2021年も早や半分が過ぎようとしている。
人間はいまだコロナ禍に苦しめられているが、
野鳥天国・善福寺川では、
鳥たちの子育てがうまくいっている。
今年はオオタカも3羽のヒナが無事成長。
この3きょうだいがもう中高生レベルに達し、
超音波怪獣クラスの鳴き声を上げながら、
川沿いのヒマラヤ杉近辺を飛び回っている。
と思ったら、今日はすごいシーンに出くわした。
杉の下にある低い梅の木の枝に止まって
ごはんを食っているのだ。
ごはんになられたのは、どうやらムクドリさんらしい。
これまでオオタカがいることは知っていたが、
ほとんど姿を見たことはなかった。
杉の木のてっぺんあたりの木陰から
小さくかすかに見えたのが2~3度きり。
肉眼では無理だなと思っていたが、
きょうは10メートルもない距離でばっちり、
それも食事シーンが見られるとは。
ちなみにこの林の周辺は、
オオタカにストレスを与えないように、
という配慮でロープが張られ、
それ以上近くには寄れないようになっている。
カメラマンの人たちもそのへんはわきまえ、
きちんとそれを守っている。
おらがアイドルを見守るファンのようだ。
撮影したが、さすがにスマホのズームではこれが限界なので、
望遠レンズで撮影している人のモニターを
覗かせてもらった。
子どもとは言え、迫力満点。
目は鋭く美しく、猛禽の凛々しさを備えている。
ただ、まだガキンチョなので食べ方が下手。
くちばしできれいに羽根をむしるのはいいが、
いざつつき出すと
ときどき肉を地面に落っことす。
落っことしたのは地面に降りて
また熱心に、丁寧にくちばしと足を使って食べる。
他のきょうだいに盗られまいとしているそうだ。
このごはんは自分で取ったものでなく、
親から与えられたものを食べているらしい。
まだ狩りはできない
すねかじりの王子さまだ。
狩りはできないけど、
攻撃力は日に日に増しているらしい。
1ヵ月ちょっと前、杉の木のてっぺん近くにある巣に
数羽のカラスが波状攻撃をかけているところを見た。
どうやら生まれた頃の彼らを狙っていたらしく、
大丈夫だろうか? と心配していた。
しかし、カルガモ8きょうだいと同じく、
ここも夫婦で子育てをしていて、
しっかり守り抜いたようだ。
あれから1ヵ月あまり、
この中高生レベルの王子様たち
(王女様もいるかもしれない)は
今や大胆にも十数羽の群れに向かって
猛スピードで突っ込み、
カラスたちを蹴散らしているという目撃談まである。
たんに遊んでいるのか、
チビの時に襲われたことのお礼参りか、
「おれはタカだ」というアイデンティティの確認か、
いずれにしても体格的にそう違わないカラス軍団に
果敢にケンカを仕掛けるとは、
驚くべきワイルドボーイぶり、成長ぶりだ。
オオタカがここで暮らし始めて、
もう5年くらい経つと思うが、
さすがに人に慣れてきて、
人間は危害を加えないということを知ったようだ。
ごはんにされてしまうムクドリさんなどには気の毒だが、
動物園でもこんなシーンにはめったにお目に掛かれない。
ワイルドボーイ・オオタカのアイドル度は
ぐんぐんUPしている。
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いたちのいのち
猛禽はちょっと怖いイタチ(フェレット)もお話。
雨の季節になると思い出さずにはいられない、
小林麻美、1984年の大ヒット曲。
邦題と日本語訳詞を手掛け、
プロデューサー的な役割を果たしたのは松任谷由実。
ディスコブームの1980年代、
陽気でイケイケなアメリカとはひと味違う
ユーロ系ディスコが台頭し流行したが、
中でもメロディアスでメランコリックな旋律を
ダンスのリズムに乗せた
イタリア産の「イタロディスコ」はユニークで人気を博した。
そのイタロディスコの立役者のひとりが
パウロ・マッツォリーニ。
この原曲「I Like Chopin」を歌ったガゼボだった。
ガゼボは自作でありながら
この日本語バージョンに魅了され、
「これは彼女(小林)の歌だ」と言ったという。
アレンジも打ち込み音とオーガニックなイメージの
バランスが素晴らしく、
原曲のようなディスコっぽさをあまり感じさせない
とても繊細で丁寧な音作りをしている。
「別れたあの人はショパンが好きだった」という、
内容的にはありがちな失恋ソングなのだが、
ユーミンマジックと小林麻美の魔性の歌唱によって
神秘度・エロス度MAXの名曲に昇華した。
クールでメランコリックでダンサブル。
8分間のクラブミックスバージョンで展開する
小林麻美の脳内フル女神イリュージョン。
このイリュージョンであなたも僕も
10年長く生きられる。
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5月の半ばに生まれた子ガモは、
お父さん(かな?)も子育てに協力してくれたことで
8きょうだいが無事に中高生レベルまで育ち、
うるさいほど元気に泳ぎまくっている。
やっぱり2羽で守っていると、
かなり敵から襲われるリスクを回避できるようだ。
大きくなったので、親父はどっかに行っちゃったみたいだが。
まぁここまで育てばもう親父いなくて大丈夫だろう。
と思ってたら、水上でバタバタ大騒ぎ。
何やっているんだろう? と思って観察すると、
なんと飛び立つ練習をしているのだ。
飛行機と同じで水上を羽ばたきながら滑走し、
飛び上がろうとするが、まだうまくいかない。
思わず、がんばれ! と応援したくなる。
この間、目撃した愛の営みが結晶したのか、
いつの間にか新しい赤ちゃんも5匹登場。
こっちはシングルマザーのようだから
敵から守り切れるのか、ちょっと心配だ。
頭上にはカラスがカーカー飛び回っているし。
その川の向こう岸のスギ林では、
すごい甲高い鳴き声が響き渡る。
これはオオタカの子どもだ。
姿は見えないが、すごいすごい。
オオタカは善福寺川沿いのアイドルなんで、
きょうはカメラマンが押しかけ、
かなりエキサイト気味。
だけど、赤ちゃんガモは
このオオタカの子たちのごはんになるのだろうか?
