エンディングを意識して人生の台本を書く。

 

●エンディング文化の時代到来

 

 エンディング産業展の取材を終えて考えたこと。

 それは、エンディング――死を楽しむ時代がやってきたということです。

 

 「死を楽しむ」というと語弊があるかもしれませんが、要はひとりひとりが自分の人生の終え方について期待感や希望を抱く、ということです。

 

 いつかはこの世からおさらばしなくてはいけない。

 これはあらかじめそう決まっています。

 だったら悲しんだり寂しがったりするだけでなく、そうした感傷も含めて、思い切って楽しんだほうが「お得」なのではないでしょうか。

 

 少なくとも僕たち、現代の日本人ひとりひとりは、そうしたことをできる豊かな文化に包まれて生きていると思うのです。

 

●人生は20歳まで

 

 じつは人生は20歳で決定しています。

 20歳までの経験とそこから吸収したもの、そして喜怒哀楽の感情で人間の心身の基盤は出来上がります。

 どうすれば自分は気持ちよく生きられるのか、この世の人生において何に価値を置いて生きるのか、自分が果たすべきミッションは何なのか・・・これらはもうみんな、最初の20年で僕たちの内側にしっかりインプットされます。

 

 ただし、そのことに気づくかどうか、それらをいつ発見できるか、はその人しだいです。最期まで見つけられずに終わってしまう人も少なくない。いや、もしかしたら大半の人はそうなのではないでしょうか。

 

 だから20歳を過ぎた大人は、自分の人生の主人公は自分であると、しっかり意識したほうがいい。

 そして日々、自分の人生の台本を書いていくといい。

 細かく書き込む必要はないけれど、どういう流れでどうなり、どんな大団円を迎えるのか、エンディングまで想定してプロット(筋書)を作っておくといいと思います。

 

 もちろん、僕たちを取り巻く環境は、時代とともに刻一刻と変化していくので、日々リライトすることが必要です。

 でも、ベーシックな台本があるとないとでは違います。まったく手ぶらで毎日アドリブだらけでは続きません。

 

 でもじつは、わざわざ僕がこんなことを言わなくても、あなたも自分の人生の台本はひそかに書き進めているはずなんですよ。

 耳を澄まして自分に聞いてみてください。

 そして、目を凝らしてよく探してみてください。

 

●リライトしよう、今からでも始めよう

 

 親やら先生やら世間一般やらの書いた台本で生きている――

 もし、あなたがそう感じるのなら、そんなものは破り捨てるか、端から端までリライトして自分のものにしてしまう必要があるでしょう。

 

 また、もう齢で今からでは手遅れだ・・という人も大丈夫です。

 これまでの記憶・実績を材料に再構成することができます。

 起きてしまった事実は変えられなくても、現在の自分、そして未来の自分に合わせて、その事実の意味を変えることができます。

 マイナスと捉えていた事象もプラスに転換することができます。、

 これもどんどんリライトしましょう。その気になれば一晩でできます。

 

 完成度の高い台本、公開する台本(必要だと思えば見せてもいいけど)を作ることが目的ではありません。

自分が主人公であることを意識し、生きるということについてイメージを広げ、深めるためにこうした考え方をするのは有効ではないかと思うのです。

 

●エンディング産業を面白がろう

 

 エンディング産業は「人の死をネタにしたお金儲け」と、胡散臭い目で見られることがまだまだ多いようですが、歴史・文化・哲学など、いろいろなことを考えさせてくれる媒体です。

 

 そして経済と結びつくことで、世の中に大きな影響を与えていきます。

 そこで提供されるあふれんばかりの商品やサービス――それこそラーメン一杯からデザート付きフルコースまで――は、すべて今を生きる人たちの心が投影されたものばかり。どれを選ぶかは自分次第だし、オーダーメイドも可能だし、どれも選ばないという選択肢だってもちろんあります。

 興味と好奇心を持って覗いてみると、きっと面白いと思います。

 

 

 

 

2016・8・28 SUN


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ウーパールーパーな女子・男子

 

 「おまえら、いいトシこいて小学生かよ~」

 というのが「女子・男子」という呼び方に対する感想でした。

 20代だったらいざしらず、いったいいつから中高年まで女子・男子と呼びならわすようになったのか?

 たぶん少なくとも21世紀以降のこと。今ほど頻繁に使われ、定着するようになったのは、この10年くらいか?   どうも前から気になっていたので、これがいったいどういう意味を持つのか考えてみました。

 

●間柄によってビミョーに呼び方を変換

 近頃、女・男を呼び表すのって意外と難しいのです。

 「女性・男性(ジョセイ・ダンセイ)」は書くのはいいけど、音声で表す場合、どうもフォーマルすぎる。改まった席や仕事の場でなら問題ないが、ちょっとくだけた場や親しい間柄で「ジョセイ・ダンセイ」と言われると違和感があります。

 それならやっぱり「女・男(オンナ・オトコ)」―― 僕はこの呼び方を好むのですが、困ったことに最近、女性の中に敬遠する人が少なくない。

 

 文脈の中でどう使うかにもよりますが、「セックスを感じて恥ずかしい」「あまり口では言いたくない」という意見があるのです。「情婦・情夫」といった漢字と結びつくのでしょうか。性を伴う愛のにおいがするのでしょう。

 

 かなり親しい間柄でなら問題ないけど、やや親しさが希薄な友だち・仲間、あるいは仕事の同僚などに対しては、もしかしたら不愉快に感じるかな?と思ってしまうので、僕も「女の人(オンナノヒト)」といった言い方をします。(自分が男なので、男は「オトコ」でOK)。

 つまり相手によってけっこう使い分けなくてはならない。いやはや、なんとも日本語は繊細で複雑でビミョーです。

 それに仕事でも趣味でもプライベートでも、年齢層で分断されることなく、いろいろな年代の人間が、フラットな関係で入り混じって行動するようになったことも、こうした呼称のビミョーさに影響しているのではないかと思います。

 

●安心・安全なジョシ・ダンシ

 そこで登場した「女子・男子(ジョシ・ダンシ)」は、かなり便利。

 もともと子供・若者、あるいはスポーツ選手に対しての呼称だったので、「ジョシ」「ダンシ」と言われると、なんだか若返ったような気分になるし、カタさがなく、親しさイマイチの間柄でもOKだし、一般的な呼称としても安心して使えます。

 

●英語文化と日本語文化

 女子・男子は英語だとGIRL・BOY。

 英米ではむしろこっちのほうがセックス臭が漂いますね。

 その方面のお仕事をしている人はこの呼称で呼ばれることが多いと思います。

 なので普通、英米人の中高年は「GIRL」「BOY」なんて呼ばれたら腹を立てるんじゃないでしょうか。

 ところが日本語―ー日本人の場合はその逆。

 比較して考えると、英米が子供・若者(子供っぽさ・若さ)を下に見るのに対して、日本人には子供を神聖視したり、若さを尊ぶ精神構造があります。女子・男子×GIRL・BOYには、そうした文化の違いも見て取れします。

 

●女子・男子の裏にある「成長」というキーワード

 もうちょっと深掘りしてみたらどうなるか・・・ということで発見したのが 5年ほど前、自分のブログで書いていた文章。これは当時、映画・TV・演劇で「三銃士」がちょっとしたブームになっており、それについて書いたものです。

 

 いわゆる“成熟社会”となった先進諸国では“成長”は重要なキーワードだ。未熟だろうが、ダメダメなところがあろうが、成長を感じさせる、言い換えれば、未来への可能性を感じさせる人や集団や企業は、すこぶる魅力的に映る。 

 

 つまり、今、それだけ“成長”というものに希少価値があるのではないだろうか。

 成熟し、伸びきってしまった大人にはそうした魅力が見出せない。しかも環境の変化のせいもあり、信頼感も失墜しているのでなおさらだ。 

 

 ちなみにこれは実年齢のことを言っているのではない。10代・20代はもちろん、50代・60代でも“成長”しなくてはならない(少なくともそういう意志を見せなくてはならない)世の中になっているのだ。

 そして、若いダルタニアンと年長の三銃士のように、互いに影響を与え合いながら伸びていくことが求められている……三銃士の物語は、そうした現実を映し出す鏡のような機能を持っているのでは、と感じる。 

 

 どうもこうした意識がそのまま、僕たちの深層心理に貼りつき、いつまでも成長しきらない子供・若者の部分を形成しているのではないかと思います。

 それが「女子・男子」という呼称に結びついている。

 国境が溶け、世代差が溶け、リアルとバーチャルの境界が溶け、それでいながら経済や社会階級の格差が広がる今、人間として完成してしまうこと、成長しきってしまうことは、今後のことを考えるとマイナス要素にしかならない。

 齢は取っても可能性は残しておきたい・・・という気持ちの表れなのかも知れません。

 

●僕たちはいつまでウーパールーパーか?

 というわけで、ウーパールーパー。

 南米のサンショウウオの一種であるこの生き物、一般的には死ぬまで成熟せず、幼体のまま一生を終えるのだそうです。

 最近「1980」を謳ったCMでテレビに再登場しましたが、 確かに1980年頃、ウーパールーパーみたいな顔をした若い連中(=当時の僕たちのことです)が街の中をうようよ泳ぎ回っていました。

 

 あれから30年以上経った今も、依然として僕らはウーパールーパーそのもの。

 オトナ女子・オトナ男子として、ろくすっぽ成長することなく、結局、単に子供オバさん。子供オジさんのまんまで終ってしまう可能性は大きいのではないかと思います。

 

 でも「今どきの若いモンは・・・」という昔の人たちが本当に尊敬に値する大人ばかりだったのか?といえば、そんなことはない。情報がたやすく手に入らなかった時代の社会では、ごまかし、カッコづけも簡単で、威張っていられましたからね。

 

 今、成長するとはどういうことなのか? ごまかしやカッコだけでなく、大人になるってどういうことなのか・・・人生の続くかぎり、考えていこう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2016・8・15 MON


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ぼくはセイウチロウ

 

氷の世界の恐怖のセイウチ

 子供の頃、動物図鑑で初めてセイウチの写真(イラストだったかも知れない)を見た時は、そのモンスターのような姿・形に心の底から驚愕しました。

その時の僕のセイウチのイメージは、世界の果ての暗くて冷たい氷の世界で巨大な牙をむき出しにして世にも恐ろしい咆哮を轟かせる孤独な怪物。

こわかったなぁ。

 人生の中でもしこんな怪物に出会うことがなあったら、僕は一瞬のうちにカチンコチンに凍り付いて、冷凍食食品になってこいつに食べられてしまうだろうと思い、どうぞそんなことになりませんように、と、何度もお祈りを唱えました。

 

夢の世界でセイウチロウと邂逅

 という衝撃が消えたのはいつのことだろう?

いろいろ本を読んだりテレビを見たりするうちに、セイウチは割とおとなしくて温かい生き物。孤独ではなく、群れをつくってのんびり暮らしていることなどを知りました。

それどころか、近年は日本水族館にも住んでいて愛嬌を振りまいてくれています。

 

 そのセイウチ君に僕もお世話になっています。

 夏、お昼寝するときは涼しい水族館のイメージを抱いて横になり、水中を魚がうようよ泳いでいる中をうつらうつらしつつ彷徨っているのですが、15分ないし30分ほどすると、コツコツと頭を何かがつつく。

「おい、起きろよ、セイイチロウ」

と目を覚ますと目の前には強大なセイウチが。やつはその牙の先で僕の頭をつついいたのです。

 こいつはセイウチロウといってクールな夢のアラーム係として30分経ったから起こしにくるのです。それ以上寝ちゃうと夕方まで頭が働かなってしまうので。起きない時は歌を歌って起こします。

 もちろん、歌はビートルズの「I am the Walrus」。

 

●ビートルズフェスでセイウチ登場

 そういえば昨夜、録画しておいてずっと見ていなかったNHK-BSの「BEATLESフェス」なる3時間番組を見ました。

  ビートルズ来日50周年ということで、当時の逸話――ビートルズにはっぴを着せた日航のスチュワーデスさんの話やら、独占取材に成功した星加ルミコさんやら湯川レイコさんの話――昔、音楽雑誌でよく記事を読んでいましたが、音楽ジャーナリズムのリーダーだった彼女らはまだ20代の女の子だったんですね――やら、を中心に、年寄りから若者まで入り混じったスタジオトークや、ビートルズ番組お約束のリバプール―ロンドン紀行(森高千里がキャバーンクラブに行ってドラムを叩いてた)などがてんこ盛りのバラエティ。

 しかし、目玉は何といっても、新旧いろいろな日本のミュージシャンたちがやるビートルズナンバーのトリビュートライブでした。

 

 財津和夫「Yesterday」や平原綾香「Hey Jude」などは、ま、定番の、という感じ。仲井戸麗市(チャボ)の「The Long and Winding Road」はほとんど自分で歌詞を書き換えた替え歌で、清志郎へのレクイエムにしか聞こえない。歌い方もそっくりだ。やっぱ寂しいんだろうね。

 

 その中で一番面白かったのがラブ・サイケデリコの「I am the Walrus」。

 ぐにゃぐにゃしたサウンドとともに、「おまえはあいつ、あいつはおいら、おいらタマゴ男、おいらセイウチ」なんていう、ジョンのナンセンスでファンタジックでグロテスクな詩の世界がぐりぐり脳天にねじ込まれてきて、めっちゃカッコいい!  こんな新鮮なアレンジでこの曲を聞けるとは思ってもいなかった。まったく感動モノでした。

 

 オリジナルを聞いて育ったおっさん・おばさんたちは、どうしてもリスペクトが先に立ってしまってアレンジも表面的で徹底しない。けど、「むかし、ビートルズっていうバンドがいたらしいね」と言っているような若い連中は、遠慮なくぶっ壊して、さらにおいしく料理していけると思います。

 ジョンやジョージがあの世から「おいおい」と言って止めに来るくらい、ガンガンすごいアレンジをしてほしい。

 

セイウチロウよ永遠に

 おまえはあいつ、おまえはおれ、だからあいつはおれ、おまえはセイウチロウ、ぼくはセイイチロウ、おまえはセイイチロウ? ぼくはセイウチロウ?

 まだまだ暑い。北極の氷の上でごろごろ寝そべる夢を見て毎日過ごすことにいたします。またセイウチロウと会うのを楽しみにして。

 

 

 

 

2016・8・11 THU


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四国化け猫➡猫神さま伝説

 

 この夏は四国をお遍路しています。

 ただし、オン・マイ・マインドで。

 葬儀・供養の業界誌の仕事で、ネット~メール~電話で取材しては原稿書きの日々。

四国の葬儀の風習や、お遍路についていろいろ勉強しました。

 

 で感じたのが、やたら四国にはネコが多いな、ということ。

 そういえば香川県のある島でネコがいっぱいいるのをテレビで見たことがあります。それで有名になって、観光客が出向いて、かわいい、かわいいとエサをあげまくるのでさらにネコ天国となっているようですが・・・。

 

 一方、僕が出会うのは、お葬式・お墓関連ので話からなので、この世とあの世の境界線上でニャーニャー鳴いているネコばかり。

 

●四国の葬儀における猫の存在

 

 徳島や愛媛で、家で人が亡くなると枕元にホウキや刃物などを置く、という風習があります。(正確には「あった」という過去形。日本の昔ながらの葬儀・供養の風習のほとんどは全国どこでも、この20~30年の間に9割以上消滅している)

何のためにこんなことをするかというと、ネコがご遺体の上をまたがないようにするため。ニャアとまたぐと死人が生き返って歩き出すとか、逆にネコがバケネコ化するというのです。

 ということは、この辺りではネコを飼っていた家が多のか?

 いや、飼っていたというよりも、ネコだのタヌキだの、動物たちが「こにゃにゃにゃちは~」と、自由にあちこちの家を出入りしていたのではないか、と思います。

 昔の日本の田舎の家は戸締りもいい加減で、常にオープン状態だったし、ネズミ退治にも役立つからね。だけど、キミはやばいからお葬式の時は来ちゃだめよ、という感じでしょうか。

 

日本三大化け猫伝説「お松大権現」の猫

 

 そんなわけでネコ伝説がはびこる四国。

 徳島県阿南市には「日本三大化け猫伝説」の一つに数えられている「お松大権現」という神社があります。

 ここに由来するお話は、借金苦にまつわるもので現代人にとってもリアル。

 むかし、困っている村人たちを救うために金貸しから多額の借金をした庄屋さんが金貸しに裏切られ、借金を残して死んでしまう。

 その妻・お松は「借金はちゃんと返したのに」と異議申し立てをしたのですが、その土地の奉行(きっと金貸しとつるんでいたと思われます。これも現代に繋がる政治とカネの問題です)が「わしゃ、返してもらとらんぞ」と、それを認めず、お松と、彼女が可愛がっていたネコを死刑にしてしまうのです。

 なんでネコまで処刑されるのかわからないけど、「わしの命に背く者は一族郎党皆殺しじゃ」という論理だったのでしょうか? 

 ネコも一族郎党に加えられてしまったのですね。

 

 で、この手の怪談兼勧善懲悪・庶民の味方ストーリーのセオリーとして、もちろん、この後、このネコはウソつきの金貸しと、権力乱用の奉行のところに化けて出て、悪者どもを地獄に叩き落とすというオチ。

 めでたし、めでたしということで、この正義のバケネコはこの神社にまつられることになったのです。

 

●今や霊験あらかた、招き猫だらけの観光スポット

 

 こうした因縁話があるせいか、なんと、この神社、今では受験と勝負ごとにご利益があるとして大人気に。バケネコになったネコはリベンジを果たした結果、「猫神様」に昇華。勝負ごとにご利益と言うので、全国からギャンブラーが詣でているようです。

 そして猫神様は招き猫の姿になって降臨したので、境内は招き猫だらけになっているようです。いやー、すごい。でも、借金は勝負事――ギャンブルに頼らず、地道にコツコツ返したほうがいいと思うなぁ。

 

 というわけで、妖怪も神様になってしまう四国。

 そういえば「千と千尋の神隠し」で、妖怪だか神様だかわからない者たちが湯あみに来る湯婆の湯場も愛媛の道後温泉がモデルになっていました。

 四国の旅・オン・マイマインド、まだまだ続きそうです。

 

 

2016・8・6 sat


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ニューヨーク発アボカド愛

 

 1986年秋、1週間休暇を取ってロンドンからニューヨークに飛んだ。

 ブロードウェイの裏手あたりのボロい安ホテルに泊まった。

 泊り客よりもここに住んでる人のほうが多いんじゃないのという感じの所で、窓の向こうは隣の建物の壁。ごちゃこちゃした配管がへばりついている。

 でもそこはやっぱりニューヨーク。

 映画みたいでカッコいいじゃんと満悦してた青春の1ページ。

 

 滞在中はピッツァとハンバーガーを主食としていたが、この時、生まれて初めて口にしたのがベーグルパンと、カリフォルニアロールだった。

 

 確かグリニッジヴィレッジあたりのスシIバーだったと思う。

 SUSHIはこの頃、すでにアメリカではかなりポピュラーになってきてて、カジュアルなレストランも増えていた。

 カリフォルニアロールについての情報は入ってきていたが、実際に口にしたことはなかった。

 注文して一口食べて感動した。これはうまい!

 魚のネタよりうまいと思った。

 アボカドという食べ物に遭遇したのもこれが初めてだった。たぶん。

 

 以来、アボカドは好物になった。

 

 ここのところ、スーパーで安く売ってることが多く、1個100円なら必ず手を出す。 皮の色はできるだけ真っ黒なのを選ぶ。ただし、熟れすぎに注意。

 手のひらで軽く持つと、熟れ具合が伝わってくる。

おいしいアボカドは

 「食べごろなのよーん、早く連れてってぇ」

と甘くささやいてくる。

 

 家に帰り、台所でぱこっと半分に割る。

 いい子は皮と果肉の間にスッとナイフを差し込むと、きれいに果肉が取れる。

 種にも果肉が残らないよう、しっかりこそぎ落とす。

 ほどよく熟れたアボカドの、柔らかく、ちょっとねっとり感がある美しい緑の果肉はエロチックでさえある。

 

 サラダで使うときは、そのままきれいにスライスするが、僕がいちばん好きな食べ方はここから「ごめんね」と言いながら、美しい緑の果肉をぐちゃぐちゃにつぶしてしまう。

 要はポテトサラダの要領だ。

 サンドイッチの具にするときはそれにこれまたみじん切りのタマネギを混ぜ、塩・胡椒をふってパンにはさむ。

 

 しかし、何といってもアボカドにはあったかいごはんだ。

 ぐちゃぐちゃにしたやつにかつお節をぱらぱら、醤油をちゃーっとかけ、ワサビを添える。あればもみ海苔をふってもいい。

 これをあったかいごはんの上にのっける。

 肉でも魚でも野菜でも味わえない、クリーミーな食感。

 くどいわけでも、あっさりしているわけでもない、濃厚でも薄味でもない独特の味。ごはんとのブレンド感がたまらない。

 うまい! かんたん。アボカ丼。(べつにどんぶりでなくてもいい)

 

 週に一度は食べている。うちの家族もアボカドファンである。MY LOVE。

 


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ルワンダを復興させた女性たち

 

 日本の女性の政治参加が国際的に見てあまりにも低い。

 とはよく言われている。

 2015年のデータでは、なんと世界144位だそうだ。

 

 もう一つおまけに、世界経済フォーラムが発表する男女平等ランキング(ジェンダーギャップ指数)というのがあって、この2016年版では日本は111位。

 なんでだ?

 

 オリンピックだ、万博だ、クールジャパンだ、外国人はみんなニッポンだーいすき!

 と胸を張り、日本って本当に素晴らしい国だって、やたらとそういうテレビ番組が増えているし、政府も世界に対して躍起になってアピールしている。

 

 が、先日の「児童虐待多発国」という汚名といい、女・子どもに関しては、どうもあまり誇れるデータが出てこない。

 なんでだ?

 

 もちろん、女性の政治参加が増えれば、それが女性の幸福につながるかといえば、そういうわけでもない。

 

 それにどうもこの国には、芸術やスポーツや文化などの面で女が活躍するのは好ましいけど、政治とか経済の分野ではあんまりしゃしゃり出ないでほしい・・・という偏見がまだまだ強いのではないか。

 

 で、女性も政治参加――国会における女性議員の割合が最も高いのは」おそらくスウェーデンとかノルウェーとか、北欧のどこかだろうと思っていたら、なんと、アフリカのルワンダと聞いてびっくりした。

 

 しかもその比率は63.8%。女性議員3人に男性議員2人という割合。

 男女平等ランキングでも第5位になっている。

 

 ルワンダと言えば、25年前の1994年に内戦が勃発し、部族同士の抗争から大虐殺に発展。100日間で80万人~100万人、人口のおよそ7分の1が殺されるという人類史上有数の大惨事に、世界中が真っ青になった。

 虐殺を免れた女性も多くが強姦され、万単位の望まない子供が生まれたと言う。

 

 ニュースやルポなどで見た、その時の印象があまりにも強烈で、正直、僕はルワンダって世界で最も悲惨で貧しく、暴力の蔓延る危険な国の一つだと思っていた。

 

 しかし、その印象は一変した。

 あれから四半世紀後たった今、記事と写真を見る限り、首都は美しく整備され、経済発展も著しい。治安の良さもアフリカでトップクラスらしい。

 

 内戦と虐殺からの復興はめざましいものがある。

 終戦から20年余りで世界有数の経済大国へ駆け上がった日本と似た勢いがあるのだろうか。

 

 どうやらかの虐殺で男性の人口が大幅に減り、半ば崩壊した国の立て直しを女性の手に委ねざるを得なかったという事情があるようだ。

 思い切った法制度の改正もあり、この国では議員の少なくとも30%は女性にするよう憲法で定められているという。

 

 そして何よりも、そのベースには過去の悲劇を克服し、生きている幸福を感じられる国にしたいという人々の願いが一枚岩になっているのだろう。

 そこには望まずに母になった女、望まれずに生まれた子どもの思いも入っている。

 

 政治参加率が低かろうと、男女平等ランキングが低かろうと、いいじゃないの、幸せならば――という声が聞こえて来そうだけど、本当にいいのかな?

 


たっぷり眠るとたらふく夢を見る

 

 夢を見るのは楽しい。

 と思っていると、わりと楽しい夢が見られる。

 

 疲れがたまっていたのか、久しぶりに10時間以上眠ってしまった。

 いつもは朝の4時とか5時に起きるのだが、今朝は8時起き。

 カミさん一緒に朝食を食べて、洗濯物を干して、ひと仕事したところで、こりゃだめだ~と思ってもう1回ふとんに入ったら、次に起きた時はお昼をとっくに過ぎていた。

 

 夢に期待していたら、二度寝した時には案の定、たっぷり夢を見た。

 充実してたな~という印象だけは残っているのだが、いつもと同じく内容はさっぱり忘れてしまう。

 

 インターネットを見ると夢占いとか夢診断のサイトがわんさかある。

 ちょいちょい拾い読みをすると、もっともらしいことがいろいろ書いてある。

 

 「空を飛ぶ夢」はこう解釈するとか、「階段から落ちる夢」はこんなことを意味してるとか・・・ニーズも多いだろうし、熱心にハマってる人も多いだろうが、どうもこういうものにピンと来ない。

 

 夢が潜在意識の表れであることに疑念はないが、人それぞれ持っているバックボーンも生活環境も人生の趣向もが違うのだから、同じ夢でもそれぞれ意味するところは違ってくると思う。まったく逆の意味になることだってあるだろう。

 

 夢占いは古い歴史を持っているが、かつては多分、占い師が人生相談に応ずる際の一つの材料として、その人にどんな夢を見たのか聞いたていたのだろう。

 そしてその人にとって、その夢が何を表しているのかを相談を聞く中で解き明かしていったのだ。

 

 なので、サイトや雑誌に載っている夢診断・夢占いは、神社のおみくじの吉凶とか、星占いの「きょうの運勢」程度のもんなんだろうと思う。

 

 その日の気分を盛り上げたいとか、自分の気持ちを調整するために活用したい人は、大いに活用すればいいと思うけど、僕は自分の夢に他人にずかずか踏み込まれて、あれこれ理屈を付けて分析されるのはご免だなぁ。

 

 人生の夢と同様、眠っている時の夢だって自分の聖域だ。

 ヘンな解釈などせず、ナンセンスな世界、「不思議の国」のままでいいと思う。

 みんな、不思議でミステリアスな部分を持ってたほうが面白いんじゃないかな。

 


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マルチなわらじと自分マネージメント術 

 

 食っていくためには「わらじ」が何足も必要だ。

 

 先週取材した六本木のお寺の住職の父は、仏教関係の新聞の記者と僧侶を兼業していたと言う。

 朝のお勤めが終わったらスーツに着替えて会社に行き、帰宅すると僧服に着替えて夕方のお勤めをする。

 子どもの頃からそんな父の姿を見ていた住職は、僧侶の兼業に何の違和感も持っていなかったと言う。

 

 どうもこれは特殊な例でなく、住職さんの中には学校の先生や公務員など、他の仕事と兼任している人が大勢いるらしい。

 観光名所になっているようなお寺でない限り、そうでないと生活していくのが難しい所が増えている。

 

 言われてみればそうかもしれない。

 そもそも宗教に従事する仕事を「ビジネス」と呼ぶのは間違っている。

 一般人は僧侶を「聖職」と見なし、清貧であることを求めるだろう。

 

 けれども、お坊さんも生活しなくてはならないし、家族を養わなくてはならないし、お寺を維持していく必要がある。

 

 経済成長時代はどうだったのか知らないが、いずれにしても、お坊さんだけやっていれば生活に困らなかった時代は、もう「古き良き時代」になりつつある。

 

 しかし、これは何もお坊さんに限った話ではない。

 

 人生フルタイムで一つの仕事に集中するということが難しくなってきている。

 いまや多くの人にとってダブルワーク、トリプルワークは当たり前。

 そうでもしないと日本で「まともな生活」は保障されないのではないか。

 

 いろんな物価が高く、何をするにもお金がかかる日本で、一つの仕事(一つの収入口)だけで食える状況というのは、もはや超お金に恵まれた、セレブな特権階級と言えるのかも知れない。

 

 会社は社員のアルバイトも奨励する。

 あるいはお父さんは仕事一つでも、夫婦共働きでお母さんも稼いでいたり、さらには子供も家の経済を助けるのに参加するなど、一世帯にいくつもの収入口を設けるのが普通になってきている。

 

 こういう状況になると「自分マネージメント術」が重要になってくる。

 どうひっくり返っても、1日は24時間だし、1年は365日しかない。

 その限られた時間をどう配分して経済を安定させ、家族を安心させ、自分の夢をかなえ、アイデンティティを保てるか。

 どうすれば一人何役もこなすことができ、しかもそれぞれのパフォーマンスの質を上げられるのか。

 なおかつ、それでもストレスを溜めず、ゆったりとした気持ちで生きられるか。

 

 これは現代を生きるすべての人にとって、考える必要のあるテーマだと思う。

 


女の天才に奉仕する仕事

 

 バレンタインのチョコをもらったから、ではないけど、女性全般に敬意を抱いている。

 と言うと「ウソこけ!」という声がどこかから飛んでくると思うが、ホントです。信じてください。

 

 なんでかというと、やっぱり女には子どもを産むという天才があるからだ。

 当りまえすぎて自覚してない人も多いかと思うけど、これは女だけに与えられた天賦の才能。

 地球上で人類が今あるのも、女が身体を張って、命がけで子どもを産み続けてきた結果である。

 男は女の、この天才的所業に追いつこうと、いろんな仕事をする。

 

 人間の歴史はそうして創られてきた。

 だから、やっぱり男は女に敬意を払ってしかるべきだと思う。

 

 政治も経済も学問もスポーツも文化も芸術も、およそ人間の社会的活動のすべては、女が子どもを産み、その子どもを育てるという基幹事業に付随する活動に過ぎない。

 

 あくまで推測だが、女には人生のどこか(たぶん30代のどこか)で、宇宙のどこかから男に聞こえない声が聞こえる。

 

 「産む?産まない?」

 

 これを重く受け止めるか、軽く聞き流すか、個人差があるだろうけど、とにかく女は肉体的なタイムリミットがあるので、その問いかけに「Yes」か「No」かの答を出さなくてはならない。

 

 「Yes」と答えた人は、たぶんそこから婚活に奔走するのだろう。

 現代は昔と違って猶予期間が長い。40代になっても十分産めるというのだから、夫・父親にふさわしい男を5年10年かけて探し出してほしい。

 

 レズビアンの女性で「Yes」の人は、人工授精技術を活用する道もある。

 そうして子どもを育てている女同士のカップルもいる。

 

 「NO」ならべつに産まなくてもいい。

 ただ、その際は自分の持つ大きな可能性の一つを自ら放棄することになるわけだから、それ相応の葛藤と痛み、自責の念などを覚えるのだと思う。

 

 男の人生にはそこまで身を削るような瞬間は訪れない。

 女の人には悪いけど、のほほんと生きようと思えば、死ぬまでのほほんとしていられる。

 地球上における人類継続の本質には関われないのだ。

 

 僕もご多分に漏れず、男らしくのほほんと生きてきたが、女の天才に敬意を払い、少しは女性の皆さんの役に立つこと、奉仕できることを死ぬまでにいくつかはやっていこうと思ってる。 何をするかはこれから考えますが。

 


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エンディングを意識して人生の台本を書く。

 

●エンディング文化の時代到来

 

 エンディング産業展の取材を終えて考えたこと。

 それは、エンディング――死を楽しむ時代がやってきたということです。

 

 「死を楽しむ」というと語弊があるかもしれませんが、要はひとりひとりが自分の人生の終え方について期待感や希望を抱く、ということです。

 

 いつかはこの世からおさらばしなくてはいけない。

 これはあらかじめそう決まっています。

 だったら悲しんだり寂しがったりするだけでなく、そうした感傷も含めて、思い切って楽しんだほうが「お得」なのではないでしょうか。

 

 少なくとも僕たち、現代の日本人ひとりひとりは、そうしたことをできる豊かな文化に包まれて生きていると思うのです。

 

●人生は20歳まで

 

 じつは人生は20歳で決定しています。

 20歳までの経験とそこから吸収したもの、そして喜怒哀楽の感情で人間の心身の基盤は出来上がります。

 どうすれば自分は気持ちよく生きられるのか、この世の人生において何に価値を置いて生きるのか、自分が果たすべきミッションは何なのか・・・これらはもうみんな、最初の20年で僕たちの内側にしっかりインプットされます。

 

 ただし、そのことに気づくかどうか、それらをいつ発見できるか、はその人しだいです。最期まで見つけられずに終わってしまう人も少なくない。いや、もしかしたら大半の人はそうなのではないでしょうか。

 

 だから20歳を過ぎた大人は、自分の人生の主人公は自分であると、しっかり意識したほうがいい。

 そして日々、自分の人生の台本を書いていくといい。

 細かく書き込む必要はないけれど、どういう流れでどうなり、どんな大団円を迎えるのか、エンディングまで想定してプロット(筋書)を作っておくといいと思います。

 

 もちろん、僕たちを取り巻く環境は、時代とともに刻一刻と変化していくので、日々リライトすることが必要です。

 でも、ベーシックな台本があるとないとでは違います。まったく手ぶらで毎日アドリブだらけでは続きません。

 

 でもじつは、わざわざ僕がこんなことを言わなくても、あなたも自分の人生の台本はひそかに書き進めているはずなんですよ。

 耳を澄まして自分に聞いてみてください。

 そして、目を凝らしてよく探してみてください。

 

●リライトしよう、今からでも始めよう

 

 親やら先生やら世間一般やらの書いた台本で生きている――

 もし、あなたがそう感じるのなら、そんなものは破り捨てるか、端から端までリライトして自分のものにしてしまう必要があるでしょう。

 

 また、もう齢で今からでは手遅れだ・・という人も大丈夫です。

 これまでの記憶・実績を材料に再構成することができます。

 起きてしまった事実は変えられなくても、現在の自分、そして未来の自分に合わせて、その事実の意味を変えることができます。

 マイナスと捉えていた事象もプラスに転換することができます。、

 これもどんどんリライトしましょう。その気になれば一晩でできます。

 

 完成度の高い台本、公開する台本(必要だと思えば見せてもいいけど)を作ることが目的ではありません。

自分が主人公であることを意識し、生きるということについてイメージを広げ、深めるためにこうした考え方をするのは有効ではないかと思うのです。

 

●エンディング産業を面白がろう

 

 エンディング産業は「人の死をネタにしたお金儲け」と、胡散臭い目で見られることがまだまだ多いようですが、歴史・文化・哲学など、いろいろなことを考えさせてくれる媒体です。

 

 そして経済と結びつくことで、世の中に大きな影響を与えていきます。

 そこで提供されるあふれんばかりの商品やサービス――それこそラーメン一杯からデザート付きフルコースまで――は、すべて今を生きる人たちの心が投影されたものばかり。どれを選ぶかは自分次第だし、オーダーメイドも可能だし、どれも選ばないという選択肢だってもちろんあります。

 興味と好奇心を持って覗いてみると、きっと面白いと思います。

 

 

 

 

2016・8・28 SUN


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ウーパールーパーな女子・男子

 

 「おまえら、いいトシこいて小学生かよ~」

 というのが「女子・男子」という呼び方に対する感想でした。

 20代だったらいざしらず、いったいいつから中高年まで女子・男子と呼びならわすようになったのか?

