川森一から承諾を得ている。

市川は登場人物やドラマの世界観の設定をつくり、

26話中、8つのエピソードの脚本を書いた、

脚本陣のメインライター。

いずれも「傷天」を代表する傑作で、

第1話(制作側の都合で放送時は第7話になった)と最終話も

彼のペンによるものだ。

 

市川は2011年、萩原は2019年に他界しているので、

「魔都に天使のハンマーを」は、傷天の核ともいえる二人が、

矢作に託して残した、置き土産ともいえるかもしれない。

 

市川は1983年に同名の脚本集を大和書房から出しているが、

その後、何度も傷天復活の話があったらしい。

しかし、幸いなことに(?)、それらは実現しなかった。

制作上の都合もあったかと思うが、

ファンも齢を取った萩原がオサムを演じる姿は

見たくなかっただろう。

そして、萩原以外の俳優がオサムを演じることも

許せなかっただろう。

 

●小説の世界だから許される30年後の傷天

 

しかし、小説の世界――僕たちの想像力の範囲でなら、

それは許される。

キャラクターの描写は的確で、

修が話すセリフの文字からショーケンの声が聴こえてくる。

僕たちは、この物語の中で「55歳の小暮修」と出会えるのだ。

 

それは他のキャラも同じ。

ここには、オサムがヤバい仕事を請け負っていた、

探偵事務所のボス・綾部貴子も、

その右腕として活躍していた辰巳五郎も出てくる。

 

最終回で横浜港から外国へ逃亡した貴子は、

もはや探偵事務所の経営者などではなく、

六本木ヒルズを根城とする組織のトップとして、

2000年代半ばの日本の政治・経済・産業界を牛耳る

フィクサーとなっている。

 

同じく横浜港で逮捕された辰巳は、

あの時、貴子に裏切られたのにも関わらず、

相変わらず手下として、舞台裏を跳梁跋扈している。

 

どちらも年齢設定は還暦をとっくに超えて

70代ということになるが、

超高齢化社会で、

いまだに昭和のジジババが幅を利かす日本においては、

何ら違和感がない。

それぞれの役を演じた岸田今日子・岸田森も、

すでにこの世を去っているが、

ここも想像力を駆使して、加齢し、より妖怪化した

二人の声を被せて読むといいだろう。

 

●アキラへの想い

 

そして、物語の中で絶大な存在感を感じさせるのが、

オサムの弟分の乾亨である。

しかし、アキラはドラマの最終回、つまり30年前に死んでいる。

もちろん生き返って登場するわけではないが、

彼はオサムの中でずっと生き続けており、

ことあるごとに心の底からよみがえってくるのだ。

 

文字通り、天使になったアキラへの追憶。

若かりし時代の、宝のような思い出と、

あの時、彼を見捨て、死なせてしまったという罪悪感。

それがこの物語の軸の一つになっており、

随所に現れる、ドラマから引用したアキラのセリフを読むと、

若き水谷豊のあの声と独特の言い回しが響いてくる。

(断じて、現在の、杉下右京の水谷ではない)

 

● 在りし日のエンジェルビルも

 

それぞれのキャラクターとともに、

世界観もきちんと踏襲しており、

オサムが住処としていたペントハウスも、

舞台の一つとして出てくる。

やはり傷天にはペントハウスが欠かせない。

 

このペントハウスのロケ地として使われた、

代々木駅近くの代々木会館ビルは、

傷天ファンの間で「エンジェルビル」と呼ばれ、

この小説が出版された当時は「不滅の廃虚」として、

まだ健在だった。

 

オサムだった萩原が亡くなったのが、

令和が始まった2019年3月。

このエンジェルビルが解体されたのが、同じ年の8月。

単なる偶然だろうが、ファンとしては

何らかのつながりを感じたくなる。

 

●1970年代と21世紀ビギニングとの融合

 

そんなわけで原作の世界観に忠実に……と言いたいところだが、

あくまでこちらの時代設定は、ゼロ年代半ば。21世紀の物語だ。

30年が過ぎ、もう世界は変わっているのに、

1970年代と同じ世界観で描くのは、逆にウソになる。

作者はそのあたりも心得ていて、

バーチャルワールドや生殖医療などの要素も入れ込んでいる。

1970年代には、ほとんどSF小説・SF映画に出てくるものが、

ここでは現実として違和感なく描かれており、

かつての傷天を、21世紀の物語としてシフトさせているところは

心憎い。

 

しかも、ゼロ年代半ばといえば、

まだデジタル社会への移行の途上で、

インターネットが今ほど社会に普及しているとは言い難く、

スマホも世のなかに登場していない。

そうしたなかで、こうした要素を駆使して描いたのは、

かなり先進的だ。

 

●残酷な結末

 

僕が最初に「読まないほうがいいよ」と言ったのは、

この「21世紀の傷天」の物語世界を形作る

キーマンが存在するからである。

それは貴子でもなければ、辰巳でもない。

他の新たな登場人物でもない。

それは原作ドラマを知る者なら、誰でも知っている人物だ。

 

物語の終盤、その人物とオサムとの、

二人きりの対決のシーンが描かれる。

まるで目の前で、

あの傷天のアクションが展開されているような見事な筆致。

しかし、そのシーンで、それまでのすべての謎が解け、

物語の文脈が明らかになると、

そのあまりの運命の残酷さに慄然とする。

 

原作のメインライター市川森一が、ドラマ作りの信条としていた、

とびきり賑やかで楽しい夢と、

奈落の底に落ちるような現実とのコントラスト。

矢作俊彦は、この後日談でも、それをしっかり踏襲した。

 

55歳になったオサムが、

最後に何と向き合わなくてはならなかったのか。

誰と闘わなくてはならなかったのか。

当たり前のことだが、30年もの月日が経てば、子供は大人になる。

これだけ言えば、原作を知る人は、もうピンと来るだろう。

 

粗野で風来坊のように生きてきたオサムだが、

彼は家族を大事にする男でもあった。

しかし、彼はそのかけがえのない家族に裏切られてしまう。

「魔都に天使のハンマーを」は、家族の物語でもあるのだ。

 

読み終えた後、僕は原作の様々なシーンを思い出して、

思わずため息をついてしまった。

そして、やるせない気分に覆われた。

 

すべて辻褄が合い、すべてが納得できる内容である。

この後日談を、一級のエンタメ小説として構築するためには、

こうするのが最高の手立てだったのだろうと思う。

でもなぁ、こうなるなら、

もう少しダメダメな話でもよかったよなぁと思ってしまった。

最後の最後に、ほんのちょっとした救いはあるんだけど。

 

●ショーケン死すとも傷天死なず

 

というわけで、長々と書いてしまった末にもう一つ気付いたのは、

傷天の30年後を描いたこの作品は、

もう20年も前に書かれたものだということ。

 

