「かえるくん、東京を救う」というのは村上春樹の短編小説の中でもかなり人気の高い作品です。
主人公がアパートの自分の部屋に帰ると、身の丈2メートルはあろうかというカエルが待っていた、というのだから、始まり方はほとんど恐怖小説。
ですが、その巨大なカエルが「ぼくのことは“かえるくん”と呼んでください」と言うのだから、たちまちシュールなメルヘンみたいな世界に引き込まれてしまいます。
この話は阪神大震災をモチーフにしていて、けっして甘いメルヘンでも、面白おかしいコメディでもないシリアスなストーリーなのですが、このかえるくんのセリフ回しや行動が、なんとも紳士的だったり、勇敢だったり、愛らしかったり、時折ヤクザだったりして独特の作品世界が出来上がっています。
しかし、アメリカ人の翻訳者がこの作品を英訳するとき、この「かえるくん」という呼称のニュアンスを、どう英語で表現すればいいのか悩んだという話を聞いて、さもありなんと思いました。
このカエルという生き物ほど、「かわいい」と「気持ち悪い」の振れ幅が大きい動物も珍しいのではないでしょうか。
でも、その振れ幅の大きさは日本人独自の感覚のような気もします。
欧米人はカエルはみにくい、グロテスクなやつ、場合によっては悪魔の手先とか、魔女の使いとか、そういう役割を振られるケースが圧倒的に多い気がします。
ところが、日本では、けろけろけろっぴぃとか、コルゲンコーワのマスコットとか、木馬座アワーのケロヨンとか、古くは「やせガエル 負けるな 一茶ここにあり」とか、かわいい系・愛すべき系の系譜がちゃんと続いていますね。
僕が思うに、これはやっぱり稲作文化のおかげなのではないでしょうか。
お米・田んぼと親しんできた日本人にとって、田んぼでゲコゲコ鳴いているカエルくんたちは、友だちみたいな親近感があるんでしょうね。
そして、彼らの合唱が聞こえる夏の青々とした田んぼの風景は、今年もお米がいっぱい取れそう、という期待や幸福感とつながっていたのでしょう。
カエル君に対するよいイメージはそういうところからきている気がします。
ちなみに僕の携帯電話はきみどり色だけど、「カエル色」って呼ばれています。
茶色いのも黄色っぽいもの黒いのもいるけど、カエルと言えばきれいなきみどり色。やっぱ、アマガエルじゃないとかわいくないからだろうね、きっと。
雨の季節。そういえば、ここんとこ、カエルくんと会ってないなぁ。ケロケロ。
「これから生まれてくる子孫が見られるように」
――今回の家族ストーリー(ファミリーヒストリー)を作った動機について、3世代の真ん中の息子さん(団塊ジュニア世代)は作品の最後でこんなメッセージを残しています。
彼の中にはあるべき家族の姿があった。しかし現実にはそれが叶わなかった。だからやっと安定し、幸福と言える現在の形を映像に残すことを思い立った――僕にはそう取れます。
世間一般の基準に照らし合わせれば、彼は家庭に恵まれなかった人に属するでしょう。かつて日本でよく見られた大家族、そして戦後の主流となった夫婦と子供数人の核家族。彼の中にはそうした家族像への憧れがあったのだと思います。
けれども大家族どころか、核家族さえもはや過去のものになっているのでないか。今回の映像を見ているとそう思えてきます。
団塊の世代の親、その子、そして孫(ほぼ成人)。
彼らは家族であり、互いに支え合い、励まし合いながら生きている。
けれど、その前提はあくまで個人。それぞれ個別の歴史と文化を背負い、自分の信じる幸福を追求する人間として生きている。
むかしのように、まず家があり、そこに血のつながりのある人間として生まれ、育つから家族になるのではなく、ひとりひとりの個人が「僕たちは家族だよ」という約束のもとに集まって愛情と信頼を持っていっしょに暮らす。あるいは、離れていても「家族だよ」と呼び合い、同様に愛情と信頼を寄せ合う。だから家族になる。
これからの家族は、核家族からさらに小さな単位に進化した「ミニマム家族」――「個の家族」とでもいえばいいのでしょうか。
比喩を用いれば、ひとりひとりがパソコンやスマホなどのデバイスであり、必要がある時、○○家にログインし、ネットワークし、そこで父・母・息子・娘などの役割を担って、相手の求めることに応じる。それによってそれぞれが幸福を感じる。そうした「さま」を家族と呼称する――なかなかスムーズに表現できませんが、これからはそういう家族の時代になるのではないでしょうか。
なぜなら、そのほうが現代のような個人主義の世の中で生きていくのに何かと便利で快適だからです。人間は自身の利便性・快適性のためになら、いろいろなものを引き換えにできます。だから進化してこられたのです。
引き換えに失ったものの中にももちろん価値があるし、往々にして失ってみて初めてその価値に気づくケースがあります。むかしの大家族しかり。核家族しかり。こうしてこれらの家族の形態は、今後、一種の文化遺産になっていくのでしょう。
好きか嫌いかはともかく、そういう時代に入っていて、僕たちはもう後戻りできなくなっているのだと思います。
将来生まれてくる子孫のために、自分の家族の記憶を本なり映像なりの形でまとめて遺す―― もしかしたらそういう人がこれから結構増えるのかもしれません。
2016・6・27 Mon
親子3世代の物語がやっと完成一歩手前まで来ました。
昨年6月、ある家族のヒストリー映像を作るというお仕事を引き受けて、台本を担当。
足掛け1年掛かりでほぼ完成し、残るはクライアントさんに確認を頂いて、最後にナレーションを吹き込むのみ、という段階までこぎつけたのです。
今回のこの仕事は、ディレクターが取材をし、僕はネット経由で送られてくるその音源や映像を見て物語の構成をしていきました。そのディレクターとも最初に1回お会いしただけでご信頼を頂いたので、そのあとはほとんどメールのやり取りのみで進行しました。インターネットがあると、本当に家で何でもできてしまいます。
ですから時間がかかった割には、そんなに「たいへん感」はありませんでした。
取材対象の人たちともリアルでお会いしたことはなく、インタビューの音声――話の内容はもとより、しゃべり方のくせ、間も含めて――からそれぞれのキャラクターと言葉の背景にある気持ちを想像しながらストーリーを組み立てていくのは、なかなかスリリングで面白い体験でした(最初の下取材の頃はディレクターがまだ映像を撮っていなかったので、レコーダーの音源だけを頼りにやっていました)。
取材対象と直接会わない、会えないという制限は、今までネガティブに捉えていたのですが、現場(彼らの生活空間や仕事空間)の空気がわからない分、余分な情報に戸惑ったり、感情移入のし過ぎに悩まされたりすることがありません。
適度な距離を置いてその人たちを見られるので、かえってインタビューの中では語られていない範囲まで自由に発想を膨らませられ、こうしたドキュメンタリーのストーリーづくりという面では良い効果もあるんだな、と感じました。
後半(今年になってから)、全体のテーマが固まり、ストーリーの流れが固まってくると、今度は台本に基づいて取材がされるようになりました。
戦後の昭和~平成の時代の流れを、団塊の世代の親、その息子、そして孫(ほぼ成人)という一つの家族を通して見ていくと、よく目にする、当時の出来事や風俗の記録映像も、魂が定着くした記憶映像に見えてきます。
これにきちんとした、情感豊かなナレーターの声が入るのがとても楽しみです。
2016・6・26 Sun
おもちペタペタ伊達男
今週日曜(19日)の大河ドラマ「真田丸」で話題をさらったのは、長谷川朝晴演じる伊達政宗の餅つきパフォーマンスのシーン。「独眼竜」で戦国武将の中でも人気の高い伊達政宗ですが、一方で「伊達男」の語源にもなったように、パフォーマーというか、歌舞伎者というか、芝居っけも方もたっぷりの人だったようです。
だから、餅つきくらいやってもおかしくないのでしょうが、権力者・秀吉に対してあからさまにこびへつらい、ペッタンコとついた餅にスリゴマを・・・じゃなかった、つぶした豆をのっけて「ずんだ餅でございます」と差し出す太鼓持ち野郎の姿に、独眼竜のカッコいいイメージもこっぱみじんでした。
僕としては「歴人めし」の続編のネタ、一丁いただき、と思ってニヤニヤ笑って見ていましたが、ファンの人は複雑な心境だったのではないのでしょうか。(ネット上では「斬新な伊達政宗像」と、好意的な意見が多かったようですが)。
しかし、この後、信繁(幸村=堺雅人)と二人で話すシーンがあり、じつは政宗、今はゴマスリ太鼓持ち野郎を演じているが、いずれ時が来れば秀吉なんぞ、つぶしてずんだ餅にしてやる・・・と、野心満々であることを主人公の前で吐露するのです。
で、これがクライマックスの関ヶ原の伏線の一つとなっていくわけですね。
裏切りのドラマ
この「真田丸」は見ていると、「裏切り」が一つのテーマとなっています。
出てくるどの武将も、とにかくセコいのなんのttらありゃしない。立派なサムライなんて一人もいません。いろいろな仮面をかぶってお芝居しまくり、だましだまされ、裏切り裏切られ・・・の連続なのです。
そりゃそうでしょう。乱世の中、まっすぐ正直なことばかりやっていては、とても生き延びられません。
この伊達政宗のシーンの前に、北条氏政の最後が描かれていましたが、氏政がまっすぐな武将であったがために滅び、ゴマスリ政宗は生き延びて逆転のチャンスを掴もうとするのは、ドラマとして絶妙なコントラストになっていました。
僕たちも生きるためには、多かれ少なかれ、このゴマスリずんだ餅に近いことを年中やっているのではないでしょうか。身過ぎ世過ぎというやつですね。
けれどもご注意。
人間の心とからだって、意外と正直にできています。ゴマスリずんだ餅をやり過ぎていると、いずれまとめてお返しがやってくるも知れません。
人間みんな、じつは正直者
どうしてそんなことを考えたかと言うと、介護士の人と、お仕事でお世話しているおじいさんのことについて話したからです。
そのおじいさんはいろんな妄想に取りつかれて、ファンタジーの世界へ行っちゃっているようなのですが、それは自分にウソをつき続けて生きてきたからではないか、と思うのです。
これは別に倫理的にどうこうという話ではありません。
ごく単純に、自分にウソをつくとそのたびにストレスが蓄積していきます。
それが生活習慣になってしまうと、自分にウソをつくのが当たり前になるので、ストレスが溜まるのに気づかない。そういう体質になってしまうので、全然平気でいられる。
けれども潜在意識は知っているのです。
「これはおかしい。これは違う。これはわたしではな~い」
そうした潜在意識の声を、これまた無視し続けると、齢を取ってから自分で自分を裏切り続けてきたツケが一挙に出て来て、思いっきり自分の願いや欲望に正直になるのではないでしょうか。
だから脳がファンタジーの世界へ飛翔してしまう。それまでウソで歪めてきた自分の本体を取り戻すかのように。
つまり人生は最後のほうまで行くとちゃんと平均化されるというか、全体で帳尻が合うようにできているのではないかな。
自分を大事にするということ
というのは単なる僕の妄想・戯言かも知れないけど、自分に対する我慢とか裏切りとかストレスとかは、心や体にひどいダメージを与えたり、人生にかなりの影響を及ぼすのではないだろうかと思うのです。
みなさん、人生は一度きり。身過ぎ世過ぎばっかりやってると、それだけであっという間に一生終わっちゃいます。何が自分にとっての幸せなのか?心の内からの声をよく聴いて、本当の意味で自分を大事にしましょう。
介護士さんのお話を聞くといろんなことを考えさせられるので、また書きますね。
2016/6/23 Thu
すぐれた小説は時代を超えて読み継がれる価値がある。特に現代社会を形作った18世紀から20世紀前半にかけての時代、ヨーロッパ社会で生まれた文学には人間や社会について考えさせられる素材にあふれています。
その読書を「死者との対話」と呼んだ人がいます。うまい言い方をするものだと思いました。
僕たちは家で、街で、図書館で、本さえあれば簡単にゲーテやトルストイやドストエフスキーやブロンテなどと向かい合って話ができます。別にスピリチュアルなものに関心がなくても、書き残したものがあれば、私たちは死者と対話ができるのです。
もちろん、それはごく限られた文学者や学者との間で可能なことで、そうでない一般大衆には縁のないことでしょう。これまではそうでした。しかし、これからの時代はそれも可能なことではないかと思います。ただし、不特定多数の人でなく、ある家族・ある仲間との間でなら、ということですが。
僕は父の人生を書いてみました。
父は2008年の12月に亡くなりました。家族や親しい者の死も1年ほどたつと悲しいだの寂しいだの、という気持ちは薄れ、彼らは自分の人生においてどんな存在だったのだろう?どんなメッセージを遺していったのだろう?といったことを考えます。
父のことを書いてみようと思い立ったのは、それだけがきっかけではありませんでした。
死後、間もない時に、社会保険事務所で遺族年金の手続きをする際に父の履歴書を書いて提出しました。その時に感じたのは、血を分けた家族のことでも知らないことがたくさんあるな、ということでした。
じつはそれは当り前のことなのだが、それまではっきりとは気が付いていませんでした。なんとなく父のことも母のこともよく知っていると思いすごしていたのです。
実際は私が知っているのは、私の父親としての部分、母親としての部分だけであり、両親が男としてどうだったか、女としてどうだったか、ひとりの人間としてどうだったのか、といったことなど、ほとんど知りませんでした。数十年も親子をやっていて、知るきっかけなどなかったのです。
父の仕事ひとつ取ってもそうでした。僕の知っている父の仕事は瓦の葺換え職人だが、それは30歳で独立してからのことで、その前――20代のときは工場に勤めたり、建築会社に勤めたりしていたのです。それらは亡くなってから初めて聞いた話です。
そうして知った事実を順番に並べて履歴書を作ったのですが、その時には強い違和感というか、抵抗感のようなものを感じました。それは父というひとりの人間の人生の軌跡が、こんな紙切れ一枚の中に納まってしまうということに対しての、寂しさというか、怒りというか、何とも納得できない気持ちでした。
父は不特定多数の人たちに興味を持ってもらえるような、波乱万丈な、生きる迫力に満ち溢れた人生を歩んだわけはありませんい。むしろそれらとは正反対の、よくありがちな、ごく平凡な庶民の人生を送ったのだと思います。
けれどもそうした平凡な人生の中にもそれなりのドラマがあります。そして、そのドラマには、その時代の社会環境の影響を受けた部分が少なくありません。たとえば父の場合は、昭和3年(1928年)に生まれ、平成元年(1989年)に仕事を辞めて隠居していました。その人生は昭和の歴史とほぼ重なっています。
ちなみにこの昭和3年という年を調べてみると、アメリカでミッキーマウスの生まれた(ウォルト・ディズニーの映画が初めて上映された)年です。
父は周囲の人たちからは実直でまじめな仕事人間と見られていましたが、マンガや映画が好きで、「のらくろ」だの「冒険ダン吉」だのの話をよく聞かせてくれました。その時にそんなことも思い出したのです。
ひとりの人間の人生――この場合は父の人生を昭和という時代にダブらせて考えていくと、昭和の出来事を書き連ねた年表のようなものとは、ひと味違った、その時代の人間の意識の流れ、社会のうねりの様子みたいなものが見えてきて面白いのではないか・・・。そう考えて、僕は父に関するいくつかの個人的なエピソードと、昭和の歴史の断片を併せて書き、家族や親しい人たちが父のことを思い起こし、対話できるための一遍の物語を作ってみようと思い立ちました。
本当はその物語は父が亡くなる前に書くべきだったのではないかと、少し後悔の念が残っています。
生前にも話を聞いて本を書いてみようかなと、ちらりと思ったことはあるのですが、とうとう父自身に自分の人生を振り返って……といった話を聞く機会はつくれませんでした。たとえ親子の間柄でも、そうした機会を持つことは難しいのです。思い立ったら本気になって直談判しないと、そして双方互いに納得できないと永遠につくることはできません。あるいは、これもまた難しいけど、本人がその気になって自分で書くか・・・。それだけその人固有の人生は貴重なものであり、それを正確に、満足できるように表現することは至難の業なのだと思います。
実際に始めてから困ったのは、父の若い頃のことを詳しく知る人など、周囲にほとんどいないということ。また、私自身もそこまで綿密に調査・取材ができるほど、時間や労力をかけるわけにもいきませんでした。
だから母から聞いた話を中心に、叔父・叔母の話を少し加える程度にとどめ、その他、本やインターネットでその頃の時代背景などを調べながら文章を組み立てる材料を集めました。そして自分の記憶――心に残っている言葉・出来事・印象と重ね合わせて100枚程度の原稿を作ってみたのです。
自分で言うのもナンですが、情報不足は否めないものの、悪くない出来になっていて気に入っています。これがあるともうこの世にいない父と少しは対話できる気がするのです。自分の気持ちを落ち着かせ、互いの生の交流を確かめ、父が果たした役割、自分にとっての存在の意味を見出すためにも、こうした家族や親しい者の物語をつくることはとても有効なのではないかと思います。
高齢化が進む最近は「エンディングノート」というものがよく話題に上っています。
「その日」が来た時、家族など周囲の者がどうすればいいか困らないように、いわゆる社会的な事務手続き、お金や相続のことなどを書き残すのが、今のところ、エンディングノートの最もポピュラーな使い方になっているようだ。
もちろん、それはそれで、逝く者にとっても、後に残る者にとっても大事なことです。しかし、そうすると結局、その人の人生は、いくらお金を遺したかとか、不動産やら建物を遺したのか、とか、そんな話ばかりで終わってしまう恐れもあります。その人の人生そのものが経済的なこと、物質的なものだけで多くの人に価値判断されてしまうような気がするのです。
けれども本当に大事なのは、その人の人生にどんな意味や価値があったのか、を家族や友人・知人たちが共有することが出来る、ということではないでしょうか。
そして、もしその人の生前にそうしたストーリーを書くことができれば、その人が人生の最期の季節に、自分自身を取り戻せる、あるいは、取り戻すきっかけになり得る、ということではないでしょうか。
♪赤い仮面は謎の人 どんな顔だか知らないが キラリと光る涼しい目 仮面の忍者だ
赤影だ~
というのは、テレビの「仮面の忍者 赤影」の主題歌でしたが、涼しい目かどうかはともかく、僕のメガネは10数年前から「赤影メガネ」です。これにはちょっとした物語(というほどのものではないけど)があります。
当時、小1だか2年の息子を連れてメガネを買いに行きました。
それまでは確か茶色の細いフレームの丸いメガネだったのですが、今回は変えようかなぁ、どうしようかなぁ・・・とあれこれ見ていると、息子が赤フレームを見つけて「赤影!」と言って持ってきたのです。
「こんなの似合うわけないじゃん」と思いましたが、せっかく選んでくれたのだから・・・と、かけてみたら似合った。子供の洞察力おそるべし。てか、単に赤影が好きだっただけ?
とにかく、それ以来、赤いフレームのメガネが、いつの間にか自分のアイキャッチになっていました。自分の中にある自分のイメージと、人から見た自分とのギャップはとてつもなく大きいもの。
独立・起業・フリーランス化ばやりということもあり、セルフブランディングがよく話題になりますが、自分をどう見せるかというのはとても難しい。自分の中にある自分のイメージと、人から見た自分とのギャップはとてつもなく大きいのです。
とはいえ、自分で気に入らないものを身に着けてもやっぱり駄目。できたら安心して相談できる家族とか、親しい人の意見をしっかり聞いて(信頼感・安心感を持てない人、あんまり好きでない人の意見は素直に聞けない)、従来の考え方にとらわれない自分像を探していきましょう。
・・・って、なんだか歌か小説のタイトルみたいですね。そうでもない?
ま、それはいいんですが、この間の朝、実際に会いました。ひとりでそそくさとベビーカーを押していた彼の姿が妙に心に焼き付き、いろいろなことがフラッシュバックしました。
BACK in the NEW YORK CITY。
僕が初めてニューヨークに行ったのは約30年前。今はどうだか知らないけど、1980年代のNYCときたらやっぱ世界最先端の大都会。しかし、ぼくがその先端性を感じたのは、ソーホーのクラブやディスコでもなでもなく、イーストビレッジのアートギャラリーでもなく、ブロードウェイのミュージカルでもなく、ストリートのブレイクダンスでもなく、セントラルパークで一人で子供と散歩しているパパさんたちでした。
特におしゃれでも何でもない若いパパさんたちが、小さい子をベビーカーに乗せていたり、抱っこひもでくくってカンガルーみたいな格好で歩いていたり、芝生の上でご飯を食べさせたり、オムツを替えたりしていたのです。
そういう人たちはだいたい一人。その時、たまたま奥さんがほっとその辺まで買い物に行っているのか、奥さんが働いて旦那がハウスハズバンドで子育て担当なのか、はたまた根っからシングルファーザーなのかわかりませんが、いずれにしてもその日その時、出会った彼らはしっかり子育てが板についている感じでした。
衝撃!・・というほどでもなかったけど、なぜか僕は「うーん、さすがはニューヨークはイケてるぜ」と深く納得し、彼らが妙にカッコよく見えてしまったのです。
そうなるのを念願していたわけではないけれど、それから約10年後。
1990年代後半の練馬区の路上で、僕は1歳になるかならないかの息子をベビーカーに乗せて歩いていました。たしか「いわさきちひろ美術館」に行く途中だったと思います。
向こう側からやってきたおばさんが、じっと僕のことを見ている。
なんだろう?と気づくと、トコトコ近寄ってきて、何やら話しかけてくる。
どこから来たのか?どこへ行くのか? この子はいくつか? 奥さんは何をやっているのいか?などなど・・・
「カミさんはちょっと用事で、今日はいないんで」と言うと、ずいぶん大きなため息をつき、「そうなの。私はまた逃げられたと思って」と。
おいおい、たとえそうだとしても、知らないあんたに心配されたり同情されたりするいわれはないんだけど。
別に腹を立てたわけではありませんが、世間からはそういうふうにも見えるんだなぁと、これまた深く納得。
あのおばさんは口に出して言ったけど、心の中でそう思ってて同情だか憐憫だかの目で観ている人は結構いるんだろうなぁ、と感じ入った次第です。
というのが、今から約20年前のこと。
その頃からすでに「子育てしない男を父とは呼ばない」なんてキャッチコピーが出ていましたが、男の子育て環境はずいぶん変化したのでしょうか?
表面的には イクメンがもてはやされ、育児関係・家事関係の商品のコマーシャルにも、ずいぶん男が出ていますが、実際どうなのでしょうか?
