「LIFE SHIFT 100年時代の人生戦略」ですべてが変わる

 

 もう15年くらい昔ですが、化粧品のコマーシャルで「美しい50代が増えると日本は変わると思う」というコピーがありました。

 それは現実になりました。

 

 べつに女優や芸能人でなくても、「美魔女」という言葉さえもう死語と思えるくらい、美しい50代の女性はごく当たりまえに隣近所にいます。

 これを読んでおられるあなたもそうでしょ?

 

 また、永ちゃんもローリング・ストーンズも60代になろうが、70を過ぎようが、いまだにロックンロールし続けています。

 「あの人たちは特別だから・・・」なんて言っている人たちはもうおいてけぼりです。

 彼らに倣って、(精神的な意味で)ロックンロールし続ける人は、これからますます増えるでしょう。

 

 

 この数年で「若い」「老いている」という概念が急激に変化しているように感じているのは僕だけではないでしょう。

 それを追いかけるように、教育や仕事の概念も大きく変わりつつあります。

 伝統的で標準的なライフスタイルは、中学、高校、大学、または大学院まで、つまり最低15歳まで、上は20代半ばまで教育を受け、その後、社会人として40年余り働き、その間、結婚して子供をもうけ、60を過ぎたところで引退するというものでした。その後は「余生」。70、80まで生きても、それは一般的には「おまけみたいなもの」とされていました。

 

 このライフスタイルは、教育・労働・引退という「3ステージの人生」。19世紀の産業革命―ー工業化の時代に確立されたもので、この200年前の欧米由来のライフスタイルを基準に、明治以降のに日本社会も構築されてきたわけですが、この鉄板だった3ステージの人生がもう機能しなくなる。

 

 今後、多くの人は100年の寿命を前提に、「マルチステージの人生」――教育のステージと労働のステージは何度も交互に訪れ、引退というステージは半ば消失する――を生きることになる。

 そこでは、エイジAge(年齢)とステージStageはイコールにならない。何歳からでも新しいステージに立つことができ、常に変身しながら生きることが求められる。

 

 というのが「LIFE SHIFT」で書かれている内容です。

 

 誤解のないように言い添えると、これは中高年向けに「いつまでも若々しくあろう」と鼓舞する精神論や、「若さを保ち、成功へつなげる秘訣を伝授する」といった類のハウツー話ではありません。

 もっと根本的な、人生のパラダイムシフト(人生全体、社会全体の価値観の劇的変化)についての論考です。

 

 加えていえば、盲目的に、何の疑問もなく、数年先の進学・就職を考えている子供・若者にこそ読んでほしい、これからの人生のコンセプトを形成するための指南書です。

 「おとなと子供」――その概念も変わります。

 

 著者であるロンドンビジネススクールのリンダ・グラットン教授は、これ以前に「WORK SHIFT」「未来企業」といった本を出しており、仕事・労働と人生論を展開してきましたが、「LIFE SHIFT」はそれらの実績をさらに昇華させた、とりあえずの集大成という感じです。

 

 経済学・心理学・社会学を中心とした豊富な資料と、様々な学生や企業家などとの議論を通して練り上げた研究成果は、凡百のビジネス書・自己啓発書をはるかに凌駕する内容です。

 

 と言って、別に難しいことが書かれているわけではなく、仕事のこと・社会のこと・家族のこと・人生のことに多少なりとも問題意識を抱えている人なら、誰でも興味深く読めると思います。

 

 僕も「日本語版への序文」と題された最初の10頁を読んだだけで、すっかり引き込まれてしまいました。

 そして読み進むうちに深い共感、期待感、エキサイティングな気持ちと同時に、本当に自分はもつのか、やっていけるのいか・・・という、慄きの気持ちも同時に抱きました。

 

 ここで示されているヴィジョンを深く理解し、実践するにはどうすればよいか、日銭を稼ぎつつ、日々の雑事に追われつつ、そこを考えるところから自分にとっての新しいステージは始まると思います。

 

 1ヵ月ほど前に読んで、まだ完全に咀嚼できた感がないのですが、60代で孫ができて、ますますロックンロールしてきた三浦氏にFBで紹介されたので書いてみました。ありがとう三浦さん。皆さんもぜひ読んでみてください。

 

 


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カルテット:おとなとこども、あるいはアリとキリギリスのハイブリッドライフスタイルと友だち家族の未来

 

 TBSのドラマ「カルテット」は音楽、ミステリー、コメディの要素がとても上手にブレンドされ、丁寧に作られた、楽しいドラマでした。

 何よりも主役の「カルテット・ドーナツホール」の4人がチャーミング。

 

 そのチャーミングさは、仕事がなかったり、家族を失っていたり、アイデンティティがボロボロになっていたり・・・と、いろいろ複雑なおとなの事情を抱えながら、大好きな音楽を捨てない(捨てられない)子供であり続けているところからきていると思います。

 

●子供を卒業しない大人/アリにならないキリギリス

 

 芸術を志す若者たちが互いの夢を温め合いながら共同生活を送る、というドラマは昔からありました。

 その結末はだいたい夢破れて皆ちりぢりになっていくか、ひとりが成功してバランスが崩れて終わる、といったパターンがほとんど。

 つまり青春時代から卒業し、キリギリスからアリに変っていくというのが、一時代前までの、まっとうなドラマでした、

 

 ところがこの4人は「おとなこども」から卒業しようとしない。

 21日の最終話は、とんでもなくいびつな手段を使って、大ホールでコンサートを開く夢を実現させるのですが、それを経て、この4人は「友だち家族」のようにつながるのです。

