義弟のアナログレコードと、帰ってきたカレン・カーペンター

 

  30余年前、これからの音はデジタルですよ~!と刷り込まれて、世の中に一気にCDが普及しました。

 そうか、レコードの時代はもうおしまいなんだ~と思いつつ、中学生の頃から約10年余りにわたって集めてきた200枚のレコードを捨てるに捨てられず、段ボールに詰めて押し入れに封印。

 

 今の家に引っ越してから備え付けの棚があるので、それらを出して並べるだけは並べていたけど、結局、聴かないので5年程前に一念発起してだいふ売り払いました。

 

 それからほどなくして少数のマニアのみならず、若者の間でもアナログ人気が高まり、盤もプレイヤーも針も再生産され始めたといいます。

 もはや恐竜のごとく、絶滅の道をたどるのみ・・・と思い込んでいたのに、世の中、何が起きるか分かりません。

 

 それでこの夏、義弟がプレイヤーを買い込み、アナログレコードを聴けるシステムを設えたというので、手元に残っている50枚余りのレコードの何枚かを手土産に実家へ。

 

 アナログ音を愛する人たちのマニアックなうんちくはよく耳にしますが、「百聞は一聴にしかず」。

 義弟にCDとレコードの聴き比べをさせてもらいました。

 

 試聴したのはカーペンターズの「ナウ・アンド・ゼン」から、かの名曲「イエスタデイ・ワンスモア」。

 CDの音が締まってタイトな感じがするのに比べ、レコードの方は柔らかく、のびやかな感じ。

 この曲の持つ清々しさと甘い感傷を際立たせ、ラジオで初めて出会った時のカレン・カーペンターの声により近いのは、やっぱりアナログかなぁと思います。

 

 でも、それは音の問題だけだけじゃなくて、でっかいジャケットを見開きで楽しめたり、黒い円盤がクルクル回っているビジュアルも脳に影響しているせいかも知れません。

 

 ここ30年余りはCDで、最近はもっぱらパソコンで音楽を聴いていますが、若い頃、何千時間と聴いたアナログレコードを聴くスタイルは、身体の芯まで染みついているんだなぁと実感。

 まさにイエスタデイ・ワンスモア。


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ヤモリは家守。かわいく、さりげなく守り神

 夜、ぺたっとガラス窓や壁に貼りついているヤモリ。

 年に1~2回はヤモリに遭遇します。

 僕がこれまで住んできた家にはたいていヤモリもいるのです。

 

 ぎょっとする人、はっきり言って気持ち悪いと感じる人は、少なくないと思いますが、僕はけっこう親近感を持っていて、かわいいと感じています。

 

 ヤモリは「家守」。縁起のいい生き物。

 という刷り込みがあるせいかもしれません。

 

 実際、シロアリやカ・ハエなどの害虫を食べてくれるので、そう悪いやつではありません。

 

 それによく見ると、本当に愛嬌のある顔をしていて、

他の爬虫類に見られる「冷血さ」を感じない。

 

 かわいく、さりげなく守り神。

 

 ヤモリがキャラクターとして登場する物語はたぶんあまりないと思うので、いずれ書きたいと思っています。

 


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オノ・ヨーコさん「NHKファミリー・ヒストリー」とジョン・レノン「Imagin」の秘密

●レノン=オノの衝撃度

 

 前回(22日)日の続き。

 あの番組で僕がちょっと驚いたのは、最後に「Imagine」がジョン・レノンのソロ作でなく、オノ・ヨーコさんとの共作であったことをアメリカの音楽出版社協会が公認した――ということをNHKが電波に乗せて堂々と言ってしまった、ということ。

 

 「それがどうした?」という声が聞こえてきそうだけど、ビートルズを愛し、よく知っている人達にとっては、これってけっこう大事件ではないだろうか?

 

 ビートルズ解散後のジョンの音楽活動は、「Imagine」という超名曲をで持っていたところがある。

 

 想像してごらん。「Imagine」を歌うことのなかったジョン・レノンを。

 

 ウィングスを作ってガンガンヒットを飛ばしていたポールや、ビートルズ終盤からがぜん注目を集めるようになったジョージに比べて、相当見劣りしていたはずだ。

 

 実際、低迷したり沈黙していた時代が長く続き、作品の量も少ないし、全体的に質もイマイチだ。

 それでもジョンが偉大でいられたのは、20世紀を代表する歌の一つ、と言っても過言でない「Imagin」を作ったからだ。

 

 でもそれが、オノ・ヨーコとの共作だったと言われたら、昔ながらのビートルズファンはかなり複雑な気持ちになるのではないかな。

、彼らはオノ・ヨーコをあまり好きでないから。

 

 かの有名なフレーズ「想像してごらん」は、以前にヨーコさんが自費出版で出した詩集に載っていたものである。

 言ってみればパクリだけど、夫婦間ならそれも許されるというわけで、番組内でも彼女は「あれはジョンへのプレゼント」と語っていた。

 

●ポールの申し出を断った話

 

 余談になるけど、今世紀になってから、ポールがヨーコのところにビートルズ時代のレノン=マッカートニー名義の曲のいくつかを、自分一人の名義に変えてほしい。もちろん、ジョンが一人で作った曲はジョンの名義にして・・・と言ってきたことがあったらしい。

 

 前回も書いたけど、ジョンとポールが作った楽曲は、表向きはすべてレノン=マッカトニー作品、すなわち共作ということになっている。

 ビートルズのスタート時、若き二人の天才は本当に一体化して音楽づくりに熱中していたので、そういう取り決めをしたわけだ。

 

 事実、どっちが歌詞と曲のベースを作って、二人でアイデアを出し合い、アレンジしてその作品を膨らませ、磨き上げるという形で共同作業をしていたらしい。

 

 でも、特に中期以降はほとんどそれぞれ別々に作ることが増え、もはや共作とは言えなくなっており、基本的にジョンのヴォーカル曲はジョン作品、ポールのヴォーカル曲はポール作品ということになっている。

 

 けれども、そのポールの申し出をヨーコははねつけ、認めなかった。

 もちろん、ジョン単独の曲もレノン=マッカトニーのままだ。

 

 最後にポールは「じゃあ、せめて『イエスタデイ』だけでいいから、僕の単独曲ということにしてくれないか」と折れたのだが、それにも彼女は肯かなかった。

 

 1966年の日本公演でも、この曲の時は他の3人は引っ込み、ポールが一人でギターで弾き語ったという、明らかにポール作品なのだが、それでもダメだというのである。

 

 僕も最初にその話を読んだ時は、どうしてそこまで頑ななのか、理解に苦しんだ。

 そこまでして著作権に固執するのか、財産なんか十分すぎるほどあるだろうに・・・と。

 

 でも違うのだ。

 権利とかカネの問題ではなく、彼女の中には彼女なりの仁義があり、いくら頼まれてもそれは曲げられないのだと思う。

 

 おそらくジョンが生きていれば、ポールの申し出に「OK」と言った可能性は高い。

 が、いかんせん、この世にいない以上、彼の気持ちはもう聞けない。

 いくら相続人とは言え、本人から気持ち・意見を聞けなければ、そのままにするしかない・・・というのが彼女の見解なのだろう。

 

●昔ながらのビートルズファン

 

 さて、ここでいう「昔ながらのビートルズファン」というのは、リアルタイムでビートルズを体験した人たち――僕より10~15歳くらい上の、ベビーブーマー世代、日本で言えば団塊の世代を中心にした人たちだ。

 

 このカテゴリーの人たちの中で、ヨーコさんに好意的な人は、少なくとも僕が直接知っている中にも、メディアを通して情報を発信する評論家・専門家・ラジオDJなどの中にも、ひとりもいなかった。

 

 彼らはヨーコさんを「ビートルズを崩壊させた魔女」といって憎むか、でなければ、その存在を無視し続けた。

 「あの人はミュージシャンでもアーティストでもない、たんなるイベント屋さんですよ」という人もいた。

 

 ジョンの死後も彼女の評判は相変わらず芳しくなく、権利金の問題にいろいろうるさいとか、前妻シンシアさんとの息子であるジュリアンに、つい最近までジョンの遺産を分配しようとしなかったことなどもバッシングの対象にされた。

 

 お金の問題が多いのは、人々の中に「なんであれだけカネがあるのに・・・どこまで強欲な女なんだ」といった、口には出しては言えない嫉みがあるからだと思う。

 

●憎まれる条件

 

 番組を見て思ったのは、このオノ・ヨーコさんは、人から憎まれたり、嫉まれたり、疎んじられる条件の揃った人だったんだなぁということ。

 

条件①:日本人(アジア人=有色人種)である

 1960年代の欧米社会では、まだまだカラードに対する差別意識が強かった。

 当の日本人の方も、お洒落でハイソな欧米ライフスタイルをめざしてがんばっていた時代だったので、欧米に対するコンプレックスが強かった。

 

条件②:女である

 女性蔑視もまだ強く、女はかなり見下されていた。

 才能がある上にでしゃばってくるような女は、男たちの嫉妬と陰湿ないじめを受けることが多かった。

 

条件③:主張する自己がある

 ①②でも、従順で可愛ければ許されたが、彼女は欧米人以上に積極的に自己表現し、社会 に相対していた。「東洋の神秘」でなく「ただ不気味」で、魔女呼ばわりもされた。

 

条件④:お金持ちのお嬢様である

 これにはむしろ同じ日本人のほうが反感を持った。みんな貧乏で「ブルジョア憎し」みた いな気分が蔓延していた。

 「めざせ憧れの欧米ライフスタイル」の人々を尻目に、生まれた時からお屋敷で欧米ライフスタイルを送っていた彼女が妬まれないはずがなく、「金持ちが道楽で芸術ごっこをやっているだけじゃん」と捉えられた。

 

 1960年代はやたらもてはやされることが多いけど、現代ではあからさまな差別と思われることが、欧米・日本、どちらの社会でも、まだまかり通っていたのである。

 いわばヨーコさんは当時の社会にあって、完全に異分子だった。

 