件のベビーカーにしても、今どき珍しくないだろう、と思いましたが、いや待てよ。妻(母)とカップルの時は街の中でも電車の中でもいる。それから父一人の時でも子供を自転車に乗せている男はよく見かける。だが、ベビーカーを“ひとりで”押している男はそう頻繁には見かけない。これって何を意味しているのだろう? と、考えてしまいました。
ベビーカーに乗せている、ということは、子供はだいたい3歳未満。保育園や幼稚園に通うにはまだ小さい。普段は家で母親が面倒を見ているというパターンがやはりまだまだ多いのでしょう。
そういえば、保育園の待機児童問題って、お母さんの声ばかりで、お父さんの声ってさっぱり聞こえてこない。そもそも関係あるのか?って感じに見えてしまうんだけど、イクメンの人たちの出番はないのでしょうか・・・。
2016年6月16日
インターネットの出現は社会を変えた――ということは聞き飽きるほど、あちこちで言われています。けれどもインターネットが本格的に普及したのは、せいぜいここ10年くらいの話。全世代、全世界を見渡せば、まだ高齢者の中には使ったことがないという人も多いし、国や地域によって普及率の格差も大きい。だから、その変化の真価を国レベル・世界レベルで、僕たちが実感するのはまだこれからだと思います。
それは一般によくいわれる、情報収集がスピーディーになったとか、通信販売が便利になったとか、というカテゴリーの話とは次元が違うものです。もっと人間形成の根本的な部分に関わることであり、ホモサピエンスの文化の変革にまでつながること。それは新しい民間伝承――フォークロアの誕生です。
“成長過程で自然に知ってしまう”昔話・伝承
最初はどこでどのように聞いたのか覚えてないですが、僕たちは自分でも驚くほど、昔話・伝承をよく知っています。成長の過程のどこかで桃太郎や浦島太郎や因幡の白ウサギと出会い、彼らを古い友だちのように思っています。
家庭でそれらの話を大人に読んでもらったこともあれば、幼稚園・保育園・小学校で体験したり、最近ならメディアでお目にかかることも多い。それはまるで遺伝子に組み込まれているかのように、あまりに自然に身体の中に溶け込んでいるのです。
調べて確認したわけではないが、こうした感覚は日本に限らず、韓国でも中国でもアメリカでもヨーロッパでも、その地域に住んでいる人なら誰でも持ち得るのではないでしょうか。おそらく同じような現象があると思います。それぞれどんな話がスタンダードとなっているのかは分かりませんが、その国・その地域・その民族の間で“成長過程で自然に知ってしまう”昔話・伝承の類が一定量あるのです。
それらは長い時間を生きながらえるタフな生命エネルギーを持っています。それだけのエネルギーを湛えた伝承は、共通の文化の地層、つまり一種のデータベースとして、万人の脳の奥底に存在しています。その文化の地層の上に、その他すべての情報・知識が積み重なっている――僕はそんなイメージを持っています。
世界共通の、新しいカテゴリーの伝承
そして、昔からあるそれとは別に、これから世界共通の、新しいカテゴリーの伝承が生まれてくる。その新しい伝承は人々の間で共通の文化の地層として急速に育っていくのでないか。そうした伝承を拡散し、未来へ伝える役目を担っているのがインターネット、というわけです。
ところで新しい伝承とは何でしょう? その主要なものは20世紀に生まれ、花開いた大衆文化――ポップカルチャーではないでしょうか。具体的に挙げていけば、映画、演劇、小説、マンガ、音楽(ジャズ、ポップス、ロック)の類です。
21世紀になる頃から、こうしたポップカルチャーのリバイバルが盛んに行われるようになっていました。
人々になじみのあるストーリー、キャラクター。
ノスタルジーを刺激するリバイバル・コンテンツ。
こうしたものが流行るのは、情報発信する側が、商品価値の高い、新しいものを開発できないためだと思っていました。
そこで各種関連企業が物置に入っていたアンティーク商品を引っ張り出してきて、売上を確保しようとした――そんな事情があったのでしょう。実際、最初のうちはそうだったはずです。
だから僕は結構冷めた目でそうした現象を見ていました。そこには半ば絶望感も混じっていたと思います。前の世代を超える、真に新しい、刺激的なもの・感動的なものは、この先はもう現れないのかも知れない。出尽くしてしまったのかも知れない、と……。
しかし時間が経ち、リバイバル現象が恒常化し、それらの画像や物語が、各種のサイトやYouTubeの動画コンテンツとして、ネット上にあふれるようになってくると考え方は変わってきました。
それらのストーリー、キャラクターは、もはや単なるレトロやリバイバルでなく、世界中の人たちの共有財産となっています。いわば全世界共通の伝承なのです。
僕たちは欧米やアジアやアフリカの人たちと「ビートルズ」について、「手塚治虫」について、「ガンダム」について、「スターウォーズ」について語り合えるし、また、それらを共通言語にして、子や孫の世代とも同様に語り合えます。
そこにボーダーはないし、ジェネレーションギャップも存在しません。純粋にポップカルチャーを媒介にしてつながり合う、数限りない関係が生まれるのです。
また、これらの伝承のオリジナルの発信者――ミュージシャン、映画監督、漫画家、小説家などによって、あるいは彼ら・彼女らをリスペクトするクリエイターたちによって自由なアレンジが施され、驚くほど新鮮なコンテンツに生まれ変わる場合もあります。
インターネットの本当の役割
オリジナル曲をつくった、盛りを過ぎたアーティストたちが、子や孫たち世代の少年・少女と再び眩いステージに立ち、自分の資産である作品を披露。それをYouTubeなどを介して広めている様子なども頻繁に見かけるようになりました。
それが良いことなのか、悪いことなのか、評価はさておき、そうした状況がインタ―ネットによって現れています。これから10年たち、20年たち、コンテンツがさらに充実し、インターネット人口が現在よりさらに膨れ上がれば、どうなるでしょうか?
おそらくその現象は空気のようなものとして世の中に存在するようになり、僕たちは新たな世界的伝承として、人類共通の文化遺産として、完成された古典として見なすようになるでしょう。人々は分かりやすく、楽しませてくれるものが大好きだからです。
そして、まるで「桃太郎」のお話を聞くように、まっさらな状態で、これらの伝承を受け取った子供たちが、そこからまた新しい、次の時代の物語を生みだしていきます。
この先、そうした現象が必ず起こると思う。インターネットという新参者のメディアはその段階になって、さらに大きな役割を担うのでしょう。それは文化の貯蔵庫としての価値であり、さらに広げて言えば、人類の文化の変革につながる価値になります。
2016年6月13日
ここのところ、雑誌の連載で地方のことを書いています。
書くときはまずベーシックな情報(最初のリード文として使うこともあるので)をインターネットで調べます。
これはウィキペディアなどの第3者情報よりも、各県の公式ホームページの方が断然面白い。自分たちの県をどう見せ、何をアピールしたいかがよくわかるからです。
なんでも市場価値が問われる時代。「お役所仕事云々・・・」と言われることが多い自治体ですが、いろいろ努力して、ホームページも工夫しています。
最近やった宮崎県のキャッチコピーは「日本のひなた」。
日照時間の多さ、そのため農産物がよく獲れるということのアピール。
そしてもちろん、人や土地のやさしさ、あったかさ、ポカポカ感を訴えています。
いろいろな人たちがお日さまスマイルのフリスビーを飛ばして、次々と受け渡していくプロモーションビデオは、単純だけど、なかなか楽しかった。
それから「ひなた度データ」というのがあって、全国比率のいろいろなデータが出ています。面白いのが、「餃子消費量3位」とか、「中学生の早寝早起き率 第3位」とか、「宿題実行率 第4位」とか、「保護者の学校行事参加率 第2位」とか・・・
「なんでこれがひなた度なんじゃい!」とツッコミを入れたくなるのもいっぱい。だけど好きです、こういうの。
取材するにしても、いきなり用件をぶつけるより、「ホームページ面白いですね~」と切り出したほうが、ちょっとはお役所臭さが緩和される気がします。
「あなたのひなた度は?」というテストもあって、やってみたら100パーセントでした。じつはまだ一度も行ったことないけれど、宮崎県を応援したくなるな。ポカポカ。
2016年6月12日
きのう6月10日は「時の記念日」でした。それに気がついたら頭の中で突然、サディスティック・ミカ・バンドの「タイムマシンにおねがい」が鳴り響いてきたので、YouTubeを見てみたら、1974年から2006年まで、30年以上にわたるいろいろなバージョンが上がっていました。本当にインターネットの世界でタイムマシン化しています。
これだけ昔の映像・音源が見放題・聞き放題になるなんて10年前は考えられませんでした。こういう状況に触れると、改めてインターネットのパワーを感じると同時に、この時代になるまで生きててよかった~と、しみじみします。
そしてまた、ネットの中でならおっさん・おばさんでもずっと青少年でいられる、ということを感じます。60~70年代のロックについて滔々と自分の思い入れを語っている人がいっぱいいますが、これはどう考えても50代・60代の人ですからね。
でも、彼ら・彼女らの頭の中はロックに夢中になっていた若いころのまんま。脳内年齢は10代・20代。インターネットに没頭することは、まさしくタイムマシンンに乗っているようなものです。
この「タイムマシンにおねがい」が入っているサディスティック・ミカ・バンドの「黒船」というアルバムは、1974年リリースで、いまだに日本のロックの最高峰に位置するアルバムです。若き加藤和彦が作った、世界に誇る傑作と言ってもいいのではないでしょうか。
中でもこの曲は音も歌詞もゴキゲンです。いろいろ見た(聴いた)中でいちばんよかったのは、最新(かな?)の2006年・木村カエラ・ヴォーカルのバージョンです。おっさんロッカーたちをバックに「ティラノサウルスおさんぽ アハハハ-ン」とやってくれて、くらくらっときました。
やたらと「オリジナルでなきゃ。あのヴォーカルとあのギターでなきゃ」とこだわる人がいますが、僕はそうは思わない。みんなに愛される歌、愛されるコンテンツ、愛される文化には、ちゃんと後継ぎがいて、表現技術はもちろんですが、それだけでなく、その歌・文化の持ち味を深く理解し、見事に自分のものとして再現します。中には「オリジナルよりいいじゃん!」と思えるものも少なくありません。(この木村カエラがよい例)。
この歌を歌いたい、自分で表現したい!――若い世代にそれだけ強烈に思わせる、魅力あるコンテンツ・文化は生き残り、クラシックとして未来に継承されていくのだと思います。
もう一つおまけに木村カエラのバックでは、晩年の加藤和彦さんが本当に楽しそうに演奏をしていました。こんなに楽しそうだったのに、どうして自殺してしまったのだろう・・・と、ちょっと哀しくもなったなぁ。
2016年6月11日
9日間にわたって放送してきた「歴人めし」は、昨日の「信長巻きの巻」をもっていったん終了。しかし、ご安心ください。7月は夜の時間帯に再放送があります。ぜひ見てくださいね。というか、You Tubeでソッコー見られるみたいですが。
https://www.ch-ginga.jp/movie-detail/series.php?series_cd=12041
この仕事では歴人たちがいかに食い物に執念を燃やしていたかがわかりました。 もちろん、記録に残っているのはほんの少し。
源内さんのように、自分がいかにうなぎが好きか、うなぎにこだわっているか、しつこく書いている人も例外としていますが、他の人たちは自分は天下国家のことをいつも考えていて、今日のめしのことなんかどうでもいい。カスミを食ってでの生きている・・・なんて言い出しそうな勢いです。
しかし、そんなわけはない。偉人と言えども、飲み食いと無関係ではいられません。 ただ、それを口に出して言えるのは、平和な世の中あってこそなのでしょう。だから日本の食文化は江戸時代に発展し、今ある日本食が完成されたのです。
そんなわけで、「おかわり」があるかもしれないよ、というお話を頂いているので、なんとなく続きを考えています。
駿河の国(静岡)は食材豊富だし、来年の大河の井伊直虎がらみで何かできないかとか、 今回揚げ物がなかったから、何かできないかとか(信長に捧ぐ干し柿入りドーナツとかね)、
柳原先生の得意な江戸料理を活かせる江戸の文人とか、明治の文人の話だとか、
登場させ損ねてしまった豊臣秀吉、上杉謙信、伊達政宗、浅井三姉妹、新選組などの好物とか・・・
食について面白い逸話がありそうな人たちはいっぱいいるのですが、柳原先生の納得する人物、食材、メニュー、ストーリーがそろって、初めて台本にできます。(じつは今回もプロット段階でアウトテイク多数)
すぐにとはいきませんが、ぜひおかわりにトライしますよ。
それまでおなかをすかせて待っててくださいね。ぐ~~。
2016年6月7日
信長が甘いもの好きというのは、僕は今回のリサーチで初めて知りました。お砂糖を贈答したり、されたりして外交に利用していたこともあり、あちこちの和菓子屋さんが「信長ゆかりの銘菓」を開発して売り出しているようです。ストーリーをくっつけると、同じおまんじゅうやあんころもちでも何だか特別なもの、他とは違うまんじゅうやあんころもちに思えてくるから不思議なものです。
今回、ゆかりの食材として採用したのは「干し柿」と「麦こがし(ふりもみこがし)」。柿は、武家伝統の本膳料理(会席料理のさらに豪華版!)の定番デザートでもあり、記録をめくっていると必ず出てきます。
現代のようなスイーツパラダイスの時代と違って、昔の人は甘いものなどそう簡単に口にできませんでした。お砂糖なんて食品というよりは、宝石や黄金に近い超ぜいたく品だったようです。だから信長に限らず、果物に目のない人は大勢いたのでしょう。
中でもは干し柿にすれば保存がきくし、渋柿もスイートに変身したりするので重宝されたのだと思います。
「信長巻き」というのは柳原尚之先生のオリジナル。干し柿に白ワインを染み込ませるのと、大徳寺納豆という、濃厚でしょっぱい焼き味噌みたいな大豆食品をいっしょに巻き込むのがミソ。
信長は塩辛い味も好きで、料理人が京風の上品な薄味料理を出したら「こんな水臭いものが食えるか!」と怒ったという逸話も。はまった人なら知っている、甘い味としょっぱい味の無限ループ。交互に食べるともうどうにも止まらない。信長もとりつかれていたのだろうか・・・。
ちなみに最近の映画やドラマの中の信長と言えば、かっこよくマントを翻して南蛮渡来の洋装を着こなして登場したり、お城の中のインテリアをヨーロッパの宮殿風にしたり、といった演出が目につきます。
スイーツ好きとともに、洋風好き・西洋かぶれも、今やすっかり信長像の定番になっていますが、じつはこうして西洋文化を積極的に採り入れたのも、もともとはカステラだの、金平糖だの、ボーロだの、ポルトガルやスペインの宣教師たちが持ち込んできた、砂糖をたっぷり使った甘いお菓子が目当てだったのです。(と、断言してしまう)
「文化」なんていうと何やら高尚っぽいですが、要は生活習慣の集合体をそう呼ぶまでのこと。その中心にあるのは生活の基本である衣食住です。
中でも「食」の威力はすさまじく、これに人間はめっぽう弱い。おいしいものの誘惑からは誰も逃れられない。そしてできることなら「豊かな食卓のある人生」を生きたいと願う。この「豊かな食卓」をどう捉えるかが、その人の価値観・生き方につながるのです。
魔王と呼ばれながら、天下統一の一歩手前で倒れた信長も、突き詰めればその自分ならではの豊かさを目指していたのではないかと思うのです。
2016年6月6日
「豊臣秀吉がまだ木下藤吉郎だったころ、琵琶湖のほとりに金目教という怪しい宗教が流行っていた・・・」というナレーションで始まるのは「仮面の忍者・赤影」。子供の頃、夢中になってテレビにかじりついていました。
時代劇(忍者もの)とSF活劇と怪獣物をごちゃ混ぜにして、なおかつチープな特撮のインチキスパイスをふりかけた独特のテイストは、後にも先にもこの番組だけ。僕の中ではもはや孤高の存在です。
いきなり話が脱線していますが、赤影オープニングのナレーションで語られた「琵琶湖のほとり」とは滋賀県長浜あたりのことだったのだ、と気づいたのは、ちょうど10年前の今頃、イベントの仕事でその長浜に滞在していた時です。
このときのイベント=期間限定のラジオ番組制作は、大河ドラマ「功名が辻」関連のもの。4月~6月まで断続的に数日ずつ訪れ、街中や郊外で番組用の取材をやっていました。春でもちょっと寒いことを我慢すれば、賑わいがあり、かつまた、自然や文化財にも恵まれている、とても暮らしやすそうな良いところです。
この長浜を開いたのは豊臣秀吉。そして秀吉の後を継いで城主になったのが山内一豊。「功名が辻」は、その一豊(上川隆也)と妻・千代(仲間由紀恵)の物語。そして本日の歴人めし♯9は、この一豊ゆかりの「カツオのたたき」でした。
ところが一豊、城主にまでしてもらったのに秀吉の死後は、豊臣危うしと読んだのか、関が原では徳川方に寝返ってしまいます。つまり、うまいこと勝ち組にすべり込んだわけですね。
これで一件落着、となるのが、一豊の描いたシナリオでした。
なぜならこのとき、彼はもう50歳。人生50年と言われた時代ですから、その年齢から本格的な天下取りに向かった家康なんかは例外中の例外。そんな非凡な才能と強靭な精神を持ち合わせていない、言ってみればラッキーで何とかやってきた凡人・一豊は、もう疲れたし、このあたりで自分の武士人生も「あがり」としたかったのでしょう。
できたら、ごほうびとして年金代わりに小さな領地でももらって、千代とのんびり老後を過ごしたかったのだと思います。あるいは武士なんかやめてしまって、お百姓でもやりながら余生を・・・とひそかに考えていた可能性もあります。
ところが、ここでまた人生逆転。家康からとんでもないプレゼントが。
「土佐一国をおまえに任せる」と言い渡されたのです。
一国の領主にしてやる、と言われたのだから、めでたく大出世。一豊、飛び上がって喜んだ・・・というのが定説になっていますが、僕はまったくそうは思いません。
なんせ土佐は前・領主の長曾我部氏のごっつい残党がぞろぞろいて、新しくやってくる領主をけんか腰で待ち構えている。徳川陣営の他の武将も「あそこに行くのだけは嫌だ」と言っていたところです。
現代に置き換えてみると、後期高齢者あたりの年齢になった一豊が、縁もゆかりもない外国――それも南米とかのタフな土地へ派遣されるのようなもの。いくらそこの支店長のポストをくれてやる、と言われたって全然うれしくなんかなかったでしょう。
けれども天下を収めた家康の命令は絶対です。断れるはずがありません。
そしてまた、うまく治められなければ「能無し」というレッテルを貼られ、お家とりつぶしになってしまいます。
これはすごいプレッシャーだったでしょう。「勝ち組になろう」なんて魂胆を起こすんじゃなかった、と後悔したに違いありません。
こうして不安と恐怖、ストレスで萎縮しまくってたまま土佐に行った一豊の頭がまともに働いたとは思えません。豊富に採れるカツオをがつがつ生で食べている連中を見て、めちゃくちゃな野蛮人に見えてしまったのでしょう。
人間はそれぞれの主観というファンタジーの中で生きています。ですから、この頃の彼は完全に「土佐人こわい」という妄想に支配されてしまったのです。
「功名が辻」では最後の方で、家来が長曾我部の残党をだまして誘い出し、まとめて皆殺しにしてしまうシーンがあります。これは家来が独断で行ったことで、一豊は関与していないことになっていますが、上司が知らなったわけがありません。
こうして不安と恐怖、ストレスで萎縮しまくってたまま土佐に行った一豊の頭がまともに働いたとは思えません。豊富に採れるカツオをがつがつ生で食べている連中を見て、めちゃくちゃな野蛮人に見えてしまったのでしょう。
人間はそれぞれの主観というファンタジーの中で生きています。ですから、この頃の彼は完全に「土佐人こわい」という妄想に支配されてしまったのです。
「功名が辻」では最後の方で、家来が長曾我部の残党をだまして誘い出し、まとめて皆殺しにしてしまうシーンがあります。これは家来が独断で行ったことで、一豊は関与していないことになっていますが、上司が知らなったわけがありません。
恐怖にかられてしまった人間は、より以上の恐怖となる蛮行、残虐行為を行います。
一豊は15代先の容堂の世代――つまり、250年後の坂本龍馬や武市半平太の時代まで続く、武士階級をさらに山内家の上士、長曾我部氏の下士に分けるという独特の差別システムまで発想します。
そうして土佐にきてわずか5年で病に倒れ、亡くなってしまった一豊。寿命だったのかもしれませんが、僕には土佐統治によるストレスで命を縮めたとしか思えないのです。
「カツオのたたき」は、食中毒になる危険を慮った一豊が「カツオ生食禁止令」を出したが、土佐の人々はなんとかおいしくカツオを食べたいと、表面だけ火であぶり、「これは生食じゃのうて焼き魚だぜよ」と抗弁したところから生まれた料理――という話が流布しています。
しかし、そんな禁止令が記録として残っているわけではありません。やはりこれはどこからか生えてきた伝説なのでしょう。
けれども僕はこの「カツオのたたき発祥物語」が好きです。それも一豊を“民の健康を気遣う良いお殿様”として解釈するお話でなく、「精神的プレッシャーで恐怖と幻想にとりつかれ、カツオの生食が、おそるべき野蛮人たちの悪食に見えてしまった男の物語」として解釈してストーリーにしました。
随分と長くなってしまいましたが、ここまで書いてきたバックストーリーのニュアンスをイラストの方が、短いナレーションとト書きからじつにうまく掬い取ってくれて、なんとも情けない一豊が画面で活躍することになったのです。
一豊ファンの人には申し訳ないけど、カツオのたたきに負けず劣らず、実にいい味出している。マイ・フェイバリットです。