 

 ドラマの中で控えめに描かれた恋愛も曖昧なまま、音楽を仕事にするのか、趣味にするのか、という人生の命題も曖昧なままでのエンディング。

 

 なんだかゆるゆるした、一種のメルヘンともファンタジーとも取れる終わり方ですが、「おとなこども」を卒業しない生き方、キリギリスをどこまでも続けていこうという生き方は、新しいライフスタイルと言えるのかも知れません。

 

●アリとしての幸せに確信が持てるか

 

 現代はおとなと子供の境界線があいまいになりました。

 20歳前後まで子供として教育を受け、社会人として仕事をし(つまり大人になり)、結婚し、子育てをして、60代で退職・引退し、人生の総括をするというライフスタイルは、もちろん、いまだ主流ではあるけれど、以前ほど厳然としたものでも、誰にも口答えさせないほど説得力のあるものでもなくなっています。

 

 特別な才能がない限り、生きていくためには、キリギリスなど早くやめてアリとなって働くべきという鉄板常識の人生観は、かつてはアリで十分幸せになれるという言葉を信じられたからこそ成り立っていました。

 けれども今は、その確信が揺らいでいるのではないでしょうか。

 アリとしてずっと働き続け、人生を全うする――それで幸せなのか?

 本当に好きなこと、やりたいことを我慢してアリになることにどんな意味があるのか?

 多くの人はそう感じているのではないかと思います。

 

 豊かな時代は、いくつになってもモラトリアムであり続けられる。

 それは非常に困ったことだと言われてきましたが、むしろかつての鉄板常識のおとなよりも、子供の部分をたくさん残している「おとなこども」のほうが、これから先も立て続けに起こるであろう社会環境の変化に対応しやすいのではないだろうか。

 

 みんな無意識の領域でそう思っているから、子供っぽいおとな――もうちょっと良く言えば、エイジレスが増えているのではないだろうか。

 

●これからのライフスタイルはハイブリッド、そして友だち家族?

 

 おそらくこれからは、大人と子供、アリとキリギリスのハイブリッドのライフスタイルが大きな流れになっていくのでは・・・と感じるのです。

 そうしたライフスタイルを実践する手立ての一つとして、カルテット・ドーナツホールのような「友だち家族」がある。

 

 現在、仕事に、家庭に恵まれている人でも、あの4人のような生き方、友だち家族のような在り方、音楽への純粋な愛で繋がり合える関係が羨ましいと思う人は結構多いのではないでしょうか。

 

 そして単に純粋なだけでなく、インチキ・ペテンだらけの大人の事情にまみれて葛藤する、彼らの子供の部分に共感を覚える人もまた、大勢いるのではないだろうか、と思うのです。

 


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他者に不寛容だから幸福度低い?ニッポン

 

  3月20日は「国際幸福Day」ということで、世界の幸福度ランキングというのが発表されました。

 日本は対象の155か国中、第51位。

 

 中の上だからまあまあいいんじゃないの。

 ノルウェーはじめ、北欧諸国がトップクラスか、まあ納得。

 ほとんどの欧米諸国より下なのはしゃーないけど、韓国(56位)、中国(71位)よりは上になっている。ああ、よかった。ホッ。

 

 ・・・というのが僕の最初の感想。

 べつに韓国や中国に敵意はないけど、オリンピックと同じで、何となくアジア地域のライバルというイメージがあるので。

 一般的な日本人の感想は、これと大同小異ではないでしょうか。

 あなたはどうですか?

 

 国連が勝手に評定していることだし、調査方法もよくわからないのですが、僕が気になったのは日本は「他者への寛容さ」という点でひどくポイントが落ちているということ。 

 

 「他者への寛容さ」が低い、すなわち「他社に対する不寛容」とは何を表しているのだろう?

 移民を受け入れないとか、外国人に対する差別ということ?

 あるいはいじめや自殺者が多いこと?

 それら、同質なもので固まり、異質なものを排除する傾向をまとめて「不寛容」と言っているのでしょうか?

 イマイチよくわかりません。

 

 「おもてなし」「気遣い」が売りの国のはずなのに、不寛容ゆえ幸福度が低い――というのは頭の中が「?」でいっぱいになります。

 

 でも、外からのお客さんにはすごく愛想がよくてフレンドリーなのに、いざその人が身内になる、つまり家の中に入り込んでこようとすると、一転して厳しく当たる、という伝統はありますね。

 

 特に親日家でなくても、外国人の間では、「日本は世界トップクラスの幸福な国」という人も少なくありません。

 でも、日本人自身は「幸せじゃないよ~」と思っている人が多く、自己評価はきっとこの国連評価の51位よりももっと低くなるような気がします。

 

 どうしてこんな豊かな国にいて幸せと感じられないのか?

 じゃあどうすれば幸せを感じられるのか?

 ひとりひとり、そのへん本気で考えないと。

 子供も若者も中高年も、これからの長寿社会、本当に苦しくなってしまうと思います。

 

 


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お米を研ぐ理由と人間の味と匂いの話

 

●通常のお米と無洗米の違いとは?