●女に弱いジョン・レノン

 

 じつはジョン自身は生前、「Imagine」がヨーコの影響が強く、共作のようなものだ・・・と発言している。

 けれどもマスコミはじめ、周囲がその発言を無視した・・・とは言わないまでも、あまり重要なことと捉えていなかったような気がする。

 でないと、われらがスーパースターであり、ワーキングクラスヒーローであるジョン・レノンの輝きが薄れる。

 そんな社会的心理が働いていた。

 

 つまり、バッシングや無視することで、彼女の存在を否定してきた人たちにとって、あの神がかり的名曲が、ジョン・レノン作でなく、レノン=オノ作として認められてしまったら、それまでの批判がただの悪口だったということになってしまい、かなり都合が悪いのだ。

 

 ソロになり、バンドのボスの座を失って、ひとりぼっちのガキ大将みたいになってしまったジョンには心の拠り所が必要だった。

 そういう意味では、パートナーであるオノ・ヨーコはプロデューサーでもあり、ソロのジョン・レノンは彼女の作品だった、と言えるかも知れない。

 

 いずれにしても彼のヨーコさんに対する精神的依存度はかなり大きかったと推察する。

 若い頃は社会に反逆し、挑戦的な態度を取り続けてきたジョンは、そういう女性に弱いところのある男だった。

 

 そのことは前妻のシンシアさんも著書「わたしが愛したジョン・レノン」の中でも指摘している。

 幼少の頃、母親がそばにいなかったために、厳しい叔母の世話を受けることが多かった彼は、自己のしっかりした強い女に惹かれる傾向があったのではないか・・・と述べている。

 

 なんだかオノ・ヨーコを一生懸命弁護して、ジョン・レノンを貶めるような文章になってしまったけれど、僕は相変わらずジョンのファンである。

 

 今回のテレビ番組を見て、いろいろ考えてみたら、ますますジョンのことが好きになってしまった。

 彼をヒーローだの、愛の使者だのと褒め讃え、信奉する人は多いけど、僕はその根底のところにある、彼の弱さ・情けなさ、さらにズルさ、あざとさなどの人間的なところが大好きだ。

 そして、そこから20世紀の大衆精神やマスメディアの功罪も見て取れる、彼はそんな稀有なスターなのだ。

 

●これも終活?

 

 というわけで今回、「Imagine」が発表後47年目に、レノン=オノ作として広く認められることになったのは、とてもめでたいと思います。

 

 でも、これってアメリカの音楽出版協会のいい人ぶりっこかもしれない。

 ヨーコさんももうご高齢だし、病気を患ったという話も聞くので、最期に花を持たせてやろうか・・・・ということで認めたのではないだろうか?

 

 想像してごらん。彼女が終生認められずに他界してしまったら・・・。

 

 長らく彼女を攻撃してきた人々が、彼女の最期を想像し、良心の呵責に耐えられなくなったということなのかもしれない。

 

 本当に人生、長く生きていると何が起こるかわからない。

 ヨーコさんもこのことは全然期待していなかっただろうし、彼女自身が働きかけたことではないけれど、これも一種の終活なのかな、と感じます。


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エンディング産業展2017おまけ:一生消費者で終わらないために

 

 今年のエンディング産業展は、けっこうあちこちでニュースとして採り上げられ、話題になっていたようです。

 「最後の成長産業 年間売上○兆円の大市場」とかね。

 

 マスメディアの採り上げ方はどうしても皮相的になるので、ロボットの坊さんとか、ネットを使った遺影サービスとか、きらびやかなお墓や仏壇とか、やっぱりそういうのになってしまう。

 

 わいわい面白がるのはいいけど、葬式とかお墓の世界がこんなに明るく楽しくなっちゃっていいのか? いったい世の中どうなっちゃうんだ?

 といった違和感を抱く人も多いのではないでしょうか。

 

 僕も業界情報誌のライターという立場上、あちこちのブースを回って出展者と話す会話は、

 「売上、すごく伸びてるみたいですね」

 「ずいぶんシェアが広がりましたね」

 「そんなにそのニーズが大きいんですか?」

 「マーケティング戦略はどうですか?」

 

 といった感じで、改めてふり返ると、なんだかすごい違和感を感じるのです。

 

 ビジネスの世界なんだから当たり前だけど、提供する側も受け取る側も、それだけに終始していると、これらの商品やサービスを使う人はみんな「お客様」であり、「消費者」になってしまう。

 

 僕らは現代の消費社会では、市民とか人間とかではなく、「消費者」と呼ばれるのにふさわしいけれど、最期までそれでいいと思っている人は、そういないはず。

 

 これからやってくるエンディング=死について思いを巡らすことは、今ある生をより充実させることです。

 最期まで消費者として終わって満足・納得だ、という人はいいけど、そうでない人は、自分の人生をこれかえら終わりに向けてどうしていくのか、エンディング情報をきっかけにリ・クリエイトしていければいいのでは、と思います。

 


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エンディング産業展2017 3日目:この業界の面白さ

 

 鎌倉新書の仕事を初めてやった5年前には、エンディングやら終活やら、といった言葉がここまでポピュラーになるとは思わなかった。

 

 ここでメインになるのは経済・産業の話だが、そこに文化やら歴史やら宗教やらがかなり濃密に関わってくるのが、この業界の面白いところ。

 

 これまでは「葬式・お墓ってみんなこんなもの」と思っていたけど、最近はお決まりのテンプレートの中にはめ込まれて、「いい人でした」「立派な人でした」「家族思いでした」といった定型文でまとめられて人生チャンチャン!にされてしまうことに、みんな我慢ができないのだ。

 そんなものにお金を払いたくないのだ。

 特に今、70より下の戦後生まれの人たちは。そうですよね?

 

 だから文化やら歴史やら宗教やらに関する知識やら感性やらが、大きな価値になる。

 個人個人の話を聞き、思いに応えられrることが大きな価値になる。

 そうした価値をいかに経済に変換できるか

 

 ・・・てなことを考えた3日間でした。

 でもきっとこれは、この業界に限った話じゃないね、きっと。

 


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エンディング産業展2017 2日目:石造キティと出会い、巨大石臼ひきを体験

 

 エンディング産業展に併設というか、インクルードというか、されているのが「ジャパン・ストーンショー2017」。

 

 墓石業界も苦境を打開しようとPRに必死。

 斬新なデザインのお墓、ユニークなデザインのお墓がいろいろ提案されています。

 

 そのおへそに陣取る日本石材協会のブースでは、東日本大震災や熊本地震の際にボランティア活動をした関係で、熊本物産展もジョイント。

 

 昨日はなんと、くまもんも応援にやってきて、大騒ぎだったらしい。

 

 しかし僕はセミナー取材の時間と重なっていたたため、くまもんにはお目にかかれなかった。ざんねん。

 

 その代わりと言っちゃ申し訳ないけど、ビッグでロックなキティちゃんと2ショット。

 巨大石臼もぐりぐり回しました。

 

 


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●エンディング産業展2017 レッツ・ラーニングは世界の潮流

 

 今日から東京ビッグサイト(国際展示場)で「エンディング産業展2017」が始まりました。

 昨年に引き続き、鎌倉新書(この産業展のメディアパートナーになっている)の仕事で、25日・金曜まで3日間取材漬け。

 

 今年は「教育」「学び」が大きなテーマになっており、大小併せて100を超えるさまざまなセミナーがすべて無料受講できることになっています。

 

 もちろん、ビジネスチャンスを作る場ではあるのだけど、そのためにもこれまでの常識や古いノウハウに頼っていないで、この機会に新しいことを勉強し始めてください、というわけ。

 

 エンディング産業界に限らず、世の中、あらゆることが学び直し・勉強し直しの時代に入っているということです。

 

 今日にの取材のメインは、11:00から2時間半にわたって行われた東アジア国際葬送シンポジウム。

 中国、台湾、マレーシア、韓国の4ヶ国の葬祭関連の教育機関、研究施設の代表者を招聘し、自国における人材育成の実態について話しました。

 

 どの国も日本を追って発展し、近代化してきましたが、そのスピードはすさまじく、この葬祭関連の人材育成という文太では、すでに日本をしのいでいます。

 

 韓国では関連学部を設けている大学もあり、エンディングを実務のみならず、総括的に、アカデミックに扱い、死について――命について勉強している。

 こうした潮流が世界的に広がっており、それは近々、日本にも波及してくると思います。

 


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オノ・ヨーコさん「NHKファミリー・ヒストリー」とYesの3文字の秘密

 

●ジョンとヨーコの出会い

 

  昨日、未来食堂の「Yes」=相手を、自分を肯定し、受け入れる理念について書いたら、ジョン・レノンとオノ・ヨーコも「Yes」という言葉で出会ったことを思い出した。

 

 60年代半ば、ロンドンで開かれていたヨーコの個展にジョンがふらりと立ち寄る。

 自分ではしごを昇って行くと、天井に小さな文字が何か書いてある。

 そこに備え付けられていた虫眼鏡で見ると、その文字は「Yes」。

 

 このエピソードはよく知られているけど、どうしてそれでジョンがヨーコに強烈に引き付けられたのか、その3文字が、この時のジョン・レノンにどれだけ強烈に響いたのか、あまり語られることがないようだ。

 

●前妻の著書「わたしが愛したジョン・レノン」から推察するジョンの危機

 

 それについて考えるヒントは、皮肉にもジョンの前妻のシンシアさんが10年ほど前に出版した手記「John(邦題;わたしが愛したジョン・レノン)」に書かれている。

 

 60年代半ばはビートルズの絶頂期。

 アイドル時代を超えて、斬新な作品を次々と生み出し、ポップミュージックの概念を塗り替えていった時期だ。

 

 けれどもジョンは行き詰っていた。

 ビートルズは紛れもなくジョンのバンドであり、彼の才能が全開した初期のけん引力は凄まじかった。

 

