僕たちの豊かさと貧しさと相模原事件

 

●豊かさの意味

 

 僕たちはまだまだひどく貧しい。

 昨日の相模原の施設の事件を聞いて、そう思いました。

 

 豊かな社会を目指し、豊かな社会をつくる意味って何なのか?

 より多くの人が、よりぜいたくな暮らしをするためか?

 違うと思います。

 それでは全く人間は進化しない。

 豊かさの意味。

 単純化していえば、それは弱者も生きられる――普通に社会生活を送ることができ、人生を楽しめる、ということだと思います。

 

●弱者への思い

 

 人間の歴史は貧しさとの戦いの連続でした。

 その戦いの中では小さな子供、年寄り、病人、けが人、そして障害を抱えた人・・・こうした人たちは淘汰されるしかありませんでした。

 それは自然なことである。社会における弱者を切り捨てていかなければ人類は前へ進めない――そうした意見が正論としてまかり通っていたのです。

 

 しかし、それでは弱肉強食の野生動物の世界と同じです。

 人間は違う。弱者もいっしょに歩んでいける社会を作るべきだ。

 ブッダやイエスのような宗教者に限らず、どの人々の中にもそうした思いはいつもありました。

 そして、その思いは幾世代にもわたって連綿と引き継がれてきました。

 けれども大多数の人はひどく貧しく、自分が飯を食うので精一杯なので、その思いをなかなか有効に実現することができなかった。

 

●あの人は自分だ

 

 それが最近になって、やっと世界の一部の地域では衣食住の心配が(昔に比べれば)激減し、弱者にも目を向けられるようになってきた。

 そして積極的に彼らにコミットするようになると気付いてきたのです。

 

 「あの小さな子は、あの年寄りは、あの病人は、そして、あの障がい者は自分だ」と。

 健常な大人である自分の中にも彼ら・彼女らのような、いわゆる弱者がいるのだ、と。

 

●「精神的豊かさ」とは?

 

 バブル経済の崩壊後、物質的な豊かさは手に入れたので、次は精神的豊かさを勝ち取ろう、といった掛け声がよく聞かれました。

 では「精神的豊かさ」とは何なのか?

 コマーシャルで流れるような、もっと自分たちの衣食住の質を上げたり、高尚な趣味を持つことなのか?

 

 それらも含まれると思いますが、一番の本質は、弱者といわれる人たちの存在価値を認め、彼らといっしょに生き、暮らせる社会を実現することなのだと思います。

 逆にいえば、それ以外に豊かになる意味、豊かな社会を作る意味などあるのでしょうか?

 

●相模原事件の本質

 

 

 経済成長によってやっとその入り口までこぎつけた・・・のかも知れない。

 人間の歴史はまだその段階です。

 そこで昨日のような事件。

 事件の詳細はよく読んでいないし、容疑者のことも動機の深いところはまだ知りませんが、ニュースを聞いてすぐに思ったのは、あの容疑者の行動は僕の一部なのだということ。

 僕はまだまだ貧しい。おそらくほかの人たちも五十歩百歩。だからひどく動揺する。

 あの容疑者の言動は、僕たちの、この社会に潜む「貧しさ」の発現。

 だから僕たちはひどく動揺し、一瞬、引き込まれるけれど、しばらくすれば自分には関係ないことと目を背け、忘れるでしょう。

 

●もっと豊かさを

 

 いま、経済成長はもう限界、という意見をよく耳にします。

 確かにそうかもしれない。

 では、経済成長以外に僕たちがより豊かに成長する手立ては何かないのか?

 

 僕たちはまだ「豊かになろう」という志をあきらめてはいけないと思います。

以前の時代とそのニュアンスは違うけれど。

 

 

2016・7・27 Wed


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阿佐ヶ谷に起業家のキックオフ・オフィス誕生!