 

 先週やった「ふるさとの食 にっぽんの食」のイベントの一部「おいしいお米講座」の中で、五つ星お米マイスターの小池さん(彼は原宿唯一のお米屋の店主)が、参加者の質問に応え、通常のお米と無洗米の違いについて話していました。

 

 米を研ぐのは、表面についているぬかや細かいカスを取るため。

 昔はけっこう付着率が高かったので、ゴシゴシ念入りに研ぐべし、とされていましたが、最近は精米技術の進歩で、無洗米でないお米でもそんなにぬかやカスは残っていません。研ぐというより、さっと洗う程度の感じでOKだとのこと。

 

 マイスター自身も本当にささっと1分ほどしか研がないそうです。

 プロの和食の料理人の中には「炊いた時にほんのりぬかが香るぐらいの方がよい」と言って、1回だけさっと水をくぐらせるだけの人もいるとか。

 

 無洗米は手間を省くため、ぬか・カスを完全に洗い落とすという処理をした米です。

 しかし、じつは米の表面とぬかの間には極薄の層があり、その層がコメの旨みのもとになっているそうです。

 だから無洗米にすると、お米の貴重な旨みが消え、味気なくなってしまうです、というのがマイスターの意見でした。

 もちろん、忙しい人にとっては手間暇省けて重宝なのですが。

 

 僕も以前は、便利なので無洗米をよく使っていましたが、ある時期からなんだか吸水率が悪くて、炊き上がりがイマイチふっくらしないなぁと感じ、いつの間にか使わなくなりました。

 

 思い返すと、確かにマイスターの言う通り、ちょっと味気ない、炊き上がった時の香りも少ないという感じもしてたなぁ。

 うちはけっして高級なブランド米を食べているわけではありませんが、普通のお米と比べて、同じ量を食べても満足感が落ちるんですよね。

 

●日本人の無洗米化

 

 さて、デオドラント志向の強い日本人は、気をつけないと、そんな無洗米みたいになってしまうのではないかと危惧しています。

 

 まじめで勤勉な国民性は長所でもあるけど、努力してゴシゴシ自分を洗練し過ぎると、どんどん旨味もアクも抜け落ちて、持ち味も素っ気もない、ただ働いて税金を納めるだけの人になりかねないのではないだろうか、ということです。

 

 清潔になり、衛生状態が良くなるのは、もちろん賛成だけど、行き過ぎると雑菌に対する免疫が減り、抵抗力がなくなってしまう―ーということは専門家も指摘しています。

 

 泥とか、汚い物にまみれることが少なくなった、中にはまったくなくなった子供たちに関しては特に心配です。

 

 また、匂いに敏感で、それをとことん嫌う習慣についても、それでいいのだろうか、と感じます。

 

 香水をにおわせている人にはあまり会わないけど、お部屋用や洗濯用の洗剤に入っている消臭剤や芳香剤の匂いが服に移ってプンプンしている人ってけっこう多いんですよね。

 

 一生懸命マーケティングして、研究開発しているメーカーさんや、手軽に匂いが消せて助かるわ、というユーザーさんには申し訳ないけど、あの人工的な「良い匂い」はどうも苦手だなぁ。

 

 「これからは個人の時代だ」と言われて久しく、僕もその通りだと思うけど、自分の味や匂いをとことん隠したがる個人が集まる、個人主義の社会ってどんな世界なのか?

 言葉にするとすごい矛盾があって、なんだか興味を引かれるテーマです。

 


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アムステルダムのナシゴレンとコロッケとチーズとアンネ・フランク

 

●アムステルダム1987

 

 オランダの下院選のニュースを見ていて、アムステルダムへ旅した時のことを思い出しました。もう30年前の話です。

 ロンドンやパリほど華やかではないけれど、運河の街は独特の雰囲気を持っていて、歩いていてとても気持ちよかった。

 

 泊ったのは船を改造したボートハウスのユースホステルでした。

 狭い船内にいろんな国の若者がひしめき合っていて(その頃は僕も若者でした)、面白かった。

 

 食べるものも美味しかった。

 インドネシアを植民地化していた歴史があるせいか、インドネシア料理の店が多く、ナシゴレンなどは絶品でした。

 

 また、街中にコロッケの自動販売機があって、そのコロッケが安くてうまいのです。

 自動販売機というのは、日本では屋内によくある、パンやおにぎりが円柱形のケース内の棚に入っていて、欲しいものを選んでコインを入れると、くるっと回転して指定の棚からポトンと下に落ちてくる形式のやつです。

 

 郊外にあるチーズ工場にもレンタルサイクルで行きました。

 どでかいチーズの塊がずらっと並んでいて壮観でした。

 オランダの国土はほとんど平地なので、国中自転車で回れるという話を聞きました。

 今度ヨーロッパを旅するときは自転車で回りたい、というのが目下の夢です。

 

 一つ失敗したのがトイレ。

 かの国では男用を「HEREN(ヘレン)」というのです。

 ヘレンというから女用だと思って、もう一つの「DAMES(ダムズ)に入ったらそっちが女用でした。

 

●戦争と人種差別の記憶が自由の街を作った

 

 そんなアムスで最も印象的だったのは、やはりアンネ・フランクの隠れ家でした。

 観光客向けに必要以上に消臭されることもなく、当時の面影そのままに戦争の記憶・ナチスの支配の記憶をしっかり抱き込んだ空間。一種異様な空気感が漂っていたのを憶えています。

 

 当時のアムスが持っていた、ロンドンやパリ以上にコスモポリタンな気風、自由を尊び、異質なものを快く受け入れる精神は、は、この1軒の文化遺産――人種差別の暴走という負のドラマの記憶――を核として作られていたのではないかと思うのです。

 

●ヨーロッパのアイデンティティ

 

 そんなオランダでも、今回は惜敗したものの、移民排斥・イスラム排斥を謳う極右政党の勢力が伸びている。

 