2016年6月3日
歴人めし第7回は「徳川家康―八丁味噌の冷汁と麦飯」。
「これが日本人の正しい食事なのじゃ」と家康が言ったかどうかは知りませんが、米・麦・味噌が長寿と健康の基本の3大食材と言えば、多くの日本人は納得するのではないでしょうか。エネルギー、たんぱく質、ビタミン、その他の栄養素のバランスも抜群の取り合わせです。
ましてやその発言の主が、天下を統一して戦国の世を終わらせ、パックス・トクガワ―ナを作った家康ならなおのこと。実際、家康はこの3大食材を常食とし、かなり養生に努めていたことは定説になっています。
昨年はその家康の没後400年ということで、彼が城を構えた岡崎・浜松・静岡の3都市で「家康公400年祭」というイベントが開催され、僕もその一部の仕事をしました。
そこでお会いしたのが、岡崎城から歩いて八丁(約780メートル)の八丁村で八丁味噌を作っていた味噌蔵の後継者。
かのメーカー社長は現在「Mr.Haccho」と名乗り、毎年、海外に八丁味噌を売り込みに行っているそうで、日本を代表する調味料・八丁味噌がじわじわと世界に認められつつあるようです。
ちなみに僕は名古屋の出身なので子供の頃から赤味噌に慣れ親しんできました。名古屋をはじめ、東海圏では味噌と言えば、赤味噌=豆味噌が主流。ですが、八丁味噌」という食品名を用いれるのは、その岡崎の元・八丁村にある二つの味噌蔵――現在の「まるや」と「カクキュー」で作っているものだけ、ということです。
しかし、養生食の米・麦・味噌をがんばって食べ続け、健康に気を遣っていた家康も、平和な世の中になって緊張の糸がプツンと切れたのでしょう。
がまんを重ねて押さえつけていた「ぜいたくの虫」がそっとささやいたのかもしれません。
「もういいんじゃないの。ちょっとぐらいぜいたくしてもかまへんで~」
ということで、その頃、京都でブームになっていたという「鯛の天ぷら」が食べた~い!と言い出し、念願かなってそれを口にしたら大当たり。おなかが油に慣れていなかったせいなのかなぁ。食中毒がもとで亡くなってしまった、と伝えられています。
でも考えてみれば、自分の仕事をやり遂げて、最期に食べたいものをちゃんと食べられて旅立ったのだから、これ以上満足のいく人生はなかったのではないでしょうか。
2016年6月2日
絶好調「真田丸」に続く2017年大河は柴咲コウ主演「おんな城主 直虎」。今年は男だったから来年は女――というわけで、ここ10年あまり、大河は1年ごとに主人公が男女入れ替わるシフトになっています。
だけど女のドラマは難しいんです。なかなか資料が見つけらない。というか、そもそも残っていな。やはり日本の歴史は(外国もそうですが)圧倒的に男の歴史なんですね。
それでも近年、頻繁に女主人公の物語をやるようになったのは、もちろん女性の視聴者を取り込むためだけど、もう一つは史実としての正確さよりも、物語性、イベント性を重視するようになってきたからだと思います。
テレビの人気凋落がよく話題になりますが、「腐っても鯛」と言っては失礼だけど、やっぱ日曜8時のゴールデンタイム、「お茶の間でテレビ」は日本人の定番ライフスタイルです。
出演俳優は箔がつくし、ゆかりの地域は観光客でにぎわうって経済も潤うし、いろんなイベントもぶら下がってくるし、話題も提供される・・・ということでいいことづくめ。
豪華絢爛絵巻物に歴史のお勉強がおまけについてくる・・・ぐらいでちょうどいいのです。(とはいっても、制作スタッフは必死に歴史考証をやっています。ただ、部分的に資料がなくても諦めずに面白くするぞ――という精神で作っているということです)
と、すっかり前置きが長くなってしまいましたが、なんとか「歴人めし」にも一人、女性を入れたいということで、あれこれ調べた挙句、やっと好物に関する記録を見つけたのが、20082年大河のヒロイン「篤姫」。本日は天璋院篤姫の「お貝煮」でした。
見てもらえればわかるけど、この「お貝煮」なる料理、要するにアワビ入りの茶碗蒸しです。その記述が載っていたのが「御殿女中」という本。この本は明治から戦前の昭和にかけて活躍した、江戸文化・風俗の研究家・三田村鳶魚の著作で。篤姫付きの女中をしていた“大岡ませ子”という女性を取材した、いわゆる聞き書きです。
明治も30年余り経ち、世代交代が進み、新しい秩序・社会体制が定着してくると、以前の時代が懐かしくなるらしく、「江戸の記憶を遺そう」というムーブメントが文化人の間で起こったようです。
そこでこの三田村鳶魚さんが、かなりのご高齢だったます子さんに目をつけ、あれこれ大奥の生活について聞き出した――その集成がこの本に収められているというわけです。これは現在、文庫本になっていて手軽に手に入ります。
ナレーションにもしましたが、ヘアメイク法やら、ファッションやら、江戸城内のエンタメ情報やらも載っていて、なかなか楽しい本ですが、篤姫に関するエピソードで最も面白かったのが飼いネコの話。
最初、彼女は狆(犬)が買いたかったようなのですが、夫の徳川家定(13代将軍)がイヌがダメなので、しかたなくネコにしたとか。
ところが、このネコが良き相棒になってくれて、なんと16年もいっしょに暮らしたそうです。彼女もペットに心を癒された口なのでしょうか。
そんなわけでこの回もいろんな発見がありました。
続編では、もっと大勢の女性歴人を登場させ、その好物を紹介したいと思っています。
2016年6月1日
今年の大河ドラマ「どうする家康」はどうやら、
「家康はいい人だったから天下を取れた」
という物語になりそうな気配だ。
もともと家康役が松潤なので、
初回のヘタレぶりから、
どうもそういう話になるんじゃ・・・
という気配はしていたが、
昨日の「氏真」の回でそれを確信した。
どういう話だったかは、
ネットであらすじを読むか、
NHKプラスを見るか、
今度の土曜の再放送を見るかしてほしいが、
とにかく家康は、追い詰めた今川氏真(溝端淳平)を
殺せず、助けてしまう、情に厚い“いい人”。
しかも氏真の奥さんがこれまた、夫思いのとてもいい人。
さらに、とっくの昔に出番が終わってたはずの
今川義元が回想シーンでよみがえり、
感動的なお父さんぶりを見せる。
野村萬斎をキャスティングしておいて、
あれで終わりかいと思っていたが、
最後(死んだ後だけど)にちゃんと見せ場を残して、
スポットライトを浴びせてくれた。
そんなわけで、友愛、夫婦愛、親子愛の
人情ドラマ3連荘で、泣かせるわ、泣かせるわ。
この後、今川氏真は、
戦国武将としては表舞台から退場するが、
家康の手引きで北条氏の領土に逃げて生き延び、
文化人となって、のちに密かに家康に影響を及ぼす。
いちおうそうした史実も踏まえてドラマ化している。
これまで今川親子なんて、
信長や信玄の引き立て役・滅ぼされた負け組として
ずさんな扱われ方しかされなかったが、
ここまで丁寧に人間的に描いたのは良かったと思う。
それにしても、昨年の「鎌倉殿」が陰謀・裏切り満載で
思いっきりブラック、そしてリアルだったのに対して、
こちらはまるで戦国ファンタジーかと思えるほどの
ホワイトぶり。
なにせファンタジーなので、阿部寛の武田信玄も、
岡田准一の織田信長も、ムロツヨシの豊臣秀吉も
ほとんどマンガの世界の人。
そして家康との対比で、
みんなとんでもない悪人どもに見える。
おそらくそういうのも狙いなのだろう。
もちろん、「幼稚」だの「大甘」だの
「戦国時代にこんなのあり得ねーだろ」という
手厳しい批評も飛び交っているが、
僕はこういう見方をしているので、けっこう面白い。
ナレーションでも「神の君」なんて言ってるが、
江戸時代には徳川家康は神さま扱いだった。
それが、250年後に明治政府として
権力を取り返した長州組などが
「幕府の元祖の家康は大悪人だった」と言って
ブラックタヌキのイメージを人びとに植え付けた、
とう説がある。
正義も悪も、歴史も人物像も、その時代の風向きによって
くるくる変わってしまうものだ。
事実は一つだが、真実は人の数だけある。
いま、時代は「いい人」の味方である。
かつて蔑まれていた「いい人」が持て囃される。
最後にはいい人が勝つ・笑う。
「どうする家康」は、そんな時代の空気を吸っている。
ブラック鎌倉殿は完成度が高く、
ラストも衝撃的だったが、
あれはちと悲惨過ぎた。
やっぱり同じようなものを続けざまに見せてはいけない。
少なくとも今年のこのドラマでは
ハッピーエンドになってほしい。
たとえそれがリアリティに欠けた、
ホワイトファンタジーであっても。
これから戦国時代の大波が押し寄せ、
いろいろな修羅場を潜り抜けねばならないが、
松潤家康は間違ってもダークサイドに落ちて
キャラ変などせず、
いい人のまま、白うさぎ君のままでがんばってほしい。
昨日は久しぶりに義母を美容院に連れて行った。
いつもカミさんが連れていくという行きつけのところ。
ここのおばちゃん、腕は大したことないが、
高齢者の扱いはうまく、
髪もきれいになってすっかり気分がよくなった。
問題はその後。
お昼を外食にしたが、
たまにはいいかと洋食専門のカフェへ。
オムライスならよかろうと思って注文したところ、
上にのっていたデミグラソースがお気に召さず、
せっかくご機嫌だったのが、めっちゃ不機嫌に。
あんまり洋食は好きではないのだが、
家では素直に食べるのでつい油断してしまったのだ。
この人はへそを曲げるとけっこうガンコで、
いつもなら喜んで食べるデザートにも
「いらない!」と手をつけない。
しかたなく、そそくさとカネを払って外に。
二度と洋食屋には連れていくべからず。
痛い教訓を得た。
しかし出たとたん、デミグラオムライスの記憶を忘れ、
それまでの不機嫌だった記憶を忘れて、
なぜか美容院から出てきたときの笑顔に戻っている。
こういう時、認知症は便利でありがたい?
帰った後、いつもの安い菓子パンをあげたら大喜び。
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エリック・クラプトンの代表曲になっている
「いとしのレイラ」。
じつは1970年に発表された
デレク&ザ・ドミノスのアルバムに収録されたものが
オリジナルバージョン。
ヤードバーズ、クリーム、ブラインド・フェイスなど、
60年代の歴史的バンドで活躍し、
この頃、すでに稀代の名ギタリストの地位を確立していた
クラプトンは、もちろんこの新しいバンドの
リードギタリストだった。
僕は中学生の時、ラジオでが初めてこの曲を聴いた。
その前に音楽雑誌で評判は聞いていた。
当時、これほどもてはやされていた曲も珍しい。
クラプトンと言えばレイラ。
とにかくレイラがすごい、レイラ大好き、レイラ最高!
彼はすでにソロ活動に入っていたが、
ライブをやってもみんながこれを聴きたがるものだから、
新しい曲がやりにくい、
といったエピソードがあふれていた。
で、そんなにすごい曲なのかと思って聴いたが、
正直なところ、「そんなかなぁ」と思ってしまった。
その頃はハードロックやプログレに狂っていたので、
この曲があんまりすごいとか、カッコいいとか、
面白いとか思わなかったんだよね。
その印象が一変したのが、高校生の時。
同じくラジオで流れてきたレイラに鳥肌が立ち、
しびれまくった。
いったい何が違っていたのか?
最初に聴いたのは前半3分のみ、
おなじみクラプトンのギターが炸裂する
シングルバージョン。
そして2回目はその続きがあるフルバージョンだったのだ。
聴けばわかるが、レイラは二つのパートで成り立っていて、
後半はピアノを中心とした
インストゥルメンタルパートになっている。
3分を過ぎてギターが鳴りやんだところに、
やさしくピアノが入ってきて、
そこにまたギターが絡み合って、
まるで違う曲のように美しく流れていく。
これぞ本物の「いとしのレイラ」だ。
いわば迸る恋の情熱・激情と、
それが成就したあとの愛が満ち溢れる世界。
この前半と後半の対比が
めっちゃドラマチックで素晴らしく、
両パート合わせてこその名曲なのである。
それから半世紀、この曲はクラプトンのライブで
欠かせないレパートリーとなり、
最近は彼の齢に合わせて
渋いアコースティックバージョンになっている。
が、演奏されるのはやっぱり前半部分ばかり。
だから「レイラ」と言っても、中学生時代の僕と同様、
曲の半分しか知らない人が多いのではないだろうか?
そんな人はぜひ、デレク&ザ・ドミノスの
フルバージョンを聴いて、イメージを一新してほしい。
ところでこのバンド名、
僕はずっとデレクさんとドミノスさんという人が
メンバーにいるのかなと思っていたが、そうではなく、
もともと「ダイナミックス」という名前だったのを
テレビ番組の司会者が紹介する時、
「デレク&ザ・ドミノス」と言い間違えたのだという。
メンバーの一人である
ボビー・ウィットロックの証言なので、
本当のことらしいが、え~、ホント? と思ってしまう。
ロックの世界は、ジョークやいい加減な話が
まことしやかに伝説化されてしまっていることが多い。
まぁ、今さらどうでもいいことだけど。
ちなみにこのアルバムジャッケットも
ロック史に残る名作で、
まさしくレイラが描かれていると思う。
泣いて歌って踊るガーナのエンタメ葬、
ハロウィーンの原型となり、
ディズニー映画のモチーフにもなったメキシコの死者の日、
チベット仏教に基づくブータンの鳥葬など、
世界の葬儀・供養を紹介・考察。
雑誌に連載し、電子書籍として発行している
「世界のEnding Watch」が、
このたび装いも新たに、某サイトの連載記事になります。
もちろん完全リニューアルの新作コラムとして、
前作とは違った構成・展開に。
公開の際にはまたお知らせします。
お彼岸の花という感じではないが、
行きつけの花屋でアネモネが目に留まり買った。
茎の歪み具合など、何となくサイケなイメージがあって、
クリムトかエゴンシーレの絵画に
あったような気がしていたが、
アネモネを好んで描いたのは、印象派のルノワールだった。
僕にとってアネモネというと思い起こすのが、
村上龍の小説「コインロッカーベイビーズ」だ。
この物語のヒロインの名がアネモネだった。
20歳の頃にのめり込むように読んだ。
その割に内容を覚えてないのだが、
文体と物語全体のロックなノリが斬新で、
当時、村上春樹と「新しい小説」の双璧を築いていた。
当然、影響力の大きな作品だったので、
ネット上にいくつも書評や紹介文も載っているが、
どれを読んでも何か違和感を感じる。
僕が読んだ「コインロッカーベイビーズ」は
こんな話だったっけか?
アネモネはこんな少女だったっけか? という感じ。
これだけ大量にいろいろなコンテンツが
あふれる世のなかではやむを得ないのだろうけど、
2,3分でわかった気になってしまう
こういうお手軽な解説は、
あんまり読んでは駄目だなと思ってしまう。
これはやはり再読するしかないだろう。
どんどん再読候補本が増える。
目が悪くなった60代としてはなかなか厳しい。
若者たちには、目のいいうちに
いっぱい本を読んでおくことをお薦めする。
「かえるくん、東京を救う」というのは村上春樹の短編小説の中でもかなり人気の高い作品です。
主人公がアパートの自分の部屋に帰ると、身の丈2メートルはあろうかというカエルが待っていた、というのだから、始まり方はほとんど恐怖小説。
ですが、その巨大なカエルが「ぼくのことは“かえるくん”と呼んでください」と言うのだから、たちまちシュールなメルヘンみたいな世界に引き込まれてしまいます。
この話は阪神大震災をモチーフにしていて、けっして甘いメルヘンでも、面白おかしいコメディでもないシリアスなストーリーなのですが、このかえるくんのセリフ回しや行動が、なんとも紳士的だったり、勇敢だったり、愛らしかったり、時折ヤクザだったりして独特の作品世界が出来上がっています。
しかし、アメリカ人の翻訳者がこの作品を英訳するとき、この「かえるくん」という呼称のニュアンスを、どう英語で表現すればいいのか悩んだという話を聞いて、さもありなんと思いました。
このカエルという生き物ほど、「かわいい」と「気持ち悪い」の振れ幅が大きい動物も珍しいのではないでしょうか。
でも、その振れ幅の大きさは日本人独自の感覚のような気もします。
欧米人はカエルはみにくい、グロテスクなやつ、場合によっては悪魔の手先とか、魔女の使いとか、そういう役割を振られるケースが圧倒的に多い気がします。
ところが、日本では、けろけろけろっぴぃとか、コルゲンコーワのマスコットとか、木馬座アワーのケロヨンとか、古くは「やせガエル 負けるな 一茶ここにあり」とか、かわいい系・愛すべき系の系譜がちゃんと続いていますね。
僕が思うに、これはやっぱり稲作文化のおかげなのではないでしょうか。
お米・田んぼと親しんできた日本人にとって、田んぼでゲコゲコ鳴いているカエルくんたちは、友だちみたいな親近感があるんでしょうね。
そして、彼らの合唱が聞こえる夏の青々とした田んぼの風景は、今年もお米がいっぱい取れそう、という期待や幸福感とつながっていたのでしょう。
カエル君に対するよいイメージはそういうところからきている気がします。
ちなみに僕の携帯電話はきみどり色だけど、「カエル色」って呼ばれています。
茶色いのも黄色っぽいもの黒いのもいるけど、カエルと言えばきれいなきみどり色。やっぱ、アマガエルじゃないとかわいくないからだろうね、きっと。
雨の季節。そういえば、ここんとこ、カエルくんと会ってないなぁ。ケロケロ。
「これから生まれてくる子孫が見られるように」
――今回の家族ストーリー(ファミリーヒストリー)を作った動機について、3世代の真ん中の息子さん(団塊ジュニア世代)は作品の最後でこんなメッセージを残しています。
彼の中にはあるべき家族の姿があった。しかし現実にはそれが叶わなかった。だからやっと安定し、幸福と言える現在の形を映像に残すことを思い立った――僕にはそう取れます。
世間一般の基準に照らし合わせれば、彼は家庭に恵まれなかった人に属するでしょう。かつて日本でよく見られた大家族、そして戦後の主流となった夫婦と子供数人の核家族。彼の中にはそうした家族像への憧れがあったのだと思います。
けれども大家族どころか、核家族さえもはや過去のものになっているのでないか。今回の映像を見ているとそう思えてきます。
団塊の世代の親、その子、そして孫(ほぼ成人)。
彼らは家族であり、互いに支え合い、励まし合いながら生きている。
けれど、その前提はあくまで個人。それぞれ個別の歴史と文化を背負い、自分の信じる幸福を追求する人間として生きている。
むかしのように、まず家があり、そこに血のつながりのある人間として生まれ、育つから家族になるのではなく、ひとりひとりの個人が「僕たちは家族だよ」という約束のもとに集まって愛情と信頼を持っていっしょに暮らす。あるいは、離れていても「家族だよ」と呼び合い、同様に愛情と信頼を寄せ合う。だから家族になる。
これからの家族は、核家族からさらに小さな単位に進化した「ミニマム家族」――「個の家族」とでもいえばいいのでしょうか。
比喩を用いれば、ひとりひとりがパソコンやスマホなどのデバイスであり、必要がある時、○○家にログインし、ネットワークし、そこで父・母・息子・娘などの役割を担って、相手の求めることに応じる。それによってそれぞれが幸福を感じる。そうした「さま」を家族と呼称する――なかなかスムーズに表現できませんが、これからはそういう家族の時代になるのではないでしょうか。
なぜなら、そのほうが現代のような個人主義の世の中で生きていくのに何かと便利で快適だからです。人間は自身の利便性・快適性のためになら、いろいろなものを引き換えにできます。だから進化してこられたのです。
引き換えに失ったものの中にももちろん価値があるし、往々にして失ってみて初めてその価値に気づくケースがあります。むかしの大家族しかり。核家族しかり。こうしてこれらの家族の形態は、今後、一種の文化遺産になっていくのでしょう。
好きか嫌いかはともかく、そういう時代に入っていて、僕たちはもう後戻りできなくなっているのだと思います。
将来生まれてくる子孫のために、自分の家族の記憶を本なり映像なりの形でまとめて遺す―― もしかしたらそういう人がこれから結構増えるのかもしれません。
2016・6・27 Mon
親子3世代の物語がやっと完成一歩手前まで来ました。
昨年6月、ある家族のヒストリー映像を作るというお仕事を引き受けて、台本を担当。
足掛け1年掛かりでほぼ完成し、残るはクライアントさんに確認を頂いて、最後にナレーションを吹き込むのみ、という段階までこぎつけたのです。
今回のこの仕事は、ディレクターが取材をし、僕はネット経由で送られてくるその音源や映像を見て物語の構成をしていきました。そのディレクターとも最初に1回お会いしただけでご信頼を頂いたので、そのあとはほとんどメールのやり取りのみで進行しました。インターネットがあると、本当に家で何でもできてしまいます。
ですから時間がかかった割には、そんなに「たいへん感」はありませんでした。
取材対象の人たちともリアルでお会いしたことはなく、インタビューの音声――話の内容はもとより、しゃべり方のくせ、間も含めて――からそれぞれのキャラクターと言葉の背景にある気持ちを想像しながらストーリーを組み立てていくのは、なかなかスリリングで面白い体験でした(最初の下取材の頃はディレクターがまだ映像を撮っていなかったので、レコーダーの音源だけを頼りにやっていました)。
取材対象と直接会わない、会えないという制限は、今までネガティブに捉えていたのですが、現場(彼らの生活空間や仕事空間)の空気がわからない分、余分な情報に戸惑ったり、感情移入のし過ぎに悩まされたりすることがありません。
適度な距離を置いてその人たちを見られるので、かえってインタビューの中では語られていない範囲まで自由に発想を膨らませられ、こうしたドキュメンタリーのストーリーづくりという面では良い効果もあるんだな、と感じました。
後半(今年になってから)、全体のテーマが固まり、ストーリーの流れが固まってくると、今度は台本に基づいて取材がされるようになりました。
