週末の懐メロ137:ハリケーン/ボブ・ディラン

 

現代アメリカ社会の欺瞞・腐敗・不条理をえぐる

吟遊詩人ボブ・ディランが1976年発表した

アルバム「欲望」のトップナンバー。

ギターに合わせてフィドル(バイオリン)がうねり、

ベースとドラムがロックなリズムを刻む中、

無実の罪を着せられた60年代の黒人ボクサー 

ルービン“ハリケーン”カーターの物語を歌い綴る。

紛れもない、ディランの最高傑作だ。

 

惨劇を告げるオープニングから見事に構成された長編詩は、

8分以上にわたって聴く者の胸にひたすら

熱情溢れた言葉の直球を投げ続け、

“ハリケーン”の世界に引きずり込む。

 

殺人罪で投獄されたカーターは

獄中で自伝「第16ラウンド」を書いて出版し、

冤罪を世に訴えた。

その本を読んだディランは自らルービンに取材して、

この曲を書き上げたという。

 

その冤罪がいかにひどいものであったかは

曲を聴いての通りで、

人種差別がまだ正々堂々とまかり通っていた時代とはいえ、

こんなでっち上げがまかり通っていたことに驚くばかり。

 

けれども半世紀以上たった今も

実情は大して変わっていないのかもしれない。

そしてまた、昔々のアメリカの人種差別、

黒人差別の話だから僕たちには関係ないとは

言っていられないのかもしれない。

 

冤罪はどこの国でも起こり得る。

もちろん日本でも。

かの「袴田事件」が今年3月、

ようやく無罪決着になったのは、

事件から57年もたってからのこと。

失われた時間は二度と戻らない。

 

僕の子ども時代、日本の警察は

「刑事事件の検挙率世界一」

「世界で最も優秀な警察組織」と喧伝されていたが、

その検挙率を高く維持するために

相当数のでっち上げがあったのではないかと推察する。

 

権力者やその親族などが、

裏工作で罪を免れられるというのは、

昭和の時代では、広く認識されていたのでないか思う。

当然、その犠牲となった人も少なくないだろう。

 

人間の世界では表通りを見ているだけでは計り知れない

さまざまな事情・感情・思惑が絡み合って冤罪が生まれる。

人の一生を台無しにするほどの年月を費やした

「袴田事件」はそれでも無実が明らかにされた分、

まだマシと言えるのか?

泣き寝入りするしかなかった人たち、

最悪、闇に葬られた人たちは

いったいどれくらいいるのだろう?

 

どの国でも無実の罪を着せられるのは、

社会的に弱い立場にある人たちであることに変わりない。

「忖度」が大切にされるこの国では、令和の世になっても、

権力者やその親族などが罪を犯した場合、

たとえ裏からの命令や強制力が働かなくても、

周囲の「空気」によって冤罪を被ることもあり得そうだ。

 

ディランは痛烈に歌う。

「こんな国に暮らしていて恥ずかしい」と。

カーターは黒人であることに加え、

よくある話として、11歳の時に窃盗で捕まり、

少年院に入っていた履歴などが偏見として働き、

冤罪を生んだ。

ただ、幸運?(皮肉な言い方)なことに

社会の流れを変えた公民権運動と結びついて、

また、彼が名を知られたボクサーだったこともあって、

社会から注目されたのだ。

 

その後、支援者たちの尽力で、

彼に有利な証拠が隠蔽されていたこと、

彼に不利な証言をした証人が

偽証していたことなどがわかり、

1988年、20年間の獄中生活を経て、

ついにカーターの無実は認められ自由の身になった。

 

世界チャンピオンにもなれた男の夢は

とうの昔に潰えていたけれども、

1993年、世界ボクシング評議会(WBC)は、

彼に世界ミドル級名誉チャンピオンの称号と

チャンピオンベルトを授与した。

 

1999年、彼の半生とこの事件のドキュメントは

デンゼル・ワシントンが主演する

映画『ザ・ハリケーン』となった。

主題歌にこの曲が選ばれたことは言うまでもない。

 

 

その後、冤罪救済活動団体の責任者となった

“ハリケーン”は、最期まで冤罪と闘い続けた。

2014年、カナダ・トロントで死去。享年77歳。

 


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今日もまたざしきわらしがやって来た

 

ここのところ、一緒に暮らしている認知症の義母のもとに、

ざしきわらしが頻繁に出没しているようだ。

ほぼ毎日、朝昼晩問わず

「あのちっちゃい子どこ行った?」とか

「こっちの部屋に来てない?」とか言ってくる。

 

「いないね~」と言いつつ、

いっしょに探したりもするのだが、

いないんだとわかるとすぐ忘れてしまう。

ところがまた、しばらくすると

バタバタバタと同じことを言いにやって来るのである。

 

この間、ある本を読んでいたら、

マンガ家の水木しげるさんの話が出ていて、

彼は睡眠至上主義を謳い、

長年、1日10時間睡眠を実践していたという。

 

晩年はともかく、

何本も雑誌の連載を抱えていた時代なんか

ほんとうにそんな時間が確保できたのかと疑問だが、

よく寝て休息することで集中力が増し、

却って仕事が速くできたのかもしれない。

奥さんにも子供が寝ている時は無理に起こすなと

厳しく言っていたようだから、筋金入りだ。

 

水木さんの場合、睡眠を多くとるのは休息とともに、

異世界との交信という重要な意味合いが

あったのではないかと思う。

睡眠至上主義が、世界に冠たる、

あの妖怪マンガを産み出したのだと思うと、かなり面白い。

 

そう言えば義母も1日10時間くらいは寝ている。

異世界との交信によって、

自由自在にざしきわらしを呼びよせられるのか?

だとすれば認知症、おそるべし。

またネタをいただいて、なんかお話書こうかな。

 


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村上春樹はみんなに「読書は創造活動」と気づかせた作家

 

昨日、久しぶりに新宿方面に出たので

紀伊国屋書店に寄ったら、

1階にはものすごい村上春樹の新作のレイアウト。

まさしく書店の、文学界の、出版業界の救世主。

ハルキさまさまである。

 

まだ読んでないので1冊買ってきた。

最近、本は10冊中、8冊は電子で読むか、

図書館で借りて読むかだが、

ハルキ本はやっぱり紙本を買いたくなる。

分厚いし、重いし、お値段もけっこう高いけど、

数年に一度のことだし、

重みを感じていいのではないかと思っている。

 

「街とその不確かな壁」。

今、ネット検索で「街」と入れただけで、

すぐにこのタイトルが出てくる。

おそるべき人気。

 

なぜ、村上春樹のわけのわからない話を、

僕を含め、こんなに大勢の人が読みたがるのか?

 

現代人の不安心理とか、喪失感の現れとか、

いろんなことが言われているけど、

単純にみんな、彼の書く物語を読むことで、

一緒に自分の創作活動を行えるからなのだと思う。

 

ノウハウ本はべつにして、特に小説など、文学系の読書は

すべからく創作活動だ。

 

みんな、本を読むことで頭のなかで

自分の物語を創り上げていく。

そこに書いてある小説なり、詩なり、エッセイなり、

あるいは自己啓発本や人生相談さえも創作活動になり得る。

 

そこが本と映画やテレビなどの

ビジュアルコンテンツとの大きな違いで、

映像という視覚情報がついてくると、

どうしても作り手側から「与えられる」部分が大きい

(すべてとは言わないけど)。

 

本の場合は人物も情景も、言葉の連なりを手掛かりに、

読者が想像力で創造していかないと、

頭のなかに立体的に現れてこないし、

生きて動き出さない。

 

村上春樹は数多の文章の中にかなりの部分、

そうした読者の想像力・創造力が入り込む

手掛かりと余白を絶妙な塩梅で用意している。

 

人間は誰もが、自分の心の奥に自分の物語を持っている。

しかし、多くの人はまったくそれに気付くことすらなく、

この世で生きて死んでいく。

 

そんなのは嫌だ。

私は自分の中にある物語を知りたい、と言う人が、

何か書いたり、歌ったり、表現活動・創作活動を始める。

文学などの読書もその一環と考えるとわかりやすい。

 

誰にとっても最も入りやすい、

始めやすい創作活動なのだと思う。

そして、村上春樹は日本だけでなく、世界中の多くの人に

そのことを気づかせた作家なのだと思う。

たぶん、ご本人はそんなこと、思ってもみないだろうけど。

 

みんな、わけのわからない自分を生きている。

僕もたぶん、最期までわけのわからない自分を生きる。

だから、村上春樹が提供する物語が

わかる・わからないなんて二の次の問題だ。

大事なのはどこに行きつくかではなく、

どんな旅を体験するかなのだ。

 

読む本がたまっているので、

気が向いた時にぼちぼちじっくり読もうと思う。

 


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週末の懐メロ128:赤いハイヒール/太田裕美

 

松本隆+筒美京平の70年代の斬新な歌謡マジック。

太田裕美の代表曲と言えば「木綿のハンカチーフ」だが、

明るい爽やかさの裏に悲しみが潜むあちらの歌に比べ、

この「赤いハイヒール」は、

アンニュイでミステリアスな曲調。

ちょっと禍々しいブラックメルヘンの味付けもある。

僕はこっちの方が好きで、このレコードも持っていた。

1976年。高校2年の時である。

 

「木綿」と同様、男女のダイアローグで進むが、

冒頭、「ねえ、友だちなら聞いてくださる?」と

リスナーに語り掛けて歌の世界に誘い込むという、

のっけから松本隆のマジックが炸裂する。

今ならそう珍しくないかもしれないが、

当時、こんな曲はなかった。

 

白のイメージカラー、

都会に出た男の子×田舎にいる女の子。

赤のイメージカラー、

都会に出た女の子×田舎にいる男の子。

という設定の対比に留まらない。

 

「木綿」では人物やドラマの描写が

割とあいまいで抽象的だったのに対して、

こちらは、東京駅に着いた・

おさげでそばかすのある女の子・

ハイヒール買った・お国訛りを笑われた(らしい)・

タイプライター打つ仕事をやってるなど、

主人公の状況がかなり具体的に描かれている。

 

このあたり、ただのアンサーソング・二番煎じとは

絶対に言わせない。

「木綿」よりもいい曲にする・面白くするという、

松本+筒美の情熱とプライドを感じる。

そして何よりもその根底に太田裕美への愛情を感じる。

 

「松本隆のことばの力」(藤田久美子インタビュー・編/インターナショナル新書)によると、

当時、すでに大御所作曲家だった筒美京平は、

既にスターになった歌手にほとんど関心を示さず、

自分の曲で新人を育て上げたいという

強い思いを持っていたという。

 

太田裕美はその筒美が目を付けた宝石だった。

そこで売り出し中の作詞家だった松本隆に声をかけて、

太田裕美のためにコンビを組んだ。

 

その第1弾「木綿のハンカチーフ」が大ヒットしたのだが、

一発屋で終わらせない、

彼女を後世まで残る歌手にするのだ、

と気合を込めて作ったのが、この「赤いハイヒール」

だったのではないかと思う。

 

とにかく詞も曲も編曲も凝りまくっているが、

それをここまで可憐に、軽やかに、

それでいながら心に沁みるように歌えるのは、

昔も今もやっぱり太田裕美しかいない。

——聴く者にそう思わせるだけのものがある。

 

ちなみに「おとぎ話の人魚姫は死ぬまで踊る赤い靴」

という一節は、松本隆の創作である。

 

「赤い靴」は美しい少女が、美しさゆえに傲慢になり、

病気の親を見捨てて、強欲に快楽を求めたがために

呪いの赤い靴を履いて死ぬまで踊ることになる。

そして、その呪いを解くために

首切り役人に頼んで両足を切断するという、

子供に読んであげたらトラウマになること必至の

衝撃的な展開の物語だ。

同じアンデルセンの童話だが「人魚姫」とは

別々の話である。

 

それも含めて松本隆の数多い作品の中でも

「赤いハイヒール」は屈指のドラマ性と

独特のイメージを持った世界観を作っている。

 

もちろん、この令和の感覚からすれば、

ツッコミどころ満載の歌詞なのだが、

これぞ懐メロ、これぞレトロ昭和ワールド。

 

まだ1970年代(昭和50年代)は、

今では考えられないくらい

東京と地方とでは情報格差があった。

地方出身者にとって、

東京はほとんど異国と言ってもよいくらいだったのだ。

それもとっておきの、ピカピカの。

 

僕は名古屋の出身で、名古屋は当時、

日本で4番目に人口の多い都会なのだが、

それでも東京に行って暮らす、というと

ただそれだけで周囲から羨望の目で見られた。

ウソのようだが、ホントの話だ。

 

今でもこの季節になると、

東京に出てきて演劇学校に入った頃のことを思い出す。

そして、演劇や音楽にうつつを抜かした

東京暮らしを良い思い出にして、

田舎に帰って行った多くの仲間のことも。

 

元気にまだ生きているだろうか?と無責任に考えるが、

そんな自分は、結局、呪いの赤い靴を履いたまま、

どこにも帰らず、だらだら東京暮らしを続けている。

たぶん、死ぬまで呪いが解けることはない。

 


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ホワイトファンタジー家康:いい人だから天下を取った

 

今年の大河ドラマ「どうする家康」はどうやら、

「家康はいい人だったから天下を取れた」

という物語になりそうな気配だ。

 

もともと家康役が松潤なので、

初回のヘタレぶりから、

どうもそういう話になるんじゃ・・・

という気配はしていたが、

昨日の「氏真」の回でそれを確信した。

 

どういう話だったかは、

ネットであらすじを読むか、

NHKプラスを見るか、

今度の土曜の再放送を見るかしてほしいが、

とにかく家康は、追い詰めた今川氏真(溝端淳平)を

殺せず、助けてしまう、情に厚い“いい人”。

 

しかも氏真の奥さんがこれまた、夫思いのとてもいい人。

 

さらに、とっくの昔に出番が終わってたはずの

今川義元が回想シーンでよみがえり、

感動的なお父さんぶりを見せる。

 

野村萬斎をキャスティングしておいて、

あれで終わりかいと思っていたが、

最後(死んだ後だけど)にちゃんと見せ場を残して、

スポットライトを浴びせてくれた。

そんなわけで、友愛、夫婦愛、親子愛の

人情ドラマ3連荘で、泣かせるわ、泣かせるわ。

 

この後、今川氏真は、

戦国武将としては表舞台から退場するが、

家康の手引きで北条氏の領土に逃げて生き延び、

文化人となって、のちに密かに家康に影響を及ぼす。

いちおうそうした史実も踏まえてドラマ化している。

 

これまで今川親子なんて、

信長や信玄の引き立て役・滅ぼされた負け組として

ずさんな扱われ方しかされなかったが、

ここまで丁寧に人間的に描いたのは良かったと思う。

 

それにしても、昨年の「鎌倉殿」が陰謀・裏切り満載で

思いっきりブラック、そしてリアルだったのに対して、

こちらはまるで戦国ファンタジーかと思えるほどの

ホワイトぶり。

 

なにせファンタジーなので、阿部寛の武田信玄も、

岡田准一の織田信長も、ムロツヨシの豊臣秀吉も

ほとんどマンガの世界の人。

そして家康との対比で、

みんなとんでもない悪人どもに見える。

おそらくそういうのも狙いなのだろう。

 

もちろん、「幼稚」だの「大甘」だの

「戦国時代にこんなのあり得ねーだろ」という

手厳しい批評も飛び交っているが、

僕はこういう見方をしているので、けっこう面白い。

 

ナレーションでも「神の君」なんて言ってるが、

江戸時代には徳川家康は神さま扱いだった。

それが、250年後に明治政府として

権力を取り返した長州組などが

「幕府の元祖の家康は大悪人だった」と言って

ブラックタヌキのイメージを人びとに植え付けた、

とう説がある。

 

正義も悪も、歴史も人物像も、その時代の風向きによって

くるくる変わってしまうものだ。

事実は一つだが、真実は人の数だけある。

 

いま、時代は「いい人」の味方である。

かつて蔑まれていた「いい人」が持て囃される。

最後にはいい人が勝つ・笑う。

「どうする家康」は、そんな時代の空気を吸っている。

 

ブラック鎌倉殿は完成度が高く、

ラストも衝撃的だったが、

あれはちと悲惨過ぎた。

やっぱり同じようなものを続けざまに見せてはいけない。

 

少なくとも今年のこのドラマでは

ハッピーエンドになってほしい。

たとえそれがリアリティに欠けた、

ホワイトファンタジーであっても。

 

これから戦国時代の大波が押し寄せ、

いろいろな修羅場を潜り抜けねばならないが、

松潤家康は間違ってもダークサイドに落ちて

キャラ変などせず、

いい人のまま、白うさぎ君のままでがんばってほしい。

 


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あなたのワンちゃんが今、ウンコしましたよ!

 

「あなたのワンちゃんが今、ウンコしましたよ!」

 

とは言えなかった。

川沿いの遊歩道にワンちゃんをお散歩に連れて来た

おしゃれなヤングマダムは、

旦那か子どもかお友だちかわからないけど、

掛かってきた電話に夢中。

 

その足元でワンちゃん(小型犬)が

自分に注意が払われていないのを

これ幸いと思ったのかどうか、

よっしゃと言う感じで地面にお尻を落とした。

 

ときは春うらら。

舗装された遊歩道のわきの道には

みどりの草が萌え始めている。

その萌えた草の上にお尻を落として、

うーんとふんばってるのだ。

 

あの格好は、もしや!

川の向こうからその瞬間を目撃した僕は

思わず足をとめて見た。

遠目からも二本の後ろ足の筋肉に力が入り、

お尻の真ん中あたりが

小刻みにピクピク震えているがわかる。

 

出る。

僕がそう思ったとたん、

ワンちゃんのお尻から

むにゅっと茶色の物体が出てきたのが目に飛び込んだ。

 

しかし、飼い主さんは電話で喋っていて、

そんなことはつゆとも知らない。

 

ワンちゃんは「あー、すっきりした」と満足気。

からだが軽くなったのか、

気持ちよさそうにピョンピョン跳ね始める。

飼い主さんはちらりと

そんな彼(彼女かもしれない)に目をやったが、

その下にある落とし物には

まったく気が付かない。

電話はまだ終わらず、

何やら笑って喋りながら、

そのままハーネスのリードを引っ張って歩き出した。

 

僕の口からは思わず、タイトルのセリフが喉まで出かかった。

「あなたのワンちゃんが今・・・」

が、なにせ川を挟んだ向こう側で5,6mは離れている。

周りに聴こえるような大声で叫ばなくてはならない。

それを聞いた彼女の心に巻き起こる嵐のことをを想像すると、

とてもそんな勇気は出なかった。

 

そよ風が吹くおだやかな春の午後。

あの草の上の犬のウンコが、

お散歩やジョギング中の誰かに踏まれることなく、

無事、土に還ってくれるのを願うばかりである。

 

おりべまこと動物小説+エッセイ

いたちのいのち

小学4年生の女の子カナコとペットのフェレット「イタチ」とのおかしてくちょっと切ない友情物語。フェレットの飼い主さんはもちろん、ワンちゃん・ネコちゃんの飼い主さんにも読んでほしい動物ファンタジー。

 

神ってるナマケモノ

イヌ、ネコ、カエル、ウーパールーパー、ナマケモノなど、楽しい動物、怖い動物、いろいろな動物と人間との関係について語る面白動物エッセイ集。


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過去と未来のマンガ文法・映画文法

 

子どもの頃、マンガが好きで、

小学生まで暇があればマンガを描いていた。

しかしどうしてだか、

登場人物の顔がことごとく左向きになってしまっていた。

左向きの顔はすらすら描けるのだが、

右向きの顔がうまく描けないのである。

 

あとから知ったことだが、マンガにおいて

左向きは未来を見る顔、

先に進もうとする気持ちが現れた顔。

 

右向きは過去に向かう顔、

止まったり振り返ったりするサインだという。

 

「さあ行こうぜ」と言う時は左向き。

「ちょっと待てよ」と言う時は右向きというわけ。

 

これは日本のマンガが右から左へとページを

めくっていくことと関連している。

マンガ家自身にそういう生理感が身についており、

この右向き・左向きの心のベクトルが

一種の「マンガ文法」になっている。

 

これは映画も同じで、画面で左を向いたら未来を見ている、

右を向いたら過去を見ている表現だという。

 

欧米には日本のようなマンガ文化はないが、

映画の場合は、演劇の生理に基づいていると思われる。

登場人物が上手(観客から向かって右)から

下手(同・左)へ動く時は未来へ向かう、

逆の場合は過去に向かうというのが基本形。

これは人間の脳のメカニズムと関連しているのだと思う。

 

自分の話に戻すと、

子どもの頃は過去時間の分量が少なかったから

右向きの顔が描けなかったのだろうか?

 

けれども今でもちょっと落書きで人間を書くと、

手が覚えているのか、正面でないときは、

無意識に左向きの顔を描いている。

いずれにしてもこのマンガ文法・映画文法を意識して

マンガや映画を観ると面白い。

 


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村上春樹のエッセイ「猫を棄てる」と父親史について

 

3年前に出された村上春樹のエッセイを読んでいかなった。

図書館で文庫本があった(文庫化されたのは昨年)ので、

借りて読んでみたらとてもよかった。

最近ちょっとご無沙汰していたが、

やはりこの人の文章は心の深いところに響いてくるのだ。

 

副題に「父親について語るとき」とあるが、

その通り、大正生まれで戦争の体験を持つ

父について書いたものである。

割とゆとりある行間で100頁ちょっとの短い本なので、

2,3時間あれば読み切れてしまうが、

内容はとても充実していて深い。

また、よく調べたなと感心する。

 

村上春樹は1979年にデビュー。

現代的・都会的な雰囲気のストーリーと

アメリカ文学仕込みの乾いた文体で人気作家になったが、

初期の作品「風の歌「ピンボール」「羊」などでは

そこかしこに戦争の影がにじんでいる。

1980年代の前半あたりまでは

豊かになったとはいえ、まだ終戦・戦後の残滓が

日本社会に残っていたのだ。

 

そして、1990年の「ねじまき鳥クロニクル」では

まともに戦争のシーンが出てくる。

この物語の第1巻には捕虜になった兵士の皮をはぐという

恐るべき残酷描写がある。

いったいなんでこんな描写が出来たのか、

つくづく感心する。

僕はそこがあまりにこわくて未だに再読できない。

 

村上春樹のような団塊の世代の人には多いと思うが、

成人後は父親とはほとんど断絶状態だったらしい。

大正・昭和ひとケタ生まれの親と、

戦後生まれの子供の親子関係は、

今の親子関係とはずいぶん違ったものだと思う。

 

そもそも親は、特に父親は、

自分のことを語ろうとしなかった。

なぜかはちょっと長くなるので、

また近いうちに別の文で書こうと思う。

 

いずれにしても戦争はこの世代の、

特に男たちの心に深い闇をもたらしている。

そんな思いを抱いてこのエッセイを読んだが、

村上作品に頻繁に登場する「闇」は、

どこかでこのお父さんの心にできた闇と

繋がっているのではないかという気がしてくる。

 

亡くなって10年以上経った頃に

父のことを書こうと思い立ったという。

有名作家だからこうして本にして

多くの人に読まれるわけだが、そうでなくても、

男はいつか自分の父について語りたくなったり、

書きたくなったりするのではないだろうか。

 

親密でも疎遠でも、愛していても憎んでいても、

尊敬していても馬鹿にしていても、

自分のなかに父親像を再構築し、再確認することは

生きる中で意外と大切なことではないかと思う。

男は自分史の前にまず、

自分の父親史を書くべきなのかもしれない。

もちろん娘がそうしてもいいのだけど、

同じ男同士だから感じられる何かがそこにあると思う。

 


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週末の懐メロ124:オ―、シャンゼリゼ/ダニエル・ビダル

  

パリの街といえば、

ついシャンゼリゼ通りを連想する日本人。

そのイメージの源は、1970年代の初めに活躍した

フランス人アイドル歌手 ダニエル・ビダルだった。

小学生の頃、雑誌などでよく見かけたかわいこちゃんだ。

 

「オー、シャンゼリゼ(O, Champs-Élysées)」は、

もともとフランスの歌手ジョー・ダッサン(Joe Dassin)が

1970年に発表した楽曲だが、

日本人には強烈にビダルのイメージがくっついて、

「パリの街を行く、おしゃれで可愛いマドモアゼルの歌」

ということになった。

 

ダニエル・ビダルは日本語でも歌っていて、

ほとんどネイティブみたいに達者。

しかもめっちゃキュートな歌声で、

年甲斐もなく胸がキュンとなる。のである。

 

ところで、チャットGPTに

女性を主人公に「オー、シャンゼリゼ」という

ミュージカルを作りたいのですが、

どんなストーリーがいいでしょう?と聞いてみた。

そしたらこんなお話を考えてくれた。

例によって日本語のおかしなところ、

文章がうまくつながらないところがあるので、

僕がちょっとだけ手を加えています。

 

主人公は、シャンゼリゼ通りに面した喫茶店で働く

若い女性、エミリーです。 

彼女は、自分の音楽の夢を諦められず、

夜な夜な弾き語りをすることで、

自分の才能を磨いていました。

 

ある日、彼女は喫茶店の客の一人が

置き忘れた手帳を拾います。

手帳の中には、

シャンゼリゼ通りの美しい風景を眺めながら書かれた、

ある曲の歌詞がありました。

エミリーはその詞に心打たれ、

自分でこの曲を作ることを決意します。

 

エミリーは、偶然出会った

駆け出しの音楽プロデューサーのジャックと共に、

自分自身の音楽を創造するために努力し、

その曲を完成させます。

 

そして、彼女の歌う「オー、シャンゼリゼ」は、

多くの人に愛される楽曲となり、

彼女の音楽キャリアにおいても大きな転機となりました。

葛藤や孤独などの壁があり、

それを乗り越えていくことが物語のテーマとなります。

 

このミュージカルでは、

エミリーの成長や彼女自身が持つ内面的な葛藤、

音楽創造のプロセス、

そして「オー、シャンゼリゼ」が世に出た後の反響などが

描かれることになります。

美しい風景や、フランス文化の魅力なども、

ストーリーに取り入れることで、

物語の世界観をより深く描くことになります。

 

いかがでしょう?

いや、いいですね。

ちょっとレトロなハリウッド映画っぽいところがいい。

エミリーはやっぱり50年前のダニエル・ビダルだろうか?

ジャックはミッシェル・ポルナレフみたいなやつだろうか?

