インターネット翻訳 日進月歩 rapid progression

 

  Googleの翻訳機能の精度がずいぶん上がってきたような気がします。

 今日はほぼ半日、ずっと仏事やマイナビ農業のネタ探しで検索をしていたのですが、海外の話についてはこれまでほとんど日本語のサイトに頼っていました。

 英語サイトならちょっと読んでみようとするのですが、やっぱりよくわからない。

 「翻訳しますよ」と出てくるので、やってみると、ますますわからん!

 

 ということが多かったのですが、今日、改めてみるとそう悪くありません。

 たとえばこんな感じ。

 

農業革命へようこそ!

 

成長中のアンダーグラウンドで、私たちは持続的に口腔内で新鮮なマイクログリーンを生育し、サラダはClaphamの賑やかな通りの33メートル下に葉っぱになります。 最新の水耕栽培システムとLED技術を使用して、私たちの作物は、忘れられたこれらのトンネルが提供する完全な無農薬環境で年間を通して栽培されています。 管理された環境のおかげで、それぞれの小さな葉は最後まで驚くほど味わいます。 私たちの緑は、気候や季節の変化に影響を受けません。私たちは一番の場所のおかげで、作物を輸入する必要性を減らし、小売店や消費者の食糧マイルを大幅に削減します。

 

 おかしなところはいくつかあるけど、意味はわかりますよね。

 確実に進化している。

 

 ちなみにこれは、第二次世界大戦時に防空壕として使用されていたロンドンの地下トンネルを、LED照明を使った水耕栽培農場に変えようとしている「Zero Carbon Food」という企業サイト。

 

http://www.zerocarbonfood.co.uk/

 

 おかしなところは原文と比較して自分で修正すればちゃんとした日本文として使えるし、語学の勉強にもなります。

 他の言語はどうかまだわからないけど、まず英語サイトには付き合っていきたいなと思います。

 興味ある分野なら、海外サイトもどんどん見ていこう!

 


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京都探訪記2017⑤:宗教的空間とインターネットに関する考察

●嵐山・天龍寺訪問

 

 京都ではいろいろなお寺を訪ねました。

 清水寺や金閣寺は外から建物を見るだけでしたが、祇園の建仁寺、駅近の東寺、嵐山の天龍寺などは堂内の空間や庭園もたっぷり楽しみました。

 

 天龍寺では達磨大師の肖像をはじめ、堂内の各部屋、襖絵、さらに庭園など、それぞれの空間そのものが美術のよう。

 広々としていて清々しく、まさに心洗われ、癒される気持ちのいい空間です。

 

 敷地内にある料亭で精進料理を食べましたが、これもまた一種の美術品で、味も雰囲気も大満足。。

 

 仏教寺院としての毅然とした空気は、観光客でごった返していても、なんとかそれなりに保たれています。

 

●宗教における空間づくり

 

 宗教において空間づくりは最重要課題です。

 

 世俗の日常空間の中では届かない言葉・音楽・思念といったものが、寺院とか聖堂の中だとズバッと届きます。

 脳がその空間の気の流れを感じとって、脳波をチューニングして合わせるかのようです。

 

 宗教者はそのことをよく知っており、建築や内部の装飾・調度品、美術におおいにこだわりました。

 

 目、耳、鼻、肌、そして舌も。

 五感を通して、この空間に入った人たちの脳は「信者の脳」になるわけです。

 

●カルト宗教の空間

 

 カルト宗教などはこれと同じ理屈で、目を付けた人間を日常生活の空間から切り離し、自分たちのアジト的空間――一種の密室に引っ張り込むことによって、洗脳します。

 

 日常空間にいれば簡単に見破れるインチキも、そうしたカルト信者だらけのアジト的密室空間に入ってしまうと、脳が誤作動を起こして、たやすく暗示にかかってしまいます。

 

 なにせ多勢に無勢。

 正しいことを言っているのはあっとで、自分は間違っていると思い込まされてしまう。

 よってインチキがホントに見え、あたかも奇跡が起こっているように錯覚してしまうのです。

 

●無宗教の増加とインターネットの普及

 

 世界的に無宗教の人が増えているようです。

 

 現代日本は、クリスマスやバレンタインなどのキリスト教行事をイベントとして楽しみ、葬祭・供養は仏教のスタイルを採り入れています。

 が、内実は無宗教。

 

 こうした日本のやり方を世界各国、真似し出したようで、「都合のいいところだけ持ってきて、パッチワークすりゃいいじゃん」という考え方が庶民の間で蔓延。きちんとした儀式や作法は、身分が上のほうの人たちにまかせときゃOKというわけです。

 

 因果関係は明確にできませんが、どうもその背景にはインターネットの普及が関係しているように思えます。

 

 ネット上にいろんな情報があふれ、誰でもPCやスマホでデータ化された知識を手に入れられるようになると、非科学的な物事はちっとやそっとでは信じられなくなるのでしょう。

 

 なんといっても歴史の中で宗教が人々を支配できたのは、情報を集約し、必要に応じてそれらを求める人に分け与えることができたから。

 だから宗教はありがたいもので、宗教者は偉い人たちだったわけです。

 

 そうした長く保たれてきた虚構は、洋の東西を問わず、科学万能となった100年とちょっと前あたりから次第に崩壊。

 それがこの10年あまりのインターネットの普及によって、急速に進んだ感じがします。

 

