「かえるくん、東京を救う」というのは村上春樹の短編小説の中でもかなり人気の高い作品です。
主人公がアパートの自分の部屋に帰ると、身の丈2メートルはあろうかというカエルが待っていた、というのだから、始まり方はほとんど恐怖小説。
ですが、その巨大なカエルが「ぼくのことは“かえるくん”と呼んでください」と言うのだから、たちまちシュールなメルヘンみたいな世界に引き込まれてしまいます。
この話は阪神大震災をモチーフにしていて、けっして甘いメルヘンでも、面白おかしいコメディでもないシリアスなストーリーなのですが、このかえるくんのセリフ回しや行動が、なんとも紳士的だったり、勇敢だったり、愛らしかったり、時折ヤクザだったりして独特の作品世界が出来上がっています。
しかし、アメリカ人の翻訳者がこの作品を英訳するとき、この「かえるくん」という呼称のニュアンスを、どう英語で表現すればいいのか悩んだという話を聞いて、さもありなんと思いました。
このカエルという生き物ほど、「かわいい」と「気持ち悪い」の振れ幅が大きい動物も珍しいのではないでしょうか。
でも、その振れ幅の大きさは日本人独自の感覚のような気もします。
欧米人はカエルはみにくい、グロテスクなやつ、場合によっては悪魔の手先とか、魔女の使いとか、そういう役割を振られるケースが圧倒的に多い気がします。
ところが、日本では、けろけろけろっぴぃとか、コルゲンコーワのマスコットとか、木馬座アワーのケロヨンとか、古くは「やせガエル 負けるな 一茶ここにあり」とか、かわいい系・愛すべき系の系譜がちゃんと続いていますね。
僕が思うに、これはやっぱり稲作文化のおかげなのではないでしょうか。
お米・田んぼと親しんできた日本人にとって、田んぼでゲコゲコ鳴いているカエルくんたちは、友だちみたいな親近感があるんでしょうね。
そして、彼らの合唱が聞こえる夏の青々とした田んぼの風景は、今年もお米がいっぱい取れそう、という期待や幸福感とつながっていたのでしょう。
カエル君に対するよいイメージはそういうところからきている気がします。
ちなみに僕の携帯電話はきみどり色だけど、「カエル色」って呼ばれています。
茶色いのも黄色っぽいもの黒いのもいるけど、カエルと言えばきれいなきみどり色。やっぱ、アマガエルじゃないとかわいくないからだろうね、きっと。
雨の季節。そういえば、ここんとこ、カエルくんと会ってないなぁ。ケロケロ。
「これから生まれてくる子孫が見られるように」
――今回の家族ストーリー(ファミリーヒストリー)を作った動機について、3世代の真ん中の息子さん(団塊ジュニア世代)は作品の最後でこんなメッセージを残しています。
彼の中にはあるべき家族の姿があった。しかし現実にはそれが叶わなかった。だからやっと安定し、幸福と言える現在の形を映像に残すことを思い立った――僕にはそう取れます。
世間一般の基準に照らし合わせれば、彼は家庭に恵まれなかった人に属するでしょう。かつて日本でよく見られた大家族、そして戦後の主流となった夫婦と子供数人の核家族。彼の中にはそうした家族像への憧れがあったのだと思います。
けれども大家族どころか、核家族さえもはや過去のものになっているのでないか。今回の映像を見ているとそう思えてきます。
団塊の世代の親、その子、そして孫(ほぼ成人)。
彼らは家族であり、互いに支え合い、励まし合いながら生きている。
けれど、その前提はあくまで個人。それぞれ個別の歴史と文化を背負い、自分の信じる幸福を追求する人間として生きている。
むかしのように、まず家があり、そこに血のつながりのある人間として生まれ、育つから家族になるのではなく、ひとりひとりの個人が「僕たちは家族だよ」という約束のもとに集まって愛情と信頼を持っていっしょに暮らす。あるいは、離れていても「家族だよ」と呼び合い、同様に愛情と信頼を寄せ合う。だから家族になる。
これからの家族は、核家族からさらに小さな単位に進化した「ミニマム家族」――「個の家族」とでもいえばいいのでしょうか。
比喩を用いれば、ひとりひとりがパソコンやスマホなどのデバイスであり、必要がある時、○○家にログインし、ネットワークし、そこで父・母・息子・娘などの役割を担って、相手の求めることに応じる。それによってそれぞれが幸福を感じる。そうした「さま」を家族と呼称する――なかなかスムーズに表現できませんが、これからはそういう家族の時代になるのではないでしょうか。
なぜなら、そのほうが現代のような個人主義の世の中で生きていくのに何かと便利で快適だからです。人間は自身の利便性・快適性のためになら、いろいろなものを引き換えにできます。だから進化してこられたのです。
引き換えに失ったものの中にももちろん価値があるし、往々にして失ってみて初めてその価値に気づくケースがあります。むかしの大家族しかり。核家族しかり。こうしてこれらの家族の形態は、今後、一種の文化遺産になっていくのでしょう。
好きか嫌いかはともかく、そういう時代に入っていて、僕たちはもう後戻りできなくなっているのだと思います。
将来生まれてくる子孫のために、自分の家族の記憶を本なり映像なりの形でまとめて遺す―― もしかしたらそういう人がこれから結構増えるのかもしれません。
2016・6・27 Mon
親子3世代の物語がやっと完成一歩手前まで来ました。
昨年6月、ある家族のヒストリー映像を作るというお仕事を引き受けて、台本を担当。
足掛け1年掛かりでほぼ完成し、残るはクライアントさんに確認を頂いて、最後にナレーションを吹き込むのみ、という段階までこぎつけたのです。
今回のこの仕事は、ディレクターが取材をし、僕はネット経由で送られてくるその音源や映像を見て物語の構成をしていきました。そのディレクターとも最初に1回お会いしただけでご信頼を頂いたので、そのあとはほとんどメールのやり取りのみで進行しました。インターネットがあると、本当に家で何でもできてしまいます。
ですから時間がかかった割には、そんなに「たいへん感」はありませんでした。
取材対象の人たちともリアルでお会いしたことはなく、インタビューの音声――話の内容はもとより、しゃべり方のくせ、間も含めて――からそれぞれのキャラクターと言葉の背景にある気持ちを想像しながらストーリーを組み立てていくのは、なかなかスリリングで面白い体験でした(最初の下取材の頃はディレクターがまだ映像を撮っていなかったので、レコーダーの音源だけを頼りにやっていました)。
取材対象と直接会わない、会えないという制限は、今までネガティブに捉えていたのですが、現場(彼らの生活空間や仕事空間)の空気がわからない分、余分な情報に戸惑ったり、感情移入のし過ぎに悩まされたりすることがありません。
適度な距離を置いてその人たちを見られるので、かえってインタビューの中では語られていない範囲まで自由に発想を膨らませられ、こうしたドキュメンタリーのストーリーづくりという面では良い効果もあるんだな、と感じました。
後半(今年になってから)、全体のテーマが固まり、ストーリーの流れが固まってくると、今度は台本に基づいて取材がされるようになりました。
戦後の昭和~平成の時代の流れを、団塊の世代の親、その息子、そして孫(ほぼ成人)という一つの家族を通して見ていくと、よく目にする、当時の出来事や風俗の記録映像も、魂が定着くした記憶映像に見えてきます。
これにきちんとした、情感豊かなナレーターの声が入るのがとても楽しみです。
2016・6・26 Sun
おもちペタペタ伊達男
今週日曜(19日)の大河ドラマ「真田丸」で話題をさらったのは、長谷川朝晴演じる伊達政宗の餅つきパフォーマンスのシーン。「独眼竜」で戦国武将の中でも人気の高い伊達政宗ですが、一方で「伊達男」の語源にもなったように、パフォーマーというか、歌舞伎者というか、芝居っけも方もたっぷりの人だったようです。
だから、餅つきくらいやってもおかしくないのでしょうが、権力者・秀吉に対してあからさまにこびへつらい、ペッタンコとついた餅にスリゴマを・・・じゃなかった、つぶした豆をのっけて「ずんだ餅でございます」と差し出す太鼓持ち野郎の姿に、独眼竜のカッコいいイメージもこっぱみじんでした。
僕としては「歴人めし」の続編のネタ、一丁いただき、と思ってニヤニヤ笑って見ていましたが、ファンの人は複雑な心境だったのではないのでしょうか。(ネット上では「斬新な伊達政宗像」と、好意的な意見が多かったようですが)。
しかし、この後、信繁(幸村=堺雅人)と二人で話すシーンがあり、じつは政宗、今はゴマスリ太鼓持ち野郎を演じているが、いずれ時が来れば秀吉なんぞ、つぶしてずんだ餅にしてやる・・・と、野心満々であることを主人公の前で吐露するのです。
で、これがクライマックスの関ヶ原の伏線の一つとなっていくわけですね。
裏切りのドラマ
この「真田丸」は見ていると、「裏切り」が一つのテーマとなっています。
出てくるどの武将も、とにかくセコいのなんのttらありゃしない。立派なサムライなんて一人もいません。いろいろな仮面をかぶってお芝居しまくり、だましだまされ、裏切り裏切られ・・・の連続なのです。
そりゃそうでしょう。乱世の中、まっすぐ正直なことばかりやっていては、とても生き延びられません。
この伊達政宗のシーンの前に、北条氏政の最後が描かれていましたが、氏政がまっすぐな武将であったがために滅び、ゴマスリ政宗は生き延びて逆転のチャンスを掴もうとするのは、ドラマとして絶妙なコントラストになっていました。
僕たちも生きるためには、多かれ少なかれ、このゴマスリずんだ餅に近いことを年中やっているのではないでしょうか。身過ぎ世過ぎというやつですね。
けれどもご注意。
人間の心とからだって、意外と正直にできています。ゴマスリずんだ餅をやり過ぎていると、いずれまとめてお返しがやってくるも知れません。
人間みんな、じつは正直者
どうしてそんなことを考えたかと言うと、介護士の人と、お仕事でお世話しているおじいさんのことについて話したからです。
そのおじいさんはいろんな妄想に取りつかれて、ファンタジーの世界へ行っちゃっているようなのですが、それは自分にウソをつき続けて生きてきたからではないか、と思うのです。
これは別に倫理的にどうこうという話ではありません。
ごく単純に、自分にウソをつくとそのたびにストレスが蓄積していきます。
それが生活習慣になってしまうと、自分にウソをつくのが当たり前になるので、ストレスが溜まるのに気づかない。そういう体質になってしまうので、全然平気でいられる。
けれども潜在意識は知っているのです。
「これはおかしい。これは違う。これはわたしではな~い」
そうした潜在意識の声を、これまた無視し続けると、齢を取ってから自分で自分を裏切り続けてきたツケが一挙に出て来て、思いっきり自分の願いや欲望に正直になるのではないでしょうか。
だから脳がファンタジーの世界へ飛翔してしまう。それまでウソで歪めてきた自分の本体を取り戻すかのように。
つまり人生は最後のほうまで行くとちゃんと平均化されるというか、全体で帳尻が合うようにできているのではないかな。
自分を大事にするということ
というのは単なる僕の妄想・戯言かも知れないけど、自分に対する我慢とか裏切りとかストレスとかは、心や体にひどいダメージを与えたり、人生にかなりの影響を及ぼすのではないだろうかと思うのです。
みなさん、人生は一度きり。身過ぎ世過ぎばっかりやってると、それだけであっという間に一生終わっちゃいます。何が自分にとっての幸せなのか?心の内からの声をよく聴いて、本当の意味で自分を大事にしましょう。
介護士さんのお話を聞くといろんなことを考えさせられるので、また書きますね。
2016/6/23 Thu
すぐれた小説は時代を超えて読み継がれる価値がある。特に現代社会を形作った18世紀から20世紀前半にかけての時代、ヨーロッパ社会で生まれた文学には人間や社会について考えさせられる素材にあふれています。
その読書を「死者との対話」と呼んだ人がいます。うまい言い方をするものだと思いました。
僕たちは家で、街で、図書館で、本さえあれば簡単にゲーテやトルストイやドストエフスキーやブロンテなどと向かい合って話ができます。別にスピリチュアルなものに関心がなくても、書き残したものがあれば、私たちは死者と対話ができるのです。
もちろん、それはごく限られた文学者や学者との間で可能なことで、そうでない一般大衆には縁のないことでしょう。これまではそうでした。しかし、これからの時代はそれも可能なことではないかと思います。ただし、不特定多数の人でなく、ある家族・ある仲間との間でなら、ということですが。
僕は父の人生を書いてみました。
父は2008年の12月に亡くなりました。家族や親しい者の死も1年ほどたつと悲しいだの寂しいだの、という気持ちは薄れ、彼らは自分の人生においてどんな存在だったのだろう?どんなメッセージを遺していったのだろう?といったことを考えます。
父のことを書いてみようと思い立ったのは、それだけがきっかけではありませんでした。
死後、間もない時に、社会保険事務所で遺族年金の手続きをする際に父の履歴書を書いて提出しました。その時に感じたのは、血を分けた家族のことでも知らないことがたくさんあるな、ということでした。
じつはそれは当り前のことなのだが、それまではっきりとは気が付いていませんでした。なんとなく父のことも母のこともよく知っていると思いすごしていたのです。
実際は私が知っているのは、私の父親としての部分、母親としての部分だけであり、両親が男としてどうだったか、女としてどうだったか、ひとりの人間としてどうだったのか、といったことなど、ほとんど知りませんでした。数十年も親子をやっていて、知るきっかけなどなかったのです。
父の仕事ひとつ取ってもそうでした。僕の知っている父の仕事は瓦の葺換え職人だが、それは30歳で独立してからのことで、その前――20代のときは工場に勤めたり、建築会社に勤めたりしていたのです。それらは亡くなってから初めて聞いた話です。
そうして知った事実を順番に並べて履歴書を作ったのですが、その時には強い違和感というか、抵抗感のようなものを感じました。それは父というひとりの人間の人生の軌跡が、こんな紙切れ一枚の中に納まってしまうということに対しての、寂しさというか、怒りというか、何とも納得できない気持ちでした。
父は不特定多数の人たちに興味を持ってもらえるような、波乱万丈な、生きる迫力に満ち溢れた人生を歩んだわけはありませんい。むしろそれらとは正反対の、よくありがちな、ごく平凡な庶民の人生を送ったのだと思います。
けれどもそうした平凡な人生の中にもそれなりのドラマがあります。そして、そのドラマには、その時代の社会環境の影響を受けた部分が少なくありません。たとえば父の場合は、昭和3年(1928年)に生まれ、平成元年(1989年)に仕事を辞めて隠居していました。その人生は昭和の歴史とほぼ重なっています。
ちなみにこの昭和3年という年を調べてみると、アメリカでミッキーマウスの生まれた(ウォルト・ディズニーの映画が初めて上映された)年です。
父は周囲の人たちからは実直でまじめな仕事人間と見られていましたが、マンガや映画が好きで、「のらくろ」だの「冒険ダン吉」だのの話をよく聞かせてくれました。その時にそんなことも思い出したのです。
ひとりの人間の人生――この場合は父の人生を昭和という時代にダブらせて考えていくと、昭和の出来事を書き連ねた年表のようなものとは、ひと味違った、その時代の人間の意識の流れ、社会のうねりの様子みたいなものが見えてきて面白いのではないか・・・。そう考えて、僕は父に関するいくつかの個人的なエピソードと、昭和の歴史の断片を併せて書き、家族や親しい人たちが父のことを思い起こし、対話できるための一遍の物語を作ってみようと思い立ちました。
本当はその物語は父が亡くなる前に書くべきだったのではないかと、少し後悔の念が残っています。
生前にも話を聞いて本を書いてみようかなと、ちらりと思ったことはあるのですが、とうとう父自身に自分の人生を振り返って……といった話を聞く機会はつくれませんでした。たとえ親子の間柄でも、そうした機会を持つことは難しいのです。思い立ったら本気になって直談判しないと、そして双方互いに納得できないと永遠につくることはできません。あるいは、これもまた難しいけど、本人がその気になって自分で書くか・・・。それだけその人固有の人生は貴重なものであり、それを正確に、満足できるように表現することは至難の業なのだと思います。
実際に始めてから困ったのは、父の若い頃のことを詳しく知る人など、周囲にほとんどいないということ。また、私自身もそこまで綿密に調査・取材ができるほど、時間や労力をかけるわけにもいきませんでした。
だから母から聞いた話を中心に、叔父・叔母の話を少し加える程度にとどめ、その他、本やインターネットでその頃の時代背景などを調べながら文章を組み立てる材料を集めました。そして自分の記憶――心に残っている言葉・出来事・印象と重ね合わせて100枚程度の原稿を作ってみたのです。
自分で言うのもナンですが、情報不足は否めないものの、悪くない出来になっていて気に入っています。これがあるともうこの世にいない父と少しは対話できる気がするのです。自分の気持ちを落ち着かせ、互いの生の交流を確かめ、父が果たした役割、自分にとっての存在の意味を見出すためにも、こうした家族や親しい者の物語をつくることはとても有効なのではないかと思います。
高齢化が進む最近は「エンディングノート」というものがよく話題に上っています。
「その日」が来た時、家族など周囲の者がどうすればいいか困らないように、いわゆる社会的な事務手続き、お金や相続のことなどを書き残すのが、今のところ、エンディングノートの最もポピュラーな使い方になっているようだ。
もちろん、それはそれで、逝く者にとっても、後に残る者にとっても大事なことです。しかし、そうすると結局、その人の人生は、いくらお金を遺したかとか、不動産やら建物を遺したのか、とか、そんな話ばかりで終わってしまう恐れもあります。その人の人生そのものが経済的なこと、物質的なものだけで多くの人に価値判断されてしまうような気がするのです。
けれども本当に大事なのは、その人の人生にどんな意味や価値があったのか、を家族や友人・知人たちが共有することが出来る、ということではないでしょうか。
そして、もしその人の生前にそうしたストーリーを書くことができれば、その人が人生の最期の季節に、自分自身を取り戻せる、あるいは、取り戻すきっかけになり得る、ということではないでしょうか。
♪赤い仮面は謎の人 どんな顔だか知らないが キラリと光る涼しい目 仮面の忍者だ
赤影だ~
というのは、テレビの「仮面の忍者 赤影」の主題歌でしたが、涼しい目かどうかはともかく、僕のメガネは10数年前から「赤影メガネ」です。これにはちょっとした物語(というほどのものではないけど)があります。
当時、小1だか2年の息子を連れてメガネを買いに行きました。
それまでは確か茶色の細いフレームの丸いメガネだったのですが、今回は変えようかなぁ、どうしようかなぁ・・・とあれこれ見ていると、息子が赤フレームを見つけて「赤影!」と言って持ってきたのです。
「こんなの似合うわけないじゃん」と思いましたが、せっかく選んでくれたのだから・・・と、かけてみたら似合った。子供の洞察力おそるべし。てか、単に赤影が好きだっただけ?
とにかく、それ以来、赤いフレームのメガネが、いつの間にか自分のアイキャッチになっていました。自分の中にある自分のイメージと、人から見た自分とのギャップはとてつもなく大きいもの。
独立・起業・フリーランス化ばやりということもあり、セルフブランディングがよく話題になりますが、自分をどう見せるかというのはとても難しい。自分の中にある自分のイメージと、人から見た自分とのギャップはとてつもなく大きいのです。
とはいえ、自分で気に入らないものを身に着けてもやっぱり駄目。できたら安心して相談できる家族とか、親しい人の意見をしっかり聞いて(信頼感・安心感を持てない人、あんまり好きでない人の意見は素直に聞けない)、従来の考え方にとらわれない自分像を探していきましょう。
・・・って、なんだか歌か小説のタイトルみたいですね。そうでもない?