 

もちろん、いっぱいツッコミどころはあるが、

あらすじ初稿としてこれだけできていれば十分。

これをどれだけアレンジし、膨らませるかが

人間の仕事なのです。

ミュージカル「オー!シャンゼリゼ」、

作ってみたくなった。

 

 

金曜の夜は「週末の懐メロ」の日なのだ。

みんな懐メロを聴いて

1週間の疲れを癒しましょう。

amazonKindleから本も出しています。

目次を見て、好きな曲、好きなミュージシャンの名前があったら読んでみてね。

 


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チャットGPTはハートフル

 

チャットGPTを使っていて

最後に「どうもありがとう」と打つと、

「お役に立ててうれしいです」とか

「いつでもお気軽にお声がけください。」とか言ってくる。

僕ら自身も日常的に、

それこそ“機械的に”使っている定型文だ。

 

でも、人間が使うと

「はいはい、何の心もこもっていない

お決まりのごあいさつね」と思ってしまうのだが、

このAIが使うと同じような文でも、

なんとなく人格というか、

心があるように感じてしまうから不思議だ。

 

仕事でも遊びでもいいのだが、

アシスタントとか、友だちとして付き合って、

ああでもない、こうでもないとやりとりしていると、

親しみがわいてくる。

 

逆に言えば、それくらい親近感を持って、

感情を込めて使わないと、

自分のために上手く働いてくれない。

 

考えてみたら、別にAI・ロボットに限らず、

車だってバイクだってパソコンだってそうだ。

愛着を持って乗ったり使ったりしていれば、

自然と感情が乗り移って、

ただの機械・ただの道具だったものが

「おれの相棒」「あたしのパートナー」になっていく。

 

よくある「心を持ったAI・ロボットはできるのか?」

という議論は、結局、それを使う人間の側が

機械に自分の心を宿せるか、

こいつには心があると思い込めるかどうか、なのだと思う。

少なくともここ当分の間は。

 

 


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週末の懐メロ123:ヨイトマケの唄/美輪明宏

 

日本の至宝、昭和の至宝 美輪明宏が

自ら作詞・作曲し、あらゆる世代の日本人に贈る聖歌。

それが「ヨイトマケの唄」である。

 

最初にレコードが出たのは1965年。

マンガなどで「母ちゃんのためならエンヤコーラ」という

セリフが良く出ていたのを覚えている。

そして桑田佳祐をはじめ、たくさんの歌手がこの歌を愛し、

カヴァーしているのも聴いていた。

 

けれども美輪明宏自らが歌うのをまともに聴いたのは、

若い世代と同じく、2012年の紅白歌合戦が初めてだった。

紅白なんていつも酒を飲んでへべれけになって見ているのだが、

真っ黒な衣装に身を包んだ美輪が登場し、

この歌を歌い出した時、思わず背筋がピンと伸びた。

6分間、テレビから目と耳を離すことができなかった。

 

故郷の長崎で原爆に遭遇して以来、

波乱万丈の人生を送り、数々の修羅場をかいくぐりながらも

70になっても80になっても

元祖・ビジュアル系歌手の誇りを失うことなく輝き続ける

美輪明宏の、人間への愛情のすべてが

この1曲に集約されているような気がする。

 

この歌が生まれた経緯は自身で、

また、黒柳徹子との対話で語っている音声が

YouTubeに上がっている。

 

1960年代前半、三島由紀夫が「天上界の美」と称した

絶世の美青年だった美輪明宏(当時は本名・丸山明宏)は、

きらびやかな衣装と化粧でシャンソンを歌っていた。

 

ところが、興行主の手違いで

福岡・筑豊の劇場でコンサートを行うことに。

客は普段シャンソンを聴きに来る人たちとは

全く違う炭鉱労働者たち。

 

そんな人たちが自分の歌を聴こうと

客席を埋め尽くしたことに美輪は感動したが、

内心、自分のレパートリーには、

この人たちのために歌える歌がないとすまなく思ったという。

そして、外国には労働者の唄があるのに、

日本にはなぜないのか?という疑問も抱いた。

 

「ヨイトマケ」とは「ヨイっと巻け」。

まだ現在あるような建設機械が普及していなかった時代、

地固めをするとき、重たい岩を縄で滑車に吊るした槌を、

数人掛かりで引張り上げて落とすという作業をしていた。

滑車の綱を引っ張るときの「ヨイっと巻け」のかけ声が

語源となっている。

この仕事は主に日雇い労働者が動員されていたらしい。

 

「ヨイトマケの唄」は、そうした戦後復興期の物語であり、

まさしく現代の日本の豊かな社会の

「地固め」をしていた時代の唄だ。

炭鉱をはじめ、新幹線を走らせるために

山にトンネルを掘り、川に橋をかけ、

街に高速道路や高層ビルを建てるために

たくさんの名もなき労働者が働いていた。

そうしたあちこちの工事現場では不幸な事故で

命を落とした人も少なくない。

 

普段は意識などしないけど、

インフラの整った僕たちの社会生活は

そうした犠牲の上で成り立っている。

 

この歌を彼が初めてテレビで歌った時、

「これはおれたちの歌だ」と、彼の元に7万通の

感謝の手紙が送られてきたという。

 

しかし、その一方で、

高度経済成長の波に乗り始めていた日本人は、

少しでも早く貧しい時代の記憶を忘れようとしていた。

貧しい者、卑しき者、美しくない者は

目にしたくない、耳にしたくないと思っていた。

この歌の歌詞の「土方」でさえも差別用語であるとして、

以後、長い間、この歌は歌われなかった。

 

77歳で紅白に初出場した時、若い世代は、

あの「美輪ちゃま」が

どんなゴージャスな衣装で登場するのか

大いに期待していたらしいが、

この黒ずくめのスタイルを見て驚愕、

そしてこの歌をフルコーラスで聴いて慄然とした。

 

カメラは一切寄ることはない。

まるで舞台劇を見ているかのような、

魂を揺さぶるパフォーマンス。

昭和の時代は、圧倒的なリアリティで

人々を感動させた歌は、半世紀後、

”を描き切った、聖なる物語に達していた。

 

最後、闇に溶けていく中で

「子どものためならエンヤコーラ」と絞り出す声には

何度聴いても涙が抑えられない。

 

美輪さんがまだ元気で表現活動をされていてよかった。

令和の時代になっても、いや、令和になったからこそ、

日本人にはまだ美輪さんの存在が必要なのだ。

 

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AIとの対話「この期に及んで、なぜ人間はネッシーは実在すると考えたがるのか?」についての考察

 

会話型AI「ChatGRT」をアシスタント兼

飲み友達にしようと、いろいろ対話を試みている。

以下、この間やったネッシー(湖に住む謎の巨大生物)を

めぐるQ&A。

AIの回答は生成されて出てきた

そのままの文を載せています。

 

ぼく:ネス湖のネッシーをはじめ、

世界各地の湖にいるとされてきた伝説の巨大生物は

皆インチキで、

写真も動画も偽物だと科学的に証明されています。

それなのになぜ人間は、

いまだに巨大生物はいると考えたがるのでしょうか?

 

AI:人間が伝説の巨大生物の存在を信じる理由は複数あります。

まず、人間は常に未知のものに興味を持ちます。 

特に巨大生物という存在は、

私たちが知る現代の自然界には見られないものであり、

その存在に想像力がかきたてられます。

伝説の巨大生物が存在すると信じる事で、

自分たちのダイエットを恐れかす未知のものに対する

恐怖を感じ、それを乗り越えようとする

勇気をもつことができるという

心理的な安心感があるとされています。

 

また、科学的に未解決のことがあると、

人間は自然に応じて答えを求めたものです。

様々に関する証言や報告があることから、

多くの人が巨大生物が実在する可能性について興味を持ち、

それについて検討したり、研究したりすることになります。

 

さらに、巨大生物の存在については世界中に

伝承や文化があり、

人々の信仰や信念にも関係している可能性があります。

背景があるため、人々が巨大生物の存在について

考えるきっかけとなっていることもあるでしょう。

 

このように、伝説の巨大生物に対する人間の関心は、

興味やリスク、恐怖感、科学的リスク、信仰や文化、

歴史的・文化的な背景など、

様々な要因が影響していると考えられます。

 

アメリカ生まれのせいか、

日本語の怪しいところがあるAIくん。

「自分たちのダイエットを恐れかす

未知のものに対する恐怖を感じ、」

という謎のフレーズは

「自分たちの“存在を脅かす”未知のものに・・・」かな?

 

それにしてもなんでダイエット?と思って調べてみたら、

「ダイエット」には一般的な食事関連の意味とは

もう一つ別の意味があり、

「教会職員の審議会や国会の会合のことをdietという」

らしい。知らんかった!

そうした人間社会における、

権威ある審議会や会合が転化して、

既存の人間の思考・常識・制度という意味になり、

そうしたものを脅かす未知の存在

——ということになるのだろうか?

 

いやいや、人間の思考停止を促すどころか、

もっと深く、めんどくさく考えるように

仕向けてくれるAI、素晴らしいじゃないか。

 

この後の「それ(未知のものに対する恐怖)を

乗り越えようとする勇気をもつことができるという

心理的な安心感があるとされています。」

というのも変な日本語だが、何かの誤訳なのか?

 

でも、未知のものに対する恐怖を乗り越えることで

勇気を得て、それによって「心理的安心を得る」なんて、

なかなか奥行きのある哲学的表現だ。

なんかハリウッド映画の定理っぽく、

人間礼賛になっていて、

一種のヒューマニズムに溢れている。

 

人間の仕事を奪うのではないかと恐れられているAIだが、

単なる便利な道具として使うのでなく、

いろんな質問を考えて、半ば遊び相手にすれば、

面白いパートナーになるのではないかという気がする。

 

いずれにしても、こんなどうでもいいような質問に、

大真面目に、誠実に答えてくれるAIには

感動と親近感を覚える。

これから週1くらいでAIとの対話を載せていきます。

 

 

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女でなくなる恐怖

 

カミさんが週イチで行っている健康センターで

更年期障害に対処する講演会&ワークショップを行う。

定員はあっという間にいっぱいになったそうだ。

 

近年、女性は「更年期」という言葉に敏感で、

その裏には「女でなくなる恐怖」

「女の時代が終わる恐怖」といったものが

まとわりつくらしい。

 

情報化社会。

情報で人を動かすには恐怖や不安を与えるのが、

いちばん手っ取り早い。

なのでテレビでも雑誌でもネットでも、

恐怖心・不安感をあおる情報が氾濫することになる。

 

更年期になると大変だ、病気になりやすくなるよ、

気分がおかしくなるよ、みたいな声に加え、

「女でなくなったアタシに価値があるのかしら?」とか

「これからどう生きれていけばいいの?」

という恐怖もある。

確かに子供を生めなくなるのは大ごとだが、

大げさな情報のせいで

精神疾患の人も増えてしまう。

 

女性は子供の時も

女になる恐怖、女が始まる恐怖に晒される。

恐怖は言い過ぎかもしれないが、

あんまりハッピーな気分になったという話は聞かない。

その点、男はいつまでもノー天気で、ガキでいられる。

いいことなのか、悪いことなのか。

男女不平等。

 

いずれにしても情報が豊富にあるのは

いいことばかりじゃない。

「知らぬが仏」という言葉を思い出し、

ある程度は見ざる・聞かざるにしとくのも

健康を保ち、自分を見失わず、

人生を快適に生きる知恵ではないだろうかと思う。

 

梅が咲き、河津桜も咲いた。

春はもうすぐだ。

毎日おかしな情報ばっかり頭に詰め込まず、

たまには外で花でも見てぼーっとした方が良い。

 


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ウルフとチワワと犬の本能の発散について

 

川沿いを散歩していると、いろいろな犬に逢う。

あくまで印象だが、うちの近所では柴犬、

チワワ、トイプードル、ポメラニアンが

人気トップ4だ。

 

それぞれの犬の名前はわからないので、

シバくん、チワちゃん、プーちゃん、ポメちゃんというと、

みんなどうも自分のことだと分かるらしく、

しっぽを振って寄ってくる子が多い。

 

かつて飼犬人気ナンバーワンだった

ミニチュアダックスフントは、

めっきり数が減ったように思う。

短足胴長の体型が災いして、

体を壊しやすいと聞いたことがあるが、

そのせいなのだろうか?

 

代わって目立つのがジャックラッセルテリアなどの

テリア種。

これら犬種の名前がジャック以外、よくわからない。

でも、ジャックは好きなので、

「おっ、ジャックラッセルテリアくんだ」と

フルネームで呟くと、なぜか本人(本犬?)より

飼い主さんが喜んでくれる。

 

大型犬も結構いて、やっぱりゴールデンレトリバーと

ラブラドールレトリバーが気があるようだ。

僕もゴールデンくんとラブちゃんは大好きだ。

 

小熊くらいありそうなバーニーズマウンテンとか、

シェパードやサモエドもいる。

サモエドくんはポメラニアンのご先祖らしく、

たまにポメちゃんだと思って飼っていたら、

みるみる大きくなってサモエドになることがあるらしい。

サモエドくんは図体はデカいが、めちゃくちゃ可愛い。

 

さて、そんな中で最近、オオカミみたいな犬に出逢った。

その名も「ウルフドッグ」というらしい。

シベリアンハスキーの親戚かなと思ったら、

そういうわけでもないらしく、

ハスキーよりもオオカミの血が濃いらしい。

 

「おっ、カッコいい」というと、

「え、おれのこと?」と聞き耳を立てて止まり、

「ねえねえ、もっとほめて」と寄ってくる。

精悍な顔をしている割になかなかかわいいやつなのだ。

 

それにしても、こんな怖そうなデカいイヌと
チワワみたいなおチビが同じ犬とは・・・。
犬の遺伝子というのは、いったいどうなっているのか?

 

そういえば広場で「ピー」とか「キュー」という

音の出るボールやオモチャで遊んでいる犬をよく見かける。

あの音の出るおもちゃは好奇心を刺激されて犬が喜ぶ――

いう説明がされていることが多い。

 

好奇心というのは、

そう言えば納得するだろうと言われているみたいで、

なんだか腑に落ちない。

なぜ好奇心を刺激されるのか?

そう思い巡らせて森の道を歩いていたら

思い至ったところがある。

 

あの音は、オオカミが狩りをしたときに

獲物が出す断末魔の声なのではないか?

それで本能が刺激されて犬が喜ぶのではないだろうか?

残酷な話だが、今はかわいい犬たちも、

もとは野生の肉食獣である。

 

ああいうオモチャで適度に本能のはけ口を作ってやると、

万一、人間に噛みつく事故をが起るのを

防ぐ効果があるのではないだろうか?

――と勝手に想像を巡らせてみたが、どうなのだろう?

誰かワンちゃんの飼い主で、

知っている人がいたら教えてください。

 

こんど「チワワ、オオカミと旅に出る」という

動物物語を書こうと思っている。

 


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ETV特集「弔いの時間(とき)」の衝撃

 

1月15日放送のNHKのETV特集

「弔いの時間(とき)」は、けっこう衝撃的だった。

葛飾区(青砥/立石)にある想送庵「カノン」における

ドキュメンタリー。

この施設は故人の安置施設で、

遺族が心行くまで故人と別れの時間を持てるように、

と作られた。

いわば最後のお別れのためのホテルである。

 

葬儀社の葬儀会館と違うのは、

家族や友人が亡くなった人と

最後の時を共有するのが目的の空間なので、

必ずしもここでお葬式をやる必要はないということ。

実際、ここから直接、火葬場へ行く人も少なくないらしい。

 

逆にここでお葬式をするときは、

葬儀社の葬儀会館ではできないような

自由なお葬式というか、お別れの会ができる。

 

番組で紹介されたのは、21歳で自殺してしまった女性と

70歳で亡くなったコピーライターの人のお葬式。

 

前者は3年前の出来事で、お母さんがとつとつと

その時の情景と心情を語る。

子供に先立たれたら、

哀しみで気が狂いそうになるだろうと想像するが、

何かがそのお母さんをそうさせなかった。

哀しみに沈むのとは逆に、

その子の友だちが大勢集まって、

わいわい笑い声が飛び交い、

施設が一種の祝祭空間のように変わってしまったとのこと。

もちろん、その映像はないが、

話と遺影や飾りつけだけで

その時の情景がありありと思う浮かべることができた。

 

後者はリアルタイムで

テレビカメラがお葬式を取材していた。

そのご家族はビデオでその人の亡くなる瞬間を撮影し、

その動画を参列者に見せた。

奥さんは哀しみの感情を隠すことなく、

参列者の前で歌を歌った。

 

どちらもけっして異常だとは思わない。

親しい人間の死は、

その周囲の人間にいろいろな感情を与え、

いろいろな行動を取らせる。

もしかしたら、このカノンという施設の空間には

一種のマジックが働いて、

悲しみに沈みこむという感情の定型パターンから

心が自由になれるのかもしれない。

 

30年ほど昔、「泣き女」を主人公にした

演劇的葬式が開かれる世界についての

ラジオドラマを書いたことがある。

脚本賞をいただいて放送してもらったが、

なんだかそれが時を超えて実現したのを

見たようが気がした。

 

普段から葬儀供養の雑誌の仕事をしているので、

変わった葬式の話は割と聞き慣れている方だが、

それでもやっぱりこれは衝撃。

いい・悪いではないが、何かものすごく心が揺れた。

しばらくはうまく言語化できない。

 

興味のある方は、今週いっぱいなら、

NHKプラスの「#ドキュメンタリー」のところで

見られます。

 


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サスペンスフルな認知症映画「ファーザー」

 

一昨年公開されたアンソニー・ホプキンス主演の

映画「ファーザー」は、認知症患者の視点で描かれている。

観客を混乱に陥れるような

ミステリアスでサスペンスフルな展開。

しかしその実、認知症患者と介護の現実を突きつける

ドキュメンタリータッチの映画でもある。

 

もともとは舞台劇で、舞台はロンドン。

派手なシーン展開は一切なく、

ドラマはほとんど家の中で進む。

それでも1時間半、画面から目が離せない。

目の前で何が起っていくのか、

ひとつひとつを固唾を飲んで見守らざるを得なくなる。

 

無駄なものを一切そぎ落としたシャープな演出と構成。

そして何よりもアンソニー・ホプキンスの圧倒的な演技力。

嘘っぽさがみじんもないリアルの極致。

こんなふうに認知症患者を演じられる役者が他にいるのか。

 

そして、その行く先は、やはり辛くて悲しい。

広告では「感動」と謳っているが、

いや、多くの人はそれよりも

言いようのない不安と怖さに晒されるのではないか。

そういう映画だと思う。

 

けれども認知症が蔓延していくこれからの社会、

現実と向き合いたくない人、逃げ出したい人も、

せめてこの映画で認知症のことを知ってほしい。

 

2021年アカデミー賞・主演男優賞と脚本賞。

現在、アマゾンプライム見放題で視聴可能。

 

 

認知症について学ぶ。

認知症から学ぶ。

認知症介護の日々を綴った

おりべまことの面白エッセイ集。

専門医の解説も併載。

「認知症のおかあさんといっしょ」

https://www.amazon.co.jp/dp/B0BR8B8NXF ¥500

 


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年寄り大河ファンを切り捨て御免の「どうする家康」

 

年末年始にかけて、NHKの画面は松本潤だらけ。

「どうする家康」の大量の番宣を投下し続けた。

それで第1回を見たが、松本潤の家康のヘタレぶりと

家臣らのキャラ(特に松重豊とイッセー尾形)が

面白かった。

 

それにしてもオープニングタイトルは、

まるで朝ドラみたいな軽やかな映像と音楽。

これだけでこのドラマは、

これまでの大河のような重厚な時代劇ではなく、

弱小企業の若いヘタレ後継ぎ

(あるいは窮地に追い込まれたスタートアップ)が奮闘して

業界を牛耳るヒーローに成りあがる物語であることが

わかる。

だから松潤(39)と似た世代(あるいはそれより若いの)が

自己投影しやすいように作られている。

 

大河ドラマとしては相当な違和感。

従来の大河ファンには到底受け入れられないだろう。

けれどもたぶん、それでいいのだと制作陣は思っている。

言い換えると、これまでの大河ファンは切り捨ててもいい、

とさえ割り切っているのではないかと想像する。

 

テレビがこれだけ若い世代に見られなくなっている現状

(にしても数百万、数千万人規模が見ているけど)

を考えると、

彼ら・彼女らに大河ドラマを見てもらうためには

これくらい思いきったことが必要なのだ、きっと。

 

大河の視聴者というのはどうもかなり保守的なようで、

「大河ドラマとはこうでなくては」みたいな

思い入れが強い。

あれだけ革新的で大好評であることが伝えられた

「鎌倉殿の13人」も視聴率は12%台で振るわなかった。

2019年の「いだてん」などは1ケタ。

三谷幸喜も宮藤官九郎も人気が高く、

腕も確かな素晴らしい脚本家だが、

大河ドラマの作者としてはあまり評価されないようだ。

 

何度もいろいろな変革を試みてきた大河ドラマだが、

数字を見る限りはうまくいっていない。

ということで、マスメディアでは、

かつて最高視聴率39.7%を記録した

「独眼竜正宗(1987年)」以下、

歴代の高視聴率作品(30%以上はすべて60年代~80年代)

と比べて、

最近の大河の視聴率の低さばかりをあげつらうが、

そんな懐メロ作品と今を比べてどうするのか?

 

幸い、NHKは民放ほど視聴率を気にせずに済むので、

大河の制作陣は余計なことを気にせず、

どんどん自分たちの信じるところを追究して、

良いドラマを作ってほしい。

 

これだけテレビで手間暇かけて丁寧なドラマ作り、

そして役者をやる気にさせる仕事ができるのは

大河ドラマを置いて他にないのではないかと思う。

 

経済が好調だった30年前の時代の幻想から

一歩も抜けだせない頭の固まった年寄りたちの

幻想の弊害はこんなところにも現れている。

 

こうした年寄りは皆切り捨てて、

若い者に照準を絞ったやり方は正解である。

しかも家康は歴史上の人物として、

数少ないハッピーエンドが可能な人物でもある。

若者――といってもベビーフェースの松潤ももう40、

ほとんど中年だ――にやる気・勇気を少しでも与え、

楽しめるドラマになればいいと思う。

 


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「鎌倉殿」完結:どうして僕たちは歪んでしまうのか?

 

年末に「鎌倉殿の13人」の総集編をやっていたのだが、

前半のほうを見逃してしまったので、

NHKプラスで見ている。

 

後半、あまりにダークな展開で、

北条義時の若い時代って、どうだったっけ?

と忘れてしまっていたので見てみたら、

そのあまりの明るさ・純朴さ・清々しさに再会して

びっくり。

そしてラストとの対比で、思わず涙してしまった。

 

こんな気のいい青年が、あんな陰惨な男になり、

あれほど無残な最期を迎えるとは。

諸行無常と言えばそれまでだけど、ひどすぎる。

 

裏返して言うと、小栗旬の演技力の素晴らしさ!

あの希望にあふれた若者の明るい笑顔と

陰惨な政治家になった男の暗い澱んだ表情との落差。

力は掴んだが、ひとりの人間としての

夢だの愛だの幸福だのは、

はるかかなたに遠ざかってしまった人生。

 

大河ドラマ初(だと思う)の

恐るべきダークヒーローは、

小栗旬でなければできなかっただろうし、

視聴者も小栗旬だから見続け、

義時を愛せたのだろう。

 

若くて明るい少年・青年。

同じく陽気で気の良い家族や仲間たち。

みんな夢と理想を描き、

目標を定めて人生の旅に出るが、

齢を重ね、おのおのの道を歩むうちに

その関係はゆがみ、

ぽっかりあいた暗い淵に落ちていく。

そして気付いた時には、

もうあと戻り出来なくなっている。

 

そんなドラマはこれまで何度か見て来た。

てか、ドラマほどではないかもしれないが

現実にも起こっている。

それが大人になることなのだ、

といえばそうなのかもしれない。

 

こんな陰惨でバッドエンドなストーリーに

ハマった人たちは深い共感を覚えたのだろう。

大人として生き続けることは、

多かれ少なかれ、汚れ、傷つき、

苦さと哀しみを舐めなくてはならないということを。

 

認めたくないが、認めざるを得ない。

でもやっぱりすべては認めたくない。

僕たちはいくつになっても、

その諦めと抗いの間を右往左往しながら生きている。

このドラマが胸に刺さるのはそうした理由からで、

 

義時や政子を自分に引き寄せられるからだと思う。

 

それにしても、この枠でこんなダークヒーロー、

そしてあんな最終回を描くことが許されたのは、

三谷幸喜にこれまでの実績と

スタッフ・キャストの信頼があったからに違いない。

 

舞台出身の人だけあって、三谷脚本で面白いのは、

随所で舞台劇のようなシーンが見られることだ。

義時(小栗旬)と政子(小池栄子)のラストシーンは、

その真骨頂だった。

 

思わず僕は夢想した。

スポットライトだけが当たる何もない舞台の上で、

政子がゆっくりと毒消しの薬を床にこぼし、

義時が這いながらそれを舐めようとする。

政子は彼を現世の闇から救い出すかのように、

 

それを振り払う。

あの壮絶なシーンと、そこに至るまでのこのドラマを

生の舞台で、生の舞台で見られたら、と妄想を抱いた。

 

さて、僕は今、どれくらい歪んでしまったのだろう?

 


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週末の懐メロ112:ウォーキング・イン・ジ・エア/オーロラ

 

イギリスで1978年に刊行された

レイモンド・ブリッグスの絵本

「スノーマン(ゆきだるま)」。

少年がクリスマスの夜に、

自分が作ったスノーマン(雪だるま)といっしょに

天上にあるサンタクロースの国へ遊びに行くという物語で、

それを原作に1982年にテレビアニメーションが作られた。

 

「ウォーキング・イン・ジ・エア(空を歩く)」は

その挿入歌で、少年とスノーマンが楽しく空を

散歩するシーンで流れるのだが、

なぜかとても悲しく切ないメロディ。

ラストシーンを暗喩しているのだろう。

夢はいつも切ない。

そして「スノーマン」という童話は、

実は別れや死をテーマにした物語なのだ。

 

作詞・作曲は、ハワード・ブレイク。

オリジナルの歌はセント・ポール大聖堂の

少年聖歌隊のメンバーだったピーター・オーティが歌った。

 

たくさんの人がカバーしているが、

ノルウェーのシンガーソングライター・

オーロラのカバーはそのなかで最も新しいものと思われる。

 

彼女は1996年生まれというから、

うちの息子と同い年だ。

息子がチビのときは今ごろの季節になると、

よくいっしょにスノーマンの本を読んだり、

アニメを観たりした。

 

彼女も同様にスノーマンの物語を愛して育ったのだろう。

スノーマンはまんまるで、イギリスでは

日本のドラえもんやアンパンマンのように

子供に愛される存在なのだ。

 

2013年にデビューしたオーロラは、

クリスマスシーズンになるとよく自分のライブや

テレビ番組で自分のレパートリーの一つにした

この歌をよく歌っているらしい。

 

しかし、彼女が歌うと

あのほのぼのしたスノーマンの世界とは

まるで別の、畏怖さえ感じる聖なる世界が広がる。

 

名前だけは知っていたが、

まともにオーロラを聴くのはこの曲が初めてだったので、

他にもいろいろYouTubeで聴いてみた。

 

「ランニング・ウィズ・ザ・ウルブズ」

「アイ・ウェント・ツー・ファー」

「アンダー・ザ・ウォーター」

「ソフト・ユニバース」

「ザ・リバー」etc・・・

 

完全に心臓をつかまれた。

とてつもなくユニークで、

とほうもなくイマジネーティブ。

40数年前に初めてケイト・ブッシュに

出逢った時に匹敵する衝撃度だ。

 

21世紀以降、これほど妄想力を刺激された

ミュージシャンはいない。

まさか2020年代にこんな音楽に出逢うとは!