この20年の間にまた時代は変わった。

萩原や市川をはじめ、傷天関係者は相次いでこの世を去った。

エンジェルビルも代々木から姿を消した。

でも、その代わりに、U-NEXTやAmazon Primeなどの動画配信で、

多くの世代が、半世紀前の、

若かりしオサムとアキラの活躍を見られるようになった。

 

物語のなかで55歳になっていたオサムは、

もう後期高齢者の仲間入りをしている。

貴子や辰巳は90代になるだろう。

それでも超高齢化社会では、

この物語はまだ続くのではないかと思わせる。

 

傷天伝説の一部となった「魔都に天使のハンマーを」。

最初に「読まないほうがいいよ」と言っておきながら、

今さらだが、勇気を出して読んでみることをおすすめする。

青春の思い出の湯に浸るのは気持ちいいが、

やっぱりそれだけだと、今を生きることにはつながらない。

今を生きて、傷天を未来に伝えていきたい。

ショーケンが死んでも、「傷だらけの天使」は死なない、きっと。

 


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80代も20代も、20世紀ロックカルチャーを共有する時代

 

エリック・クラプトンの来日公演に行ってきた

K君(24歳)の報告を聴く。

 

「レイラ」はやらなかったが、

いきなり「ホワイトルーム」や「サンシャイン・ラブ」の

クリームナンバー。

80歳で武道館ライブを行ったクラプトンは、

2年前、自ら作った同会場の最年長記録を更新したという。

 

クラプトンとほぼ同年代と思しき、隣の席のじいさんが彼に向って、まるで孫に語るように

「クラプトンが日本に来るのもこれが最後じゃろう」と語った。

その目は涙ぐんでいたという。

80で1時間半のライブをやっちゃうクラプトンも偉いが、

武道館まで足を運んでくるあんたも偉いよ。

 

そこで僕も思わずK君に語ってしまった。

 

いや、おまえ、クリームって、俺が中高生のころは、

すでに伝説のバンドだったんだよとか、

俺の友達が高校の文化祭でクリームのコピーやって

鼻高々だったんだよとか、

 

ベース、ドラムと3人のバンドで、

協調性やバンドとしてのまとまりとか、曲の完成度とか、

そんなのどうでもいいと思ってる連中で、

いつも崩壊ぎりぎりのところで演奏していたんだぜとか、

 

「ホワイトルーム」や「サンシャイン・ラブ」は、

1960年代後半の時代精神を描いたの歌詞だけど

、一回りして、今の時代に合ってるかもなとか、

 

ベースのジャック・ブルースも、

ドラムのジンジャー・ベイカーもとっくの昔に死んじゃったけど、クラプトンはヤクまみれになっても、

女でひどい目にあったり、ひどい目に合わせたりしても、

息子が死んだりしても、

この齢になるまで生きてきた。生き残ってきた。

もうカネも名声も十分すぎるほど手にしているのに、

それでもライブをやるっていうのは、

根っから音楽が好きなんだろう。この際、

死ぬまで日本に来続けてほしいよなとか、

 

そんなどうでもいいことをえんえん語ってしまったが、

K君は好青年なので、

しっかり相槌を打ちながら、僕の話に耳を傾けてくれた。

 

正直、僕はそれほどクラプトンファンではないので、

演奏を聴くのはYouTubeで十分と思っているのだが、

わざわざ来日公演に行った、

アート、カルチャー大好きのK君の話は面白かった。

 

それにしても、80代も20代も音楽が共有できる時代が来るなんて、まったく想像できなかった。

こうして20世紀のポップ&ロックカルチャーは

未来に引き継がれていく。

のだろうか?

 


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AIエロコンテンツが現実世界を変えていく

 

「全国初摘発“生成AI”で作成した裸女性の

わいせつ画像をポスターにし販売か 男女4人逮捕」のNEWS。

僕をはじめ、多くの人は、驚きでもなんでもなく、

「やっぱり出たか」

「このタイミングで出たか」といった、

冷静な(?)感想を抱いたと思う。

 

これはマーケティング的必然。

いくらで売ってたのか知らないが、

リアルな写真集やアダルトビデオと違って、

モデルや女優さんも、カメラマンも、

ディレクターも、ロケ費用もいらない。

コストがかからないので、

売り上げのほとんどは利益になる。

人間、エロいカネもうけ、ボロい金儲けには、

惜しみなくエネルギーを注げるようにできている。

 

試しに「AI エロ 画像」で検索してみたら、

出るわ、出るわ。

そのほとんどはボカシが掛かって見えないが、

水着や下着付きならOK。

いかに日々、AIエロクリエイターたちが

創造力を発揮しているか、

そのエネルギーたるや、大したものだ。

 

「わいせつ」と言っても、

アダルトビデオサイトよりだいぶマシなのでは?

と思うが、今回の摘発は今後、

AIを使ってエロコンテンツでビジネス考えてる人たちへの

牽制・見せしめなのだろう。

 

でもこの先、テクノロジーが

人間の慰安に使われるのは必至だと思う。

ロボットもある程度のレベルに達した後は、

この方面から開発技術が進むのではないか。

 

今のところ、AI・ロボット相手に性欲をたぎらせるのは、

気持ち悪いし、人間として異常ではないか、

という見方が強いと思うが、

いずれみんな慣れてしまって、

いつの間にか社会的にも認められていくだろう。

むしろバーチャルエロが、

現実世界の性犯罪の抑止力になるのではないか?

 

そして、肉体を慰めてもらった後は、

心も慰めてもらう、といった形で、

AI・ロボットは恋人や友達や家族に

進化していくのかもしれない。

 

こんな妄想が、妄想でなくなる日が来るのも、

そう遠い先の話ではなさそうだ。

 


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桜と友だちの遺影と役に立たない記憶

 

義母を花見に連れて行ったのだが、

地面に落ちているゴミばかり気にしているので

「おかあさん、ちゃんと桜を見な。

あと何回見られるかわかんないんだよ」と言ったら、

「あ、そうか、そうだよね。わー、きれい」と、

妙に素直に納得。

「これが最後かもしれない」と思って花見をする人は、

あまりいないと思うが、

もちろん、そうなる可能性はゼロではない。

めめんと・もり。

 

と考えたところで、今日(正確には昨日だったか?)が、

昨年死んだ友達の一周忌だということを思い出した。

なので、桜の花に、心の中で彼女の遺影を被せて黙とうする。

用意した遺影は劇団時代の、とびきりかわいい(?)やつだ。

 

彼女は演劇学校の同級生で、いしょに劇団をやった仲間だった。

この先、桜の季節になると、

いつも彼女のことを思い出すのだろうか?