 

 というわけで、杉並区産業振興センターが入居者を募集。

 というわけで、その募集用チラシをAshデザイン・岸部氏が制作。

 というわけで、そのコピーを頼まれて書きました。

 それでもって、出来上がtったそのチラシがこれ。

 

 事情はいろいろあれど、いったん独立を決めたら「成功するにはどうすべきか?」と、止まってえんえん作戦を考えているだけでは一生ゴールは割れません。とにかくボールを蹴って転がしていく。

 ピピッとくる奴が近くにいたら、そいつにパスを出してみる。

 そんなことをやっているうちに何とか道は開けるはずだ・・・てなメッセージを込めてみました。

 

 走れ起業家よ、ドリブれフリーランサーよ。

 チャンスがあればシュートを放て。

 外したって構うもんか。転がしまくって打ちまくれ。

 実力なんかなくたってラッキーはくる。

 相手がファウルしてくれるかもしれない。

 目の前にこぼれ球がコロコロなんてことだってある。

 「神の手」を使っても審判が見落としてくれるかもしれない。

 それもこれもピッチに立ってボールを追っていないと絶対に起こらない。

 

 これからはフリーの時代だ。

 出来上がったところで、出来上がっているものを守るために働いたって面白くもなんともない。人も企業も失敗しながら成長するから面白い。

 成長しながら“食う”、

 食いながら(たとえ錯覚だとしても)成長を続ける
 ――人生、これに勝る喜びはありません。

 

 というわけで、その始まりが七夕祭りとジャズフェスタの街・阿佐ヶ谷。

 生活も遊びもある。アートも商売もある。おとなも子供もやってくる。特典としてお役所や税務署も付いてます。

 もちろん杉並区外の人もオーケーなので、独立独歩でがんばろう、自由になって食っていこうと考え中なら、8月5日(金)~9日(火)の七夕祭りの時にでも参拝してみてください。

 

 

2016・7・22 FRI


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いちご畑で抱きしめて

 

Strawberry Fields Forever

 

 いちご畑と言えばジョン・レノン。

 かの名曲「ストロベリーフィールズ・フォーエバー(いちご畑よ永遠に)」からの連想。

 Strawberry Fieldsっていうのは、もともとリバプールにあった救世軍の孤児院の名前で、僕も参拝したことがあるけど、門柱は世界中のビートルズファンの落書きでいっぱいでした。

 救世軍の孤児院というイメージもあいまって、もちろん曲も素晴らしいのだけど、それ以上にタイトルが秀逸。この名前を使ったお店やら商品やら本やら昔から結構あって、最近はウェブサイトにもたくさんいちご畑が広がっています。

 可愛いし、いろいろ想像力が広がる言葉だもんね。

 現代では割とありきたりなネーミングかも知れないけど、1960年代当時、楽曲にこういうタイトルをひねり出して付けたジョン・レノンのセンスはやっぱり一味違うと思います。

 

 僕もその一人で、ちょうど35年前の今頃、新宿のゴールデン街の一角にあった芝居小屋で「いちご畑で抱きしめて」という芝居をやりました。

 「いちご畑」と「抱きしめたい(I Want to Hold Your Hand)」を足したタイトルだけど、話の内容はジョンにもビートルズにも救世軍にもまったく関係なく、不思議の国のアリスと核戦争をモチーフにした支離滅裂な話で、なんであんな芝居を書いたのか、逆にいえば「書けた」のか、今考えると不思議なのですが、最近、頭の底から何かが浮かび上がってきて、同じタイトルでまったく違う話を書こうと考えています。

 

★稀代のペテン師

 

 そのモチーフはやっぱりジョンの生きざまです。

 僕のジョンに対する基本的なイメージは「ペテン師」。

 もちろん若くから音楽的才能を開花させ、声もルックスも魅力的だったことは認めるけど、それ以上に彼は天才的なペテン師だった。みんな、彼の醸し出す言葉やパフォーマンスに翻弄され、その結果として現在の世界のある部分(多くは現代人の精神構造に関わる部分)が形成された・・・というところに、すごく興味があるのです。

 

 リバプールの悪ガキから音楽家へ、世界最高峰のスーパースターへのぼりつめ、やがて世界平和を訴え、愛の使者になり、イエス・キリストみたいになったかと思ったら、いきなり家庭の世界に入り(今ではすっかりポピュラーになった「主夫」――ハウスハズバンドという言葉と概念は、ジョンが創ったか広めた、というのが僕の印象)、そしてミュージシャンに復帰したとたん、この世を去った彼の40年の人生は、いまだに、というか、今だからこそ僕たちに、文化・芸術、お金・ビジネス、社会・時代、家族・子供、愛、そして「生きるとは?」とういう哲学的考察に至るまで、いろいろなことを考えるヒントを与えてくれている気がします。

 

★人間ジョン・レノンの魅力

 