 

一応、ジャンル分けとしてはエレクトロポップ

ということになっているようだが、

それよりもベースになっていると思われる

ケルト系・北欧系の民俗音楽の匂いに強く惹かれる。

曲によっては日本・アジア・

ネイティブアメリカンの香りも。

そして、ロックの精神をしっかり受け継いでいる。

ミュージックビデオも傑作ぞろいだ。

 

少なくとも僕にとっては現代最高のミュージシャン。

2022年はオーロラを発見した年として胸に刻んでおこう。

 

懐メロではないが、最高のお気に入り

「ランニング・ウィズ・ザ・ウルブズ」も同時UP。

ぜひ、オーロラの真髄を聴いてみてください。

 


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週末の懐メロ111:レット・イット・ゴー/ピアノ・ガイズ

 

言わずと知れたディズニーのアニメ映画

「アナと雪の女王」の主題歌。

 

「レリゴー」が

懐メロと言えるかどうかは微妙なところだが、

2013年のリリースから早や10年近く。

その人気度・浸透度、そして50年後も聴き継がれ、

歌い継がれるであろう、楽曲のクオリティの高さは、

もはや立派に名曲として殿堂入りしていると思う。

映画のサントラとしても最高峰の一曲ではないか。

 

美しさと疾走感を併せ持つメロディラインは、

吹雪の中で覚醒したエルサが雪の女王に変貌し、

瞬く間に氷の宮殿を築き上げるシーンと相まって

何度聴いても胸が熱くなる。

 

作詞・作曲は、ブロードウェイの舞台や、

映画・テレビの音楽を数多く手がけている

クリスティン・アンダーソン=ロペスと

ロバート・ロペスの夫妻。

 

制作の裏話では、出来上がってきたこの曲を聴いて

衝撃を受けたスタッフが、

ストーリーも、エルサとアナのキャラクターも

それまで作ってきたものを一掃して書き替えたという。

(エルサは当初、芯から冷酷で戦闘的な

氷の女王という悪役だったらしい)

まさに新たな作品世界の礎となるだけの

エネルギーを持った楽曲だ。

 

オリジナルの歌唱は、声優としてエルサを演じた

アメリカ人女優で歌手のイディナ・メンゼルだが、

公開されるやいなや、

世界中で数えきれないほどのアーティストが魅了され、

この名曲をカバーしている。

 

なかでも僕が好きで、冬になるといつも聴いているのが、

何もない雪原で、エルサとアナとは似ても似つかぬ

二人のおっさんが、真っ白なピアノとチェロで奏でる

インストゥルメンタル。

 

間奏とエンディングにビバルディの「四季・冬」を

絡めた超絶パフォーマンスは驚愕に値し、

テンションが上がりまくる。

 

「ピアノ・ガイズ」は、出演のピアニスト、チェリスト、

映像クリエイター、音楽プロデューサーからなるチームで、

映画音楽、クラシックを融合リアレンジし、

映像をネット上に公開。

美しい大自然の中でユーモアを交えて繰り広げられる

演奏・映像が話題を呼んでいる。

 

冷たい風が吹きすさぶ中、情熱をこめて、

この上なく楽しそうに演奏する姿は、

映画の世界をそのまま拡張したかのような

「レット・イット・ゴー」のアナザーワールドを

見事に表現している。

 

そして、凍えるような季節がやってきても、
僕たちも熱く楽しく、愛を持って
毎日を生きたいと思わせてくれる。

 

 


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廃墟から再出発 アニメむすめの鬼怒川温泉

 

いまや観光地は、ゆるキャラ、アニメキャラだらけ。

鬼怒川温泉の観光案内所にも

4人の美少女さんがたちがいた。

 

このうち、グレーの制服を着ているのは

「鬼怒川みやび」ちゃんという

東武鉄道の特急スペーシアの車掌さん。

「日々、接客について勉強中💛」。

 

紺の制服は「大桑じゅり」ちゃん。

鬼怒川には東武鉄道が運営する

「SL大樹」も走っており、彼女はその新米機関士さん。

「持ち前の明るさとガッツを武器に奮闘中💛」です。

 

この二人は全国の鉄道事業者の現場で活躍する

キャラクターコンテンツ「鉄道むすめ」の一員だ。

「鉄道むすめ」は結構何年も前から

「鉄むす」の略称で親しまれているようだが、

僕はこんなコンテンツがあるなんて、

今回の旅で(実際には今日ネットで調べて)初めて知った。

 

他の2人のことはよくわからないが、

鉄むすとのコラボで、

ご当地キャラクターとして生まれたのだろうか?

僕は赤鬼ちゃんと機関士さんがお気に入りである。

 

鬼怒川温泉は10年ほど前に放送されたアニメ

「未来日記」の1エピソードで描かれていて、

「アニメ聖地巡礼地」の一つになっている。

(これも今日初めて知った)

 

このアニメも見たことないので内容はわからないが、

ネットで調べると、廃墟の描写がすごくて、

鬼怒川温泉は完全に

「凋落して廃墟と化した昭和時代の大温泉街」の

イメージになっている。

 

実際、昭和の後半、鬼怒川は箱根や熱海と肩を並べる

大温泉街、娯楽の殿堂だった。

東京から近いというロケーションも幸いして

毎日、観光バスに乗った団体客や

東武鉄道に乘った家族連れなどがわんさか押し寄せて、

週末ともなれば、ホテルや旅館が並ぶメインストリ-トは、

都心の繁華街のように人がごった返していたらしい。

 

栄枯盛衰。諸行無常。

栄光の頂点から落ちぶれてから何年経つというのか。

殿様商売を改められなかったところは

もう滅びるしかない。

 

そんなわけで廃墟ホテル、廃墟施設が

わんさか出来上がってしまったのだろう。

 

僕は廃墟は見なかったが、

日暮れとともに外は閑散となって、

かつて賑わったメインストリートは

確かにわびしげな風が吹いていた。

 

こうした観光地はもう開き直って、

前世の記憶みたいな大廃墟を売り物にするぐらいの

ことをやったほうがいい。

(てか、勝手に見物客は集まってくるみたいだけど)

 

廃墟から再出発した鬼怒川温泉。

もう昭和の賑わいを取り戻すのは無理だ。

そんな夢は追わないほうがいい。

 

それで人が来るのなら、アニメ娘に頼ってもいい。

鬼怒川みやびちゃん、大桑じゅりちゃん、

いいではないか。

萌える、癒される、かわいい温泉ビレッジを

再構築してほしい。

 


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シン・ウルトラマンとイデ隊員とウルトラマンの本質

 

「僕が作った武器なんて何の役にも立たないんだ。

怪獣はみんなウルトラマンが倒してくれるんだから」

 

無力感に苛まれたイデ隊員は、戦うことを放棄して

空に向かって声を振り絞ってウルトラマンを呼んだ。

 

「ウルトラマーン、早く来てくれ。

ウルトラマーン!」

 

ウルトラマンであるハヤタ隊員はその姿を見て、

変身するのを躊躇ってしまう。

 

初代ウルトラマンの第37話「小さな英雄」は、

子ども心に全エピソード中、最も感動的な話だった。

じつはこの回の主役は怪獣ピグモンなのだが、

僕の中では完全にイデ隊員が主役だった。

 

イデ隊員は第23話「故郷は地球」でも主役だった。

辺境の惑星で怪獣になってしまった宇宙飛行士ジャミラは

人間に復讐するために地球に帰って来た。

科学特捜隊は、彼の正体を隠したまま、

抹殺しろと命令を受ける。

破壊を繰り返すジャミラにイデ隊員は悲痛な叫びをあげる。

「ジャミラ、おまえは人間の心さえ失くしてしまったのか!」

 

昨年亡くなった二瓶正也さん演じるイデ隊員は、

科学特捜隊の兵器やマシンを開発する天才科学者でもある。

しかし、○○博士といった威厳ある趣はみじんもなく、

ヒラ隊員に甘んじており、

普段はひょうひょうとした3枚目キャラだ。

 

けれども彼のシリアスでヒューマンな面を印象づけた

この2つのエピソードが

「ウルトラマン」のトーンを決めた。

イデ隊員が表現する人間性こそが

「ウルトラマン」の本質なのである。

当時、僕は6歳だったが、

子どもの胸に入り込んだものは、

とてもとても信じるに値する。

 

「シン・ウルトラマン」は劇場で一度見たが、

配信が始まったので昨日、家でもう一度見た。

ここには、かつてのウルトラマンという物語の

エッセンスが凝縮されている。

 

細部にわたる庵野監督の仕掛けはさすがだと思う。

旧作へのオマージュもふんだんに盛り込まれている。

さらに現代社会への風刺も。

 

世界は核兵器による脅し合いで成立している。

核に代わるパワー、核を凌駕するパワーを

どの国も求めていることが、

登場人物のセリフから伝わってくる。

 

ウルトラマンの軍事利用。

ベータシステムの政治利用。

メフィラスとの交渉シーンでは、

そのあたりが実にうまく表現されている。

メフィラスを演じる山本耕史は最高だ。

 

そうした現代ならではの要素

(実は55年前と大して変わっていないけど)を

盛り込みつつ、ちゃんと本質を抑えている。

 

「シン・ウルトラマン」を観ていて

僕にイデ隊員を想起させたのは、

有岡大貴が演じる禍特対(禍威獣特設対策室専従班)の

滝明久である。

滝は粒子物理学者で、かなりの天才らしいが、

メンバー中最年少の若僧。

 

劇中、けっこう生意気な口を叩くが、

最後のゼットン登場によって、

「小さな英雄」のイデと同じく、

深い無力感と絶望感に苛まれる。

 

「ウルトラマンも勝てない相手だ。

もう人間はおしまいなんだ」

彼には少しエヴァのシンジくんも入っているようだ。

 

けれども滝もまた、あの時のイデ隊員と同じく、

奮起し、自分のできることをする

(それがすごいんだけど)。

 

人間がアホで能なしで臆病で、

しょーもないゼツボー的生き物であることは

わかっているけど、そんな現実に

めげてないで一生懸命やるしかないのである。

一生懸命やってれば、いつかどこかで

ウルトラマンも助けてくれるかもしれない。

一口で言えば、

それがウルトラマンという物語のメッセージだ。

 

ウルトラシリーズで最も評価されているのは

「ウルトラセブン」だと思う。

確かにセブンは引き締まったシリアスな展開で、

おとなっぽくてドラマとしての質も高い。

 

それに対して「ウルトラマン」は

メルヘンあり、コメディあり、ホラーあり、

ファンタジーありの子どもっぽいバラエティだ。

(前作の「ウルトラQ」の世界を引き継いでいる)

 

おそらく初めて観た時の年齢が関係していると思うが、

僕は子どもこ心に訴える、

柔らかで広がりのあるコンテンツとして、

戦闘的なウルトラセブン

(およびその後のシリーズの各作)よりも

ウルトラマンのやさしいヒューマンな物語が

好きなのである。

 

ただ、おとなになった今、原本のウルトラマンは、

さすがに稚拙さ・子どもっぽさが目立って

まともには見られない。

 

今回の「シン・ウルトラマン」は、

2時間の重厚でリズム感あふれるドラマに仕立て上げて

その真髄を見せてくれた。

ラストもキレがあり、シャレが効いている。

 

願わくば「故郷は地球」のエピソードを活かしてもう1作。

最終兵器のゼットンを出しちゃったから無理かと思うけど。

 


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鬼怒川温泉・日光江戸村の旅

 

久しぶりの完オフで鬼怒川温泉・日光江戸村に

カミさんと一泊二日の旅。

鬼怒川温鬼のアニメ少女キャラ、鬼めぐりキャラ、

江戸村の江戸キャラ、どれもエンジョイラブル。

旅エッセイをお楽しみに。

 


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ちっちゃいおじさんは、なぜ七五三の時に 杉並のパワースポットに出没するのか?

 

うちの近所にある杉並のパワースポット・大宮八幡宮で、

ちっちゃいおじさんの出没情報が

多数報告されるようになったのは、

10年ちょっと前、2010年あたりからだ。

 

ちょうどリーマンショックの後遺症の時期だったので、

失業し失踪したお父さんたちの魂が

神宮の杜を彷徨っているのでばないか――

と、まことしやかな噂を耳にした。

 

仮説として面白い。

僕もリーマンショックの打撃を負った一人だったので、

その仮説をもとにラジオドラマのシナリオを書いた。

その話をノベライズしたのが、

現在、電子書籍kindleで出している

「ちち、ちぢむ」という少年少女小説である。

 

http://www.amazon.com/dp/B09WNC76JP

 

今日、義母を連れて久しぶりに大宮八幡まで散歩に行ったら、

初詣に備えてなのか、賽銭箱が新調されていた。

それに七五三の季節なので、

ちびっ子がうじゃうじゃいる。

 

そんな状況のなかで、

なんだかちっちゃいおじさんの匂いがプンプンしてきた。

 

そうなのだ。ちっちゃいおじさんは七五三が好きなのだ。

目撃情報も七五三の頃になると跳ね上がる。

 

理由は二つあって、

一つは綺麗な着物を着た子供たちがたくさん来るので、

ちっちゃいおじさんの魂が萌えて、つい人前に現れるから。。

もう一つは、おとなはそんなものいないと思っているから

見えることはないが、

無垢な心の子どもの目には見えてしまうから。

 

奇しくも同神宮のティーサロン

「清涼殿」に入ってお茶したら、

殿内にあるPR映像用の画面に

「いきなり都市伝説」の関暁夫氏が出ていて、

ちっちゃいおじさんについて、例の調子で語っていた。

大宮八幡宮、このタイミングでこんなビデオを流すとは、

なかなか抜け目ない。

寺社にもマーケティング能力が

必要とされる時代であることを実感する。

 

心が世俗の手垢にまみれている僕は、

当然のごとく、ちっちゃいおじさんには会えなかったが、

帰り道、義母に問われた。

 

「あれ、いっしょにいた、あのちっちゃい子たち、

どうしちゃったの?」

 

認知症で聖なる子どもに還っている義母には、

七五三の子どもらに混じって、

彼らの姿が見えていたのだろうか?

 

最後までお読みいただき、ありがとうございます。

この話、信じるか信じないかは、あなた次第です。

 


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週末の懐メロ106:悲しき天使/メリー・ホプキン

 

968年リリース。

イギリスのシンガーソングライター、

メリー・ホプキンが歌ってグローバルヒット。

とても印象的なメロディーラインなので、

若い世代でも聴いたことがある人が多いだろう。

 

僕はフランスのシャンソンの何かの曲を

モチーフにしているかと思っていたが、

原曲はロシアの歌謡曲で、

それをアレンジしたのだという。

 

さらに驚きなのが、当時、ビートルズが作った

アップルレコードからの初のシングルであり、

ポール・マッカートニーが

プロデュースしたのだとか。

 

そんな意外な事実に衝撃を受けた

「悲しき天使」だが、

僕にとってこの曲は唐十郎の戯曲「少女仮面」の

テーマ曲である。

 

唐十郎は1960年代から70年代にかけて

世の中を席巻したアングラ演劇の

劇作家であり、大スターであり、

彼の率いる劇団状況劇場は、

恐るべきスター俳優が勢ぞろいする

超パワー劇団だった。

 

その唐十郎が1969年に書き下ろし、

1970年の第15回岸田戯曲賞

(演劇界の芥川賞と言われる)の受賞作が

「少女仮面」だった。

 

この戯曲には冒頭部分のト書きで、

「メリー・ホプキンの『悲しき天使』が流れる」と

堂々と書かれている。

 

物語はさすがアングラ芝居らしく、

いろいろな幻想的なシーンがコラージュされていて、

単純なつくりではないが、

最も主軸となるテーマは「老い」、

それも女の老いである。

 

「時はゆくゆく、乙女は婆に、

婆は乙女になるかしら?」

なんて歌も挿入されるが、

おそらく「悲しき天使」が、

この物語の重要なモチーフになったのだろう。

 

この頃の邦題は、歌にしても映画にしても、

女が主役・歌い手だったりすると、

やたら「悲しき○○」「天使の○○」「○○の天使」

というのが多いが、原題はまったくこれと関係ない。

 

原題「Those were the days」は、

「あの頃はよかった・あの頃がなつかしい」

という意味で、歌詞の内容は、

まさしくな懐メロ大好きな中高年が、

青春時代の思い出に耽っている、という内容。

歌うメリー・ホプキンは当時、

まだ少女と言ってもいい18歳の女の子だった。

 

天才的物語作家で、次々と戯曲を書きまくり、

芝居を打ちまくっていた唐十郎の頭の中には、

この歌詞とメロディを聴いただけで、

「少女仮面」の構想が、

ダダダダと出来上がったのだと思う。

(確か何かの本で「三日で書き上げた」

と言っていたような記憶がある)

 

ちなみに「少女仮面」は、

僕が演劇学校に入った年、

学内の1年上の先輩方が上演して

「すげー」と衝撃を受けた思い出がある。

こんな芝居をやるなんて、

先輩方がみんな天才俳優に見えた。

今でもその時の、

ひとりひとりのキャラクターを鮮烈に憶えている。

 

また、この作品は「老い」という普遍的なテーマ、

そして役者の人数も適度で、

大掛かりなセットもいらない、

時間的にも割と短く、

上演しやすいといった要素から、

唐十郎の芝居の中で最も人気があるようで、

最近でもどこかしらの劇場でやっているようだ。

 

そして「悲しき天使」も時を超えて流れている。

18歳だったメリー・ホプキンも、

もう70歳を過ぎている。

婆は乙女になるかしら?

 

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週末の懐メロ105:剣を棄てろ/ウィッシュボーン・アッシュ

 

1972年リリース。

1970年代に人気を誇ったウィッシュボーン・アッシュは、

最近、あまり語られることが少ない。

しかし、この曲がラストを飾る「百眼の巨人アーガス」は

必聴の名盤である。

逆に言えば、他は聴かなくていいので、

「アーガス」だけは聴いてほしい。

 

内容はレコードジャケットに表現された世界そのまま。

中世の戦士が彼方の空を見つめる。

その視線の先、霧に霞む山の向こうに

かすかに見え隠れするUFO。

過去と未来を繋ぐ、恐ろしくイマジネーティブな音楽が、

1曲目「時は昔」のギターのイントロから展開する。

 

ウイッシュボーン・アッシュは

一般的にはハードロックに分類されることが多いが、

彼らが最も輝いた、この「アーガス」の世界は、

プログレッシブ・ロックのノリである。

 

それもシンセサイザーなどのキーボードを使わず、

ツインリードギターとベース・ドラムの編成で

繰り出すサウンドは、シンプルで味わい深く、

他のプログレバンドにはない独特の美学がある。

 

このアルバムは、いわゆるコンセプトアルバムとは異なり、

特に一貫したストーリーや

明確なテーマがあるわけではない。

しかし、美しくユニークなジャケットにも表現された

統一された世界観は、

却って聴く者の心に、さまざまなストーリーを湧かせる。

 

そして、そのエンディング曲、

ツインギターの独特の哀愁を帯びた「剣を棄てろ」は、

当時の東西冷戦に対する反戦歌とも解釈できる。

 

剣を棄てろ

戦いは終わった

勝者も敗者もない。

闘争の怒りはただ漂流するだけ・・・・

 

50年の年月が経ち、

今また世界は同じ時・同じ道を巡っている。

いつか「剣を棄てる」時代は来るのだろうか。

 


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小説を読むように楽しむ映画「ドライブ・マイ・カー」

 

脚本もセリフも素晴らしい。

それを3日かけて観た。

1日1幕ずつの3幕劇。

村上春樹の小説を濱口竜介監督が映画化した。

昨年のカンヌ国際映画祭脚本賞、

今年のアカデミー賞国際長編映画賞など、

世界的に評価された作品。

 

第1幕、序盤のハイライトは濡れ場。

こちらの世界とあちらの世界へ、

ファンタジー要素のない、リアルベースの物語なら、

日常のマテリアルな世界から、

内面のマインドな世界へぬけるために、

セックスをトンネルとかブリッジに使うのは、

村上春樹の常套手段だが、

それを映像化すると、こんなにエロくなるのかと

ちょっと驚いた。女優さんが上手だ。

 

第2幕は演劇の世界。

主人公が演出家なので、演劇のシーンが多いのだが、

その空気感もビンビン伝わって来た。

すごく久しぶりにチェーホフの戯曲に触れた。

若い頃はチェーホフなんて退屈で嫌いだったのだが、

いま観ると面白そうだ。

 

韓国の俳優さんたちがいい味を出している。

舞台が広島というのもいい。

そういえば、瀬戸内にはもう何十年も行ってない。

 

第3幕はロードムービー。

広島から北海道へ、タイトル通りドライブ・マイ・カー。

クライマックス。

主人公とドライバーの女の子のセリフが胸を打つ。

 

でも、すごく感動!という映画ではない。

てか、やたら淡々とした地味な映画だ。

しかもその割に長い。

なんと3時間近くもある。

それもあって1日では見られず、3日かけて観たのだ。

でも、そのおかげですごく心に染みる映画として見られた。

 

べつにこれは皮肉ではない。

本を読むように、ページを見返しながら、

ちょっと戻し戻し見ながら、

1シーン、1シーンを噛み締めながら楽しむ。

 

正直、映画館で見たら途中で寝てしまって、

「なんだか地味で、よくわからなくて退屈だった」

あるいは

「序盤の濡れ場だけがやたら印象に残った」

という感想しか抱かなかっただろう。

 

今はネット配信で、何日でもかけて、

いくらでも止めながら観られる。

今までの映画の見方からすれば、

そんなの邪道なのかもしれないけど、

そのほうがいい作品もあると思う。

 

今だとAmazonPrimeの見放題で見られます。

良い映画なんでおすすめです。

もちろんイッキに見てもいいし、

1週間かけてちびちび見るのも良し。

 


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ヒトとブタは神目線ではブラザーなのか?

 

マイナビ農業の仕事で、

ハラールに関する8千字の記事を書いた。

「ハラール」とは、ムスリム(イスラム教徒)にとって

「許されたもの」。

これに対して禁じられているものは「ハラム」という。

これらは彼らの聖典であるコーランに記されている。

 

このハラムで有名なのが、豚肉とアルコールだ。

ロンドンのレストランで働いていたとき、

職場の仲間にエジプト人のムスリムがいて、

彼は酒が好きだった。

さすがにそんなにガバガバとは飲まなかったが、

チビっと飲んでは酔っぱらっていた。

 

地元の国ではどうだか知らないが、

外国に在住しているムスリムの間では、

アルコールの禁忌については割と甘いようである。

 

けれども豚はダメだ。

彼もけっして豚肉は食べず、

賄いでトンカツやハムカツが出てくると、

オー!と、天を仰いで嘆いていた。

 

それにしても疑問はやはり、

なぜイスラム教は豚を禁忌としたかである。

「豚は不浄の動物だから」というのは

どうも説得力がない。

 

豚は本来、きれい好きな動物で、

豚小屋が汚いというイメージは、

むしろ飼う人間の側の問題・責任である。

 

それよりも有力な説は、イスラム教の創始者とされる

預言者ムハンマドが生きていた時代(7世紀はじめ)、

中東地域(現在のサウジアラビアあたり)で

豚肉が原因となって疫病が流行したということ。

 

豚は雑食性なので、ヒツジや牛などの草食動物より

肉が腐りやすい。

衛生管理がなっていなかった当時としては、

十分あり得る話である。

 

もちろんヒツジだって牛だって鶏だって

冷蔵しとかなきゃ腐るのだが、

たまたまムハンマドが豚肉由来の疫病に

出逢ってしまったのだろう。

歴史は僕たちが思っている以上に、

必然よりも偶然の力が大きい。

 

なんとなく納得してしまう説だが、それでも釈然としない。

仏教やキリスト教の地域だって同様のことはあったはず。

これだけ世界に広がった宗教の創始者だから、

ムハンマドの信念はもっと複雑で深いはずだ。

彼は直観で知っていたからではないかという気がする。

 

「豚は人間に酷似してる」

 

つまり豚を食べることは、人肉食に通じる。

そうイメージして恐怖し、ブタにフタをしたのである。

 

実際、豚の皮膚や臓器は、類似猿よりも人間に近く、

代替が可能だという。

皮膚や臓器の移植手術は

190年代から試行検討されており、

つい最近、ついに実際に行われた。

 

今年2月には

「世界初、ブタからヒトへの心臓移植の注目点は」

という医学記事も発表されている。

(以下抜粋)

2021年1月7日、米メリーランド大学の医療チームにより、

世界で初めてヒトへの遺伝子改変ブタの心臓を用いた

異種移植が実施された。同大学の公式サイトによると、

2月9日現在、レシピエントの57歳男性に移植されたブタの心臓は

問題なく機能しており、

24時間体制のケアを受けている様子が伝えられている。

 

https://www.m3.com/clinical/open/news/1018905

 

預言者ムハンマドは、イエス・キリストと違って

神の子として生まれてきたわけではない。

彼は商人として暮らしていた40歳のときに突然、

天使ガブリエルによる啓示を受け、

預言者として神からのメッセージを

人々へ伝えていくことを決意したという。

 

彼はその中で人間と豚の近親関係を感知し、

それを人々に「豚肉食禁止」と言う形で説いた。

それが人々の心の奥底にあった、

豚に対する近親相関的感情に響いたのではないだろうか?

 

上記のような移植の話は、

到底、ムスリムの人々は受け入れられないだろうが、

医学的・科学的に興味を抱く人は少なくないはずだ。

 

あなたは自分が、あるいは家族が、

命を救うためにこの臓器移植の提案をされたら、

どうしますか?

 

今回の仕事は、ハラールについて、イスラム教について、

豚についての神秘を感じた面白い仕事だった。

この件についてはまたおいおい。

 


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10月7日(金)17:00~10日(月)16:59

おとなも楽しい少年少女小説 第10作。

Kindleでしか読めない

おりべまことの物語世界をお楽しみください。

面白かったらレビュー書いてね。

 

人気ポップスターだった父は、

意識不明の状態で病院のベッドに横たわっていた。

音楽で生きる父と子の、死を前にした対話の物語。

短編。1万9千字。

 

★あらすじ

 

デビュー間もない若いシンガーソングライターは

時おり、広い畑の夢を見る。

そこでは幼い頃に死別した妹が畑仕事をしている。

夢の中でいっしょに成長してきた彼女は

「お父さんがもうすぐここに来るよ」と彼に告げた。

 

それが予知夢であるかのように、

ほどなくして父が脳出血で倒れた、

という報せが入る。

 

彼の父もまたミュージシャン。

それも世界的に有名なポップクスターであり、

愛のメッセンジャーとしても知られる人物だ。

 

けれどもそうした世間のイメージとかけ離れた、

プライベートな顔を知る息子は、

自分と母親と妹を捨てて生きてきた

父をひどく憎んでいた。

 

一本のギターを抱えて、

病院に瀕死の父の面会に訪れた息子。

閉じられた病室の中で、

意識を失ったままベッドに横たわる父に向き合い、

胸の奥から湧いて出る思いをつぶやく。

そしてギターを媒介として、

意識のないはずの父と「イエス・ノー」の問答形式で

会話を交わすようになる。

 

次第に息子は、もう表に現れない父の奥の意識と

一つになっていき、

それまで知らなかった父の人生の一面を垣間見る。

栄光の中の孤独。

自分が信じていた音楽の才能が枯渇していく恐怖。

安息の場のはずだった家庭も重圧となり、

精神的混乱は家族愛さえも悪夢に変えてしまう。

迷走した父は家族を捨てて

一人の女(後妻)との愛に生きるようになる。

 

息子はそんな不完全な人間だった父を

少しだけ赦せる気持ちになり、

彼が旅立つ前に最初で最後のデュエットを

しようと試みる。

 

面会時間が終わる頃、

病室に父の心を奪った女――後妻が現れる。

憎しみのため、それまで顔をそむけ続けてきた相手。

そんな相手と言葉を交わし、思いを交流させるうち、

息子の中には新しい自分の音楽を作り、

歌い始める準備が進んでいった。

 


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マイ・ギターズメモリアル 明日より無料キャンペーン

 

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人気ポップスターだった父は、

意識不明の状態で病院のベッドに横たわっていた。

音楽で生きる父と子の、死を前にした対話の物語。

短編。1万9千字。

 

あらすじ

 

デビュー間もない若いシンガーソングライターは

時おり、広い畑の夢を見る。

そこでは幼い頃に死別した妹が畑仕事をしている。

夢の中でいっしょに成長してきた彼女は

「お父さんがもうすぐここに来るよ」と彼に告げた。

 

それが予知夢であるかのように、

ほどなくして父が脳出血で倒れた、

という報せが入る。

 

彼の父もまたミュージシャン。

それも世界的に有名なポップクスターであり、

愛のメッセンジャーとしても知られる人物だ。

 

けれどもそうした世間のイメージとかけ離れた、

プライベートな顔を知る息子は、

自分と母親と妹を捨てて生きてきた

父をひどく憎んでいた。

 

一本のギターを抱えて、

病院に瀕死の父の面会に訪れた息子。

閉じられた病室の中で、

意識を失ったままベッドに横たわる父に向き合い、

胸の奥から湧いて出る思いをつぶやく。

そしてギターを媒介として、

意識のないはずの父と「イエス・ノー」の問答形式で

会話を交わすようになる。

 

次第に息子は、もう表に現れない父の奥の意識と

一つになっていき、

それまで知らなかった父の人生の一面を垣間見る。

栄光の中の孤独。

自分が信じていた音楽の才能が枯渇していく恐怖。

安息の場のはずだった家庭も重圧となり、

精神的混乱は家族愛さえも悪夢に変えてしまう。

迷走した父は家族を捨てて

一人の女(後妻)との愛に生きるようになる。

 

息子はそんな不完全な人間だった父を

少しだけ赦せる気持ちになり、

彼が旅立つ前に最初で最後のデュエットを

しようと試みる。

 

面会時間が終わる頃、

病室に父の心を奪った女――後妻が現れる。

憎しみのため、それまで顔をそむけ続けてきた相手。

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本日発売!新作小説「マイ・ギターズメモリアル」

 