戦後の昭和~平成の時代の流れを、団塊の世代の親、その息子、そして孫(ほぼ成人)という一つの家族を通して見ていくと、よく目にする、当時の出来事や風俗の記録映像も、魂が定着くした記憶映像に見えてきます。
これにきちんとした、情感豊かなナレーターの声が入るのがとても楽しみです。
2016・6・26 Sun
おもちペタペタ伊達男
今週日曜(19日)の大河ドラマ「真田丸」で話題をさらったのは、長谷川朝晴演じる伊達政宗の餅つきパフォーマンスのシーン。「独眼竜」で戦国武将の中でも人気の高い伊達政宗ですが、一方で「伊達男」の語源にもなったように、パフォーマーというか、歌舞伎者というか、芝居っけも方もたっぷりの人だったようです。
だから、餅つきくらいやってもおかしくないのでしょうが、権力者・秀吉に対してあからさまにこびへつらい、ペッタンコとついた餅にスリゴマを・・・じゃなかった、つぶした豆をのっけて「ずんだ餅でございます」と差し出す太鼓持ち野郎の姿に、独眼竜のカッコいいイメージもこっぱみじんでした。
僕としては「歴人めし」の続編のネタ、一丁いただき、と思ってニヤニヤ笑って見ていましたが、ファンの人は複雑な心境だったのではないのでしょうか。(ネット上では「斬新な伊達政宗像」と、好意的な意見が多かったようですが)。
しかし、この後、信繁(幸村=堺雅人)と二人で話すシーンがあり、じつは政宗、今はゴマスリ太鼓持ち野郎を演じているが、いずれ時が来れば秀吉なんぞ、つぶしてずんだ餅にしてやる・・・と、野心満々であることを主人公の前で吐露するのです。
で、これがクライマックスの関ヶ原の伏線の一つとなっていくわけですね。
裏切りのドラマ
この「真田丸」は見ていると、「裏切り」が一つのテーマとなっています。
出てくるどの武将も、とにかくセコいのなんのttらありゃしない。立派なサムライなんて一人もいません。いろいろな仮面をかぶってお芝居しまくり、だましだまされ、裏切り裏切られ・・・の連続なのです。
そりゃそうでしょう。乱世の中、まっすぐ正直なことばかりやっていては、とても生き延びられません。
この伊達政宗のシーンの前に、北条氏政の最後が描かれていましたが、氏政がまっすぐな武将であったがために滅び、ゴマスリ政宗は生き延びて逆転のチャンスを掴もうとするのは、ドラマとして絶妙なコントラストになっていました。
僕たちも生きるためには、多かれ少なかれ、このゴマスリずんだ餅に近いことを年中やっているのではないでしょうか。身過ぎ世過ぎというやつですね。
けれどもご注意。
人間の心とからだって、意外と正直にできています。ゴマスリずんだ餅をやり過ぎていると、いずれまとめてお返しがやってくるも知れません。
人間みんな、じつは正直者
どうしてそんなことを考えたかと言うと、介護士の人と、お仕事でお世話しているおじいさんのことについて話したからです。
そのおじいさんはいろんな妄想に取りつかれて、ファンタジーの世界へ行っちゃっているようなのですが、それは自分にウソをつき続けて生きてきたからではないか、と思うのです。
これは別に倫理的にどうこうという話ではありません。
ごく単純に、自分にウソをつくとそのたびにストレスが蓄積していきます。
それが生活習慣になってしまうと、自分にウソをつくのが当たり前になるので、ストレスが溜まるのに気づかない。そういう体質になってしまうので、全然平気でいられる。
けれども潜在意識は知っているのです。
「これはおかしい。これは違う。これはわたしではな~い」
そうした潜在意識の声を、これまた無視し続けると、齢を取ってから自分で自分を裏切り続けてきたツケが一挙に出て来て、思いっきり自分の願いや欲望に正直になるのではないでしょうか。
だから脳がファンタジーの世界へ飛翔してしまう。それまでウソで歪めてきた自分の本体を取り戻すかのように。
つまり人生は最後のほうまで行くとちゃんと平均化されるというか、全体で帳尻が合うようにできているのではないかな。
自分を大事にするということ
というのは単なる僕の妄想・戯言かも知れないけど、自分に対する我慢とか裏切りとかストレスとかは、心や体にひどいダメージを与えたり、人生にかなりの影響を及ぼすのではないだろうかと思うのです。
みなさん、人生は一度きり。身過ぎ世過ぎばっかりやってると、それだけであっという間に一生終わっちゃいます。何が自分にとっての幸せなのか?心の内からの声をよく聴いて、本当の意味で自分を大事にしましょう。
介護士さんのお話を聞くといろんなことを考えさせられるので、また書きますね。
2016/6/23 Thu
すぐれた小説は時代を超えて読み継がれる価値がある。特に現代社会を形作った18世紀から20世紀前半にかけての時代、ヨーロッパ社会で生まれた文学には人間や社会について考えさせられる素材にあふれています。
その読書を「死者との対話」と呼んだ人がいます。うまい言い方をするものだと思いました。
僕たちは家で、街で、図書館で、本さえあれば簡単にゲーテやトルストイやドストエフスキーやブロンテなどと向かい合って話ができます。別にスピリチュアルなものに関心がなくても、書き残したものがあれば、私たちは死者と対話ができるのです。
もちろん、それはごく限られた文学者や学者との間で可能なことで、そうでない一般大衆には縁のないことでしょう。これまではそうでした。しかし、これからの時代はそれも可能なことではないかと思います。ただし、不特定多数の人でなく、ある家族・ある仲間との間でなら、ということですが。
僕は父の人生を書いてみました。
父は2008年の12月に亡くなりました。家族や親しい者の死も1年ほどたつと悲しいだの寂しいだの、という気持ちは薄れ、彼らは自分の人生においてどんな存在だったのだろう?どんなメッセージを遺していったのだろう?といったことを考えます。
父のことを書いてみようと思い立ったのは、それだけがきっかけではありませんでした。
死後、間もない時に、社会保険事務所で遺族年金の手続きをする際に父の履歴書を書いて提出しました。その時に感じたのは、血を分けた家族のことでも知らないことがたくさんあるな、ということでした。
じつはそれは当り前のことなのだが、それまではっきりとは気が付いていませんでした。なんとなく父のことも母のこともよく知っていると思いすごしていたのです。
実際は私が知っているのは、私の父親としての部分、母親としての部分だけであり、両親が男としてどうだったか、女としてどうだったか、ひとりの人間としてどうだったのか、といったことなど、ほとんど知りませんでした。数十年も親子をやっていて、知るきっかけなどなかったのです。
父の仕事ひとつ取ってもそうでした。僕の知っている父の仕事は瓦の葺換え職人だが、それは30歳で独立してからのことで、その前――20代のときは工場に勤めたり、建築会社に勤めたりしていたのです。それらは亡くなってから初めて聞いた話です。
そうして知った事実を順番に並べて履歴書を作ったのですが、その時には強い違和感というか、抵抗感のようなものを感じました。それは父というひとりの人間の人生の軌跡が、こんな紙切れ一枚の中に納まってしまうということに対しての、寂しさというか、怒りというか、何とも納得できない気持ちでした。
父は不特定多数の人たちに興味を持ってもらえるような、波乱万丈な、生きる迫力に満ち溢れた人生を歩んだわけはありませんい。むしろそれらとは正反対の、よくありがちな、ごく平凡な庶民の人生を送ったのだと思います。
けれどもそうした平凡な人生の中にもそれなりのドラマがあります。そして、そのドラマには、その時代の社会環境の影響を受けた部分が少なくありません。たとえば父の場合は、昭和3年(1928年)に生まれ、平成元年(1989年)に仕事を辞めて隠居していました。その人生は昭和の歴史とほぼ重なっています。
ちなみにこの昭和3年という年を調べてみると、アメリカでミッキーマウスの生まれた(ウォルト・ディズニーの映画が初めて上映された)年です。
父は周囲の人たちからは実直でまじめな仕事人間と見られていましたが、マンガや映画が好きで、「のらくろ」だの「冒険ダン吉」だのの話をよく聞かせてくれました。その時にそんなことも思い出したのです。
ひとりの人間の人生――この場合は父の人生を昭和という時代にダブらせて考えていくと、昭和の出来事を書き連ねた年表のようなものとは、ひと味違った、その時代の人間の意識の流れ、社会のうねりの様子みたいなものが見えてきて面白いのではないか・・・。そう考えて、僕は父に関するいくつかの個人的なエピソードと、昭和の歴史の断片を併せて書き、家族や親しい人たちが父のことを思い起こし、対話できるための一遍の物語を作ってみようと思い立ちました。
本当はその物語は父が亡くなる前に書くべきだったのではないかと、少し後悔の念が残っています。
生前にも話を聞いて本を書いてみようかなと、ちらりと思ったことはあるのですが、とうとう父自身に自分の人生を振り返って……といった話を聞く機会はつくれませんでした。たとえ親子の間柄でも、そうした機会を持つことは難しいのです。思い立ったら本気になって直談判しないと、そして双方互いに納得できないと永遠につくることはできません。あるいは、これもまた難しいけど、本人がその気になって自分で書くか・・・。それだけその人固有の人生は貴重なものであり、それを正確に、満足できるように表現することは至難の業なのだと思います。
実際に始めてから困ったのは、父の若い頃のことを詳しく知る人など、周囲にほとんどいないということ。また、私自身もそこまで綿密に調査・取材ができるほど、時間や労力をかけるわけにもいきませんでした。
だから母から聞いた話を中心に、叔父・叔母の話を少し加える程度にとどめ、その他、本やインターネットでその頃の時代背景などを調べながら文章を組み立てる材料を集めました。そして自分の記憶――心に残っている言葉・出来事・印象と重ね合わせて100枚程度の原稿を作ってみたのです。
自分で言うのもナンですが、情報不足は否めないものの、悪くない出来になっていて気に入っています。これがあるともうこの世にいない父と少しは対話できる気がするのです。自分の気持ちを落ち着かせ、互いの生の交流を確かめ、父が果たした役割、自分にとっての存在の意味を見出すためにも、こうした家族や親しい者の物語をつくることはとても有効なのではないかと思います。
高齢化が進む最近は「エンディングノート」というものがよく話題に上っています。
「その日」が来た時、家族など周囲の者がどうすればいいか困らないように、いわゆる社会的な事務手続き、お金や相続のことなどを書き残すのが、今のところ、エンディングノートの最もポピュラーな使い方になっているようだ。
もちろん、それはそれで、逝く者にとっても、後に残る者にとっても大事なことです。しかし、そうすると結局、その人の人生は、いくらお金を遺したかとか、不動産やら建物を遺したのか、とか、そんな話ばかりで終わってしまう恐れもあります。その人の人生そのものが経済的なこと、物質的なものだけで多くの人に価値判断されてしまうような気がするのです。
けれども本当に大事なのは、その人の人生にどんな意味や価値があったのか、を家族や友人・知人たちが共有することが出来る、ということではないでしょうか。
そして、もしその人の生前にそうしたストーリーを書くことができれば、その人が人生の最期の季節に、自分自身を取り戻せる、あるいは、取り戻すきっかけになり得る、ということではないでしょうか。
♪赤い仮面は謎の人 どんな顔だか知らないが キラリと光る涼しい目 仮面の忍者だ
赤影だ~
というのは、テレビの「仮面の忍者 赤影」の主題歌でしたが、涼しい目かどうかはともかく、僕のメガネは10数年前から「赤影メガネ」です。これにはちょっとした物語(というほどのものではないけど)があります。
当時、小1だか2年の息子を連れてメガネを買いに行きました。
それまでは確か茶色の細いフレームの丸いメガネだったのですが、今回は変えようかなぁ、どうしようかなぁ・・・とあれこれ見ていると、息子が赤フレームを見つけて「赤影!」と言って持ってきたのです。
「こんなの似合うわけないじゃん」と思いましたが、せっかく選んでくれたのだから・・・と、かけてみたら似合った。子供の洞察力おそるべし。てか、単に赤影が好きだっただけ?
とにかく、それ以来、赤いフレームのメガネが、いつの間にか自分のアイキャッチになっていました。自分の中にある自分のイメージと、人から見た自分とのギャップはとてつもなく大きいもの。
独立・起業・フリーランス化ばやりということもあり、セルフブランディングがよく話題になりますが、自分をどう見せるかというのはとても難しい。自分の中にある自分のイメージと、人から見た自分とのギャップはとてつもなく大きいのです。
とはいえ、自分で気に入らないものを身に着けてもやっぱり駄目。できたら安心して相談できる家族とか、親しい人の意見をしっかり聞いて(信頼感・安心感を持てない人、あんまり好きでない人の意見は素直に聞けない)、従来の考え方にとらわれない自分像を探していきましょう。
・・・って、なんだか歌か小説のタイトルみたいですね。そうでもない?
ま、それはいいんですが、この間の朝、実際に会いました。ひとりでそそくさとベビーカーを押していた彼の姿が妙に心に焼き付き、いろいろなことがフラッシュバックしました。
BACK in the NEW YORK CITY。
僕が初めてニューヨークに行ったのは約30年前。今はどうだか知らないけど、1980年代のNYCときたらやっぱ世界最先端の大都会。しかし、ぼくがその先端性を感じたのは、ソーホーのクラブやディスコでもなでもなく、イーストビレッジのアートギャラリーでもなく、ブロードウェイのミュージカルでもなく、ストリートのブレイクダンスでもなく、セントラルパークで一人で子供と散歩しているパパさんたちでした。
特におしゃれでも何でもない若いパパさんたちが、小さい子をベビーカーに乗せていたり、抱っこひもでくくってカンガルーみたいな格好で歩いていたり、芝生の上でご飯を食べさせたり、オムツを替えたりしていたのです。
そういう人たちはだいたい一人。その時、たまたま奥さんがほっとその辺まで買い物に行っているのか、奥さんが働いて旦那がハウスハズバンドで子育て担当なのか、はたまた根っからシングルファーザーなのかわかりませんが、いずれにしてもその日その時、出会った彼らはしっかり子育てが板についている感じでした。
衝撃!・・というほどでもなかったけど、なぜか僕は「うーん、さすがはニューヨークはイケてるぜ」と深く納得し、彼らが妙にカッコよく見えてしまったのです。
そうなるのを念願していたわけではないけれど、それから約10年後。
1990年代後半の練馬区の路上で、僕は1歳になるかならないかの息子をベビーカーに乗せて歩いていました。たしか「いわさきちひろ美術館」に行く途中だったと思います。
向こう側からやってきたおばさんが、じっと僕のことを見ている。
なんだろう?と気づくと、トコトコ近寄ってきて、何やら話しかけてくる。
どこから来たのか?どこへ行くのか? この子はいくつか? 奥さんは何をやっているのいか?などなど・・・
「カミさんはちょっと用事で、今日はいないんで」と言うと、ずいぶん大きなため息をつき、「そうなの。私はまた逃げられたと思って」と。
おいおい、たとえそうだとしても、知らないあんたに心配されたり同情されたりするいわれはないんだけど。
別に腹を立てたわけではありませんが、世間からはそういうふうにも見えるんだなぁと、これまた深く納得。
あのおばさんは口に出して言ったけど、心の中でそう思ってて同情だか憐憫だかの目で観ている人は結構いるんだろうなぁ、と感じ入った次第です。
というのが、今から約20年前のこと。
その頃からすでに「子育てしない男を父とは呼ばない」なんてキャッチコピーが出ていましたが、男の子育て環境はずいぶん変化したのでしょうか?
表面的には イクメンがもてはやされ、育児関係・家事関係の商品のコマーシャルにも、ずいぶん男が出ていますが、実際どうなのでしょうか?
件のベビーカーにしても、今どき珍しくないだろう、と思いましたが、いや待てよ。妻(母)とカップルの時は街の中でも電車の中でもいる。それから父一人の時でも子供を自転車に乗せている男はよく見かける。だが、ベビーカーを“ひとりで”押している男はそう頻繁には見かけない。これって何を意味しているのだろう? と、考えてしまいました。
ベビーカーに乗せている、ということは、子供はだいたい3歳未満。保育園や幼稚園に通うにはまだ小さい。普段は家で母親が面倒を見ているというパターンがやはりまだまだ多いのでしょう。
そういえば、保育園の待機児童問題って、お母さんの声ばかりで、お父さんの声ってさっぱり聞こえてこない。そもそも関係あるのか?って感じに見えてしまうんだけど、イクメンの人たちの出番はないのでしょうか・・・。
2016年6月16日
インターネットの出現は社会を変えた――ということは聞き飽きるほど、あちこちで言われています。けれどもインターネットが本格的に普及したのは、せいぜいここ10年くらいの話。全世代、全世界を見渡せば、まだ高齢者の中には使ったことがないという人も多いし、国や地域によって普及率の格差も大きい。だから、その変化の真価を国レベル・世界レベルで、僕たちが実感するのはまだこれからだと思います。
それは一般によくいわれる、情報収集がスピーディーになったとか、通信販売が便利になったとか、というカテゴリーの話とは次元が違うものです。もっと人間形成の根本的な部分に関わることであり、ホモサピエンスの文化の変革にまでつながること。それは新しい民間伝承――フォークロアの誕生です。
“成長過程で自然に知ってしまう”昔話・伝承
最初はどこでどのように聞いたのか覚えてないですが、僕たちは自分でも驚くほど、昔話・伝承をよく知っています。成長の過程のどこかで桃太郎や浦島太郎や因幡の白ウサギと出会い、彼らを古い友だちのように思っています。
家庭でそれらの話を大人に読んでもらったこともあれば、幼稚園・保育園・小学校で体験したり、最近ならメディアでお目にかかることも多い。それはまるで遺伝子に組み込まれているかのように、あまりに自然に身体の中に溶け込んでいるのです。
調べて確認したわけではないが、こうした感覚は日本に限らず、韓国でも中国でもアメリカでもヨーロッパでも、その地域に住んでいる人なら誰でも持ち得るのではないでしょうか。おそらく同じような現象があると思います。それぞれどんな話がスタンダードとなっているのかは分かりませんが、その国・その地域・その民族の間で“成長過程で自然に知ってしまう”昔話・伝承の類が一定量あるのです。
それらは長い時間を生きながらえるタフな生命エネルギーを持っています。それだけのエネルギーを湛えた伝承は、共通の文化の地層、つまり一種のデータベースとして、万人の脳の奥底に存在しています。その文化の地層の上に、その他すべての情報・知識が積み重なっている――僕はそんなイメージを持っています。
世界共通の、新しいカテゴリーの伝承
そして、昔からあるそれとは別に、これから世界共通の、新しいカテゴリーの伝承が生まれてくる。その新しい伝承は人々の間で共通の文化の地層として急速に育っていくのでないか。そうした伝承を拡散し、未来へ伝える役目を担っているのがインターネット、というわけです。
ところで新しい伝承とは何でしょう? その主要なものは20世紀に生まれ、花開いた大衆文化――ポップカルチャーではないでしょうか。具体的に挙げていけば、映画、演劇、小説、マンガ、音楽(ジャズ、ポップス、ロック)の類です。
21世紀になる頃から、こうしたポップカルチャーのリバイバルが盛んに行われるようになっていました。
人々になじみのあるストーリー、キャラクター。
ノスタルジーを刺激するリバイバル・コンテンツ。
こうしたものが流行るのは、情報発信する側が、商品価値の高い、新しいものを開発できないためだと思っていました。
そこで各種関連企業が物置に入っていたアンティーク商品を引っ張り出してきて、売上を確保しようとした――そんな事情があったのでしょう。実際、最初のうちはそうだったはずです。
だから僕は結構冷めた目でそうした現象を見ていました。そこには半ば絶望感も混じっていたと思います。前の世代を超える、真に新しい、刺激的なもの・感動的なものは、この先はもう現れないのかも知れない。出尽くしてしまったのかも知れない、と……。
しかし時間が経ち、リバイバル現象が恒常化し、それらの画像や物語が、各種のサイトやYouTubeの動画コンテンツとして、ネット上にあふれるようになってくると考え方は変わってきました。
それらのストーリー、キャラクターは、もはや単なるレトロやリバイバルでなく、世界中の人たちの共有財産となっています。いわば全世界共通の伝承なのです。
僕たちは欧米やアジアやアフリカの人たちと「ビートルズ」について、「手塚治虫」について、「ガンダム」について、「スターウォーズ」について語り合えるし、また、それらを共通言語にして、子や孫の世代とも同様に語り合えます。
そこにボーダーはないし、ジェネレーションギャップも存在しません。純粋にポップカルチャーを媒介にしてつながり合う、数限りない関係が生まれるのです。
また、これらの伝承のオリジナルの発信者――ミュージシャン、映画監督、漫画家、小説家などによって、あるいは彼ら・彼女らをリスペクトするクリエイターたちによって自由なアレンジが施され、驚くほど新鮮なコンテンツに生まれ変わる場合もあります。
インターネットの本当の役割
オリジナル曲をつくった、盛りを過ぎたアーティストたちが、子や孫たち世代の少年・少女と再び眩いステージに立ち、自分の資産である作品を披露。それをYouTubeなどを介して広めている様子なども頻繁に見かけるようになりました。
それが良いことなのか、悪いことなのか、評価はさておき、そうした状況がインタ―ネットによって現れています。これから10年たち、20年たち、コンテンツがさらに充実し、インターネット人口が現在よりさらに膨れ上がれば、どうなるでしょうか?