けれども気をを付けるべきはやっぱりカラスだ。
カラスもいつの間にか子育て完了したのか、
やたらと増えている。
さらに子ガモの天敵・ヘビーなアオダイショウも
低木の上にニョロリ。
おとなのアオダイショウはその名の通り、
青緑色だが、こいつはほぼグレー。
体もまだ小さくてシマヘビ並なので、
アオダイ少年だと思われる。
きょうはアオサギ君までご訪問。
魚を取る瞬間は撮れなかった。
ワイルドに夏本番。
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おりべまことエッセイ集:動物
神ってるナマケモノ
先日の「セレモニージャパン2021」で
最も心に残ったブースは、
日本では、そしておそらく世界でもほとんど例のない
遺骨を使った絵画「供養絵画さくら」だった。
30年ちょっとの短い人生を終えた女性。
生後1か月で逝った子猫。
海辺を散歩するのが好きだった犬。
そして最期に桜を観たいと呟いた女の子。
彼女らの命の記憶をこの世にとどめるために、
「供養絵画さくら」のアーティスト小林吉春氏は
画材に遺骨を用いたのである。
仕事で主にアニメーション作品の
立体造形物制作に携わってきた小林氏は、
自分が作ったものがイベント終了後には
ゴミとして破棄されてしまうことに
心のわだかまりを抑えられなかった。
それで給料をもらって生活しているのだから、
よしとしなければいけないのだが、
消耗品を作っている。
消費されるものを作っている。
という思いからアーティストは逃れられないのだ。
彼は「消費されないモノづくり」を模索するようになった。
そして2
遺骨、そして幼くして亡くなった姉の遺骨を目にした。
何かが彼の胸に舞い降りた。
遺骨を使った供養絵画はそこから始まった。
インスタグラムに上げたところ反響があり、
この5年間で約30点を制作した。
遺族や飼い主からヒアリングをし、
イメージする色や風景、
ストーリーを1枚の絵にしていく。
料金は応相談だが、基本的に大きさに比例し、
小さなものは額縁込みで5万円から。
人の遺骨を画材にするのは前例がなく、
禁止する法律はないが、万一のトラブルを避けるため、
依頼を受ける際に合意書を書いてもらているという。
ちなみに日本は遺骨の処理に関して、
おそらく世界一厳しい国ではないかと思う。
他の国では遺骨はメモリアルではあるが、
ただの物質としみなすのに対し、
日本では古くから霊魂が宿ると考えられ、
意味や価値を持っているからだろう。
絵画にするのは美しい・素晴らしいと思う人がいる一方で、
怖いと思ったり、眉を顰める日tもいるだろう。
新しいものはいつの時代も賛否両論である。
いずれにしても遺族の心に寄り添った
新しい供養の在り方として、
また、ひとりのアーティストの
ユニークなプロジェクトとして気にかかる。
本日、日本橋に分身ロボットカフェがオープン。
その名も「DAWN(ドーン)」
AI・ロボット時代の夜明け。
カフェでサービスする分身ロボット「OriHime」と「OriHime-D」(オリヒメ)を
遠隔から操作する「パイロット」は、
難病や重度障害などで外出が困難な人たち総勢50名。
日本らしい、人の心を映し出した
クールジャパンなロボット文化が
本格的に始まる予感。
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ロボットをテーマにした小説・エッセイもどうぞ。
U.K.は1978年に結成された
“最後の”プログレッシブロックバンドである。
プログレッシブロックの歴史の始まりが、
1960年代後半のビートルズの
「リヴォルバー」や「サージェントペパーズ」だとすれば、
終焉はU.K.の3枚目にして最後のアルバム
「ナイト・アフター・ナイト
(U.Kライブ・イン・ジャパン)」だった。
僕は1979年のこの日本公演を見た。
東京で2公演が行われ、
5月30日の中野サンプラザのステージに行った。
同年発表されたこの曲ももちろん演奏され、
クリスタルに輝くエレクトレックバイオリンを弾きまくる
エディー・ジョブスンの姿が今でも目に浮かぶ。
「ナイト・アフター・ナイト
(U.Kライブ・イン・ジャパン)」は演奏修了後、
オーディエンスの「U.K.コール」が鳴り響き、
それがエコーアウトするという
すごくカッコいい終わり方をする。
しかし、収録は僕が見た後の6月4日の
日本青年館での公演を録音したものだったので、
レコードを聴いた時、
U.K.コールに参加できなかったことを
地団駄踏んで悔しがった。
そのライブアルバムが出たのは
確か同年の終わりごろだったが、
翌年になってU.K解散のニュースが伝えられた。