 しかし、だからこそ彼はひしひしと感じ出していた。

 ポール。マッカートニーの脅威。

 

 ビートルズを作った時から彼はポールの才能をすごいと認め、自分と組めば素晴らしいことが起こると信じていた。

 そして、それは見事に実現した。

 

 けれども同時に怖れてもいた。

 いつかポールにビートルズの主役の座・ボスの座を奪われるのではないか、と。

 

 他の誰もそんなことは気づかなかったかも知れないが、唯一、ジョン自身だけはわかっていた。

 その時がすぐそこまで来ているということを。

 

 シンシアさんの本によれば、67年頃から次第にジョンは曲作りにおいてドラッグの助けを借りることが増えていたという。

 事実、この年の夏に出した「サージェント・ペパーズ」あたりから、徐々にビートルズの楽曲は、ジョンの作品よりもポールの作品の方が質・量ともに勝っていく。

 早熟の天才で、ずっと先を走っていたジョンを、追ってきたポールがとうとう捕らえたのである。

 

 (最初の取り決めで、ジョンとポールが作った楽曲は、表向きはすべてレノン=マッカトニー作品、すなわち共作ということになっているが、ごく初期の頃はともかく、中期以降はそれぞれ別々に作っていた)

 

●オノ・ヨーコの哲学・芸術の結晶

 

 あれだけ成功していたのに信じられないことだが、ジョンは非常に繊細な人なので、当時、自分の音楽家としての未来に非常な不安を抱えていたのではないか。

 

 ドラッグは当時、ロックミュージシャンの常識みたいなところがあって、みんなやっていたかも知れないけど、ジョンの場合、そのままだと溺れてしまうほど、急激にのめり込みつつあった。

 自分もいっしょにドラッグを勧められ、シンシアさんはかなり心配していたようだ。

 

 ちなみに彼女は、ジョンとの青春とビートルズ黄金時代のこと、その後の離婚の悲劇、彼の死後も続いたヨーコとの確執を綴ったこの本が。まるで遺書だったかのように、出版の数年後にガンで亡くなっている。

 

 話を戻して、

 そんなやばい状況で出会った、ヨーコの提示する「Yes」の3文字は、いえわるスピリチュアル系でよく出てくる「宇宙の引き寄せ」みたいなものだったのかも知れない。

 この「Yes」をどう解釈したのか分からないが、ジョンにとって、生まれ変るほどの響きがあったのに違いない。

 オノ・ヨーコの哲学と芸術は「ビートルズのジョン・レノン」を木っ端みじんにしてしまったのだ。

 

●オノ・ヨーコさんの「ファミリー・ヒストリー」

 

 ・・・というふうに考えたのは、録画してあったNHKのオノ・ヨーコさんの「ファミリー・ヒストリー」を見たからです。

 

https://www.nhk.or.jp/docudocu/program/1396/1804134/

 

オノ・ヨーコさん84歳。1969年にビートルズのジョン・レノンと結婚、数々の共作を残している。前衛芸術家、平和活動家としても活躍してきた。ヨーコさんは、息子ショーン・レノンさんに自らのルーツを伝えたいと、出演を決めた。祖父は日本興業銀行総裁、父は東京銀行の常務取締役を務めた。また、母は安田財閥・安田善次郎の孫にあたる。激動の時代を生き抜いた家族の歳月に迫る。収録はニューヨーク、73分特別編。

 

 ヨーコさんは息子のショーンさんが自分の家族のことを知ってもらえれば・・・ということでこの番組を承諾したと言います。

 

 

●家族の歴史から生まれた、半世紀進んでいた前衛芸術

 

 番組では幕末からのヨーコさんの家族の歴史が綴られており、とても興味深く観ました。

 それは日本が近代的文明国家になっていく歩みとシンクロしていました。

 いわば彼女の家系は、日本が世界と渡り合う歴史の最先端にいたのです。

 

 そしてまた、そんな歴史のもとに生まれ育ったから、ヨーコさんのあの前衛芸術が生まれたのだろうなぁとも感じました。

 

 彼女が表現する芸術、その奥にある哲学は進み過ぎていて、半世紀前は、日本の大衆も英米の大衆もついてこれなかった。

 

 現代なら多くの人が普通に受け入れられるだろうと思うけど、1960年代にはまだ、風変わりでエキセントリックな有色人種の女が、奇妙奇天烈な、これ見よがしのパフォーマンスとしか受け取られなかったのだ、と思います。

 

 「Yes」と言い続ける彼女に対して、大半の人が「NO」と言った。

 

 そんな時、自己喪失の苦境に喘いでいたジョン・レノンだけが、彼女の訴えるささやかな「Yes」をまともに受け止めることができた。

 

 ジョンがいなくても彼女の思想は変わらなかったかも知れないが、やはり彼と結びついたことで広く彼女の考え方が世界に知られるようになったのは確かです。

 ただし、それは誤解に満ち、彼女はその後の人生全般にわたって大きな代償を払うことになりますが・・・。

 

●なんで今、イマジンが・・・

 

 この番組は本当にいろいろなことを考えさせらました。

 

 どうしてヨーコさんがあれほど嫌われ、憎まれてきたのか。

 

 ジョンのソロになった後の代表曲「イマジン」が、ヨーコさんとの共作だったということを、どうして今ごろ(2017年6月)になって、アメリカの音楽出版社協会が公認したのか。

 

 かなりクリアに分かった気になりました。

 

 このあたりの話をやり出すと、どんどん長くなってしまうので、今日はこのへんで。

 この続きはまた明日。(書けるかな?)

 


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未来食堂から学ぶ、「Yes」から始まる未来

 

「未来食堂」の小林さんがまたテレビに出ていた。

 自分のブログをふり返ったら、この前、未来食堂のことを書いてからもう4ヵ月が経っている。 光陰矢の如し。

 

●未来のストーリー

 

 で、やっぱり話を聞いて、やっぱり感心してしまった。

 お店の理念がとにかく素晴らしい。

 ごはんを食べる場所は、誰もがそこ安心していられる場所。誰もに相応しい場所。

 

 AIやロボットが台頭して、それまで有能と言われ、自信にあふれていたビジネスマンが失職し、失意の中で食堂にめしを食いにやってくる。

 

 ある人は表に貼ってある「ただめし券」を使って、泣きながらガツガツ食べたりもする。

 

 そして、お腹が満たされたて、ふと店内の他のお客を見わたす。

 泣いているやる、笑っているやつ、怒っているやつ、まったりしているやつ、生まれてきたばかりのやつ、もうすぐあっちへ行っちゃいそうなつ・・・

 いろんなやつがいいて、そいつらみんな、たくさんの人間の未来に思いを馳せる。

 これからの人間には何が求められるのだろう?と。

 

 話を聞きながらなんだか、ふと、そんなストーリーとシーンが思い浮かんだ。

 

●しょうゆを使わないきんぴらの話

 

 今回、印象に残ったのは、お客さんの申し出を否定しない、ということ。

 

 一例として挙げたのは、「あつらえ」――この店ではその日の定食のほかに、冷蔵庫にある材料を見せて、お客がほしい一品料理を作ってくれる――に、「塩気のない金平」を作ってくれ、という人がいたという話。

 

 きんぴらには塩分のある醤油を使うので、通常、この注文はアウトだが、小林さんは醤油の代わりにお酢と砂糖を使って、なんとかきんぴらに近いものを作る、という。 (お酢を熱すると、しょうゆに近い風味が出せるらしい。今度実験してみよう)

 

●まず肯定し、受け入れて、考えて、工夫する

 

 お客を否定しないなんて、そんなの商売なら当たり前だろ、という意見もあるだろ、

 また、表向きはどんな会社もお店もそう言ってるだろう。

 

 でも、いざ実行しているところはどれだけあるだろう?

 小林さんのように考えて、こんな工夫をするだろうか?

 

 実際、ノーといった方が面倒はないし、カッコもつけやすい。

 自信があるように見える。

 

 ノー、うちはそんなものは作りません。

 ノー、それは僕の仕事じゃありません。

 

 もちろん、理不尽な要求にはノーと言わなくてはいけないけど、すぐに否定する前に少しは相手を受け入れられるか、考えてみていいのかも。

 

 イエス、やってみましょう。

 イエス、できるかもしれません。

 

 そして、人に対してだけじゃなく、自分に対しても。

 

 イエス、やったことないけど、やってみよう。

 イエス、自分のこういうところ、いいんじゃない?

 (そいういえば「Yes、We can!」とういうのがあったなぁ。懐かしい)

 

 人との関係も、自分の可能性らも、ます肯定して受け入れるところからしか始まらない。

 未来はイエスと言った時点からスタートする。

 もう一度、小さなところから「Yes、We can!」を実行したらどうだろう?

 

 そんなわけで未来食堂、

 4ヵ月前は「これから産休に入ります」とのことだったが、いつの間にか産休も終えて復帰していたようなので、しばらく神保町界隈に用はないけど、行ってみるか

 ・・・と思ってホームページを見たら、29日まで夏休みになっていた!