おそらくその現象は空気のようなものとして世の中に存在するようになり、僕たちは新たな世界的伝承として、人類共通の文化遺産として、完成された古典として見なすようになるでしょう。人々は分かりやすく、楽しませてくれるものが大好きだからです。
そして、まるで「桃太郎」のお話を聞くように、まっさらな状態で、これらの伝承を受け取った子供たちが、そこからまた新しい、次の時代の物語を生みだしていきます。
この先、そうした現象が必ず起こると思う。インターネットという新参者のメディアはその段階になって、さらに大きな役割を担うのでしょう。それは文化の貯蔵庫としての価値であり、さらに広げて言えば、人類の文化の変革につながる価値になります。
2016年6月13日
ここのところ、雑誌の連載で地方のことを書いています。
書くときはまずベーシックな情報(最初のリード文として使うこともあるので)をインターネットで調べます。
これはウィキペディアなどの第3者情報よりも、各県の公式ホームページの方が断然面白い。自分たちの県をどう見せ、何をアピールしたいかがよくわかるからです。
なんでも市場価値が問われる時代。「お役所仕事云々・・・」と言われることが多い自治体ですが、いろいろ努力して、ホームページも工夫しています。
最近やった宮崎県のキャッチコピーは「日本のひなた」。
日照時間の多さ、そのため農産物がよく獲れるということのアピール。
そしてもちろん、人や土地のやさしさ、あったかさ、ポカポカ感を訴えています。
いろいろな人たちがお日さまスマイルのフリスビーを飛ばして、次々と受け渡していくプロモーションビデオは、単純だけど、なかなか楽しかった。
それから「ひなた度データ」というのがあって、全国比率のいろいろなデータが出ています。面白いのが、「餃子消費量3位」とか、「中学生の早寝早起き率 第3位」とか、「宿題実行率 第4位」とか、「保護者の学校行事参加率 第2位」とか・・・
「なんでこれがひなた度なんじゃい!」とツッコミを入れたくなるのもいっぱい。だけど好きです、こういうの。
取材するにしても、いきなり用件をぶつけるより、「ホームページ面白いですね~」と切り出したほうが、ちょっとはお役所臭さが緩和される気がします。
「あなたのひなた度は?」というテストもあって、やってみたら100パーセントでした。じつはまだ一度も行ったことないけれど、宮崎県を応援したくなるな。ポカポカ。
2016年6月12日
きのう6月10日は「時の記念日」でした。それに気がついたら頭の中で突然、サディスティック・ミカ・バンドの「タイムマシンにおねがい」が鳴り響いてきたので、YouTubeを見てみたら、1974年から2006年まで、30年以上にわたるいろいろなバージョンが上がっていました。本当にインターネットの世界でタイムマシン化しています。
これだけ昔の映像・音源が見放題・聞き放題になるなんて10年前は考えられませんでした。こういう状況に触れると、改めてインターネットのパワーを感じると同時に、この時代になるまで生きててよかった~と、しみじみします。
そしてまた、ネットの中でならおっさん・おばさんでもずっと青少年でいられる、ということを感じます。60~70年代のロックについて滔々と自分の思い入れを語っている人がいっぱいいますが、これはどう考えても50代・60代の人ですからね。
でも、彼ら・彼女らの頭の中はロックに夢中になっていた若いころのまんま。脳内年齢は10代・20代。インターネットに没頭することは、まさしくタイムマシンンに乗っているようなものです。
この「タイムマシンにおねがい」が入っているサディスティック・ミカ・バンドの「黒船」というアルバムは、1974年リリースで、いまだに日本のロックの最高峰に位置するアルバムです。若き加藤和彦が作った、世界に誇る傑作と言ってもいいのではないでしょうか。
中でもこの曲は音も歌詞もゴキゲンです。いろいろ見た(聴いた)中でいちばんよかったのは、最新(かな?)の2006年・木村カエラ・ヴォーカルのバージョンです。おっさんロッカーたちをバックに「ティラノサウルスおさんぽ アハハハ-ン」とやってくれて、くらくらっときました。
やたらと「オリジナルでなきゃ。あのヴォーカルとあのギターでなきゃ」とこだわる人がいますが、僕はそうは思わない。みんなに愛される歌、愛されるコンテンツ、愛される文化には、ちゃんと後継ぎがいて、表現技術はもちろんですが、それだけでなく、その歌・文化の持ち味を深く理解し、見事に自分のものとして再現します。中には「オリジナルよりいいじゃん!」と思えるものも少なくありません。(この木村カエラがよい例)。
この歌を歌いたい、自分で表現したい!――若い世代にそれだけ強烈に思わせる、魅力あるコンテンツ・文化は生き残り、クラシックとして未来に継承されていくのだと思います。
もう一つおまけに木村カエラのバックでは、晩年の加藤和彦さんが本当に楽しそうに演奏をしていました。こんなに楽しそうだったのに、どうして自殺してしまったのだろう・・・と、ちょっと哀しくもなったなぁ。
2016年6月11日
9日間にわたって放送してきた「歴人めし」は、昨日の「信長巻きの巻」をもっていったん終了。しかし、ご安心ください。7月は夜の時間帯に再放送があります。ぜひ見てくださいね。というか、You Tubeでソッコー見られるみたいですが。
https://www.ch-ginga.jp/movie-detail/series.php?series_cd=12041
この仕事では歴人たちがいかに食い物に執念を燃やしていたかがわかりました。 もちろん、記録に残っているのはほんの少し。
源内さんのように、自分がいかにうなぎが好きか、うなぎにこだわっているか、しつこく書いている人も例外としていますが、他の人たちは自分は天下国家のことをいつも考えていて、今日のめしのことなんかどうでもいい。カスミを食ってでの生きている・・・なんて言い出しそうな勢いです。
しかし、そんなわけはない。偉人と言えども、飲み食いと無関係ではいられません。 ただ、それを口に出して言えるのは、平和な世の中あってこそなのでしょう。だから日本の食文化は江戸時代に発展し、今ある日本食が完成されたのです。
そんなわけで、「おかわり」があるかもしれないよ、というお話を頂いているので、なんとなく続きを考えています。
駿河の国(静岡)は食材豊富だし、来年の大河の井伊直虎がらみで何かできないかとか、 今回揚げ物がなかったから、何かできないかとか(信長に捧ぐ干し柿入りドーナツとかね)、
柳原先生の得意な江戸料理を活かせる江戸の文人とか、明治の文人の話だとか、
登場させ損ねてしまった豊臣秀吉、上杉謙信、伊達政宗、浅井三姉妹、新選組などの好物とか・・・
食について面白い逸話がありそうな人たちはいっぱいいるのですが、柳原先生の納得する人物、食材、メニュー、ストーリーがそろって、初めて台本にできます。(じつは今回もプロット段階でアウトテイク多数)
すぐにとはいきませんが、ぜひおかわりにトライしますよ。
それまでおなかをすかせて待っててくださいね。ぐ~~。
2016年6月7日
信長が甘いもの好きというのは、僕は今回のリサーチで初めて知りました。お砂糖を贈答したり、されたりして外交に利用していたこともあり、あちこちの和菓子屋さんが「信長ゆかりの銘菓」を開発して売り出しているようです。ストーリーをくっつけると、同じおまんじゅうやあんころもちでも何だか特別なもの、他とは違うまんじゅうやあんころもちに思えてくるから不思議なものです。
今回、ゆかりの食材として採用したのは「干し柿」と「麦こがし(ふりもみこがし)」。柿は、武家伝統の本膳料理(会席料理のさらに豪華版!)の定番デザートでもあり、記録をめくっていると必ず出てきます。
現代のようなスイーツパラダイスの時代と違って、昔の人は甘いものなどそう簡単に口にできませんでした。お砂糖なんて食品というよりは、宝石や黄金に近い超ぜいたく品だったようです。だから信長に限らず、果物に目のない人は大勢いたのでしょう。
中でもは干し柿にすれば保存がきくし、渋柿もスイートに変身したりするので重宝されたのだと思います。
「信長巻き」というのは柳原尚之先生のオリジナル。干し柿に白ワインを染み込ませるのと、大徳寺納豆という、濃厚でしょっぱい焼き味噌みたいな大豆食品をいっしょに巻き込むのがミソ。
信長は塩辛い味も好きで、料理人が京風の上品な薄味料理を出したら「こんな水臭いものが食えるか!」と怒ったという逸話も。はまった人なら知っている、甘い味としょっぱい味の無限ループ。交互に食べるともうどうにも止まらない。信長もとりつかれていたのだろうか・・・。
ちなみに最近の映画やドラマの中の信長と言えば、かっこよくマントを翻して南蛮渡来の洋装を着こなして登場したり、お城の中のインテリアをヨーロッパの宮殿風にしたり、といった演出が目につきます。
スイーツ好きとともに、洋風好き・西洋かぶれも、今やすっかり信長像の定番になっていますが、じつはこうして西洋文化を積極的に採り入れたのも、もともとはカステラだの、金平糖だの、ボーロだの、ポルトガルやスペインの宣教師たちが持ち込んできた、砂糖をたっぷり使った甘いお菓子が目当てだったのです。(と、断言してしまう)
「文化」なんていうと何やら高尚っぽいですが、要は生活習慣の集合体をそう呼ぶまでのこと。その中心にあるのは生活の基本である衣食住です。
中でも「食」の威力はすさまじく、これに人間はめっぽう弱い。おいしいものの誘惑からは誰も逃れられない。そしてできることなら「豊かな食卓のある人生」を生きたいと願う。この「豊かな食卓」をどう捉えるかが、その人の価値観・生き方につながるのです。
魔王と呼ばれながら、天下統一の一歩手前で倒れた信長も、突き詰めればその自分ならではの豊かさを目指していたのではないかと思うのです。
2016年6月6日
「豊臣秀吉がまだ木下藤吉郎だったころ、琵琶湖のほとりに金目教という怪しい宗教が流行っていた・・・」というナレーションで始まるのは「仮面の忍者・赤影」。子供の頃、夢中になってテレビにかじりついていました。
時代劇(忍者もの)とSF活劇と怪獣物をごちゃ混ぜにして、なおかつチープな特撮のインチキスパイスをふりかけた独特のテイストは、後にも先にもこの番組だけ。僕の中ではもはや孤高の存在です。
いきなり話が脱線していますが、赤影オープニングのナレーションで語られた「琵琶湖のほとり」とは滋賀県長浜あたりのことだったのだ、と気づいたのは、ちょうど10年前の今頃、イベントの仕事でその長浜に滞在していた時です。
このときのイベント=期間限定のラジオ番組制作は、大河ドラマ「功名が辻」関連のもの。4月~6月まで断続的に数日ずつ訪れ、街中や郊外で番組用の取材をやっていました。春でもちょっと寒いことを我慢すれば、賑わいがあり、かつまた、自然や文化財にも恵まれている、とても暮らしやすそうな良いところです。
この長浜を開いたのは豊臣秀吉。そして秀吉の後を継いで城主になったのが山内一豊。「功名が辻」は、その一豊(上川隆也)と妻・千代(仲間由紀恵)の物語。そして本日の歴人めし♯9は、この一豊ゆかりの「カツオのたたき」でした。
ところが一豊、城主にまでしてもらったのに秀吉の死後は、豊臣危うしと読んだのか、関が原では徳川方に寝返ってしまいます。つまり、うまいこと勝ち組にすべり込んだわけですね。
これで一件落着、となるのが、一豊の描いたシナリオでした。
なぜならこのとき、彼はもう50歳。人生50年と言われた時代ですから、その年齢から本格的な天下取りに向かった家康なんかは例外中の例外。そんな非凡な才能と強靭な精神を持ち合わせていない、言ってみればラッキーで何とかやってきた凡人・一豊は、もう疲れたし、このあたりで自分の武士人生も「あがり」としたかったのでしょう。
できたら、ごほうびとして年金代わりに小さな領地でももらって、千代とのんびり老後を過ごしたかったのだと思います。あるいは武士なんかやめてしまって、お百姓でもやりながら余生を・・・とひそかに考えていた可能性もあります。
ところが、ここでまた人生逆転。家康からとんでもないプレゼントが。
「土佐一国をおまえに任せる」と言い渡されたのです。
一国の領主にしてやる、と言われたのだから、めでたく大出世。一豊、飛び上がって喜んだ・・・というのが定説になっていますが、僕はまったくそうは思いません。
なんせ土佐は前・領主の長曾我部氏のごっつい残党がぞろぞろいて、新しくやってくる領主をけんか腰で待ち構えている。徳川陣営の他の武将も「あそこに行くのだけは嫌だ」と言っていたところです。
現代に置き換えてみると、後期高齢者あたりの年齢になった一豊が、縁もゆかりもない外国――それも南米とかのタフな土地へ派遣されるのようなもの。いくらそこの支店長のポストをくれてやる、と言われたって全然うれしくなんかなかったでしょう。
けれども天下を収めた家康の命令は絶対です。断れるはずがありません。
そしてまた、うまく治められなければ「能無し」というレッテルを貼られ、お家とりつぶしになってしまいます。
これはすごいプレッシャーだったでしょう。「勝ち組になろう」なんて魂胆を起こすんじゃなかった、と後悔したに違いありません。
こうして不安と恐怖、ストレスで萎縮しまくってたまま土佐に行った一豊の頭がまともに働いたとは思えません。豊富に採れるカツオをがつがつ生で食べている連中を見て、めちゃくちゃな野蛮人に見えてしまったのでしょう。
人間はそれぞれの主観というファンタジーの中で生きています。ですから、この頃の彼は完全に「土佐人こわい」という妄想に支配されてしまったのです。
「功名が辻」では最後の方で、家来が長曾我部の残党をだまして誘い出し、まとめて皆殺しにしてしまうシーンがあります。これは家来が独断で行ったことで、一豊は関与していないことになっていますが、上司が知らなったわけがありません。
こうして不安と恐怖、ストレスで萎縮しまくってたまま土佐に行った一豊の頭がまともに働いたとは思えません。豊富に採れるカツオをがつがつ生で食べている連中を見て、めちゃくちゃな野蛮人に見えてしまったのでしょう。
人間はそれぞれの主観というファンタジーの中で生きています。ですから、この頃の彼は完全に「土佐人こわい」という妄想に支配されてしまったのです。
「功名が辻」では最後の方で、家来が長曾我部の残党をだまして誘い出し、まとめて皆殺しにしてしまうシーンがあります。これは家来が独断で行ったことで、一豊は関与していないことになっていますが、上司が知らなったわけがありません。
恐怖にかられてしまった人間は、より以上の恐怖となる蛮行、残虐行為を行います。
一豊は15代先の容堂の世代――つまり、250年後の坂本龍馬や武市半平太の時代まで続く、武士階級をさらに山内家の上士、長曾我部氏の下士に分けるという独特の差別システムまで発想します。
そうして土佐にきてわずか5年で病に倒れ、亡くなってしまった一豊。寿命だったのかもしれませんが、僕には土佐統治によるストレスで命を縮めたとしか思えないのです。
「カツオのたたき」は、食中毒になる危険を慮った一豊が「カツオ生食禁止令」を出したが、土佐の人々はなんとかおいしくカツオを食べたいと、表面だけ火であぶり、「これは生食じゃのうて焼き魚だぜよ」と抗弁したところから生まれた料理――という話が流布しています。
しかし、そんな禁止令が記録として残っているわけではありません。やはりこれはどこからか生えてきた伝説なのでしょう。
けれども僕はこの「カツオのたたき発祥物語」が好きです。それも一豊を“民の健康を気遣う良いお殿様”として解釈するお話でなく、「精神的プレッシャーで恐怖と幻想にとりつかれ、カツオの生食が、おそるべき野蛮人たちの悪食に見えてしまった男の物語」として解釈してストーリーにしました。
随分と長くなってしまいましたが、ここまで書いてきたバックストーリーのニュアンスをイラストの方が、短いナレーションとト書きからじつにうまく掬い取ってくれて、なんとも情けない一豊が画面で活躍することになったのです。
一豊ファンの人には申し訳ないけど、カツオのたたきに負けず劣らず、実にいい味出している。マイ・フェイバリットです。
2016年6月3日
歴人めし第7回は「徳川家康―八丁味噌の冷汁と麦飯」。
「これが日本人の正しい食事なのじゃ」と家康が言ったかどうかは知りませんが、米・麦・味噌が長寿と健康の基本の3大食材と言えば、多くの日本人は納得するのではないでしょうか。エネルギー、たんぱく質、ビタミン、その他の栄養素のバランスも抜群の取り合わせです。
ましてやその発言の主が、天下を統一して戦国の世を終わらせ、パックス・トクガワ―ナを作った家康ならなおのこと。実際、家康はこの3大食材を常食とし、かなり養生に努めていたことは定説になっています。
昨年はその家康の没後400年ということで、彼が城を構えた岡崎・浜松・静岡の3都市で「家康公400年祭」というイベントが開催され、僕もその一部の仕事をしました。
そこでお会いしたのが、岡崎城から歩いて八丁(約780メートル)の八丁村で八丁味噌を作っていた味噌蔵の後継者。
かのメーカー社長は現在「Mr.Haccho」と名乗り、毎年、海外に八丁味噌を売り込みに行っているそうで、日本を代表する調味料・八丁味噌がじわじわと世界に認められつつあるようです。
ちなみに僕は名古屋の出身なので子供の頃から赤味噌に慣れ親しんできました。名古屋をはじめ、東海圏では味噌と言えば、赤味噌=豆味噌が主流。ですが、八丁味噌」という食品名を用いれるのは、その岡崎の元・八丁村にある二つの味噌蔵――現在の「まるや」と「カクキュー」で作っているものだけ、ということです。
しかし、養生食の米・麦・味噌をがんばって食べ続け、健康に気を遣っていた家康も、平和な世の中になって緊張の糸がプツンと切れたのでしょう。
がまんを重ねて押さえつけていた「ぜいたくの虫」がそっとささやいたのかもしれません。
「もういいんじゃないの。ちょっとぐらいぜいたくしてもかまへんで~」
ということで、その頃、京都でブームになっていたという「鯛の天ぷら」が食べた~い!と言い出し、念願かなってそれを口にしたら大当たり。おなかが油に慣れていなかったせいなのかなぁ。食中毒がもとで亡くなってしまった、と伝えられています。
でも考えてみれば、自分の仕事をやり遂げて、最期に食べたいものをちゃんと食べられて旅立ったのだから、これ以上満足のいく人生はなかったのではないでしょうか。
2016年6月2日
絶好調「真田丸」に続く2017年大河は柴咲コウ主演「おんな城主 直虎」。今年は男だったから来年は女――というわけで、ここ10年あまり、大河は1年ごとに主人公が男女入れ替わるシフトになっています。
だけど女のドラマは難しいんです。なかなか資料が見つけらない。というか、そもそも残っていな。やはり日本の歴史は(外国もそうですが)圧倒的に男の歴史なんですね。
それでも近年、頻繁に女主人公の物語をやるようになったのは、もちろん女性の視聴者を取り込むためだけど、もう一つは史実としての正確さよりも、物語性、イベント性を重視するようになってきたからだと思います。
テレビの人気凋落がよく話題になりますが、「腐っても鯛」と言っては失礼だけど、やっぱ日曜8時のゴールデンタイム、「お茶の間でテレビ」は日本人の定番ライフスタイルです。
出演俳優は箔がつくし、ゆかりの地域は観光客でにぎわうって経済も潤うし、いろんなイベントもぶら下がってくるし、話題も提供される・・・ということでいいことづくめ。
豪華絢爛絵巻物に歴史のお勉強がおまけについてくる・・・ぐらいでちょうどいいのです。(とはいっても、制作スタッフは必死に歴史考証をやっています。ただ、部分的に資料がなくても諦めずに面白くするぞ――という精神で作っているということです)
と、すっかり前置きが長くなってしまいましたが、なんとか「歴人めし」にも一人、女性を入れたいということで、あれこれ調べた挙句、やっと好物に関する記録を見つけたのが、20082年大河のヒロイン「篤姫」。本日は天璋院篤姫の「お貝煮」でした。
見てもらえればわかるけど、この「お貝煮」なる料理、要するにアワビ入りの茶碗蒸しです。その記述が載っていたのが「御殿女中」という本。この本は明治から戦前の昭和にかけて活躍した、江戸文化・風俗の研究家・三田村鳶魚の著作で。篤姫付きの女中をしていた“大岡ませ子”という女性を取材した、いわゆる聞き書きです。
明治も30年余り経ち、世代交代が進み、新しい秩序・社会体制が定着してくると、以前の時代が懐かしくなるらしく、「江戸の記憶を遺そう」というムーブメントが文化人の間で起こったようです。
そこでこの三田村鳶魚さんが、かなりのご高齢だったます子さんに目をつけ、あれこれ大奥の生活について聞き出した――その集成がこの本に収められているというわけです。これは現在、文庫本になっていて手軽に手に入ります。
ナレーションにもしましたが、ヘアメイク法やら、ファッションやら、江戸城内のエンタメ情報やらも載っていて、なかなか楽しい本ですが、篤姫に関するエピソードで最も面白かったのが飼いネコの話。
最初、彼女は狆(犬)が買いたかったようなのですが、夫の徳川家定(13代将軍)がイヌがダメなので、しかたなくネコにしたとか。
ところが、このネコが良き相棒になってくれて、なんと16年もいっしょに暮らしたそうです。彼女もペットに心を癒された口なのでしょうか。
そんなわけでこの回もいろんな発見がありました。
続編では、もっと大勢の女性歴人を登場させ、その好物を紹介したいと思っています。
2016年6月1日
今年の大河ドラマ「どうする家康」はどうやら、
「家康はいい人だったから天下を取れた」
という物語になりそうな気配だ。
もともと家康役が松潤なので、
初回のヘタレぶりから、
どうもそういう話になるんじゃ・・・
という気配はしていたが、
昨日の「氏真」の回でそれを確信した。
どういう話だったかは、
ネットであらすじを読むか、
NHKプラスを見るか、
今度の土曜の再放送を見るかしてほしいが、
とにかく家康は、追い詰めた今川氏真(溝端淳平)を
殺せず、助けてしまう、情に厚い“いい人”。
しかも氏真の奥さんがこれまた、夫思いのとてもいい人。
さらに、とっくの昔に出番が終わってたはずの
今川義元が回想シーンでよみがえり、
感動的なお父さんぶりを見せる。
野村萬斎をキャスティングしておいて、
あれで終わりかいと思っていたが、
最後(死んだ後だけど)にちゃんと見せ場を残して、
スポットライトを浴びせてくれた。
そんなわけで、友愛、夫婦愛、親子愛の
人情ドラマ3連荘で、泣かせるわ、泣かせるわ。
この後、今川氏真は、
戦国武将としては表舞台から退場するが、
家康の手引きで北条氏の領土に逃げて生き延び、
文化人となって、のちに密かに家康に影響を及ぼす。
いちおうそうした史実も踏まえてドラマ化している。
これまで今川親子なんて、
信長や信玄の引き立て役・滅ぼされた負け組として
ずさんな扱われ方しかされなかったが、
ここまで丁寧に人間的に描いたのは良かったと思う。
それにしても、昨年の「鎌倉殿」が陰謀・裏切り満載で
思いっきりブラック、そしてリアルだったのに対して、
こちらはまるで戦国ファンタジーかと思えるほどの
ホワイトぶり。
なにせファンタジーなので、阿部寛の武田信玄も、
岡田准一の織田信長も、ムロツヨシの豊臣秀吉も
ほとんどマンガの世界の人。
そして家康との対比で、
みんなとんでもない悪人どもに見える。
おそらくそういうのも狙いなのだろう。
もちろん、「幼稚」だの「大甘」だの
「戦国時代にこんなのあり得ねーだろ」という
手厳しい批評も飛び交っているが、
僕はこういう見方をしているので、けっこう面白い。
ナレーションでも「神の君」なんて言ってるが、
江戸時代には徳川家康は神さま扱いだった。
それが、250年後に明治政府として
権力を取り返した長州組などが
「幕府の元祖の家康は大悪人だった」と言って
ブラックタヌキのイメージを人びとに植え付けた、
とう説がある。
正義も悪も、歴史も人物像も、その時代の風向きによって
くるくる変わってしまうものだ。
事実は一つだが、真実は人の数だけある。
いま、時代は「いい人」の味方である。
かつて蔑まれていた「いい人」が持て囃される。
最後にはいい人が勝つ・笑う。
「どうする家康」は、そんな時代の空気を吸っている。
ブラック鎌倉殿は完成度が高く、
ラストも衝撃的だったが、
あれはちと悲惨過ぎた。
やっぱり同じようなものを続けざまに見せてはいけない。
少なくとも今年のこのドラマでは
ハッピーエンドになってほしい。
たとえそれがリアリティに欠けた、
ホワイトファンタジーであっても。
これから戦国時代の大波が押し寄せ、
いろいろな修羅場を潜り抜けねばならないが、
松潤家康は間違ってもダークサイドに落ちて
キャラ変などせず、
いい人のまま、白うさぎ君のままでがんばってほしい。
昨日は久しぶりに義母を美容院に連れて行った。
いつもカミさんが連れていくという行きつけのところ。
ここのおばちゃん、腕は大したことないが、
高齢者の扱いはうまく、
髪もきれいになってすっかり気分がよくなった。
問題はその後。
お昼を外食にしたが、
たまにはいいかと洋食専門のカフェへ。
オムライスならよかろうと思って注文したところ、
上にのっていたデミグラソースがお気に召さず、
せっかくご機嫌だったのが、めっちゃ不機嫌に。
あんまり洋食は好きではないのだが、
家では素直に食べるのでつい油断してしまったのだ。
この人はへそを曲げるとけっこうガンコで、
いつもなら喜んで食べるデザートにも
「いらない!」と手をつけない。
しかたなく、そそくさとカネを払って外に。
二度と洋食屋には連れていくべからず。
痛い教訓を得た。
しかし出たとたん、デミグラオムライスの記憶を忘れ、
それまでの不機嫌だった記憶を忘れて、
なぜか美容院から出てきたときの笑顔に戻っている。
こういう時、認知症は便利でありがたい?
帰った後、いつもの安い菓子パンをあげたら大喜び。
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エリック・クラプトンの代表曲になっている
「いとしのレイラ」。
じつは1970年に発表された
デレク&ザ・ドミノスのアルバムに収録されたものが
オリジナルバージョン。
ヤードバーズ、クリーム、ブラインド・フェイスなど、
60年代の歴史的バンドで活躍し、
この頃、すでに稀代の名ギタリストの地位を確立していた
クラプトンは、もちろんこの新しいバンドの
リードギタリストだった。
僕は中学生の時、ラジオでが初めてこの曲を聴いた。
その前に音楽雑誌で評判は聞いていた。
当時、これほどもてはやされていた曲も珍しい。
クラプトンと言えばレイラ。
とにかくレイラがすごい、レイラ大好き、レイラ最高!
彼はすでにソロ活動に入っていたが、
ライブをやってもみんながこれを聴きたがるものだから、
新しい曲がやりにくい、
といったエピソードがあふれていた。
で、そんなにすごい曲なのかと思って聴いたが、
正直なところ、「そんなかなぁ」と思ってしまった。
その頃はハードロックやプログレに狂っていたので、
この曲があんまりすごいとか、カッコいいとか、
面白いとか思わなかったんだよね。
その印象が一変したのが、高校生の時。
同じくラジオで流れてきたレイラに鳥肌が立ち、
しびれまくった。
いったい何が違っていたのか?
最初に聴いたのは前半3分のみ、
おなじみクラプトンのギターが炸裂する
シングルバージョン。
そして2回目はその続きがあるフルバージョンだったのだ。
聴けばわかるが、レイラは二つのパートで成り立っていて、
後半はピアノを中心とした
インストゥルメンタルパートになっている。
3分を過ぎてギターが鳴りやんだところに、
やさしくピアノが入ってきて、
そこにまたギターが絡み合って、
まるで違う曲のように美しく流れていく。
これぞ本物の「いとしのレイラ」だ。
いわば迸る恋の情熱・激情と、
それが成就したあとの愛が満ち溢れる世界。
この前半と後半の対比が
めっちゃドラマチックで素晴らしく、
両パート合わせてこその名曲なのである。
それから半世紀、この曲はクラプトンのライブで
欠かせないレパートリーとなり、
最近は彼の齢に合わせて
渋いアコースティックバージョンになっている。
が、演奏されるのはやっぱり前半部分ばかり。
だから「レイラ」と言っても、中学生時代の僕と同様、
曲の半分しか知らない人が多いのではないだろうか?