つまり、プログレッシブロックの歴史は
1970年代とともに終わったのである。
――と言うと、異論を唱える人がいるのは知っている。
U.K.を率いていたジョン・ウェットンは解散後、
イエスのスティーヴ・ハウや
ELPのカール・パーマーらと
エイジアを結成し、世界的な大ヒットを飛ばした。
メンバーチェンジをして生まれ変わった
イエスやジェネシスも
全米ヒットチャートを賑わせる
超人気グループに駆け上がった。
それはそれでいい。
売れたのが悪いわけではない。
けれども、それらはもうプログレッシブロックとは
異なる音楽だった。
その後、40年余りにわたってこれらのバンドは
解散しては再結成を繰り返してきたけど、
オーディエンスがリクエストと喝采を送るのは、
全米で売れた80年代のヒットナンバーではなく、
それ以前の70年代に彼らが生み出した、
今思えば奇跡のような、野心と抒情と哲学と、
大いなる世界の幻想に溢れたプログレの名曲群なのである。
1978年はパンクロックが音楽界に旋風を巻き起こし、
プログレ人気が凋落の一途を辿っていた時期だった。
そこへ舞い込んだビッグニュース。
ジョン・ウェットン(ベース/ヴォーカル)と
ビル・ブラッフォード(ドラム)が新バンドを結成!
しかもバンド名は、
United Kingdamというイギリスの正式国名。
これに数多のプログレファンの胸は高鳴った。
何と言っても二人は1975年に一度解散した
キング・クリムゾンのベーシストとドラマーだ。
そこにロキシーミュージックの元メンバーで、
クリムゾンのセッションに参加したこともある
キーボード&バイオリンのエディー・ジョブスン、
そして元ソフトマシーンのギタリスト、
アラン・ホールズワースが加わる。
U.K.の登場はキング・クリムゾンの再来、再結成と
受け取られた。
しかし、U.K.に対する当時の世間的評価は
あまり芳しくなかった。
クリムゾンファンの期待が大きすぎたせいか、
デビューアルバム「憂国の四士」は、
「クリムゾンにしてはスケール小さい」
「いまいちエッジが立ってない」などと言われた。
メンバーチェンジしてトリオ編成になって出した
セカンドアルバム「デンジャーマネー」は
「プログレなのにポップ過ぎる」という評価だった。
いま改めて聴いてみると、
1枚目は、確かにクリムゾンの影が残っているものの、
アヴァンギャルド的な部分よりも、
メロディアスな部分を強調していて聴きやすい。
2枚目は半分プログレ、
半分ポップなハードロックという感じで、
のちのエイジアに繋がる要素が垣間見える。
けれどもそれはもちろん、
クリムゾンでもエイジアでもなく、
U.K.というバンドでしか生み出せなかった楽曲群だ。
U.K.は活動期間も短く、
遺したアルバムもスタジオ盤2枚、ライブ盤1枚の
3枚のみで、レパートリーも20曲に満たない。
けれどもその充実度はすばらしく、
僕はどの曲も大好きだったし、
初めてプログレを聴く人にも親しみやすいと思う。
プログレの頂点に立つのは、一般的には4大バンド
(キング・クリムゾン/ピンク・フロイド/
イエス/エマーソン・レイク&パーマー)、
あるいはこれにジェネシスを加えた
5大バンドと言われているが、
僕はキャメルとU.K.を加えて
7大バンドということにしている。
そして唯一、
リアルタイムでライブを体験できたU.Kに対しては
愛着ひとしおなのだ。
あの40年以上前の日本公演で印象に残ったことがもう一つ。
プログレを聴くのは男ばかりと思っていたのだが、
オーディエンスには意外と女の子も多かった。
それはたぶん、
表に立つジョン・ウェットンとエディー・ジョブスンが
二人ともかなり美形だったことが大きいと思う。
ちょっとクイーンファンっぽいノリだったのだろう。
たしかにウェットンがベースをブンブン鳴らす横で、
ジョブスンが、今でいうならまるで羽生結弦のように
華奢な身をくねらせながらバイオリンをきらめかせ、
ギュンギュン言わせるビジュアルは、
本当に美しく、かっこよかった。
女子たちは、周りにいる
「聖域を荒らすミーハー許すまじ」みたいな、
プログレファンの男たちの気位の高さを察してか、
ジョンとかエディーとか呼ぶのではなく、
「ウェットン!」「ジョブスン!」と声をかけていた。
そのおとな対応が、いま思い返すとちょっと面白い。
2011年以降、ウェットンとジョブスンはU.Kを再結成し、
日本公演も行った。
映像を見たが、齢を取って二人の美貌は衰えたものの、
演奏は素晴らしく充実しており、
“最後の”プログレッシブロックバンドは
なおも光り輝いていた。
けれどもウェットンは2017年にこの世を去り、
ジョブスンも音楽の世界から身を引いたという。
さようならU.K.