ま、それはいいんですが、この間の朝、実際に会いました。ひとりでそそくさとベビーカーを押していた彼の姿が妙に心に焼き付き、いろいろなことがフラッシュバックしました。
BACK in the NEW YORK CITY。
僕が初めてニューヨークに行ったのは約30年前。今はどうだか知らないけど、1980年代のNYCときたらやっぱ世界最先端の大都会。しかし、ぼくがその先端性を感じたのは、ソーホーのクラブやディスコでもなでもなく、イーストビレッジのアートギャラリーでもなく、ブロードウェイのミュージカルでもなく、ストリートのブレイクダンスでもなく、セントラルパークで一人で子供と散歩しているパパさんたちでした。
特におしゃれでも何でもない若いパパさんたちが、小さい子をベビーカーに乗せていたり、抱っこひもでくくってカンガルーみたいな格好で歩いていたり、芝生の上でご飯を食べさせたり、オムツを替えたりしていたのです。
そういう人たちはだいたい一人。その時、たまたま奥さんがほっとその辺まで買い物に行っているのか、奥さんが働いて旦那がハウスハズバンドで子育て担当なのか、はたまた根っからシングルファーザーなのかわかりませんが、いずれにしてもその日その時、出会った彼らはしっかり子育てが板についている感じでした。
衝撃!・・というほどでもなかったけど、なぜか僕は「うーん、さすがはニューヨークはイケてるぜ」と深く納得し、彼らが妙にカッコよく見えてしまったのです。
そうなるのを念願していたわけではないけれど、それから約10年後。
1990年代後半の練馬区の路上で、僕は1歳になるかならないかの息子をベビーカーに乗せて歩いていました。たしか「いわさきちひろ美術館」に行く途中だったと思います。
向こう側からやってきたおばさんが、じっと僕のことを見ている。
なんだろう?と気づくと、トコトコ近寄ってきて、何やら話しかけてくる。
どこから来たのか?どこへ行くのか? この子はいくつか? 奥さんは何をやっているのいか?などなど・・・
「カミさんはちょっと用事で、今日はいないんで」と言うと、ずいぶん大きなため息をつき、「そうなの。私はまた逃げられたと思って」と。
おいおい、たとえそうだとしても、知らないあんたに心配されたり同情されたりするいわれはないんだけど。
別に腹を立てたわけではありませんが、世間からはそういうふうにも見えるんだなぁと、これまた深く納得。
あのおばさんは口に出して言ったけど、心の中でそう思ってて同情だか憐憫だかの目で観ている人は結構いるんだろうなぁ、と感じ入った次第です。
というのが、今から約20年前のこと。
その頃からすでに「子育てしない男を父とは呼ばない」なんてキャッチコピーが出ていましたが、男の子育て環境はずいぶん変化したのでしょうか?
表面的には イクメンがもてはやされ、育児関係・家事関係の商品のコマーシャルにも、ずいぶん男が出ていますが、実際どうなのでしょうか?
件のベビーカーにしても、今どき珍しくないだろう、と思いましたが、いや待てよ。妻(母)とカップルの時は街の中でも電車の中でもいる。それから父一人の時でも子供を自転車に乗せている男はよく見かける。だが、ベビーカーを“ひとりで”押している男はそう頻繁には見かけない。これって何を意味しているのだろう? と、考えてしまいました。
ベビーカーに乗せている、ということは、子供はだいたい3歳未満。保育園や幼稚園に通うにはまだ小さい。普段は家で母親が面倒を見ているというパターンがやはりまだまだ多いのでしょう。
そういえば、保育園の待機児童問題って、お母さんの声ばかりで、お父さんの声ってさっぱり聞こえてこない。そもそも関係あるのか?って感じに見えてしまうんだけど、イクメンの人たちの出番はないのでしょうか・・・。
2016年6月16日
インターネットの出現は社会を変えた――ということは聞き飽きるほど、あちこちで言われています。けれどもインターネットが本格的に普及したのは、せいぜいここ10年くらいの話。全世代、全世界を見渡せば、まだ高齢者の中には使ったことがないという人も多いし、国や地域によって普及率の格差も大きい。だから、その変化の真価を国レベル・世界レベルで、僕たちが実感するのはまだこれからだと思います。
それは一般によくいわれる、情報収集がスピーディーになったとか、通信販売が便利になったとか、というカテゴリーの話とは次元が違うものです。もっと人間形成の根本的な部分に関わることであり、ホモサピエンスの文化の変革にまでつながること。それは新しい民間伝承――フォークロアの誕生です。
“成長過程で自然に知ってしまう”昔話・伝承
最初はどこでどのように聞いたのか覚えてないですが、僕たちは自分でも驚くほど、昔話・伝承をよく知っています。成長の過程のどこかで桃太郎や浦島太郎や因幡の白ウサギと出会い、彼らを古い友だちのように思っています。
家庭でそれらの話を大人に読んでもらったこともあれば、幼稚園・保育園・小学校で体験したり、最近ならメディアでお目にかかることも多い。それはまるで遺伝子に組み込まれているかのように、あまりに自然に身体の中に溶け込んでいるのです。
調べて確認したわけではないが、こうした感覚は日本に限らず、韓国でも中国でもアメリカでもヨーロッパでも、その地域に住んでいる人なら誰でも持ち得るのではないでしょうか。おそらく同じような現象があると思います。それぞれどんな話がスタンダードとなっているのかは分かりませんが、その国・その地域・その民族の間で“成長過程で自然に知ってしまう”昔話・伝承の類が一定量あるのです。
それらは長い時間を生きながらえるタフな生命エネルギーを持っています。それだけのエネルギーを湛えた伝承は、共通の文化の地層、つまり一種のデータベースとして、万人の脳の奥底に存在しています。その文化の地層の上に、その他すべての情報・知識が積み重なっている――僕はそんなイメージを持っています。
世界共通の、新しいカテゴリーの伝承
そして、昔からあるそれとは別に、これから世界共通の、新しいカテゴリーの伝承が生まれてくる。その新しい伝承は人々の間で共通の文化の地層として急速に育っていくのでないか。そうした伝承を拡散し、未来へ伝える役目を担っているのがインターネット、というわけです。
ところで新しい伝承とは何でしょう? その主要なものは20世紀に生まれ、花開いた大衆文化――ポップカルチャーではないでしょうか。具体的に挙げていけば、映画、演劇、小説、マンガ、音楽(ジャズ、ポップス、ロック)の類です。
21世紀になる頃から、こうしたポップカルチャーのリバイバルが盛んに行われるようになっていました。
人々になじみのあるストーリー、キャラクター。
ノスタルジーを刺激するリバイバル・コンテンツ。
こうしたものが流行るのは、情報発信する側が、商品価値の高い、新しいものを開発できないためだと思っていました。
そこで各種関連企業が物置に入っていたアンティーク商品を引っ張り出してきて、売上を確保しようとした――そんな事情があったのでしょう。実際、最初のうちはそうだったはずです。
だから僕は結構冷めた目でそうした現象を見ていました。そこには半ば絶望感も混じっていたと思います。前の世代を超える、真に新しい、刺激的なもの・感動的なものは、この先はもう現れないのかも知れない。出尽くしてしまったのかも知れない、と……。
しかし時間が経ち、リバイバル現象が恒常化し、それらの画像や物語が、各種のサイトやYouTubeの動画コンテンツとして、ネット上にあふれるようになってくると考え方は変わってきました。
それらのストーリー、キャラクターは、もはや単なるレトロやリバイバルでなく、世界中の人たちの共有財産となっています。いわば全世界共通の伝承なのです。
僕たちは欧米やアジアやアフリカの人たちと「ビートルズ」について、「手塚治虫」について、「ガンダム」について、「スターウォーズ」について語り合えるし、また、それらを共通言語にして、子や孫の世代とも同様に語り合えます。
そこにボーダーはないし、ジェネレーションギャップも存在しません。純粋にポップカルチャーを媒介にしてつながり合う、数限りない関係が生まれるのです。
また、これらの伝承のオリジナルの発信者――ミュージシャン、映画監督、漫画家、小説家などによって、あるいは彼ら・彼女らをリスペクトするクリエイターたちによって自由なアレンジが施され、驚くほど新鮮なコンテンツに生まれ変わる場合もあります。
インターネットの本当の役割
オリジナル曲をつくった、盛りを過ぎたアーティストたちが、子や孫たち世代の少年・少女と再び眩いステージに立ち、自分の資産である作品を披露。それをYouTubeなどを介して広めている様子なども頻繁に見かけるようになりました。
それが良いことなのか、悪いことなのか、評価はさておき、そうした状況がインタ―ネットによって現れています。これから10年たち、20年たち、コンテンツがさらに充実し、インターネット人口が現在よりさらに膨れ上がれば、どうなるでしょうか?
おそらくその現象は空気のようなものとして世の中に存在するようになり、僕たちは新たな世界的伝承として、人類共通の文化遺産として、完成された古典として見なすようになるでしょう。人々は分かりやすく、楽しませてくれるものが大好きだからです。
そして、まるで「桃太郎」のお話を聞くように、まっさらな状態で、これらの伝承を受け取った子供たちが、そこからまた新しい、次の時代の物語を生みだしていきます。
この先、そうした現象が必ず起こると思う。インターネットという新参者のメディアはその段階になって、さらに大きな役割を担うのでしょう。それは文化の貯蔵庫としての価値であり、さらに広げて言えば、人類の文化の変革につながる価値になります。
2016年6月13日
ここのところ、雑誌の連載で地方のことを書いています。
書くときはまずベーシックな情報(最初のリード文として使うこともあるので)をインターネットで調べます。
これはウィキペディアなどの第3者情報よりも、各県の公式ホームページの方が断然面白い。自分たちの県をどう見せ、何をアピールしたいかがよくわかるからです。
なんでも市場価値が問われる時代。「お役所仕事云々・・・」と言われることが多い自治体ですが、いろいろ努力して、ホームページも工夫しています。
最近やった宮崎県のキャッチコピーは「日本のひなた」。
日照時間の多さ、そのため農産物がよく獲れるということのアピール。
そしてもちろん、人や土地のやさしさ、あったかさ、ポカポカ感を訴えています。
いろいろな人たちがお日さまスマイルのフリスビーを飛ばして、次々と受け渡していくプロモーションビデオは、単純だけど、なかなか楽しかった。
それから「ひなた度データ」というのがあって、全国比率のいろいろなデータが出ています。面白いのが、「餃子消費量3位」とか、「中学生の早寝早起き率 第3位」とか、「宿題実行率 第4位」とか、「保護者の学校行事参加率 第2位」とか・・・
「なんでこれがひなた度なんじゃい!」とツッコミを入れたくなるのもいっぱい。だけど好きです、こういうの。
取材するにしても、いきなり用件をぶつけるより、「ホームページ面白いですね~」と切り出したほうが、ちょっとはお役所臭さが緩和される気がします。
「あなたのひなた度は?」というテストもあって、やってみたら100パーセントでした。じつはまだ一度も行ったことないけれど、宮崎県を応援したくなるな。ポカポカ。
2016年6月12日
きのう6月10日は「時の記念日」でした。それに気がついたら頭の中で突然、サディスティック・ミカ・バンドの「タイムマシンにおねがい」が鳴り響いてきたので、YouTubeを見てみたら、1974年から2006年まで、30年以上にわたるいろいろなバージョンが上がっていました。本当にインターネットの世界でタイムマシン化しています。
これだけ昔の映像・音源が見放題・聞き放題になるなんて10年前は考えられませんでした。こういう状況に触れると、改めてインターネットのパワーを感じると同時に、この時代になるまで生きててよかった~と、しみじみします。
そしてまた、ネットの中でならおっさん・おばさんでもずっと青少年でいられる、ということを感じます。60~70年代のロックについて滔々と自分の思い入れを語っている人がいっぱいいますが、これはどう考えても50代・60代の人ですからね。
でも、彼ら・彼女らの頭の中はロックに夢中になっていた若いころのまんま。脳内年齢は10代・20代。インターネットに没頭することは、まさしくタイムマシンンに乗っているようなものです。
この「タイムマシンにおねがい」が入っているサディスティック・ミカ・バンドの「黒船」というアルバムは、1974年リリースで、いまだに日本のロックの最高峰に位置するアルバムです。若き加藤和彦が作った、世界に誇る傑作と言ってもいいのではないでしょうか。
中でもこの曲は音も歌詞もゴキゲンです。いろいろ見た(聴いた)中でいちばんよかったのは、最新(かな?)の2006年・木村カエラ・ヴォーカルのバージョンです。おっさんロッカーたちをバックに「ティラノサウルスおさんぽ アハハハ-ン」とやってくれて、くらくらっときました。
やたらと「オリジナルでなきゃ。あのヴォーカルとあのギターでなきゃ」とこだわる人がいますが、僕はそうは思わない。みんなに愛される歌、愛されるコンテンツ、愛される文化には、ちゃんと後継ぎがいて、表現技術はもちろんですが、それだけでなく、その歌・文化の持ち味を深く理解し、見事に自分のものとして再現します。中には「オリジナルよりいいじゃん!」と思えるものも少なくありません。(この木村カエラがよい例)。
この歌を歌いたい、自分で表現したい!――若い世代にそれだけ強烈に思わせる、魅力あるコンテンツ・文化は生き残り、クラシックとして未来に継承されていくのだと思います。
もう一つおまけに木村カエラのバックでは、晩年の加藤和彦さんが本当に楽しそうに演奏をしていました。こんなに楽しそうだったのに、どうして自殺してしまったのだろう・・・と、ちょっと哀しくもなったなぁ。
2016年6月11日
9日間にわたって放送してきた「歴人めし」は、昨日の「信長巻きの巻」をもっていったん終了。しかし、ご安心ください。7月は夜の時間帯に再放送があります。ぜひ見てくださいね。というか、You Tubeでソッコー見られるみたいですが。
https://www.ch-ginga.jp/movie-detail/series.php?series_cd=12041
この仕事では歴人たちがいかに食い物に執念を燃やしていたかがわかりました。 もちろん、記録に残っているのはほんの少し。
源内さんのように、自分がいかにうなぎが好きか、うなぎにこだわっているか、しつこく書いている人も例外としていますが、他の人たちは自分は天下国家のことをいつも考えていて、今日のめしのことなんかどうでもいい。カスミを食ってでの生きている・・・なんて言い出しそうな勢いです。
しかし、そんなわけはない。偉人と言えども、飲み食いと無関係ではいられません。 ただ、それを口に出して言えるのは、平和な世の中あってこそなのでしょう。だから日本の食文化は江戸時代に発展し、今ある日本食が完成されたのです。
そんなわけで、「おかわり」があるかもしれないよ、というお話を頂いているので、なんとなく続きを考えています。
駿河の国(静岡)は食材豊富だし、来年の大河の井伊直虎がらみで何かできないかとか、 今回揚げ物がなかったから、何かできないかとか(信長に捧ぐ干し柿入りドーナツとかね)、
柳原先生の得意な江戸料理を活かせる江戸の文人とか、明治の文人の話だとか、
登場させ損ねてしまった豊臣秀吉、上杉謙信、伊達政宗、浅井三姉妹、新選組などの好物とか・・・
食について面白い逸話がありそうな人たちはいっぱいいるのですが、柳原先生の納得する人物、食材、メニュー、ストーリーがそろって、初めて台本にできます。(じつは今回もプロット段階でアウトテイク多数)
すぐにとはいきませんが、ぜひおかわりにトライしますよ。
それまでおなかをすかせて待っててくださいね。ぐ~~。
2016年6月7日
信長が甘いもの好きというのは、僕は今回のリサーチで初めて知りました。お砂糖を贈答したり、されたりして外交に利用していたこともあり、あちこちの和菓子屋さんが「信長ゆかりの銘菓」を開発して売り出しているようです。ストーリーをくっつけると、同じおまんじゅうやあんころもちでも何だか特別なもの、他とは違うまんじゅうやあんころもちに思えてくるから不思議なものです。
今回、ゆかりの食材として採用したのは「干し柿」と「麦こがし(ふりもみこがし)」。柿は、武家伝統の本膳料理(会席料理のさらに豪華版!)の定番デザートでもあり、記録をめくっていると必ず出てきます。
現代のようなスイーツパラダイスの時代と違って、昔の人は甘いものなどそう簡単に口にできませんでした。お砂糖なんて食品というよりは、宝石や黄金に近い超ぜいたく品だったようです。だから信長に限らず、果物に目のない人は大勢いたのでしょう。
中でもは干し柿にすれば保存がきくし、渋柿もスイートに変身したりするので重宝されたのだと思います。
「信長巻き」というのは柳原尚之先生のオリジナル。干し柿に白ワインを染み込ませるのと、大徳寺納豆という、濃厚でしょっぱい焼き味噌みたいな大豆食品をいっしょに巻き込むのがミソ。
信長は塩辛い味も好きで、料理人が京風の上品な薄味料理を出したら「こんな水臭いものが食えるか!」と怒ったという逸話も。はまった人なら知っている、甘い味としょっぱい味の無限ループ。交互に食べるともうどうにも止まらない。信長もとりつかれていたのだろうか・・・。
ちなみに最近の映画やドラマの中の信長と言えば、かっこよくマントを翻して南蛮渡来の洋装を着こなして登場したり、お城の中のインテリアをヨーロッパの宮殿風にしたり、といった演出が目につきます。
スイーツ好きとともに、洋風好き・西洋かぶれも、今やすっかり信長像の定番になっていますが、じつはこうして西洋文化を積極的に採り入れたのも、もともとはカステラだの、金平糖だの、ボーロだの、ポルトガルやスペインの宣教師たちが持ち込んできた、砂糖をたっぷり使った甘いお菓子が目当てだったのです。(と、断言してしまう)
「文化」なんていうと何やら高尚っぽいですが、要は生活習慣の集合体をそう呼ぶまでのこと。その中心にあるのは生活の基本である衣食住です。
中でも「食」の威力はすさまじく、これに人間はめっぽう弱い。おいしいものの誘惑からは誰も逃れられない。そしてできることなら「豊かな食卓のある人生」を生きたいと願う。この「豊かな食卓」をどう捉えるかが、その人の価値観・生き方につながるのです。