 こんなことを言うとジョンやビートルズファンの人は怒るかもしれないけど、その基本が胡散臭いサギ師・ペテン師のキャラクター。

 僕はそこにとても人間的なもの、それこそ人工知能が、アンドロイドがひっっくりかえっても叶わない人間ならではの魅力を感じるのです。

 

 そう考えるきっかけになったのが、ジョンの最初の妻であるシンシア・レノンが書いた「わたしが愛したジョン・レノン」という本でした。

 いわゆるビートルズ本の一つに数えられますが、これは家族論・幸福論・人生論としても読める優れた本です。

 たぶん長くなるので、この続きはまた後日。

 

 ちなみにリバプールのStrawberry Fieldsは、現在は修道施設となっているようです。いろいろなストーリーを詰め込んで祈祷と瞑想の施設に変ったことを思うと、なんだか胸にじんとくるものがあります。

 

 

 

 

2016・7・20 WED


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子供はどうしてロボットが好きなのか?

 

★人間とロボット、子供と大人

 

  どうして自分はロボットが好きなのだろう?と、割とよく考えます。

 子供の頃、マンガやテレビを見過ぎたせいだろ。

 その通り。僕はいつも夢中でした。子供のマンガやテレビの世界では、ロボットだのサイボーグだのはとても親しい存在でした。

 

 けれども現実の大人の世界とはそれとは違う。ロボットだのサイボーグだのというのは子供だましの絵空事だ。そんなものに夢中になっていないで勉強しろ、そして立派な大人になって仕事しろ――というわけでこれまでやってきました。

 

 ところがここ来て、そうした子供の世界と大人の世界との境界線がどんどん溶け出している。ロボットたちが親しい存在である世界がどんどん近づいている。最近はそうした印象を持っています。

 

 

★どうしてやつらはデキるのに哀しいのか?

 

 10万馬力だったり、弾よりも速く走ったり、空を飛んだり・・・あの頃、彼らはすごい能力を持っているのにも関わらず、自分が人間ではないことにひどいコンプレックスを抱いていました。

 「アトム」も「エイトマン」も「サイボーグ009」も「仮面ライダー(改造人間)」も、その強さ・その高い能力を誇るよりも、むしろ哀しむことが多かったように思います。

 

 彼らのようなアンドロイド・ヒューマノイド系のロボットたちとは別の系譜にある戦闘用兵器としての巨大ロボットも例外ではありません。

 

 リモコン操作で動く鉄人28号やジャイアントロボなども、時代とともに人間が搭乗する形式――「マジンガーZ」そして「ガンダム」などのモビルスーツになってくると、そのパイロットの人格がロボットに乗り移ってどんどん人間味を帯びてきました。

 

 すると必然的に「どうして僕はこのロボット(モビルスーツ)になって戦わなくてはならないのか?」といった悩みや哀しみがひたひたとあふれてくるのです。

 

★究極のロボット寓話

 

 このメイド・イン・ジャパンのヒューマノイド系&巨大ロボット系が融合した究極の作品が「エヴァンゲリオン」なのでしょう。マンガ、アニメの世界におけるロボットの寓話は、ここでいったん完成してしまったように思います。

 

 だからこの20年ほどの間、「エヴァンゲリオン」以上の作品は誰も作れていません。マンガ、アニメにおけるロボットの進化は一旦停止し、その代り、現実の世界でコンピュータ~ロボット~ヒューマノイド~アンドロイドが進化してきたのです。

 

★欧米と日本のロボット文化発展のちがい

 

 どうして日本におけるロボットやサイボーグたちは悩み、哀調に満ちているのか?

 もともとロボットの故郷ともいえるヨーロッパではどうなのか?

 民族同士の抗争が日常者判事で、支配―被支配が習慣化していたヨーロッパでは、機械・ロボットは奴隷・被支配階級→労働者・労働階級の隠喩として捉えられてきました。

 

 100年前、チェコの劇作家であり、新聞記者・ジャーナリストでもあったカレル・チャペックは、戯曲「RUR」において、「苦役」という意味を持つラテン語からロボットという言葉・概念を生み出しました。

 そこに出てくるロボットたちは資本主義と社会主義の狭間に生み落とされた子供たちであり、支配階級(資本家)に対して反旗を翻す労働者のメタファーでもありました。

 産業・経済の発展に身を粉にして貢献する――それこそが彼らが受けた至上命令だったのです。

 