歴史は永遠に閉じられた。
それでも僕はやっぱり死ぬまで
プログレを聴き続けるだろう。
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エッセイ集:音楽
ポップミュージックをこよなく愛した
僕らの時代の妄想力
メモリアルギター/三木楽器
歌の中で、映画の中で、物語の中で、
海を目指す主人公は多い。
海は広い。限りない。
海は彼や彼女の内側にある可能性、
と同時に帰るべき場所のメタファーだ。
僕も演劇をやっていた頃、
海を目指す男の物語を書いたことがある。
けれども彼がたどり着いたのは仮想現実の海だった。
あの男は結局、仮想現実の海で溺れてしまい、
箱の中から外に出ていくことができなかった。
なんでそんな話を書いたのかよく思い出せないが、
海賊やら、人魚姫やら、詩人のランボーやら、
ギリシャ神話やら、
当時、自分が好きなものをぶち込みまくったので、
支離滅裂な話になってしまった。
それでも役者は楽しんで演じてくれたし、
数百人のお客さんも楽しんでくれた。(と思う)
だけど自分で納得がいかず、
そのうち何かの形でリベンジしようと思っていて、
あっという間に年月が経った。
人生は短い。
昨年出した「ピノキオボーイのダンス」という小説で、
少しそのリベンジの片鱗を入れた。
じつはこれも完成形にするまでに10年くらいかかった。
でもやっぱりまた海を目指す男(女でもいい)の話を
書きたいなぁと思い始めた。
僕がかつて描いたあの男は、
今度はどうやって仮想現実の海が広がる
箱舟から抜け出すのか?
そもそもどこかにリアルな海があるということを
信じられるのだろうか?
人生はますます短くなる。
実は海にたどり着くことより、
海を目指して歩くことに意味があるのだ。
歩き続けるためには海があると信じること。
自分を信じ続けること。
自分自身であり続けること。
テーマは美しい。
海は美しい。
だけど、とても遠い。
せめて街の雑音が消えて、
潮騒が耳に届くあたりまで行ければいいなぁと思う。
短い人生の中で。
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おとなも楽しい少年少女小説
ピノキオボーイのダンス
そういれば最近、顔出しをしてないなと思って、
先週「セレモニーJAPAN」の会場で撮った写真をのっけてみる。
いっしょに映っているのはブットンくんという
大阪の御堂筋にある「難波別院」、
通称「南御堂」のキャラクターである。
このお寺の境内にははドカン!と
17階建ての高層ホテルが建っており、
「日本初のホテル一体型山門」を売りとしている。
つまりホテルとお寺が一体化しており、
快適なベッドルームに宿泊した客は、
そのまま本堂へ行って坐禅や写経を体験、
といったこともできるらしい。
ホテルは「大阪エクセルホテル東急」である。
つまり東急資本の新たな開発だ。
東急グループはこの4月に「東急ラヴィエール」という
新会社を立ち上げ、不動産の整理や相続、終活、
そしてゆくゆくは葬式やお墓のことまで手を伸ばそうと、
エンディングにまつわる事業をスタートさせた。
先週紹介した広告代理店の博報堂もそうだが、
この業界にはいろいろな資本が入ってきて、
ビジネスをしようとしている。
それは日本社会が戦後、どんどん広げまくってきた
風呂敷をたたむ時代になっていることを象徴している。
思い切り散らかした部屋をどう後片づけするか、
と言ってもいい。
後ろ向きな意見に聞こえるかもしれないが、
問題はどうすれば風呂敷をきれいにたたむのか、
どうすれ、ときめきながらお片付けできるか、だ。
その後始末・お片付けというテーマに
市場があり、ビジネスのタネがある。
大資本もITもお菓子屋さんもアーティストも個人事業者も、
みんなここに集まってくる。
思ったほど儲かるかどうかはわからないが。
大勢の人や会社が集まれば、
当然、いろいろ面白くなる。
これからこの業界で何が起こるか?
