認知症の人の頭のなかには
どんなファンタジーの世界が広がっているのか
興味が尽きない。
何度か、義母が夜中や早朝に起き出して、
食べ物などをガメていく話を書いたが、
きょうは部屋の中から「みかんせんべい」が発見された。
夜中にガメたみかんを布団の下に隠し、
そのまま寝たのでぺっちゃんこ。
当然、布団の下はみかんの汁でぐちゃぐちゃ。
発見者のカミさんはカンカンである。
俗にいう認知症の人の「問題行動」だが、
まぁこれくらいのことなら明日ふとんを干せば
いいだけの話だし、怒っても本人は憶えていない。
それよりもどうしてガメたものを食べずに、
こんなふうに隠したり、しまいこんだりしてしまうのか?
秋口はお腹が減るせいか、たいてい食べていたが、
最近、寒くなってからは備蓄しようとする傾向がある。
冬眠する動物みたいに食糧を蓄えておこうという
本能が働くのも理由の一つだと思うが、
どうもそうした即物的な理由だけではないような気がする。
幻の家族やお友だちと会話していることを考え合わせると、
どうやら義母の4畳半の部屋には異次元ドアがあり、
その向こうには彼女にしかわからないストーリーが流れ、
そのストーリーを生きているのではないか。
そして、そう生きることが彼女の存在の芯にある
アイデンティティ、生きる意味と
つながっているのではないかと思える。
というわけで、汁が抜けてぺったんこに
みかんせんべいを見ているうちに
義母のストーリーを解き明かしてみたいという
妄想にかられた。
その前に、明日晴れたら洗濯と布団干しをやろう。
みかんせんべいは食べてみたが、
パサパサしててさすがにおいしくない。
短編小説
ざしきわらしに勇気の歌を
https://www.amazon.com/dp/B08K9BRPY6
Kindleより発売中。¥300 認知症の寅平じいさんの頭のなかに広がるファンタジーの物語。認知症の人のアイデンティティはどうなるのか、追究したいテーマだ。
気になったら、ぜひ読んでみてください。
京都の百万遍にある知恩寺というお寺で
毎月15日に「てづくり市」という市が立つ。
その名の通り、結構広い境内いっぱい
関西・近畿一円から集まった業者が
露店を開き、衣料・アクセサリー・工芸品・アート・
玩具・生活雑貨など、手作り品を売っている。
関西弁があふれ、とても楽しくてにぎやかだ。
そのなかで布で作った人形を売っている店があり、
かわいいお地蔵さんが目に留まった。
10数個あったが、一つ一つ顔と着物が微妙に異なる。
売り子のおねえさんによると、
95歳のおばちゃんが作っているのだそうだ。
そんな話を聞いて、義母のお土産にと一つ買ってきた。
(旅行中はショートステイに預けていた)
鏡台の前にずらりと並んだお友だちの間に
さりげに置いておいたら、
新入りに気付かないのか、自然に受け入れているのか、
とくにリアクションもなく、この1週間過ごしている。
彼女にとってはお地蔵さんも、タコやネコやワンちゃんと
同列扱いのようだ。
それでもって昼となく夜となく
これらマスコット相手におしゃべりをしている。
それだけでなく最近は幻視なのか、
やたらとどこかの子どもや、もうこの世にいない
親やきょうだい、見知らぬ先生とかお兄さん・お姉さんまで
遊びにくるようで、いろいろ訊かれるのだが、
「こっちにはいないよ」とか
「さあ、どこに行ったんだろう?」とか、
「会えてよかったね。きっとまた来るよ」とか言ってかわすと、
納得したのかしないのかわからないが、一応ひっこむ。
それでまたちょっと経つと部屋で誰かと話している。
知らない人が見たらびっくりするかもしれないが、
すっかり慣れて日常の風景になってしまった。
一時期、「お母さんのところに帰る」と言って、
止めるのも聞かずに家を出ていくことが会って往生した。
数日前に見たNHKのクローズアップ現代で
「認知症行方不明者1万8千人の衝撃」
という特集をやっていたが、
これは本当に大問題である。
家族や子供が家の中にいて話ができるなら
いきなり「かえるかえるケロケロ」と騒ぎ出さずに済んで
こちは助かるというものだ。
考えてみれば、どこか違う世界の子供と会ったり、
もうこの世を去ってしまった家族がいたりするなんて
幸福なくらしである。
そういうふうに考えていかないと、
これからの「高齢者の5人にひとりが認知症」なんて時代を
到底乗り越えていけないのではないか。
お地蔵さん、義母が図と幸福でありますように。
むかし書いたラジオドラマの脚本で
廃園になった遊園地に
宇宙から飛来した円盤が降り立つのを
高校生の女の子と男の子が見に行くという
シーンを書いたことがある。
特撮にしようか、CGにしようか、VFXにしようか
そんなこと考えもせず、予算なんかまったく気にかけず、
リスナーの想像力に丸投げできるのが
ラジオドラマのいいところ。
てなわけで書けてしまったわけだが、
「未知との遭遇」や「E.T.」みたいな
映画に影響されているので、
いつもそういうシーンが頭にある。
てか最近、ほんとに異星人が来てくれないかと考える。
ロシア×ウクライナ
イスラエル×パレスチナ
中国の動きも怪しいし、
北朝鮮は相も変わらずミサイル打ちまくって、
軍事パレードもやりまくっている。
ウクライナ、パレスチナでの
「やったもの勝ち」の現実を見て、
台湾や韓国は、中国や北朝鮮のことが
気が気じゃないだろう。
これら、いがみ合っている国はみな、
もとをただせばみんな近親者同士。
憎み合いって、実は赤の他人より
近しい家族同士のほうがヤバイ。
「人類一家みなきょうだい」という
キャッチフレーズがあったが、
親が亡くなって相続が“争族”になるように
その家族・きょうだいがヤバいんです。
今は過去200年の人類近代化の遺産を
未来へどう継承するか、相続の時代に突入している。
相続は争族になり、
もうほとんど第3次世界大戦が起こっても
おかしくない状態になっているのではないか。
この状況を変えられるのは
地球外生物=宇宙人しかないのではないかと思ってしまう。
いま、マジで世界各地の大都市にUFOが飛来すれば、
どの国もくだらない戦争をやめるのではないか。
宇宙人が「地球を征服しに来た」と宣言すれば、
世界は一致団結するだろう。
それで本当に宇宙人の攻撃が始まったらどうするのか?
そこまで考えてないけど、
今の状況を変えるには宇宙へ向かって
「彼ら」を呼ぶしかないのでは。
もうすでにウクライナで、パレスチナで、
恐ろしいことが起こりまくっているのだから。
地球の家族が仲良くできるチャンスはないのか?
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●成長に希少価値がある時代の「三銃士」
●「忘れられた巨人」は、僕たちの未来を描いた物語なのかもしれない
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●スタンド・バイ・ミー 死の淵を覗きに行く少年たちの冒険譚
●女目フィルターの少年像と少女版スタンドバイミーについて
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おりべまこと電子書籍 新刊予告
「再読・嵐が丘」 10月26日(木)発行予定
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第2集「再読・坊ちゃん」
第3集「再読・村上春樹」も準備中。
どうぞお楽しみに。
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叔母の温子(ながこ)は
ロサンゼルスの下町のアパートで孤独のうちに死んだ。
リトルトーキョーの小さな葬儀屋の一室で
彼女の遺骨を受け取った甥の「わたし」は供養のために、
可愛がってくれた叔母と
昭和の家族についての話を葬儀屋に語る。
子供だった「わたし」と、
戦後の時代を生きた叔母との記憶の断片を
つなぎ合わせた物語。
短編。2万3千字。
おりべまこと電子書籍新刊「叔母Q」 本日発売
叔母の温子(ながこ)は
ロサンゼルスの下町のアパートで孤独のうちに死んだ。
リトルトーキョーの小さな葬儀屋の一室で
彼女の遺骨を受け取った甥の「わたし」は供養のために、
可愛がってくれた叔母と昭和の家族についての話を
葬儀屋に語る。
「わたしも叔母のことが好きでした」
そう口にするとあの口もとのホクロを思い出した。
家族だった彼女は恋人でもあった。
生まれて初めて意識した大人の女だった。
子供だった「わたし」と、
戦後の時代を生きた叔母との記憶の断片を
つなぎ合わせた物語。短編小説。2万3千字。¥500
もくじ
1 パンパン 1960年
2 リトルトーキョー 2023年
3 結婚式 1988年
4 昭和家族 1960年代
5 チューベー 1968年
6 ナンシー 2023年
7 母と叔母 1968年
8 GHQ 1945年
9 ロサンゼルス 2023年
10 姪と叔母 2023年
叔母の温子はロサンゼルスの下町のアパートで孤独死した。
リトルトーキョーの小さな葬儀屋の一室で
彼女の遺骨を受け取った甥の「わたし」は供養のために、
可愛がってくれた叔母と昭和の家族についての話を
葬儀屋に語る。
「わたしも叔母のことが好きでした」
そう口にすると彼女の口もとのホクロを思い出し、
閉じられていた記憶の扉が次々と開いていった。
短編(2万字) 10月12日(木)発売予定。
大河ドラマ「どうする家康」では
ムロツヨシ演じる豊臣秀吉の最期が近づいている。
次回予告を見る限り、
秀吉は側室である茶々(淀の方)に復讐され、
(心理的に)殺されるという展開らしい。
北川景子が市と茶々(淀の方)の母娘二役なので、
予想はしていたが、やはりショッキングだ。
太閤・秀吉の死因は病死だが、
天下人としてはあまりに寂しいものだったことは
長年の謎とされている。
それをここまであからさまに
愛人の憎しみによってとどめを刺される
というストーリーは前代未聞であり、
衝撃を受ける人は多いのではないだろうか。
茶々は家康が思いを寄せた市の娘であり、
乱世のなかで非業の死を遂げた
信長と市というカリスマ兄妹が
転生した存在とも言える。
父(浅井長政)と母(市)を殺し、
自分を凌辱した男に対する凄まじい復讐。
彼女が一種のモンスターとなって
最後に家康の前に立ちはだかるというのは
ドラマとしてすごいダイナミズム。
市と淀を見事に演じ分ける北川景子の演技は
(あざとさも含めて)ヤバすぎる。
秀吉は昭和の成長時代、
庶民にとって英雄以外の何者でもなかった。
戦国武将の中でも人気抜群であり、
百姓の子せがれから天下人に成りあがった
サクセスストーリーは、誰もが見習うべきものであり、
みんなが尊敬すべき人物だった。
それが平成時代を通して、
徐々にそのヒーローの皮がはがされていき、
負の部分も含めて人間くさい側面に
光が当てられるようになっていった。
そして令和の今、このドラマでは
かつての英雄像の「凋落」ともいえる扱い。
その伏線は昨日の放送回における
高畑淳子演じる大政所(秀吉の母・仲)の
臨終のセリフに現われている。
「あの息子は自分が本当は何を欲しかったのか、
自分でわからなくなってしまった」
このドラマは家康が主役なので、
秀吉がなぜあれほど民衆に慕われ、
人を惹きつけたのかといった
ポジティブな面はほとんど描かれない。
逆にその俗物的な部分や、
自分の欲望を満たすためには手段を選ばない
あくどさばかりが強調されていることに
秀吉ファンは怒りさえ覚えるだろう。
僕はべつに秀吉ファンではないが、
地元の名古屋で育ったので、
やはり秀吉は尊敬すべき英雄であり、
いわば正義の基準だった。
ちなみに名古屋駅には太閤口という玄関があり、
太閤通りという道路が走っている。
名古屋の人たちは、まさかわれらが太閤様が
テレビドラマでこんなふうに描かれる時代が来るとは
夢にも思っていなかっただろう。
ドラマは時代の変化・価値観の変化を
如実に表すメタファーである。
こうした秀吉像の変化は、
リアル世界では芸能界の英雄として亡くなった
ジャニー喜多川氏と重なる。
製作者側はもちろん、そんなことは意図していない。
これは僕の個人的な見解だが、
まんざら見当違いでもないと思う。
今年のはじめ頃、ジャニー氏がここまで国内で糾弾され、
彼の犯罪を隠蔽し、王国を守ってきた
ジャニーズ事務所がこんな惨状になろうとは、
少なくとも一般人は誰も予想していなかった。
長らく日本を支え、生き延びてきた昭和システムが
音を立てて崩壊したのだ。
この事実は芸能やマスコミの世界のみならず、
いろいろな所に波及していくだろう。
日本の社会を覆っていた昭和の幻影が拭い去られた———
まだ1年を振り返るのには早すぎるが、
この先、令和5年、2023年は
そういう年として記憶されるかもしれない。
昨日ふたたび池袋へ行く。
10日あまり前とは別の仕事の取材だが、
たまたま同じ池袋。
先月は雨天であまり街の写真が撮れなかったので、
少し早めに行ってスマホでウロウロ撮影作業。
劇場の話に合わせる写真がいるので、
西口にあるわが母校 舞台芸術学院にも足を運んでみた。
卒業したのはもう43年も前のことだ。
当然、校舎は改築されているが、
場所も道路を通し、区画整理した関係で
僕たちの通っていた頃より20mほど移動している。
創立されたのは1948(昭和23)年。
終戦からまだ3年目のことで、
このあたり一帯は焼け野原だったらしい。
ホームページを見て見たら、
こんな創立の物語があった。
https://www.bugei.ac.jp/about/school/
演劇を志したひとりの青年、野尻徹。
彼は幸運にも復員し、池袋で演劇活動の拠点、
「スタジオ・デ・ザール」を開設しました。
しかしその志半ば、彼は27歳でこの世を去ります。
彼の演劇への「思い」はここで潰えたようにみえました。
しかし、彼のあまりにも早い死を悲しんだ父、
与顕は息子の遺志継承を願います。
「地に落ちた一粒の麦、徹死して幾百幾千の
舞台人となって実るであろう事を」
1948年9月13日、与顕は焼け跡の残る
東京・池袋に演劇を渇望した息子、
徹の遺志を継ぐべく、私財を投じ、
若者が演劇に打ち込むための場
「舞台芸術学院」を創立しました。
(※以上、ホームページより抜粋)
初代学長である秋田雨雀、副学長である土方与志は、
日本の近代演劇史・文化史に名を遺す人なので
いちおう知っていたのだが、
真の創設者である野尻さん親子のことは
恥ずかしながらまったく知らなかった。
これは75年前、西口公園に闇市が群れをなし、
池袋全体がダークでカオスな街だった時代の話である。
(池袋のヤバさ加減は、小説・ドラマになった
「池袋ウェストゲートパーク」あたりまで引き継がれてた)
75年の歴史のなかで有名・無名かかわらず、
多くの演劇人、そして、そこに連なるハンパ者たちを
輩出している舞台芸術学院。
60年代の舞芸の学生が、南池袋の仙行寺と関わったことから
小劇場「シアターグリーン」が生まれ、
その活動が波及し、西口公園の
「東京芸術劇場」につながり、
その他、東口の「サンシャイン劇場」「あうるすぽっと」、
野外劇場「グローバルリングシアター」、
最近ではシネマコンプレックス、商業施設と一体化した
文化施設「HAREZA(ハレザ)」の一角を占める
「東京建物ブリリアホール」という劇場もできた。
百貨店・家電量販店・アニメショップなどの
印象が強い池袋だが、
いまや新宿・渋谷をしのぐ劇場が花咲く街である。
その最初の一粒がわが母校だったことに
改めて驚きと感動を覚えた。
在籍時を含めて45年間、創立の話を知らなかったのは、
ハンパ者卒業生の一人として、ほんとに恥ずかしい限り。
長い時間を要しないと、僕のようなボンクラには
世界が見えない、意味が分からない。
しかし、とりあえずこの母校と池袋の劇場の件については
死ぬ前に気付いてよかった。
自分の新しい歴史がまた新しく始まった気がする。
何かを達成するのはクレイジーなエネルギーである。
フリッパ(離婚したシングルマザーの中年女性)は、
たまたま子どもの付きそいで
シェイクスピア作の「リチャードⅢ世」の舞台を見る。
それが彼女の人生を変えた。
リチャードⅢ世の霊が彼女にとりついた。
あの世からやってきたリチャードとの対話から
彼の遺骨が墓にも納められず埋もれ、
名誉を棄損されていることを知る。
そして8割方インスピレーションによって、
その遺骨の眠る場所を探り当てる。
こう書くと、荒唐無稽なオカルト映画、
あるいはインディー・ジョーンズのような
考古学者の冒険譚なのかと思うかもしれないが、
これは事実をもとに作られた映画である。
英国レスターにおいて
リチャードⅢ世の遺骨発掘が行われたのは、
わずか5年前。2,018年のこと。
国営放送BBCは、そのドキュメンタリーを作ったが、
それを劇映画化したもの。
脚色・演出はされているが、
ストーリー自体は事実そのもである。
主人公のフリッパは、
もともと考古学に縁もゆかりもないもない。
「リチャードⅢ世」は、知る人ぞ知る、
シェイクスピア劇の中でも屈指の人気を誇る作品だ。
リチャードがこの世を去って1世紀後、
シェイクスピアがその伝説をもとに造形したのが
せむしで醜く、心も歪み荒んだ極悪の王。
その残虐非道さ故、
英国歴代の正当な王とは認められていなかった。
しかし、リチャードの人柄と行為は、
彼のあとに政権を握った王朝が、
自らの正義を民衆に示すために捏造したものだった。
ちょうど明治政府が徳川幕府の政治を貶めたように。
江戸幕府の開幕時、
徳川家が豊臣家の影を消し去ったように。
フリッパはリチャード(の幻影)との対話と、
あくなき調査によってそのことを確信し、
遺棄された彼の遺骨のありかも突き止め、
孝行学者と大学を動かして発掘調査を行う。
あくまでドキュメンタリー風の作品なので、
ドキドキハラハラみたいなエンタメ感は乏しいが、
面白く、妙に感動的な映画だ。
フリッパの行動の動機は、
世紀の発見をして歴史を覆してやろうといった
崇高な目的や野心のためでもなく、
もちろん一発当ててやろうという金儲けや
損得勘定のためでもない。
本当に霊に取りつかれてしまったか、
リチャードに恋をしてしまったか、
要ははた目から見たらめっちゃクレイジーな熱意なのだ。
それでも元夫や子供たちは彼女を応援し支える。
あくまでドキュメンタリー風の作品なので、
ドキドキハラハラみたいなエンタメ感は乏しいが、
そうした家族愛もあり、面白く、妙に感動的な映画だ。
そしてもう一つ。
彼女が自分の発想で、単独で始めたことを、
世紀の大発見という成果が得られると、
ちゃっかりその手柄を横取りし、
自分たちの栄誉にしてしまおうとする
大学や学者の在り方も、
リチャードを貶めた次期王朝権力と重なって面白い。
歴史は常にその時々の勝者・成功者・権力者が
つくってきたものである。
僕たちが英雄と信じている人が、
とんでもない悪人や詐欺師だったり、
悪漢や愚者だと思っていた人が、
実は英雄だったりすることもある。
インターネットが発達した世の中では
そうした驚くべきどんでん返しも起こり得る。
世界はまだまだ神秘にあふれ、
変化していく可能性を孕んでいる。
歴史が深く、多彩な物語が眠る英国だから作り得た
と思われるこの映画は、
そんなことまで考えさせてくれる。
仕事が一段落し、しばし猛暑から解放されたので、
義母を連れて阿佐ヶ谷をぶらぶらしに行く。
アンティーク雑貨店のショーウィンドウに
全身アメリカンファッションのマネキンを見て、
義母と同い年(昭和10年=1935年生まれ)の
叔母のことを思い出した。
小学校の低学年の頃まで数年間、一緒に住んでいて、
甥である僕をずいぶん可愛がってくれた。
アメリカ大好きな人で、
結構ハイカラな考え方・ライフスタイルを持っている
叔母だった。
彼女がティーンエージャーだった時代、
日本はGHQ=ほぼアメリカの占領下だった。
ただし彼女が若い頃は、まともな日本人の女は、
もちろんこんな格好はできなかった。
GHQが去り、高度経済成長が始まって、
彼女は新しく生まれた自由な戦後世代を
羨望の目を持って見ていたイメージがある。
ガキだった僕を相手に
「わたしももう10年遅く生まれていれば・・・」と
呟いていたことをいまだに憶えている。
小学校の高学年になる頃には、
もう離れて住むようになっていたし、
両親もあまり彼女のことを話さなかったので、
その後の叔母の人生はよく知らない。
僕は漠然と、
いずれ彼女はアメリカに移住するのだろうと思っていたが、
まだ一般庶民がそう簡単に海外に行ける時代ではなかった。
その代り、というわけではないが、
中年になってちょっとお金持ちのおっさんの後妻になった。
その叔母は兄である父より先、15年ほど前に亡くなった。
亡くなった時は独身だった。
結婚はあまりうまくいかなかったのか?
その辺の事情は結局わかかずじまいだ。
わかっているのは彼女にとって、
憧れていたアメリカは最期まで遠い地だった、
ということだけだ。
自分も大人になってわかったが、
まだチビの甥や姪というのは、自分の息子・娘と違って、
割と無責任に甘やかし、可愛がれる、
オモチャやペットのような存在だ。
たぶん僕の中にはあの叔母に甘やかされたことが、
のちの女性観にも影響しているのではないかな、
と思うことがある。
思いがけず面影がよみがえったこの叔母の供養のために、
何か彼女をモデルにした話を書こうと思っている。
夏目漱石の「坊ちゃん」を初めて読んだのは
小4か小5のときだった。
以来、何度か読んで、
最後はいつだったのか思い出せないが、
多分、高校生の時以来だろう。
ご存じ、江戸っ子口調の名調子。
これほど痛快で印象的な一人称の語り口は、
この作品とサリンジャーの
「ライ麦畑でつかまえて」ぐらいだ。
図書館のヤングアダルト文庫の棚で
ふと目にすると、あのべらんめえ文体が脳裏によみがえり、
手に取って読みたくなったのだ。
★なぜマドンナが表紙を飾るのか?
表紙にはマンガっぽいイラストで
主人公の坊ちゃんとマドンナが描かれている。
近年、なぜか「坊ちゃん」というと
表紙にマドンナが登場するパターンが多い。
内容を知らない人、
あるいは昔読んだがよく憶えていないという人は、
赴任先の松山で、名家のお嬢さんであるマドンナと
坊ちゃんが出会い、憧れ、恋をする、
というストーリーを思い描くかと思う。
ところがこれはまったくの誤解で、
主人公はマドンナに何の感情も持たない。
むしろ「うらなりから赤シャツに寝返った女」として
あまり良い感情を抱かないと言ってもいいぐらいだ。
出版社は「明治の青春小説」と銘打っているし、
明治ファッションの女性は飾りになるので、
ほとんど活躍の場がないマドンナを
表紙に載せたがるのだろう。
誤解するのは読者の勝手というわけだ。
昭和以降、特に戦後の青春小説・青春マンガには
この「マドンナ」という、男の女性幻想をかたちにした
偶像が頻繁に登場するようになった。
果ては歌謡曲のタイトルになったり、
アメリカの歌手が自分でそう名乗ったりしたので、
一般的にすっかり定着したが、
明治の頃は西洋画に精通した人以外、
マドンナなんて初めて聴く言葉で、
意味など知らないという人が大半だったと思われる。
だから日本人にマドンナの
「聖母・聖女=清く、美しく、愛し尊敬すべき女性」という
イメージを植え付けたのは、
漱石作品の中でも最も人気が高い
この小説だと言っても過言ではないだろう。
★マドンナは清さん
しかし、この定義からすれば、
坊ちゃんから見るマドンナは、
子供の頃から可愛がってくれ、
惜しみない愛情で支えてくれた清さんの方である。
そう言えば、僕が小学生の時に初めて読んだ本の表紙には、
坊ちゃんが見上げる空の向こうには、
ちょっとだけ微笑む和服姿の清さんが描かれていた。
しかし、清さんは若くてきれいなお嬢様ではなく、
坊ちゃんの家の下女、住み込みのお手伝いさんで、
しかもけっこう年寄りである。
この小説の登場人物は、主人公をはじめ、
一人も年齢が特定されていないが、
物語の舞台が発表時の
明治39年(1906年)あたりだとすると、
ほとんどは明治生まれ・明治育ちの人たちである。
ただ一人、清さんは明治維新を体験した人だ。
武士の名家の出身らしいが、
「瓦解(明治維新)の時に零落して、
ついに奉公までするようになった」というから、
おそらく50代後半~60代前半である。
いまと違ってもう立派なお婆さんだ。
しかも人生の辛酸をなめた元・お嬢さまの。
子ども頃から可愛がってもらっているのだから、
母や祖母のように慕うのはわかるが、
坊ちゃんの清さんへの感情は、
そうした家族に対するものとはまたちょっと違う。
さりとて恋愛でもない。
もっと齢が近ければ、そうなり得たかもしれないが、
あまり生々しさを伴わない、尊敬の念を交えた、
女性という偶像に対する愛情が混じっている。
子供の頃は母以上に彼を可愛がった清さんは
坊ちゃんの将来に夢を託し、
おとなになったら面倒を見てもらおうと思っている。
そういう意味では彼女の愛もけっして純粋なものではなく、
ギブアンドテイクの関係と言えなくもない。
ただし、成長した坊ちゃんは、
自分に期待を託す彼女の言うことは、かなりおかしく、
贔屓の引き倒しで、現実離れしていることに気付く。
「こんな婆さんに逢ってはかなわない。
自分の好きな者は必ずえらい人物になって、
嫌いな人はきっと落ちぶれるものと信じていた」
「婆さんは何も知らないから、年さえとれば
兄の家がもらえると信じている」
「(学校を)卒業すれば金が自然とポケットの中に
湧いてくると思っている」
などと冷静に分析し、
“もとは身分のある者でも、
教育のない婆さんだから仕方がない”清さんの
無知ぶり・夢みる少女ぶりにあきれ果てている。
それでも坊ちゃんは清さんを嗤ったりは絶対しない。
彼にとって、知識量・情報量は、
人間的な価値とは決して比例しないのだ。
子供の頃、読んだときは気が付かなったが、
この二人のやりとりは本当に面白く、笑えて哀しく、
清さんはめっちゃ可愛い。
松山で教職に就き、不快な目に会うたびに坊ちゃんは、
そんな清さんの人間的な気品・尊さに思いを巡らせるが、
痛快なストーリーの裏側で、
こうした女性への愛とリスペクトの念があるからこそ、
この小説を単なる面白ばなしでなく、
奥行きと味わいの深いものにしている。
★時代に取り残される坊ちゃん
「坊ちゃん」の読み方の一つとして、
「時代に適応できる者とできない者の物語」
という視点がある。
前者は、話の中で悪人とされる赤シャツや野だいこであり、
後者はとっちめる側の正義の坊ちゃんや山嵐だ。
マドンナも、坊ちゃんからは
うらなりから赤シャツに寝返った、
およそマドンナらしくない女と見做されるが、
彼女は若かりし頃の清さんと同じ立場にある。
この時代の女性の社会低地位は低く、
生き方は今と比較にならないほど制限されていた。
没落寸前の名家の娘として、
いくら身分があるとはいえ、
世渡り下手・自己主張ベタ・まじめなだけで面白くない
許嫁のうらなりよりも、
既に教頭職を得て、将来有望、しかも話術に長けていて
楽しませてくれそうな赤シャツのほうになびくのも
しかたがないところだろう。
下手をすれば清さんと同じく、
零落の道に転がり落ちることになるので必死なのだ。
マドンナとあだ名をつけられて、
男性の夢を壊さないよう、ホホホとおとなしく
笑っているわけにはいかない。
マドンナファンには申し訳ないが、
もしかしたら、彼女の方が赤シャツに目を付け、
誘ったのではにかとさえ思える。
楽しくて痛快な「坊ちゃん」だが、
この明治後期、時代は変わり、
価値観も急速に変わっていた。
よく読むと、それを表現するかのように、
この物語は別れの連続だ。
母が死に、父が死に、生れ育った家は人手にわたり、
兄とも別れ、いわば天涯孤独の身の上になる。
松山ではうらなり(坊ちゃんは彼を人間的に
上等と評価している)を見送り、
赤シャツ・野だいこを叩きのめして訣別するが、
相棒で親友になった山嵐とは新橋で別れる。
ちなみに幕府軍として
明治政府と最後まで戦った会津出身の山嵐は、
江戸時代のサムライ精神の象徴とも取れる。
そして帰って来た彼を涙ながらに出迎えてくれた
マドンナ清さんも、
それからいくらも経たないうちに肺炎で死んでしまう、
坊ちゃんは本当にひとりぼっちになってしまうのだ。
★坊ちゃんは何歳なのか?