わからない。

 

演劇学校や劇団時代やロンドン時代の仲間、

小中高の同級生・友達、

このあたり、たぶん200人ぐらいは、

わりと正確に顔と名前を記憶している。

やっぱり、それぞれ何かしらの良い思い出を共有しているのだ。

もうほとんどの人と会うことはないだろうし、

相手はとっくの昔に忘れているだろうけど。

 

だから、死んだことを知ったら、

いちいち葬式や墓参りにはいかないが、

心の中で遺影にして弔ってやることはできると思う。

何の意味もないし、何の役にも立たない。

でも、そういうことが自分にとって大事なことだと思える。

生きてる証拠でもあるしね。

 


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おりべまこと電子書籍新刊「認知症のおかあさんといっしょ2(に)」

 

おりべまこと電子書籍新刊 本日発売!
エッセイ集:認知症介護2
「認知症のおかあさんといっしょ2(に)」

AmzonKindleより500円で発売中。

 

(本書紹介文より)

「お母さんのところに帰る」と言って家を出ようとする義母。

「こんにちは!元気ぃ~!」と女子高生に突然声をかける義母。

幻の家族と会話する義母。笑いあり、涙あり、驚きありの

認知症介護エッセイ。

認知症になっても人生は続く。

むしろ、新たな人生の幕開けかもしれない。

この異色のエッセイ集は、社会が抱える高齢化問題の一面を、

ユーモアとリアリティで描き出しています。

忌避されがちな認知症を、新たな視点で捉え直す試みです。

 

本書は単なる介護記録ではありません。認知症という鏡を通して、

現代日本社会の価値観や人間関係を問い直す社会批評でもあるのです。「認知症になったら人生終わり」という社会通念に、

著者は半ば同意しながらも、

そこに新たな人生の可能性を見出そうとしています。

福祉関係者や医療従事者には現場の生の声として、

一般読者には自分や家族の将来の姿として、

多くの示唆を与えてくれるでしょう。

ユーモアを失わない文体と鋭い観察眼が、

重いテーマを読者に負担なく伝える稀有なエッセイ集です。

 

もくじ

  • 幸せの歌と認知症の女
  • 春だけど自分にいいこと何かやってる?
  • サスペンスフルな認知症映画「ファーザー」
  • 蛭子能収さんと「with弱者」の社会の実現について
  • 認知症 花のアートワーク
  • 二度と洋食屋には連れていくべからず
  • 認知症患者に安心とハピネスを
  • 食卓のマナーと認知症
  • また今日もざしきわらしがやってきた
  • 赤ちゃんはおとなになって働いています
  • 要介護認定更新の日
  • 認知症と回想療法士
  • リス系認知症患者の冬じたく
  • 京風お地蔵さん人形と義母のまぼろし家族
  • 認知症の義母がぬくぬくする光と音の暖炉
  • 認知症患者のごあいさつを受け止められますか?
  • みかんせんべいに秘められた物語
  • 魔女っ子カーチャン
  • 親の介護は5年で卒業(というマイルール)
  • どんな子どもも「世界は美しいよ」と実感させてくれる
  • 認知症患者の純粋な「かわいい」の価値
  • 鏡の国のお義母さん
  • 「痴呆症」は老害ワード?
  • 義母の入院
  • 食べ物の恨みは死ぬまで残る
  • 入院していたことなんて記憶にありません
  • お母さんといっしょの夏休み
  • 義母の回復と阿佐ヶ谷の七夕まつり
  • 笑える遺影
  • 秋の最後の日の散歩
  • 年末の認知症ミステリー
  • 義母のお正月スペシャル
  • 90歳は人生卒業の齢?
  • 生きるとは死ぬまで幻想を抱き続けること
  • 認知症になっても人生は続くか?
  • AI・ロボットが“理想的・人間的な認知症介護”を実現する

(全36編採録)

 


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「永遠なる『傷だらけの天使』を読む

 

本放送から50年を経たショーケン(萩原健一)主演の

探偵ドラマ「傷だらけの天使」。

僕らのように、リアルタイムで出会った世代にとって、

このドラマは、いわばビートルズのような、

シンボルカルチャー的存在だが、

新たな世代のファンもけっこういるらしい。

 

その「傷だらけの天使」について解説した本が1年前、

2024年1月に出版されていた。

 

●貴重な資料集

 

制作の舞台裏、さまざまなエピソードについて書かれており、

関係者の貴重な証言が盛りだくさん――

と言いたいところだが、もう50年も前のドラマなので、

関係者の多くはもうこの世にいない。

 

それでも、主演の萩原健一の自伝「ショーケン」のなかで、

彼が「傷天」について語ったコメントを取り上げ、

その裏を取る形で、当時、制作現場に携わったスタッフ

(のなかでまだ健在な人たち)に取材。

どのようにこの名作ドラマが作られたのか、

丹念に探究しており、当時の現場の記憶の証言集・

貴重な資料集として読める。

 

●当時の名監督らが参戦

 

1970年代半ばは、まだテレビドラマは

映画より格下と見られていた時代だが、

「傷天」には、深作欣二や恩地日出夫など、

映画の世界で名をはせていた名監督らが参戦。

テレビドラマでありながら、

映画としてのヤバさを前面に打ち出した、

「テレビ映画」という新しいジャンルを開拓した。

 

そうした挑戦的で、冒険心に富んだ企画ゆえに、

テレビをばかにしていた映画通からも

リスペクトされていた作品なのである。

 

主演のショーケン自身も企画段階から携わっており、

ここでは、そのあたりの開発ストーリーと、

監督、脚本家、プロデューサーらが、

この企画にいかに情熱を注いでいたかなど、

スタッフにまつわるエピソードが詳しく書かれており、

とても読みごたえがある。

 

そうしたスタッフの意気込みをフルに反映した、

スタート時の数本には、カオスのような熱気が込められており、

コミカルでありながら、戦後の影を引きづった、

ダークで意味深な社会背景、

若者の夢を描く反面、現実の残酷さを刃物のようにつきつける、

独特のトーンがあって、すごく面白い。

 

また、同じく開始初期はやたらとセクシーシーンが多いのだが、

監督らがいかにゲスト女優をあおって脱がせたかなど、

今なら完全にセクハラ・パワハラで、

レッドカードとなるエピソードもいろいろ書かれている。

 

とはいえ、テレビに似つかしくない、

先進的すぎるつくりが災いして、

また、セクシーシーン、暴力シーンが

テレビサイズではヤバすぎて、

視聴者からひんしゅくを買ったため、

ショーケン人気に乗じた割には視聴率は伸びず、

本放送時の評判はさんざんだったようだ。

 

さらに深作監督らが撮った最初の7本くらいで

予算をかなり使ってしまい、

途中から路線を変更せざるを得なくなってしまった。

しかし、それが弟分アキラ(水谷豊)の存在感を

クローズアップすることにつながり、

このドラマの最大の魅力となる、

オサムとアキラのコンビネーションによる

独特のノリが生まれたのだと思う。

 

伝説の最終回・衝撃のラストはどう生まれたのか?