魔王と呼ばれながら、天下統一の一歩手前で倒れた信長も、突き詰めればその自分ならではの豊かさを目指していたのではないかと思うのです。
2016年6月6日
「豊臣秀吉がまだ木下藤吉郎だったころ、琵琶湖のほとりに金目教という怪しい宗教が流行っていた・・・」というナレーションで始まるのは「仮面の忍者・赤影」。子供の頃、夢中になってテレビにかじりついていました。
時代劇(忍者もの)とSF活劇と怪獣物をごちゃ混ぜにして、なおかつチープな特撮のインチキスパイスをふりかけた独特のテイストは、後にも先にもこの番組だけ。僕の中ではもはや孤高の存在です。
いきなり話が脱線していますが、赤影オープニングのナレーションで語られた「琵琶湖のほとり」とは滋賀県長浜あたりのことだったのだ、と気づいたのは、ちょうど10年前の今頃、イベントの仕事でその長浜に滞在していた時です。
このときのイベント=期間限定のラジオ番組制作は、大河ドラマ「功名が辻」関連のもの。4月~6月まで断続的に数日ずつ訪れ、街中や郊外で番組用の取材をやっていました。春でもちょっと寒いことを我慢すれば、賑わいがあり、かつまた、自然や文化財にも恵まれている、とても暮らしやすそうな良いところです。
この長浜を開いたのは豊臣秀吉。そして秀吉の後を継いで城主になったのが山内一豊。「功名が辻」は、その一豊(上川隆也)と妻・千代(仲間由紀恵)の物語。そして本日の歴人めし♯9は、この一豊ゆかりの「カツオのたたき」でした。
ところが一豊、城主にまでしてもらったのに秀吉の死後は、豊臣危うしと読んだのか、関が原では徳川方に寝返ってしまいます。つまり、うまいこと勝ち組にすべり込んだわけですね。
これで一件落着、となるのが、一豊の描いたシナリオでした。
なぜならこのとき、彼はもう50歳。人生50年と言われた時代ですから、その年齢から本格的な天下取りに向かった家康なんかは例外中の例外。そんな非凡な才能と強靭な精神を持ち合わせていない、言ってみればラッキーで何とかやってきた凡人・一豊は、もう疲れたし、このあたりで自分の武士人生も「あがり」としたかったのでしょう。
できたら、ごほうびとして年金代わりに小さな領地でももらって、千代とのんびり老後を過ごしたかったのだと思います。あるいは武士なんかやめてしまって、お百姓でもやりながら余生を・・・とひそかに考えていた可能性もあります。
ところが、ここでまた人生逆転。家康からとんでもないプレゼントが。
「土佐一国をおまえに任せる」と言い渡されたのです。
一国の領主にしてやる、と言われたのだから、めでたく大出世。一豊、飛び上がって喜んだ・・・というのが定説になっていますが、僕はまったくそうは思いません。
なんせ土佐は前・領主の長曾我部氏のごっつい残党がぞろぞろいて、新しくやってくる領主をけんか腰で待ち構えている。徳川陣営の他の武将も「あそこに行くのだけは嫌だ」と言っていたところです。
現代に置き換えてみると、後期高齢者あたりの年齢になった一豊が、縁もゆかりもない外国――それも南米とかのタフな土地へ派遣されるのようなもの。いくらそこの支店長のポストをくれてやる、と言われたって全然うれしくなんかなかったでしょう。
けれども天下を収めた家康の命令は絶対です。断れるはずがありません。
そしてまた、うまく治められなければ「能無し」というレッテルを貼られ、お家とりつぶしになってしまいます。
これはすごいプレッシャーだったでしょう。「勝ち組になろう」なんて魂胆を起こすんじゃなかった、と後悔したに違いありません。
こうして不安と恐怖、ストレスで萎縮しまくってたまま土佐に行った一豊の頭がまともに働いたとは思えません。豊富に採れるカツオをがつがつ生で食べている連中を見て、めちゃくちゃな野蛮人に見えてしまったのでしょう。
人間はそれぞれの主観というファンタジーの中で生きています。ですから、この頃の彼は完全に「土佐人こわい」という妄想に支配されてしまったのです。
「功名が辻」では最後の方で、家来が長曾我部の残党をだまして誘い出し、まとめて皆殺しにしてしまうシーンがあります。これは家来が独断で行ったことで、一豊は関与していないことになっていますが、上司が知らなったわけがありません。
こうして不安と恐怖、ストレスで萎縮しまくってたまま土佐に行った一豊の頭がまともに働いたとは思えません。豊富に採れるカツオをがつがつ生で食べている連中を見て、めちゃくちゃな野蛮人に見えてしまったのでしょう。
人間はそれぞれの主観というファンタジーの中で生きています。ですから、この頃の彼は完全に「土佐人こわい」という妄想に支配されてしまったのです。
「功名が辻」では最後の方で、家来が長曾我部の残党をだまして誘い出し、まとめて皆殺しにしてしまうシーンがあります。これは家来が独断で行ったことで、一豊は関与していないことになっていますが、上司が知らなったわけがありません。
恐怖にかられてしまった人間は、より以上の恐怖となる蛮行、残虐行為を行います。
一豊は15代先の容堂の世代――つまり、250年後の坂本龍馬や武市半平太の時代まで続く、武士階級をさらに山内家の上士、長曾我部氏の下士に分けるという独特の差別システムまで発想します。
そうして土佐にきてわずか5年で病に倒れ、亡くなってしまった一豊。寿命だったのかもしれませんが、僕には土佐統治によるストレスで命を縮めたとしか思えないのです。
「カツオのたたき」は、食中毒になる危険を慮った一豊が「カツオ生食禁止令」を出したが、土佐の人々はなんとかおいしくカツオを食べたいと、表面だけ火であぶり、「これは生食じゃのうて焼き魚だぜよ」と抗弁したところから生まれた料理――という話が流布しています。
しかし、そんな禁止令が記録として残っているわけではありません。やはりこれはどこからか生えてきた伝説なのでしょう。
けれども僕はこの「カツオのたたき発祥物語」が好きです。それも一豊を“民の健康を気遣う良いお殿様”として解釈するお話でなく、「精神的プレッシャーで恐怖と幻想にとりつかれ、カツオの生食が、おそるべき野蛮人たちの悪食に見えてしまった男の物語」として解釈してストーリーにしました。
随分と長くなってしまいましたが、ここまで書いてきたバックストーリーのニュアンスをイラストの方が、短いナレーションとト書きからじつにうまく掬い取ってくれて、なんとも情けない一豊が画面で活躍することになったのです。
一豊ファンの人には申し訳ないけど、カツオのたたきに負けず劣らず、実にいい味出している。マイ・フェイバリットです。
2016年6月3日
歴人めし第7回は「徳川家康―八丁味噌の冷汁と麦飯」。
「これが日本人の正しい食事なのじゃ」と家康が言ったかどうかは知りませんが、米・麦・味噌が長寿と健康の基本の3大食材と言えば、多くの日本人は納得するのではないでしょうか。エネルギー、たんぱく質、ビタミン、その他の栄養素のバランスも抜群の取り合わせです。
ましてやその発言の主が、天下を統一して戦国の世を終わらせ、パックス・トクガワ―ナを作った家康ならなおのこと。実際、家康はこの3大食材を常食とし、かなり養生に努めていたことは定説になっています。
昨年はその家康の没後400年ということで、彼が城を構えた岡崎・浜松・静岡の3都市で「家康公400年祭」というイベントが開催され、僕もその一部の仕事をしました。
そこでお会いしたのが、岡崎城から歩いて八丁(約780メートル)の八丁村で八丁味噌を作っていた味噌蔵の後継者。
かのメーカー社長は現在「Mr.Haccho」と名乗り、毎年、海外に八丁味噌を売り込みに行っているそうで、日本を代表する調味料・八丁味噌がじわじわと世界に認められつつあるようです。
ちなみに僕は名古屋の出身なので子供の頃から赤味噌に慣れ親しんできました。名古屋をはじめ、東海圏では味噌と言えば、赤味噌=豆味噌が主流。ですが、八丁味噌」という食品名を用いれるのは、その岡崎の元・八丁村にある二つの味噌蔵――現在の「まるや」と「カクキュー」で作っているものだけ、ということです。
しかし、養生食の米・麦・味噌をがんばって食べ続け、健康に気を遣っていた家康も、平和な世の中になって緊張の糸がプツンと切れたのでしょう。
がまんを重ねて押さえつけていた「ぜいたくの虫」がそっとささやいたのかもしれません。
「もういいんじゃないの。ちょっとぐらいぜいたくしてもかまへんで~」
ということで、その頃、京都でブームになっていたという「鯛の天ぷら」が食べた~い!と言い出し、念願かなってそれを口にしたら大当たり。おなかが油に慣れていなかったせいなのかなぁ。食中毒がもとで亡くなってしまった、と伝えられています。
でも考えてみれば、自分の仕事をやり遂げて、最期に食べたいものをちゃんと食べられて旅立ったのだから、これ以上満足のいく人生はなかったのではないでしょうか。
2016年6月2日
絶好調「真田丸」に続く2017年大河は柴咲コウ主演「おんな城主 直虎」。今年は男だったから来年は女――というわけで、ここ10年あまり、大河は1年ごとに主人公が男女入れ替わるシフトになっています。
だけど女のドラマは難しいんです。なかなか資料が見つけらない。というか、そもそも残っていな。やはり日本の歴史は(外国もそうですが)圧倒的に男の歴史なんですね。
それでも近年、頻繁に女主人公の物語をやるようになったのは、もちろん女性の視聴者を取り込むためだけど、もう一つは史実としての正確さよりも、物語性、イベント性を重視するようになってきたからだと思います。
テレビの人気凋落がよく話題になりますが、「腐っても鯛」と言っては失礼だけど、やっぱ日曜8時のゴールデンタイム、「お茶の間でテレビ」は日本人の定番ライフスタイルです。
出演俳優は箔がつくし、ゆかりの地域は観光客でにぎわうって経済も潤うし、いろんなイベントもぶら下がってくるし、話題も提供される・・・ということでいいことづくめ。
豪華絢爛絵巻物に歴史のお勉強がおまけについてくる・・・ぐらいでちょうどいいのです。(とはいっても、制作スタッフは必死に歴史考証をやっています。ただ、部分的に資料がなくても諦めずに面白くするぞ――という精神で作っているということです)
と、すっかり前置きが長くなってしまいましたが、なんとか「歴人めし」にも一人、女性を入れたいということで、あれこれ調べた挙句、やっと好物に関する記録を見つけたのが、20082年大河のヒロイン「篤姫」。本日は天璋院篤姫の「お貝煮」でした。
見てもらえればわかるけど、この「お貝煮」なる料理、要するにアワビ入りの茶碗蒸しです。その記述が載っていたのが「御殿女中」という本。この本は明治から戦前の昭和にかけて活躍した、江戸文化・風俗の研究家・三田村鳶魚の著作で。篤姫付きの女中をしていた“大岡ませ子”という女性を取材した、いわゆる聞き書きです。
明治も30年余り経ち、世代交代が進み、新しい秩序・社会体制が定着してくると、以前の時代が懐かしくなるらしく、「江戸の記憶を遺そう」というムーブメントが文化人の間で起こったようです。
そこでこの三田村鳶魚さんが、かなりのご高齢だったます子さんに目をつけ、あれこれ大奥の生活について聞き出した――その集成がこの本に収められているというわけです。これは現在、文庫本になっていて手軽に手に入ります。
ナレーションにもしましたが、ヘアメイク法やら、ファッションやら、江戸城内のエンタメ情報やらも載っていて、なかなか楽しい本ですが、篤姫に関するエピソードで最も面白かったのが飼いネコの話。
最初、彼女は狆(犬)が買いたかったようなのですが、夫の徳川家定(13代将軍)がイヌがダメなので、しかたなくネコにしたとか。
ところが、このネコが良き相棒になってくれて、なんと16年もいっしょに暮らしたそうです。彼女もペットに心を癒された口なのでしょうか。
そんなわけでこの回もいろんな発見がありました。
続編では、もっと大勢の女性歴人を登場させ、その好物を紹介したいと思っています。
2016年6月1日
川沿いの道で長さ1メートルのヘビに遭遇。
青みを帯びた銀色に輝くボディのアオダイショウ。
カメラ目線をキメてくれた。
なかなかいい面構えでしょ?
神々しくて思わず手を合わせてしまった。
今年も残すところあと3カ月。
大将、よろしくたのんます。
ナマケモノもよろしくたのんます。
1965年にリリースされた「夢のカリフォルニア」は、
「東海岸(おそらくニューヨークを想定)は
どんより曇っていて寒いよ。
晴れててあったかいカリフォルニアに行きたいなぁ」
というかなり単純な歌だ。
けれども当時、カリフォルニア州にあるサンフランシスコ、
ロサンゼルスはヒッピー文化発祥の地。
愛と自由と平和について語り合おう、
ついでにセックスとドラッグもやっちまおう、
という精神的革命の波が押し寄せていた。
アメリカの若者のほとんどが
社会からドロップアウトするんじゃないかという
勢いさえ感じた。
そんな中で「夢のカリフォルニア」は
一種のメタファーと受け取られ、
どんより曇って寒い街は旧世界の象徴、
太陽輝くカリフォルニア
(サンフランシスコ、ロサンゼルス)こそ
われらが求める新世界――と解釈されたらしい。
と言ってもこの頃,
僕はまだ小学校に入ったばかりのガキで、
ヒッピーをリアルタイムで体験したわけではない。
後年、音楽雑誌などで当時のロック・フォークの先輩方が
「サマー・オブ・ラブ」やら「フラワーチルドレン」やらを
熱く語っているのをカッコイイなぁと思っただけだ。
そしてテレビの音楽番組で見た
1967年の「モンタレーポップフェスティバル」。
この曲を歌うママス&パパスを見て以来、
僕の中ではずっと「夢のカリフォルニア」は、
60年代のヒッピー文化の象徴として、
一種独特の響きを放っていた。
ママス&パパスはグループとしては
3年ほどしか活動していない。
他にもいくつかヒット曲はあるものの、
ほとんどこれ1曲で
1998年にロック殿堂入りを果たしたと言っていいだろう。
それほどあの時代とのマッチングは強烈だったのだ。
けれども、そろそろその幻想とも
別れを告げた方がいかもしれない。
そう思ったのは、ジャズシンガー、
ダイアナ・クラールが2015年にリリースした
カヴァーを聴いた時だった。
オリジナルのママス&パパスから60年。
言い表せない感慨が胸に広がった。
渋くてカッコよくて、
そしてあまりに懐かしさと哀愁に満ちた
「夢のカリフォルニア」。
秋の夜、聴きながら一杯飲まずにはいられない。
●夢のカリフォルニア/ダイアナ・クラール
何かを達成するのはクレイジーなエネルギーである。
フリッパ(離婚したシングルマザーの中年女性)は、
たまたま子どもの付きそいで
シェイクスピア作の「リチャードⅢ世」の舞台を見る。
それが彼女の人生を変えた。
リチャードⅢ世の霊が彼女にとりついた。
あの世からやってきたリチャードとの対話から
彼の遺骨が墓にも納められず埋もれ、
名誉を棄損されていることを知る。
そして8割方インスピレーションによって、
その遺骨の眠る場所を探り当てる。
こう書くと、荒唐無稽なオカルト映画、
あるいはインディー・ジョーンズのような
考古学者の冒険譚なのかと思うかもしれないが、
これは事実をもとに作られた映画である。
英国レスターにおいて
リチャードⅢ世の遺骨発掘が行われたのは、
わずか5年前。2,018年のこと。
国営放送BBCは、そのドキュメンタリーを作ったが、
それを劇映画化したもの。
脚色・演出はされているが、
ストーリー自体は事実そのもである。
主人公のフリッパは、
もともと考古学に縁もゆかりもないもない。
「リチャードⅢ世」は、知る人ぞ知る、
シェイクスピア劇の中でも屈指の人気を誇る作品だ。
リチャードがこの世を去って1世紀後、
シェイクスピアがその伝説をもとに造形したのが
せむしで醜く、心も歪み荒んだ極悪の王。
その残虐非道さ故、
英国歴代の正当な王とは認められていなかった。
しかし、リチャードの人柄と行為は、
彼のあとに政権を握った王朝が、
自らの正義を民衆に示すために捏造したものだった。
ちょうど明治政府が徳川幕府の政治を貶めたように。
江戸幕府の開幕時、
徳川家が豊臣家の影を消し去ったように。
フリッパはリチャード(の幻影)との対話と、
あくなき調査によってそのことを確信し、
遺棄された彼の遺骨のありかも突き止め、
孝行学者と大学を動かして発掘調査を行う。
あくまでドキュメンタリー風の作品なので、
ドキドキハラハラみたいなエンタメ感は乏しいが、
面白く、妙に感動的な映画だ。
フリッパの行動の動機は、
世紀の発見をして歴史を覆してやろうといった
崇高な目的や野心のためでもなく、
もちろん一発当ててやろうという金儲けや
損得勘定のためでもない。
本当に霊に取りつかれてしまったか、
リチャードに恋をしてしまったか、
要ははた目から見たらめっちゃクレイジーな熱意なのだ。
それでも元夫や子供たちは彼女を応援し支える。
あくまでドキュメンタリー風の作品なので、
ドキドキハラハラみたいなエンタメ感は乏しいが、
そうした家族愛もあり、面白く、妙に感動的な映画だ。
そしてもう一つ。
彼女が自分の発想で、単独で始めたことを、
世紀の大発見という成果が得られると、
ちゃっかりその手柄を横取りし、
自分たちの栄誉にしてしまおうとする
大学や学者の在り方も、
リチャードを貶めた次期王朝権力と重なって面白い。
歴史は常にその時々の勝者・成功者・権力者が
つくってきたものである。
僕たちが英雄と信じている人が、
とんでもない悪人や詐欺師だったり、
悪漢や愚者だと思っていた人が、
実は英雄だったりすることもある。
インターネットが発達した世の中では
そうした驚くべきどんでん返しも起こり得る。
世界はまだまだ神秘にあふれ、
変化していく可能性を孕んでいる。
歴史が深く、多彩な物語が眠る英国だから作り得た
と思われるこの映画は、
そんなことまで考えさせてくれる。
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峰不二子のモデルはマリアンヌ・フェイスフルだったとか、
「ベティ・デイビスの瞳」はもともとは
レトロジャズだったとか、
「チャイルド・イン・タイム」は実は反戦歌だったとか、
新発見がいっぱい。
卒業式ソングとして「今日の日はさようなら」を
紹介したけど、「わたしの学校では卒業式に〈誰かが風の中で〉を歌いました」なんてメールまでいただきました。
天涯孤独の木枯し紋次郎が卒業ソングとは、
なかなかワイルドな学校ですね。
来月はルー・リードの
「ワイルドサイドを歩け」を取り上げる予定です。
20世紀のポップミュージックが
人類のレガシーになった今日、
21世紀を生きていくために
ぜひとも懐メロを楽しく読み解いてみては?