 こうした風潮を嘆く声も聞こえますが、僕は良いことだと思います。

 20年あまり前、地下鉄で猛毒のサリンガスをばら撒いたオウム真理教は、教祖が起こすミラクルを見せて信者を集めていたようですが、今のようにネットが発達していれば、くだらないスピリチュアルに引き付けられず、信者も増えなかったでしょう。

 

 ただ、そのスピリチュアルに引き付けられたいと欲している人、洗脳されたいと願っている人が、いつの時代でも一定数いるので、話はそう単純ではありません。

 

 こういう人たちの脳は、いつでも洗脳スタンバイOKになっているので、ほとんど防ぎようがありません。

 

 こうした人たちを狙って、そのうちインターネットが宗教の代わりをするようになり、AI教祖やらロボット教祖が出てくるのではないかと考えると、冷汗が出ます。

 

●これからの宗教の生きる道

 

 カルトは別ですが、インターネットの影響もあって、この先、広く人々を引き付けるカリスマ的な宗教者はもう現れないでしょう。

 

 その時やっぱりものを言うのは、こうした心洗われ癒される、ひろびろ美術空間と設えた宝物。

 そして、その空間を活かした「写経」などの個人的プチイベント。

 そうしたものをいかに世界中にアピールするか――。

 お寺もいろいろ戦略を立てなきゃならない時代だなぁと感じました。

 


eパン刑事、その愛と死とスマホ

 

 スマホを一生懸命いじくっている人を見ると、つい「何か良いニュースは入っていますか?」と訊きたくなる。

 さすがに街中で見ず知らずの人にいかなりそう問いかける度胸はないが、知り合いだと、しばしば実行している。

 

 「うれしい知らせは来ましたか?」

 「すてきな情報をゲットできましたか?」

 「心あたたまる良いニュースはありますか?」

 「幸せになる話は見つかりましたか?」

 「吉報はありましたか?」

 

 そんなふうに訊くと、みんな一様に戸惑ったような表情を見せて

 「いや何も・・・」

 「とくにこれといって・・・」

 「ぜんぜん」

 「ありません」

 「べつに・・」

 

 といった曖昧で、なんだか冴えない返事が返ってくる。

 一度も「はい」とか「うん」とか「来たけど秘密だよ。ウシシ・・」

 といった楽しいリアクションに出会ったことがない。

 

 良いニュースがないのなら、寸暇を惜しんでそんなに一生懸命見なくてもいいのに、と思うが、また次の瞬間には目を画面に戻して、再びいじくり出す人が大半である。

 これはかなり不可思議な現象だ。

 

 そう思っていろいろ考えてみると、これはもしかして喫煙に近い性癖なのではないかと思い至った。

 煙草の場合はつい口寂しくて、スマホの場合はつい手持無沙汰で、その行為で心のすき間を埋めようとする。そうするとストレスも軽減されるような気がする。

 要するに軽い中毒症状である。

 

 煙草を吸っている人に「おいしいですか?」と訊くと、やっぱりたいていは

 「いや、べつに、とくにこれといってうまくもないけど・・・」

 みたいなリアクションが返ってきて、

 「いや、そろそろやめようと思っているんだけどね」

 なんて心にもないことを言いだす。

 

 昔はちょっと違ってた。

 自分はタバコを愛している、という人は多かった。

 「おいしいですか?」と訊くと、

 「あたりめーだ。これが俺の生きがいだ!」ぐらいの啖呵を切るような人は、結構いたと思う。

 

 かく言う僕も啖呵は切らないまでも「うん、うまいよ!」ぐらい明快に応えたはずだ。

 

 僕がタバコを吸うようになったのは、周囲のいろいろな影響があるけど、大きな要因の一つとして松田優作のことがある。

 

 中学生の頃にテレビドラマ「太陽にほえろ!」で、松田優作演じる「Gパン刑事」が活躍していた。

 Gパン刑事は職務中に殉死するのだが、その最期が壮絶だった。

 彼は悪んの組織から一人の男を助け出すのだが、その男は恐怖のあまり錯乱状態になっていて、自分を助けてくれたGパン刑事を誤って撃ってしまうのである。それも何発も。

 

 Gパンン刑事は一瞬何が起こったのか、わけが分らないのだが、激痛のする自分の腹に手をやると、その手がべったりと血に染まっている。

 その自分の手を見た彼は

 「なんじゃ、こりゃあ!」と夜の闇の中で叫び、そのまま倒れ込んでしまう。

 そして仰向けになって、もう自分は死ぬのだということを悟る。

 

 どうして彼がここで、こんな形で死ななくてはならないのか?

 自分が救った人間になぜ裏切られ、なぜ撃たれるのか?