 たぶん少なくとも21世紀以降のこと。今ほど頻繁に使われ、定着するようになったのは、この10年くらいか?   どうも前から気になっていたので、これがいったいどういう意味を持つのか考えてみました。

 

●間柄によってビミョーに呼び方を変換

 近頃、女・男を呼び表すのって意外と難しいのです。

 「女性・男性(ジョセイ・ダンセイ)」は書くのはいいけど、音声で表す場合、どうもフォーマルすぎる。改まった席や仕事の場でなら問題ないが、ちょっとくだけた場や親しい間柄で「ジョセイ・ダンセイ」と言われると違和感があります。

 それならやっぱり「女・男(オンナ・オトコ)」―― 僕はこの呼び方を好むのですが、困ったことに最近、女性の中に敬遠する人が少なくない。

 

 文脈の中でどう使うかにもよりますが、「セックスを感じて恥ずかしい」「あまり口では言いたくない」という意見があるのです。「情婦・情夫」といった漢字と結びつくのでしょうか。性を伴う愛のにおいがするのでしょう。

 

 かなり親しい間柄でなら問題ないけど、やや親しさが希薄な友だち・仲間、あるいは仕事の同僚などに対しては、もしかしたら不愉快に感じるかな?と思ってしまうので、僕も「女の人(オンナノヒト)」といった言い方をします。(自分が男なので、男は「オトコ」でOK)。

 つまり相手によってけっこう使い分けなくてはならない。いやはや、なんとも日本語は繊細で複雑でビミョーです。

 それに仕事でも趣味でもプライベートでも、年齢層で分断されることなく、いろいろな年代の人間が、フラットな関係で入り混じって行動するようになったことも、こうした呼称のビミョーさに影響しているのではないかと思います。

 

●安心・安全なジョシ・ダンシ

 そこで登場した「女子・男子(ジョシ・ダンシ)」は、かなり便利。

 もともと子供・若者、あるいはスポーツ選手に対しての呼称だったので、「ジョシ」「ダンシ」と言われると、なんだか若返ったような気分になるし、カタさがなく、親しさイマイチの間柄でもOKだし、一般的な呼称としても安心して使えます。

 

●英語文化と日本語文化

 女子・男子は英語だとGIRL・BOY。

 英米ではむしろこっちのほうがセックス臭が漂いますね。

 その方面のお仕事をしている人はこの呼称で呼ばれることが多いと思います。

 なので普通、英米人の中高年は「GIRL」「BOY」なんて呼ばれたら腹を立てるんじゃないでしょうか。

 ところが日本語―ー日本人の場合はその逆。

 比較して考えると、英米が子供・若者(子供っぽさ・若さ)を下に見るのに対して、日本人には子供を神聖視したり、若さを尊ぶ精神構造があります。女子・男子×GIRL・BOYには、そうした文化の違いも見て取れします。

 

●女子・男子の裏にある「成長」というキーワード

 もうちょっと深掘りしてみたらどうなるか・・・ということで発見したのが 5年ほど前、自分のブログで書いていた文章。これは当時、映画・TV・演劇で「三銃士」がちょっとしたブームになっており、それについて書いたものです。

 

 いわゆる“成熟社会”となった先進諸国では“成長”は重要なキーワードだ。未熟だろうが、ダメダメなところがあろうが、成長を感じさせる、言い換えれば、未来への可能性を感じさせる人や集団や企業は、すこぶる魅力的に映る。 

 

 つまり、今、それだけ“成長”というものに希少価値があるのではないだろうか。

 成熟し、伸びきってしまった大人にはそうした魅力が見出せない。しかも環境の変化のせいもあり、信頼感も失墜しているのでなおさらだ。 

 

 ちなみにこれは実年齢のことを言っているのではない。10代・20代はもちろん、50代・60代でも“成長”しなくてはならない(少なくともそういう意志を見せなくてはならない)世の中になっているのだ。

 そして、若いダルタニアンと年長の三銃士のように、互いに影響を与え合いながら伸びていくことが求められている……三銃士の物語は、そうした現実を映し出す鏡のような機能を持っているのでは、と感じる。 

 

 どうもこうした意識がそのまま、僕たちの深層心理に貼りつき、いつまでも成長しきらない子供・若者の部分を形成しているのではないかと思います。

 それが「女子・男子」という呼称に結びついている。

 国境が溶け、世代差が溶け、リアルとバーチャルの境界が溶け、それでいながら経済や社会階級の格差が広がる今、人間として完成してしまうこと、成長しきってしまうことは、今後のことを考えるとマイナス要素にしかならない。

 齢は取っても可能性は残しておきたい・・・という気持ちの表れなのかも知れません。

 

●僕たちはいつまでウーパールーパーか?

 というわけで、ウーパールーパー。

 南米のサンショウウオの一種であるこの生き物、一般的には死ぬまで成熟せず、幼体のまま一生を終えるのだそうです。

 最近「1980」を謳ったCMでテレビに再登場しましたが、 確かに1980年頃、ウーパールーパーみたいな顔をした若い連中(=当時の僕たちのことです)が街の中をうようよ泳ぎ回っていました。

 

 あれから30年以上経った今も、依然として僕らはウーパールーパーそのもの。

 オトナ女子・オトナ男子として、ろくすっぽ成長することなく、結局、単に子供オバさん。子供オジさんのまんまで終ってしまう可能性は大きいのではないかと思います。

 

 でも「今どきの若いモンは・・・」という昔の人たちが本当に尊敬に値する大人ばかりだったのか?といえば、そんなことはない。情報がたやすく手に入らなかった時代の社会では、ごまかし、カッコづけも簡単で、威張っていられましたからね。

 

 今、成長するとはどういうことなのか? ごまかしやカッコだけでなく、大人になるってどういうことなのか・・・人生の続くかぎり、考えていこう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2016・8・15 MON


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ぼくはセイウチロウ

 

氷の世界の恐怖のセイウチ

 子供の頃、動物図鑑で初めてセイウチの写真(イラストだったかも知れない)を見た時は、そのモンスターのような姿・形に心の底から驚愕しました。

その時の僕のセイウチのイメージは、世界の果ての暗くて冷たい氷の世界で巨大な牙をむき出しにして世にも恐ろしい咆哮を轟かせる孤独な怪物。

こわかったなぁ。

 人生の中でもしこんな怪物に出会うことがなあったら、僕は一瞬のうちにカチンコチンに凍り付いて、冷凍食食品になってこいつに食べられてしまうだろうと思い、どうぞそんなことになりませんように、と、何度もお祈りを唱えました。

 

夢の世界でセイウチロウと邂逅

 という衝撃が消えたのはいつのことだろう?

いろいろ本を読んだりテレビを見たりするうちに、セイウチは割とおとなしくて温かい生き物。孤独ではなく、群れをつくってのんびり暮らしていることなどを知りました。

それどころか、近年は日本水族館にも住んでいて愛嬌を振りまいてくれています。

 

 そのセイウチ君に僕もお世話になっています。

 夏、お昼寝するときは涼しい水族館のイメージを抱いて横になり、水中を魚がうようよ泳いでいる中をうつらうつらしつつ彷徨っているのですが、15分ないし30分ほどすると、コツコツと頭を何かがつつく。

「おい、起きろよ、セイイチロウ」

と目を覚ますと目の前には強大なセイウチが。やつはその牙の先で僕の頭をつついいたのです。

 こいつはセイウチロウといってクールな夢のアラーム係として30分経ったから起こしにくるのです。それ以上寝ちゃうと夕方まで頭が働かなってしまうので。起きない時は歌を歌って起こします。

 もちろん、歌はビートルズの「I am the Walrus」。

 

●ビートルズフェスでセイウチ登場

 そういえば昨夜、録画しておいてずっと見ていなかったNHK-BSの「BEATLESフェス」なる3時間番組を見ました。

  ビートルズ来日50周年ということで、当時の逸話――ビートルズにはっぴを着せた日航のスチュワーデスさんの話やら、独占取材に成功した星加ルミコさんやら湯川レイコさんの話――昔、音楽雑誌でよく記事を読んでいましたが、音楽ジャーナリズムのリーダーだった彼女らはまだ20代の女の子だったんですね――やら、を中心に、年寄りから若者まで入り混じったスタジオトークや、ビートルズ番組お約束のリバプール―ロンドン紀行(森高千里がキャバーンクラブに行ってドラムを叩いてた)などがてんこ盛りのバラエティ。

 しかし、目玉は何といっても、新旧いろいろな日本のミュージシャンたちがやるビートルズナンバーのトリビュートライブでした。

 

 財津和夫「Yesterday」や平原綾香「Hey Jude」などは、ま、定番の、という感じ。仲井戸麗市(チャボ)の「The Long and Winding Road」はほとんど自分で歌詞を書き換えた替え歌で、清志郎へのレクイエムにしか聞こえない。歌い方もそっくりだ。やっぱ寂しいんだろうね。

 

 その中で一番面白かったのがラブ・サイケデリコの「I am the Walrus」。

 ぐにゃぐにゃしたサウンドとともに、「おまえはあいつ、あいつはおいら、おいらタマゴ男、おいらセイウチ」なんていう、ジョンのナンセンスでファンタジックでグロテスクな詩の世界がぐりぐり脳天にねじ込まれてきて、めっちゃカッコいい!  こんな新鮮なアレンジでこの曲を聞けるとは思ってもいなかった。まったく感動モノでした。

 

 オリジナルを聞いて育ったおっさん・おばさんたちは、どうしてもリスペクトが先に立ってしまってアレンジも表面的で徹底しない。けど、「むかし、ビートルズっていうバンドがいたらしいね」と言っているような若い連中は、遠慮なくぶっ壊して、さらにおいしく料理していけると思います。

 ジョンやジョージがあの世から「おいおい」と言って止めに来るくらい、ガンガンすごいアレンジをしてほしい。

 

セイウチロウよ永遠に

 おまえはあいつ、おまえはおれ、だからあいつはおれ、おまえはセイウチロウ、ぼくはセイイチロウ、おまえはセイイチロウ? ぼくはセイウチロウ?

 まだまだ暑い。北極の氷の上でごろごろ寝そべる夢を見て毎日過ごすことにいたします。またセイウチロウと会うのを楽しみにして。

 

 

 

 

2016・8・11 THU


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四国化け猫➡猫神さま伝説

 

 この夏は四国をお遍路しています。

 ただし、オン・マイ・マインドで。

 葬儀・供養の業界誌の仕事で、ネット~メール~電話で取材しては原稿書きの日々。

四国の葬儀の風習や、お遍路についていろいろ勉強しました。

 

 で感じたのが、やたら四国にはネコが多いな、ということ。

 そういえば香川県のある島でネコがいっぱいいるのをテレビで見たことがあります。それで有名になって、観光客が出向いて、かわいい、かわいいとエサをあげまくるのでさらにネコ天国となっているようですが・・・。

 

 一方、僕が出会うのは、お葬式・お墓関連ので話からなので、この世とあの世の境界線上でニャーニャー鳴いているネコばかり。

 

●四国の葬儀における猫の存在

 

 徳島や愛媛で、家で人が亡くなると枕元にホウキや刃物などを置く、という風習があります。(正確には「あった」という過去形。日本の昔ながらの葬儀・供養の風習のほとんどは全国どこでも、この20~30年の間に9割以上消滅している)

何のためにこんなことをするかというと、ネコがご遺体の上をまたがないようにするため。ニャアとまたぐと死人が生き返って歩き出すとか、逆にネコがバケネコ化するというのです。

 ということは、この辺りではネコを飼っていた家が多のか?

 いや、飼っていたというよりも、ネコだのタヌキだの、動物たちが「こにゃにゃにゃちは~」と、自由にあちこちの家を出入りしていたのではないか、と思います。

 昔の日本の田舎の家は戸締りもいい加減で、常にオープン状態だったし、ネズミ退治にも役立つからね。だけど、キミはやばいからお葬式の時は来ちゃだめよ、という感じでしょうか。

 

日本三大化け猫伝説「お松大権現」の猫

 

 そんなわけでネコ伝説がはびこる四国。

 徳島県阿南市には「日本三大化け猫伝説」の一つに数えられている「お松大権現」という神社があります。

 ここに由来するお話は、借金苦にまつわるもので現代人にとってもリアル。

 むかし、困っている村人たちを救うために金貸しから多額の借金をした庄屋さんが金貸しに裏切られ、借金を残して死んでしまう。

 その妻・お松は「借金はちゃんと返したのに」と異議申し立てをしたのですが、その土地の奉行(きっと金貸しとつるんでいたと思われます。これも現代に繋がる政治とカネの問題です)が「わしゃ、返してもらとらんぞ」と、それを認めず、お松と、彼女が可愛がっていたネコを死刑にしてしまうのです。

 なんでネコまで処刑されるのかわからないけど、「わしの命に背く者は一族郎党皆殺しじゃ」という論理だったのでしょうか? 

 ネコも一族郎党に加えられてしまったのですね。

 

 で、この手の怪談兼勧善懲悪・庶民の味方ストーリーのセオリーとして、もちろん、この後、このネコはウソつきの金貸しと、権力乱用の奉行のところに化けて出て、悪者どもを地獄に叩き落とすというオチ。

 めでたし、めでたしということで、この正義のバケネコはこの神社にまつられることになったのです。

 

●今や霊験あらかた、招き猫だらけの観光スポット

 

 こうした因縁話があるせいか、なんと、この神社、今では受験と勝負ごとにご利益があるとして大人気に。バケネコになったネコはリベンジを果たした結果、「猫神様」に昇華。勝負ごとにご利益と言うので、全国からギャンブラーが詣でているようです。

 そして猫神様は招き猫の姿になって降臨したので、境内は招き猫だらけになっているようです。いやー、すごい。でも、借金は勝負事――ギャンブルに頼らず、地道にコツコツ返したほうがいいと思うなぁ。

 

 というわけで、妖怪も神様になってしまう四国。

 そういえば「千と千尋の神隠し」で、妖怪だか神様だかわからない者たちが湯あみに来る湯婆の湯場も愛媛の道後温泉がモデルになっていました。

 四国の旅・オン・マイマインド、まだまだ続きそうです。

 

 

2016・8・6 sat


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ニューヨーク発アボカド愛

 

 1986年秋、1週間休暇を取ってロンドンからニューヨークに飛んだ。

 ブロードウェイの裏手あたりのボロい安ホテルに泊まった。

 泊り客よりもここに住んでる人のほうが多いんじゃないのという感じの所で、窓の向こうは隣の建物の壁。ごちゃこちゃした配管がへばりついている。

 でもそこはやっぱりニューヨーク。

 映画みたいでカッコいいじゃんと満悦してた青春の1ページ。

 

 滞在中はピッツァとハンバーガーを主食としていたが、この時、生まれて初めて口にしたのがベーグルパンと、カリフォルニアロールだった。

 

 確かグリニッジヴィレッジあたりのスシIバーだったと思う。

 SUSHIはこの頃、すでにアメリカではかなりポピュラーになってきてて、カジュアルなレストランも増えていた。

 カリフォルニアロールについての情報は入ってきていたが、実際に口にしたことはなかった。

 注文して一口食べて感動した。これはうまい!

 魚のネタよりうまいと思った。

 アボカドという食べ物に遭遇したのもこれが初めてだった。たぶん。

 

 以来、アボカドは好物になった。

 

 ここのところ、スーパーで安く売ってることが多く、1個100円なら必ず手を出す。 皮の色はできるだけ真っ黒なのを選ぶ。ただし、熟れすぎに注意。

 手のひらで軽く持つと、熟れ具合が伝わってくる。

おいしいアボカドは

 「食べごろなのよーん、早く連れてってぇ」

と甘くささやいてくる。

 

 家に帰り、台所でぱこっと半分に割る。

 いい子は皮と果肉の間にスッとナイフを差し込むと、きれいに果肉が取れる。

 種にも果肉が残らないよう、しっかりこそぎ落とす。

 ほどよく熟れたアボカドの、柔らかく、ちょっとねっとり感がある美しい緑の果肉はエロチックでさえある。

 

 サラダで使うときは、そのままきれいにスライスするが、僕がいちばん好きな食べ方はここから「ごめんね」と言いながら、美しい緑の果肉をぐちゃぐちゃにつぶしてしまう。

 要はポテトサラダの要領だ。

 サンドイッチの具にするときはそれにこれまたみじん切りのタマネギを混ぜ、塩・胡椒をふってパンにはさむ。

 

 しかし、何といってもアボカドにはあったかいごはんだ。

 ぐちゃぐちゃにしたやつにかつお節をぱらぱら、醤油をちゃーっとかけ、ワサビを添える。あればもみ海苔をふってもいい。

 これをあったかいごはんの上にのっける。

 肉でも魚でも野菜でも味わえない、クリーミーな食感。

 くどいわけでも、あっさりしているわけでもない、濃厚でも薄味でもない独特の味。ごはんとのブレンド感がたまらない。

 うまい! かんたん。アボカ丼。(べつにどんぶりでなくてもいい)

 

 週に一度は食べている。うちの家族もアボカドファンである。MY LOVE。

 


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ルワンダを復興させた女性たち

 

 日本の女性の政治参加が国際的に見てあまりにも低い。

 とはよく言われている。

 2015年のデータでは、なんと世界144位だそうだ。

 

 もう一つおまけに、世界経済フォーラムが発表する男女平等ランキング(ジェンダーギャップ指数)というのがあって、この2016年版では日本は111位。

 なんでだ?

 

 オリンピックだ、万博だ、クールジャパンだ、外国人はみんなニッポンだーいすき!

 と胸を張り、日本って本当に素晴らしい国だって、やたらとそういうテレビ番組が増えているし、政府も世界に対して躍起になってアピールしている。

 

 が、先日の「児童虐待多発国」という汚名といい、女・子どもに関しては、どうもあまり誇れるデータが出てこない。

 なんでだ?

 

 もちろん、女性の政治参加が増えれば、それが女性の幸福につながるかといえば、そういうわけでもない。

 

 それにどうもこの国には、芸術やスポーツや文化などの面で女が活躍するのは好ましいけど、政治とか経済の分野ではあんまりしゃしゃり出ないでほしい・・・という偏見がまだまだ強いのではないか。

 

 で、女性も政治参加――国会における女性議員の割合が最も高いのは」おそらくスウェーデンとかノルウェーとか、北欧のどこかだろうと思っていたら、なんと、アフリカのルワンダと聞いてびっくりした。

 

 しかもその比率は63.8%。女性議員3人に男性議員2人という割合。

 男女平等ランキングでも第5位になっている。

 

 ルワンダと言えば、25年前の1994年に内戦が勃発し、部族同士の抗争から大虐殺に発展。100日間で80万人~100万人、人口のおよそ7分の1が殺されるという人類史上有数の大惨事に、世界中が真っ青になった。

 虐殺を免れた女性も多くが強姦され、万単位の望まない子供が生まれたと言う。

 

 ニュースやルポなどで見た、その時の印象があまりにも強烈で、正直、僕はルワンダって世界で最も悲惨で貧しく、暴力の蔓延る危険な国の一つだと思っていた。

 

 しかし、その印象は一変した。

 あれから四半世紀後たった今、記事と写真を見る限り、首都は美しく整備され、経済発展も著しい。治安の良さもアフリカでトップクラスらしい。

 

 内戦と虐殺からの復興はめざましいものがある。

 終戦から20年余りで世界有数の経済大国へ駆け上がった日本と似た勢いがあるのだろうか。

 

 どうやらかの虐殺で男性の人口が大幅に減り、半ば崩壊した国の立て直しを女性の手に委ねざるを得なかったという事情があるようだ。

 思い切った法制度の改正もあり、この国では議員の少なくとも30%は女性にするよう憲法で定められているという。

 

 そして何よりも、そのベースには過去の悲劇を克服し、生きている幸福を感じられる国にしたいという人々の願いが一枚岩になっているのだろう。

 そこには望まずに母になった女、望まれずに生まれた子どもの思いも入っている。

 

 政治参加率が低かろうと、男女平等ランキングが低かろうと、いいじゃないの、幸せならば――という声が聞こえて来そうだけど、本当にいいのかな?

 


たっぷり眠るとたらふく夢を見る

 

 夢を見るのは楽しい。

 と思っていると、わりと楽しい夢が見られる。

 

 疲れがたまっていたのか、久しぶりに10時間以上眠ってしまった。

 いつもは朝の4時とか5時に起きるのだが、今朝は8時起き。

 カミさん一緒に朝食を食べて、洗濯物を干して、ひと仕事したところで、こりゃだめだ~と思ってもう1回ふとんに入ったら、次に起きた時はお昼をとっくに過ぎていた。

 

 夢に期待していたら、二度寝した時には案の定、たっぷり夢を見た。

 充実してたな~という印象だけは残っているのだが、いつもと同じく内容はさっぱり忘れてしまう。

 

 インターネットを見ると夢占いとか夢診断のサイトがわんさかある。

 ちょいちょい拾い読みをすると、もっともらしいことがいろいろ書いてある。

 

 「空を飛ぶ夢」はこう解釈するとか、「階段から落ちる夢」はこんなことを意味してるとか・・・ニーズも多いだろうし、熱心にハマってる人も多いだろうが、どうもこういうものにピンと来ない。

 

 夢が潜在意識の表れであることに疑念はないが、人それぞれ持っているバックボーンも生活環境も人生の趣向もが違うのだから、同じ夢でもそれぞれ意味するところは違ってくると思う。まったく逆の意味になることだってあるだろう。

 

 夢占いは古い歴史を持っているが、かつては多分、占い師が人生相談に応ずる際の一つの材料として、その人にどんな夢を見たのか聞いたていたのだろう。

 そしてその人にとって、その夢が何を表しているのかを相談を聞く中で解き明かしていったのだ。

 

 なので、サイトや雑誌に載っている夢診断・夢占いは、神社のおみくじの吉凶とか、星占いの「きょうの運勢」程度のもんなんだろうと思う。

 

 その日の気分を盛り上げたいとか、自分の気持ちを調整するために活用したい人は、大いに活用すればいいと思うけど、僕は自分の夢に他人にずかずか踏み込まれて、あれこれ理屈を付けて分析されるのはご免だなぁ。

 

 人生の夢と同様、眠っている時の夢だって自分の聖域だ。

 ヘンな解釈などせず、ナンセンスな世界、「不思議の国」のままでいいと思う。

 みんな、不思議でミステリアスな部分を持ってたほうが面白いんじゃないかな。

 


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マルチなわらじと自分マネージメント術 

 

 食っていくためには「わらじ」が何足も必要だ。

 

 先週取材した六本木のお寺の住職の父は、仏教関係の新聞の記者と僧侶を兼業していたと言う。

 朝のお勤めが終わったらスーツに着替えて会社に行き、帰宅すると僧服に着替えて夕方のお勤めをする。

 子どもの頃からそんな父の姿を見ていた住職は、僧侶の兼業に何の違和感も持っていなかったと言う。

 

 どうもこれは特殊な例でなく、住職さんの中には学校の先生や公務員など、他の仕事と兼任している人が大勢いるらしい。

 観光名所になっているようなお寺でない限り、そうでないと生活していくのが難しい所が増えている。

 

 言われてみればそうかもしれない。

 そもそも宗教に従事する仕事を「ビジネス」と呼ぶのは間違っている。

 一般人は僧侶を「聖職」と見なし、清貧であることを求めるだろう。

 

 けれども、お坊さんも生活しなくてはならないし、家族を養わなくてはならないし、お寺を維持していく必要がある。

 

 経済成長時代はどうだったのか知らないが、いずれにしても、お坊さんだけやっていれば生活に困らなかった時代は、もう「古き良き時代」になりつつある。

 

 しかし、これは何もお坊さんに限った話ではない。

 

 人生フルタイムで一つの仕事に集中するということが難しくなってきている。

 いまや多くの人にとってダブルワーク、トリプルワークは当たり前。

 そうでもしないと日本で「まともな生活」は保障されないのではないか。

 

 いろんな物価が高く、何をするにもお金がかかる日本で、一つの仕事(一つの収入口)だけで食える状況というのは、もはや超お金に恵まれた、セレブな特権階級と言えるのかも知れない。

 

 会社は社員のアルバイトも奨励する。

 あるいはお父さんは仕事一つでも、夫婦共働きでお母さんも稼いでいたり、さらには子供も家の経済を助けるのに参加するなど、一世帯にいくつもの収入口を設けるのが普通になってきている。

 

 こういう状況になると「自分マネージメント術」が重要になってくる。

 どうひっくり返っても、1日は24時間だし、1年は365日しかない。

 その限られた時間をどう配分して経済を安定させ、家族を安心させ、自分の夢をかなえ、アイデンティティを保てるか。

 どうすれば一人何役もこなすことができ、しかもそれぞれのパフォーマンスの質を上げられるのか。

 なおかつ、それでもストレスを溜めず、ゆったりとした気持ちで生きられるか。

 

 これは現代を生きるすべての人にとって、考える必要のあるテーマだと思う。

 


女の天才に奉仕する仕事

 

 バレンタインのチョコをもらったから、ではないけど、女性全般に敬意を抱いている。

 と言うと「ウソこけ!」という声がどこかから飛んでくると思うが、ホントです。信じてください。

 

 なんでかというと、やっぱり女には子どもを産むという天才があるからだ。

 当りまえすぎて自覚してない人も多いかと思うけど、これは女だけに与えられた天賦の才能。

 地球上で人類が今あるのも、女が身体を張って、命がけで子どもを産み続けてきた結果である。

 男は女の、この天才的所業に追いつこうと、いろんな仕事をする。

 

 人間の歴史はそうして創られてきた。

 だから、やっぱり男は女に敬意を払ってしかるべきだと思う。

 

 政治も経済も学問もスポーツも文化も芸術も、およそ人間の社会的活動のすべては、女が子どもを産み、その子どもを育てるという基幹事業に付随する活動に過ぎない。

 

 あくまで推測だが、女には人生のどこか(たぶん30代のどこか)で、宇宙のどこかから男に聞こえない声が聞こえる。

 

 「産む?産まない?」

 

 これを重く受け止めるか、軽く聞き流すか、個人差があるだろうけど、とにかく女は肉体的なタイムリミットがあるので、その問いかけに「Yes」か「No」かの答を出さなくてはならない。

 

 「Yes」と答えた人は、たぶんそこから婚活に奔走するのだろう。

 現代は昔と違って猶予期間が長い。40代になっても十分産めるというのだから、夫・父親にふさわしい男を5年10年かけて探し出してほしい。

 

 レズビアンの女性で「Yes」の人は、人工授精技術を活用する道もある。

 そうして子どもを育てている女同士のカップルもいる。

 

 「NO」ならべつに産まなくてもいい。

 ただ、その際は自分の持つ大きな可能性の一つを自ら放棄することになるわけだから、それ相応の葛藤と痛み、自責の念などを覚えるのだと思う。

 

 男の人生にはそこまで身を削るような瞬間は訪れない。

 女の人には悪いけど、のほほんと生きようと思えば、死ぬまでのほほんとしていられる。

 地球上における人類継続の本質には関われないのだ。

 

 僕もご多分に漏れず、男らしくのほほんと生きてきたが、女の天才に敬意を払い、少しは女性の皆さんの役に立つこと、奉仕できることを死ぬまでにいくつかはやっていこうと思ってる。 何をするかはこれから考えますが。

 


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スイーツ男子大増殖とバレンタインデー半世紀の因果関係

 「子どもじゃあるめーし、チョコレートなんてあまったりーもんが食えるかよ!」

 と啖呵を切る男が、昔は大勢いた気がする。

 が、今やこういうのは絶滅危惧種、レッドデータの部類に入るのではないだろうか。

 時代はスイーツ男子大増殖の様相を呈している。

 

 そうなった原因は何か?

 酒飲みが減り、煙草飲みが減ったから?

 疲労がたまり、みんな日常的に糖分を求めているせいかもしれない。

 バレンタインデーもそれに一役買っているのだろうか?

 

 年に1度とはいえ、習慣は侮れない。

 日本でバレンタインデーが知られるようになって半世紀。

 女性の愛の証として贈られるチョコレートは、男の潜在意識にサブリミナル効果のように浸透してきた。

 

 というわけで、愛の証かどうかはともかく、今年もあちこちの女性からチョコレートをもらった。

 僕は生まれついてのチョコ好きなのでうれしい。

 

 それで浮き足立っていたわけではないが、せっかく書いた原稿の下書きデータをうっかり保存し忘れて消してしまったり、メールを送る相手を間違えたり、凡ミス続きの一日。

 こんな日はチョコを食べてゆっくり寝よう。

 


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信じたくないけど、日本は子ども虐待の多発国?

 

 息子が1歳の頃だったと思うが、転んで頭を打ってケガをした。

 あわてて小児科へ連れて行ったが、その時、なんでケガをしたのか、かなりねちっこく聞かれた。

 ははん、虐待が疑われているのだな、とすぐピンときた。

 その医者とケンカすることはなかったが、たったそれだけで、かなり頭に血が上ってカッとなった。

 

 虐待を疑われた親がひどく感情的になったり、詰問する児童福祉司などに強烈な恨み・憎しみを抱いたりするのは、そんな自分のことを思い起こすと分かる気がする。

 

 虐待を疑われるということは、その親にとっては「あなたは親の権利・資格があるのか?」と疑問視され、問い詰められているのと同じだ。

 

 一旦、親となった人間は、その親という立場を失うかもしれないと感じると、強い危惧感・恐怖心を抱くのだろう。

 

 もし「あなたには親の権利・資格はない」と、他人からドーンと言われたらどうか?

