父の昭和物語


第一章 戦場を潜り抜けた子ども

 

1.炎

 

 目指す建物には灯が戻っていた。その灯を見て少年はほっと胸をなでおろした。と同時に班長の怒った顔が脳裏に浮かぶ。
 「福嶋! 戻るのが遅すぎる!」
 ここのところ、名古屋の軍需工場は昼となく夜となく大回転で機械を動かしていた。もっと人手が必要ということで、少し前からは高等小学校の学徒まで導入し、製品増産に躍起になっていたのである。しかし、昭和十九年頃から米軍の空襲がますます頻繁になり、その警報が発令されるたびに稼動を止めざるを得ない。

その日も夜十時過ぎ、警報が発令され、従業員たちは決められた避難所に退避。しばらくして解かれたが、少年は避難中、うたた寝をしていたため、ひとり戻るのが遅れてしまっていた。

まだ眠気が残り、身体もだるい。そこに班長から怒られるという心配が加わり、足取りはますます重くなった。と、その時。

ゴオォォォォ……

足が止まった。

まさか。空襲警報はついさっき解除されたはずなのに……

けれでも、あれは恐怖の感情とともに耳に焼きついているエンジンの轟音。漆黒の空を巨大な翼を広げて疾駆する猛禽B29のうなり声だ。

少年は直感的に覚った。

これ以上あそこに近づいては危ないと。

そして、すぐに離れなくてはいけないと。

彼はほんの数十メートル先に見える工場の建物にくるりと背を向け、いま来たばかりの道を走り出した。

そのわずか数秒後。
 ヒュルルルル・・・と中空に轟く、間の抜けたような、尾を引く音。

もう夏だというのに、その瞬間、背中が凍りつくような感触にとらわれた。
爆発する轟音。

振り返ると、工場は生まれてこれまで見たこともない、巨大な紅蓮の炎に包

まれていた。

少年はそこでまた立ち止まり、呆然とその光景を目にした。

炎の中で幾つかの身もだえする人影が見える。彼の同僚なのか、それとも上司なのか……目を背けたいのに、そこから視線を離すことが出来ない。何かが彼の頭を押さえつけ、その惨劇を見続けることを強要していた。そして、今そこにある事実を記憶に焼き付けるように命じていたのだ。

あと一分か二分、早く到着していれば自分もあの中にいたことを。
そうすれば人生はここで終っていたのだということを。

 同じ時間、そこから五キロも離れていない場所で名古屋城も燃え上がっていた。天守閣の頂に輝く金の鯱が炎に包まれて咆哮していた。

昭和二十年五月十四日。名古屋大空襲。

軍需工場の工員だった福嶋義廣はこのとき十六歳だった。

 

 

2.父と母と筆者

 

 福嶋義廣は僕(筆者・福嶋誠一郎)の父です。

 父・義廣は昭和三年(1928年)八月三十日に生まれ、平成二十年(2008年)十二月十七日、満八十歳でこの世を去りました。八十年間、ずっと名古屋市北区で暮らし続けました。

 名古屋市立金城小学校(当時は金城尋常小学校)を卒業後、件の軍需工場の工員として働き、戦後は職業訓練所に通った後、市内の建築会社に勤務。三十一歳で独立し、屋根瓦葺替業を三十年余り行いました。

 父が母と結婚したのは、昭和三十四年四月。現・天皇陛下のご成婚と数日しか違いません。長男である僕が生まれたのはその九ヶ月後で、現・皇太子殿下のほぼ一ヶ月前です。

 僕が小学生の頃までは仕事一筋で頑張っていましたが、少し余裕が出来てからは、国内・海外(台湾・香港など)へ旅行に出掛けるようになり、また骨董品蒐集や美術品蒐集を趣味としていました。自宅を新築した折に、小さな日本庭園を造り、池で錦鯉を飼ったりもしていました。

 

 と、履歴書ならこの程度のことを書くのが関の山です。

僕は父の死後、社会保険事務所で遺族年金の手続きをする際、このような履歴書(今ここに書いたものよりもっと簡単なものです)を書いて提出したのですが、父というひとりの人間の人生の軌跡がこうした紙切れ一枚の中に納まってしまうことに何とも言えない寂しさと不満を感じました。

もちろん、役所の窓口や事務手続きをする人たちを相手に、自分の家族の物語をとうとうと語り伝えようとは思いません。また、父は不特定多数の人たちに興味を持ってもらえるような波乱万丈な人生、英雄やスターのような人生、生きる迫力に満ち溢れた人生を歩んだわけでもありません。むしろそれらとは正反対の、よくありがちな、ごく平凡な庶民の人生を送ったのだと思います。

けれどもそうした平凡な人生の中にもそれなりのドラマがあります。そして、どんな人のドラマにも、その時代・社会環境の影響を受けた部分が少なくないと思うのです。

僕は父に関するいくつかのエピソードと、昭和の歴史の断片を併せて書き残し、家族や親しい人たちが父のことを思い起こすための一遍の物語を作りたいと考えました。

本当はこの物語は父が亡くなる前に書くべきでした。けれども生前、とうとう父に自分の人生を振り返って……といった話を聞く機会は作れませんでした。今となっては後悔することしきりです。そこで僕が生まれる前や幼い頃のこと、つまり父が若い頃のことは母から聞き書きすることにしました。この本は言ってみれば、母と僕との合作です。

母、すなわち義廣の妻である福嶋蔦子は、昭和四年一月二日に生まれました。やはり名古屋市内の中村区の出身です。父とは見合い結婚だったので、結婚以前のことは直接知っているわけではありませんが、よく夫婦でお互いの子ども時代や若い時代、つまり戦中や戦後の復興期のことを話していたそうです。同じ世代なので同じような体験をしていることが大きかったのでしょう。

最初に書いた空襲の体験談も、もちろん母から聞いた話です。

僕たちが今、テレビやインターネットのニュースなどを通して見ている、炎や血にまみれた“戦場”が、七十年ほど前にはすぐ目の前に広がっていたのです。ずっと気づかないでいましたが、父や母はそれらの戦場を潜り抜けて生き延びてきた子どもたちなのです。

防空壕で居眠りをしなければ、工場に戻るのに遅刻しなければ、父の人生は十六歳で終わり、母と出会うこともなく、僕も生まれていなかったでしょう。平々凡々な、取るに足らないのではないか、と思われる人生の中にも、この世界で生きている限りは奇跡のようなドラマや不思議さに溢れているのです。

 

 

3.子ども時代

 

 義廣が生まれた昭和三年には、のちにB29を日本の空に送り込む米国から

世界的アイドル・ミッキーマウスが生まれ、そのアニメ映画「蒸気船ウィリー」

が公開された。

また、この年の東京市の死亡者は三万人弱だが、そのうちの約三分の一である一万人強が〇歳から五歳までの乳幼児とのことだ。当時の子どもの死亡率がいかに高かったか分かる。

義廣は戸籍上は次男だが、兄が幼くして病気で亡くなってしまったため、事実上の長男として成長した。上に姉が二人、弟が三人、妹が一人。この時代には珍しくない〈貧乏人の子だくさん〉で、ごく当たり前のように生活は苦しかった。

学校では一番上の姉と並んでかなりの優等生だったそうで、読書好きなことでも知られていた。しかし、食べることに精一杯だった家に本など買うお金はなく、専ら新聞小説を何度も繰り返し読んでいたという。家計を助けるため、いろいろ内職(今で言うアルバイト)もやっていたようで、雇い主のおとなからよく「一銭を笑う者は一銭に泣く」という教訓()を聞かされた、と話していた。昭和前期のつましい庶民の暮らしが垣間見えるようである。