今回、読み返してみて、最大の疑問として残ったのは、
この物語を語っている時の坊ちゃんは、
いったい幾つなのだろうということ。
東京に帰って来た彼は街鉄(電車)の技手になり、
清さんと一緒に暮らし始めたもののが、
最後に清さんは「今年の2月に死んでしまった」とある。
ニュアンス的に、仕事に慣れ、生活も落ち着いてきた矢先に
亡くなってしまったと読めるから、
新しい仕事に就いてから1,2年後くらいだろうか。
そしてそれから半年ほど経ってから、
自分の人生を振り返った時、
松山での経験と、清さんという存在の大きさを
語ってみたくなったということだろう。
だとしても、坊ちゃんはまだ20代の溌剌とした若者だ。
その後、彼がどうしたのか、
兄や山嵐と再会する機会はあったのか、
結婚して家庭を持ったのか、興味津々である。
でもきっと、どれだけ年をとっても
この物語のような名調子は消えなかっただろう。
坊ちゃんという人物は、時代に適応できない者の代表格で、
自分の価値観に固執するあまり、教職を失ったが、
それでも新しい職を得て、一人でも生きる道を見出した。
★死ぬまで続く名調子
この頃と同じく、
最近も時代に合わせる
必要性・適応する柔軟性が強調されるが、
人間だれしも、
生まれながらの「自分のリズム」を持っている。
それをないがしろにして、周囲に合わせようとすると、
やっぱりろくなことにならないのではないか。
たとえ得になる生き方だとしても、
損をしない人生だとしても、
それが自分のリズム・語り口・文体と相いれないものなら
気持ち悪くて、長続きなどしない。
世間に通用してもしなくても、
坊ちゃんのように自分のべらんめえを並べ立てて
生き抜いた方がうんと気持ちいいのではないだろうか。
気分が凹んだときの活力剤として、
「坊ちゃん」は、はるか1世紀を超えた過去から
今でも僕たちにいろんなことを教えてくれていると思う。
1979年、オンシアター自由劇場が上演した音楽劇
「上海バンスキング」のテーマ曲。
昭和10年代(1930年代後半から40年代前半)の
上海租界を舞台に、
享楽的に生きるジャズマンをめぐる物語で、
劇中演奏されるのはジャズのオールドナンバーだが、
オープニングとクロージングを飾るこの曲はオリジナル。
主人公のまどか役で歌手の吉田日出子は
小劇場界では名の知れた魅力的な女優だったが、
この芝居まで歌手としての経験はほとんどなかった。
また、ジャズマンたちも串田和美(シロー)や
笹野高史(バクマツ)をはじめ、楽器は素人同然。
にもかかわらず、演奏はノリにノってて素晴らしかった。
それはもちろん、この物語がとてつもなく面白く、
感動的だったからである。
僕は「上海バンスキング」の初演を見た。
当時、オンシアター自由劇場の拠点劇場は、
外苑東通りと六本木通り(首都高3号)とが交わる
六本木交差点からすぐ近くの雑居ビルの地下にあった。
キャパ100人の小さな劇場(というよりも芝居小屋)には
観客が溢れかえり、
広さ8畳程度の狭い舞台には、
主演級の他、楽器を携えた楽団員役を含め
20人を超えるキャストが出入りして熱演した。
あんな狭いところでいったいどうやっていたのか、
思い出すと不思議で仕方がない。
舞台となるのは、まどかとシロー夫妻の家の広間だが、
舞台セットなどは椅子とテーブルがあるだけ。
そこが突如ジャズクラブに変貌したりするシーン構成、
いろいろな登場人物が錯綜するストーリー展開、
そして時代が日中戦争、さらに太平洋戦争へ続いていく
ドラマの流れは、リアリズムをベースに、
時にファンタジーが入り混じり、
さらに歴史の残酷さを描き出す叙事詩にもなるという、
舞台劇の醍醐味に満ちていた。
ジャズと笑い・ユーモアに彩られながらも、
「上海バンスキング」はけっしてハッピーな物語ではない。
後半は戦争の暗雲が登場人物たちの人生を狂わせていき、
終盤、自由を、仲間を、そして音楽を失ったシローは、
アヘンに溺れ、やがて廃人になってしまう。
変わり果てた夫を抱きしめて、まどかは最後に
「この街には人を不幸にする夢が多過ぎた」と呟く。
ひどく苦い結末を迎える悲劇なのだが、
追憶の中、二人の心によみがえる「ウェルカム上海」は、
思わず踊りだしたくなるほど陽気で軽やか。
その楽しいスウィングは、
同時に哀しく美しい抒情に包まれる。
劇作家・斎藤憐はこの作品で
演劇界の芥川賞とされる岸田國士戯曲賞を受賞。
オンシアター自由劇場は
1979年の紀伊国屋演劇賞団体賞を受賞。
再演するごとに人気は高まり、
キャパ100人の劇場は連日満員で客が入りきらなくなり、
やがて大きな劇場で何度も再演されることになる。
それまで演劇など見たことのなかった人たちでさえも
虜にし、1984年には、深作欣二監督、
松坂慶子・風間杜夫の主演で映画化。
20世紀の終わりまで上演され続ける
日本の演劇史に残る名作になった。
オールドファンとしては、
吉田日出子をはじめとするオリジナルキャストの
歌・演奏・演技はあまりにも印象的で忘れ難いが、
新しい若いキャストで今の時代に再演しても
ヒットするだろうと思う。
不幸のリスクを背負っても夢を求めるのか、
夢など見ずに幸福(というより不幸ではない状態)を
求めるのか、
いつの時代も、いくつになっても、
人生の悩みと迷いは変わらないのだ。
もう一度、舞台で「ウェルカム上海」を聴いてみたい。
夏休み無料キャンペーン第5弾
「ポップミュージックをこよなく愛した僕らの時代の妄想力」
8月20日(日)16時59分まで
ポップミュージックが世界を覆った時代、ホームビデオもインターネットもなくたって、僕らはひたすら妄想力を駆使して音楽と向き合っていた。
心の財産となったあの時代の夢と歌を考察する音楽エッセイ集。
事件の真相は、初恋の中に沈んでいる――。
宣伝コピーがカッコいい「ザリガニの鳴くところ」は、
全世界で累計1500万部を売り上げた
ディーリア・オーエンズの同名小説の映画化。
1969年、ノースカロライナ州の湿地帯で、
将来有望な金持ちの青年が変死体で見つかる。
殺人事件の容疑者として逮捕されたのは、
「湿地の少女」と呼ばれる孤児の女の子。
彼女を裁く陪審員裁判で事件の真相が明かされていく。
しかし、本当の真実が明かされるのは
それから半世紀のちの現代(映画のエピローグ)。
人生の結論はすぐには現れず、
目に見えないところに深く沈み、
思いがけない時に浮かび上がってくる。
原作小説は一昨年、読んでいた。
作者のオーエンズは動物学者で、
その知見をふんだんに活かし、
湿地の生態系について詳しく描写しており、
それと人間ドラマとがブレンドされて、
詩的でスケールの大きな物語になっている。
湿地という土地自体がミステリアスで、
様々な暗喩に満ちており、
人間の心のなかの世界を表現しているかのようだ。
ただ、ミステリー映画という頭で見ると、
正直、論理的に甘い部分が気になるかもしれない。
冒頭の宣伝コピーも
実際の内容とはちょっとズレてる感じが否めない。
映画化に際してストーリーは単純化され、
殺人事件の真相解明に焦点が絞られているが、
アメリカ社会に深く根を張った
児童虐待・家庭崩壊の問題も
もっと突っ込んで描いてよかった気がする。
アマプラで見た(今でも見られる)が、
陸と海との境界となっている雄大な湿地帯の風景と、
そこで暮らす人々のライフスタイルは、
映画館のスクリーンサイズで見たかった、という印象。
その映像をバックにしたプロローグとエピローグの
ナレーションもしびれるほど詩的でイマジネーティブ。
「ザリガニの鳴くところ」というタイトルの意味も分かる。
そして、ラブシーンがいい。
ドラマの文脈、映像の美しさ。
若い俳優さんがあまり美男美女過ぎないのもいい。
こんなきれいなラブシーンは久しぶりに見た気がして、
年甲斐もなく、ムズムズソワソワしてしまった。
夏休み無料キャンペーン 第4弾
ちち、ちぢむ
8月18日(金)15時59分まで
ろくでなしだけど大好きなお父さんが
「ちっちゃいおじさん」に!
人新世(アンドロポセン)の時代を生きるアベコベ親子の奇々怪々でユーモラスな冒険と再起の物語
井上ひさしの「手鎖心中」は
歌舞伎にもなった直木賞受賞作。
この作品も面白いのだが、
併載されている「江戸の夕立」が
表題作に輪をかけてめっちゃ面白い。
長めの中編というか、短めの長編というか、
そこそこボリュームもあるので、
読みごたえもたっぷり。
主人公は大商店の放蕩息子の若旦那と
そのご祝儀目当てでベタベタお世辞を連発しながら
くっついて歩く太鼓持ち。
平和な江戸の街で、ぬくぬくした環境で生まれて育って、
軽薄短小な人生を謳歌する二人組の軽妙なやりとりで、
ハリウッド映画ばりの波乱万丈の物語が綴られていく。
はでに買い物したり、花魁遊びが出来たのも序盤まで。
その後は江戸を離れ、東北地方を放浪するはめに。
しかもそれは暴力、漂流、バクチ、友情、裏切り、
奴隷労働、疫病、借金、旅芸、女狂い、家庭崩壊など、
現代の、僕らの人生でも起こり得る、
あらゆる災厄のてんこ盛り。
笑いとユーモアの味付けで救われているが、
まさに地獄めぐりの旅である。
そんなひどい目に遭いながらも
人間的に成長するわけでなく、
放蕩していた頃のろくでなしのまま、
9年をかけてやっと江戸の街に帰ってきた二人。
ところがその故郷はなんと・・・という展開で、
けっしてハッピーエンドとはいえない、
かなり苦み走ったラストを迎える。
ただ、このラストが僕は好きである。
すべてを失った代わりに、
彼らは生きるための何かを得た、
その思わせてくれる、心に響く結末だ。
井上ひさしはお芝居もたくさん書いていて、
ユーモア・人情を描く作家だと思われている。
しかしその実、彼が人生・人間社会を見る目は
かなりシニカルで、だからこそユーモア・人情が映え、
胸に深く沁み込んでくる。
地獄の奴隷労働の仲間が死の間際、
「女の裸が見てえ」という願いをかなえるために
キリシタンの娘が一肌脱ぐシーンなどは
涙が止まらんかった。
いくら齢を取ったって人間、
大して成長するわけではない。
バカはバカのまま、ろくでなしはろくでなしのまま。
だから笑えて泣ける。だからいいのだ。
最近やたらと多い感動の美談、
人間ってすばらしい!と讃えるストーリーに
食傷気味の方におすすめです。
アマプラで「シン・仮面ライダー」を見た。
すごいなと思ったのは、敵であるショッカーの設定。
悪の組織であるはずのショッカーは、
なんとこの作品では「人間の幸福を追求する組織」である。
フルネームだと「Sustainable Happiness Organization with Computational Knowledge Embedded Remodeling」。
「計画的知識を埋め込んで改造した持続可能な幸福の組織」
とでも訳せばいいのか。
それぞれの頭文字をつなげて「SHOCKER」。
もちろん、これは庵野監督の創作である。
怪人(改造人間)のモチーフが昆虫であるところを
考え合わせると、地球環境との調和も追求しているようだ。
当然、この幸福の追求は、
一般社会で生活する人間にとっては
歪んだおぞましいものだが、
主人公の仮面ライダー・本郷猛も、
ラスボスであるショッカーの首領も、
不条理な無差別殺人事件によって父や母を奪われた遺族である。
彼らの立場になって考えていくと、
つまり見方を変えると、ショッカーが目指すものこそ
正義と捉えてみてもおかしくない。
もちろん、本当のご遺族の方が
こうした考えを持つようになるということではないが、
原典の「仮面ライダー」が持つテーマ性を深堀りして、
現代に新たな世界観を築き上げた
庵野秀明監督の想像力・創造力はやはり尊敬に値する。
ゴジラやウルトラマンと違って、
仮面ライダーは等身大のヒーローであり、
この話は、僕たちの人生とごく身近な、
家族・友人・その周りの社会をめぐる物語とも言える。
1号・本郷猛と2号・一文字隼人との
人間関係・信頼関係の成り立ちも良い。
登場人物の中ではヒロインのルリ子がとてもよかった。
演じているのは、今やっている朝ドラのヒロイン役
(牧野博士の妻)の浜辺美波。
狂言回しのような役柄で、
彼女のセリフと行動によって
この話の世界観・構造が語られていくのだが、
彼女と彼女に対する本郷の愛あっての
「シン・仮面ライダー」という感じがする。
僕はテレビの「仮面ライダー」が始まった頃、
すでに小学校の高学年だったので、
やや冷めた目で見ていて、
初期シリーズ(1号・本郷猛のシリーズ)を
半分ほど見ただけだ。
ウルトラシリーズと違ってほとんど思い入れがないので、
今回も期待せず、事前情報もほとんど仕入れていなかった。
結局、劇場に行かず、アマプラで見てしまったのだが、
すばらしかった。
「幸福のために人間を改造する」というテーマのもとで
これだけの物語を作り得るのはすごいことだ。
「仮面ライダー」なんて知らない・興味ないという人も
ぜひ観て見るといいのでは、と思う。
頭にお皿、背中に甲羅、口はくちばし状、手足に水かき、
からだは人間の子ども(幼児~小学校低学年)
くらいの大きさで、
皮膚がヌメヌメしていて体色は緑系。
いたずら好きで、キュウリが大好物。
過去100年くらいで、
日本人の間にそんなカッパのイメージが定着した。
地域によってまちまちだった呼び名も、
かの芥川龍之介が、死の間際、
そのものズバリ「河童」という小説を書いてから
統一された感じがする。
そのカッパは実在するのか否か?
その他、柳田国男の「遠野物語」をとっかかりに
東北の民話の世界を探検し、
登場する怪異・妖怪の類の秘密を解き明かそう
というのがこの本「荒俣宏妖怪探偵団 ニッポン見聞録」
の趣旨である。
おなじみ、この手の妖怪学・博物学の大家・
荒俣宏先生を中心に、
小説家・理学博士がチームを組んで、
東北各地の大学教授・学者、博物館などの研究員、
郷土研究家、お寺の住職などを訪ねて回る。
面白いのは、たとえばカッパに話を絞れば、
みんな、カッパの実在を肯定していること。
ただ、そのカッパとされる妖怪は、
“現代人の視点で見ると”、
どれも別の様々な生き物であるという点だ。
あるところではそれはウミガメだったり、
あるところではイモリ、あるところではカワウソ、
あるところではネコだったりする。
それら爬虫類・両棲類・鳥類・哺乳類にまでまたがる
多種多様な生き物が、
「カッパ」という妖怪・生き物に
ひとくくりにカテゴライズされていたのだ。
どういうことかというと、
人間は自分(あるいは自分を取り巻く社会)が持っている
知識・情報の埒外にあるものと遭遇したとき、
「わけのわからないもの」としておくことができず、
それを分類するために
特定のファイルみたいなものを必要とする。
その一つに「カッパ(地域によって呼び名は異なる)」と
題されたファイルがあり、
「これは何だ?わからん」と思ったものをみんな、
とりあえずそのカッパファイルの中に突っ込んでいたのだ。
だからそれぞれの動物の特徴・生態・イメージが、
そのファイルのなかで混ざり合い、繋がり合い、
時には化学変化を起こして、
カッパという妖怪の形になって
多くの人々の頭のなかに生息するようになり、
民間伝承として伝えられるようになった。
そしてまたその伝承・民話をもとにして
時代ごとに絵師などがカッパの姿を絵として描き上げた、
ということらしい。
僕たち現代社会で生きる人間は、
科学的に解明された知識・情報を
すでに頭のなかに仕入れてあるので、
これは犬とか、カエルとか、ウサギであると知っている。
だから、なんでカメやイモリやカワウソやネコを
カッパだなんて思ったんだろう、と不思議がるが、
それは逆で、カッパというファイルの中から
Aタイプが実はカメで、Bタイプがカワウソで、
Cタイプがネコだった・・と、
後で(だいたい明治以降~昭和初期の間に)
分類・整理されたのである。
言い換えれば、江戸時代以前の日本人にとって、
奇妙な野生動物は皆、UMA(未確認動物)であり、
ほんの150年ほど前まで日本の海も山も里もUMAで
溢れかえっていたのである。
この本ではカッパ以外にも
いろいろな妖怪・民俗学的伝承が紹介されているが、
そうした昔と今の人間の心の地図の違いについて
気付かせてくれることに重要な価値があると思う。
荒俣宏妖怪探偵団 ニッポン見聞録 東北編
著者:荒俣宏/荻野慎諧・峰守ひろかず
発行:学研プラス 2017年
「洗たく女の空とぶサンダル」では
主人公のアカネに教わったことがある。
それはいつでも、どんな時でも空を見ること。
僕たちは空を飛べないけど、見続けることはできる。
この星で暮らす限り、みんな、この空の下で生きている。
空には未来があり、ビジョンがある。
そしてまた空は僕たちの心の中を映し出している。
うまく行かないときは空を見るといい。
雲がどう動いていくのか見るといい。
朝と昼間と夕方は違った顔をしているし、
星が広がる夜空はまた別の世界だ。
潜在意識がどうとか、瞑想術がこうとか、
そんものを学ばなくても、ただ空を見上げるだけで、
これまで見えていなかったものが見えてくる。
できたら毎日。
今日もひどく暑そうだが、
ちょっとの間なら外に出てもいいだろう。
あれば木陰に入って晴れた空を眺める。
空は世界であり、自分自身でもある。
洗たく女の空とぶサンダル
無料キャンペーンは昨日終了しました。
ご購入いただいた方、ありがとうございました。もしよければレビューをよろしくお願いします。
引き続きAmazonKindleで販売しています。他の本も読み放題サブスクもあります。今後も洗たく女を応援してください。
先日、若い女の子がゴミ回収の仕事を
やっているところに出くわし、びっくりした。
女子がそうした仕事に就くことに何の異論もないが、
彼女はびしっとメイクしていて、
帽子からはみ出た髪はきれいにサラサラしていて、
ほとんどアイドルみたい。
朝、この仕事でバイトして、作業着から普段着に着替えて
芸能事務所なりロケ現場に行くのだろうか・・・
と勝手に想像した。
本当のところはもちろん知らないが、
その労働する姿とルックスとのギャップに
いたく心癒された。
ご本人はそんなつもりはカケラもないと思うが。
3K的な肉体労働の現場でも、
昔と違って女性がバリバリ働いている。
経済が成長していく時代は、
女はどんな職業・職場でも、
女は日々働く男たちを慰労する役割が中心で、
実際の労働の価値はその副産物でしかなかった。
時は流れ、経済が落ち込み、
男だけじゃダメだということで社会進出が当たり前になり、
今では経済・産業の世界において
女性が主役を務めることも少なくない。
しかし誤解を恐れず言えば、
それでも職場で女は男を癒し、
多かれ少なかれ夢を施している。
これは人間社会が女と男で成り立っている以上、
仕方ないことだと思うし、
それで職場のテンションが上がればいいことだと思う。
ただ、その現実と夢のバランスが崩れると、
世の中ではいろいろ事件が起きる。
「洗たく女と空とぶサンダル」は当初、
足の大きい女性を主人公にして話にしようと
思っていたのが、
いつの間にか、この資本主義社会において
そうした労働に勤しむ女についての幻想が入り込み、
奇妙なファンタジー物に化けた。
はたらく女性と
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けれども、そんなコンプレックスのタネだった
大足のおかげで彼女は救われる。
DV夫の顔面にガリバーキックをかましてKO。
離婚して自由になると、足で洗たくをする、
富裕層御用達の洗たく屋に就職し、
ずんずん人生を切り開く。
洗たく女として日々働くようになったアカネは、
ある日、街中で足の向くまま歩いていくと
名誉に迷い込み、靴アートの芸術家に遭遇。
その芸術家が、自分の作品に興味を抱いてくれたお礼に、と贈ってくれた一足のサンダルは、魔法の空飛ぶサンダルで、そこから人々の命の“洗たく”をする
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「洗たく女の空とぶサンダル」
~魔法のサンダルを履いた はたらく女のものがたり~
1日延びて明後日7月1日(土)発売予定になりました。
当初、1万5千~2万字程度の短編にするつもりだったけど、
やっているうちに3万字超えの中編に育ってしまった。
小説はまとまった時間が必要で大変だけど、
書いているうちに生き物のように踊り出して楽しい。
主人公のアカネちゃん、どうもありがとう。
読み終わってまず思ったのが、
40年前の
「世界の終わりとハードボールドワンダーランド」は、
本当に本当に、すごい作品だったな、
また読み直さねば、ということ。
いちばん好きな作品なので、完全に主観、
贔屓の引き倒しだけど。
著者本人があとがきで割とそっけなく
あの作品を書いた時のことを回想しているが、
本当に2本立てなんて手法をよくぞ思いついたものだ。
「ハードボールドワンダーランド」は、
レイモンド・チャンドラーもどきの
スリリングでミステリアスな探偵もので、
あの時代に脳科学を探究した、
めっちゃSFでプログレなエンタメ小説だった。
それが「世界の終わり(=今回の作品のセカンドバージョン)」と共鳴し合うことで、プログレ感二乗。
インスピレーションの大渦巻きが起こった。
結局、村上春樹の小説って
「風の歌」「ピンボール」を序章として、
「羊をめぐる冒険」
「世界の終わりとハードボールドワンダーランド」
「ノルウェイの森」という、
彼の表現スタイルを確立した初期3作で
オールドファンの心は支配されている。
10代・20代であの3作に出逢ってしまった人たちは、
もうそこから離れられないのだ。
本人も言っているように、クオリティ・完成度は
後年の作品の方が高いし、
文章の濃密度は相当増していると思う。
けど、それが作品の魅力と比例するかというと、
どうもそうではない。
何というか、村上さんはさっぱり成長しない
僕のような読者を置き去りにし、
どんどんキャリアを積み上げ、進化したんだろうなと思う。
僕は40年前からカタツムリ程度にしか進んでいないのだ。
そんなわけでこの作品の第1部における
少年と少女のシーンには、
懐かしさとみずみずしさがないまぜになって
思わず涙が出た。
少女はどこか「ノルウェイの森」の直子を想起させた。
けれども「ノルウェイ」のような恋愛ものや、
「羊」や「ハードボイルド」のようなエンタメ感を
この作品に求めるのは間違っている。
そして第1部を読み終えた時に、
前々から思っていた疑問が氷解した。
なぜこんなに村上春樹の小説が売れるのか?
自分も含めてなぜみんな、恋愛でもエンタメでもない、
こんなわけのわからない話を毎度読みたがるのか?