 1970年代前半の映画やドラマは、そうした人生の不条理を表現した作品、「人生に意味や目的なんてねーんだよ」とニヒルにうそぶくような作品が多く、当時の少年や若者はそこのところに心をわしづかみにされた。

 

 でも考えてみれば、人生も死も不条理に満ちているのは当たり前で、時代に関係なく、いつでもそうなのだ。

 

 それで話を戻すと、死を悟ったGパン刑事は震える手で懐中から煙草の箱を取り出す。

そして最後の力を振り絞って、タバコを1本取り出し、口にくわえ、火を点ける。

 やっとの思いで一服し、それで力尽きるのだ。

 

 死に瀕してまで吸いたいという、Gパン刑事のタバコへの偏愛が、僕がスモーカーになった大きな一因であることは間違いない。

 

 それから40年以上が経過し、この殉職シーンは、松田優作のキャリアの中でも名場面として数えられていると思うが、たぶん現代ではこういったシーンは観客に受けないし、優作のようなタバコが似合う俳優もいない。

 そもそもドラマとして成り立たないのではないかと思う。

 

 そこで僕の頭に浮かんだのは、eパン刑事の殉職である。

 暴漢に撃たれたeパン刑事は、自分の死を悟り、震える手を懐中に突っ込む。

 それで彼が取り出したのは愛用のスマホだ。

 彼は最後の力を振り絞ってスマホを見ようとする。

 そこで僕が声をかける。

 

 「何か良いニュースは入ってますか?」

 

 「いや、べつになにも・・・」

 

 その言葉を残して、eパン刑事は息絶える。

 

 現代の死の不条理。

 これはこれで感銘のある、味わい深いラストシーンではないかという気がする。

 (そんなことない?)

 


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民主化・ロボ化・個別化が進む宿泊ビジネス

 こんど初めて民泊を利用してみることにしました。

 世界最大級という民泊サイト「AirB&B」にアクセス。

 

 夏、カミさんとお出かけの約束をしていたのですが、腰を痛めて叶わなかったので、11月初旬の連休に3日ばかり京都旅行。

ということで、目的地と予定日を入力すると、たちどころに候補の宿がずらっと出てきました。

 

 ホテルや旅館のように「Welcom、ドドーン!」という感じではなく、外観や周囲の環境の一部、部屋の一部の画像がごく控えめに、雰囲気が伝わる程度にはんなり。

 

 京都なので、中には由緒ある大きな古民家をリノベしたところもあって、いいなと思うと、やっぱりそれなりのお値段。

それでもグループで行って、みんなでシェアすればホテルや旅館よりも断然お得だし、ジャパニーズテイストに浸りたい外人さんなどにとっては、こういうところに泊まること自体が目的の旅になりそうです。

 

 で、第一候補の築80年の長屋をリノベしたところが面白そうだったので申し込んだけど、こちらはNG。

 第2候補は川沿いの家。せせらぎを聞きながら京都の情緒に浸れるかと思ったら、部屋の内装がサイケすぎて、こちらもNG。

 そして第3候補。今どきのフツー感が漂うところでしたが、雰囲気は好ましく、中心地で交通の便もよさそうなので、ここに決定。

 パスポートの写真とサイト専用アプリで撮った写真を紹介して申し込み完了したら、秒速でOKの返事が到着。

 その後送られてきたDropBox内には詳細な住所・地図、家の外観、そして鍵を開けるための認証番号が。もちろん、この番号は利用客が来るたびに交換します。

 

 というのが「AirB&B」で民泊を探す際の段取りです。

 よくできたシステムでたたしかにこんなのが蔓延り人気になったら、ホテル・旅館業界は大打撃を受け、ブチ切れます。

 

 しかし、インターネットを活用した、こうした民主主義・市場主義のビジネスの流れはもう止めようがない。

 

 加えて、都心の一部のビジネスホテルのように、チェックイン・アウトはすべてコンピューターで。なんでも自動化・セルフ化して、ロボットホテルまであと一歩というところも増えてきまました。

 

 こうなると、セレブ御用達のみたいな超一流はべつにして、一般的なホテル・旅館はオンリーワンの魅力・個性をアピールし、他にはないユニークなサービスを提供しなくては集客できなくなっていくでしょう。

 

 一般的でなく、個性的でないと、また、お客のニーズ・リクエストにマッチしていないと立ちいかない時代。

 「ゲーシャロイドと楽しむ、昭和の社員旅行」とかね。

 

 業界はたいへんそうだけど、お客にしてみれば、いろいろユニークな宿が増え、面白い旅ができるのは大歓迎です。

 


メディアにおけるメールを利用した取材について

●取材先を選ぶ

 

 レギュラーワークの鎌倉新書「月刊仏事」の連載企画「全国葬儀供養最新事情」は、地方への取材がメインなので、もっぱらメールでやっています。

 

 どんなネタを選んで構成するか、要するにその月の企画は一任されているので、まずインターネットでいろいろキーワードを打ち込んでヒットするサイト、および、そこから関連して出てくるサイト・ブログを片っ端から見ます。

 

 それで読者のニーズに叶った、興味深い組織・企業・個人を取材先として選び、電話かメールで取材の趣旨を説明。同意が得られれば取材に取り掛かります。

 

●なぜ相手はメール取材を選ぶのか

 

 取材方法はメールで質問項目を作り、それに対して電話かメールでご回答いただきたい、と提案します。

 すると、10人中9人はメールでの回答を選びます。

 

 電話取材のほうが所要時間は少ないのですが、20~30分かかるので、これも日時の拘束があるし、トークに自信のない人は、口頭で言いたいことをうまく伝えられるかどうか不安を覚えるからでしょう。

 それなら自分で納得できるよう、じっくり回答を考えられるメールで・・・ということで選択するのだと思います。

 

●みんな取材慣れしてきた

 

 これだけメディアが発達し多様化すると、皆さん、取材を受けるメリットがあると分かっていても、それに対しての光栄度というか、喜び・ありがたみなどはどうしても薄れます。