 

 「おまえは人間失格」と烙印を押されるのに等しい、屈辱的かつ絶望的なことだ。

 

 そして、なんとかアイデンティティを守ろうと、その屈辱の感情を、学校や児童相談所などの関係者、ひいては社会に対する激しい怒りと憎しみに転化するだろう。

 

 千葉県野田市の女の子の虐待死事件は、世界にも知れ渡り、国連の子どもの権利委員会で問題視されているようだ。

 

 先週、同委員会は、今回の事件をはじめ、日本で子どもへの虐待などの暴力が高い頻度で報告されているとして、政府に対策強化を求めたという。

 

 かつで幕末から明治時代にかけて、日本に駐留した欧米の学者らが、民衆が子どもをとても可愛がり、大事にする姿を見て驚嘆を覚えたと当時の記録にある。

 

 逆に言えば、当時の欧米の民衆は、子どもに対して相当ひどい扱いをしていた(産業革命時の工場での強制労働など)ということだが、それから150年たって状況は逆転してしまったのか、信じたくないけど「日本は子どもの虐待が多発する国」になっているらしい。

 

 これは日本社会全体で向き合うべき問題ではないかという指摘がされたわけで、いわゆる外圧までかかってしまった。

 

 さすがにこういうことが続くと、子どもの虐待に対する法規制の強化・厳罰化が行われるのは、そう遠い先ではないかも知れない。

 

 厳罰化には反対しないが、これは人間のエモーショナルな部分に深く関わる問題であり、へたをすると親の側の人格崩壊にも繋がりかねない。

 

 なので本気でやるのなら、不幸な親子を増やさないためにも、同時に、あるいは事前に、社会全体への十分な啓蒙活動・認知活動が必要なのではないか。

 

 なぜ子どもの虐待問題に、社会全体で向き合わなくてはならないのか。

 なぜ虐待をする親が重い罰が科せられるのか。

 そもそもなぜ子どもをそんなに大切にするのか。

 

 こうした問いに対する答えはたぶん、僕たちの社会の未来のビジョンを思い描くことにもなると思う。

 


落書きペンは地球色

 

 空の色、海の色、地球の色。

 自分で手書きする青い文字、青い文章が好きだ。

 

 黒で書くべきフォーマルな書類には黒を使うが、特に人に見せる必要のない自分のノート、取材ノート、メモ書き、落書きなどはいつも青のボールペンで書くようにしている。

 

 人間の脳はもう一つの地球。

 空ほど広く、海ほど深い。

 だから青い文字、青い文章は脳を活性化させる。

 

 ――というのは、もちろん、こじつけであり、おまじないであり、単なる気分の問題だ。

 しかし、そういう気分が大切なのだ。

 気分一つで文章はいかようにも広がり、変幻する。

 概して黒で書くと、ちょっとかしこまったような、強張ったような感じになる。途中で止まることもよくある。

 青で書くと、よりしなやかに、たおやかに文章が展開する。

 

 毎日、脳の中から吐き出しているので、ペンもノートも毎日大量消費する。

 だから高価なものはいらない。

 どっちもせいぜい100円のもので十分だ。

 

 ヘタに高価なものを使うと、ムダ使いしないよう、ちゃんとした文章にしようという意識が働いて、書くことが広がらず、固くなってしまうのだ。

 ケチな性分だからしかたない。

 

 面白いの、気に入ったの、人に読んでもらおうかなと思うのが出てきたら、ちょこちょこ編集してデジタルに移し替える。

 畑で採れた農作物や、海で釣り上げた魚を、1次加工するのに似ている。

 毎日、大量の1次加工品ができてくる。

 仕事や作品用に使ったり、ブログやSNSにしてみたりする。

 

 今日も自分の地球を探検して、わずかでも採掘できたなと思うと楽しい。

 


フレンチ・ランチinキチジョージ

 

 きょうは昨夜、無事お泊りから帰ってきたカミさんといっしょに吉祥寺に行った。

 買い物のあと、「久しぶりにミーはおフランス料理が食べたいざんす」

 という、おそ松くんのイヤミ氏みたいなセリフがおなかの底から湧き出てきて、ランチはフレンチに。

 

 フランス料理はやたら世間で褒められることが多く、舶来高級料理の代名詞になっているが、どうもその実体がつかめない。

 

 ピザやパスタに代表されるイタリア料理には「This is イタリア料理」といった明確なイメージがある。

 好き嫌いはともかく「The イギリス料理」はローストビーフや フィッシュ&チップス。「The ドイツ料理」はソーセージ盛り合わせ。

 

 だが、フランス料理にはこれらに該当するものがない。

 「This is The ○○」=これがフランス料理だ! というものがないのだ。

 少なくとも僕の中には。

 

 一応、フランスには20代の頃、3回ほど旅行したことがある。

 トータルで半月程度は過ごしているが、最も印象に残っている食事は、ノルマンジー周辺の田舎町のレストランで食べた魚のスープ〈煮込みかな〉だ。

 

 料理名も覚えてないが、なんだか味噌汁みたいな味がしてうまかったな~と、記憶に焼き付いている。

 しかしパリをはじめ、他では何を食べていたのか、フランスパンのサンドイッチとか、クロワッサンの朝食以外はとんと思い出せない。

 

 きょう入った吉祥寺の店は、タルトフランベというアルザス地方の料理をメインに出していて、これはいわばフレンチピッツァだ。

 

 カミさんが頼んだ「ロレーヌ」というのはサーモンやエビなどの具材が乗っている。

 僕はせっかくフレンチに来たのだからということで「パリ」というのを頼んだ。

 これはカモ肉・トリュフ・フォアグラという3大フレンチ食材が乗っかっているリッチ版。

 

 見た目、よく行くイタリアンピッツァの半分程度の大きさで、これじゃ足りないんじゃないかなと思ったけど、お味の方もかなりリッチで、こってり濃厚。

 二人でシェアして食べてじゅうぶんお腹がふくれた。

 ただし、この濃厚さはワインと一緒に食したほうがいい。

 

 ちなみに僕はグラスの赤ワインを飲んだけど、なかなか美味しくて食前に飲みきってしまった。

 これ以上飲んだら絶対酔っぱらって午後の用事が果たせなくなると思って2杯目は断念。

 

 この「ブラッスリー・エディブル」は、こじんまりした、パリの裏通りにあるいそうな感じの店で、お値段もリーズナブル。

 ワインと一緒に料理を楽しみたい人にはうってつけなのではないかな。

 

 ただこれが「Theフランス料理」かというと、そうではない気がする。

 フランス料理ってやっぱり正体不明。僕の中では。

 


おばさん天使

 

 日本では天使というと小さな子どもの姿をしていることが多い。

 欧米では若い男女の姿が多い気がする。

 神さまがじいさんなので、その弟子みたいなイメージなのか?

 

 だけどもちろんのこと、天使に年齢的制限はない。

 最近は地上の世相を反映して? おばさん天使が増えている。

 

 天国には地球に生き物を派遣する「いきもの派遣センター」がある。

 そこは、ふつう人間が「神さま」と呼ぶゾーブツシュが経営していて、希望者は自分がほしい〈いのち〉を登録しておく。

 

 そこで空きが出るのを待っていて、オーケーの連絡をもらったら正式なハケンの手続きをしに行く。

 それをすませば一定期間、地球で生きものとしての命が与えられ、地上に旅立つというシステムになっている。

 

 その受付業務を担っているのは、おばさん天使だ。

 これから地上で生まれる生き物候補が「○生相談」しやすいというので、近年、おばさん天使の株が上がってきた。

 

 彼女らはセンターの受付のテーブルのところで背中の翼を微妙にパタパタさせながら、いつもお菓子を食べて、マンガを読んでいる。

 

 訪問者が声をかけようとした瞬間、おばさんは気がついてニコっと笑う。

 「べつにヒマしているわけじゃないのよ。いまちょうどいそがしい時間が終わったところ。あなたはラッキー」

 とか何とか言いながら、そそくさとお菓子とマンガをテーブルの下にしまう。

 口の周りにはお菓子の食べかすがくっついていて、しゃべるたびにぽろぽろこぼれ落ちる。

 

 声は思いのほか、かわいいキャンディヴォイス。

 子どもの声からばあちゃんの声まで幅広い声域を持ち、歌が得意だ。

 

 体型はふくよかで、地上にいるとドスドスと音を立てて歩きそうだが、天使なのでもちろんそんなことはなく、ふわふわっとした足取りで軽やかに浮遊しながら歩く。

 

 そして相談を持ちかけると、親身になって聞いてくれ、場合によっては神さまも怒鳴りつけるほど感情的になることもある。

 意外と知恵者だが、お菓子とマンガが手放せないところが玉にキズ。

 

 いま書いてる話のチョイ役として出てくるのだが、なかなか楽しいキャラなので、いずれまた別の話で主役級に持っていきたいと思ってる。

 


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今夜はホームアローンでわくわく?

 

 うれしくてうれしくて、シッポがあったら振りたいくらい。

 

 前、アメリカのノンフィクションでこんな文章があって、気に入っていたことを思い出した。

 これは夫が出張か何かで数日間留守にするのを妻が喜んで発したセリフ。

 前後の文脈は忘れてしまったので、この後、これ幸いとばかりに盛大な女子会を開いて大盛り上がりしたのか、それとも密かに男を家に連れ込んだのかは定かでない。

 

 なんでこんな文章を思い出したかというと、今夜はカミさんがお泊り〈小児はりの研究会の合宿〉でいない。一人だ。

 

 そこはかとない解放感。

 

 べつに普段、一緒に暮らしていてストレスとかプレッシャーを感じているわけではないのだが、ちょっとだけ家の中の空気をいつもより多く吸える気になる。

 そして、さて何をしようかとわくわくする。

 

 イヌみたいに喜んでシッポは振らないけど、期待でリスのしっぽみたいに膨らむかも知れない。

 しかし、何に期待しているのか?

 

 子どもの頃は親が留守でホームアローンぬいなれば、友達を呼んで大騒ぎしてたし、友達と部屋をシェアしていた頃は、そいつが留守だとここぞとばかりに当時のガールフレンドを呼んでいちゃついていた。

 

 ホントに面白かったし、楽しかった。

 

 ところが一人暮らしをするようになって、いつでも自由に、当たり前にそういうことができる環境を得ると、そうした「今日はホームアローン」の喜びはなくなってしまった。

 やっぱりメリハリの問題なのだ。

 

 でまぁ、結婚してまた一人暮らしじゃなくなったのだが・・・たまに一人になっても、やるのはせいぜいテレビ見たり、ネット観たり、本読んだりしてゴロゴロ。

 これじゃ普段やってる生活と変わりない。

 

 そう思ってたら、夜中にピンポンとインターホンが鳴るので出てみたら「ずっとあなたのこと、お慕いしてました」とか言って女性が訪ねてきた。

 

 もしそんなことがあるのなら若い女がいいいと、まず考えるのだけど、近所のガールズバーにいるようなキャンキャンした小娘に来られてもうるせえなと思い直して、やっぱり壇蜜みたいな女が赤ワインとチーズを持って現れて「ご一緒に」なんて言われるのがいいなと思ったり。

 

 そんな想像を巡らせたりはするけど、実際にそんなことが起こったらめんどくさくて「ありがとう。でも結構です」って帰しちゃいそうだ。

 想像するのは楽しいけど、それだけで十分。

 というわけで、テレビとネットと本にもどる。

 

 こういうのって、何だかつまらない人生だと思ってた若い時代もあったけど、最近はどうも自分は劇的な刺激を求めて、ダイナミックに生きる人間ではないなと悟ってしまった。

 

 ま、それなりに充実した暮らしがあるし、平和が何より。

 普段と同じことをして今晩は一人で床に着こうと思います。

 


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アート&カルチャーのご縁寺in六本木〈西麻布〉

 

   午前中、日差しがポカポカしてて、おお、きょうは小春日和だね~いやいや違った。小春日和は晩秋だ。今日は早春サイクリングだ!と思い立って、六本木まで自転車を漕いでいった。

 

 月刊仏事「寺力本願」の第2回の取材は西麻布3丁目の妙善寺。

 六本木ヒルズのすぐそばというか、通りを挟んでホテル・グランドハイアットの真ん前というアーバンなロケーション。

 

 江戸時代、囲碁寺として知られ、このあたりの町人がぶらっと寄って楽しく囲碁を打っていたとか。

 

 そうした歴史を下敷きにして、近年はまだ30代の住職様が、若いアーティストや芸人などに開放して、演劇、ダンス、音楽などの公演を開いている。

 

 聞けばこの住職様、若い頃、お笑い芸人をやってた経験があるそうで、そこから演芸系いオーラが発せられるせいか、インディペンダントなアーティスト系・カルチャー系の人たちが引き寄せられてくるようだ。まさに「ご縁」である。

 ここではいろいろな文化系の催しや教室、秋には自主映画の映画祭も開催されている。

 お寺という空間は、日常とは一味違ったリラックス感があって、自然と非日常的な世界へ脳もトリップできるのかもしれない。

 

 こうした活動を通して、人々が自然に仏教的なものをライフスタイルの中に採り入れていったら、もっと生きやすくなるのでは・・・というお話を、柔和で福々しい笑顔でっ語ってくれた。

 

 お昼を回ったころ、取材を終えて外に出てみたら、激さむ。

 早春のサイクリングだったはずなのに、お昼を回ったころにはどんよりと空は曇り、ぐんぐん気温が下がっている。行きはよいよい、帰りはこわい。

 真冬に逆戻りして明日は大雪という情報も。

 


カレンダー大変動に昭和人降参

 

 きょう、貸家の契約更新で不動産屋へ行ったら、デカデカと「2019年 平成23年」と上下に併記した紙がオフィス内の3ヵ所に貼ってあった。

 大家さんも、店子さんも、西暦と元号がごっちゃになってしまう年配の方が多いのだそうだ。

 

 ちなみにうちの母は西暦も平成もよくわからず、昭和○年と言わないと駄目だ。

 今年は昭和94年だよ。だからお母さんは90歳」と、帰省するたびに説明している。

 もはやこのあたりの人たちは、新しい元号や、西暦換算なんてもう諦めて100年を越しても昭和で押し通した方がよさそうだ。

 

 今年に限っては「退位の日」と「即位の日」の制定され、4月から5月にかけて天皇陛下の交代劇をはさんだ10連休のスーパーゴールデンウィークになるが、来年もまたすごい。

 

 10月第2月曜日だった「体育の日」――これまた昭和人には「10月10日」としっかり刻印されているが――は7月24日、すなわち東京オリンピックの開会式の日に移動するのだそうだ。しかも名称は「スポーツの日」に変わるとのこと。

 

 7月になるのはどうやら来年限定らしいが、いずれにしても「体育の日」は今年が最後。最近は学校の運動会も春に回されちゃうケースが多いし、10月のイメージが変わってしまいそうだ。

 

 ついでに「海の日」やら「山の日」もオリンピックに合わせて大きく移動し、真夏に「金メダルウィーク」ができるらしい(これは僕が勝手にそう言ってる)。

 

 それにしても昭和人たちが大混乱に陥りそうな今年と来年のカレンダー。

 いろいろ事情があって祝日だらけになるのはしかたがないけど1、あんまり連休が増えるとその前後が大変なんだよね。

 休みに合わせて仕事の締め切り前倒しとか、休み明けに見たいからここまでやっといてとか、1年の半分が年末進行になりそうだ。

 


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別の惑星との交信

 

 街を歩いていると、やたらとぶつぶつ独り言を言ったり、へらへら笑いながら歩いている人が増えてるような気がする。

 

 おやおや、こりゃ精神をやられちゃっているのかなと思ってよく見ると、何のことはない。電話で話しているのだ。

 ワイヤレスイヤホンが普及したせいで、何だか街の中に奇妙な光景が現出している。

 

 だけどそれを差し引いても、ひとり言を言う人は増えたのではないだろうか。

 =精神やられてる、というのは言い過ぎかもしれないけど、電車で隣に座っている人が、そうやって自分の世界に入っちゃってると、やっぱりちょっと引いてしまう。

 

 でも、街中や電車の中ではないが、自分も時々ひとり言を口にしていることに気付く。

 家の中とか、人通りの少ない近所の道端とかでそっとね。

 しかも最近、その頻度がかなり増しているのではないか、こりゃやべぇと感じる。

 

 でも思考していることや認識したことなどをはっきり確認するためには、言葉を内に留めておくのではなく、外に出す――アウトプットするのは良いことなのだ。

 

 安全や防災などの指差確認歓呼などはその好例だ。

 本の音読効果もその類だろう。

 書いた文章がおかしくないか、誤字脱字がないかを確認する際も、黙読でなく、音読するほうが10倍精度が高い。

 

 また、ふっと心に過ったことをメモに書きとめるとか、意識に上ったことをノートしていく「瞑想ノート」なども、アウトプットという意味ではとても有効だ。

 

 だから街中やで電車の中でぱっと良いアイデアが閃いたりして何とか記憶しておきたいなら、ひたすら口で唱えて脳に焼き付けるしかない。

 

 だいたいそういう時はメモを取れるような状況じゃない。

 ペンと紙や、スマホなどを取り出そうとしているうちに、閃きは流れ星のように消えてなくなってしまう。

 

 あんまり大声出して周囲に迷惑かけちゃいけないけど、なにこれ? ヘンな人。ちょっと頭がおかしいじゃないの、気持ちわる~い、と思われるくらいなら、まぁ構わないのではないだろうか。

 

 周りの人もそれくらいなら、この人はたぶん別の惑星から来た人で、故郷の星とワイヤレスイヤホンで交信しているんだと思って、まぁ大目に見てあげてくださいな。

 


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ネコのふりかけ

  

 もう前世の記憶に近いが、そのむかし「劇団ねこ」というのをやってた。

 なんでそんな名前を付けたのかというと、管理社会を自由にすりぬけ、何者にも縛られず、ネコのように柔軟に生きながら、可愛がってくれる人がいれば調子よくニャオンとすり寄り、ごはんとねどこをせしめたい。

 そんなメッセージを、演劇を通して発信しようとしたからだ。

 

 というのは今しがた考え付いた、まったくのこじつけだけど、潜在的にはそんな気持ちがあったのだと思う。

 

 劇団ねこは30年以上も前に消滅してしまい、座長と演出をやってた男も10年前に死んでしまった。

 

 けれども最近のネコのモテモテぶりに触れると、現在を生きる人たちの心の奥底には、冒頭に書いたような、ネコのように生きたいという思いが、ずっとくすぶり続けているのでないかと推測する。

 

 そして、それは30年前よりますます強くなっているのではないかと感じる。

 

 こんなことを言っては申し訳ないけど、受験生とか、就活している若者らとか、その親とかの顔を見ると、何に縛られているのかさえ分からなくなってしまって、もう闇雲にネコ的なものを求めたくなっているように思える。

 

 だから、絵本も写真集もテレビ番組も、ネコを使えばみんなが観てくれるし、ファッションもグッズもネコのふりかけをかければ魔法のように美味しくなる。

 

 こんなにも身近にいながら野性を感じさせてくれ、しかも基本的に安全。人間に甘えてくれるけど、かといって媚びてるわけではない。

 もはやネコは人間にとっての夢の存在であり、希望の星と言っても過言ではない。

 

 この先、テクノロジーが進むとともに、人間のネコ依存症はますます深まっていくのではないだろうか。

 すると何が起こるか?

 そうだ、AIを搭載したネコを作ろう――という発想が生まれる。

 

 というわけで、ネコ型ロボット・ドラえもんの誕生だ。

 そうなると逆転現象が起こって、僕たちはのび太くんのようにネコのドラえもんに甘えるようになるだろう。

 そして、ドラえもんにいろんな夢をもらうようになる。

 ネコのふりかけは未来まで果しなく効能を発揮する。

 

 そうか「劇団ねこ」の演劇は、ドラえもんに繋がっていたのかと、前世の記憶が新たな発見を伴ってよみがえった今宵。

 いずれ、ネコとロボットをテーマにしたお話を書いてみたい。

 


永福町ガールズバー開店5周年

 

 住宅街・永福町でひときわ異彩を放つガールズバーが、この2月で開店5周年、なのだそうだ。

 もう5年も経ったとは、時のたつのは早い。

 

 うちのすぐ近所なので、夜に帰宅する時は、たいてい看板(というかA3くらいのプラスチックシート)を持った女の子が1人か2人でやる気なさそうに、ぼけっと立っているのに会う。

 

 おまえら宣伝するんだったら、もっと愛想ふりまかんかい、そんなんじゃ男が声かけてくれんやろと言いたくなるが、新宿や渋谷と違うし、永福町の街角であんまりフェロモンむんむん出されても困るので、まあいいか。

 

 潜入レポートを書く仕事もいただかないので、一度も店内に足を踏み入れたことがないけど、若い女の子たちと酒飲んでおしゃべりしたり、一緒にサッカー観て盛り上がったり、ダーツをやって遊んだりしているようだ。

 

 チャージは2000円、ドリンクは700円~ということなので、客単価は5000円くらい?

 

 オープンして1年半近く経った頃だと思うが、早朝、なんだかパチパチという音、続いて破裂音がするので目を覚まして外へ出たら、この店から真っ黒な煙とオレンジの火の手が上がっていた。

 あんな近くで火事を見たの初めてだったので、ホントにたまげた。大騒ぎになったが、結局はボヤで済んだ。

 

 後から聞いたところによると、ここの女の子にフラれた客の男が、腹いせに表にあったゴミに火をつけたのだそうだ。

 

 たまに夜中とか早朝に言い争う声が来超えてくることもあるが、幸い、それ以降は特に大きなトラブルは起こってない(と思う)。

 すっかり町になじんで、着々とヒストリーを築いている。

 

 確かめたわけじゃないが、勤めてる女の子はほとんど大学生らしい。

 確かに立っている子たちを見ると、そんな雰囲気だ。

 こんなんじゃ盛り場の街では通用しない。

 でもその素人っぽさが永福町では合ってるのだろうか?

 

 受験シーズンだが、最近は学費のために過大な学生ローンを背負って、卒業後10年以上も毎月何万円も返済し続ける若者が少なくないという。

 そこまでして大学に行かなきゃならんのかな。

 

 ガールズバーのバイト程度ならいいけど、金が欲しくて水商売にはまって、さらに深みにはまっていっちゃう女子学生も後を絶たないみたいだ。

 

 それもまた人生なのかもしれないけど、火をつけちゃうやつとか、ストーカーだとか、DV男にはくれぐれも気をつけてほしい。

 


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ちぢむ男〈ファーストプロット〉

 

 ある日、男は自分が縮んでいることに気が付いた。

 服がなんだかだぶついているように感じる。

 これは何だろう? まさか老化現象では・・・。

 いや、オレはまだそんな齢ではない。

 妻はまだ若い。子どもだってまだ小学生だ。

 

 男はこっそり医者に相談してみたが、有効な解決方法は見つからない。

 それに縮んでいると言っても少しずつだから大きなダメージがあるわけではないし、とりあえず健康上の問題があるわけでもないから、いいじゃないですか気にしなくても――などと言われてしまった。

 

 インターネット上では昔の友人らとやり取りしているが、思い切って自分が縮んでいることをカミングアウトしてみた。

 みんな「そりゃ大変だ」とは言ってくれるが、やっぱり「命に別状ないならいいじゃん」とか言われてしまう。

 それから怪しげなクスリや健康器具のセールス、謎のセミナーへのお誘い、カウンセリングの勧誘メールがひっきりなしに舞い込むようになった。

 

 見捨てられたようで男は途方に暮れた。

 このまま1年たち、2年たったら・・・と、男の想像はふくらむ。

 そうこぷしているうちに縮む速度が日に日に早まっていくような。

 

 男は身長測定器を買い、毎日、データを取るようになる。

 そして日記帳に克明な記録も取っていく。

 縮んでいることに気づき出してから、1日1日がかけがえのないものになっていく。

 

 そして男は息子の視線が気になりだした。

 筋肉自慢のマッチョなその男は、息子を厳しく鍛えていたが、彼はなんでこんなに軟弱野郎なのだろうと思っていた。

 その息子が自分より大きくなっていく――いや、自分が息子より小さくなっていく。

 じわじわと男は不安と恐怖に追い詰められていく。

 

 これはもしかしたら息子〈子ども〉の視点で、小さくなっていくお父さんを描いた方が面白くなるかも知れない。

 


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銀河の死なない子供たちへ:人生は無限ではないという幸福

 

 息子の推薦図書。またマンガ。

 「ヨルとネル」の作者・施川ユウキの作品。

 

 「1万年前、わたしはこの星空を見ている。

 1万年後も、わたしはきっと同じ星空を見ている」

 というモノローグから始まる、タイトルそのまんま、とうの昔に人類が絶滅した地球で生きる、なぜか不老不死になった子どもの物語だ。

 

 手塚治虫の名作「火の鳥」をリスペクトしたマンガであることは一読して明らか。

 作者みずからネタばらしのコマもある。

 

 何といってもすごいのはストーリーと絵柄のギャップ。

 「火の鳥」に匹敵する神話的・宗教的な超シリアスなストーリーであるにも関わらず、かわいいギャグ漫画タッチの絵柄で、悠久の世界をありふれた日常のように描いているところが、不思議な寓意を醸し出す。

 

 物語の最も肝になるのは、ロケットで不時着した宇宙飛行士の女が赤ん坊(ミラ)を産み、主人公のきょうだい(πとマツキ)がその子を育て、家族のように暮らす下り。

 

 これは壮大な家族愛の物語でもある。

 

 ミラは普通の人間の子どもとして成長し、πとマツキを追い越して大人になり、不死になれる可能性を拒んで、やがて死んでいく。

 

 そのあたりを読むと、不老不死とは何と残酷で救いがないのだろう、それに対して限りある短い人生は、はかなくはあるが何と幸福なのだろう、という感慨を抱く。

 

 いたずらに長編にすることなく、2巻ですっきり完結するところも良い。

「ヨルとネル」と同じく、思い出してはページを繰りたくなる人生の常備薬のようなマンガだ。

 


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子どもを愛さない男を父親とは呼ばない

 

 アメリカの児童虐待に対する厳しさにはびっくりする。

 宮崎駿(スタジオジブリ)の「となりのトトロ」は、さつきとメイがお父さんと一緒におフロに入るシーンをカットすることで、やっと公開が認められたらしい。

 何もそこまで・・・と思うが、これはかつてのこの国のマッチョな父親たちがのちの世代に及ぼした悪影響を分析・検討してこうした厳しい対応になっている。

 「子どもを守る」というテーマについて、日本人の問題意識はまだ甘いのだろう。

 

 千葉県野田市で10歳の女の子が父親に殺された事件を見ると、残念ながら、日本もアメリカ並みの法的な縛りを入れないと、子供を守れないんじゃないかと思ってしまう。

 

 もともと父権が強かったのに加え、「天皇は父・国民はその子供」という近代国家建設時代の名残なのか、日本はまだまだ父親という存在が尊重される国だ。

 

 尊重されるのはいいけど、ろくでもない父親はいっぱいいる。

 昔からいっぱいいたと思うけど、十把一絡げで尊重されてたおかげで、昔のアホ父は暴力を振るおうが、飲んだくれようが、あまり非難されずに「しょうがないわねぇ」と見過ごされ、女に甘やかされてきた。

 

 しかし最近はそうではない。

 「昔は豪傑が大勢いて良い時代だった」なんて感傷に耽っていてはいけない。

 

 あんなひどい父親に「暴力を受けてる」と子どもが直接訴えていたのに、見殺しにするどころか、わざわざその訴えを当の父親に見せた、という教育委員会の失態。

 

 「再発防止に努めます」なんて、いかにもお行儀よく反省してますみたいなマヌケなコメントを出していたが、死んだ女の子は二度と帰らない。

 

 教育委員会も、学校の先生も、教育でメシを食っているのなら、勉強なんか二の次でいい。

 エゴ丸出しのしょーもない親どもをお客様扱いして、どこそこの高校・大学に何人受かったとかなんて、くだらないことやってるヒマがあったら。相手が誰だろうと、自分がその子の父・母になったつもりで、本気になって子どもを守ってほしい。

 

 もはやあんなろくでもない男が、血のつながった父親だというだけで大きな顔をできる時代はとっくに終わっている。

 

 昔、「子育てをしない男を父親とは呼ばない」というキャッチコピーがあったが、子どもを愛さない男を父親だの、保護者だのと認識すべきではないと思う。

 


ライターという職業の面白さ

 

 取材・インタビューという名目で、いろんな人の話を聴けること・いろんな世界に入り込めることはライターの特権だ。

 

 もちろん仕事でやっているので、取材目的から外れたことは聴けないし、つっこみたくてもつっこめないところもある。

 ケースバイケースだが、基本的にはプライベートなことをほじくるのは控える。

 

 ところが不思議なもので、人間、ある流れに乗って話していると、音楽で言うグルーブ(リズムのうねり)みたいなものが起こって、つい人間性がぽろっとこぼれ出て、私的なことを自分から話してしまうことが往々にしてある。

 

 きょうの取材は農業経営のコンサルタントだった。

 農業業界でも設備を整え、人を雇い入れて法人化・大規模化するところが少なくないが、思うように収益が伸びず、赤字経営になってしまう事が多いらしい。

 

 そこで、そのコンサルティング会社は製造業の実績を応用して農業経営の改善プランを立て、生産性を上げることに取り組んでいるのだ。

 

 その現状や展開案、テクニカルなことなどを立て板に水のように話されたのだが、最後に「どうして農業のコンサルをやろうと思ったのか?」と聞くと、顔つきや話しぶりがガラリと変わった。

 

 その人は実家が農家で、お父様がたいへん農業を愛し、自分の作物に誇りを持っていた。ところが息子である彼には「この仕事は継がせない」と言ったという。

 その理由は簡単で「儲からないから」。

 

 彼は生涯を賭けて愛した仕事を、お金にならない・未来がないという理由で「継がせられない」と言い渡す父親の矛盾に複雑な思いを持ち続けた。

 なので、なんとか農業を、楽しく、やりがいがあって、社会に貢献し、なおかつお金になるという、多くの人にとって魅力ある仕事にしたいと語った。

 

 父親についての話をしている時の彼は、それまでとは別人のような柔らかい、魅力的な男の顔だった。

 個人的なバックストーリーを知れると、クールでテクニカルな業務改善の話もがぜん血の通った、ヒューマンタッチな物語として響くのが面白い。

 とても満足感のある取材になった。

 これから書いて話をまとめるのが大変だけど。

 


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ヘビ女・ワニ男のパワーアイテム

 

 パイソンとかクロコダイルとか、恐るべき爬虫類をバッグだのベルトだの財布だののファッションアイテムにしてしまう人間、まさに万物の霊長。

 

 哺乳類の革と違って保温性がないから実用的な衣類には向かず、もっぱら付属品用なんだけど、近年、高齢者の増加とともに、こうしたワニ革、ヘビ革製品の需要が高まっているという。びへ~。

 

 若いうちからヘビやワニを持っているのは、裏社会の人とか、遊び人とか、芸能関係の人というイメージが強い。

 

 いわゆる普通の人でワニ・ヘビ大好きという人は少ないと思うが、なぜか齢を取ると多くの日との間でワニやヘビへの欲求が高まるようだ。

 

 基本的に高級品なので、お金持ちに見せたいという見栄もある。

 

 しかし、どうもそれだけでなく、ワニ・ヘビ革には目に見えない霊力があるらしい。 特にヘビ皮財布などは縁起物という側面もある。

 やっぱりこういうものを身に着けると、気力も体力も運勢もUPしたみたいで、強くなった気分になるのだろうか。

 

 その霊力やらの正体を掘り下げてみると、脳の構造と関係しているのではないかと思える。

 脳幹という最も深層の部分は「爬虫類脳」とも言われ、生命維持のための本能を司っている。

 単純に言うと、その周りを包むように哺乳類脳、人間脳があって、人間の脳は三層構造によって成り立っている。、

 

 三層構造の脳はそれぞれ調和して働いているのだが、齢を取って体力の衰えた人間は生命維持力担当の爬虫類脳が強くアピールするようになり、ヘビ革・ワニ革との親和性が高まるのだろう。

 

 しかし野生の力、神秘の力に溢れているようなヘビやワニも、いまや他の家畜と同様、人間に養殖される生き物である。

 アフリカ、アジア、中国などでは養殖ビジネスが盛んで、食用も含め、どんどんヘビやワニが「生産」されているそうだ。

 

 いやはや、太古から地球に住み着き、食物連鎖の頂点に立っていた先輩がたも、新参者の人間様には到底かなワニ―。

 


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日本人のアイドル依存・スポーツ選手依存はひどすぎないか

 

  「アイドルグループの2年後の活動休止宣言が、なんでトップニュースなの?」という声がネット上で響いた。

 

 なんか他に伝えるべき重要なニュースがあるんでないか?

 何かの隠ぺい工作なのか?

 情報コントロールしているのでは?