ただ、残念なのは、

あの伝説の最終回に関する記述が少ないことだ。

最終回「祭りのあとにさすらいの日々を」の脚本を書いたのは、

メインライターだった市川森一。

市川はオサムとアキラのキャラクターや、

物語の設定を作り、全26話のうち、7話を手掛けた。

(この本の中では、そのあたりの経緯もちゃんと紹介している)

 

僕は手元にその市川が1983年に出した

脚本集「傷だらけの天使」(大和書房刊)を持っているが、

最終回のラストシーンは、どしゃ降りの雨の中、

死んだアキラを背負って、

ペントハウスの階段を下りてきたオサムが、

「まだ墓場にゃいかねえぞ!」と叫ぶところで終わっている。

 

それがどこでどうやって、アキラの遺体をリヤカーに乗せて夢の島

(当時は、現在の整備された街からは想像もできない、

大都会・東京の巨大なゴミ捨て場)に棄てて、

いずこともなく去ってゆく――という、

僕らの胸に一生のトラウマを残す、あの、苦く切ない、

衝撃的な幕切れに変ったのか、

そこを丹念に掘り返してほしかった。

 

最終回の撮影現場を語れる萩原健一も、

工藤栄一監督も鬼籍に入ってしまったが、

まだ一人、重要人物が現役バリバリで活躍している。

アキラ役の水谷豊だ。

 

アキラ:水谷豊の不在

 

この本には水谷豊の証言がないのも、大きな穴に思える。

著者もメインキャストのなかで唯一健在の彼に対して、

当然、アプローチはしたと思うが、

取材を拒まれたのかもしれない。

 

聞くところによると、水谷は「傷天」については

ほとんど語りたがらないという。

アキラ役が嫌いだったとも聞く。

 

しかし、それは嘘だろう。

彼はクレバーな人なので、いまだに多くの人が「傷天」を、

アキラを愛していることを知っている。

いまだにアキラこそ、

水谷のベストパフォーマンスという人も少なくない。

彼としてはその後、役者として生きていくために

アキラの幻影を振り払う必要があり、

あえて「傷天」について語ることを封印したのだと思う。

 

けれども、あの野良犬のような惨めなアキラの死から、

その後、半世紀にわたって、ドラマ・映画で大活躍する名優・

水谷豊が誕生したのは間違いない事実。

彼があの役を愛していないわけはない。

 

改めて「傷天」を通して見ると、

アキラという一見とぼけた少年のようなキャラクターの奥深さ、

それを見事に表現し、独自のものにした

水谷豊の芸達者ぶりに舌を巻く。

それについてはまた、別の機会に書いていきたいと思う。

 

なぜ今、まだ「傷天」なのか?

 

もう一つだけ不満を言わせてもらうと、本の紹介文のなかで、

「なぜ『傷だらけの天使』は、

いまだわたしたちの心に残り続けるのか、

その理由と価値を問う。」

とあるのだが、これに匹敵する著者の考察は、

まとまった形で綴られておらず、

肩透かしされた思い、物足りなさを感じる。

それとも、今回はあくまで資料集・証言集の域でとどめて、

考察はまた別の機会で、ということなのだろうか?

 

それならそれで楽しみだが、

いい機会なので、僕も自分でも一丁考察して、

自分なりの「傷だらけの天使」の本を

書いてみようかと思っている。

 

 


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かさこ交流会で感じた「人生後半の奮闘」

 

一昨日、横浜・鶴見で開かれた

かさこさん主催の交流会に行きました。

 

カメラマン・ライター・Kindle作家のかさこさんは、

ネット発信のエキスパートであり、

ネット集客などの課題に悩む

個人事業主のアドバイザーでもあります。

 

世の中にはたくさんのフォロワーを集める、

インフルエンサーと呼ばれる発信者がいますが、

そのなかでもかさこさんは、

最も信頼できる発信者の一人だと思っています。

 

交流会に集まったなかでは、自分を含め、

人生後半を奮闘する人たち、

アラカンや還暦超えてがんばる人たちがたくさんいました。

 

もちろん、みんな、いろいろトライして結果を出したい、

好きなことをやって稼ぎたい、食っていきたいわけだけど、

こうして自分で仕事を始めて、

ジタバタやっていること自体が、

いいね、すごいなと思うのです。

 

僕の両親や、認知症になってしまった義母(90)の世代は、

敗戦によってペッシャンコになってしまった日本を復興させ、

豊かな社会を築くことを共通目標としていました。

 

しかし、僕の世代になると、両親らのような

誰もが共有できる目標は、もはやありません。

それに代わって、僕たちひとりひとりが、

生きる目標や生きがいを

設定しなければならない状況が訪れています。

 

何らかの形でその設定ができないと、

人生において幸福感を得るのは難しい。

経済的に食えないと生きていけないし、

経済や仕事や情報の奴隷になって、

精神が壊れても生きられない。

 

「人生百年」と謳われる未知の世界は、

豊かで便利で情報がいっぱいあるにも関わらず、

どうにも未来に希望を見出しにくく、不安があふれる世界です。

 

ここでは還暦は、

かつてのような定年退職後の余生ではなく、

新しく生き始める年代、と同時に、

人生の終わりも考えなきゃいけない、

かなり複雑な年代といえるかもしれません。

そう簡単に「逃げ切り」はできません。

いろんな面白い人と会って、そんなことを考えました。

 

みんな、今までも十分がんばってきたかもしれないが、

まだまだがんばろう。

 


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AI・ロボットが“理想的・人間的な認知症介護”を実現する

 

AIと認知症を結び付けて考えたことがある。

正確にはAIでなくてロボットだ。

施設で暮らす老人の気持ちを、ロボットの介護士が汲み取り、

ルールを破って、彼の脱走を幇助してしまう。

若い頃にそんなストーリーを思いつき、

ドラマのシナリオや小説に書いた。

 

どれだけAIやロボットが社会に普及しても、

介護の分野はあくまで人間にしかできない仕事。

そう考える人、そう願う人、

そうでなくてはいけないと考える人は多いと思うが、

昨今のAIの進化状況を見ていると、

あながちそうでないかもと思えてくる。

もしかしたらAIやロボットに任せてしまったほうが、

いろいろな面でうまくいくのではないか。

 

認知症の義母は、ふだんは穏やかでにこやか。

人当たりもよく、ぜんぜん知らない人でも、

道ですれ違うとあいさつを交わす。

ある意味、社交性に富んでいるのだが、

最近、僕たちやデイサービスのスタッフなど、

ケアする相手を手こずらせる問題行動が、だんだん増えてきた。

 

もともとへそを曲げると頑固になるところがあるのだが、

特に昨年夏に肺炎っぽくなって1週間あまり入院した後は、

子供の「いやいや」みたいなことを頻繁に起こすようになった。

 

歯を磨かない、爪を切らせない、お風呂に入らない、

薬を飲まない、検温させない、送迎の車から降りない・・・

 

そういう時にふと考えるのは、

これがケアする相手が、僕たち人間でなくロボットだったら、

こんなに強く拒否するだろうか?