それも日本だけでなく、全世界的傾向だ。
その疑問が第1部を読み終えた時に、
するっとわかった。
村上春樹が書く物語の中には、魂の拠り所があるのだ。
自然から離反し、伝統的な民俗からも離反した、
この200年あまりで形成された、欧米由来の現代文明。
そのなかで人生を送る人間は、
現実的な社会生活を送る心身と、
より深いところで息づく魂とが明らかに分離している。
魂は行き場を失っていつもどこかをウロウロしているのだ。
しかし、村上春樹の物語の中には、
その行き場、魂が落ち着く環境が整っている。
著者自身はそんなこと意識していないと思うが、
僕たちの世代の大勢の読者が、そのことを発見したのだ。
なので、村上小説を読むことは
どこか宗教の信仰に近いものがあるのかもしれない。
それから40年あまり。
日々、とほうもない量のコンテンツが
出されるようになったが、
現代人の魂の拠り所になり得るものは依然として少ない。
需要と供給のバランスは大きく崩れたままだ。
数年に一度刊行される村上春樹の長編は、
その需要に応えられる、
数少ないブランドものコンテンツなのだ。
という視点で読み進めていくと、
第2部は、まさしく魂の拠り所を失った
現代人の放浪の物語になっている。
魂の拠り所を求めて中年になった人と老年になった人、
そしてその下の若い世代の人のことが描かれ、
第3部では中年は再び魂の故郷へ帰っていく。
ただしそこは「故郷」という言葉からイメージされるような
やさしい場所でも、暖かい場所でもない。
「不確かな壁がある街」は、
安全で便利な環境のなかで生活する
現代人の心の中にある街なのだ。
村上春樹はこの20年余りのインタビューやエッセイで、
「世界の終わりとハードボールドワンダーランド」を
書き直したいと、つねづね言っていた。
「街とその不確かな壁」のファーストバージョンは、
それ以前に雑誌に発表したものなので、
今回の執筆は彼にとって、
まさに「3度目の正直」と言えるのだろう。
正直、面白かったとか、感動したとかという感想はない。
ただ、近年の作品にはない、独特の色合いを持った
「純・村上春樹作品」といった印象を受けた。
「海辺のカフカ」も「1Q84」も「騎士団長殺し」も
最初読んだときは違和感だらけだったが、
時間が経ち、何度か読み返すうちに面白くなった。
この作品を通して、村上春樹は、なぜ自分は物語を
紡いできたのかを探究・確認したかったのだと思う。
次に行くために踏まなくてはならないステップ、
超えなくてはならない
「40年間の壁」だったのだろうと思う。
それを果たした今、これから先は
集大成に匹敵する作品に取り組むのだろうか。
というわけでこの本がいいのかどうかの結論は先送り。
正直、面白かったとか、感動したとかという感想はない。
不満を言えば、読んでいて笑える、
ユーモラスな部分がないのが、ちとさびしい。
それから周囲から女の描き方について言われたせいか、
珍しく濡れ場がない。
それとは逆に、近年の作品にはない、独特の色合いを持った
「純・村上春樹作品」といった印象がある。
「海辺のカフカ」も「1Q84」も「騎士団長殺し」も
最初読んだときは違和感だらけだったが、
時間が経ち、何度か読み返すうちに面白くなった。
「街とその不確かな壁」も読み手の変化に応じて
これから先、全然違う作品になり得るだろう。
そして、いつものことだが、村上小説は
「まだおまえの人生には秘められた可能性があるよ」
と感じさせてくれる不思議な力がある。
それこそが単なるエンタメを超えた文学の力だと思う。
今年、ロック殿堂入りを果たしたケイト・ブッシュ。
彼女のようなタイプの音楽は、
あまりこうした権威にウケが悪いし、
ファンも殿堂入りがどうこうなんて気にしていない。
しかし昨年(2022年)、
1985年に発表した「神秘の丘」が、
ドラマ「ストレンジャーシングス」の挿入歌に使われ、
世界中で前代未聞のリバイバル大ヒット。
ロック殿堂側もこれ以上、
彼女を無視していられなくなったというのが
正直なところなのだろう。
「クラウドバスティング」は「神秘の丘」と同じく
5枚目のアルバム「愛のかたち(Hounds of Love)」の
挿入歌。
楽曲としては言うまでもなく、
80年代のミュージックビデオとして、
さらにその後、40年弱のポップミュージック史を見ても、
最高レベルの作品である。
「クラウドバスティング」 は本屋で見かけた
ピーター・ライヒという人が書いた本
「ブック・オブ・ドリームス」に
インスパイアされて作りました。
とても変わった美しい本で、
子供のころの父親を見る視線で、
親子の特別な関係について書かれていました。
お父さんは本当にかけがえのない人だったのです。
ケイト・ブッシュがそう語るピーター・ライヒとは、
オーストリア出身で、
精神分析学の権威フロイトの弟子だった
ヴィルヘルム・ライヒの息子である。
この楽曲が描くのは、父ヴィルヘルムと息子ピーターが、
オカルティックな生命エネルギーを駆使して
「クラウドバスター」というマシンを動かす物語。
ミュージックビデオは、
レトロっぽいSF短編映画のようなつくりになっている。
ヴィルヘルムを演じるのは、ハリウッドの名優
ドナルド・サザーランド。
そして息子ピーターはケイト・ブッシュ自身。
この頃、彼女は他の楽曲では成熟した女性の魅力を放ち、
かなり色っぽかったのだが、ここでは髪を切って
一転、男の子に。
父の意志を成し遂げようとする少年に扮し、
美しい丘を駆け上がっていくシーンには
完全にしびれてしまった。
「嵐が丘」「神秘の丘」――
彼女の音楽の世界で、丘は魔法の舞台である。
ヴィルヘルム・ライヒは精神分析家・精神科医というより、
人間の心のありかの研究者・思想家として
20世紀前半に活躍した人。
社会運動にも関わり、
『ファシズムの大衆心理』(1933年)などの著作で
後世にも影響を与えている。
第2次世界大戦が勃発する前にアメリカに移住したが、
その頃からかなりオカルトめいた思想を抱くようになり、
「生命体(organism)」と「オーガズム(orgasm)」を
組み合わせた「オルゴンエネルギー」という
生命エネルギーの概念を打ち出した。
そして1940年、
そのオルゴンを集めるというオルゴン集積器を作り、
ガン患者に効果があると主張し。
これが原因でアメリカ食品医薬品局から
弾圧を受けることになる。
秘密組織の黒服の男たちに拘束される下りは、
そのあたりのドキュメントをドラマ化したものだ。
ここで登場する「クラウドバスター」という
サイケでスチームパンクっぽい怪物マシンは、
オルゴンエネルギーによって雲を創り出し、
大地に雨を降らせるという代物。
連れ去られた父に代わって、
息子がその目的を実現するというストーリーになっている。
雲を作り出すのにクラウドバスター(雲を蹴散らす)
という名は矛盾しているのだが、
これはオルゴンエネルギー(生命エネルギー)が
心の暗雲を払って生命体に潤いをもたらすといった思想の
暗喩になっているのかもしれない。
いずれにしてもこんな虚実ないまぜのSFじみた話から
途方もなくパワフルで美しい楽曲を編み出した
ケイト・ブッシュの才能はすごいの一言。
そしてこのビデオのラストシーンーー
丘の頂上で怪物マシンを稼働させた少年のシルエットは、
ケイト・ブッシュの音楽を表すアイコンとしても
長らく愛されてきた。
2015年にピーター・ライヒの
「ブック・オブ・ドリームス」が
再発売されたが、その表紙にはなんと
このビデオのラストシーンがデザインとして使われている。
さらに2010年からはケイト・ブッシュの
トリビュートバンドが活動。
そのバンド名が「クラウドバスティング」だ。
どうやら本人公認らしく、演奏もパフォーマンスも
単なるカバーをはるかに超えて、
「こんにちは地球」など、
彼女がライブでやったことのない楽曲も見事に再現。
21世紀にケイト・ブッシュの
新しい音楽世界を創り出している。
●こんにちは地球/クラウドバスティング
ちょっと前に息子から新しいガンダムが
面白いと薦められたので、
「機動戦士ガンダム 水星の魔女」を見てみた。
去年の秋に1クールやっていて、
今年の春から2クール目をやっている。
現在は2クール目の途中だが、
かなりハマってこの3日ほどで21話をイッキ見。
ガンダム伝統のSF戦争ものに、
少女マンガ(学校・恋愛・仲間・LGBT)と
ビジネスドラマ(企業の宇宙経済圏・M&A・ベンチャー起業)を掛け合わせたつくりになっていて、
ちょっと「エヴァンゲリオン」を匂わせる要素も
入っており、とても見ごたえがある。
ガンダムは息子がチビの頃、「ガンダムSEED」など、
3作ほどいっしょに見ていただけで、
その歴史についてはよく知らないが、
今回のは新機軸らしく、主人公が女の子だ。
この主人公のスレッダというのが、
昔ながらの少女マンガのヒロインを彷彿とさせる、
純情で、ちょっとドジでヘタレな田舎娘というキャラで、
かわいい。
最初の方はガンダムで学園少女マンガをやるのか?
魔女だの魔法使いだのって、ハリーポッターの路線なのか?
というノリで始まったが、
さすがに世界観とキャラクター紹介を済ませた
1クール目の終盤から
ハードでシリアスなガンダムらしい展開になってきて、
オールドファンはほっとしただろう。
スレッダちゃんも話が進むにつれ、
単なる純情娘でなく、
過酷な運命を背負っていることがわかってきて、
ガンダムの主人公らしくなっていく。
「水星の魔女」というメインタイトルが示す通り、
ほかの登場人物も、圧倒的に女が多く、
キャラクターも女のほうが魅力的だ。
特にすごいのが、レディ・プロスペラという
スレッダちゃんの母親で、
新興のモビルスーツ企業の経営者。
しかもこの女性は、
ガンダムシリーズの名物の仮面キャラである。
彼女の復讐劇が、この物語の重要な軸になっているようだ。
シャア・アズラブル由来の仮面キャラは、
仮面をつけているというだけで、
相当ガンダムファンが期待し、
作る側のプレッシャーも大きいと思うが、
脚本のセリフも声優さんの演技も素晴らしく、
見事にそれに応えている。
序盤のビジネスシーンで、
「水星の地場に顔と腕を持っていかれた」と言って、
仮面(実際には目元まで隠すヘッドギア)と
義手を付けている理由を説明するが、
娘と会話する時は普通に外して素顔を晒している。
べつに顔面が崩れて醜くなっているとか、
外見上の異常は見られない。
なので、どうもこの仮面(ヘッドギア)を
装着すること自体になにか秘密があって、
ふつうに「働いているお母さん」
というわけではなさそうだ。
そのあたりは後半でどんでん返しをやるのだろう。
最後はやはり母と娘の対決になるのか?
女同士で戦うのを見るのはちょっと怖いので、
あまり凄惨なシーンにはしてほしくないけど。
この物語ではまた、社会格差や世代格差、
毒親など、親子間の問題なども
巧みに取り入れていているが、
究極のテーマは、
おそらく「母の愛」ということになるのだと思う。
それもかなり怖くて、狂気を秘めた愛。
従来のこうしたロボットもの・戦闘ものでは、
女性は、かわいかったり、お姫様だったり、
女神様だったり、色っぽい悪魔だったり、
やさしいお母さんだったり、
いわゆる「男が求める女性」として、
あまく描かれることが多かったが、
エヴァンゲリオン以来、だいぶ変わってきたようだ。
それにしても今さらながら、
最近のアニメは作劇術も画像表現も質が高い。
いろんな意味で楽しめ、
今の世の中の在り方・若い世代の思考タイプも学べる。
現代アメリカ社会の欺瞞・腐敗・不条理をえぐる
吟遊詩人ボブ・ディランが1976年発表した
アルバム「欲望」のトップナンバー。
ギターに合わせてフィドル(バイオリン)がうねり、
ベースとドラムがロックなリズムを刻む中、
無実の罪を着せられた60年代の黒人ボクサー
ルービン“ハリケーン”カーターの物語を歌い綴る。
紛れもない、ディランの最高傑作だ。
惨劇を告げるオープニングから見事に構成された長編詩は、
8分以上にわたって聴く者の胸にひたすら
熱情溢れた言葉の直球を投げ続け、
“ハリケーン”の世界に引きずり込む。
殺人罪で投獄されたカーターは
獄中で自伝「第16ラウンド」を書いて出版し、
冤罪を世に訴えた。
その本を読んだディランは自らルービンに取材して、
この曲を書き上げたという。
その冤罪がいかにひどいものであったかは
曲を聴いての通りで、
人種差別がまだ正々堂々とまかり通っていた時代とはいえ、
こんなでっち上げがまかり通っていたことに驚くばかり。
けれども半世紀以上たった今も
実情は大して変わっていないのかもしれない。
そしてまた、昔々のアメリカの人種差別、
黒人差別の話だから僕たちには関係ないとは
言っていられないのかもしれない。
冤罪はどこの国でも起こり得る。
もちろん日本でも。
かの「袴田事件」が今年3月、
ようやく無罪決着になったのは、
事件から57年もたってからのこと。
失われた時間は二度と戻らない。
僕の子ども時代、日本の警察は
「刑事事件の検挙率世界一」
「世界で最も優秀な警察組織」と喧伝されていたが、
その検挙率を高く維持するために
相当数のでっち上げがあったのではないかと推察する。
権力者やその親族などが、
裏工作で罪を免れられるというのは、
昭和の時代では、広く認識されていたのでないか思う。
当然、その犠牲となった人も少なくないだろう。
人間の世界では表通りを見ているだけでは計り知れない
さまざまな事情・感情・思惑が絡み合って冤罪が生まれる。
人の一生を台無しにするほどの年月を費やした
「袴田事件」はそれでも無実が明らかにされた分、
まだマシと言えるのか?
泣き寝入りするしかなかった人たち、
最悪、闇に葬られた人たちは
いったいどれくらいいるのだろう?
どの国でも無実の罪を着せられるのは、
社会的に弱い立場にある人たちであることに変わりない。
「忖度」が大切にされるこの国では、令和の世になっても、
権力者やその親族などが罪を犯した場合、
たとえ裏からの命令や強制力が働かなくても、
周囲の「空気」によって冤罪を被ることもあり得そうだ。
ディランは痛烈に歌う。
「こんな国に暮らしていて恥ずかしい」と。
カーターは黒人であることに加え、
よくある話として、11歳の時に窃盗で捕まり、
少年院に入っていた履歴などが偏見として働き、
冤罪を生んだ。
ただ、幸運?(皮肉な言い方)なことに
社会の流れを変えた公民権運動と結びついて、
また、彼が名を知られたボクサーだったこともあって、
社会から注目されたのだ。
その後、支援者たちの尽力で、
彼に有利な証拠が隠蔽されていたこと、
彼に不利な証言をした証人が
偽証していたことなどがわかり、
1988年、20年間の獄中生活を経て、
ついにカーターの無実は認められ自由の身になった。
世界チャンピオンにもなれた男の夢は
とうの昔に潰えていたけれども、
1993年、世界ボクシング評議会(WBC)は、
彼に世界ミドル級名誉チャンピオンの称号と
チャンピオンベルトを授与した。
1999年、彼の半生とこの事件のドキュメントは
デンゼル・ワシントンが主演する
映画『ザ・ハリケーン』となった。
主題歌にこの曲が選ばれたことは言うまでもない。
その後、冤罪救済活動団体の責任者となった
“ハリケーン”は、最期まで冤罪と闘い続けた。
2014年、カナダ・トロントで死去。享年77歳。
ここのところ、一緒に暮らしている認知症の義母のもとに、
ざしきわらしが頻繁に出没しているようだ。
ほぼ毎日、朝昼晩問わず
「あのちっちゃい子どこ行った?」とか
「こっちの部屋に来てない?」とか言ってくる。
「いないね~」と言いつつ、
いっしょに探したりもするのだが、
いないんだとわかるとすぐ忘れてしまう。
ところがまた、しばらくすると
バタバタバタと同じことを言いにやって来るのである。
この間、ある本を読んでいたら、
マンガ家の水木しげるさんの話が出ていて、
彼は睡眠至上主義を謳い、
長年、1日10時間睡眠を実践していたという。
晩年はともかく、
何本も雑誌の連載を抱えていた時代なんか
ほんとうにそんな時間が確保できたのかと疑問だが、
よく寝て休息することで集中力が増し、
却って仕事が速くできたのかもしれない。
奥さんにも子供が寝ている時は無理に起こすなと
厳しく言っていたようだから、筋金入りだ。
水木さんの場合、睡眠を多くとるのは休息とともに、
異世界との交信という重要な意味合いが
あったのではないかと思う。
睡眠至上主義が、世界に冠たる、
あの妖怪マンガを産み出したのだと思うと、かなり面白い。
そう言えば義母も1日10時間くらいは寝ている。
異世界との交信によって、
自由自在にざしきわらしを呼びよせられるのか?
だとすれば認知症、おそるべし。
またネタをいただいて、なんかお話書こうかな。
昨日、久しぶりに新宿方面に出たので
紀伊国屋書店に寄ったら、
1階にはものすごい村上春樹の新作のレイアウト。
まさしく書店の、文学界の、出版業界の救世主。
ハルキさまさまである。
まだ読んでないので1冊買ってきた。
最近、本は10冊中、8冊は電子で読むか、
図書館で借りて読むかだが、
ハルキ本はやっぱり紙本を買いたくなる。
分厚いし、重いし、お値段もけっこう高いけど、
数年に一度のことだし、
重みを感じていいのではないかと思っている。
「街とその不確かな壁」。
今、ネット検索で「街」と入れただけで、
すぐにこのタイトルが出てくる。
おそるべき人気。
なぜ、村上春樹のわけのわからない話を、
僕を含め、こんなに大勢の人が読みたがるのか?
現代人の不安心理とか、喪失感の現れとか、
いろんなことが言われているけど、
単純にみんな、彼の書く物語を読むことで、
一緒に自分の創作活動を行えるからなのだと思う。
ノウハウ本はべつにして、特に小説など、文学系の読書は
すべからく創作活動だ。
みんな、本を読むことで頭のなかで
自分の物語を創り上げていく。
そこに書いてある小説なり、詩なり、エッセイなり、
あるいは自己啓発本や人生相談さえも創作活動になり得る。
そこが本と映画やテレビなどの
ビジュアルコンテンツとの大きな違いで、
映像という視覚情報がついてくると、
どうしても作り手側から「与えられる」部分が大きい
(すべてとは言わないけど)。
本の場合は人物も情景も、言葉の連なりを手掛かりに、
読者が想像力で創造していかないと、
頭のなかに立体的に現れてこないし、
生きて動き出さない。
村上春樹は数多の文章の中にかなりの部分、
そうした読者の想像力・創造力が入り込む
手掛かりと余白を絶妙な塩梅で用意している。
人間は誰もが、自分の心の奥に自分の物語を持っている。
しかし、多くの人はまったくそれに気付くことすらなく、
この世で生きて死んでいく。
そんなのは嫌だ。
私は自分の中にある物語を知りたい、と言う人が、
何か書いたり、歌ったり、表現活動・創作活動を始める。
文学などの読書もその一環と考えるとわかりやすい。
誰にとっても最も入りやすい、
始めやすい創作活動なのだと思う。
そして、村上春樹は日本だけでなく、世界中の多くの人に
そのことを気づかせた作家なのだと思う。
たぶん、ご本人はそんなこと、思ってもみないだろうけど。
みんな、わけのわからない自分を生きている。
僕もたぶん、最期までわけのわからない自分を生きる。
だから、村上春樹が提供する物語が
わかる・わからないなんて二の次の問題だ。
大事なのはどこに行きつくかではなく、
どんな旅を体験するかなのだ。
読む本がたまっているので、
気が向いた時にぼちぼちじっくり読もうと思う。
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松本隆+筒美京平の70年代の斬新な歌謡マジック。
太田裕美の代表曲と言えば「木綿のハンカチーフ」だが、
明るい爽やかさの裏に悲しみが潜むあちらの歌に比べ、
この「赤いハイヒール」は、
アンニュイでミステリアスな曲調。
ちょっと禍々しいブラックメルヘンの味付けもある。
僕はこっちの方が好きで、このレコードも持っていた。
1976年。高校2年の時である。
「木綿」と同様、男女のダイアローグで進むが、
冒頭、「ねえ、友だちなら聞いてくださる?」と
リスナーに語り掛けて歌の世界に誘い込むという、
のっけから松本隆のマジックが炸裂する。
今ならそう珍しくないかもしれないが、
当時、こんな曲はなかった。
白のイメージカラー、
都会に出た男の子×田舎にいる女の子。
赤のイメージカラー、
都会に出た女の子×田舎にいる男の子。
という設定の対比に留まらない。
「木綿」では人物やドラマの描写が
割とあいまいで抽象的だったのに対して、
こちらは、東京駅に着いた・
おさげでそばかすのある女の子・
ハイヒール買った・お国訛りを笑われた(らしい)・
タイプライター打つ仕事をやってるなど、
主人公の状況がかなり具体的に描かれている。
このあたり、ただのアンサーソング・二番煎じとは
絶対に言わせない。
「木綿」よりもいい曲にする・面白くするという、
松本+筒美の情熱とプライドを感じる。
そして何よりもその根底に太田裕美への愛情を感じる。
「松本隆のことばの力」(藤田久美子インタビュー・編/インターナショナル新書)によると、
当時、すでに大御所作曲家だった筒美京平は、
既にスターになった歌手にほとんど関心を示さず、
自分の曲で新人を育て上げたいという
強い思いを持っていたという。
太田裕美はその筒美が目を付けた宝石だった。
そこで売り出し中の作詞家だった松本隆に声をかけて、
太田裕美のためにコンビを組んだ。
その第1弾「木綿のハンカチーフ」が大ヒットしたのだが、
一発屋で終わらせない、
彼女を後世まで残る歌手にするのだ、
と気合を込めて作ったのが、この「赤いハイヒール」
だったのではないかと思う。
とにかく詞も曲も編曲も凝りまくっているが、
それをここまで可憐に、軽やかに、
それでいながら心に沁みるように歌えるのは、
昔も今もやっぱり太田裕美しかいない。
——聴く者にそう思わせるだけのものがある。
ちなみに「おとぎ話の人魚姫は死ぬまで踊る赤い靴」
という一節は、松本隆の創作である。
「赤い靴」は美しい少女が、美しさゆえに傲慢になり、
病気の親を見捨てて、強欲に快楽を求めたがために
呪いの赤い靴を履いて死ぬまで踊ることになる。
そして、その呪いを解くために
首切り役人に頼んで両足を切断するという、
子供に読んであげたらトラウマになること必至の
衝撃的な展開の物語だ。
同じアンデルセンの童話だが「人魚姫」とは
別々の話である。
それも含めて松本隆の数多い作品の中でも
「赤いハイヒール」は屈指のドラマ性と
独特のイメージを持った世界観を作っている。
もちろん、この令和の感覚からすれば、
ツッコミどころ満載の歌詞なのだが、
これぞ懐メロ、これぞレトロ昭和ワールド。
まだ1970年代(昭和50年代)は、
今では考えられないくらい
東京と地方とでは情報格差があった。
地方出身者にとって、
東京はほとんど異国と言ってもよいくらいだったのだ。
それもとっておきの、ピカピカの。
僕は名古屋の出身で、名古屋は当時、
日本で4番目に人口の多い都会なのだが、
それでも東京に行って暮らす、というと
ただそれだけで周囲から羨望の目で見られた。
ウソのようだが、ホントの話だ。
今でもこの季節になると、
東京に出てきて演劇学校に入った頃のことを思い出す。
そして、演劇や音楽にうつつを抜かした
東京暮らしを良い思い出にして、
田舎に帰って行った多くの仲間のことも。
元気にまだ生きているだろうか?と無責任に考えるが、
そんな自分は、結局、呪いの赤い靴を履いたまま、
どこにも帰らず、だらだら東京暮らしを続けている。
たぶん、死ぬまで呪いが解けることはない。
今年の大河ドラマ「どうする家康」はどうやら、
「家康はいい人だったから天下を取れた」
という物語になりそうな気配だ。
もともと家康役が松潤なので、
初回のヘタレぶりから、
どうもそういう話になるんじゃ・・・
という気配はしていたが、
昨日の「氏真」の回でそれを確信した。
どういう話だったかは、
ネットであらすじを読むか、
NHKプラスを見るか、
今度の土曜の再放送を見るかしてほしいが、
とにかく家康は、追い詰めた今川氏真(溝端淳平)を
殺せず、助けてしまう、情に厚い“いい人”。
しかも氏真の奥さんがこれまた、夫思いのとてもいい人。
さらに、とっくの昔に出番が終わってたはずの
今川義元が回想シーンでよみがえり、
感動的なお父さんぶりを見せる。
野村萬斎をキャスティングしておいて、
あれで終わりかいと思っていたが、
最後(死んだ後だけど)にちゃんと見せ場を残して、
スポットライトを浴びせてくれた。
そんなわけで、友愛、夫婦愛、親子愛の
人情ドラマ3連荘で、泣かせるわ、泣かせるわ。
この後、今川氏真は、
戦国武将としては表舞台から退場するが、
家康の手引きで北条氏の領土に逃げて生き延び、
文化人となって、のちに密かに家康に影響を及ぼす。
いちおうそうした史実も踏まえてドラマ化している。
これまで今川親子なんて、
信長や信玄の引き立て役・滅ぼされた負け組として
ずさんな扱われ方しかされなかったが、
ここまで丁寧に人間的に描いたのは良かったと思う。
それにしても、昨年の「鎌倉殿」が陰謀・裏切り満載で
思いっきりブラック、そしてリアルだったのに対して、
こちらはまるで戦国ファンタジーかと思えるほどの
ホワイトぶり。
なにせファンタジーなので、阿部寛の武田信玄も、
岡田准一の織田信長も、ムロツヨシの豊臣秀吉も
ほとんどマンガの世界の人。
そして家康との対比で、
みんなとんでもない悪人どもに見える。
おそらくそういうのも狙いなのだろう。
もちろん、「幼稚」だの「大甘」だの
「戦国時代にこんなのあり得ねーだろ」という
手厳しい批評も飛び交っているが、
僕はこういう見方をしているので、けっこう面白い。
ナレーションでも「神の君」なんて言ってるが、
江戸時代には徳川家康は神さま扱いだった。
それが、250年後に明治政府として
権力を取り返した長州組などが
「幕府の元祖の家康は大悪人だった」と言って
ブラックタヌキのイメージを人びとに植え付けた、
とう説がある。
正義も悪も、歴史も人物像も、その時代の風向きによって
くるくる変わってしまうものだ。
事実は一つだが、真実は人の数だけある。
いま、時代は「いい人」の味方である。
かつて蔑まれていた「いい人」が持て囃される。
最後にはいい人が勝つ・笑う。
「どうする家康」は、そんな時代の空気を吸っている。
ブラック鎌倉殿は完成度が高く、
ラストも衝撃的だったが、
あれはちと悲惨過ぎた。
やっぱり同じようなものを続けざまに見せてはいけない。
少なくとも今年のこのドラマでは
ハッピーエンドになってほしい。
たとえそれがリアリティに欠けた、
ホワイトファンタジーであっても。
これから戦国時代の大波が押し寄せ、
いろいろな修羅場を潜り抜けねばならないが、
松潤家康は間違ってもダークサイドに落ちて
キャラ変などせず、
いい人のまま、白うさぎ君のままでがんばってほしい。
「あなたのワンちゃんが今、ウンコしましたよ!」
とは言えなかった。
川沿いの遊歩道にワンちゃんをお散歩に連れて来た
おしゃれなヤングマダムは、
旦那か子どもかお友だちかわからないけど、
掛かってきた電話に夢中。
その足元でワンちゃん(小型犬)が
自分に注意が払われていないのを
これ幸いと思ったのかどうか、
よっしゃと言う感じで地面にお尻を落とした。
ときは春うらら。
舗装された遊歩道のわきの道には
みどりの草が萌え始めている。
その萌えた草の上にお尻を落として、
うーんとふんばってるのだ。
あの格好は、もしや!