この本はその参考書としてお役立ていただければ幸いです。
良い音楽、好きな音楽をあなたの人生のおともに。
「かえるくん、東京を救う」というのは村上春樹の短編小説の中でもかなり人気の高い作品です。
主人公がアパートの自分の部屋に帰ると、身の丈2メートルはあろうかというカエルが待っていた、というのだから、始まり方はほとんど恐怖小説。
ですが、その巨大なカエルが「ぼくのことは“かえるくん”と呼んでください」と言うのだから、たちまちシュールなメルヘンみたいな世界に引き込まれてしまいます。
この話は阪神大震災をモチーフにしていて、けっして甘いメルヘンでも、面白おかしいコメディでもないシリアスなストーリーなのですが、このかえるくんのセリフ回しや行動が、なんとも紳士的だったり、勇敢だったり、愛らしかったり、時折ヤクザだったりして独特の作品世界が出来上がっています。
しかし、アメリカ人の翻訳者がこの作品を英訳するとき、この「かえるくん」という呼称のニュアンスを、どう英語で表現すればいいのか悩んだという話を聞いて、さもありなんと思いました。
このカエルという生き物ほど、「かわいい」と「気持ち悪い」の振れ幅が大きい動物も珍しいのではないでしょうか。
でも、その振れ幅の大きさは日本人独自の感覚のような気もします。
欧米人はカエルはみにくい、グロテスクなやつ、場合によっては悪魔の手先とか、魔女の使いとか、そういう役割を振られるケースが圧倒的に多い気がします。
ところが、日本では、けろけろけろっぴぃとか、コルゲンコーワのマスコットとか、木馬座アワーのケロヨンとか、古くは「やせガエル 負けるな 一茶ここにあり」とか、かわいい系・愛すべき系の系譜がちゃんと続いていますね。
僕が思うに、これはやっぱり稲作文化のおかげなのではないでしょうか。
お米・田んぼと親しんできた日本人にとって、田んぼでゲコゲコ鳴いているカエルくんたちは、友だちみたいな親近感があるんでしょうね。
そして、彼らの合唱が聞こえる夏の青々とした田んぼの風景は、今年もお米がいっぱい取れそう、という期待や幸福感とつながっていたのでしょう。
カエル君に対するよいイメージはそういうところからきている気がします。
ちなみに僕の携帯電話はきみどり色だけど、「カエル色」って呼ばれています。
茶色いのも黄色っぽいもの黒いのもいるけど、カエルと言えばきれいなきみどり色。やっぱ、アマガエルじゃないとかわいくないからだろうね、きっと。
雨の季節。そういえば、ここんとこ、カエルくんと会ってないなぁ。ケロケロ。
「これから生まれてくる子孫が見られるように」
――今回の家族ストーリー(ファミリーヒストリー)を作った動機について、3世代の真ん中の息子さん(団塊ジュニア世代)は作品の最後でこんなメッセージを残しています。
彼の中にはあるべき家族の姿があった。しかし現実にはそれが叶わなかった。だからやっと安定し、幸福と言える現在の形を映像に残すことを思い立った――僕にはそう取れます。
世間一般の基準に照らし合わせれば、彼は家庭に恵まれなかった人に属するでしょう。かつて日本でよく見られた大家族、そして戦後の主流となった夫婦と子供数人の核家族。彼の中にはそうした家族像への憧れがあったのだと思います。
けれども大家族どころか、核家族さえもはや過去のものになっているのでないか。今回の映像を見ているとそう思えてきます。
団塊の世代の親、その子、そして孫(ほぼ成人)。
彼らは家族であり、互いに支え合い、励まし合いながら生きている。
けれど、その前提はあくまで個人。それぞれ個別の歴史と文化を背負い、自分の信じる幸福を追求する人間として生きている。
むかしのように、まず家があり、そこに血のつながりのある人間として生まれ、育つから家族になるのではなく、ひとりひとりの個人が「僕たちは家族だよ」という約束のもとに集まって愛情と信頼を持っていっしょに暮らす。あるいは、離れていても「家族だよ」と呼び合い、同様に愛情と信頼を寄せ合う。だから家族になる。
これからの家族は、核家族からさらに小さな単位に進化した「ミニマム家族」――「個の家族」とでもいえばいいのでしょうか。
比喩を用いれば、ひとりひとりがパソコンやスマホなどのデバイスであり、必要がある時、○○家にログインし、ネットワークし、そこで父・母・息子・娘などの役割を担って、相手の求めることに応じる。それによってそれぞれが幸福を感じる。そうした「さま」を家族と呼称する――なかなかスムーズに表現できませんが、これからはそういう家族の時代になるのではないでしょうか。
なぜなら、そのほうが現代のような個人主義の世の中で生きていくのに何かと便利で快適だからです。人間は自身の利便性・快適性のためになら、いろいろなものを引き換えにできます。だから進化してこられたのです。
引き換えに失ったものの中にももちろん価値があるし、往々にして失ってみて初めてその価値に気づくケースがあります。むかしの大家族しかり。核家族しかり。こうしてこれらの家族の形態は、今後、一種の文化遺産になっていくのでしょう。
好きか嫌いかはともかく、そういう時代に入っていて、僕たちはもう後戻りできなくなっているのだと思います。
将来生まれてくる子孫のために、自分の家族の記憶を本なり映像なりの形でまとめて遺す―― もしかしたらそういう人がこれから結構増えるのかもしれません。
2016・6・27 Mon
親子3世代の物語がやっと完成一歩手前まで来ました。
昨年6月、ある家族のヒストリー映像を作るというお仕事を引き受けて、台本を担当。
足掛け1年掛かりでほぼ完成し、残るはクライアントさんに確認を頂いて、最後にナレーションを吹き込むのみ、という段階までこぎつけたのです。
今回のこの仕事は、ディレクターが取材をし、僕はネット経由で送られてくるその音源や映像を見て物語の構成をしていきました。そのディレクターとも最初に1回お会いしただけでご信頼を頂いたので、そのあとはほとんどメールのやり取りのみで進行しました。インターネットがあると、本当に家で何でもできてしまいます。
ですから時間がかかった割には、そんなに「たいへん感」はありませんでした。
取材対象の人たちともリアルでお会いしたことはなく、インタビューの音声――話の内容はもとより、しゃべり方のくせ、間も含めて――からそれぞれのキャラクターと言葉の背景にある気持ちを想像しながらストーリーを組み立てていくのは、なかなかスリリングで面白い体験でした(最初の下取材の頃はディレクターがまだ映像を撮っていなかったので、レコーダーの音源だけを頼りにやっていました)。
取材対象と直接会わない、会えないという制限は、今までネガティブに捉えていたのですが、現場(彼らの生活空間や仕事空間)の空気がわからない分、余分な情報に戸惑ったり、感情移入のし過ぎに悩まされたりすることがありません。
適度な距離を置いてその人たちを見られるので、かえってインタビューの中では語られていない範囲まで自由に発想を膨らませられ、こうしたドキュメンタリーのストーリーづくりという面では良い効果もあるんだな、と感じました。
後半(今年になってから)、全体のテーマが固まり、ストーリーの流れが固まってくると、今度は台本に基づいて取材がされるようになりました。
戦後の昭和~平成の時代の流れを、団塊の世代の親、その息子、そして孫(ほぼ成人)という一つの家族を通して見ていくと、よく目にする、当時の出来事や風俗の記録映像も、魂が定着くした記憶映像に見えてきます。
これにきちんとした、情感豊かなナレーターの声が入るのがとても楽しみです。
2016・6・26 Sun
おもちペタペタ伊達男
今週日曜(19日)の大河ドラマ「真田丸」で話題をさらったのは、長谷川朝晴演じる伊達政宗の餅つきパフォーマンスのシーン。「独眼竜」で戦国武将の中でも人気の高い伊達政宗ですが、一方で「伊達男」の語源にもなったように、パフォーマーというか、歌舞伎者というか、芝居っけも方もたっぷりの人だったようです。
だから、餅つきくらいやってもおかしくないのでしょうが、権力者・秀吉に対してあからさまにこびへつらい、ペッタンコとついた餅にスリゴマを・・・じゃなかった、つぶした豆をのっけて「ずんだ餅でございます」と差し出す太鼓持ち野郎の姿に、独眼竜のカッコいいイメージもこっぱみじんでした。
僕としては「歴人めし」の続編のネタ、一丁いただき、と思ってニヤニヤ笑って見ていましたが、ファンの人は複雑な心境だったのではないのでしょうか。(ネット上では「斬新な伊達政宗像」と、好意的な意見が多かったようですが)。
しかし、この後、信繁(幸村=堺雅人)と二人で話すシーンがあり、じつは政宗、今はゴマスリ太鼓持ち野郎を演じているが、いずれ時が来れば秀吉なんぞ、つぶしてずんだ餅にしてやる・・・と、野心満々であることを主人公の前で吐露するのです。
で、これがクライマックスの関ヶ原の伏線の一つとなっていくわけですね。
裏切りのドラマ
この「真田丸」は見ていると、「裏切り」が一つのテーマとなっています。
出てくるどの武将も、とにかくセコいのなんのttらありゃしない。立派なサムライなんて一人もいません。いろいろな仮面をかぶってお芝居しまくり、だましだまされ、裏切り裏切られ・・・の連続なのです。
そりゃそうでしょう。乱世の中、まっすぐ正直なことばかりやっていては、とても生き延びられません。
この伊達政宗のシーンの前に、北条氏政の最後が描かれていましたが、氏政がまっすぐな武将であったがために滅び、ゴマスリ政宗は生き延びて逆転のチャンスを掴もうとするのは、ドラマとして絶妙なコントラストになっていました。
僕たちも生きるためには、多かれ少なかれ、このゴマスリずんだ餅に近いことを年中やっているのではないでしょうか。身過ぎ世過ぎというやつですね。
けれどもご注意。
人間の心とからだって、意外と正直にできています。ゴマスリずんだ餅をやり過ぎていると、いずれまとめてお返しがやってくるも知れません。
人間みんな、じつは正直者
どうしてそんなことを考えたかと言うと、介護士の人と、お仕事でお世話しているおじいさんのことについて話したからです。
そのおじいさんはいろんな妄想に取りつかれて、ファンタジーの世界へ行っちゃっているようなのですが、それは自分にウソをつき続けて生きてきたからではないか、と思うのです。
これは別に倫理的にどうこうという話ではありません。
ごく単純に、自分にウソをつくとそのたびにストレスが蓄積していきます。
それが生活習慣になってしまうと、自分にウソをつくのが当たり前になるので、ストレスが溜まるのに気づかない。そういう体質になってしまうので、全然平気でいられる。
けれども潜在意識は知っているのです。
「これはおかしい。これは違う。これはわたしではな~い」
そうした潜在意識の声を、これまた無視し続けると、齢を取ってから自分で自分を裏切り続けてきたツケが一挙に出て来て、思いっきり自分の願いや欲望に正直になるのではないでしょうか。
だから脳がファンタジーの世界へ飛翔してしまう。それまでウソで歪めてきた自分の本体を取り戻すかのように。
つまり人生は最後のほうまで行くとちゃんと平均化されるというか、全体で帳尻が合うようにできているのではないかな。
自分を大事にするということ
というのは単なる僕の妄想・戯言かも知れないけど、自分に対する我慢とか裏切りとかストレスとかは、心や体にひどいダメージを与えたり、人生にかなりの影響を及ぼすのではないだろうかと思うのです。
みなさん、人生は一度きり。身過ぎ世過ぎばっかりやってると、それだけであっという間に一生終わっちゃいます。何が自分にとっての幸せなのか?心の内からの声をよく聴いて、本当の意味で自分を大事にしましょう。
介護士さんのお話を聞くといろんなことを考えさせられるので、また書きますね。
2016/6/23 Thu
すぐれた小説は時代を超えて読み継がれる価値がある。特に現代社会を形作った18世紀から20世紀前半にかけての時代、ヨーロッパ社会で生まれた文学には人間や社会について考えさせられる素材にあふれています。
その読書を「死者との対話」と呼んだ人がいます。うまい言い方をするものだと思いました。
僕たちは家で、街で、図書館で、本さえあれば簡単にゲーテやトルストイやドストエフスキーやブロンテなどと向かい合って話ができます。別にスピリチュアルなものに関心がなくても、書き残したものがあれば、私たちは死者と対話ができるのです。
もちろん、それはごく限られた文学者や学者との間で可能なことで、そうでない一般大衆には縁のないことでしょう。これまではそうでした。しかし、これからの時代はそれも可能なことではないかと思います。ただし、不特定多数の人でなく、ある家族・ある仲間との間でなら、ということですが。
僕は父の人生を書いてみました。
父は2008年の12月に亡くなりました。家族や親しい者の死も1年ほどたつと悲しいだの寂しいだの、という気持ちは薄れ、彼らは自分の人生においてどんな存在だったのだろう?どんなメッセージを遺していったのだろう?といったことを考えます。
父のことを書いてみようと思い立ったのは、それだけがきっかけではありませんでした。
死後、間もない時に、社会保険事務所で遺族年金の手続きをする際に父の履歴書を書いて提出しました。その時に感じたのは、血を分けた家族のことでも知らないことがたくさんあるな、ということでした。
じつはそれは当り前のことなのだが、それまではっきりとは気が付いていませんでした。なんとなく父のことも母のこともよく知っていると思いすごしていたのです。
実際は私が知っているのは、私の父親としての部分、母親としての部分だけであり、両親が男としてどうだったか、女としてどうだったか、ひとりの人間としてどうだったのか、といったことなど、ほとんど知りませんでした。数十年も親子をやっていて、知るきっかけなどなかったのです。
父の仕事ひとつ取ってもそうでした。僕の知っている父の仕事は瓦の葺換え職人だが、それは30歳で独立してからのことで、その前――20代のときは工場に勤めたり、建築会社に勤めたりしていたのです。それらは亡くなってから初めて聞いた話です。
そうして知った事実を順番に並べて履歴書を作ったのですが、その時には強い違和感というか、抵抗感のようなものを感じました。それは父というひとりの人間の人生の軌跡が、こんな紙切れ一枚の中に納まってしまうということに対しての、寂しさというか、怒りというか、何とも納得できない気持ちでした。
父は不特定多数の人たちに興味を持ってもらえるような、波乱万丈な、生きる迫力に満ち溢れた人生を歩んだわけはありませんい。むしろそれらとは正反対の、よくありがちな、ごく平凡な庶民の人生を送ったのだと思います。
けれどもそうした平凡な人生の中にもそれなりのドラマがあります。そして、そのドラマには、その時代の社会環境の影響を受けた部分が少なくありません。たとえば父の場合は、昭和3年(1928年)に生まれ、平成元年(1989年)に仕事を辞めて隠居していました。その人生は昭和の歴史とほぼ重なっています。
ちなみにこの昭和3年という年を調べてみると、アメリカでミッキーマウスの生まれた(ウォルト・ディズニーの映画が初めて上映された)年です。
父は周囲の人たちからは実直でまじめな仕事人間と見られていましたが、マンガや映画が好きで、「のらくろ」だの「冒険ダン吉」だのの話をよく聞かせてくれました。その時にそんなことも思い出したのです。
ひとりの人間の人生――この場合は父の人生を昭和という時代にダブらせて考えていくと、昭和の出来事を書き連ねた年表のようなものとは、ひと味違った、その時代の人間の意識の流れ、社会のうねりの様子みたいなものが見えてきて面白いのではないか・・・。そう考えて、僕は父に関するいくつかの個人的なエピソードと、昭和の歴史の断片を併せて書き、家族や親しい人たちが父のことを思い起こし、対話できるための一遍の物語を作ってみようと思い立ちました。
本当はその物語は父が亡くなる前に書くべきだったのではないかと、少し後悔の念が残っています。
生前にも話を聞いて本を書いてみようかなと、ちらりと思ったことはあるのですが、とうとう父自身に自分の人生を振り返って……といった話を聞く機会はつくれませんでした。たとえ親子の間柄でも、そうした機会を持つことは難しいのです。思い立ったら本気になって直談判しないと、そして双方互いに納得できないと永遠につくることはできません。あるいは、これもまた難しいけど、本人がその気になって自分で書くか・・・。それだけその人固有の人生は貴重なものであり、それを正確に、満足できるように表現することは至難の業なのだと思います。
実際に始めてから困ったのは、父の若い頃のことを詳しく知る人など、周囲にほとんどいないということ。また、私自身もそこまで綿密に調査・取材ができるほど、時間や労力をかけるわけにもいきませんでした。
だから母から聞いた話を中心に、叔父・叔母の話を少し加える程度にとどめ、その他、本やインターネットでその頃の時代背景などを調べながら文章を組み立てる材料を集めました。そして自分の記憶――心に残っている言葉・出来事・印象と重ね合わせて100枚程度の原稿を作ってみたのです。
自分で言うのもナンですが、情報不足は否めないものの、悪くない出来になっていて気に入っています。これがあるともうこの世にいない父と少しは対話できる気がするのです。自分の気持ちを落ち着かせ、互いの生の交流を確かめ、父が果たした役割、自分にとっての存在の意味を見出すためにも、こうした家族や親しい者の物語をつくることはとても有効なのではないかと思います。
高齢化が進む最近は「エンディングノート」というものがよく話題に上っています。
「その日」が来た時、家族など周囲の者がどうすればいいか困らないように、いわゆる社会的な事務手続き、お金や相続のことなどを書き残すのが、今のところ、エンディングノートの最もポピュラーな使い方になっているようだ。
もちろん、それはそれで、逝く者にとっても、後に残る者にとっても大事なことです。しかし、そうすると結局、その人の人生は、いくらお金を遺したかとか、不動産やら建物を遺したのか、とか、そんな話ばかりで終わってしまう恐れもあります。その人の人生そのものが経済的なこと、物質的なものだけで多くの人に価値判断されてしまうような気がするのです。
けれども本当に大事なのは、その人の人生にどんな意味や価値があったのか、を家族や友人・知人たちが共有することが出来る、ということではないでしょうか。
そして、もしその人の生前にそうしたストーリーを書くことができれば、その人が人生の最期の季節に、自分自身を取り戻せる、あるいは、取り戻すきっかけになり得る、ということではないでしょうか。
♪赤い仮面は謎の人 どんな顔だか知らないが キラリと光る涼しい目 仮面の忍者だ
赤影だ~
というのは、テレビの「仮面の忍者 赤影」の主題歌でしたが、涼しい目かどうかはともかく、僕のメガネは10数年前から「赤影メガネ」です。これにはちょっとした物語(というほどのものではないけど)があります。
当時、小1だか2年の息子を連れてメガネを買いに行きました。
それまでは確か茶色の細いフレームの丸いメガネだったのですが、今回は変えようかなぁ、どうしようかなぁ・・・とあれこれ見ていると、息子が赤フレームを見つけて「赤影!」と言って持ってきたのです。
「こんなの似合うわけないじゃん」と思いましたが、せっかく選んでくれたのだから・・・と、かけてみたら似合った。子供の洞察力おそるべし。てか、単に赤影が好きだっただけ?
とにかく、それ以来、赤いフレームのメガネが、いつの間にか自分のアイキャッチになっていました。自分の中にある自分のイメージと、人から見た自分とのギャップはとてつもなく大きいもの。
独立・起業・フリーランス化ばやりということもあり、セルフブランディングがよく話題になりますが、自分をどう見せるかというのはとても難しい。自分の中にある自分のイメージと、人から見た自分とのギャップはとてつもなく大きいのです。
とはいえ、自分で気に入らないものを身に着けてもやっぱり駄目。できたら安心して相談できる家族とか、親しい人の意見をしっかり聞いて(信頼感・安心感を持てない人、あんまり好きでない人の意見は素直に聞けない)、従来の考え方にとらわれない自分像を探していきましょう。
・・・って、なんだか歌か小説のタイトルみたいですね。そうでもない?
ま、それはいいんですが、この間の朝、実際に会いました。ひとりでそそくさとベビーカーを押していた彼の姿が妙に心に焼き付き、いろいろなことがフラッシュバックしました。
BACK in the NEW YORK CITY。
僕が初めてニューヨークに行ったのは約30年前。今はどうだか知らないけど、1980年代のNYCときたらやっぱ世界最先端の大都会。しかし、ぼくがその先端性を感じたのは、ソーホーのクラブやディスコでもなでもなく、イーストビレッジのアートギャラリーでもなく、ブロードウェイのミュージカルでもなく、ストリートのブレイクダンスでもなく、セントラルパークで一人で子供と散歩しているパパさんたちでした。
特におしゃれでも何でもない若いパパさんたちが、小さい子をベビーカーに乗せていたり、抱っこひもでくくってカンガルーみたいな格好で歩いていたり、芝生の上でご飯を食べさせたり、オムツを替えたりしていたのです。
そういう人たちはだいたい一人。その時、たまたま奥さんがほっとその辺まで買い物に行っているのか、奥さんが働いて旦那がハウスハズバンドで子育て担当なのか、はたまた根っからシングルファーザーなのかわかりませんが、いずれにしてもその日その時、出会った彼らはしっかり子育てが板についている感じでした。
衝撃!・・というほどでもなかったけど、なぜか僕は「うーん、さすがはニューヨークはイケてるぜ」と深く納得し、彼らが妙にカッコよく見えてしまったのです。
そうなるのを念願していたわけではないけれど、それから約10年後。
1990年代後半の練馬区の路上で、僕は1歳になるかならないかの息子をベビーカーに乗せて歩いていました。たしか「いわさきちひろ美術館」に行く途中だったと思います。
向こう側からやってきたおばさんが、じっと僕のことを見ている。
なんだろう?と気づくと、トコトコ近寄ってきて、何やら話しかけてくる。
どこから来たのか?どこへ行くのか? この子はいくつか? 奥さんは何をやっているのいか?などなど・・・
「カミさんはちょっと用事で、今日はいないんで」と言うと、ずいぶん大きなため息をつき、「そうなの。私はまた逃げられたと思って」と。
おいおい、たとえそうだとしても、知らないあんたに心配されたり同情されたりするいわれはないんだけど。
別に腹を立てたわけではありませんが、世間からはそういうふうにも見えるんだなぁと、これまた深く納得。
あのおばさんは口に出して言ったけど、心の中でそう思ってて同情だか憐憫だかの目で観ている人は結構いるんだろうなぁ、と感じ入った次第です。
というのが、今から約20年前のこと。
その頃からすでに「子育てしない男を父とは呼ばない」なんてキャッチコピーが出ていましたが、男の子育て環境はずいぶん変化したのでしょうか?
表面的には イクメンがもてはやされ、育児関係・家事関係の商品のコマーシャルにも、ずいぶん男が出ていますが、実際どうなのでしょうか?