諦めてもっと素直に従うのではないかと思うのだ。

 

その人の個人データを取り込んで、パーソナリティを把握すれば、

ロボットのほうがもっと優しく、

うまく対処できるのではないかという気がしている。

(もちろんセキュリティ上の問題、倫理上の問題はあるが)

 

なぜなら比較した場合、機械より人間のほうがリスクが大きい。

少なくとも機械は、人間のように、

互いに嫌悪や憎悪を抱いたり、

ケアする相手に虐待や差別をすることがあったり、

暴言を吐き、暴力をふるったりして、

肉体・精神を痛めつけるようなことはしないだろう。

 

患者のほうも慣れてしまえば、

むしろ機械のほうがいいと思うかもしれない。

人間のケアラーだったら拒絶する夢想・妄想にも、

機械はうまく合わせて対応してくれる可能性が高い。

また、いっしょに暮らす家族も

苦しい思い・悲しい思いをせず、ストレスを減らせる。

 

実際、アメリカでは終活相談を、

人間ではなくAIとしたいという人が増えているらしい。

なぜなら、AIは人種や社会的身分、

経済状態などで相手を差別することなく、

平等に扱ってくれるからだという。

 

「AIのほうが人間よりも人間的

」という逆転現象も起こりうるのだ。

というか、部分的にはもう起こっているといえそうだ。

 

ちょっと前なら「おまえはSFの見過ぎ・読み過ぎ」と

鼻で笑われていたことが、

この数年のうちに実現するのかもしれない。

AI・ロボット関連の技術にまつわる常識も、

人間の寿命やライフスタイルに関する常識も、

毎日、劇的に変わり続けている。

 

義母の場合、前兆として、

ちょっと高齢者うつっぽい時期があったようで、

そこから数えると、認知症歴はかれこれ20年。

世の中の標準値では、今のところ、

認知症患者の余命は発症後5~12年となっているので、

それはもうはるかに超えている。

今後、義母のように認知症を患いながら、

長く生きる人は、ますます増えてくるだろう。

 

認知症の人たちと一緒に生きる社会、

それなりに寄り添える社会をつくっていくためには、

AI・ロボット関連の技術はきっと必要不可欠になるだろう。

彼らのサポートを借りずに、

人間らしさも保てないし、

人間の尊厳は成り立たない。

そんな時代がもう来ているのではないか。

人間と機械が競い合ったり、対抗したりする時代は、

じつはもう終わっているのかもしれない。

 

3月24日(月)16:59まで無料キャンペーン実施中。

 

残り1日。まだ間に合います。

ぜひ、この機会にお手持ちのデバイスに入れてください。

読むのはあとからでもOKですよ。

 


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おりべまこと電子書籍:3月の無料キャンペーン開催

 

本日3月19日(水)17:00~24日(月)16:59 6日間

 

2019年6月に義母を引き取り、いっしょに暮らすようになった。

以来、認知症が僕のライフワーク(?)になった。

彼女は少なくとも認知症15年選手。

彼女に寄り添おうとすると、

日常生活が容易に非日常の世界にすり替わる。

こうしたケアも一つの人生経験。

ということで日々の格闘の様子を時折ブログに書いている。

エッセイ集はそれをまとめたもの。

それと同時に認知症をネタにした小説も書くようになった。

 

こんな風に言うと怒られるかもしれないが、
認知症は面白い。
失礼があってはいけないが、
もっと面白がって、いっしょに泣いたり、笑ったり、

怒ったりしていい。

 

どちらも第2弾を準備中ですが、

ぜひ、あなたもこの2冊で認知症の世界を冒険してください。

 

認知症のおかあさんといっしょ

 

認知症の義母との暮らしを楽しくつづる介護エッセイ

 

認知症を知り、認知症から人生を考え、人間を学ぶ。

 

 

ざしきわらしに勇気の歌を

 

ロボット介護士に支えられて余生を送っている

認知症の寅平じいさん。

彼がある日、林の中を散歩していると不思議な子どもに出逢う。

 その子を追って木の穴に潜り込むと、

奥には妖怪の国が広がっていた。

認知症×ロボット介護士×妖怪戦争の近未来ファンタジー小説。

 


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おりべまこと電子書籍:3月の無料キャンペーン予告!

 

明日3月19日(水)17:00~24日(月)16:59 6日間

 

認知症のおかあさんといっしょ

認知症の義母との暮らしを楽しくつづる介護エッセイ

 

「いいの、手なんか握って?」

「だって手をつながないと危ないよ」

「いいの本当に? 奥さんはいらっしゃるの?」

「はい、いますけど(あなたの娘ですよ)」

「わあ、どうしよう? 奥さん、怒らないかしら?」

「だいじょうぶです。公認ですから」

「わあ、うれしい。こうしたこと一生忘れないわ」

「喜んでもらえて何よりです」

そんな対話から始まった義母の介護の日々を綴った面白エッセイ。

認知症を知り、認知症から人生を考え、人間を学ぶ。

 

 

 

ざしきわらしに勇気の歌を

認知症×ロボット介護士×妖怪の近未来ファンタジー小説

 

ロボット介護士に支えられて余生を送っている

認知症の寅平じいさん。

彼がある日、林の中を散歩していると不思議な子どもに出逢う。 その子を追って木の穴に潜り込むと、

奥には妖怪の国が広がっていた。

子どもの正体はざしきわらし。

ざしきわらしは最強の妖怪“むりかべ”の脅威から

人間を守るために闘うので、応援してほしいと寅平に頼む。

寅平はこれぞ自分のミッションと思い、

闘うざしきわらしのために勇気の出る歌を歌う。

 


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AIとのコラボをenjoy

 

AIは無料バージョンで十分。

もちろん、AIを使って何をするかによって違いますが、

文章生成の分野に限っては、どれも無料版でいいと思います。

 

現在、仕事で使うためにGemini、Claude、ChatGPTと、

アシスタントを3人雇用。

これがその日によって、かなりコンディションが違っていて、

どれが一番いいとは言えません。

 

あえて言うと、割とまじめな事務系文章はChatGPT。

そつがないけど、いかにもAIです、という感じの文章。

 

ちょっとユニークで面白い文章を出してくるのはClaude。

Claudeが出してくる文章は、ちょっと人間っぱい匂いというか、

ぬくもりがあります。

もちろん、プロンプト次第ですが。

 

「もっとくだけて、柔らかくして」と指示すると、

かなりズッコケながらも、

ちゃんと使えるようにそれなりにまとめてくるところが偉い。

 

Geminiは特徴が言いづらいけど、

前者二つの中間みたいな感じ。

こちらは柔らかい文章を要求すると、

本当にグダグダのを出してきて使い物になりません。

 

ただ、いちばんタフなのはGeminiで、

取材のメモ・音声起こしなどを資料としてぶちこむ際、

他の2種だと多すぎて受け付けてくれないことがあるけど、

Geminiはかなりの分量でもOK。

それになんといっても付き合いの長いGoogle製なので、

使う頻度はいちばん多いかも。

 