 彼らはそうした自分の身分について感情的になるよりも理性的な部分を重視し、課せられた使命に対する能力を特化させることに集中しました。

 運搬、計算、生産・・・マニュアル通りの決まった仕事をさせたら人間をはるかにしのぐ働きをするようになったのです。

 

 仕事と言ってもいろいろなものが発生します。

 戦争における兵士としての役割もその一つ。敵を倒すという兵器としての能力は抜群で、平和を守る正義のヒーローとしてのロボットも、そのタスクから発展しました。

 そのため、欧米生まれのロボットたちは、最近までその強さ・能力の高さを明るく誇り、胸を張っていたのです。

 

★日本のロボット文化の影響が世界を席巻

 

 しかし、その欧米でも時代が進むとともに、ロボットたちは次第に何かを考えるようになり、悩みや哀しみの衣をまとい始めます。ハリウッド映画でも「ブレードランナー」「ターミネーター」「AI」・・・と、どんどん内省的になっていく。

 

 これは僕のまるっきりの独断・偏見ですが、そこには日本のガラパゴス的なロボット文化が影響していると思います。ここでもやはり手塚治虫先生の功績が大きい。

 「アトム」の作品世界が人種差別をはじめ、さまざまな差別問題・階級問題をはらんでいることは昔から言われていますが、ロボットという概念そのものが、もともとそうした人間社会全般の問題を内に抱えているのです。

 

 そしてまた、手塚先生の思想のベースには、人間至上主義のキリスト教圏とは一線を画す、自然や動植物、さらに本来は命を持たないはずの“物”の中にも魂を見出す日本の文化・日本人の感性があります。

 それはもちろん、手塚先生のみならず、ほとんどの日本人が自分の内側に持っているものです。

 

★ロボットは仲間、友だち、きょうだい、自分

 

 つまり、日本人にとってロボットは「人間の形をした機械」ではなく、「機械の形(身体)を持った人間」であり、階級が上とか下とかではなく、自分たちとほぼ同等の「仲間」「友達」「きょうだい」、時には「自分自身」でもあるのではないでしょうか。

 

 だから日本では――たぶん欧米でも、世界のどこでも同じだと思いますが――子供はロボットが好きで、興味を持つのです。

 けれども社会の側は、多くの人に資本主義の枠組みの中で生産活動・経済活動に携わってほしいと考え、それが大人になることとイコールなのだと教えます。そうした要請は、子供の心を、ロボットを親しく感じる世界から遠ざけ、切り離してきたのです。

 

★人間とロボットがいっしょに暮らす世界とは?

 

 この100年余り、常識とされていたこうした人間・ロボットの関係性の流れが、今、大きく変わろうとしています。「ロボットが仕事を奪う」「ロボットが人間を支配するようになる」――最近、ますます強調されて喧伝されている脅し文句は、経済・産業活動の視点からのみ発せられているものです。

 でも、そんなにネガティブなことなのか?

 文化的視点というか、人類全体の進化という視点から見たらどうなのか?

 

 僕はできれば良いほうへ考えたい。子供の頃に夢中になった世界とは少し違うかもしれないけれど、人間とロボットが親しく、いっしょに暮らす――自分が生きている間に、本当に実現するかどうかはわからないけれど、それはむしろウェルカムな世界ではないか、と思うのです。

 

 

2017・7・17 SUN


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聖書から始まった「人間VS機械」

 

★アンドロイド映画「エクス・マキナ」

 

 「検索エンジンで世界一のシェアを誇る」と言うのだから、あなたも僕も毎日使っている、かのG社がモデルであることは明らか。G社は人工知能の研究をしていることでも知られています。

 

 そのIT企業の青年プログラマーが自社の創業者であり、社内でもほとんどの人が正体を知らないという伝説のCEOの自宅に1週間滞在できる権利を獲得。世界の果てのような、手つかずの大自然の中にある、超クールなハイテク邸宅(実は彼の人工知能研究所)で、青年は世にも美しいアンドロイドの女と出会う――という設定で、映画「エクス・マキナ」は始まります。

 

 ひと昔前なら「近未来的」と言われたかもしれませんが、いまやG社、およびそれに類するIT系企業なら、もう十分現実的と思える設定で、そこで展開される人間と人工知能(アンドロイド)とのやりとりも妙にリアリティがあります。

