ドラマシンポジウム企画:伝統家族の崩壊と未来

 先日もご紹介したドラマシンポジウムの企画の仕事でもう一つ、「ドラマで表現される20~21世紀のアジア社会」というのを書きました。

 

 ここ15年ほど、つまり21世紀になってからアジア諸国の経済発展は著しく、社会が大変動しています。

 それはあたかも70年前の戦後日本をほうふつとさせる有様で、そこには当然、戦前・戦中・戦後といった世代間ギャップが生まれます。

 

 たとえばベトナムなどは、ベトナム戦争を体験した親世代とその後に生まれた子世代では、ずいぶんと生活スタイルやものの考え方・感じ方が違っているようです。

 20世紀育ちと21世紀育ち、アナログ・マスコミ世代とデジタル・ネット世代、といった切り分け方もできるでしょう。

 

 こうした世代間ギャップは、どの国でも家庭や職場での人間関係や人生観に大きな影響を及ぼしています。

 各国のテレビドラマにはそうした現実が色濃く反映されているのではないか、そしてそれはどのように表現されているのか・・・ということをシンポジウムのテーマにすると面白いのでは・・・という内容でした。

 

 これは実際、とても気になるところで、現在も着々と進行している都市化・近代化・経済発展は、日本がそうであったように、あっという間に伝統社会の秩序を崩してしまうでしょう。

 

 日本の場合、20世紀前半までの伝統的な大家族から戦後=20世紀後半の核家族へ、21世紀になると核家族からさらに個別化した家族へと、家族像が大きく変わり、今や半世紀前まであった生活習慣・冠婚葬祭のしきたりなどは、ほとんど「文化財」の部類へ。

 意識して大切に守らなくてはいけない、絶滅危惧種になりました。

 

 タイ、ベトナム、フィリピン、インドネシアなどの場合はどうなのでしょうか?

 これらの国の情報は断片的にしか伝わらないので、その国の特徴ということで、どうしても伝統文化=異文化の印象が強いのですが、実際はすでに人々の日常生活は、かなり日本と共通する部分が多いのではないでしょうか。

 

 

 やはり大きいのはインターネットでしょう。

 外国の情報もリアルタイムで共有できるので、特にカルチャーの世界では世界中の人に共通認識・共有コンテンツが生まれます。(最近ボーダーレスで大流行した「ピコ太郎」がいい例かも)

 

 これは世界にとっていいことなのか。世界を面白くすることなのか?

 

 この先さらに各国の経済状況、社会環境、文化レベルはどんどん均一化していくことは間違いないと思います・

 しかし、その均一化のうえで、それぞれの文化をどう発信受信するかが、未来の世界を楽しむコツなのかな、という気がします。

 伝統文化とそれをアレンジするセンス・技術が価値を持つ時代になるのでしょうか?

 

 

2016・10・28 FRI


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真田丸:起業家・フリーランス軍団の戦い

 

●真田丸の世界は現代のビジネス科会

 

「真田丸」がいよいよクライマックスに近づいてきました。

 三谷幸喜の脚本は、歴史ものでも限りなく現代社会のカリカチュアになっているので面白い。

 

 戦国武士たちの勇ましく美しい伝説をことごとくひっくり返し、勇将・猛将の類も、野心満々ではあるけれど、やることは騙し合い、ゴマスリ合い、裏切り合いという、ペテン師野郎どもばかり。

 

 そもそも堺雅人演じるヒーロー・真田幸村。

 「戦国一の強者」という伝説に彩られた人物なのに、このドラマではずっと親父の陰に隠れていて、どうも目立たないなぁと思っていたら、ここにきて親父の実績を自分の実績だとすり替えて、とんだハッタリ野郎として一躍ヒーローに浮上。

 

 そして徳川VS豊臣の最終決戦は、現在のビジネスの世界になぞらているようです。

 戦後の成り上がり大企業・徳川につく武士たちは、忠誠心などないのだけれど、このままうまいこと食い扶持をキープするためには、いやいやでも徳川CEOに媚びていたほうが得策と考える大企業サラリーマン軍団。

 

 かたや、真田幸村はじめ、豊臣につく武士たちは、豊臣ブランドを利用して、食い扶持を分捕って成り上がりたい中小企業・起業家・フリーランス軍団って感じでしょうか。

 

 われらが真田幸村も大ぼら吹いて、みんなの期待の星になったけど、どう実践を追いつかせるのか?  どうやってただのハッタリ野郎から、みんなが納得するカリスマにのし上がるのか?