 

 う~ん、未来はまだ遠い。

 


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「釣った魚にエサをやらない男」は、じつはその魚に依存して生きている

 

 むかし、ある女友達に「あんたは釣った魚にエサをやらない男」と言われたことがあります。彼女とは恋愛関係になったことはなかったのだが・・・。

 

 この間、男脳・女脳に関する本を読んでいたら、なぜかそのセリフがぷわっと浮かんできました。

 

 大半の男は、連れ合いとして長年一緒に暮らしている女を、だんだん自分の身体の一部として認知するようになるという。

 

 独立した、別の人間として認めているのだけど、同時に頭の中で、自分の手足としたり、目や耳にしたり、ある時は脳の一部としても認知してしまう。

 

 「もう一人の自分」とまではいかないけど、それにやや近い存在――一種のアバターもどきという感覚でしょうか。

 

 そういわれると、確かにそう感じているかなぁ・・・と自分でも思います。

 

 男脳は空間認識能力が高く、その能力を拡張することによって、外部のメカや道具と一体化する感覚――たとえば、車やバイク、あるいはノミやナイフなどが自分の身体の神経とつながっているかのような感覚を持てるとのこと。

 

 さまざまなメカの操縦者や、繊細な技術が必要とされる職人に男が多い所以です。

 ガンダムなどの人間搭乗型ロボットもそれと同じ原理なのでしょう。

 

 この感覚を応用すると、連れ合いも自分の一部にしちゃえるのです。

 

 しかし、そういう男は、もし相手に先立たれると、自分の身体の一部を失ったような感覚にとらわれ、すぐに弱って早晩死んでしまうといいます。

 

 確かにそういう事例はいっぱいあるし、逆の例は極端に少ない。

 女は夫に先立たれても、弱るどころか、逆に元気になるもんね。

 

 「釣った魚にエサをやらない男」も、じつは精神的にはその魚のほうに依存して生きている。

 それにしてもなんであんなこと、言われたのかなぁ・・・。

 


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いつもちょっとクレイジーでいるためのスキル

  腰は8割方回復。痛みというより違和感になった。

 でもまだ長時間座っていると、立ち上がる時つらい。

 月曜日の完全復活をめざして、週末は少し走ったりしてリハビリに励もうと思う。

 

 それにしてもすっかりリズムが変わった。

 たかが1週間ながら安静を余儀なくされて、ほとんど家から出なかったけれど、それゆえか、本を読んでいても、テレビを見ていても、何か書いていていても、なんだか違う国、違う時代、違う世界へトリップしている気分になった。

 

 読書も仕事も創作も、時間を気にせずに没頭すると、時空を超えた旅に出掛けられる。

 頭だけは日常と違うリズム――変拍子で生きているようで、なんだか楽しい。

 またすぐにもとのリズムに戻ってしまうのだろうけど、

 こういう機会は時々もうけたほうがいいのだなと思う。

 

 齢を兼ねると、ついつい精神が平穏を求めて日常の中へ埋没しそうになる。

 なので日々、ここじゃない、どこかちがう時空に旅する機会を設けたい。

 いつも「ちょっとだけクレイジー」でいることが、自分が自分でいるための秘訣だ。

 

 でも、それを継続するためにはトレーニングして、日々スキルアップする必要がある。

 そのトレーニングの仕方は人それぞれだが、僕の場合はただノートに書く、ということをやっている。

 

 ブログやSNSとは別に専用のノートを作って、1日30分~1時間弱、手書きでぐちゃぐちゃ頭の中にドロドロしていることを書きつける。

 

 ブログやSNSは自分のメモでもあるけれど、公開している以上、人さまが読むものでもあるから、それなりに、できれば面白く読めるよう文章に気を遣う。

 が、こちらは誰にも見せないので、思い切りぐちゃぐちゃやる。

 

 大半はしょーもない与太話(ブログやSNSもそうだけど)や、愚痴やら不平

不満やらバカヤロー、ファック野郎!やら、夢見るユメオくんみたいなこと。

 

 しかし、たまに「おお、これは!」というひらめき・アイデア・見識・発見が訪れる。そうするとめちゃ嬉しい。

 机の前に座りながら、目の前の波を蹴って進む広大な海が開いたような、空に向かって羽ばたいたような、そんな気持ちになれる。

 人から見たら本当にぢじょぷぶか、こいつ?でしょうが。

 でもまぁ、それが毎日の気力の元素になっているのです。

 

 あなたも仕事にマンネリ感を覚えたり、SNSのやりとりに嫌になったり、とにかくつまんなくなっちゃったら、何らかの方法で「ちょいクレ」、やるといいと思います。

 

 でもあっち側へ行って帰ってこれなくならないように。

 日々の生活に支障をきたさない範囲でね。

 


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アマデウス・ボルトの敗北と最後っ屁

 

 普通にしているともう痛くないけど、ちょっと重いものを持ったりすると腰に響く。

 それに素早い動きやちょっと左右にひねると、やっぱり痛みが出る。

 長時間椅子に座っていると疲労の塊が腰に貼りついた感じになって、立ち上がる時はやっぱり少し痛い。

 

 という調子で、ぎっくり腰の回復度は7割弱といった感じ。

 完調になるのは来週初めかな。

 とはいえ、来週は取材や打ち合わせも入ってくるので、仕事にはもう着手。

 

 というわけでお盆休みを棒に振ったけど、異常気象が味方になって、涼しくて助かりました。

 

 それにしてもスポーツとはほぼ無縁の僕でさえ、こんな軽度のぎっくりで、あれこれ神経質になってしまうのだから、この間のロンドン陸上のボルト選手を見て、アスリートの体調管理は大変だろうなと改めて感じました。

 

 日本人はスポーツというと、根性ドラマ、努力のストーリーが大好きだけど、トップアスリートになれる能力は、9割以上は天性の才能によるもの。

 その比率は芸術家などよりもよほど高いらしい。

 

 一流選手の間では「あいつには絶対叶わない」ということが、脳の直感でわかってしまうのだそうです。

 

 だから世界のトップクラスともなれば、努力のしどころは、能力・技術を伸ばすことより、メンタルも含め、いかにベストコンディションを維持できるか、本番の舞台へ向けてドンピシャのタイミングで自分を最高の状態に持っていけるか。

 休ませるのか、鍛え直すのか、刺激を加えるのか・・・その「調整する努力」に集約されます。

 

 アスリートの肉体は超精密機械。

 どんな競技でも、あちこち痛めることはあるし、ほんのちょっとしたことで狂いが生じるので、本人もコーチも本当に大変だと思う。

 

 それこそ調整の最後のところは知識やノウハウというよりも、スピリチュアルな領域の話になるのではないだろうか。

 

 ボルトも神に愛でられた「アマデウス」として、勝負の舞台では常に走りの神様が降臨していたのだろうけど、最後の最後は舞い降りなかった。

 

 でも僕はそれで良かったと思う。

 勝ち続けてきた天才が、有終の美を飾り、華々しく舞台から退場するなんて、なんだかウソっぽい。

 敗者になって、自分の時代は終わったことを確認して去っていくのが、真っ当な在り方だと思います。

 

 それでも頭を垂れず、最後っ屁のように、ツイッターでノー天気なコメントを残して退場したボルトは、オナラの残り香までスーパースターだった。

 

 今度は噂に聞える、彼の若き従妹が、颯爽とトラックを駆け抜けるのを待ってるぞ。

 

 その前に日本勢にがんばってほしいけどね。

 


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朝10時台のスーパーで年寄りの気持ちになる

 

 ぎっくり腰が多少回復してきたので、今朝は家から歩いて10分くらいのスーパーまで、リハビリを兼ねて買い物に行きました。

 雨のせいもあるけど、さっさと歩けないので時間的には1・5倍かかりました。

 

 午前10時過ぎのスーパーは6~7割くらいはお年寄りという感じ。

 たいていはカートを押してゆっくり店内を回っている。

 普段だと普段面倒臭くて、よほど大量買いする時でなければ、カートなんて使わないのだが、今日はキャベツなど、ちょっと重量のある野菜や果物をいくつかカゴに放り込むと、もう持っているのがきつくなって(腰が痛くなってきて)カートのお世話になりました。

 

 そうやって買物しながら気が付いたのは、腰が悪いと踏ん張れんばくて身体が不安定だし、素早く身をよじったり、かわしたりできない、ということ。

 なので、いきなり目の前を横切られるとか、後ろや横から身体を寄せられたりすると結構怖いのです。

 自分も普段は逆の立場でそういうことをやって、そんなつもりはなくてもお年寄りや体の不自由な人たちを怖がらせているんだろうなぁと思いました。

 

 また、お年寄りや体の不自由な人たちが、この時間帯に多い理由も分かります。

 お昼とか夕方の混んでいる時間帯に来店して、のろのろ歩いていると、上記のような危険な目に合うリスクが高まる。

 

 それ以前に、忙しくて急いで買物しなきゃいけない若いもん+健康な人たちに嫌な顔をされる、あるいは表情に出さなくても、そうした人たちの脳から出るイライラ波をキャッチして申し訳なく思ってしまう。

 

 したがって、この時間帯が気兼ねなく、ゆっくり安心して買い物できるのです。

 

 やっぱりそういうことは自分も同じ立場になってみないと、なかなか気づけないもの。

 最近はネットを使った宅配サービスなんかもあるけど、余分にお金もかかるだろうし、ちょっとぐらい具合が悪くても、店まで来て自分の目で実物を見て買いたいもんね。

 それにたとえ日用品の買い出しとはいえ、買物するのは気晴らしであり、ささやかな娯楽でもあるし。

 そうした精神的な効用もある。

 

 お年寄りがのびのびできる時間と居場所はちゃんと確保して、大事にすべきだと思いつつ、帰宅後はぎっくりの療養です。

 まだ2~3日はリハビリが必要だ。

 


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ぎっくり腰の夏休み

 

 ぎっくり腰になりました。

 連休初日の夕方、ちょっとそこまで出かけようと思って、玄関の上がり框に座って新しいスニーカーのひもを通していて、体を起こした途端にグキッ!