 といった声も飛び交った。

 

 確かにこの数日、テレビをひねれば大坂なおみ選手優勝の話と、嵐の活動休止の話ばかりやっていた。

 他にニュースはないのか、という感じ。

 

 陰謀説はともかく、人々の関心が芸能やスポーツにしか向かないのだと思う。

 人間はごはんとねどこさえあれば生きられるというものではない。こころの栄養が必要だ。

 アイドルやスポーツ選手の活躍は、てっとり早くその栄養を補給できる栄養ドリンクみたいなものなのだろう。

 

 これはべつに今に始まったことじゃないけど、近年、人々の依存度が上がっていると感じる。

 日本の社会全体がアイドル依存、スポーツ依存。

 中毒症状が出ている人も珍しくない。

 

 だから齢になったアイドルはなかなか現役から退けない。

 

 嵐だって40になってまでもうアイドルなんてやってられねぇー、と考えるのは自然な流れだ。はっきり言ってアイドル業はもうとっくの昔に定年である。

 

 それぞれ役者としていい味持っているのだから、5人ともバラで自分の好きな仕事をやっていけばいいと思う。

 

 大坂なおみ選手が優勝し、ランキング1位になったのはめでたいし、ケチをつけるわけじゃないけど、代理成功体験を求めている人が多いのではないか。

 

 メディアは人々のWANTSをつかんで話題を提供するわけだけど、テレビのニュースやワイドショーでのはしゃぎ方はなんだか異常だ。

 

 自分の才能を発見し、夢と目標を持って努力を重ね、世界一になったのは大坂選手であって、番組のゲストやコメンテーターでもなければ、あなたや僕でもない。

 当たり前だけど。

 

 アイドルやスポーツ選手に夢や期待を託すのがダメとは言わないけど、その半分でもいいから自分自身に夢や期待を持とう。

 世界一でなくても、日本一にならなくても、人に褒められなくたって、それは尊いことではないのか。

 


「悠々自適の幸福な未来」が待ってるはずだった

 

 定年退職とも退職金とも縁がないその日暮らしを続けているので、どうもピンと来なかったが、あるご婦人の話を聴いて、定年後のご夫婦の暮らしをリアルに感じた。

 

 旦那さんが退職して約10年。彼は昔ながらの日本の男、わりと大きな会社のもと企業戦士である。

 

 まるでドラマのキャラクター設定のマニュアル通りで、家事など一切しない。

 特に熱を入れてる趣味もなく(疲れちゃってそうそう身を入れて取り組めないらしい)、あまりどこかに出かけるということもなく、三度が三度、家で食事をする上に、レトルトや冷凍食品を使った手抜きは許さない。

 毎晩、晩酌をするのでつまみも必要。かわきものはNG。

 お茶も自分で淹れない。

 そしてもちろん、奥さんが自分を置いて外出するのには嫌な顔をする。

 

 日々の生活習慣から生じるストレスというのは怖ろしい。

 おかげで奥さんは溜まったストレスによって、体調を崩してしまった。

 

 旦那さんは自分が原因であるとはつゆほども考えない。

 べつにギャンブル狂いでもなく、愛人をつくったわけでもなく、まじめに勤め上げて、退職金も年金もいただいて、夫婦で悠々自適の生活を送っているはずだった――、いや、現に送っている。

 なのに妻の口から出てくるのは恨み節でしかない。

 

 「いったい何の不満があるのか」と、男が論理を滔々と説いても、女には通用しないんだろうな、やっぱり。

 

 でも定年退職した時点で、少なくとも2~3年のうちに、奥さんからも何か旦那さんが生き方を変えられるように働きかけをしなくてはならなかったんじゃないの?  と思えてならない。

 

 日本中にこういうご夫婦が増えているのだろうか。

 それで「人生100年」なんて言われた日には、ゼツボー感で気が遠くなってしまいそうだ。

 

 「悠々自適」という口当たりのいい言葉は、大いなる幻想を含んでいる。

 僕のようなその日暮らしも困るだろうけど、明日のために今日を犠牲にするような生き方が本当にいいのかどうか、よく考えなきゃいけない時代になっている。

 


手塚治虫「どろろ」アニメリメイク版:人間のおぞましさ・美しさ・面白さに迫る

 

 息子が「どろろ」のアニメリメイク版(今月から放送)が面白いというので、最初の2回を見てみた。

 確かに面白く、かなりクオリティが高い。

 

 この漫画は僕が小学生の頃、少年サンデーで連載していた。

 同じころ、テレビアニメも製作されたており(当時まだモノクロ)、アニメとして放送されるのは50年ぶり。

 原作者はかの手塚治虫先生だ。

 

 手塚先生は科学もののイメージが強く、さすがにそろそろ時代遅れ感を抱く人も少なくないと思う。

 が、手塚作品の真価は、人間存在のおぞましさ・美しさ・面白さといったものを、漫画というエンタメ性の高い手段で表現したこと。できることを証明したことだ。

 いわば文学のレベルまで引き上げ、漫画の地平を大きく切り開いた。

 これは後続の後輩らをはじめ、彼の子供世代、孫世代の漫画家たちがこぞって実現し、進化させてきたことだ。

 

 そういう意味ではSFとか、怪奇ものとか、伝記ものとかといった表面的なレッテルはあまり意味がない。

 が、僕は「どろろ」や「バンパイヤ」のようなグロテスクな怪奇物にその真骨頂が出ているのではないかと考える。

 

 主人公の百鬼丸は、父親の野望のために、肉体のパーツを鬼神らに奪われ、それを取り戻そうとする若者で、その存在はほとんどサイボーグ。

 相棒のどろろは戦国の荒れはてた世の中を生き抜くために犯罪も平気で犯す子供で、本当は女の子なのに男の子のふりをしている。

 

 誤解を恐れずに言えば、現代の世界で、障がい者とLGBTの人が、いっしょに人生の旅をしているかのようにも見える。

 

 どろろは敢えて女の子っぽいところを隠さず、とても可愛く描かれている。

 一方の百鬼丸も原作と異なり、サイボーグっぽい-―まるで人形のような顔をしているのが斬新で印象深い。

 彼は物語開始当初、義眼で目が見えないため、表面的な部分を突き抜けて、相手の存在を「内面の魂の炎のゆらぎ」として見ることができる、という解説も良くできている。

 

 リメイクとはいえ、若い連中の心を捉えるこうした設定・表現力はひどく刺激的だ。

 

 どこまで原作に忠実で、どこまでアレンジが許されているかは分からないが、ラスト付近では少し成長した百鬼丸とどろろが、それぞれの内面の声に動かされ、恋仲になってくれればいいなと思う。

 


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酒・タバコ、やめて100まで生きたバカ 2019

 

 きょうは健康診断を受けた。

 問診票の中にタバコを吸うか・吸わないか、以前吸っていたか否かに答える欄があり、今年は「吸っていた。何年前まで?19年」と書いた。

 ちょうど40の時にやめたのでわかりやすい。

 年々「タバコを吸っていた年数」と「タバコをやめてからの年数」の差が縮まっていくのが嬉しいような、切ないような。

 

 タバコをやめて何がいいかというと、「私タバコ吸ってます」というストレスを受けずに済むのがいい。

 この「吸ってます」の言葉の裏には「こんな健康に悪いことを毎日毎日やってて、ろくな人間じゃないですよね。これじゃガンとかいろん病気にかかっても一切文句言えませんよね。すべて自己責任ですから。のうのうと生きててすみません」といった自虐的な意味がオートマティックに付随してくる。

 

 こうしたストレスをものともせず、スパスパできる人は、ある意味、尊敬に値する。

 僕はもうこうしたストレスというか、プレシャーを受けるだけで耐えられない。

 

 ストレス解消のはずの喫煙が逆にストレスになる時代になってしまったのである。

 

 ところで僕の友人に「ストレスたまるとどうしても余計な飲み食いをしちまうだろ。

それよかタバコを吸ってた方がよっぽど体にいいんだ」と豪語して憚らない強者がいる。確かにその理論にはうなずかざるを得ないところはある。

 タバコは娯楽が少なく、食事も割と乏しかった貧しい時代における、労働者の細やかなお楽しみだったのだ。

 

 しかしその強者である友人も、吸っているのは電子タバコである。

 彼は過去何度も禁煙宣言をして、その都度、ご和算にするということを繰り返してきたが、今では電子タバコにたどり着いた。

 しかし、電子タバコが彼の安息のアイテムとして落ち着くかどうかは定かでない。

 そろそろまた「タバコやめる」とか言い出しそうだ。

 

 ちょっとおまけだが、きょうの健康診断で身長を測ったら、なんと、1センチ以上縮んでいた。

 これって老化現象?

 まだまだのびしろがあるぞと思っているのに・・・ショック!

 「ちぢむ男」というタイトルが思い浮かんだ。

 カフカみたいな小説が書けるかもしれない。

 


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世界初・英国孤独問題担当相 いわくつきの誕生から1年

 

 孤独というパーソナルな問題に国政レベルで、つまり国家の税金を使って取り組む――その実現は当初、世界を驚かせたが、背景には政治的な環境が整っていたようだ。

 

 2016年6月16日、ウエストヨークシャー州リーズ近郊でEU離脱の是非を問う国民投票集会の準備中、残留を呼び掛けていた労働党のジョー・コックス議員が右翼の男性に銃撃され命を落とした。このコックス議員が進めていたのが、孤独を撲滅するための政策作りだった。

 

 彼女は自分の選挙区には低所得者層、退職者層が多く暮らしており、孤独が大きな問題になっていることを知って、政治力でこの問題を解決するべきと考えていたという。

 そうした考えが形成されたのは、彼女の生育歴に関係するところがあったのかも知れないが、詳しいことはわからない。

 

 彼女の死後、遺志を継ぐ形で「ジョー・コックス孤独問題委員会」が保守党・労働党共同で組織化された。同委員会は13の非営利組織と協力しながら孤独についての調査を実施。

 

 2017年末、その調査結果が発表され「1日15本のたばこを吸うのと同じくらい健康に有害」「英国経済に320億ポンド(約4・5兆円)の損失を与える」などのデータを示した上で、孤独の慢性化はうつ病や心疾患、認知症などのリスクを高め、人間関係構築にも悪影響を及ぼすと指摘。そして政府のリーダーシップ、継続的なデータの必要性などを訴えた。

 

 引き続き翌年――2018年1月になってメイ首相は孤独問題担当大臣を新設すると発表。スポーツ・市民社会担当国務次官を務めていたトレーシー・クラウチ氏がその初代大臣に就任した。

 

 2018年10月に発表された政府戦略では、コミュニティーで人が集うスペース(パブやカフェ、アートスペースなど)を増やすための基金の拠出や、郵便会社ロイヤルメールと協力した配達員による見守りサービス、職場での社員の孤独に対する企業の取り組み、かかりつけ医が孤独を感じる患者に対して、必要な地域のサービスにつなげる取り組み、そして進展状況を記した年次報告書の発行などを盛り込んだ。 

 

 孤独の問題は高齢化や貧困、健康問題とも深く結びついており、英国のみならず世界中の国々(特に経済発展を終えた先進国)が抱えるテーマだ。

 もちろん高齢者が年々激増している日本でも目を離せない。

 誰にもみとられることなく自宅で亡くなる孤独死のニュースが伝えられるようになって久しいが、最近は日本郵便や新聞販売店などが見守りサービスを行う地域が増えている。

 また、葬儀社や終活関連のコンサルタント業者が地域の団体と協力し、高齢者向けに同種のサービスを提供するケースも一般的になってきた。

 

 一つ一つのアクションは地域社会や民間団体が日常的に実施するものだが、それを国政の一環として展開させていくところが現代的と言えるのかもしれない。

 皮肉な見方をすれば、そこまでやらないと人々が関心を向けようとしないのだろう。

 

 この英国政府の取り組みは、あまりに些細な事のように見える。

 バカバカしいと思ったり、余計なお世話をするな、同じ税金使うなら他にもっとやることあるだろ、と怒り出す人も少なくないだろう。

 

 それにもともと欧米人って、独立した自我を持つよう育てられ、孤独なんて当たり前と思っている民族じゃなかったか?

 

 でも僕は、これは今後の人間社会全般の大きな変化の呼び水になっていくのではないかと思う。

 人の孤独に心を配るという、ささやかで、日常的な蓄積が少しずつ人々の心を変え、やがて劇的に社会を変える――そんな可能性を秘めているというと大げさすぎるだろうか。

 


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EU離脱と大英帝国の幻想とお国のアイデンティティ

 

 EU離脱をめぐる英国の混迷。

 客観的に見れば、どうしたって離脱のメリットがデメリットを上回るとは思えない。

 あの国のやろうとしていることは、会社に所属しているのが嫌になったから、何ら具体的なプランもビジョンもなくて、たんに志だけで独立しようとしている起業家みたいだ。

 

 それに加えて耳を疑うようなセリフ。

 EU離脱に賛成する、ある年配の男性がTVのインタビューに答えていた。

 「英国は大丈夫だ。偉大な国だから」

 

 おい、まさかまだ大英帝国の夢を見ているのかよ?

 そこまでいかなくとも1980年代のサッチャリズムによる復興が頭にあるのか?

 いずれにしても過去の話だが、賛成派の中にはこういう人も多いのではないかと推察する。

 

 対岸の火事として見れば、お笑いだけど、ふと本当に笑えるかと思った。

 アイデンティティとは厄介だ。

 確かに経済面など、いろいろ実利的なことを考えたら、移民の問題はあるにせよ、離脱なんてしない方がいいに決まっている。

 

 でも歴史を背負い、いろんな文化を創ってきた自分たちのストーリーを大事にしたいと考えるとそうはいかない。

 

 この先、衰えたとしても実利より誇りとか、自分らしさを大事にしたい――英国人の半分はそんな考え方を持っているのかもしれない(そういえばあの頃のマギー・サッチャー女史もこんなことを言っていた)。

 

 まあ、それもバカバカしいのだが、日本だって、たとえば中国や韓国などとアジア連合を作って、通貨を統一して経済を上手くやりましょう、なんて持ちかけられたら、たとえ実利はあっても、おいそれと首を縦に振ることはできないだろう。

 

 「日本の伝統はどうなる?」

 「日本は独自性を保てるのか」など、ひどい不安感に陥ることは必至。

 僕もべつに右翼思想があるわけじゃないけど、えー!となるだろう。

 

 どれくらい先になるか――けっこうスパンは短くて、僕は50年くらい未来かなと思っているが――、企業のM&Aみたいに、世界はいくつかの経済ブロックに分かれる。

 その際。グローバル化とナショナリズムの関係に誰もが悩まされると思う。

 

 いち早く資本主義で世界制覇を成し遂げて大英帝国を築いたイギリスは、その先陣を切っていち早く悩んでくれているのかもしれない。

 


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急落マクロン株と安定上昇アントワネット株

 

 「あーら、燃料が買えないなら、電気自動車に乗ればいいじゃない」

 と、昨年末の黄色いベスト運動、さらにそこから発展した各地の暴動のおり、新聞などでマリー・アントワネット(あーら、パンが買えないなら、お菓子を食べればいいじゃない)になぞらえられたフランスのマクロン大統領。

 「エリートのおぼっちゃま君にわしらの何がわかるねん」とワーキングクラスの人からはすっかりケチョンケチョンにされてしまった。

 

 面白かったのはネット上で、こうした「マクロン=マリー・アントワネット=庶民の敵、または庶民の暮らしなど眼中にない」という公式はちがう、アントワネットはあいつほどひどくない、そもそもあんなセリフは言ってないなど、やたらアントワネットに同情や共感を寄せるコメントが多かったことだ。

 

 マクロン株がたった数ヶ月で急降下したのに対し、アントワネット株はこの20~30年で確実に安定成長している。

 

 実際、アントワネットの代名詞とも言われてきた件のセリフは、近年の歴史研究から、当時のジャーナリストが捏造したものという説が有力になっている。

 アントワネットは実は子どもと民衆を愛するいい人だった、という主張もされているらしい。

 

 ベルサイユ宮殿におけるあの派手な暮らしも、外国から嫁いできて異国で王妃として暮らさなくてはならなかった孤独な心の裏返し――なんて同情的に語られたりもする。

 

 美人なので実は庶民からも人気があったので、何とか貶めてやろうと、革命推進派やジャーナリストらがこぞってアントワネットを標的にした、とも考えられる。

 

 歴史認識は日々更新されていて近年では、フランス革命は、民衆が支配階層をひっくり返し、自由と平等をつかんだ人類史上燦然と輝く偉大な革命――というイメージは薄れ、民衆が革命の美名のもとに、大暴動・大殺戮を欲しいがままにした恥ずべき事件というイメージと相殺しつつある。

 

 僕の誕生日だった昨日(1月21日)は、アントワネットの夫である、当時の国王ルイ16世が断頭台に送られた日だった。

 なにせ「王であるということだけで死罪に値する」なんて無茶苦茶な理屈で詩形にされちゃったので、このあたりからもう何でもありの恐怖政治が始まってしまった。

 ナポレオンが台頭して混乱を納めるまでの間、革命がらみで殺された人たちは、ナチスのジェノサイドの犠牲者をしのぐという。

 

 昨年末のパリの暴動の映像を見ていたら、200数十年前もこんなんだったのかなと思った。

 

 ところでスーパーエリート・マクロン大統領は、年が変わって民衆を宥め直し、ぺっしゃんこになってしまった人気を挽回することができるのだろうか?

 もしやルノー・日産の統合をそのネタにするつもり?

 


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わが心の誕生日会

 

 1月21日は毎年、心が複雑にゆらぐ日になっている。

 誕生日おめでとう!

 と言われると、それはまぁうれしいのだが、どうも照れくさい。

 ついでに言ってしまうと、いちいちリアクションするのがちょっとめんどくさい。

 

 この間、山羊座の誕生日の人のことについて書いたけど、この齢になるとクリスマスやお正月に紛れて「あ、誕生日だったのね」と、ついでに気づかれる程度でちょうどいいのではないかと思うのだ。

 

 「でも、子どもの頃はそういうわけにいかんかったのよ!」と主張する気持ちはわかります。

 子どもにとって誕生日はクリスマスや正月以上に重要だ。

 

 子どもの保育園とか幼稚園では月に1回、お誕生会を開くと思うが、僕が小学校の5年生の頃もこれをやっていた。

 その時の担任の先生がそういう催しをやるのが好きだったのだろう。

 毎回、クラスの40人がそれぞれプロジェクトを組んで、芝居をやったり紙芝居をやったり、コントや落語、歌など、いろんな企画を披露していた。

 いま振り返れば、5年生のクラスがよくぞ毎月毎月そんなことをやっていたなと思う。

 さすがに6年生になる頃、「毎月、こんな勉強でもないことに準備や練習で時間を使うのはいかがなものか?」と、ちょっと教育熱心なお母さまからのクレームが入って、この誕生日会はなくなり、1学期1回のお楽しみ会みたいなものになった。

 

 でも僕はこの誕生日会のおかげで、あのクラスの連中の顔と名前をほとんど憶えている。

 誰がいつの誕生月だったかも何となく思い出せる。

 

 この先、もし年寄りの施設に入ることになったら、毎月こういう誕生日会みたいなことをやるのだろうか?

 そこではじーさん・ばーさんたちが、歌やら芝居やら一芸やらの企画で、お互いのお誕生日を祝うのだろうか?

 その頃になると、素直にまた誕生日を喜べるようになってるかもね。

 


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どうして僕はロボットじゃないんだろう?

 

 何の脈絡もなしに、あるセリフだけが、葉っぱが一枚、ひらひらと風に乗って頭の中の郵便受けに届けられるときがある。

 「どうして僕はロボットじゃないんだろう?」

 というものその一つ。

 

 その一つのセリフから、それを発した人物、そこに関連しているストーリー、その背後にある世界観を探っていく――ということを時々やる。

 

 こういうセリフを言う以上、人物はもちろん人間だ。

 まだ若い。子どもかもしれない。

 自分は人間なのに、人間であることに一種の罪悪感を抱いている。

 まるでロボットなり機械であったほうがよかったのに、と言わんばかりだ。

 

 その時代の人間は、ロボットほど生産能力・情報解析能力が高くないことを嘆いているのかも知れない。

 いまや産業界の労働力のメインはAIであり、ロボットだ。

 

 あるいは地球環境の観点から言っても、環境を破壊したりしない、地球の味方であるロボットの方が好ましい。

 人間はその点でもロボットにかなわない。

 

 セリフを少し変えてみる。

 「どうして君はロボットでなく、人間なんだろう?(自分でよく考えなさい)」

 

 脳の奥深くか、地球の奥底か、宇宙の果てか、から聞こえてくる問いかけは、実はすぐ身の回りにあるコンピューターから少しずつ発せられているように感じる。

 

 コンピューターに意思があるなどと言うと、ばかばかしいと嗤われるだろうが、やはりコンピューターは人間の純粋な道具だった、いわば知能がなかった機械類とは違っているのではないか。

 

 この四半世紀余りの間に社会にゆっくりと澱のように何かが溜まってきている。

 それはじわじわと僕たち人間の存在にプレッシャーをかけ続けている。

 そして、スマホの普及もあってそれはこの数年で加速している。

 その正体は、コンピューター類の発する無言のメッセージなのではないかという気がする。

 

 これから先、AI・ロボットが日常生活の中で完全に主力となれば、その目に見えないメッセージ=プレッシャーは著しく人々の精神を圧迫することになるのかも知れない。

 

 というのは、あくまで僕の妄想ですが、

 本気で「どうして僕は(わたしは)ロボットじゃないんだろう?」

 と思っている人が、」もうチラホラいるのではないだろうか。

 


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僕たちは罪を背負わされている

 

 先日書いたラジオドラマの脚本「ばんめしできたよ」のリライト版は、は、人間の罪悪感がテーマになった。

 

 時々、現代人の人生は、は罪悪感から逃れるためにあるのではないかと思える。

 情報社会型・資本主義的罪悪感。

 

 子どもをいい学校に行かせられないあなたは罪悪を犯しています。

 

 子どもにちゃんとして結婚式を挙げさせてやれないあなたは罪悪を犯しています。

 

 家族に満足な医療を受けさせられないあなたは罪悪を犯しています。

 

 大事な家族が亡くなったのにまともなお葬式を挙げられないあなたは罪悪を犯しています。

 

 お金で幸福は買えないかも知れないけど、少なくとも得体のしれない罪悪感からは逃れられる。

 そう考えて、みんな一生懸命にお金を稼ごうとする。

 

 でも、その「あなたは罪悪を犯している」という情報の多くは、もとをたどっていくと、学校なり、学習塾なり、ホテルや結婚式場なり、病院なり、葬儀屋さんなりがビジネスをするための宣伝メッセージだったりする。

 

 それに気が付く人は少ない。

 だから、あなたも僕も何とか義務を果たそうとする。

 本来は義務でも何でもないことなのに。

 

 そもそも「人間は生まれながらに罪を背負っている」という「原罪」の教えが、キリスト教を広めるための広告(だから神を信じて魂を清めよ)だ。

 

 何が本当に人間として抱かざる得ない罪悪感なのか。

 それはひとりひとりちがう部分もあれば、共通する部分もある。

 

 情報化社会のいたるところから送られてくる大量のメッセージを、いくらかやり過ごすことも罪を意識しないですむ方法の一つかも知れない。

 


ドラム少女の快演:もはや音楽やるのに子どもも大人も関係なし

 

 8歳のドラム女子(現在は9歳になってるらしい)・よよかちゃんの超絶パフォーマンス。
 曲目はなんと、Led Zeppelinの「Good Times Bad Times」だ。

 とてもこの小さな体が叩き出しているとは信じられない、ぶっといグルーヴ。
 ジョン・ボーナムが生きてたらぶっとびそうな演奏――いや、もしやボーナムの魂が乗り移っているのか?

 でも彼女はべつにZep専門じゃなくて、ロックやファンクのいろんなナンバーを叩きこなしてUPしている。
 そのどれもが完コピ。
 ちびっこががんばってるとか、上手にやってるといったレベルをはるかに超える、プロフェッショナルのパフォーマンスだ。
それに加えて、彼女の笑顔のかわいいこと。

 もはや音楽やるのに子どもも大人も関係なし!の時代に突入している?

 


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「アタシ、ママの子?」自費出版からグッドセラーへ

 

 麻乃真純さんの「アタシ、ママの子?」が売れている。

 二刷・三刷とあっという間に売り切れ、新聞広告が何度も掲載されている。

 内容からしてペットロスの人たちの心に大きく響いたのだろう。

 

 この本はもともと3年前に彼女が、愛犬の死を悼んで自費出版したものである。

 僕は献本していただきました。

 

 当初の詳しい経緯はわからないが、彼女ほどのキャリア(僕は一緒に仕事をしたよしみもあって、日本一の「動物マンガ家」と呼んでいた)をもってしても、自費出版でやらざるを得ないのか~と、出版業界の厳しさに驚いたことを記憶している。

 

 しかし、その本の価値は出版社でなく市場が決める――ということだろうか。

 これまたどんな経緯があったか定かでないが、2年半余りの間に少しずつ評判が広がり、読者が続々と現れた。新しいファンも増えたようだ、

 実際、飼い主の人たちの心を温める、ホントに良い作品なのだ。

 彼女の亡き愛犬も親孝行ができて、さぞや天国で喜んでいるだろう。

 

 そういえば、愛犬なずなちゃんを主人公とした「ポメポメ物語」というポメラニアン仲間のマンガもあったが、あそこに出演していた仲間もやはり同じように、今は天国住まいなのだろうか?

 

 イヌの視点になると、10年前のことが50~60年前のことのように思えますね。

 


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名古屋のネコバスは保護ネコカフェ

  連休中、帰省で名古屋に帰っていたが、用事で出かけたときにたまたま「ネコバス」と遭遇した。

 「ひだまり号」と名付けられた二階建てバスの中にいるのは、名古屋市愛護センターに保護された子ネコたち。

 子ネコと遊んて、気に入った子がいたら里親になってくださいという「保護ネコカフェ」になっている。

 

 時間がなくて残念ながら中には入らなかったが、昼間はソフトドリンク、夜はアルコールも提供しているらしい。

 

 何匹くらいいるのかわからないが、二階建てバスの中をミャーミャーうろつき回っているのを想像するとニャニャカ面白い。

 

 「なんかうミャーもん、くれんきゃ」

 「名古屋めしじゃニャーと食いたくニャーでよう」とかね。

 

 昨年の8月にオープンしたらしいが、里親は順調に見つかっているのだろうか。

 成長して外回りするようになり、このバスを自分の家と認識するネコもいるかも知れない。

 それはそれでネコ的には楽しいような、世話する人間的には困ったような。

 


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山羊座のボヤキとイベント増殖に対する懸念

 

 きょうはカミさんの誕生日だった。

 が、忙しいのでお祝いは明日まわし。

 鏡開きのもちのお汁粉できょうのところはおしまいにした。

 

 たまたまなんだろうけど、彼女をはじめ、どういうわけか僕の周りには、この12月後半から1月前半の生まれ人がやたら多い。

  

 数えたことないけど、僕のFaceBookは確実に全体の2割以上、下手すると3割近くがこの時期の生まれ人ではないかという印象だ。

 

 星占いでいえば山羊座の人々である。

 

 彼ら・彼女らはちょっとだけ不幸な星のもとに生まれている。

 クリスマス、お正月、ついでに成人の日というイベント続きのシーズンと誕生日が重なっているからだ。

 

 「世界中の人たちが、日本中の人たちが、私の生誕をお祝いしてくれるかのようです」とおっしゃる立派なオトナの人もおられる。

 が、大半は「誕生日プレゼントとクリスマスプレゼントが兼用だメェ~」とか、

「年末の大掃除で忙しいので無視されるんだメェ~」とか、

「お年玉あげたからプレゼントなんていらないでしょと言われるんだメェ~」とか、

「他の季節に生まれたきょうだいと比べて冷遇されてるメェ~」とか、

 童心に立ち返ってトラウマを掘り起し、お子様度満開のボヤキを発している。

 

 山羊座のお気の毒な気持ちはわかる。

 しかし、山羊座の家族の気持ちもわかる。

 

 ぶっちゃけ、めんどくせェ~。

 クリスマスやって、年末から正月もやって、やっと日常が帰ってきたと思ったら、やれやれ、またかよメェ~ カネもかかるよメェ~。

 という気分になって、どうもテンション上がらないのだ。

 

 最近はハロウィーンが恒例イベント化し、国民の祝日もやたら増えてきて、今年のゴールデンウィークは10連休。来年はオリンピックまである。

 1年中、大小やたらイベントだらけになると、個人の誕生日なんてその中で埋もれてしまうのではないか。

 

 ケの日―ーどうということのない日常があるからこそ、ハレの日――非日常の祝祭日が輝くんだメェ~。

 とボヤいてみてもしかたないか。

 

 山羊座の人たち、気を悪くしたら許してね。

 愛をこめて、お誕生日おめでとう。

 


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人間は幸せに慣れると、幸せであることを忘れてしまう

 

You Tubeで音楽を聴いている。

僕が聴くのは大半が60年代・70年代・80年代のロックやポップスだが、そこに付いているコメントを読むのが結構好きだ。

時々若い連中も書いているが、やはり僕と同じくらいの世代や、もっと上の世代が多いようだ。

本や映画のレビューと違って音楽は気軽にレビュー出来るので、いっぱい書き込まれている。

そこでちょくちょく目にするのが「この時代は良い時代だった」的コメント。

気持ちはわかる。

あなたも若かったしね。

確かにあの頃は良い時代だった。

 

でも、その良い時代の音楽を、当時はまったくの幻だった音源や映像、もしレコードやテープがあれば、何万円、何十万円出しても聴きたい・見たいと思っていたコンテンツを、これだけタタで見放題な今は、もっと良い時代ではないか?

 

今を生きる僕たちは幸せだ。恵まれている。満たされている。

でもそうした満足感や感謝の気持ちを持てるのは一瞬のこと。

一瞬ののちには、これはあたりまえのことになってしまって、僕たちは自分が実はとても幸せであることをすっかり忘れてる。

 

それを繰り返していると永遠に幸せにはなれない。

「青い鳥」じゃないけど、いまどきの幸福は、どっか家の中に転がっている。

ゴミゴミ散らかってるところを片づけて掘り出せば、たいてい出てくると思う。

 


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茨城県の納豆―カレーーアニメ―あんこう―ライブの不思議な螺旋現象

 

 納豆カレー、メロンカレー、栗カレー、しじみカレー。

 あなたが食べたいカレーはどれですか?

 

 これらのカレーはいずれも「マイナビ農業」の茨城県タイアップ記事の取材で出向いた、笠間市のドライブインにあったお土産。

 

 カレーになっている納豆、メロン、栗、しじみは茨城の名産品。

 いずれも全国有数の産出量を誇ってます。

 

 カミさんに話したら、他の3つはおいしそうだが「メロンカレーはNG」とのこと。

 彼女はメロンファンなので、おいしいメロンちゃんをカレーにぶちこむのが許せないらしい。

 

 僕が疑問だったのは納豆カレーのパッケージ。

 どうしてアニメのメイドちゃんなのか?

 裏を見ると「ご主人様に健康に良いものを召し上がってもらいたくて作りました云々」と、メイドちゃんのナレーションで書いてあります。

 

 一緒に行ったカメラマンが茨城には「アニメの聖地があるからだよ」という情報を得て調べてみたところ、あった~!

 

 人気アニメ「ガールズ&パンツァー」。

 

 2012年秋の放映開始以来、舞台になった茨城県の小さな港町・大洗はいまなおガルパンの舞台として多くのファンが訪れています・・・とのこと。

 

 全然知らなかった。

 

 昨年11月の大洗の「あんこう祭り」の時は、メインキャスト(声優?)にやってきて、テーマソングのライブもやったらしい。

 うーん、これが納豆カレーのメイドちゃんに繋がっているのか、と妙に感心しました。

 

 全国魅力度ランキング最下位の茨城ですが、納豆―カレーーアニメ―あんこう―ライブといった不思議な螺旋現象はなかなか魅力的です。

 


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1/fのゆらぎの初夢

 

 初夢見ましたか?

 僕は今朝見ました。

 近年まれにみる極上ドリーム。

 

 海に近い山の中のキャンプ場というか休憩所みたいなところで、木のテーブルに坐っている。

 若いのか齢とっているのかわからないけど、懐かしい友達が大勢いて笑って喋っている。

 特別何かやってるわけじゃないけど、ハッピーな空気に包まれている。

 

 いっしょに話してた女の子が「ちょっと」と言って席を立った。

 僕は彼女がもどってくるのを待っていた。

 そよそよと気持ちのいい風が吹いてくる。

 1/fのゆらぎがある音楽のようだ。

 別段オチはなく、そこでスカッと目が覚めた。

 寝覚めもさわやかだ。

 

 昨日、100歳がどうのこうのとか書いたせいだろうか。

 起きてから振り返ると、あそこは天国だったのではないかと思える。

 

 とても気分がよく、元気になった。

 できればパッケージングして保存しておきたいほどだ。

 今年の運勢までよくなったような気になる。

 お正月も終わって忙しくなるかも知れないけど、ちゃんと眠って良い夢見よう。

 


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100年ライフの条件と自分ストーリー

 

 リンダ・グラットン/アンドリュー・スコットの「LIFE SHIFT」を読んだのは一昨年の正月のこと。それから2年、あっという間に「人生100年」巷に広がった。

 社会通念というのは怖ろしい。

 こうなるともう現在の平均寿命がいくつかなんて関係ない。

 みんなの認識は「人生は100年」である。

 それが喜ばしいことなのか、困ったことなのかはさておいて。

 

 僕の場合、20歳の頃の自分が現在の、50代の自分なんてまったく想像できなかったのと同様、100歳になった自分なんて思いもよらない。

 いったいどうなっているんだろう?

 

 当然体力は相当衰えているだろう。

 精神の状態はどうか?

 たぶんよけいな欲などが消え去って、割と清楚――いわば子どもに近づいているんじゃないかと考える。

 逆に言えば、そうありたいし、そうじゃないと100年ライフは辛い。

 

 僕は100まで生きる人間には条件が2つあると思う。

 

 一つは幸福であること。

 客観的にどうこうではなく、自分が幸福だと思っているか――自分の人生に納得し満足しているかということである。

 周囲の人からそれなりに愛情を受けているか、といったことも含まれるだろう。

 そうでない人はおそらくストレスにやられてしまう。

 

 もう一つは生き続けるためのミッションを持っているかということ。

 たとえば、自分の戦争体験を後世に伝えるとか・・・

 ビジネスであるかどうかはともかく、「これが自分の仕事」というものを持ち続けることが重要なのではないか。

 

 このどちらか、あるいは両方の条件を満たしている人が100まで生き延びる。

 

 僕の母親は正月の2日に90歳になったが、10年前に亡くなった父が、最期に「おまえのおかげで良い人生だった。ありがとう」と言い残したらしく、それを心の支えにして今も健康に生きている。

 実家に帰るたびに何回も同じ話を聞かされるが、これはもう両親のためにちゃんと聞かねばならない。

 

 100まで生きるかどうかはともかく、還暦を過ぎたあたりからは準備は必要になってくると思う。

 

 脳は齢を追うごとにどんどん脱皮を繰り返して「100歳の自分」へ向かっていく。

 

 最近は終活ばやりで自分史を書くことなどもポピュラーになってきたようだが、べつに終活じゃなくても、自分史などを作って、自分は本来何者なのか、自らの持っているストーリーを探っていくことが必要なのではないかと思う。

 


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アナ雪を鑑賞して想い巡らせる男と女の未来

 

 子どもの時に出会う物語は、実体験と同じくらい、いやもしかしたらそれ以上に重要で、脳の奥深くに沁み込んで、その後の人生全般に影響を与えるのではないかと思う。

 

 なんでそんなことを言い出したかというと、正月の3日に「アナ雪」をテレビでやってたので、また見てしまったからだ。

 このお話を見た女の子は大人になった時、これまでの女性――母欧亜や祖母の世代とはだいぶ違った世界観・男性観を持つに至るような気がする。

 

 「アナ雪」は文学性も兼ね備えたエンターテインメントだ。

 観客のメインである少女(および大人女子全般も)の心をしっかり掴む、よくできたストーリー展開になっている。

 

 そして制作陣がどの程度意識しているかは分からないが、世界各地に国家というものが出来て以来、女性がどう扱われてきたかの歴史が凝縮されて入っている。

 

 考えてみれば女性が全般的にこれほど社会で活躍できるようになったのは、ほんのこの数十年―ー僕が大人になった後のことである。

 

 というわけで気が付くと、こっちも頭の中が女の子になっていて、ハンス王子の悪行が明かされるシーンでは「こいつは絶対ゆるせーん!」と叫んだりしている。

 

 日本の貴族や武家もそうだが、欧州の王侯貴族の間では権力を手にするために、彼が仕組んだような陰謀はほとんど日常茶飯事だったのだろう。

 で、たいていの場合、女はその道具にされてきた。

 

 もう一人の男のクリフは30年前のバブリーな時代だったら「いい人なんだけどねー」で終わっていそうなタイプ。ところが現代では見事にアナのハートも、たぶん観客の大半の女の子のハートも射止めている。

 時代はいい人に順風を送っているようだ。

 

 そんなこんなでまた楽しめたのだけど、この作品を観た後は、いつも漠然とした不安に駆られてしまう。

 

 これからの男の存在意義って何? 