 僕は「なんで?」と思う。

 おそらく日本人の多くもそう思っている。

 極右派にあまり良い感情は持たない。

 

 でも同時に、心の底では、ヨーロッパの国はヨーロッパらしくあってほしい、とも思っている。

 もう少し具体的に言えば、白人の、キリスト教徒の国であってほしい。

 アメリカみたいに移民でごった煮の国にならないでほしい。

 アラブ人やアラブ資本の会社はあまり増えてほしくない。

 

 少なくとも僕は、海の向こうから、とても無責任にそう思っている。

 

 日本人もそう思うのだから、当事者であるオランダ人やその他のヨーロッパ人なら、なおさらそう思う人が大勢いて何の不思議もありません。

 

 みんな、揺れ動く世界の中で、歴史や文化を含めたそれぞれのアイデンティティを、いま一度、確かめたがっているのだろうか、取りもどしたがっているのだろうか・・・という気がするのです。

 けっして極右派に共感するわけではないのだけれど。


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お寺や葬儀社の地域貢献事業

 

 鎌倉新書の仕事をやっていると、お寺や葬儀社の取材をしたり、ネットなどを通していろいろ情報を仕入れます。

 

 こうした葬式に関わるところは、何やら辛気臭いイメージがまとわりついていて、できればあまり関わり合いになりたくない、という人が多いでしょう。でも最近はそんなイメージを脱却すべく、一肌脱いで頑張っている会社やお寺も増えています。

 

 いちばんわかりやすいのは地域のコミュニティづくりへの貢献です。

 「お寺の集会場で地域の子供会のクリスマスパーティー」といった、ツッコミどころだらけの、笑える日本的カオス宗教企画が、僕たちの子供の頃には多々ありました。

 それが最近、あちこちで復活しているのです。

 

 たとえば、お寺の施設を利用したカフェ、ヨガ、書道、珠算などの教室、説法会、保育所、コンサート、演劇など、さまざまなイベント。

 

 また、地域密着を謳う一部の葬儀社なども持ち前の能力を活かして、商店街や町会などと提携したイベントを行っています。

 これらはもちろん、ボランティアか、それに近い貢献事業で、志ある住職や社長が真剣に(でも楽しんで)取り組んでいます。

 

 商店街から人影が消え、町会や自治会にも人が集まらなくなり、子供や若者が少なくなって、深刻な地域崩壊の危機に直面しているところは、どんどんどん増えています。

 

 こうした問題に取り組む際、学校や行政の公的機関だけに頼ってしまうのには抵抗があります。

 みずから自由を放棄して、お上の指示を仰ぐような形になってしまうからです。

 

 そういう時に、お寺や協会などの、日常生活に溶け込んだ宗教施設の存在感や、気軽に相談できる、イベント・セレモニーのプロフェッショナルが頼れる助っ人として浮かんできます。

 

 言い方を変えれば、お寺や葬儀社は潜在的な文化力・情報発信力を持っており、その気になればとても活用できる部分、(お寺や葬儀社の立場からは)役立てる部分が大きい。

 

 逆にいえば、お寺や葬儀社は、人々の寺離れ・葬儀離れを嘆く前に、自分たちの社会的役割を改めて考え、自分たちのできること、役に立つことを明確にして、なるべく自然な形でそれをアピールする方法を模索していくべきではないかと思います。

 


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おいしいお米ができましたイベント

 

 この週末はイベントの仕事3連荘。

 土・日はNHK敷地の「ふるさとの食 にっぽんの食フェア」の現場に出向き、「おいしいお米ができました」と題したJAブースで、お米マイスターの「おいしいお米の食べ比べ講座」や、トーク&クッキングショーの進行・演出を担当しました。

 

 演出と言っても、台本を書いてしまった後は、基本的に出演者にお任せで、あとはスタートの時間や試食の料理を出すタイミングの合図を出しているだけです。

 

 「おいしいお米の食べ比べ講座」は昨年に引き続き、原宿の隠田商店街でお米屋さんをやっている五つ星マイスターの小池理雄さんが出演。4種類の米を食べ比べるなんて、ふつう家ではできないので、参加した人にとっては貴重で贅沢な体験になりました。

 

 トーク&クッキングショーはE-テレ「きょうの料理」の講師をやっている料理研究家の枝元なほみさんと、司会の後藤繁榮アナの「ゆるゆるコンビ」が出演。ほとんど漫才みたいな掛け合いで笑いを取っていました。

 

 後藤さんはダジャレでこれだけ笑いを取れるのだからすごい。

 

 枝元さんの大根を油で揚げる料理はぜひ作ってみたい。

 

 司会者の中には台本どおり・原稿どおりにしかできない人もいれば、ほとんど無視して自分流にやってしまう人もいるけど、後藤さんはそのあたりのバランスが最高です。

 

 オンエアに関係ないイベントの時は、かなり崩してしまうのだけど、実はちゃんと流れを抑えていて、肝心なところは台本から離れないでやってくれる、気持ちのいい司会者です。そのあたりはさすがNHKアナ(ちなみにもう退職されたので立場はフリーです)。

 

 このイベントはただ飲み食いするだけでなく、地震や台風による自然災害などの被災地農家の応援という趣旨があり、メッセージボードにはたくさんのメッセージが貼りつけられました。

 

 「そういえば3・11忘れてた」という人たちも、「忘れたフリをしていたい」という人たちも、何か刺激されるところがあったようです。

 


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6年前、当たり前の暮らしを失くした人がたくさんいた

 