そんな人はぜひ、デレク&ザ・ドミノスの
フルバージョンを聴いて、イメージを一新してほしい。
ところでこのバンド名、
僕はずっとデレクさんとドミノスさんという人が
メンバーにいるのかなと思っていたが、そうではなく、
もともと「ダイナミックス」という名前だったのを
テレビ番組の司会者が紹介する時、
「デレク&ザ・ドミノス」と言い間違えたのだという。
メンバーの一人である
ボビー・ウィットロックの証言なので、
本当のことらしいが、え~、ホント? と思ってしまう。
ロックの世界は、ジョークやいい加減な話が
まことしやかに伝説化されてしまっていることが多い。
まぁ、今さらどうでもいいことだけど。
ちなみにこのアルバムジャッケットも
ロック史に残る名作で、
まさしくレイラが描かれていると思う。
泣いて歌って踊るガーナのエンタメ葬、
ハロウィーンの原型となり、
ディズニー映画のモチーフにもなったメキシコの死者の日、
チベット仏教に基づくブータンの鳥葬など、
世界の葬儀・供養を紹介・考察。
雑誌に連載し、電子書籍として発行している
「世界のEnding Watch」が、
このたび装いも新たに、某サイトの連載記事になります。
もちろん完全リニューアルの新作コラムとして、
前作とは違った構成・展開に。
公開の際にはまたお知らせします。
お彼岸の花という感じではないが、
行きつけの花屋でアネモネが目に留まり買った。
茎の歪み具合など、何となくサイケなイメージがあって、
クリムトかエゴンシーレの絵画に
あったような気がしていたが、
アネモネを好んで描いたのは、印象派のルノワールだった。
僕にとってアネモネというと思い起こすのが、
村上龍の小説「コインロッカーベイビーズ」だ。
この物語のヒロインの名がアネモネだった。
20歳の頃にのめり込むように読んだ。
その割に内容を覚えてないのだが、
文体と物語全体のロックなノリが斬新で、
当時、村上春樹と「新しい小説」の双璧を築いていた。
当然、影響力の大きな作品だったので、
ネット上にいくつも書評や紹介文も載っているが、
どれを読んでも何か違和感を感じる。
僕が読んだ「コインロッカーベイビーズ」は
こんな話だったっけか?
アネモネはこんな少女だったっけか? という感じ。
これだけ大量にいろいろなコンテンツが
あふれる世のなかではやむを得ないのだろうけど、
2,3分でわかった気になってしまう
こういうお手軽な解説は、
あんまり読んでは駄目だなと思ってしまう。
これはやはり再読するしかないだろう。
どんどん再読候補本が増える。
目が悪くなった60代としてはなかなか厳しい。
若者たちには、目のいいうちに
いっぱい本を読んでおくことをお薦めする。
外に出て人や自然と触れ合う方が薬を飲むより効果的。
というのは、べつに医学的根拠があるわけでなく、
僕の思い込みで、ほとんど宗教行為に近い。
実際、医者も最初の1年ほどを過ぎると、
薬はほとんど効果なく、単なる気休めだという。
子ども、犬、鳥、花・・・
いろいろリアルな情景がある。
ただ、たんに「この世界は美しい」
と感じてもらいたくて、
いつも義母を散歩に連れ出している。
今日はお花見日和。
川添いのソメイヨシノは三分咲きくらいのから
八分咲きくらいまで、木によってまちまちだが、
さすがに人出が多く賑やかだった。
心なしか、コロナ前よりお花見マナーが良くなった感じ。
みんなとても幸福そうだ。
桜はもちろんだが、他にも小さい目立たない草花から
大きな派手なのまでいろいろな花が咲いて、
まさしく春本番。
ピンクの椿の花も丸くてかわいい。
義母が落ちていたのをお持ち帰りするというので、
「それはここにあるからきれいなんだよ」というと、
橋のたもとにある少年像の掌の上に、
椿の花を持たせてあげた。
ちょっと感心して、
「どうして持たせてあげたの?」と訊くと、
「知らない。ただこうしたかったのよ」と、
大芸術家的リアクション。
理由などない。
ただ私の魂がこう動いたのだ、と言わんばかり。
でも後で写真を見せたら、
「なにこれ? 誰がこんなことしたの?」だと。
今日はいつになくいっぱい歩きました。
お疲れさま。
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1994年リリース。
クランベリーズは90年代に活躍した
アイルランドのバンド。
リードヴォーカルのドロレス・オリオーダンが
自分の子ども時代を振り返り、
家族への思いを歌い上げる。
家族への頌歌。
この美しい讃美歌について
オリオーダンは雑誌のインタビューで
いろいろ語っている。
彼女は僕より一回り年下の1972年生まれ。
10代の頃は反抗して両親を悲しませたが、
齢を取ると、いつか感謝する日がやってくるという。
自分の両親がいかに素晴らしく、自分の子ども時代が
いかに幸福だったかを知る時が来るとも。
彼女は7人きょうだいで育ったというが
7歳の時、家は火事で全焼。
ずいぶん辛い生活をしたのではないかと思うのだが、
記憶にあるのは美しい食卓、あたたかいベッド、
そして学校にきれいな服を来て行ったことだという。
また、こんなことも話している。
「私たちは物質主義がほとんどない状態で育った。
本当にスピリチュアルな子ども時代だったと思う」。
いつでも、どこでも、
子ども時代は多かれ少なかれスピリチュアルだと思うが、
もしかしたら現代ではそうとも言えないのかも。
美しい食卓、あたたかいベッド、きれいな服というのは、
けっして贅沢な衣食住に恵まれた
ということではないだろう。
価値の物差しはお金と物質ばかり。
心の隅々までそうしたものに
支配された環境の中で育つと、
どういう心情になるのか、ちょっと心配になる。
本当に大切なものは目に見えないので、
それが損なわれたこと・失われたことにさえ
気づかなくなってしまうのではないか。
けれども、そんな過去だって変えることはできる。
不幸な子ども時代を送ったという人もいるかと思うが、
それを乗り越えて、
今まで続いてきた自分に自信を持って、
幸福な未来を掴むために過去だって変えてやろう--
そんな心持ちで生きていこう。
週末の懐メロ 第1巻
デビッド・ボウイ/カーペンターズ/ビートルズ/ケイト・ブッシュ/ポリス/レッド・ツェッペリン/イエス/ミシェル・ポルナレフ/赤い鳥/イルカ/高橋洋子など、
#1~#28を収録。
21世紀ポップを語る珠玉の音楽エッセイ集。
「あなたのワンちゃんが今、ウンコしましたよ!」
とは言えなかった。
川沿いの遊歩道にワンちゃんをお散歩に連れて来た
おしゃれなヤングマダムは、
旦那か子どもかお友だちかわからないけど、
掛かってきた電話に夢中。
その足元でワンちゃん(小型犬)が
自分に注意が払われていないのを
これ幸いと思ったのかどうか、
よっしゃと言う感じで地面にお尻を落とした。
ときは春うらら。
舗装された遊歩道のわきの道には
みどりの草が萌え始めている。
その萌えた草の上にお尻を落として、
うーんとふんばってるのだ。
あの格好は、もしや!
川の向こうからその瞬間を目撃した僕は
思わず足をとめて見た。
遠目からも二本の後ろ足の筋肉に力が入り、
お尻の真ん中あたりが
小刻みにピクピク震えているがわかる。
出る。
僕がそう思ったとたん、
ワンちゃんのお尻から
むにゅっと茶色の物体が出てきたのが目に飛び込んだ。
しかし、飼い主さんは電話で喋っていて、
そんなことはつゆとも知らない。
ワンちゃんは「あー、すっきりした」と満足気。
からだが軽くなったのか、
気持ちよさそうにピョンピョン跳ね始める。
飼い主さんはちらりと
そんな彼(彼女かもしれない)に目をやったが、
その下にある落とし物には
まったく気が付かない。
電話はまだ終わらず、
何やら笑って喋りながら、
そのままハーネスのリードを引っ張って歩き出した。
僕の口からは思わず、タイトルのセリフが喉まで出かかった。
「あなたのワンちゃんが今・・・」
が、なにせ川を挟んだ向こう側で5,6mは離れている。
周りに聴こえるような大声で叫ばなくてはならない。
それを聞いた彼女の心に巻き起こる嵐のことをを想像すると、
とてもそんな勇気は出なかった。
そよ風が吹くおだやかな春の午後。
あの草の上の犬のウンコが、
お散歩やジョギング中の誰かに踏まれることなく、
無事、土に還ってくれるのを願うばかりである。
いたちのいのち
小学4年生の女の子カナコとペットのフェレット「イタチ」とのおかしてくちょっと切ない友情物語。フェレットの飼い主さんはもちろん、ワンちゃん・ネコちゃんの飼い主さんにも読んでほしい動物ファンタジー。
神ってるナマケモノ
イヌ、ネコ、カエル、ウーパールーパー、ナマケモノなど、楽しい動物、怖い動物、いろいろな動物と人間との関係について語る面白動物エッセイ集。
亀戸の住宅街のなかにできた不思議空間。
インテリアデザインは和モダンでありながら、
なにか未来空間・宇宙基地のようにも見える。
ここは昼間は運動特化型のデイサービス、
夜は整体院という二毛作。
5月のオープン目指して目下準備中で、
その過程をいろいろ取材させていただいている。
高齢者施設・街の整体院のイメージを打ち壊す
斬新でユニークなコンセプトに目を見張る。
しかも最後の仕上げとして、
これから某有名イラストレーターの
ファンタジックなイラストを壁に入れるという。
ラフ画を見せてもらったが、
そのイラストがはまった図を想像すると、
先日亡くなった松本零士さんの
「銀河鉄道999」か「宇宙戦艦ヤマト」みたいな
イメージを思い描いた。
ガラス張りで外から見えるので、
かなりのインパクトになるだろう。
現代日本のライフスタイル・消費社会の
基盤を作った団塊の世代が75歳を迎えている。
これからの高齢者は、今までの高齢者と違う。
そのニーズを踏まえてサービスの在り方を
考え抜いた社長のアイデアとセンスは、
ハードだけでなく、
様々な宣伝プラン・経営方針全体にまで反映されている。
地域おこしの役割も担う高齢者施設兼治療院。
とても面白いビジネスモデルになると思う。
僕は1980年代にロンドンの
ケンジントンヒルトンホテル内の
日本食のレストランで働いていた。
その頃はまだ日本食が「アドベンチャー」
と言われていた時代。
寿司とてんぷらとすき焼きを出しときゃ
OKみたいなところがあった。
が、もちろん現代はまったく状況が違う。
そこで今日はチャットGPTと
日本食文化の世界進出、および、
今、ロンドンに出店するなら・・
というテーマで対話した。
こういうテーマは、
チャットGPTの回答は相当レベルが高い。
長いけど、興味があったら読んでみてください。
ぼく:最近、日本の食文化は外国でどれくらい認知されているか教えてください。
AI:日本の食文化は、世界的に広く認知されており、多くの国で人気があります。 以下に、外国での日本食の認知度や人気の高い料理の例を挙げてみます。
1.寿司:寿司は、世界中で愛される日本の代表的な料理の一つです。 多くの国で、寿司レストランが存在し、日本の寿司がそのまま提供されたり、現地の食材を使用したバリエーションが提供されたりしています。
2.ラーメン:日本のラーメンは、アメリカやカナダ、ヨーロッパの大都市など、多くの海外の国で人気があります。では、現地の食材を使用して、日本の味に近づいたバージョンが提供されることもあります。
3.焼肉:日本の焼肉も、世界中で人気があります。
4.和食:日本の伝統的な和食も、世界中で注目を集めています。例えば、ミシュランガイドにも和食の店が掲載されていて、世界中から多くの人が訪れています。
5.抹茶:日本の抹茶は、健康に良いとされることから、世界中で人気があります。例えば、アメリカのスターバックスなどでも、抹茶ラテや抹茶フラペチーノが提供されています。
以上のように、日本の食文化は世界中で認知されており、多くの国で人気があります。 特に寿司やラーメンなどの人気が高い料理は、日本の味そのままを提供する店舗も多く、多く勝手が楽しんでいます。
ぼく:なぜ日本食は他国でもそんなに人気があるのでしょうか?
AI:日本食が他国でも人気がある理由には、いくつかの要因があります。
1.健康的でバランスの良い食事:日本食は、健康的で栄養バランスの良い食事として知られています。 日本食は、低脂肪で低カロリーなのに、タンパク質やビタミン、ミネラルが豊富に含まれているため、ダイエットや健康に気を遣う人々に人気があります。
2.繊細で美しい盛り付け:日本食は、繊細で美しい盛り付けが特徴的です。その美しさは、日本文化に根ざしたものであり、海外でも高い評価を受けています。
3.鮮度と質の高い食材:日本は、海に囲まれた島国であり、豊富な漁獲物や農産物があります。また、日本人は食材の鮮度にこだわる文化があるため、海外でも高品質な日本食材が求められています。
4.料理の多様性:日本食は、寿司やラーメンなど有名な料理だけでなく、和食やおばんざい、お好み焼きなど多様な料理があります。 そのため、さまざまな好みや食文化に合わせた料理が提供されることもあり、堅実な人々に愛されています。
以上のように、日本食が他国でも人気がある理由には、健康的でバランスの良い食事や美しい盛り付け、高品質な食材、多様な料理などが挙げられます。するために、日本食を求める外国人旅行者も多いため、その必要も日本食の人気につながっています。
ぼく:日本人はどうやってこの食文化を発展させたのでしょうか?
AI:日本の食文化が発展してきた背景には、以下のような要素があります。
1.地域の気候や風土に合わせた食材の利用:日本は四季がはっきりしており、各地域にそれぞれ異なる気候や風土があります。そのため、地域に応じた食材を活用した料理が発展しました。北海道では魚介類やジャガイモが豊富で、そばや餡かけご飯などの料理が根付いています。 一方、沖縄では熱帯性の果物や野菜が利用され、ゴーヤチャンプルーや沖縄そばなどの料理が発展しました。
2.季節感や美意識を取り入れた盛り付け:日本食の盛り付けは、季節感や美意識を取り入れた独特の美しさがあります。発展しました。
3.宗教や儒教などの思想的背景:日本には、仏教や神道、儒教などの宗教や思想が根付いており、その影響も日本食文化に大きく反映されています。が広まったり、儒教の影響を受けて食事の作法やマナーが重んじられるようになったりしました。
4.科学技術の発展による食品加工技術の進歩:以降、日本の食品加工技術は進歩し、多様な食品が肥大化しました。海産物などが代表的な例です。
以上のように、日本の食文化が発展してきた背景には、地域の気候や風土、季節感や美意識、宗教や思想的背景、科学技術の発展による食品加工技術の進歩などの要素が進んでいます。また、日本人が食文化を大切にし、受け継がれたことも発展御要因になっています。
ぼく:現在、海外市場において日本食の市場規模はいくらぐらいになるかわかりますか?
AI:2021年に発表された調査によると、海外市場における日本食の市場規模は約4,000億円程度と推定されています。この数字は、2020年に比べて約10%増加したとされています。特に、アメリカ、中国、東南アジアなどの地域で需要が拡大しています。
ぼく:これから海外の都市に日本食のお店を出すとしたら、どこにどんな種類のお店を出すとビジネス成功の可能性が大きいでしょうか?
AI:海外において、どの都市や地域でどのような日本食のお店を出すとビジネス成功の可能性が高いかは、その地域の市場調査や構成人口、食文化などによって異なります。以下の点に注意することで、ビジネスの成功の可能性を高めることができます。
1.現地の必要に合わせたメニュー構成:日本食は多種多様な料理がありますが、海外で出店する場合は、現地の必要に合わせたメニュー構成を考える必要があります。いる食材を取り入れたメニューや、現地の味覚に合わせたアレンジを加えた料理などが好まれる傾向があります。
2.地域に合わせた店舗の設計:出店する地域の文化や風土に合わせた店舗の設計を行うことで、地元の人に親しみやすく、愛される店舗となる可能性が計算されます。
3.価格設定:現地の経済状況や消費者の結果水準に合わせた価格設定を行うことが重要です。ができます。
4.店舗の立地:交通の便が良くなり、多くの人が利用する場所に出店することが、ビジネスの成功のために重要です。欲求が高まる可能性があります。
5.品質・サービスの向上:品質の高い食材や調理技術を活かし、高品質な料理を提供することが大切です。また、現地の消費者に親切で丁寧なサービスを提供することで、リピート率を高めますことができます。
以上のように、出店する地域に合わせたメニュー構成や店舗の設計、価格設定、店舗の状況、品質・サービスの向上などがビジネスの成功にとって重要な要素となります。
ぼく:ロンドンのケンジントン地区に日本食の店を出店すとしたらどんな店がいいでしょうか?
AI:ロンドンのケンジントン地区は、高級住宅街やショッピングエリアが集まる地域であり、日本文化や日本食に対する需要が高い地域の一つです。 そこで、ケンジントン地区に日本食の店を出店する場合、以下のような店が良いでしょう。
1.高級感のある寿司店:ケンジントン地区は、高級住宅街やショッピングエリアが集まる地域であり、富裕層の方々が多く暮らしています。でしょう。
2.テイクアウト対応の日本食店:ケンジントン地区には、多くの観光客やビジネスマンがアクセスするため、テイクアウト対応の日本食店を出店することで、必要を拡大することができます。
3.カフェスタイルの日本食店:ロンドンには多くのカフェがあり、その中には日本のカフェ文化を取り入れた店舗もあります。ケンジントン地区には、このカフェが多いため、ようなカフェスタイルの日本食店を出店することで、必要を拡大することができます。
4.和食居酒屋:日本食に興味がある地元の方々や、ビジネスマン、観光客などが多く集まる地域に出店する場合、和食居酒屋を出店することができます。一緒に食事を楽しむことができるため、必要が見込めます。
5.ラーメン店:ロンドンには、多くのラーメン店があります。その中でも、日本のラーメン文化を取り入れた店舗が人気を集めています。ケンジントン地区にも、このようなラーメン店を出店することで、需要を拡大することができます。
以上のように、ケンジントン地区に日本食の店を出店する場合、地域の要望や傾向に合わせた店舗の種類を選ぶことが重要です。また、店舗の設計や価格設定、品質・サービスの向上などにも品質・サービスの向上などにも力を入れることが重要です。
例えば、ロンドンでは食材の調達が難しいため、輸入品を使う場合が多いです。 しかし、より新鮮な食材を使うことで、品質を高めるまた、日本食に興味がある地元の人にも申し込むために、英語メニューや英語対応のスタッフを揃えることも大切です。さらに、SNSや口コミなどを活用して、店舗の情報発信や顧客とのコミュニケーションを取ることも重要です。 これらの取り組みによって、より多くの顧客に愛される日本食店を作ることができます。
ぼく:回答ありがとうございます。
AI: よろしくお願いします。 何か他に質問がありましたら、遠慮なくお聞きください。
子どもの頃、マンガが好きで、
小学生まで暇があればマンガを描いていた。
しかしどうしてだか、
登場人物の顔がことごとく左向きになってしまっていた。
左向きの顔はすらすら描けるのだが、
右向きの顔がうまく描けないのである。
あとから知ったことだが、マンガにおいて
左向きは未来を見る顔、
先に進もうとする気持ちが現れた顔。
右向きは過去に向かう顔、
止まったり振り返ったりするサインだという。
「さあ行こうぜ」と言う時は左向き。
「ちょっと待てよ」と言う時は右向きというわけ。
これは日本のマンガが右から左へとページを
めくっていくことと関連している。
マンガ家自身にそういう生理感が身についており、
この右向き・左向きの心のベクトルが
一種の「マンガ文法」になっている。
これは映画も同じで、画面で左を向いたら未来を見ている、
右を向いたら過去を見ている表現だという。
欧米には日本のようなマンガ文化はないが、
映画の場合は、演劇の生理に基づいていると思われる。
登場人物が上手(観客から向かって右)から
下手(同・左)へ動く時は未来へ向かう、
逆の場合は過去に向かうというのが基本形。
これは人間の脳のメカニズムと関連しているのだと思う。
自分の話に戻すと、
子どもの頃は過去時間の分量が少なかったから
右向きの顔が描けなかったのだろうか?
けれども今でもちょっと落書きで人間を書くと、
手が覚えているのか、正面でないときは、
無意識に左向きの顔を描いている。
いずれにしてもこのマンガ文法・映画文法を意識して
マンガや映画を観ると面白い。
この100年~150年の間に、人間はずいぶんといろいろなものを手に入れ、生活を変えてきましたが、いちばん大きいのは、夜の世界を手に入れたということではないかと思います。
文明開化まで夜の世界の9割方は、江戸のような大都市と言えど、死と隣り合わせの妖怪・魑魅魍魎の世界。神様と妖怪が混在する日本では、人間がおいそれと足を踏み入れられない神々の世界だったとも言えます。
それをすっかり塗り替えた文明の光。いまや人間の活動時間は昼夜問いませんが、やはり夜の半分程度は未知と神秘の世界です。
そんな思いに駆られたのは、先日、雨上がりの夕方にお目にかかったヘビ。近所を自転車で走っていると、3メートルほど前の道路(裏道なので幅4~5メートル程度)をスルスルスルと横切ったのです。
その間、わずか1~2秒。向かって左側の家のどこかかから出てきて、右側の家のガレージのシャッターの隙間(たぶん)に入っていきました。もちろん、写真など撮っているスキはありません。
美しい蛇でした。ちょっと緑っぽい色をしていたので、たぶんアオダイショウでしょう。まだヤングな若青大将といったところでしょうか。近くに水(川)があることも関係しているのか、杉並区の住宅街もなかなかワイルドです。
ヘビが生息しているということは、当然、そのエサになるカエルやらネズミやらの小動物もいろいろこのあたりにいるということ。たまたま日の光のもとに現れましたが、普段は夜の世界で動物たちのいろいろなドラマが繰り広げられているのでしょう。
そうした別の世界がごく身近に人間の目に触れないところにある、人間が9割以上、跳梁跋扈している昼間世界と空間をシェアしている――そんなふうに想像すると、ちょっと怖いのと同時に、自然なもの、神秘的なものがちゃんと保たれているといった、なんだか妙な安心感を覚えるのです。
たぶん人間はそうしたアナザーワールドと完全に切り離されたら、生きていけないというか、頭がおかしくなってしまうのかもしれません。
それにしてもあの家の人はヘビが入ってきたことなんて、とんと気が付かないだろうな。「神様の使い」が来てくれた・・・と思ってくれればいいけど、やっぱり知らぬが仏でしょう。
2016・8・21 SUN
3・10 東京大空襲
3・11東日本大震災
いや、少し調べれば、365日、世界中で
何かしらの悲劇が刻まれている。
べつに今日・明日だけが特別なわけではないが、
日本人にとって意識せざるをない日になっていることは確か。
しかし、あんな悲劇があっても、
地球はずっと回り続けるし、
世の中は止まることなく進んでいく。
当たり前のことだが、
これは多くの人にとっては救いとなり、
あの時点に取り残されてしまった人にとっては
残酷な事実となる。
そんなことをぼんやり考えていたら、
「夜空ノムコウ」を口ずさんでいた。
特にエンディング近く。
あのころの未来に 僕らは立っているのかなぁ…
全てが思うほど うまくはいかないみたいだ
このままどこまでも 日々は続いていくのかなぁ…
雲のない星空が マドの向こうに続いている
あれからぼくたちは 何かを信じてこれたかなぁ…
夜空のむこうには もう明日が待っている
この曲は1998年にSMAPが歌って大ヒットした。
僕もSMAPの歌のなかでいちばん好きだ。
それにしても、つい最近の歌だと思っていたら、
リリースはなんと1998年!