 

 ビジネスしている人たちは、そんな視点でこのドラマを観ると楽しめると思います。

 起業家・フリーランスの人たちは幸村たちに自分をなぞらえてみてね。

 

●最後はどうする?

 

 さすがに三谷さんでも歴史をねつ造するわけにはいかないので、結末として豊臣=真田は負け組になるのはわかっています。

 だけど、その負け方・エンディングにどんな意味をつけるかが問題です。

 

 12年前の三谷脚本「新選組!」のラストは、首を斬られる近藤勇の主観で、太陽をバックに振り下ろされる白刃が画面を横切りホワイトアウト。

 よけいな余韻を残さない、大河ドラマとしては斬新な終わり方で、なかなかかっこよかったけど、1年間、近藤と新選組の活躍を観てきた視聴者にとっては、ちょっと寂しい幕切れだったと思います。

 

 三谷さんもそのへん意識していそうなので、前回と同じく負け組の真田の最期をどう描くのか?

 しかも「新選組!」の時はお茶の間では無名だった堺さんが、今回晴れて主役を張っているわけだしね。

 いずれにしても楽しみにしています。

 

 

2016・10・27 THU


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ドラマシンポジウム企画

 

 「おしん」「Gメン75」「赤い疑惑」「東京ラブストーリー」「ロングバケーション」・・・

 一世代前、メイドインジャパンのテレビドラマはアジア各国で大人気を誇り、社会現象にまでなることも珍しくありませんでした。

 しかし、2000年あたりを境にその勢いはどんどん衰えてきたようです。

 

 以前は「文化交流」という美名のもとに各国間でコンテンツのやりとりがされることが多かったのですが、この10~15年で状況は大きく変わりました。

 

 グローバル化が進み、インターネットで手軽にコンテンツを楽しめ、各国間の生活水準・文化水準の差が次第に小さくなってきた現在は、しっかりとビジネスマインドを持ち、市場におけるその作品の価値を見定めた上で売り買いする時代になっているのだと思います。

 

 今後はそうした海外市場での販売も視野に入れてドラマ制作を行う必要性があるのかも知れません。

 その際のドラマづくり・プロモーションのアイデア・ノウハウについて、どう考えるか。

 というのが、ざっくり企画提案の内容。

 

 補足すると、日本のドラマは当然、日本の視聴者に向けて、日本の文化・生活習慣をベースに作品を作っているので、内容を海外市場に合わせて作ることは難しいでしょう。

 そして、昔のようにアジアの人たちが日本に憧れ、日本のドラマをキラキラ目で観たがる、という状況はこの先、もう訪れない。

 それを売り方の工夫・ネットの活用などでどれだけカバーできるか?

 しかし、もしかしてこれまで同様ドラマというパッケージで売ろう、という考え方がもうすでに違っているのかも・・・。

 

 難しいけど、面白い時代になってきたと思います。

 

 

 

2016・10・25 TUE


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マッシモ・タヴィオ、月9で商売大繁盛

 

「マッシモ、月9デビュー」と店の前に堂々とポスターが。

 ご近所のマッシモさんでロケがあってから1ヵ月余り。

 今週17日から始まったフジTVの月9ドラマ「カインとアベル」の第1回でお店が登場しました。

 

 登場人物がめしを食いに来る1シーンくらいの出番かと思っていたら大間違い。

 不動産会社が新しい商業施設の入札コンペに勝つため、人気店舗の支店誘致に挑む、その社員(社長の息子でもある)HeySayJUMP!の山田涼介クンが説得のために足しげく通う、おまけにピッツァも食べる・・・という流れで、この回のメインストーリーにグイッと食い込んでいて、出番もてんこ盛りでした。

 しかもドラマでありながら、店名は実名。「マッシモ・タヴィオ」と連呼され、十分視聴者に伝わったと思います。

 

 ドラマ内のオーナーシェフは、ピッツァに対して愛情のかけらも感じられない、「こんな奴においしいピッツアが作れるの?」とツッコミを入れたくなるような嫌なやつだった。

 そのくせ、最後には山田クンの情熱にほだされ、彼の誘致の要請に応じ、山田クンの会社はコンペに勝つという予定調和の結末。どうも気に食わなかったなぁ。

 

