インターネットがつくるフォークロア

 

インターネットの出現は社会を変えた――ということは聞き飽きるほど、あちこちで言われています。けれどもインターネットが本格的に普及したのは、せいぜいここ10年くらいの話。全世代、全世界を見渡せば、まだ高齢者の中には使ったことがないという人も多いし、国や地域によって普及率の格差も大きい。だから、その変化の真価を国レベル・世界レベルで、僕たちが実感するのはまだこれからだと思います。

それは一般によくいわれる、情報収集がスピーディーになったとか、通信販売が便利になったとか、というカテゴリーの話とは次元が違うものです。もっと人間形成の根本的な部分に関わることであり、ホモサピエンスの文化の変革にまでつながること。それは新しい民間伝承――フォークロアの誕生です。

 

“成長過程で自然に知ってしまう”昔話・伝承

 

最初はどこでどのように聞いたのか覚えてないですが、僕たちは自分でも驚くほど、昔話・伝承をよく知っています。成長の過程のどこかで桃太郎や浦島太郎や因幡の白ウサギと出会い、彼らを古い友だちのように思っています。

 

家庭でそれらの話を大人に読んでもらったこともあれば、幼稚園・保育園・小学校で体験したり、最近ならメディアでお目にかかることも多い。それはまるで遺伝子に組み込まれているかのように、あまりに自然に身体の中に溶け込んでいるのです。

 

調べて確認したわけではないが、こうした感覚は日本に限らず、韓国でも中国でもアメリカでもヨーロッパでも、その地域に住んでいる人なら誰でも持ち得るのではないでしょうか。おそらく同じような現象があると思います。それぞれどんな話がスタンダードとなっているのかは分かりませんが、その国・その地域・その民族の間で“成長過程で自然に知ってしまう”昔話・伝承の類が一定量あるのです。

 

それらは長い時間を生きながらえるタフな生命エネルギーを持っています。それだけのエネルギーを湛えた伝承は、共通の文化の地層、つまり一種のデータベースとして、万人の脳の奥底に存在しています。その文化の地層の上に、その他すべての情報・知識が積み重なっている――僕はそんなイメージを持っています。

 

世界共通の、新しいカテゴリーの伝承

 

そして、昔からあるそれとは別に、これから世界共通の、新しいカテゴリーの伝承が生まれてくる。その新しい伝承は人々の間で共通の文化の地層として急速に育っていくのでないか。そうした伝承を拡散し、未来へ伝える役目を担っているのがインターネット、というわけです。

 

ところで新しい伝承とは何でしょう? その主要なものは20世紀に生まれ、花開いた大衆文化――ポップカルチャーではないでしょうか。具体的に挙げていけば、映画、演劇、小説、マンガ、音楽(ジャズ、ポップス、ロック)の類です。

 

21世紀になる頃から、こうしたポップカルチャーのリバイバルが盛んに行われるようになっていました。

人々になじみのあるストーリー、キャラクター。

ノスタルジーを刺激するリバイバル・コンテンツ。

こうしたものが流行るのは、情報発信する側が、商品価値の高い、新しいものを開発できないためだと思っていました。

そこで各種関連企業が物置に入っていたアンティーク商品を引っ張り出してきて、売上を確保しようとした――そんな事情があったのでしょう。実際、最初のうちはそうだったはずです。

だから僕は結構冷めた目でそうした現象を見ていました。そこには半ば絶望感も混じっていたと思います。前の世代を超える、真に新しい、刺激的なもの・感動的なものは、この先はもう現れないのかも知れない。出尽くしてしまったのかも知れない、と……。

 

しかし時間が経ち、リバイバル現象が恒常化し、それらの画像や物語が、各種のサイトやYouTubeの動画コンテンツとして、ネット上にあふれるようになってくると考え方は変わってきました。

 

それらのストーリー、キャラクターは、もはや単なるレトロやリバイバルでなく、世界中の人たちの共有財産となっています。いわば全世界共通の伝承なのです。

僕たちは欧米やアジアやアフリカの人たちと「ビートルズ」について、「手塚治虫」について、「ガンダム」について、「スターウォーズ」について語り合えるし、また、それらを共通言語にして、子や孫の世代とも同様に語り合えます。

そこにボーダーはないし、ジェネレーションギャップも存在しません。純粋にポップカルチャーを媒介にしてつながり合う、数限りない関係が生まれるのです。

 

また、これらの伝承のオリジナルの発信者――ミュージシャン、映画監督、漫画家、小説家などによって、あるいは彼ら・彼女らをリスペクトするクリエイターたちによって自由なアレンジが施され、驚くほど新鮮なコンテンツに生まれ変わる場合もあります。

 

インターネットの本当の役割

 

オリジナル曲をつくった、盛りを過ぎたアーティストたちが、子や孫たち世代の少年・少女と再び眩いステージに立ち、自分の資産である作品を披露。それをYouTubeなどを介して広めている様子なども頻繁に見かけるようになりました。

 

それが良いことなのか、悪いことなのか、評価はさておき、そうした状況がインタ―ネットによって現れています。これから10年たち、20年たち、コンテンツがさらに充実し、インターネット人口が現在よりさらに膨れ上がれば、どうなるでしょうか? 