人気ポップスターだった父は、

意識不明の状態で病院のベッドに横たわっていた。

音楽で生きる父と子の、死を前にした対話の物語。

短編。1万9千字。

 

あらすじ

デビュー間もない若いシンガーソングライターは

時おり、広い畑の夢を見る。

そこでは幼い頃に死別した妹が畑仕事をしている。

夢の中でいっしょに成長してきた彼女は

「お父さんがもうすぐここに来るよ」と彼に告げた。

 

それが予知夢であるかのように、

ほどなくして父が脳出血で倒れた、

という報せが入る。

彼の父もまたミュージシャン。

それも世界的に有名なポップクスターであり、

愛のメッセンジャーとしても知られる人物だ。

けれどもそうした世間のイメージとかけ離れた、

プライベートな顔を知る息子は、

自分と母親と妹を捨てて生きてきた

父をひどく憎んでいた。

 

一本のギターを抱えて、

病院に瀕死の父の面会に訪れた息子。

閉じられた病室の中で、

意識を失ったままベッドに横たわる父に向き合い、

胸の奥から湧いて出る思いをつぶやく。

そしてギターを媒介として、

意識のないはずの父と「イエス・ノー」の問答形式で会話を交わすようになる。

次第に息子は、もう表に現れない父の奥の意識と

一つになっていき、

それまで知らなかった父の人生の一面を垣間見る。

 

栄光の中の孤独。

自分が信じていた音楽の才能が枯渇していく恐怖。

安息の場のはずだった家庭も重圧となり、

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一人の女(後妻)との愛に生きるようになる。

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最期のバグパイプ

 

ツイッターに「女王に捧げた最期のバグパイプ」

がアップされていた。

テレビ中継では見なかったが、

ウィンザー城のセントジョージ礼拝堂で

女王の棺が地下に降ろされ埋葬される時に

奏でられたものらしい。

 

まるで美しい映画や演劇のラストシーンのようだ。

とても感動的なのと同時に、エリザベス女王の

「スコットランドよ、行かないで」という

願いも込められているかのようだ。

 

ちょっと前から「6600万年前の夢を見て死ね」

という小説を書いていて、

これにマイケル・オーネストという人物が登場する。

マイケルはスコットランド人のバックパッカーで、

日本人女性と結婚し、東京で25年暮らしていたが、

還暦になり、スコットランド独立運動と

ネス湖の観光事業に取り組むため、

故郷スコットランドに帰ろうとしている。

彼はバグパイプ奏者でもあり、

楽器を教わりに来た主人公の男を相手に居酒屋で

スコットランドの自慢をして

「ネス湖を見て死ね」と、くだを巻く。

 

そんな設定なのだが、僕はスコットランドには、

1986年の春にネス湖観光、

1987年の夏にエジンバラ演劇祭を見に行ったきりだ。

特に強烈な印象はないが、

ロンドンなどより物価が安く、

のんびりした田舎というイメージが残っている。

インヴァネスの宿に泊まった時に給仕してくれた

当時高校生くらいの女の子が

真っ赤なほっぺをしていて可愛かった。

 

イングランドとスコットランドはここ数百年、

何とか折り合いをつけて仲良くしてきたが、

いつまでも過去を懐かしんではいられない。

何よりも民族としての

アイデンティティが大事なのだ。

 

亡き女王の願いむなしく、

近いうちにスコットランドは独立するだろう。

それが歴史の必然のような気がする。

そう思ってこのバグパイプを聴くと、

よけいに切なく美しく響く。

そしてエリザべㇲ2世の生きた時代は、

次世代へ語り継がれる物語としてパッケージされる。

 


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エリザベス2世国葬:20世紀の真の終幕

 

昨夜はエリザベス女王の国葬を、BBCの生中継で見た。

こんなに絢爛豪華で美しい式典を見ることは

もう生涯ないだろうと思った。

 

内容の重厚さあってこその華やかさ。

あれだけ世界の要人が一堂に集まることも

もうこの先ないのではないか、と思える。

 

そいて、こんなすごいことをする国、できる国は、

もう地球上にイギリスしかない。

 

BBCの気合の入れ方もハンパなかった。

イントロダクションの編集もめっちゃカッコいいし、

ウェストミンスター寺院の天井にカメラつけて

神さま目線の大俯瞰映像を撮るなんて本当にびっくりした。

 

おそらくBBCは昨日の中継映像を、

後世に残す、人類共有の遺産とすることを意識して

撮ったのではないだろうか。

 

21世紀になってから22年目にして、

とうとう20世紀の真の終幕を見た感じがする。

 

国葬のパレードは軍隊に支えられていた。

王制と軍制は一体のものであり、

あの祭典は、大英帝国の祭典である。

僕たちが暮らすこの世界は、

いまだ大英帝国の影響下にあったのだ。

 

その礎を築いたのは、16世紀のエリザベス1世。

海軍と海賊を使って世界の覇権を握り、

イギリスに富と繁栄をもたらした。

 

19世紀。ヴィクトリア女王の治世と産業革命。

日本も初めてグローバル化し、文明開化を迎え、

資本主義・覇権主義の時代が始まった。

 

世界を制覇し、栄光に包まれた大英帝国の歴史は、

富を求め、権力と暴力で人を抑えつける

搾取・略奪・虐殺・支配・蹂躙の歴史でもある。

 

エリザベス2世はそうした前世代の恩恵と、

犯した罪悪の双方を熟知して

この70年間、必死で世界のバランスを保つのに

努めてきたのだと思う。

 

そして自分の葬儀さえも過去と未来との懸け橋にした。

英王室内の知恵の蓄積もあったのだろうが、

 

すごい女王、すごい物語の作り手だ。

 

 

彼女がいなくなった今、

大航海時代から20世紀、そして今日まで

続いてきた一連の流れはゆるやかに止まっていくだろう。

 

英連邦国家の独立や、王制廃止の動きも

雪崩を打って襲ってくるだろう。

ユニオンジャックの国旗を見るのも、

もうそんなに長くないかもしれない。

 

世界のかたちは変わり、資本主義社会の在り方も

変質していくだろう。

 

もしかしたらそれらは僕がまだ生きている間、

向こう10年、20年のうちに実現してしまうかもしれない。

 

僕たちの子孫は、昨日の国葬を

20世紀文化のアーカイブとして鑑賞するのだろう。

そして、王様・女王様のいる世界を

バーチャルとして楽しむようになるのかもしれない。

 

リアルにこんなことをやって、無駄ガネを使いまくって、

なんてクレイジーな時代だったんだ!

ということになるんだろう、きっと。

 

僕らはそれを寂しいと思ってこう言う。

 

「いや、民主主義・合理主義には賛成だけど、

人間というものはどこかでこういう物語を

求めているんじゃないか?

それが心を豊かにするんじゃないか?」

 

だが結局、新しい時代のことは、

新しい世代が決めることになる。

 

いずれにしてもロンドンとウィンザーで

エリザベス女王を見送った僕たちは、

一つの歴史と始まりを見届けた。

とても幸運なことだし、貴重な体験をしたと思う。

 


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生涯現役・ウルトラの女神

過去にブログやSNSで書いたエッセイを

編集・リライトして電子書籍にしている。

 

今度の新刊「赤ちゃんはなぜかわいいのだ?」は、

子どもがテーマ。

その編集をしていたら

子ども時代に見た「ウルトラQ」がらみのネタが

3本もあった。

 

そう言えば、この間も5年くらい前に書いた

「2020年の挑戦への挑戦」を引用されてくれと

リクエストが来たのでOKした。

(この記事はエッセイ集:生きる

「酒タバコやめて100まで生きたバカ」に収録)。

 

ウルトラQは、のちのウルトラマン、ウルトラセブンなど、

ウルトラシリーズの元祖である。

製作・放送はなんと1966年。

その後のヒーローものにはさして執着心はないが、

Qはべつもの。

6歳の時、僕はいったい何を見たのだろう?

といまだに考える。

 

Qの記憶は素晴らしく鮮明で、

深読みさせられるマテリアルが

たくさん埋蔵されているので、

いまだに頭の中で、それぞれのエピソードが、

進化・深化を続けている。

 

そのQの中で活躍していた紅一点が

桜井浩子さん演じる「ユリちゃん」である。

桜井さんは、この後のウルトラマンに出てくる

科学特捜隊のフジ・アキコ隊員のほうが有名かもしれない。

 

「ユリちゃん」こと江戸川百合子は、

新聞社の女性カメラマンで、

ほかのふたりの男性とトリオの主人公で、

怪獣や怪事件に立ち向かっていた。

 

この時代、特撮やアニメ番組に出てくる

若い大人の女性は、なぜかカメラマンが多かった。

「スーパージェッター」のカオルさんとか。

 

まだ職場が男だらけだった時代、

カメラ片手に颯爽と駆け回るおねえさんは

子ども心にカッコよくて、胸がときめいた。

 

しかもユリちゃんはただ写真を撮るだけでなく、

知的でユーモアがあって勇敢で優しかった。

時にとんでもない悲劇にも見舞われた。

 

そのユリちゃん、そしてフジ・アキコ隊員を演じていた

桜井浩子さんの記事を先日読んだが

とても面白くて、こころ動かされた。

 

怪獣もののイメージがついてしまって、

その後の女優業は苦労したのではないかと思うが、

今になって、その半世紀以上前のキャリアが

燦然と輝いている。

 

彼女は現在、ウルトラ関係のコーディネーター業を

やっていて、今回の「シン・ウルトラン」でも、

裏方でいろいろ活躍していたようだ。

 

僕が6歳の時におねえさんだったのだから、

それなりのお齢だが、

この明るさ・元気さは素晴らしい。

 

こうなるともう生涯現役確定。

ユリちゃんファンも、フジ隊員ファンも

死ぬまでついていく。

いつまでもウルトラの女神でいてほしい。

 


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朗読劇・泉ピン子の「すぐ死ぬんだから」

 

以前、月刊仏事に告知記事を載せた、

泉ピン子の「すぐ死ぬんだから」というお芝居に

ご招待いただいたので観に行った。

劇場は東池袋の「あうるすぽっと」。

 

最後はいつだったか思い出せないほど、

観劇はかなり久しぶりだが、めっちゃ面白かった。

 

夫とともに町の商店を切り盛りしながら、

夫婦仲よく平凡に生きてきた

78歳の高齢女性を主人公としたストーリー。

 

テレビドラマの脚本家としておなじみ、

内館牧子が書いた小説を舞台用に構成した朗読劇で、

出演は泉ピン子と村田雄浩。

 

泉が、主人公のハナ役をメインに、

村田がその夫と息子をメインにしながら、

全登場人物、そして小説の地の文に当たる部分を

ト書きやナレーション風にして、すべて演じる。

 

その切り替えとバランスが抜群で、

縦横無尽に感情をさらけ出して暴れる泉ピン子を

村田雄浩が見事にフォローする。

だからとても安心して感情移入でき、笑って泣けるのだ。

 

泉ピン子が本に惚れて舞台化を企画したそうだが、

現代の高齢女性の心をドラマ化した

内館牧子の原作が素晴らしい。

 

タイトルの「すぐ死ぬんだから」は

劇中、随所にキーワードのように出てくる。

場面によって諦観の表現や、

笑いを誘うためのセリフとして

使われているところもあるが、

全体を通してみると、

人生の終章近くを生きる女性を叱咤し励ます

エールのような意味合いを帯びている。

 

そしてそれが最後には高齢女性に限らず、

すべての世代の男女に向けた

人生の応援歌として響いてくる。

 

観客も高齢者が大半かと思っていたら、

けっこう若い人も多く、バラエティに富んでいた。

 

休憩20分を入れて2時間余り。

終了後、作品の余韻を残したまま、

ピン子さんと村田さんがカーテンコールで

10分ほどのトークをしたが、それもまた楽しくて、

みんなとても良い気分で劇場を後にした。

まさしく名優にして名エンターテイナー。

 

東京での公演の後、年内は全国ツアーに出る。

機会があれば、ぜひ観ると面白いですよ。

  

第2世:長編小説特集「読むホリデー」

8月9日(火)16:00~12日(金)15:59

 

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レビューお待ちしています。

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第1世:短編小説特集「1時間で奇譚旅行体験」

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カメとの遭遇

 

いつもの散歩で今日はカメに遭遇。

川沿いのから家に戻る道は、ちょっとした坂になっている。

上り出すと、向こうから変な歩き方をするイヌが

坂を下りて来るのが見える。

どこか体が悪いんだろうかと思ったが、

よく見たらカメだった。

 

甲羅の長さが40センチくらいあるやつなので、

遠目では体の丸っこい小型犬に見えたのである。

こんなところをノシノシ歩いているカメは、

もちろんノラガメではない。

どうやらその後についてきた親子(母と娘)が

飼い主らしい。

 

聞いてみたら、親戚のペットのヒョウモンリクガメを

1週間預かってるのだという。

僕に話しかけられ、足を止められた臨時飼い主を尻目に、

カメは自分のペースでノシノシ、

ひたすらまっすぐ川に向かって歩いていく。

 

カメをトロいとかノロマだとか、バカにしてはいけない。

4本の逞しい足を交互に繰り出して、

ぐんぐん前に進んでいく歩みは実に力強く、

年寄りで足腰の弱ったイヌなどよりもよほど速い。

顔つきも精悍そのもの。

これならのんびり昼寝していたウサギも負かせる。

 

あっという間に10メートル以上進んでしまったので、

娘(小4くらい)がささっと捕まえにいった。

少女とカメのコンビは、

なんとなくミヒャエル・エンデのファンタジー小説

「モモ」に出てくるモモとカシオペアを思い出させる。

ひたすら進んでいくカメは、川まで辿り着いたら

娘を連れてタイムトラベルするかもしれない。

 

臨時飼い主のお母さんの話によると、

なかなか骨があるというか、肝の坐ったカメで、

イヌなどと逢っても泰然としているという。

逆にイヌの方がビビッて尻尾を巻いてしまうらしい。

 

その行く先に何が待っているのか面白そうなので、

ぜひ一緒にフォローしたかったのだが、

義母がいっしょだったし、

パラパラ雨が降り始めていたので帰らなくてならず断念。

また、あのカメに遇えるだろうか?

 

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真夏の世の夢 16日間連続無料キャンペーン予告

 

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第3世:エッセイ集:昭和/子ども/動物

8月13日(土)16:00~16日(火)15:59

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●第4世:エッセイ集:生きる

8月17日(水)16:00~20日(土)15:59

酒タバコやめて100まで生きたバカ http://www.amazon.com/dp/B09MDX2J45

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「ゴールデンボーイ」:誰もが怪物になり得る恐怖の神話

 

「刑務所のリタ・ヘイワース」と一緒に納められた

スティーヴン・キングの傑作中編。

タイトルや表紙から一見、

「スタンド・バイ・ミー」のような

青春物語なのかと思って読み始めると、

とんでもない目に遇う。

(「スタンド・バイ・ミー」も原作「死体」は、

映画と違ってかなる陰鬱な物語だが)

 

霊だの超能力だの超常現象だのは一切出てこない。

舞台はありふれたアメリカの田舎都市。

主人公は健康でスポーツ万能、成績優秀、

家庭にも恵まれ、経済的にも恵まれ、

孤独や貧困や差別などとは無縁な、

白い歯の笑顔が似合う理想的なアメリカ少年。

 

およそ人間の心の闇だの、

社会の裏とか影だのといったところとは

遠いところにいるはずだった少年は、

雑誌のエンタメ読み物風に掲載されていた

ナチスドイツの犯罪の話に興味を持った。

 

それに対する無邪気な好奇心が、

近所に隠れ住んでいた、

老齢のナチスの戦犯を見つけるという偶然から、

腹わたをえぐり出すような物語に発展する。

 

1983年にアメリカでキングの中編集「恐怖の四季」を

ペーパーバック化する際、

この作品の衝撃的な内容に出版社がおそれをなし、

「これだけ外せませんか?」と

お伺いを立てたといういわくもついている。

 

「あとがき」にはその時のことを語った

キングのインタビューの一部が載っている。

 

「僕は自分の精神分析に興味はない。

何よりも興味があるのは、

自分が何を怖がっているかに気付く時だ。

そこから一つのテーマを発見することができるし、

さらにはその効果を拡大して、

読者を僕以上に怖がらせることができる」

 

1980年代当時、発禁ギリギリとも言えるこの物語、

そして90年代以降、頻発する猟奇殺人・無差別殺人を

予言したかのような「ゴールデンボーイ」は、

超売れっ子作家であるキングの作品だからこそ

世に出すことができたのかもしれない。

 

1990年代から一般人の間でも精神分析、

プロファイリングという概念が広まり、

「トラウマ」「アダルトチルドレン」

といった言葉も一般化した。

 

以来、日本でも海外でも、

理由のわからない殺人事件が起きると、

僕たちはその犯人の心に闇をもたらしたもの———

孤独、貧困、虐待、差別、マインドコントロール、

格差社会のひずみといった問題を探し出し、

なんとか理解しようとする。

 

しかし、40年前に書かれたこの小説を読むと、

それ以前の何か—ー80年代のアメリカ社会に象徴される

現代のゴールデンな物質文明、

さらに情報化された社会そのものが、

人間を――特に可塑性のある子どもを、

容易にモンスター化する土壌に

なっているのではないかと思えてくる。

ナチスの老人との出会いはそのトリガーに過ぎない。

 

キングは二人の3年にわたる交流の過程を、

平凡な日常の描写を積み重ねながら描いていく。

そして、それが恐るべき状況を生み出し、

戦慄の結末へとつながっていく。

 

ラスト3頁の地獄の顛末の表現はあまりに素晴らしく、

読後感はとてつもなく苦い。

しかし、不思議なことに

それは何度でも何度でも嚙み締めたくなる、

噛み締めずにはいられない苦味なのだ。

 

それはこの物語がたんなる恐怖小説でなく、

僕たちの生きるこの社会に、

人間の魂に宿る善と悪の源泉に、

そして人生の始まりから行く末にまで

想像力を馳せらることができる、

現代の負の神話、負のバイブルだからではないかと思う。

 


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「刑務所のリタ・ヘイワーズ」:凡人の希望と絶望をめぐる物語

 

「刑務所のリタ・ヘイワース」という小説がある。

ハリウッド映画の中でも屈指の名作と名高い

「ショーシャンクの空に」の原作である。

作者はかのホラー小説の帝王スティーブン・キング。

中編集「恐怖の四季」の一編。

日本で出ている文庫本では「ゴールデンボーイ」と

一緒に収録されている。

 

映画のほうはヒューマンドラマの側面を強調した

感動的な物語として仕立てられているが、

小説は若干ニュアンスが異なり、

あそこまでの痛快感はない。

もっと内省的で、もっと多くの含蓄を含んでいる。

 

ホラー小説ではないが、「恐怖」の要素は入っている。

人の心を蝕む監獄という恐怖。

じわじわとその慣習に慣らされ、

夢や希望や人間らしさを剥ぎ取られていく恐怖。

 

そもそも主人公は、映画でティム・ロビンズが演じた

銀行家アンディーではなく、むしろ、

語り手である調達屋のレッドのほう。

映画では黒人のモーガン・フリーマンが演じたが、

こちらでは赤毛のアイルランド系移民

ということになっている。

 

なぜレッドが主人公かと言えば、

僕を含め、ほとんどの読者はアンディーよりも

レッドの境遇に近く、共感を抱くだろうからだ。

 

アンディーは自分は無罪であるという信念(正義)の上に、

強固な牢獄からの脱獄という、凡人には考えられない

めっちゃハードルの高い目標を立てる。

 

優秀な銀行家(経済のスペシャリスト)の上に、

遠大な計画力、主逸なアイデア力、果敢な実行力、

そして人生を賭けた、数十年にわたる地道な努力ができる

飛び抜けたヒーローだ。

 

それに対し、レッドはそれをただ観察し、評価し、称賛し、

彼が欲しいというリタ・ヘイワースのポスターを

こっそり調達してあげるだけの凡人である。

 

しかし、リタ・ヘイワースのポスターがきっかけで

二人は友だちになり、やがて深い友情に発展する。

アンディーにとって目標達成のためには、

自分の豊富な才能・人並み以上の能力・

不断の努力にプラス、

最後のカギとして「友情」が必要だった。

 

表面的には、次々と困難を克服していく

アンディーの活躍が物語の主軸となっている。

映画はもちろんこっちがメイン。

原作はそれとシンクロして

傍観者であるレッドの不安、絶望、希望の心の波を

綿密に描いている。

 

ショーシャンク刑務所は、殺人などの重罪を犯した

終身刑クラスの犯罪者を収容するところ。

つまり、ここに入ったら人生の大半を

刑罰としての奴隷労働を強いられる囚人として

過ごさなくてはならない。

 

だから自分も人間のはしくれだと信じ、

少しでも平安と快適さを得るためには、

監獄のルールに心身を慣らさなくてはならない。

そうして若い頃から身も心も監獄に縛り付けられると、

50~60代になって釈放されても、

自由の喜びでなく、

ジャングルに裸で放り出されるような

恐怖にやられてしまう。

そのため、ほとんどが再犯をして帰ってくる。

自分で自分を一生囚人化してしまうのだ。

 

レッドもその危機に立たされる。

そして、それを救うのが、

やはりアンディーとの友情だった。

映画はその最後をこの上なく美しく描いていて、

史上屈指のラストシーンとされている。

 

ただ原作はその一歩手前で終わっており、

英雄アンディーの話はもしかしたら、

凡人レッドが、シャバに出ても生き抜いていけるよう

勇気と希望を持ち続けるための

妄想だったのではないかとさえ思える。

 

こんなふうに書いてくると、

アンディーとレッドの関係は、

みんなが憧れ称賛する「成功者」と、

その名もなきフォロワーたちのように思えてきた。

 

もし、今生きているこの社会を牢獄と見立てたら、

そこから自由になるためにはどうすればいいのか?

 

アンディーのような一種の天才でなく、

レッドのようなケチな凡人にもそれが可能なのか?

 

希望を持ち続けるためにはどうすればいいのか?

自分の人生を牢獄の中で終らせないためには

どうすればいいのか?

 

いろいろなことを考えながら読める素晴らしい小説だ。

 

ちなみにリタ・ヘイワースは、

1940年代に一世を風靡した映画女優。

マリリン・モンローの前のセックスシンボルとして、

絶大な人気を誇った。

 

また、近年、アメリカでは増え過ぎた刑務所と囚人の問題の

ソリューション(問題解決)のために、

某巨大企業が刑務所の経営に乗り出した。

そして囚人を奴隷労働させて、

本業とは別に莫大な利益を上げているという情報も。

これもまた資源・人材の有効活用?

ウソかマコトか、真偽のほどはわからないけど。

 

 


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「てるてる男とふれふれ女」キャンペーン終了

 

無料キャンペーンは本日16:59で終了しました。

ご購入ありがとうございました。

面白かったらAmazon Kindleのサイトにレビューをお寄せください。

 

今後もおりべまことの作品をよろしくお願いいたします。

 

いつでもカエル21タイトル

 

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★人生のおやつに還暦エッセイ集

 

●銀河連邦と交信中なう ¥300

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●あなたもごはんでできている ¥300

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●いつもちょっとクレイジーでいるためのスキル ¥300

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●昭和96年の思い出ピクニック ¥300

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●子ども時間の深呼吸 ¥300

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●ロンドンのハムカツ ¥300

http://www.amazon.com/dp/B086T349V1

 

★新刊予告:7月上旬発売予定

次回の新刊は、エッセイ集:エンディング

「死ぬまでジタバタしようぜ」(仮題)

どうぞお楽しみに!

 


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週末の懐メロ86:リトル・グリーン/ジョニ・ミッチェル

 

1971年リリース。

米国ローリングストーン誌が2020年に選出した

「史上最高のアルバム500枚」で

堂々第3位に選出された名盤『Blue』の収録曲。

 

アメリカでは並みいるスターアーティストを差し置き、

ジョニ・ミッチェルの評価は断トツに高いようだ。

女性アーティストの中では、

アレサ・フランクリンと並んでトップと言っていいだろう。

 

確かに優れたシンガーソングライターだが、

最盛期ともいえる70年代、

彼女はここまで人気があっただろうか?

 

少なくとも僕の印象は割と地味で玄人好み、

日本人の女性フォーク歌手にちょっと影響を与えた人、

ぐらいだった。

 

どうして近年、すでに現役とは言えないミッチェルが

これほどまでに評価されるようになったのか?

その秘密を解くカギが、

この「リトル・グリーン」という曲の中に潜んでいる。

 

歌詞は大まかにこんな感じ。

 

かに座に生まれた女の子

この子に似合う名前を選んだ

グリーンと呼ぶわ 冬の寒さに負けないように

グリーンと呼ぶわ 彼女を産んだ子どもたちもね

リトル・グリーン、ジプシーの踊り子になって

 

子どもを持った子どもの偽り

家に嘘をつくのはもう嫌なの

あなたは書類にファミリーネームでサインする

悲しいの、ごめんなさい、でも恥ずかしいとは思わないで

リトル・グリーン、ハッピー・エンドになって

 

「リトル・グリーン」は実体験に基づく歌である。

ここでいう「グリーン」は、

ミッチェルが実の娘に付けた名前であり、

その親になった女と男を「青二才」と揶揄する呼び名でもある。

 

歌詞の中の「彼女を産んだ子どもたち」とは

母親である自分自身、そして恋人だった実の父親のこと。

 

この歌を歌う6年前の1965年、

まだカナダの無名の貧乏アーティストだったミッチェルは、

トロントの慈善病院で女の子を産んだ。

 

避妊の知識も乏しかった時代の、

望まない妊娠・出産。

当時、カナダでは中絶は法で禁じられていた一方、

未婚の女性が母親になることは罪を背負うことだった。

 

父親である前の恋人も、

新しく現れ結婚を申し込んだ男も、

赤ん坊に対してはひどく臆病で責任を逃れようとした。

 

まだ子どもだった若い彼らにとって、

赤ん坊を抱え込むことは、

アーティストになる希望の道が閉ざされることと

イコールに思えたのだろう。

 

結局、ミッチェルは生後6か月の娘を養子に出し、

アメリカにわたる。

「リトル・グリーン」を書くのは、その1年後の1966年のこと。

そして、その頃からシンガーソングライターとしての

天才を開花させる。

 

1968年のデビューアルバム発表後、

彼女は目を見張る勢いで、

世界のポピュラーミュージックの

メインステージに駆け上がる。

 

そして長い年月が流れたあと、運命は劇的な変転を迎える。

1997年、53歳になっていたミッチェルは、

当時32歳、すでに1児の母になっていた娘と再会する。

1971年、アルバム「BLUE」に

「リトル・グリーン」を収めて26年後、

養子に出して32年後のことだ。

 

親子は心から再会を喜び合った。

しかしその後、マスメディアの報道の嵐によって、

歌の通りに「ハッピーエンド」とはいかない事態と

なっていったようだ。

 

人の感情は大海に浮かぶ小舟のように、

ちょっとした波に簡単に揺らぎ、時には転覆してしまう。

 

いずれにしても、このストーリーを知る前と知った後では

「BLUE」の、そして「リトル・グリーン」の印象は

大きく変わってくる。

 

近年、ジョニ・ミッチェルの評価が高まっているのは、

楽曲そのものだけでなく、

こうした彼女の人生にまつわる劇的なドキュメンタリーが

大きく作用しているような気がしてならない。

 

「女性と子どもを大切にする」という

社会意識を深めるためにも、

ジョニ・ミッチェルをもっと評価しようという声が

強まっているのだ。

 

音楽ビジネスの世界に発言力のある女性が増えたことも

その一因だろう。

自由で開放的で先進的に見える映画や音楽の世界も、

つい最近まで男性権力者による支配が横行し、

パワハラ、セクハラの温床であったことが暴露された。

 

すでに60年近くに及ぶミッチェルの音楽キャリアと

優れた楽曲群は、

女性と子どもの未来に光を投げかけるものとして、

これからも評価はますます高まるものと考えられる。

 

 

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晴れ男と雨女が恋をした。

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人生は長くて短い

 

 

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「てるてる男とふれふれ女」では、

天気と人の運命について書いてみた。

人生は長くて短い。

還暦を超えて、やっとそうした言葉を実感できるようになった。

そして昨日、ちょっとそれにリンクするような出来事があった。

 

本を出したい、ということで代筆の依頼を受け、

2回ほど取材も行っていたが、

昨日、その人のご家族の重病が発覚。

今後の取材の予定がいったんキャンセルされた。

おそらくこのまま継続するのは難しく、

この案件自体がキャンセルになるか、

長期凍結ということになるだろう。

 

人生にはいろいろなタイミングというものがある。

運・不運の波は定期的にやってくるが、

それはなかなか予知できない。

(占いに頼る人が多いのも頷ける)

 

災害や疫病、金融恐慌だってある。

それを完璧に免れるのは不可能だ。

 

人生設計とか、あれこれ長期計画を立てるのもいいが、

今やりたいこと、できることを先延ばしにしていると、

天気が荒れて実現困難になるかも知れない。

一度時機を逃すと、

そのチャンスは永遠にめぐってこないかもしれない。

 

漠然とした不安に煽られて、お金をため込んで、

結局、節約生活だけが生きがいになって

人生終わってしまう人もいるという。

 

やりたいことがある人、

ずっと心にため込んでいる人は、

我慢と解放のタイミングをちゃんと考えた方がいいと思う。

 

 


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てるてる男とふれふれ女  無料キャンペーン継続中

 

いつも天気のことを気にして生きてきた二人だが、

その時だけは違った。

若くて健康だったので直観が働いたのだ。

もしかしたら傷つくことになるかもしれないなんて露とも考えず、まっすぐに思いをぶつけ合った。

大きな街の中心にニョキニョキと立つ高いビル。その谷間にある丸い広場の片隅。

夕闇が辺りを包んでいた。

「好きだ」と男は言った。

「あたしも」と女は言った。

とても純粋な恋だった。

問題はただ一つ。

男は晴れ男で、女は雨女であること。

星のめぐりが最高な運命のデートの日は晴れるのか、

どしゃ降りになるのか。

はたまた間を取ってくもりになるのか。

女は耐えきれない思いを抱いて、男に長い手紙を書いた。

 

恋と結婚と幸福と人生の行く末を描く、

おかしくてセンチメンタルな短編小説。

おとなも楽しい少年少女小説第9弾!