成績がいいので、今どきの親なら「ぜがひでも上のいい学校へ」「お金がなければ奨学金制度を使ってでも」となるところだが、この時代はそんな常識などなく、最初から諦めモード。生前聞き損ねてしまったので、本人が上の学校、つまり今で言う高校・大学に行きたいと思っていたかどうかは不明だ。

そういうわけで尋常高等小学校を卒業後は素直に就職。

昭和十八年。時代が戦争一色に染まっていたこともあり、義廣は件の軍需工場の工員となった。その際のエピソードが面白い。単に就職するだけでなく、その会社の吹奏楽団に入ってほしい、と要望されたというのだ。しかも、パレードの先頭でラッパ(トランペットか?)を吹くことを要請されたらしい。軍需に関わる会社として士気を上げるため、独自に楽隊を組織していたというのも興味深いことだが、それ以上に父がそういう活動をしていたというのは意外だった。

生前、父が楽器を演奏する様子は見たことがない。また、そんなイメージなどかけらも見受けられなかった。おそらく音楽を得意とするバリバリのプレイヤーではなく、せいぜい「ちょっとラッパが吹けるよ」という程度だったのだろう。それでも「楽団の先頭に」という要請があったのは、新卒の中でも優等生として信頼されていたからではないかと思う。

 

 

4.軍需工場と名古屋大空襲

 

 さて、ここで冒頭の空襲のエピソードに繋がるわけだが、当時の名古屋の軍需工場とそれを狙った米軍の空襲について書いておこう。

 当時から名古屋は東京、大阪に次ぐ日本で三番目に人口の多い大都市であり、工場もたくさんあった。いわゆる中京工業地帯の中心地である。そしてこの時代、多くが軍需工場として稼動していた。

中でも地元でよく知られているのが現在、名古屋ドームがある北区の大曽根近辺で、ここは軍用飛行機の発動機(エンジン)や部品を作っていた日本最大級の飛行機工場があった。義廣が勤めていた工場は、そこから数キロ離れた西区の浄心町近辺にあり、そこもかなり大きな規模だったようだ。

 こうした軍需施設は当然、米軍の爆撃目標となる。「空襲」と言えば、一般的には昭和二十年(1945年)三月十日、一夜で九万人を超える人が死んだと言われる東京大空襲が有名だが、黒い猛禽B29は、もちろん東京だけでなく、日本全国の都市に繰り返し飛来し、焼夷弾や爆弾を雨あられのように浴びせかけた。

話を名古屋に限って言えば、昭和十七年から何度か小規模なものがあったようだが、本格化したのは昭和十九年(1944年)十二月から。以降、翌年の終戦の前まで大規模な空襲が執拗に繰り返された。記録によると特に激しかったのは、東京大空襲の二日後の三月十二日、同・十九日、五月十四日、「熱田大空襲」と呼ばれる六月九日の四回。これらの空襲によって軍需工場はもとより、民家も含めた市街地はほぼ丸焼けの状態となり、街のシンボルである名古屋城も焼失した。

軍需工場で働いていたのは女性も含め、十代の若者が圧倒的に多く、学徒も相当数含まれていたという。当然被害者もそういう若い人たちが主だった。東京大空襲や広島・長崎の原爆投下時と同じような惨劇の舞台が、七十年近い年月の間に美しく再構築されたこの街の下に眠っているのだ。

五月十四日のあの日ほんの僅かなすれ違いのお陰で、戦時を無傷で潜り抜けることの出来た十六歳の義廣が、その後、どのような思いで終戦を迎え、復興期を過ごしたのかは殆ど聞くことが出来なかった。幸い、家族で戦死した者・被災して命を落とした者はいない。そのせいか、ひどく戦争を憎んでいたわけでもないようだ。

僕が子どもの頃、家の中にはやたら戦争に関する書物や写真集などがあった。また、テレビで戦記映画などをやっていると熱心に、ときに食い入るように見ていた。おそらく自分の子ども時代をほぼ全編にわたって覆いつくした戦争という災厄を、終生離れることがなかったのだろう。それは心の中の一つの原風景として、ずっと宿り続けていたに違いない。だから、あの戦争についてもっと知りたいという欲求に駆られるのは当然のことなのかも知れない。

終戦は義廣を大人にした。戦死するなど、若い世代の男が少なくなっていたから、早く大人にならなくてはならなかった。それに明日の見えない焼け野原の中では、子ども時代の感傷などに浸っていたら飢え死にしてしまう。今日の食い扶持を確保し、とにかく一日一日生き延びていかなくてはならない。そんな戦時以上に過酷な季節を迎えた時の思いはどんなものだったのだろうか。

 

 

第二章 仕事と家庭を背負って屋根に上る

 

1.伊勢湾台風

 

 父・義廣の人生を語る際に欠かせない社会的な大事件……言い方を変えれば「災厄」が、前述の名古屋大空襲と、もう一つは「伊勢湾台風」である。

 昭和三十四年(一九五九年)九月二十六日から二十七日かけて伊勢湾に上陸し、名古屋を中心とする東海地方全域を襲った台風十五号は、死者四六九七人、行方不明者四〇一人という、日本の台風災害としては史上最悪の被害をもたらした。この十五号はその後「伊勢湾台風」と名付けられ、東海地方の人々の心に長く止まることになる。

僕が生まれたのはそれから四ヶ月後の翌年一月。つまり学校の同級生は昭和三十四年生まれが圧倒的な多数派で、小学生時分には「伊勢湾台風より生まれが前か後か」ということが学校の中でよく話題に上った。

名古屋市内は南部の地域に甚大な被害が出たが、義廣の住んでいた北区は特に大きな被害を受けずに済んだ。では、この伊勢湾台風が彼の人生にどんな意味をもたらしたかと言えば “特需”である。

生前、義廣は「あれは神風だった」と語ったことがある。要するに伊勢湾台風のおかげで仕事が増え、儲かったのだ。

その頃、父は屋根瓦を葺き替える瓦葺き替え請負業(屋根瓦専門の工務店)〉として独立・開業したばかりだった。そこで発生した伊勢湾台風による大量の家屋破損の被害は、膨大な需要を生み出したのである。これはこの地域の建築業全体に言えることで、不謹慎であることを承知で言えば、自然災害によって、“またとない恩恵”がもたらされたのである。

この台風特需によって、スタートしたばかりの自営業は一気に軌道に乗り、基盤をと問えることが出来、その後三十年余りの間、仕事が途絶えることはなかったという。大空襲による命の危機を間一髪ですり抜けた強運の持ち主は、ここでも巨大な災厄を、逆に味方につけ、生きていく道を開いたのである。

 

 

2.昭和三十四年前までのこと

 

昭和を語る時、決まって持ち出されるエポックが、東京タワーが完成した昭和三十三年。そして、東京オリンピックが開かれ新幹線が開通した昭和三十九年だが、この伊勢台風の災禍に見舞われた昭和三十四年(一九五九年)も、日本の近代史を語る上で欠かせない年ではないかという気がする。

 ひとつには当時の皇太子、現在の平成天皇のご成婚がある。四月十日、パレードが行われたが、その中継を見るために全国で爆発的にテレビが売れた。いわば、テレビが各家庭に浸透した年であるとも言える。