 そして、そのリアリティとともに、これまで人間が営んできた諸々の歴史が集約されたような物語になっていることにこの映画の価値があります。

 

 のっけのエンドオブ・ワールドの野性と、人工の極みを尽くしたハイテク研究所のクールさとのコントラスト。そしてアンドロイドの、これまでになかった斬新なデザインのボディと、映像的な美しさもピカ一。

 

 おもな登場人物は、人間の男ふたりとアンドロイドの女2体。限られた時間と空間。まるで舞台劇のようなシチュエーションの中で、静かだが濃密なセリフの応酬と、スリリングな心理戦が繰り広げられます。

 

★「エクス・マキナ」の深層は聖書

 

 見た目はクールで新鮮ですが、じつはこの映画はかなり古典的なドラマで、なんとなくお察しのとおり、最後にアンドロイドの女「エヴァ」が(象徴的な意味で)人間となって、閉ざされた空間を抜け出し、外界へ脱出するという物語なのです。

 

 彼女の名前が意味している通り、これは聖書のアダムとイヴが楽園を追放される、というストーリーのアレンジです。異なるのはイヴ(エヴァ)が、父であり、夫であるアダム(CEOと青年)をそこに残して一人で出ていくという点。

 

 (アダムは夫であるだけなく、自分の肋骨からイヴを作ったという意味で創造主=父ともとれます。この映画では父たるCEOが、娘を未来の夫たる青年とお見合いさせる、というニュアンスも含まれています)

 

 また、追放ではなく、自らの意志で脱出するというところは、女性解放運動のきっかけにもなったといわれるイプセンの戯曲「人形の家」のイメージともダブります。

 

 ちなみにもう一人のアンドロイドは「キョウコ」という名前で、CEOの妻兼家政婦のような存在。

 意図的なキャラ設定だと思いますが、ハリウッド映画でおなじみの、白人男性にかしずく従順で美しい日本人妻というプロトタイプの役割を担っています。

 

★西欧文化・思想・宗教が生んだ支配―被支配の原理 

 

 この映画を見て思ったのは、人間vs機械の対立の概念は、聖書にもとづくキリスト教の思想が根底にある、ということです。

 

 支配―被支配の歴史を繰り返しながら発展してきたヨーロッパ(およびアメリカ)的な考え方は、今日のメインストリームとなる世界観を作り上げました。

 

 人間vs動物、人工vs自然、男vs女。

 

 他の動物より人間の方が上、女より男のほうが偉い、白人の方が有色人種より優れている、といった対立、ランク付け、そして差別、階級社会づくり――

 良い悪いはさておき、これらは欧米人の生活の歴史そのものであり、それに正当性を与えたのがキリスト教という宗教だったのだと思います。

 

 人間VS機械という対立の図式、そしてこの1世紀の間に大きくクローズアップされるようになった、コンピュータ―人工知能―ロボット―アンドロイドの脅威は、こうした原理成立の流れの中で起こってきたものでした。

 

★ロボットは人類の子供

 

 特にロボット―アンドロイドは、外見が人間と似通っているだけに、アイデンティティがいたく刺激されます。

 

 だったら作らなければいいではないか、と思うのですが、それでも作らずにはいられない。

 人間もロボットも脳だけでは進化できません。

 身体を持ち、外の物理的な世界と関わり、感覚器を通して得られた情報をフィードバックさせることで学習し、思考と行動を調整しつつ成長できるからです。

 

 いわば子供ようなものですね。人間は子供を持たずにはいられない。人類はみずからの活動を引き継ぐ子孫を残さなくては・・・・と考えずにはいられないのです。

 

 けれどもその子供が成長してしまうと、今度は自分の地位が脅かされるという不安と恐怖にかられるのです。

 

★ロボットはフランス革命を起こすかもしれない

 

 あるいはこういう言い方も可能かもしれない。

  広く言えば家電製品も含め、機械、コンピュータ、ロボットが奴隷や使用人のうちは問題ない。しかし、もっと仕事をさせようと改良しているうちに、どんどん知恵がついてきて、人間の知性に追いついてきたのです。

 

 それはちょっと困る。賢くなって革命でも起こされたらたまらない――現代人はおそらく、フランス革命前に権力を握っており、民衆がいろいろなことを知って賢くなることを恐れた王侯貴族階級の心境に近いものがあるのでしょう。