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若者だらけのEND展

 

「お、おれがいちばん年上じゃん!」

END展、先日行ったのは関係者向けの内覧会だったので、

昨日、一般公開の様子を探りに行ってみた(本日で終了)。

 

油断してたら事前予約の枠がいっぱいになってしまってて、

「当日券あるかも」とサイトに書いてあったのを信じて

ヒヤヒヤしながら行ったら、入れてもらえてホッ。

僕と同様、「事前予約が取れなかったので」という人も

けっこう大勢、受付に集まっていた。

 

主催者は「50代~60代はがメインの対象」と言っていたが、

入ってみたら、僕より若い人ばっか。

見た目、20代の人が一番多かったような気がする。

 

若くてカッコいい女の子ばっか見てたからだろ、

と突っ込まれたら「はい、そうです」

と言わざるを得ないが。

 

たまたまだったのかもしれないけれども、

マジで多かったのは20代・30代。

10代のおぼしき子も少なからずいたと思う。

僕はほとんど最年長の部類だった。

 

しかし、よく考えれば当然かもしれない。

おそらくリアルにENDに近い高齢者とか、

その一歩手前の人たちの多くは、

死がどうのこうのなんて

考えたくないし、向き合いたくない。

 

若ければ、それはまだ遠い先にある、

一種のファンタジーとして受け止められる。

 

実は「死」というコンテンツは、

年寄りのものでなく、若者のものではないか。

 

生とは?愛とは?自由とは?人間とは・・・

 

子どもからおとなになる頃、そういったことを考えながら、

いろいろな芸術・文化に触れて

自分ならではの世界観を作っていくのは、ごく自然なこと。

 

むしろ最近のように、社会に要請に応じて、

若い頃から仕事一辺倒、金儲けオンリー、

生産活動ばっかりみたいな人生のほうがおかしいと思う。

 

10代や20代が死について、

そしてそれと同時に「どう生きるかということ」に

考えをめぐらすのは全然おかしくない。

 

オーバー還暦もまた、

そうした10代・20代の心情に還っていくといいと思う。

 

展示の最後に

「死ぬまでにやりたいことは?」

「印象的な死のエピソードは?」

という問いがあって、ボードに自分の回答を書いた紙を

貼り付けられるコーナーがあるのだが、

あふれんばかりの回答でボードが真っ白になっていた。

 

それぞれ10個ずつくらい読んでみたが、

ジョークっぽいのからシリアスなのまで

いろいろあって面白かった。

とても全部読み切れなかったので、

ぜひ主催者さんにサイトに上げてほしい。

 

 

電子書籍

「てるてる男とふれふれ女」

梅雨入り記念無料キャンペーン

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てるてる男とふれふれ女 2022梅雨入り無料キャンペーン

 

 

♪6月6日に雨ざあざあ降ってきて

カエルかな?カエルじゃないよ、アヒルだよ~、ガァ。

 

というわけで、昨日から関東甲信地方は梅雨入り。

というわけで、

 

梅雨入り記念無料キャンペーン5日間実施!

6月7日(火)17:00~12日(日)16:59

おはなし

 

いつも天気のことを気にして生きてきた二人だが、

その時だけは違った。

若くて健康だったので直観が働いたのだ。

もしかしたら傷つくことになるかもしれないなんて

露とも考えず、まっすぐに思いをぶつけ合った。

大きな街の中心にニョキニョキと立つ高いビル。

その谷間にある丸い広場の片隅。

夕闇が辺りを包んでいた。

「好きだ」と男は言った。

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とても純粋な恋だった。

問題はただ一つ。

男は晴れ男で、女は雨女であること。

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ゴールデンカムイ:明治時代は文化のゴールドラッシュ

 

今さらと言われそうだが、ここのところ、

「ゴールデンカムイ」にはまって

毎晩、Amazonでアニメを一気見している。

ちょっと前に連載が完結したところだが、

マンガはまだ読んでない。

 

「鬼滅の刃」は大正、こちらは明治。

さすがジャンプの目の付けどころは鋭い。

幕末、明治、大正、昭和。

現代にいたるまでの日本の150年ほどの時間は、

現代ではありえないリアルなドラマにあふれている。

ここに埋まっている資産を掘り起こすのは、

いわば文化のゴールドラッシュ。

 

日露戦争終結後の明治終盤、

1900年代後半の北海道を舞台にした

「ゴールデンカムイ」。

その面白さの要素はたくさんあって、

とんでもなくバラエティ豊かで充実した内容。

そして現代風の味付けもおいしい。

 

もうすでにいろいろな人が、

いろいろなところでこの作品を語っているが、

僕にとって最もインパクティブなのは、

明治という時代とそこで生きる

兵士・軍人が実にリアルに、

そして面白く描かれているところである。

 

さすが青年誌に連載されたマンガだけに

ここに出てくる兵士たちは、

べつにサイコナントカの超能力を使ったり、

必殺のカントカビームなどを発射するわけではない。

それぞれ現実的な範囲内で、

超人的な戦闘能力を発揮する。

 

こんなこと人間ができるのかと思う部分もしばしばで、

「マンガだから」と言ってしまえばそれまでだが、

僕はそれだけではないと思う。

これは現代とは異なる次元、

つまり過酷な自然、

まだ科学や医学や各種のテクノロジーが発展途上の環境、

さらに、戦場という命のやり取りをする極限状況、

といった中で生き、活動しているので、

脳のリミッターがはずれ、

それぞれが持っている潜在能力が発動するのだろう。

みんな天才戦闘家になるわけだ。

 

明治の男たちの強さ・凄まじさ、

それと裏腹な優しさ・愉快さについては、

昭和時代からいろいろな伝説があり、

中にはかなり誇張されているものもあると思うが、

基本的に僕はそうした伝説を信じている。

信じた方が面白い。

 

同時にこのマンガを読んで感じるのは、

おそらく命のやり取りをしなくては生きている

実感が得られない人間、

つまり戦争という状況がなくては生きられない人間

(たぶん、ほとんど男)が

必ず社会に存在するのだろうなということ。

 

特に幕末から明治、大正、昭和初期は、

そうした男たちにとっては生きやすい時代、

居場所のある時代だったのだと思う。

 

やっかいだが平和な現代でも

そういう男たちは一定数はいる。

遺伝子のなせるわざなのか、

いつの時代でも数パーセントはいるのだ。

今回のロシア・ウクライナ戦争でも、

日本から数十人が兵士に志願したという。

彼らは戦争という極限環境を求めていて、

自衛隊の演習などでは満足できないのだろう。

 

このマンガの作者の野田サトル氏の曽祖父は、

日露戦争の兵士だったと言うが、

そうした日本人の血のなかの遺伝子とか、

霊魂といったものも、100年以上の時を超えて、

現代人に何か刺激を与え、

行動を起こさせようとしているのかもしれない。

そんなことを考えると、

単純に戦争=悪とはいえなくなる。

自分だってこういうマンガを読んで楽しんでいるわけだし。

 

本当に面白い「ゴールデンカムイ」。

実写映画化も決まったようで、

興味はあるが、心配でもある。

 

最近はこういうダイナミックな物語は、

マンガやアニメのほうが感情移入できるし、

想像力を広げて楽しめる。

 

よほど自分が好きな俳優が出ているならいいが、

そうでないと実写にはがっかりさせられるケースが多い。

実写映画・ドラマよりもマンガ・アニメ。

それもまた時代のせいだろうか。

 


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新刊本日発売「てるてる男とふれふれ女」

 

いつも天気のことを気にして生きてきた二人だが、

その時だけは違った。

若くて健康だったので直観が働いたのだ。

もしかしたら傷つくことになるかもしれないなんて

露とも考えず、まっすぐに思いをぶつけ合った。

大きな街の中心にニョキニョキと立つ高いビル。

その谷間にある丸い広場の片隅。

夕闇が辺りを包んでいた。

「好きだ」と男は言った。

「あたしも」と女は言った。

とても純粋な恋だった。

問題はただ一つ。

男は晴れ男で、女は雨女であること。

星のめぐりが最高な運命のデートの日は晴れるのか、

どしゃ降りになるのか。

はたまた間を取ってくもりになるのか。

女は耐えきれない思いを抱いて、男に長い手紙を書いた。

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安西水丸「青の時代」のシュールな詩情

 

僕にとって安西水丸といえば、

1980年代の村上春樹のエッセイ集

「村上朝日堂」などのイラストでなじみがある。

 

いわゆるヘタウマっぽい、とてもシンプルで

ちょっとトボけた味のある絵で好きだった。

2014年に亡くなったのを聞いた時は、

もうあの絵が見られないことにけっこうがっかりした。

 

じつは安西水丸氏はイラストだけでなく、

小説やエッセイストを書いたり、

デザイナーであり、絵本作家でもあった才人である。

 

これは彼が30代の時に

1970年代の伝説の漫画雑誌『ガロ』で発表したマンガ。

というか、絵物語とかアートに近い。

 

舞台はおもに彼が少年時代を過ごした

千葉県房総半島の海辺の町。

 

時代はもちろん昭和なのだが、

どこか時間を超越した異郷のような風景が、

独特のシンプルな線の絵で描かれており、

どこか寺山修司の世界と共通するシュールさがある。

 

奇妙な顔をした、

おそらく作者自身をモチーフにした少年と、

それを取り巻くエロチックで、

陰と哀しみをたたえた女たち。

怖ろしいほどの引力を持った詩情あふれる世界。

 

改めて安西水丸の才能に圧倒され、

何度も読み返してしまう。

 

最後に収録されている「二十面相の墓」は

作家・嵐山光三郎の小説を漫画化したもの。

 

発行はCrevisという会社で、

1980年に青林堂から出された同タイトルの復刻版である。

 

娘である安西カオリ氏が序文を、

嵐山光三郎氏が解説。

同作に関する水丸氏の1994年の

インタビューも収録されている。

 


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おとなも楽しい少年少女小説新刊 「てるてる男とふれふれ女」

 

晴れ男と雨女がちょっと不安定な恋をした。

だいじょうぶ、人生に完璧はあり得ない。

結婚するかどうかを決める運命のデートの日は

曇でオッケーという男。

そして女は男に長い手紙を書いた。

お天気を左右する二人の運命の軌跡を描く短編小説。

6月1日発売予定。

 


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「世界カメの日」に考える  なぜ浦島太郎はリスクを負ってカメを助けたのか?

 

「浦島太郎」のお話の始まりは、

太郎が浜辺でカメが子どもたちに

いじめられているのを助けるところから始まる。

 

勝手に解釈すると、イジメてたわけではなくて

捕まえて殺して食おうとしていたのだと思う。

昔はウミガメを捕まえて食うことなんて

海辺の村では日常茶飯事で、

この子どもたちも親たちから

「今夜のめしはカメ鍋にするから捕まえてこい」と

指図されたのだろう。

ひと家庭では食べきれないので、

村でパーティでもやる予定だったのかも知れない。

 

このカメは産卵するため浜辺に上がってきたところを

狙われたのだ。

これでは逃げようがない。

海辺の村人にとっては年に数少ない、

栄養満点のごちそうにありつく

絶好のチャンスだったのに違いない。

 

それを邪魔した浦島太郎は、子どもらのみならず、

ほとんど村全体を敵に回したと言っていいだろう。

そもそも彼はこの村の人間ではないのではないかと思える。

 

カメを助けるから動物愛護の精神に富んだ

いい人に思えるが、それは現代人の感覚で、

こんなことをしたら、子どもたちが親に言いつけて、

あとから村じゅうの人間から

袋叩きに逢うことは目に見えている。

 

結果的に彼はカメに竜宮城に連れて行ってもらい、

乙姫様と結婚して夢のような暮らしを送るので、

これだけの危険を冒したかいがあったということになる。

まさしくハイリスク・ハイリターン。

投資は大成功だ。

 

助けられるカメは、

現在では竜宮の使者ということになっているが、

一説では乙姫様が化けていたというものもある。

 

産卵しに上がってきたわけだからメス。

辻褄があっている。

ちなみにオスのウミガメが陸上に上がってくることは

ほとんどないようだ。

 

よく考えると、浦島太郎と乙姫様は

かなりミステリアスなキャラクターである。

夫婦だったのか?

愛人関係だったのか?

どうしてあっさり別れたのか?

玉手箱を持たせたのは乙姫の復讐だったのか?

太郎はじいさんになってどこへ行ったのか?

海が舞台ということもあり、

この物語には想像力を刺激される。

 

もしかしたら浦島太郎は

ちょっと過剰な動物愛護の精神を持った

現代のアメリカ人がタイムスリップしてきた

お話なのかもしれない。

 

今日、5月23日は「世界カメの日」。

カメに対する知識と敬意を高め、

カメの生存と繁栄のための

人類の行動を促すことを目的として、

2000年に米国カメ保護会によって制定された

記念日とのこと。

 

人新世(アントロポセン)という新たな地質学的時代、

カレンダーにはいつの間にか、

いろいろな動物の記念日が増えている。

「ナマケモノの日」とか

「ヤマアラシの日」なんてのもある。

 

急激に地球環境を変化さえてきた人類が、

単に保護するだけでなく、動物の声を聞き、

そこから新たな生き方を学ぼうとしているようにも思える。

 


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キラキラネームが踊る未来

 

昨夜、テレビのニュースを見ていたら

子どものキラキラネームについての話題をやっていた。

 

当て字にもほどがある。

個性的というより奇妙奇天烈。

マンガじゃないんだから。

宝塚じゃないんだから。

暴走族じゃないんだから。

なんて読めばいいのか、全然わからない。

今どきの若い親はアホやないか。

あんな名前を付けられた子供がかわいそう。etc・・・

 

非難ごうごうとまでは言わないけど、

上の世代からはネガティブに

とらえられがちなキラキラネーム。

 

でも親たちの話を聞くと、

そう悪くもない、アホでもない、

それなりに子どものことをあれこれ慮って

一見奇天烈な名前を考え出しているようだ。

 

いちばん感心したのは

「将来、セイが変わっても自分に違和感を持たないように」

という意見。

僕は最初、「姓」と勘違いしていて、

「ふーん、親が離婚して今の姓が変わっても

良い響きになるように、ということか」と思った。

じつは自分の息子にも、カミさんの姓になったとしても、

読んでも書いても問題ないように、ということは考えた。

 

しかし、僕は間違っていた。

そんなことは軽い問題だ。

そのお母さんの意図はもっとシリアスな、

その子の人生すべてに関わること。

 

彼女が言ったのは「姓」ではなく「性」。

つまりジェンダーの問題。

男の子として生まれてきたが女性になるかも。

女の子として生まれてきたが男性になるかも。

もし、その子が自分の意思でそう生きると決めたら——

ということまで想定して名前を付けたという。

 

目からウロコがペロッと落ちた。

子どもの名前を考えることは、

この先の時代、その子たちがいおとなになる社会の環境に

思いを巡らせること。

いまどきの若い親は、

劇的に変貌するかもしれない未来を見つめて、

これまでの常識や慣習にとらわれることなく、

思考のネットワークを広げているのだ。

 

当のキラキラネームの子どもたちも、

「お父さんやお母さんが一生懸命に

考えてつけてくれた名前だから好き」

と屈託ない。

 

なんていい子たち、なんてよい親子なんだ!

今までキラキラネームを

ちょっと馬鹿にしていたことを猛烈に反省した。

そして、上の世代は過去のことに拘泥していてはいけない

と改めて思い知らされた。

未来はどうなっていくのか、ちょっとまた楽しみになった。

 


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僕たちはすでにセンチメンタルなサイボーグである

 

現代を生きる人間、

少なくとも都市環境の中、現代文明の中で生きる人間は、

脳だけは生身のままだが、体のその他の部分も、

住環境も「技術=テクノロジー」に頼っている。

当然、あなたも僕も例外ではない。

 

これは世界的なロボット工学者の石黒浩教授の思想である。

 

石黒教授によれば

「人間とは、動物と技術を合わせたものである」。

 

住んでいる家やビルはもちろん技術の賜物であり、

都市部において、人間の手がまったく入っていない

純粋な自然を見つけることは、ほぼ不可能だ。

 

体だって工場で作られた服を着て、

メガネをかけて、常にスマホをいじっている。

内部に人工臓器を入れている人も珍しくない。

人間の活動はすでにその大半が

技術によって支えられている。

(「ロボットと人間」/岩波新書より)

 

「人間とは何か」を追求するために

さまざまなロボット・アンドロイドを開発し、

実証実験・演劇・パフォーマンスを通して

世に問い続ける石黒教授の考え方には、

非常に多くの共感と納得感を覚える。

 

彼のロボット研究(=人間研究)の世界には

未来の人間・社会の在り方が

かなり濃厚なイメージで潜在している。

 

人間は未来において、より進化するために、

価値観の多様性を広げ、

その身体機能や脳の機能を拡張する。

 

それを実現するために必要とされる、さらなる技術。

社会生活においても、

個人の生活においても、

AI・ロボットの協力はますます求められ、

僕たちはそれと共存していくことを余儀なくされる。

 

「純粋な人間でありたい」という

センチメンタルな感情のかけらが疼くかもしれない。

そんなものはとっくの昔に失っていることは

わかっているのだけど。

 

AI・ロボットは思いもかけなかった時空に

人間を連れて行ってくれるだろう。

その頃、まだしつこく生きていたら、

そして感傷的になるのを堪えることができたら、

僕もいっしょに連れて行ってくれるだろうか?

 

おりべまことのロボット小説・エッセイ集


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20世紀の絶対悪ナチスを利用する21世紀の悪魔の影

 

ロシア戦勝記念日。

プーチンが拠り所にするのは、ナチスに対する聖戦。

ウクライナに巣食うネオナチのせん滅。

 

「ナチス」という言葉には

恐るべき悪のエネルギー、

死と虐殺のイメージがまとわりついている。

実際に1930~40年代のナチスドイツによって、

ヨーロッパ各地で人類史上最悪の

ジェノサイド、人権蹂躙が行われたのは事実なので、

そんなのイメージだけだ、とは言わない。

 

けれども「ナチス」「ファシスト」と言って指を指せば、

その人・組織・団体は悪い奴らだから潰していい、

と単純に人に暗示をかけてしまうのは問題だと思う。

 

思えば僕たちはこの77年間

「ナチス絶対悪の世界」で生きてきた。

かつての同盟国だった日本ですら(日本だから?)、

僕が子ども・若僧だった戦後20年~40年くらいの頃、

つまり昭和40~昭和60年

(1960年代後半~80年代前半)あたり、

現実と離れた世界でなら抵抗感がないためか、

子ども向けのSFマンガやアニメには

「世界征服」「地球支配」「人類滅亡」

などのワードとともに、ヒトラーやナチスを模した

悪のキャラクターや組織が多数登場した。

 

ビッグX、宇宙少年ソラン、ジャイアントロボ、

新造人間キャシャーン、仮面ライダー、

マジンガーZ、宇宙戦艦ヤマト・・・

 

そういえば、仮面の忍者赤影は時代劇なのに、

トンデモ科学力を駆使する卍(まんじ)党という

悪の忍者軍団が出てきた(だから面白かったのだけど)。

あれもナチスのイメージが反映されていた。

 

ついでに「キン肉マン」とか「リングにかけろ!」とか、

少年ジャンプのバトル系マンガでも。

 

いまは史実に基づく映画・ドキュメンタリーを除いて、

フィクションの分野では絶対にメディアに出せないが、

ハーケンクロイツやナチス的敬礼も

頻繁に目にした気がする。

 

裏返して言えば、悪役としてとてもカッコよく、

知的で格も高いので、子供・若者の気を引いたのだ。

 

誰もあまり言わないけど、

ナチスの軍服のデザインはめっちゃ優れていると思う。

だから当時のドイツの若者が大勢ナチスに入りたがった。

 

それほど強力なナチスの悪のパワーだが、

かの組織自体は77年前に滅んでいる。

ネオナチという、その残党も確かにいて、

ヤバイ連中なのだろうが、

そんなに大きな力を持ち得ているとは思えない。

 

「ナチス」「ファシスト」はわかりやすい記号だ。

その絶対悪の記号を隠れみのにして、

この77年でナチスを凌駕する得体の知れない悪魔が

この世界の裏側で育っているのではないかと恐れている。

 

ヒトラーやナチスを悪魔、大罪人として裁いて

正義は勝った、世界は平和になった・・・

と話が収まっていた時代はとうの昔に過ぎ去っている。

 

国籍問わず、「ナチス」「ファシスト」といった

20世紀の悪に対する言葉・イメージを巧みに操り、

20世紀人のトラウマを刺激しようとする連中にこそ、

僕たちは注意しなければいけないのではないだろうか。

 

世界や歴史に関してのお話にも、

おりべまことのエッセイで軽く出逢ってみてください


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どうなる?イギリスで「となりのトトロ」舞台化

 

これはびっくり!

イギリスのロイヤルシェイクスピアカンパニー(RSC)が、

「となりのトトロ」を舞台化する。

 

トトロの世界って日本人独自の感性によるもの、

と思っていた。

英国人のセンスでどうやって表現できるのか?

と最初はかなり訝ったけど、

よくよく考えてみれば、

ファンタジーにかけてはしっかりした伝統を持つ国。

けっこう面白いものになるかも。

しかも映画じゃなくて、舞台というところが期待大。

 

以下、プレスリリース要約。

 

宮﨑駿監督のアニメーション映画「となりのトトロ」が、

イギリスのロイヤル・シェイクスピア・カンパニー

(RSC)によって初めて舞台化。

2022年10月からロンドンのバービカン劇場で上演される。

映画で音楽を手掛けた作曲家の久石譲が舞台化を提案し、

宮﨑駿監督がこれを快諾したことで始まったプロジェクト。

久石譲がエグゼクティブ・プロデューサーを務める。

 

久石譲は舞台化にあたり

「この作品に本当の意味で普遍性があるなら

――僕はあると思っていますが――

まったく違うカルチャーで育った人たちが

違う言語でやっても、

きっと世界中の人に伝わるはずです」とコメント。

 

また、題字も手掛けたスタジオジブリの

鈴木敏夫プロデューサーは

「果たしてどうやってトトロと出会えるのか。

とても楽しみにしています」

と期待を寄せているという。

 

演出のフェリム・マクダーモットは

「美しい音楽とともに舞台にします。

パペット、役者とともに、命を吹き込みます」

と意気込みを語っている。

 

世界的な作曲家・久石譲のもと、

世界最高峰の演劇カンパニーRSCが

「となりのトトロ」をどう表現するのか、

世界中が期待している。

 

どうやら全体的にオペラみたいな感じの舞台で、

ダンスやパントマイムやパペットの動き、

ポエムリーディングのようなセリフなどを交えて

表現していくのではないかと思う。

 

オリジナルの映画とは違う、

イギリスファンタジーっぽい味の作品になるのだろうか?

いずれにしても、これ見るだけの目的で

またロンドンに行く価値あるかも。

 

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ヤバいムーミン

 

 

時々、図書館で子どもの本のコーナーを

ブラブラするのだが、

トーベ・ヤンソンのムーミン全集全9巻の新版が

3年前に講談社から出されていたのを発見し、

1冊ずつ読んでいる。

装丁も新しく、表紙のイラストもなかなかお洒落な本だ。

 

日本でムーミンというと、

そうしても1969年と72年、

東京ムービー➡虫プロで制作され、

フジテレビで放送されていたアニメのイメージが強く、

「ねえムーミンこっちむいて」という主題歌が

頭にこびりついていて腹立たしかった。

 

僕はあの可愛しい丸っこいカバみたいな

ムーミンが出てくるメルヘンアニメが大嫌いで、

妹が見ているとよくディスっていた憶えがる。

 

その後、おとなになって「ムーミンやばい」という話を

あちこちで聞いて、そのうち読もうと思っていて、

62になった今年、初めてまともに読んでみた。

 

これは面白い!

トーベ・ヤンソン天才!