 

 少し休めばどうにかなるかと思って、1時間後、もういいかと思って立ち上がった時にもう一度稲妻が走ってノックダウン。

 

 以降、カミさんに鍼を打ってもらい、腰骨のあたりをぎゅっとひもで縛って療養。

 

 初日は寝てても痛いし、立ってトイレまで行くので精一杯。

 2日目はよたよた、家の中をつかまり立ちして歩く1歳児のような状態。

 3日目になってやっと痛みが薄れてきて少し家事もできるようになり、今日あたりからやっと近所まで出歩けるようになった。

 

 デスクワークも2日目までは1時間が限度だけど、昨日あたりから徐々に時間を伸ばしていけるようになった。

 

 鍼はやってもらったものの、あとはできるだけ安静にして自然治癒するのを待つしかないようで、完治するにはあと2~3日かかりそうです。

 

 というわけで、せっかくの休みでしたがどこにも行けず、家で寝てばかり。

 来週は忙しくなるので、今週いっぱい休むことにしました。

 

 せっかくの夏休みをフイにしたわけですが、

 でも休みの時でラッキー。

 普段読み切れずに溜まっていた本を次から次へと読めてラッキー。

 おまけに夏の真っ盛りだというのに、この数日、東京は避暑地のような涼しさでまたまたラッキー。

 

 ぎっくり腰は、重い物を持ったとか、何か大きな負荷が掛かってその衝撃でなるのではなく、蓄積した疲労と下半身の冷えなどの条件が重なってなるのだそうです。

 

 なのでこれといった予防法はないのですが、疲労感があるときに何か違和感を感じたら、ちょっと注意したほうがいい。

 僕もその前の週あたりから前兆のようなものがあり、ちょっと腰に痛みというか、重さを感じていました。

 あと、夏とは言え、気がつかないうちに冷房などで下半身を冷やしてしまっていることがあるので、それにも注意したほうがいいようです。

 

 ではまだお休みのある人、よい夏休みを。

 


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先祖ストーリー④:父方のじいちゃん:明治・大正のフーテンの寅平

 

 お盆にちなんで先祖の話。

 じいちゃん・ばあちゃんの話です。

 最終回は父方の祖父の巻。

 

●幻のようなじいちゃん像

 

 ちょうど僕が小学校に入学するときに亡くなったおじいちゃんは、ずいぶん僕を可愛がってくれた、と父や母から聞きましたが、あまり憶えていません。

 

 近所の公園に散歩に連れて行ってもらったこととか、縁側でひなたぼっこをしながらザクロやイチジクの樹を見ていたことなど、かすかな記憶はあるものの、それが現実のことだったのか夢のことだったのか、よくわからない程度です。

 

 そんな幻のような像しか残っていないのだけど、4人の祖父母の中で一番興味を覚えるのがこの人なのです。

 

●日本放浪の旅人

 

 彼の名前は寅平といって、明治24年(1890年)の寅年生まれ。

 名古屋にやってきたのは昭和になってから――40歳を過ぎた頃のようです。

 というのはその頃、祖母と結婚し、父をはじめ子供を8人もうけているからです。

 名古屋に来てからは会社勤めをしていたらしいのですが、それ以前はいったいどこで何の仕事をしながら、どう暮らしていたのかさっぱりわからない。

 

 生前の父や叔父の話でよく出たのは、日本のあちこちを放浪してらしいこと。

 けっこう女たらしで、どこかに異母兄弟がいるかもしれないということ。

 異母兄弟の話はちょっと眉唾ものですが、仕事を求めてなのか、そういう性癖があったのかは、それこそ「フーテンの寅さん」のようにあちこちの土地を渡り歩いていたというのは本当らしい。

 

 僕も高校卒で家を出て、海外暮らしをしていたりしたので「おまえは隔世遺伝でじいちゃんに似たのだ」とよく言われました。

 

●いずれ寅平像を創り上げる

 

 これは僕の勝手な想像だけど、どこか丁稚奉公に出て、そこをクビになったか、逃げだしたかした後、露店とか見世物小屋みたいなところで糊口をしのいでいるうちに放浪生活が始まったのではないかと思います。

 

 どうせ事実がわからないのなら、いっそ明治・大正時代を舞台に、このじいちゃんを主人公にした物語を書いてみようかと思っています。

 そうすることで、自分にとっての祖父像を作り上げるのもアリではないかな、と思うのです。

 寅平じいちゃん、まだじいちゃんが亡くなった齢まではかなりあるのでがんばりmす。

 いずれまた会いましょう。

 

●家族メモリー

 

 というわけで、じいさん・ばあさんのことを回顧してきたけど、その子供たちもこの10年ほどの間にち次々と亡くなってしまって、父方の8人きょうだいのうち、存命しているのは叔父さんひとり、母方の8人きょうだいは、母を含め3人存命。

 

 僕が育てられ、幼い頃に暮らしていた世界は、もうほとんど跡形もなく消え去ろうとしています。

 世の中もあの昭和の時代とはまったく違った世界に変りつつあります。

 

 だから自分の記憶の中にしか残っている人たちを大事にしていきたいと思っています。

 


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先祖ストーリー③:父方のばあちゃん:狭い家の中の女同士のバトル

 

 お盆ということで先祖の話。

 じいちゃん・ばあちゃんの話です。

 その②は父方の祖母の巻。

 

●当時のわが家の住環境

 

 4人の祖父母の中でいちばん長く一緒に時間を過ごした人、また、いちばん長く生きていた人です。

 といっても亡くなったのは僕が中学2年の時で、かれこれ40年以上前。14年ほどの間、同じ家で暮らしていたことになります。

 

 実家は僕が小学6年生の夏に建て直しましたが、古い家は6畳が三つきり。玄関と台所は土間になっており、ちょっとした裏庭がついているというつくり。トイレは汲み取り式、お風呂は最初ありませんでしたが、のちに家の外にちょっとした小屋を作って取り付けた、という具合でした。

 

 その大して広くもない家に祖父母はもちろん、複数の叔父や叔母が同居していたり、時々、父の仕事の関係の人なのか、よく関係性の分からない人たちも出入りし寝泊りし、多い時は10人くらいで暮らしていたと思います。

 

 そうした何やら混とんとした環境はかなり特殊なことなのだろうと思っていましたが、いろいろ話を聞くと、昭和40年代頃までは似たような家庭も少なくなかったようです。

 そういえば僕の従妹や友だちとか、6畳一間のアパートに5人も6人も一緒に雑魚寝している家庭はザラにありました。

 

 おおらかと言えば、おおらか。いい加減と言えば、いい加減。

 子供だったから気にしなかったけど、大人のプライバシーはいったいどうなっていたのか?

 

●母VS祖母・叔母の目に見えないバトル

 

 というわけで、うるさいガキはいるわ、小姑はいるわ、年寄りはいるわで、うちの母親はしじゅうイライラしていたような記憶があります。

 

 あんまりおばあちゃんとの相性も良くなくて、あからさまにぶつかることはなかったけど、いろいろお互いに牽制し合っていた。

 

 おばあちゃんは一応、母を立てて引くのですが、やはり不満を抱えていたようで、時々、ぶつくさこぼしていました。

 

 僕にはやさしくて、よくお菓子とかお土産とか買ってくれたのだけど、母はそれが気に入らなかった。

 こっちからも愚痴・陰口が聞こえてきます。

 

 ついでに言っちゃうと、おばあちゃんの買ってくれるお菓子とかお土産は、どうも口に合わないものが多かった。

 そのへんの味覚の違い・好みの違いが、明治生まれの人と昭和生まれの小僧とのギャップになっていた。

 だからごちそうになったありがたみがイマイチ薄いんだよね。

 こんな自分勝手なことを言ってごめんなさい・・・と今は思うけど。

 

 また、しばらくの間、一緒に住んでいた叔母がいて、この人も僕を喫茶店に連れて行ってごちそうしてくれたり、よくお菓子をくれたりしていました。

 ちなみにこちらは若くてハイカラなので、感覚が合い、いつも好きなものを提供してくれ、強烈な印象がある。

 

 なので、母はこの二人が息子をスポイルしていると思っていて(実際、それは当たっていましたが)、神経質になっていました。

 でもその一方で、手のかかる、うるさいガキの面倒を見てくれて助かる・・・という側面もあったのですが。

 

 今にして思えば、僕という小僧をめぐって狭い家の中で、目に見えない女のバトルが繰り広げられていたわけです。

 

 僕としては双方の悪口を聞くのは気持ちよくなかっけど、それを我慢すればいろいろ報酬が入るという、子どもならではの打算があって、おばあちゃんや叔母さんの施しを素直に受け入れていました。

 

 だから思い返すと、このおばあちゃんに対する感情はけっこう複雑で、好きな部分と嫌いな部分がまぜこぜです。

 

●居場所を失くしたおばあちゃん

 

 新しい家になってからは、叔父や叔母たちはめいめい別に住むことになり、一緒に住むのは僕たちの親子とおばあちゃんだけになりました。

 

 おばあちゃんには仏壇のある広々とした六畳間が当てがわれ、母もそんなにイライラすることが減り、双方のストレスも解消されたのだろうと思います。

 けれどもこの頃から急速に祖母の影は薄くなっていきました。

 それから2年程のちに亡くなったのですが、その2年程の彼女の記憶がほとんど残っていない。

 

 年寄りは長年暮らしていた環境から新しい環境に移ると、たとえそれがどんなに快適な場だとしても居場所を失ったような感覚を持つ・・・と言われます。

 また、この世を去る時期を脳(潜在意識)が事前察知すると、徐々に霊魂と肉体が分離し始める・・・とう説も。

 そんな現象が祖母にも起こっていたのかもしれません。

 

 でもごく単純に、その頃、僕はもう小学6年生になっており、自分の部屋ももらってそこで時間を過ごすようになっていたので、祖母への関心が薄れていたからでないかとも思います。

 

 それにしても、何だかここでもあまり良い孫ではなかった感が強いなぁ。

 こちらのおばあちゃんにも謝らなきゃいけないようです。

 

 to be continue・・・

 


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先祖ストーリー②:母方のばあちゃん:7人の娘たちとの結束

 

 お盆なので先祖の話を書いています。

 先祖と言っても、じいちゃん・ばあちゃんまでしか遡れないけど。

 その②は母方の祖母の巻。

 

●夫を失っても娘がいるから大丈夫?