川の向こうからその瞬間を目撃した僕は
思わず足をとめて見た。
遠目からも二本の後ろ足の筋肉に力が入り、
お尻の真ん中あたりが
小刻みにピクピク震えているがわかる。
出る。
僕がそう思ったとたん、
ワンちゃんのお尻から
むにゅっと茶色の物体が出てきたのが目に飛び込んだ。
しかし、飼い主さんは電話で喋っていて、
そんなことはつゆとも知らない。
ワンちゃんは「あー、すっきりした」と満足気。
からだが軽くなったのか、
気持ちよさそうにピョンピョン跳ね始める。
飼い主さんはちらりと
そんな彼(彼女かもしれない)に目をやったが、
その下にある落とし物には
まったく気が付かない。
電話はまだ終わらず、
何やら笑って喋りながら、
そのままハーネスのリードを引っ張って歩き出した。
僕の口からは思わず、タイトルのセリフが喉まで出かかった。
「あなたのワンちゃんが今・・・」
が、なにせ川を挟んだ向こう側で5,6mは離れている。
周りに聴こえるような大声で叫ばなくてはならない。
それを聞いた彼女の心に巻き起こる嵐のことをを想像すると、
とてもそんな勇気は出なかった。
そよ風が吹くおだやかな春の午後。
あの草の上の犬のウンコが、
お散歩やジョギング中の誰かに踏まれることなく、
無事、土に還ってくれるのを願うばかりである。
いたちのいのち
小学4年生の女の子カナコとペットのフェレット「イタチ」とのおかしてくちょっと切ない友情物語。フェレットの飼い主さんはもちろん、ワンちゃん・ネコちゃんの飼い主さんにも読んでほしい動物ファンタジー。
神ってるナマケモノ
イヌ、ネコ、カエル、ウーパールーパー、ナマケモノなど、楽しい動物、怖い動物、いろいろな動物と人間との関係について語る面白動物エッセイ集。
子どもの頃、マンガが好きで、
小学生まで暇があればマンガを描いていた。
しかしどうしてだか、
登場人物の顔がことごとく左向きになってしまっていた。
左向きの顔はすらすら描けるのだが、
右向きの顔がうまく描けないのである。
あとから知ったことだが、マンガにおいて
左向きは未来を見る顔、
先に進もうとする気持ちが現れた顔。
右向きは過去に向かう顔、
止まったり振り返ったりするサインだという。
「さあ行こうぜ」と言う時は左向き。
「ちょっと待てよ」と言う時は右向きというわけ。
これは日本のマンガが右から左へとページを
めくっていくことと関連している。
マンガ家自身にそういう生理感が身についており、
この右向き・左向きの心のベクトルが
一種の「マンガ文法」になっている。
これは映画も同じで、画面で左を向いたら未来を見ている、
右を向いたら過去を見ている表現だという。
欧米には日本のようなマンガ文化はないが、
映画の場合は、演劇の生理に基づいていると思われる。
登場人物が上手(観客から向かって右)から
下手(同・左)へ動く時は未来へ向かう、
逆の場合は過去に向かうというのが基本形。
これは人間の脳のメカニズムと関連しているのだと思う。
自分の話に戻すと、
子どもの頃は過去時間の分量が少なかったから
右向きの顔が描けなかったのだろうか?
けれども今でもちょっと落書きで人間を書くと、
手が覚えているのか、正面でないときは、
無意識に左向きの顔を描いている。
いずれにしてもこのマンガ文法・映画文法を意識して
マンガや映画を観ると面白い。
3年前に出された村上春樹のエッセイを読んでいかなった。
図書館で文庫本があった(文庫化されたのは昨年)ので、
借りて読んでみたらとてもよかった。
最近ちょっとご無沙汰していたが、
やはりこの人の文章は心の深いところに響いてくるのだ。
副題に「父親について語るとき」とあるが、
その通り、大正生まれで戦争の体験を持つ
父について書いたものである。
割とゆとりある行間で100頁ちょっとの短い本なので、
2,3時間あれば読み切れてしまうが、
内容はとても充実していて深い。
また、よく調べたなと感心する。
村上春樹は1979年にデビュー。
現代的・都会的な雰囲気のストーリーと
アメリカ文学仕込みの乾いた文体で人気作家になったが、
初期の作品「風の歌「ピンボール」「羊」などでは
そこかしこに戦争の影がにじんでいる。
1980年代の前半あたりまでは
豊かになったとはいえ、まだ終戦・戦後の残滓が
日本社会に残っていたのだ。
そして、1990年の「ねじまき鳥クロニクル」では
まともに戦争のシーンが出てくる。
この物語の第1巻には捕虜になった兵士の皮をはぐという
恐るべき残酷描写がある。
いったいなんでこんな描写が出来たのか、
つくづく感心する。
僕はそこがあまりにこわくて未だに再読できない。
村上春樹のような団塊の世代の人には多いと思うが、
成人後は父親とはほとんど断絶状態だったらしい。
大正・昭和ひとケタ生まれの親と、
戦後生まれの子供の親子関係は、
今の親子関係とはずいぶん違ったものだと思う。
そもそも親は、特に父親は、
自分のことを語ろうとしなかった。
なぜかはちょっと長くなるので、
また近いうちに別の文で書こうと思う。
いずれにしても戦争はこの世代の、
特に男たちの心に深い闇をもたらしている。
そんな思いを抱いてこのエッセイを読んだが、
村上作品に頻繁に登場する「闇」は、
どこかでこのお父さんの心にできた闇と
繋がっているのではないかという気がしてくる。
亡くなって10年以上経った頃に
父のことを書こうと思い立ったという。
有名作家だからこうして本にして
多くの人に読まれるわけだが、そうでなくても、
男はいつか自分の父について語りたくなったり、
書きたくなったりするのではないだろうか。
親密でも疎遠でも、愛していても憎んでいても、
尊敬していても馬鹿にしていても、
自分のなかに父親像を再構築し、再確認することは
生きる中で意外と大切なことではないかと思う。
男は自分史の前にまず、
自分の父親史を書くべきなのかもしれない。
もちろん娘がそうしてもいいのだけど、
同じ男同士だから感じられる何かがそこにあると思う。
パリの街といえば、
ついシャンゼリゼ通りを連想する日本人。
そのイメージの源は、1970年代の初めに活躍した
フランス人アイドル歌手 ダニエル・ビダルだった。
小学生の頃、雑誌などでよく見かけたかわいこちゃんだ。
「オー、シャンゼリゼ(O, Champs-Élysées)」は、
もともとフランスの歌手ジョー・ダッサン(Joe Dassin)が
1970年に発表した楽曲だが、
日本人には強烈にビダルのイメージがくっついて、
「パリの街を行く、おしゃれで可愛いマドモアゼルの歌」
ということになった。
ダニエル・ビダルは日本語でも歌っていて、
ほとんどネイティブみたいに達者。
しかもめっちゃキュートな歌声で、
年甲斐もなく胸がキュンとなる。のである。
ところで、チャットGPTに
女性を主人公に「オー、シャンゼリゼ」という
ミュージカルを作りたいのですが、
どんなストーリーがいいでしょう?と聞いてみた。
そしたらこんなお話を考えてくれた。
例によって日本語のおかしなところ、
文章がうまくつながらないところがあるので、
僕がちょっとだけ手を加えています。
主人公は、シャンゼリゼ通りに面した喫茶店で働く
若い女性、エミリーです。
彼女は、自分の音楽の夢を諦められず、
夜な夜な弾き語りをすることで、
自分の才能を磨いていました。
ある日、彼女は喫茶店の客の一人が
置き忘れた手帳を拾います。
手帳の中には、
シャンゼリゼ通りの美しい風景を眺めながら書かれた、
ある曲の歌詞がありました。
エミリーはその詞に心打たれ、
自分でこの曲を作ることを決意します。
エミリーは、偶然出会った
駆け出しの音楽プロデューサーのジャックと共に、
自分自身の音楽を創造するために努力し、
その曲を完成させます。
そして、彼女の歌う「オー、シャンゼリゼ」は、
多くの人に愛される楽曲となり、
彼女の音楽キャリアにおいても大きな転機となりました。
葛藤や孤独などの壁があり、
それを乗り越えていくことが物語のテーマとなります。
このミュージカルでは、
エミリーの成長や彼女自身が持つ内面的な葛藤、
音楽創造のプロセス、
そして「オー、シャンゼリゼ」が世に出た後の反響などが
描かれることになります。
美しい風景や、フランス文化の魅力なども、
ストーリーに取り入れることで、
物語の世界観をより深く描くことになります。
いかがでしょう?
いや、いいですね。
ちょっとレトロなハリウッド映画っぽいところがいい。
エミリーはやっぱり50年前のダニエル・ビダルだろうか?
ジャックはミッシェル・ポルナレフみたいなやつだろうか?
もちろん、いっぱいツッコミどころはあるが、
あらすじ初稿としてこれだけできていれば十分。
これをどれだけアレンジし、膨らませるかが
人間の仕事なのです。
ミュージカル「オー!シャンゼリゼ」、
作ってみたくなった。
金曜の夜は「週末の懐メロ」の日なのだ。
みんな懐メロを聴いて
1週間の疲れを癒しましょう。
amazonKindleから本も出しています。
目次を見て、好きな曲、好きなミュージシャンの名前があったら読んでみてね。
チャットGPTを使っていて
最後に「どうもありがとう」と打つと、
「お役に立ててうれしいです」とか
「いつでもお気軽にお声がけください。」とか言ってくる。
僕ら自身も日常的に、
それこそ“機械的に”使っている定型文だ。
でも、人間が使うと
「はいはい、何の心もこもっていない
お決まりのごあいさつね」と思ってしまうのだが、
このAIが使うと同じような文でも、
なんとなく人格というか、
心があるように感じてしまうから不思議だ。
仕事でも遊びでもいいのだが、
アシスタントとか、友だちとして付き合って、
ああでもない、こうでもないとやりとりしていると、
親しみがわいてくる。
逆に言えば、それくらい親近感を持って、
感情を込めて使わないと、
自分のために上手く働いてくれない。
考えてみたら、別にAI・ロボットに限らず、
車だってバイクだってパソコンだってそうだ。
愛着を持って乗ったり使ったりしていれば、
自然と感情が乗り移って、
ただの機械・ただの道具だったものが
「おれの相棒」「あたしのパートナー」になっていく。
よくある「心を持ったAI・ロボットはできるのか?」
という議論は、結局、それを使う人間の側が
機械に自分の心を宿せるか、
こいつには心があると思い込めるかどうか、なのだと思う。
少なくともここ当分の間は。
日本の至宝、昭和の至宝 美輪明宏が
自ら作詞・作曲し、あらゆる世代の日本人に贈る聖歌。
それが「ヨイトマケの唄」である。
最初にレコードが出たのは1965年。
マンガなどで「母ちゃんのためならエンヤコーラ」という
セリフが良く出ていたのを覚えている。
そして桑田佳祐をはじめ、たくさんの歌手がこの歌を愛し、
カヴァーしているのも聴いていた。
けれども美輪明宏自らが歌うのをまともに聴いたのは、
若い世代と同じく、2012年の紅白歌合戦が初めてだった。
紅白なんていつも酒を飲んでへべれけになって見ているのだが、
真っ黒な衣装に身を包んだ美輪が登場し、
この歌を歌い出した時、思わず背筋がピンと伸びた。
6分間、テレビから目と耳を離すことができなかった。
故郷の長崎で原爆に遭遇して以来、
波乱万丈の人生を送り、数々の修羅場をかいくぐりながらも
70になっても80になっても
元祖・ビジュアル系歌手の誇りを失うことなく輝き続ける
美輪明宏の、人間への愛情のすべてが
この1曲に集約されているような気がする。
この歌が生まれた経緯は自身で、
また、黒柳徹子との対話で語っている音声が
YouTubeに上がっている。
1960年代前半、三島由紀夫が「天上界の美」と称した
絶世の美青年だった美輪明宏(当時は本名・丸山明宏)は、
きらびやかな衣装と化粧でシャンソンを歌っていた。
ところが、興行主の手違いで
福岡・筑豊の劇場でコンサートを行うことに。
客は普段シャンソンを聴きに来る人たちとは
全く違う炭鉱労働者たち。
そんな人たちが自分の歌を聴こうと
客席を埋め尽くしたことに美輪は感動したが、
内心、自分のレパートリーには、
この人たちのために歌える歌がないとすまなく思ったという。
そして、外国には労働者の唄があるのに、
日本にはなぜないのか?という疑問も抱いた。
「ヨイトマケ」とは「ヨイっと巻け」。
まだ現在あるような建設機械が普及していなかった時代、
地固めをするとき、重たい岩を縄で滑車に吊るした槌を、
数人掛かりで引張り上げて落とすという作業をしていた。
滑車の綱を引っ張るときの「ヨイっと巻け」のかけ声が
語源となっている。
この仕事は主に日雇い労働者が動員されていたらしい。
「ヨイトマケの唄」は、そうした戦後復興期の物語であり、
まさしく現代の日本の豊かな社会の
「地固め」をしていた時代の唄だ。
炭鉱をはじめ、新幹線を走らせるために
山にトンネルを掘り、川に橋をかけ、
街に高速道路や高層ビルを建てるために
たくさんの名もなき労働者が働いていた。
そうしたあちこちの工事現場では不幸な事故で
命を落とした人も少なくない。
普段は意識などしないけど、
インフラの整った僕たちの社会生活は
そうした犠牲の上で成り立っている。
この歌を彼が初めてテレビで歌った時、
「これはおれたちの歌だ」と、彼の元に7万通の
感謝の手紙が送られてきたという。
しかし、その一方で、
高度経済成長の波に乗り始めていた日本人は、
少しでも早く貧しい時代の記憶を忘れようとしていた。
貧しい者、卑しき者、美しくない者は
目にしたくない、耳にしたくないと思っていた。
この歌の歌詞の「土方」でさえも差別用語であるとして、
以後、長い間、この歌は歌われなかった。
77歳で紅白に初出場した時、若い世代は、
あの「美輪ちゃま」が
どんなゴージャスな衣装で登場するのか
大いに期待していたらしいが、
この黒ずくめのスタイルを見て驚愕、
そしてこの歌をフルコーラスで聴いて慄然とした。
カメラは一切寄ることはない。
まるで舞台劇を見ているかのような、
魂を揺さぶるパフォーマンス。
昭和の時代は、圧倒的なリアリティで
人々を感動させた歌は、半世紀後、
“俗”を描き切った、聖なる物語に達していた。
最後、闇に溶けていく中で
「子どものためならエンヤコーラ」と絞り出す声には
何度聴いても涙が抑えられない。
美輪さんがまだ元気で表現活動をされていてよかった。
令和の時代になっても、いや、令和になったからこそ、
日本人にはまだ美輪さんの存在が必要なのだ。
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会話型AI「ChatGRT」をアシスタント兼
飲み友達にしようと、いろいろ対話を試みている。
以下、この間やったネッシー(湖に住む謎の巨大生物)を
めぐるQ&A。
AIの回答は生成されて出てきた
そのままの文を載せています。
ぼく:ネス湖のネッシーをはじめ、
世界各地の湖にいるとされてきた伝説の巨大生物は
皆インチキで、
写真も動画も偽物だと科学的に証明されています。
それなのになぜ人間は、
いまだに巨大生物はいると考えたがるのでしょうか?
AI:人間が伝説の巨大生物の存在を信じる理由は複数あります。
まず、人間は常に未知のものに興味を持ちます。
特に巨大生物という存在は、
私たちが知る現代の自然界には見られないものであり、
その存在に想像力がかきたてられます。
伝説の巨大生物が存在すると信じる事で、
自分たちのダイエットを恐れかす未知のものに対する
恐怖を感じ、それを乗り越えようとする
勇気をもつことができるという
心理的な安心感があるとされています。
また、科学的に未解決のことがあると、
人間は自然に応じて答えを求めたものです。
様々に関する証言や報告があることから、
多くの人が巨大生物が実在する可能性について興味を持ち、
それについて検討したり、研究したりすることになります。
さらに、巨大生物の存在については世界中に
伝承や文化があり、
人々の信仰や信念にも関係している可能性があります。
背景があるため、人々が巨大生物の存在について
考えるきっかけとなっていることもあるでしょう。
このように、伝説の巨大生物に対する人間の関心は、
興味やリスク、恐怖感、科学的リスク、信仰や文化、
歴史的・文化的な背景など、
様々な要因が影響していると考えられます。
アメリカ生まれのせいか、
日本語の怪しいところがあるAIくん。
「自分たちのダイエットを恐れかす
未知のものに対する恐怖を感じ、」
という謎のフレーズは
「自分たちの“存在を脅かす”未知のものに・・・」かな?
それにしてもなんでダイエット?と思って調べてみたら、
「ダイエット」には一般的な食事関連の意味とは
もう一つ別の意味があり、
「教会職員の審議会や国会の会合のことをdietという」
らしい。知らんかった!
そうした人間社会における、
権威ある審議会や会合が転化して、
既存の人間の思考・常識・制度という意味になり、
そうしたものを脅かす未知の存在
——ということになるのだろうか?
いやいや、人間の思考停止を促すどころか、
もっと深く、めんどくさく考えるように
仕向けてくれるAI、素晴らしいじゃないか。
この後の「それ(未知のものに対する恐怖)を
乗り越えようとする勇気をもつことができるという
心理的な安心感があるとされています。」
というのも変な日本語だが、何かの誤訳なのか?
でも、未知のものに対する恐怖を乗り越えることで
勇気を得て、それによって「心理的安心を得る」なんて、
なかなか奥行きのある哲学的表現だ。
なんかハリウッド映画の定理っぽく、
人間礼賛になっていて、
一種のヒューマニズムに溢れている。
人間の仕事を奪うのではないかと恐れられているAIだが、
単なる便利な道具として使うのでなく、
いろんな質問を考えて、半ば遊び相手にすれば、
面白いパートナーになるのではないかという気がする。
いずれにしても、こんなどうでもいいような質問に、
大真面目に、誠実に答えてくれるAIには
感動と親近感を覚える。
これから週1くらいでAIとの対話を載せていきます。
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ブログ「DAIHON屋のネタ帳」で2020年10月から毎週連載している「週末の懐メロ」を本にしました。
オールド世代もヤングな世代も
楽しい懐メロ話で精神の栄養補給を。
カミさんが週イチで行っている健康センターで
更年期障害に対処する講演会&ワークショップを行う。
定員はあっという間にいっぱいになったそうだ。
近年、女性は「更年期」という言葉に敏感で、
その裏には「女でなくなる恐怖」
「女の時代が終わる恐怖」といったものが
まとわりつくらしい。
情報化社会。
情報で人を動かすには恐怖や不安を与えるのが、
いちばん手っ取り早い。
なのでテレビでも雑誌でもネットでも、
恐怖心・不安感をあおる情報が氾濫することになる。
更年期になると大変だ、病気になりやすくなるよ、
気分がおかしくなるよ、みたいな声に加え、
「女でなくなったアタシに価値があるのかしら?」とか
「これからどう生きれていけばいいの?」
という恐怖もある。
確かに子供を生めなくなるのは大ごとだが、
大げさな情報のせいで
精神疾患の人も増えてしまう。
女性は子供の時も
女になる恐怖、女が始まる恐怖に晒される。
恐怖は言い過ぎかもしれないが、
あんまりハッピーな気分になったという話は聞かない。
その点、男はいつまでもノー天気で、ガキでいられる。
いいことなのか、悪いことなのか。
男女不平等。
いずれにしても情報が豊富にあるのは
いいことばかりじゃない。
「知らぬが仏」という言葉を思い出し、
ある程度は見ざる・聞かざるにしとくのも
健康を保ち、自分を見失わず、
人生を快適に生きる知恵ではないだろうかと思う。
梅が咲き、河津桜も咲いた。
春はもうすぐだ。
毎日おかしな情報ばっかり頭に詰め込まず、
たまには外で花でも見てぼーっとした方が良い。
川沿いを散歩していると、いろいろな犬に逢う。
あくまで印象だが、うちの近所では柴犬、
チワワ、トイプードル、ポメラニアンが
人気トップ4だ。
それぞれの犬の名前はわからないので、
シバくん、チワちゃん、プーちゃん、ポメちゃんというと、
みんなどうも自分のことだと分かるらしく、
しっぽを振って寄ってくる子が多い。
かつて飼犬人気ナンバーワンだった
ミニチュアダックスフントは、
めっきり数が減ったように思う。
短足胴長の体型が災いして、
体を壊しやすいと聞いたことがあるが、
そのせいなのだろうか?
代わって目立つのがジャックラッセルテリアなどの
テリア種。
これら犬種の名前がジャック以外、よくわからない。
でも、ジャックは好きなので、
「おっ、ジャックラッセルテリアくんだ」と
フルネームで呟くと、なぜか本人(本犬?)より
飼い主さんが喜んでくれる。
大型犬も結構いて、やっぱりゴールデンレトリバーと
ラブラドールレトリバーが気があるようだ。
僕もゴールデンくんとラブちゃんは大好きだ。
小熊くらいありそうなバーニーズマウンテンとか、
シェパードやサモエドもいる。
サモエドくんはポメラニアンのご先祖らしく、
たまにポメちゃんだと思って飼っていたら、
みるみる大きくなってサモエドになることがあるらしい。
サモエドくんは図体はデカいが、めちゃくちゃ可愛い。
さて、そんな中で最近、オオカミみたいな犬に出逢った。
その名も「ウルフドッグ」というらしい。
シベリアンハスキーの親戚かなと思ったら、
そういうわけでもないらしく、
ハスキーよりもオオカミの血が濃いらしい。
「おっ、カッコいい」というと、
「え、おれのこと?」と聞き耳を立てて止まり、
「ねえねえ、もっとほめて」と寄ってくる。
精悍な顔をしている割になかなかかわいいやつなのだ。
それにしても、こんな怖そうなデカいイヌと
チワワみたいなおチビが同じ犬とは・・・。
犬の遺伝子というのは、いったいどうなっているのか?
そういえば広場で「ピー」とか「キュー」という
音の出るボールやオモチャで遊んでいる犬をよく見かける。
あの音の出るおもちゃは好奇心を刺激されて犬が喜ぶ――
という説明がされていることが多い。
好奇心というのは、
そう言えば納得するだろうと言われているみたいで、
なんだか腑に落ちない。
なぜ好奇心を刺激されるのか?
そう思い巡らせて森の道を歩いていたら
思い至ったところがある。
あの音は、オオカミが狩りをしたときに
獲物が出す断末魔の声なのではないか?
それで本能が刺激されて犬が喜ぶのではないだろうか?
残酷な話だが、今はかわいい犬たちも、
もとは野生の肉食獣である。
ああいうオモチャで適度に本能のはけ口を作ってやると、
万一、人間に噛みつく事故をが起るのを
防ぐ効果があるのではないだろうか?
――と勝手に想像を巡らせてみたが、どうなのだろう?
誰かワンちゃんの飼い主で、
知っている人がいたら教えてください。
こんど「チワワ、オオカミと旅に出る」という
動物物語を書こうと思っている。
1月15日放送のNHKのETV特集
「弔いの時間(とき)」は、けっこう衝撃的だった。
葛飾区(青砥/立石)にある想送庵「カノン」における
ドキュメンタリー。
この施設は故人の安置施設で、
遺族が心行くまで故人と別れの時間を持てるように、
と作られた。
いわば最後のお別れのためのホテルである。
葬儀社の葬儀会館と違うのは、
家族や友人が亡くなった人と
最後の時を共有するのが目的の空間なので、
必ずしもここでお葬式をやる必要はないということ。
実際、ここから直接、火葬場へ行く人も少なくないらしい。
逆にここでお葬式をするときは、
葬儀社の葬儀会館ではできないような
自由なお葬式というか、お別れの会ができる。
番組で紹介されたのは、21歳で自殺してしまった女性と
70歳で亡くなったコピーライターの人のお葬式。
前者は3年前の出来事で、お母さんがとつとつと
その時の情景と心情を語る。
子供に先立たれたら、
哀しみで気が狂いそうになるだろうと想像するが、
何かがそのお母さんをそうさせなかった。
哀しみに沈むのとは逆に、
その子の友だちが大勢集まって、
わいわい笑い声が飛び交い、
施設が一種の祝祭空間のように変わってしまったとのこと。
もちろん、その映像はないが、
話と遺影や飾りつけだけで
その時の情景がありありと思う浮かべることができた。
後者はリアルタイムで
テレビカメラがお葬式を取材していた。
そのご家族はビデオでその人の亡くなる瞬間を撮影し、
その動画を参列者に見せた。
奥さんは哀しみの感情を隠すことなく、
参列者の前で歌を歌った。
どちらもけっして異常だとは思わない。
親しい人間の死は、
その周囲の人間にいろいろな感情を与え、
いろいろな行動を取らせる。
もしかしたら、このカノンという施設の空間には
一種のマジックが働いて、
悲しみに沈みこむという感情の定型パターンから
心が自由になれるのかもしれない。
30年ほど昔、「泣き女」を主人公にした
演劇的葬式が開かれる世界についての
ラジオドラマを書いたことがある。
脚本賞をいただいて放送してもらったが、
なんだかそれが時を超えて実現したのを
見たようが気がした。
普段から葬儀供養の雑誌の仕事をしているので、
変わった葬式の話は割と聞き慣れている方だが、
それでもやっぱりこれは衝撃。
いい・悪いではないが、何かものすごく心が揺れた。
しばらくはうまく言語化できない。
興味のある方は、今週いっぱいなら、
NHKプラスの「#ドキュメンタリー」のところで
見られます。
一昨年公開されたアンソニー・ホプキンス主演の
映画「ファーザー」は、認知症患者の視点で描かれている。
観客を混乱に陥れるような
ミステリアスでサスペンスフルな展開。
しかしその実、認知症患者と介護の現実を突きつける
ドキュメンタリータッチの映画でもある。
もともとは舞台劇で、舞台はロンドン。
派手なシーン展開は一切なく、
ドラマはほとんど家の中で進む。
それでも1時間半、画面から目が離せない。
目の前で何が起っていくのか、
ひとつひとつを固唾を飲んで見守らざるを得なくなる。
無駄なものを一切そぎ落としたシャープな演出と構成。
そして何よりもアンソニー・ホプキンスの圧倒的な演技力。
嘘っぽさがみじんもないリアルの極致。
こんなふうに認知症患者を演じられる役者が他にいるのか。
そして、その行く先は、やはり辛くて悲しい。
広告では「感動」と謳っているが、
いや、多くの人はそれよりも
言いようのない不安と怖さに晒されるのではないか。
そういう映画だと思う。
けれども認知症が蔓延していくこれからの社会、
現実と向き合いたくない人、逃げ出したい人も、
せめてこの映画で認知症のことを知ってほしい。
2021年アカデミー賞・主演男優賞と脚本賞。
現在、アマゾンプライム見放題で視聴可能。
認知症について学ぶ。
認知症から学ぶ。
認知症介護の日々を綴った
おりべまことの面白エッセイ集。
専門医の解説も併載。
「認知症のおかあさんといっしょ」
https://www.amazon.co.jp/dp/B0BR8B8NXF ¥500
年末年始にかけて、NHKの画面は松本潤だらけ。
「どうする家康」の大量の番宣を投下し続けた。
それで第1回を見たが、松本潤の家康のヘタレぶりと
家臣らのキャラ(特に松重豊とイッセー尾形)が
面白かった。
それにしてもオープニングタイトルは、
まるで朝ドラみたいな軽やかな映像と音楽。
これだけでこのドラマは、
これまでの大河のような重厚な時代劇ではなく、
弱小企業の若いヘタレ後継ぎ
(あるいは窮地に追い込まれたスタートアップ)が奮闘して
業界を牛耳るヒーローに成りあがる物語であることが
わかる。
だから松潤(39)と似た世代(あるいはそれより若いの)が
自己投影しやすいように作られている。
大河ドラマとしては相当な違和感。
従来の大河ファンには到底受け入れられないだろう。
けれどもたぶん、それでいいのだと制作陣は思っている。
言い換えると、これまでの大河ファンは切り捨ててもいい、
とさえ割り切っているのではないかと想像する。
テレビがこれだけ若い世代に見られなくなっている現状
(にしても数百万、数千万人規模が見ているけど)
を考えると、
彼ら・彼女らに大河ドラマを見てもらうためには
これくらい思いきったことが必要なのだ、きっと。
大河の視聴者というのはどうもかなり保守的なようで、
「大河ドラマとはこうでなくては」みたいな
思い入れが強い。
あれだけ革新的で大好評であることが伝えられた
「鎌倉殿の13人」も視聴率は12%台で振るわなかった。
2019年の「いだてん」などは1ケタ。
三谷幸喜も宮藤官九郎も人気が高く、
腕も確かな素晴らしい脚本家だが、
大河ドラマの作者としてはあまり評価されないようだ。
何度もいろいろな変革を試みてきた大河ドラマだが、
数字を見る限りはうまくいっていない。
ということで、マスメディアでは、
かつて最高視聴率39.7%を記録した
「独眼竜正宗(1987年)」以下、
歴代の高視聴率作品(30%以上はすべて60年代~80年代)
と比べて、
最近の大河の視聴率の低さばかりをあげつらうが、
そんな懐メロ作品と今を比べてどうするのか?