今まで無視しててごめんなさい

と思ってしまった。

 

もちろん、カテゴリーわけすれば、

メルヘン、ファンタジーの部類に間違いないが、

めちゃくちゃ詩的で深読みできる寓話になっている。

心理学的な要素や、ある意味、オカルトというか、

スプリチュアルな要素も入っていて、

僕たちの人生や僕たちを取り巻く世界について

いろいろ考えられる、かなり質の高い文学だ。

 

ちなみにトーベ・ヤンソンは

日本のアニメになったムーミンを見て激怒したらしい。

さもありなん。

僕が子どもの頃のフジテレビは

「母と子のフジテレビ」がキャッチフレーズだったし、

放送枠は「カルピス親子劇場」だったので、

ああなるのもやむを得なかったか。

 

今の日本のアニメなら、

もっとヤンソンの原作をリスペクトした、

エッジが立った「やばいムーミン」をやてくれそうだが、

そんな企画はないのかな。

 

ムーミンのことはちょくちょく書いていこうと思います。

また、9巻全部読み終えたら、

何年か前に飯能に出来たムーミンのテーマパークにも

行って見ようかなと思ってます。

 


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4月のある雨の朝に100パーセントの川岸から 小舟を漕ぎ出すことについて

 

今年はまだ「4月のある晴れた朝に

100パーセントの女の子に出会うことについて」を

まだ読んでいなかったので、昨日読んだ。

 

悲しい話ではあるのだけど、

これは平和でお天気の良い世界のお話だ。

 

ロシア・ウクライナ戦争があったこと、

そして雨が多かったこと

(4月に台風接近なんて生れて初めて聞いた)で、

どうもあまり読む気分にならなかった。

 

いつもこの短い物語からさまざまな寓意を感じとるのだが、

今年はなぜか「4月の雨の朝」のことを

書いてみたいと思った。

 

七日七晩降り続ける雨。

野山の景色が白く煙り、川の水が溢れる中、

彼と彼女は筏のような小さな舟を浮かべて

草花が萌え始めた川岸から漕ぎ出していく。

 

二人はおそらく100パーセントの世界から

旅立とうとしているのかもしれない。

勇気ある旅立ちなのか、愚かな逃亡なのか。

そして、いずれ二人はバラバラになるのかもしれない。

先のことは何もわからない。

 

そんなイメージの断片だけが思い浮かんだ。

ひらひらと舞い降りてきた桜の花びらのような

僕にとっての贈り物かも知れない。

 

村上春樹がまだ若い頃に書いた

この短編は「贈り物」の物語である。

 

人は皆、生まれながらに自分だけの特別な贈り物を

もらっているのだが、

ほとんどの人は気が付かないか、

それは本物の贈り物ではないのでは・・・と疑いを抱く。

 

そうして別の何か、

自分にとってはさほど大切でもないものばかり

探しているうちに年月が流れ、

もともと手にしていた贈り物を失ってしまうのだ。

 

人生はそれを取り戻すためのストーリー。

自分にとっての「成功」は

他人が吹聴する成功とは違う。

これはそんなことを教えてくれる寓話なのだと思う。

 


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非道・鎌倉殿の衝撃展開

 

源頼朝(大泉洋)の(観客的に)許すまじき

非道な陰謀の末、上総介広常(佐藤浩市)が惨殺された

「鎌倉殿の13人」の第15回。

ネット上でもあまりの衝撃に騒然となるほど盛り上がり、

まさに三谷幸喜脚本の本領発揮。

 

この脚本家は「本作は源頼朝(大泉洋)が

死んでからが本番」

と言っているくらいだから、

このあと出てくる壇ノ浦の合戦・平家の滅亡も、

兄に討たれる義経の悲劇も、ほんの序章ということになる。

 

とは言え、夏まではこのくだりでまた盛り上がるだろう。

従来のイメージを木っ端みじんにする

菅田将暉の純情ワルガキ義経は大好きだ。

 

上総介の死が、頼朝・義経兄弟の

確執と悲劇の伏線となっていることは明らか。

 

これまでは何やらお人よしのボンボンっぽかった頼朝が、

これからどんどんブラックな悪役になっていく。

 

でも大泉をキャスティングしている以上、

最期は「政治家になったばっかりに

あんなひどいことしたけど、

本当はやっぱりいい人だったんじゃないか」と

視聴者に思わせて退場するのではないかと僕は思う。

 

さらに上総介の死は、この先、源氏から政権を奪う

北条義時(小栗旬)の運命にも連なっている。

時を同じくして誕生する義時の息子・

北条泰時(鎌倉幕府第3代執権)は、

上総介の生まれ変わりなのか?とも思わせる。

 

義時もまだなんだかフツーのいい人っぽいが、

何と言っても小栗旬、

これからどんな豹変ぶりを見せるのか楽しみだ。

やっぱり脚本と役者がいいと見ごたえがあります。

 


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リンゼイ・ケンプのダンスの記憶

 

道化師の画像を見ていて、

リンゼイ・ケンプのことを思い出した。

 

ケンプは英国のダンサーであり、パントマイマーである。

俳優として映画に出演したことも何度かあったが、

基本的は舞台が命の人で、

自分のカンパニーを持ち、ダンス、パントマイム、

演劇を融合させたような舞台を作っていた。

 

音楽好きな人にはデビッド・ボウイやケイト・ブッシュの

ダンス、パントマイムの先生として

その名を聞いたことがあるだろう。

 

「ジギースターダスト」時代のボウイ、

デビューした頃のブッシュのライブパフォーマンスには

ケンプの影響が強く表れている。

 

僕も1985~87年、ロンドンに在住していた期間、

何度かケンプの公演を見に行った。

「フラワーズ」という舞台が特に印象に残っている。

 

彼のステージは、高貴なクラシックアートと

サーカスやバーレスクのような、

下卑た猥雑な「見世物」のエッセンス、

さらに1970~80年代のポップカルチャーなどが

絶妙にブレンドされた、

神と人間の間を行き来するような、魅惑的な世界だった。

 

日本のカルチャーにも造詣が深く、

能や歌舞伎の要素も取り入れていた。

今世紀になってからも何度か来日公演を行い、

若い頃と変わらない元気さを見せていた。

いったいいつまで踊り続けるのだろうと思っていた。

 

そんな彼が2018年に亡くなっていたことを知ったのは

昨年のことだ。

ネット上でケイト・ブッシュの追悼コメントを読んだ。

80歳。直前まで次回のステージの準備をしていたようだ。

踊りながら倒れたのかもしれない。

「死ぬときも前のめりで死ね」という

セリフを思いだしたが、

生涯ダンサーとしては理想的な最期だったのかもしれない。

 

拙作「ピノキオボーイのダンス」(Kindle電子書籍)

に登場する老ダンサーは、ケンプをイメージして書いた。

https://www.amazon.co.jp/dp/B08F1ZFLQ6

 

彼は廃棄物となったロボット少年を救い、

彼に踊ることを教える。

老ダンサーの魂は、ロボットダンサーの体を借りて

未来を生きる。

 

彼のパフォーマンスの映像・音声データが豊富にあれば、

何十年か先、そんなことが実現するかもしれない。

僕たちはそういう時代を生き始めている。

 


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おたく、家族を虐待していませんか?

 

「おたく、家族を虐待していませんか?」

 

といって誰か訪ねて来るんじゃないかとドキドキしていた。

というのは1週間前、例によって義母が

朝っぱらからカエル病を発症し、

「家に帰りますから!」と言って駄々をこねたのである。

 

ちょうど僕が留守で、カミさんが一人で対応。

玄関のところでドタバタやっているところへ

郵便屋さんが書留を持って来たらしい。

 

そしたら義母が

「あたし家に帰ります、帰りたいんですよ」と、

その郵便屋さんに向かって必死で訴えた。

 

彼は仕事が済むと、苦笑いを浮かべてそそくさと帰り、

カミさんはなんとかなだめて義母を部屋の中に止めた。

(そのあたりで僕が帰って来た)

 

その話を聞いて、こりゃ意識の高い人だったら、

年寄りの虐待を疑って通報するかもな、と思った。

まぁもう1週間以上経って何事もないので、

あの郵便屋さんはシカトしたのだろう。

 

社会的にはどうなんだろう?

放っておくほうがいいのか、

それとも念のために

「あの家、虐待ヤバイかも、ですよ」と

こっそり通報しておいた方がいいのか?

 

認知症の人の何割かは、義母と同様、

僕たちの日常、僕たちの社会とは

ちょっとズレた(人によってはかなり外れた)時間を生き、

それぞれの世界とストーリーを持っている。

 

これから認知症の人が急増するという説もあるけど、

そうなった時、どう対処すればいいのかは難問だ。

 

おとなも楽しい少年少女小説

ざしきわらしに勇気の歌を http://www.amazon.com/dp/B08K9BRPY6

認知症になった寅平じいさんの人生最後のミッション。それは最強の妖怪「むりかべ」に立ち向かうざしきわらしのきょうだいを得意の歌で応援することだった。笑ってちょっと不思議な気持ちになる、妖怪幻想譚。 


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週末の懐メロ77:ネバーエンディングストーリー/リマール

 

1984年リリース。

転調に次ぐ転調がカッコよくて気持ちよく、

まさしくネバーエンディングに楽しめる。

 

最近は同じ曲をえんえん1時間繰り返す

「1H」がいろいろ上がっていて、

僕も時々ライティング時のBGMとして聴いてるが、

この曲はその中でも断トツに好きだ。

 

流して聴いても邪魔にならないし、

テンション上げるために、

思い切り耳を傾けて聴き込むこともできる、

無理なくツーウェイができる楽曲は他にあまりない。

 

歌い手のリマールは80年代前半、

特に女子に人気があった

イギリスの「カジャグーグー」という

ポップロックバンドのヴォーカリストだった。

 

余談だが、このバンドのベーシストだった

ニック・ベッグスは、

僕が勤めていたロンドンの日本食レストランの

常連客だった。

いつもガールフレンドと一緒にきて、

天ぶらや焼き鳥を食べてた。

とてもフレンドリーで、いかにもアイドルといった

可愛い顔が記憶に残っているが、

最近はプログレバンドで結構活躍しているようだ。

 

話を戻して、この曲は日本でもかなり人気があり、

これまでトヨタのコマーシャルやドラマの挿入歌

(前者は坂本美雨、後者はeガールズがカバー)

としても使われた。

最近ではマクドナルドのコマーシャルでも

耳にした気がする。

 

が、何といってもリマールのオリジナル版が最高である。

彼の声の持つ「揺らぎ」が、この美しくも凛々しい曲調に

ベストマッチしているのだ。

 

これはもともと同年公開されたファンタジー映画

「ネバーエンディングストーリー」のテーマ曲だった。

 

原作は「モモ」で知られる

ドイツの児童文学作家ミヒャエル・エンデ。

この頃、高い文学性、深淵な哲学性、鋭い現代文明批評を

併せ持ったエンデの作品は世界的に脚光を浴び、

この作品は日本では

「はてしない物語」という題名で出版され、

よく読まれていた。

エンデ作品は「ハリーポッター」以前の

ファンタジー文学では

トップクラスの知名度を持っていたと思う。

 

さて、その「はてしない物語」――

ネバーエンディングストーリーの内容は、というと、

 

イジメにあった少年が古本屋に逃げ込み、

偶然見つけた本のページをめくっていくと

その物語の中に入り込んでいくというストーリー。

 

この本の中の物語は、産業社会が発展する中で

しだいに荒廃していく人々の内面世界を描いており、

「はてしない物語」とは人生のこと。

人生の主人公は、物語の英雄ではなく、

これを読んでいる君自身なのだよーー

簡単に解説すると、そんなメッセージが含まれている。

 

この曲で繰り返される転調は、

現実世界と異世界(内面世界)を行ったり来たりする

少年の心の動きを表現しているといえるかもしれない。

 

しかし、テーマ曲の素晴らしさに比べて

映画はイマイチだった。

ビジュアルは当時の技術のベストを尽くしていたと思うが、

脚本がただストーリーをなぞっただけの代物で、

出てくる人物やクリーチャーのキャラや

小道具に頼っていて、

原作の本質的な部分が表現されていなかった。

原作者のエンデも出来栄えにはかなり不満があったらしい。

 

ハリウッドのファンタジー映画は

2000年代に入ってから、

「ハリーポッター」や「ロード・オブ・リング」などで

ビジュアルはもちろんのこと、

脚本の面でも格段の進歩を見せた。

「ネバーエンディングストーリー」が作られらた頃は

まだ子どもだまし的な部分が否めず、

エンデ人気にのっかった、

早すぎる映画化だったのかもしれない。

 

ファンタジー映画に対する理解が進み、技術も成熟した今、

もう一度、この作品をリメイクしてみてはどうか。

もちろん、テーマ曲はこのままで。

 

ついでに1時間版もご紹介。

 


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「ちち、ちぢむ」Goto新発売無料キャンペーン

 

新発売&新年度スタート記念無料キャンペーン

3月31日(木)17:00~4月3日(日)16:59

 

ケントの11歳の誕生日、

プレゼントを持ってくるはずだったお父さんは、

身長9センチの「ちっちゃいおじさん」になって現れた。

どうしてお父さんは小さくちぢんでしまったのか?

いや、じつはお父さんだけではない。

今、社会の役に立たなくなった男たちが、

ある日突然、カエルサイズにちぢんでしまう

怪現象が多発している。

 

将来、生物学者をめざすケントは、これは南米に生息するアベコベガエルーーオタマジャクシの時よりもからだが小さくなってしまうカエルーーと同じく、アポトーシス(細胞の死)による変異が起こっていると解析。

「ちぢむ男=ちっちゃいおじさん」は、

やりたい放題のホモサピエンスを

これ以上のさばらせたくないという

地球の意志によって生まれているのではないかと推理する。

 

謎を解き、もとの姿に戻るために

「怪物マンション」に潜入したお父さんを、

知恵と勇気とやさしさで応援するケント。

アベコベ親子の奮闘を描く奇々怪々でユーモラスな物語。

おとなも楽しい少年少女小説第8弾!

 

もくじ

1.さらば、ちっちゃいお城

2.アベコベガエル

3.親子の事情

4.お父さんの身の上話とちぢんだ男たち

5.ちぢんだ男たちの秘密

6.なぞの科学者

7.怪物マンション〈ガウディ〉

8.どんぶり風呂

9.死体のころがる部屋

10. ウダ博士の研究秘話

11.赤と白のキノコ

12.ぼくのミッション

13.おまわりさん攻略法

14.ちち、のびる

15.ふたたび怪物マンションへ

16.313号室のあとしまつ

17.あきといっしょに

 

読みごたえたっぷりの中編4万字。

ぜひ読んでみてください。

レビューもよろしくお願いします。

 


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「ちち、ちぢむ」新発売&新年度スタート記念無料キャンペーン

 

新発売&新年度スタート記念4日間無料キャンペーン

3月31日(木)17:00~4月3日(日)16:59

 

ケントの11歳の誕生日、

プレゼントを持ってくるはずだったお父さんは、

身長9センチの「ちっちゃいおじさん」になって現れた。

どうしてお父さんは小さくちぢんでしまったのか?

いや、じつはお父さんだけではない。

今、社会の役に立たなくなった男たちが、

ある日突然、

カエルサイズにちぢんでしまう怪現象が多発している。

将来、生物学者をめざすケントは、

これは南米に生息するアベコベガエルーーオタマジャクシの時よりもからだが小さくなってしまうカエルーーと同じくアポトーシス(細胞の死)による変異が起こっていると解析。

「ちぢむ男=ちっちゃいおじさん」は、

やりたい放題のホモサピエンスを

これ以上のさばらせたくないという

地球の意志によって生まれているのではないかと推理する。

謎を解き、もとの姿に戻るために

「怪物マンション」に潜入したお父さんを、

知恵と勇気とやさしさで応援するケント。

アベコベ親子の奮闘を描く奇々怪々でユーモラスな物語。

おとなも楽しい少年少女小説第8弾!

 

もくじ

1.さらば、ちっちゃいお城

2.アベコベガエル

3.親子の事情

4.お父さんの身の上話とちぢんだ男たち

5.ちぢんだ男たちの秘密

6.なぞの科学者

7.怪物マンション〈ガウディ〉

8.どんぶり風呂

9.死体のころがる部屋

10. ウダ博士の研究秘話

11.赤と白のキノコ

12.ぼくのミッション

13.おまわりさん攻略法

14.ちち、のびる

15.ふたたび怪物マンションへ

16.313号室のあとしまつ

17.あきといっしょに

 

読みごたえたっぷりの中編4万字。

Please Enjoy!

 


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週末の懐メロ75:ピアノマン/ビリー・ジョエル

 

73年リリースとは意外。

ビリー・ジョエルのデビュー曲であり代表曲は、

僕のイメージの中では1978年の歌だった。

 

44年前の今ごろ、東京に出てきた時、

専門学校に通っていた最初の2年間、

友だちと部屋をシェアして暮らしていた。

 

そいつがビリー・ジョエルが大好きで、

暇さえあれば「ストレンジャー」「オネスティ」などを

聴いていた。

特に好きだったのがこの「ピアノマン」。

風呂上がりに、夜寝る前に、

レコードに合わせて、年がら年中口ずさんでいた。

 

「この歌だけがおれの心を慰めてくれる」とかなんとか。

そんなセリフを言っていた覚えもある。

あの頃、あのアパートに集まってくる男も女も

みんな夢を喰って生きていた。

夢で腹を満たしていれば、飢えも乾きもなかった。

人生は長く曲がりくねった道で、

時間はあり余るほどあった。

真剣でありながら、能天気でもあった。

 

都会的なピアノの響きと、

素朴なブルースハープとの絡み合い。

親しみやすく口ずさみやすい、

明るく、けれどもあまりに切ないメロディ。

 

実際に酒場でピアノを演奏していた

ビリー・ジョエルの自伝ともいえる歌は、

飲まずにはいられない夢見る男たちのドラマを描く。

 

きっとこの歌と変わらないドラマが、

50年近く経った今でも、

世界中の街のたくさんの酒場で

繰り広げられているのだろう。

 

でも、もしかしたら、

この酒場に集っていた登場人物の何人かは

好きな酒を断ち、くだを巻くのもきっぱりやめて、

齢を取っても昔の夢を、あるいは新しい夢を

追い求めているのかもしれない。

 

「おまえはなんでこんなところで歌っているんだ?」と

言われていたピアノマンが酒場から足を洗い、

ビリー・ジョエルというスター歌手になった。

もしかしたら自分だって。

 

若いころ思っていたより人生はずっと短いことを知った。

このまま死んでいくのはごめんだ。

そりゃそうだ。

酔っぱらたままで終わりたくない。

夢のカーニバルをどこまで続けるか、

決めるのは自分次第。

 


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新作小説「ちち、ちぢむ」+お彼岸Wキャンペーン告知

 

おとなも楽しい少年少女小説の新作「ちち、ちぢむ」。

ただいま執筆中。今月末発売予定。

大好きなお父さんが

「ちっちゃいおいじさん」になってしまう、

笑って泣けて、深淵なお話です。

 

その前にまたキャンぺーンを予定。

食べるエッセイ

「ロンドンのハムカツ」

「あなたもごはんでできている」の

お彼岸ダブルキャンペーン!

3月19日(土)17:00~21日(月)16:59を予定。

どうぞお楽しみに~。

 


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「鬼滅の刃」は現代の日本人の生き方を問う物語

 

映画もドラマも新作はめっきり見なくなってしまったが、

「鬼滅の刃」だけは楽しみである。

先日、「遊郭編」のOA(AmazonPrimeで1日遅れで

見られるので、僕はそっちで見ていた)が終わって、

今度は「刀鍛冶の里編」の制作が発表された。

いつ公開されるかは未定だ。

 

「エヴァンゲリオン」が良い例だが、

ここまでファンがつくと、

どれだけ時間がかかってもお客は待っていてくれる。

 

原作が完結していて、ストーリーはわかっているので、

さすがにエヴァほど待たせないとは思うが、

完結編まであと3年くらいは掛かるだろう。

最後はまたテレビでなく、映画でやりそうな気がする。

 

いずれにしても。ちゃんと時間をかけて

じっくり作ってほしいと思う。

 

この作品はバトルアクションが中心で、

「遊郭編」は後半ほとんどバトルの連続だったが、

そこにやたらとそれぞれの登場人物の回想が

入り込んでくる。

その回想が、またやたらと密度が高い。

じつはここが人気の秘密である。

 

なぜ彼らは戦うのか?

なぜ彼らは鬼になったのか?

柱や鬼はどこから来て、どこへ行こうとしているのか?

 

という情報がほどよく客に伝わり、

客はそのドラマを自分の内側で膨らませられるのだ。

てか、じつはこのバトルドラマは、

混迷の時代にいる僕たちの生き方そのものなのである。

 

 

物語の舞台は今から100から110年ほど前の大正時代に

設定されているが、

僕から見ると、主人公の炭治郎ら少年隊士は、

平成生まれの現代の若者たちである。

 

そして彼らの上司である柱(鬼殺隊の幹部)たちは、

昭和生まれの中高年である。

 

彼らがいっしょに、古い因習と人の悪しき情念とが

絡まって「鬼」となった存在を倒し、

闇の世界を終わらせ、新しい世界を拓こうとする。

これはそういう物語だ。

 

そしておぞましい鬼たちも、その正体は、

何か大切なものを守りたいがために

必死で生きなくてはならす、

闇に取り込まれてしまった、か弱い子どもである。

 

鬼を退治するために首を切り落とすという、

残酷な所業は、魂を浄化させるための仕事であり、

鬼殺隊は、悪しき情念で鬼となった

子どもの魂を救うために闘うのである。

 

原作者の意図はわからないし、

そもそも原作のマンガは

アニメを見てから読もうと思っているので未読だが、

僕はそんな、いささかこじつけ過ぎた見方で、

この物語を楽しんでいる。

 


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週末の懐メロ70:ブロークン・イングリッシュ/マリアンヌ・フェイスフル

 

1979年に同名のアルバムがリリースされた際、

どこかの雑誌に「地獄から這い上がって来た女」

と紹介されていたのを憶えている。

 

ドスの効いたハスキーヴォイス。

ヒリヒリするような緊張感とデカダンスな雰囲気。

マリアンヌ・フェイスフルの

「ブロークン・イングリッシュ」は、

ポストパンクからニューウェーヴに移行する時代の

最先端のサウンドであり、強力にエッジが立っていた。

 

「地獄から這い上がって来た女」は

大げさなセールス文句に思えるが、

過去に遡ってストーリーを辿っていくと、

あながちそうでもない。

 

彼女は堕天使だった。

 

1964年、すでに結婚して母親になっていた18歳のとき、

ローリング・ストーンズの初期のバラード

「涙あふれて」を歌って18歳でデビュー。

清らかなその声はエンジェル・ヴォイスと言われた。

 

その頃、ビートルズの「イエスタディ」や

サイモンとガーファンクルの「スカボロフェア」なども

歌っているが、本家をしのぐほどの美しい歌唱。

たちまち人気アイドルとなったのも納得できる。

 

イギリス人だが、もともとオーストリアの

ハプスブルグ家の血を引く貴族のお嬢様という経歴も

大きな強みだったのだろう。

 

けれども可愛いアイドルに

ちんまり収まっている器ではなく、

歌だけでなく女優業にも進出。

 

1968年には「あの胸にもう一度」で当時の大スター、

アラン・ドロンと共演。

この映画で彼女はバイクに乗る

カッコいい娘を演じるのだが、

黒いレザーのバイクスーツの下は裸で、

そのジッパーをドロンが

口でくわえて引き下げて脱がすという、

かなりの衝撃度を持つエロチックなシーンがある。

 

それを見て鼻血ブー!となった男が大勢いると思うが、

どうやらその衝撃から

「ルパン三世」のあのヒロインが生まれたらしい。

 

そうなのだ。

マリアンヌ・フェイスフルが

峰不二子のモデルだったとは初めて知った。

 

その後、ストーンズのミック・ジャガーの恋人になり、

だんだん酒と煙草と麻薬に浸る生活にはまっていく。

 

1969年、ストーンズの「シスター・モーフィン」という、

「ヘロインの代わりにモルヒネを」という

とんでもない歌を歌った後は、

薬物に加え、数々のスキャンダル、ホームレス生活、

自裁未遂までしでかし、

ついには音楽・芸能の世界から姿を消す。

 

それから約10年。

一度死んだと言ってもいいマリアンヌ・フェイスフルは、

いまだ強い生命力を持つ

この大名盤を創り上げて奇跡のカムバックを果たす。

 

可愛いアイドルから

地獄を潜り抜けた、迫力満点の大姉御への大変身。

 

リアルタイムでこの曲・このアルバムを聞いていた頃は、

60年代の彼女のことはまったく知らなかったので、

そのギャップの凄さがよくわからなかったが、

今回、いろいろ聴いて、調べて、

「地獄から這い上がって来た女」の意味がやっとわかった。

そしてその豊富なキャリア、活動量、

そして才能に驚愕した。

 

しかし、そんな彼女のライフストーリーを抜きにしても、

グイグイ脳髄に切り込んでくる

「ブロークン・イングリッシュ」は、

文句なしにカッコいい。

 

その後の時代も、

アコースティックだったり、ジャズ風だったり、

様々なアレンジでやっているのを聴いたが、

どれも渋くて、めっちゃエッジが立っていて、

プログレッシブ。

 

最近のインタビュー映像で、アイドル時代からの流転変転を

余裕しゃくしゃくの笑顔で話す姿も貫禄あり過ぎだ。

 

ちなみに彼女は2006年の映画

「マリー・アントワネット」では、

アントワネットの母のマリア・テレジアを演じている。

 

お姫様アントワネットからオーストリアの女帝へ――

を地で行くかのような女の生きざまに脱帽。

 


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「あとしまつ」の時代を生きる

 

「大怪獣のあとしまつ」という映画が先週から公開されている。

最初に概要を見たとき、

すげえ題材に目を付けたな、と思った。

 

ヒーローが大怪獣を倒すが、

死体は消えてなくなるわけではない。

人間があとしまつをつけなくてはならない。

その顛末・奮闘劇を面白おかしく描く。

 

これはおいしい。

今まで誰もこんな話は作っていない。

それをこの令和4年にやる、というところにビビッときた。

 

「大怪獣」とは一種のメタファー(暗喩)である。

自分でもいろいろ書いているが、今やネット上には

昭和の振り返り情報――

政治や企業の栄枯盛衰から怪事件、怪人物、怪商品、

映画、音楽、マンガ、テレビ、アニメ、特撮、

芸能人あyスポーツ選手のスキャンダルなど

ーーがあふれかえっている。

 

大怪獣とは、後世に様々な影響を残した

戦後昭和という強烈な変動期のことであり、

終わって30年以上たった今、

僕たちは懐かしい、あの頃に帰りたいと

ブツブツつぶやきながら、

そのあとしまつに勤しんでいる、というわけだ。

なんだか残された家族が遺品整理をしているようである。

 

また、大怪獣とは災厄・災禍のメタファーでもある。

初代ゴジラが核兵器の化身だったように、

庵野監督のシン・ゴジラが東日本大震災の

イメージをまっとていたように、

人間が太刀打ちできない圧倒的なパワーの象徴として現れる。

 

なんとかそれを乗り切って生き延びても

そのあとしまつがまた大変だ。

東日本大震災ももう11年が経とうとしているのに、

原発の問題を始め、多くの傷跡が治療もされずに

置きざりにされたままだ。

 

そして今ならコロナ禍である。

オミクロンがピークアウトすれば、

コロナ禍は終わるかもしれないが、

喜んでばかりはいられない。

 

今度はコロナ禍で混乱し、取っ散らかってしまった社会の

後始末をどうつけるか、が大問題になるだろう。

これがけっこう心配だ。

いろんなところに想像もできないような歪が起き、

物理的な面・精神的な面、双方で

僕たちは何年も後始末に明け暮れるのではないか、

という気がする。

 

てなことをいろいろ考えて、「大怪獣のあとしまつ」、

そんなメタファーがふんだんに盛り込まれた、

それでいながら笑えるという、

すごい映画なのではないかと期待していたが、

ネットでチラ見してしまった評判は、あまり芳しくない。

 

あれこれ妄想を膨らませて夢を描いているだけのほうが

いい気がしてきた。

 


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私立探偵・健太のこと

「茶トラのネコマタと金の林檎」は私立探偵が

高齢女性から山の中に埋蔵された

金の林檎の捜索を頼まれる、という話だ。

 

この物語の主人公である探偵の健太は、

親に虐待され、棄てられた子どもで、

施設で育ったのち、

高校を出てから紆余曲折を経て

探偵事務所を開いたという経歴を持つ。

 

事務所といっても、自分のホームページを開き、

6畳一間のアパートで、

パソコンと携帯電話を使って仕事しているだけ。

それでも立派な独立事業者だ。

 

本筋とは関係ないのだが、

この健太が、自分の育った施設の所長に呼ばれ、

社会で独立して活躍する成功者として、

施設の子どもたちに講演してくれと頼まれる。

彼は最初拒むが、

しぶしぶその依頼を引き受けるというエピソードがある。

 

自分でもなんでそんな設定、

そんなシーンを書いたのかわからないが、

手前みそながら、そんな健太のことが結構好きで、

友だちのように思っている。

 

多分これを書いていた前後に、

こうした施設をめぐる悪いニュースを聞いたのだろう。

実際には健太のようなやつには逢ったことがないのだけど、

そこにいる不運だった子どもたちに

がんばってほしいという思いがあったのかもしれない。

 

世の中、「成功」の定義はいろいろだ。

オリンピック選手や芸能人やお金を儲けた実業家だけが

成功者ではない。

自分では成功したとか、偉くなったとか思っていなくても、

他人は、あの人イイな、えらいなと

思っていることだってある。

 

それに人生に成功したか、失敗したかなんて

最期まで行ってみないとわからない。

どんな境遇で生きることになったって、

自分を抑え込まず、自信を持って生きよう。

 


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「芝浜」と女落語家

 

「愛妻の日」に記事を書いたら、

「芝浜」という落語を思い出して、

ちょこちょこYouTubeに上がっているのを聴いていた。

 

有名な古典だから知っている人も多いと思うが、

あらすじを話すと——

 