 

おそらくその現象は空気のようなものとして世の中に存在するようになり、僕たちは新たな世界的伝承として、人類共通の文化遺産として、完成された古典として見なすようになるでしょう。人々は分かりやすく、楽しませてくれるものが大好きだからです。

 

そして、まるで「桃太郎」のお話を聞くように、まっさらな状態で、これらの伝承を受け取った子供たちが、そこからまた新しい、次の時代の物語を生みだしていきます。

 

この先、そうした現象が必ず起こると思う。インターネットという新参者のメディアはその段階になって、さらに大きな役割を担うのでしょう。それは文化の貯蔵庫としての価値であり、さらに広げて言えば、人類の文化の変革につながる価値になります。

 

 

2016年6月13日


0 コメント

黄金の林檎

 

 男の持ったトランクの蓋が何かのはずみにパカッと開くと、中から何十個もの赤いリンゴが舞台いっぱいにゴロゴロと転がった。呆然としてそれを見る男。トランクの中には○億円の黄金のリンゴが詰め込まれていたはずなのに・・・。

そんなシーンが最初に頭に浮かんで、そこにいたるストーリーはどんなものか、あれこれ考えて芝居を作ったことがあります。

 

 いくら上等でおいしいリンゴがトランクいっぱいに入っていたとしても貨幣価値は――たとえば500円×20個として――せいぜい1万円。

僕たちが暮らしている、経済を中心とした生活圏では、○億円の金塊のリンゴのほうが価値が高いのは言うまでもありません。

 

 けれども人によって、あるいは状況によって、その価値は変わってしまいます。

 経済の意味がよくわかっていない子供にとっては、ただキラキラしていてきれいなリンゴよりも、食べられるおいしい赤いリンゴの方が価値が高いに決まっています。

 大人でも砂漠とか荒野で飢え死にしそうな状況であれば、やはりおなかを満たせるリンゴの方を選ぶでしょう。

 

 捉え方の軸を変え、リンゴが何を表すのか考えてみます。

 黄金の林檎は精神的な理想――夢とか希望のシンボル。

 一方、赤いリンゴは毎日の現実の生活のシンボル。

 そんなふうに捉えることもできます。

 

 精神の高さ―経済の豊かさ―生活の幸福感。

 それぞれの価値観のフィールドを、僕たちは絶えず行ったり来たりしながら毎日生きています。

 自分にとって価値のあるものが、他の人にとっても価値があるとは限らない。その逆もまた然り。

 そしてまた、昨日価値のあったものが、今日も同じ価値があるとは限らない。

 

 そうしたことを考えるとき、僕はかつて自分で書いた、この黄金の林檎の物語と、その中でジタバタしていた登場人物たちを、かけがえのない友達のように思い出すのです。

 

 ことさら出来の良い子供(作品)ではなかったけれど、その後の人生や仕事のテーマになっていて、とても役に立っていたり、助けられていることに気が付きました。

 トランクに詰め込んだ林檎は、やはり僕にとって「黄金の林檎」なのだと思います。

 


0 コメント

インヴァネスのベーコンエッグ

 

Good Morning。GWスペシャル。
以前、「ロンドンのハムカツ」という話を書いたので、今度はその姉妹編を書きました。

ブログにしてはちょっと長い、小説のような、エッセイのようなお話です。

 

 真っ白なブラウスに真っ白なエプロン。

 金色の髪に琥珀色の瞳。齢はおそらく15か16。中学生か高校生ぐらいだろう。

 けっして美人ではないけれど、愛嬌のあるファニーフェイス。

 何よりも白い肌に映えるリンゴのような真っ赤なほっぺが可愛らしい。


 彼女は「わたし、アマンダと言います」と自己紹介してくれた。

 そして、ダイニングのテーブルに着いたぼくの前に、湯気の立つ焼きたてのベーコンエッグの皿を運んできた。

 香ばしいにおいが鼻をくすぐる。

 そのにおいとともに、彼女が少し緊張気味であることも伝わってきた。

 あまり接客に慣れていないようだ。

 なんとなく動きがぎこちない。

 もしかしたら泊り客に食事をサーブするのは初めてなのかもしれない。

 口元に湛えた微笑みも心なしかこわばっている。

 

 ぼくは自分が池袋の喫茶店で初めてアルバイトをした時のことを思い出した。

 黒い蝶タイで首が締めつけられていたせいか、ひどく息苦しかった。

 コーヒーカップがソーサーの上で小刻みに震え、カチカチ音を立てているのがやたらと大きく耳に響いた。

 客は男だったか女だったか、若かったか齢を取っていたのか、まったく憶えていない。

 そんな顔のわからない客が、じっとぼくの動きをいぶかしげに観察していた。その視線だけがよみがえってくる。

 

 彼女も同じことを感じているのだろうか?