 小さなマイナーメディアが相手では、忙しい中、ちょっとやそっとでは時間を割いてくれません。

 

 これは遠隔地の取材だけでなく近場でも同様で、こちらが「ご都合のよう時間に合わせます」と言っても、特に小さな会社や個人の場合は、渋ることが多くなりました。

 見知らぬ取材者と直接相対するのは緊張するし、抵抗感を覚えるのでしょう。

 

 そうした時、メールはとても有効です。

 面と向かうと、緊張してなかなかうまく人とやり取りできなくても、メールでなら優れたコミュニケーション能力を発揮できる人は大勢います。

 また、ある程度文章表現が得意な人なら、メールの方が自分の考えをより正確に、より深く伝えられる――と考えるようです。

 

●メール取材の工夫

 

 なので、メールでも充実した取材になるよう工夫しています。

 

 たとえば仏事の「地域の葬儀社に訊く」のメール取材は、基本的にどこも訊くことは共通なので、同じフォーマットを使いますが、少しだけ、その会社・個人あてのピンポイントの情報や質問を入れます。

 

 たとえば、なぜ御社・あなたを取材対象として選んだのか、きちんと理由を書く。

 創業〇十年の老舗だからとか、逆に若いフレッシュな会社だからとか、女性の社長だからとか、プロフィールが興味深いとか、です。

 ブログ記事の感想もできれば書き、そこから質問につなげていくこともできます。

 

 そうしたことに手を抜かずにやると、読む相手もすんなり質問を受け入れられ、メール上でのコミュニケーションが円滑に進みます。

 

 ただ円滑過ぎても面白くないので、必ず質問の中に引っかかるところ――相手が考え込まずにいられないところを作っておきます。

 質問の並べ方・構成にもストーリーが必要です。

 そうしたことを意識して作ると、直接面会する取材よりも良い回答を引き出せるケースも多いのです。

 

●記事の完成

 

 ちなみに回答をもらっても、そのまま記事にするわけではありません。

 その回答を膨らませ、自分の解釈・解説も付け加えたりしながら原稿を作り上げ、それを取材相手に送って確認してもらい、完成させます。

 

 もちろん大きな規模の特集記事の場合、その場所の空気を伝える必要がある場合、写真撮影・動画撮影が伴う場合は、現場へ赴き、面会します。

 現場取材、直接のインタビューによって得られる細かいニュアンスは、なかなかメールの文面だけでは出てきません。

 

 しかし小規模なレベルの仕事だと、もはや「メールじゃ良い取材はできない」なんて言っていられません。

 

 メールを使ってちゃんと相手の意見やアピールを引き出しつつ、読者がその取材対象者をよりよく理解できるように誂えるのがプロなのだと思います。

 


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宅配便問題:インターネットハイウェイはロボット社会へまっしぐら

★ドライバーはひとり四役

 

 宅配便の問題をめぐるニュースを見ていると、インターネットのハイウェイははまっすぐロボット社会につながっているぞ、と感じます。

 

 現場を知る者にとっては、やっと改善の時が来たか、という感想。、

 要再配達の品物は、現場の用語で「持ち戻り」というけど、印象としては毎日1割以上はあります。(報道では2割以上。地域差があるので、全体として見たらまあそれくらいはいくかも知れないと思う)。

 

 SD(サービスドライバー)は、運転、力仕事(荷物の中には30㎏におよぶ米とか、20ℓ以上におよぶペットボトルの水だとか、家電製品、機械の部品、タイヤなどもある)、接客業、事務処理と、一人四役をこなさなくてはなりません。

 

 朝8時に営業所に出勤して、最終の配達は夜10時までかかる。

 最初のうちは、昼・夜のシフトに分かれているのだろうと思っていたけど、基本的には一人のSDが丸1日、受け持ちの地域を回っています(週に1度くらい分かれていることもある)。

 

 正確な勤務体系は知らないけれど、それが結構、連日あって、休みはおそらくせいぜい週休二日程度。相当なハードワークです。

  

 時間指定がありながら留守だったりすりゃ頭に来るのは当然。

 

 

★膨大な人力の上で成り立つネット通販事業

 

 話はSDに限ったことでなく、それにプラス、集積センターなり、地域の営業所には、仕分けスタッフや事務処理スタッフなど、宅配便には膨大な労働力が投入されているのです。

 

 

 ネット通販の場合、利用する側にとっては、スマホやパソコンの1~2秒の操作一つで、家まで欲しい物を持ってきてくれる。

 中にはアマゾンなどの通販会社から自動転送されてくると思っている人もいるでしょう、きっと。

 

 その裏にそれだけの人力が必要とされているなんて、夢にも思わない。

 

 ちょっと前まで報道は、ネット通販企業のアイデア、システム、サービスを絶賛していました。

 よくぞこれだけのものを考え出し、実現した。えらい!  インターネット\(^o^)/と。

 

 が、それは宅配便システムというインフラ、さらにそれ以前の道路・交通網、輸送車両の充実という大前提があってこそ成り立つ話です。

 

 

★めんどくさいからロボットにして・・・と思うでしょ

 

 インターネットの普及したデジタル社会は、プロセスが見えず、スタートポイントとエンドポイントしか見えない点の世界。

  どんどん周囲の人間に対する想像力が失われていく世界でもあります。

 高速道路と同じでいたん乗ったら、降りるところまで、その旅程の景色はほとんど見られないのです。

 