僕は仕事があるので探っていくが、
あなたもちょっと気にしておいて損はない。
そしてできれば、お片付けに
ちょっとでも胸のときめきを感じたいね。
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エッセイ集:昭和
昭和96年の思い出ピクニック
先週は取材で日中、出ずっぱりだったので、
ほぼ1週間ぶりに泡沿いを散歩する。
チビガモ8羽、いつものホームエリアで確認。
少し見ぬ間にまたもや大きくなった。
はじめて目撃してから1ヵ月経つ。
そろそろチビとは呼べなくなりそうだ。
ところで1週間前の夕方の散歩中、
ガーガーギャーギャー
すごいわめき声が聞こえるので
どうしたんだろう?と慌てて駆け寄ってみると
カルガモカップルが子作りに励んでいた。
またもう少しして今の子どもたちが
おとなになる頃。新しいチビガモが生まれるかもしれない。
それにしても、いくらカルガモとはいえ、
プライベートライフを盗撮するのは
失礼かなと思って
写真も動画も撮らなかったが、
かなりワイルドな世界。
(野生の鳥だから当たり前だけど)
オスはメスにのっかってバシバシたたくわ、
くちばしをくわえて引っ張るわで、
平和そうな顔つきに似ず、
なかなかエキサイティングな愛の営みを繰り広げていた。
もちろんカモだって個体差があるので、
そいつが特別暴力的だったとか、
メスもそういうのが大好きだったという可能性もあるが。
生まれた子どもはかわいいけど、
子孫繁栄のための行為は、
やっぱりけっこう
スケベでアニマルだよなと再認識。
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エッセイ集:動物
神ってるナマケモノ
森田童子には春や夏を歌った曲が多い。
明るい光の向こう側にある影、孤独、別れ、哀しみ、死。
彼女はそうしたものを歌にしてきた。
1975年のデビューアルバムに収められた
「雨のクロール」はそれを象徴する佳曲である。
この音源はライブ
「東京カテドラル聖マリア大聖堂録音盤」から。
死去したことが公表されたのは3年前、
2018年のちょうど今頃だ。
それより35年以上も前に
もう森田童子であることをやめ、
一人の主婦として
都内のどこかで静かに暮らしていたらしい。
森田童子として遺した特異な歌の数々からは
どうもその暮らしぶりは想像しにくい。
でも、作品とその人の生き方・キャラクターに
整合性を求めるのは間違っていると思う。
1980年を過ぎて時代が変わり、
「学生運動をやっていた人たちのアイドル」
に対する関心は薄れ、
もう自分の役割は終わったと感じたのだろう。
どんな思いで歌うのをやめたのかわからないが、
もうしがみつくことはなかった。
キャリアの後半、
周囲がなんとか“延命”させようと
自分の曲に
当時の流行りだったニューウェーブやテクノポップ風の
アレンジをして売ろうとしたことにも、
すっかり嫌気がさしてしまったのだろう。
でもそれ以上に、普通の人になって
普通の幸せを手に入れたかった。
子ども時代に何か普通ではない、
過酷な体験があったのかも知れない。
本人はインタビューで
「病気のせいで孤独な生活を送っていた」
とだけ語っている。
そんなわけで1990年代になって
「ぼくたちの失敗」がドラマの主題歌となって
大ヒットしたのは、
本人がいちばんびっくりしたにちがいない。
けれども、それさえも遠い昔ばなしになってしまった。
森田童子はあまりにも学生運動とその時代と
セットで語られ過ぎてきた。
時代のベールを剥がして聴くと、彼女の歌の本質が見える。
春や夏の光の向こう側にある、人間の心の影や孤独。
時々、若い歌手がカヴァーを歌っているのを聴くが、
若者ほどその本質を理解している。
消費されることのない永続性と、
神聖と言ってもいい領域が、森田童子の歌の中にある。
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エッセイ集:音楽
ポップミュージックをこよなく愛した僕らの時代の妄想力
エンディング業界の展示会
「セレモニーJAPAN2021」で
ひときわ異彩を放つどら焼きブース。
どら焼きの生産量日本一、
鳥取県米子市の丸京製菓が、
お葬式のおみやげや香典返しにどら焼き最適!
ということでブースを出展した。
4月4日を「どら焼きの日」に制定し、
地元では「どら焼き公園」まで作ったというこの会社、
日本全国のスーパーやデパートに供給。
そればかりか、
世界20か国にどら焼きを輸出しているという
知られざるどら焼き屋。
もともとは和菓子屋として饅頭、団子、大福など
いろんな和菓子を作っていたらしいが、
何を思ったのか、50年ほど前から
どら焼きに特化。
以降、どら焼きを信じ、
どら焼き一筋に邁進してきたという。
「社長がドラえもんを好きだったんですか?」
と聞いてみたが、よくわからないという。
「ドラえもんがどら焼きに及ぼした経済的効果について」
という一文を書いたことがある僕としては、
丸京食品がどら焼き専門店になった秘密が
知りたくてたまらない。
一度、米子を訪れなくてならない。
というわけで、どら焼きの地位向上の
おもての立役者がドラえもんだとすれば、
裏の?立役者は丸京製菓だと言わざるを得ない。
黄色いポロシャツを着た営業担当者の方から
いただいた名刺には
「常務執行役員CMO(最高マーケティング責任者)
営業部 兼 国際事業部 兼
マーケティングチーム責任者」
という、とてもどら焼き屋さんとは思えない
カッコいい肩書が。サイコーです。
ちなみに贈答の用途は、お葬式に限らず、
お祝い事でも何でもOK。
注文すればオリジナル焼き印も押してくれる。
「1個からでもオーケーです」とのこと。
取材したらおみやげももらったので、うちで食べた。
ふつうにおいしい。
感動的!というほどでなく、
ふつうに、ほどほどにおいしところが、
贈る側もいただく側も、重くなくていいのだ。
気軽においしくてユーモラスなどら焼きは
鳥取の誇り、日本の誇りです!