 本物の大将のマッシモさんは、行列をさばく整理係のおっさん役でチラリと映った程度。ちょっとがっかりです。まぁ、ドラマだからしゃーないけど。

 

 いずれにしても、ずいぶん名前を売ったマッシモさん。

 今時は名前さえ憶えてもらえば、どこにあるとか、どんな店とか、よけいなことは言わなくても、勝手にみんながパパッと検索してホームページを見て、ご来店してくれます。

 ホームページちゃんと作っておかないとね。

 

 というわけで、月9効果・山田クン効果でお店はますます繁盛。これぞマーケティングの王道というべきでしょうか。

 でもまぁ、もともと繁盛店だし、品質がいいからこういう流れが引き寄せられるわけですが。

 

 商売上手と言いたいところだけど、当のマッシモさんは儲けようというより、こうした状況を余裕で楽しんでいるように見受けられます。

 いずれにせよ、おいしくてお店の雰囲気が良ければ、言うことなし。

 

 

 

2016・10・22 SAT


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ヒトラーの人間力

 

●負の部分への興味

 

  「ヒトラーが好きだ」とiいうわけではない。けれども「興味がある。それもかなり。

 これは僕だけでなくて割と多くの人がそう考えているのではないかと思うのです。その証拠にここ数年、ヒトラーに関する出版や映画がたくさん作られている。

 読む人・観る人がいなければ、こんな現象はあり得ません。

 

 僕の印象から言うと、こうしたリリースは21世紀になって以降、倍増という感じ。

 20世紀の間はヒトラーやナチスについてあれこれ語るのには重しがついており、少しでもホメたり共感しようものなら、その人間も罪人扱い(今でも多少あると思う)されましたが、世紀が変わって、その枷が外れたようです。

 

 最強警察国家アメリカの威光が衰えたせいもあるでしょうし、いろいろ研究が進んで、より多角的に、より深く、ヒトラーやナチスについて考えられるようになったせいもあるでしょう。

 僕は、人間や人間の組織の「負の部分」に目を向けたがるのは自然なことだと思います。

 

●帰ってきたヒトラー

 

 「帰ってきたヒトラー」は息子が面白いと言っていたドイツ映画。彼は原作本も読んだようです。

 公開されたのは6月で、僕は見逃していたのですが、先日、近所の2番館(下高井戸シネマ)でやっていたので観てきました。

 

  ヒトラーが現代にタイムスリップ。お笑い芸人としてテレビ界でスターになり、人々に受け入れられていく、という、あらすじだけ見ると荒唐無稽なコメディなのですが、そこには現代社会への痛烈な風刺・批判が込められており、すごく考えさせられます。

 以下、ネタバレ。

 

●本物だからウケる、でも誰も本物だと信じない

 

 ヒトラーがお笑い芸人になるのは、何も本人が積極的にそうするわけでなく、彼の言行を現代社会の枠に当てはめるとそうなってしまうということ。

 ドイツ国内でいかにヒトラーというキャラクターが公に露出しているかということが分かります。だからこの物語の中では、誰も彼が「本物」だと信じない。彼をヒトラーの演技が最高に上手い芸人とみなしてしまうわけです。

 当然、マスコミを通じて大人気になる。

 

 現代はインターネットがあるからそう簡単に情報操作はされないだろう、と思ったら大間違いで、結局ネット情報は「火に油」を注ぐことになっていく。

 

 物語の中で唯一、彼を本物だと見抜くのはユダヤ人の老婆ただひとり。

 彼女には直感で、こいつが芸人や俳優や詐欺・ペテンなどではなく、家族や仲間を殺戮した張本人だとわかるのです。

 描く側もさすがにこの大罪だけは見逃すわけにはいかない、ということでしょう。

 

 考えてみれば、ドイツ国内でも今や社会全体の8割方の人は第2次世界大戦を体験しておらず、伝説・物語・情報の中でしか、ヒトラーやナチスのことを知らない。

 日本など国外ならなおさらです。

 だから、興味があるとか、人気があるどころか、英雄視する輩が出てきてネオナチなどと名乗ってもおかしくない。

 

●なぜヒトラーは支持されたのか?

