母の世界深化縮小

 

 母が入院したとの知らせを受けて急遽帰省。

 8年前、父が亡くなった時と同じ病院。ほぼ同じ時期。ロビーには8年前と同じ(たぶん)クリスマスツリーが飾ってありました。

 

 けれども大したことなくて、溜まった肺の水が抜けて、血圧が下がって歩けるようになれば年内には退院できるとのこと。三日ほど見舞いに通いましたが、だんだん元気になって「病院の食事はうまくない」と文句言いつつ、パクパク食べています。

 

 父の死後、話を聞くのが僕の仕事になっているので、今回もとにかくあれこれ話を聞きました。

 内容はいつもほぼ同じで「わたしは幸せだった、恵まれていた」と訥々と話し、父(夫)のことをほめそやします。

 どちらも昭和ヒトケタ生まれで、今の感覚で言う「仲睦まじい夫婦」という感じでは全然なかったのだけど、それなりに支え合って生きてきた、と実感できるのでしょう。

 

 その反対に、僕の目から見て結構仲が良いと映っていたきょうだい(つまり僕の叔父や叔母)に対しては、割と冷淡になっています。

 というのは、今年の夏、6歳違いの妹が亡くなったのだけど、結局、葬式にも行きませんでした。(と、今回、僕も初めてそのことは知りました)

 齢を取るといろいろ面倒くさくなる、というのが母の言い分。

 2年程前まではそれでもちゃんときょうだいや親戚の葬式には行って、あれこれ喋っていたのですが。

 

 

 最近、母を見て僕が思うのは、人間、老いるに従い、だんだん子供に戻っていくのかな、ということです。

 子供の世界・視野は狭い。それが成長につれてどんどん広がり、大きくなっていくわけだけど、老いるとその逆の現象が起き、だんだん世界が縮小していく。

 言い換えると日狩りをなくす代わりに、限りなく深化していくのかもしれない。

 その分、この世とは異なる別の世界が広がって見えてきて、そちらのほうへ移行していくのかもしれません。

 

 意識の中では身近にいる人間、自分の思い入れの深い人間だけが残り、そうでない人の存在は、血縁関係者でも、親友だった人でも遠のいていってしまうのでしょう。

 

 その人の生活の核が残る。

 そしてさらに進むと、さらにそれが絞り込まれ、その人の“生”の核が残る。

 

 両親にはまだ教わることがあるようです。

 

 

2016・22・16 THU