件のベビーカーにしても、今どき珍しくないだろう、と思いましたが、いや待てよ。妻(母)とカップルの時は街の中でも電車の中でもいる。それから父一人の時でも子供を自転車に乗せている男はよく見かける。だが、ベビーカーを“ひとりで”押している男はそう頻繁には見かけない。これって何を意味しているのだろう? と、考えてしまいました。
ベビーカーに乗せている、ということは、子供はだいたい3歳未満。保育園や幼稚園に通うにはまだ小さい。普段は家で母親が面倒を見ているというパターンがやはりまだまだ多いのでしょう。
そういえば、保育園の待機児童問題って、お母さんの声ばかりで、お父さんの声ってさっぱり聞こえてこない。そもそも関係あるのか?って感じに見えてしまうんだけど、イクメンの人たちの出番はないのでしょうか・・・。
2016年6月16日
インターネットの出現は社会を変えた――ということは聞き飽きるほど、あちこちで言われています。けれどもインターネットが本格的に普及したのは、せいぜいここ10年くらいの話。全世代、全世界を見渡せば、まだ高齢者の中には使ったことがないという人も多いし、国や地域によって普及率の格差も大きい。だから、その変化の真価を国レベル・世界レベルで、僕たちが実感するのはまだこれからだと思います。
それは一般によくいわれる、情報収集がスピーディーになったとか、通信販売が便利になったとか、というカテゴリーの話とは次元が違うものです。もっと人間形成の根本的な部分に関わることであり、ホモサピエンスの文化の変革にまでつながること。それは新しい民間伝承――フォークロアの誕生です。
“成長過程で自然に知ってしまう”昔話・伝承
最初はどこでどのように聞いたのか覚えてないですが、僕たちは自分でも驚くほど、昔話・伝承をよく知っています。成長の過程のどこかで桃太郎や浦島太郎や因幡の白ウサギと出会い、彼らを古い友だちのように思っています。
家庭でそれらの話を大人に読んでもらったこともあれば、幼稚園・保育園・小学校で体験したり、最近ならメディアでお目にかかることも多い。それはまるで遺伝子に組み込まれているかのように、あまりに自然に身体の中に溶け込んでいるのです。
調べて確認したわけではないが、こうした感覚は日本に限らず、韓国でも中国でもアメリカでもヨーロッパでも、その地域に住んでいる人なら誰でも持ち得るのではないでしょうか。おそらく同じような現象があると思います。それぞれどんな話がスタンダードとなっているのかは分かりませんが、その国・その地域・その民族の間で“成長過程で自然に知ってしまう”昔話・伝承の類が一定量あるのです。
それらは長い時間を生きながらえるタフな生命エネルギーを持っています。それだけのエネルギーを湛えた伝承は、共通の文化の地層、つまり一種のデータベースとして、万人の脳の奥底に存在しています。その文化の地層の上に、その他すべての情報・知識が積み重なっている――僕はそんなイメージを持っています。
世界共通の、新しいカテゴリーの伝承
そして、昔からあるそれとは別に、これから世界共通の、新しいカテゴリーの伝承が生まれてくる。その新しい伝承は人々の間で共通の文化の地層として急速に育っていくのでないか。そうした伝承を拡散し、未来へ伝える役目を担っているのがインターネット、というわけです。
ところで新しい伝承とは何でしょう? その主要なものは20世紀に生まれ、花開いた大衆文化――ポップカルチャーではないでしょうか。具体的に挙げていけば、映画、演劇、小説、マンガ、音楽(ジャズ、ポップス、ロック)の類です。
21世紀になる頃から、こうしたポップカルチャーのリバイバルが盛んに行われるようになっていました。
人々になじみのあるストーリー、キャラクター。
ノスタルジーを刺激するリバイバル・コンテンツ。
こうしたものが流行るのは、情報発信する側が、商品価値の高い、新しいものを開発できないためだと思っていました。
そこで各種関連企業が物置に入っていたアンティーク商品を引っ張り出してきて、売上を確保しようとした――そんな事情があったのでしょう。実際、最初のうちはそうだったはずです。
だから僕は結構冷めた目でそうした現象を見ていました。そこには半ば絶望感も混じっていたと思います。前の世代を超える、真に新しい、刺激的なもの・感動的なものは、この先はもう現れないのかも知れない。出尽くしてしまったのかも知れない、と……。
しかし時間が経ち、リバイバル現象が恒常化し、それらの画像や物語が、各種のサイトやYouTubeの動画コンテンツとして、ネット上にあふれるようになってくると考え方は変わってきました。
それらのストーリー、キャラクターは、もはや単なるレトロやリバイバルでなく、世界中の人たちの共有財産となっています。いわば全世界共通の伝承なのです。
僕たちは欧米やアジアやアフリカの人たちと「ビートルズ」について、「手塚治虫」について、「ガンダム」について、「スターウォーズ」について語り合えるし、また、それらを共通言語にして、子や孫の世代とも同様に語り合えます。
そこにボーダーはないし、ジェネレーションギャップも存在しません。純粋にポップカルチャーを媒介にしてつながり合う、数限りない関係が生まれるのです。
また、これらの伝承のオリジナルの発信者――ミュージシャン、映画監督、漫画家、小説家などによって、あるいは彼ら・彼女らをリスペクトするクリエイターたちによって自由なアレンジが施され、驚くほど新鮮なコンテンツに生まれ変わる場合もあります。
インターネットの本当の役割
オリジナル曲をつくった、盛りを過ぎたアーティストたちが、子や孫たち世代の少年・少女と再び眩いステージに立ち、自分の資産である作品を披露。それをYouTubeなどを介して広めている様子なども頻繁に見かけるようになりました。
それが良いことなのか、悪いことなのか、評価はさておき、そうした状況がインタ―ネットによって現れています。これから10年たち、20年たち、コンテンツがさらに充実し、インターネット人口が現在よりさらに膨れ上がれば、どうなるでしょうか?
おそらくその現象は空気のようなものとして世の中に存在するようになり、僕たちは新たな世界的伝承として、人類共通の文化遺産として、完成された古典として見なすようになるでしょう。人々は分かりやすく、楽しませてくれるものが大好きだからです。
そして、まるで「桃太郎」のお話を聞くように、まっさらな状態で、これらの伝承を受け取った子供たちが、そこからまた新しい、次の時代の物語を生みだしていきます。
この先、そうした現象が必ず起こると思う。インターネットという新参者のメディアはその段階になって、さらに大きな役割を担うのでしょう。それは文化の貯蔵庫としての価値であり、さらに広げて言えば、人類の文化の変革につながる価値になります。
2016年6月13日
ここのところ、雑誌の連載で地方のことを書いています。
書くときはまずベーシックな情報(最初のリード文として使うこともあるので)をインターネットで調べます。
これはウィキペディアなどの第3者情報よりも、各県の公式ホームページの方が断然面白い。自分たちの県をどう見せ、何をアピールしたいかがよくわかるからです。
なんでも市場価値が問われる時代。「お役所仕事云々・・・」と言われることが多い自治体ですが、いろいろ努力して、ホームページも工夫しています。
最近やった宮崎県のキャッチコピーは「日本のひなた」。
日照時間の多さ、そのため農産物がよく獲れるということのアピール。
そしてもちろん、人や土地のやさしさ、あったかさ、ポカポカ感を訴えています。
いろいろな人たちがお日さまスマイルのフリスビーを飛ばして、次々と受け渡していくプロモーションビデオは、単純だけど、なかなか楽しかった。
それから「ひなた度データ」というのがあって、全国比率のいろいろなデータが出ています。面白いのが、「餃子消費量3位」とか、「中学生の早寝早起き率 第3位」とか、「宿題実行率 第4位」とか、「保護者の学校行事参加率 第2位」とか・・・
「なんでこれがひなた度なんじゃい!」とツッコミを入れたくなるのもいっぱい。だけど好きです、こういうの。
取材するにしても、いきなり用件をぶつけるより、「ホームページ面白いですね~」と切り出したほうが、ちょっとはお役所臭さが緩和される気がします。
「あなたのひなた度は?」というテストもあって、やってみたら100パーセントでした。じつはまだ一度も行ったことないけれど、宮崎県を応援したくなるな。ポカポカ。
2016年6月12日
きのう6月10日は「時の記念日」でした。それに気がついたら頭の中で突然、サディスティック・ミカ・バンドの「タイムマシンにおねがい」が鳴り響いてきたので、YouTubeを見てみたら、1974年から2006年まで、30年以上にわたるいろいろなバージョンが上がっていました。本当にインターネットの世界でタイムマシン化しています。
これだけ昔の映像・音源が見放題・聞き放題になるなんて10年前は考えられませんでした。こういう状況に触れると、改めてインターネットのパワーを感じると同時に、この時代になるまで生きててよかった~と、しみじみします。
そしてまた、ネットの中でならおっさん・おばさんでもずっと青少年でいられる、ということを感じます。60~70年代のロックについて滔々と自分の思い入れを語っている人がいっぱいいますが、これはどう考えても50代・60代の人ですからね。
でも、彼ら・彼女らの頭の中はロックに夢中になっていた若いころのまんま。脳内年齢は10代・20代。インターネットに没頭することは、まさしくタイムマシンンに乗っているようなものです。
この「タイムマシンにおねがい」が入っているサディスティック・ミカ・バンドの「黒船」というアルバムは、1974年リリースで、いまだに日本のロックの最高峰に位置するアルバムです。若き加藤和彦が作った、世界に誇る傑作と言ってもいいのではないでしょうか。
中でもこの曲は音も歌詞もゴキゲンです。いろいろ見た(聴いた)中でいちばんよかったのは、最新(かな?)の2006年・木村カエラ・ヴォーカルのバージョンです。おっさんロッカーたちをバックに「ティラノサウルスおさんぽ アハハハ-ン」とやってくれて、くらくらっときました。
やたらと「オリジナルでなきゃ。あのヴォーカルとあのギターでなきゃ」とこだわる人がいますが、僕はそうは思わない。みんなに愛される歌、愛されるコンテンツ、愛される文化には、ちゃんと後継ぎがいて、表現技術はもちろんですが、それだけでなく、その歌・文化の持ち味を深く理解し、見事に自分のものとして再現します。中には「オリジナルよりいいじゃん!」と思えるものも少なくありません。(この木村カエラがよい例)。
この歌を歌いたい、自分で表現したい!――若い世代にそれだけ強烈に思わせる、魅力あるコンテンツ・文化は生き残り、クラシックとして未来に継承されていくのだと思います。
もう一つおまけに木村カエラのバックでは、晩年の加藤和彦さんが本当に楽しそうに演奏をしていました。こんなに楽しそうだったのに、どうして自殺してしまったのだろう・・・と、ちょっと哀しくもなったなぁ。
2016年6月11日
9日間にわたって放送してきた「歴人めし」は、昨日の「信長巻きの巻」をもっていったん終了。しかし、ご安心ください。7月は夜の時間帯に再放送があります。ぜひ見てくださいね。というか、You Tubeでソッコー見られるみたいですが。
https://www.ch-ginga.jp/movie-detail/series.php?series_cd=12041
この仕事では歴人たちがいかに食い物に執念を燃やしていたかがわかりました。 もちろん、記録に残っているのはほんの少し。
源内さんのように、自分がいかにうなぎが好きか、うなぎにこだわっているか、しつこく書いている人も例外としていますが、他の人たちは自分は天下国家のことをいつも考えていて、今日のめしのことなんかどうでもいい。カスミを食ってでの生きている・・・なんて言い出しそうな勢いです。
しかし、そんなわけはない。偉人と言えども、飲み食いと無関係ではいられません。 ただ、それを口に出して言えるのは、平和な世の中あってこそなのでしょう。だから日本の食文化は江戸時代に発展し、今ある日本食が完成されたのです。
そんなわけで、「おかわり」があるかもしれないよ、というお話を頂いているので、なんとなく続きを考えています。
駿河の国(静岡)は食材豊富だし、来年の大河の井伊直虎がらみで何かできないかとか、 今回揚げ物がなかったから、何かできないかとか(信長に捧ぐ干し柿入りドーナツとかね)、
柳原先生の得意な江戸料理を活かせる江戸の文人とか、明治の文人の話だとか、
登場させ損ねてしまった豊臣秀吉、上杉謙信、伊達政宗、浅井三姉妹、新選組などの好物とか・・・
食について面白い逸話がありそうな人たちはいっぱいいるのですが、柳原先生の納得する人物、食材、メニュー、ストーリーがそろって、初めて台本にできます。(じつは今回もプロット段階でアウトテイク多数)
すぐにとはいきませんが、ぜひおかわりにトライしますよ。
それまでおなかをすかせて待っててくださいね。ぐ~~。
2016年6月7日
信長が甘いもの好きというのは、僕は今回のリサーチで初めて知りました。お砂糖を贈答したり、されたりして外交に利用していたこともあり、あちこちの和菓子屋さんが「信長ゆかりの銘菓」を開発して売り出しているようです。ストーリーをくっつけると、同じおまんじゅうやあんころもちでも何だか特別なもの、他とは違うまんじゅうやあんころもちに思えてくるから不思議なものです。
今回、ゆかりの食材として採用したのは「干し柿」と「麦こがし(ふりもみこがし)」。柿は、武家伝統の本膳料理(会席料理のさらに豪華版!)の定番デザートでもあり、記録をめくっていると必ず出てきます。
現代のようなスイーツパラダイスの時代と違って、昔の人は甘いものなどそう簡単に口にできませんでした。お砂糖なんて食品というよりは、宝石や黄金に近い超ぜいたく品だったようです。だから信長に限らず、果物に目のない人は大勢いたのでしょう。
中でもは干し柿にすれば保存がきくし、渋柿もスイートに変身したりするので重宝されたのだと思います。
「信長巻き」というのは柳原尚之先生のオリジナル。干し柿に白ワインを染み込ませるのと、大徳寺納豆という、濃厚でしょっぱい焼き味噌みたいな大豆食品をいっしょに巻き込むのがミソ。
信長は塩辛い味も好きで、料理人が京風の上品な薄味料理を出したら「こんな水臭いものが食えるか!」と怒ったという逸話も。はまった人なら知っている、甘い味としょっぱい味の無限ループ。交互に食べるともうどうにも止まらない。信長もとりつかれていたのだろうか・・・。
ちなみに最近の映画やドラマの中の信長と言えば、かっこよくマントを翻して南蛮渡来の洋装を着こなして登場したり、お城の中のインテリアをヨーロッパの宮殿風にしたり、といった演出が目につきます。
スイーツ好きとともに、洋風好き・西洋かぶれも、今やすっかり信長像の定番になっていますが、じつはこうして西洋文化を積極的に採り入れたのも、もともとはカステラだの、金平糖だの、ボーロだの、ポルトガルやスペインの宣教師たちが持ち込んできた、砂糖をたっぷり使った甘いお菓子が目当てだったのです。(と、断言してしまう)
「文化」なんていうと何やら高尚っぽいですが、要は生活習慣の集合体をそう呼ぶまでのこと。その中心にあるのは生活の基本である衣食住です。
中でも「食」の威力はすさまじく、これに人間はめっぽう弱い。おいしいものの誘惑からは誰も逃れられない。そしてできることなら「豊かな食卓のある人生」を生きたいと願う。この「豊かな食卓」をどう捉えるかが、その人の価値観・生き方につながるのです。
魔王と呼ばれながら、天下統一の一歩手前で倒れた信長も、突き詰めればその自分ならではの豊かさを目指していたのではないかと思うのです。
2016年6月6日
「豊臣秀吉がまだ木下藤吉郎だったころ、琵琶湖のほとりに金目教という怪しい宗教が流行っていた・・・」というナレーションで始まるのは「仮面の忍者・赤影」。子供の頃、夢中になってテレビにかじりついていました。
時代劇(忍者もの)とSF活劇と怪獣物をごちゃ混ぜにして、なおかつチープな特撮のインチキスパイスをふりかけた独特のテイストは、後にも先にもこの番組だけ。僕の中ではもはや孤高の存在です。
いきなり話が脱線していますが、赤影オープニングのナレーションで語られた「琵琶湖のほとり」とは滋賀県長浜あたりのことだったのだ、と気づいたのは、ちょうど10年前の今頃、イベントの仕事でその長浜に滞在していた時です。
このときのイベント=期間限定のラジオ番組制作は、大河ドラマ「功名が辻」関連のもの。4月~6月まで断続的に数日ずつ訪れ、街中や郊外で番組用の取材をやっていました。春でもちょっと寒いことを我慢すれば、賑わいがあり、かつまた、自然や文化財にも恵まれている、とても暮らしやすそうな良いところです。
この長浜を開いたのは豊臣秀吉。そして秀吉の後を継いで城主になったのが山内一豊。「功名が辻」は、その一豊(上川隆也)と妻・千代(仲間由紀恵)の物語。そして本日の歴人めし♯9は、この一豊ゆかりの「カツオのたたき」でした。
ところが一豊、城主にまでしてもらったのに秀吉の死後は、豊臣危うしと読んだのか、関が原では徳川方に寝返ってしまいます。つまり、うまいこと勝ち組にすべり込んだわけですね。
これで一件落着、となるのが、一豊の描いたシナリオでした。
なぜならこのとき、彼はもう50歳。人生50年と言われた時代ですから、その年齢から本格的な天下取りに向かった家康なんかは例外中の例外。そんな非凡な才能と強靭な精神を持ち合わせていない、言ってみればラッキーで何とかやってきた凡人・一豊は、もう疲れたし、このあたりで自分の武士人生も「あがり」としたかったのでしょう。
できたら、ごほうびとして年金代わりに小さな領地でももらって、千代とのんびり老後を過ごしたかったのだと思います。あるいは武士なんかやめてしまって、お百姓でもやりながら余生を・・・とひそかに考えていた可能性もあります。
ところが、ここでまた人生逆転。家康からとんでもないプレゼントが。
「土佐一国をおまえに任せる」と言い渡されたのです。
一国の領主にしてやる、と言われたのだから、めでたく大出世。一豊、飛び上がって喜んだ・・・というのが定説になっていますが、僕はまったくそうは思いません。
なんせ土佐は前・領主の長曾我部氏のごっつい残党がぞろぞろいて、新しくやってくる領主をけんか腰で待ち構えている。徳川陣営の他の武将も「あそこに行くのだけは嫌だ」と言っていたところです。
現代に置き換えてみると、後期高齢者あたりの年齢になった一豊が、縁もゆかりもない外国――それも南米とかのタフな土地へ派遣されるのようなもの。いくらそこの支店長のポストをくれてやる、と言われたって全然うれしくなんかなかったでしょう。
けれども天下を収めた家康の命令は絶対です。断れるはずがありません。
そしてまた、うまく治められなければ「能無し」というレッテルを貼られ、お家とりつぶしになってしまいます。
これはすごいプレッシャーだったでしょう。「勝ち組になろう」なんて魂胆を起こすんじゃなかった、と後悔したに違いありません。
こうして不安と恐怖、ストレスで萎縮しまくってたまま土佐に行った一豊の頭がまともに働いたとは思えません。豊富に採れるカツオをがつがつ生で食べている連中を見て、めちゃくちゃな野蛮人に見えてしまったのでしょう。
人間はそれぞれの主観というファンタジーの中で生きています。ですから、この頃の彼は完全に「土佐人こわい」という妄想に支配されてしまったのです。
「功名が辻」では最後の方で、家来が長曾我部の残党をだまして誘い出し、まとめて皆殺しにしてしまうシーンがあります。これは家来が独断で行ったことで、一豊は関与していないことになっていますが、上司が知らなったわけがありません。
こうして不安と恐怖、ストレスで萎縮しまくってたまま土佐に行った一豊の頭がまともに働いたとは思えません。豊富に採れるカツオをがつがつ生で食べている連中を見て、めちゃくちゃな野蛮人に見えてしまったのでしょう。
人間はそれぞれの主観というファンタジーの中で生きています。ですから、この頃の彼は完全に「土佐人こわい」という妄想に支配されてしまったのです。
「功名が辻」では最後の方で、家来が長曾我部の残党をだまして誘い出し、まとめて皆殺しにしてしまうシーンがあります。これは家来が独断で行ったことで、一豊は関与していないことになっていますが、上司が知らなったわけがありません。
恐怖にかられてしまった人間は、より以上の恐怖となる蛮行、残虐行為を行います。
一豊は15代先の容堂の世代――つまり、250年後の坂本龍馬や武市半平太の時代まで続く、武士階級をさらに山内家の上士、長曾我部氏の下士に分けるという独特の差別システムまで発想します。
そうして土佐にきてわずか5年で病に倒れ、亡くなってしまった一豊。寿命だったのかもしれませんが、僕には土佐統治によるストレスで命を縮めたとしか思えないのです。
「カツオのたたき」は、食中毒になる危険を慮った一豊が「カツオ生食禁止令」を出したが、土佐の人々はなんとかおいしくカツオを食べたいと、表面だけ火であぶり、「これは生食じゃのうて焼き魚だぜよ」と抗弁したところから生まれた料理――という話が流布しています。
しかし、そんな禁止令が記録として残っているわけではありません。やはりこれはどこからか生えてきた伝説なのでしょう。
けれども僕はこの「カツオのたたき発祥物語」が好きです。それも一豊を“民の健康を気遣う良いお殿様”として解釈するお話でなく、「精神的プレッシャーで恐怖と幻想にとりつかれ、カツオの生食が、おそるべき野蛮人たちの悪食に見えてしまった男の物語」として解釈してストーリーにしました。
随分と長くなってしまいましたが、ここまで書いてきたバックストーリーのニュアンスをイラストの方が、短いナレーションとト書きからじつにうまく掬い取ってくれて、なんとも情けない一豊が画面で活躍することになったのです。
一豊ファンの人には申し訳ないけど、カツオのたたきに負けず劣らず、実にいい味出している。マイ・フェイバリットです。
2016年6月3日
歴人めし第7回は「徳川家康―八丁味噌の冷汁と麦飯」。
「これが日本人の正しい食事なのじゃ」と家康が言ったかどうかは知りませんが、米・麦・味噌が長寿と健康の基本の3大食材と言えば、多くの日本人は納得するのではないでしょうか。エネルギー、たんぱく質、ビタミン、その他の栄養素のバランスも抜群の取り合わせです。
ましてやその発言の主が、天下を統一して戦国の世を終わらせ、パックス・トクガワ―ナを作った家康ならなおのこと。実際、家康はこの3大食材を常食とし、かなり養生に努めていたことは定説になっています。
昨年はその家康の没後400年ということで、彼が城を構えた岡崎・浜松・静岡の3都市で「家康公400年祭」というイベントが開催され、僕もその一部の仕事をしました。
そこでお会いしたのが、岡崎城から歩いて八丁(約780メートル)の八丁村で八丁味噌を作っていた味噌蔵の後継者。
かのメーカー社長は現在「Mr.Haccho」と名乗り、毎年、海外に八丁味噌を売り込みに行っているそうで、日本を代表する調味料・八丁味噌がじわじわと世界に認められつつあるようです。
ちなみに僕は名古屋の出身なので子供の頃から赤味噌に慣れ親しんできました。名古屋をはじめ、東海圏では味噌と言えば、赤味噌=豆味噌が主流。ですが、八丁味噌」という食品名を用いれるのは、その岡崎の元・八丁村にある二つの味噌蔵――現在の「まるや」と「カクキュー」で作っているものだけ、ということです。
しかし、養生食の米・麦・味噌をがんばって食べ続け、健康に気を遣っていた家康も、平和な世の中になって緊張の糸がプツンと切れたのでしょう。
がまんを重ねて押さえつけていた「ぜいたくの虫」がそっとささやいたのかもしれません。
「もういいんじゃないの。ちょっとぐらいぜいたくしてもかまへんで~」
ということで、その頃、京都でブームになっていたという「鯛の天ぷら」が食べた~い!と言い出し、念願かなってそれを口にしたら大当たり。おなかが油に慣れていなかったせいなのかなぁ。食中毒がもとで亡くなってしまった、と伝えられています。
でも考えてみれば、自分の仕事をやり遂げて、最期に食べたいものをちゃんと食べられて旅立ったのだから、これ以上満足のいく人生はなかったのではないでしょうか。
2016年6月2日
絶好調「真田丸」に続く2017年大河は柴咲コウ主演「おんな城主 直虎」。今年は男だったから来年は女――というわけで、ここ10年あまり、大河は1年ごとに主人公が男女入れ替わるシフトになっています。
だけど女のドラマは難しいんです。なかなか資料が見つけらない。というか、そもそも残っていな。やはり日本の歴史は(外国もそうですが)圧倒的に男の歴史なんですね。
それでも近年、頻繁に女主人公の物語をやるようになったのは、もちろん女性の視聴者を取り込むためだけど、もう一つは史実としての正確さよりも、物語性、イベント性を重視するようになってきたからだと思います。
テレビの人気凋落がよく話題になりますが、「腐っても鯛」と言っては失礼だけど、やっぱ日曜8時のゴールデンタイム、「お茶の間でテレビ」は日本人の定番ライフスタイルです。
出演俳優は箔がつくし、ゆかりの地域は観光客でにぎわうって経済も潤うし、いろんなイベントもぶら下がってくるし、話題も提供される・・・ということでいいことづくめ。
豪華絢爛絵巻物に歴史のお勉強がおまけについてくる・・・ぐらいでちょうどいいのです。(とはいっても、制作スタッフは必死に歴史考証をやっています。ただ、部分的に資料がなくても諦めずに面白くするぞ――という精神で作っているということです)
と、すっかり前置きが長くなってしまいましたが、なんとか「歴人めし」にも一人、女性を入れたいということで、あれこれ調べた挙句、やっと好物に関する記録を見つけたのが、20082年大河のヒロイン「篤姫」。本日は天璋院篤姫の「お貝煮」でした。
見てもらえればわかるけど、この「お貝煮」なる料理、要するにアワビ入りの茶碗蒸しです。その記述が載っていたのが「御殿女中」という本。この本は明治から戦前の昭和にかけて活躍した、江戸文化・風俗の研究家・三田村鳶魚の著作で。篤姫付きの女中をしていた“大岡ませ子”という女性を取材した、いわゆる聞き書きです。
明治も30年余り経ち、世代交代が進み、新しい秩序・社会体制が定着してくると、以前の時代が懐かしくなるらしく、「江戸の記憶を遺そう」というムーブメントが文化人の間で起こったようです。
そこでこの三田村鳶魚さんが、かなりのご高齢だったます子さんに目をつけ、あれこれ大奥の生活について聞き出した――その集成がこの本に収められているというわけです。これは現在、文庫本になっていて手軽に手に入ります。
ナレーションにもしましたが、ヘアメイク法やら、ファッションやら、江戸城内のエンタメ情報やらも載っていて、なかなか楽しい本ですが、篤姫に関するエピソードで最も面白かったのが飼いネコの話。
最初、彼女は狆(犬)が買いたかったようなのですが、夫の徳川家定(13代将軍)がイヌがダメなので、しかたなくネコにしたとか。
ところが、このネコが良き相棒になってくれて、なんと16年もいっしょに暮らしたそうです。彼女もペットに心を癒された口なのでしょうか。
そんなわけでこの回もいろんな発見がありました。
続編では、もっと大勢の女性歴人を登場させ、その好物を紹介したいと思っています。
2016年6月1日
川沿いの道で長さ1メートルのヘビに遭遇。
青みを帯びた銀色に輝くボディのアオダイショウ。
カメラ目線をキメてくれた。
なかなかいい面構えでしょ?