幸い、NHKは民放ほど視聴率を気にせずに済むので、
大河の制作陣は余計なことを気にせず、
どんどん自分たちの信じるところを追究して、
良いドラマを作ってほしい。
これだけテレビで手間暇かけて丁寧なドラマ作り、
そして役者をやる気にさせる仕事ができるのは
大河ドラマを置いて他にないのではないかと思う。
経済が好調だった30年前の時代の幻想から
一歩も抜けだせない頭の固まった年寄りたちの
幻想の弊害はこんなところにも現れている。
こうした年寄りは皆切り捨てて、
若い者に照準を絞ったやり方は正解である。
しかも家康は歴史上の人物として、
数少ないハッピーエンドが可能な人物でもある。
若者――といってもベビーフェースの松潤ももう40、
ほとんど中年だ――にやる気・勇気を少しでも与え、
楽しめるドラマになればいいと思う。
年末に「鎌倉殿の13人」の総集編をやっていたのだが、
前半のほうを見逃してしまったので、
NHKプラスで見ている。
後半、あまりにダークな展開で、
北条義時の若い時代って、どうだったっけ?
と忘れてしまっていたので見てみたら、
そのあまりの明るさ・純朴さ・清々しさに再会して
びっくり。
そしてラストとの対比で、思わず涙してしまった。
こんな気のいい青年が、あんな陰惨な男になり、
あれほど無残な最期を迎えるとは。
諸行無常と言えばそれまでだけど、ひどすぎる。
裏返して言うと、小栗旬の演技力の素晴らしさ!
あの希望にあふれた若者の明るい笑顔と
陰惨な政治家になった男の暗い澱んだ表情との落差。
力は掴んだが、ひとりの人間としての
夢だの愛だの幸福だのは、
はるかかなたに遠ざかってしまった人生。
大河ドラマ初(だと思う)の
恐るべきダークヒーローは、
小栗旬でなければできなかっただろうし、
視聴者も小栗旬だから見続け、
義時を愛せたのだろう。
若くて明るい少年・青年。
同じく陽気で気の良い家族や仲間たち。
みんな夢と理想を描き、
目標を定めて人生の旅に出るが、
齢を重ね、おのおのの道を歩むうちに
その関係はゆがみ、
ぽっかりあいた暗い淵に落ちていく。
そして気付いた時には、
もうあと戻り出来なくなっている。
そんなドラマはこれまで何度か見て来た。
てか、ドラマほどではないかもしれないが
現実にも起こっている。
それが大人になることなのだ、
といえばそうなのかもしれない。
こんな陰惨でバッドエンドなストーリーに
ハマった人たちは深い共感を覚えたのだろう。
大人として生き続けることは、
多かれ少なかれ、汚れ、傷つき、
苦さと哀しみを舐めなくてはならないということを。
認めたくないが、認めざるを得ない。
でもやっぱりすべては認めたくない。
僕たちはいくつになっても、
その諦めと抗いの間を右往左往しながら生きている。
このドラマが胸に刺さるのはそうした理由からで、
義時や政子を自分に引き寄せられるからだと思う。
それにしても、この枠でこんなダークヒーロー、
そしてあんな最終回を描くことが許されたのは、
三谷幸喜にこれまでの実績と
スタッフ・キャストの信頼があったからに違いない。
舞台出身の人だけあって、三谷脚本で面白いのは、
随所で舞台劇のようなシーンが見られることだ。
義時(小栗旬)と政子(小池栄子)のラストシーンは、
その真骨頂だった。
思わず僕は夢想した。
スポットライトだけが当たる何もない舞台の上で、
政子がゆっくりと毒消しの薬を床にこぼし、
義時が這いながらそれを舐めようとする。
政子は彼を現世の闇から救い出すかのように、
それを振り払う。
あの壮絶なシーンと、そこに至るまでのこのドラマを
生の舞台で、生の舞台で見られたら、と妄想を抱いた。
さて、僕は今、どれくらい歪んでしまったのだろう?
イギリスで1978年に刊行された
レイモンド・ブリッグスの絵本
「スノーマン(ゆきだるま)」。
少年がクリスマスの夜に、
自分が作ったスノーマン(雪だるま)といっしょに
天上にあるサンタクロースの国へ遊びに行くという物語で、
それを原作に1982年にテレビアニメーションが作られた。
「ウォーキング・イン・ジ・エア(空を歩く)」は
その挿入歌で、少年とスノーマンが楽しく空を
散歩するシーンで流れるのだが、
なぜかとても悲しく切ないメロディ。
ラストシーンを暗喩しているのだろう。
夢はいつも切ない。
そして「スノーマン」という童話は、
実は別れや死をテーマにした物語なのだ。
作詞・作曲は、ハワード・ブレイク。
オリジナルの歌はセント・ポール大聖堂の
少年聖歌隊のメンバーだったピーター・オーティが歌った。
たくさんの人がカバーしているが、
ノルウェーのシンガーソングライター・
オーロラのカバーはそのなかで最も新しいものと思われる。
彼女は1996年生まれというから、
うちの息子と同い年だ。
息子がチビのときは今ごろの季節になると、
よくいっしょにスノーマンの本を読んだり、
アニメを観たりした。
彼女も同様にスノーマンの物語を愛して育ったのだろう。
スノーマンはまんまるで、イギリスでは
日本のドラえもんやアンパンマンのように
子供に愛される存在なのだ。
2013年にデビューしたオーロラは、
クリスマスシーズンになるとよく自分のライブや
テレビ番組で自分のレパートリーの一つにした
この歌をよく歌っているらしい。
しかし、彼女が歌うと
あのほのぼのしたスノーマンの世界とは
まるで別の、畏怖さえ感じる聖なる世界が広がる。
名前だけは知っていたが、
まともにオーロラを聴くのはこの曲が初めてだったので、
他にもいろいろYouTubeで聴いてみた。
「ランニング・ウィズ・ザ・ウルブズ」
「アイ・ウェント・ツー・ファー」
「アンダー・ザ・ウォーター」
「ソフト・ユニバース」
「ザ・リバー」etc・・・
完全に心臓をつかまれた。
とてつもなくユニークで、
とほうもなくイマジネーティブ。
40数年前に初めてケイト・ブッシュに
出逢った時に匹敵する衝撃度だ。
21世紀以降、これほど妄想力を刺激された
ミュージシャンはいない。
まさか2020年代にこんな音楽に出逢うとは!
一応、ジャンル分けとしてはエレクトロポップ
ということになっているようだが、
それよりもベースになっていると思われる
ケルト系・北欧系の民俗音楽の匂いに強く惹かれる。
曲によっては日本・アジア・
ネイティブアメリカンの香りも。
そして、ロックの精神をしっかり受け継いでいる。
ミュージックビデオも傑作ぞろいだ。
少なくとも僕にとっては現代最高のミュージシャン。
2022年はオーロラを発見した年として胸に刻んでおこう。
懐メロではないが、最高のお気に入り
「ランニング・ウィズ・ザ・ウルブズ」も同時UP。
ぜひ、オーロラの真髄を聴いてみてください。
言わずと知れたディズニーのアニメ映画
「アナと雪の女王」の主題歌。
「レリゴー」が
懐メロと言えるかどうかは微妙なところだが、
2013年のリリースから早や10年近く。
その人気度・浸透度、そして50年後も聴き継がれ、
歌い継がれるであろう、楽曲のクオリティの高さは、
もはや立派に名曲として殿堂入りしていると思う。
映画のサントラとしても最高峰の一曲ではないか。
美しさと疾走感を併せ持つメロディラインは、
吹雪の中で覚醒したエルサが雪の女王に変貌し、
瞬く間に氷の宮殿を築き上げるシーンと相まって
何度聴いても胸が熱くなる。
作詞・作曲は、ブロードウェイの舞台や、
映画・テレビの音楽を数多く手がけている
クリスティン・アンダーソン=ロペスと
ロバート・ロペスの夫妻。
制作の裏話では、出来上がってきたこの曲を聴いて
衝撃を受けたスタッフが、
ストーリーも、エルサとアナのキャラクターも
それまで作ってきたものを一掃して書き替えたという。
(エルサは当初、芯から冷酷で戦闘的な
氷の女王という悪役だったらしい)
まさに新たな作品世界の礎となるだけの
エネルギーを持った楽曲だ。
オリジナルの歌唱は、声優としてエルサを演じた
アメリカ人女優で歌手のイディナ・メンゼルだが、
公開されるやいなや、
世界中で数えきれないほどのアーティストが魅了され、
この名曲をカバーしている。
なかでも僕が好きで、冬になるといつも聴いているのが、
何もない雪原で、エルサとアナとは似ても似つかぬ
二人のおっさんが、真っ白なピアノとチェロで奏でる
インストゥルメンタル。
間奏とエンディングにビバルディの「四季・冬」を
絡めた超絶パフォーマンスは驚愕に値し、
テンションが上がりまくる。
「ピアノ・ガイズ」は、出演のピアニスト、チェリスト、
映像クリエイター、音楽プロデューサーからなるチームで、
映画音楽、クラシックを融合リアレンジし、
映像をネット上に公開。
美しい大自然の中でユーモアを交えて繰り広げられる
演奏・映像が話題を呼んでいる。
冷たい風が吹きすさぶ中、情熱をこめて、
この上なく楽しそうに演奏する姿は、
映画の世界をそのまま拡張したかのような
「レット・イット・ゴー」のアナザーワールドを
見事に表現している。
そして、凍えるような季節がやってきても、
僕たちも熱く楽しく、愛を持って
毎日を生きたいと思わせてくれる。
いまや観光地は、ゆるキャラ、アニメキャラだらけ。
鬼怒川温泉の観光案内所にも
4人の美少女さんがたちがいた。
このうち、グレーの制服を着ているのは
「鬼怒川みやび」ちゃんという
東武鉄道の特急スペーシアの車掌さん。
「日々、接客について勉強中💛」。
紺の制服は「大桑じゅり」ちゃん。
鬼怒川には東武鉄道が運営する
「SL大樹」も走っており、彼女はその新米機関士さん。
「持ち前の明るさとガッツを武器に奮闘中💛」です。
この二人は全国の鉄道事業者の現場で活躍する
キャラクターコンテンツ「鉄道むすめ」の一員だ。
「鉄道むすめ」は結構何年も前から
「鉄むす」の略称で親しまれているようだが、
僕はこんなコンテンツがあるなんて、
今回の旅で(実際には今日ネットで調べて)初めて知った。
他の2人のことはよくわからないが、
鉄むすとのコラボで、
ご当地キャラクターとして生まれたのだろうか?
僕は赤鬼ちゃんと機関士さんがお気に入りである。
鬼怒川温泉は10年ほど前に放送されたアニメ
「未来日記」の1エピソードで描かれていて、
「アニメ聖地巡礼地」の一つになっている。
(これも今日初めて知った)
このアニメも見たことないので内容はわからないが、
ネットで調べると、廃墟の描写がすごくて、
鬼怒川温泉は完全に
「凋落して廃墟と化した昭和時代の大温泉街」の
イメージになっている。
実際、昭和の後半、鬼怒川は箱根や熱海と肩を並べる
大温泉街、娯楽の殿堂だった。
東京から近いというロケーションも幸いして
毎日、観光バスに乗った団体客や
東武鉄道に乘った家族連れなどがわんさか押し寄せて、
週末ともなれば、ホテルや旅館が並ぶメインストリ-トは、
都心の繁華街のように人がごった返していたらしい。
栄枯盛衰。諸行無常。
栄光の頂点から落ちぶれてから何年経つというのか。
殿様商売を改められなかったところは
もう滅びるしかない。
そんなわけで廃墟ホテル、廃墟施設が
わんさか出来上がってしまったのだろう。
僕は廃墟は見なかったが、
日暮れとともに外は閑散となって、
かつて賑わったメインストリートは
確かにわびしげな風が吹いていた。
こうした観光地はもう開き直って、
前世の記憶みたいな大廃墟を売り物にするぐらいの
ことをやったほうがいい。
(てか、勝手に見物客は集まってくるみたいだけど)
廃墟から再出発した鬼怒川温泉。
もう昭和の賑わいを取り戻すのは無理だ。
そんな夢は追わないほうがいい。
それで人が来るのなら、アニメ娘に頼ってもいい。
鬼怒川みやびちゃん、大桑じゅりちゃん、
いいではないか。
萌える、癒される、かわいい温泉ビレッジを
再構築してほしい。
「僕が作った武器なんて何の役にも立たないんだ。
怪獣はみんなウルトラマンが倒してくれるんだから」
無力感に苛まれたイデ隊員は、戦うことを放棄して
空に向かって声を振り絞ってウルトラマンを呼んだ。
「ウルトラマーン、早く来てくれ。
ウルトラマーン!」
ウルトラマンであるハヤタ隊員はその姿を見て、
変身するのを躊躇ってしまう。
初代ウルトラマンの第37話「小さな英雄」は、
子ども心に全エピソード中、最も感動的な話だった。
じつはこの回の主役は怪獣ピグモンなのだが、
僕の中では完全にイデ隊員が主役だった。
イデ隊員は第23話「故郷は地球」でも主役だった。
辺境の惑星で怪獣になってしまった宇宙飛行士ジャミラは
人間に復讐するために地球に帰って来た。
科学特捜隊は、彼の正体を隠したまま、
抹殺しろと命令を受ける。
破壊を繰り返すジャミラにイデ隊員は悲痛な叫びをあげる。
「ジャミラ、おまえは人間の心さえ失くしてしまったのか!」
昨年亡くなった二瓶正也さん演じるイデ隊員は、
科学特捜隊の兵器やマシンを開発する天才科学者でもある。
しかし、○○博士といった威厳ある趣はみじんもなく、
ヒラ隊員に甘んじており、
普段はひょうひょうとした3枚目キャラだ。
けれども彼のシリアスでヒューマンな面を印象づけた
この2つのエピソードが
「ウルトラマン」のトーンを決めた。
イデ隊員が表現する人間性こそが
「ウルトラマン」の本質なのである。
当時、僕は6歳だったが、
子どもの胸に入り込んだものは、
とてもとても信じるに値する。
「シン・ウルトラマン」は劇場で一度見たが、
配信が始まったので昨日、家でもう一度見た。
ここには、かつてのウルトラマンという物語の
エッセンスが凝縮されている。
細部にわたる庵野監督の仕掛けはさすがだと思う。
旧作へのオマージュもふんだんに盛り込まれている。
さらに現代社会への風刺も。
世界は核兵器による脅し合いで成立している。
核に代わるパワー、核を凌駕するパワーを
どの国も求めていることが、
登場人物のセリフから伝わってくる。
ウルトラマンの軍事利用。
ベータシステムの政治利用。
メフィラスとの交渉シーンでは、
そのあたりが実にうまく表現されている。
メフィラスを演じる山本耕史は最高だ。
そうした現代ならではの要素
(実は55年前と大して変わっていないけど)を
盛り込みつつ、ちゃんと本質を抑えている。
「シン・ウルトラマン」を観ていて
僕にイデ隊員を想起させたのは、
有岡大貴が演じる禍特対(禍威獣特設対策室専従班)の
滝明久である。
滝は粒子物理学者で、かなりの天才らしいが、
メンバー中最年少の若僧。
劇中、けっこう生意気な口を叩くが、
最後のゼットン登場によって、
「小さな英雄」のイデと同じく、
深い無力感と絶望感に苛まれる。
「ウルトラマンも勝てない相手だ。
もう人間はおしまいなんだ」
彼には少しエヴァのシンジくんも入っているようだ。
けれども滝もまた、あの時のイデ隊員と同じく、
奮起し、自分のできることをする
(それがすごいんだけど)。
人間がアホで能なしで臆病で、
しょーもないゼツボー的生き物であることは
わかっているけど、そんな現実に
めげてないで一生懸命やるしかないのである。
一生懸命やってれば、いつかどこかで
ウルトラマンも助けてくれるかもしれない。
一口で言えば、
それがウルトラマンという物語のメッセージだ。
ウルトラシリーズで最も評価されているのは
「ウルトラセブン」だと思う。
確かにセブンは引き締まったシリアスな展開で、
おとなっぽくてドラマとしての質も高い。
それに対して「ウルトラマン」は
メルヘンあり、コメディあり、ホラーあり、
ファンタジーありの子どもっぽいバラエティだ。
(前作の「ウルトラQ」の世界を引き継いでいる)
おそらく初めて観た時の年齢が関係していると思うが、
僕は子どもこ心に訴える、
柔らかで広がりのあるコンテンツとして、
戦闘的なウルトラセブン
(およびその後のシリーズの各作)よりも
ウルトラマンのやさしいヒューマンな物語が
好きなのである。
ただ、おとなになった今、原本のウルトラマンは、
さすがに稚拙さ・子どもっぽさが目立って
まともには見られない。
今回の「シン・ウルトラマン」は、
2時間の重厚でリズム感あふれるドラマに仕立て上げて
その真髄を見せてくれた。
ラストもキレがあり、シャレが効いている。
願わくば「故郷は地球」のエピソードを活かしてもう1作。
最終兵器のゼットンを出しちゃったから無理かと思うけど。
うちの近所にある杉並のパワースポット・大宮八幡宮で、
ちっちゃいおじさんの出没情報が
多数報告されるようになったのは、
10年ちょっと前、2010年あたりからだ。
ちょうどリーマンショックの後遺症の時期だったので、
失業し失踪したお父さんたちの魂が
神宮の杜を彷徨っているのでばないか――
と、まことしやかな噂を耳にした。
仮説として面白い。
僕もリーマンショックの打撃を負った一人だったので、
その仮説をもとにラジオドラマのシナリオを書いた。
その話をノベライズしたのが、
現在、電子書籍kindleで出している
「ちち、ちぢむ」という少年少女小説である。
http://www.amazon.com/dp/B09WNC76JP
今日、義母を連れて久しぶりに大宮八幡まで散歩に行ったら、
初詣に備えてなのか、賽銭箱が新調されていた。
それに七五三の季節なので、
ちびっ子がうじゃうじゃいる。
そんな状況のなかで、
なんだかちっちゃいおじさんの匂いがプンプンしてきた。
そうなのだ。ちっちゃいおじさんは七五三が好きなのだ。
目撃情報も七五三の頃になると跳ね上がる。
理由は二つあって、
一つは綺麗な着物を着た子供たちがたくさん来るので、
ちっちゃいおじさんの魂が萌えて、つい人前に現れるから。。
もう一つは、おとなはそんなものいないと思っているから
見えることはないが、
無垢な心の子どもの目には見えてしまうから。
奇しくも同神宮のティーサロン
「清涼殿」に入ってお茶したら、
殿内にあるPR映像用の画面に
「いきなり都市伝説」の関暁夫氏が出ていて、
ちっちゃいおじさんについて、例の調子で語っていた。
大宮八幡宮、このタイミングでこんなビデオを流すとは、
なかなか抜け目ない。
寺社にもマーケティング能力が
必要とされる時代であることを実感する。
心が世俗の手垢にまみれている僕は、
当然のごとく、ちっちゃいおじさんには会えなかったが、
帰り道、義母に問われた。
「あれ、いっしょにいた、あのちっちゃい子たち、
どうしちゃったの?」
認知症で聖なる子どもに還っている義母には、
七五三の子どもらに混じって、
彼らの姿が見えていたのだろうか?
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
この話、信じるか信じないかは、あなた次第です。
968年リリース。
イギリスのシンガーソングライター、
メリー・ホプキンが歌ってグローバルヒット。
とても印象的なメロディーラインなので、
若い世代でも聴いたことがある人が多いだろう。
僕はフランスのシャンソンの何かの曲を
モチーフにしているかと思っていたが、
原曲はロシアの歌謡曲で、
それをアレンジしたのだという。
さらに驚きなのが、当時、ビートルズが作った
アップルレコードからの初のシングルであり、
ポール・マッカートニーが
プロデュースしたのだとか。
そんな意外な事実に衝撃を受けた
「悲しき天使」だが、
僕にとってこの曲は唐十郎の戯曲「少女仮面」の
テーマ曲である。
唐十郎は1960年代から70年代にかけて
世の中を席巻したアングラ演劇の
劇作家であり、大スターであり、
彼の率いる劇団状況劇場は、
恐るべきスター俳優が勢ぞろいする
超パワー劇団だった。
その唐十郎が1969年に書き下ろし、
1970年の第15回岸田戯曲賞
(演劇界の芥川賞と言われる)の受賞作が
「少女仮面」だった。
この戯曲には冒頭部分のト書きで、
「メリー・ホプキンの『悲しき天使』が流れる」と
堂々と書かれている。
物語はさすがアングラ芝居らしく、
いろいろな幻想的なシーンがコラージュされていて、
単純なつくりではないが、
最も主軸となるテーマは「老い」、
それも女の老いである。
「時はゆくゆく、乙女は婆に、
婆は乙女になるかしら?」
なんて歌も挿入されるが、
おそらく「悲しき天使」が、
この物語の重要なモチーフになったのだろう。
この頃の邦題は、歌にしても映画にしても、
女が主役・歌い手だったりすると、
やたら「悲しき○○」「天使の○○」「○○の天使」
というのが多いが、原題はまったくこれと関係ない。
原題「Those were the days」は、
「あの頃はよかった・あの頃がなつかしい」
という意味で、歌詞の内容は、
まさしくな懐メロ大好きな中高年が、
青春時代の思い出に耽っている、という内容。
歌うメリー・ホプキンは当時、
まだ少女と言ってもいい18歳の女の子だった。
天才的物語作家で、次々と戯曲を書きまくり、
芝居を打ちまくっていた唐十郎の頭の中には、
この歌詞とメロディを聴いただけで、
「少女仮面」の構想が、
ダダダダと出来上がったのだと思う。
(確か何かの本で「三日で書き上げた」
と言っていたような記憶がある)
ちなみに「少女仮面」は、
僕が演劇学校に入った年、
学内の1年上の先輩方が上演して
「すげー」と衝撃を受けた思い出がある。
こんな芝居をやるなんて、
先輩方がみんな天才俳優に見えた。
今でもその時の、
ひとりひとりのキャラクターを鮮烈に憶えている。
また、この作品は「老い」という普遍的なテーマ、
そして役者の人数も適度で、
大掛かりなセットもいらない、
時間的にも割と短く、
上演しやすいといった要素から、
唐十郎の芝居の中で最も人気があるようで、
最近でもどこかしらの劇場でやっているようだ。
そして「悲しき天使」も時を超えて流れている。
18歳だったメリー・ホプキンも、
もう70歳を過ぎている。
婆は乙女になるかしら?