 ちなみにわが家に、なんと、皇后・美智子様(当時の皇太子妃)のカラーのスナップ写真がある。もちろん車の後部座席に乗っている姿だが、あまりにクリアに写っているのでびっくりだ。このわが家の前を走る道路を通ったらしい。日付がないので、いつ誰が撮ったものか分からないが、そのお姿からして、このご結婚から十年以内のものだろう。

失礼な言い方になるかも知れないが「こんなに綺麗な人だったんだ!」と思わず唸るくらいの美貌である。お齢を取られるのは当然だが、今のお姿と比較すると、皇室の暮らしはご苦労が多いのだろうなぁ……と、しみじみ推察できてしまう。

もう一つ特筆すべきは、この年の三月に日本初の、ということは世界初の週刊漫画雑誌「少年マガジン」(講談社)が、四月に「少年サンデー」(小学館)が相次いで創刊されていることだ。それまでに月刊誌はいくつもあったが、週刊誌が出たことによって、世界に冠たる日本の漫画文化が加速度的に発展していくことになる。

神様・手塚治虫をはじめとする当時の漫画家たち、また、映画・テレビ・音楽といった各種メディア産業に携わるクリエイターたちの残した仕事を、書籍などを通して知る機会があるが、創作に対するその執念とバイタリティたるや、すごいものがある。まるでバクバク飯を食って、ドバドバとエネルギーを発散しまくるティーンエージャーのようだ。おそらく、こうしたクリエイターたちだけでなく、一般的なサラリーマンたちも皆、成長期の熱いエネルギーの中でモーレツに働いていたのだろう。戦後の日本の奇跡的な復興には数多くの要因が絡み合っているが、やはり最も大きいのは、人々の働くエネルギーが最大限に活かされ、それが効率よく成果に繋がっていたから、と要約できるのではないだろうか。

 

前述したように義廣は平成天皇と同じく、この年の四月に結婚した。そしてそれと時期を同じくして独立・自営業を始めたわけだが、戦後からそれ以前の間、つまり十代後半から二十代をどのように過ごしていたかはよく分からない。写真が何枚かあるので、これらをネタに話を聞くべきだったと後悔することしきりである。

身内の自分が言うのも変だが、写真を見ると若い頃の父はなかなかの男前に見える。馬面で少々出っ歯なので、俳優の藤田まことに似ていると言われることもあったようだ。顔の色がちょっと珍しい赤黒い色(日焼けと、何か皮膚を傷めたことがあったのかも知れない)だったので、笑うと前歯の白さと大きさが目立って見えた。近視のはずだが、この頃は眼鏡をかけていない。そういえば、四十代くらいまでは家では眼鏡をかけることが多かったが、仕事のときなどは外していた。コンタクトレンズなど使ったことはなかったので、そんなに強い近視ではなかったのだろう。僕の記憶の中でも、どちらかと言えば眼鏡のない顔の方がより強く印象が残っている。

身長は百七十センチ足らず。当時の日本人男性としては平均的な上背だ。肉体労働をしていたので、それなりに逞しく引き締まった身体ではあったが別につに特に筋骨隆々というわけでもない。要は中肉中背だったのだが、なぜか女性からは「大きい人」というイメージで見られていたらしい。母が周囲の人からよくそう言われていたらしいのだが、遠目で見ている人からは「優しげな大男」という印象があったようだ。僕も子ども目線では、父がやたら大きな男に見えていた。

さて、話を戻して……

母から聞いて分かっているのは、職業訓練所のようなところに通っており、そこで建築について学んだこと、そして、市内の「高田建築」という会社に務めていたことくらいだ。娯楽も現在と比べればぐっと少なく厳しい時代だったし、ユーモアのセンスはあるが基本的には真面目な人だったので、とにかくこの十数年の間にしっかり働きながら建築に関するスキルを磨いたのだろう。瓦を葺き替える仕事を生業にしようと思ったのは、ニーズが高い割に競争相手が少なかったからなのだろうか? 

事実、市内でも義廣と同じような仕事をしているところはごく僅かだったようだ。今で言うベンチャー企業としてやっていける勝算があったのかどうか、どこまで計算していたかは定かでない。伊勢湾台風による特需ももちろん予測できたわけではないのだが、振り返ってみれば結局、この昭和三十四年の“ツキ”が義廣の人生を決定付けたのである。

 

 

3.仕事の話

 

 子どもの頃、夏休みに家の中で「暑い、暑い」とブーたれていると、母が鬱陶しがって、「お父さんはこのカンカン照りの中、日差しの強い屋根に上って仕事をしているんだから、おまえもガマンしなくてはいけない」と、たしなめられた。これはやけにはっきり憶えている。

確か小学校の三年生とか四年生だったので、時代は昭和四十年代のちょうど半ばだ。わが家にはまだエアコンはなかった。エアコンはお大尽の家にあるもの。一般庶民は扇風機、と相場が決まっていた時代だ。だから夏休みは扇風機をブンブン回し、「ワレワレハ宇宙人ダ」とボイスチェンジャーごっこをやったり、買って間もない電気冷蔵庫をしょっちゅうバタバタ開け閉めして叱られていた。今ではさっぱり見かけなくなった粉末ジュース、粉末ソーダ(チクロという発がん性物質が検出されたとかで生産されなくなったらしい)などを冷水で溶いてガバガバ飲んでいた。涼みたいときは冷房が効いている近所の図書館に行ったり、ショッピングセンターの中をウロウロしたりしていた。

現在は地球の温暖化が進み、夏になるとテレビやラジオでアナウンサーやタレントが口を揃えて「今日も暑いです、猛暑です、酷暑です」と合唱するので、よけい暑苦しくなったりするが、その頃ももちろん真夏は十分に暑かった。そして冬はめっぽう寒かった。名古屋はその夏と冬の気温のギャップが大きい土地なのだ。

そんな中で義廣は重い道具や資材を屋根に上げながら作業していた。

〈屋根を葺き替える仕事〉というのは、一般の人たちはちょっと想像し難いかも知れないが、簡単に言えば、傾斜した屋根の下地に日本瓦を敷き詰めて整形する仕事である。下地と瓦の間には、藁と赤土を混ぜてこね合わせた、いわゆる“接着剤”を塗り、瓦と瓦の間は針金などを使ってしっかり固定する。

家の中でも屋根は年中雨風に晒されて傷みやすいところだ。その割に普段はちゃんと目にすることがないのでほったらかしにされ、雨漏りなどが起こってやっと損傷に気づいてメンテナンスする…といったパターンが多い。

日本家屋の場合、屋根に瓦を使うのは家を立派に見せる装飾としての意味合いもあるが、それ以上に雨風から家全体を守り、劣化を防ぐために必要とされた。伊勢湾台風がきっかけとなったが、その後の高度経済成長の波に乗って景気が上向き、家を建て替える人も増えたので、需要は長期にわたってかなり多かったようだ。従って義廣の顧客は、家全体の建築を請け負う大工の棟梁さんで、多いときには三十人ほどの顧客を持っていたらしい。

僕にとって父・義廣は〈職人〉というイメージが濃かった。毎朝、グレーっぽい作業服を着込み、夏はハンチング帽を、冬は温かい耳当てのついた黒い革の帽子を被っていた。母に造ってもらった弁当とお茶の入った出納を持ち、地下足袋を履いて仕事へ出掛けて行った。