 

 以前から僕は、そして多分、多くの人は、あの1930年代、どうしてヒトラーはあそこまでドイツ国民に支持され、国を動かし得たのだろう?と考えてきました。

 よく言われるのは「演説がうまかった」「宣伝がうまかった」ということですが、それだけでは納得できる説明にならない。

 もちろん、当時の時代状況、政治状況があって、ヒトラーとナチスの政策がそれに対応し、人々の生活を救った。ニーズに応えた・・・ということはあるでしょう。

 しかし、それも全体の要素の半分に過ぎないと思います。

 ではあとの半分は何なのか?

 

 この映画ではエンディング近くにその一つの答えになるようなセリフが、ヒトラー自身の口から放たれます。

 正確ではないけど、だいたいこんな意味です。

 

 「私が人々を扇動したのではない。人々が私の中に自分を見つけたのだ。だから人々は私に従った・・・」

 

●自分の中にヒトラーがいる

 

 この映画のヒトラーは、すごく人間的です。

 けっして極悪非道な悪人とか、冷酷非情なマシーンのようには描かれません。

 時おり爆発するエキセントリックさも、狂人的というよりは人間の持つ弱さの表れ、と取れる。

 今風にいえば、そうした弱さ・ダメダメさ・滑稽さも共感を呼び起こす要素で、それらも含めて「人間力」のある人として描かれるのです。

 

 僕の中にもヒトラーがいる。

 大勢の人に影響を及ぼし、気に入らないもの、自分を傷つけ、自分を貶めるものを差別し、可能なら抹殺したいという願望が心のどこかに潜んでいる。

 

 これはこのヒトラー役の俳優さん(および監督の演出)の力だと思いますが、その目には何とも言えない優しさ、人間であることの哀しさ・切なさを湛えていて、それがひどく印象に残りました。

 

 いずれにしてもドイツの人々、それに日本も含め、世界の人々は、現代社会に生きる限り、ヒトラーやナチスの幻影から逃れられない。

 この70年以上前の事象を抱え、折に触れて考えながら生きていかなくてはならないのだと思います。

 

 

2016・10・19 WED


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「ねほりん ぱほりん」と人形劇の文化

 

●なんとレギュラー化!

 

 NHK-Eテレの「ねほりん ぱほりん」という番組が面白い。

 以前、単発で何度か見たことがあるのだけど、この秋からレギュラー化されたようです。山里亮太とYOUが声を演じるモグラのキャラクターが、ブタキャラクターの顔出しNGゲストに根ほり・葉ほりのインタビューをして本音を聞き出して行くという趣向。

 

 ゲストは芸能人とか有名人とかではなく、一般のワケありの人たち。国会議員の裏方とか、薬物中毒患者とか。

 

 昨日出てきたブタさんは「偽装キラキラ女子」なる人で、リアル世界では関西の片田舎のサエないOLなのに、ネット上では東京港区界隈のリッチでセレブなOLを偽装しているという20代だか30代だかの女性です。

 

●キラキラ女子の真実を追究

 

 ホテルのラウンジでリッチなランチだかディナーだかデザートを食べたとか、電〇マンの彼氏がベンツでお迎えに来ただとかの話を、いかにも本当らしく写真入りでSNSで伝えていて、フォロワーがいっぱいついている。

 が、これらの記事がみんな大嘘で、写真はネット上にあるのをあちこちからパクってきて、バレないように加工してのっけているというのです。

 記事のコンセプトの立て方から、そうした加工技術、せっせと作業するマメさまで、その努力と工夫たるや、僕も見習わなければいけないと思うくらいすごい。それこそ涙ものです。

 

 一方でもちろん、そのエネルギーをどこか他のところに使えんのか、と思うわけだけど、彼女は半ばリアルサイドの人生は諦めているところがあって、今のところはネット上で注目されることで精神の安定を得ていると言います。

 

 う~む。そういう人たちがいっぱいいるんだろうな。まだ若いけど、いったいいつまでそれで持つのかな、と心配になって来てしまうのですが・・・。

 

●生き残った人形劇文化

 

 つまりこの番組、NHK-Eテレらしく、社会派番組なわけです。

 ニュースの特集コーナーでもこういう顔出しNGのインタビューはやってるけど、ぼかしをかけたりして、なんか陰険なムードになりがち。そこをキャラ=人形劇で可愛くやっちゃおうというのが、この番組の面白いところ。