江戸に魚屋を生業とする男がいて、

魚を選ぶ目も包丁さばきも優れているのだが、

困ったことに大の酒好き。

 

昼間から「ちょっとだけ」とすぐに飲んでしまい、

深酒して結局、ろくな仕事が出来なくなってしまう。

おかげで家は借金だらけという体たらく。

 

そんな魚屋がある日、芝の浜(昔は今の港区芝のあたりは浜、

芝浦から先は江戸湾だった)で大金を拾う。

 

大喜びでそのカネで贅沢三昧、遊び暮らそうとするのだが、

カミさんに「何言っているの。あんたはただ夢を見たのっよ」

と言われてしまう。

 

がっかりした魚屋はカミさんにほだされて酒を断ち、

まじめに働いて優秀な本領を発揮して

暮らしは上向きに。

そして3年後、カミさんから衝撃の真実を打ち明けられる

ーーという話。

 

最後のオチは、いつ何回聴いても笑って泣ける傑作中の傑作で、

おまけにお金とは何か、仕事とは何か、

人生とは、幸福とは・・・といろいろ考えさせてくれる。

 

ところが夫婦愛に溢れたこの物語、

現代女性の立場から見ると、

魚屋のカミさんが「できすぎニョーボ」

「男に都合よすぎるオンナ」という風に映り、

リアリティを感じないという。

なかなか女の目線はクールである。

 

江戸時代、寄席に来て落語を楽しむ観客は、

ほとんどが男だったようで、

どうも古典落語は基本的に男を喜ばせる話に

なっているようだ。

 

それでもいいと言えばいいのだが、

そんな落語の伝統に疑問を唱える落語家もいる。

それも女性。

 

この「芝浜」に女性目線を入れて改変しようと

しているのが、女性落語家の林家つる子さんだ。

 

今や昔とは比べ物にならないほど、

女性の仕事の選択肢は増え、

女性お笑い芸人も多数活躍する時代だが、

さすがに落語家をやろうという人はまだ稀。

 

僕も昨日知ったばかりだが、ちょっと注目してみたいし、

彼女がカミさんの心情を織り交ぜて作る

「芝浜」も聴いてみたいと思う。

 


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高円寺・猫の額で麻乃真純さんの作品を見る

 

電子書籍の表紙絵を描いてもらっている

漫画家・イラストレーターの麻乃真純さんが出展している

グループ展「春待祭」を覗きに行く。

 

高円寺北口にあるギャラリー「猫の額」は、

その名の通り、猫の額ほどの小さなスペースに

猫雑貨・猫アートがぎゅうぎゅうに詰め込まれている。

 

麻乃さんの絵はなんだか年を追うごとに

だんだんファンタジックになっている。

可愛がっていた犬や猫を看取るごとに

動物が妖精化していく。

 

僕も仕事でペットの葬儀や供養グッズのことを

書くことがあるが、

どうも動物の死は、人の死と違って

何かそうした異化作用を脳に及ぼすのかもしれない。

 

会期は終わりに近く、麻乃さんの絵は

ほとんど買い手がついていた。

 

猫好きの人は、高円寺方面に用事があったら

「猫の額」に行ってみてください。

「アトリエあさの」もよろしく。

猫の額 http://www6.speednet.ne.jp/nekojarasi/

アトリエあさの http://nazuna.jp/purofiru.html


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初詣リベンジ編

 

元旦の巨混み状態を見て撤退したので、

本日4日はカミさんと二人で大宮八幡宮に

リベンジ初詣。

 

大宮八幡宮ではコロナ対策か、

本殿の周囲で写真撮影などで

人が溜まらないようにしている。

 

なので記念撮影は再び、かえる石さまの前で。

改めて、本年もよろしくお願いいたします。

 

おみくじ引いたら小吉で、

「万事成り行きのままに身をゆだねるとき」

「流れに自然に従えば、物事はひとりでに発展していく」

と書いてある。

 

「ハンザキを喰った」も、じつはこんなことがテーマです。

人生は川の流れのように。

 

本日4日(月)16:59まで新春無料キャンぺーン続行中。

https://www.amazon.com/dp/B09PGDSQMP

 


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2022おりべ作品第1弾!「ハンザキを喰った話」 新春無料キャンペーン

 

新年あけましておめでとうございます。

今年も妄想力全開で仕事をやりまくり、

毎日楽しく生き抜きたいと思います。

元旦の初詣は「幸福がえる」のご神石にお参り。

カエルパワーを授かりました。

 

というわけで2022年は、昨年大みそかにUPした新作小説「ハンザキを喰った話」の無料キャンペーンからスタート。

奇怪でユーモラスで切ない不死身のハンザキのお話で

寿ぎください。

キャンペーン期間:4日間限定

1月1日(土)17:00~1月4日(火)16:59

http://www.amazon.com/dp/B09PGDSQMP

 


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2021最後の日に出版・新春キャンペーン実施「ハンザキを喰った話」

 

おりべまこと長編小説「ハンザキを喰った話」

2021年の最後を飾って本日大みそかに

Amazon kindleより発売!

 

そして発売記念新春無料キャンペーン実施!

2022年1月1日(土)17:00~1月4日(火)16:59

 

2022年のスタートは、

不死身のハンザキのお話で寿ぎください。

http://www.amazon.com/dp/B09PGDSQMP

 

あらすじ

舞台は2000年。20世紀と21世紀の狭間のミレニアムの年。

文福社という小さな出版社の雇われライター・神部良平は、

自費出版の「自分史」の本を書いている。

これは自分の人生を本にしたいという人から話を聞いて、

それを一編の物語のように仕上げる、

いわば代筆業、ゴーストライターだ。

 

今回のクライアントは自称・発明家の堀田史郎という

100歳の老人。

その昔、彼は折りたたみ式の「ちゃぶ台」を発明して

大きな富を得たが、

無二の親友の裏切りに逢い、

その財産をすべて失ったという経歴の持ち主だ。

 

そんな彼が1950(昭和25)年、

人生の半ばで自殺の名所を巡る旅に出て、

出雲大社に向かう途中、島根県のとある山村で歓待を受ける。

そこで当時まだ特別天然記念物に指定されていなかった

ハンザキ(オオサンショウウオ)を食べたという。

そしてその食体験によって

自分は不死身になったというのだ。

 

彼の話を書き綴る神部は、

そんな話は老人の妄想に違いないと疑惑を抱きつつも、

なぜか半分は信じたい気になって、

みずから堀田老人がハンザキを喰ったという村に赴く。

清流が流れるその美しい村では

半世紀前の因習・しきたりは途絶え、

もちろん堀田老人が歓待を受けた時のように

「ハレの日」のお祝いとして

ハンザキを食べていたという記憶さえ失われていた。

しかし、そこで神部は思いがけない体験をする。

それは半分人間、

半分ハンザキ(オオサンショウウオ)という怪物との

遭遇だった。

こうして堀田老人の語る夢のような話は、

神部の内面でみるみる真実に変貌する。

 

最大の両棲類として古代から地球上で生き続ける

オオサンショウウオの不思議な生命力に

人生を左右されることになった

明治・大正の発明家と、昭和・平成のライターの

怪奇な運命の物語が、

夢と現実のバランスが崩れた世界で紡がれてゆく。

 

もくじ

1.ハンザキになった男

2.カエルのから揚げ

3.友情に裏切られた男

4.発明家・堀田史郎のこの世の一生

5.ハンザキの村

6.ハンザキに関する調査

7.夢ヶ淵での遭遇

8.お寺の住職の夜伽話

9.最後の取材

10.もう一つの仕事

11.満月の夜

12.富士見川での別れ

13.仕事の後始末

14.ハンザキになった男の末裔

15. ハンザキ再来

 


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「ハンザキを喰った話」:オオサンショウウオに変態した100歳の発明家をめぐる幻想譚

 

最初は5000字程度のちょっとした民話というか

おとぎ話風の短い物語にする予定だったのだが、

やっているうちに膨らんで5万字超の長編小説に。

 

夏に1週間程度で書いて出そうと思ってたのが、

年末ぎりぎりまでかかってしまった。

やっと最後のチェックが済んでUP。

大みそかに発行できるかな?

 

あらすじ

 

舞台は2000年。20世紀と21世紀の狭間のミレニアムの年。

文福社という小さな出版社の雇われライター・神部良平は、

自費出版の「自分史」の本を書いている。

これは自分の人生を本にしたいという人から話を聞いて、

それを一編の物語のように仕上げる、

いわば代筆業、ゴーストライターだ。

 

今回のクライアントは自称・発明家の堀田史郎という

100歳の老人。

その昔、彼は折りたたみ式の「ちゃぶ台」を発明して

大きな富を得たが、

無二の親友の裏切りに逢い、

その財産をすべて失ったという経歴の持ち主だ。

 

そんな彼が1950(昭和25)年、

人生の半ばで自殺の名所を巡る旅に出て、

出雲大社に向かう途中、島根県のとある山村で歓待を受ける。

そこで当時まだ特別天然記念物に指定されていなかった

ハンザキ(オオサンショウウオ)を食べたという。

そしてその食体験によって

自分は不死身になったというのだ。

 

彼の話を書き綴る神部は、

そんな話は老人の妄想に違いないと疑惑を抱きつつも、

なぜか半分は信じたい気になって、

みずから堀田老人がハンザキを喰ったという村に赴く。

清流が流れるその美しい村では

半世紀前の因習・しきたりは途絶え、

もちろん堀田老人が歓待を受けた時のように

「ハレの日」のお祝いとして

ハンザキを食べていたという記憶さえ失われていた。

しかし、そこで神部は思いがけない体験をする。

それは半分人間、半分ハンザキ(オオサンショウウオ)という怪物との遭遇だった。

こうして堀田老人の語る夢のような話は、

神部の内面でみるみる真実に変貌する。

 

最大の両棲類として古代から地球上で生き続ける

オオサンショウウオの不思議な生命力に

人生を左右されることになった

明治・大正の発明家と、昭和・平成のライターの

怪奇な運命の物語が、

夢と現実のバランスが崩れた世界で紡がれてゆく。

 


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狛寅と百足小判と毘沙門天

 

先日、港区芝(浜松町と田町の間)にある

正傳寺(しょうでんじ)というお寺を取材した。

ここは江戸時代、毘沙門天を祀っていることで

参拝客で大賑わいしたというお寺だ。

 

来年、令和4(2020)年の干支は寅だが、

このお寺の毘沙門堂には狛犬ではなく、

二体の狛寅(こまとら)が鎮座している。

 

これは毘沙門天が日本で初めて姿を現したのは、

寅年、寅日、寅の刻だったという伝承があることから

寅が使いとされるようになったからだ。

勇猛な寅は、甲冑を着た戦いの神に

ぴったりイメージが当てはまる。

 

もう一つ、同じく毘沙門天の使いとされているのは百足だ。

百足は気味悪がる人が多く、

嚙まれるとアレルギー反応を起こすこともある毒虫だが、

こちらも江戸庶民の間では

縁起の良い生き物だと評判が高い。

 

理由は江戸庶民はお金のことを「お足」と言ったため、

百足はそのお足がたくさんあるということで

金運を呼ぶとされたからだ。

 

また、歌舞伎役者など、人気商売の人も

たくさんの足が自分に向きますように、

つまり、人気が出ますようにと願って

自分の家紋に百足を使うことがよくあったという。

 

江戸っ子の洒落、現代なら「おやじギャグ」の類だが、

正傳寺ではこうした江戸庶民の感情を機敏に捉え、

「百足小判」のお守りを考案して販売。

これが大いにウケたという。

 

今のこの寺の住職さんは、こうした歴史を踏まえて

自らデザインして

この「百足小判」の復刻版をプロデュース。

これが大好評を博している。

 

毘沙門天のお寺は、東京では神楽坂の善國寺が

最も有名(ここにももちろん狛寅が鎮座している)で、

正傳寺にならって百足小判のお守りを売り出したらしいが、

「オリジナルはこちら、あちらはフォロワーです」

と住職さん。

 

いずれにしても、寅年に狛寅のいるお寺で、

金運と人気が上がる百足小判は縁起がいい。

来年はぜひ毘沙門天様にお参りするといいことあるかも。

 


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金の林檎を贈って2021のクリスマスの思い出を

 

自分のハートに金の林檎を贈って

2021のクリスマスの思い出を残そう。

まだまだ続くおりべまことAmazonKidle電子書籍

オナラとネコマタ、クリスマス無料キャンペーン!

12月26日(日)16:59まで。

 


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今年のクリスマスは、自分のハートに金の林檎をプレゼント

 

おりべまこと AmazonKidle電子書籍

おとなも楽しい少年少女小説

オナラとネコマタ、クリスマス無料キャンペーン!

本日12月23日(木)17:00~12月26日(日)16:59

 

★オナラよ永遠に

http://www.amazon.com/dp/B085BZF8VZ

 小学5年生の小松救太郎は、ぬきうちテストの最中にオナラをもらし、クラス中からいじめられる。じつはそのオナラの真犯人は隣の席の水城ユリカ。彼は憧れの女の子の失敗をかばっていたのだ。しかし、ユリカはお礼を言うどころか、よけいなおせっかいだと救太郎をきびしく攻める。

 その日、家に帰った救太郎は奇妙な白昼夢を見る。

そこに登場するのは、26世紀から来た、オナラで音楽を奏でるプータローというキテレツな男。この男の話によると、500年後の世界では人間はオナラをしない生き物に進化しており、そのせいでストレスがたまり、心の病が蔓延しているという。

 そして救太郎こそが、失われたオナラを取り戻すための救世主であり、ユリカとラブラブになることで人類がオナラを取り戻し、不幸な歴史をやり直せると伝える。

 救太郎は、潔癖症でオナラを軽蔑するステージママである母親のプレッシャーにユリカが苦しんでいること、また、人類からオナラを奪おうとする謎のヘビ魔女が彼女に取りついていることを知る。

ヘビ魔女との対決や、秘密警察から逃走するプータローとの交信を通じて、ついに自分の力で未来を変えることを決意する救太郎。その方法はユリカのオナラをかばった日にタイムスリップして戻り、二人のよじれてしまった関係を修復するということだった。

 はたして彼はユリカの気持ちを変え、オナラを失った未来の人類を救うことができるのだろうか?

 オナラをテーマに展開する、愛と笑いとメッセージを載せたSF+ファンタジーテイストの少年少女小説。

 

★茶トラのネコマタと金の林檎

http://www.amazon.com/dp/B084HJW6PG

 20代半ばで独立起業し、6畳一間のアパートの自分の部屋で探偵事務所を開いた私立探偵・飛田健太。 その健太のもとに開業以来、最高のギャラが発生する難事件の依頼が飛び込んだ。

 山中に埋められた、時価数億円に上る金の林檎の捜索。 健太は相棒である便利屋の中年男・六郎を連れ、現場に飛ぶ。そこに現れたのはオレンジ色の髪をし、魔女のような真っ黒な服に身を包んだミステリアスな高齢女性。 健太はその依頼人に“茶トラのネコマタ”というあだ名をつける。

 ネコマタの目撃談によれば、10月の第3日曜日の夕暮れ時、黒服・黒メガネの4人組の男たちがこの山にやってきて、どこかから盗み出してきた大量の金の林檎を埋めていったという。

 しかし明らかに彼女の話はおかしい。 これはかつて女優だったという女の空想か?幻想か?妄想か?

 健太と六郎は、その話を信じたふりをして、山中の雑木林に入ってスコップを振るい肉体労働に精を出すことになった。 はたしてこの難事件はどんな“解決”に至るのか?

 それぞれ心に傷を負った若者、中年、年寄りが織りなす、コミカルでファンタジックな探偵小説。

 

今年のクリスマスは、自分のハートに金の林檎をプレゼント。

そして、家族なかよく、恋人同士、友だち同士もなかよく、オナラをかまし合って楽しいクリスマスをお過ごしください。

 


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新作「ハンザキを喰った話」ほぼ完成

 

オオサンショウウオに変態した

100歳の発明家をめぐる幻想譚。

Amazonの電子書籍で12月最終週、発売予定。

年末・お正月は、おりべまことのハンザキで寿ぎを。

 


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神田沙也加さんの死について

 

神田沙也加さんの死にはショックを受けた。

彼女は親の七光りを利用するどころか、

芸能の世界で、その光が届かない領域を探し回り、

ミュージカルという分野に活路を見出した。

 

僕は2000年代の5,6年間ほど、

演劇情報のテレビ番組の仕事をやっていた。

その中で彼女の出演する舞台作品について、

何本か紹介したことがある。

 

ミュージカルの世界には

宮本亜門氏演出の舞台でデビューしたが、

その後はまるで修行するかの如く、

小さなマイナーな舞台に幾つも取り組んでいた。

 

周囲の風当たりは相当強かったと思う。

何と言っても、両親があれだけのビッグスターなので、

妬み・嫉みを一身に受けていた感がある。

 

批評やダメ出しなどではなく、

どう聞いても悪口・陰口としか思えないことも

いろいろ言われていた。

 

彼女はいつも「松田聖子の娘」という、

一生逃げられない運命と闘い、

自分とは何者なのか?を追求していたのだと思う。

 

「アナ雪」のアナ役は、その闘いの大きな成果だった。

神田沙也加があの大スターの娘ではない、

ひとりの独立したミュージカル女優であることを

世間に認めさせることができた。

彼女のアナは本当に魅力的だった。

 

自死ということになっているようだ。

あれだけ打ち込んでいたミュージカル。

その名作「マイ・フェアレディ」の主役をやっていた。

その後も数年先まで出演作が決まっていた。

紛れもないミュージカル界の星だったはず。

好きな仕事、誇りになる仕事を責任を持ってやっていた。

 

札幌のホテルの部屋で、突然、ぽっかり空いた

エアポケットに落ちてしまったのか?

少なくとも転落した時は、

まともな精神状態だったとは思えない。

 

彼女の中に何が起こり、

どうして自ら命を絶ったのかは、

遺書でも見つからない限り、わからない。

「お疲れ様でした」と言うにはあまりに若すぎた。

ご冥福をお祈りしますとしか言えない。

 


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週末の懐メロ60:オン・マイ・オウン/島田歌穂

 

『レ・ミゼラブル』は今のところ、

生涯最高のミュージカルである。

正直この先、これを超える作品に出逢うことは

難しいだろうとも思っている。

 

そして、こうしたアーカイブでは、

やはり島田歌穂の「オン・マイ・オウン」を聴いてしまう。

 

彼女が『レ・ミゼラブル』でエポニーヌを演じたのは

1000回を超える。

日本初演の年、1987年には同作の世界ベストキャストに選ばれ、

日本の女優として初めて英国王室主催のコンサート

『ザ・ロイヤル・バラエティ・パフォーマンス』に出演した。

 

英語でなく日本語で歌うというハンデをものともせず、

これだけの評価を得たのは驚異的だ。

いまだに史上最高、世界最高のエポニーヌという

呼び声が高いことも頷ける。

 

歌のうまい人は他にも大勢いるが、

島田歌穂の歌と演技は、何かが決定的に違っていた。

 

エポニーヌはパリの裏町で、

悪徳居酒屋を営む小悪党夫妻のもとで

生まれ育ったやさぐれ娘で、

革命の学生リーダーに報われない恋をし、

彼を救うために敵の銃弾に倒れる。

そして、最期は愛する人の腕に抱かれながら天に召される。

 

観客の誰もが感情移入せずにはいられない、

おいしい役だけど、

額面通りの、やさぐれ娘の片思いで終わってしまっては

人の心は掴めない。

 

エポニーヌは『レ・ミゼラブル』という物語にあって、

貴族でも英雄でも聖人でもない、

地を這って生きる凡百の人間が持つ

魂の純潔性を象徴する役である。

 

だからめっちゃ難しい。

僕が知っている限り、それを最も鮮やかに表現し得たのが、

島田歌穂ではないかと思う。

 

だから彼女の「オン・マイ・オウン」には

誰の胸にも届き、染み入る広がりと深みがある。

 

今思えば80年代は世界のミュージカルの黄金時代だった。

なんと幸運なことに、僕はその発火点のロンドンにいた。

 

1985年の8月からしばらくの間、

かの地に暮らしていたのだが、

「レ・ミゼラブル」がオープンしたのは、

ちょうどその頃だ。

 

初めて見たのは、36年前の今頃。

パリに留学していた友だちが遊びに来て、

何かミュージカルが観たいというので、

ロンドンの中心部、レースタースクエアの近くの

パレスシアターで上演中だった

「レ・ミゼラブル」を観に行った。

 

オープン直後から爆発的な人気だったので、

チケットはなかったのだが、

ダフ屋にだまされて20ポンド(当時、約6000円)払って、

いちばん安い5ポンド(1500円)のバルコニー席で観た。

かなり舞台は遠かったのだが、

それでも、詐欺られたことを忘れるくらい、

圧巻の舞台だったことを昨日のように思い出す。

 

その時のオリジナルキャストの

エポニーヌも素晴らしかったが、

日本に帰ってから帝国劇場で島田歌穂を見たら

それ以上だったので本当にびっくりした。

 

そもそも歌って踊って物語を綴る

ミュージカルという形式自体、

欧米人仕様のエンターテインメントなので、

日本人が世界レベルに達するのは難しい。

 

その中にあって島田歌穂の遺した功績は

どれだけ讃えても過ぎることはない。

後世のエポニーヌが皆、挑まなくてはならない巨大な壁。

 

美しい旋律と、

日本オリジナルと言ってもいい素晴らしい歌詞。

そして魂のこもった歌。

たとえアーカイブ上でも彼女の「オン・マイ・オウン」を

聴ける幸福に感謝する。

 


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11月30日は「いいおしりの日」

 

今日は11月30日、11の最後ということで

「いいおしりの日」でした。

11月はいろんな「いい」日があってイイね。

あなたもいいお尻を見ながらハッピーな月越しを。

2021年もあと1ヶ月です。

 

 

おしりといえばオナラが出るところ。

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フランケンシュタインの母

 

メアリー・シェリーは「フランケンシュタイン」の

作者である。

そのメアリー・シェリーを描いた映画が

2017年に公開されていたのを知って、

例によってAmazonPrimeで観た。

 

「メアリーの総て」という邦題は

わかりやすいけど、イケてない。

もうちょっと気の利いたタイトルは

付けられなかったのかと思う。

 

今や知らない人はいない人造人間フランケンシュタイン。

正確にはフランケンシュタイン博士が

死体をつなぎ合わせて作った怪物。

 

その原作小説を書いたのは女性で、

「シェリー夫人」とい

う人だーーということは

子どもの頃、読んだ雑誌で知っていた。

 

そのシェリー夫人という名前から、

僕は長年、妙齢の有閑マダムだと思っていた。

 

その雑誌にもイラストで40歳か50歳くらいの

金持ちそうなおばさんが描かれており、

「すごく怖い夢を見たの。この夢をもとに小説を書くわ」

といったセリフが付いていた。

 

さらに

「こうしてフランケンシュタインは誕生したのですーー」

といった解説がついていた。

おそらくその雑誌のライターも

シェリー夫人については何も知らなかったのだろう。

 

実際のシェリー夫人=メアリー・シェリーは、

もとは19世紀ロンドンの本屋の娘で、

両親がちょっと名を知られた思想家だったようだ。

そのためか、彼女にも文学的才能があり、

若い頃から怪奇小説を書きたがっていた

というベースがある。

 

そして彼女はフランケンシュタインの物語を書いたのは、

まだ18歳の時。

出産も経験していたものの、まだ少女と言っても

おかしくない齢だった。

執筆時、のちに夫となる詩人パーシー・シェリーとは

まだ正式に婚姻関係を結んでいなかった。

 

「フランケンシュタイン」をSFの元祖、

ロボット小説の元祖と見る向きもあるが、

メアリー・シェリーは科学に興味を持っていたものの、

科学的知識、理系のセンスはほとんどない。

 

フランケンシュタインの物語は、

あくまで当時、19世紀・大英帝国時代の

イギリス・ヨーロッパにおける思想・哲学・文学の

水脈から生まれてきたものだ。

 

そこには現代よりもずっと厳しい道徳性や保守思想、

それに反発する自由への希求、美への憧れ、

理想主義などが渦巻いている。

 

映画ではなぜ若い彼女があの物語を生んだのか、

ただのひらめだけでなく、その背景にどんな事実があり、

どんな心の動きがあったのかを丁寧に描いていて、

僕にはとても興味深かった。

 

ただし、「フランケンシュタイン」からイメージする

ホラー要素を期待して観るととがっかりする。

画面に怪物は一切出てこない。

 

しかし、怪物なるものの正体は、

ストーリーの中でとても分かりやすく描かれている。

ジャンル分けをするなら、

ヒューマンとか恋愛映画に入るのかな?

 

フランケンシュタインの物語は、

おそらくこの先も半永久的んな生命力を保つと思うが、

実は僕も原作は読んだことがないので、

こんどしっかり読んでみようと思う。

 


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義母とざしきわらしとちっちゃいおじさん

 

「ざしきわらしに勇気の歌を」というのは、

認知症の老人がざしきわらしに出逢うお話だ。

1年ちょっと前にひらめいて書いてみたのだが、

これが正夢になりつつある。

 

というのも最近、ときどき義母の部屋に

ざしきわらしが出没するらしいのだ

 

なんだか誰かと話してる声が聞こえて来たり、

ときどき唐突に

「あの男の子、どこに行っちゃったの?」とか

3時のおやつをあげると

「あの子と一緒に食べちゃった」などという。

 

べつに怖がったりすることもなく、

わりと楽しんでいるようなので、

「そうですか。それはよかった。

また遊びに来てくれるといいね」

などと適当に合わせている。

 

ざしきわらしは家を裕福にしてくれる

良い妖怪なので何も心配ない。

ついでに僕たちにもハッピーのおこぼれを授かりたい。

 

ただ、ざしきわらし体質になると、

いろいろ他のもついてきてしまうようだ。

 

今日は昼間、久しぶりに早く仕事を済ませて

余裕があったので、

2時間近くかけて大宮八幡宮を往復した。

するとなぜか帰り道、

「あの男の子は?」と言い出した。

 

ざしきわらしが出張してきたのかと思ったら、

川の向こう岸を歩いているおっさんを一生懸命探している。

義父(夫)の面影を追っているのか、

それとも大宮八幡で「ちっちゃいおじさん」を見てしまったのか?