 

 だって女だけで暮らしが成り立っちゃうじゃん、幸せになれちゃうじゃん、という感じがしてしまう。

 

 エルサやアナも子どもが欲しくなったら、男なんて別にいらんからと言って、精子バンクから精子を調達してきそうだ。

 

 というのは冗談だけど、少なくともマッチョなヒーローみたいな男はいらんポイ。

 労働もAIやロボットにお任せになったら、スポーツ・芸能・芸術などの分野で花を咲かせるか、そんな才能がなければクリフのようなサポート役になるか、しかなくなってしまうのでは・・・?

 

 そんなことを考えてると、頭の中はすっかり普段の男に戻ってて、ハンスも末子王子なんていう辛い立場なので表舞台に立つには、ああした陰謀を企てるのもしかたないよな、あいつも人生大変だよな、牢屋にぶちこまれてしまってこれからどうなるんだろう、何とか情状酌量してやってくれんかね?・・・なんて結構同情的になってしまうのだ。

 


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45周年ユーミン、40周年サザン&YMOの衝撃

 

 正月は家で執筆以外はテレビを見ていた。

 久しぶりにいっぱいテレビを見た。

 「もう見る気ねーよ」と言ってた紅白も見てしまった。

 

 サザンの桑田とユーミンの暴れっぷりにはホントびっくりした。

 還暦も軽々クリアして、もう怖いものなしという感じである。

 平成最後のどーのこーのと言ってたけど「勝手にシンドバッド」は昭和の曲だ。ま、お祭り騒ぎができれば、昭和だろうが平成だろうがどうでもいいか。

 

 昨年、ユーミンはデビュー45周年、サザンは結成40周年ということで紅白に出たが、同じく結成40周年だからか、YMOの特集番組も2日にNHK-BSでやっていた。

 

 「名盤ドキュメント」は、1979年発表の名作「SOLID STATE SURVIVOR」の解析。

 制作当時から厳重に保管されてきたマルチトラックテープの音源を再生し、当時の関係者や参加ミュージシャン、YMOチルドレン世代のアーティストたちの証言により、この大ヒットアルバムの謎と魅力に迫るという内容。

 

 「細野晴臣イエローマジックショー2」は、メンバー3人がジジイに扮装して(実際3人とももうジジイだけど)コントと演奏をやるという内容。昔から自分たちを茶化してお笑いに持っていくのが大好きな人たちだったけど、世界的ミュージシャンに上り詰めてベテランの域になってもやり続けるこの姿勢はリッパ。

 

 YMOは仕事のBGMでよく聴くが、ここのところ、1979年と1980年のワールドツアーのLIVE音源にはまってしまって、このあたりの音はエキサイティングでカッコ良すぎてとてもBGMとして聴いていられない。

 

 特にこの1980年10月のオランダ・ロッテルダムのライブは、自らテクノポップの概念をひっくり返すようなロックしまくりの演奏で観客のノリもすごい。

 

 サザンもユーミンもYMOも、やっぱりいいもんはいい。

 彼らの活躍後に生まれたチルドレンたちも素直にはまっちゃうようだ。

 


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「ばんめしできたよ2019」執筆の三が日

 

 お正月3が日にほとんど家にこもりきりで執筆に取り組んだ。

 昨年、NHK名古屋の創作ラジオドラマ脚本募集で拙作「ばんめしできたよ」がファイナルステージまで上がって「着想はいいんだけどね~」といった講評をいただいた。

 一押ししてくれた審査員もいたというので、それじゃ書き直しに挑戦してみるかと思ったのだ。

 

 あらすじはほぼそのまんまで、登場人物と出てくる施設の設定を大幅に変えた。

 3日で書けたわけじゃなくて、昨年末から1か月以上かけてやっとこさできたという感じ。

 

 ライティング・イズ・リライティング。

 昨日の脳と今日の脳と明日の脳は違うので、書き直しはきりがないし、楽じゃない。

 

 それでも何とかできてよかった。

 物語としてより面白く、より深くなったと、とりあえず自画自賛。

 もちろんリベンジを期して、また別のところのコンペに出します。

 

 おかげで充実したお正月になりました。

 今年もコツコツがんばります。

 


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2019年元旦の干支ものがたり

 

あけましておめでとうございます。

お正月恒例。近所の大宮八幡宮参道にある材木屋さんの干支ギャラリー。

富士をバックに駆け抜けるイノシシが魅せる。

 

イノシシ君はめっぽう速くて、他の連中に負けないはずなのに、方向を間違えてしまって神様のところにゴールしたのが12番めになってしまった。

でも、ぎりぎりセーフだったからよかったブー。

 

跳梁跋扈する情報に惑わされてあらぬ方向に疾走せぬよう、自分の内なる声に耳を澄ませながら軽やかに走りましょう。

 


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自分という人間のスト―リーに気付いた一年

 

  家の中を掃除しながら、ああまた1年が終わるなぁ、また一つ齢を取るなぁと思いつつ、齢を取るとはどういうことなのか考えていた。

 

 結論から言うと、齢を取るとは、自分という人間のスト―リーが見えてくるということだ。

 

 結局、自分は自分であって他の人間とは違っている。

 

 自分がやれることも、本当にやりたいこともあらかじめ決まってたことに、今年一年でやっと気が付いた。

 

 流行を追っても、他人が持っているものを欲しがったり、ましてや真似をしていてはだめだ。

 

 そう悟ったのか、諦めたのか。

 この夏、事故で頭を打ち付けたことが効いたのかもしれない。

 

 20代・30代の頃は自分のストーリーなんて何にもわかってなかったので、とにかくなんでも体験だ!と思って、あっちこっち出歩きまくって、見て回って、手当たり次第にいろんなことをやっていた。

 

 それが50代も後半になって還暦が近づいてくると、脳の中に映し出される風景はすっかり変わってしまった。

 

 体力はも落っこちてくるし、自分の残り時間が気になってきて、大してやりたくもないこと、人との付き合いでしかたなくやることなどにエネルギーも費やしている余裕はない。

 

 正直、好奇心や冒険心も薄れているのだろう。

 もはやかつてのように気の向くままに、あちこち首を突っ込むことはできない。

 逆に言えば、若い時代にそれができてとても幸運だった。

 

 ただ、本当に自分が興味を引かれる世界、自分のストーリーにマッチした世界にはとことんつっこんでいきたいと思う。

 

 あとは日々コツコツと自分の畑を耕して、少しでも多くの作物を作って収穫できればいいと思う。

 これは美味しいと食べてくれる人がいれば、なおいい。

 

 


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いい人のサービス残業問題

 

  「働き方改革」のおかげでサービス残業が増えたと言う人が増えているらしい。

 タイムカードをがっちゃんこした後にパートさん、バイトさんが「もうちょっとだけお願い」されてしまうという。

 

 今日だけ。ちょっとだけ。最後まで片付けて帰らないとあなたも気持ち悪いでしょ。

 そうだな、忙しいからしかたないかな。

 

 そんな感じで、デートがあろうが、家族が待っていようが、子供の誕生日だろうが、自分の将来のための勉強の時間が潰れようが、まじめな人、責任感の強い人、いい人は引き受けてしまう。

 

 そこまでいい人してどうする?

 

 本当に1回だけ、ちょっとだけで済むならいいけど、こういうことってえてして常習化しがちだ。

 

 あの人は頼めばやってくれる。

 いったん会社側にそうインプットされて、習慣になってしまうと、頼む方も罪悪感がなくなって、やってくれて当然になってしまう。

 

 なんだかドラッグ中毒に似ている。

 

 記録に残らないということは法規外。

 なので会社としては大助かり。

 正規社員じゃないことも都合がいい。

 何かあったとしてもいくらでも言い逃れできそうだ。

 「いや、うちはちゃんと就業規定守ってます。

 彼(彼女)はいつも定時で上がってますよ」

 

 最近はパートだってバイトだって責任ある仕事を任されることがままある。それはいい。

 でも、それなら相応の対応をしてもらわなければいけない。

 

 サービス残業で過労死――では、洒落にならない。

 その仕事に命を賭けてる、人生を捧げてるから、お金なんて関係ないんだ!

 みんな、ありがとうと言ってくれるし、助かる~と喜んでくれるし。

 ――と言って、あなたが満足・納得してるなら、よけいなお節介はしませんが。

 


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世界を作った歴史人は?(世界史編)

 クリスマスの夜、家族で晩餐していたところ、イエス・キリストは最も有名で人気のある歴史上の人物か? という息子の発言が引き金になって、人気の歴史人を言い合いっこが始まった。

 日本を混ぜるとややこしくなるので、世界史の方に絞ってやった。

 出てきた人をざっと挙げると、

 

 イエス、マリア、ブッダ、モハメット、ソクラテス、プラトン、シーザー、クレオパトラ、ツタンカーメン、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、シェイクスピア、ゲーテ、モーツァルト、ベートーベン、マリー・アントワネット、ナポレオン、ワシントン、リンカーン、ナイチンゲール、アンデルセン、グリム兄弟、イソップ、アンネ・フランク、ヒトラー、マハトマ・ガンジー、マザーテレサ、ピカソ、ジョン・レノン、ニュートン、アインシュタイン・・・

 

 あまり考えずに口をついて出てきたのがこれくらい。

 あくまで僕とカミさんと息子の感覚なので少々偏ったところも7あるだろうが、世間の人もベスト20とか30と言えば、このあたりの人を挙げるのではないだろうか。

 

 ヒトラーは人気というと語弊があると思うが、あれだけ本や映画になっているし、興味深い人物という点、知名度という点では確実に上位10人に入るだろう。

 

 死後20年のマザーテレサと40年のジョン・レノンは、歴史上の人物というには若すぎる(?)かもしれない。

 

けれどもその業績やら、人々に与えた影響やらを考えると、もう歴史上の人物にしてもいいのではないか、ということになった。

 

 こうしてラインアップを見ると、やはりそれぞれキャラが立っているか、劇的なストーリーを背負っているか、いい意味でも悪い意味でも人間臭いかがポイントとなっているようだ。

 単に立派な人と言うだけでは上がってこない。

 

 単なる遊びでやっていたけど、こうした人たちが現代のこの世界を作ってきた代表者だと考えると、ちょっと感慨深いものがあった。

 面白いので、お正月ヒマだったらお家の人、あるいは友達同士でやってみてください。自分の世界観がわかるかも。

 


クリスマスにちょっとだけ世界と自分を変える

 

 むかしむかし、愛と音楽があれば世界を変えられる、と多くの人が信じていた時代があった。

 若い連中はみんな、多かれ少なかれ頭がヒートアップして、かなりイカれていたので、そうした偽善者めいていてインチキ臭い話も平気で口走っていた。

 

 今はもうそれが空想か幻想か妄想だということが分かってしまっている。

 それでも年に1日くらいはそういうことを口走ってもいいのではないかと思う。

 

 バカバカしいし、何の得にもならない。それにいっぱいいっぱいで暮らしているので、そんなことに関わっている余裕なんてない。

 

 そうこうしているうちに、自分の半径50メートルが平和で穏やかであればOK、とりあえずオイラが死ぬまではとこのまんまで――と多くの人が考えるようになった。

 

 トランプ大統領の悪口を言う人は大勢いるが、あのビジネスファーストのボスはアメリカのみならず現代の先進国の、目先のことしか見ようとしない一般大衆の正直な心の写し絵ではないのか。

 

 人と人、文化と文化を遮断する壁はアメリカとメキシコの国境だけじゃなく、世界中のいたるところに建てられている。

 人種問題も階級格差も大きくなるばかり。

 

 なんだか宗教だかスピリチュアルめいた話になるけど、ひとりひとりの祈りだとか、

 

言霊だとかは結構、大切なんじゃないかと考えたりする。

 

 あなたや僕が祈ったり唱えたりすることで、ほんのちょっぴりでも世界は良い方向に変わるかも知れなない。

 みんなが12月24日と25日にそうした思念を集中させれば、その波動でかすかにでも地球の軸を動かせるかもしれない。

 

 そして、そうした言葉を口にしたり字にしたりすることによって、自分も本当にちょっとだけだけど、昨日よりはましな人間に変われるかも知れない。

 

 べつにその年一回はクリスマスじゃなくてもいいんだけど、ツリーやキャンドルやケーキやプレゼントのおかげで「LOVE」とか「PEACE」とか割と口にしやすい日なのであれば、やってみてはどうだろう。

 

 というわけで、Merry Christmas。

 素敵なクリスマスをお迎えください。

 


「安楽死を遂げるまで」:自殺幇助という安楽死

 

 今年読んだ中で最も衝撃を受けた一冊。

 「安楽死を遂げるまで」宮下洋一(小学館/2017年12月発行)。

 

 著者の宮下氏は欧州南部を拠点として活動する国際ジャーナリスト。

 スイス、オランダ、ベルギー、スペイン、アメリカ、そして日本を巡り、各国の安楽死事情をルポルタージュしたこの本は、第40回講談社ノンフィクション大賞を受賞している。

 

●外国人も頼りにするスイスの安楽死事情

 

 世界で初めて安楽死が認められた国はスイスである。この国における安楽死は「自殺幇助」という形で行われる。

 正確には法的に認められているのではなく、刑法に照らし合わせて「罪に問われない」のが実情だ。

 それでも最初の幇助団体が生まれたのが1982年だから、すでに30年以上の歴史がある。

 そして特筆すべきはその団体に会員登録すれば外国人でも措置を受けられることだ。実は近年、日本人の登録者も少なくないという。

 

●「自殺幇助」という手段

 

 以前、安楽死には『積極的安楽死』と『消極的安楽死』の2つがあると書いたが、これに『セデーション』が加わる。これは終末期患者に対して薬を投与して昏睡状態に落とし、その後、水分や栄養を与えず死に向かわせること。いわば延命措置をやめる『消極的安楽死』の一つとも捉えられる。これらの措置はすべて医師が手を下す点で共通している。

 

 これらと大きく異なる安楽死の手段が「自殺幇助」だ。医師ではなく、患者=自殺(安楽死)志望者がみずからの手でみずからの命を終わらせる。これが行われているのは現在のところスイス一国だ。

 (※ただし、アメリカ・オレゴン州で認められている『尊厳死』は、呼称は違うものの実態は自殺幇助と同じとされている)

 

●満たすべき4つの条件

 

 スイスで自殺幇助を受けるには、それを管理運営する団体(いずれも中心メンバーは医療関係者)に会員登録する必要がある。

 しかし会員になれば誰でもすぐに死ねるわけではない。国内に3つある団体はそれぞれ少しずつ規約が違うが、審査の基準――幇助を許可される条件は同じで厳正に守られている。(これらの条件は積極的安楽死の場合も共通している)。

 

1.耐えられない痛みがある。

2.回復の見込みがない

3.明確な意思表示ができる。

4.治療の代替手段がない。

 

 この4つの条件が認められて初めて自殺幇助が行われるのだ。

 

●どのように幇助するのか?

 

 幇助のやり方はおもに2通りあり、一つは用意された致死薬をコップで飲み干す方法。

 もう一つは点滴で血液内に注入する方法。後者の場合はストッパーをかけておき、患者が自分でそれを開封する。

 いずれもその団体に所属する医師の立会いのもとに実行される。

 

 ちなみにオランダなどにおける積極的安楽死では医師が致死薬を注射する方法が一般的だが、スイスではこれを行うと犯罪になる。

 

●外国人の需要と日本人の登録

 

 スイス連邦統計局のデータ (複数の幇助団体から集めた推定値) によれば幇助数は2015年で1014人。2000年にはまだ100人にも満たなかったので、その増加率の高さがわかる。しかもこの数値は国内在住のスイス人のみが対象だ。

 

 ヨーロッパ大陸の中央に位置し、WHO世界保健機関や国連欧州本部など、さまざまな国際機関の本部が置かれたスイスは昔から外国人の行き来が非常に多い国だ。

 

 そうした背景もあり、3団体のうち2団体は外国人に対しても門戸を開いている。少なくとも表立って安楽死(自殺幇助)の措置を受けられるのは、世界で唯一スイスだけなのだ。

 

 ある団体では会員の4分の3を外国人が占め、世界各国から自殺幇助の申請に訪れると言う。その審査はスイス人以上に厳しく、自国の医療機関での診断書をはじめ、精密で膨大な書類の提出が求められる。

 また現地の医師とスムーズにコミュニケーションできるだけの語学力も必要とされる。

 

 登録者の中には日本人の会員も相当数いるようだが、そのうち何人が実際に自殺幇助を申請し、何人が認められて死んだのかは公表されていない。

 

●グローバル化・高齢化の中で

 

 欧米では1970年代から安楽死について活発に議論が交わされ、一部の国では法整備が進められた。

 スイスでは自殺幇助という形でそれが発展してきたわけだが、近年、幇助団体の外国人受け入れに関する情報が世界に行きわたり、スイスへの自殺ツアーが組まれているというニュースまで報じられるようになってきた。

 こうした現象を見て、安楽死に反対する組織・人々がスイスの各団体に厳しい視線を向け始めている。

 

 安楽死の容認・合法化は今や世界的な潮流だが、その是非をめぐっては半世紀を経て再び大きな論争を巻き起こしそうだ。

 今や日本もその枠外ではない。

 欧米各国の動向は、日本人の死に対する考え方に少なからぬ影響を及ぼすに違いない。

 


12月のCanon

 

 クリスマスまでもうあと1週間、今年もあと半月しかない。

 クリスマスも年末年始もまだ全然準備してない。

 掃除もやってない。

 ので、まったくそういうモードに入れずにいた。

 

 なので例年ごとくGeorge Winstonの「DECEMBER」を聴く。

 頭の中に果てしない雪原が広がる。

 雪うさぎがピョンピョンと跳ねてゆく。

 

 「聖夜」「ジングルベル」「もろびとこぞりて」のような、子供の頃からおなじみのクラシックに加え、この40年余り、日本でも海外でもいろんなクリスマスソングが続々と出てヒットした。

 

 僕もさんざん聴いてきたが、なんだかもうお腹いっぱいになってしまって、ここ数年はおなじみのクラシックとこのアルバムしか聴かなくなった。

 

「Summer」や「Autumn」もいいけど、Winstonはやっぱりこの「DECEMBER」だ。

 

 集中してイメージを楽しみながら聴くこともあるし、仕事中のBGMとしても適しているし、もちろん季節の気分も堪能できる。一石三鳥。

 

 中でも「Canon」はほとんどループ状態で聴くことが多い。

 Winstonの演奏に初めて出会って、かれこれ35年たつが、いまだこのピアノ一台で紡ぎ出すCanonをしのぐCanonは聴いていない。

 

 なんとか来週には実生活も年末年始モードに入れたいのだけど。

 


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「酒、タバコ、やめて100まで生きたバカ」の最後の晩餐は、雪のように真っ白なごはん

 

   人生は思いのほか短い。

 折り返し地点を過ぎると、そのスピードは倍速になる。

 やはり40歳あたりがミッドポイントで、自分のことを振り返ると「健やかに中年」と、年賀状に大きく書いて宣言したことを憶えている。

 そして、その宣言とともに25年間吸っていたタバコをやめた。

 

 「酒、タバコ、やめて100まで生きたバカ」を目指して人生の復路を走りながら頭に浮かぶのは、ゴールする前に何を食べるのか――最後の食事は何がいいのかということである。

 

 これまでおかずのことばかり考えていたが、先日、いや、これはおかずではないな、ということに気が付いた。

 

 お米のごはんだ。

 雪のように真っ白な、炊きたてのホカホカの極上のごはんだ。

 それだけ。

 味噌汁くらいはついていてもいい。

 またはバリエーションとして、そのごはんで握ったおにぎりがあってもいい。

 

 それだけだ。

 そう思いつくと、これぞ日本人の正しい「最後の晩餐」だと疑えなくなってきた。

 

 まぁ、食い物に正しいも間違ってるもないんだけど。

 

 人間は真っ白で生まれて、真っ白で帰っていく。

 これは美しい。

 

 でも本当にそうなるかどうかは、タイムマシンで、未来の、死ぬ間際の自分に会って聞いてみないとわからない。

 

 ちなみに酒はまだやめてないし、100まで生きるかどうかも当然わからない。

 


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NOELちゃん

 

 むかし勤めていたロンドンのレストランスタッフの同僚にNoelというフランス人の女性がいた。

 Noelとはフランス語でクリスマスのこと。

 つまり「クリスマスちゃん」である。

 

 普段はElisabethと名乗っていたので、僕らもそう呼んでいたのだが、何かのきっかけで本名がわかった。

 べつにからかうつもりもなく、本名を呼ぶんでみたら「やめてー」と、嫌がった。

 日本でいうキラキラネームに該当するのだろうか。

 

 彼女は僕より少しだけ年上だったので、たぶん当時26~7歳だったと思う。

 子供の頃やティーンエージャーの頃ならともかく、大人になって「クリスマスちゃん」なんて呼ばれるのは恥ずかしかったのかもしれない。

 

 彼女には同じレストランの調理助手のバイトをやっていたニキ君という日本人男性と恋仲で、僕が来て一年しないうちに、二人でフランスで暮らすと言ってやめて行った。その後のことはわからない。

 

 そんなに美人というわけではなかったけど、彼女のことをよく覚えているのはその声だ。

 フランス語なまりの英語ってこんなに素敵なのかと思った。

 日常会話がすごくロマンチックなものに聞こえるのだ。

 

 フランス人の話す英語はみんなこんな感じなのかなと思ったけど、その後にもフランス人の女性が入ったが、そっちの彼女のは全然ちがっていた。

 Noelの話す英語は特別にすばらしかったのかも知れない。

 フランス万歳。

 


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トキワ荘復元に関するあれこれ

 

 トキワ荘通りにある南長崎花咲公園。

 そこに2020年3月に「マンガの聖地としまミュージアム(仮称)」として復元されるトキワ荘。

 その費用の一部をクラウドファンディング、つまり寄付で賄うと言う。

 当初は、総費用9億4千万円のうち1億円を、という算段だったそうだが、その人気は目を見張るものがあり、今年10月にはすでにその目標額の7割以上をクリア。

 「これはイケる」と思ったのか、豊島区は目標額を2億8千万円に上方修正したと言う。これだと総費用の4分の1を寄付で賄えることになる。

 

 まずここまではここまではいいことづくめ。

 着工は年明けからか。

 これからオープンまでは話題が絶えないだろう。、

 その日が来るまで、夢が実現するまでは、みんなドキドキワクワクするからね。

 

 問題はできた後だ。

 超情報化時代の今日、新たに生まれたコンテンツの情報はあっという間に消費される。それでなくても、トキワ荘のストーリーは、これまでもさんざん表舞台に上がり、かなり多くの人がもう知っている。

 建設の前から難くせをつけるようで申し訳ないが、賞味期限がそんなに長いとは思えない。

 

 完成~オープン予定の期日を見れば、東京五輪の開催時期に合わせていることは明らか。外国人のマンガ・アニメファンを取り込もうという思惑があるようで、実際、そういう広報も行っている、

 

 日本人のマンガ好きはトキワ荘に思い入れが深いかも知れないが、外国人はどうか?

失礼ながら、手塚治虫先生以外はそんなに海外にその名が轟いているとは思えない。

 この先生たちが遺したものがいかに偉大な功績かを理解してもらうには、相当な工夫が必要だ。

 

 また、その前に日本の若い世代がトキワ荘=マンガの聖地であることをどれだけ認識しているか? はなはだ疑問なのである。

 

 

 あと気になるのはこの公園のこと。

 代々木公園、井の頭公園、和田堀公園のような広い公園ではない。街中でよく見かける児童公園だ。

 今あるようなちょっとしたモニュメントなら問題ないだろうが、アパート一棟分だ。おそらくこの公園の大部分は潰れてしまうだろう。

 

 見たところ、この近辺では唯一の公園で、子供たちの遊び場、お年寄りの憩いの場になっている。

 みんながマンガファンでトキワ荘の価値を認めているわけじゃないので、なんでそんんなボロアパートのために大事な公園を潰すのか、納得できない人も多いだろう。

 

 どうやら豊島区が代替公園を作ると言うことで話は決着したらしいが、そこまでリスクを負って9億ものお金をかけるのだから、本当に意義あることをやらないと地域の人たちの不満はずっと残る。

 

 箱を作ってミュージアムとしてあれこれ展示しても、オープン時は賑やかだろうが、オリンピック・パラリンピックが終わる頃にはもう人は離れているだろう。

 

 最初からそれを覚悟して、飽きられたころに始まる企画――月並みなところではマンガ塾とか――をいくつも用意しておき、どう活用するのか、この地域の資産・トキワ荘のマンガ家たちの偉業が未来に繋がっていくのかを世の中に向かって考え、表現していかないとダメだろう。

 でなければ集まってくるのは、昭和レトロを愛する懐かし好きの年寄りばかり、ということになりかねない。

 楽しみにしているだけにちょっと心配。

 10年後・20年後を想像して、レジェンドの殿堂を築いてほしいなぁ。

 


マンガの聖地・トキワ荘通りを散策する

 

 以前も紹介したことがあるが、金剛院には「マンガ地蔵」が鎮座しており、マンガご朱印も発行している。もちろん、プロデューサー的センス抜群のご住職の発案だ。

 クリエイターのたまごたちがお参りするマンガ地蔵。その向いている方向は、かのトキワ荘のあった場所だ。

 

 手塚治虫をはじめ、赤塚不二夫、藤子不二雄の二人などがデビュー前から住み、石ノ森章太郎なども頻繁に訪れていたというトキワ荘は「マンガの聖地」と呼ばれ、その時代から半世紀を過ぎた今日、この地に人を呼び寄せる地域の財産になっている。、

 

 金剛院のある西武池袋線・椎名町から次の駅の東長崎、その間にある都営大江戸線の落合長崎駅の三角形の界隈には、各所にモニュメントが置かれ、マンガ地蔵も含め、「トキワ荘散策コース」が作られているのだ。

 

 その中心のトキワ荘通りからちょっと裏道に入ったところに跡地がある。トキワ荘は1982年に解体され、その跡地には現在、保険会社のビルが建っている。

 

 

 お休み処という場所もあって、小さなマンガギャラリーになっている。

 僕が入った先週の土曜は、この2階にトキワ荘仲間の紅一点、「ファイヤー!」「星のたてごと」の水野英子先生が来ていてサイン会をやっていた。

 

 それにしてもこのトキワ荘通り、夕方になろうかという時間に行ったせいか、なんだか「三丁目の夕日」を想起するレトロムードが満点。

 裏通りに入ると、ちょっと・・・というかかなりさびれた空き家などもあって、これもまぁレトロと言えばレトロだけど・・・という感じ。

 

 そしてこの通り沿いには南長崎花咲公園というのがあり、そこに2020年3月に「マンガの聖地としまミュージアム(仮称)」として、トキワ荘が復元される。

 まさしく日本のマンガ文化のジュラシックパーク誕生!

 ・・・と拍手したいところだが、ちょっとした懸念も。

 長くなりそうなので、その話はまた明日。

 


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悟りを開いてお寺で婚活

 金剛院では婚活専門会社とコラボでして、2ヵ月に3回くらいの割合で婚活パーティーをやっているという。

 最近は婚活もただ飲み食いするだけの会では人が集まらない。

 ○○×婚活で、共通の趣味・指向性を持つ人同士なら話も合いやすいと言うのだ。

 

 というわけで御住職の発想で登場したお寺で婚活。略してテラコン。

 「悟り婚」という名称も使っていた。

 サトリコンとは、なんだかすごい婚活に思える。

 

 婚活パーティーにはナンパ目的の変な奴も構混じって来るらしいが、さすがに仏様のおひざ元であるお寺には仏罰を恐れてか、そういう奴は来ないそうだ。

 

 この日参加したのは220代後半から40代前半の男性15人、女性14人。

 受付スタッフに聞いてみると、テラコンには時間をちゃんと守り、対応も7きちんとしている、いわば紳士・淑女が多いようだ。

 個人情報保護のため、参加者の職業は不明だが、明らかにお坊さんという人も二人いた。

 

 会場は約50畳の広さの客殿。

 廊下からは小さいながら日本庭園や石庭も見え、ちょっとした京都気分。

 ここに集まって最初に写仏をやった。

 

 テラコンにも説法婚活、瞑想婚活、念誦づくり婚活などいろいろ細かいカテゴリーがあるそうだが、この日は「写仏婚活」。

 全員で最初30分弱の時間、仏様の絵を描いて(といっても下絵をなぞるだけ)気持ちを落ち着けるのだ。

 

 と、緊張気味だった室内の空気が不思議とリラックスしたものに変わってきた。さすが寺力(じりき)はすごい。

 その後、閑静な雰囲気の客殿内には賑やかな話し声が溢れ、トークタイム、カップリングと続いた。

 

 御住職に聞いた話で面白かったのが、この写仏について、

 「バリバリ仕事をやっている今時のビジネスマンは、こういうものをやらせてもすごく速い。理解度も抜群で、まるで仕事のようにスピーディーにこなし、成果を上げる。

そういうものとはは違った世界、異なる価値観が持てなくなっている。そういう人にこそちゃんとじっくりやってもらい、見えない大切なものに気付いてもらいたい。」

 

 仕事の領域で評価されても、それはそのまま人生の幸福にはつながらないと言うことか。うーん、さすがサトリコンは奥が深い。

 


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魔除け・招福の猪目と寺力本願

昨日はお寺で婚活パーティーををやるというので出向いてみた。

 もちろん参加者としてでなく取材です。

 境内に入ると、おお、さすが婚活。

 落ち葉でハートマークを作るというイキな演出。

 

 ではなくて、じつはこれは「猪目(いのめ)」という日本古来の文様で、仏教と関係が深く、寺院魔よけや招福のしるしとして用いられているとのこと。

 べつに来たる年が亥年だから・・・・ということとは関係ありません。

 

 猪目とはそのまんま「猪の目」のことだけど、 実物のイノシシの写真を見てみたが、ハート形の目はしていない。そういうイノシシがいたのかなぁ。

 

 それにしても虎の目でも竜の目でもなく、なんで猪の目が魔よけなのかと一瞬訝ったけど、ジブリ映画「もののけ姫」で乙事主(オッコトヌシ)という猪の神様が出てきたことを思い出した。

 田畑を荒らしたり、街中に下りてきて騒ぎを起こす嫌われ者の猪にも聖なる神の一面があるということか。

 

 ん?いや、ここは神社でなくてお寺・・・ややこしくなるのでこれについてはまた後日研究。

 

 

 何でこのお寺に来たかというと、「世界のEnding Watch」に続いて月刊仏事で2つめの連載を持つことになった。

 お寺に関する取材記事が欲しいということで「寺力本願(じりきほんがん)」という企画を出したらGOとなった。

 

 内容はお寺の本業以外の、いわゆるCSR活動(社会貢献)がテーマ。

 ま、お寺は営利企業ではないので、CSRはむしろ本業なのかも知れませんが。

 

 以前にも増して宗教離れが進み、今や葬儀にお坊さんのお経は要らない、戒名もいらない、当然お布施も出さない、お墓も建てない、」面倒見れないからやめちゃうetc.