神々しくて思わず手を合わせてしまった。
今年も残すところあと3カ月。
大将、よろしくたのんます。
ナマケモノもよろしくたのんます。
1965年にリリースされた「夢のカリフォルニア」は、
「東海岸(おそらくニューヨークを想定)は
どんより曇っていて寒いよ。
晴れててあったかいカリフォルニアに行きたいなぁ」
というかなり単純な歌だ。
けれども当時、カリフォルニア州にあるサンフランシスコ、
ロサンゼルスはヒッピー文化発祥の地。
愛と自由と平和について語り合おう、
ついでにセックスとドラッグもやっちまおう、
という精神的革命の波が押し寄せていた。
アメリカの若者のほとんどが
社会からドロップアウトするんじゃないかという
勢いさえ感じた。
そんな中で「夢のカリフォルニア」は
一種のメタファーと受け取られ、
どんより曇って寒い街は旧世界の象徴、
太陽輝くカリフォルニア
(サンフランシスコ、ロサンゼルス)こそ
われらが求める新世界――と解釈されたらしい。
と言ってもこの頃,
僕はまだ小学校に入ったばかりのガキで、
ヒッピーをリアルタイムで体験したわけではない。
後年、音楽雑誌などで当時のロック・フォークの先輩方が
「サマー・オブ・ラブ」やら「フラワーチルドレン」やらを
熱く語っているのをカッコイイなぁと思っただけだ。
そしてテレビの音楽番組で見た
1967年の「モンタレーポップフェスティバル」。
この曲を歌うママス&パパスを見て以来、
僕の中ではずっと「夢のカリフォルニア」は、
60年代のヒッピー文化の象徴として、
一種独特の響きを放っていた。
ママス&パパスはグループとしては
3年ほどしか活動していない。
他にもいくつかヒット曲はあるものの、
ほとんどこれ1曲で
1998年にロック殿堂入りを果たしたと言っていいだろう。
それほどあの時代とのマッチングは強烈だったのだ。
けれども、そろそろその幻想とも
別れを告げた方がいかもしれない。
そう思ったのは、ジャズシンガー、
ダイアナ・クラールが2015年にリリースした
カヴァーを聴いた時だった。
オリジナルのママス&パパスから60年。
言い表せない感慨が胸に広がった。
渋くてカッコよくて、
そしてあまりに懐かしさと哀愁に満ちた
「夢のカリフォルニア」。
秋の夜、聴きながら一杯飲まずにはいられない。
●夢のカリフォルニア/ダイアナ・クラール
何かを達成するのはクレイジーなエネルギーである。
フリッパ(離婚したシングルマザーの中年女性)は、
たまたま子どもの付きそいで
シェイクスピア作の「リチャードⅢ世」の舞台を見る。
それが彼女の人生を変えた。
リチャードⅢ世の霊が彼女にとりついた。
あの世からやってきたリチャードとの対話から
彼の遺骨が墓にも納められず埋もれ、
名誉を棄損されていることを知る。
そして8割方インスピレーションによって、
その遺骨の眠る場所を探り当てる。
こう書くと、荒唐無稽なオカルト映画、
あるいはインディー・ジョーンズのような
考古学者の冒険譚なのかと思うかもしれないが、
これは事実をもとに作られた映画である。
英国レスターにおいて
リチャードⅢ世の遺骨発掘が行われたのは、
わずか5年前。2,018年のこと。
国営放送BBCは、そのドキュメンタリーを作ったが、
それを劇映画化したもの。
脚色・演出はされているが、
ストーリー自体は事実そのもである。
主人公のフリッパは、
もともと考古学に縁もゆかりもないもない。
「リチャードⅢ世」は、知る人ぞ知る、
シェイクスピア劇の中でも屈指の人気を誇る作品だ。
リチャードがこの世を去って1世紀後、
シェイクスピアがその伝説をもとに造形したのが
せむしで醜く、心も歪み荒んだ極悪の王。
その残虐非道さ故、
英国歴代の正当な王とは認められていなかった。
しかし、リチャードの人柄と行為は、
彼のあとに政権を握った王朝が、
自らの正義を民衆に示すために捏造したものだった。
ちょうど明治政府が徳川幕府の政治を貶めたように。
江戸幕府の開幕時、
徳川家が豊臣家の影を消し去ったように。
フリッパはリチャード(の幻影)との対話と、
あくなき調査によってそのことを確信し、
遺棄された彼の遺骨のありかも突き止め、
孝行学者と大学を動かして発掘調査を行う。
あくまでドキュメンタリー風の作品なので、
ドキドキハラハラみたいなエンタメ感は乏しいが、
面白く、妙に感動的な映画だ。
フリッパの行動の動機は、
世紀の発見をして歴史を覆してやろうといった
崇高な目的や野心のためでもなく、
もちろん一発当ててやろうという金儲けや
損得勘定のためでもない。
本当に霊に取りつかれてしまったか、
リチャードに恋をしてしまったか、
要ははた目から見たらめっちゃクレイジーな熱意なのだ。
それでも元夫や子供たちは彼女を応援し支える。
あくまでドキュメンタリー風の作品なので、
ドキドキハラハラみたいなエンタメ感は乏しいが、
そうした家族愛もあり、面白く、妙に感動的な映画だ。
そしてもう一つ。
彼女が自分の発想で、単独で始めたことを、
世紀の大発見という成果が得られると、
ちゃっかりその手柄を横取りし、
自分たちの栄誉にしてしまおうとする
大学や学者の在り方も、
リチャードを貶めた次期王朝権力と重なって面白い。
歴史は常にその時々の勝者・成功者・権力者が
つくってきたものである。
僕たちが英雄と信じている人が、
とんでもない悪人や詐欺師だったり、
悪漢や愚者だと思っていた人が、
実は英雄だったりすることもある。
インターネットが発達した世の中では
そうした驚くべきどんでん返しも起こり得る。
世界はまだまだ神秘にあふれ、
変化していく可能性を孕んでいる。
歴史が深く、多彩な物語が眠る英国だから作り得た
と思われるこの映画は、
そんなことまで考えさせてくれる。
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峰不二子のモデルはマリアンヌ・フェイスフルだったとか、
「ベティ・デイビスの瞳」はもともとは
レトロジャズだったとか、
「チャイルド・イン・タイム」は実は反戦歌だったとか、
新発見がいっぱい。
卒業式ソングとして「今日の日はさようなら」を
紹介したけど、「わたしの学校では卒業式に〈誰かが風の中で〉を歌いました」なんてメールまでいただきました。
天涯孤独の木枯し紋次郎が卒業ソングとは、
なかなかワイルドな学校ですね。
来月はルー・リードの
「ワイルドサイドを歩け」を取り上げる予定です。
20世紀のポップミュージックが
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21世紀を生きていくために
ぜひとも懐メロを楽しく読み解いてみては?
この本はその参考書としてお役立ていただければ幸いです。
良い音楽、好きな音楽をあなたの人生のおともに。
1976年にリリースされたイーグルスのアルバム
「ホテルカリフォルニア」は、
数あるロッククラシックの中でも
指折りのレコード、名盤中の名盤として名高い。
特にアメリカにおける存在感は抜群だ。
かのアルバム、そして、イーグルスというバンドが
そこまで持ち上げられるのは、
アルバムの最後を締めくくるのがこの曲だから、
ではないかと想像する。
表題曲の「ホテルカリフォルニア」は
60年代ロックカルチャーの商業化・低俗化を
揶揄した歌だが、皮肉なことに彼ら自身が、
アメリカで最も商業的に成功したバンドの一つとなり、
矛盾を抱えたまま半世紀間、活動してきた。
トータルセールスは2億枚を超えると言われている。
「ザ・ラストリゾート」も
そんな大いなる矛盾を拡大したかのような、
アメリカという国そのもの、
現代の文明社会そのものを批判した歌だ。
♪They call it paradise, I don't know why
彼らはそこをパラダイスと呼ぶ 私には理由が分からない
歌詞のストーリーは開拓時代を歌ったもの。
大西洋を渡ってやってきた白人の入植者たちが
広大なフロンティアを「パラダイス」と呼び、
先住民を迫害し、野生動物を殺戮し、
山を森を切り開き、自然環境を破壊し、
自分たちの街を、国家を作り上げていった。
♪We satisfy our endless needs and justify our bloody deeds
私たちは果てしない欲望を満足させて
血まみれの悪行を正義とした
In the name of destiny and in the name of God
運命という名のもとに 神の名のもとに
さらにここが「The Last Resort(最後の楽園)」だとして、
海の向こうからどんどん移住者を呼び寄せ、
この世の楽園である近代国家を作り上げた。
実際、開国時代の冒険者・開拓者たちにとって、
その活動は神の導きによる愛と正義の表現だと
信じていたのだろう。
そして20世紀を迎えて間もなく、
アメリカは世界で最も富める国・力を持つ国となり、
金さえあればどんな夢でもかなう「楽園」となった。
けれども年月を経て、楽園を築いた人々の子どもたちは
考えざるを得なくなった。
「わたしたちはどこから来て、どこへ行くのか?」
そして過去を振り返り、違和感を覚えざるを得なくなった。
「わたしたちは正しかったのか?」と。
高校生だった70年代、僕は美しく抒情的な旋律を
楽しむだけだったが、
この「ザ・ラストリゾート」は、
表題曲「ホテルカリフォルニア」と対になって、
当時の心あるアメリカの若者たちの胸に
ギリギリと食い込んだのだろうと思う。
それから50年近くを経て、人々の意識は、
先住民の歴史やマイノリティの存在、人権の尊重、
破壊してしまった自然環境などにも
向けられるようになった。
もちろん、それがイーグルスの歌のおかげだとは言わない。
でも、当たり前のようにある豊かさが
過去のさまざまな犠牲によって育まれたものだと
気付かせるきっかけにはなったのではないか。
音楽は人の心を変える。
人の心が変われば世界が変わる。
たとえ少しずつでも――
まだそんなファンタジーを信じたいと思っている。
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収録曲
57 暗黒(スターレス)/キング・クリムゾン 【1974】
58 イッツ・ア・ミステリー/トーヤ 【1981】
59パッフェルベルのカノン/ジョージ・ウィンストン【1982】
60 オン・マイ・オウン/島田歌穂 【1987】
61 長い夜/シカゴ 【1970】
62 ケイト・ブッシュ・クリスマススペシャル 【1979】
63 ジェネシス・ライブ 【1973】
64 ビー・マイ・ベイビー/ザ・ロネッツ 【1963】
65 ジェイデッド/エアロスミス 【2001】
66 リヴィング・イット・アップ/リッキー・リー・ジョーンズ 【1981】
67 冬の散歩道/サイモンとガーファンクル 【1966】
68 ごはんができたよ/矢野顕子 【1980】
69 だれかが風の中で/上條恒彦&小室等 【1972】
70 ブロークン・イングリッシュ/マリアンヌ・フェイスフル 【1979】
71 アイビスの飛行/マクドナルド&ジャイルズ 【1971】
72 今日の日はさようなら/森山良子 【1967】
73 サマータイム・ブルース/RCサクセション 【1988】
74 タイム・アフター・タイム/シンディ・ローパー【1984】
75 ピアノマン/ビリー・ジョエル 【1973】
76 そよ風の誘惑/オリビア・ニュートン・ジョン 【1975】
77 ネバーエンディングストーリー/リマール 【1984】
78 アニバーサリー/松任谷由実 【1989】
79 あなたがここにいてほしい/ピンク・フロイド 【1975】
80 私は風/カルメン・マキ&OZ 【1975】
81 ヒート・オブ・ザ・モーメント/エイジア 【1982】
82 ベティ・デイビスの瞳/キム・カーンズ 【1981】
83 チャイルド・イン・タイム/ディープ・パープル【1970】
84 さよならレイニーステーション/上田知華+KARYOBIN
【1980】
全28曲
南池袋の仙行寺というお寺を取材する。
大樹を模したモダン建築の本堂ビル。
中には高さ6メートルの「池袋大仏」が鎮座。
隣は懐かしや、20代の頃、何度か通ったシアターグリーン。
渡辺えり子の劇団300、
三宅裕司のSET(スーパーエキセントリックシター)
などを輩出した小劇場だが、
ここは仙行寺が開設したもの。
お寺の劇場だったということを今回初めて知った。
先代住職がこの地に来たのは
終戦からまだ10年かそこらの時代。
池袋は闇市の街で、めっちゃ危険で汚く貧しく、
ヤクザ・愚連隊が夜な夜な跳梁跋扈する地域だった。
(僕が演劇学校に通っていた70年代末でも
その名残は色濃く感じられた)
当時、本堂もない貧乏寺だった仙行寺の先代住職は、
まず地域の環境をなんとかしないと
布教どころではないと考え、
隣の敷地に建てたアパートの集会室を
芝居の稽古場に、さらに設備を入れて
小劇場「池袋アートシアター」をオープン。
それがのちに「シアターグリーン」となり、
演劇をやる若者が集う場になった。
荒廃した池袋に文化のタネをまいたのである。
その後、池袋には西口の東京芸術劇場をはじめ、
様々な拠点ができ、
舞台芸術の花開く街に成長した。
20年近く前に改装して、複数の劇場を持つ
シアターコンプレックスになったシアターグリーンは、
日本で最も歴史ある小劇場として
リスペクトされている。
現・住職は改装後、支配人に就任。
演劇プロデューサーでもあり、
時代劇を描く脚本家でもある。
本人の話によれば、プロデューサーも脚本家も
お寺の活動の一環として自然にやっているという。
「じゃ、こんど若い坊さんだちを集めて、
ボーズ劇団をつくったらどうですか?」
と提案したら笑ってた。
仙行寺がやってきた地域活動・文化活動は
行政も高く評価しており、
仙行寺と劇場の並ぶ通りは
「シアターグリーン通り」と名付けられた。
僕が通っていた頃と比べても、
ごちゃごちゃしていたこのあたりの地域は
とてもきれいに整備され、
夜はエロくてヤバイ公園だった南池袋公園も
きれいな芝生の公園に生まれ変わっている。
いつもご愛読ありがとうございます。
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どうぞよろしく!
第3巻として♯57~♯84を収録。
もくじ
57 暗黒(スターレス)/キング・クリムゾン 【1974】
58 イッツ・ア・ミステリー/トーヤ 【1981】
59 パッフェルベルのカノン/ジョージ・ウィンストン 【1982】
60 オン・マイ・オウン/島田歌穂 【1987】
61 長い夜/シカゴ 【1970】
62 ケイト・ブッシュ・クリスマススペシャル 【1979】
63 ジェネシス・ライブ 【1973】
64 ビー・マイ・ベイビー/ザ・ロネッツ 【1963】
65 ジェイデッド/エアロスミス 【2001】
66 リヴィング・イット・アップ/リッキー・リー・ジョーンズ 【1981】
67 冬の散歩道/サイモンとガーファンクル 【1966】
68 ごはんができたよ/矢野顕子 【1980】
69 だれかが風の中で/上條恒彦&小室等 【1972】
70 ブロークン・イングリッシュ/マリアンヌ・フェイスフル 【1979】
71 アイビスの飛行/マクドナルド&ジャイルズ 【1971】
72 今日の日はさようなら/森山良子 【1967】
73 サマータイム・ブルース/RCサクセション 【1988】
74 タイム・アフター・タイム/シンディ・ローパー 【1984】
75 ピアノマン/ビリー・ジョエル 【1973】
76 そよ風の誘惑/オリビア・ニュートン・ジョン 【1975】
77 ネバーエンディングストーリー/リマール 【1984】
78 アニバーサリー/松任谷由実 【1989】
79 あなたがここにいてほしい/ピンク・フロイド 【1975】
80 私は風/カルメン・マキ&OZ 【1975】
81 ヒート・オブ・ザ・モーメント/エイジア 【1982】
82 ベティ・デイビスの瞳/キム・カーンズ 【1981】
83 チャイルド・イン・タイム/ディープ・パープル 【1970】
84 さよならレイニーステーション/上田知華+KARYOBIN 【1980】
義母がデイサービスに行っていないので、
昨日のリベンジでお祭りを見に行く。
一応、カミさんには声をかけてみたが、
「暑いからいかない」というお返事。
ま、わかってたので、仕事の合間に
ひとりでチャリチャリっと小一時間。
昨夜でハイライトであるお神輿の合同宮入りが終わり、
本日はエピローグモード。
あくまで印象だが、参道の露店は
コロナ前からだいぶ面子が変わった。
半分以上は変わって初出店みたいなところも多い。
値段も物価上昇の折、何割かアップ。
500円以下で飲み食いしたり、遊んだりできる店は
ほとんどない。
今年の正月は喪中だったので、久しぶりにお参りして、
幸福ガエルにもごあいさつしてきた。
帰りに川沿いをチャリチャリ走っていて、
何年もやっていた護岸工事がやっとこさ
終りかけているなぁと写真を撮っていたら、
後ろから「せんせー」と呼びかける声。
自転車とキックボードの高中小学生の女子集団が、
「大宮八幡へはどう行けばいいんですか?」
と聞いてくるので道を教えてあげた。
先生ってなんや?