 小学校じゃないんだから、6年経ったからもう卒業というわけじゃない。

 けど、いろいろ忙しくて僕たちはもうあの時のことを忘れかけている。

 しかたないよな、とも思う。

 せめて、当たり前の日々が送れることに感謝したい。

 元気で仕事ができることに感謝したい。

 家族や大事な人たちがそばにいることに感謝したい。

 


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趣味の園芸フェアinヨコハマ1st

 

 今日はNHK-Eテレ「趣味の園芸フェア」の公開収録&トークショーで横浜の「港の見える丘公園」へ。

 ここに来たのは、おそらく20数年ぶり。そういえば、横浜に遊びに来ることんなんてなくて、ミナトヨコハマという雰囲気はすごく久しぶりに味わいました。

 今日もべつに遊びに来たわけじゃンんだけど、ここだと遠くでボーッと船の汽笛が聞えたりして。 「ああ、ヨコハマ~」と、ちょっぴり感動。

 

 仕事の方はこの公園のフランス山地域に作られた「遊ガーデン」3月26日放送分の現場で、朝からリハーサル、午後からお客さんを入れて本番。

 

 途中、思ってもみなかった通り雨で撮影中断するわ、プログラムの順番がぐちゃぐちゃになるわで、予定調和を超越した、野外ロケ・イベントの醍醐味たっぷりの現場になりました。

 

 番組収録後、「趣味の園芸・遊ガーデン」6人の講師の皆さんのトークショーをやったのだけど、これがなかなか面白かった。

 オンエアとちがって制約がなく、自由におしゃべりができるので、皆さん、とてもいきいきと自分お仕事について話していました。

 さすがプロフェッショナルだけあって、植物・動物に関する知識の深さは素晴らしい。

 

 台本書きだけのつもりだったけど、人手不足につき、イベント部分のディレクターもやることになってしまいましたが、無事こなせてホッ。

 

 緑化フェアの期間は花がいっぱいで楽しそうだし、この春は何度か横浜に遊びに来たいと思っています。

 


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宅配便問題:インターネットハイウェイはロボット社会へまっしぐら

★ドライバーはひとり四役

 

 宅配便の問題をめぐるニュースを見ていると、インターネットのハイウェイははまっすぐロボット社会につながっているぞ、と感じます。

 

 現場を知る者にとっては、やっと改善の時が来たか、という感想。、

 要再配達の品物は、現場の用語で「持ち戻り」というけど、印象としては毎日1割以上はあります。(報道では2割以上。地域差があるので、全体として見たらまあそれくらいはいくかも知れないと思う)。

 

 SD(サービスドライバー)は、運転、力仕事(荷物の中には30㎏におよぶ米とか、20ℓ以上におよぶペットボトルの水だとか、家電製品、機械の部品、タイヤなどもある)、接客業、事務処理と、一人四役をこなさなくてはなりません。

 

 朝8時に営業所に出勤して、最終の配達は夜10時までかかる。

 最初のうちは、昼・夜のシフトに分かれているのだろうと思っていたけど、基本的には一人のSDが丸1日、受け持ちの地域を回っています(週に1度くらい分かれていることもある)。

 

 正確な勤務体系は知らないけれど、それが結構、連日あって、休みはおそらくせいぜい週休二日程度。相当なハードワークです。

  

 時間指定がありながら留守だったりすりゃ頭に来るのは当然。

 

 

★膨大な人力の上で成り立つネット通販事業

 

 話はSDに限ったことでなく、それにプラス、集積センターなり、地域の営業所には、仕分けスタッフや事務処理スタッフなど、宅配便には膨大な労働力が投入されているのです。

 

 

 ネット通販の場合、利用する側にとっては、スマホやパソコンの1~2秒の操作一つで、家まで欲しい物を持ってきてくれる。

 中にはアマゾンなどの通販会社から自動転送されてくると思っている人もいるでしょう、きっと。

 

 その裏にそれだけの人力が必要とされているなんて、夢にも思わない。

 

 ちょっと前まで報道は、ネット通販企業のアイデア、システム、サービスを絶賛していました。

 よくぞこれだけのものを考え出し、実現した。えらい!  インターネット\(^o^)/と。

 

 が、それは宅配便システムというインフラ、さらにそれ以前の道路・交通網、輸送車両の充実という大前提があってこそ成り立つ話です。

 

 

★めんどくさいからロボットにして・・・と思うでしょ

 

 インターネットの普及したデジタル社会は、プロセスが見えず、スタートポイントとエンドポイントしか見えない点の世界。

 どんどん周囲の人間に対する想像力が失われていく世界でもあります。

 高速道路と同じで、いったん乗ったら、降りるところまで、その旅程の景色はほとんど見られないのです。

 

 おそらく半分以上の人は報道を見て、

 「そうやな、配達の人に迷惑やな。マナーを守らなあかんな」

 と思うより先に

 「なんだよ、めんどくせえなぁ。こっちは忙しいんだよ。金払って買っているんだから、宅配のことぐらいで面倒かけるなよ」と思ったことでしょう。

 

 便利さに慣れちゃうと、人間、横着になります。

 面倒だから、宅配便なんて早くロボットがやってくれるようにならないかなと考えるようになっても、なんら不思議はありません。

 

 

 これだけ普及すると、多くの人にとって、もはや宅配便のない生活は考えられません。

 ならば現場のシステムを変えるしかない。

 ロボット技術が普及すれば、真っ先に採り入れたい事情が企業にはある。

 

 そして、おそらくそれはそう遠い未来のことではありません。

 とにかく人手不足なので。

 ネコの手もロボットの手も借りたいのです。にゃあ。

 