 おそらく半分以上の人は報道を見て、

 「そうやな、配達の人に迷惑やな。マナーを守らなあかんな」

 と思うより先に

 「なんだよ、めんどくせえなぁ。こっちは忙しいんだよ。金払って買っているんだから、宅配のことぐらいで面倒かけるなよ」と思ったことでしょう。

 

 便利さに慣れちゃうと、人間、横着になります。

 面倒だから、宅配便なんて早くロボットがやってくれるようにならないかなと考えるようになっても、なんら不思議はありません。

 

 

 これだけ普及すると、多くの人にとって、もはや宅配便のない生活は考えられません。

 ならば現場のシステムを変えるしかない。

 ロボット技術が普及すれば、真っ先に採り入れたい事情が企業にはある。

 

 そして、おそらくそれはそう遠い未来のことではありません。

 とにかく人手不足なので。

 ネコの手もロボットの手も借りたいのです。にゃあ。

 


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世界の大半は書かれた言葉・文章でできている

 

 昨日の動物病院からは残念ながらお断りの通知をいただきました。

 案の定、更新回数を増やしてアクセス数を増やしたかったそうです。

 でも、僕の提案は受け入れてもらえませんでした。

 手間暇をかけずに何とかしてほしい、というニーズなんでしょうね。

 

 以前は何としてでもお客の要望に応えるのがプロの務め、と思っていましたが、最近は「これはできないので自分で書いて。そのほうがいいから」と言うのもライターの仕事の一つかな、と考えています。

 

 特にお医者さんなどはその人柄が勝負になる。

 患者さんとの相性もあります。

 ブログなどはそれを伝える絶好のツールなので、絶対自分でやったほうがいいと思うのだけど。

 

 マーケティングの本などでよくブログは毎日書かなければいけない、とか言われているけど、その提言を鵜呑みにして、中身のない記事、義務感で書いている記事、ほとんど同じパターンの記事を、いくら毎日上げていても、またこれかとスルーされるだけ。

 みんな忙しいので、そんなものに構っちゃいられません。

 ヘタでも何でもちゃんと心を込めて自分で書いたものを週1で、でも途切れないように継続してUPしていけばいいと思います。

 

 これからのネット社会、ますます言葉の力・文章力が重要視されます。

 世界の半分以上―――過去の歴史も、未来の計画も、書かれた言葉・文章によって出来上がっています。

 だから、作家やライターの仕事はなくならないし、ライターでなくても文章力を磨くことは人生をよりよくつくっていくためにも、とても大事だと思います。

 皆さん、どんどん感じたこと・考えたことを書いてスキルアップしましょう。

 

 


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世界で一つだけの自分の言葉・自分の文章

 

 編集マン・M氏から動物病院のサイトに載せるコラム記事を書いてくれないか、という依頼がありました。

 そのサイトを見ると、院長と3人のスタッフの獣医がやっているところで、たいへん素晴らしい、充実した内容。

 ペットを飼っていない僕でも引き込まれたので、これなら飼い主さんの信頼を得られるでしょう。

 

 その分、これは安易に取り組めないな、と思いました。

 

 いちおう、犬のしつけコーチの代筆で、しつけマニュアルの本を書いたり、動物学校連盟の機関誌の記事などを書いたりして、多少はかじったことがあるものの、動物に関する習性や医療の知識など、素人レベル。

 

 そんな素人のライターが、そのへんの本やネット上から拾ってきた知識を貼り合わせた文章を載せても、共感も信頼も得られないと思います。

 

 文章のうまい・へたではないのです。

 

 この動物病院の例で言えば、現場で日々、診療にあたっているスタッフだからこそ書けること・醸し出せる味があるのです。

 それに地域情報やこの病院ならではの仕事感も感じられたので、関係のない外部の人間が1から書くのは困難でしょう。

 

 それで僕が知りたかったのは、クライアントさんは外部のライターに何を期待されておられるのか?ということ。

 

 このサイトのブログの欠点を挙げれば、更新回数が少ない。

 とても丁寧に書いてあるので、忙しい日々の業務の中、4人いても頻繁に更新するのはたいへんです。

 だいたい平均すると週1くらい。

 あいてるときは月2~3回。

 頑張っている時で週2回。

 

 それで回数を上げたいけど、人手が足りないので・・というのが主な理由だと思います。

 取材に行ければよいのですが、遠いのでそう頻繁に足を運ぶこともできず、メール中心のやりとりにならざるを得ないのは必至。

 で、「以下のようなやり方ならお役に立てるかもしれません」と返答しました。

 

●日々の医療の中で感じたこと・考えたこと・エピソードなどをもとに、それぞれの記事の企画はスタッフ自身に立てていただく。

読者に何を伝えたいかもできるだけ明確に。

 

●それをメモ書きにして送って頂く。専門的な医学知識を入れるならその疾患名・キーワードなども。独自の知見があればその説明を。一般的なことでよければこちらで調べる。

 

●いただいた企画メモをもとに、読み物として面白くなるよう、こちらで構成・肉付けを考え、文章化する。

 

 ざっとこんな感じ。

 

 僕は基本的にブログなどは、そのサイトのオーナなり、スタッフなりが自分で書くべきだと思います。

 たとえばあなたが自分の会社やお店でサイトを持っていて、うまく書けないから、ライターにアウトソーシングしたい場合は、そうすることでいったいどんなメリットがあるのか、デメリットはないのか、よくよく吟味したほうがいい。