正直、子どもの頃は何でも西洋風がカッコいいと思っていたので、トーストとコーヒーの朝食を摂り(うちは毎朝、ご飯と味噌汁だった)、スーツを着込んで出掛けていく、サラリーマンのお父さんを持つ友達が羨ましかった。義廣がスーツを着てネクタイを締めるのは、冠婚葬祭の時ぐらいしかなかったように思う。いつもカンカン照りの、あるいは木枯らしの吹きつける戸外の現場で働く男だった。しかし、じつは職人としての腕はそこそこで、どちらかと言えば経営者としての才覚が優れていたようなのだ。

母は専業主婦だったが、その経営を陰で支え、算盤も弾いていた。母によれば、義廣の話には非常に説得力があり、掴んだお客は離さない。また人を使うのが上手かったというのである。そんなに器用な人だったわけではないが、人柄の良さがプラスの方向に働いたのだろう。

自宅には朝や日中には、一緒に出掛ける職人さんや運転手さんが来て、夜にはお客さんが図面を広げて打合せに来ていた、という印象がある。長らく一緒に仕事をしていた職人さんの中でよく憶えており、いまだにお顔も思い出せるのは、永津さんと山路さんという人だ。

永津さんは非常に腕の良い職人さんで、葺き替えの技術について、義廣をはじめ、他の人たちにいろいろ指導することも多かったらしい。確か僕の上の妹と同じくらいの娘さんがいたと記憶している。ただ、少し気難しいというか、とっつきにくいところもあった。

もう一人の山路さんは本当に「やさしいおじさん」という感じの朴訥な人で、少しはにかんだ感じの笑顔が印象的だった。毎年、お正月には必ず僕や妹にお年玉をくれた(子どもはお年玉をくれる大人をしっかりと記憶する)。後年、京都に住んでいる息子さんを頼って移り住み、あちらでも同じ様な仕事をしていたらしいが、うちに電話を掛けて来て「福嶋さんのところで働いていた頃がいちばん良かった」と母に話していたらしい。

長らく営業していたので、もちろん山も谷もあったと思うが、全般的には昭和後期の日本経済の好調な時期とシンクロし、一代でそれなりの成功を収めたのだと思う。誠実な仕事ぶりと成果は周囲の地域の関係者に広く伝わり、棟梁たちからは「瓦屋根は福嶋に」と評判を得ていたようだ。

 

 

4.父の思い出あれこれ

 

僕が子どもだった昭和四十年代は、まだ週休二日は一般的でなく、土曜はいわゆる“半ドン”で、世のメジャーどころの会社や役所や学校は午前中出勤(登校)、午後から翌日の日曜にかけてがお休みだった。

しかし、義廣の仕事は自営業だったため、そんな定休日のルールは関係ない。仕事が立て込んでいる時は休みなく毎日ぶっ続けで働いていた。

若い頃は体力もあったので、一日仕事を終えて帰宅した後、夕方から自転車を飛ばして出掛け、翌日の仕事を手伝ってくれる人たちに段取りを伝えに回ったりもしていたそうだ。

なにせ当時はインターネットはおろか、庶民の家にはまだ電話も行き渡っていない時代である。今ならどこにいようが携帯電話から一本で事足りる連絡事項を伝えるにも、いちいち身体を使わなくてはいけなかったのだから大変な騒ぎである。しかし、気持ちはその方が強く、確実に伝わるだろう。情報の一つ一つに今とは比べ物にならないくらいの重みがあったのではないかと思う。

いずれにしても毎日忙しかったことに間違いはない。ただ、屋外の作業なので、雨や雪が降ったり、あまりに風が強かったりすると、平日でもあっけなく休みになることが多かった。年間を通して見ればバランスが取れていたのかも知れない。

そんなわけで日曜でも家にいないことが多く、仕事が休みになってもその日はほぼ決まって雨ふりだ。そのため、父にどこかへ遊びに連れて行ってもらった記憶は三回しかない。

そのうち二回は幼い頃、犬山モンキーパークと東山動物園に連れて行ってもらった記憶だ。おぼろげながら匂いや雰囲気を憶えている……といった程度だが、写真が残っている。季節は冬。例年、正月明けから二月ごろまでは仕事が少なく、ヒマにしていることがよくあったようなので、きっとその頃行ったのだろう。

残りの一回ははっきりと憶えている。すでに小学校の高学年だった。近所の映画館に映画を観に連れて行ってもらったのである。怪獣・特撮ものやアニメ以外の映画を見るのは、それが初めてだった。

〈海軍特別年少兵〉。

タイトルどおり、学徒出陣のため、海軍に入った十四歳の少年たちと、その上官をはじめ、それを取り巻くおとなたちを描いた映画だ。インターネット上の〈キネマ旬報映画データベース〉にはこんな解説・あらすじが載っている。

 解説

太平洋戦争末期海軍史上最年少の少年兵たちが、祖国の防人として、祖国のためと信じ、疑うこともなく、また疑うこともゆるされず、殉死していった。その少年たちの魂を描く。脚本は「あゝ声なき友」の鈴木尚之、監督も同作の今井正、撮影は「出所祝い」の岡崎宏三がそれぞれ担当。

 あらすじ
  太平洋戦争末期の昭和二十年二月、米軍は硫黄島に怒濤の如く押し寄せた。闘は壮絶を極め、日本軍守備隊の二万三千余のほとんどが壊滅した。その中に三千八百名にのぼる少年達が含まれていた。彼等は、「海軍特別年少兵」と呼ばれた。日本全土が戦意昂揚にわき上る昭和十八年六月、彼等少年達は武山海兵団に入団した。年令、わずか十四歳であった。海兵団での生活は想像を絶する程厳しい規律、肉体の限界を越す訓練、いかなる私情もさしはさむ余地のない生活がつづいた。その中にあって教官の吉永中尉は、ただ一人「愛の教育」を説いており対照的に「力の教育」を信じて疑うことのなかった工藤上曹とは常に対立していた。……(後略)

出演者は地井武男、三國連太郎、大滝秀治、小川真由美、奈良岡朋子など、いま思えばそうそうたる顔ぶれが揃っている。けれども内容の方は、解説・あらすじから何となく推測できるように、全体に物悲しい、陰うつなトーンの映画だ。年少兵のひとりが天皇からの授かり物とされている帯剣を失くしたため、首吊り自殺してしまうシーンがやたら印象に強く残っている。

あとから調べて意外だったのは、この映画の製作年が一九七二年になっていることだった。小学校の四年生か五年生の頃に観たと思っていたのだが、どうやら小学校を卒業し、中学校に入学する前の春休みに連れて行ってもらったようだ。

映画の中の年少兵たちは父とほぼ同世代。考えてみれば父はもう少し早く生まれていれば赤紙をもらって徴兵されていた世代である。何か自分の若い頃と重ね合わせていろいろ思うところがあったのだろうか。

僕を一緒に連れて行ったのは、たまたまお互いにヒマでゴロゴロしていたからなのだろうが、そのあたりの詳しいことは分からない。父と映画に行ったのはこれ一度きり。また、母も含め、家族とどこかへ出掛けるということは、子ども時代はこれきりになった。

 

この三回の他にどこかへ連れて行ってもらったことと言えば、近所のパチンコ屋と喫茶店くらいだ。

パチンコ屋は家から歩いて二、三分のところにあった〈シカゴ〉という店で、連れて行ってもらったというよりも、いつも勝手について行っていた、という方が近い。義廣はよく弟二人(つまり、僕の叔父さん)とこのパチンコ屋に通っていた。中に入ると、プーンと床のワックスの匂いとチンジャラジャラというあの音が相まって、「何となく大人の世界」を感じた。