もう四半世紀もむかし。20世紀のヒット曲。
この頃、僕はまだ30代だったのだ。
もともと恋の終わり、青春の終わりについて
歌ったものだと解釈されている。
SMAPの口あたりの良い甘い味付けだとそう聴こえるが、
詞を書いたスガ シカオのこのバージョンは、
思い切りビター、苦味を効かせた味付けで、
歌詞さえもまったく違うものに聴こえてくる。
そしてバックに響く打ち込み音と奇妙な電子ノイズ。
90年代風、世紀末風とでもいえばいいのか、
ひどく不気味で荒涼とした響きがある。
なんだか焼け野原になった東京の街や、
地震・津波・原発事故で失われた
あの被災地の風景を想起させる。
それでも日々は続いていく。
夜空のむこうには明日が待っているのだ。
スガ シカオがどんな意図でこの歌詞を書いたのか、
25年後の今となってはどうでもいい気がする。
「夜空ノムコウ」は、もうみんなの歌であり、
聴く人ひとりひとりが自分に寄せて
自由に解釈し、自由にイメージを広げて良い。
正しい意味・正しい聴き方など必要ない。
名曲とはそういうものではないか。
良いこと、嫌なこと、いろんな経験をしてきたし、
これからもしていくだろう。
これはその先の未来を生きていく僕たちが
自分自身の物語を紡ぐために口ずさむ歌なのだと思う。
3年前に出された村上春樹のエッセイを読んでいかなった。
図書館で文庫本があった(文庫化されたのは昨年)ので、
借りて読んでみたらとてもよかった。
最近ちょっとご無沙汰していたが、
やはりこの人の文章は心の深いところに響いてくるのだ。
副題に「父親について語るとき」とあるが、
その通り、大正生まれで戦争の体験を持つ
父について書いたものである。
割とゆとりある行間で100頁ちょっとの短い本なので、
2,3時間あれば読み切れてしまうが、
内容はとても充実していて深い。
また、よく調べたなと感心する。
村上春樹は1979年にデビュー。
現代的・都会的な雰囲気のストーリーと
アメリカ文学仕込みの乾いた文体で人気作家になったが、
初期の作品「風の歌「ピンボール」「羊」などでは
そこかしこに戦争の影がにじんでいる。
1980年代の前半あたりまでは
豊かになったとはいえ、まだ終戦・戦後の残滓が
日本社会に残っていたのだ。
そして、1990年の「ねじまき鳥クロニクル」では
まともに戦争のシーンが出てくる。
この物語の第1巻には捕虜になった兵士の皮をはぐという
恐るべき残酷描写がある。
いったいなんでこんな描写が出来たのか、
つくづく感心する。
僕はそこがあまりにこわくて未だに再読できない。
村上春樹のような団塊の世代の人には多いと思うが、
成人後は父親とはほとんど断絶状態だったらしい。
大正・昭和ひとケタ生まれの親と、
戦後生まれの子供の親子関係は、
今の親子関係とはずいぶん違ったものだと思う。
そもそも親は、特に父親は、
自分のことを語ろうとしなかった。
なぜかはちょっと長くなるので、
また近いうちに別の文で書こうと思う。
いずれにしても戦争はこの世代の、
特に男たちの心に深い闇をもたらしている。
そんな思いを抱いてこのエッセイを読んだが、
村上作品に頻繁に登場する「闇」は、
どこかでこのお父さんの心にできた闇と
繋がっているのではないかという気がしてくる。
亡くなって10年以上経った頃に
父のことを書こうと思い立ったという。
有名作家だからこうして本にして
多くの人に読まれるわけだが、そうでなくても、
男はいつか自分の父について語りたくなったり、
書きたくなったりするのではないだろうか。
親密でも疎遠でも、愛していても憎んでいても、
尊敬していても馬鹿にしていても、
自分のなかに父親像を再構築し、再確認することは
生きる中で意外と大切なことではないかと思う。
男は自分史の前にまず、
自分の父親史を書くべきなのかもしれない。
もちろん娘がそうしてもいいのだけど、
同じ男同士だから感じられる何かがそこにあると思う。
コロナ禍で失った損失を取り戻したい
という気運が強いせいか、
最近、仕事の効率化ということに拍車が掛かり、
やたらとコスパだ、タイパ(時短)だという
話題が多くなった。
僕はそれと逆行するようにロングタームの仕事が多い。
先月から江東区に出向いて、月1~2回の取材をしている。
その社長さんは夏から新しい事業をスタートさせるのだが、
その準備の様子を取材してほしいというのだ。
準備はそうそうスムーズには進まない。
いろんなトラブルに見舞われたり、
ヘマをしたり、ずっこけたりする。
しかし、開業した後は
そんなあれこれを忘れてしまうかもしれないし、
憶えていいてもカッコ悪いことなんか
話したくなくなると思う・・・
ということで僕がその準備段階の記録を頼まれたのである。
話をするのはその社長と若いパートナー。
実際、話をきくと確かに面白いエピソードがあふれており、
こんなことがあったんだと、
事業所を貸すオーナー・不動産屋との諍いや
人材集めをしたらこんな人が来たとか、
喜怒哀楽いっぱいに話してくれる。
自分で記録しておけばいいと思うかもしれないが、
じつはこういうことは自分や身内の人間ではできない。
外部からやって来た取材者・インタビュアーがいるから、
あけすけに胸を開いて、
こんな失敗をしてしまった、と話せるのだ。
ぼくはそれを録音して、
とりあえず文字起こしをしてストックしておく。
いわゆるライブ録音だ。
その時にしか生まれない問いと答、
ノリ・勢いを言葉にする。
面白いコンテンツは対話から生まれる。
ビジネスに関連する文章は、
どうしても皆、カッコいいもの、
きれいごとを書きたくなるが、
そういうのはどうも面白くないと、その社長は言う。
なかなかユニークな試みを考えるだけあって、
とてもユニークなセンスを持った人だ。
失礼な言い方だが、見かけによらず頭が切れる。
ストックした文章の使い道としては、
ちゃんと成形してホームページの一部にしたり、
ブログにする、紙か電子かの本にするなど、
自在に料理できる。
新鮮なまま冷凍保存した良い材料があるから
いろいろ良い料理ができるのである。
これはいわば会社にとっては将来の資産作りである。
お金でない資産、数字に出来ない資産は
とかく軽く扱われがちだが、
じつはスタートアップの場合、
けっこう大切なのではないかと思う。
こういうことが会社にとって、事業にとって、
信頼の土台になる。
僕としてはひどく時間のかかる仕事で、タイパは悪い。
ギャランティはとりあえず開業の時点で締めてもらって、
その後も1年間つきあう予定でいる。
効率が悪くてもこういう仕事は好きだ。
何か新しい事業を起こす際、
自分もぜひやってみたいと思うか方がいたら、
ぜひお声がけください。
パリの街といえば、
ついシャンゼリゼ通りを連想する日本人。
そのイメージの源は、1970年代の初めに活躍した
フランス人アイドル歌手 ダニエル・ビダルだった。
小学生の頃、雑誌などでよく見かけたかわいこちゃんだ。
「オー、シャンゼリゼ(O, Champs-Élysées)」は、
もともとフランスの歌手ジョー・ダッサン(Joe Dassin)が
1970年に発表した楽曲だが、
日本人には強烈にビダルのイメージがくっついて、
「パリの街を行く、おしゃれで可愛いマドモアゼルの歌」
ということになった。
ダニエル・ビダルは日本語でも歌っていて、
ほとんどネイティブみたいに達者。
しかもめっちゃキュートな歌声で、
年甲斐もなく胸がキュンとなる。のである。
ところで、チャットGPTに
女性を主人公に「オー、シャンゼリゼ」という
ミュージカルを作りたいのですが、
どんなストーリーがいいでしょう?と聞いてみた。
そしたらこんなお話を考えてくれた。
例によって日本語のおかしなところ、
文章がうまくつながらないところがあるので、
僕がちょっとだけ手を加えています。
主人公は、シャンゼリゼ通りに面した喫茶店で働く
若い女性、エミリーです。
彼女は、自分の音楽の夢を諦められず、
夜な夜な弾き語りをすることで、
自分の才能を磨いていました。
ある日、彼女は喫茶店の客の一人が
置き忘れた手帳を拾います。
手帳の中には、
シャンゼリゼ通りの美しい風景を眺めながら書かれた、
ある曲の歌詞がありました。
エミリーはその詞に心打たれ、
自分でこの曲を作ることを決意します。
エミリーは、偶然出会った
駆け出しの音楽プロデューサーのジャックと共に、
自分自身の音楽を創造するために努力し、
その曲を完成させます。
そして、彼女の歌う「オー、シャンゼリゼ」は、
多くの人に愛される楽曲となり、
彼女の音楽キャリアにおいても大きな転機となりました。
葛藤や孤独などの壁があり、
それを乗り越えていくことが物語のテーマとなります。
このミュージカルでは、
エミリーの成長や彼女自身が持つ内面的な葛藤、
音楽創造のプロセス、
そして「オー、シャンゼリゼ」が世に出た後の反響などが
描かれることになります。
美しい風景や、フランス文化の魅力なども、
ストーリーに取り入れることで、
物語の世界観をより深く描くことになります。
いかがでしょう?
いや、いいですね。
ちょっとレトロなハリウッド映画っぽいところがいい。
エミリーはやっぱり50年前のダニエル・ビダルだろうか?
ジャックはミッシェル・ポルナレフみたいなやつだろうか?
もちろん、いっぱいツッコミどころはあるが、
あらすじ初稿としてこれだけできていれば十分。
これをどれだけアレンジし、膨らませるかが
人間の仕事なのです。
ミュージカル「オー!シャンゼリゼ」、
作ってみたくなった。
金曜の夜は「週末の懐メロ」の日なのだ。
みんな懐メロを聴いて
1週間の疲れを癒しましょう。
amazonKindleから本も出しています。
目次を見て、好きな曲、好きなミュージシャンの名前があったら読んでみてね。
「ガンバレ受験生!」って、無責任にエールを送っていいのか?
毎年、受験シーズンになるとそう思う。
電車に乗ると予備校のポスターがべたべた貼ってあって、
夢だの勝利だのヒーローだのって、
カッコいいコピーと共に
モデルの小中高校生の男の子・女の子が、
きりっとした顔を見せている。
あれを見ると、なんだかとても痛々しい気持ちになるんだ。
大人の一人として、こうした子供たちを当たりまえのように
受験なんぞに駆り立てていのかってね。
「受験シーズンだよねー」って、
なんだか大人たちがこぞって
年中行事でも楽しんでいるかのようだ。
そもそもこれだけインターネットやAIが発達してきた社会で、
この先、大学に行くことにどれだけの意味があるのか?
奨学金という名の学生ローンで
何百万も借金背負った子を卒業させて、
何十年も支払い続けていたら、
そりゃ結婚も子どもも無理だなって思うよね。
少子化対策って、
こういう所をどうにか手当てしなきゃいけなんじゃないの?
一昨日のニュースで、昨年(2022)に自殺した
小中高校の児童・生徒は512人で、
過去最多だったことが文部科学省のまとめで分かったって。
内訳は小学生が17人(前年比6人増)、
中学生が143人(同5人減)、
高校生が352人(同38人増)。
自殺の理由(複数の場合あり)は
「学業不振」が104人で最も多く、
「進路に関する悩み(入試以外)」が84人、
「入試に関する悩み」が40人。
受験システムがすべて悪いわけではないだろうけど、
大人も子供も、
やっぱりいつかどっかで考えなきゃいけない問題。
それはいつ? 今でしょ。
川沿いの河津桜が咲いた。
いい学校なんかいかなくても、
「ガンバレ受験生!」って、スポーツ観戦みたいに騒いでる
大人の言うことなんか聞かなくても、
人生、春は来る。
死ぬな、子ども。
チャットGPTを使っていて
最後に「どうもありがとう」と打つと、
「お役に立ててうれしいです」とか
「いつでもお気軽にお声がけください。」とか言ってくる。
僕ら自身も日常的に、
それこそ“機械的に”使っている定型文だ。
でも、人間が使うと
「はいはい、何の心もこもっていない
お決まりのごあいさつね」と思ってしまうのだが、
このAIが使うと同じような文でも、
なんとなく人格というか、
心があるように感じてしまうから不思議だ。
仕事でも遊びでもいいのだが、
アシスタントとか、友だちとして付き合って、
ああでもない、こうでもないとやりとりしていると、
親しみがわいてくる。
逆に言えば、それくらい親近感を持って、
感情を込めて使わないと、
自分のために上手く働いてくれない。
考えてみたら、別にAI・ロボットに限らず、
車だってバイクだってパソコンだってそうだ。
愛着を持って乗ったり使ったりしていれば、
自然と感情が乗り移って、
ただの機械・ただの道具だったものが
「おれの相棒」「あたしのパートナー」になっていく。
よくある「心を持ったAI・ロボットはできるのか?」
という議論は、結局、それを使う人間の側が
機械に自分の心を宿せるか、
こいつには心があると思い込めるかどうか、なのだと思う。
少なくともここ当分の間は。
昨日は杉並区にある「堀之内斎場」で
イベントがあったので取材。
東京23区内に6カ所ある民営火葬場の一つである。
運営会社の東京博善は、10年代後半から毎年この時期、
各斎場(火葬場)持ち回りで
地域住民のためのイベントを開いていたが、
コロナで3年間中断。
昨日は4年ぶりの開催だった。
火葬場でイベントって・・・と訝る人もいるだろう。
迷惑施設なのではないか?
しかし、この高齢社会でそんなことは言っていられない。
今やこのイベントは自治体が後援し、町会も協力している。
だから今回の場合は、
杉並区区内の小学校でチラシが配られ、
家族連れでにぎわっていた。
至って明るく楽しく、和気あいあいである。
堀之内斎場は100年超の歴史を持つが、
当然、改築もされていて、建物は明るくおしゃれで美しい。
それに昔の火葬場と違って煙突から
火葬の煙がモクモク・・・ということもなく、
きわめてクリーンである。
1階では飲食などのお店が出店したり、
こどもが遊べるスペースが設けられ、
2階の控室では落語、自分史セミナー、
相続相談セミナーなどをやっていた。
火葬炉の説明コースもあったが、
さすがにこっちには人が寄って来ない。
僕はほぼ貸し切り状態で、
スタッフのお話を聞かせてもらった。
とても丁寧なガイダンスで感心した。
東京は人口が多い。
それだけ死ぬ人も多い。
なので強力な火葬炉で、短時間に火葬するという。
火葬率世界トップの日本の火葬炉の性能は優秀だ。
それにしても、こうして自治体が後援して
火葬場で地域イベントが開かれ、
それに反対したり、抵抗感を持つ人もあまりいない
――そんな時代になったことには、
昭和の頃、20世紀の頃から隔世の感がある。
一昨日、「週末の懐メロ」で
美輪明宏の「ヨイトマケの唄」を紹介した。
白状すると、その際にいろいろ調べて
やっと「ヨイトマケ」って何のことだか知った。
じつは僕は一昨日までヨイトマケとは、
何かの種まきのことだと思っていて、
農作業の一種だと思っていたのである。
この齢になるまで知らなかったなんて、
お恥ずかしい限りだが、
どんなに遅くても知ってよかった。
まさしく懐メロさまさま・美輪様さまさまである。
じつはこのヨイトマケという言葉は、
美輪明宏の歌以外にも有名な文学作品に使われている。
それが太宰治の「斜陽」である。
筋肉労働、というのかしら。このような力仕事は、私にとっていまがはじめてではない。私は戦争の時に徴用されて、ヨイトマケまでさせられた。いま畑にはいて出ている地下足袋も、その時、軍のほうから配給になったものである。地下足袋というものを、その時、それこそ生れてはじめてはいてみたのであるが、びっくりするほど、はき心地がよく、それをはいてお庭を歩いてみたら、鳥やけものが、はだしで地べたを歩いている気軽さが、自分にもよくわかったような気がして、とても、胸がうずくほど、うれしかった。戦争中の、たのしい記憶は、たったそれ一つきり。思えば、戦争なんて、つまらないものだった。
上流階級のお嬢様だった主人公が、
戦後、没落して肉体労働をしているとき、
ふとヨイトマケのことを思い出し、
ヨイトマケのおかげで体も丈夫になったし、
生活に困ったらヨイトマケをして生きていこう、
と呟くのである。
20歳ごろ、三島由紀夫と太宰治を乱読しており、
「斜陽」も読んだ記憶があるが、
そんなことすっかり忘れていた。
この出だしの部分の文章は、
たまたまネット上でお目にかかったのだが、
美輪さんの歌を聴いた後、今こうして読んでみると、
この主人公に温かさ・健気さ・可愛さみたいなものを感じる。
ヨイトマケとは「よいっと巻け」という
掛け声から来た呼び名。
まだ建設機械が普及していなかった時代、
建築現場で地固めを行う時に、
縄で滑車に吊るした重い槌を、
数人がかりで引っ張り上げて落とす作業、
あるいはその作業を行う日雇い労働者のことを指している。
作業の時の掛け声が「よいっと巻け」で
「ヨイトマケ」というわけ。
昭和の半ばごろまで使われていたようだが、
僕も実際にこんな作業しているところは見たことがない。
厳しい肉体労働だったと思うが、皆でやれば大丈夫、
みたいな労働者同士の連帯感的な気持ちもあっただろう。
この主人公の場合は、生きる自信の根っこというか、
精神的な「地固め」にもなっていたようだ。
もしかしたら、年がら年中、
アラウンドうつ病だった太宰治自身も
こうしたヨイトマケなどの肉体労働に
憧れを抱いていた部分もあったのではないか、と思う。
昔はよかったとは言わないし、
貧しくても幸せだったとも言わない。
辛くて危険な肉体労働を礼賛するつもりはまったくない。
ただ、最近のように、精神がおかしくなるほど、
みんなが情報過多で混乱したり、
ネット世界、バーチャル世界に
はまり込んだりするのを見ていると、
いつも何かしら身体を動かして働いていたほうが
いいのではないかと思う時があるのだ。
もちろん、スポーツやトレーニングもいいが、
自分の身体を動かすことで
人の役に立つ、社会の役に立つ、
そして金を稼いで生きるのだという
リアルな実感を得ることが、
いくつになっても、どんな時代になっても、
必要なのではないだろうか?
豊かな社会になって以降、
肉体労働とか労働者という言葉は、
ネガティブなオーラをまとうことが多くなった。
しかし今後、AIの発達で
確実にホワイトカラーの仕事は減っていき、
肉体労働が人間に残る。
ロボットが活躍できるのはまだもう少し先だろう。
「ヨイトマケの唄」や「斜陽」の世界と同様、
肉体労働・労働者というものは、
人間らしさと同義で語られるようになるかもしれない。
音楽エッセイ
「週末の懐メロ 第1巻」
2月27日(月)16:59まで
無料キャンペーン実施中
日本の至宝、昭和の至宝 美輪明宏が
自ら作詞・作曲し、あらゆる世代の日本人に贈る聖歌。
それが「ヨイトマケの唄」である。
最初にレコードが出たのは1965年。
マンガなどで「母ちゃんのためならエンヤコーラ」という
セリフが良く出ていたのを覚えている。
そして桑田佳祐をはじめ、たくさんの歌手がこの歌を愛し、
カヴァーしているのも聴いていた。
けれども美輪明宏自らが歌うのをまともに聴いたのは、
若い世代と同じく、2012年の紅白歌合戦が初めてだった。
紅白なんていつも酒を飲んでへべれけになって見ているのだが、
真っ黒な衣装に身を包んだ美輪が登場し、
この歌を歌い出した時、思わず背筋がピンと伸びた。
6分間、テレビから目と耳を離すことができなかった。
故郷の長崎で原爆に遭遇して以来、
波乱万丈の人生を送り、数々の修羅場をかいくぐりながらも
70になっても80になっても
元祖・ビジュアル系歌手の誇りを失うことなく輝き続ける
美輪明宏の、人間への愛情のすべてが
この1曲に集約されているような気がする。
この歌が生まれた経緯は自身で、
また、黒柳徹子との対話で語っている音声が
YouTubeに上がっている。
1960年代前半、三島由紀夫が「天上界の美」と称した
絶世の美青年だった美輪明宏(当時は本名・丸山明宏)は、
きらびやかな衣装と化粧でシャンソンを歌っていた。
ところが、興行主の手違いで
福岡・筑豊の劇場でコンサートを行うことに。
客は普段シャンソンを聴きに来る人たちとは
全く違う炭鉱労働者たち。
そんな人たちが自分の歌を聴こうと
客席を埋め尽くしたことに美輪は感動したが、
内心、自分のレパートリーには、
この人たちのために歌える歌がないとすまなく思ったという。
そして、外国には労働者の唄があるのに、
日本にはなぜないのか?という疑問も抱いた。
「ヨイトマケ」とは「ヨイっと巻け」。
まだ現在あるような建設機械が普及していなかった時代、
地固めをするとき、重たい岩を縄で滑車に吊るした槌を、
数人掛かりで引張り上げて落とすという作業をしていた。
滑車の綱を引っ張るときの「ヨイっと巻け」のかけ声が
語源となっている。
この仕事は主に日雇い労働者が動員されていたらしい。
「ヨイトマケの唄」は、そうした戦後復興期の物語であり、
まさしく現代の日本の豊かな社会の
「地固め」をしていた時代の唄だ。
炭鉱をはじめ、新幹線を走らせるために
山にトンネルを掘り、川に橋をかけ、
街に高速道路や高層ビルを建てるために
たくさんの名もなき労働者が働いていた。
そうしたあちこちの工事現場では不幸な事故で
命を落とした人も少なくない。
普段は意識などしないけど、
インフラの整った僕たちの社会生活は
そうした犠牲の上で成り立っている。
この歌を彼が初めてテレビで歌った時、
「これはおれたちの歌だ」と、彼の元に7万通の
感謝の手紙が送られてきたという。
しかし、その一方で、
高度経済成長の波に乗り始めていた日本人は、
少しでも早く貧しい時代の記憶を忘れようとしていた。
貧しい者、卑しき者、美しくない者は
目にしたくない、耳にしたくないと思っていた。
この歌の歌詞の「土方」でさえも差別用語であるとして、
以後、長い間、この歌は歌われなかった。
77歳で紅白に初出場した時、若い世代は、
あの「美輪ちゃま」が
どんなゴージャスな衣装で登場するのか
大いに期待していたらしいが、
この黒ずくめのスタイルを見て驚愕、
そしてこの歌をフルコーラスで聴いて慄然とした。
カメラは一切寄ることはない。
まるで舞台劇を見ているかのような、
魂を揺さぶるパフォーマンス。
昭和の時代は、圧倒的なリアリティで
人々を感動させた歌は、半世紀後、
“俗”を描き切った、聖なる物語に達していた。
最後、闇に溶けていく中で
「子どものためならエンヤコーラ」と絞り出す声には
何度聴いても涙が抑えられない。
美輪さんがまだ元気で表現活動をされていてよかった。
令和の時代になっても、いや、令和になったからこそ、
日本人にはまだ美輪さんの存在が必要なのだ。
音楽エッセイ「週末の懐メロ 第1巻」
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この機会に、ぜひお手元のPC・スマホ・タブレットに
インストール。
会話型AI「ChatGRT」をアシスタント兼
飲み友達にしようと、いろいろ対話を試みている。
以下、この間やったネッシー(湖に住む謎の巨大生物)を
めぐるQ&A。
AIの回答は生成されて出てきた
そのままの文を載せています。
ぼく:ネス湖のネッシーをはじめ、
世界各地の湖にいるとされてきた伝説の巨大生物は
皆インチキで、
写真も動画も偽物だと科学的に証明されています。
それなのになぜ人間は、
いまだに巨大生物はいると考えたがるのでしょうか?