 

 というわけで、いまやお寺やお坊さんは社会における存在意義を問われている。

 

 けれどもそうした状況に危機感を覚えて、お寺を積極的に開放し、壇家以外の人にも説法をしたり、寺子屋を設けたり、モダンなカフェやギャラリーを開いたり、イベントをやったりして、より多くの人たちに親しみを持ってもらおうとがんばっでいるご住職、地域のカルチャーステーションとして機能しているお寺もたくさんある。

 

 この金剛院(正式には蓮華山 金剛院 沸性寺)は、そうした近年のCSR寺院(とあえて言ってみる)の草分け的存在で、現在のご住職が30年前から地域の人たちに活用してもらおうと様々な取り組みを行っている。

 

 4年前に椎名町の駅の改築に伴って駅前が再開発され、敷地内も大幅に整備。イベント用の多目的スペースやお洒落なカフェもつくられ、とてもきれいで居心地の良いお寺になった。

 

 最近の若い衆は物質的な世界よりも、目に見えない世界に関心を抱く人が多く、このお寺における婚活は結構な人気なのだそうである。

 

 というわけで取材に来たのだが、前置きが長くなってしまったので、そのエピソードはまだ明日。

 


イノシシの冒険

 

  あの国境を越えれば、おいしい作物食い放題のパラダイスが待っている。

 

 情報化社会は人間の専売特許ではない。

 森の仲間たちの間でも、ここ何世代かにわたって「成功法則」の情報が伝えられシェアされている。

 サル、キツネ、タヌキ、クマ、イタチ、ハクビシン・・・もちろんイノシシにも。

 

 生き延びて成功したいのなら人間の生活圏とのボーダーを突破せよ。

 勇気を出せ、 だいじょうぶだ。人間は思ったほど怖くない。

 だが、ワナには気を付けろ。餌があっても近づくな。

 

 来年の干支として脚光を浴びる今日この頃だが、農業の取材をしていると、いまやイノシシは田畑を荒らすにっくき害獣ワーストワンに挙げられる。

 

 代々伝えられてきた無数の情報を租借し、知恵を付けた新世代のイノシシたちは、まるで移民のように人間の生活圏に潜入し、自分たちの居所を作ろうとしている。

 彼らの何頭かは冒険心に駆られ、命を賭けてフロンティアを切り開こうとしているようだ。

 


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未来が来ても嬉しくないのさ、君と一緒でなけりゃ

 

 久しぶりに佐野元春を聴いてみたら、すごくよかった。
 「アンジェリーナ」や「SOMEDAY」や「約束の橋」などの懐メロもいいけど、最近のはもっといい。ルックスもグレイヘアが似合って若い頃よりかっこよくなった。
 何よりも歌詞が聴かせる。「人間なんてみんな馬鹿さ」「未来が来ても嬉しくないのさ、君と一緒でなけりゃ」・・・大人の想像力を刺激する歌だ。「SOMEDAY」からここまでたどり着いたのか、という感じがする。

 アルバムも聴いてみようかなと思う。

 


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相変わらず幻想・妄想だらけだけど脳は完治

 

 3か月ぶりに頭のCT検査。

 救急車で運ばれて緊急入院したのは猛暑の真っ盛りでしたが、いまや病院の周囲も晩秋~初冬の風情です。

 

 自転車事故に端を発した硬膜下出血ですが、完治してますと言われてホっと安堵しました。

 何といっても人生初の手術・入院だったので、個人的にはやっぱり今年のトップニュースです。

 

 今日もまた中で働いている人たちや、出入りする患者さんたちを観察してて感じましたが、病院はやっぱりシャバとは違う異世界。

 なんだか宇宙旅行の途中で違う惑星に立ち寄ったような気分になります。

 そしてわりかし居心地がいい。

 

 学校の校風、会社の社風と同様、それぞれの病院で院風というのもあるのでしょう。

 この三宿病院の院風は割と自分に合っていたのかもな、と思います。

 院風の合わない病院にいると、病気の治りが遅くなりそうです。

 僕の場合、幸運にもこの三宿病院の院風はけっこう自分に合っていたようです。

 

 といっても、また来たいわけじゃないけどね。

 できれば今年のが人生唯一の手術・入院であってほしいと思います。

 

 というわけで一件落着。

 


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「人間を大事にしています」ってどういうこと?

   

 12月になって新しい年への期待が高まる。

 しかも来年は天皇が交替し、新しい元号になる。

 昭和から平成に変わった時は、確かに変わった。

 世の中の空気の流れが変わったのだ。

 なのでそれを知っている中年以上の人たちは、何とか空気を読もうと思って躍起になっている。

 東京オリンピック・パラリンピックも、大阪万博もその流れの中で開催される。

 昭和に行われた時とは大きな隔たりがあることを誰もが感じ取るだろう。

 

 新しい天皇の新しい元号の時代が20年になるのか30年になるのか、それ以上の長さになるのかはわからないが、一つ言えることは「人間とは何か?」を考える時代になるということである。

 

 「サピエンス全史」や「ホモデウス」があれだけ読まれるのは、すでにそういう時代のサインだ。

 

 一部の学者や研究者などに限らない。

 女も男も、子どもも大人も年寄りも、貧乏人も金持ちも、善人も悪人も、偉い人もそうでない人も、みんながみんな、人類史的スケールで問いかける。

 

 「人間ってなんだろう?」

 

 すごく漠然としている。

 けれども力を持つ者はその漠然とした問いかけに答えることが求められるのだ。

 

 かつて人類が積み重ねてきた過去のデータが膨れ上がり、それを使ってAIやロボットが社会で大手を振るうようになった時、個人個人のアイデンティティの以前にある、人類のアイデンティティが脅かされる。

 

 そうなる過程で国も企業も口をそろえて言うようになるだろう。

 「我が国は人間を大事にしています」

 「わが社は人間を大事にしています」

 

 もちろん今までも「とりあえずそう言っときゃOK」という感じで、みんな言っていた。でも。これからはそれでOKではならない。

 

 それって、どういうこと?

 大事にしてるって、どう大事にしてるの?

 コストカットのために従業員のクビを切ったりしないの?

 派遣やバイトや外国人は差別されないの?

 

 つっこみどころは満載だ。

 国も企業もそれに応え、こんなに人間を大事にしているんです、ということを世の中の皆さんに納得して貰わないことには経営が立ち行かなくなる。

 

 かもしれない。

 

 これが空想か、幻想か、妄想かは、すでに来年の今頃にはその片鱗ぐらいはわかっているだろう。

 


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子どもと大人の狭間で人間は自分の一生を俯瞰するのも知れない

 

 今回書いたドラマは、葬式めぐりをしたり孤独死しそうな老人を観に行く中学生の女の子を主人公にした。

 「死に興味を抱く子ども」と聞くと、びびっちゃう大人は多いかも知れない。

 でもこれは性に興味を抱くのと同じくらい自然なことだと思う。

 

 子どもは永遠の時間を生きている。

 

 死は自分の時間の終わりであり、主観的な世界の終わりである。

 子どもはそんな終わりのあることなんて考えない。

 ただ、得体のしれない恐怖心は持っている。

 地底か、海底か、宇宙か、暗黒の中に吸い込まれていくような、そうした死につながる恐怖の瞬間があることは直観的に知っている。

 

 物語を読むなり聞くなり、ごっこ遊びをするなりして、徐々に「死とは何か」は子ど

 

もの心に取り込まれていくのだと思うが、死の概念が完全に人間の心に定着するのは、やはり生殖できる体に変わる時期なのだろう。

 

 子どもが大人になるというのは、性を含めた愛を知ること、そして死を知ることだと思う。

 その時――思春期のほんの一時期、人間は自分が生まれてから老いて死ぬまでを一挙に俯瞰できてしまうのかも知れない。

 ただ、そんなことは、ほとんどの人はすぐに忘れてしまうのだけど。

 

 主人公の女の子は「いつかみんな故郷の星に帰るのにどうして地球にいるんだろう? ここでわたしたちは何をして、どうなろうとしているんだろう?」というセリフを言った。

 

 どうせ死ぬのになんで生きているのか?

 自分自身も抱えていた疑問が遠い昔からよみがえってきた。

 書いていると、いろいろなことが起こる。

 


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みきなつみの「ボクらの叫び」がカッコいくてかわいい

 

こんなカッコいい歌を、こんな可愛い子が歌ってるなんて昨日まで知らなかった。

後半の歌詞の「空想、幻想、妄想」の3タテには涙がキレまくる。

いつまでもたってもこういう曲が好きだ。たぶん死ぬまで。

 


星のおじいさま 完成

 

 今年もコンペにラジオドラマ脚本の新作を送った。

 「星のおじいさま」。

 毎度のことながら本当に最後まで出来るのか、ハラハラしたが、かわいい二人の娘が跳ねてくれたおかげで楽しくできた。

 リライトも十分できた。

 ジュンちゃん、マナちゃん、ありがとう。

 評価はどうだか分からないけど、例によってとりあえず自己満足。

 というわけで、以下あらすじ。

 

 13歳。子供から大人になろうとしている中1女子ジュンの心を占めるのは「地球に生まれてきて幸運だったか?」という自身への問いかけ。そこで彼女は小学校時代からの親友マナとともに葬式を巡り「故郷の星へ帰っていく人たち」を見て回っている。

 

 そんなジュンは偶然、終活サポート業の中塚(43)と出会い、彼を介して、ひとり暮らしでハーモニカ吹きの老人・和泉(73)を知る。孤独死予備軍の和泉に興味を引かれたジュンは「星のおじいさま」というあだ名をつけ音信不通の父や死んだ祖父のイメージを重ね合わせる。そして家に出入りするようになり、次第に親しさを深めていく。

 

 その一方で彼女はマナとのセクシャルな交遊をこれ以上続けるのをやめようとしていた。それに抵抗し嫉妬したマナは、ジュンと和泉が不純な関係を結んでいるというスキャンダラスな噂を流し、会えないようにする。

 

 しかしそれを契機に二人は互いを必要としていることを強く感じ、好奇の目に晒される怖れのない競馬場で再会。レースに託して人生を賭けた勝負を敢行する。ジュンの唱えるまじないによって和泉は勝利し大穴を当てるが、その直後、心臓発作を起こして倒れる。

 

 和泉が運び込まれた病院に現われたのは、30年前に別れた息子の小峰仁(43)。彼はジュンと中塚が信じていた、和泉の家族や仕事についてのストーリーがすべてウソだったと明かす。それでもジュンは和泉を救うために、再びまじないの言葉を唱える。

 

 その効力か、奇跡的な回復を果たした和泉は退院し、ハーモニカ吹きとして生きると決める。ジュンはそんな和泉に対し、大人になったらまた会いに来ると言って別れる。

 

 子供だからこそ持ち得た力。それを使い果たしたことに気づいたジュンは、ギターを練習し始め、マナと今しばらく甘え合いながら新しい人生の旅へ出る支度を始める。

 


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競馬場への回帰

 

 わけあって府中の東京競馬場へ単独デイトリップ。

 息子がチビの頃、よく遊ばせに来たが、それ以来だから15年ぶりくらいだろうか。

 

 紅葉も美しいこの季節、めっちゃきれいになっていてびっくりした。

 しかも今日は東京の今年最後の開催日で、G1のジャパンカップが開かれるとあって、ムードも華やかだ。

 

 赤ペン片手に競馬新聞を握りしめた、昔ながらの怪しげなおっさんも、もちろんたくさんいるのだが、家族連れ、若い男女のグループ、夫婦、ゲイっぽいカップル、お父さんと娘、単独のおっさん、おばさん、じいちゃん、ばあちゃんも。今の社会の縮図のようだ。

 

 

 今回、特に驚いたのは「ビギナーズセミナー」なるものが1日中開かれていて馬券の買い方や競馬新聞の読み方などを無料でレクチャーしてくれる。

 

 僕も参加してみた。

 講師は埼玉県越谷にお住いのJRAレディ(それとも外注だろうか?)。

 30分弱なのでイラスト満載のテキストを渡され、実際にマークシートに記入するまで基礎的なことを教えてくれるが、あとは自分で勉強してくださいと言う感じ。ま、30分弱の時間ではしかたないけど。

 でも確かに初めてでも、ここで話を聞けばとりあえず馬券は買える。

 

 

 ジャパンカップって昔は半分くらいは外国馬が出走していたと記憶していたが、最近は日本馬ばっかりで、外国馬はたったの二頭。

 今年は三歳牝馬のアーモンドアイが圧倒的な一番人気だったので、彼女には手を出さないことにした。

 

 が、定評通りアイちゃんは強かった。並みいるオスどもをぶっちぎり、最後は華麗な差し足で優勝。

 僕の買ったキセキとシュヴァルグランは残念ながら2着と4着。いいセンいってたんだけどなぁ~。

 というわけで久しぶりに3レースやってみましたが全敗でした。

 

 でも競馬場は面白い。

 入場料200円払って、あとは100円単位でやっていれば一日遊べるから、へたな遊園地よりお金もかからない。(と言いながら、だんだんエスカレートしちゃうんだけどね)

 

 うーん、競馬熱再燃。いろいろ勉強していこうと思った。

 


Queenの思い出:1974~87年

 

 今日はQueenのフレディ・マーキュリーの命日だったらしい。

 そういえばこの間までYou Tubeにアクセスするたびに映画の予告編が出てきたが、この週末あたりから公開しているみたいですね。

 ファンは嬉しいでしょう。

 

 僕がロックを聴き始めた頃、ロック痛の先輩がいて、彼とその仲間がよく僕に向って「Queenみたいなのは女・子供が聴くバンドだ。あんなの聴いてちゃ男の名折れだぞ」とかなんとか言ってた(当時、その人たちは中学生です)。

 

 でも僕は初期の頃のQueenが割と好きだったで、そんな意見はシカトしてレコード買って、75年の来日公演の時も愛知県体育館まで観に行った(当時、名古屋在住)。

 

 初めて買った「MUSIC LIFE」(当時の音楽雑誌)の表紙がQueenだった。

 ちなみにこの少し後の号に載っていた1975年の人気バンド投票の結果は、1位がEmerson,Lake&Palmer、2位がLed Zeppelin、3位がQueen、4位がYes、5位がDeep Purpleだった。(たぶん15位くらいまで憶えている)

 

 僕がQueenを好きだったのは「ボヘミアン・ラプソディ」が入っている4枚目の「オペラ座の夜」までで、その後はだんだん聴く気がなくなった。

 世界的な人気が出たのはその後からだと思うが、人気の秘密はフレディ・マーキュリーのパフォーマンスがお笑いのネタになったのが大きいと思っている。

 

 マイケル・ジャクソンなどもそうだけど、音楽・アーティストとして素晴らしい一方で、モノマネができてお笑いネタにできるというのが、1980年代のスーパースターの条件だったような気がする。

 

 1985~87年、ロンドンの日本食レストランに勤めていた時、一度だけメンバーが揃ってきたことがある(たしか87年の春先)。

 ロジャー・テイラー、ブライアン・メイ、ジョン・ディーコンと来て、最後にフレディも来るのか?と思ってたら彼だけ来なかった。

 今思えば、当時、すでにAIDSとの闘病生活が始まっていたんですね。

 

 うーん、全然見る気なかったけど、映画観とこかと思い始めた。

 


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グローバル化時代の英雄、故郷に錦を飾る(はずだったけど)

 

 「私が倒産寸前だったあの会社を立て直したからこそ、日本で電気自動車や自動運転の技術が発展したのです」

 

 2016年8月5日、オリンピックの聖火を掲げて、リオデジャネイロのコパカバーナ海岸沿いを走るカルロス・ゴーン氏の脳裏には、人生第3幕のシナリオが渦巻いていた。

 そのオープニングを飾るのは、ブラジル大統領選の立候補演説。

 

 2022年までルノー・日産・三菱自動車のトップを務め、日産と三菱をルノー化して筆頭株主のフランス政府に恩を売って後ろ盾につければ、勝算は十分だ。

 

 レバノンで青春時代を送り、フランスでキャリアを積み、日本でついにトップの座、さらにKINGの座に着いた。

 誰もが彼をグローバル化社会の、経済産業分野の英雄と呼ぶ。

 その英雄が地球を一周して生まれ故郷の南米大陸に帰ってきた。

 そしてここが人生の終着点、集大成の地だ。

 

 「私が当選した暁には、必ずやこの国を世界の先進国と肩を並べる経済大国に育て上げます。この国の民衆にはそれができる。

 やっちゃえブラジル。Yes、We Can!」

 

 しかし残念ながらここまで書き上げたシナリオの草稿はもう使えないだろう。

 せっかくブラジルにもベイルートにも家を買ったのに。

 ベルサイユ宮殿で結婚式を挙げて箔も付けたのに。

 

 この問題はゴーン氏個人のストーリーにとどまらず、ルノー対日産、さらにはフランス政府対日本政府という、まさしくグローバルなストーリーに発展しそうだ。

 


Moher&Daugthter:フロリダ・プロジェクト&レディ・バード

 

 高田馬場の早稲田松竹に映画を観に行った。

 「フロリダ・プロジェクト」と「レディ・バード」の2本立て。

 この映画館はいつもテーマを設けて常に2本立てで上映している。

 今回は「Moher&Daugthter 大切な時間を過ごしたあの場所」というテーマだ。

  フロリダ・プロジェクトは息子のおススメ作品の一つ。

 最近の新しい映画や小説や漫画の情報は息子頼みだ。

 

 舞台はディズニーワールド付近の安モーテル地域。

 真っ青な空のもと、観光客をターゲットに、極彩色のフェイク感たっぷりのモーテルやギフトショップや飲食店が立ち並ぶ。

 そのモーテルの一つはシングルマザーらの住処になっていて、主人公の母娘もそこでひと夏を暮らしている。

 

 6歳の娘のワルガキぶり、その母親のBitchぶりがすごいパンチ力だ。

 

 見た目30出たとこのこのかあちゃんは、実はかあちゃんじゃなくて、15歳で妊娠・出産しちゃった娘の子を引き取ったのだという。

 つまりこの母娘は、ホントはばあちゃんと孫娘というわけだ。

 

 いわゆる底辺に生きる人たちを子供の目線から描いており、ちょっとファンタジックでコミカルな世界が広がる。

 その中でリアル感を発散しているのがモーテルの管理人のおじさん。

 このろくでもない母娘に手を焼きながらも、観ていて泣けるほど優しく暖かくてシブくてカッコいい。思いっきり感情移入してしまった。

 

 最後の方になんと本物のディズニーワールドが現れるのだが、このラストシーンはめちゃくちゃ斬新だ。

 

 

 「レディ・バード」はカリフォルニア州サクラメントの高校からニューヨークの大学に入学する女の子の青春&ファミリードラマ。

 

 サクラメントというのは行ったことないけど、この映画で見る限り、田舎町といえどもそこそこ豊かで、余計な夢や野望など抱かず、適当に周りと合わせていればぬくぬく暮らせるような街。

 日本でいえば、昔の名古屋みたいなところかなぁ。

 

 主人公の自称レディ・バードはそこから飛び立ちたいと願って母親と衝突するのだけど、これはこの子どもと母親・父親の両方の気持ちになれて面白かった。

 齢を取ると、こうした青春&ファミリードラマは二重に楽しめる。

 

 

 早稲田松竹は昔ながらの面影を残す、好きな映画館の一つだ。

 古い体質なのかも知れないけど、映画は基本的に家では見ないので、こうした街の名画座があるのはとてもありがたいし、がんばってほしい。

 


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外国人労働者とロボットと徒弟制度

 「

 もうすぐクリスマスだね」「あといくつねたらお正月だね」と言う人はいっぱいいるけど、「いよいよ勤労感謝の日ですね」という人はあまりいない。

 

 だからあえて言ってみよう。

 いよいよ勤労感謝の日ですね。

 勤労感謝の日と言えば、外国人労働者受け入れ問題ですね。

 

 日本の外国人労働者に対する扱いは、基本的にこの20~30年変わってない気がする。

 最近特に思うのは、グローバル化がどうこうより、これはロボットまでの「つなぎ」なのかな、ということだ。

 

 日本の産業界(他の国も同様かとは思うが)、つまり労働力を必要としている職場は、本当はロボットを求めている。

 ロボットなら優秀で効率よく働けるし、低コストで済むし、人権がどうの保険がこうのなんて面倒くさいことも言わない。

 ロボットならスムーズに仕事がはかどって、使う側はストレスが低減できる。

 

 ぶっちゃけ、外国人労働者はそれまでのつなぎみたいな意識なのではないか。

 欲しいのは「労働力」であって、人間ではないのだから。

 

 ついでに言うと「実習生」という言葉からは日本に根付いている「徒弟制度」のニュアンスがある。

 徒弟は仕事を教えてもらう立場にある「半人前」の人間なので、給料も半分でガマンすべき、掃除も雑用もすべて修行にコミコミだよ、というわけだ。

 

 日本人の多く――少なくとも、僕も含めて現在の40代以上のほとんどは、この長らく続いてきた考え方に洗脳されているので「おまえは半人前だから「給料も少ないよ」と言われたら容易に納得してしまうだろう。

 

 徒弟制度の在り方は日本の伝統文化の一つと言って過言ではない。

 基本的には職人や芸事の世界での習慣だったが、サラリーマン社会にも広く普及してきたと感じる。

 

 そういった習慣・文化は雇う側だけが守ってきたわけではない。

 同じ雇われる側も「なんで先輩でスキルアップしているオレと、新入りの何もできないあいつが同じ(あるいは大差ない)給料なんだ」とツッコミを入れる。

 そういうこともあって雇う側は素直に徒弟制度を受け入れてしまう。

 仕事がろくにできないやつにまともな給料は払えない。

 人権だの保険だのプライベートがどうのこうの言う奴なんかいらない。

 でも人出不足だから忙しい間だけ働いていけ―― それが雇う側のスタンスなのだ。 

 しかし、日本人でも若い連中はこれを「搾取」と呼んで拒否し始めている。

 徒弟制度は、いつか自分も一人前になって独立できるという夢と希望と、師匠である店とか人とか会社がそれを援助してくれるという温かい心の絆、信頼関係があってやっと成り立っていた。

 だから働く人たちは厳しい仕打ち、理不尽な扱いにも耐えられた。

 少なくともそれが「搾取」だとは露ほども思わなかった。

 ま、いわば宗教みたいなもので、信じる者は救われたのである。

 

 成長の時代をとうに過ぎて、そうした夢も希望も信頼関係も失われ、経済効率オンリー、ロボット求むのメンタリティになった現代にはもう通用しないのではないだろうか。日本の文化を理解できない外国人にはなおさらだ。

 

 ギリシャ時代、かの国では労働とは奴隷がすることで、人間の仕事と見なされていなかった。

 人間とは労働のために動かすことなく、政治や社会や芸術について考える人たちのことだった。

 日本を含め先進国の人間のメンタリティはだんだんそこに近づいているのではないかという気がする。

 


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「ぼく」という一人称の女が気にニャってる  

 

 10代から20代の前半くらい、自分のことを「ぼく」という女がチラホラいた。

 べつに性同一障害とか、そういうことではない。

 「変身願望」とか「ほんとは男の子になりたかった」とか、心理学的にいろいろありそうだが、少なくとも表面的には皆、その一人称以外はいたってフツーで、見た目も可愛く、頭脳も明晰そうだったと記憶している。

 

 「リボンの騎士」や「ベルサイユのばら」など、宝塚歌劇系の影響が強かったからだろうか?

 

 そういえばあの時代(1970~80年代初めごろ)、一人称に「ぼく」を用いて男の立ち場に立って歌う女性歌手が多かったと思う。

 

 代表的なのはイルカの「なごり雪」か。

 あれはもともとかぐや姫の伊勢正三の曲だけど、後にイルカの旦那になるプロデューサーが彼女に歌わせてくれと直談判したらしい。

 それがイルカのキャラクターとマッチして大ヒットし、後世に残る名曲となった。

 今年亡くなった森田童子の歌もほとんどが「ぼく」の一人称だった。

 

 あの頃の流行だったかもしれないけど、少なくとも歌の政界では今でもAKBなどのアイドルが「ボク」「キミ」っていう呼称を使っている。

 

 そこで気になってネットで調べてみたら、「ボクっ娘」とか「ボク少女」とかのカテゴリーがあるという。

 

 これはマンガ・アニメ・ゲーム等のサブカルチャーの世界で、女の子キャラクターがそれぞれの個性を立たせるためにそういう、通常は男が使う一人称を用いることがままあるようだ。

 

 あくまでイメージだけど、確かに萌えキャラで「ぼく」と言っている娘はたくさんいそうな気がする。

 

 歌にしてもサブカルにしてもバーチャルな世界でそういうキャラが重宝され、活躍するのはわかるけど、現実的にはどうなのか?

 

 やっぱり気になって現役若者の息子に「おまえの中高あたりの同級生の女の子で自分のことをボクっていう子いた?」と聞いたら、全然いなかったという返事。

 

 バーチャルで増殖している分、リアルでは絶滅危惧種になっているのか?

 どうでもいいことなんだけど、気になり始めるととことん気になって、仕事にニャラならなくなってしまったので一筆。

 


恐竜の唐揚げ

 

 映画「ジュラシックパーク」では人間が肉食恐竜のチラノサウルスやヴェロキラプトルに襲われ食われてしまうが、人間は日常的に恐竜を唐揚げや鍋物や焼き竜などにして食っている。

 そう、恐竜とはニワトリのことだ。

 

 近年はニワトリが恐竜の末裔だという説がメジャーとなり、実際にアメリカやチリの大学の研究者の間で「逆進化」の研究がされているらしい。

 

 これはニワトリを遺伝的に操作して、その遠い祖先の隔世遺伝的特徴を取り戻させて、恐竜に似た生物をつくり出そうとする研究で、すでにその気になれば実現できる段階まで来ているようだ。

 

 ちょっとにわかには信じがたい話だが、すでに最初の「ジュラシックパーク」が作られた頃からこの分野の研究は進められていたらしい。

 先日はのクローン犬ビジネスの話をしたが、遺伝子工学の進歩は、まさに「事実は小説より奇なり」の領域に達している。

 

 そういえばこの春、マイナビ農業の仕事で都内のある牧場に行ったとき、割とでかい雄鶏が放し飼いにされていて、そいつがしつこく嘴で攻撃を仕掛けてきた。

 ジーパンをはいていたので特にけがなどはしなかったが、半ズボンだったらふくらはぎのあたりをガシガシやられ血だらけになっていた可能性もある。

 

 後から思い返すと、前夜の夕食に鶏の唐揚げを食べていた。

 ぬぬ、もしや仲間の敵討ち?

 

 だったのかどうかはともかく、軍鶏みたいなケンカ屋じゃなくても、ニワトリのオスはなかなか凶暴で好戦的だ。

 そしてよく見ると、たしかに恐竜に似ている。

 脚がもう何倍か太かったらますます似ている。

 まさに「チキノザウルス」だ。

 

 僕を含め現代人は自分で鶏押さえつけてシメるという経験がないので、わりと怖い。

 あいつらが恐竜だと思うともっと怖い。

 もう怖くてチキンは食べられない。

 ――というのは大うそで、今日のお昼も恐竜の照り焼きを食べた。

 

 にしても何らかのインセンティブが働いて倫理的問題が氷解すれば、そう遠くない将来、チキノザウルスが歩き回るジュラシックパークが生まれるかもしれない。

 


1111のおんな

 

 来年の課題として「1111のおんな」という話を書こうと思った。

 今日誕生日の友だちがいて、彼女にメッセージを送る時にふいに思いついたのだ。

 ただの思いつきでタイトルは決めたが、中身は何も考えてない。

 11月11日生まれの女の話か、1111年の話なのか、二進法のコンピュータの話なのか、明日なき世界の話なのか、全然わからない。

 これから育てる。こういうのはけっこう好きである。

 

 ちなみにうちの下の妹は11月1日生まれで1101のおんな、カミさんは1月11日生まれで0111のおんなだ。

 何だか女スパイ団のコードナンバーみたいだ。

 

 21世紀になってから9・11だの、3・11だのがあって、何となく11は悪運の数字っぽいイメージになってしまったが、人間の歴史は西暦から数えても2000年。2000年×1年365日、365通り×∞のいいこと・悪いことがある。

 

 来年の今頃は「1111のおんな」がきっと完成しているだろう。

 ひとつ仕事ができた。

 希望もなく絶望もなく、毎日ちょっとずつやっていこう。

 


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クローン犬ビジネス

 

 数日前だが、テレビでクローン犬の話題を採り上げていた。

 亡くなった愛犬のクローンを作ってよみがえらす。

 韓国の企業ですでにそのビジネスが始まっているというニュースだ。

 資本主義社会ではビジネスという名のもとでなら何でも起こり得る。

 

 最近はAIやロボットが話題に上って、クローン技術については一般的にはあまり表立つことは少なかった。

 が、もちろん時代とともに確実に進歩している。

 

 愛犬家の人たちにとって、ペットロスによる精神的ダメージは深刻だ。

 そうしたニーズに応じるこのビジネスは現在のところ、1頭につき日本円で1000万円の値段がついている。

 この値段だとさすがにかなりのセレブでなくては利用できない(ニュースではドバイからの注文が多いと言っていた)。

 しかし、それだけのお金を払ってでも可能なら愛犬を蘇らせたいと言う人が世界には確実に一定数いるのだ。

 

 さて、ここまで読んであなたはどういう感想を抱いているだろう?

 ぶっちゃけ、僕はやっぱりひどい悍ましさ・禍々しさを感じた。

 

 そうした反応を予想して、その韓国の企業のスタッフは「今は反対する人が多いでしょう」と答えていた。

 何でも新しいものに人々は拒否反応を起こす。

 テレビだってゲームだってパソコンだって最初は歓迎されたわけではなかった。

 しかし、いざそのメリットを知り、社会に浸透しだすと、そうした抵抗感はあっけなく消えていく。

 そしてもはや生活に仕事に、なくてはならないものになっている。

 

 AI・ロボットもその例に漏れないだろう。

 クローンもまた然り――というわけで、スタッフさんは自信満々だ。

 

 クローン犬が広く認知され、人間の社会生活に無害であれば、そして技術がさらに進化すれば、おそらく10年後には今の1000万円が100万円くらいにコモデティ化するのではないだろうか。

 これなら庶民でも頑張れば手の届く範囲だろう。

 愛犬のためなら100万円くらいは借金してでも、財産の一部を売ってでも割とすぐに作れる。

 そうしたお客さんが増えれば、企業の方はビジネスを拡大できる。

 

 最大のネックはもちろん倫理的問題だ。

 人間の場合は、かけがえのない個人の複製を作れば、人間の尊厳を侵す行為として大論争になるが(でも実際にすでにクローン人間は存在しているらしい)、動物の場合はどうなのだろう?

 

 犬の尊厳、猫の尊厳、フェレットの尊厳などは、守られるべきものとして存在するのか?

 はたまたこれは動物を虐待する行為に当らないのか?

 

 これは当事者であるワンちゃんに訊いてみないとわからない。

 

 はなはだ不勉強でよく分からないが、こうしてビジネスとして始まっているということは、法的規制は今のところ、まだないということなのだろう。

 

 でも僕はやっぱりネガティブにしか捉えられない。

 しかし、わが子同然の愛犬を亡くした飼い主の立場に立つとどうなのだろうか?

 許されるのならもう一度の手に抱きたいという欲求を、そうたやすく否定できるだろうか?

 


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オバマとトランプと次世代

 

 アメリカの中間選挙。詳しいデータは読んでないが、テーラー・スゥイフトやハリウッド俳優の呼びかけも効いたのか、結構投票率は高かったのではないかと思う。

 結果は予想通り、上院・共和党、下院・民主党が、それぞれ多数派となった。

 

 民主党は女性や若者、マイノリティの議員が誕生して新鮮さを増したみたいだ。

 しかし、2年後の大統領選に出られるような人材がいないらしく、今回の応援ではオバマ元大統領の姿が目立った。

 

 彼が大統領になる前の選挙戦や就任当時の盛り上がりは今なお印象的だ。

 Change!

 Yes、We can.

 あのフレーズにしびれた人も多かった。

 だが逆に言うと、あれだけ期待され、ノーベル平和賞まで受けながら、8年間やったけど、たいしたことできなかった感が強い。

 オバマはただの傀儡だったのか? そうみんなが疑ってしまった。

 

 世界の覇者である(とあえて言ってみる)アメリカの偉大さを世界平和・軍縮・紛争解決といった面で発揮できなかったので、民衆の心がトランプの唱えるナショナリズムに傾いてしまった、と僕は思っているけど、ちょっと単純化しすぎか。

 

 2年後は民主党が盛り返すだろう。

 人材難かも知れないけど、トランプだって政治家としては素人なのにトップに立った。

 今の時代、若かろうが経験が浅かろうが、あんまり関係ない。

 フランスのマクロンみたいな例もあるし、世界の政治に舞台にはこれからどんどん若い人が上がって欲しいし、そうなってくると思う。

 

 さて、わが日本はどうなんだろうか?

 


20世紀の愛と平和のロックなんて忘れてしまってた

  

 1960年代から80年代のロックやフォークやポップスをいつも聴いているので、YouTubeさんがよく僕のMy Mixというのを提供してくれる。その中には普段聴かないコンテンツも混じっている。

 「あんた、こういうのも好きしょ」と、オーダーしてないものでもおススメを蔵出ししてくれるというわけだ。

 

 昨日は久しく聴いていなかったNenaの「99 Luftballons (ロックバルーンは99)」が出てきた。

 世界を席巻したドイツ発のドイツ語ソング。

 YouTubeが出してくれたのはいつのライブかわからないけど、Nenaが貫禄ついているので割と最近のものではないかと思う。

 

 めっちゃ明るいノリだけど、これはけっこう強烈な風刺を含んだ反戦歌だ。

 ご機嫌なリズムとポップなメロディはもちろんイカしてるが、99個の赤い風船を兵器と間違えて攻撃し戦争に発展してしまうという寓意に富んだ歌詞が素晴らしい。

 

 当時の核廃絶のムーブメントと相まったのか、1983年の世界的大ヒットとなった。、

 そしてそれから5年後にベルリンの壁が崩壊した。

 

 そういえば最近、ある本でデヴィッド・ボウイが1987年にベルリンの壁の前で野外ライブをやったという話を読んだ。

 スピーカーを東ベルリン側に向け、壁で分断された双方のオーディエンスに音楽を送り届けたという。

 まさしくボウイHeroesだった。合掌。

 

 1960年代、当時の若者の多くは音楽で世界が変えられると信じ、ミュージシャンたちはそれに応え、愛と平和について語り歌った。

 その精神は20世紀の間中ずっと生き続けて、東西冷戦の終結や核廃絶運動、難民の救済などにも何らかの影響を与えたと思う。

 だが、いつの間にか、たぶん21世紀の始まりとともに消えてなくなっていた。

 

 世の中そう甘くない。単純ではない。

 あれは幸せな時代の、能天気な連中の、つかの間のたわごとだったのか?

 音楽ビジネスのための偽善だったのか?

 みんな夢でしたと、あとはYou Tubeで音楽を楽しんでりゃそれでいいのか?