おりべまことハロウィンスペシャル
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10月29日(土)17:00~11月1日(月)16:59
ざしきわらしに勇気の歌を:短編小説
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ハンザキを喰った話:長篇小説
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世界のEndligWatch:エンディングエッセイ①
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死ぬまでジタバタしようぜ:エンディングエッセイ⓶
http://amazon.com/dp/B0B5FMN8QW
1972年リリース。
1970年代に人気を誇ったウィッシュボーン・アッシュは、
最近、あまり語られることが少ない。
しかし、この曲がラストを飾る「百眼の巨人アーガス」は
必聴の名盤である。
逆に言えば、他は聴かなくていいので、
「アーガス」だけは聴いてほしい。
内容はレコードジャケットに表現された世界そのまま。
中世の戦士が彼方の空を見つめる。
その視線の先、霧に霞む山の向こうに
かすかに見え隠れするUFO。
過去と未来を繋ぐ、恐ろしくイマジネーティブな音楽が、
1曲目「時は昔」のギターのイントロから展開する。
ウイッシュボーン・アッシュは
一般的にはハードロックに分類されることが多いが、
彼らが最も輝いた、この「アーガス」の世界は、
プログレッシブ・ロックのノリである。
それもシンセサイザーなどのキーボードを使わず、
ツインリードギターとベース・ドラムの編成で
繰り出すサウンドは、シンプルで味わい深く、
他のプログレバンドにはない独特の美学がある。
このアルバムは、いわゆるコンセプトアルバムとは異なり、
特に一貫したストーリーや
明確なテーマがあるわけではない。
しかし、美しくユニークなジャケットにも表現された
統一された世界観は、
却って聴く者の心に、さまざまなストーリーを湧かせる。
そして、そのエンディング曲、
ツインギターの独特の哀愁を帯びた「剣を棄てろ」は、
当時の東西冷戦に対する反戦歌とも解釈できる。
剣を棄てろ
戦いは終わった
勝者も敗者もない。
闘争の怒りはただ漂流するだけ・・・・
50年の年月が経ち、
今また世界は同じ時・同じ道を巡っている。
いつか「剣を棄てる」時代は来るのだろうか。
脚本もセリフも素晴らしい。
それを3日かけて観た。
1日1幕ずつの3幕劇。
村上春樹の小説を濱口竜介監督が映画化した。
昨年のカンヌ国際映画祭脚本賞、
今年のアカデミー賞国際長編映画賞など、
世界的に評価された作品。
第1幕、序盤のハイライトは濡れ場。
こちらの世界とあちらの世界へ、
ファンタジー要素のない、リアルベースの物語なら、
日常のマテリアルな世界から、
内面のマインドな世界へぬけるために、
セックスをトンネルとかブリッジに使うのは、
村上春樹の常套手段だが、
それを映像化すると、こんなにエロくなるのかと
ちょっと驚いた。女優さんが上手だ。
第2幕は演劇の世界。
主人公が演出家なので、演劇のシーンが多いのだが、
その空気感もビンビン伝わって来た。
すごく久しぶりにチェーホフの戯曲に触れた。
若い頃はチェーホフなんて退屈で嫌いだったのだが、
いま観ると面白そうだ。
韓国の俳優さんたちがいい味を出している。
舞台が広島というのもいい。
そういえば、瀬戸内にはもう何十年も行ってない。
第3幕はロードムービー。
広島から北海道へ、タイトル通りドライブ・マイ・カー。
クライマックス。
主人公とドライバーの女の子のセリフが胸を打つ。
でも、すごく感動!という映画ではない。
てか、やたら淡々とした地味な映画だ。
しかもその割に長い。
なんと3時間近くもある。
それもあって1日では見られず、3日かけて観たのだ。
でも、そのおかげですごく心に染みる映画として見られた。
べつにこれは皮肉ではない。
本を読むように、ページを見返しながら、
ちょっと戻し戻し見ながら、
1シーン、1シーンを噛み締めながら楽しむ。
正直、映画館で見たら途中で寝てしまって、
「なんだか地味で、よくわからなくて退屈だった」
あるいは
「序盤の濡れ場だけがやたら印象に残った」
という感想しか抱かなかっただろう。
今はネット配信で、何日でもかけて、
いくらでも止めながら観られる。
今までの映画の見方からすれば、
そんなの邪道なのかもしれないけど、
そのほうがいい作品もあると思う。
今だとAmazonPrimeの見放題で見られます。
良い映画なんでおすすめです。
もちろんイッキに見てもいいし、
1週間かけてちびちび見るのも良し。
マイナビ農業の仕事で、
ハラールに関する8千字の記事を書いた。
「ハラール」とは、ムスリム(イスラム教徒)にとって
「許されたもの」。
これに対して禁じられているものは「ハラム」という。
これらは彼らの聖典であるコーランに記されている。
このハラムで有名なのが、豚肉とアルコールだ。
ロンドンのレストランで働いていたとき、
職場の仲間にエジプト人のムスリムがいて、
彼は酒が好きだった。
さすがにそんなにガバガバとは飲まなかったが、
チビっと飲んでは酔っぱらっていた。
地元の国ではどうだか知らないが、
外国に在住しているムスリムの間では、
アルコールの禁忌については割と甘いようである。
けれども豚はダメだ。
彼もけっして豚肉は食べず、
賄いでトンカツやハムカツが出てくると、
オー!と、天を仰いで嘆いていた。
それにしても疑問はやはり、
なぜイスラム教は豚を禁忌としたかである。
「豚は不浄の動物だから」というのは
どうも説得力がない。
豚は本来、きれい好きな動物で、
豚小屋が汚いというイメージは、
むしろ飼う人間の側の問題・責任である。
それよりも有力な説は、イスラム教の創始者とされる
預言者ムハンマドが生きていた時代(7世紀はじめ)、
中東地域(現在のサウジアラビアあたり)で
豚肉が原因となって疫病が流行したということ。
豚は雑食性なので、ヒツジや牛などの草食動物より
肉が腐りやすい。
衛生管理がなっていなかった当時としては、
十分あり得る話である。
もちろんヒツジだって牛だって鶏だって
冷蔵しとかなきゃ腐るのだが、
たまたまムハンマドが豚肉由来の疫病に
出逢ってしまったのだろう。
歴史は僕たちが思っている以上に、
必然よりも偶然の力が大きい。
なんとなく納得してしまう説だが、それでも釈然としない。
仏教やキリスト教の地域だって同様のことはあったはず。
これだけ世界に広がった宗教の創始者だから、
ムハンマドの信念はもっと複雑で深いはずだ。
彼は直観で知っていたからではないかという気がする。
「豚は人間に酷似してる」
つまり豚を食べることは、人肉食に通じる。
そうイメージして恐怖し、ブタにフタをしたのである。
実際、豚の皮膚や臓器は、類似猿よりも人間に近く、
代替が可能だという。
皮膚や臓器の移植手術は
190年代から試行検討されており、
つい最近、ついに実際に行われた。
今年2月には
「世界初、ブタからヒトへの心臓移植の注目点は」
という医学記事も発表されている。
(以下抜粋)
2021年1月7日、米メリーランド大学の医療チームにより、
世界で初めてヒトへの遺伝子改変ブタの心臓を用いた
異種移植が実施された。同大学の公式サイトによると、
2月9日現在、レシピエントの57歳男性に移植されたブタの心臓は
問題なく機能しており、
24時間体制のケアを受けている様子が伝えられている。
https://www.m3.com/clinical/open/news/1018905
預言者ムハンマドは、イエス・キリストと違って
神の子として生まれてきたわけではない。
彼は商人として暮らしていた40歳のときに突然、
天使ガブリエルによる啓示を受け、
預言者として神からのメッセージを
人々へ伝えていくことを決意したという。
彼はその中で人間と豚の近親関係を感知し、
それを人々に「豚肉食禁止」と言う形で説いた。
それが人々の心の奥底にあった、
豚に対する近親相関的感情に響いたのではないだろうか?
上記のような移植の話は、
到底、ムスリムの人々は受け入れられないだろうが、
医学的・科学的に興味を抱く人は少なくないはずだ。
あなたは自分が、あるいは家族が、
命を救うためにこの臓器移植の提案をされたら、
どうしますか?
今回の仕事は、ハラールについて、イスラム教について、
豚についての神秘を感じた面白い仕事だった。
この件についてはまたおいおい。
お待ちかね。
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おとなも楽しい少年少女小説 第10作。
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人気ポップスターだった父は、
意識不明の状態で病院のベッドに横たわっていた。
音楽で生きる父と子の、死を前にした対話の物語。
短編。1万9千字。
★あらすじ
デビュー間もない若いシンガーソングライターは
時おり、広い畑の夢を見る。
そこでは幼い頃に死別した妹が畑仕事をしている。
夢の中でいっしょに成長してきた彼女は
「お父さんがもうすぐここに来るよ」と彼に告げた。
それが予知夢であるかのように、
ほどなくして父が脳出血で倒れた、
という報せが入る。
彼の父もまたミュージシャン。
それも世界的に有名なポップクスターであり、
愛のメッセンジャーとしても知られる人物だ。
けれどもそうした世間のイメージとかけ離れた、
プライベートな顔を知る息子は、
自分と母親と妹を捨てて生きてきた
父をひどく憎んでいた。
一本のギターを抱えて、
病院に瀕死の父の面会に訪れた息子。
閉じられた病室の中で、
意識を失ったままベッドに横たわる父に向き合い、
胸の奥から湧いて出る思いをつぶやく。
そしてギターを媒介として、
意識のないはずの父と「イエス・ノー」の問答形式で
会話を交わすようになる。
次第に息子は、もう表に現れない父の奥の意識と
一つになっていき、
それまで知らなかった父の人生の一面を垣間見る。
栄光の中の孤独。
自分が信じていた音楽の才能が枯渇していく恐怖。
安息の場のはずだった家庭も重圧となり、
精神的混乱は家族愛さえも悪夢に変えてしまう。
迷走した父は家族を捨てて
一人の女(後妻)との愛に生きるようになる。
息子はそんな不完全な人間だった父を
少しだけ赦せる気持ちになり、
彼が旅立つ前に最初で最後のデュエットを
しようと試みる。
面会時間が終わる頃、
病室に父の心を奪った女――後妻が現れる。
憎しみのため、それまで顔をそむけ続けてきた相手。
そんな相手と言葉を交わし、思いを交流させるうち、
息子の中には新しい自分の音楽を作り、
歌い始める準備が進んでいった。
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あらすじ
デビュー間もない若いシンガーソングライターは
時おり、広い畑の夢を見る。
そこでは幼い頃に死別した妹が畑仕事をしている。
夢の中でいっしょに成長してきた彼女は
「お父さんがもうすぐここに来るよ」と彼に告げた。
それが予知夢であるかのように、
ほどなくして父が脳出血で倒れた、
という報せが入る。
彼の父もまたミュージシャン。
それも世界的に有名なポップクスターであり、
愛のメッセンジャーとしても知られる人物だ。
けれどもそうした世間のイメージとかけ離れた、
プライベートな顔を知る息子は、
自分と母親と妹を捨てて生きてきた
父をひどく憎んでいた。
一本のギターを抱えて、
病院に瀕死の父の面会に訪れた息子。
閉じられた病室の中で、
意識を失ったままベッドに横たわる父に向き合い、
胸の奥から湧いて出る思いをつぶやく。
そしてギターを媒介として、
意識のないはずの父と「イエス・ノー」の問答形式で
会話を交わすようになる。
次第に息子は、もう表に現れない父の奥の意識と
一つになっていき、
それまで知らなかった父の人生の一面を垣間見る。
栄光の中の孤独。
自分が信じていた音楽の才能が枯渇していく恐怖。
安息の場のはずだった家庭も重圧となり、
精神的混乱は家族愛さえも悪夢に変えてしまう。
迷走した父は家族を捨てて
一人の女(後妻)との愛に生きるようになる。
息子はそんな不完全な人間だった父を
少しだけ赦せる気持ちになり、
彼が旅立つ前に最初で最後のデュエットを
しようと試みる。
面会時間が終わる頃、
病室に父の心を奪った女――後妻が現れる。
憎しみのため、それまで顔をそむけ続けてきた相手。
そんな相手と言葉を交わし、思いを交流させるうち、
息子の中には新しい自分の音楽を作り、
歌い始める準備が進んでいった。
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父をひどく憎んでいた。
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次第に息子は、もう表に現れない父の奥の意識と
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栄光の中の孤独。
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安息の場のはずだった家庭も重圧となり、
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ツイッターに「女王に捧げた最期のバグパイプ」
がアップされていた。
テレビ中継では見なかったが、
ウィンザー城のセントジョージ礼拝堂で
女王の棺が地下に降ろされ埋葬される時に
奏でられたものらしい。
まるで美しい映画や演劇のラストシーンのようだ。
とても感動的なのと同時に、エリザベス女王の
「スコットランドよ、行かないで」という
願いも込められているかのようだ。
ちょっと前から「6600万年前の夢を見て死ね」
という小説を書いていて、
これにマイケル・オーネストという人物が登場する。
マイケルはスコットランド人のバックパッカーで、
日本人女性と結婚し、東京で25年暮らしていたが、
還暦になり、スコットランド独立運動と
ネス湖の観光事業に取り組むため、
故郷スコットランドに帰ろうとしている。
彼はバグパイプ奏者でもあり、
楽器を教わりに来た主人公の男を相手に居酒屋で
スコットランドの自慢をして
「ネス湖を見て死ね」と、くだを巻く。
そんな設定なのだが、僕はスコットランドには、
1986年の春にネス湖観光、
1987年の夏にエジンバラ演劇祭を見に行ったきりだ。
特に強烈な印象はないが、
ロンドンなどより物価が安く、
のんびりした田舎というイメージが残っている。
インヴァネスの宿に泊まった時に給仕してくれた
当時高校生くらいの女の子が
真っ赤なほっぺをしていて可愛かった。
イングランドとスコットランドはここ数百年、
何とか折り合いをつけて仲良くしてきたが、
いつまでも過去を懐かしんではいられない。
何よりも民族としての
アイデンティティが大事なのだ。
亡き女王の願いむなしく、
近いうちにスコットランドは独立するだろう。
それが歴史の必然のような気がする。
そう思ってこのバグパイプを聴くと、
よけいに切なく美しく響く。
そしてエリザべㇲ2世の生きた時代は、
次世代へ語り継がれる物語としてパッケージされる。
昨夜はエリザベス女王の国葬を、BBCの生中継で見た。
こんなに絢爛豪華で美しい式典を見ることは
もう生涯ないだろうと思った。
内容の重厚さあってこその華やかさ。
あれだけ世界の要人が一堂に集まることも
もうこの先ないのではないか、と思える。
そいて、こんなすごいことをする国、できる国は、
もう地球上にイギリスしかない。
BBCの気合の入れ方もハンパなかった。
イントロダクションの編集もめっちゃカッコいいし、
ウェストミンスター寺院の天井にカメラつけて
神さま目線の大俯瞰映像を撮るなんて本当にびっくりした。
おそらくBBCは昨日の中継映像を、
後世に残す、人類共有の遺産とすることを意識して
撮ったのではないだろうか。
21世紀になってから22年目にして、
とうとう20世紀の真の終幕を見た感じがする。
国葬のパレードは軍隊に支えられていた。
王制と軍制は一体のものであり、
あの祭典は、大英帝国の祭典である。
僕たちが暮らすこの世界は、
いまだ大英帝国の影響下にあったのだ。
その礎を築いたのは、16世紀のエリザベス1世。
海軍と海賊を使って世界の覇権を握り、
イギリスに富と繁栄をもたらした。
19世紀。ヴィクトリア女王の治世と産業革命。
日本も初めてグローバル化し、文明開化を迎え、
資本主義・覇権主義の時代が始まった。
世界を制覇し、栄光に包まれた大英帝国の歴史は、
富を求め、権力と暴力で人を抑えつける
搾取・略奪・虐殺・支配・蹂躙の歴史でもある。
エリザベス2世はそうした前世代の恩恵と、
犯した罪悪の双方を熟知して
この70年間、必死で世界のバランスを保つのに
努めてきたのだと思う。
そして自分の葬儀さえも過去と未来との懸け橋にした。
英王室内の知恵の蓄積もあったのだろうが、
すごい女王、すごい物語の作り手だ。
彼女がいなくなった今、
大航海時代から20世紀、そして今日まで
続いてきた一連の流れはゆるやかに止まっていくだろう。
英連邦国家の独立や、王制廃止の動きも
雪崩を打って襲ってくるだろう。
ユニオンジャックの国旗を見るのも、
もうそんなに長くないかもしれない。
世界のかたちは変わり、資本主義社会の在り方も
変質していくだろう。
もしかしたらそれらは僕がまだ生きている間、
向こう10年、20年のうちに実現してしまうかもしれない。
僕たちの子孫は、昨日の国葬を
20世紀文化のアーカイブとして鑑賞するのだろう。
そして、王様・女王様のいる世界を
バーチャルとして楽しむようになるのかもしれない。
リアルにこんなことをやって、無駄ガネを使いまくって、
なんてクレイジーな時代だったんだ!
ということになるんだろう、きっと。
僕らはそれを寂しいと思ってこう言う。
「いや、民主主義・合理主義には賛成だけど、
人間というものはどこかでこういう物語を
求めているんじゃないか?
それが心を豊かにするんじゃないか?」
だが結局、新しい時代のことは、
新しい世代が決めることになる。
いずれにしてもロンドンとウィンザーで
エリザベス女王を見送った僕たちは、
一つの歴史と始まりを見届けた。
とても幸運なことだし、貴重な体験をしたと思う。
過去にブログやSNSで書いたエッセイを
編集・リライトして電子書籍にしている。
今度の新刊「赤ちゃんはなぜかわいいのだ?」は、
子どもがテーマ。
その編集をしていたら
子ども時代に見た「ウルトラQ」がらみのネタが
3本もあった。
そう言えば、この間も5年くらい前に書いた
「2020年の挑戦への挑戦」を引用されてくれと
リクエストが来たのでOKした。
(この記事はエッセイ集:生きる
「酒タバコやめて100まで生きたバカ」に収録)。
ウルトラQは、のちのウルトラマン、ウルトラセブンなど、
ウルトラシリーズの元祖である。
製作・放送はなんと1966年。
その後のヒーローものにはさして執着心はないが、
Qはべつもの。
6歳の時、僕はいったい何を見たのだろう?
といまだに考える。
Qの記憶は素晴らしく鮮明で、
深読みさせられるマテリアルが
たくさん埋蔵されているので、
いまだに頭の中で、それぞれのエピソードが、
進化・深化を続けている。
そのQの中で活躍していた紅一点が
桜井浩子さん演じる「ユリちゃん」である。
桜井さんは、この後のウルトラマンに出てくる
科学特捜隊のフジ・アキコ隊員のほうが有名かもしれない。
「ユリちゃん」こと江戸川百合子は、
新聞社の女性カメラマンで、
ほかのふたりの男性とトリオの主人公で、
怪獣や怪事件に立ち向かっていた。
この時代、特撮やアニメ番組に出てくる
若い大人の女性は、なぜかカメラマンが多かった。
「スーパージェッター」のカオルさんとか。
まだ職場が男だらけだった時代、
カメラ片手に颯爽と駆け回るおねえさんは
子ども心にカッコよくて、胸がときめいた。
しかもユリちゃんはただ写真を撮るだけでなく、
知的でユーモアがあって勇敢で優しかった。
時にとんでもない悲劇にも見舞われた。
そのユリちゃん、そしてフジ・アキコ隊員を演じていた
桜井浩子さんの記事を先日読んだが
とても面白くて、こころ動かされた。
怪獣もののイメージがついてしまって、
その後の女優業は苦労したのではないかと思うが、
今になって、その半世紀以上前のキャリアが
燦然と輝いている。
彼女は現在、ウルトラ関係のコーディネーター業を
やっていて、今回の「シン・ウルトラン」でも、
裏方でいろいろ活躍していたようだ。
僕が6歳の時におねえさんだったのだから、
それなりのお齢だが、
この明るさ・元気さは素晴らしい。
こうなるともう生涯現役確定。
ユリちゃんファンも、フジ隊員ファンも
死ぬまでついていく。
いつまでもウルトラの女神でいてほしい。
以前、月刊仏事に告知記事を載せた、
泉ピン子の「すぐ死ぬんだから」というお芝居に
ご招待いただいたので観に行った。
劇場は東池袋の「あうるすぽっと」。
最後はいつだったか思い出せないほど、
観劇はかなり久しぶりだが、めっちゃ面白かった。
夫とともに町の商店を切り盛りしながら、
夫婦仲よく平凡に生きてきた
78歳の高齢女性を主人公としたストーリー。
テレビドラマの脚本家としておなじみ、
内館牧子が書いた小説を舞台用に構成した朗読劇で、
出演は泉ピン子と村田雄浩。
泉が、主人公のハナ役をメインに、
村田がその夫と息子をメインにしながら、
全登場人物、そして小説の地の文に当たる部分を
ト書きやナレーション風にして、すべて演じる。
その切り替えとバランスが抜群で、
縦横無尽に感情をさらけ出して暴れる泉ピン子を
村田雄浩が見事にフォローする。
だからとても安心して感情移入でき、笑って泣けるのだ。
泉ピン子が本に惚れて舞台化を企画したそうだが、
現代の高齢女性の心をドラマ化した
内館牧子の原作が素晴らしい。
タイトルの「すぐ死ぬんだから」は
劇中、随所にキーワードのように出てくる。
場面によって諦観の表現や、
笑いを誘うためのセリフとして
使われているところもあるが、
全体を通してみると、
人生の終章近くを生きる女性を叱咤し励ます
エールのような意味合いを帯びている。
そしてそれが最後には高齢女性に限らず、
すべての世代の男女に向けた
人生の応援歌として響いてくる。
観客も高齢者が大半かと思っていたら、
けっこう若い人も多く、バラエティに富んでいた。
休憩20分を入れて2時間余り。
終了後、作品の余韻を残したまま、
ピン子さんと村田さんがカーテンコールで
10分ほどのトークをしたが、それもまた楽しくて、
みんなとても良い気分で劇場を後にした。
まさしく名優にして名エンターテイナー。
東京での公演の後、年内は全国ツアーに出る。
機会があれば、ぜひ観ると面白いですよ。
第2世:長編小説特集「読むホリデー」
8月9日(火)16:00~12日(金)15:59
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子どもたちの未来を開くのは愛と笑いとオナラの力!
・いたちのいのち http://www.amazon.co.jp/dp/B08P8WSRVB
少女とフェレットの楽しい暮らしと切ないお別れの物語
・ちち、ちぢむ
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ちっちゃいおじさんになっちゃったお父さんを救え!
レビューお待ちしています。
あなたの感想をお聞かせください。
第1世:短編小説特集「1時間で奇譚旅行体験」
8月8日(月)15:59まで
・魚のいない水族館
主人公が就職した廃墟の水族館が、人魚も踊るひと夏だけのカーニバル会場になった。
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皆さんの読んだ感想をお聞かせください。
第1世:短編小説特集「1時間で奇譚旅行体験」
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廃墟だったはずの水族館が、人魚も踊るひと夏のカーニバル会場になった。http://www.amazon.co.jp/dp/B08473JL9F
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いつもの散歩で今日はカメに遭遇。
川沿いのから家に戻る道は、ちょっとした坂になっている。
上り出すと、向こうから変な歩き方をするイヌが
坂を下りて来るのが見える。
どこか体が悪いんだろうかと思ったが、
よく見たらカメだった。
甲羅の長さが40センチくらいあるやつなので、
遠目では体の丸っこい小型犬に見えたのである。
こんなところをノシノシ歩いているカメは、
もちろんノラガメではない。
どうやらその後についてきた親子(母と娘)が
飼い主らしい。
聞いてみたら、親戚のペットのヒョウモンリクガメを
1週間預かってるのだという。
僕に話しかけられ、足を止められた臨時飼い主を尻目に、
カメは自分のペースでノシノシ、
ひたすらまっすぐ川に向かって歩いていく。
カメをトロいとかノロマだとか、バカにしてはいけない。
4本の逞しい足を交互に繰り出して、
ぐんぐん前に進んでいく歩みは実に力強く、
年寄りで足腰の弱ったイヌなどよりもよほど速い。
顔つきも精悍そのもの。
これならのんびり昼寝していたウサギも負かせる。
あっという間に10メートル以上進んでしまったので、
娘(小4くらい)がささっと捕まえにいった。
少女とカメのコンビは、
なんとなくミヒャエル・エンデのファンタジー小説
「モモ」に出てくるモモとカシオペアを思い出させる。
ひたすら進んでいくカメは、川まで辿り着いたら
娘を連れてタイムトラベルするかもしれない。
臨時飼い主のお母さんの話によると、
なかなか骨があるというか、肝の坐ったカメで、
イヌなどと逢っても泰然としているという。
逆にイヌの方がビビッて尻尾を巻いてしまうらしい。
その行く先に何が待っているのか面白そうなので、
ぜひ一緒にフォローしたかったのだが、
義母がいっしょだったし、
パラパラ雨が降り始めていたので帰らなくてならず断念。
また、あのカメに遇えるだろうか?