 

 僕の母の証言を真に受けるなら、母方の祖父、つまり母の父はバクチ好きで、いい加減で、若くして死んでしまったので、その妻だった祖母はさぞや苦労した…とは思いますが、じつはそうでもなかったのかな、とも感じています。

 

 たしかにお金はなくて貧乏だったかも知れないけど、傍目で見るほど不幸で困窮しているというわけでもなかった。

 

 なぜなら彼女には7人の娘という強い味方がいた。つまり、僕の母やその姉妹――伯母・叔母たちです。

 おまけに末っ子には黒一点の可愛い息子もいた。

 この子供たちは明るく祖母を支えていたと思います。

 祖母の思い出は、その家まるごとセットの思い出です。

 

●お正月は女の園

 

 僕は幼い頃、毎年正月の2日・3日には必ず母と一緒に一泊二日で祖母の家に行っていました。

 祖母の家は名古屋市中村区の「中村公園」の近くにあったので、僕らは「中村のおばあちゃん」と呼んでいました。

 町中ではありましたが、当時はまだ畑もけっこうたくさんありました。

 

 その頃(昭和30年代後半~40年代前半)、すでに7人の娘のうち、5人は嫁に行っていましたが、必ず示し合わせて全員集合し、中村の家は女の園と化していました。

 

 当時、20代前半だった末っ子(僕の叔父さん)はそれを見越して、必ずスキー旅行に出かけており、僕の記憶の中ではほとんどいたことがありません。

 

 なので男と言えば、僕と従妹の二人のチビだけ。当然、そんなの男とみなされません。

 

 それで女衆は祖母を囲んで、ここぞとばかりのごちそう――すき焼き――をつつきながら、ガールズトークに花を咲かせるのです。

 

 何を話していたのかはもちろん憶えてないけど、その名古屋弁で奏でられるサウンドというか、音色だけは耳の奥にしっかり残っていて、思い起こすとそれが明るく温かく、力強い音楽のように響くのです。

 まさしく女系家族のパワーを感じます。

 

●祖母の家の思い出

 

 このすき焼きを食べるときのちゃぶ台が面白くて、真ん中の丸い板がスポンと抜けるようになっている、すると真ん中に丸い穴の開いたドーナツみたいなちゃぶ台になる。そして、そこにスポンとガス台とすき焼き鍋をはめ込んでグツグツさせながらみんなでつつくのです。

 

 上の伯母二人は近所に住んでいて、すき焼きを食べ終えると帰っていくのだけど、この二人の嫁ぎ先が地元の大きな市場や惣菜店を営んでいる家(僕は「市場のおばさん」とか、「天ぷら屋のおばさん」とか呼んでいた)で、どちらも割と裕福な商家だったようで、それで祖母もずいぶん助かったのだと思います。

 

 中村の祖母の家は本当にボロ家で、子どもにはトイレ――というより、まさしく便所!――が暗くてすごく怖かった。

 もちろん汲み取り式で、下からなんか出てくるんじゃないかと、やむなく大きいほうをするときはいつもヒヤヒヤしていました。

 

 そして必ず一泊していったのだけど、障子や襖もボロボロで、布団も古いもの。

 今の自分だったら我慢できるかどうか自信がないけど、なぜか子供の僕にはそれらがとても心地よく、面白かった。

 

 齢の近い従妹たちと一緒に遊べた、ということもあるのだろうけど、あの家を包む匂い・空気が大好きで、泊まるのを楽しみにしていました。

 

●かも南蛮の悔恨

 

 そんなわけで、中村のおばあちゃんはその家の主として記憶に焼き付けられており、人間としてどうだったのか、ということは今いちよく分かりません。

 そうしょっちゅう会うわけでもないので、孫には優しい人でした。

 ただ、僕の中には一つ罪悪感が残っています。

 

 ひどい状態だった古い家はさすがに住むのに限界が来ていたのか、祖母は叔父さんとともにすぐ近所の新しい家に引っ越しました。

 僕が小学校の高学年になった頃です。

 

 で、母とその新しい家に行ったのですが違和感を覚え、また会うのを楽しみにしていた従妹たちも来ていなかったので、僕は機嫌が悪く、ふてくされていました。

 

 そんな僕に祖母が「かも南蛮食べるか?」と聞いてきたのです。

 カモナンバンって、その時は何のことか分からなかったので、思わず「いらないよ、そんなもの!」と言い返したら、祖母は悲しそうな顔をしました。

 それで僕の機嫌が悪いことを見て取り、母は早めに予定を切り上げて帰ることにしました。

 

 帰りのバスの中で母にぶつくさ言われた覚えがありますが、依然として僕はふてくされたままでした。

 その時はもちろん、思いもしなかったけど、これが生きている祖母と会った最後の機会になりました。

 以降、その家に行くことはなく、僕が中学に入った年に祖母は亡くなったのです。

 

 結局、葬式にも出ぜ、祖母は記憶のなかったのですが、あれから40年以上たった今でも、そば屋のメニューで「かも南蛮」の文字を見ると祖母の顔が浮かびます。

 申し訳なかったなぁ。せっかくいい思いをさせてもらったのに。おばあちゃん、ごめんなさい・・・と心の中で謝っています。

 

 to be continue・・・

 


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先祖ストーリー①:バクチにハマって貧乏暮らし:娘たちに疎んじられた母方のじいちゃん

 

 お盆なので、先祖の話を書こうと思います。

 先祖と言っても、うちは父方も母方も由緒正しき家柄ではないし、家系図なんてものも存在しません。

 親に訊いてみたこともありますが、おおかたどっかのビンボーな百姓だったんだろ、という程度の回答でした。

 要はそんなことに関心のある人たちではないのです、

 

 なので、先祖と言っても僕に語れるのは祖父・祖母のことくらいです。

 

●明治生まれのジジ・ババは異国の住人

 

 最近は少子高齢化のせいで、3世代の距離が縮まり、孫とじいちゃん・ばあちゃんの親密度はぐんぐん高まっています。

 

 けど、僕らの世代にとって、祖父・祖母は明治時代に生まれて、今の中学生くらいの年齢から働き出し、貧乏生活と軍国化の波を体験し、戦争時代は社会の中核を担い、戦争が終わってやっと平和になって豊かになってきたなと思ったら、もう人生終り・・・といった境遇の人たちです。

 

 彼らの生きていたそんな時代は、僕ら現代の日本人にとってまるで異国のようです。

 

 生活の基本である衣食住にしても、仕事にしても娯楽にしても、まったく違う文化の国の人たちだと言えます。

 もちろん、同じ日本人ではあるのだけれど、今の3世代のように共有できるものは極めて少ない。

 吸っている時代の空気・生活空間の空気がまったく異なるのです。

 

●サザエさんも、ちびまる子ちゃんもファンタジー

 

 日曜の夜のフジテレビのファミリーアニメ2作品はノスタルジーもあるけど、一種のファンタジーとして楽しまれているのだと思います。

 

 原作が戦後間もなく新聞の四コマ漫画として始まった「サザエさん」。

 アニメももう45年くらい続いていて(放送開始の頃も見ています)、表面的なライフスタイルは時代に合わせて現代風にしているけど、家族や近所の人たちとのつながり方など、本質的な部分はそのままキープしています。

 

 波平さんや舟さんは、ほとんど僕のじいちゃん・ばあちゃん世代的な存在です。

 

 いまやこうした「典型的な日本人の家族」とされた暮らしはほとんど幻想であり、そういう意味では「日本むかしばなし」に匹敵するのではないかと思います。

 

 昭和四〇年代が舞台の「ちびまる子ちゃん」。

 こちらは僕らとほぼ同世代で、僕は単純に自分の子供時代と重ね合わせて見られます。

 けど、若い世代の人たちにとっては、日常と地続できでありつつも、ちょっと浮き上がった「プチ・ファンタジー」のように映るのではないでしょうか。

 モモエちゃんだの、ヒデキだの、リンダだの伝説のアイドル(みんなまだ存命だけど)もいっぱい出てくるしね。

 

●語り部おらず、謎に包まれた母方のじいちゃん

 

 というわけで前置きが長くなってしまったけど、そんな異国の民のじいちゃん・ばあちゃんの話。

 当然のことながら、ぜんぶで四人います。

 

 まず母方の祖父。つまり母親の父。

 この人のことは僕はまるで知らない。

 というのは僕が生まれる前に、すでにこの世にいなかったから。

 割と若い頃――戦後10年も経たないうちに亡くなったらしい。

 

 子供の頃は何とも思っていなかったけど、割と最近いなってから気になって、何度か母に訊いてみたことがありますが、あまり話してくれません。

 

 「いい加減な人だった」

 

 というのが娘である母の印象。

 その言い方もずいぶんぶっきらぼう。

 

 母のきょうだういは末っ子は男子だが、その上は彼女を含め、女子ばかり7人。

 ちなみに母は双子の片割れです。

 

 それだけ子供を設けたのだから、それなりの結婚生活があったと思うのですが、どうも彼女の中での父親は好ましい存在ではなかったようで、思い出したくないし、話したくもないようです。

 

 ちらっとわかったのはバクチ好きだったらしい、ということ。

 そのため、家にお金がなく、母たちきょうだいは早くから働いて生計を立てなくてはならなかったようです。

 

 今と違って、男女差別が激しく、女子の給料は極めて低いのが一般的だった戦前の日本国にあって、当時の窮乏生活の元凶だった父=僕のじいさんに対しては恨みはあれど、愛情らしきものはほとんど残ってないのかもしれません。

 

 夫(=僕の父)は、そんな自分の父親とはほぼ正反対で、まじめに働いて金はしっかり稼ぐし、バクチも愛嬌程度にしかやらない人だったので、ずいぶん幸せな思いをしたと言います。

 

●じつはお洒落な遊び人?