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結婚式・葬式:セレモニーはドラマであり、人生のストーリーを形にするツール

 

●お葬式をあげるかどうか

 

 仕事でお葬式を取材したり、お葬式に関する話を聞くことが多くなりました。

 最近は家族やごく親しい身内だけ、人数も1ケタからせいぜい20人以内でひっそりと故人を送る「家族葬」、また、斎場などを使わず、昔ながらにあえて自宅でお葬式をする「自宅葬」が増加傾向です。

 

 これとともに「葬式なんて要らない」という考えで、亡くなったらそのまま火葬場へ直行する「直葬」も急激に増えています。

 

 「死んだら終わりや。葬式なんぞに金をかける必要なんてあらへん」

 

 もちろん経済的事情は大きいと思います。

 

 それと同程度に個人主義が巷に浸透し、そんなに人に気を遣わなくていい、世間体を重んじる必要はない・・・という考え方の人が増えたことも要因でしょう。

 お葬式が形骸化し、虚飾的と捉えられることも少なくありません。

 

●結婚式は増えている

 

 これに対して、結婚式の方は増加傾向です。

 「結婚式をやりたい」という考え方のカップルが増えている。

 昔のように、ゴージャスに、お金をかけて・・というわけではありませんが、一時期、ジミ婚が増えて、結婚式なんかやらないのがトレンド、という感じになった時期と比べれば、だいぶ変わっています。

 

 ただし昔と違うのは、それが家とか親のためでなく、自分たちのために、になっていることです。

 

●セレモニーの効能

 

 結婚式はセレモニー。セレモニーはドラマであり、ストーリーです。

 心の中で思っているだけでは形として実を結ばない。

 いくら素晴らしい脚本を書いたとしても、実際にそれが上演されなくては意味がないのです。

 

 わたしの人生のストーリーを描きたい。ちゃんとそれを形にして体験し、残したい。

 

 若いカップル(中には熟年カップルも)にはそう考える人たち(特に女性)が僕たちの世代より増えているもでしょう。

 

●自分の結婚式の話

 

 かれこれ22年前のことですが、恥ずかしながら、僕は結婚式(正確には披露宴)を2回やりました。

 1回目は東京で洋館を借りてハウスウェディング。

 これはもちろん自分で費用を出して、脚本・演出も自前でやりました。

 

 2回目は名古屋のホテルで。

 親に、ぜひ実家の方でやってくれと言われ、費用も親が出しました。

 これにはちょっと抵抗しましたが、断り切れず、これも親孝行かなと思って、なかばしぶしぶやりました。

 

 しかし22年後、父が亡くなり、母が老い、その時出席したおじやおば、父の友人らも大半がこの世を去った今、ふり返って考えると、自分たちのためにも、家族や友人のためにも、やってよかったなぁと思えてくるのです。

 

 なんというか、その時にいろいろな人との関係性を再確認できたという感じ。たぶん、あの時会わなければ、その後もずっと一生会わなかっただろうなという人たちも結構います。

 

 人生にはストーリーが必要です。

 それを形にするのに、セレモニーを行うのは安易な手段かも知れないけれど、可能であればやっぱりそういう機会はあった方がいいと思うのです。

 

●本当に必要ないと自分軸で考えているのか?

 

 「家族に負担をかけるし、葬式なんてやる必要ない」という人も多いですが、お葬式は基本的になく故人のためのものではなく、遺される人たちのためもの。

 

 亡くなって2~3日でバタバタと葬式を出すのは大変なので、その後の、いわゆる「お別れ会」でもいいのですが、何か形にする機会がないと、関係のあった人たちにとっても寂しいし、心残りのではないでしょうか。

 

 そう考えていくと、「葬式はいらん」というのはちょっと傲慢だし、遺される人たちへの思いやりに欠ける気がします。

 

 セレモニーを拒否することについて、それなりの信念を持っているのなら、それはそれで立派です。

 

 しかし、たんにトレンドだからとか、やらないほうがなんとなくカッコいいからとか、あるいは、〇〇さんや△△先生が「あんなもの必要ない」と言っているからとか・・・

 そんな他人軸的な理由でやらないと言っているのなら、考え直してみてはどうでしょうか。

 

 結婚式にしても、家族のお葬式にしても、「やればよかった」と言っている人は割と多いと聞きます。

 

 あとから後悔しないためにも、自分にとって、あるいは周囲の人たちにとって、そのセレモニーに意味があるのかないのか、自分軸で考えよう。

 

 


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イベント台本:趣味の園芸inよこはま、ふるさとの食・にっぽんの食

 

 来週末は連続でイベントがあるので、その台本づくりに追われています。

 

 一つは10日(金)の横浜・港の見える丘公園。

 

 1年前からNHK-Eテレの「趣味の園芸」で毎月1回、「遊ガーデン」という企画をやっていますが、この日は今月末放送の回の公開収録と、その関連イベントとして、トークショーをやります。

 番組出演の6人の講師が、園芸・ガーデニング・植物栽培に関するいろんなお悩みに応えます。

 また、番組に出演している三上真史さんが月末から始まる「横浜緑化フェア」のご紹介をします。

 「ガーデンネックレス」という愛称がついていて、横浜の街中に花があふれる3か月間の催し。すごくきれいだと思います。

 

 観覧者を募集したら6倍の競争率になったそうで。

 席はないけど、立見・遠巻きでは見られるので、横浜の人や横浜に遊びに来る人はお散歩がてらどうぞ。お金もかかりません。

 

 