 

 もともと演劇は情報伝達手段が乏しかった時代、現実に起きたニュースを人々に伝えるために発展したものです。

 そして人形劇は、生身の役者が演じると生々しくて却って伝わらない――人間の脳はあまりにも自分と距離が近すぎると拒否反応を起こしたり、そこにある本質を理解しようとしない――のを、人形というツールを使って、よりわかりやすく、より効果的に伝えようと編み出されたもの。

 だから見る側もそこで表現されていることを理解しやすいし、社会風刺に適しているわけです。子供だけが見るものじゃなんですね。

 

 こういう番組が作れるのは、やっぱり人形劇を長くやってきたE―テレ(教育テレビ)ならではだと思います。人形劇の類は制作コストの問題で、他のチャンネルではもうずいぶん前から作らなくなりました。

 

 公共放送の強みで、Eーテレは制作を続け、コツコツとこの文化を守ってきました。こういうものは一度やめると、二度と作れなくなる。人形操作をはじめ、できる人をゼロから育て上げるのは不可能に近い。要は伝統芸能の継承問題です。

 もう10年以上前、E-テレ関係の仕事をやったと時、担当者の人が「いつ切られてもおかしくない」と漏らしていましたが、それがこういう形で生かされるのは、とてもうれしい。

 番組も面白いけど、日本の人形劇そのものも応援したい。

 

 

 

2016・10・17 MON


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きみはロボットじゃないよ

 

●彼女の自殺に思う

 

  一昨日だったか、某大手広告代理店――と書くと、却っていやらしいのではっきり言ってしまいますが、電通の若い女性社員が自殺したという記事を読みました。

 

 僕も下請けとして、完成して間もない頃、かの汐留にある大御殿に何度か足を運んだことがあります。

 担当の孫会社の人が、建物の真ん中の巨大な吹き抜けを指して、「ここは飛び降り用に作られている」とか、「入社するとまず全員、土下座の練習から始めるんだ」というようなことを冗談めかして、でも、まことしやかに話していた。

 

 本当に冗談じゃなく、そういう体質というか構造があるようですね。

 別に今回の社員の人は特別じゃないようです。

 

 この話とは別に、某有名大学を出て、某大企業に入社したのに数年――まだ20代半ばでメンタルをやられて自殺してしまった人のことも知っています。

 どうしてこういうことが起きるんだろう?

 

 そんな会社なら逃げ出してしまえ、と思うのですが、どうも日本にはそうできない人が大勢いるらしい。

 

 本当に、これではせっかく大学出たって就職したって何の意味もない

 人生、そこで終わりじゃないから。そこは始まりだから。

 本当に悔しい。

 

●ロボットさん、一丁上がり

 

 最近はやたらニュースなどで就活がどうのこうの、と言って、みんな同じリクルートスーツを着た大学生がゾロゾロしているのをよく見るけど、なんだかムカついてくる。

 

 あれは暗に大学行って、就活やって、就職して会社員とか公務員になるのがまっとうな人生だ、といったメッセージを発信しているような気がします。

 

 子供の前に親も洗脳されちゃっているから、何も考えずに小学校から大学までの「まっとうコース」のベルトコンベヤにのっかちゃう。

 

 さらに最近は奨学金という名の教育ローン――早い話が借金で大学に行く人も多いから、借金返すために就職した会社にしがみつく、しがみつかざるを得ないという人も少なくないと聞きます。

 

 こんな言い方は好きじゃないけど、これではまるで奴隷の人生だ。

 そんな教育―就職のシステムは、ロボット生産工場だね。

 

 就職して嫌になっちゃったら、さっさと逃げ出してフリーターになったほうがいい。

 高いお金払って大学で勉強だか遊びだかわからないことやって時間を過ごすよりも、フリーターをやってお金稼ぎながらがっちり社会勉強したほうがいい。

 そのほうがよっぽど自分のためになる。

 20代ならそれができる。

 

●仕事するのは自分のため

 

 もちろん、お金かせいでめしを食うことは何よりも大事。

 人のため、社会のために役立ちたいという気持ちも大事。

 でもその前に、昨日も書いたけど、働くこと、仕事することは、何よりも自分のため。自分の生を癒すため。

 それはジュリアンのような音楽家に限ったことじゃない。

 