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エッセイ集:食べる
ロンドンのハムカツ
昨日9日から青海(東京テレポート駅:
フジテレビのあるところ)の
ビッグサイト分館で、
「セレモニージャパン
(エンディング産業展)2021」という
葬儀供養業界の展示会が開かれている。
鎌倉新書・月刊仏事の仕事で、
ライターとして3日間通勤取材。
世は高齢化・多死時代。
数年前から、そのうち、この業界にも広告代理店が
進出してくるのではないかという噂が飛び交っていたが、
今年、ついにそれが現実となった。
この6月に博報堂が、
オンライン追悼サービス「しのぶば」の開始を発表。
一気に業界の多くの人たちが浮足立った感がある。
通りがよいので簡単に「博報堂」と言ってしまうが、
「しのぶば」は、正確には博報堂DYグループの
AD plus VENTURE(アドベンチャー)株式会社の
事業の一つである。
DYというのは、大広、読売広告社のイニシャルで、
これらの広告会社も傘下に入っており、
いまや博報堂はメガ高億代理店となっている。
AD plus VENTURE(アドベンチャー)は
そのグループ56社から広く新規ビジネスアイディアを
募集、審査、育成し、事業化する仕事を
2010年から行っている。
昨日はセミナーの一つで、「しのぶば」の代表と、
業界の革命児と呼ばれる二人の葬儀社社長の
パネルディスカッションが行われ、
10年後を見据えたとても濃い内容で面白かった。
「しのぶば」の代表は子育て中の30代の女性である。
「博報堂は生活者目線で事業を展開してきた。
今まではその明るい部分にばかり焦点を当ててきたが、
これからはそうではない(陰とされてきた)部分にも
焦点を当てたい」
と話したのが、ひどく印象的だった。
いずれにしてもこの業界を、
ひいてはライフスタイル全般を変える
きっかけの一つになるのは確かだと思う。
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AI・ロボット エッセイ
どうして僕は
ロボットじゃないんだろう?
その昔、僕がまだ若かった頃は「30過ぎは信じるな」とか、
29歳で雪山の中に埋もれて死ぬ
(そうすれば美しく死ねる)
とか言ってた人が結構あちこちにいた。
現実にも、ドラマの中でも。
そんな御伽噺をしていた人が高齢まで生き延び、
健康を気にして、さらに生き延びたいと願っている。
「あんなこと言ってたのは若い時分のたわごとですよ」
ちょっと照れた顔で、
あるいはちょっと怒った素振りで
そう言い訳するだろう。
そして、あんな言い分は自己満足にすぎないよ、
と、ちょっと歪んだ笑いを見せるだろう。
そして、夢から醒めたほとんどの人は、
30過ぎから新たな人生を歩み始める。
もう遠くは見ない。
足元だけを見て歩く。
けれどもだんだん、
どこまでも続くまっ平らな平地を
歩き続けることには耐えられなくなる。
30過ぎまで生きた人は、
自分が登りたい山を見つける。
がんばれば登れそうな山を懸命に探しだす。
私はここまで登って、こういう景色を見た。
人生の中でその自己満足を得るために。
中には思いがけず高いところまで登れてしまって
怖くなってしまう人もいる。
怖いからもう降りようと思っても
降りる勇気がない。
登る時よりも降りるときのほうが勇気がいる場合もある。
気が狂うほど怖くなることだってある。
高齢まで生き延びて、果たして何があるのか?
人は人間としてどこかに到達するのだろうか?
答を言ってしまうと、どこにも到達しない。
どこにもたどり着けない。
ただ、山に登り続け、どこかで行き倒れになる。
私は最期まで登り続けたという自己満足だけを残して。
その自己満足こそが生き延びてきた人の特権だと思う。
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おとなも楽しい少年少女小説
魚のいない水族館
今日も認知症の義母は川沿いを散歩しながら、
通りすがりの人たちに愛想を振りまく。
子どもやイヌを見て可愛い、可愛いいと連呼する。
ネコはどっちかというと苦手なようである。
しかし、じつはイヌもちょっと苦手。
イヌは人間の言葉がわかるから、
きっと可愛がってくれるんだろうと思って
しっぽをフリフリ寄ってくる。
顔は笑っているが、
ちょっと大きいイヌだと内心ビビっているのがわかる。
しかたないので、僕が代わりに撫でたりしてあげる。
義母のそんなキャラも面白いと思う。
認知症の介護と言っても、
今のところはそれくらいで済んでいるが、
もちろん先のことはわからない。
2025年には5人に1人が認知症患者になるという。
わずか4年後のことだ、
本当にそうなるのか?