おりべまこと電子書籍 夏休み企画2022
真夏の世の夢 16日間連続無料キャンペーン予告
●第1世:短編小説特集
8月5日(金)16:00~8日(月)15:59
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●第2世:長編小説特集
8月9日(火)16:00~12日(金)15:59
・オナラよ永遠に http://www.amazon.co.jp/dp/B085BZF8VZ
・いたちのいのち http://www.amazon.co.jp/dp/B08P8WSRVB
・ちち、ちぢむ http://www.amazon.com/dp/B09WNC76JP
●第3世:エッセイ集:昭和/子ども/動物
8月13日(土)16:00~16日(火)15:59
・昭和96年の思い出ピクニック http://www.amazon.co.jp/dp/B08WR79ZCR
・子ども時間の深呼吸 https://www.amazon.com/dp/B0881V8QW2
・神ってるナマケモノ http://www.amazon.co.jp/dp/B08BJRT873
●第4世:エッセイ集:生きる
8月17日(水)16:00~20日(土)15:59
・酒タバコやめて100まで生きたバカ http://www.amazon.com/dp/B09MDX2J45
・いつもちょっとクレイジーでいるためのスキル https://amazon.co.jp/dp/B09QQ823C9
・銀河連邦と交信中なう http://www.amazon.co.jp/dp/B09Z6YH6GH
「刑務所のリタ・ヘイワース」と一緒に納められた
スティーヴン・キングの傑作中編。
タイトルや表紙から一見、
「スタンド・バイ・ミー」のような
青春物語なのかと思って読み始めると、
とんでもない目に遇う。
(「スタンド・バイ・ミー」も原作「死体」は、
映画と違ってかなる陰鬱な物語だが)
霊だの超能力だの超常現象だのは一切出てこない。
舞台はありふれたアメリカの田舎都市。
主人公は健康でスポーツ万能、成績優秀、
家庭にも恵まれ、経済的にも恵まれ、
孤独や貧困や差別などとは無縁な、
白い歯の笑顔が似合う理想的なアメリカ少年。
およそ人間の心の闇だの、
社会の裏とか影だのといったところとは
遠いところにいるはずだった少年は、
雑誌のエンタメ風読み物に掲載されていた
ナチスドイツの犯罪の話に興味を持った。
それに対する無邪気な好奇心が、
近所に隠れ住んでいた、
老齢のナチスの戦犯を見つけるという偶然から、
腹わたをえぐり出すような物語に発展する。
1983年にアメリカでキングの中編集「恐怖の四季」を
ペーパーバック化する際、
この作品の衝撃的な内容に出版社がおそれをなし、
「これだけ外せませんか?」と
お伺いを立てたといういわくもついている。
「あとがき」にはその時のことを語った
キングのインタビューの一部が載っている。
「僕は自分の精神分析に興味はない。
何よりも興味があるのは、
自分が何を怖がっているかに気付く時だ。
そこから一つのテーマを発見することができるし、
さらにはその効果を拡大して、
読者を僕以上に怖がらせることができる」
1980年代当時、発禁ギリギリとも言えるこの物語、
そして90年代以降、頻発する猟奇殺人・無差別殺人を
予言したかのような「ゴールデンボーイ」は、
超売れっ子作家であるキングの作品だからこそ
世に出すことができたのかもしれない。
1990年代から一般人の間でも精神分析、
プロファイリングという概念が広まり、
「トラウマ」「アダルトチルドレン」
といった言葉も一般化した。
以来、日本でも海外でも、
理由のわからない殺人事件が起きると、
僕たちはその犯人の心に闇をもたらしたもの———
孤独、貧困、虐待、差別、マインドコントロール、
格差社会のひずみといった問題を探し出し、
なんとか理解しようとする。
しかし、40年前に書かれたこの小説を読むと、
それ以前の何か—ー80年代のアメリカ社会に象徴される
現代のゴールデンな物質文明、
さらに情報化された社会そのものが、
人間を――特に可塑性のある子どもを、
容易にモンスター化する土壌に
なっているのではないかと思えてくる。
ナチスの老人との出会いはそのトリガーに過ぎない。
キングは二人の3年にわたる交流の過程を、
平凡な日常の描写を積み重ねながら描いていく。
そして、それが恐るべき状況を生み出し、
戦慄の結末へとつながっていく。
ラスト3頁の地獄の顛末の表現はあまりに素晴らしく、
読後感はとてつもなく苦い。
しかし、不思議なことに
それは何度でも何度でも嚙み締めたくなる、
噛み締めずにはいられない苦味なのだ。
それはこの物語がたんなる恐怖小説でなく、
僕たちの生きるこの社会に、
人間の魂に宿る善と悪の源泉に、
そして人生の始まりから行く末にまで
想像力を馳せらることができる、
現代の負の神話、負のバイブルだからではないかと思う。
「刑務所のリタ・ヘイワース」という小説がある。
ハリウッド映画の中でも屈指の名作と名高い
「ショーシャンクの空に」の原作である。
作者はかのホラー小説の帝王スティーブン・キング。
中編集「恐怖の四季」の一編。
日本で出ている文庫本では「ゴールデンボーイ」と
一緒に収録されている。
映画のほうはヒューマンドラマの側面を強調した
感動的な物語として仕立てられているが、
小説は若干ニュアンスが異なり、
あそこまでの痛快感はない。
もっと内省的で、もっと多くの含蓄を含んでいる。
ホラー小説ではないが、「恐怖」の要素は入っている。
人の心を蝕む監獄という恐怖。
じわじわとその慣習に慣らされ、
夢や希望や人間らしさを剥ぎ取られていく恐怖。
そもそも主人公は、映画でティム・ロビンズが演じた
銀行家アンディーではなく、むしろ、
語り手である調達屋のレッドのほう。
映画では黒人のモーガン・フリーマンが演じたが、
こちらでは赤毛のアイルランド系移民
ということになっている。
なぜレッドが主人公かと言えば、
僕を含め、ほとんどの読者はアンディーよりも
レッドの境遇に近く、共感を抱くだろうからだ。
アンディーは自分は無罪であるという信念(正義)の上に、
強固な牢獄からの脱獄という、凡人には考えられない
めっちゃハードルの高い目標を立てる。
優秀な銀行家(経済のスペシャリスト)の上に、
遠大な計画力、主逸なアイデア力、果敢な実行力、
そして人生を賭けた、数十年にわたる地道な努力ができる
飛び抜けたヒーローだ。
それに対し、レッドはそれをただ観察し、評価し、称賛し、
彼が欲しいというリタ・ヘイワースのポスターを
こっそり調達してあげるだけの凡人である。
しかし、リタ・ヘイワースのポスターがきっかけで
二人は友だちになり、やがて深い友情に発展する。
アンディーにとって目標達成のためには、
自分の豊富な才能・人並み以上の能力・
不断の努力にプラス、
最後のカギとして「友情」が必要だった。
表面的には、次々と困難を克服していく
アンディーの活躍が物語の主軸となっている。
映画はもちろんこっちがメイン。
原作はそれとシンクロして
傍観者であるレッドの不安、絶望、希望の心の波を
綿密に描いている。
ショーシャンク刑務所は、殺人などの重罪を犯した
終身刑クラスの犯罪者を収容するところ。
つまり、ここに入ったら人生の大半を
刑罰としての奴隷労働を強いられる囚人として
過ごさなくてはならない。
だから自分も人間のはしくれだと信じ、
少しでも平安と快適さを得るためには、
監獄のルールに心身を慣らさなくてはならない。
そうして若い頃から身も心も監獄に縛り付けられると、
50~60代になって釈放されても、
自由の喜びでなく、
ジャングルに裸で放り出されるような
恐怖にやられてしまう。
そのため、ほとんどが再犯をして帰ってくる。
自分で自分を一生囚人化してしまうのだ。
レッドもその危機に立たされる。
そして、それを救うのが、
やはりアンディーとの友情だった。
映画はその最後をこの上なく美しく描いていて、
史上屈指のラストシーンとされている。
ただ原作はその一歩手前で終わっており、
英雄アンディーの話はもしかしたら、
凡人レッドが、シャバに出ても生き抜いていけるよう
勇気と希望を持ち続けるための
妄想だったのではないかとさえ思える。
こんなふうに書いてくると、
アンディーとレッドの関係は、
みんなが憧れ称賛する「成功者」と、
その名もなきフォロワーたちのように思えてきた。
もし、今生きているこの社会を牢獄と見立てたら、
そこから自由になるためにはどうすればいいのか?
アンディーのような一種の天才でなく、
レッドのようなケチな凡人にもそれが可能なのか?
希望を持ち続けるためにはどうすればいいのか?
自分の人生を牢獄の中で終らせないためには
どうすればいいのか?
いろいろなことを考えながら読める素晴らしい小説だ。
ちなみにリタ・ヘイワースは、
1940年代に一世を風靡した映画女優。
マリリン・モンローの前のセックスシンボルとして、
絶大な人気を誇った。
また、近年、アメリカでは増え過ぎた刑務所と囚人の問題の
ソリューション(問題解決)のために、
某巨大企業が刑務所の経営に乗り出した。
そして囚人を奴隷労働させて、
本業とは別に莫大な利益を上げているという情報も。
これもまた資源・人材の有効活用?
ウソかマコトか、真偽のほどはわからないけど。
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次回の新刊は、エッセイ集:エンディング
「死ぬまでジタバタしようぜ」(仮題)
どうぞお楽しみに!
1971年リリース。
米国ローリングストーン誌が2020年に選出した
「史上最高のアルバム500枚」で
堂々第3位に選出された名盤『Blue』の収録曲。
アメリカでは並みいるスターアーティストを差し置き、
ジョニ・ミッチェルの評価は断トツに高いようだ。
女性アーティストの中では、
アレサ・フランクリンと並んでトップと言っていいだろう。
確かに優れたシンガーソングライターだが、
最盛期ともいえる70年代、
彼女はここまで人気があっただろうか?
少なくとも僕の印象は割と地味で玄人好み、
日本人の女性フォーク歌手にちょっと影響を与えた人、
ぐらいだった。
どうして近年、すでに現役とは言えないミッチェルが
これほどまでに評価されるようになったのか?
その秘密を解くカギが、
この「リトル・グリーン」という曲の中に潜んでいる。
歌詞は大まかにこんな感じ。
かに座に生まれた女の子
この子に似合う名前を選んだ
グリーンと呼ぶわ 冬の寒さに負けないように
グリーンと呼ぶわ 彼女を産んだ子どもたちもね
リトル・グリーン、ジプシーの踊り子になって
子どもを持った子どもの偽り
家に嘘をつくのはもう嫌なの
あなたは書類にファミリーネームでサインする
悲しいの、ごめんなさい、でも恥ずかしいとは思わないで
リトル・グリーン、ハッピー・エンドになって
「リトル・グリーン」は実体験に基づく歌である。
ここでいう「グリーン」は、
ミッチェルが実の娘に付けた名前であり、
その親になった女と男を「青二才」と揶揄する呼び名でもある。
歌詞の中の「彼女を産んだ子どもたち」とは
母親である自分自身、そして恋人だった実の父親のこと。
この歌を歌う6年前の1965年、
まだカナダの無名の貧乏アーティストだったミッチェルは、
トロントの慈善病院で女の子を産んだ。
避妊の知識も乏しかった時代の、
望まない妊娠・出産。
当時、カナダでは中絶は法で禁じられていた一方、
未婚の女性が母親になることは罪を背負うことだった。
父親である前の恋人も、
新しく現れ結婚を申し込んだ男も、
赤ん坊に対してはひどく臆病で責任を逃れようとした。
まだ子どもだった若い彼らにとって、
赤ん坊を抱え込むことは、
アーティストになる希望の道が閉ざされることと
イコールに思えたのだろう。
結局、ミッチェルは生後6か月の娘を養子に出し、
アメリカにわたる。
「リトル・グリーン」を書くのは、その1年後の1966年のこと。
そして、その頃からシンガーソングライターとしての
天才を開花させる。
1968年のデビューアルバム発表後、
彼女は目を見張る勢いで、
世界のポピュラーミュージックの
メインステージに駆け上がる。
そして長い年月が流れたあと、運命は劇的な変転を迎える。
1997年、53歳になっていたミッチェルは、
当時32歳、すでに1児の母になっていた娘と再会する。
1971年、アルバム「BLUE」に
「リトル・グリーン」を収めて26年後、
養子に出して32年後のことだ。
親子は心から再会を喜び合った。
しかしその後、マスメディアの報道の嵐によって、
歌の通りに「ハッピーエンド」とはいかない事態と
なっていったようだ。
人の感情は大海に浮かぶ小舟のように、
ちょっとした波に簡単に揺らぎ、時には転覆してしまう。
いずれにしても、このストーリーを知る前と知った後では
「BLUE」の、そして「リトル・グリーン」の印象は
大きく変わってくる。
近年、ジョニ・ミッチェルの評価が高まっているのは、
楽曲そのものだけでなく、
こうした彼女の人生にまつわる劇的なドキュメンタリーが
大きく作用しているような気がしてならない。
「女性と子どもを大切にする」という
社会意識を深めるためにも、
ジョニ・ミッチェルをもっと評価しようという声が
強まっているのだ。
音楽ビジネスの世界に発言力のある女性が増えたことも
その一因だろう。
自由で開放的で先進的に見える映画や音楽の世界も、
つい最近まで男性権力者による支配が横行し、
パワハラ、セクハラの温床であったことが暴露された。
すでに60年近くに及ぶミッチェルの音楽キャリアと
優れた楽曲群は、
女性と子どもの未来に光を投げかけるものとして、
これからも評価はますます高まるものと考えられる。
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「てるてる男とふれふれ女」では、
天気と人の運命について書いてみた。
人生は長くて短い。
還暦を超えて、やっとそうした言葉を実感できるようになった。
そして昨日、ちょっとそれにリンクするような出来事があった。
本を出したい、ということで代筆の依頼を受け、
2回ほど取材も行っていたが、
昨日、その人のご家族の重病が発覚。
今後の取材の予定がいったんキャンセルされた。
おそらくこのまま継続するのは難しく、
この案件自体がキャンセルになるか、
長期凍結ということになるだろう。
人生にはいろいろなタイミングというものがある。
運・不運の波は定期的にやってくるが、
それはなかなか予知できない。
(占いに頼る人が多いのも頷ける)
災害や疫病、金融恐慌だってある。
それを完璧に免れるのは不可能だ。
人生設計とか、あれこれ長期計画を立てるのもいいが、
今やりたいこと、できることを先延ばしにしていると、
天気が荒れて実現困難になるかも知れない。
一度時機を逃すと、
そのチャンスは永遠にめぐってこないかもしれない。
漠然とした不安に煽られて、お金をため込んで、
結局、節約生活だけが生きがいになって
人生終わってしまう人もいるという。
やりたいことがある人、
ずっと心にため込んでいる人は、
我慢と解放のタイミングをちゃんと考えた方がいいと思う。
いつも天気のことを気にして生きてきた二人だが、
その時だけは違った。
若くて健康だったので直観が働いたのだ。
もしかしたら傷つくことになるかもしれないなんて露とも考えず、まっすぐに思いをぶつけ合った。
大きな街の中心にニョキニョキと立つ高いビル。その谷間にある丸い広場の片隅。
夕闇が辺りを包んでいた。
「好きだ」と男は言った。
「あたしも」と女は言った。
とても純粋な恋だった。
問題はただ一つ。
男は晴れ男で、女は雨女であること。
星のめぐりが最高な運命のデートの日は晴れるのか、
どしゃ降りになるのか。
はたまた間を取ってくもりになるのか。
女は耐えきれない思いを抱いて、男に長い手紙を書いた。
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「お、おれがいちばん年上じゃん!」
END展、先日行ったのは関係者向けの内覧会だったので、
昨日、一般公開の様子を探りに行ってみた(本日で終了)。
油断してたら事前予約の枠がいっぱいになってしまってて、
「当日券あるかも」とサイトに書いてあったのを信じて
ヒヤヒヤしながら行ったら、入れてもらえてホッ。
僕と同様、「事前予約が取れなかったので」という人も
けっこう大勢、受付に集まっていた。
主催者は「50代~60代はがメインの対象」と言っていたが、
入ってみたら、僕より若い人ばっか。
見た目、20代の人が一番多かったような気がする。
若くてカッコいい女の子ばっか見てたからだろ、
と突っ込まれたら「はい、そうです」
と言わざるを得ないが。
たまたまだったのかもしれないけれども、
マジで多かったのは20代・30代。
10代のおぼしき子も少なからずいたと思う。
僕はほとんど最年長の部類だった。
しかし、よく考えれば当然かもしれない。
おそらくリアルにENDに近い高齢者とか、
その一歩手前の人たちの多くは、
死がどうのこうのなんて
考えたくないし、向き合いたくない。
若ければ、それはまだ遠い先にある、
一種のファンタジーとして受け止められる。
実は「死」というコンテンツは、
年寄りのものでなく、若者のものではないか。
生とは?愛とは?自由とは?人間とは・・・
子どもからおとなになる頃、そういったことを考えながら、
いろいろな芸術・文化に触れて
自分ならではの世界観を作っていくのは、ごく自然なこと。
むしろ最近のように、社会に要請に応じて、
若い頃から仕事一辺倒、金儲けオンリー、
生産活動ばっかりみたいな人生のほうがおかしいと思う。
10代や20代が死について、
そしてそれと同時に「どう生きるかということ」に
考えをめぐらすのは全然おかしくない。
オーバー還暦もまた、
そうした10代・20代の心情に還っていくといいと思う。
展示の最後に
「死ぬまでにやりたいことは?」
「印象的な死のエピソードは?」
という問いがあって、ボードに自分の回答を書いた紙を
貼り付けられるコーナーがあるのだが、
あふれんばかりの回答でボードが真っ白になっていた。
それぞれ10個ずつくらい読んでみたが、
ジョークっぽいのからシリアスなのまで
いろいろあって面白かった。
とても全部読み切れなかったので、
ぜひ主催者さんにサイトに上げてほしい。
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カエルかな?カエルじゃないよ、アヒルだよ~、ガァ。
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おはなし
いつも天気のことを気にして生きてきた二人だが、
その時だけは違った。
若くて健康だったので直観が働いたのだ。
もしかしたら傷つくことになるかもしれないなんて
露とも考えず、まっすぐに思いをぶつけ合った。
大きな街の中心にニョキニョキと立つ高いビル。
その谷間にある丸い広場の片隅。
夕闇が辺りを包んでいた。
「好きだ」と男は言った。
「あたしも」と女は言った。
とても純粋な恋だった。
問題はただ一つ。
男は晴れ男で、女は雨女であること。
星のめぐりが最高な運命のデートの日は晴れるのか、
どしゃ降りになるのか。
はたまた間を取ってくもりになるのか。
女は耐えきれない思いを抱いて、男に長い手紙を書いた。
恋と結婚と幸福と人生の行く末を描く、おかしくてセンチメンタルな短編小説。
今さらと言われそうだが、ここのところ、
「ゴールデンカムイ」にはまって
毎晩、Amazonでアニメを一気見している。
ちょっと前に連載が完結したところだが、
マンガはまだ読んでない。
「鬼滅の刃」は大正、こちらは明治。
さすがジャンプの目の付けどころは鋭い。
幕末、明治、大正、昭和。
現代にいたるまでの日本の150年ほどの時間は、
現代ではありえないリアルなドラマにあふれている。
ここに埋まっている資産を掘り起こすのは、
いわば文化のゴールドラッシュ。
日露戦争終結後の明治終盤、
1900年代後半の北海道を舞台にした
「ゴールデンカムイ」。
その面白さの要素はたくさんあって、
とんでもなくバラエティ豊かで充実した内容。
そして現代風の味付けもおいしい。
もうすでにいろいろな人が、
いろいろなところでこの作品を語っているが、
僕にとって最もインパクティブなのは、
明治という時代とそこで生きる
兵士・軍人が実にリアルに、
そして面白く描かれているところである。
さすが青年誌に連載されたマンガだけに
ここに出てくる兵士たちは、
べつにサイコナントカの超能力を使ったり、
必殺のカントカビームなどを発射するわけではない。
それぞれ現実的な範囲内で、
超人的な戦闘能力を発揮する。
こんなこと人間ができるのかと思う部分もしばしばで、
「マンガだから」と言ってしまえばそれまでだが、
僕はそれだけではないと思う。
これは現代とは異なる次元、
つまり過酷な自然、
まだ科学や医学や各種のテクノロジーが発展途上の環境、
さらに、戦場という命のやり取りをする極限状況、
といった中で生き、活動しているので、
脳のリミッターがはずれ、
それぞれが持っている潜在能力が発動するのだろう。
みんな天才戦闘家になるわけだ。
明治の男たちの強さ・凄まじさ、
それと裏腹な優しさ・愉快さについては、
昭和時代からいろいろな伝説があり、
中にはかなり誇張されているものもあると思うが、
基本的に僕はそうした伝説を信じている。
信じた方が面白い。
同時にこのマンガを読んで感じるのは、
おそらく命のやり取りをしなくては生きている
実感が得られない人間、
つまり戦争という状況がなくては生きられない人間
(たぶん、ほとんど男)が
必ず社会に存在するのだろうなということ。
特に幕末から明治、大正、昭和初期は、
そうした男たちにとっては生きやすい時代、
居場所のある時代だったのだと思う。
やっかいだが平和な現代でも
そういう男たちは一定数はいる。
遺伝子のなせるわざなのか、
いつの時代でも数パーセントはいるのだ。
今回のロシア・ウクライナ戦争でも、
日本から数十人が兵士に志願したという。
彼らは戦争という極限環境を求めていて、
自衛隊の演習などでは満足できないのだろう。
このマンガの作者の野田サトル氏の曽祖父は、
日露戦争の兵士だったと言うが、
そうした日本人の血のなかの遺伝子とか、
霊魂といったものも、100年以上の時を超えて、
現代人に何か刺激を与え、
行動を起こさせようとしているのかもしれない。
そんなことを考えると、
単純に戦争=悪とはいえなくなる。
自分だってこういうマンガを読んで楽しんでいるわけだし。
本当に面白い「ゴールデンカムイ」。
実写映画化も決まったようで、
興味はあるが、心配でもある。
最近はこういうダイナミックな物語は、
マンガやアニメのほうが感情移入できるし、
想像力を広げて楽しめる。
よほど自分が好きな俳優が出ているならいいが、
そうでないと実写にはがっかりさせられるケースが多い。
実写映画・ドラマよりもマンガ・アニメ。
それもまた時代のせいだろうか。
いつも天気のことを気にして生きてきた二人だが、
その時だけは違った。
若くて健康だったので直観が働いたのだ。
もしかしたら傷つくことになるかもしれないなんて
露とも考えず、まっすぐに思いをぶつけ合った。
大きな街の中心にニョキニョキと立つ高いビル。
その谷間にある丸い広場の片隅。
夕闇が辺りを包んでいた。
「好きだ」と男は言った。
「あたしも」と女は言った。
とても純粋な恋だった。
問題はただ一つ。
男は晴れ男で、女は雨女であること。
星のめぐりが最高な運命のデートの日は晴れるのか、
どしゃ降りになるのか。
はたまた間を取ってくもりになるのか。
女は耐えきれない思いを抱いて、男に長い手紙を書いた。
恋と結婚と幸福と人生の行く末を描く、
おかしくてセンチメンタルな短編小説。
僕にとって安西水丸といえば、
1980年代の村上春樹のエッセイ集
「村上朝日堂」などのイラストでなじみがある。
いわゆるヘタウマっぽい、とてもシンプルで
ちょっとトボけた味のある絵で好きだった。
2014年に亡くなったのを聞いた時は、
もうあの絵が見られないことにけっこうがっかりした。
じつは安西水丸氏はイラストだけでなく、
小説やエッセイストを書いたり、
デザイナーであり、絵本作家でもあった才人である。
これは彼が30代の時に
1970年代の伝説の漫画雑誌『ガロ』で発表したマンガ。
というか、絵物語とかアートに近い。
舞台はおもに彼が少年時代を過ごした
千葉県房総半島の海辺の町。
時代はもちろん昭和なのだが、
どこか時間を超越した異郷のような風景が、
独特のシンプルな線の絵で描かれており、
どこか寺山修司の世界と共通するシュールさがある。
奇妙な顔をした、
おそらく作者自身をモチーフにした少年と、
それを取り巻くエロチックで、
陰と哀しみをたたえた女たち。
怖ろしいほどの引力を持った詩情あふれる世界。
改めて安西水丸の才能に圧倒され、
何度も読み返してしまう。
最後に収録されている「二十面相の墓」は
作家・嵐山光三郎の小説を漫画化したもの。
発行はCrevisという会社で、
1980年に青林堂から出された同タイトルの復刻版である。
娘である安西カオリ氏が序文を、
嵐山光三郎氏が解説。
同作に関する水丸氏の1994年の
インタビューも収録されている。
晴れ男と雨女がちょっと不安定な恋をした。
だいじょうぶ、人生に完璧はあり得ない。
結婚するかどうかを決める運命のデートの日は
曇でオッケーという男。
そして女は男に長い手紙を書いた。
お天気を左右する二人の運命の軌跡を描く短編小説。
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「浦島太郎」のお話の始まりは、
太郎が浜辺でカメが子どもたちに
いじめられているのを助けるところから始まる。
勝手に解釈すると、イジメてたわけではなくて
捕まえて殺して食おうとしていたのだと思う。
昔はウミガメを捕まえて食うことなんて
海辺の村では日常茶飯事で、
この子どもたちも親たちから
「今夜のめしはカメ鍋にするから捕まえてこい」と
指図されたのだろう。
ひと家庭では食べきれないので、
村でパーティでもやる予定だったのかも知れない。
このカメは産卵するため浜辺に上がってきたところを
狙われたのだ。
これでは逃げようがない。
海辺の村人にとっては年に数少ない、
栄養満点のごちそうにありつく
絶好のチャンスだったのに違いない。
それを邪魔した浦島太郎は、子どもらのみならず、
ほとんど村全体を敵に回したと言っていいだろう。
そもそも彼はこの村の人間ではないのではないかと思える。
カメを助けるから動物愛護の精神に富んだ
いい人に思えるが、それは現代人の感覚で、
こんなことをしたら、子どもたちが親に言いつけて、
あとから村じゅうの人間から
袋叩きに逢うことは目に見えている。
結果的に彼はカメに竜宮城に連れて行ってもらい、
乙姫様と結婚して夢のような暮らしを送るので、
これだけの危険を冒したかいがあったということになる。
まさしくハイリスク・ハイリターン。
投資は大成功だ。
助けられるカメは、
現在では竜宮の使者ということになっているが、
一説では乙姫様が化けていたというものもある。
産卵しに上がってきたわけだからメス。
辻褄があっている。
ちなみにオスのウミガメが陸上に上がってくることは
ほとんどないようだ。
よく考えると、浦島太郎と乙姫様は
かなりミステリアスなキャラクターである。
夫婦だったのか?
愛人関係だったのか?
どうしてあっさり別れたのか?
玉手箱を持たせたのは乙姫の復讐だったのか?
太郎はじいさんになってどこへ行ったのか?
海が舞台ということもあり、
この物語には想像力を刺激される。
もしかしたら浦島太郎は
ちょっと過剰な動物愛護の精神を持った
現代のアメリカ人がタイムスリップしてきた
お話なのかもしれない。
今日、5月23日は「世界カメの日」。
カメに対する知識と敬意を高め、
カメの生存と繁栄のための
人類の行動を促すことを目的として、
2000年に米国カメ保護会によって制定された
記念日とのこと。
人新世(アントロポセン)という新たな地質学的時代、
カレンダーにはいつの間にか、
いろいろな動物の記念日が増えている。
「ナマケモノの日」とか
「ヤマアラシの日」なんてのもある。
急激に地球環境を変化さえてきた人類が、
単に保護するだけでなく、動物の声を聞き、
そこから新たな生き方を学ぼうとしているようにも思える。
昨夜、テレビのニュースを見ていたら
子どものキラキラネームについての話題をやっていた。
当て字にもほどがある。
個性的というより奇妙奇天烈。
マンガじゃないんだから。
宝塚じゃないんだから。
暴走族じゃないんだから。
なんて読めばいいのか、全然わからない。
今どきの若い親はアホやないか。
あんな名前を付けられた子供がかわいそう。etc・・・
非難ごうごうとまでは言わないけど、
上の世代からはネガティブに
とらえられがちなキラキラネーム。
でも親たちの話を聞くと、
そう悪くもない、アホでもない、
それなりに子どものことをあれこれ慮って
一見奇天烈な名前を考え出しているようだ。
いちばん感心したのは
「将来、セイが変わっても自分に違和感を持たないように」
という意見。
僕は最初、「姓」と勘違いしていて、
「ふーん、親が離婚して今の姓が変わっても
良い響きになるように、ということか」と思った。
じつは自分の息子にも、カミさんの姓になったとしても、
読んでも書いても問題ないように、ということは考えた。
しかし、僕は間違っていた。
そんなことは軽い問題だ。
そのお母さんの意図はもっとシリアスな、
その子の人生すべてに関わること。
彼女が言ったのは「姓」ではなく「性」。
つまりジェンダーの問題。
男の子として生まれてきたが女性になるかも。
女の子として生まれてきたが男性になるかも。
もし、その子が自分の意思でそう生きると決めたら——
ということまで想定して名前を付けたという。
目からウロコがペロッと落ちた。
子どもの名前を考えることは、
この先の時代、その子たちがいおとなになる社会の環境に
思いを巡らせること。
いまどきの若い親は、
劇的に変貌するかもしれない未来を見つめて、
これまでの常識や慣習にとらわれることなく、
思考のネットワークを広げているのだ。
当のキラキラネームの子どもたちも、
「お父さんやお母さんが一生懸命に
考えてつけてくれた名前だから好き」
と屈託ない。
なんていい子たち、なんてよい親子なんだ!