 せっかく一生懸命やっているのに、それではちょっと気の毒だなと思い、とりあえず「ありがとう、アマンダ」と、お礼を言った。

 きっと彼女は「どういたしまして」と返そうとしたのだろう。

 しかし、微笑みを湛えたたまま唇がうまく動かせない。

 そこまで余裕がないようだ。

 そこでぼくはもうひとこと付け加えた。


 「きょう、ぼくはネッシーに会いにここまで来たんだ」

 

 その時代、ネッシーは人々の心の中に実在していた。

 子供の頃、「世界のふしぎなんとか」という本を読んでから、ぼくの中でもその影が消えたことはない。

 イギリスに来て、秋が過ぎ、冬が過ぎ、春がめぐってきた。北にあるスコットランドも5月の声を聞いて、やっと春めいてきたという。

 だからぼくはレストランの仕事を3日間休み、ロンドンからこのインヴァネスを訪れたのだ。


 インヴァネスはネス湖のすぐ近くにある町で、ぼくが宿にしたこのB&B(ベッド&ブレックファースト=イギリスの民宿)は、町の中心からちょっとだけ外れた、ネス川のほとりに佇んでいた。

 周囲の緑に溶け込んだ、田舎風だが、おしゃれな家だ。

 

 夜、シャワーを浴びたあと、ベッドの上にごろんと横になると、しじまの中から水の流れる音がさやさやと聞こえてきた。

 ネス湖に注ぎ込む水がささやきかけている――そんなふうに感じた。

 するとぼくの頭に、明日、実際に起こるかもしれないネッシーとの遭遇シーンが浮かび上がった。

 

 どんよりと重く垂れこめた雲の下、濃い霧が出て、湖はミステリアスな雰囲気に包まれている。

 湖畔を歩いていると、湖の真ん中でにわかに水面がざわざわと波立った。

 あっと思ってその場所を見る。

 水中からなにか黒い大きなものが現れたかと思うと、するするとそれが灰色の中空に伸びていき、弧を描いた。


 その長い首の持ち主はそこでひとつ、咆哮を轟かせた。

 自分ははるか昔の地球の子供であることを、ぼくたち人間に知らしめるように。

 そして、この惑星の何億年という時の堆積の上に、今の人間の暮らしがあることを訴えるかのように。


 その映像と音声は、目を覚ましたまま想像を巡らせているのか、それとも眠りに落ちて夢を見ているのか、自分でも判然としなかった。

 ぼくはそんなふうにインヴァネスでの最初の一夜を過ごしたのだ。

 

 「そうですか。ネッシーに会えるといいですね」


 アマンダはそう言って、ひと息ついた。

 そしてまた、にっこりと微笑みなおした。

 少しはにかみ気味ではあるものの、今度のはこわばりが溶けた自然な微笑みだった。

 心からそう願っている、ぼくの幸運を――

 それがひしひしと伝わってくる。

 そして、「トーストやコーヒー、紅茶は何杯でもお代わりできますよ」と言った。

 

 

 食事がまずいと言われるイギリスだが、朝食は別だ。

 アマンダにサービスされたボリュームたっぷりのベーコンエッグ。

 それにはソーセージもついているし、焼いたトマトやマッシュルームも添えられている。

 それにもちろん、トーストにはバターとマーマレードをたっぷり塗ることができる。

 あまりにおいしく、また、ボリューム満点で、ぼくは朝からおなかを満たし、心の底から満足した。

 

 美しい朝の光がダイニングルームの窓から注いでいる。

 ネス川のせせらぎに混じって、小鳥のさえずる声が聞こえてくる。

 やわらかなそよ風が吹き、庭の花も一段と鮮やかに色づく。

 地面から、空中から、春の暖かさがあふれ出してくるようだ。


 その日のインヴァネスは昨夜の夢想、そして、ぼくが子供の頃から胸に抱き続けていたミステリアスなネス湖のイメージとは、あまいにもかけ離れたものだった。

 

 「ぜひ、ネッシーに会ってくださいね」

 出かけるとき、アマンダは玄関でぼくを見送りながら、もう一度、そう言ってくれた。
 「うん、期待してるよ」


 彼女にはそう言いながらも、ぼくにはわかっていた。

 ぼくはきっとネッシーに遭遇することはないだろう。

 なぜなら、ぼくのインヴァネスとネス湖に対する印象は、その時すでにまったく変わってしまっていたから。

 

 こんがり焼けたベーコンエッグ。
 それを運んできてくれた女の子。
 そのリンゴのような赤いほっぺと、ちょっとはにかんだような愛らしい微笑み。

 

 

 長い首を持った、太古の地球の子供は、昨夜の夢想を最期に、もう過去のものになりかけていた。
 空は青く澄みわたり、遅れてやってきた春があたりにさざめいている。 

 その後ろから夏もくっついてやってくる。

 そんな気持ちにもさせられる5月の朝。

 ぼくは麦わら帽子をかぶり、ゴールデンピクニックにでも出かけるような気分で、ネス川に沿って湖に向かって歩いて行った。

 今でも鮮やかによみがえる小さな旅。
 アマンダ、おいしいベーコンエッグとインヴァネスをどうもありがとう。

 

 


0 コメント