もちろん先のことはわからない。
でも、これからの社会が
認知症という現象と共存する社会になるのは、
ほぼ間違いないだろう。
認知症と認定されると、
どんなお金持ちでも
自分の財産を好きなようには使えなくなる。
記憶の中から、お金も社会的地位も、
家族も友だちもみんな消え去っていく。
それまで所有していた財力や権力に関わらず、
一気に社会の弱者に転落する。
その時に何かを愛することができるか、
そして、人から愛されることができるか、
それがその人の人生の価値になる。
あまり考えたくないが、
もし自分が認知症になったら・・・ということは
心のどこかにメモしておいたほうはいい気がする。
ビートルズも、ローリング・ストーンズも、
彼らに追随した世界中の数多の歌手も演奏者も、
チャック・ベリーがいなかったら生まれなかった。
ロックンロールのグランドファーザー、
1958年のバイブル。
このバイブルが発表された年は
僕はまだこの世に影も形もなかった。
初めて聴いたのは1974年。
近所のレコード屋が主催する
中高生らのコンサートが
区役所のちんまりしたホールで開かれた。
そこで中学の同級生のカドタくんが
「お子さまバンド」という3人組のバンドを結成して出演。
そこで演奏したのが「ジョニー・B・グッド」だったのだ。
(他にも2、3曲やったと思うが忘れてしまった)
当時、僕はハードロックやプログレッシブロックの
分厚くて起伏が激しく、
綿密に構成された楽曲が好きだったので、
初期のビートルズやストーンズがやっていたような
シンプルなロックンロールには
スカスカ感を感じて、正直、物足りなかった。
ところが、お子さまバンドがやった
「ジョニー・B・グッド」は
めちゃくちゃイカしてた。
中学生のバンドがそんなにうまかったわけではない。
しかし、とにかく楽しいノリと旋律が、
一発で体に刻み込まれた。
チャック・ベリーはその頃から
すでに伝説のロックンローラーとして、
ジョン・レノンやキス・リチャーズの口から
語り継がれていた。
その独特のパフォーマンスも、
「ロックなんてお笑いみたいなもん」とか、
「インチキだらけの世の中なんて笑い飛ばしたる」
みたいな気概を体現しているようで大好きだ。
2017年、グランパ・ベリーが
90歳でこの世を去った今も、
永遠のロックの北極星として、
ジョニーはグッドであり続ける。
電子書籍・音楽エッセイ「ポップミュージックをこよなく愛した僕らの時代の妄想力」、音楽を愛した人に贈る三木楽器の「メモリアルギター」もどうぞよろしく。
かわいいから食べられなかった?
そんなに殊勝な民族なのだろうか、日本人は。
というわけで昨日の続き。
どうして中華やフランスには
カエル料理があるのに、
世界に冠たる日本料理にはそれがないのか?
なぜ日本ではカエル食が定着しなかったのか?
そう考えて検索してたら、
素晴らしいものを見つけてしまった。
その秘密は横浜にあった、
横浜の、あまり実用的とは言えない
さまざまな面白情報を載っけている
「はまれぽ.com」というウェブマガジン。
「横浜には食用ガエルの養殖場があったって本当?」
という記事だ。
この記事によると、
日本の食用ガエルの歴史は、
1918(大正7)年4月に東京帝国大学(現:東京大学)
名誉教授・渡瀬庄三郎(わたせ・しょうざぶろう)
博士によって、
アメリカのルイジアナ州ニューオリンズより雄10匹、
雌4匹を輸入したことが始まりだ。とされている。
食用ガエルは当初、帝国大学伝染病研究所内(東京都文京区)の小規模な養蛙池で養殖され、食用蛙養殖が国内でも可能なことが立証された。(以上引用)
となっている。
当時、カエルは栄養素も高く貴重なタンパク源として、
食糧問題解決の一策として注目された事業だったらしい。
このアメリカからやって来た食用ガエルの正式名は
「ブル・フロッグ」。
まんまウシガエルだ。
そして昭和になってから、そのエサとすべく
今や親しみ深いアメリカザリガニも輸入された。
今や指定外来種として、
石もて追われるような存在になってしまった
ウシガエルとアメリカザリガニだが、
100年前は鳴り物入りで、
日本の新たな食の救世主として招かれたんだね。
で、どうやら今の新横浜駅の近くにある
スケートセンターのあたりに
1938(昭和13)年ごろまで
大規模な養蛙場があったらしい。
はっきりとはわからないが、
日本にあった養蛙場は1940年代、
つまり終戦の前後ですべてなくなり、
そこで日本におけるカエル食の歴史は
途絶えてしまったようだ。
横浜で養殖されたカエルたちは
中華料理店などに出荷されていたらしいが、
その頃は中華街でカエルを食べさせる店が
あっただろうか?