 

 ロックが骨抜きにされ、反戦も反核も何もなかったのように、次々とまた世界中で壁が作られ、核が作られる時代になってしまっていることに、今さらながら愕然とする。

 

 「おまえごときに何ができる?」と問われたらグウの音も出ない。

 それでもまだ生きているので、自分の宿題として抱えて、たとえちょっとずつの時間でも向き合いたいと思う。

 


世界の半分は本の中

 

  11月1日は本の日だそうな。

 「世界の半分は本の中にある」とか「世界の半分は本でできている」とか言ったのは誰だったか忘れてしまったけど、とても好きな言葉だ。

 インターネットもいいけど、やっぱり紙の本がいい。

 そして本屋や図書館がいい。

 ネット通販では欲しい本、ターゲットにしていた本しか手に入らないけど、本屋や図書館に行くと予定調和をぶち壊し、手に取ることなんかまったく考えてもいなかった本に出会えたりする。

 まるで思いがけない恋に落ち、ページをめくると、今いるところから別の世界へ連れて行かれる。

 なぜかデジタルデバイスの画面からはこういうイメージが起きにくいんだなぁ。

 はたして生きているうちにあと何冊の本と出会えるのだろう。

 


「お米の世界へようこそ!」は世界初・世界一のお米のバイブル

 

 原宿のお米屋さんで、五つ星お米マイスターの小池理雄(こいけただお)さんが本を出した。

 同じく五つ星お米マイスターで沖縄在住の渡久地奈々子(とぐちななこ)さんとの共著。

  詳しい経緯は知らないが、お二人はSNSでやりとりしているうちに意気投合し、本を作ろうということになったらしい。

 それぞれ日常的に情報発信しているので、文章を書くのもお手のものだ。

 

 一言で言ってしまうと、これは現代のお米のバイブルである。

 もったいぶって「現代の」と付けたけど、お米の種類から精米やブレンド技術、味の分析、お米の選び方・炊き方、農家さんの取り組み紹介、食育や稲作文化など、これほど広範囲にわたる関連情報をおにぎりみたいにギュギュっと一冊にまとめた本は以前はなかっただろうから、昔の時代も含めて日本初、と言っていいだろう。

 

 さらにこれほどお米という食品にこだわり、味や食感や栄養価など理系的に、また、歴史・文化など文系的にも、これほど広く深く研究を進めている国は日本をおいて他にないだろうから、日本初=世界初、日本一=世界一のお米のバイブルと言って差し支えない。

 

 実は僕はイベントや取材などで小池さんに何度かお世話になっているので、少しはヨイショが混じっているが、そんなものは米粒程度のもので、ヨイショ抜きでもこれがバイブルであることは疑いの余地がない。

 

 これほど充実した内容ならカラー写真をふんだんに搭載してドドン!とデラックスな装丁の高価な本にしてもよかったのに・・・と思うのだが、それをあえてコンパクトな新書版にし、値段も抑えてより多くの人たちにお米情報を普及したいという思いがあったようだ。

 

 そんなわけで台所でお料理しながらでも気軽に読めるようになっているので、ぜひとも手に取ってみてください。

 

 唯一惜しいのは共著ゆえ、お二人の個性がやや相殺されているかなと感じたこと。

 僕が知っている小池節は余り前に出ていない。

 しかし初めての本だし、まぁ、これはしかたない。

 

 それぞれ原宿・沖縄とユニークなホームグランドを持っているので、そうした地域性を活かした活動にも期待したい。

 

 ちなみに第7章で書かれている「原宿・表参道に田んぼが復活すると」という文章を読むと、何の違和感もなくあのあたりに夏の青田、秋の金色の実りの風景が浮んでくる。

 やはりかつては田園地帯だった(今でも商店街などに「隠田」という地名が残っている)ので、原宿という土地はそうした素質というか、雰囲気を持っているのだ。

 

 現代的なファッション、カルチャー、飲食店の立ち並ぶ表通りを一歩入ればそこに昔ながらの田んぼが広がっている――ぜんぜん自然ですよ、小池さん。

 かえって面白くて素敵で、ますます原宿人気が上がるんじゃにかなぁ。

 

 ――といった楽しい想像もできる本が出て、これをきっかけにお二人ともますますメディア露出が増えそうだ。

 お米文化の伝道師として今後もおおいに活躍しそうだね。

 


宝島社企業広告:樹木希林さん最後のメッセージの衝撃

昨日、朝日新聞と読売新聞に掲載された、樹木希林さんのインタビューをもとにした宝島社の企業広告に衝撃を受けた。これはすごい。面白い。

思わず自分は死ぬ時にこれだけのことが言えるかと思ってしまった。

死して残すこれだけの洒落というかユーモアというか・・・僕が祈らずとも御冥福は間違いない。

 


秋の招き猫日和

 

 秋晴れの日曜日。

 一日中家で仕事をやっているのもなんだなと思って、招き猫の豪徳寺へ。

 うちからのんびり自転車で30分程度なので、たまに気が向くと訪れます。

 だいぶ前ですが、テレビ番組のロケもやったことがあります。

 

 観音様のところには相変わらずいっぱいいます。

 その数大小合わせて1万を超えるとか。

 願いを成就させてくれたネコさん、どうもありがとうということで、みんながここに奉納していくのです。

 やっぱり何だか幸運を招いてくれそうです。

 

 そういえば昨年の大河ドラマは井伊直虎の話だったけど、このお寺は井伊家の墓があることでも有名です。

 

 江戸時代、鷹狩でこのあたりに来ていた井伊直孝が、このお寺にいた白い猫が手招きするのでこのお寺に入ったら、いきなり雷鳴轟き大雨が。

 

 ゲリラ豪雨から救われたと、猫にいたく感激した直孝はボロ寺だった豪徳寺を改修して井伊家の菩提寺に。

 

 最初からそこまでシナリオを練ってて直孝を招いたのであれば、なんとも賢くてしたたかであっぱれなネコ。

 まさしく廃寺寸前だった豪徳寺の救世主と言えるでしょう。

 

 立派なお寺に改修し、自分を救った猫を丁重に弔ったことが由来となって招き猫が作られたのだそうです。

 

 最寄駅の小田急線・豪徳寺駅および世田谷線・山下駅近辺の商店街では、31日のハロウィンには幸運を呼ぶ黒猫が跋扈するそうです

 

 今では全国から老若男女大勢のネコ好きを招きよせ、地域活性化に大貢献している立派なネコさんたちなのです。

 


永福町のジビエ料理

  

 灯台下暗し。

 近所の永福町北口商店街をゆっくり歩くと、いつの間にか新しいお店がいくつか出来ていた。

 

 その一つがジビエ料理のバー。

 小さなお店だが、イノシシ、シカ、ワニ、カンガルー、ダチョウなどの料理を食べさせてくれるという。

 

 試しにホームページを覗いてみたら、オープンしてもう1年以上経つ。

情報に疎いので全然知らんかった。

アップされている記事によると、あのでっかいダチョウの卵は白身の部分が多いそうで、オムレツが白く見える。

 

 じつは僕は上記動物の肉はダチョウを除いてどれも食べたことがある。

 で、正直、どれにもあまり良い印象は持っていない。

 その時の料理の問題かとも思うので、再チャレンジしてみたいが、何か強いインセンティブがないと行かないだろうなぁ。

 

 それにしても永福町にもどんどんユニークな店が増えてきて面白い。

 そのうちグルメの街と呼ばれるようになるかも。

 


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飛べよイーグル:ゴルフの勉強

 

 一度もゴルフをやったことないのにゴルフの本を書くことになった。

 なので本を読んで勉強している。

 そもそも専門用語がちゃんとわかってなかった。

 

 規定打数より少ない打数でホールインすることをイーグルとかバーディーという。

 

 これは遠く高く飛んでいくボールを鳥に見立てたのか。

 はたまたスピーディーにラウンドするゴルファーを鳥に見立てたのか。

 

 反対に規定打数より多く打数を重ねてしまうとボギー。

 こっちはダブルボギーとか、トリプルボギーとか。

 

 ボギーって何? ハンフリーボガードのこと?

 トレンチコートを着たカサブランカ・ダンディがゴルフやってるけど、全然入らなくてクールな男丸つぶれの場面を想像してたら、ボギーってもともと妖精の名前なんだって。

 妖精のいたずらで打数を多く叩かされちゃったということなのだろうか。

 

 イーグル、バーディー、ボギー、パー。

 なんだかサッカーやバスケの選手のニックネームみたいだ。

 あるいはフィギュアスケートやスノーボードの技の名前か。

 

 そんなどうでもいいことを考えながら、頭の中でグリーンの上をバーチャルツアーしてます。

 

 とりあえずどっかにパターゴルフでもやりに行こうかなぁ。

 

 


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創作と勝手にテーマ音楽

 

 新作ラジオドラマ脚本の初稿を書き上げた。

 自己満足度100%。「わーい!」って気分になっている。

 

 前作がコンペでファイナルまで残ったので、今回はぜひとも当選してほしい。

 まだ完成ではないが、とりあえず今年も連荘で参加できるという目途が立って一安心。

 とにかく作品を書いて参加しないことには話にならないので。

 

 創作に関してはいつも作品ごとにテーマ音楽を決める。

 言っても、べつにこれを使ってくれとかリクエストを書き込むわけじゃなく、自分がの頭の中で勝手に決めているだけ。

 

 でもテーマ曲があると不思議と全体の雰囲気がつかめ、リズムも出る。

 要は気持ちよく書けるのだ。

 

 選曲は頭の中の音楽ライブラリーから引っ張り出してくる。

 今回のはYesの「And You、And I」

 メンバーがシニア世代になってからのライブを見ると、間奏のあとの後半部分でベースのChris Squire (3年前に他界してしまった)がハーモニカを吹いている。

 それが原曲にない素晴らしい味付けになっていて、イメージの刺激剤となった。

 音楽の力はGreatだ。

 

 ちょっと休んで頭を冷やしてこれから1ヶ月かけてリライトする。

 じつはこれが肝心。

 結構余裕があるので、思い切ったリライトもできそうだ。

 


「万引き家族」:事実の裏にある人間の真実

 

是枝裕和監督の「万引き家族」。

 

「犯罪でしか繋がれなかった」というキャッチコピーは、深淵な社会派ドラマのようなイメージを抱かせられるが、とても楽に観られる、ユーモアと現代的な寓意にあふれた映画だ。

 

 子どもを誘拐したり、万引きさせたり、死んだ年寄りの死体を遺棄したり・・・といった話を聞くと、世の中にはろくでもないやつらがいるもんだと僕たちは思い、憤りを感じたり、子供が本当の親のもとに帰れるように願ったりもする。

 けれどもそうした報道は事実ではあるけど、真実だとは限らない。

 

 もちろん犯罪は悪だけど、その事実の裏にある人間の真実に光が当たることは、現実的にはほとんどない。

 

 どうして彼らはそんなことを犯してしまったのか。

 どうしてそんな生き方を選んでしまったのか。

 

 誰も顧みることのない、闇の中に封じ込められてしまったものに思いを巡らせ、想像力を広げ、こんな事情があったのではないかと物語にすることは、映画や小説などの重要な役割の一つだと思う。

 

 「万引き家族」はそうした映画ならではの役割に思い切りフォーカスした素晴らしい作品だ。

 

 父親役のリリー・フランキーは是枝監督から「最後まで成長しないでくのぼうのお父さんでいてください」と言われたそうだ。

 

 後半、疑似家族が壊滅し、それぞれの秘密が解き明かされるさま、そしてラストシーン、そのでくのぼうのお父さんがバスを追って走っていく姿と、二人の子供の表情には胸がえぐられる。

 

  カンヌのパルムドール受賞でどれくらい興業成績があったのかは知らないけど、小さな映画館は平日昼間でも満席で、諦めて帰る人も。

  是枝作品はもっともっと世の中に認知されて欲しいと思う。

 


ちょっとイカれたサブカルチャーの聖域シモキタ

 

 とくに用事があったわけではないけど、お天気が良かったので午後から自転車でぶらっと下北沢へ。

 到着すると駅の方から何やら聴きなれたフレーズが生音で響いてくる。

 お、これはCreamの「Sunshine Of Your Love」ではないか!

 

 出所は駅前広場(しもきたスクエア)。

 英国フェスでLiveと食い物の出店が10軒ほど。

 ライブは複数のバンドが60'S~80'Sのブリティシュロックのカバーをやっ

ている。

 Creamのカバーバンドは上手い! ギターは本家エリック・クラプトン並みだ。

 この広場は再開発予定地で、いずれ駅ビルが建つらしい。

 

 下北沢には東京に来た40年前からずっと通っていて、昔は芝居やライブを見たり、飲んだり食ったり古着を買ったりよくしていたが、ここ10年くらいはカミさんと年に1~2度買い物に来る程度。

 

 一人で来たのは久しぶりだったので2時間ばかりブラブラ歩いて一回りした。

 程よい高揚感と安心感、不思議な居心地の良さは40年前から変わっておらず、狭い道をうじゃうじゃ歩いている人たちを見るだけで面白い。

 

 昔の自分と同じ若い衆の人口密度も高いし、僕と同じ旧・若い衆も負けず劣らず多い。そこに外国人も混じってブレンド具合が絶妙だ。

 

 学生時代よく行った店が立ち退きで閉店になっていたりして寂しい部分もあったが、その代り表通りにも裏通りにも、ポップだったりパンクだったりシブかったりする新しい店もたくさんできてにぎやかだ。

  

 裏通りの「こはぜ珈琲」という小さなカフェに入った。

 コーヒー何と200円。もちろんセルフだが小さな店内にはジャズが流れて

いて、入り切らないお客は表のイスでコーヒーを飲んでいる。

 寒い人用にブランケットも用意されていて、とてもあったかい空気だ。

 トイレも狭いが飾りつけがお洒落で楽しく、シモキタっぽい。

 トイレが楽しい店は良い店だ。

 

 ブラつくだけで面白いシモキタ。

 やっぱりいい。用事がなくてもまた来よう。

 

 再開発されるとキレイでオシャレになる代わりに、漂白剤と脱臭剤をふりかけられ、クセもアクも匂いも消えてつまんない街になるパターンが多いけど、シモキタにはずーっと、ちょっとイカれたサブカルチャーの聖域であってほしい。

 


感動的でもなくイベント的でもない小さなこと

 

人生を変える体験というのは確かにある。

子供の頃や若い頃は、出会うこと・体験することの一つ一つが深く身体に食い込むほど感動的だったり、大きなイベントになる。

 

けれどもずっとそういうわけにはいかない。

あまり毎日がエキサイティングでは消耗し疲れてしまう。

そこでいつの間にやら心身ともども省エネモードになる。

 

子供の頃や若い頃と同様の体験をしても、身体も心は一種のシールドに覆われ、皮膚を突き破って入り込んでくることはない。

慣れっこになっているのだ。

良いことも悪いことも、こんなのどうってことない、大したことないと思える。

 

寂しいことだろうか?

そう思うときもある。

けど、これでいいのだとも思う。

大人になるとはそういうことなのかもしれない。

 

では大人になったら人生を変えるのは無理かというとそんなことはない。

その一つの方法は習慣を変えること。

日常の生活を変えること。

どんなに感動的な出来事があっても、すごいイベントに参加しても日常が変わらなければ何も変わらない。

 

日常を未来のために変えられるか、自分のための習慣を作れるかが、大人になってからの課題。

 

野球のイチローは言った。

小さなことを重ねることが、とんでもないところに行くただ一つの道。

 


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ぎっくり腰は「丹田でお米づくり」のイメージで予防

 

 10月も後半になり、朝晩かなり冷えるようになってきました。

 そのせいか、最近「ぎっくり腰になってしもーた」という声を実世界でもネット世界でもよく聞きます。

 

 かくいう僕も昨年二度ぎっくりに見舞われました。

 齢のせいだと言う人もいるが、あんまり齢は関係ないと思います。

 若くして腰痛持ちになる人もたくさん知っています。

 

 まぁ、命に係わる病ではないので、ちょっと笑いのネタになることもあるのだけど、その痛みと、もうホモサピエンスとして二足歩行できなくなるんじゃないかという精神的ショックは結構こたえます。

 

 現実的にも3日から1週間くらいはほとんどまともに活動できなくなんるので、仕事上のダメージも小さくありません。

 

 ぎっくり腰の重要な要因になるのが身体の冷えだそうだです。

 特に下半身が冷えると腰に来ます。

 だから予防策としては第一に体を冷やさない、しっかりあっためること。

 本格的に寒くなったら無理せず、カッコつけずににカイロなど使って腰回りをあっためたほうがいい。

 何ならその上から腰骨を紐やベルトでギュッと締めておくといい。

 

 さらに予防策としておススメは常に「丹田」を意識することです。

 丹田とはへそ下三寸(約10センチのあたり)の部分だが、特に丹田という名

の内臓があるわけではない。

 

 なんというか、その名の通り、おへそと性器とのちょうど真ん中あたりに自分の田んぼが広がっているイメージ。

 

 東洋医学の概念だけど、へたにネットで調べると、何やらスピリチュアルなボキャブラリーで書かれているものが多い。

 なので「あ、わたしダメ」という人もいるかもしれないが、お腹の中で小さい自分の分身が、せっせと田んぼでお米づくりをしているところを想像すればいいのです。

 

 これを意識していると自然と「丹田に力を入れる」ことになり、全身のバランスが安定し、腰によけいな負担が掛からないようになります。

 要は重心を常に下の方に置いて、浮き上がらないようにすること。

 重い物を持ち上げたり、何かを取ろうと身体を伸ばしたりする場合は、これを心がけて上半身と下半身を分裂させないようにしましょう。

 

 ぎっくり腰は、人間、まだまだ直立二足歩行の歴史が浅いので調子に乗りなさるなよ、という造物主からのメッセージなのかも知れません。

 


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牛を結ぶ 昨日と今日と明日を結ぶ

 

 農文協・農業所センターで、今年に限らず、近年コンスタントに売れている本としてはどんなものがありますか?と店長さんに聞いたら紹介してくれた。

 「牛の結び方」(酪農学園大学エクステンションセンター)。

 牛を結ぶって・・・・とタイトルだけ聞いたとき、頭の中で?マークがいくつも並んだが、何のことはない。ロープワークの話。

 うまくロープを結びつけないと牛が嫌がって暴れたり逃げ出したりしてしまうのだ。

 

 この本が売れる背景には、農業技術の世代間断絶があるという。

 

 戦後の工業化・経済成長の時代、当時の農家の多くは「農業なんて自分の代限り。子供は後を継ぐ必要なない」と考えており、技術をきちんと伝えてこなかった。

 

 息子世代(僕たちの世代)も学ぶ気はなく、いずれまた自分が帰農するとは夢にも思っていなかった。

 

 さりとて時代は巡る。

 

 企業戦士として働き、その役割を終えた、あるいはもう嫌になって脱兵した農家の息子たちが、家業だった農業をやるか――と思うようになった。

 けれども話を聞きたいときには親世代はもうおらず、一から技術を学ばなくてはならない。

 事情は結構切実だ。

 そんな人たちにこうした技術解説書は重宝されるというのだ。

 

 たかがロープの結び方なのだが、そこには代々受け継がれてきた人間の生業の歴史、深い知恵、動物との感情の交流などが秘められている。

 

 いったん解けてしまった伝承の綱を再び結びなおすのは難しい。

 こうした技術書・ノウハウの書は今後も需要が高いと思う。

 


農文協・農業書センター訪問: 農業⇔脳業の時代到来

 

 「2018年の売れ筋農業書は?」というお題を受けて、神保町にある農文協・農業書センターへ出向き、店長さんにインタビュー。

 お題の内容は12月1日UPのマイナビ農業の記事を記事をご覧いただくことにして――

 

 さすが農業専門の本屋さんだけあって品揃えが違う。

 一歩足を踏み入れると、そこは農業の宇宙。

 一般の書店では扱ってないような専門書や農業高校の教科書もずらりと取

り揃えている。

 ちなみに店長さんによれば新規就農する人の入門書として農業高校の教科

書は超おすすめだそうだ。

 

 さらに農業というものを広範な範囲――環境問題、生物、歴史、地学、社

会問題、政治の問題など――で捉えているので、たとえばユヴァル・ノア

・ハラリ(サピエンス全史では「農業革命」が人類史における超重要キーワ

ードだった)の新作「ホモデウス」など、一般書店でも見られる話題の本も

手に取れる。

 

 また、本を売るだけじゃなく、そんなに広いとは言えないスペースをふん

だんに活用してフォトギャラリー、加工食品の販売、そして食や農、生物な

どをテーマとしてセミナー・講演会・イベントも頻繁に開催。

 小さいものの、かなり電波の強力な情報発信基地となっている。

 

 以前は大手町のJAビルに入っていたが、2015年4月に神保町に移転して以来、客層が幅広くなり、農業関係の仕事や勉強をしている人でなくても、とても楽しめる店づくりをしている。

 

 ちょっとしたエピソードとして、つい先日、脳科学者の茂木健一郎さんが

来店したらしい。

 最近、茂木さんは農業にハマっており大量に本を購入していったという。

 

 店長さん曰く、一日中コンピューターと向き合って仕事している人、IT

の世界にどっぷり浸かっている人などは農業に関心を持ち、思い切りのめり

込んでいく傾向にあるとか。

 なんとなくわかる気がする。

 人間としての自分を見失わないようにしているのかも知れない。

 農業⇔脳業の時代が到来している。

 


カメラを止めるな!:つきぬけた笑いとスパイシー&スイートな人間ドラマ

 

 巷の評判を聞いてみたいなと思っていたけど、ちょうど近所の映画館(下高井戸シネマ)でやっていたので、遅ればせながら鑑賞。

 ゾンビ映画とそのバックステージの物語。

 確かにこれはめっちゃ面白い。

 むかし三谷幸喜がつくった「ラヂオの時間」をちょっと思い出した。

 

 とにかく面白けりゃいいってことで、エンターテインメントに徹しているけど、隠し味になっている人間ドラマがまたスパイシーかつスイートで感情を揺さぶる。

 

 映画や演劇、イベントなどに携わったことのある人(たぶん誰でも一度や二度は経験している)なら思わす笑ってしまう、と同時に心に沁み込むシーンが満載だ。

 

 特にメインの監督親子三人の、家族ドラマは好きだなぁ。

 今の家族って、うん、こんな感じ。

 

 ラストシーンはすごくバカバカしくてあさといんだけど、見終わった後はなんだかジーンとして、心がポカポカした。

 

 ストレス解消にもってこい。

 笑いとしみじみ感とドタバタ感と気持ち悪さ(ゾンビ映画なので)をいっぺんに味わえる貴重な一本。

 


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キノコ愛

 

 山中に自生しているキノコにはどこか神秘的な雰囲気がある。

 「かわいい」とか「すてき」とか「妖精みたい」とか言って偏愛している人も少なくないようだ。

 

 僕は生まれてこの方、一度もキノコ狩りには出かけたことがないのだが、子どもの頃にはよく「キノコ狩りごっこ」というのをやった。

 

 これは家の中でも公園などの屋外でもできる。

 友達とみんなでキノコ狩り(というバーチャル)に行くのだが、そこで生え

ているキノコを採って食べのだが、その中には毒キノコが混じっている。いわばくじ引きなのだが、それにあたると笑いが止まらなくなったり、狂ってしまったり、怪物に変身してしまったりするのだ。

 

 その当時のマンガとか映画とかテレビの影響が大きかったと思うが、子ども心にキノコは危険でサイケな魅力に満ちていた。

 そのくせ実際に食べるのは嫌いだったけど。

 

 また、若い頃はドラッグカルチャーの影響の一環で、バリ島(だったかな

?)のマジックマッシュルームでトリップすることに憧れた。

 これも今のところ実現させていない。

 

 長じてそんなオカルティック、ファンタジック、サイケデリックな雰囲気をまとっていたキノコは今やわが家の常食になった。

 何と言っても養殖技術が進歩したせいで、年中、低価格で安定供給されるのもポイント高い。

 シイタケ、シメジ、エノキ、マイタケ、エリンギ、マッシュルーム・・

いつの間にかどれも好物になり、最近はほとんど切らしたことはなく、干しシイタケをはじめ、冷蔵庫の中には必ずどれかのキノコが入っている。

 

 スープ、シチュー、カレー、炒めもの、煮物、汁物・・・どんな料理にも合うので構わずぶち込む。

 すると味も風味もぐんと豊かになる。

 

 栄養面のことはよくわからないが、健康にいいと言うことで、定期的にテレビで紹介されたりすると、スーパーの店頭から消え失せることがある。

 

 静岡の天竜川界隈で3度、採れたてのシイタケを戴いたことがあるが、マツタケなど及びもつかないその感動的なおいしさが今でも記憶に蘇る。

 大人の休日にはキノコ狩りに行くべきかも知れないなぁ・・・と近頃よく思う。

 


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ゴーストの正体と人間のストーリーテリング

 人間は誰でも生まれながらのストーリーテラーなので、自分の身体が感じたことについてあれこれ解釈し、お話を創り上げるという性癖を持っている。

 

 ちょっと前にアメリカの犯罪ドラマを見ていたら、心霊現象と超低周波との関係について解説するシーンがあった。

 

 幽霊が出るという噂の立つ食肉処理場にゴーストハンターとして潜入した若者たちが、そのゴーストらしきものの祟りで殺される――という事件が起きる。

 それを科学捜査班が解明し、真犯人を突き止めるという話だ。

 

 その食肉処理場はその昔、悍ましい殺人事件が起こった場所であるため、そうした噂が立ったのだが、そこに入った誰もが何か霊のようなものを感じるという。

 その原因は何かと調べていくと、そこでは人間の耳にはほとんど聞こえない超低周波がある機械から発生していた・・・という形で話が展開していく。

 

 現実の世界でも「心霊現象の正体は超低周波」という有力な説があって、いろいろな実験がなされ、科学的に証明されているらしい。

 この超低周波を体が察知すると人間は悪寒、恐怖、強い不安感などにかられるというのだ。

 

 地震とか火山の噴火といった自然災害の前触れ、あるいは暗闇の森の中に潜む野獣の唸り声などがそうした超低周波となって伝わってくるというから、おそらく人間の遺伝子の中に、不幸を引き起こす「よくないサイン」として刷り込まれているのだろう。

 

 狩猟採集で生活していた太古の時代、人間のそうした野生の勘というか、センサーのようなものはすごく発達していたらしい。

 現代人の多く、特に都市生活者はそうした機能を9割以上失ってしまっているが、まだその残骸程度のものは残っているのだ。

 

 で、僕が面白いなと思うのは、体が感じたそうした悪寒、恐怖、強い不安感といったものを脳が「これはなんだ?」と解明し、意味づけしたがることだ。

 

 これはもしやこの空間に幽霊が存在しているからではないか?

 そうだ、私はそれを感じ取っている。これは霊感だ!――

 というふうに自分の趣向に合わせて解釈し、意味を見出し、ストーリーを組み立てる。

 

 それがさらに発展してスピリチュアルな物語となっていき、私も私もとたくさんのエピソードが集まり、世の中にさまざまな都市伝説が伝搬していくことになる。

 

 僕はそうだったのか、納得した、これで疑問解決!と思った。

 

 だけどこれも「心霊現象の正体は超低周波なのだ」という科学的っぽいストーリーを誰かの脳が創り上げて唱え出したら時、そうだそうだ納得・解決と同調する意見がたくさん集まり、あたかも正論のように世に蔓延ったというだけなのかも知れない。

 

 ハロウィンのお祭り騒ぎの中から立ち現われたゴーストハンターたちが

 「本当にゴーストは私たちの周りにいるんですよ。

 あなたたちはそれを超低周波のせいだと理屈をこじつけて、真実から目を背けようとしているだけ。

目に見えるものしか信じられず、神秘を否定するオロカモノですよ」

 

 なんていわれちゃったら、たぶんブレまくるだろう。

 科学でことを納めるのか、神秘の世界へ入り込むのか?

 どっちを取るからは自分次第、そしてまた、あなた次第です。

 


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高齢者を書くということについて

  

 最近、高齢者・老人のイメージ・概念そのものが本当に大きく変わって

しまった。

 若い世代との交流の仕方もすっかり変わったという印象がある。

 本格的にエイジレスの時代が始まっている。

 

 なので脚本を書いていて、70代とか80代の高齢者を登場させるとセリフ

の書き方に戸惑う。

 もうかつてのように「わしは・・・じゃ」なんて感じでは書けない。

 サザエさんの波平さんや、ちびまる子ちゃんの友蔵さんみたいなのは

現代では通用しない。

 

 かなりマンガっぽいキャラ(白髭の○○博士とか○○師匠とか)ならそれ

でもOKなんだろうけど、ある程度リアル感を追求すると、ぱっと読んだ

だけでは年齢が分からないセリフになってしまう。

 いわばじいちゃんぽく・ばあちゃんっぽくならない。

 

 かつては頑固じじい、性悪ばばあなどもいたけど。基本的にお年寄りと

言えば、人畜無害で善良な市民か、よぼよぼの老いぼれか、師範や大先生

といった人生を極めた人、博士のように専門を極めた人が大半だった。

 

 でも今の高齢者と言えば、時代の変化に翻弄されて迷い、戸惑い、生き

ることにも死ぬことにも怯えながら、それでも自分の人生を肯定したくて

頑張っている人たち――それが全体的なイメージだ。

 

 どんな生き方をしてきたのか、現在どんな状況にあるのか(健康なのかそ

うでないのか、仕事をしているのかしていないのか、家族はいるのかいな

いのか、どこに住んで何を食っているのか・・・)、で、人のセリフは違っ

たものになってくる。

 高齢者を書こうとすると、それがいっそう顕著になるので、バックスト

ーリーを相当作り込まないとまったく書けない。

 

 今は穏やかに静かに暮らしているじいちゃんでも、かつてはゴロツキど

もを震え上がらせた任侠ヤクザだったかも知れない。

 

 今はケチなごうつくなばあちゃんでも、かつては男どもをイチコロにし

た女神さまだったのかも知れない。

 

 一口にじいちゃん・ばあちゃんと言っても、また、たとえそれが架空の

人物でも、それなりの歴史・それなりの世界を持った人間にしっかり向き

合い、人間像を構築していくのはなかなか骨が折れる仕事だ

 ま、それもこれも当たり前の話なんだけど。

 

 


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北さんのお葬式

 

 和泉親児の会の椎木さん(第5代会長)から北さんの訃報メールを受けて昨日、お葬式に行った。

 

 亡くなったのは7日の早朝だったそうだ。

 

 北さんは息子が卒業した小学校の図書室で司書をやっていた方である。

 司書という職業の一般的なイメージは、静かで知的な人という感じだろうか。

 彼女はそこから逸脱していて、とても明るく剽軽な一面も持ち合わせた楽しい女性だった。

 

 学校の図書館は学習の場であるとともに、ちょっと気持ちが凹んだ子や、学校生活がうまくいかない子のホッとできる居場所、癒しの場所でもある。

 北さんの明るさ・楽しさはそんな子どもたちにとって有りがたいものだったのろうと想像する。

 彼女に甘えていた子供たちも結構いたようだ。

 

 かの和泉小学校の司書だったのは2011年度から14年度までだったと思うが、その間、彼女の企画で朝の読み聞かせ会をやっていた。

 和泉親児の会がそれに協力し、僕はそのメンバーの一人として、卒業した息子の使い古しの青いランドセルを担いで月に数回、学校に通った。

 

 また、教会の子供向けクリスマス会のアレンジャーもやっていて、余興をやってくれないかと頼まれ、椎木さんたちと組んでサンタとトナカイのコントみたいなことを3回にわたってやった。

 いつも時間がなくて、やっつけ・間に合わせの出し物だったが、そこそこ喜んでもらっていたようである。

 

 北さんはクリスチャンだったので、お葬式はその教会でやった。

 うちから歩いて10分と掛からない、住宅街の小さなプロテスタントの教会だ。

 ご自宅はやや離れたところ(たしか中野区)だったので、和泉小学校に通っていたころに特にその和泉教会と親しくなったのかもしれない。

 

 教会といえども周囲の家と変わらない大きさで、アットホームなところだったので、ほとんど自宅葬のような感じだった。

 おそらく100人以上の人が集まり、入り切らなくて庭先にまで人が溢れ出していた。

 

 和泉小から去る頃、背中が痛いと訴えていた。

 胸腺がんというあまり症例のないがんだったそうだ。

 一時、回復してFBも積極的にやっていたのだが、2年半くらい前に途絶えていた。

 

 3年ほど闘病したが、9月になって死期を悟ったようで、教会を訪れ、相談して遺影や花の飾りつけなど、自分のお葬式をこうしてほしいと頼んでいたそうだ。

 

 「わたしの歴史」と題する自分史も書いていて、式の中で10分ほどの間、牧師さんがそれを読み上げた。

 

 離婚を経験するなど、いろいろつらい時期もあったようだが、彼女らしい人生を送ったのだろうと思う。

 ほんのわずかな期間、わずかな関係だったが、僕たちもその歴史の一部だったのだなと思った。

 

 誰でも誰かの人生の一部分になっている。

 たとえ引きこもっていても、ずっと孤独で過ごしていたとしても、ずいぶん齢を取り、もうみんなに忘れられてしまっただろうと思っていても、誰もが誰かの歴史の一部になっているのだ。

 

 弔辞を述べた人のひとりは教会のスタッフで、かなりご高齢の婦人だったが、「北さん、お友達になってくれてありがとう」と、まるで童女のように言ったのがとても胸に響いた。

 

 北さんは僕より一つ年下だった。

 自分と同世代、あるいは自分より若い人とのお別れはひとしお切ない。

 


お化けは子どもの大事な友だち

 

 世田谷・羽根木公園の雑居松まつりへ。

 息子がチビの頃、1年ほどここのプレーパークの自主ようちえんsでお世話になっていました。

 

 雑居まつりは毎年この時期に行われており、世田谷区の社会福祉団体やボランティア団体が出店するフリーマーケット。

 衣料とか生活雑貨がめっちゃ安く売られています。

 昔は子供服目当てで毎年通っており、しばらく足が遠のいていましたが、ここ4~5年また覗きに出かけています。

 けど最近、この開催日は毎年雨が降るか、ピーカンでとんでもなく暑くなるか、どっちかなんだよね。

 今年も後者でバテました。

 

 公園の中央にはステージも設けられ、バンドの演奏をはじめ(今日は久しぶりにS&Gの「明日にかける橋」を聴いた)、いろいろな催しが行われていますが、その横でこれも恒例の、プレーパークの子どもたちが創るマスコットがデデン!と登場。

 

 今年はろくろっ首と妖怪電車(バスかな?)。

 一足早いハロウィンか?