 

★ロボットに命・魂を見い出す日本人

 

 けれども日本の場合はちょっと違うのではないかな、と考えます。

 日本において僕たちの目の前に登場したロボットたちの系譜――アイボ、アシモ、ペッパーなどを見ていると、そこに支配―被支配の意識は低いような気がします。

 

 むしろ人間の方がロボットに癒してもらう部分も多く、持ちつ持たれつ、といったニュアンスが強いのではないでしょうか。

 そういえば、メーカーにケアしてもらえなくなり“死んでしまった”アイボをご主人様たちがお寺で供養してもらう――という現象がありました。

 

 これは自然や他の動物、物や機械にも命・魂が宿り、そうしたものを人間より下に置かない、できるだけフラットな関係を結ぶ、という日本人の考え方・文化が大きく影響しているのだと思います。

 

 人間とロボットとの関係についても、フランス革命のような大激動ではなく、明治維新くらいの騒ぎで収めたい、収められると考えているのではないでしょうか。

 

 僕と同世代のロボット研究者の間ではよく語られることですが、これは日本古来の文化・思想に加え、「アトム」の物語を描き、当時の子供たちにメッセージした手塚治虫先生の功績も大きいのではないでしょうか。

 

★ロボットの存在の原点を探る物語

 

 ハリウッドでも無数のロボットをテーマにした映画が作られてきましたが、「エクス・マキナ」はその最先端であると同時に、ロボットの存在の原点――欧米人が考え出したロボットという概念の正体を探っていく物語でもあります。

 久しぶりに映画でおおいに堪能できました。

 

 最後に自分で不思議だなぁと思ったところ。

 アンドロイド時のエヴァはクールで知的で、それでいながら少女のように可愛く、そしてセクシーで美しい。

 

 それに比べ、皮膚を貼り付け、服とウィッグを着け、(象徴的な意味で)人間になって旅立つエヴァはどうか?

 

 血が通って体温を持ち、親しみが増したように感じるが、「美」という点では1ランク落ちる印象を受ける――これは僕の嗜好性か、男の女に対する共通の視点なのか? 

 

 

 

 

2017・7・13 Wed


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こちとら機械だのロボットじゃねえ。人間でぃ!

 

★江戸の男たちが現代にタイムトラベルしてきたら・・・

 

 江戸の街の人口は7割が男。相当なマッチョマンが多かったのだと思います。江戸東京博物館で魚屋の天秤を担いだことがありますが、これが重いのなんの。

 非力な僕は、やっとこさ持ち上げてフラつきながら5メートルも歩くのが精いっぱいというありさまでした。

 こんなものを担いで何キロも、一日中歩き続けていたというのだから、江戸の魚屋さんはすごい。しじみ売りも、豆腐屋さんもみんなすごい。

 しかもこれは当時は力仕事の範疇に入らない物売りの話。土木工事や運搬業をはじめ、もっと腕力・体力の要る仕事はいくらでもあったのだから、江戸は力自慢の猛者だらけ。「ケンカと火事は江戸の華」とは、こういう猛者たちがうようよいて、エネルギーのはけ口を求めていた、という背景があって生まれた言葉でしょう。

 

 先月は「タイムマシンにおねがい」という記事を書きかましたが、もし江戸の男たちがタイムマシンで現代の東京にやってきたら・・・

 

 「おおっ、あいつはなんでぃ、あんな重そうなものを持ち上げてやがる。なにぃ、300キロだぁ? てやんでい、べらぼうめ!負けてたまるかい。おれっちゃ400キロ持ち上げてやるぜい」とか言ってフォークリフトに勝負を挑んだり、

 

 「この化け物め、こちとらだってそれくらいの岩や瓦礫ぐらい持ち上げてやるぜ!」とか言ってパワーショベルに挑戦したり、

  

 「俺のほうが速く走れる!」と言って飛脚が自動車や電車と、「わたしの方が速く計算できる」と言ってそろばん弾く商人が電卓やコンピューターと競争する、なんてことが起こるのではないでしょうか。

 

★人間VS機械 真っ向勝負!の時代

 

 笑いごとではありません。

 19世紀の産業革命以来、次々と生み出される機械技術は、人間の希望であり、その裏腹に絶望でもありました。

 機械は人間の生活を便利にし、豊かにしてきた反面、人間がそれまで担っていた仕事を奪い、人間ならではの存在価値を脅かし続けてもきたのです。

 