AI:人間が伝説の巨大生物の存在を信じる理由は複数あります。
まず、人間は常に未知のものに興味を持ちます。
特に巨大生物という存在は、
私たちが知る現代の自然界には見られないものであり、
その存在に想像力がかきたてられます。
伝説の巨大生物が存在すると信じる事で、
自分たちのダイエットを恐れかす未知のものに対する
恐怖を感じ、それを乗り越えようとする
勇気をもつことができるという
心理的な安心感があるとされています。
また、科学的に未解決のことがあると、
人間は自然に応じて答えを求めたものです。
様々に関する証言や報告があることから、
多くの人が巨大生物が実在する可能性について興味を持ち、
それについて検討したり、研究したりすることになります。
さらに、巨大生物の存在については世界中に
伝承や文化があり、
人々の信仰や信念にも関係している可能性があります。
背景があるため、人々が巨大生物の存在について
考えるきっかけとなっていることもあるでしょう。
このように、伝説の巨大生物に対する人間の関心は、
興味やリスク、恐怖感、科学的リスク、信仰や文化、
歴史的・文化的な背景など、
様々な要因が影響していると考えられます。
アメリカ生まれのせいか、
日本語の怪しいところがあるAIくん。
「自分たちのダイエットを恐れかす
未知のものに対する恐怖を感じ、」
という謎のフレーズは
「自分たちの“存在を脅かす”未知のものに・・・」かな?
それにしてもなんでダイエット?と思って調べてみたら、
「ダイエット」には一般的な食事関連の意味とは
もう一つ別の意味があり、
「教会職員の審議会や国会の会合のことをdietという」
らしい。知らんかった!
そうした人間社会における、
権威ある審議会や会合が転化して、
既存の人間の思考・常識・制度という意味になり、
そうしたものを脅かす未知の存在
——ということになるのだろうか?
いやいや、人間の思考停止を促すどころか、
もっと深く、めんどくさく考えるように
仕向けてくれるAI、素晴らしいじゃないか。
この後の「それ(未知のものに対する恐怖)を
乗り越えようとする勇気をもつことができるという
心理的な安心感があるとされています。」
というのも変な日本語だが、何かの誤訳なのか?
でも、未知のものに対する恐怖を乗り越えることで
勇気を得て、それによって「心理的安心を得る」なんて、
なかなか奥行きのある哲学的表現だ。
なんかハリウッド映画の定理っぽく、
人間礼賛になっていて、
一種のヒューマニズムに溢れている。
人間の仕事を奪うのではないかと恐れられているAIだが、
単なる便利な道具として使うのでなく、
いろんな質問を考えて、半ば遊び相手にすれば、
面白いパートナーになるのではないかという気がする。
いずれにしても、こんなどうでもいいような質問に、
大真面目に、誠実に答えてくれるAIには
感動と親近感を覚える。
これから週1くらいでAIとの対話を載せていきます。
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曲やアーティストを解説する、
あるいはロック史・音楽史を研究するといった
大それたものでは全然ありません。
懐かしさと個人的な思い出に
駆られて書いたエッセイです。
タイムマシンに乗ってはるかな時間を遡ると、
ノスタルジーだけでなく、新しい発見があったり、
改めて感動してみたり、泣いたり笑ったり、
リアライズやサプライズもいっぱい。
僕と同じ昭和世代・20世紀世代にはもちろん、
21世紀を生きる若い世代のお宝発掘のための
ガイドブックとしてもお楽しみください。
文章を読んで興味を持ったら、
ぜひお聴きになって&ご覧になってください。
良い音楽、好きな音楽をあなたの心の友に。
第1巻として♯1~♯28を収録。
もくじ
1 5年間/デビッド・ボウイ 【1972】
2 愛にさよならを /カーペンターズ 【1973】
3 ドント・レット・ミー・ダウン/ザ・ビートルズ 【1968】
4 嘆きの天使/ケイト・ブッシュ 【1978】
5 ソー・ロンリー/ザ・ポリス 【1978】
6 スワロウテイル ~あいのうた~ /イェンタウン・バンド 【1996】
7 青春の影/財津和夫(チューリップ) 【1974】
8 ボール&チェーン/ジャニス・ジョプリン 【1967】
9 ハッピークリスマス/ジョン・レノン&ヨーコ・オノ 【1971】
10 翼をください/山本潤子(赤い鳥) 【1971】
11 スキャットマンズ・ワールド/スキャットマン・ジョン 【1995】
12 クレア/フェアーグランド・アトラクション 【1988】
13 デジャ・メイク・ハー/レッド・ツェッペリン 【1973】
14 タイムマシンにおねがい/サディスティック・ミカバンド 【1974】
15 キエフの大門/エマーソン・レイク&パーマー 【1972】
16 少女/五輪真弓 【1972】
17 ジュニアズ・ファーム/ ポール・マッカートニー&ウイングス 【1974】
18 トムズ・ダイナー/スザンヌ・ヴェガ 【1984】
19 マーチ・オブ・ザ・ブラッククイーン/クイーン 【1973】
20 なごり雪/イルカ 【1975】
21 忘れじのグローリア/ミッシェル・ポルナレフ 【1973】
22 夢見るシャンソン人形/フランス・ギャル 【1965】
23 同志/イエス 【1972】
24 悲しき鉄道員/ショッキング・ブルー 【1970】
25 タワー/エンジェル 【1975】
26 ロッホ・セヌ―/ランパ 【1990】
27 レディ・ラック/ロッド・スチュワート 【1995】
28 残酷な天使のテーゼ/高橋洋子 【1995】
おりべまこと電子書籍
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明日2月22日(水)17:00~27日(月)16:59まで
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良い音楽、好きな音楽をあなたの心の友に。
第1巻として♯1~♯28を収録。
もくじ
1 5年間/デビッド・ボウイ 【1972】
2 愛にさよならを /カーペンターズ 【1973】
3 ドント・レット・ミー・ダウン/ザ・ビートルズ 【1968】
4 嘆きの天使/ケイト・ブッシュ 【1978】
5 ソー・ロンリー/ザ・ポリス 【1978】
6 スワロウテイル ~あいのうた~ /イェンタウン・バンド 【1996】
7 青春の影/財津和夫(チューリップ) 【1974】
8 ボール&チェーン/ジャニス・ジョプリン 【1967】
9 ハッピークリスマス/ジョン・レノン&ヨーコ・オノ 【1971】
10 翼をください/山本潤子(赤い鳥) 【1971】
11 スキャットマンズ・ワールド/スキャットマン・ジョン 【1995】
12 クレア/フェアーグランド・アトラクション 【1988】
13 デジャ・メイク・ハー/レッド・ツェッペリン 【1973】
14 タイムマシンにおねがい/サディスティック・ミカバンド 【1974】
15 キエフの大門/エマーソン・レイク&パーマー 【1972】
16 少女/五輪真弓 【1972】
17 ジュニアズ・ファーム/ ポール・マッカートニー&ウイングス 【1974】
18 トムズ・ダイナー/スザンヌ・ヴェガ 【1984】
19 マーチ・オブ・ザ・ブラッククイーン/クイーン 【1973】
20 なごり雪/イルカ 【1975】
21 忘れじのグローリア/ミッシェル・ポルナレフ 【1973】
22 夢見るシャンソン人形/フランス・ギャル 【1965】
23 同志/イエス 【1972】
24 悲しき鉄道員/ショッキング・ブルー 【1970】
25 タワー/エンジェル 【1975】
26 ロッホ・セヌ―/ランパ 【1990】
27 レディ・ラック/ロッド・スチュワート 【1995】
28 残酷な天使のテーゼ/高橋洋子 【1995】
執筆協力させていただいたビジネス書が完成。
出版元から見本が届きました。
とても読みやすく仕上がっています。
本日20日から全国の書店で発売。
amazonでもご注文できます。
日本の経済産業状況について、
経営者にとっての労働力の問題について、
労働者にとっての労働環境の問題について、
リモートワークについて、
そして海外進出について、
いまどうなっているのかわかる、お得な本です。
海外進出と言えば、法務・労務・税務の手続きやルール体系が日本と異なることから臆する企業も多いかもしれません。
そんななか、海外雇用代行
(EOR。Employer of Record = 記録上の雇用主)
と呼ばれる仕組みにより、海外に拠点を置いて、
リモートワーク中心に業務を進めることで
成長していく秘訣を解き明かします。
本書は、事例としてGoGlobal、NRIアメリカ、
メロディインターナショナル、Paidyの4社を採り上げ、
具体的に海外とのリモートワークの仕組みや
工夫について紹介する実践的な内容となっています。
ぜひ、お手元でご覧ください。
とてもシンプルでありながら、
あまりにも切なく美しいメロデイライン。
初めて聴いた時は本当に鮮烈だった。
1988年のヒット曲だが、
どこか1970年代の日本のフォークソングを彷彿とさせた。
正直、最初、歌だけ聴いたので
トレイシー・チャップマンが黒人女性だとは思わなかった。
黒人歌手はみんな歌い方がブルースっぽかったり、
ソウルフルだったり、ファンキーだったり、
ダンスフルだったりする。
そんな思い込みというか、偏見があった。
そして僕が知っている限り、ギター1本で歌う
プロの黒人シンガーソングライターは
1988年まで存在しなかった。
そういう意味で、トレイシー・チャップマンは
今でも特別なミュージシャンである。
しかし、この曲の内容はまさしくブルース。
アメリカ社会の底辺で働く、黒人女性の労働者の歌だ。
厳しくリアルなストーリーを歌っているのだが、
なぜか一編の寓話を語っているようにも聴こえる。
そして自然と浮かび上がる映画のようなシーン、
ストーリーは、ひどく胸に迫ってくる。
主人公の女は学校を辞めて、
スーパーやコンビニのレジ打ちをしながら、
貧困の中で飲んだくれの父親を支えている。
母親は、もうこんな生活は嫌だと言って
出て行ってしまったからだ。
そんな境遇の彼女が車を持っている男と出逢う。
高速道路を走ったらバラバラになってしまいそうなほどの
ポンコツだが、彼と一緒にドライブした彼女は狂喜する。
まるで空を飛ぶほどのスピードで走っているような
錯覚にとらわれる。
笑って運転する彼と一緒にいると、
それまでのみじめな自分を忘れることができる。
そう呟くのだ。
二人は一緒に暮らし始める。
いつかこの町の、この貧しい暮らしから
抜け出せることを夢見て。
子どもも生まれた。
幸せになりたいのだが、
いつの間にか彼は彼女の父親と同じように
無職の飲んだくれになっていってしまう。
けれども彼女はまだ夢を捨てていない。
貧しい生活の中で彼女は一縷の望みを抱えて
彼に問い続けるのだ。
ここで死ぬか、今夜飛び立つか・・・
あなたのあの速い車で。
★週末の懐メロ 第1巻
http://www.amazon.com/dp/B0BTWMZBVT
20世紀ポップミュージックの回想・妄想・新発見!
ブログ「DAIHON屋のネタ帳」で2020年10月から毎週連載している「週末の懐メロ」を本にしました.
カミさんが週イチで行っている健康センターで
更年期障害に対処する講演会&ワークショップを行う。
定員はあっという間にいっぱいになったそうだ。
近年、女性は「更年期」という言葉に敏感で、
その裏には「女でなくなる恐怖」
「女の時代が終わる恐怖」といったものが
まとわりつくらしい。
情報化社会。
情報で人を動かすには恐怖や不安を与えるのが、
いちばん手っ取り早い。
なのでテレビでも雑誌でもネットでも、
恐怖心・不安感をあおる情報が氾濫することになる。
更年期になると大変だ、病気になりやすくなるよ、
気分がおかしくなるよ、みたいな声に加え、
「女でなくなったアタシに価値があるのかしら?」とか
「これからどう生きれていけばいいの?」
という恐怖もある。
確かに子供を生めなくなるのは大ごとだが、
大げさな情報のせいで
精神疾患の人も増えてしまう。
女性は子供の時も
女になる恐怖、女が始まる恐怖に晒される。
恐怖は言い過ぎかもしれないが、
あんまりハッピーな気分になったという話は聞かない。
その点、男はいつまでもノー天気で、ガキでいられる。
いいことなのか、悪いことなのか。
男女不平等。
いずれにしても情報が豊富にあるのは
いいことばかりじゃない。
「知らぬが仏」という言葉を思い出し、
ある程度は見ざる・聞かざるにしとくのも
健康を保ち、自分を見失わず、
人生を快適に生きる知恵ではないだろうかと思う。
梅が咲き、河津桜も咲いた。
春はもうすぐだ。
毎日おかしな情報ばっかり頭に詰め込まず、
たまには外で花でも見てぼーっとした方が良い。
執筆協力させていただいたビジネス書が完成。
20日から書店で発売。amazonでもご注文できます。
日本の経済産業状況について、
経営者にとっての労働力の問題について、
労働者にとっての労働環境の問題について、
リモートワークについて、
そして海外進出について、
いまどうなっているのかわかる、お得な本です。
海外進出と言えば、法務・労務・税務の手続きやルール体系が日本と異なることから臆する企業も多いかもしれません。
そんななか、海外雇用代行 (EOR。Employer of Record = 記録上の雇用主) と呼ばれる仕組みにより、海外に拠点を置いて、リモートワーク中心に業務を進めることで成長していく秘訣を解き明かします。
本書は、事例としてGoGlobal、NRIアメリカ、メロディインターナショナル、Paidyの4社を採り上げ、具体的に海外とのリモートワークの仕組みや工夫について紹介する実践的な内容となっています。
ぜひ、お手元でご覧ください。
話題のオープンAI「ChatGPT」を使ってみた。
今日はバレンタインデーなので、その話題について。
ぼく:バレンタインデーの由来を教えて。
AI:バレンタインデーの起源はキリスト教の宗教的な祭りにまで対処しますが、現代における恋人同士の祝い方は、14世紀の中世ヨーロッパまでさかのぼります。 その後、19世紀には、バレンタインデーのカード交換が広大、20世紀には、商業的な祝日として世界中で広く認知されるようになりました。
ぼく:なんで日本ではチョコレートを贈るの?
AI:日本でバレンタインデーにチョコレートを贈る習慣は、1950年代に菓子メーカーが広告展開を行ったことが始まりとされています。同士での贈り物や、逆に男性が女性にお返しを贈る「ホワイトデー」も生まれ、現在では様々な形で祝われています。
ぼく:イギリスでは新聞などに男性から女性へのメッセージが載っていますね?
AI:はい、イギリスではバレンタインデーになると、新聞や雑誌などに「バレンタインメッセージ」と呼ばれる、男性から女性へのメッセージが掲載されることがあります。また、最近では、インターネットやソーシャルメディアでも同様のサービスが提供されていることもあります。
ここまではウィキ風の一般常識と僕自身が知っていること。
文章も一部を除いてちゃんとしていて、
まあ合格点だが、問題はこのあと。
ぼく:他の国ではバレンタインデーにどんなことをするの?
AI:世界各国でバレンタインデーは祝われていますが、
祝い方は国や地域によって異なります。
例えば、以下にいくつかの例を挙げます。
フランス:「愛の鍵」と呼ばれる鍵を贈り合う習慣があります。
韓国:2月14日に女性が男性にチョコレートを贈る「チョコレートデー」、そして、3月14日に男性が女性にお返しをする「ホワイトデー」があります。
メキシコ:バレンタインデーには、「ダイアの日」と呼ばれる習慣があり、恋人同士がお互いにダイヤモンドを贈り合います。
南アフリカ:バレンタインデーは、人々がカードや贈り物を交換するだけでなく、恋人同士がそのまま木の枝を剪定し、その枝に装飾品を飾り付ける「ラブロックス」と呼ばれる習慣があります。
他にも、世界中に様々な独自のバレンタインデーの習慣があります。
愛の鍵?
ダイヤモンドを贈り合う?
木の枝を剪定し、その枝に装飾品を飾り付ける?
一瞬信じてしまいそうになったが、
何かおかしいと思って調べてみたら、
このへんは全部間違っている。
いちいち説明すると長くなるのでしないが、
パリの「愛の南京鍵」で橋が崩壊した事件は
バレンタインデーとは関係ないし、
メキシコでダイヤを贈り合うなんて、
よほどの金持ちじゃなきゃできるわけない。
ぼく:どうもありがとう。あなたのことをブログやSNSで紹介しておきますよ。
AI:どうもありがとうございます。 お力になって嬉しいです。 何か他にも質問やお困りごとがあればいつでも聞いてください。
お礼にはちゃんとお行儀よく返してくれるので、
いいやつ風だけど、妙に自信たっぷりなところが怖い。
続いて、先日書いたイヌに関する会話。
ぼく:いま、日本ではどんなイヌがたくさん飼われていますか?
AI:日本で最も一般的に飼われている犬種は、トイプードル、シーズー、チワワ、ダックスフンド、柴犬などです。ただし、最近はミックス犬や外国産の犬種も人気があります。
ぼく:ジャックラッセルテリアの人気はどうですか?
AI:ジャックラッセルテリアは、日本でも一定の人気がありますが、一般的には比較的少数派の犬種の一つです。また、ジャックラッセルテリアをモデルにしたキャラクターなども人気があるため、それが犬種自体にも影響しているかもしれません。
ぼく:ダックスフンドは以前より人気が下がったみたいだけど、なぜ?
AI:確かに、日本では過去に比べてダックスファンドの人気は明らかになっています。その理由としては、以下のようなものが挙げられます。
・年齢層の変化:ダックスフンドは、昔は高齢者を中心に語られていましたが、今では若い世代にはあまり必要がないという飼う傾向があります。
・健康問題:ダックスフンドは、背が長く足が短い体型のため脊椎疾患にかかりやすい傾向があります。このことが、飼い主たちの健康面や医療費の問題につながっているとも言われています。
・環境変化:都市部では、小型犬よりも中・大型犬が飼いやすいという環境変化があったことも、ダックスファンドの人気低下につながっているかもしれません。
ただし、全国的に見れば、まだまだダックスフンドは人気のある犬種の一つです。
こちらも一見もっともらしいことは言っている。
ダックスフンドの健康問題については正しいと思うが、
都市部では、小型犬よりも中・大型犬が飼いやすいって・・
そんなことはないだろ。
ついでにもう一題、僕の電子書籍の名を出して、これの作者は?と聞いてみたところ、筒井康隆とか森見登美彦だと答えた(笑)。マイナーな情報については0点だ。
本日のところの結論。
回答は確かに速く、ほどほどにまとまった文章で出てくるが、中身の精度は???
・・ってか、かなりめちゃくちゃ。
なのでいちいち確認する必要があるので、
結局、自分で調べるのと変わらない。
聞いてみたらすぐに回答が出てくるのと、
自信たっぷり、私は常に正しい情報を提供します、
みたいな口ぶりなので、
うっかり信じてしまう人も多いだろう。
しかしそのまま文章をコピペして、ホイホイ仕事に使ったり、ネットに上げたら大恥かくし、
トンデモ情報が氾濫して大迷惑になるので、
ちゃんと自分の目と耳で調べましょう。
というわけで、お遊びにはいいが、
仕事や勉強をお任せするにはまだまだの「ChatGPT」。
でもたぶん、聞き方が問題なのだと思う。
上手く育てて、上手く使いこなせるようになれば
けっこう使いでがあるのではないかと感じた。
いよいよAIの時代。ともに成長しよう。
昨日(2月12日)、
認知症への理解を深めてもらおうというイベントが
東京・世田谷区で開かれた。
そこで認知症を公表した漫画家の蛭子能収さんが
「仕事を続けているのが自分らしさだ」と
みずからの体験を語った。
この催しは、世田谷区が認知症に対して
深い関心を持てる地域の実現を目指そうと開いたもの。
そのなかのトークショーに
3年前に認知症を公表した漫画家の
蛭子能収さんが登壇した。
蛭子さんは直近のことを覚えられないといった
症状がありながら、
家族や周囲の支えを受けて仕事を続けている。
その成果とも言えるエッセイ
「おぼえていても、いなくても」は、
めっちゃ面白い本である。
また、その内容とは別に、
どうやって家族や周囲がサポートしているのか、
とても興味深い本になっている。
蛭子さんは今回の講演で生きがいについて聞かれると
「何か得意なことを見つけることが大切です。
私は認知症になってもイラストの仕事もテレビの仕事も
受けているのが自分らしさで、ずっと生きてやるぞ、
という思いでいます」と話したという。
認知症の症状は人それぞれだし、蛭子さんは有名人なので、
「皆さんも彼のようにポジティブに行きましょう」とは
一概には言えない。
それでも希望を与えてくれることは確かだ。
とは言え、
本人と家族だけがどれだけ頑張ったって限界がある。
そのためには社会の理解がぜひ必要になってくるのだ。
うちの義母はべつに公表はしていないし、
親しい人やケアしてくれる人以外に
「認知症なので・・・」と、わざわざ説明しないが、
これだけ認知症というものが一般的に認知されてくると、
わかる人にはそれとわかるようだ。
明るく振舞っているせいもあり、
べつにそれであからさまに蔑視されるようなことはない。
それどころか「じつは認知症で・・・」と、
こっそり打ち明けたりすると、
「あ~、やっぱりぃ。うちの親もそうなんですよぉ~」
とか言って笑う人もいる。
少なくとも、かつて「ボケ」とか「痴呆症」とか
呼ばれていた頃の
ネガティブなイメージは確実に弱まっていると感じる。
困ったことになるのは変わりないが、
かと言って、この世の終わり、人生終わり、
みたいな絶望感は抱く必要はないのでは、と思う。
「withナンチャラ」とは最近、よく聞く言葉だが、
近々、「with認知症」の時代になる可能性は高い。
認知症なんかになったら
すべてを諦めなければならなかった昭和の頃と比べて、
今はこうした病気や障がいを持った社会的弱者も
共に楽しく生きられる可能性が出てきている。
貧しかった時代は、生産性のない人たち、
もっと言ってしまうと社会の役に立たない人たちは、
打ち捨てられるしかなかった。
けれども今はそうではないのだ。
そうした人たちの価値も認めていっしょに生きる――
それが豊かな社会、先進国家の証である。
社会の進化、豊かな社会とは、
大勢の人が金持ちになって贅沢するために
実現したのではなく、
このために成し遂げられたものなのだ。
いつもSNSなどで一生懸命になって、
自分のサクセスストーリーを自慢している人、
私は年収○千万です、
○億円ですとか発信している人たちは、
ぜひこうした方面に目を向けて、
「with弱者」の社会の実現に努めてほしい。
おりべまこと電子書籍:
認知症介護エッセイ
「認知症のおかあさんといっしょ」
https://www.amazon.co.jp/dp/B0BR8B8NXF
できれば笑って楽しく向き合いたい。家族でも自分でも、認知症を過度に恐れ、人生に受け入れ難いと言う、すべての人に読んでほしい本です。
台本ライター・福嶋誠一郎のホームページです。アクセスありがとうございます。
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