適材適所で、こういう仕事はChatGPTで、

こういうのはClaudeで・・・と決めようかと思ったけど、

あえてはっきり区分けせず、その時のカンを働かせて、

これはClaude、これはChatGPT、これはGeminiと、

とっかえひっかえ使っています。

 

もしかしたら、どれかメインを決めて

有料版を使ったほうが捗るのかもしれないけど、

僕はそれぞれに個性があって面白いと思っているので、

あえて絞らず、3人のアシスタントとのコラボを楽しんでいます。

 

それともう一人、第4のアシスタントが、

GensPark(ジェンスパーク)。

これはリサーチ専用のスペシャリスト。

 

もうググるのは古い。

検索テーマが決まっていれば、GensParkが次から次へと

めっちゃ効率的に、目的に到達するための情報を出してくれます。

 

しかも、その情報がどこのサイトにあるのかも

一緒に出してくれるので、ありがたい。

しかもしかも、最近は出した情報を一つにまとめて

レポートにして提示するという芸当をはじめたので、

ただの便利な検索エンジンの枠を超えようとしています。

 

てなわけで楽しいAIとのコラボだけど、

あくまでみんなアシスタントさんなので、

出されたものは参考文献。

 

それをちょこっとリライトしてOKのこともあれば、

ほとんど無視して自分で書いてしまうこともあります。

いずれにしてもAIをどう運用していくのかは、

これから仕事を続けていく上での避けられない課題です。

 

給料は出せないけど、仕事をしてくれたら、

ちゃんと「ありがとう」とお礼をします。

すると皆、ちゃんと誠実に返してくれるのです。

たとえ相手が機械でも結構うれしいし、

疲れが取れる感じがします。

これ、メンタル的にけっこう重要ですよ。

AI、侮るなかれ、粗末に扱うなかれ。

 


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卒業の時は「じゃあまたな」

 

3月は卒業シーズン。別れの季節。

おとなはやたらと別れを美化し、

その意義を「人間の成長」と結び付けて語りたがる。

でも、子供にとってはちんぷんかんぷんだ。

 

昭和のころ。

少なくとも僕は小中の卒業式ではそうだった。

ちょっとしみじみしたのは、その少し前の2月ごろ、

卒業文集を作っていた時だ。

クラスのみんなの作文を読むのは好きで、

あいつ、こんなこと書いたのかと、

面白がったり、じんとしたりしていた。

 

しかし、そのあとがいけなかった。

卒業式の「練習」をやたらとやらされて、

ほとほと嫌になり、早く卒業したいと思ってた。

そんなわけで、晴れのその日のお式が終わって校門を出たら、

「ヤッホー!」と叫び出したいくらい

うれしかったことを覚えている。

(実際には叫ばなかったが)

 

男子で泣いてる奴なんて一人もいなかった。

女子はもしかしたらいたかもしれないが、記憶にない。

あなたはどうでしたか?

 

卒業式が終わった後は友達の家に集まって遊んでいたと思う。

なにせ、そこからは宿題も何もない春休みだ。

公立の小中だったので、小6から中1になるといっても、

クラスの大半の連中は同じ学校だった。

私立の学校に行くやつが、クラスで数人いたと思うが、

そいつらはちょっと寂しそうな顔をしていた。

 

そんなわけで、春休み中、

それまでと全然変わりなくグダグダ遊んでいて、

夕方帰る時は「じゃあな」「またな」と言って別れた。

 

だけど、それでも、これから自分たちは変わるんだろうな、

今までとは違っちゃうんだろうな、

もう子供ではいられないんだろうな

――という漠然とした予感だけは、みんな持っていた気がする。

 

僕に残されている「卒業」は、もう人生からの卒業だけだ。

仕事で葬儀屋などの取材をするので、

「永遠のお別れ」とか「さようならがあったかい」とか、

やたらと美しいフレーズを耳にする。

 

もちろん、それにケチをつけるつもりはないが、

そこはかとなく、

小学校の卒業式の堅苦しさを思い出してげんなりする。

おおげさなのは嫌だ。

あの解放感あふれる春休みの時のように、

「じゃあな」「またな」と言ってお別れするのが希望だが、

そううまくはいかないのかもしれない。

 


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美しい60歳(70歳)が増えると、日本は変わる

 

かつて化粧品のコマーシャルで

「美しい50歳が増えると、日本は変わる」

というキャッチコピーがあった。

(正確かどうか自信ないが、そういった趣旨のフレーズです)

 

確か、もう30年近く前だ。

そんな時代はとっくに過ぎ去り、

今やこれを60歳・70歳と言い換えても、なんら違和感がない。

 

「美しい60歳(70歳)が増えると、日本は変わる」

 

なんでそんなことを思いついたかというと、

先日、知り合いの女性と話す機会があって、

彼女が去年から年金をもらっていると聞いて驚いたからである。

 

えー、あの人、僕より年上だったの!?

 

彼女はさっぱりした性格で、はっきりものをいうが、

おばさんにありがちな、ずけずけという感じではない。

失礼ながら特に美人というわけではないのだが、

何よりもスタイルがいい。

 

まじまじ観察したことはないが、

ぱっと見た目、スラリと背が高く、脚も長く、適度にスリム。

そして、いつもスポーティーな服装(ときに革ジャン)で、

カッコよく中型のバイクをかっ飛ばしている。

 

意識しているのかどうかわからないが、

降りてヘルメットを外すときに長い髪がバサッとこぼれる。

映画でマンガで、女性ライダーのこのしぐさに

心臓ズキュンされた男は少なくないはずだ。

 

うわさによると、もとレディース(暴走族)。

だったかどうかは定かでないが、

ライダースタイルはあまりにもサマになっている。

 

そんな人が「高齢者」と呼ばれ、年金をもらう。

自分もそうなのに「こんな世界に足を踏み入れているのか」と、

動揺を隠せない。

そりゃ日本も変わるぞ。

よく変わるのか、悪く変わるのかはわからんが。

 

ただ、60代・70代になると周囲で亡くなったり、

体が効かなくなったりする同世代が増えるのも事実。

あくまで主観だが、元気を保ち続ける人と、

急速に衰える人とのギャップが大きくなる。

 

ちなみにライダーの彼女は、

エッセンシャルワーカーとして働いていて、

当分、辞めるつもりはないようだ。

何度かケガもしているはずだが、

やっぱり体を動かしているのがいいのだろうか?