 

 ちなみにこの女系家族の唯一の男子である、母の弟(=僕の叔父)は、割と二枚目の優男で、スキーなどのアウトドアスポーツを趣味にするなど、若い頃はちょっとシティボーイ風のイメージがありました。

 彼だけ昭和二けた生まれだし、末っ子だったので、お姉さんたちの癒しと希望の光として、ずいぶん可愛がられたのでしょう。

 

 会ったこともない母方のじいちゃんのことを想像するには、息子であるこの叔父さんのイメージを材料とするしかありません。

 なので、割としゃれた遊び人だったのかなぁ・・・と、良いほうへ考えます。

 母は嫌っているみたいですが、同じ男のせいか、僕はどこか彼に親近感を感じのです。

 ぜんぜん知らないんだけど、いちおう孫として。

 to be continue・・・

 


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ナマケモノリズムで未来型脳を養生

 

 しばらくお休みなのでのびのび。

 しかも涼しいので超ハッピー。

 とくに出かける予定も立ててないので、時間を意識する必要もない。

 

 こういう機会があると、このタイムレスってこと、かなり大事だな~と感じます。

 

 普段、結構、時間に追われちゃているので、たとえ遊びにせよ、時間を気にしなくちゃいけない状況だと、あんまし休みの意味がない。

 

 僕たちは「タイム・イズ・マネー」など、いかに少ない時間でたくさんの仕事をするか、生産の効率性という価値観にどうしてもとらわれています。

 

 今でも、いかに効率的に仕事をするかとか、時間節約術といった情報に対するニーズが高いけど、そういう1のって、きっとこの10年の間に飛躍的に普及するであろうAI技術によって、ほとんど価値のないものになると思います。

 

 だって効率性という部分では、24時間365日、休みがなくても疲れ知らずで働けるAIに人間がかなうはずがない。

 

 むかしむかし――と言っても、ほんの100年も経たない昔は、穴掘りとか、重たいものを運ぶとか、吊り上げるとか、といった重労働は人間がみんなやっていました。

 今の基準で言えば、ウェイトリフティングとかハンマー投げの選手に相当するような強靭な肉体を持つ男たちがうじゃうじゃいて、彼らがそうした労働を担っていました。

 けど、それが今や、みんな機械に取って代わられた。

 

 それと同じことが、そんなに深い思考を必要としない、情報整理の仕事――つまり、今世の中にある大半のデスクワークの分野で起こるわけです。

 

 僕たちが知的労働・頭脳労働だと思っている仕事は、みんなAIにお任せでき、単純労働と同じになってしまう。

 

 そう遠くない未来――あなたも僕もまだまだ元気で働いている時代には、人間がやる仕事はそうした「単純労働」とは違う質のものになります。

 抽象的な言い方しかできんあいけど、それはきっと、もっと人の心に寄り添う仕事だ。

 

 近代的な価値観に囚われている僕たちは、どうしても休むことは罪悪で、睡眠不足でろくに頭が回らなくても懸命にがんばることが美徳なんだと思いがち。

 だけど、そうした、これまで社会に「大事だよ」とされてきたものは、これまた社会とか企業とかの都合で鼻チンされ、くしゃくしゃっと丸めてポイしてされてしまう。

 

 だから僕たちは自分の脳を変えるべきです。

 ちゃんと休んで、ちゃんと眠って、脳の新しい可能性を引き出すよう努めるべきです。

 この夏休みで日常と違う生活を送ることで、なんだか自分の身体のリズムが変わった気分になります。

 

 というわけで、気分次第で、止まっている創作に手を付けたり、新しい企画や9月のイベントの台本を書き始めるかもしれないけど、とりあえずナマケモノリズムでGo Ahead。

 


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国会図書館は東京のど真ん中の避暑地・隠れ家

 

 「月刊仏事」の新しい連載企画のリサーチのため、国会図書館へ。

 閉館時間の午後7時近くに表に出ると、夏の宵闇とセミの合唱に包まれていました。

 国会図書館周辺は広々していて緑も多く、吹き抜ける風もけっこう涼しくて爽やか。

 正面に浮かび上がる議事堂もちょっと幻想的です。

 

 国会図書館は静かで良いところです。

 もちろん本(蔵書数は日本一!)が読めるんだけど、他のお客さんや働いているスタッフの人たちを見たり、食堂や売店を覗いてみるのも面白い。

 

 なんというか、街中と一味違っている。

 みんなしごくまともで仕事や勉強が好きだけど、ちょっとひとひねりしている、日常とズレた世界にいるという感じ。

 

 そんなわけでこのあたりに来たら、ぜひ一度寄ってみてください。

 身分証明さえあれば、すぐに利用カードを作れます。

 

 夏休みはヒマで、混んでいるところはイヤだ。どこにも行くところがな~い!という人には結構おすすめです。

 意外な穴場というか、東京のど真ん中の避暑地・隠れ家みたいな感じです。

 

 中には食堂やコンビニやカフェもあるし、ウォータークーラーの水も飲み放題。

 お金はほとんどかかりません。

 お盆も通常通り営業で、日祝と第3水曜(今月は16日)以外はあいてます。

 もしかしたら、あなたにとってのパワースポットになるかも。

 


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カエル男のスキンケロ情報

 ここでよくカエルのことを書いているせいか、もしかしたら、僕はカエル男化しているのではないだろうか?

 と最近、疑念にかられることがある。

 

 9月に八王子でイベントの仕事があるので、今日は午後からいろいろ下見と打ち合わせをやってきた。

 1時に京王堀之内駅に着くと、青空が広がり、気温37度超。

 思わず駅のコンビニでウィルキンソンの炭酸水を買ってシュワシュワのやつをゴクゴク飲み干した。

 

 が、台風が来た時のひどい蒸し暑さと違って、割とカラッとしていると感じる。

 みんな数字を聞いて大騒ぎするけど、僕としては32~3度を超えちゃうと、それより上はそう大して変わらない感じがする。

 これが40度ちかくなればまた違うのだろうけど。

 

 で、堀之内駅からプロデューサー氏といっしょに車で5分ほどのガーデンデザイナーのお店を下見し、14時半ごろ、再び車に乗って20分ほど走って八王子駅方面へ。

 

 八王子駅からほど近い冨士森公園というのが、9月のイベントの会場なのだが、そこで降りると20分前とは空気がガラッと変わっていた。

 日差しがなくなったのでさっきより気温は下がっている感じがするのだが、湿気をたっぷり含んだ空気がじとっと肌にまつわりつくのである。

 

 カエルなら跳び上がって喜んでケロケロっと鳴き出すところだが、僕にとってはただ気持ち悪いばかりで、「もうすぐ降ってくる」と訴えた。

 で、公園を歩き回って10分もたたないうちに落ちてきて、3時のおやつの時間には思いっきりザアザアぶりに。

 

 他愛のない話だけど、自分の肌が天気の急変に鋭敏に反応したことは、ちょっと面白かった。

 

 皮膚は第2の脳と言われています。

 子どもの直観力が鋭いのも、皮膚が繊細で鋭敏だから。

 言語化されない、可視化できない無数の情報をキャッチすることができる。

 

 子どもと同等に――とまではいかないだろうけど、自分の皮膚感覚を信頼することは、ネットなどで溢れる情報の洪水に流されないためにも割と大事なことだと思います。

 カエル男・カエル女になるのも悪くない。

 

 余談ですが、荷物の2ヶ口、3ヶ口というのを「にケロ、さんケロ、よんケロ、ごケロ」と呼ぶ人たちといっしょに働いています。

 みんなケロケロ言って、カエルの合唱をしているような職場で僕は大好きです。

 


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ロボットみたいなプロフェッショナルより、ヘタで未熟な若僧のほうが好印象という話を聞いた

●あえて若者を使うという葬儀社の社長

 

 現場の担当者はできるだけ若い社員に任せるようにしています。

 ベテランがやったほうが安心感はあるのですが、あまりに手慣れた感じ、こなれたやり方で仕事をすると、ルーティンワーク的、ビジネスライク的といった印象を与え、マイナス評価に繋がってしまいます。

 それよりも息子・娘・孫のような若者が一生懸命奮闘している姿を見せたほうが年輩の喪主の胸に響く。

 少々の失敗も大目に見てくれます。

 

  「月刊仏事」の電話インタビューで、こんなことを話してくれたのは秋田の老舗葬儀社の社長さん。

 話し声からはのんびりした感じのキャラかなと思ったが、なかなか経営者としてキレてる、と見た。

 すごく納得できる話だ。

 僕がお客の立場でもまったく同じように感じると思う。

 

 若者よ、失敗をおそれず、がんばれ!

 おじさん、おばさんはきみらに甘いよ、やさしいよ。

 逆に言えば、若いということは、ただそれだけで大目に見させる才能があるということです。

 ただ30も半ばを過ぎちゃうと、なかなかそうはいかなくなるけどね。

 

●あなたのやっている仕事、磨いた技術は本当に価値があるのか?

 

 もうひとつ―ー

 なんだか仕事に対する価値観が変わってきているような気がする。

 この話と似たようなことを、以前、民家での看取り看護をやっている人からも聞いたことがあります。

 

 いわく「葬儀屋さんはプロだから、なんでもテキパキ仕事をこなしちゃう・・・」

 

 その人から見れば、あまりに無駄のない、スムージーなその仕事ぶりが、なんだか心がカラッポのロボットの動作のように映ってしまったのです。

 実際にやっているスタッフはちゃんと心を込めているつもりでも、長年培った技術は自然と身体を合理的に動かしてしまう。

 

 難しいものです。

 きっと人は心のどこかで、昔あった隣組の人情というか、近所の人たち(もちろん素人)が集まって、みんなで亡くなった人を送ってあげる――そうしたお金を介さない、心だけでやる仕事ぶりを葬儀屋さんに求めているのかな?と考えました。

 

●これは葬儀屋さんだけの問題?