 妖怪ブームがあった記憶はないけど、プレーパークの子どもたちにとってのマイブームだったのでしょう。

 お化けはいつでも子どもの大事な友だちなのです。

 


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森田童子の思い出:1970年代ぼくたちの子守唄

 

★訃報

 

 YouTubeで1960~80年代前半の音楽を聴いていると時々特定のミュージシャンの音源や映像が激増している現象に出くわす。

 で、よく見るとそのミュージシャンなり、そのバンドのメンバーなりが亡くなっていたことを知る。

 

 先月下旬もそれがあった。

 

 年に1度くらいの割合で発作的に聴きたくなる声がある。

 森田童子の声。

 検索したところ、6月に「いったい今までどこに眠っていたんだ?」と思える貴重な音源・映像が次々にUPされていた。

 もしやと思って添えられたコメントを読んで今年4月24日に亡くなっていたことを知った。

 世間に公表されたのはJASRACの会報で6月11日となっている。

 

 ぜんぜん知らなかった。

 死因は心不全。享年65歳。

 最近の基準に照らし合わせれば、早すぎるのかも知れないが、森田童子という虚像はすでに1983年――35年も前に消えていた。

 

 それなのに人々の心の中で強烈な存在感を放ち、生き続けていた。

 

★1978年

 

 僕が彼女の歌を初めて聴いたのは、東京に出てきて1年目の1978年のことだった。

 当時、演劇学校に通っていて明大前のアパートで友達と二人で暮らしていた。

 そこは双方の関係からいろんな連中が集まる溜まり場になっており、そのうちの一人がレコードを持ってきた。

 

 森田童子の名前と写真は知っていた。

 大きなサングラスとカーリーヘアの風貌から、てっきりブルースシンガーだと思っていた。それも男の。

 

 レコードは「マザースカイ」。

 A面1曲目「ぼくたちの失敗」。

 短いピアノのイントロに続いて聴こえてきたのは、ブルースシンガーの焼けた声でなく、甘く透き通った少女のような声だった。

 

 心臓を直撃された。

 

 その後40年、いろんな音楽を聴いたけど、これほど素朴で美しいメロディラインを持った楽曲は他にほとんど思い浮かばない。

 

 グッドバイ(75年)、マザースカイ(76年)、A BOY(77年)、東京カテドラル聖マリア大聖堂録音盤(78年)、そしてラストワルツ(80年)。

 

 遅れてきた僕がこれらのレコードをよく聴いていたのは3年ほどの間だった。

 今でも曲を聴くと、この頃の友達の顔や声、生活の断片、街の風景が妙にくっきりとした輪郭でよみがえる。

 毒が経験したのは最後の方だけだったが、森田童子の歌は1970年代という時代の象徴でもあった。

 

 

★1980年/1983年

 

 1970年代後半、森田童子はライブハウスで最も観客を集めるシンガーソングライターの一人だった。

 まさしくあの時代の空気を体現できるミュージシャンだった。

 

 僕は結局ライブハウスには行かなかったが、テント公演を体験した。

 

 80年11月、池袋の東口・三越裏の空地に黒テントを張って行われた「夜行」と題されたコンサート。

 森田童子を生で見たのはそれ一度きりだ。

 激しくギターを掻き鳴らす「春爛漫」で、漆黒のテントの中に桜吹雪が夥しく舞っていたのを思い出す。

 

 YouTubeに当時のドキュメンタリー映像(テレビ東京の番組だったらしい)が上がっていて、その中で彼女は語っている。

 

 「あと何年か後には東京でテントを建てるということは不可能になるでしょう。私たちのコンサートが不可能になっていく様を見てほしいと思います。そして、私たちの歌が消えていく様を見てほしいと思います・・・(中略)一つの終わりの時代へ向けて、私たちの最後の切ない夢を見てほしいと思います」

 

 80年代に入り、もう自分の歌が求められない時代になっていく。遠からず自分はこの世界(音楽シーン)から消え去るのだ、ということを予感していたのかも知れない。

 

 世間には明るく華やかなダンスミュージックが溢れ始めていた。

 孤独や悲しみ、絶望や死を歌う童子の歌を聴く人はどんどん減っていった。

 僕もその頃はもうほとんど聴かなくなっていた。

 「もう森田童子なんて聴かないよ」と誰かに言った覚えもある。

 それなのに、グッドバイとマザースカイの2枚のアナログレコードはいまだに手元にある。

 

 そんな中、1983年、新宿ロフトのライブを最後に森田童子は静かにギターを置いた。

 それを気に留めた人さえ、そんなにいなかったと思う。

 特に引退宣言なども残すこともなく、ひっそりと音楽の世界から身を引き、「みんな夢でありました」と普通の人の生活を送るようになった。 そこで森田童子は死んだのだ。

 

 

★1993年

 

 ところがそれから10年後、彼女は再び脚光を浴びた。

 バブル景気、ジャパン・アズ・ナンバーワンの時代で浮き上がっていた人々が地上に足を下ろし、内省し始めた1993年、あの「ぼくたちの失敗」がテレビドラマ「高校教師」の主題歌に使われたのだ。

 ドラマを見た人たちが「あの歌手は誰だ?」ということで森田童子を再発見した。

 

 その当時、僕はドラマのイメージが貼り付いてしまうことをとても苦々しく感じていた。

 けれどもいま振り返れば、あの美しいメロディと彼女の声がより大勢の人の耳に届き、心に宿ったのは喜ぶべきことだと思う。

 

 「ぼくたちの失敗」が大ヒットになり森田童子にスポットライトが当っても、そこには誰もおらず、空っぽのままだった。

 

 現実の彼女は30歳で森田童子を辞めた後、結婚し、都内で主婦として暮らしてたようだ。

 一度、あるルポライターが居所を探り当て、取材を申し込んだことがあるが頑なに拒否されたと言う。

 

 その後、インターネットが発達しても、とうとう彼女の素顔も本名も公になることはなかった。

 これほどの知名度の人間がここまでプライバシーを守り続けられたのは奇跡的なことだ。

 

★病気

 

 「出たくないと」いう強い意志に加えて、僕は体調や精神状態があまり良くなかったのではないかと推測する。

 10代の頃、大きな病気を患っていたというから、それがずっと残っていたのではないだろうか。

 もし健康だったら、本人がいくら拒んでも周囲が何とか説得しようとあらゆる手段を講じて動くだろう。

 少なくとも取材の一つ、二つは受けさせただろうと思う。

 

 死因も心不全とのことだが、どこかでその病気が関係していたのではないだろうか。

 

 あるインタビューで、病気のせいでまともな生活が送れず、高校を中退してブラブラしている時に音楽を始めた」といったことを話していたが、そのブラブラの中身は苦しい闘病生活だったのかも知れない。

 

 そして死線を彷徨った経験と、学生運動をしていた友達との付き合いが曲作り、音楽活動に結びついた。

 

★子守唄

 

 森田童子の歌は一般に「暗い」と揶揄されることが多かった。

 けれども深刻度はさておき、孤独感や、悲しい・寂しいという感情を味わわない人間はいない。

 彼女の独特の「ゆらぎ」を持った声はそこに感応し癒しを与える。

 元気で明るい歌が心の傷を癒し、元気に、明るくしてくれるとは限らない。

 

 また、僕たちはいつもどこかで死に怯えながら暮らしている。

 いつか必ず訪れる自分の死、愛する人の死、大切な人の死――

 光の届かない奥底の暗闇に、僕たちの心の中の小さな子供はぶるぶる震えている。

 童子の歌はその子を優しく慰めてくれる母の子守唄だ。

 あの少女のような甘く透き通った声は、母の声でもあるのだ。

 

 時々発作的に聴きたくなるのはそのせいなのかもしれない。

 

★夜想と狼少年

 

 実は最後の2枚のアルバム「夜想」と「狼少年 WolfBoy」はかつては一度も聴いたことがなくてYou Tubeで初めて聴いた。

 時代に合わせようと彼女が(というよりスタッフが)苦労しているのが見て取れる。

 

 サウンド的にプログレっぽくしたり、テクノポップみたいな味を加えたり、ワルツのリズムを採り入れてダンスミュージックに近づけようとさえしている。

 

 歌の語り口の定型だった「ぼく、きみ」を辞めて「わたし、あなた」にした曲もあり、それまで隠されていた女の部分が見えてドキッとする瞬間もある。

 

 いま聴いてみて僕はけっこう好きになったが、「グッドバイ」や「マザースカイ」の童子節を愛するファンにとってはどうしても違和感を感じる作品だろう。

 彼女自身も違和感を覚え、納得できない部分が多くあったのではないだろうか。

 そして、ここまでして音楽の世界で生き残るつもりはない、と去ることを決意したのだろうと想像する。

 

★普遍

 

 訃報に出会って以来この10日ほど、夜な夜な彼女に関する音源、映像、ネット上の記事をあちこち見ていた。

 その中に5年ほど前に投稿されたものだが、12歳の女の子が「ぼくたちの失敗」を歌っている動画があった。

 

 おそらく自宅のリビングだろう、暖かい陽の当たる部屋で自分でギターを弾きながら、あどけない声で明るく軽やかに歌っている。

 過去の思い出を愛おしみながら別れを告げ、笑って旅立とうとしている少年少女の情景が浮ぶようだ。

 

 童子の歌がこんなふうに響いてくるなんて不思議で新鮮で、ちょっと感動した。

 

 森田童子という歌手の存在は1970年代の構成要素であり、あの時代の空気を知る者が共有できる世界であり、それ以外の聴き方は難しいのではないか。ずっと思っていた。

 が、どうもそうではない。

 

 彼女の孤独、悲しみ、寂しさ、絶望、死をテーマとした歌の数々は、その多くがかなり普遍的なものであり、貴重なものであり、むしろこれから大事にされていくのではないかと思うようになった。

 

 ぼくたちの時代の子守唄は未来へも繋がる。

 

 最後に、森田童子さんのご冥福をお祈りします。

 そして最期まで秘密にした素顔と本名、プライバシーが今後もけっして暴かれることのないよう祈るばかりです。

 


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金木犀からの贈り物

 

 人間や動物の体臭は温度・湿度が上がると匂いが強まる(基本的に悪臭)が、植物のそれはどうも違う。

 ついこの間まであまり匂わなかった近所の金木犀が今日は急によく匂うようになったと感じる。

 花の咲き具合はそんなに変わっていないようなので、これは温度・湿度・風向き・日射などの条件のせいか。一日のうちの時間も関係しているのかも知れないなぁ。

 

 でも、もしかしたら一番影響が大きいのは自分の体調や気分かも。

 一昨日、FBでいつも読んでくださる音楽家の方の金木犀とご自分の音楽家精神にに関する一文を読んで、それが心に残っていた。

 どうもそのせいで金木犀の香りを嗅ごうと無意識に考えていたようだ。

 あるいは金木犀のほうがそうした気持ちを察知してより強く香りを発したとか。動物や昆虫もそういうことをするのだから植物だってするはずだ。

 

 チョウやハチみたいに受粉に協力できなくて申し訳ないけど、まだしばらくの間、楽しませてくれると嬉しい。

 


人面犬大増殖

 

 戌年も残り少なくなってきたけど、最近、散歩などでイヌに会うと、どうも自分は今、四足で歩いてるけど、大人になったら飼い主みたいに二本足で歩く人間になる――そう思っているやつが増殖している気がする。

 

 僕はちゃんとけじめをつけなきゃならんと思い、心の中で「きみはイヌ。いつまでたっても四足。ずっと子ども。死ぬまで人間にはなれないの」と叫ぶが、夢を壊すのもなんだなぁと思ってやめてしまう。

 そんなことをいきなり言ったら、イヌより先に飼い主に噛みつかれそうだ。

 

 ただし彼らは姿かたちはイヌのままなれど、顔つきだけは人間そっくり。ドッグフードのコマーシャルに出演しているイヌなんてほとんど人面犬だ。

 

 心が通じ合うと顔が似る。本当にそうなんだなぁと思う。

 でも、かわいいのはわかるけど、飼い主さんはあんまり過保護にしないで「きみはイヌ、わたしは人間。人間には逆らっちゃダメ」ってちゃんと教えたほうがいいと思うなぁ。

 


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幻想やストーリーでおいしくなる日本食

 

★寿司職人いまむかし

 

 だいぶ前にホリエモンが「寿司職人が何年も修行するのはアホ」とSNS上で発言したことがあった。

 長大な時間を修行に費やす職人の世界の常識に大胆なメスを入れ、現代の若者はそんな旧弊に従って貴重な時間を無駄使いするべきでないという趣旨の意見だったが、当然のことながら大炎上した。

 

 僕も若い頃、これと通底する話を聞いたことがある。

 勤めていたロンドンの日本食レストランには寿司もメニューにあり、職人さんがカウンターで寿司を握っていた。

 ブームだったこともあり寿司をやってみたいと言う若い外国人(日本人以外という意)も訪ねてきたが、店はけっして門戸を開かなかった。

 「白人でも黒人でもアジア人でも、外国人が寿司を握るなんておかしい。ああいう人たちの手で出されたら食べる気しないでしょ。日本人が握るからおいしいんだよ」というのが店だか会社だかの論理だった。

 

 同じことは女性にも適用された。

 「寿司っていうのは繊細なものでね、ちょっとした指の熱の違いで魚の味が悪くなるんだよ。女は体温が高いからダメなんだ」という話をまことしやかに語って聞かせる人もいた。

 

 確かにその頃(30年以上前)は女の寿司職人も外国人の寿司職人も見たことなかったので「そうか、そういうことなんだ」と思った。

 

 現代ではもちろん「そんなもん」はまかり通らない。

 6月にロンドンに行ったときは、駅の構内をはじめ、街中のあちこちに「SUSHI SHOP」が溢れていてびっくりした。

 

 今やロンドンで寿司はサンドイッチやハンバーガーと同じファーストフード。しかもおいしくヘルシーだというので、他のものより高くても飛ぶように売れる。

 そこで働いているのは日本人以外の人たちであり、男女の区別もない。もちろん彼ら・彼女らがその場で握っているわけではないけど、そんな環境の中で「寿司職人は日本人の男でなきゃ」というかつての確固とした常識は微塵も感じられない。

 

★幻想・ストーリーは大いなる調味料

 

 日本国内でも冒頭のホリエモン発言を裏付けるかのように、専門学校で3か月ほど勉強しただけの職人さんが店を開き、1年たたないうちにミシュラン認定の一流店に選ばれた。

 「師匠のもとで10年修行しなくては一人前になれない」という常識は、情報伝達手段が限られていた時代の幻想だったことが判明した。

 

 僕もホリエモンの合理性に基づいた意見は正しいし、若者を閉じられた世界の旧弊から解放することは必要だと思う。

 しかし一方でそうした幻想なりストーリーなりが日本の食文化を育ててきたし、これからも育てていくのではないかとも思う。

 

 寿司に限らず、日本食は実際に説明できることだけでなく、何割か――もしかしたら半分近くは、作る側・食べる側、双方で共有する幻想・ストーリーに負っている。

 つまりその食材やら調理法やら調理者の経歴・人柄、あるいは人間関係などの情報が「調味料」となっているのである。

 

 食材や調理法について数多くの情報がオープンされている現代では、前もってその店や職人に関する知識がなければ、名店の職人の寿司も、無名の見習い職人の寿司が握る寿司も、味にそう変わりないのではないだろうか。

 

 そこに経済が絡むのなら、こっちの方が高いからこっちがおいしいとか(僕もこれだけお金を払ったのだから、おいしくないはずがないと思い込んで食べることがある)、逆に味が変わらなければ安い方がおいしく感じるといいったこともあるだろう。

 

 食について評価する人だって、そうした情報が重要だ。

 ただ「おいしい」というだけでは話にならないから、どうしてそう感じるのかを裏付けるための情報を得て理屈をひねり出さなくてはいけない。

 

 貧しさから脱するために子供の頃から丁稚奉公し、師匠や先輩に怒鳴られたり、時には殴られたりしながらも歯を食いしばって修行にはげみ技術を習得した――といったストーリーが作る人にあれば、その物語がこの一皿に凝縮されている、といった感じで美しく評論できる。

 

 外国の場合はどうか知らない。中国・フランス・イタリアなど、世界に冠たる食大国にはきっとそうした部分があると思う。

 でも日本ほどではない、たぶん。日本人とは食についてそうしたストーリー・幻想を求める人たちなのだ。

 

★脳で食を楽しむ以上、幻想はエネルギー

 

 そういえば以前、都内のある有名料理店の料理長に取材したときに印象深い話を聞いた。

 

 当時60代で、東北の田舎で育った彼は子供の頃、母がかまどを使って日々の食事を作ってくれたという思い出話を語ったあと、

 「僕たち料理人の料理は、いわば芸人の芸みたいなもの。みんな芸に拍手してお金を払ってくれる。でも本当の料理という点では母にはかなわない。一生修行しても追いつけない」

 

 これは功成り名を遂げ気持ちに余裕のできた人特有の感傷だな、と僕は思った。

 彼の語る話を幻想だと言って嗤うのは簡単だ。

 しかし食欲という原初的な欲望を、食という生きていくのに不可欠な営みを、文化の領域まで昇華させるということは結局こういうことではないか。

 人間が舌だけでなく脳で食を楽しむ生き物である以上、幻想はエネルギーになるのだ。

 


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なんで肉じゃがはお母さん食堂のメニューにないのか?についての探索と考察:あやうしおふくろの味編

 

 ファミマのサイトには「お母さん食堂」におふくろの味の定番・肉じゃがが載ってない。

 動揺した僕は別に肉じゃがのファンでもなく、急に食べたくなったわけでもないのに、どうしても気になって近所のファミマの実店舗に行ってみた。

 

 入口には母ちゃん姿の香取信吾。

 しんごママが流行っていたのはもうずいぶん昔の話。SMAPの絶頂期だったが、彼の残した実績は生き続け、今回見事こうした形で復活した。割烹着がまたよく似合っててすごくいい。

 

 中に入るとキャンペーン中だけあって売り場も目立つ。ファミマの力の入れようが伝わってくる。

 

 しかし、その棚を上から順番に見て行って、チーズインハンバーグやらビーフカレーやらサバの味噌煮やらボルシチやら筑前煮やら里芋の煮物やらポテトサラダやらきんぴらごぼうやら・・・実にいろいろ揃っているのにない。

 肉じゃがはやっぱりない。

 

 諦めきれずに向かいの棚でパンの品出しをしていた店員のおねーさん、というか香取信吾より齢いってるお母さん風情の女性に尋ねてみる。

 

 「あの~、お母さん食堂に肉じゃがないんですか?」

 「肉じゃが?どれどれ・・・ああほんとだ、いま品切れしてるみたいですね」

 「え? ということはたまたま現在売り切れてるだけで普段はあるってこと?」

 「ええ、すみません。夕方また品物が来ますから」

 「ちょっと待って。それ本当?サイトには載ってなかったんだけど」

 「へ? いや記憶にあるよ。確かあったと思ったんだけどなー。

 あ、あれはセブンイレブンだったっけかな?」

 

 と、ライバル店の名前をボロッと出して、かなりあやふやな返事。

 

 これ以上問答してても埒が明かないなーと思ってファミマを後にし、こんどはセブンイレブンへ。

 

 こちらはお母さん食堂の一歩先を行くご存じ「セブンプレミアム」でファンが倍増状況。

 で、そのセブンプレミアムの並びをざーっと見ていくと・・・あったあった、ありました。

 ファミマ店員のおねーさんが見た憶えていたのは、やっぱりこちら。セブンプレミアム北海道の男爵肉じゃがです。

 

 そうか、セブンイレブンはやっているのにファミマはやっていないんだ。「お母さん食堂」と銘打っているのになんでなんでなんで?

 

 疑問を拭い切れず、ついに思い余ってファミマのお客様相談室に電話をかけてしまった。3回呼び出した後に女性の声。

 

 「はい、お電話ありがとうございます。ファミリーマートお客様相談室の○○でございます」

 「もしもし、福嶋と申しますが、お母さん食堂のメニューについて伺いたいことがあってお電話したんですが」

 「はい、ありがとうございます。どんなご用件でしょうか?」

 

 ・・・てな具合でなんでメニューにおふくろの味の代表選手である肉じゃががないのかと聞くと、サイトには載ってませんねーとピンぼけたお返事。

 

 「サイトでもお店でも見当たらないから電話して聞いてるんです。いったいあのラインナップはどういう基準で決められているのか知りたいんですが」

 「わかりました~。では商品企画室に問い合わせてみます。お客様のお名前とご連絡先を教えていただけますか」

 

 てな具合で電話番号を教えていったん切って他のことをやってると8分後に電話が鳴った。

 

 「問い合わせたところ、肉じゃがは出してないし今後も出す予定はないそうです」

 

 思わずセブンイレブンにはあるぞと言いたくなったが、そこはぐっとこらえて

 「そうですか。お忙しいところお手間をかけてすみませんでした」

 「いえいえ、また何かござまいましたらお気軽にお問い合わせください」

 

 てなわけでラインナップはどういう基準で決められているのかという話は忘れ去られていた。

 これはお客様相談室ではダメだ。

 何とか本社の商品企画室にダイレクトに取材を申し込まねばと思ったが、「日本のおふくろの味の変遷」だとか「和食大研究」とか「コンビニ惣菜の栄枯盛衰」とか、本でもサイトでもいいので何かそういう企画をやっているという大義名分がなくては乗り込めない。

 

 今のところ、仕事で頼まれてもいないし、自主企画でさすがにそこまでやる時間も情熱も持ち合わせてないので、今回はここで打ち切りにした。

 

 しかし、僕はある大きな変化に気付いた。

 やはり「おふくろの味=肉じゃが」という概念は間違いなく大きく揺らいでいる。

 なんといっても.ボルシチやエビチリがお母さん食堂にラインアップされる時代だ。

 そういえば僕だっておふくろに作ってもらったのはハンバーグだとかカレーだとかトンカツだもんな。

 若い連中にとっては肉じゃがなんて限りなく存在感の薄い小鉢料理の認識しかないのかもしれない。

 もはや肉じゃがは「古き良き日本の郷愁を誘うファンタジー料理」としてすら生き残るのが難しい時代に入っているのかも知れない。

 

 平成の終焉に向けて日本の文化は地殻変動を起こしている。

 そう感じられたのが、今回の収穫と言えば収穫かなぁ。

 

 これについてはまたの機会に考察を重ねたいと思っている。

 


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肉じゃがは幻想のおふくろの味

 お読みの女性の方、ダンナやカレ氏に「肉じゃが作ってちゃぶだい」と頼まれたことがありますか?

 

 僕はおふくろもカミさんも肉じゃがが嫌いなので家で食べたことはほとんどありません。(おふくろの場合は子供の頃、作ったことがあるかもしれないけど思い出せない)

 

 カミさんの場合は自信を持って「一度もない」と言い切れます。

 聞いたら「ジャガイモが半分煮崩れて汁や他の具材と混ざっているのが嫌」なのだそうです。

 なかなか神経が細やかな女性です。

 いずれにしても、自分が嫌いなものだから作るはずがない。

 

 と言って別に文句を言っているわけではありません。

 僕もカレーのジャガイモやポテサラやフライドポテト、コロッケその他、ジャガイモ料理は大好きですが「おれは肉じゃがが食べた~い!と叫んだことはありません。

 

 サトイモの煮っ転がしは好きだけど、あの甘い醤油の汁はじゃがいもには合わないと思っています。

 

 思うに肉じゃがは日本が近代化して間もない貧しい時代、そして庶民も月に一度くらいは肉を食べられるようになった時代――明治とか大正に庶民の食卓で発展したおかずだろうと思われます。

 

 一家のお母ちゃんがかまどの前に立ち、家族みんなで食べるには少なすぎる肉をどうやって食べようと思案した挙句、そうだ、あのすき焼きのような(当時は肉を使ったごちそうといえばすき焼きをおいて右に出る料理はなかった)味のものにしよう、安い野菜と合わせて煮るんだ。そうだジャガイモがいい。ジャガイモを主役にすればお腹もいっぱいになるし、それにあまりものの玉ねぎやニンジンを入れて煮込めば・・・はい、出来上がり!

 という感じでお母ちゃんが工夫を凝らして生まれた料理が肉じゃがです。

 これがデン!と鉢に盛られて食卓の真ん中に置かれる。

 ほかほかと立つ湯気と匂いが食欲をそそる。

 「いただきまーす1」と10人もいるような大家族が一斉に競いあって食べる。

 「こらノブオ!肉ばっか選って食べるじゃない!」と、母ちゃんの優しく暖かい怒声が飛ぶ。

 他におかずと言えば漬物くらいしかないけど肉は食えるし、ジャガイモでお腹はいっぱいになるし、今夜の家族は幸せだ。

 

 そんな時代が長く続き、肉じゃがは不動の「おふくろの味」となったわけです。

 

 というわけですが、男性の方はカミさんやカノジョに「肉じゃが作ってちゃぶだい」と頼んだことがありますか?

 

 いまだに肉じゃがは「おふくろの味」の定冠詞を被っていますが、豊かになっちゃったこの時代、この料理をそんなに好きな人は大勢いるのだろうか?

 街の中の定食屋に入っても「肉じゃが定食」なんてお目にかかったことないもんなぁ。

 そもそももはやメインディッシュとなり得ない。食べるとしても副菜というか小鉢でつまむ程度。

 

 けれども副菜だろうが小鉢だろうが、ばあちゃんもおふくろもカミさんも誰も作らなくなっても、古き貧しき日本の郷愁を感じさせる肉じゃがは不滅なのだと思います。

 これから先は明治・大正・昭和のストーリーを背負ったファンタジー料理としてその命脈を保っていくでしょう。

 

 ・・・と思っていたけど、香取信吾がコマーシャルやってるファミマの「お母さん食堂」のメニューにはポテトサラダはあっても肉じゃがは入ってないぞ! 危うし肉じゃが。この続きはまた明日。

 


女目フィルターの少年像と少女版スタンドバイミーについて

 

 「スタンド・バイ・ミー」の映画を観た同年代やもう少し若い女の子たちから「あれは男の子にしかわからない世界だよねー。男がうらやましー」といった趣旨のコメントをよく耳にした。

 

 うん、確かにそうかもしれない。

 そもそも女の子は野ざらしになった死体を見に行くなんてバカげた目的のために何マイルも歩いて命がけの冒険するなんてアホくさいことはネバーしない。

 

 そんなのは人生の無駄使いだ。

 女の子の時代は短い。彼女らはすぐにオンナになることをあらかじめ知ってるし、(生みの)母親になるのにだってタイムリミットがあることも小さなころから知っている。

 いつまでも遊んで飲んだくれてて、60になっても70になっても生物学上の父親になれる男とは事情が違うのだ。

 

 「男っていいな」という彼女らの呟きからはそうした潜在的な女の宿命が感じられた。

 

 と思ったのは30年前のことだけど、それと同時に彼女らはどうも「少年」という、男になる一歩手前の存在に大いなる幻想を抱いているようだとも思った。

 

 特に「スタンド・バイ・ミー」のリーダー格のクリスは、タフでクールで勇敢で優しく友だち思い。抱きしめたくなるような可愛い一面もある。

 そして彼は自分を取り巻く過酷な運命との闘いを余儀なくされている。

 女性から見れば理想の少年像に近いのではないだろうか。

 

 しかも映画ではそのクリスの役を当時売出し中の美少年俳優リバー・フェニックスが演じていた。幻想はますます肥大する。

 

 ちなみにフェニックスはこの映画からわずか7年後に夭折。生きていればあのルックスと演技力からハリウッドのトップ俳優になっていた可能性も高いだけに残念だ。

 

 ファンタジーや児童文学や少年マンガに出てくる女目フィルターのかかった少年像は僕も好きだ。

 ある程度幻想が混じっている方が、キャラクターが生き生きして、のびやかに動ける。一言でいえば魅力的になる。

 だからこうした分野は女性作家が大活躍できる。

  こうした女性たちにも「スタンド・バイ・ミー」は大きな影響を与えたのではないだろうか。

 

 女に男の世界のことはわからないと思うけど、わからなくていい。男のしょーもない現実など知って得することなんてほとんどないし、もし知ってしまったら必要最低限の部分を残して、あとは目をつぶった方がいい。

 

 さて今回「スタンド・バイ・ミー」を読み返してみて唐突に、30年前とは正反対のことを考えた。

 

 そもそも女の子は野ざらしになった死体を見に行くなんてバカげた目的のために何マイルも歩いて冒険するなんてアホくさいことはネバーしない。

 

 その時は確かにそう思い、ずっとそう思い続けてきたけど、いや待てよ。1960年ではなく、1980年代も通り過ぎた今ならそうとも言えないのではないか。

 

 とんでもなくバカバカしい目的のために、何人かの女の子たちが命がけの冒険をする。

 今の時代ならそういう「少女版スタンド・バイ・ミー」も成り立つのではないかと思う。

 なんでかという根拠は特にないんだけど、そういう話はあるんだろうか。あったら読んでみたいんだけど。

 


30年ぶりのスタンド・バイ・ミー

 

 およそ30年ぶりくらいにスティーヴン・キングの「スタンド・バイ・ミー」を読んだ。

 この4人の12歳の少年の小さな冒険物語はロブ・ライナー監督によって映画化され、80年代に大ヒット。そして今も語り継がれる名作映画になった。これはその原作だ。

 

 定番となっているレビューには「この年齢特有の男の子の世界」「友情」「成長物語」というキーワードが必ずと言っていいほどくっついている。

 確かに映画はそうしたニュアンスを強調して作られており、僕の中でも観終わった後の甘い感傷のようなものが、エンディングテーマ「スタンド・バイ・ミー」のメロディとともに残っている。

 

 以前読んだのは20代半ば頃だった。

 映画を見て読んだので、映画とほとんど同じという印象を持っていた。

 もちろん今回も当初は同じイメージを持っていて、もう一度どんなだったか確かめてみようと思ってページをめくってみたのだ。

 

 そうしたらぜんぜん違っていた。

 自分の齢のせいだろうか?

 50代の男には、これは12歳の男の子たちの成長物語とも、友情物語とも映らなかった。

 成長や友情という言葉が放つ明るいイメージ、爽やかなイメージとはまったくかけ離れているのだ。

 

 実はこの原作の題名は「Stand By Me」ではない。

 原題は「The Body」。これは死体のことだ。

 

 自分たちと同じ12歳の男の子が列車に轢かれて死んだという情報を得て、その死体を見に行こうと4人の少年が冒険に出かける。これはそういうストーリーなのだ。

 死の誘惑にかられた子供たち。

 ちょっと考えれば、明るく爽やかになるはずがない。

 小説の底辺にはむしろ暗く陰鬱なトーンが響いている。

 

 その暗さ・陰鬱さの原因が、キングの他の多くの小説と同じく「恐怖」だ。恐怖と言っても霊や悪魔が出てくるわけではない。

 それは少年たちが生まれ育ってくる中で体感し、植えつけられた生活の中の恐怖。生きる上での根源的な恐怖。否応なく背負わされた人生に対するリアルな恐怖だ。

 

 彼らはそんな恐怖心を覚えざるを得ない環境で育った。

 それを象徴するのが暴力的な父親だ。テディの父親は精神を患い、幼いテディの両耳を焼いてしまう。クリスの父親はしじゅう酔っぱらって子供たちを殴りつけている。

 

 その父親たちをフォローするかのように、不良化した兄たちがこれまた暴力的で少年たちを震え上がらせる存在になる。

 

 そして教師や周囲の大人たちは、あんな家で育った子供らはろくな人間にならないとはなっから決めつけている。

 

 1960年のキャッスルロックというアメリカの片田舎は、そういう生活習慣の世界だったのだ。

 

 12歳ともなればそんな諸々の事象が何を意味し、自分たちの将来にどう響くのか感じ取れてしまう。

 

 ここで描かれる少年たちの友情とは、自分たちを取り巻く大人たちや地域社会から受ける恐怖や不条理から互いの身を守るために必死でしがみつき合う――そうした類の友情だ。

 

 そして何とかその恐怖を乗り越えたとき――それを成長と呼ぶなら成長した時、少年たちはバラバラになってしまう。

 

 友情はある夢の一時だけ空に掛る虹のようなもの。

 主人公(語り手である)ゴードン=作者キングの分身の3人の友人たちは皆、ここで描かれた冒険から10年あまりの間にこの世から去っていく。

 

 後味は何とも苦い。20代の頃に感じた、感傷を帯びた甘い味は何処へ行ってしまったのだろう?

 

 だからといってこの作品が嫌いになったわけではない。

 むしろその重層的な味の深さに感心すことしきり。30年前は僕は面白おかしいストーリーの上っ面しか読んでいなかったのだ。

 

 今回、読み返してみて本当に良かったと思う。

 やはりこれは少年小説のバイブルともいうべき名作なのだ。