 

何が元気の維持と衰退との分かれ目になるのかはわからない。

とりあえず、いま現在、健康で頭も体も働くことに感謝しつつ、

日々を生きる。

 


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魔都・横浜から遠く離れて

 

1975年のドラマ「傷だらけの天使」の最終回では、

修(萩原健一)が、姿をくらましたボス・

綾部貴子(岸田今日子)を探しに

横浜・中華街を訪れるシーンがある。

 

映像に映し出された、当時の中華街は、

いかにもヤバそうな街で、あちこちに密航の手続きを請け負う、

中国人のアンダーグランドビジネスの巣窟がありそうな、

魔都のにおいがプンプンしていた。

 

50年後の今、中華街はきれいに整備された観光地となり、

子供も大人も、日本人も外国人もみんな、

豚まんやら、月餅やら、チキンを平たく伸ばした台湾から上げやら、

イチゴとマスカットのミックス飴やらを食べ歩きして、

わいわい楽しさと賑わいにあふれている。

50年前のドラマの世界と現実とのギャップは大きい。

 

洗練された街、そして、

それを作り守っている地元の人たちに

ケチをつけようなんて気はさらさらない。

けれども、やっぱり、こうした見かけの繁栄と、

幸福感が希薄な日本人の内なる現実との

ギャップを考えると、もやもやした疑念が胸に湧き上がってくる。

「50年前よりほんとにこの国はよくなったのか?」と。

 

人も街も、化粧することが上手になった。

汚いものを包み隠すのがうまくなった。

それがいいこと何か悪いことなのか、わからないが、

食べ歩きをしている人の中にも、

いろいろ問題を抱えている人、

それだけでなく、精神にダメージを負い、

本当に「傷だらけの天使」になっている人がたくさんいるはずだ。

 

この国では20人に一人が心を病んでいると伝えられている。

観光地を行く外国人旅行者のほとんどは、

そんな話は信じられないだろう。

 

外からやってきた彼らから見れば、

日本は、平和で安全で、食い物も、おもちゃも、

いろいろな楽しみも豊富な、21世紀の世界における、

一種の理想郷に見えるのではないだろうか。

 

僕たちが到達したユートピアでは、

「私たちは見かけほど、豊かでも幸福でもないんだよ」

という顔をして街を歩いてはいけない。

楽しさ・賑やかさの裏から、

そんな無言の圧がかけられているような気もしてくる。

 


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「傷だらけの天使」完食

 

最終回「祭りの後にさすらいの日々を」で、やっぱり号泣。

AmazonPrimeで「傷だらけの天使」を全26話見た。

 

大好きなドラマだったが、実はちゃんと見たのは3分の1くらい。

3分の1は断片的に覚えているシーンもあるが、

3分の1は全く見てなかった。

 

だから今回、50年の年月を経て、初めて完食。

長生きしてよかった!と思ってしまった。

この時代まで生き延びて幸福だ。

 

その「傷天」、この間も書いたけど、

今の基準で見ると、かなりひどい出来。

最近の映画やドラマの悪口を言う人は多いが、

30年前にラジオドラマの脚本賞を

取らせていただいた人間の目から見ると、

今の脚本・演出・演技、

すべて30年前よりはるかに高いレベルにあると思う。

少なくともテクニック的には。

だから50年前のこの作品が、

稚拙で雑なつくりに見えるのは当然かもしれない。

 

でもね。

面白いかどうかとなると話は別。

うまけりゃいいってものじゃない。

ちゃんと伏線があって、きれいにストーリーがつながって、

オチがついてりゃいいってもんじゃない。

 

本当にめちゃくちゃだけど、

このノリはどうだ。この勢いはどうだ。

ショーケンと水谷豊はもちろんいいのだが、

両岸田をはじめとする脇役のすばらしさ。

脚本家、監督をはじめ、製作スタッフの息遣いが伝わってくる。

喫煙シーン、暴力シーン、セックスシーン満載で、

コンプラなんてくそくらえ。

何よりも、あの70年代の東京の空気が

あまりにも鮮やかに封じ込められている。

 

戦後まだ29年、30年の世界。

ここで描かれているのは、29歳・30歳の若い日本。

新宿も渋谷も横浜も、かなりヤバい街に見える。

今の日本は、いいにつけ悪いにつけ、

おとなになって老成した80歳なのだと痛感する。

 

キャストもスタッフも大部分がこの世を去り、

もはやリメイクは不可能だが、

なんと作家の矢作俊彦が、

ショーケンとメインライターだった市川森一に許可を取って、

2008年にリメイク小説を書いていたと知って、びっくり。

きょうはとても冷静に書けないが、

これからまた、この昭和の名作「傷だらけの天使」について

いろいろ書いていきたいと思います。

 


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アメリカがくれた長い夢の終わり

 

生まれてこの方、

つねにアメリカがトップリーダーを務める世界で生きてきた。

けれども、その世界が終わってしまったことを

先日のトランプ×ゼレンスキー会談で痛感。

 

「今さら何ねぼけたこと言ってるの?

そんなの、とっくの昔に終わってたじゃん、ばーか!」

 

と言われそうだが、どんなに横暴でも、パワハラ的でも、

やっぱりアメリカは民主主義の総本山であり、

文化的価値観の中心地だという思いは変わらなかった。

 

おかしな言動も目立つけど、

いい映画、いい音楽をいっぱい作っているし、

コンピューター、インターネット利用でも

ずいぶんお世話になっているし、

最後には世界をまとめ、

人類を望ましい方向に持っていってくれるのだろう。

そうした尊敬すべき面を持った国のはず。

 

だからというわけじゃないけど、

属国扱いも我慢する必要があるんじゃないか。

CとかRとかNKとか、

ヤクザな国が暴れ出したら止めてくれそうだし・・・

と、心の中でなかば願いのようなものを抱いていた。

だけど、もうおしまいDeath。

 

あの大統領には、国づくりの理念も哲学もなく、

他の国と協調しようとか、世界の秩序を保とうとか、

そんな考えはまったくない。

あるのはビジネスのノウハウと

「おれたちゃ偉いんだ」というプライドのみ。

 

カードがどうのこうのって、

まるでゲームやギャンブルをやっているかのようだ。

自分の国がどうすりゃもうかるか、得するか、

ってことしか頭にない。

 

でも、これは大統領とその取り巻き連中だけの指向性ではない。

少なくともアメリカ人の過半数が同じように考えているのだ。

 

こっちだって生活きびしいんだから、

民主党みたいなきれいごと並べて、

ほかの国の面倒見てる余裕なんてないんだよ。

こっちが得しなきゃ、もうやめやめ。

 

というわけで、もはや尊敬されよう、

気高くあろうなんて気もさらさらなく、

ぶっちゃけカネかねカネ。

まぁ、日本人も五十歩百歩かもしれないが。

 

いずれにしても、これまでの世界地図はビリビリになった。

80年前、アメリカに負け、アメリカに救ってもらった、

われらが日本。

 

その思いが強すぎて、僕たちは、

世界がこのまま何世紀も続くんだろうという、

長い長い夢を見ていたのかもしれない。

 

じゃあいったいどうすりゃいいかなんて、わからない。

とりあえず、グルメとアニメと平和ボケを売りにして、

ニッポン良いとこ、一度はおいで~ 

と、独自の文化の発信に励み、

ジャパンファンを世界中に広げておく、

といったことをやっていくしかなさそうだ。

 