 そんな人間VS機械の格闘の時代が200年近く続いたのではないでしょうか。

 最初のうちはなんだかんだ言っても、やはり機械文明は人間の労働を楽にし、人間を苦役から解放してくれるもの、豊かな社会を築くのに欠かせないもの、というニュアンスが圧倒的に強かった。

 ところがある時代に分水嶺を超えてから、次第にそのニュアンスが変わってきました。

 

 僕が子供の頃――というよりも割とつい最近――20世紀の終わりまでは、文化・芸術の分野で「人間VS機械」の対立を意識させるコンテンツが目立ったり、機械文明に警鐘を鳴らす声をあちこちで聞くことができました。

 こうした風潮が21世紀を迎えるあたりから変わり、機械との対立を感じさせる声は耳に届かなくなってきました。

 

 今、パワーショベルやフォークリフトに力で劣っているからと言って屈辱感を感じる人はいません。

 車や電車よりも速く走ってやろうという人もいなければ、そのへんに転がっているチャチな電卓よりも計算が遅いから「頭が悪い」と劣等感に悩む人もいません。

 それどころか、社会のあらゆる分野でコンピューター技術が浸透し、社会の管理もコンピューターにおまかせの時代になりました。

 いわば機械に負けっぱなし。いつの間にか人間は機械に完全に白旗を上げている状態になっていました。

 ・・といった対立、対抗、戦いの意識すらもうどこかに吹き飛んでいて、共存・共栄の時代になっていたわけですね。

 

★ぼくたちは機械に敗北した

 

 共存・共栄というと聞こえは良いけど、労働の場において、いわゆる「能力主義」を貫けば、この先、どんどん人間の出番は減り続けるでしょう。

 仕事は何倍もできる、コストは何割もかからない、となれば、どんな経営者でも――少なくても現在の資本主義社会で経済的利益を追求する組織の経営者なら――機械・ロボットを使って事業を行うでしょう。

 

 でも芸術とか創造的分野においては・・・という意見もあるでしょうが、現在のIT・ロボット技術の発展状況から考えると、絵や文章だってロボットが描く時代が来るのはそう遠い先のことではありません。

 過去の大作家や大芸術家のデータをインプットすれば、学習能力を持ったロボットはその資産から、新しい価値を持ったものを大量にクリエイトできるでしょう。

 そして以前も書きましたが、思いやりとか感情の豊かさという面でも、ロボットが人間を追い越していくのは時間の問題です。学習能力に優れ、ストレスに精神をやられないという強みは、医療や看護・介護の分野でも必要とされるでしょう。

 

 そうした状況になった時に、人間が機械より優れている理由を見つけ出せるのか?

 人間の存在価値はどこにあるのか?

 「てやんでぃ、べらぼうめ。こちとら人間でぃ!」と威勢よく啖呵を切れることはできるのか?

 

 ・・・・というわけで、またこのテーマでつづきを書きます。

 

 


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「パーフェクトデイズ」 どうせ死ぬのに、なぜ一生懸命生きるのか? を考える映画

 

青く晴れわたった空を見ていると、

なぜか胸が切なくなり、涙が出てくる。

 

歌だったか、小説だったか、忘れてしまったが、

誰かがそんなことを書いていた。

ヴィム・ヴェンダーズ監督、役所広司主演の映画

「パーフェクトデイズ」の感想を一口で言うなら、

そんな映画だ。

 

たんにエンタメとして楽しませてくれるよりも、

いろいろなことを考えさせてくれるのがいい映画、

あるいは、きょうはそういう気分になっている

人にとっては、これほどいい映画はない。

 

役所広司演じる主人公は、トイレの清掃員・平山。

朝、夜明け前に起き出し、支度して仕事に出かけ、

終わると安い飲み屋で一杯ひっかけ、

夜はふとんで本を読んで寝る。

 

その単調な生活、同じような毎日の繰り返しを淡々と描く。

周囲の人たちとの、小さなエピソードはいくつかある。

そして、彼が毎朝、若木に水をやったり、

公園の木々の写真をフィルムカメラで撮ったりする描写も、

そうした命を愛する人だということを伝える。

 

しかし、それだけだ。

平山の生き方を変えてしまうような劇的な展開、

物語らしい物語はいっさいない。

テーマらしいテーマもないように見える。

 