ちなみに〈シカゴ〉がアメリカの都市の名前であることを知ったのは、だいぶ後になってからで、同じ名前のロックバンドがいたことも手伝って、僕の中では〈シカゴ〉はパチンコとロックのイメージが入り混じった、妙な響きがいまだに残っている。

さて、義廣に話を戻し、肝心の勝ち負けはどうだったかと言うと、負けることの方が圧倒的に多かったようだ。しかし、たまにちょっとだけ勝ったりすると、普段の小遣いでは買えないチョコレート(森永の「ハイクラウン」とか、明治の「デラックス」「ハイミルク」の類)をもらえると、妹といっしょに飛び上がって喜んでいた。親としてはこの程度で子どもがハッピーになれば楽だっただろう。

喫茶店は〈チューベー〉」という店によく行った。この店名がコーヒーの産地を示す「中米」のことと知ったのも、シカゴと同じくだいぶ後になってからのこと。子どもだった僕の頭の中では〈忠兵衛〉に近かった。

内装は結構デラックスで、ちょっとした中庭まであったように思う。それに相応しくデザートメニューのチョコレートパフェとかプリンアラモードなどは貴族的な高級イメージを漂わせていた。貴族だろうが庶民だろうが、甘いものを食べさせれば、子どもというのは八割がたハッピーになれるものだ。

また、ここではスパゲティを鉄板の上に、それも卵を敷いた上に載せてジュージュー言わせながらサービスするのが売りだった。後にも先にもこうしたサービスをするお店には出会っていない。

ある雨の日。お昼にこのスパゲティを食べに行こう、ということで連れて行ってもらったのだが、たまたまタイミングが悪かったのか、待てど暮らせど、いつまでも注文を取りに来ない。義廣はとうとう怒り出し、ウェイトレスを捕まえて声を荒げた。その後出てきたスパゲティはなぜかいつもより美味しくなかった。温厚な父があのように他人に向って怒鳴ったのを見たのは、この時が最初で最後だった。

 

 

5.家を建て替える

 

 僕が小学校六年になった頃、義廣は自宅を建て替えた。

それまでの家は戦後すぐに建てられた借家で、六畳ほどの部屋が三つ。台所は土間になっており、風呂場も外にあった。トイレは汲み取り式で、暗くて怖くて臭かった。小さな庭がついており、柿、石榴、無花果の木が植えられており、秋になるとそれらの実を捥いで食べるのが楽しみだった。ここに僕たちの親子の他、祖父・祖母、また、義廣のきょうだいもまだ住んでいた時期があり、多いときは七~八人が一緒に寝起きしていたのである。

二階建ての新しい家が完成したのは、昭和四十六年の初夏だった。一階と二階に六畳の和室が二つずつ。その他、一階にはダイニングキッチンと風呂場。義廣の書斎兼用の、仕事の打ち合わせが出来る応接間も設えられた。

また二階には、当時六年生だった僕と、四年生だった上の妹にそれぞれ割り当てられた部屋が二つあり、その他、壁に作りこんだ本棚のある三畳の板の間が書庫兼勉強部屋として設えられ、日当たりのいいベランダも作られた。さらに、ささやかながら日本庭園が作られ、池には色鮮やかな錦鯉まで泳いでいた。

このピカピカの新しい家を、上の妹はことのほか喜び、今でもその嬉しさを語ることがある。僕も南側の窓を通して差し込む眩しいほどの日差しを記憶に焼き付けている。真冬でも日差しがあればポカポカと温かかったことを、つい昨日のことのように思い出すのだ。

僕はその温かさにくるまれて中学生になり、高校生になった。いま思えば、この恵まれた環境の中でもっとちゃんと勉強すべきだったのだが……。そして、高校を卒業してこの家を出て行った。僕の部屋だった二階の一室は、その後、大きくなった下の妹が寝起きすることになった。

義廣が独立後十年以上にわたって頑張ってきた結果を形にした新築の家。この時からすでに今では築四十年を超えてしまった。主である義廣も他界してしまったが、床の間のある居間や、仕事で使った応接間などには義廣が生きた証がいたるところに刻印されている。家という空間には人の思いや記憶が宿る。この家を誰よりも愛し、住み心地を楽しみ、自分の基地とした義廣は、もしかしたら今も時々深夜に帰ってきてはウロウロしているのかも知れない。

つい話が飛んでしまったが、家を建て替えた義廣の仕事はその後も順調に波に乗り、元気で忙しい日々を過ごすようになる。日本の経済もますます成長し、世の中には次々と新しいものが出回り、国全体で豊かさを謳歌する時代になっていたのだ。そして、それと反比例するように、戦争の記憶は加速度的に人々の間から忘れ去られていった感がある。

 

 

 

第三章 昭和を生き抜く

 

1.母のこと

 

 ここで母のことを少し書いておこう。

子どもの頃、いとこが「美空ひばりに似ているね」と言ったことがある。

若い頃の顔を思い浮かべてみる…・…

うーん、似てなくもないが、とてもあんな衣裳を着て「りんご追分」や「川の流れのように」を歌い出す気配はない。父の「藤田まこと似」の評は、顔つきもイメージ的にも納得できるのだが・・・・・・。

前述した通り、母は父の同級生で、旧姓を「柴田」と言い、これまた十人きょうだいの貧乏家庭で育った。こちらのきょうだいは女ばかりで男は一人だけ。その中で母は真中の双子の妹である。子どもの頃はそのお姉さん(僕の伯母さん)と母を間違えることもあった。

正月に母の実家に行くと、必ず夕食はすき焼きだった、卓袱台の真中にぽっかり穴が開いていて、そこにすき焼き鍋をはめ込み、みんなでワイワイ食べるのが楽しかった。それで一泊ないし二泊するのだが、障子も襖も継ぎはぎだらけの家だったが、いつもと違う布団だからか妙に幸福感を覚えた。

世代も境遇も似ているせいか、父と母は夫婦として上手くやっていたように思う。ただし、イマドキの男女のような、ホレたハレたのパッションはまったく感じられない。むしろ夫婦で営む個人商店の〈共同経営者〉という感覚に近いかもしれない。よほど近所じゃない限り、現場に出向くようなことはなかったが、父の仕事の理解者であり、身の回りの世話の他、集金や帳簿付けを手伝うなど、いつも裏で支え続けるしっかり者だった。

・・・・・・と言うと、なにやら良妻賢母を思わせるが、そういうイメージとは遠く、子どもに対してはヒステリーを起こしてわめき散らかすこともよくあった。特に初めての子どもである僕には手こずり、相当イライラしたようである。

「子どもに当たるな」みたいなことを父が言って、たしなめたことがあるが、子育てという点から見ると、この時代の母親はとても損な役回りだ。父親はたまの休みに子どもと遊んでやるとスコアが飛躍的にアップするのに対し、母親はその数十倍も子どもと関わっているのに(いや、だからこそ)評価が低い。

母も辛い時期があったかも知れないが、子どもが独立してしまうと、顔つきもすっかり柔和になった。僕としては、父とふたり、仲むつまじい……とまではいかないが、とても穏やかな春の日向のような夫婦になってくれて有り難く思っている。勝手な思い込みかも知れないが、このふたりのようなカップルが、典型的な、昭和ひとケタ世代の夫婦なのでなないだろうか。

 

 

2.心の穴を埋める趣味と価値観

 

家を建て替えた頃からわが家には生活に余裕が出来、義廣もかつてのように仕事一辺倒でなく、新しい家で自分の趣味を楽しむようになった。それが骨董品や美術品の蒐集である。