 

 さらに、これは葬儀屋さんだけの問題だろうか?とも考える。

 

 従来はうまくスムーズにテキパキ仕事をこなすのがプロだし、「できる人」だったが、今はそうとは限らない。

 

 特にサービス業では、そういうのは嫌われちゃったり、つまらないと思われたりして、むしろ素人っぽい感じでやったほうが受けたりもする。

 

 文章なんかでもやたら流麗だったり、きっちりまとまった文章よりも、へたくそだったり不器用だったり、ちょっと拙いくらいのほうが気持ちが伝わる、と言われたりもする。

 その場合、気持ちを伝えるのが最終目標なので、うまい文章よりヘタな文章のほうが価値が高い、となるのです。

 

●もしダメなら勇気を出してリセットできるか?

 

 もちろん業種やその仕事の種類やTPO、お客さんが究極的に何を求めているかに寄るんだけど、人の心に響く、本当に人の役に立つ「プロの仕事」ってどういうものか、

 自分のスキルは今の状態、あるいは自分がより磨き上げようと指向している方向でいいのか、

 考え直す時代がきているのではないかと思います。

 

 そして多くは勇気を持ってリセットする必要があるのかも。

 


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がんばって休む? お盆休み

 

 フリーランスの特権を活かして、お盆の頃の夏休みをずっと避けて生きてきました。

 このくそ暑い時期に混雑しているところに行くのはイヤだ。

 子どもがチビの時もこれを貫き通し、6月の夏休み、7月の夏休み、9月の夏休みもやってきました。

 しかし、この数年はそれがどうもうまくいかず、ほとんど勤め人の方々と同じスケジュールで動いてしまっている。

 

 今年は絶対ずらしてちょっと長い夏休みをーーと画策。

 レギュラーの仕事もお盆休み前まで引っ張らず、早く仕上げちゃおうという作戦も立てていたものの、他にもいろいろ入ってきて、ギリギリまでかかってしまっている。

 

 というわけで結局、今年の夏休みは週末の祭日から1週間となり、世間と丸かぶり。

 どっか行こうか、とも検討したが、混んでいると疲れるしね・・・ということで、結局、家で養生することになりそうです。

 

 人混みにはホント耐久性がなくなりました。

 昨日、ちらっと阿佐ヶ谷の七夕祭りに行っただけでも当たってしまった。

 でも、お勤めの人たちはこの時期しかないんですね。

 貴重なお休みを、家族で楽しく過ごすためにがんばらなくては……休むのにもがんばるというのはヘンなんだけどね。

 そして、休みが終わるとドドッと大波のごとく仕事が打ち寄せる。

 休みの間にその準備もしとかないと。

 

 皆さん、良い夏休みを。

 明日のためにたっぷり頭をナマケモノにしましょう。

 


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町会・商店会の世界ではアラ還でも「青年部」

 

 印刷の仕事をやっているIさんの住む初台・幡ヶ谷のあたりはお祭りが盛んな町です。

 新宿からすぐの町だが、BigCityのお膝元にも関わらず、下町情緒があるのです。

 それは地元の商店街に元気があるから。初台には都内では高円寺に次ぐ歴史を誇る阿波踊りがあるし、Iさんの町会だか商店会でもでっかいお神輿が出動。町会だか商店会の役員でもあるIさんも、もちろん参戦しているそうです。

 

 このIさんが所属するのは「青年部」。彼は僕より少し上で、間もなく60に手が届くところ。いわゆる「アラ還」――around還暦です。

 これは特別なケースではなく、日本全国どれくらいこうした町会・商店会があるかは知りませんが、そのほとんどが同じような状況。町会・商店会では40代・50代・60代まで行っても「青年」なのです。

 

 要はそれだけ構成メンバーがハンパなく高齢化しているということで、会社を定年退職する齢(普通、メンバーは自営業の人がほとんどなので定年退職というのはないのですが)になっても「青年」という時代になってしまった。

 

 仕事をリタイアしたら社会に、地域に貢献しよう、ということはだいぶ前から言われてきましたが、そこにはどこかで悠々自適の生活になるのだから、その余裕の範囲でやろうね。それがあなたの生きがい、あなたの新しい存在感になるのだから――といった、わりと悠長なニュアンスが含まれていたような気がします。

 

 けど、そんな余裕のある人は今や少数派ではないでしょうか?

 Iさんも夜、アルバイトをしながら、その役員の仕事をしているので、なかなか大変そうです。

 

 地域貢献、社会貢献、リタイア後の生きがい、新しい存在感――それらはもちろん大事なのだけど、これからの時代の高齢者(60代はまだ高齢者と呼ばない?)は、まだまだ生活に必要なお金、食い扶持を稼ぐ必要もある。それもかなりシリアスに。

 そうした状況と、どう折り合いをつければいいか、僕も含め、生活者全般の大きなテーマになりそうな気がします。

 

 かつては還暦を過ぎれば人生のまとめを考える年代でしたが、今やまだ道半ば。

 へたをすれば、ゴールよりもスタートに近いポイントだったりして。

 そういう意味での青年は、「わくわく」もするし、「やれやれ」とも感じます。

 

 若造でいられるのは良いことか、悪いことか。

 まだまだ心も体も鍛えなくてはなりませぬ。

 そういえば、今年はまたお神輿担げるなぁ・・・。

 


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船上のワーキング

 

  昨日、テレビでカリブ海クルーズのドキュメンタリーをやっていたのでチラ見しました。

 ドキュメンタリーと言っても旅番組っぽい気楽なもの。

 

 でかい客船なんだけど、大金持ちの豪華旅行という感じではなく、もっとカジュアルなもの。最初から見てなかったからよく分からないけど、庶民がちょっとがんばって奮発して1週間、家族で出かける、といったツアーのようでした。

 なんとなくお客さん(日本人はいなかった)を見ていると、ディズニーリゾートに来ているようなノリ。

 

 面白かったのは舞台裏で、いろんな乗船スタッフの仕事ぶりを紹介していました。

 

 厨房、クリーニング、ごみ処理、船上のエンターテインメント、船上公園の植物の世話など・・・動くホテルみたいなものなので、いろんな国籍の人たち・いろんな年代の人たちがいろんな部署で働いている。

 

 何か月も船内で生活しなくてはならないのでストレスもたまるのだろうけど、なんか船で働いている人って夢を持っているように見える。

 

 もちろんカメラが回っていたこともあるのだろうけど、彼ら・彼女らの表情はとてもキラキラしていた。

 同じ仕事をしていても、なんか陸上と違う。

 

 それを見て、そういえば昔、ロンドンから帰ってきてしばらく経ってから、一度「仕事で船に乗らないか?」と声をかけられたことを思い出しました。

 

 それは客船ではなく、確かどこかの島(日本近海)の工事の仕事をする船で、厨房のヘルプの仕事だったと思います。(ちょっと記憶あいまい)期間は確か半年程度だったと思います。

 

 その時はタイミング的にできませんでしたが、もしやっていれば話のネタになって面白かったなぁと思います。

 お客としてクルーズツアーもしてみたいけど、船に乗って働く経験って、チャンスがあれば一度はしてみたいなぁと、いまだに思っています。

 

 ‥と書くと、もうイメージの中で乗っているのです。

 おお、潮風の香り。波の音。白い航跡。

 ただ、ちょっと年齢的にもう遅いかな。

 


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子供が陥る8月の「魔がさす・魔にさされる」マジックなリズム

 

 テレビ番組の取材現場に何度か行ったことがあるが、制作側とすれば、そこに子供がいると、本能的に子供を出したくなる。

 大人に比べてやっぱり子供は絵になる。

 テレビというメディアにとって、この「絵になる」ということは何よりも大切です。

 

 子どもの元気な顔が花咲く明るい絵は、視聴者(最近は特に高齢化している)の心に癒しと安心感をもたらします。

 テレビのようなメディアにとって、これはおそらく事実の報道と同程度、いや、それ以上の大事な役割です。

 

 最近の子供はたちはカメラにもマイクにも慣れているし、自分に何が求められているのかをちゃんと察知していて、遠慮なく笑顔をサービスしてくれたり、欲しいコメントをぶっ放してくれたりして、制作側としてはとても助かっていると思います。

 

 それがいいことなのか、ちょっと複雑な気持ちになるけど、子どもたちを批判するわけにはいかない。

 それが情報化が進んだ現代社会の現実というものでしょう。

 

 というわけで8月。

 夏休み真っ盛りと風物詩を伝えるために、ニュースなどでも、たくさん子どもたちの笑顔が見られます。

 

 でもそれと同時に子どもの事故や事件が頻発するのもこの時期からではないでしょうか。

 

 7月は「よっしゃあ!夏休みだ!」という高揚感、および緊張感があって、みんな張り切っています。

 いろいろ計画を立てて、遊びも宿題もそれを基本にやろうとか、子どもなりにいろいろ考えを巡らせます。

 

 しかし、8月のカレンダーがめくれると、この先まだまだ休みが続く。

 「わーい」と喜ぶか、「やれやれ」とうんざりするかはそれぞれだけど、いずれにしても、まだ時間はたっぷりあるなと、ひと息つきます。

 

 これがクセモノで、ひと息で終わるはずがなく、ふた息、三息、ずるずるずる、ダラダラダラ・・・というわけで、当初の軽快にかっ飛ばしていたロックンロールのリズムは、いつの間にかやらレイドバックしてレゲエのノリに。

 

 リラックスするのはいいのだけど、緊張の糸が切れ、マジックなリズムで頭の中が浮き上がったりして「魔がさす・魔にさされる」ような状態が生まれます。

 

 それが思いもしない事故につながったり、事件を呼びこんだり、普段のその子なら考えられないような犯罪に巻き込まれたり、やっちゃったりするのです。

 

 親・保護者も、この子どもの夏休みリズムに慣れちゃうと、どうしても注意力散漫になります。

 

 小学生以上になれば四六時中、見守っているわけにはいかないけど、一緒にごはんを食べる時などに、何かおかしなところがないか意識してあげたほうがいいのではないかな。

 最近はネット犯罪に巻き込まれちゃうことも頻繫に起こっているようなので。

 

 まだ1カ月、暑くて嫌になっちゃうこともあるだろうけど、がんばりましょう。

 


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