 自分が成長し、自分が元気になるのが本当の仕事。

 すぐには見つからないかもしれないけど、そう考えながら過ごしているだけで違ってくると思います。

 そういう本当の自分の仕事を見つけよう。

 でないと、そのうちワーカーはみんな、本物のロボットに取り替えられちゃうよ。

 

 

2016・10・10 MON


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ジョンとジュリアンとルーシーと心を癒す歌と仕事について

 

●Lucy In The Sky With Diamonds

 

 ある日、3歳の男の子が保育園で絵を描いた。

 その子の解説によれば、それは彼の好きな女の子がピカピカのダイヤモンドをいっぱいつけてマーマーレード色の空に浮かんでいる絵だった。

 

 音楽家だったその子の父親はその絵をヒントに一曲、歌を作った。それが「ルーシー・イン・ザ・スカイ・ウィズ・ダイヤモンズ」。

 女の子の名はルーシー。男の子の名はジュリアン。そして父親はジョン・レノン。

 これはジョンとジュリアン父子の最も有名で、そして唯一ともいえる幸福なエピソードです。

 

 「ルーシー・イン・ザ・スカイ・ウィズ・ダイヤモンズ」はとても幻想的な、当時のサイケデリックロック、のちのプログレッシブロックの源流にもなった曲で、「不思議の国のアリス」みたいなファンタジックなシーンを、ジョン・レノンが、のちの「イマジン」にも通じる、あの透明感あるちょっと中性的な声で歌っています。

 

●Lucy

 

 この曲が収められた名盤「サージェントペパーズ・ロンリーハーツクラブバンド」は1967年のリリースですが、それから40年以上たった2009年、父と同じくミュージシャンになったジュリアンは「ルーシー」という曲をリリースしました。

 彼が絵に描いたルーシーさんが病気で亡くなってしまったのです。

 

 彼にとっては幼なじみのルーシーさんに捧げる曲を作って歌ったのと同時に、父・ジョンへの想いを託したのでしょう。

 

●スター2世の受難

 

 ジョン・レノンは大好きだけど、ある雑誌で彼のインタビュー記事を読んでから、長男のジュリアン・レノンの言葉がとても胸に響くようになってきました。

 もうずいぶん前――彼がデビューして間もない頃、ジョンが死んでから10年後くらいでしょうか。

 彼はそのインタビューの中で「父はミュージシャンとして偉大ではなかった」と、暗にジョンを批判するようなことを語っていました。

 どうしてそんなことを言ったのだろう?

 その言葉が頭の奥にへばりついて離れませんでした。

 

 僕は当初、単純に父親への対抗意識からそんなセリフが出るのだろうと思っていましたが、どうもそうではなく、ジュリアンは「ジョン・レノンの息子」という宿命を背負ったことで、ほとんど「呪われた」と言ってもいいくらい、ひどく困難な人生を歩まざるを得なくなった、と思うのです。

 

●「愛し合おう」の矛盾 

 

 「パパはみんな愛し合わなくてはいけないと言っているのに、どうして僕には会ってくれないんだろう?」

 

 ビートルズ解散後、ジョンはオノ・ヨーコとともに世界へ向けて愛と平和のメッセージを発信し続けていましたが、その一方で前の奥さんとその子供であるジュリアンには一切会おうとせず、冷酷な態度を取り続けていました。

 

 その頃、6~7歳だったジュリアンが素直に口にしていたその矛盾は、彼の心の奥深くに根を張り、成長しても消えるどころか、ますます大きく膨らんでいったようです。

 

 その後、ジョンは義務感からか、ニューヨークの自宅に何度かジュリアンを招いていますが、そこでもあまり和やかに接することはありませんでした。

 天才・カリスマと呼ばれる人によくある話ですが、ジョン・レノンも「子供の部分」が非常に大きく、感情にまかせて人を容赦なく傷つけることがよくあったようです。

 特に自分とそっくりな上に、母親(離縁した前妻)の影――彼女を捨てたことにおそらく罪の意識を持っていた――を宿している息子に対しては、特にいらだちと怖れを覚え、つい当たってしまうことがしばしばあったのでしょう。

 

●曲作り・歌うことがセラピー

 