もともとそういうものに興味があったのか、誰か人から薦められたのか、判然としないが、とにかく家族が気づいた頃には結構なコレクターになっていた。応接間で幾度となく、江戸時代の刀の鍔や煙草入れ、根付などを自慢げに見せてくれたことをよく憶えている。ただ、僕はそういったものの価値がまったく分からないので、ただ話を傾聴して頷くばかりだったが。

美術品については、百貨店で開かれる○○展などに足繁く通っていたようだが、忘れられない話が一つある。それは僕が東京で暮らし始めて間もない頃。昭和五十五年(一九八〇年)のことだ。

 

その頃はもちろんまだ忙しく仕事をしていたが、ちょうど暇になる二月に、僕が通っていた演劇専門学校の発表会があったので声をかけたら両親揃ってやって来た。以後、僕を訪ねて四回ほど東京に来たが、これが初めての東京見物だった。

新幹線で到着し、大量の人波に面食らって、とりあえず東京駅の大丸百貨店に立ち寄ったところ、その美術品売り場で百万円くらいする絵をポン!と買ってしまったのである。

宿を取ってなかったので、どこかないかと大丸の店員に尋ねたところ、お大尽扱いされたのだろう、ホテル・オークラを紹介され、即座に電話で部屋を取ってしまった。そして、東京駅からタクシーに載って「オークラへ」と言ったところ、運転手が訝しげな様子で「何をしに行かれるのですか?」と聞いたのだそうだ。お客に向って失礼な態度で、会社にクレームを付けたくなる様な話なのでが、父は怒りもせずに

「よっぽど田舎者に見えたんだろうな」

と、いつも笑って愉快そうに懐かしそうに、母とともにこの話をしていた。ちなみにこの時買った絵は、北海道の牧場の冬の朝を描いたもので、見たままべったりでなく、少し抽象化しており、冬の寒々とした空気と牧場ののんびりした暖かな雰囲気が入り混じって表現されており、確かになかなかいい。母は父を思ってか、亡くなった後も冬になると、必ずこの絵を応接間に飾っている。

 

若干エピソードが長くなったので、話をもとに戻すと・・・・・

義廣がこうした物の蒐集にどの程度深く心を寄せていたかと言うと、実はそれほど大したことはなかったのではないかという気がする。多くの成功者がそうであるように、若い頃がむしゃらに頑張っていた分のリバウンドがどこかで出てくる。仕事が軌道に乗ると楽にこなせるようになる分、何かルーティンワークのつまらなさみたいなものを感じるのだ。その心の穴埋めのためにこうした趣味を持つのではないかと思うが、うがち過ぎだろうか。

その証拠……というわけでもないが、義廣は晩年になって、持っていた骨董品の殆どを売り払ってしまい、そこで得たお金を自分の小遣いにしていた。ちょうど孫が出来た頃で、その小遣いでいろいろ孫へのプレゼントなどを買っていたようである。心の穴を埋めてくれるものはモノでなく、孫になったということだろうか。こじつけかも知れないが、豊かになり、モノに執着していた昭和の日本人の多くが、やがて「心の豊かさ」ということを言い出して変わっていったことと重なるような気がしてくる。他界した今、家に残っているのは数点の絵画と、季節ごとに床の間を彩る掛軸と、数百冊におよぶ本だけだ。

本はいろいろなジャンルのものを読んでいたが、中でも興味を持っていたのは、やはり太平洋戦争や戦後復興期を描いたもの。その時代の社会や風俗などを写した写真集や図鑑的な資料を数多くコレクションしていた。

漫画も割と好きだったようで、かなり後になってだが、手塚治虫の「アドルフに告ぐ」が発刊されるとすぐに取り寄せて読んでいた。僕もこの作品は父に薦められて読んだ。

この作品は、ナチスドイツの総統ヒトラー、それに日本の神戸に住むユダヤ人の少年、ドイツ人と日本人とのハーフの少年と、同じ〈アドルフ〉という名を持つ三人の男の運命が絡み合う物語で、一九三六年(昭和十一年)のベルリンオリンピックから始まり、第二次世界大戦を描き、果てはその後のイスラエル建国にまつわって勃発する中東戦争にまで繋がっていく壮大なドラマだ。

手塚治虫は言わずと知れた漫画界最大の巨匠であり、日本のマンガ文化を飛躍的に発展させた偉人だ。彼を昭和人のひとりとして見た場合、本作はその真髄が高純度で結晶した最高傑作である。義廣自身、別に意図的に…というわけではなかったのだろうが、家に残した遺品を手に取って見ると、やはり子どもの頃の戦争の匂いがするものが殆どなのである。

 

3・父と僕

 

 僕は高校を卒業すると家を出て東京で一人暮らしを始めた。義廣はそれについて何も言わなかった。自分がやることを怒られたことも干渉されたことも一度もない。けれども反対に手放しで褒められた憶えもない。僕にとってはラクチンだったが、同時に心の片隅に「これでいいのだろうか……」という思いが、喉に刺さった魚の小骨のようにずっといつまでも残って、時々チクチクと刺激した。

 戦後、民主主義教育になったとき、義廣はすでに学校を卒業していた。だから当時の学徒たちが、それまで使ってきた教科書に墨を塗ったり、「鬼畜米英」から「アメリカ様、マッカーサー様」へ、教育方針やおとなの態度が百八十度変わってしまったことに不信感を覚える……そういった体験はしていないはずだ。

けれども意識して、昔ながらの日本の因習を否定しようとしていたフシがある。中でも〈家制度〉〈家父長制度〉に対しては、何かいろいろ抗いたい気持ちがあったようだ。戦後民主主義を肯定し、実践しようとしていた気持ちの表れだったのかも知れないし、その奥にはやはり日本を戦争に導いた上の世代への反発心がくすぶっていたのかも知れない。

しかし、そうした思惑とは裏腹に、家を日常的な「家庭」という意味合いに限定すれば、黙々と生真面目に仕事をこなし、毎日ちゃんと家に帰って来る、昭和時代の模範的な父だった。

僕が同じ仕事には向いていないと分かっていたのか、「家業を継げ」と言われたこともなかった。僕には何か自分と違った生き方をすることを求めていたのか、単に面倒臭くて放任していたのか……おそらくその両方が混じっていたのだろうが、とにかく好き勝手なことをしても黙って見過ごしてくれていたのだ。感謝するとともに、もっと何か意見を言ってくれても良かったのに……と、矛盾した不満も残る。

 先ほども少し書いたが、子どもの頃、父はとても大きく見えた。同じおとなだから体格差としては母親とそう変わらないのだが、不思議と母はそれほど「大きい」と感じないのに対し、父親の大きさは桁違いである。ところが、自分が成長するにつれ、今度は逆に母親の大きさがそう変わらないのに対して、父の方はだんだん小さく見えてくる。物理的に親子の体格差がなくなるというだけでなく、自分の視野が広がるとともに、当初の、圧倒的だった父の存在感が次第に縮小していくため、そう見えてくるのだろう。

二十代後半、一九八五年に英国ロンドンでレストランの仕事があり、二年半働きながら暮らし、ヨーロッパを旅した。そして日本に帰国後、一時的に二ヶ月ほど実家で暮らしたことがあったのだが、そのとき、久しぶりに寝食をともにした父親はずいぶんと小さくなったように見えた。