 

 どんなに優秀なライターでも、有名な作家でも、あなた自身の発信は、あなた以上によく書けません。

 僕も4~5年前は、SEO対策として、指定キーワードを入れて、社長ブログの代筆をする・・・といった仕事をよくやっていました。

 でも、もうそんな時代ではないと思う。

 読んでいる人たちもネットリテラシーが上がって、ブログなど、少しまとまった文章なら、ヘタでも本人の書いた信頼できる文章か、他のライターが代筆した、まとまっているけどカッコだけの文章か、すぐ見破られると思います。

 

 なんだか自分の仕事を減らす自虐ネタみたいになってしまったけど、みんな、自分の言葉・自分の文章を大事にしたほうがいい。

 それを心得たうえで、どこを自分以外の人に書かせるか、考えるといい。

 

 長くなりそうなので、また明日、この続きを書きます。

 

 


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インターネットがつくるフォークロア

 

インターネットの出現は社会を変えた――ということは聞き飽きるほど、あちこちで言われています。けれどもインターネットが本格的に普及したのは、せいぜいここ10年くらいの話。全世代、全世界を見渡せば、まだ高齢者の中には使ったことがないという人も多いし、国や地域によって普及率の格差も大きい。だから、その変化の真価を国レベル・世界レベルで、僕たちが実感するのはまだこれからだと思います。

それは一般によくいわれる、情報収集がスピーディーになったとか、通信販売が便利になったとか、というカテゴリーの話とは次元が違うものです。もっと人間形成の根本的な部分に関わることであり、ホモサピエンスの文化の変革にまでつながること。それは新しい民間伝承――フォークロアの誕生です。

 

“成長過程で自然に知ってしまう”昔話・伝承

 

最初はどこでどのように聞いたのか覚えてないですが、僕たちは自分でも驚くほど、昔話・伝承をよく知っています。成長の過程のどこかで桃太郎や浦島太郎や因幡の白ウサギと出会い、彼らを古い友だちのように思っています。

 

家庭でそれらの話を大人に読んでもらったこともあれば、幼稚園・保育園・小学校で体験したり、最近ならメディアでお目にかかることも多い。それはまるで遺伝子に組み込まれているかのように、あまりに自然に身体の中に溶け込んでいるのです。

 

調べて確認したわけではないが、こうした感覚は日本に限らず、韓国でも中国でもアメリカでもヨーロッパでも、その地域に住んでいる人なら誰でも持ち得るのではないでしょうか。おそらく同じような現象があると思います。それぞれどんな話がスタンダードとなっているのかは分かりませんが、その国・その地域・その民族の間で“成長過程で自然に知ってしまう”昔話・伝承の類が一定量あるのです。

 

それらは長い時間を生きながらえるタフな生命エネルギーを持っています。それだけのエネルギーを湛えた伝承は、共通の文化の地層、つまり一種のデータベースとして、万人の脳の奥底に存在しています。その文化の地層の上に、その他すべての情報・知識が積み重なっている――僕はそんなイメージを持っています。

 

世界共通の、新しいカテゴリーの伝承

 

そして、昔からあるそれとは別に、これから世界共通の、新しいカテゴリーの伝承が生まれてくる。その新しい伝承は人々の間で共通の文化の地層として急速に育っていくのでないか。そうした伝承を拡散し、未来へ伝える役目を担っているのがインターネット、というわけです。

 

ところで新しい伝承とは何でしょう? その主要なものは20世紀に生まれ、花開いた大衆文化――ポップカルチャーではないでしょうか。具体的に挙げていけば、映画、演劇、小説、マンガ、音楽(ジャズ、ポップス、ロック)の類です。

 

21世紀になる頃から、こうしたポップカルチャーのリバイバルが盛んに行われるようになっていました。

人々になじみのあるストーリー、キャラクター。

ノスタルジーを刺激するリバイバル・コンテンツ。

こうしたものが流行るのは、情報発信する側が、商品価値の高い、新しいものを開発できないためだと思っていました。

そこで各種関連企業が物置に入っていたアンティーク商品を引っ張り出してきて、売上を確保しようとした――そんな事情があったのでしょう。実際、最初のうちはそうだったはずです。

だから僕は結構冷めた目でそうした現象を見ていました。そこには半ば絶望感も混じっていたと思います。前の世代を超える、真に新しい、刺激的なもの・感動的なものは、この先はもう現れないのかも知れない。出尽くしてしまったのかも知れない、と……。

 

しかし時間が経ち、リバイバル現象が恒常化し、それらの画像や物語が、各種のサイトやYouTubeの動画コンテンツとして、ネット上にあふれるようになってくると考え方は変わってきました。

 

それらのストーリー、キャラクターは、もはや単なるレトロやリバイバルでなく、世界中の人たちの共有財産となっています。いわば全世界共通の伝承なのです。

僕たちは欧米やアジアやアフリカの人たちと「ビートルズ」について、「手塚治虫」について、「ガンダム」について、「スターウォーズ」について語り合えるし、また、それらを共通言語にして、子や孫の世代とも同様に語り合えます。

そこにボーダーはないし、ジェネレーションギャップも存在しません。純粋にポップカルチャーを媒介にしてつながり合う、数限りない関係が生まれるのです。

 

また、これらの伝承のオリジナルの発信者――ミュージシャン、映画監督、漫画家、小説家などによって、あるいは彼ら・彼女らをリスペクトするクリエイターたちによって自由なアレンジが施され、驚くほど新鮮なコンテンツに生まれ変わる場合もあります。

 

インターネットの本当の役割

 

オリジナル曲をつくった、盛りを過ぎたアーティストたちが、子や孫たち世代の少年・少女と再び眩いステージに立ち、自分の資産である作品を披露。それをYouTubeなどを介して広めている様子なども頻繁に見かけるようになりました。

 

それが良いことなのか、悪いことなのか、評価はさておき、そうした状況がインタ―ネットによって現れています。これから10年たち、20年たち、コンテンツがさらに充実し、インターネット人口が現在よりさらに膨れ上がれば、どうなるでしょうか? 