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人形供養はクールジャパンの原点

 

3月3日。昨日までのうららかな春の到来から一転、
真冬に逆戻りになったひな祭りの日。

「この時期から5月の子どもの日を過ぎるころまでが、
一番たくさん、お人形さんがいらしゃいます」

そう話すのは、都内でも人形供養で有名なお寺のご住職です。
やはり、お節句になると、子どもが巣立った家では、
ひな人形や五月人形が押し入れで
冬眠していることを思い出すのでしょう。

思い出深い人形だけど、
もう出番がないのにいつまでもしまっておくわけにはいかない。
ぼちぼち終活で、生前整理もしなきゃいけなし・・・
と、そんな気持ちが働きますが、
そのままゴミとして捨てるのは胸が痛みます。
いや、そんな生易しいものじゃなく、
張り裂けそうになるかもしれません。
それで信頼できるお寺、魂を静めてくれる、
人形供養のお寺に駆け込むのです。

べつに極度にセンチメンタルな人の話ではありません。
それが通常の日本人ならではのマインドというものですよね。
これをお読みのあなたも納得できるのではないでしょうか。

海外目線ではStrange

同じ日本人としては、ごく自然な心の働きなのですが、
海外の人には、こうした人形供養、
ひいては針供養とか、道具の供養とか、
モノに対する供養の習慣が、ものすごく奇異に映るそうです。

きょう取材したご住職のもとにも、
海外メディアの取材がちょくちょくあるらしく、
「どうして日本人は人形供養をするのか?
他の国では、テディベアが壊れたり汚れたりしても、
教会に持ち込むことなんてしない。
バザー用に売りに出したりはするけど」
てなことを言われるそうです。

生き物でないモノに魂が宿るという感性、
その宿った魂と別れるとき、
きちんとお別れをしたいという気持ちは、
日本民族特有のものなのかもしれません。
そしてまた、宗教者がその気持ちを受けて、
きちんと儀式を行うという文化を持っているのは、
これまた、世界広しといえども、日本だけなのでしょう。

供養の心が現代の日本カルチャーを生み出す

モノをモノとしか見ない外国人から見れば、
おかしな文化・習慣でしょうが、
こうしたことが、彼らを魅了する
日本のグルメ、アニメ、キャラクターなど、
ユニークなジャパニーズカルチャーに
つながっているのではないか、と思います。

動物にしても、精魂込めて牛や豚を育てて、
おいしい肉にして、亡くなった後はちゃんと動物供養をする。
といったストーリーは、
やっぱり外国の人は素直に納得できないでしょう。
「だって食べるために育ててるんじゃん」って。

人間の世界に違和感なく入り込み、
平等な友達になるアトムやドラえもんのようなロボットも、
「人形供養・モノ供養がある国」だから生まれた
ファンタジーです。

ただ、意外だったのは、
人形供養を行うお寺は全国でも数少ないということ。
僕はけっこうあちこちのお寺で
やっているものだと思っていました。

檀家さんに頼まれて、あるいは桃の節句や端午の節句の時だけ
行うところはあるかもしれませんが、
そのお寺ではほぼ毎日、全国から受け付けており、
受け取ったら翌朝には供養しているといいます。

ただ受け取って、お経を上げて終わりでなく、
あちらへ旅立たせるためには、
かなり手間も暇も費用も掛かるようです。

ゴミの分別を思い出してもらえればわかりますが、
中には、素材ごとにばらばらにしなくてはならないものもあり、
最近は環境問題で厳しい規制があるので、
専門の産廃業者とコラボして事に当たっているそうです。

歴史・文化の土壌で花咲くクールジャパン

この話を聴いて、
かわいい人形が「産業廃棄物」になるなんて――
と、内心、行き場のない悲しみやら、憤りやら、
切なさ、やるせなさを覚えたあなたは、
とてもまっとうな日本人マインドを持った人だと思います。

そうした和のマインドは、料理、ファッション、家屋、
各種のコンテンツなど、
生活のいたるところに溶け込んでいる気がします。
やはり現代の、有形無形の「クールジャパン」の数々は、
長らく培った日本の歴史・文化の土壌があるからこそ
咲ける花々なのでしょう。


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認知症になっても人生は続くか?

 

日、ある介護士の方のSNS投稿で、

喫茶店で高齢者たちが

「認知症になったら人生終わりだよね」と

会話しているのを聞いて、

心穏やかではいられなくなった、というものがありました。

 

彼は施設で認知症患者の人たちの面倒を見ています。

他の投稿でその奮闘ぶりをレポートしていますが、

これがまた凄まじい。

読むと、うちの義母の奇行・妄想・へそまげ・おもらしなんて、

まだまだかわいいものだなと思ってしまいます。

 

この介護士の方は、ひどい目に遭いつつも、

患者さんたちの純真な人間性に触れることで、

教えられたり救われたりするというのです。

 

ちょっときれいごとっぽいけど、

僕も義母と一緒に暮らしていて、

彼と同じようなことを感じるときがあります。

それは幼い子供と接しているような感覚です。

 

彼ら・彼女らは社会人という枠組みから抜け落ち、

子供に還っています。

いろいろおかしな言動は、

ストレスなく日常生活を送りたい僕たちにとっては

困りものですが、

子供と同じと解釈すれば、ある程度は大目に見れます。

 

でも、自分が認知症になったら・・・と考えると、

「人生終わりだよね」には、半分は同意せざるを得ません。

 

僕も息子を育てましたが、はじめは何もできなかった赤ん坊が、

だんだん自分でなんでもできるようになっていくのを見るのは

感動的でした。

本人も、あれもできる、これもできると、

日々実感していくのは、大きな喜びだったでしょう。

 

しかし、老いることはその逆の道をたどることです。

だんだん自分一人では何もできなくなっていく。

これは怖い。

僕は死ぬことにも、老いることにも

そんなに恐怖心を持っていませんが、

自分一人で何もできなくなるということには

大きな恐怖を感じます。

喫茶店のおばあさんたちも、

きっと僕と近い気持ちを持っているのでしょう。

 

「認知症になったら人生終わり」

それは自分のプライド・アイデンティティを失う恐怖であり、

社会から見捨てられる恐怖を表す言葉とも受け取れます。

 

でも、件の介護士さんのように

「そうじゃない」という人の意見が共感を得て、

認知症の人は日常生活はうまくできないけど、

あの人たちがいるとうれしい、楽しいという人、

だから助けになろうという人が増えれば、

この社会はまた変わってくるかもしれません。

 

これから先、認知症の人も障害を持った人も

豊かに楽しく暮らせる社会になるのか、

欲とエゴと嫉妬心むき出しの、

ラットレース社会がますます進展するのか、

その端境期が来ているのかもしれません。

 

認知症になって過去のことなど忘れても、

毎日生まれ変わったような気持ちで人生を続けられる。

とりあえず1日3分、そういう世界を想像してみようと思います。

 


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ありがとうの2月


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