「若い頃、体力をいっぱい使ったから、同じ齢の人に比べてちょっと早く齢を取ってしまったかも知れない」

母はよくそう呟いた。その通りかも知れない。本人もすでにその頃、衰えを自覚していたのかも知れないと思う。

それから間もなくして昭和が終わった。最後の年、昭和六十三年は義廣が還暦を迎えた年だった。長年続けてきた仕事を辞めるときが近づいていた。

 

 

4.引退

 

 「屋根に上がるのが怖くなった……」

母にそう洩らして義廣が仕事を辞めたのは元号が改まって間もない平成三年(一九九二年)のことだった。日本はバブル経済終焉期。景気は落ち込み、仕事も減ってはきていたが、まだそこそこはあったようだ。

周囲からは「まだ出来るのに」という声が相次いだ。しかし、それらは応援や励ましにはならなかった。身体が思うように動かなくなった、ということもあるだろうが、最も大きいのは、義廣の中で仕事に対する意欲とか、緊張の糸みたいなものがプツンと切れてしまったからではないかと思う。若い頃ならもう一度それを繋ぎ直すことも出来たのだろうが、六十を過ぎた後では、それは難しかったし、必要もなかったようだ。

多くの顧客や仕事仲間に慕われ、実績を上げた。

ごく限られた範囲ではあるが、社会的にも認められ尊敬された。

十分なお金を稼ぎ、豊かな生活を送った。

家を建て、家族を養い、子どもも独立した。

やることはすべてやった。職業人として完成されてしまった。要するにハングリーでなくなり、仕事を続ける意味がもう見出せなくなってしまったのだろう。少なくとも仕事に関してはやり残したことはなかったはずである。

この引退のタイミングは間違っていなかった。

経済がバブル化してきた昭和五十年代後半、つまり一九八〇年代から日本人の生活スタイル・衣食住の習慣は大きく変化し、住まいのデザインもすっかり様変わりしてきた。要するに“屋根を日本瓦で葺く”という家作りのあり方が一般的ではなくなってきたのである。葺き替えの仕事が減るのも当然だ。義廣が第一線を退いてから程なくして、需要はますます落ち込み、小さな個人経営者では続けていくのが困難な状況になったようである。

義廣は活況だった時期からこのことを予見していたのではないかとも思う。伊勢湾台風による特需と、高度経済成長という追い風を受けて走ってきたが、経済や社会環境の移り変わりを感じながら、良い時代はそう長くは続かないという思惑があったのだろう。僕に家業を継がせる意思をまったく示さなかったことも、それが理由なのかも知れない。

今、名古屋の街やその周囲の地域に義廣が手がけた屋根を持つ家がどれくらいあるのか、見当もつかない、仕事を辞めてから二十年も経つので、建て替えでなくなってしまったところもたくさんあるだろう。

けれども、義廣とその仲間の人たちの仕事は間違いなく、ある時代の、けっして少なくない人々の生活を雨風から守っていた。そして、それらの家族が豊かに穏やかに暮らしていくことに貢献したはずである。そんなことはあまりにもささやかなことで、どこかで語られたり、何かに書き残されることもなく、忘れ去られていくと思う。けれども、と言うか、だから、この本にはちゃんと書いておきたい。そして、「お疲れさま」と言葉を残しておきたい。

 

 

5.隠居生活と闘病

 

引退後の義廣は自宅で母とともに悠々自適に暮らしていた。

町内の老人会の会長を務めたり、旅行などにも出かけていたが、やはり何よりも嬉しく思ったのは、子どもたちがそれぞれ結婚して落ち着いたことだろう。引退から十年の間に上の妹、僕、下の妹がそれぞれ順番に結婚し、子どもをもうけた。義廣から見れば孫が出来た。

特に僕の姪っ子である初孫については
「孫というのがこんなに可愛いものだとは思わなかった」
と、しみじみと話していた。

昭和ひとケタ生まれの男たちは多くが、子育てというものに殆ど関わってい

ない。今の時代なら非難を受けるかも知れないが、ほんの三十年ほど前までは育児は母親の仕事で、父親はそこには踏み込まないのが当たり前だった。加えて言えば、外へ出て仕事をする母親=女性は尊敬されたが、反対に育児や家事に専念するという父親=男性はバカにされたのだ。それが昭和の社会通念だった。(そういう意味では七〇年代末期のジョン・レノンの主夫宣言は衝撃的・革命的だった)

けれども赤ちゃんや小さな子どもを可愛いと思う気持ちに男女差はない。昭和の男たちは年老い、果たすべき仕事を終えたところで、やっとそうした気持ちを態度として素直に表すことが出来るようになった、ということだろうか。

生まれてから小学校に上がるまでの数年間、新たに増えた家族の一員である孫は、祖父・祖母に対して〈愛らしさ〉という最高のプレゼントを贈る。それはまるで〈人生よく頑張りましたで賞〉というご褒美のようだ。贈った側はそんなことはきれいさっぱり忘れてしまい、大きくなればそんな笑顔はちっとも見せなくなってしまうのだが、ジジババにとっては死ぬまで大切にする宝物となるのだ。

そんなわけで、とにかく義廣にとっても孫の存在が生き甲斐の一つになった。前にもふれたように、長年趣味で蒐集した骨董品の数々を売ってはお金を作り、服やら玩具やらお祝い品やらを次々と孫たちに与えていた。そういう意味では幸福な祖父さんになったというべきだろう。

 

そんな義廣が糖尿病を患ったのが平成十三年頃。仕事を辞めてちょうど十年が過ぎた頃のことだった。それまで殆ど病気らしい病気をしたことがなかった義廣にとって、それは最初で最後の大病となった。

治療として人工透析を受けるために病院通いが始まった。

最初は自分だけで通っていたが、そのうち母が付き添うようになり、併発する白内障の治療で入院した後、その頻度は次第に増し、一回にかかる時間も長くなっていった。そして、それに比例して辛さも増していったようだ。

僕が時々家に戻ると、義廣は居間の炬燵に足を入れて寝転がり、どこかうつろな感じで一日中テレビを眺めていることが多くなっていった。呆けることはなかったが、思考する能力も少しずつ病気に奪われていったように見える。

母は懸命に介護した。病状の悪化とともにその負担はどんどん重くなっていったが、不平を洩らすことはなかった。義廣はもともとまったく家事をしたことのない人だったこともあり、こうなるともう小さい子どもの母親状態である。それでも母はそうした世話を当たり前のこととして受け止め、健康な頃と変わらず、二人の暮らしを楽しんでいたように思う。それはよくあるこの年代の夫婦が寄り添う日常風景だ。けれども、とても尊い風景でもあると思う。長年連れ添ってきた夫婦としての真価は最後になって問われる。

 

平成十九年秋。その前年の冬頃から著しく病状は悪化し、さすがに母一人での介護では支えきれない状況になったこともあり、妹の一家が港区から引越してきて家に入った。実家とは言え、長らく離れていた家に移り住んだ当初、いろいろ戸惑いがあったようだが、妹の夫婦も義廣の介護に懸命になった。

けれどもやはり人間は不思議なものだ。義廣は自分がもう家の主であり続けることは出来ない、とでも悟ったかのように、あちら側へ行く準備を始めたように思う。

僕が家で最後に義廣と会ったのは十一月の終わり。亡くなる十七日前のことだった。お盆で帰省して以来、三ヶ月ぶりに会ったのだが、一目見て衰えが顕著だった。

声が出ない。声を出すには大きな生命エネルギーが要る。心の中にある意志・感情の世界と、外側の他者の世界とを結びつける重要なツールだ。もともと聾唖の人や、声帯を失っている人は別として、声が出せないということは精神・身体双方が極度に力を失っていることを意味する。そのとき僕は、父はこの冬を越せないかも知れない、と感じた。

すでに家の中でも移動するのが困難で、トイレに行くのも一苦労といった状態だった。けれども義廣は応接間に行きたがった。

お客を相手に打合せをし、仕事の計画を練り、本を読み、骨董品のコレクションを広げ、思索を巡らせた部屋。いちばんリラックスでき、いちばん自分自身でいられる空間。そこにいたいと思うのは当然だ。

どういう経緯でそうなったのかは忘れたが、そこで二人で一緒に夕食のうどんを食べた。ところが、義廣はなかなか自分で食べられない。僕は小さい頃の息子の食事を手伝った時と同じように、うどんを食べさせてあげた。一本一本うまくすすれるように。

義廣は……父は僕の顔を見て目に涙を浮かべた。父が泣くのを見たのは、もしかしたらそれが最初で最後だったのかも知れない。

喜んでいたのか? 