 それでもジュリアンの方はいつか父親との関係を回復できるだろうと希望を抱いていましたが、その前に父は銃弾に倒れ、この世を去ってしまいました。

 彼は永遠に、父から受け取ったひどい矛盾――心の捻じれを修復するチャンスを永遠に失ってしまったのです。

 

 それから長い時間が経ち、父がこの世を去った年齢も超え、幼なじみの死との遭遇した彼は、ルーシーの歌を作ることで自分自身を取り戻し、父親を許せるようになった、過去の痛みや怒りを解放できるようになったとインタビューで語っています。

 

 「曲を書くことは、僕にとってセラピーだ。人生で初めて、それを感じると同時に信じることができた。そして、父やビートルズを受け入れることもできた」

 

 

●癒しとしての仕事

 

 こうした思いを抱くことできたのは、彼が音楽を作る人だからだろうか。

 僕は思うのだけど、本来、人間にとって仕事というものは自分を癒すものではないのだろうか。

 

 たとえば、母親にとって子供を育てるのは「仕事」だけど、その仕事によって自分の生が癒されているのではないだろうか。

 

 歌手は歌うことで、ダンサーは踊ることで、俳優は演じることで、絵描きは絵を描くことで、ライターは文章を書くことで、料理人は料理を作ることで、大工は家を建てることで、自分を癒している。

 

 もちろん、歌を聴いたり、絵を見たり、話を聞いてもらったりして癒されることはあります。

 セラピストのお世話になることもあるかもしれない。

 だけど、この社会で生きる中で損なわれた気力・体力の根本的な回復を図れるのは、自分自身が心から打ちこむ行為からでしかあり得ないのではないかと思うのです。

 

 あなたにとっては何が自分の本当のセラピーになるのでしょうか?

 好きな音楽を聴きながら考えてみるといいかも知れない。

 

 

2016・10・9 SUN


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子供の運動会と人生の台本

 

「運動会見てて、あーっ、自分にはもう二度とこんな日は還ってこないんだなぁって思っちゃったよ~」

 

 いつも素敵なセリフ、楽しいコメント、気になる情報を発信してくれるお友達――彼女は2児の母でもあります――が、また今日もぶちかましてくれました。

 週末、子供(小学生)の運動会に行った時の感動ストーリーを語ったのちに出てきた、なんともエモーショナルなセリフは、秋が来たからセンチメンタルになったせいでしょうか。

 僕は表面上、軽く受け流しながらも、お腹の中では腹を抱えて笑い転げていました。ごめん。

 

 そうですよ。子供の青春はこれからだけど、あんたの青春はもう終わりです。

 ちゅーか、とっくの昔に終わってる。いったいいくつだったけ?

 あ、30? まだまだ若いね。こりゃ苦しいよね。

 

 ♪若いという字は苦しいという字に似てるわ~ 

 

 という歌が昔あったけど、禁煙してまだ日が浅いので、時おりタバコ吸ってる夢を見ちゃって、ガバッと起きちゃう――っていう状態だね。お気の毒。 

 はよ年取ったほうがええでっせ。50にもなればそんな夢は見なくなるさかいに。

 

 僕くらいになると、神様に子供の頃や若い時代に戻してやる、もう一度、あの日々を送るチャンスをやるぞ、と言われても、「めんどくさいからもう結構です」と言ってしまうでしょう。

 

 運動会で一等になることもなかったし、大したことをしてきたわけでもないけど、あんまり後悔することはありません。やりたいことやって、けっこう楽しい思いもいっぱいしたしね。

 あの時代に10代・20代でよかったなぁと思えるし、今、50代でいいなぁとも思える。

 

 こういうのはもしかしたらごまかしの一種かも知れないけど、そうやって過去の自分を受け入れていかないと、後半、生きていくのがほんとにきつくなります。まだまだこれからもう一幕、二幕ありそうなので。

 

 人間はみんな自分の人生の台本を、状況に応じてちゃんと自分でリライトしながら書いているのだと思います。

 

 というわけで、お友達には禁断症状が消えるまで、子供の成長を見守りながら、自分もシンクロナイズしてもういっぺんいっしょに青春楽しみながら生きてほしい。

 でも、くれぐれも子供に嫉妬なんかしないでね。

 

 

2016・10・4 TUE


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