でも、みんな可愛かったからうれしい。
心もドンヒャラお祭リベンジ。
電子書籍新刊予告
「週末の懐メロ第3巻」
9月20日(水)
kindeより発売予定!
おなじみの音楽エッセイ「週末の懐メロ」第3巻。
♯57:暗黒(スターレス)/キング・クリムゾンから♯84:さよならレイニーステーション/上田知華+KARYOBINまで
全28編を収録。
川沿いの散歩道に紅白の彼岸花が咲いた。
しかし、まだ真夏継続。
4年ぶりに大宮八幡宮のお祭りがまともに行われるので、
義母を連れていってあげようと思ったが、
(てか自分が行きたかったのだが)
猛暑の中、長時間(30分近くかかる)
歩かせるわけにいかない。
それにちょっと体力が落ちてきて
以前ほど、長い距離を歩けない。
というわけで今年はお祭り断念。
散歩道は木が多いので、夕方は結構涼しい風が吹くが、
蚊に食われまくる。
早く秋になってほしいが、
義母は一足早く食欲の秋モードに入って、
最近、深夜・早朝の盗み食いが激増。
ほぼ毎日、菓子パンを差し入れしている。
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「週末の懐メロ 第3巻」9月20日(水)発売予定。
20世紀ポップミュージックの回想・妄想・新発見!
主観9割・偏見まみれの音楽エッセイ。
昭和世代・20世紀世代はもちろん、若い世代のお宝発掘のためのガイドブックとしてもお楽しみください。
1巻・2巻も好評発売中。
1963年のヒット曲で、
60年代アメリカンポップスの人気ナンバー。
僕は四半世紀前に、ザ・ピーナッツを模した
双子の女の子歌手のショーの台本を頼まれて
書いたことがある。
彼女たちはオールディーズポップス
(50年代後半から60年代前半)
を歌うデュエットだったが、
最も得意としていたレパートリーが、
この「涙のバースディ・パーティ」だった。
その双子デュオの印象が残っているので、
「可愛い歌」「可愛い歌手」というイメージが強かったが、
この曲をヒットさせたレスリー・ゴアは、
ちょっときつそうなヤンキーねえちゃんという感じ。
中学の英語の教科書に出てくる
アメリカンファミリーのお母さんみたいな髪型を
していて、ちょっとおばさんっぽいのだが、
この頃はまだ10代だったという。
これはカバーだが彼女のデビュー曲で、
同時に、かの大プロデューサー、
クインシー・ジョーンズの若き日の
初プロデュース曲でもあった。
歌詞のストーリーは、
誕生日パーティーで恋人のジョニーがいなくなり、
一度消えて再び姿を現したジュディという女の子が
「彼の指輪をはめている」。
なんてこと!
それで「これは私のパーティー、泣きたくなったら泣くわ」
とリフレイン。
この時代の日本のレコード会社は、
女性歌手が歌っていれば、
内容に関わらず、なんでもかんでも
「悲しき○○」「涙の○○」「天使の○○」
という邦題をつけたがる傾向があった。
でもまぁ、この歌は確かに
「涙のバースディ・パーティ」だよねと納得。
女の子の失恋ソングだが、
クインシー・ジョーンズは、それを頭からノリノリの
明るいポップナンバーにアレンジ。
後世の人々が愛してやまない名曲に仕上げた。
ちなみに欧米でも、
誕生日をパーティーで祝う習慣が出来たのは、
20世紀に入ってからだという。
日本ではおそらく戦後から始まった習慣で、
まだ100年にもならない。
そう言えば僕も友だちが集まって
ワイワイやることはあったが、
家族に誕生日パーティーなんて
やってもらったことはなかった。
クリスマスとおんなじで、
「お誕生日おめでとう!」なんて言われると、
いまだにお尻がもぞもぞしてしまう。
明日9月15日は「老人の日」。
え、敬老の日じゃないの?
いえ、それは祝日法改正によって2003年(平成15年)から9月第3月曜日に変更された。
今年は来週月曜18日が「敬老の日」になる。単に3連休としか認識していない人も多いけど。
敬老の日は長寿を祝い、お年寄りを敬う日だけど、祝日から転落した「老人の日」は記念日として残されたのはいいけど、どんな役割を果たすのか?
超高齢社会の進展、100年ライフの浸透で、
老人の概念はこの20年の間にずいぶん変わった。
そもそも「老人」という言葉をあまり聞かなくなった。
今、高齢の人に「あなたは老人ですね」
なんて言ったらぶん殴られるかもしれない。
でも逆にじいさん・ばあさんが自分から
「おれはロージンだぜ」
「あたしゃロージンだよ」
なんて啖呵を切ったらカッコいいかもしれない。
この本のタイトルは、
かつて「さいたまゴールドシアター」という
高齢者劇団を率いた演出家・蜷川幸雄さんのセリフ。
ライフシフトの時代、
客観的年齢と主観的年齢は一致しない。
ロージンが舞台に立ち、スポットライトを浴びるのは
もう特別なことではなくなりつつある。
毎月13日は、6つの和食メーカーが制定した
「一汁三菜の日」。
「13」を分解して、いち、じゅう、さん。というわけ。
いろいろな料理を組み合わせて、
さまざまな栄養素がバランスよくとれる「一汁三菜」
(主食・汁物・主菜・副菜・副々菜)は
和食の基本形であるとともに、食事の理想形。
和食文化は2013年(平成25年)12月に
「和食:日本人の伝統的な食文化」として
ユネスコ無形文化遺産に登録され、
世界的にも注目されている。
とまか、そこまでしゃちほこはらないでも、
日本の食べ物は十分美味しく、
世界に自慢できるものばかり。
毎日コンビニ弁当を食ってても、
僕らは世界から「美食民族」と見做されているのだ。
そして本日のデザートには、
くだもの王国・岡山のお取引先から
いただいたブドウ。シャインマスカットとピオーネ。
おいしい秋到来で夏バテ撃退!
もう一つ、デザートにおいしく楽しく、
ちょいとスパイスを効かせた
「食べるエッセイ集」はいかが?
ただいま2冊刊行中。
京アニ放火殺人事件の初公判とジャニーズ事務所の
記者会見が話題になった今週。
会見を聞く限り、ジャニーズ事務所は
「児童虐待」「人権蹂躙」の深刻さが
イマイチわかっていない。
これは事務所だけではない。
先日、テレビがやっていた一般人への街頭アンケ―トでは
「べつに社名を変える必要はないんじゃね?」
という意見が圧倒的に多かった。
こういうところはやっぱり
日本は時代の進化・国際基準から取り残された
「ガラパゴス」と言われても仕方ない。
ジャニーズの歌やダンス、演技に関する技術は
日本のエンタメの世界では確かに
ハイレベル・ハイクオリティだと思うが、
ここまで問題が大きくなり、
改革案もあの程度の甘さで、
単なる精神論で乗り切ろうとしているのを見ると、
この先、海外進出は絶望的で、
ガラパゴスの中で生き延びるしかなさそうだ。
ファンもマスコミも、大勢保護者がついているので
当分の間はなんとかなるのかもしれないが、
なんだかこの半世紀余りの日本の芸能の歴史も
モヤモヤした暗闇に包まれて見えてくる。
京アニ事件の青葉被告も
虐待から生まれたモンスターだという。
彼は過酷な体験を克服するために
「自分はクリエイターである」という妄想に入り込み、
その妄想が行動原理になって
あんな大事件を起こしたのではないかと思われる。
「トラウマだの、アダルトチルドレンなどと
いった考え方にこだわるな。忘れろ」という人もいるが、
人はいくつになっても、
子ども時代の記憶を呼吸して生きている。
認知症にならない限り、死ぬまで。
いや、認知症になっても、それは心の芯に食い込んで
怒りや悲しみの言動となって現れる。
日本人はそうした認識がまだ全然足りない。
じつは欧米の方が、児童虐待に関しては先進国だ。
現在の資本主義社会の発達は、産業革命時代に
好きに子供を働かせ、虐待し、搾取したのが
要因になっているという一面がある。
そこでどうにか生き延びて大人になった
1~2割ぐらいの子どもたちが、
また同じことを繰り返して資本主義社会は巨大化してきた。
要するに労働者の子供は奴隷と同じだったのである。
欧米はどうやらそれを反省し、
今になってやっと児童虐待・人権を重視するようになった。
幕末から明治にかけて日本を訪れた欧米の知識人は、
日本人がとても子どもを可愛がるのを見て驚き、
「日本は妖精の国」という報告書を
本国に送った人もいるくらいだ。
だからと言って、
日本は「もともと悪いのはおまえらじゃん」
なんて、もちろん食って掛かるわけにはいかない。
資本主義の恩恵を賜って豊かになった以上、
そうした欧米の負の歴史も他人ごとでなく、
ちゃんと自分事として取り込んで変化して、
この先に進む必要があるのではないかと思う。
最寄り駅のホームから見える飲食店ビルの3階に
音楽バーがある。
その看板には「60年代・70年代のイカした音楽をアナタに」
とメッセージ。
これがなぜかいつも「イカれた音楽をアナタに」
と読めてしまうのだ。
つまり僕はイカした音楽よりも
イカれた音楽の方が好きなのだろう。
というわけで今日は抜群にイカれている
ロックの暴走列車、グランド・ファンク・レイルロード、
1973年の全米ナンバー1ヒット「WE are an American Band」。
GFRと言えば、かつてすごい伝説に包まれた
ハードロックの雄だった。
たとえばデビューの頃、
当時人気絶頂のレッド・ツェッペリンの前座を務めた際、
そのパワフルな演奏で観客を圧倒してアンコールの連続。
完全にツェッペリンを食ってしまった。とか、
1971年の初来日公演では後楽園球場
(現・東京ドーム、もちろんこの頃は屋根なし)で
雷鳴が響き、豪雨が降りしきる嵐の中で演奏し続けたとか。
僕の中学のロックの先輩たちにとって、
そんな伝説をつくり上げた英雄で、
ひたすらパワーで押しまくるGFRは、
今どきの表現ならまさしく「神バンド」で、
ハードロックと言えば、
クリームよりも、レッド・ツェッペリンよりも、
ブラック・サバスよりも、ディープ・パープルよりも、
まずグランド・ファンク・レイルロードだった。
そんなにすごかったバンドだが、
50年経ってみると、音楽的評価・格付け・知名度は、
完璧なロックレジェンドとして君臨する
レッド・ツェッペリンは別格としても、
上記のバンドよりだいぶ落ちると言わざるを得ない。
なんて言ってデイスったりすると、
「てめー、何言ってやがんだ」と
あの先輩方に怒られるかもしれないのでやめておこう。
僕自身もGFRはマイフェバリットとは言い難いが、
それまでの「ハートブレイカー」や「孤独の叫び」などの
シリアス路線から思い切り方向性を変えた
この「アメリカンバンド」は大・大・大好きだ。
誰もが楽しめる、底抜けに陽気でポップな
ハードロックの傑作。
聴けば聴くほどイカれた歌と演奏は最高だ。
天才少女ドラマーのよよかちゃんも
ノリノリでこの曲をやっている。
初めて観たのは、まだ5歳かそこらだったが、
どんどん成長してドラムもよりパワフルに。
楽しく、可愛く、世界へ羽ばたけ。
仕事が一段落し、しばし猛暑から解放されたので、
義母を連れて阿佐ヶ谷をぶらぶらしに行く。
アンティーク雑貨店のショーウィンドウに
全身アメリカンファッションのマネキンを見て、
義母と同い年(昭和10年=1935年生まれ)の
叔母のことを思い出した。
小学校の低学年の頃まで数年間、一緒に住んでいて、
甥である僕をずいぶん可愛がってくれた。
アメリカ大好きな人で、
結構ハイカラな考え方・ライフスタイルを持っている
叔母だった。
彼女がティーンエージャーだった時代、
日本はGHQ=ほぼアメリカの占領下だった。
ただし彼女が若い頃は、まともな日本人の女は、
もちろんこんな格好はできなかった。
GHQが去り、高度経済成長が始まって、
彼女は新しく生まれた自由な戦後世代を
羨望の目を持って見ていたイメージがある。
ガキだった僕を相手に
「わたしももう10年遅く生まれていれば・・・」と
呟いていたことをいまだに憶えている。
小学校の高学年になる頃には、
もう離れて住むようになっていたし、
両親もあまり彼女のことを話さなかったので、
その後の叔母の人生はよく知らない。
僕は漠然と、
いずれ彼女はアメリカに移住するのだろうと思っていたが、
まだ一般庶民がそう簡単に海外に行ける時代ではなかった。
その代り、というわけではないが、
中年になってちょっとお金持ちのおっさんの後妻になった。
その叔母は兄である父より先、15年ほど前に亡くなった。
亡くなった時は独身だった。
結婚はあまりうまくいかなかったのか?
その辺の事情は結局わかかずじまいだ。
わかっているのは彼女にとって、
憧れていたアメリカは最期まで遠い地だった、
ということだけだ。
自分も大人になってわかったが、
まだチビの甥や姪というのは、自分の息子・娘と違って、
割と無責任に甘やかし、可愛がれる、
オモチャやペットのような存在だ。
たぶん僕の中にはあの叔母に甘やかされたことが、
のちの女性観にも影響しているのではないかな、
と思うことがある。
思いがけず面影がよみがえったこの叔母の供養のために、
何か彼女をモデルにした話を書こうと思っている。
1989年リリース。90年代のダンスミュージックの女王・
リサ・スタンスフィールドの
デビューアルバム『アフェクション』の挿入歌。
「This Is The Right Time」や「All Around the World」が
大ヒットしたが、僕はこの歌が一等好きだった。
この頃は日本もバブル景気で大盛り上がりしていた時代で、
ディスコ(この頃はもうクラブって言い方をしてたっけ?)でも、こうしたゴージャス、かつ、
お洒落なダンスミュージックが本流だった。
今振り返って聴いてみると、
僕らがよく踊っていた70年代・80年代より
同じR&B系の曲でも格段に洗練され、
ダンサブルになっていた。
それが好きかどうかは、また別問題だけど。
ただ、リサ・スタンスフィールドはとにかくカッコよくて、
CDも買ってよく聴いていた。
こうしてライブを見ると、バックの演奏も最高だ。
ディスコ(クラブ)に通ったのは、この頃までだった。
芝浦の「GOLD」が最後だったように記憶している。
バブルとともに去りぬ、というところか。
29日から3日間、東京ビッグサイトで
「エンディング産業展2023」の取材をした。
インパクティブだったのは、有限会社統美のブース。
納棺師が使う保存用品・メイク用品などを開発・販売。
「人は死んだら(遺体は)どうなるか」を
ユニークなイラストで表現し、来場者に伝えている。
本来、葬儀・供養業者向けのビジネスイベントだが、
半分は、介護・看護・終活・空き家・遺品・相続など、
ソーシャル系問題のソリューション提案。
超高齢化社会、多死社会が進み、
人は嫌でも向き合わなくてはならない時代になった。
日本のエンディング産業は、世界でも注目されており、
今回の展示会には中国・台湾・韓国などから
視察隊が大勢来ていた。
ちなみに中国では近年、2008年の映画
「おくりびと」がリバイバルヒットしており、
「納棺の儀」などにも興味が集まっている。
日本だけでなく、多くの豊かな国が
老いと死の問題に直面しつつある。
夏目漱石の「坊ちゃん」を初めて読んだのは
小4か小5のときだった。
以来、何度か読んで、
最後はいつだったのか思い出せないが、
多分、高校生の時以来だろう。
ご存じ、江戸っ子口調の名調子。
これほど痛快で印象的な一人称の語り口は、
この作品とサリンジャーの
「ライ麦畑でつかまえて」ぐらいだ。
図書館のヤングアダルト文庫の棚で
ふと目にすると、あのべらんめえ文体が脳裏によみがえり、
手に取って読みたくなったのだ。
★なぜマドンナが表紙を飾るのか?
表紙にはマンガっぽいイラストで
主人公の坊ちゃんとマドンナが描かれている。
近年、なぜか「坊ちゃん」というと
表紙にマドンナが登場するパターンが多い。
内容を知らない人、
あるいは昔読んだがよく憶えていないという人は、
赴任先の松山で、名家のお嬢さんであるマドンナと
坊ちゃんが出会い、憧れ、恋をする、
というストーリーを思い描くかと思う。
ところがこれはまったくの誤解で、
主人公はマドンナに何の感情も持たない。
むしろ「うらなりから赤シャツに寝返った女」として
あまり良い感情を抱かないと言ってもいいぐらいだ。
出版社は「明治の青春小説」と銘打っているし、
明治ファッションの女性は飾りになるので、
ほとんど活躍の場がないマドンナを
表紙に載せたがるのだろう。
誤解するのは読者の勝手というわけだ。
昭和以降、特に戦後の青春小説・青春マンガには
この「マドンナ」という、男の女性幻想をかたちにした
偶像が頻繁に登場するようになった。
果ては歌謡曲のタイトルになったり、
アメリカの歌手が自分でそう名乗ったりしたので、
一般的にすっかり定着したが、
明治の頃は西洋画に精通した人以外、
マドンナなんて初めて聴く言葉で、
意味など知らないという人が大半だったと思われる。
だから日本人にマドンナの
「聖母・聖女=清く、美しく、愛し尊敬すべき女性」という
イメージを植え付けたのは、
漱石作品の中でも最も人気が高い
この小説だと言っても過言ではないだろう。
★マドンナは清さん
しかし、この定義からすれば、
坊ちゃんから見るマドンナは、
子供の頃から可愛がってくれ、
惜しみない愛情で支えてくれた清さんの方である。
そう言えば、僕が小学生の時に初めて読んだ本の表紙には、
坊ちゃんが見上げる空の向こうには、
ちょっとだけ微笑む和服姿の清さんが描かれていた。
しかし、清さんは若くてきれいなお嬢様ではなく、
坊ちゃんの家の下女、住み込みのお手伝いさんで、
しかもけっこう年寄りである。
この小説の登場人物は、主人公をはじめ、
一人も年齢が特定されていないが、
物語の舞台が発表時の
明治39年(1906年)あたりだとすると、
ほとんどは明治生まれ・明治育ちの人たちである。
ただ一人、清さんは明治維新を体験した人だ。
武士の名家の出身らしいが、
「瓦解(明治維新)の時に零落して、
ついに奉公までするようになった」というから、
おそらく50代後半~60代前半である。
いまと違ってもう立派なお婆さんだ。
しかも人生の辛酸をなめた元・お嬢さまの。
子ども頃から可愛がってもらっているのだから、
母や祖母のように慕うのはわかるが、
坊ちゃんの清さんへの感情は、
そうした家族に対するものとはまたちょっと違う。
さりとて恋愛でもない。
もっと齢が近ければ、そうなり得たかもしれないが、
あまり生々しさを伴わない、尊敬の念を交えた、
女性という偶像に対する愛情が混じっている。
子供の頃は母以上に彼を可愛がった清さんは
坊ちゃんの将来に夢を託し、
おとなになったら面倒を見てもらおうと思っている。
そういう意味では彼女の愛もけっして純粋なものではなく、
ギブアンドテイクの関係と言えなくもない。
ただし、成長した坊ちゃんは、
自分に期待を託す彼女の言うことは、かなりおかしく、
贔屓の引き倒しで、現実離れしていることに気付く。
「こんな婆さんに逢ってはかなわない。
自分の好きな者は必ずえらい人物になって、
嫌いな人はきっと落ちぶれるものと信じていた」
「婆さんは何も知らないから、年さえとれば
兄の家がもらえると信じている」
「(学校を)卒業すれば金が自然とポケットの中に
湧いてくると思っている」
などと冷静に分析し、
“もとは身分のある者でも、
教育のない婆さんだから仕方がない”清さんの
無知ぶり・夢みる少女ぶりにあきれ果てている。
それでも坊ちゃんは清さんを嗤ったりは絶対しない。
彼にとって、知識量・情報量は、
人間的な価値とは決して比例しないのだ。
子供の頃、読んだときは気が付かなったが、
この二人のやりとりは本当に面白く、笑えて哀しく、
清さんはめっちゃ可愛い。
松山で教職に就き、不快な目に会うたびに坊ちゃんは、
そんな清さんの人間的な気品・尊さに思いを巡らせるが、
痛快なストーリーの裏側で、
こうした女性への愛とリスペクトの念があるからこそ、
この小説を単なる面白ばなしでなく、
奥行きと味わいの深いものにしている。
★時代に取り残される坊ちゃん
「坊ちゃん」の読み方の一つとして、
「時代に適応できる者とできない者の物語」
という視点がある。
前者は、話の中で悪人とされる赤シャツや野だいこであり、
後者はとっちめる側の正義の坊ちゃんや山嵐だ。
マドンナも、坊ちゃんからは
うらなりから赤シャツに寝返った、
およそマドンナらしくない女と見做されるが、
彼女は若かりし頃の清さんと同じ立場にある。
この時代の女性の社会低地位は低く、
生き方は今と比較にならないほど制限されていた。
没落寸前の名家の娘として、
いくら身分があるとはいえ、
世渡り下手・自己主張ベタ・まじめなだけで面白くない
許嫁のうらなりよりも、
既に教頭職を得て、将来有望、しかも話術に長けていて
楽しませてくれそうな赤シャツのほうになびくのも
しかたがないところだろう。
下手をすれば清さんと同じく、
零落の道に転がり落ちることになるので必死なのだ。
マドンナとあだ名をつけられて、
男性の夢を壊さないよう、ホホホとおとなしく
笑っているわけにはいかない。
マドンナファンには申し訳ないが、
もしかしたら、彼女の方が赤シャツに目を付け、
誘ったのではにかとさえ思える。
楽しくて痛快な「坊ちゃん」だが、
この明治後期、時代は変わり、
価値観も急速に変わっていた。
よく読むと、それを表現するかのように、
この物語は別れの連続だ。
母が死に、父が死に、生れ育った家は人手にわたり、
兄とも別れ、いわば天涯孤独の身の上になる。
松山ではうらなり(坊ちゃんは彼を人間的に
上等と評価している)を見送り、
赤シャツ・野だいこを叩きのめして訣別するが、
相棒で親友になった山嵐とは新橋で別れる。
ちなみに幕府軍として
明治政府と最後まで戦った会津出身の山嵐は、
江戸時代のサムライ精神の象徴とも取れる。
そして帰って来た彼を涙ながらに出迎えてくれた
マドンナ清さんも、
それからいくらも経たないうちに肺炎で死んでしまう、
坊ちゃんは本当にひとりぼっちになってしまうのだ。
★坊ちゃんは何歳なのか?