それとも、僕との別れを悟って悲しんでいたのか?

どっちだったのか、どうしてもよく思い出せない。ただ、その涙を浮かべた表情が、意識のある父親の最後の顔として、僕の脳裏に焼きついた。

 

 

6.最期のときをともに過ごす

 

義廣が倒れ、意識を失ったという報せを妹から聞いたのは、その年が押し詰まった十二月十日のことだった。僕は夕方名古屋に到着し、そのまま入院している名城病院に行った。

最初は集中治療室に入っていたが、翌日個室に移された。意識は失ったままだった。その時、家族の間には諦めの気持ちが漂っていた。それでもまだ心臓は動いている。面倒は看護士さんたちが看てくれるが、そのまま置き去りにしておくことは忍びない。さりとて、母は高齢で体力が続かない。というわけで、僕がそのまま病屋に泊り込むことにした。

名城病院はその名の通り、名古屋城のすぐ近くにある病院で、上層階からはお城が間近に見える、とても環境の良いところだ。家から車なら十分足らず。歩いても三十分少々の距離にある。気軽に行き来できるので、僕は朝帰ってシャワーを浴びたり、食事をしたりしていた。

日中は母や妹たちの家族、さらにきょうだいなど親戚の人たちが入れ替わり立ち替わり見舞いに訪れた。みんなベッドに横たわったままの義廣に声をかける。それを見て僕はなんとなく、子どもの頃、家に親戚が集まり、従兄弟たちとワイワイ楽しんでいたことを思い出した。とても賑やかで心があったまった記憶だ。

「一生、一族の面倒を見るという運勢らしい」

いつだったか、誰にそう言っていたのか忘れたが、義廣がそんなことを言っていたのを思い出す。

わざわざ占い師のところに足を運ぶことはなかったが、占いの本などはよく読んでいた。そうして自分なりにみずからの人生を意味づけていたように思う。そしてその通り、生真面目に一家の中心としての責任をやり遂げた。妻に対して、子どもに対して。親きょうだいに対しても。昭和という時代もそうした男を求め、推奨していたのだ。

夜。僕は病院から折りたたみ式の簡易ベッドと毛布を借りて毎晩、病室に泊まった。昼間はそれなりに賑やかなものの、日が暮れて夜の帳が落ち、夕食の時間のざわめきが納まると、院内は廊下の灯も落ち、急に静けさに包まれる。冷たい寂寞とした世界がやって来る。意識はすでに失くしていても、そこに父をひとりぼっちにしておくことは出来なかったのだ。もし万が一、すでにあの世に行きかけた魂が何かの弾みで舞い戻り、夜中にふと目覚めた時に誰もいなかったら、ただ暗く冷たい世界がそこに広がっていたら……この世の最期にそんな怖ろしさを味あわせたくはなかった。

「おれ、ここにいるよ」

そう惚けて声をかけたかった。

結局、そんな瞬間は一度も訪れなかったのだが……。

それにしても人生の最期を迎えるのは、何かとてつもなくドラマチックなことと思っていたが(もちろん実際、そういう場合も多々あるとは思うが)、義廣の場合はとても平穏で、その死はそれまでの日常と地続きになっているかのようだった。この病院にいた時間は、この世とあの世を繋ぐための“のりしろ”のようなものだったのかも知れない。

僕はつごう五日間寝泊りし、その“のりしろ”の時間をいっしょに過ごした。何か父のためになることをしたわけでも、特別な体験をしたわけでもない。ただ本を読んだり、ぼんやり窓の外を見たり、時々ベッドに横たわる父の顔を覗いていただけだ。でも、そこにいられて本当によかったと思う。たとえ話はできなくても、親子で最期の時間をともに過ごせたことは、とても幸せなことだと思うのだ。

 

東京に帰って三日後。十二月十七日の夜中。

今度は妹から父が他界したとの報せが来た。再び名古屋に引き返す。

通夜・葬儀を慌しく行った。大勢の人が弔問に訪れた。

福嶋義廣の八十年の人生が終わった。寒い、けれどもよく晴れた冬の空に魂は上っていった。

 

 

7.遺影

 

 家には葬儀の際に祭壇に飾った父の遺影があります。亡くなった年の夏、家族と食事会をした折に撮った顔です。普段着だったので服は背広・ネクタイに合成されています。先に書いた履歴書と同様、その遺影にも僕はちょっとした不満と寂しさを感じます。

人の一生にはさまざまな時代があり、その時その時の多様な顔があります。それにも関わらず、残された人々の脳裏にはその人の晩年の顔だけが焼き付きます。八十歳で亡くなれば長く生きた老人の顔が残るのです。

特に孫が小さいうちにお別れしてしまったら、おじいちゃん・おばあちゃんを思い出すときは、必ずその遺影の顔になるわけです。人によっては、遺影が生きていた時間よりもずっと長く人の心に残るでしょう。

これは父に限った話ではありませんが、自分のどんな顔を後世に印象付けたいか、高齢化社会に生き、自分を大切にする時代に生きる人たちにとって、これは意外と大問題かも知れません。

当たり前のことですが、一足飛びに老人になる人はいません。誰にでも子ども時代もあれば、青年時代もある。それぞれの時代の一日一日に物語があります。そして、社会の中で生きている以上、それらの物語はそれぞれの時代と深く関りあっています。昭和の初めに生まれた父は、昭和という、とても変化に富んだ、活気に満ちた時代を生き抜いた人でした。

 

いま、僕の脳裏には、幾つもの、生きている父の遺影が浮かび上がります。

ハンチング帽を被って仕事に出かける時の顔。

こね回した納豆をごはんの上に乗せ、うまそうにかきこんでいる顔。

味噌汁をすすりながら、母にごはんのおかわりを促している顔。

煙草を吸いながら何か考え事をしている顔。

そして、僕が生まれる前の、青年時代や子ども時代の顔も想像できます。

それらのいくつもの顔が、あの最後に見た、涙を浮かべた顔と重なり合い、一つの父の像となるのです。

 

仏教では、人は亡くなっておよそ三十年の間、あの世で旅を続けるそうです。ということはまだ三年しか経っていないので、あちらでの旅はまだ始ったばかり。父がやっと旅を終える頃に僕があちらへ旅立つのでしょうか。そうして家族は連鎖していくのでしょう。

お父さん、家族を養ってくれてどうもありがとう。豊かな暮らしと、いくつもの楽しい思い出を作ったくれたことに感謝します。どうぞ安心して旅を続けてください。

 

 

平成二十三年十二月