このはまれぽの記事は、
女性ライターが、実に丹念に現地取材と文献調査を行い、
写真も豊富に載せていて、
日本の食用ガエルの歴史がわかる仕組みに
なっているので、
興味のある人はぜひ読んでみてください。
(カエルが苦手は人はやめたほうがいいです)
https://hamarepo.com/story.php?page_no=1&story_id=4457
カエルのから揚げを食べた経験上、
カエルの肉は結構おいしい。
味や食感としては、
鶏のささみと魚の中間みたいな感じだ。
いいお値段がするけど、ネットで買うこともできる。
話のネタに一度食べてみてケロ。
しかし、はまれぽの記事にも
「なぜカエル食が日本に根付かなかったのか?」
の考察はなかった。
やっぱり見た目の問題なのか?
と、今日もYouTubeのカエルの合唱をBGMにして
夜な夜なかんガエル。
6月と言えばジューンブライド。
というのはヨーロッパの話で、
日本は6月と言えばカエルである。
お米の国・日本では田んぼの妖精みたいなカエルは
人気者だ。
ケロケロ鳴いて
恵の雨を降らせてくれると信じられていた。
人気者どころか豊作の神様みたいなものである。
食糧が豊富になった現代はそんなありがたみも薄れ、
雨もカエルが呼んでくるような情緒あるものでなく、
災害の恐怖を伴う集中豪雨。
しかし、時代は変わってもカエルはかわいがられる。
幼稚園とか学校とか、子どもびいるところは
かわいいイラストとか折り紙のカエルだらけ。
昨日、スーパーに行ったら季節感を出すために
ここにも蓮の葉の傘を差したカエルがいっぱいいた。
そこでつい売り場のお姉さんに
「こちらのお店ではカエルの肉は売ってないですか?」
と聞こうとしたが、抑えた。
嫌がらせに来たのかと思われても嫌なので。
なんでそんなことを聞こうと思ったのかと言うと、
だいぶ昔のことだが、
名古屋にある浜木綿(はまゆう)という
中華料理のチェーン店のメニューに
カエルのから揚げがあって、
それがけっこうおいしかったことを
思い出したからだ。
帰省するたびに家族で食べに行っていた。
まだ父が生きていた頃だから
もう12年以上前のことである。
今はもうメニューにないが、
中華料理では普通にカエルを食べる。
タイとかベトナムなどの東南アジアでもあるし、
ヨーロッパではフランス料理の
重要な素材になっている。
今の日本ではどうなのだろうと
ネット検索してみたら、
「みんなが作ってる カエルのから揚げレシピ」
というタイトルを見つけた。
なんとクックパッドに載っている。
レシピの生い立ちには
「田んぼ道でふと見かけて、
捕まえられたので作りました」とあり、
ちゃんと写真付きで作り方が書いてある。
脚だけかと思ったら、
なんと丸ごと姿揚げなので、
ちょっとびっくりした。
ただ、当然というか、
他に作って食べてみましたという
「たべレポ」は見当たらなかった。
そこでまた考えた。
どうして中華やフランスには
カエル料理があるのに、
日本料理にはないのだろう?
どうしてゲテモノ扱いなのだろう? と。
実は明治期から昭和の戦時期にかけて
日本でもカエルを食べようという施策が
国家プロジェクト波のスケールで進んでいた。
東京都文京区の実験田をはじめ、
鎌倉や横浜に大規模な養蛙(ようあ)場も
儲けられていたのである。
というわけでこの話の続きはまた明日。
なんでこんなおサルみたいな娘たちが
年頃になると色気づいて綺麗になって
母親にまでなれるのか、はなはだ不思議である。
ジャングルジムやブランコや砂場など
公園の広場でおサルたいんのがキャッキャと
遊び回っている。
大の男がひとりでじっと見ているとしたら・・・
そんなつもりはなくても変質者と疑われる。
その点、義母といっしょだと
「お年寄りの面倒を見ている人」と
認識してしてもらえる(実際そうだし)ので安心だ。
ありがたい。
おサルたちはかわいくて、
彼ら・彼女らを見ていると
エネルギーが注入されるような気持ちになれる。
男の子は、そのまま大きくなれば
おとなの男になるのに何の違和感もない。
自分がそうだし、息子もそうだった。
しかし女の子はやっぱり不思議である。
たとえは悪いが、
女の子の成長は昆虫とか両棲類の変態に似ている。
戸川純が「玉姫様」で歌っていたが、
まさしく神秘、神秘、神秘の現象である。
そういう神秘がクリエイターを刺激するのだろう。
物語の世界では「ナウシカ」以降、
やたらと女の子の主人公が増えた。
ジブリ映画の主人公は大半が女の子である。
長らく物語の基本形は「少年の成長」だったが、
それを少女に変えた方が新しいものを
作りやすいという事情があった。
それに加えて女は体の変化という
内面的なドラマがある。
男が外的な条件・周囲の事情によって動くのに
比べて、体の奥底から上ってくる何かに
突き動かされる部分も多いのだろう。
いずれにしても僕にはそんなこと一生分からない。
でも分からないから想像力を刺激される。
作家にしても漫画家にしても映画監督にしても、
男が少女の物語を創りたがるのは、
そういうダイナミックな変化の可能性に魅力を
感じるからなんだろうと思う。
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