 

おそらくその現象は空気のようなものとして世の中に存在するようになり、僕たちは新たな世界的伝承として、人類共通の文化遺産として、完成された古典として見なすようになるでしょう。人々は分かりやすく、楽しませてくれるものが大好きだからです。

 

そして、まるで「桃太郎」のお話を聞くように、まっさらな状態で、これらの伝承を受け取った子供たちが、そこからまた新しい、次の時代の物語を生みだしていきます。

 

この先、そうした現象が必ず起こると思う。インターネットという新参者のメディアはその段階になって、さらに大きな役割を担うのでしょう。それは文化の貯蔵庫としての価値であり、さらに広げて言えば、人類の文化の変革につながる価値になります。

 

 

2016年6月13日


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地方自治体のホームページって割と面白い

 

 

 ここのところ、雑誌の連載で地方のことを書いています。

書くときはまずベーシックな情報(最初のリード文として使うこともあるので)をインターネットで調べます。

 これはウィキペディアなどの第3者情報よりも、各県の公式ホームページの方が断然面白い。自分たちの県をどう見せ、何をアピールしたいかがよくわかるからです。

なんでも市場価値が問われる時代。「お役所仕事云々・・・」と言われることが多い自治体ですが、いろいろ努力して、ホームページも工夫しています。

 

 最近やった宮崎県のキャッチコピーは「日本のひなた」。

 日照時間の多さ、そのため農産物がよく獲れるということのアピール。

 そしてもちろん、人や土地のやさしさ、あったかさ、ポカポカ感を訴えています。

 いろいろな人たちがお日さまスマイルのフリスビーを飛ばして、次々と受け渡していくプロモーションビデオは、単純だけど、なかなか楽しかった。

 

 それから「ひなた度データ」というのがあって、全国比率のいろいろなデータが出ています。面白いのが、「餃子消費量3位」とか、「中学生の早寝早起き率 第3位」とか、「宿題実行率 第4位」とか、「保護者の学校行事参加率 第2位」とか・・・
 「なんでこれがひなた度なんじゃい!」とツッコミを入れたくなるのもいっぱい。だけど好きです、こういうの。 

 取材するにしても、いきなり用件をぶつけるより、「ホームページ面白いですね~」と切り出したほうが、ちょっとはお役所臭さが緩和される気がします。

 

 「あなたのひなた度は?」というテストもあって、やってみたら100パーセントでした。じつはまだ一度も行ったことないけれど、宮崎県を応援したくなるな。ポカポカ。

 

2016年6月12日


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タイムマシンにおねがい

 

 きのう6月10日は「時の記念日」でした。それに気がついたら頭の中で突然、サディスティック・ミカ・バンドの「タイムマシンにおねがい」が鳴り響いてきたので、YouTubeを見てみたら、1974年から2006年まで、30年以上にわたるいろいろなバージョンが上がっていました。本当にインターネットの世界でタイムマシン化しています。

 

 これだけ昔の映像・音源が見放題・聞き放題になるなんて10年前は考えられませんでした。こういう状況に触れると、改めてインターネットのパワーを感じると同時に、この時代になるまで生きててよかった~と、しみじみします。

 

 そしてまた、ネットの中でならおっさん・おばさんでもずっと青少年でいられる、ということを感じます。60~70年代のロックについて滔々と自分の思い入れを語っている人がいっぱいいますが、これはどう考えても50代・60代の人ですからね。

 でも、彼ら・彼女らの頭の中はロックに夢中になっていた若いころのまんま。脳内年齢は10代・20代。インターネットに没頭することは、まさしくタイムマシンンに乗っているようなものです。

 

 この「タイムマシンにおねがい」が入っているサディスティック・ミカ・バンドの「黒船」というアルバムは、1974年リリースで、いまだに日本のロックの最高峰に位置するアルバムです。若き加藤和彦が作った、世界に誇る傑作と言ってもいいのではないでしょうか。

 中でもこの曲は音も歌詞もゴキゲンです。いろいろ見た(聴いた)中でいちばんよかったのは、最新(かな?)の2006年・木村カエラ・ヴォーカルのバージョンです。おっさんロッカーたちをバックに「ティラノサウルスおさんぽ アハハハ-ン」とやってくれて、くらくらっときました。

 

 やたらと「オリジナルでなきゃ。あのヴォーカルとあのギターでなきゃ」とこだわる人がいますが、僕はそうは思わない。みんなに愛される歌、愛されるコンテンツ、愛される文化には、ちゃんと後継ぎがいて、表現技術はもちろんですが、それだけでなく、その歌・文化の持ち味を深く理解し、見事に自分のものとして再現します。中には「オリジナルよりいいじゃん!」と思えるものも少なくありません。(この木村カエラがよい例)。