今までキラキラネームを
ちょっと馬鹿にしていたことを猛烈に反省した。
そして、上の世代は過去のことに拘泥していてはいけない
と改めて思い知らされた。
未来はどうなっていくのか、ちょっとまた楽しみになった。
現代を生きる人間、
少なくとも都市環境の中、現代文明の中で生きる人間は、
脳だけは生身のままだが、体のその他の部分も、
住環境も「技術=テクノロジー」に頼っている。
当然、あなたも僕も例外ではない。
これは世界的なロボット工学者の石黒浩教授の思想である。
石黒教授によれば
「人間とは、動物と技術を合わせたものである」。
住んでいる家やビルはもちろん技術の賜物であり、
都市部において、人間の手がまったく入っていない
純粋な自然を見つけることは、ほぼ不可能だ。
体だって工場で作られた服を着て、
メガネをかけて、常にスマホをいじっている。
内部に人工臓器を入れている人も珍しくない。
人間の活動はすでにその大半が
技術によって支えられている。
(「ロボットと人間」/岩波新書より)
「人間とは何か」を追求するために
さまざまなロボット・アンドロイドを開発し、
実証実験・演劇・パフォーマンスを通して
世に問い続ける石黒教授の考え方には、
非常に多くの共感と納得感を覚える。
彼のロボット研究(=人間研究)の世界には
未来の人間・社会の在り方が
かなり濃厚なイメージで潜在している。
人間は未来において、より進化するために、
価値観の多様性を広げ、
その身体機能や脳の機能を拡張する。
それを実現するために必要とされる、さらなる技術。
社会生活においても、
個人の生活においても、
AI・ロボットの協力はますます求められ、
僕たちはそれと共存していくことを余儀なくされる。
「純粋な人間でありたい」という
センチメンタルな感情のかけらが疼くかもしれない。
そんなものはとっくの昔に失っていることは
わかっているのだけど。
AI・ロボットは思いもかけなかった時空に
人間を連れて行ってくれるだろう。
その頃、まだしつこく生きていたら、
そして感傷的になるのを堪えることができたら、
僕もいっしょに連れて行ってくれるだろうか?
おりべまことのロボット小説・エッセイ集
ロシア戦勝記念日。
プーチンが拠り所にするのは、ナチスに対する聖戦。
ウクライナに巣食うネオナチのせん滅。
「ナチス」という言葉には
恐るべき悪のエネルギー、
死と虐殺のイメージがまとわりついている。
実際に1930~40年代のナチスドイツによって、
ヨーロッパ各地で人類史上最悪の
ジェノサイド、人権蹂躙が行われたのは事実なので、
そんなのイメージだけだ、とは言わない。
けれども「ナチス」「ファシスト」と言って指を指せば、
その人・組織・団体は悪い奴らだから潰していい、
と単純に人に暗示をかけてしまうのは問題だと思う。
思えば僕たちはこの77年間
「ナチス絶対悪の世界」で生きてきた。
かつての同盟国だった日本ですら(日本だから?)、
僕が子ども・若僧だった戦後20年~40年くらいの頃、
つまり昭和40~昭和60年
(1960年代後半~80年代前半)あたり、
現実と離れた世界でなら抵抗感がないためか、
子ども向けのSFマンガやアニメには
「世界征服」「地球支配」「人類滅亡」
などのワードとともに、ヒトラーやナチスを模した
悪のキャラクターや組織が多数登場した。
ビッグX、宇宙少年ソラン、ジャイアントロボ、
新造人間キャシャーン、仮面ライダー、
マジンガーZ、宇宙戦艦ヤマト・・・
そういえば、仮面の忍者赤影は時代劇なのに、
トンデモ科学力を駆使する卍(まんじ)党という
悪の忍者軍団が出てきた(だから面白かったのだけど)。
あれもナチスのイメージが反映されていた。
ついでに「キン肉マン」とか「リングにかけろ!」とか、
少年ジャンプのバトル系マンガでも。
いまは史実に基づく映画・ドキュメンタリーを除いて、
フィクションの分野では絶対にメディアに出せないが、
ハーケンクロイツやナチス的敬礼も
頻繁に目にした気がする。
裏返して言えば、悪役としてとてもカッコよく、
知的で格も高いので、子供・若者の気を引いたのだ。
誰もあまり言わないけど、
ナチスの軍服のデザインはめっちゃ優れていると思う。
だから当時のドイツの若者が大勢ナチスに入りたがった。
それほど強力なナチスの悪のパワーだが、
かの組織自体は77年前に滅んでいる。
ネオナチという、その残党も確かにいて、
ヤバイ連中なのだろうが、
そんなに大きな力を持ち得ているとは思えない。
「ナチス」「ファシスト」はわかりやすい記号だ。
その絶対悪の記号を隠れみのにして、
この77年でナチスを凌駕する得体の知れない悪魔が
この世界の裏側で育っているのではないかと恐れている。
ヒトラーやナチスを悪魔、大罪人として裁いて
正義は勝った、世界は平和になった・・・
と話が収まっていた時代はとうの昔に過ぎ去っている。
国籍問わず、「ナチス」「ファシスト」といった
20世紀の悪に対する言葉・イメージを巧みに操り、
20世紀人のトラウマを刺激しようとする連中にこそ、
僕たちは注意しなければいけないのではないだろうか。
世界や歴史に関してのお話にも、
おりべまことのエッセイで軽く出逢ってみてください
これはびっくり!
イギリスのロイヤルシェイクスピアカンパニー(RSC)が、
「となりのトトロ」を舞台化する。
トトロの世界って日本人独自の感性によるもの、
と思っていた。
英国人のセンスでどうやって表現できるのか?
と最初はかなり訝ったけど、
よくよく考えてみれば、
ファンタジーにかけてはしっかりした伝統を持つ国。
けっこう面白いものになるかも。
しかも映画じゃなくて、舞台というところが期待大。
以下、プレスリリース要約。
宮﨑駿監督のアニメーション映画「となりのトトロ」が、
イギリスのロイヤル・シェイクスピア・カンパニー
(RSC)によって初めて舞台化。
2022年10月からロンドンのバービカン劇場で上演される。
映画で音楽を手掛けた作曲家の久石譲が舞台化を提案し、
宮﨑駿監督がこれを快諾したことで始まったプロジェクト。
久石譲がエグゼクティブ・プロデューサーを務める。
久石譲は舞台化にあたり
「この作品に本当の意味で普遍性があるなら
――僕はあると思っていますが――
まったく違うカルチャーで育った人たちが
違う言語でやっても、
きっと世界中の人に伝わるはずです」とコメント。
また、題字も手掛けたスタジオジブリの
鈴木敏夫プロデューサーは
「果たしてどうやってトトロと出会えるのか。
とても楽しみにしています」
と期待を寄せているという。
演出のフェリム・マクダーモットは
「美しい音楽とともに舞台にします。
パペット、役者とともに、命を吹き込みます」
と意気込みを語っている。
世界的な作曲家・久石譲のもと、
世界最高峰の演劇カンパニーRSCが
「となりのトトロ」をどう表現するのか、
世界中が期待している。
どうやら全体的にオペラみたいな感じの舞台で、
ダンスやパントマイムやパペットの動き、
ポエムリーディングのようなセリフなどを交えて
表現していくのではないかと思う。
オリジナルの映画とは違う、
イギリスファンタジーっぽい味の作品になるのだろうか?
いずれにしても、これ見るだけの目的で
またロンドンに行く価値あるかも。
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カ ほか全38編のエッセイ集
時々、図書館で子どもの本のコーナーを
ブラブラするのだが、
トーベ・ヤンソンのムーミン全集全9巻の新版が
3年前に講談社から出されていたのを発見し、
1冊ずつ読んでいる。
装丁も新しく、表紙のイラストもなかなかお洒落な本だ。
日本でムーミンというと、
そうしても1969年と72年、
東京ムービー➡虫プロで制作され、
フジテレビで放送されていたアニメのイメージが強く、
「ねえムーミンこっちむいて」という主題歌が
頭にこびりついていて腹立たしかった。
僕はあの可愛しい丸っこいカバみたいな
ムーミンが出てくるメルヘンアニメが大嫌いで、
妹が見ているとよくディスっていた憶えがる。
その後、おとなになって「ムーミンやばい」という話を
あちこちで聞いて、そのうち読もうと思っていて、
62になった今年、初めてまともに読んでみた。
これは面白い!
トーベ・ヤンソン天才!
今まで無視しててごめんなさい
と思ってしまった。
もちろん、カテゴリーわけすれば、
メルヘン、ファンタジーの部類に間違いないが、
めちゃくちゃ詩的で深読みできる寓話になっている。
心理学的な要素や、ある意味、オカルトというか、
スプリチュアルな要素も入っていて、
僕たちの人生や僕たちを取り巻く世界について
いろいろ考えられる、かなり質の高い文学だ。
ちなみにトーベ・ヤンソンは
日本のアニメになったムーミンを見て激怒したらしい。
さもありなん。
僕が子どもの頃のフジテレビは
「母と子のフジテレビ」がキャッチフレーズだったし、
放送枠は「カルピス親子劇場」だったので、
ああなるのもやむを得なかったか。
今の日本のアニメなら、
もっとヤンソンの原作をリスペクトした、
エッジが立った「やばいムーミン」をやてくれそうだが、
そんな企画はないのかな。
ムーミンのことはちょくちょく書いていこうと思います。
また、9巻全部読み終えたら、
何年か前に飯能に出来たムーミンのテーマパークにも
行って見ようかなと思ってます。
今年はまだ「4月のある晴れた朝に
100パーセントの女の子に出会うことについて」を
まだ読んでいなかったので、昨日読んだ。
悲しい話ではあるのだけど、
これは平和でお天気の良い世界のお話だ。
ロシア・ウクライナ戦争があったこと、
そして雨が多かったこと
(4月に台風接近なんて生れて初めて聞いた)で、
どうもあまり読む気分にならなかった。
いつもこの短い物語からさまざまな寓意を感じとるのだが、
今年はなぜか「4月の雨の朝」のことを
書いてみたいと思った。
七日七晩降り続ける雨。
野山の景色が白く煙り、川の水が溢れる中、
彼と彼女は筏のような小さな舟を浮かべて
草花が萌え始めた川岸から漕ぎ出していく。
二人はおそらく100パーセントの世界から
旅立とうとしているのかもしれない。
勇気ある旅立ちなのか、愚かな逃亡なのか。
そして、いずれ二人はバラバラになるのかもしれない。
先のことは何もわからない。
そんなイメージの断片だけが思い浮かんだ。
ひらひらと舞い降りてきた桜の花びらのような
僕にとっての贈り物かも知れない。
村上春樹がまだ若い頃に書いた
この短編は「贈り物」の物語である。
人は皆、生まれながらに自分だけの特別な贈り物を
もらっているのだが、
ほとんどの人は気が付かないか、
それは本物の贈り物ではないのでは・・・と疑いを抱く。
そうして別の何か、
自分にとってはさほど大切でもないものばかり
探しているうちに年月が流れ、
もともと手にしていた贈り物を失ってしまうのだ。
人生はそれを取り戻すためのストーリー。
自分にとっての「成功」は
他人が吹聴する成功とは違う。
これはそんなことを教えてくれる寓話なのだと思う。
源頼朝(大泉洋)の(観客的に)許すまじき
非道な陰謀の末、上総介広常(佐藤浩市)が惨殺された
「鎌倉殿の13人」の第15回。
ネット上でもあまりの衝撃に騒然となるほど盛り上がり、
まさに三谷幸喜脚本の本領発揮。
この脚本家は「本作は源頼朝(大泉洋)が
死んでからが本番」
と言っているくらいだから、
このあと出てくる壇ノ浦の合戦・平家の滅亡も、
兄に討たれる義経の悲劇も、ほんの序章ということになる。
とは言え、夏まではこのくだりでまた盛り上がるだろう。
従来のイメージを木っ端みじんにする
菅田将暉の純情ワルガキ義経は大好きだ。
上総介の死が、頼朝・義経兄弟の
確執と悲劇の伏線となっていることは明らか。
これまでは何やらお人よしのボンボンっぽかった頼朝が、
これからどんどんブラックな悪役になっていく。
でも大泉をキャスティングしている以上、
最期は「政治家になったばっかりに
あんなひどいことしたけど、
本当はやっぱりいい人だったんじゃないか」と
視聴者に思わせて退場するのではないかと僕は思う。
さらに上総介の死は、この先、源氏から政権を奪う
北条義時(小栗旬)の運命にも連なっている。
時を同じくして誕生する義時の息子・
北条泰時(鎌倉幕府第3代執権)は、
上総介の生まれ変わりなのか?とも思わせる。
義時もまだなんだかフツーのいい人っぽいが、
何と言っても小栗旬、
これからどんな豹変ぶりを見せるのか楽しみだ。
やっぱり脚本と役者がいいと見ごたえがあります。
道化師の画像を見ていて、
リンゼイ・ケンプのことを思い出した。
ケンプは英国のダンサーであり、パントマイマーである。
俳優として映画に出演したことも何度かあったが、
基本的は舞台が命の人で、
自分のカンパニーを持ち、ダンス、パントマイム、
演劇を融合させたような舞台を作っていた。
音楽好きな人にはデビッド・ボウイやケイト・ブッシュの
ダンス、パントマイムの先生として
その名を聞いたことがあるだろう。
「ジギースターダスト」時代のボウイ、
デビューした頃のブッシュのライブパフォーマンスには
ケンプの影響が強く表れている。
僕も1985~87年、ロンドンに在住していた期間、
何度かケンプの公演を見に行った。
「フラワーズ」という舞台が特に印象に残っている。
彼のステージは、高貴なクラシックアートと
サーカスやバーレスクのような、
下卑た猥雑な「見世物」のエッセンス、
さらに1970~80年代のポップカルチャーなどが
絶妙にブレンドされた、
神と人間の間を行き来するような、魅惑的な世界だった。
日本のカルチャーにも造詣が深く、
能や歌舞伎の要素も取り入れていた。
今世紀になってからも何度か来日公演を行い、
若い頃と変わらない元気さを見せていた。
いったいいつまで踊り続けるのだろうと思っていた。
そんな彼が2018年に亡くなっていたことを知ったのは
昨年のことだ。
ネット上でケイト・ブッシュの追悼コメントを読んだ。
80歳。直前まで次回のステージの準備をしていたようだ。
踊りながら倒れたのかもしれない。
「死ぬときも前のめりで死ね」という
セリフを思いだしたが、
生涯ダンサーとしては理想的な最期だったのかもしれない。
拙作「ピノキオボーイのダンス」(Kindle電子書籍)
に登場する老ダンサーは、ケンプをイメージして書いた。
https://www.amazon.co.jp/dp/B08F1ZFLQ6
彼は廃棄物となったロボット少年を救い、
彼に踊ることを教える。
老ダンサーの魂は、ロボットダンサーの体を借りて
未来を生きる。
彼のパフォーマンスの映像・音声データが豊富にあれば、
何十年か先、そんなことが実現するかもしれない。
僕たちはそういう時代を生き始めている。
「おたく、家族を虐待していませんか?」
といって誰か訪ねて来るんじゃないかとドキドキしていた。
というのは1週間前、例によって義母が
朝っぱらからカエル病を発症し、
「家に帰りますから!」と言って駄々をこねたのである。
ちょうど僕が留守で、カミさんが一人で対応。
玄関のところでドタバタやっているところへ
郵便屋さんが書留を持って来たらしい。
そしたら義母が
「あたし家に帰ります、帰りたいんですよ」と、
その郵便屋さんに向かって必死で訴えた。
彼は仕事が済むと、苦笑いを浮かべてそそくさと帰り、
カミさんはなんとかなだめて義母を部屋の中に止めた。
(そのあたりで僕が帰って来た)
その話を聞いて、こりゃ意識の高い人だったら、
年寄りの虐待を疑って通報するかもな、と思った。
まぁもう1週間以上経って何事もないので、
あの郵便屋さんはシカトしたのだろう。
社会的にはどうなんだろう?
放っておくほうがいいのか、
それとも念のために
「あの家、虐待ヤバイかも、ですよ」と
こっそり通報しておいた方がいいのか?
認知症の人の何割かは、義母と同様、
僕たちの日常、僕たちの社会とは
ちょっとズレた(人によってはかなり外れた)時間を生き、
それぞれの世界とストーリーを持っている。
これから認知症の人が急増するという説もあるけど、
そうなった時、どう対処すればいいのかは難問だ。
おとなも楽しい少年少女小説
ざしきわらしに勇気の歌を http://www.amazon.com/dp/B08K9BRPY6
認知症になった寅平じいさんの人生最後のミッション。それは最強の妖怪「むりかべ」に立ち向かうざしきわらしのきょうだいを得意の歌で応援することだった。笑ってちょっと不思議な気持ちになる、妖怪幻想譚。
1984年リリース。
転調に次ぐ転調がカッコよくて気持ちよく、
まさしくネバーエンディングに楽しめる。
最近は同じ曲をえんえん1時間繰り返す
「1H」がいろいろ上がっていて、
僕も時々ライティング時のBGMとして聴いてるが、
この曲はその中でも断トツに好きだ。
流して聴いても邪魔にならないし、
テンション上げるために、
思い切り耳を傾けて聴き込むこともできる、
無理なくツーウェイができる楽曲は他にあまりない。
歌い手のリマールは80年代前半、
特に女子に人気があった
イギリスの「カジャグーグー」という
ポップロックバンドのヴォーカリストだった。
余談だが、このバンドのベーシストだった
ニック・ベッグスは、
僕が勤めていたロンドンの日本食レストランの
常連客だった。
いつもガールフレンドと一緒にきて、
天ぶらや焼き鳥を食べてた。
とてもフレンドリーで、いかにもアイドルといった
可愛い顔が記憶に残っているが、
最近はプログレバンドで結構活躍しているようだ。
話を戻して、この曲は日本でもかなり人気があり、
これまでトヨタのコマーシャルやドラマの挿入歌
(前者は坂本美雨、後者はeガールズがカバー)
としても使われた。
最近ではマクドナルドのコマーシャルでも
耳にした気がする。
が、何といってもリマールのオリジナル版が最高である。
彼の声の持つ「揺らぎ」が、この美しくも凛々しい曲調に
ベストマッチしているのだ。
これはもともと同年公開されたファンタジー映画
「ネバーエンディングストーリー」のテーマ曲だった。
原作は「モモ」で知られる
ドイツの児童文学作家ミヒャエル・エンデ。
この頃、高い文学性、深淵な哲学性、鋭い現代文明批評を
併せ持ったエンデの作品は世界的に脚光を浴び、
この作品は日本では
「はてしない物語」という題名で出版され、
よく読まれていた。
エンデ作品は「ハリーポッター」以前の
ファンタジー文学では
トップクラスの知名度を持っていたと思う。
さて、その「はてしない物語」――
ネバーエンディングストーリーの内容は、というと、
イジメにあった少年が古本屋に逃げ込み、
偶然見つけた本のページをめくっていくと
その物語の中に入り込んでいくというストーリー。
この本の中の物語は、産業社会が発展する中で
しだいに荒廃していく人々の内面世界を描いており、
「はてしない物語」とは人生のこと。
人生の主人公は、物語の英雄ではなく、
これを読んでいる君自身なのだよーー
簡単に解説すると、そんなメッセージが含まれている。
この曲で繰り返される転調は、
現実世界と異世界(内面世界)を行ったり来たりする
少年の心の動きを表現しているといえるかもしれない。
しかし、テーマ曲の素晴らしさに比べて
映画はイマイチだった。
ビジュアルは当時の技術のベストを尽くしていたと思うが、
脚本がただストーリーをなぞっただけの代物で、
出てくる人物やクリーチャーのキャラや
小道具に頼っていて、
原作の本質的な部分が表現されていなかった。
原作者のエンデも出来栄えにはかなり不満があったらしい。
ハリウッドのファンタジー映画は
2000年代に入ってから、
「ハリーポッター」や「ロード・オブ・リング」などで
ビジュアルはもちろんのこと、
脚本の面でも格段の進歩を見せた。
「ネバーエンディングストーリー」が作られらた頃は
まだ子どもだまし的な部分が否めず、
エンデ人気にのっかった、
早すぎる映画化だったのかもしれない。
ファンタジー映画に対する理解が進み、技術も成熟した今、
もう一度、この作品をリメイクしてみてはどうか。
もちろん、テーマ曲はこのままで。
ついでに1時間版もご紹介。
新発売&新年度スタート記念無料キャンペーン
3月31日(木)17:00~4月3日(日)16:59
ケントの11歳の誕生日、
プレゼントを持ってくるはずだったお父さんは、
身長9センチの「ちっちゃいおじさん」になって現れた。
どうしてお父さんは小さくちぢんでしまったのか?
いや、じつはお父さんだけではない。
今、社会の役に立たなくなった男たちが、
ある日突然、カエルサイズにちぢんでしまう
怪現象が多発している。
将来、生物学者をめざすケントは、これは南米に生息するアベコベガエルーーオタマジャクシの時よりもからだが小さくなってしまうカエルーーと同じく、アポトーシス(細胞の死)による変異が起こっていると解析。
「ちぢむ男=ちっちゃいおじさん」は、
やりたい放題のホモサピエンスを
これ以上のさばらせたくないという
地球の意志によって生まれているのではないかと推理する。
謎を解き、もとの姿に戻るために
「怪物マンション」に潜入したお父さんを、
知恵と勇気とやさしさで応援するケント。
アベコベ親子の奮闘を描く奇々怪々でユーモラスな物語。
おとなも楽しい少年少女小説第8弾!
もくじ
1.さらば、ちっちゃいお城
2.アベコベガエル
3.親子の事情
4.お父さんの身の上話とちぢんだ男たち
5.ちぢんだ男たちの秘密
6.なぞの科学者
7.怪物マンション〈ガウディ〉
8.どんぶり風呂
9.死体のころがる部屋
10. ウダ博士の研究秘話
11.赤と白のキノコ
12.ぼくのミッション
13.おまわりさん攻略法
14.ちち、のびる
15.ふたたび怪物マンションへ
16.313号室のあとしまつ
17.あきといっしょに
読みごたえたっぷりの中編4万字。
ぜひ読んでみてください。
レビューもよろしくお願いします。
新発売&新年度スタート記念4日間無料キャンペーン
3月31日(木)17:00~4月3日(日)16:59
ケントの11歳の誕生日、
プレゼントを持ってくるはずだったお父さんは、
身長9センチの「ちっちゃいおじさん」になって現れた。
どうしてお父さんは小さくちぢんでしまったのか?
いや、じつはお父さんだけではない。
今、社会の役に立たなくなった男たちが、
ある日突然、
カエルサイズにちぢんでしまう怪現象が多発している。
将来、生物学者をめざすケントは、
これは南米に生息するアベコベガエルーーオタマジャクシの時よりもからだが小さくなってしまうカエルーーと同じくアポトーシス(細胞の死)による変異が起こっていると解析。
「ちぢむ男=ちっちゃいおじさん」は、
やりたい放題のホモサピエンスを
これ以上のさばらせたくないという
地球の意志によって生まれているのではないかと推理する。
謎を解き、もとの姿に戻るために
「怪物マンション」に潜入したお父さんを、
知恵と勇気とやさしさで応援するケント。
アベコベ親子の奮闘を描く奇々怪々でユーモラスな物語。
おとなも楽しい少年少女小説第8弾!
もくじ
1.さらば、ちっちゃいお城
2.アベコベガエル
3.親子の事情
4.お父さんの身の上話とちぢんだ男たち
5.ちぢんだ男たちの秘密
6.なぞの科学者
7.怪物マンション〈ガウディ〉
8.どんぶり風呂
9.死体のころがる部屋
10. ウダ博士の研究秘話
11.赤と白のキノコ
12.ぼくのミッション
13.おまわりさん攻略法
14.ちち、のびる
15.ふたたび怪物マンションへ
16.313号室のあとしまつ
17.あきといっしょに
読みごたえたっぷりの中編4万字。
Please Enjoy!
73年リリースとは意外。
ビリー・ジョエルのデビュー曲であり代表曲は、
僕のイメージの中では1978年の歌だった。
44年前の今ごろ、東京に出てきた時、
専門学校に通っていた最初の2年間、
友だちと部屋をシェアして暮らしていた。
そいつがビリー・ジョエルが大好きで、
暇さえあれば「ストレンジャー」「オネスティ」などを
聴いていた。
特に好きだったのがこの「ピアノマン」。
風呂上がりに、夜寝る前に、
レコードに合わせて、年がら年中口ずさんでいた。
「この歌だけがおれの心を慰めてくれる」とかなんとか。
そんなセリフを言っていた覚えもある。
あの頃、あのアパートに集まってくる男も女も
みんな夢を喰って生きていた。
夢で腹を満たしていれば、飢えも乾きもなかった。
人生は長く曲がりくねった道で、
時間はあり余るほどあった。
真剣でありながら、能天気でもあった。
都会的なピアノの響きと、
素朴なブルースハープとの絡み合い。
親しみやすく口ずさみやすい、
明るく、けれどもあまりに切ないメロディ。
実際に酒場でピアノを演奏していた
ビリー・ジョエルの自伝ともいえる歌は、
飲まずにはいられない夢見る男たちのドラマを描く。
きっとこの歌と変わらないドラマが、
50年近く経った今でも、
世界中の街のたくさんの酒場で
繰り広げられているのだろう。
でも、もしかしたら、
この酒場に集っていた登場人物の何人かは
好きな酒を断ち、くだを巻くのもきっぱりやめて、
齢を取っても昔の夢を、あるいは新しい夢を
追い求めているのかもしれない。
「おまえはなんでこんなところで歌っているんだ?」と
言われていたピアノマンが酒場から足を洗い、
ビリー・ジョエルというスター歌手になった。
もしかしたら自分だって。
若いころ思っていたより人生はずっと短いことを知った。
このまま死んでいくのはごめんだ。
そりゃそうだ。
酔っぱらたままで終わりたくない。
夢のカーニバルをどこまで続けるか、
決めるのは自分次第。