 もう一つは11日(土)・12日(日)の渋谷NHK放送センター。

 「ふるさとの食・にっぽんの食」という一大フェスティバルで、その中のJA全中ブースで「クッキング&トークショー」をやります。

 

 こちらはNHK-Eテレの「きょうの料理」の講師と司会の後藤アナが出演。来場の人たちにごはんと料理を提供します。

 また、お米マイスターの講座もあって、いろんなごはんの食べ比べをやります。

 

 こちらも無料なので、渋谷に来たらお昼で食べに寄ってみるといいかも。

 春めいてきて今日はいい感じですが、来週もあったかくて天気がいいとと嬉しいのですが。

 


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プログレッシヴ・ロックスターの死②:キース・エマーソンの誇り高き自殺(1周忌に捧ぐ)

●既成概念を打ち破るキーボードプレイヤー

 

 報道された記事によると、キース・エマーソンは昨年、アメリカ・サンタモニカの自宅でピストル自殺をしたそうです。

 動機は病気のせいで指が思うように動かなくなり、自分が理想とする演奏ができないと悩んだ末・・・とありました。

 

 そこで僕は1970年代、ELPにおける若きエマーソンの雄姿を想起します。

 

 ELP時代のエマーソンはロック界最高のキーボードプレイヤーとして知られ、超絶的なテクニックを駆使して、ピアノ、オルガンなどのキーボード群を縦横無尽に弾きまくっていました。

 

 それまでロックバンドにおけるキーボードプレイヤーは、たとえばギターやヴォーカルに比べて、楽器の特質上、ステージ上であまり動かず、したがって自己主張が少ない存在でした。

 しかし、エマーソンはその概念を打ち破り、とにかく派手なアクションで大暴れ。ELPはベース、ドラムとのトリオ編成で、他に動き回れるメンバーがいないという事情もあったせいだと思いますが。

 

 

●巨大な機械獣と闘う戦士のエマーソン

 

 当時は当然のことながら、You Tubeどころか、ホームビデオもない時代でロックアーティストの動画を見る機会は、ほとんどNHKの番組「ヤングミュージックショー」に限られていました。

 中高生時代の僕はそのオンエアがある日時は何よりもそれを優先しました。

 ELPのステージを見たのも、その番組でです。

 

 そこではエマーソンがオルガンを揺するわ、蹴とばすわ、あげくの果てにナイフを突き立てて、ギュインギュインとノイズを発生させて、観客は大喝采の大盛り上がりという、いま見ると完全にギャグとしか思えないシーンが展開していました。

 

 そういえば当時のロックバンドは、ステージ上でよくギターをぶっ壊したり火を点けて燃やしたり、ドラムセットをぶっ倒したりと、めちゃくちゃなパフォーマンスをやっていました。

 いまでは本当にお笑い沙汰ですが、それを僕たちは「すげええええ」「カッケえええええ」と、思っていたんです。

 とんでもなくアホな時代です。だけど面白かったし、みんな興奮して血がたぎっていました。

 

 それはさておき、通常のキーボード群の他、当時の「ムーグ・シンセサイザー」というバカでかいアナログシンセを弾きこなすエマーソンの姿は、まるで迫りくる21世紀の機械文明の脅威――巨大な機械獣に立ち向かう人類代表の戦士に見えたほどです。

 

●音楽に殉じた尊厳死

 

 2016年3月――70歳を超した彼の中には、その20代の頃の、まるでキーボード群を思う存分、手足のように動かし、ハイテンションで演奏していた頃の自分の残像がくっきりと残っていたのでしょう。

 

 でもけっして過去の栄光・過去の名声を捨てきれず、追い求めていたというわけではない。

 彼の中にはいつも自分が理想とする音楽の王国があり、それに命を捧げる覚悟があった。

 だから、それが実現できなくなった――ファン・観客の前で理想の、あるいはそれに準ずるパフォーマンスができなくなった時、死を選ばざるをなかったのではないかと思うのです。

 

 おそらくはお金ならいくらでもあるだろうから、生活のために稼ぐ必要はない。ならば生きる意義をどう見い出すのか?

 

 演奏できなくても、曲は作れるのでは? 今後は作曲家オンリーとして生きる道があったのでは・・・とも思います。

 が、エマーソンの場合、演奏活動と作曲活動というのは彼の肉体の内部で完全にリンクしており、どっちか片方だけやる、ということはできなかったのではないかと想像します。

 からだが動かないと脳も働かない、それまでの特別な才能を発揮することができない、という人はけっこういるのではないでしょうか。

 

 また、音楽の世界から引退して安穏と――たとえば家族や親しい人たちとのんびり余生を過ごす、ということも彼の頭の中にはなかった。

 そうしなかったのではなく、そうできなかった。

 

 エマーソンのような天才で、ハイテンションで生きてきた人間にとっては、そんな凡人のような発想は不可能だったし、死ぬより退屈な時間を過ごすくらいなら・・・という結論に達してしまったのでしょう。

 

 だから音楽ができなくなり、自己の存在価値を失ったキース・エマーソンの自殺は、本人にとっては「尊厳死」だったのではないかと思うのです。

 

 もちろん70年生きた人間である以上、プライベートや周囲の人々に対する存在価値、責任、社会的影響もあるので、自殺という行為を単純に肯定することはできません。

 

 けれども、プログレッシヴ・ロックのファンであり、彼らの音楽に育ててもらい、遠いところへ旅させてもらい、世界を開かせてもらった僕としては、願わずにはいられない。

  エマーソンの死は尊厳死だった。

 彼は誇り高き音楽の王国に殉じたのだ、と。

 