今回、読み返してみて、最大の疑問として残ったのは、
この物語を語っている時の坊ちゃんは、
いったい幾つなのだろうということ。
東京に帰って来た彼は街鉄(電車)の技手になり、
清さんと一緒に暮らし始めたもののが、
最後に清さんは「今年の2月に死んでしまった」とある。
ニュアンス的に、仕事に慣れ、生活も落ち着いてきた矢先に
亡くなってしまったと読めるから、
新しい仕事に就いてから1,2年後くらいだろうか。
そしてそれから半年ほど経ってから、
自分の人生を振り返った時、
松山での経験と、清さんという存在の大きさを
語ってみたくなったということだろう。
だとしても、坊ちゃんはまだ20代の溌剌とした若者だ。
その後、彼がどうしたのか、
兄や山嵐と再会する機会はあったのか、
結婚して家庭を持ったのか、興味津々である。
でもきっと、どれだけ年をとっても
この物語のような名調子は消えなかっただろう。
坊ちゃんという人物は、時代に適応できない者の代表格で、
自分の価値観に固執するあまり、教職を失ったが、
それでも新しい職を得て、一人でも生きる道を見出した。
★死ぬまで続く名調子
この頃と同じく、
最近も時代に合わせる
必要性・適応する柔軟性が強調されるが、
人間だれしも、
生まれながらの「自分のリズム」を持っている。
それをないがしろにして、周囲に合わせようとすると、
やっぱりろくなことにならないのではないか。
たとえ得になる生き方だとしても、
損をしない人生だとしても、
それが自分のリズム・語り口・文体と相いれないものなら
気持ち悪くて、長続きなどしない。
世間に通用してもしなくても、
坊ちゃんのように自分のべらんめえを並べ立てて
生き抜いた方がうんと気持ちいいのではないだろうか。
気分が凹んだときの活力剤として、
「坊ちゃん」は、はるか1世紀を超えた過去から
今でも僕たちにいろんなことを教えてくれていると思う。
いつの間にか、日が短くなり、
朝晩はマツムシが鳴いているのに気付く。
今年も淡々と夏を過ごして
特に思い出に残るようなことはしていないが、
なぜか夏の終わりになると、
いろいろな感情が心のうちに押し寄せてくる。
1970年リリース、サンタナの名盤「天の守護神」の挿入歌。
オリジナルはニューヨーク出身の音楽家で「マンボの王様」
と言われたティト・ブエンテの楽曲。
ジャンルとしてはキューバ発祥の音楽
チャチャチャの曲だったが、
サンタナが斬新なアレンジを施してカバー。
ラテンロックという新たなジャンルの代表曲として、
世界中で聴かれるようになった。
サンタナは、ギタリスト
カルロス・サンタナをリーダーとするバンド名だが、
このグループの楽曲には思い出がある。
初めて東京に出てきた1978年の夏から秋にかけて、
生まれて初めて水商売のバイトをした。
池袋西口の繁華街・ロマンス通りの「ロサ会館」
というビルの地下にあった「サムシング」という店だ。
当時はバーでもスナックでも、
店にウィスキーのボトルをキープ(マイボトル)することで
自分の行きつけの店を作り、というか、
店側のシステムに乗っけられて酒を飲むのがトレンドだった。
なので酒飲みのおっさんたちはみんな、
自分がどれだけマイボトルを持っているか
自慢し合っていた。
ここもそうしたボトルキープの店で、
僕は黒服を着てウェイターをやっていたが、
あまり水商売らしくない店長と、
いかにも水商売やってます風の副店長と、
キツネ型とタヌキ型の女の子コンビと、
5人で回す日が多かった。
マイボトルに関する裏話は面白いが、
またの機会に。
名称はパブ「サムシング」。
パブと言っても英国のパブとは大違いで、
ちょっとした食事もできる、
やや大きめのバーのことを
当時の日本ではそう呼んでいたのだ。
特徴としては、ディスコというほどではないが、
10人程度なら踊れる、ミラーボール付きの
小さなダンスホールがあった。
何と言っても70年代、昭和後期の池袋なので、
ちょっと怪しい客が多く、
この店には演歌の世界に出てくるような
わけありカップルが大勢来ていて、
よくチークダンスを踊っていた。
女を酔っぱらわせて、そのまんま近所のラブホに
連れ込む男もほぼ毎日いたと記憶している。
もう一つの特徴は、専属のバンドがいて、
30分おきに生演奏を披露していたこと。
このバンドのレパートリーの半分くらいがサンタナだった。
この曲を初め、
「君に捧げるサンバ」「ブラックマジックウーマン」
「哀愁のヨーロッパ」(チークタイムの定番!)などを
いつも演奏しており、未だに耳に残っている。
なのでサンタナを聴くと、あの店の客やスタッフのこと、
そこで起こったいろいろな出来事を思い出すのだ。
働いていたのは3カ月か4ヵ月程度だったが、
いろいろ社会勉強・人生勉強をさせてもらって、
今では感謝の気持ちを持って思い出す。
というわけで、
実際のサンタナとは全然ちがう話になってしまったが、
この映像はオンラインで世界各地の音楽家を結ぎ、
みんなで名曲を協奏するというプロジェクト
「プレイング・フォー・チェンジ」によるバージョン。
サンタナのロックテイストにプラス、
オリジナルであるチャチャチャのニュアンスも
色濃く出ていて、めっちゃカッコいい。
「僕のリズムを聴いとくれ」という邦題がぴったりだ。
もちろん、南国の空に響き渡る
カルロス・サンタナのギターソロは圧巻。
あのサムシングのバンドリーダーは、
今もまだサンタナを聴いてギターを弾いているのだろうか?
17日間連続となった夏休み無料キャンペーンは
本日16時を持って無事終了。
ご購入いただいた方々、ありがとうございました。
よろしければレビューをお寄せください。
今後も月1ペースでKindleで小説・エッセイを
UPしていく予定です。
今後ともよろしくお願いいたします。
夏はまだまだto be continue。
岡山県真庭市・湯原温泉郷の「はんざき祭り」は、
本日が本祭。
「ハンザキを喰った話」なんて本を書いていたのに、
こんなお祭りが60回も行なわれてるなんて、
ついこの間までちーとも知らなかった。
ちなみに本来は8月7日が前夜祭、8日が本祭。
今年は台風接近のリスクを避けて日程を変更した。
今年は無理だったが、いつか行きたい。
ハンザキ愛にあふれた湯原温泉郷の人たちのお話を
ぜひ聞いてみたいと思う。
じつは「ハンザキを喰った話」は、
岡山でなく他県のハンザキ生息地の人のお話を
モチーフに書いた。
どう見てもグロいとしか思えない地球最大の両棲類だが、
日本各地において、その“グロかわいさ”は
時代を超えた人気を獲得し、
歌に、キャラクターに、お土産物に、お祭りに
大活躍している。
まさに日本の誇り、日本の宝。
そしてどこかSDG'sのシンボルのようにさえ見え、
世界中から愛される勢いさえ感じられる。
これからの時代、ますます
ハンザキ、ハンザケ、オオサンショウウオに注目だ。
はんざき祭り開催につき、さらに延長
親子で読もう!
夏休み無料キャンペーン最終弾
ハンザキを喰った話
8月24日(木)15:59まで
オオサンショウウオに変態した100歳の発明家をめぐる怪異幻想譚。
岡山県真庭市・湯原温泉はんざき祭り開催につき、
さらに延長
親子で読もう!夏休み無料キャンペーン最終弾
ハンザキを喰った話
8月22日(火)16時~8月24日(木)15:59まで
ハンザキに変態した発明家をめぐる怪異幻想譚。
はんざき祭りは本日前夜祭。明日本祭。
光り輝く黄金のハンザキが温泉街を練り歩く!
認知症、あるいは認知症介護が
現実のものになると人生観が変わる。
先日、「回想療法士」を取材した。
回想療法とは古い写真などを見て、
認知症患者、また認知症でなくても元気のない高齢者と
いっしょに思い出を共有するというメソッド。
通信講座で取れる民間の認定資格だが、
ルールを覚えればそう難しいものでもなく、
たとえばカラオケで懐メロを歌うだけでも
回想療法になるらしい。
ただし療法といっても、これで認知症が治るわけではない。
予防になったり、
軽度の段階なら進行を遅らせることは可能らしく、
その辺もまだ研究の最中ということだ。
僕が取材した人たちは回想療法を活かした
商品を作っているのだが、
病院や介護施設の一部でも活用されているらしい。
ちょっと前まで認知症は、痴呆症、老人ボケなどと言われ、
これになったら半死人、ほとんど廃人みたいな扱いだった。
そうした認識がこの10年ほどの間に激変した。
理由は簡単で、当事者、
つまり自分ごとと考える人が増えたからだ。
他人ごとのうちはボケとか軽口を叩いたり、
廃人扱いしても心が痛むことなどなかったが、
身内や大切な人が発症して介護者になったり、
自分自身もなるかもと考えると、そうはいかない。
いまや認知症はポピュラーになり、
嫌な言い方かも知れないが、
多くの人のビジネスのネタになるようになった。
認知症をネタにした本を書いている僕も
その一人といえる。
次の段階としては、これからまだまだ増えるであろう
認知症患者を、どう役に立つようにするかが、
大きな社会課題になっていくだろう。
親子で読もう!
夏休み無料キャンペーン第6弾
ざしきわらしに勇気の歌を
8月22日(火)16時59分まで
認知症になった寅平じいさんの人生最後のミッション。それは最強の妖怪「むりかべ」に立ち向かうざしきわらしのきょうだいを得意の歌で応援することだった。笑ってちょっと不思議な気持ちになる、妖怪幻想譚。
好評につき延長
親子で読もう!夏休み無料キャンペーン第6弾
「ざしきわらしに勇気の歌を」
8月20日(日)17時~8月22日(火)16時59分まで
認知症になった寅平じいさんの人生最後のミッション。
それは最強の妖怪「むりかべ」に立ち向かう
ざしきわらしのきょうだいを
得意の歌で応援することだった。
笑ってちょっと不思議な気持ちになる、妖怪幻想譚。
1979年、オンシアター自由劇場が上演した音楽劇
「上海バンスキング」のテーマ曲。
昭和10年代(1930年代後半から40年代前半)の
上海租界を舞台に、
享楽的に生きるジャズマンをめぐる物語で、
劇中演奏されるのはジャズのオールドナンバーだが、
オープニングとクロージングを飾るこの曲はオリジナル。
主人公のまどか役で歌手の吉田日出子は
小劇場界では名の知れた魅力的な女優だったが、
この芝居まで歌手としての経験はほとんどなかった。
また、ジャズマンたちも串田和美(シロー)や
笹野高史(バクマツ)をはじめ、楽器は素人同然。
にもかかわらず、演奏はノリにノってて素晴らしかった。
それはもちろん、この物語がとてつもなく面白く、
感動的だったからである。
僕は「上海バンスキング」の初演を見た。
当時、オンシアター自由劇場の拠点劇場は、
外苑東通りと六本木通り(首都高3号)とが交わる
六本木交差点からすぐ近くの雑居ビルの地下にあった。
キャパ100人の小さな劇場(というよりも芝居小屋)には
観客が溢れかえり、
広さ8畳程度の狭い舞台には、
主演級の他、楽器を携えた楽団員役を含め
20人を超えるキャストが出入りして熱演した。
あんな狭いところでいったいどうやっていたのか、
思い出すと不思議で仕方がない。
舞台となるのは、まどかとシロー夫妻の家の広間だが、
舞台セットなどは椅子とテーブルがあるだけ。
そこが突如ジャズクラブに変貌したりするシーン構成、
いろいろな登場人物が錯綜するストーリー展開、
そして時代が日中戦争、さらに太平洋戦争へ続いていく
ドラマの流れは、リアリズムをベースに、
時にファンタジーが入り混じり、
さらに歴史の残酷さを描き出す叙事詩にもなるという、
舞台劇の醍醐味に満ちていた。
ジャズと笑い・ユーモアに彩られながらも、
「上海バンスキング」はけっしてハッピーな物語ではない。
後半は戦争の暗雲が登場人物たちの人生を狂わせていき、
終盤、自由を、仲間を、そして音楽を失ったシローは、
アヘンに溺れ、やがて廃人になってしまう。
変わり果てた夫を抱きしめて、まどかは最後に
「この街には人を不幸にする夢が多過ぎた」と呟く。
ひどく苦い結末を迎える悲劇なのだが、
追憶の中、二人の心によみがえる「ウェルカム上海」は、
思わず踊りだしたくなるほど陽気で軽やか。
その楽しいスウィングは、
同時に哀しく美しい抒情に包まれる。
劇作家・斎藤憐はこの作品で
演劇界の芥川賞とされる岸田國士戯曲賞を受賞。
オンシアター自由劇場は
1979年の紀伊国屋演劇賞団体賞を受賞。
再演するごとに人気は高まり、
キャパ100人の劇場は連日満員で客が入りきらなくなり、
やがて大きな劇場で何度も再演されることになる。
それまで演劇など見たことのなかった人たちでさえも
虜にし、1984年には、深作欣二監督、
松坂慶子・風間杜夫の主演で映画化。
20世紀の終わりまで上演され続ける
日本の演劇史に残る名作になった。
オールドファンとしては、
吉田日出子をはじめとするオリジナルキャストの
歌・演奏・演技はあまりにも印象的で忘れ難いが、
新しい若いキャストで今の時代に再演しても
ヒットするだろうと思う。
不幸のリスクを背負っても夢を求めるのか、
夢など見ずに幸福(というより不幸ではない状態)を
求めるのか、
いつの時代も、いくつになっても、
人生の悩みと迷いは変わらないのだ。
もう一度、舞台で「ウェルカム上海」を聴いてみたい。
夏休み無料キャンペーン第5弾
「ポップミュージックをこよなく愛した僕らの時代の妄想力」
8月20日(日)16時59分まで
ポップミュージックが世界を覆った時代、ホームビデオもインターネットもなくたって、僕らはひたすら妄想力を駆使して音楽と向き合っていた。
心の財産となったあの時代の夢と歌を考察する音楽エッセイ集。
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親子で読もう!夏休み無料キャンペーン第5弾
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僕らの時代の妄想力」
8月18日(金)17時~8月20日(日)16時59分
ロックが劇的に進化し、ポップミュージックが
世界を覆った時代.
ホームビデオもインターネットもなくたって、
僕らはひたすら妄想力を駆使して音楽と向き合っていた。
僕らのイマジネーションは音楽からどれだけの影響を受け、
どんな変態を遂げたのか。
心の財産となったあの時代の夢と歌を考察する
音楽エッセイ集。
もくじ
●八王子・冨士森公園のスローバラード駐車場で、
ポップミュージックをこよなく愛した僕らの時代の妄想力について考える
●純情ストーカー男と純心DV願望女の昭和歌謡
●悲しいことなんてぶっとばすロックンロールバンドのモンキービジネス
●21世紀のビートルズ伝説
●義弟のアナログレコードと帰ってきたカレン・カーペンター
●森田童子の思い出:僕らの時代の子守唄
ほか全33編
事件の真相は、初恋の中に沈んでいる――。
宣伝コピーがカッコいい「ザリガニの鳴くところ」は、
全世界で累計1500万部を売り上げた
ディーリア・オーエンズの同名小説の映画化。
1969年、ノースカロライナ州の湿地帯で、
将来有望な金持ちの青年が変死体で見つかる。
殺人事件の容疑者として逮捕されたのは、
「湿地の少女」と呼ばれる孤児の女の子。
彼女を裁く陪審員裁判で事件の真相が明かされていく。
しかし、本当の真実が明かされるのは
それから半世紀のちの現代(映画のエピローグ)。
人生の結論はすぐには現れず、
目に見えないところに深く沈み、
思いがけない時に浮かび上がってくる。
原作小説は一昨年、読んでいた。
作者のオーエンズは動物学者で、
その知見をふんだんに活かし、
湿地の生態系について詳しく描写しており、
それと人間ドラマとがブレンドされて、
詩的でスケールの大きな物語になっている。
湿地という土地自体がミステリアスで、
様々な暗喩に満ちており、
人間の心のなかの世界を表現しているかのようだ。
ただ、ミステリー映画という頭で見ると、
正直、論理的に甘い部分が気になるかもしれない。
冒頭の宣伝コピーも
実際の内容とはちょっとズレてる感じが否めない。
映画化に際してストーリーは単純化され、
殺人事件の真相解明に焦点が絞られているが、
アメリカ社会に深く根を張った
児童虐待・家庭崩壊の問題も
もっと突っ込んで描いてよかった気がする。
アマプラで見た(今でも見られる)が、
陸と海との境界となっている雄大な湿地帯の風景と、
そこで暮らす人々のライフスタイルは、
映画館のスクリーンサイズで見たかった、という印象。
その映像をバックにしたプロローグとエピローグの
ナレーションもしびれるほど詩的でイマジネーティブ。
「ザリガニの鳴くところ」というタイトルの意味も分かる。
そして、ラブシーンがいい。
ドラマの文脈、映像の美しさ。
若い俳優さんがあまり美男美女過ぎないのもいい。
こんなきれいなラブシーンは久しぶりに見た気がして、
年甲斐もなく、ムズムズソワソワしてしまった。
夏休み無料キャンペーン 第4弾
ちち、ちぢむ
8月18日(金)15時59分まで
ろくでなしだけど大好きなお父さんが
「ちっちゃいおじさん」に!
人新世(アンドロポセン)の時代を生きるアベコベ親子の奇々怪々でユーモラスな冒険と再起の物語
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