 この歌を歌いたい、自分で表現したい!――若い世代にそれだけ強烈に思わせる、魅力あるコンテンツ・文化は生き残り、クラシックとして未来に継承されていくのだと思います。

 

 もう一つおまけに木村カエラのバックでは、晩年の加藤和彦さんが本当に楽しそうに演奏をしていました。こんなに楽しそうだったのに、どうして自殺してしまったのだろう・・・と、ちょっと哀しくもなったなぁ。

 

2016年6月11日


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見世物小屋とインターネット

 

 詩人・劇作家の寺山修司は、かつて「見世物小屋の復権」を提唱し、いわゆる社会の中の異端とされる人を(隠蔽するのではなく)、舞台に上げて、あえて見世物にすることによって、いわゆるフツーの人(観客)との幸福な結びつきが得られる、といったことを語っていました。

 

 そんな彼の思想を反映して1970年代に活動していた劇団・天井桟敷の前衛的な舞台は、本当に芸術的・人間的な刺激と感動にあふれていました。

 

 あの頃から30年以上の時を経て、彼の唱えていたことがインターネットの世界で展開し、FBやらブログやらで、日常生活も仕事のことも趣味のことも自分の頭の中のことも、それぞれのBeing=存在性が見世物になって陳列され、刺激し合っているのではないか、と思います。

 

 寺山先生がこの現代のあり様を見たら何と言うだろうか・・・。

 天国に行って聞いてみたい気がします。

 


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インターネットは自由の国よ

 

 「きれいなお花、だ~い好き💛」

  ・・・などと男(特におっさん)がやると、ひと昔前ならキョーレツに引かれたでしょうが、最近はそうでもない?

 

 仕事の関係で、女装やら、男の化粧やら、性同一障害やらについて勉強していますが、いや~~~、もう、あちこちのブログやら何やら、いろんな発信を見て感動してしまま した!

 こうした人たちのポジティブで元気で、希望に満ちてて、生きる意志に溢れていること!

 もちろん、いろいろ辛い思いを克服された人もいるんでしょうが・・・

 

 それにしても彼らが堂々とネット上で主張できるのは、いい時代なんだなと思います。

 インターネットってホンマに自由の国なんやね。こういうの大事にせなあかんね。(と、なぜ関西弁になっている・・・)

 


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ロックも、アニメも、ドラマも・・・夢が叶った!

★Yesterday Oncemore

 

 「何を今さら」と言われるかも知れないが、インターネットは万能だ。万能というくらいだから萬曼荼羅の機能を持ち得ているわけで、一つ一つ褒め称えていたらキリがない。

 

 であるからに、今日ここで言う万能ぶりは“過去をいつでもどでも即座に再現してしまう”というすごさに限定させてもらう。つまり、インターネットは僕たちがもう一度見たかった「アレ」をいとも簡単に再現してくれてしまうのだ。  

 

 具体的に言うと(これも「何を今さら」と言われそうだが)、YouTubeなどでは60~70年代のロックのライブがガンガン出ている。

 「おお、これはかつてNHKヤングミュージックショーで見た○○のLIVE!」とか、

 「ああ、これはもしやその昔、NHK-FMの渋谷陽一さんの番組で聞いた音源ではないか……」

 というのがゾロゾロ出てくる。

 

★Dream come True

 

当時はインターネットはおろか、ホームビデオさえなかった時代。中高生だった僕たちはなけなしの小遣いをはたいて買ったレコードを丁寧に聞いたり、テレビやラジオの音楽番組から懸命に録音したひどい音質のカセットテープをありがたく、繰り返し繰り返し聞いていた。 

 

 月日が経ち、レコードやカセットテープはCDやDVDになり、それらはネット配信に。

 うちの小僧くんはウォークマンならぬi-podで聞き歩いているし、僕もパソコンにインストールしたi-tunesで聞いている。 

 

 YouTubeをはじめとするここ数年のネット動画は本当に驚異的で

  「え!あの時代(繰り返し言うがホームビデオもなかった1960~70年代)にこんな映像撮っていたんだ!」

 「どこにこんな音源が眠っていたんだ!」

 と驚くようなものがゾロゾロ出てくる。

 

 また、こういった音楽モノだけでなく、昔のアニメだとかドラマもまたしかり。僕たちの世代にとっては子供時代・青春時代に大好きだった世界とまた出会えて(それも殆ど無料で!簡単に!)、まさしく夢が叶った……という感じだ。 

 

★IN MY LIFE

 

 「でも」と思う。「だからなんだ?」と思う。夢が叶ったと言っても、自分で努力して何かを成し遂げたわけではないので達成感みたいなものもない。

 感激は一瞬のうちに過ぎ去って、それらは日常の一つに組み込まれてしまう。

 大好きであることに変わりはないのだが……いわば、ずっと恋愛していてやっと結婚できたら、えんえんと続く、余りエキサイティングとはいえない日常が待っていた……という感じだろうか。

 

 それも悪くない。

 

 365日ExaitingでSomething Newを求めていた時代とは違うのだ。

 僕はインターネットを通じて、自分を育ててくれた過去のお宝と一生付き合っていく。

 

  そう決めると何か新鮮な気持ちになった。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2011・9・25 SUN


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