 Mrエマーソン、Mrレイク、Mrウエットン、

 素晴らしい楽曲の数々と、いつまでも遺る異次元への旅の記憶をどうもありがとう。

 

 


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プログレッシヴ・ロックスターの死①:ジョン・ウエットンの訃報、そしてロンドンの寿司

●ジョン・ウエットンの訃報

 

  つい先日、You Tubeを見ていたら「John Wetton Died」という文字が目に留まり、調べてみたら、1972~74年にキング・クリムゾンのメンバーだったジョン・ウェットンが今年1月に亡くなっていたことを知りました。

 

 クリムゾンは英国のプログレッシヴ・ロックバンドで、1969年発表のデビューアルバム「クリムゾンキングの宮殿」がロックの名盤として最も有名ですが、僕はウエットンがベーシスト&ヴォーカリストとして在籍していた頃のクリムゾンサウンドがいちばん好きです。

 

 「太陽と戦慄」「暗黒の世界」「レッド」「USAライブ」という当時リリースされた4枚のアルバム。中でもウエットンが歌う「放浪者」「夜を支配する人」「堕落天使」「スターレス(暗黒)」といったメロディラインの美しい楽曲を愛聴していました。もちろん今でも。

 

 ウエットンはクリムゾン解散後、同じメンバーだったドラムのビル・ブラッフォード、キーボード&バイオリニストのエディ・ジョブソンなどと「U.K.」というバンドを組んで活躍。1981年の来日時には中野サンプラザにライブを見に行きました。

 「闇の住人」「光の住人」「闇と光」という3部構成の組曲は最高にカッコよかった。

 U.K.のあとは70年代のプログレスターたちを集めた「ASIA」というバンドを作りました。デビュー曲の「ヒート・オブ・ザ・モーメント」は良かったけど、時代に合わせたせいなのか、ポップで軟弱な音作りになってしまい、関心は薄れました。

 

●キース・エマーソン、グレッグ・レイクの訃報

 

 ウエットンは癌で亡くなったそうですが、その関連で調べていったら、同じくプログレッシヴロックのバンド・ELP(エマーソン・レイク&パーマー)のキース・エマーソン、グレッグ・レイクも昨年亡くなっていました。

 

 ELPは、僕が中高生時代読んでいた「ミュージックライフ」という、当時、日本で最も売れていた(と思われる)ロック音楽雑誌で、1975年の人気投票ナンバー1だったバンドです。

 

 ムソルグスキーの「展覧会の絵」やチャイコフスキーの「くるみ割り人形」といったクラシック曲をロックに大胆アレンジしたアルバムや、ギリシア神話のメドゥサをモチーフにした強烈なジャケット(デザインは「エイリアン」を造形したギーガー)の「恐怖の頭脳改革」といったアルバムが大評判でした。

 

 キース・エマーソンがキーボード、グレッグ・レイクがベース&ヴォーカル、カール・パーマーがドラムスというトリオ編成。

 当時のロックファンの間では(僕の周囲だけだったかもしれませんが)「ELPを聴かなければ若者じゃない」とまで言われていたくらいです。

 

 さらに言うと、グレッグ・レイクはウエットンの前にキング・クリムゾンでベース&ヴォーカルを担当していたアーティスト。

 クリムゾンのオリジナルメンバーです。

 

 先述したかの名盤「クリムゾンキングの宮殿」では、「21世紀の精神異常者」「エピタフ」などの名曲で、詩人ピート・シンフィールドの鮮烈な歌詞を神秘的な声で歌い上げていました。

 まさしくレジェンドなアーティストでした。

 

●日本食レストランの常連客で、お寿司が好物のレイクさん

 

 僕は1985年から87年までロンドンの日本食レストランに勤めていましたが、そこはBBC(英国の国営放送局)に近かったこともあり、スタジオ収録を終えた俳優やミュージシャンがしばしばお客さんとして来店していました。

 

 その中でもグレッグ・レイクは常連客の一人で、たいていいつも寿司カウンターに陣取ってお寿司を食べていました。

 

 クリムゾン在籍時やELPスタートの頃はカッコよく、長髪の似合う若者だったレイクさんは、僕が会った頃はまだ30代でしたが、随分とメタボ体型になっていました。

 

 その巨体で寿司カウンターに座り、まるまると膨らんだ指でお寿司をつまみ、次々と平らげる姿にはかなりの違和感を覚えました。

 中高生時代の僕にとっては神話の中の英雄みたいな人だったので・・・。

 

 まあ、どんなにすごいアーティストだろうが、女神のごとき美女だろうが、みんな生きている以上めしを食うし、めしを食っている時は「ただの人」になるんだなぁということをしみじみ悟った体験でした。

 

●キース・エマーソンの悲劇

 

 レイクのように常連ではなかったけれど、キース・エマーソンも彼と一緒に2~3度来店したことがあります。

 

 ELPは一度、1970年代の終わりに解散していましたが、確か当時は、残る一人のカール・パーマーが、ジョン・ウェットンのASIAのメンバーになっていたため、ドラマーにコージー・パウエルを入れ、新ELPとして活動し始めた時期だったと思います。

 それで時々、一緒に来て話をしていたのでしょう。

 

 その頃のキース・エマーソンはレイクさんのように中年太りしておらず、まだ70年代のカッコいいイメージをそのまま保っていました。

 

 でも今回、いちばん衝撃的だったのは、そのエマーソンの死についてでした。彼の死因はピストル自殺だったのです。

 

②へつづく

 


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