 

何人ものちっちゃい子どもたちから

大宮八幡での「ちっちゃいおじさん」の目撃談を聞いた。

 

どう認識してるのかはともかく、

認知症の義母にも見えるのだ。

奇しくも七五三詣での真っ最中でもある。

ちっちゃいおじさんたちも

元気に走り回っているに違いない。

もちろん僕にはさっぱり見えないけど、

 

ちっちゃいおじさんに逢いたい人は、

ちっちゃい子供か、認知症の人を連れて行くと

何万分の1くらいのチャンスはあるかもしれない。

 

あなたも、ちっちゃいおじさん情報、

そして、ざしきわらし情報、

ありましたらお寄せください。

 

電子書籍:おとなも楽しい少年少女小説

ざしきわらしに勇気の歌を/おりべまこと

ロボット介護士に支えられて余生を送っている寅平じいさんが、ある日、林の中を散歩していると不思議な子どもに出逢う。

その子を追って木の穴に潜り込むと、奥には妖怪の国が広がっていた。

子どもの正体はざしきわらし。

ざしきわらしは最強の妖怪“むりかべ”の脅威から人間を守るために闘うので、応援してほしいと寅平に頼む。

寅平はこれぞ自分のミッションと思い、闘うざしきわらしのために勇気の出る歌を歌う。


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認知症の義母と散歩中のワンちゃんと演じるシュールな野外劇についての断章

 

人間というのはとても複雑で面白い。

義母といると良い勉強になる。

 

基本的にこの人はあんまり生き物が好きではない。

ところが、なぜかそれを認めたがらない傾向があり、

時々、自分が飼っていたというイヌやネコの話をしたがる。

動物をかわいがる自己像を大事にしているのかもしれない。

 

そのせいか、散歩中の犬とすれ違うと、

たいてい「わぁ、かわいいワンちゃん」と大きな声を上げる。

100%本心ではなく、

連れている飼い主さんに気を遣っている部分が大きい。

 

しかし、多くの犬は「かわいい」という言葉がわかるので、

尻尾をふって寄ってくる。

そうすると、ビビッて引いてしまう。

 

しょうがないので代わりに僕がその犬を撫でてあげると、

義母と犬と飼い主さんの間で平和で安定した場が成り立ち、

なんとなく一つのエピソードが完結する。

 

それでたぶん、その飼い主さんから見ると、

義母は「イヌ好きな良い人」というイメージとして残る。

 

義母のほうはその場を離れたとたん、

犬のことも飼い主のことも忘れている。

 

それで橋を渡って折り返してくると、

同じ犬と飼い主さんに出くわすことがある。

すると、先ほどと同じシーンが繰り返される。

 

飼い主さんは顔で笑いながらも内心、

「さっきも同じことしたんだけど・・・」

と思っている。たぶん。

 

僕も敢えて「認知症なんで・・・」と説明することなく、

同じことを繰り返す。

なんだかシュールな野外劇のようだ。

 

ネコに対しては、飼い主さんがいないので、

「かわいいわね」と言いつつも、

僕が対話しに行くのを、ちょっと距離を置いて見ているだけ。

ソーシャルディスタンスを守っている。

 

そのくせ、離れるとまたもや

「私の家も子どもの頃はネコを飼っててね」と

言い出したりする。

 

この人、じつは幼い頃、女中さん・使用人がいる

目白のお屋敷で育ったお嬢様である。

とは言っても、それは4,5歳までのことで、

認知症になる前も、そんな記憶はほとんどなかったらしい。

 

けれども時おり、本当に、あ、そうだったのかなと思う時もある。

時々発症する「カエル病」も

そのお屋敷のイメージがどこかに残っていて、

魂がそこに帰ろうとするらしい。

 

そうすると、僕はさながら

おつきのじいやといったところかもしれない。

なんとなく「ちびまる子ちゃん」に出てくる

花輪君のおつきの「ひでじい」を思い浮かべる。

 

黒塗りのリムジンは運転できないが

そういう設定で面倒を見ると、

また面白くなる気がする。

 


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小室眞子さんに自由に幸福になってほしい

 

眞子さんには自由になってほしい。

そして自分の幸福を追求してほしいと思う。

もちろん、小室氏にも。

 

一度ニュースを見たら、

次から次へとスマホにネットニュースが入ってくる。

眞子さんと小室氏の結婚の話。

 

ストーリーの詳細はよく知らないけど、

小室氏の母のかつての婚約者の男が、

彼を大学に行かせたいという親心を抱いた。

男は彼女の願いを聴いてお金を出した。

これは男として最高にカッコいい。

 

ところが、それを小室氏が眞子さんと婚約したとたん、

カネが入ると思ったのか、

「あのカネ返せ」と言い出した。

これは男として最低にカッコわるくて、情けねー。

 

元婚約者について、僕は昭和の人間なので

「おまえに男のプライドはないのか」と、

本当にあきれ返ったよ。

 

いずれにしても、それで大騒ぎになり、

騒げば騒ぐほどこじれていく。

説明不足だの、あとあとの対応が拙かったのはわかるが、

これ、どこをどう見ても

小室氏に非はないではないか。

 

彼はただ勉強して、自分が望む職業について

人生を切り拓きたかっただけである。

 

ところが彼を標的にバッシングが起こった。

バッシングしている人たちの真意が見える。

その人たちは、

他人が持っている地位とか権威とかにすり寄って、

いい暮らしがしたり、おいしい思いをしたい。

そんな人たちだ。

自分はそういう幸運に恵まれないのに、

この男は皇族の娘にすり寄ってうまくやりやがった。

 

羨ましい、妬ましい。憎たらしい。

 

あれこれ理屈を並べ立てて正論化しているが、

そういう醜い感情にへ理屈をつけて、

やれ日本人としてどうの、

皇族の在り方がどうのと懸命に

まっとうなことを言っているように見せかけている。

 

ただ羨ましいだけ。

妬ましいだけの話だ。

 

小室氏の真意は知らない。

そりゃ相手は皇族のお嬢さんだから

一般人の恋愛・結婚と違ったものになることぐらい

わかっていただろう。

メリットのある結婚だ。

眞子さんを利用しようという気持ちがゼロだったとは思わない。

 

けどね、打算も思惑も妥協も忖度も何もなく、

100%、この人が好きだという思いだけで

結婚する夫婦がどれだけいるというのか?

 

むしろ100%の恋愛なんてすぐに終わってしまって、

結婚生活なんて長続きしないのではないか。

 

利用ということでは、むしろ眞子さんのほうが

小室氏を利用したのではないかと思う。

あの家を出るために。

 

責められることではない。

女性には息苦しい家から脱出するために

結婚という手段、救いがあるのだ。

自分の自由と幸福を追求するために

たとえ100%の恋愛感情でなくても、

男を利用していい。

 

今の時代、皇族なんぞに生まれても

いいことなんてほとんどない。

 

選んで生まれついたわけでもないのに、

よけいなところからいっぱい干渉されて、

ささやかな自由も許されない。

自分の感情を出すことも許されない。

 

皇族の品位を守れ?

国民の尊敬と愛情がある?

そんなものより自分の自由と幸福を追求する方が大事だ。

 

特に平成生まれの若い子たちは

みんなそう思っているのではないか?

あんな環境に置かれて、

精神がおかしくならないほうが不思議なくらいである。

 

眞子さんは5、6年前のイギリス留学の記憶が

あったのだろう。

1年間だけでも息苦しい日本から出られてよかった。

だから外国に行くのは正解だ。

 

みんな、1年でも2年でも

出来るだけ若いうちに外国で暮らしてみたほうがいい。

どこの国でもあちこちおかしなところがある。

日本もかなりおかしい国であることが

外国で暮らすとよくわかるだろう。

皇族を続けるにせよ、辞めるにせよ、

そうした経験は必要だ。

 

眞子さんはやめることを選んだ。

彼女と妹の別れのハグを見て、

「リアルアナ雪」なんてコメントがあったが、

あの歌のように「ありのままに」生きてほしい。

 

小室氏が弁護士試験に落ちてしまって

厳しい暮らしになるとは思うが、

このまま日本にいて、

あの家の中で澱んでいるより全然マシである。

 

騒いでる日本のアホどもにアカンべーして、

早くニューヨークに飛んで、

二人で新しい生活をスタートしてほしいと思う。

そして、自分なりの幸福を追い求めてほしい。

 

ついでにいつか心安らぐときが来たら、

僕に回顧録を書かせてくれないかな。

 


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同窓会延期と「いつまでもあると思うな 渋谷スクランブル交差点」

 

 

驚くべきことにコロナ感染者が急に激減した。

ちょっと不気味な感じがするが、

とりあえず素直に喜んで、この1か月あまりは

割と安心して外出できそうだ。

 

でも、この秋、予定していた

専門学校の同窓会は中止・延期にした。

いちおう幹事役みたいなことをやってて、

昨年企画していたが中止。今年もまた、である。

 

3年前にやった時は20人くらい集まって楽しかったのだが、

さすがにいまはまだそういうわけにはいかない。

週末にメルアドのわかるメンバーにはみんな連絡した。

 

人間、いつ死ぬかわからなくて、この仲間もすでに二人、

あの世に行ってしまったので、

このご時世でどうなっているのかわからない。

元気で暮らしていることを祈るばかりである。

 

いつまでもあると思うな、

親とカネと友だちと青春の思い出。

人生は束の間である。

 

全然関係ないけど。コロナでこの2年ほど、

新宿にも澁谷にもほとんど降り立っていない。

 

渋谷はコロナ禍にも関わらず、

再開発工事がやたら順調に進んでおり、

完成の暁には、車両はすべて地下を通ることになるようだ。

 

ということはかの名物、いまや国際的な観光名所でもある

澁谷スクランブル交差点は近々、

消滅するということになる。

 

見慣れた、当たり前の風景もあと5年かそこらで

消えてなくなってしまうのだろう。

 

いつまでもあると思うな、

親とカネと友だちと青春の思い出、

そして、僕らの渋谷スクランブル交差点。

 

「ありがとう、渋谷スクランブル交差点。

今日で君とはお別れだけど、愛した記憶は忘れない」

なんてセリフが今から聞こえてきそうだ。

 

あなたも今年のハロウィーンはオバケになって

渋谷スクランブル交差点へ出向いて

名残を惜しんでください。

 

なんてね。

こんなこと言って密になって騒ぐのを

煽ってはいかんのだろうけど。

 

ハロウィーンの原型・ディズニー映画の題材にもなったメキシコの「死者の日」などの先祖供養の風習、
人生最後の旅や最後の晩餐を提供する臨終ケア、
遺体をキノコの培養体やフリーズドライにして森や土に還すエコ葬、
安楽死の現実、コロナによる各国の死と葬送の記録など。
葬儀・供養の業界誌「月刊仏事」で連載した記事を一冊に収録したエッセイ集。

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「生きていくなら仕事しなきゃあな」という本

 

高齢社会において「ノスタルジー」は巨大市場である。

だからこういう本は一定の需要があるに違いない。

昨年末にグラフィック社から発行された

「失われゆく仕事の図鑑」が面白い。

 

著者は永井良和、高野光平ほか、全部で8人。

年齢は平均すると僕とほぼ同じか、ちょっと若いくらい。

 

丁寧によく調べてある上に、

写真もたくさん載っている。

文章はそれぞれの実体験も書き込まれていて、

単なる解説でなく、エッセイ風に読めて面白い。

 

僕にとって、この本に載っている仕事の世界は、

かつてのアングラ演劇や

ATGみたいなマイナーな日本映画の世界とつながっている。

 

汲み取り屋、バスガール、流し、押し売り、活動弁士、

傷痍軍人、花売り娘、見世物小屋、三助、ダフ屋、

売血、キャバレーのホステス・・

 

僕が社会に出た頃――昭和の最後の10年間には、

もうこうした仕事はどんどんなくなりつつあって、

多くは、演劇や映画で教えてもらった。

舞台やスクリーンの中には、

こうした得体の知れない人間がうようよいた。

 

 

僕が10代から20代の頃、今から40~50年くらい前まで

人も機械も、きれいで清潔で正義といえない、

時にインチキで、まがまがしいことをやりながら

一生懸命生きていた。

 

そうしたことがひしひしと伝わってきて、

人間が愛おしくなる。

 

そして人間にとって仕事は何なのだろう?

これから先、人間にとって仕事は

どんな意味を持つようになるんだろう?

と改めて考える。

 

生きがい? きれいごとだ。

カネだけ? かもしれないけど、だとしたらさびしい。

 

僕もノスタルジー市場の一員になってしまっているが、

できたら若い衆にも読んでほしい。面白いよ。

 


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週末の懐メロ50:エニウェア・イズ/エンヤ

 

1995年末のリリースのサードアルバム

「メモリー・オブ・トゥリーズ」の代表曲。

エンヤという稀有なミュージシャンの

代表曲とも言えるかもしれない。

 

このアルバムはちょうど息子が生まれた頃よく聴いていた。

中世を思わせるケルトの民族ドレスをまとった

エンヤのジャケットがとても神秘的で美しかった。

 

エンヤは1980年代の終わりごろから

アイルランドの歌姫として

世界のミュージックシーンで知られるようになった。

 

その登場は衝撃と言うよりも、

当時のワールドミュージックの潮流に乗って、

まるでひたひたと潮が満ちるように、

いつの間にかそこに存在していたという感じがする。

 

ワールドミュージックは

ごく大雑把に言えば、

現代文明が構築される以前の人間が

どう時間を捉え、どう人生を捉えていたかを

歌と音で伝えるツールである。

 

「エニウェア・イズ」は

人生の謎について問いかけ、答える歌だが、

ポップでありながら宇宙の律動のような響きを持っている。

 

いろいろな人の和訳を拾ってみると

最後のほうではこんな内容のことを歌っている。

 

 

何度やり直しても、どの道を選んでも

また新たな始まりが始まる。

ずっと答を探し求めてきたけど

終わりを見つけることはできない

今ここにあるこの道、

そして、向こうに広がるあの道

どっちを選んでもいい

今、わたしが選んだこの道も

あの頃のわたしが選んだあの道も

みんな始まりに過ぎないのかもしれないし

終わりはすぐそこなのかもしれない

 

 

人間ひとりの脳の中には

さまざまな次元の時間が流れている。

 

親子であっても、夫婦であっても

共有できるのは、そのほんの一部に過ぎない。

広い社会の中ではなおのこと。

 

若い頃は単一方向にしか流れていなかった時間が、

齢を取ってくると、放射状にあらゆる方向に伸び始める。

 

細かく切り刻まれた

現代社会における時間とは対照的な、

山上からな海へ向かって流れ続ける大河のような時。

 

個人の過去。

日本という国・地域の文化に包まれ過去。

ヒトという地球に生きる種族の過去。

 

個人の未来。

日本という文化の未来。

ヒトという種族の未来。

 

それらすべてを孕んで僕たちの現在(いま)がある。

 

始まりもなく終わりもない道をどう歩いてゆくのか。

きっとEnywhere、どこへでも歩いてゆける。

エンヤの歌を聴くと、いつもそんなことを考える。

 

音楽エッセイ集

ポップミュージックをこよなく愛した

僕らの時代の妄想力

4週連続無料キャンペーン

第4回:10月2日(土)17:00~3日(日)16:59

収録33編

●八王子・冨士森公園のスローバラード駐車場で、ポップミュージックをこよなく愛した僕らの時代の妄想力について考える

●アーティストたちの前に扉が開いていた

●21世紀のビートルズ伝説

●藤圭子と宇多田ヒカルの歌う力の遺伝子について

●ヘイ・ジュード:ジョンとポールの別れの歌

●阿久悠の作詞入門

●余命9ヵ月のピアニスト

●ローリング・ストーンズと新選組の相似点について

●キング・クリムゾンの伝説と21世紀版「風に語りて」

●プログレッシヴ・ロックスターの死①:ジョン・ウエットンの訃報、そしてロンドンの寿司

●プログレッシヴ・ロックスターの死②:キース・エマーソンの尊厳死(1周忌に捧ぐ) 

●勝手にビートルズ・ベストテン

●中学生時代の「エリナ・リグビー」の衝撃と和訳演奏

●純情ストーカー男と純心DV願望女の昭和歌謡

●人間は幸せに慣れると、幸せであることを忘れてしまう

●義弟のアナログレコードと帰ってきたカレン・カーペンター

●いちご畑で抱きしめて

●ダイヤモンドをつけたルーシーとの別れとジュリアンの心の修復作業

●抹消された20世紀パンクと想像力の中で生きる19世紀型スチームパンク

●悲しいことなんてぶっとばすロックンロールバンドのモンキービジネス

●オノ・ヨーコさん「NHKファミリー・ヒストリー」とYESの3文字の秘密

●オノ・ヨーコさん「NHKファミリー・ヒストリー」と「イマジン」の秘密

●いろいろな人が弾くから、心に響くロンドンのピアノ

●ストリートミュージックが商品になった街ロンドン

●アナログレコードとの再会

●見捨てられた恋人のようだったアナログレコードが、 なぜ絶滅の淵から回帰したのか?

●さすらいのレコード・コレクター:男のバカバカしくて痛快な生きザマ

●クリスマスにちょっとだけ世界と自分を変える

●森田童子の思い出:僕らの時代の子守唄

●自分をリライトする

●よみがえる死者・よみがえる歌:AIの音楽

●20世紀の愛と平和のロックなんて忘れてしまっていた

●だいじょうぶです、なすがままになさい

 


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6600万年前の夢を見て死ね

 

世界中に張り巡らされた恐竜マニアの秘密組織。

アクセスするためのパスワードは

「6600万年前の夢を見て死ね」。

本部はネス湖のあるスコットランドのインヴァネス。

日本支部は、もちろん日本一の恐竜県・

福井県の福井市である。

 

南青山5丁目にはその出張所がある。

見た目は飲食店や名産品ショップの集まりだが、

その奥に潜入すると、秘密の扉が開き、

6600万年前の夢を見ることになる。

 

約3ヵ月ぶりに都心に出張・リアル取材。

じつは福井県とも恐竜とも何の関係もない仕事で、

ここにあるレンタルスペースで

展示会をやっている会社の取材に来たのだが、

久しぶりに目の当たりにした都心の風景に、

つい夢想癖が抑えられなくなった。

 

なかなか味わい深く、妄想のトリガーになり得る

福井のドクター・ダイナソー。

入口に鎮座されておられるので

近所に寄ったらちょっと覗いてみてください。

 


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凶悪・孤狼・凪待ち:白石和彌監督の映画が面白い

 

白石和彌監督の映画を立て続けに3本観た。

「凶悪」「孤狼の血」「凪待ち」

どれもめちゃ面白い。

面白いが、人間やってるのが怖くなるような映画だ。

 

いちばん凄いのは「凶悪」で、

実際にあった連続殺人事件を題材に作られた。

本当にこんなひどい奴らがいたのかと思わせる、

本当にひどい内容・ひどい事件である。

 

「孤狼の血」も凄まじい暴力描写があるヤクザ映画だが、

役所広司・松坂桃季といったスターが主演しているのと、

昭和ヤクザの世界を舞台にしている分、

現代の日常からやや離れたものとして見えるので、

少し安心して観ていられる。

 

「凶悪」の怖さはやっぱりリアルなドキュメンタリーっぽいところか。

狂気のような人殺しをした連中が

時間と場所によって、ごく自然にスイッチを切り替えて

普通の人間に戻ってしまう。

 

まったく平和な日常生活そのままに

飯を食ったり、子どもに対しては

やさしい父親になってしまう。

 

頭からケツまで冷血非道な人間かと思いきや、

妙にあったかかったり、

可愛いところ・愛すべきところがあったりもする。

 

仕事術や勉強術を伝授するような本の中で

よく「なんでも習慣化すれば身に着く」

といったことを説いているが、

あれとまったく同じで、

人間、慣れれば人殺しも死体遺棄も普通に出来てしまう。

それで心が揺らぐこともない。

 

そんなのは特殊な人間だろ、と思うかもしれないが、

僕らだってきっとそうなれる。

それもわりと簡単に。

 

人殺しとかするやつは、

頭からケツまで冷血非道な人間かと思いきや、

妙にあったかかったり、

可愛いところ・愛すべきところがあったりもするのだ。

 

だから誰の心の中にも、こいつらと同じ「凶悪」がある、

じつはいい人も悪い人も、ほとんど違いなどなくて、

光の部分と闇の部分が交互に現れるだけ。

 

たまたま人生のどこかのタイミングで、

闇の部分がぱーっと広がると、

アッと言う間に人間丸ごとそれに支配されてしまう。

 

「凶悪」でおそるべき殺人首謀者だった

リリー・フランキーが、

「凪待ち」では、おそるべき“いい人”になるが、

彼がそれを証明しているかのようだ。

 

しかし、リリー・フランキー、

改めてすごい俳優だなと思う。

見た目軽くて、全然すごそうでないところがすごい。

 

さらに言うと、これらの作品の登場人物の特徴は、

およそ論理とはかけ離れた、不可解な行動をとる。

 

不条理とかシュールといった文学的な表現も

なんだか似合わない、もっと地を這うような感覚のもの。

ひどく奇妙でありながら、やたらとリアリティがあるのだ。

「人間はどうしてこういう行動を取るのか」

も白石映画の面白さの一つになっている。

 

撮影現場でのひらめきや俳優のアドリブなどが

たくさん含まれていると思うが、

それ以前の脚本の段階で、

こうした人物造型とストーリーを構築できるのが

素晴らしいと思う。

 

それにしても、映画の中でのたうち回る

犯罪者・ヤクザ・労働者・ギャンブル中毒者・

カネの亡者・借金地獄の人たちを見ていると、

明日、自分もこういう世界に

巻き込まれているんじゃないかと感じて

心底身震いがしてくる。

 


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月光浴しながら僕は考えた

 

今宵、中秋の名月が満月ということで浮足立っていた。

そこで日の暮れたあと、

川沿いの散歩道に出かけたら、

同じように浮き足だってお月見に来た人たちが

けっこう大勢ゆらゆら歩いてた。

 

一回りするうちに月はどんどん高くのぼって、

帰ってきたら自分の部屋からばっちり見える。

 

窓から差し込む銀の月の光。

これは気持ちいい。

そのまま30分ほど月光浴をしていた。

 

今夜の月の光はいつもより強くて、

たっぷり月光エネルギーを吸い取れる。

オオカミ男になれそうな気分だ。

 

そうしているうちにビジネスアイデアが浮かぶ。

日焼けサロンというのはあるが、

月光浴サロンというのはない。

 

この月の光を集めて月光浴サロンを開いたら

儲かるのではないか。

 

かのクレオパトラは月光浴で美を保ったという。

実際、科学的にもデトックス効果があるようだ。

 

本当に美容効果を得ようと思ったら

日焼けと同様、裸になって肌に直に当てるのがいいようである。

これは家ではなかなかできないと思うの江、

ニーズが十分にある。

月光ならUVダメージの心配もない。

 

さらに言えば、パワーストーンとか、

スピリチュアルグッズのお清めなどにも

月の光は効果的らしい。

 

これはけっこうぼったくれそうだ。

どなたか商才ある方、いかがでしょう?

もうかりまっせ。

 

せっかくの美しい神秘的な月夜に

しょーもない話でごめんなさい。

 


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認知症の症状は命の芸術表現

 

今月は成年後見・家族信託の本を書いている。

士業の会社の著作だ。

 

とっかりのテーマは「2025年問題」。

団塊の世代が75歳になり、後期高齢者に突入する。

 

そして、怖い情報として、

65歳以上の高齢者の5人に1人が

認知症という社会が訪れる。

という話を綴っていく。

 

そこから財産をどう管理・運用するのか・・・

というお金がらみの話に変わるわけで、

そこは専門家の皆さんにお任せだが、

一般向けにはどうしても

自分たちの文章だと固くなりがちなので・・・

ということで導入の1章分だけ僕が依頼された。

 

毎日、義母の様子を見たり、

あちこちから話を聞いたり、

本やネット情報を読んだりしていると、

認知症の症状は、人によって千差万別であると同時に、

一つの傾向があるようだ。

 

記憶を失うというのは誰にも共通の、

ベーシックな症状だが。

男女別にそれぞれ特徴的な症状がある。

 

男性には、怒りっぽくなって、周囲に暴言・暴行を働く。

女性はうつっぽくなって、「お金を取られた」とか

「夫が他の女と浮気している」といった被害妄想に陥る。

 

これはやはり年代的なものではないかと思える。

 

一般的に、昭和の女の人生は男次第。

専業主婦となり、夫と子供の面倒を見ながら、

心が抑圧されていた人が多かったのだと思う。

娘たちの世代がっ自由なのを見て、

面白くなかった人も多いだろう。

それがうつや被害妄想となって現れる。

 

じゃあ男はみんないい目を見ていたかというと、

そうではない。

「男の沽券」というものに拘り、

過度なプライドと戦わなくてはいけなかった。

それが認知症になり、人の世話を受けなければ、

まともに生活できない、大人の男として見られない。

そんな自分自身に対する怒りと苛立ち。

それが暴言・暴力となって現れる。

 

もちろん、ものすごく大雑把な分毛方だが、

今の70代以上の人たちは

そういう時代を生きて来たので、

どうしてもこうした傾向が現れるのではないか。

時代精神というものが反映されているのだ。

 

認知症は社会生活を送るために学習し、

獲得してきた能力と記憶をなくしていく病気である。

 

とはいえ、完全に子どもに還ってしまうわけではない。

最後に残るのは、この世で自分を偽ったり、

不自由さを感じながらも生きてこざるを得なかった

その人のコアのようなもの。

 

数十年生きて社会によって歪められて

それでも最後に残ったその人の本質である。

 

だから認知症の症状は、

その人の生き方の最終的な表現と言えるのだろう。

ある意味、一種の命の芸術なのか?

そう考えると、皆が覚悟しなくてはならない

この病気に対する見方が変わるかも知れない。

 


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めでたき9・9 重陽の節句 まさか一生上り坂?

 

今日は9月9日。重陽の節句。

得体の知れないスピリチュアル占いとかやって

○月○日は運気が最高だの、

最低だのって騒いでるあなた、

じつは今日こそが日本人として公明正大に

最もめでたく、ラッキーでハッピーな日と言えるのだよ。

 

日本には5つの節句がある。

これは江戸時代に定められた式日(今でいう祝日)のこと。

 

1月7日 人日の節句(七草粥)

3月3日 上巳の節句(桃の節句/雛祭り)

5月5日 端午の節句

7月7日 七夕の節句

9月9日 重陽の節句

 

1,3,5.7.9と奇数ばっかり。

それもそのはず。

古来、日本では奇数は縁起の良い「陽数」、

偶数は縁起の悪い「陰数」と考えらえてきた。

 

その奇数が連なる日をお祝いしたのが五節句の始まりで、

めでたい反面、悪いことにも転じやすいと考え、

お祝いとともに厄祓いをしていたそうな。

 

中でも一番ビッグな陽数「9」が重なる9月9日は、

陽が重なると書いて「重陽の節句」と定め、

不老長寿や繁栄を願う行事をしてきた。

 

それにしても他のお節句は、

七草がゆだの、ひな祭りだの、こいのぼりだの、

ずいぶん賑やかなのに比べて、

この9月9日のジミ~なこと。

 

そもそも「重陽の節句」なんて知らなくて、

めでたいどころか、

「9と9のダブル。苦しい苦しいで最悪~」

なんて思っている日本人が大半なのではないだろうか。

 

べつに派手なお祝いなどしなくていいので、

部屋に花でも飾るなりして、

心静かに感謝とお祈りをすれば、

いいことあるかもよ。

 

それにしてもおめでたいお節句なら、

めでたい、めでたい、ワハハハ・・・と

何も考えずに笑っていればいいのに、

「悪いことにも転じやすいと考え、

お祝いとともに厄祓い」

という日本人は、どんだけ心配性の民族なんだ~。

 

てっぺんまで上ったけど、

ついつい「この先、おれは下るだけ」

と不安になってしまうんですな、ご苦労様です。

 

そうすると、いつまでたってもうだつの上がらない

ぼくのような人間も

「おれは一生、死ぬまで上り坂」と自慢できてしまって、

案外ハッピーなのも知れない。

 

要は気の持ちようだって、

身もふたもない結論にたどり着いちゃうな~。

 


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まぼろしの家へカエル病

 

「どうもお世話になりました。

わたしは家に帰ります」。

 

夕方、デイサービスから帰ってきて、

さて一服、あともう少しだから

仕事の残りをやるかと思ったてたら、

いきなり義母の「カエル病」が発症した。

 

やれやれゲロゲロと思うが、あまり抵抗せず、

「そうですか。ではお気をつけて。

そこまでお見送りしますケロ」と言って、

いっしょに表に出る。

 

しかし、外に出てもどう帰っていいかわらない。

彼女の帰る家は「まぼろしの家」なので当然だ。

 

ぼくに道を訊くので、じゃあそこまで行きましょうと。

クルマの通らない、いつもの散歩コースである

川沿いの遊歩道まで連れて行く。

 

すると「ここからならだいたいわかります。

もう遅いのでお帰りなさい」と言われてしまった。

 

「はい、それでは」と言って別れたフリをしたら、

いつもの散歩コースをスタスタと歩き出す。

体力は後期高齢者と思えないほど満点だ。

 

僕は探偵のように離れてずっと尾行する。

 

やがて住宅街に入って行き、

迷子になって焦っているのが背中からわかる。

 

クルマも来るので、そのへんで

たまたま会ったフリをして声をかけると、

やっと改心してネコやイヌやカルガモらに

声をかけながら家に帰る。

 

でも義母にとって、こっちは「仮の住まい」でしかない。

子どもの頃の家族(と言っても、とっくにみんな亡くなっている)

がいる「まぼろしの家」こそ、

いつか帰っていく本当の家なのだ。

 

9月になって急に涼しくなり、

日が暮れるのも速くなったせいか、

「カエル病」の発症頻度が高くなった。

認知症には困ったケロ。

 


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