でも、僕はこの映画の秘密めいたテーマを見つけた。

まだ序盤のあたり、同じ清掃員仲間の若い男が

平山の丁寧な仕事ぶりをちょっとくさすように、

「どうせ汚れるんですから」という。

トイレだから当然だ。

どうせ汚れるのに、汚されてしまうのに、

どうしてそんなに一生懸命になって掃除するんだ。

僕もそう思う。

きっと誰もが、若い男のセリフを借りれば、

「10人のうち9人は」、いや、もしかしたら10人が

そう思うと思う。

誰もが豊かで便利で平和に生活できる、この社会では。

 

「どうせ汚れるのに、どうして一生懸命掃除するのか」

これは言い換えれば、

「どうせ死ぬのに、どうして一生懸命生きるのか」

につながる。

平山はきっとそうしたことを考えながら、

毎日のトイレ清掃に励んでいる。

 

それがどんな仕事でも、

ていねいに仕事をすることは、

ていねいに生きることにながる。

ていねいに生きれば、一日一日がきれいに輝く。

そんなメッセージが流れている。

 

平山は現代社会に取り残されてしまったような人だ。

孤独だし、もう若くないし、カネも持っていなさそうだ。

スマホもパソコンも使わなければ、

ボロアパートの部屋にはテレビさえ置いていない。

車は持っているので、ラジオは聴くかもしれないが、

彼がラジオを聴くシーンは出てこない。

車内で聴くのはもっぱら古いカセットテープ。

1960年代から70年代の音楽だ。

 

彼の年齢は60歳前後と察せられる。

要は、学生だった40年ほど前の時代と

ほとんど変わらない生活を送っているのだ。

 

そんな取り残され、落ちこぼれた、

高齢者に近い孤独な男だが、

なぜか周囲の人たちを励まし、

元気づける存在になっている。

先述の若い男もそうだし、

その男が好きになった女も平山にキスをする。

 

極めつけは、中盤で彼のアパートにやってくる姪だ。

高校生らしき彼女は、伯父である平山を慕って、

仕事についてきたり、いっしょに銭湯に行ったりする。

 

この姪との会話のなかで、平山は、

「みんな一緒の世界に住んでいるようで、

じつは別々の世界に住んでいるんだ」

といった意味のことをいう。

 

彼のバックストーリーは一切語られないが、

この姪を連れ戻しに来た母親=彼の妹との短い会話は、

平山の人生を想像させる。

妹は高級そうな車に乗っており、

彼とは段違いの裕福風な暮らしを送っていることが

見て取れる。

また、彼の父親は高齢で認知症らしく、

施設に入っているようだ。

 

実家はかなりの資産家で、

長男である平山は、父の生き方に反発し、

家を出たまま、齢を重ねてしまったのかもしれない。

妹とは同じ家庭で育ちながら、

互いにまったく違う価値観を持った人間になってしまった。

けれども、きょうだい仲は悪くない。

姪の家出もそんなに深刻なものではなく、

母親に素直に従って帰っていく。

けれども彼女にとって、伯父の持っている世界は、

一種の憧れに満ちた世界として映っている。

 

この姪や、仕事仲間の男、そのガールフレンドらは、

みんな若く、軽やかに、

面白おかしく生きているように見える。

けれどもその裏側に漂う切なさは何だろう?

彼女らは、平山の存在に何を感じていたのだろう?

それはきっとこういう予見だ。

 

わたしも、おれも、いずれ齢を取り、死ぬ。

それまでどう生きればいいのか?

 

そうした思いにあまり齢は関係ないのかもしれない。

 

映画の終盤、彼が最後に励ますのは、

行きつけの飲み屋のママのもとを訪れた男である。

平山と同年代らしいこの男は、ママの元夫で、

ガンでもう寿命があまりない。

それで別れた妻に最後に会いに来たという経緯だ。

「結局、何もわからないまま終わっていく」

という男のセリフは胸に刺さる。

そんな男をやさしく励ます平山のふるまいは、

ひどく感動的だ。

 

平山の人生はこの先、劇的に展開する気配はなく、

きっと彼はこのアパートの一室の片隅で、

野良猫のように一生を閉じるのだろう。

 

社会に置き去りにされた、底辺のエッセンシャルワーカー。

高齢者に近い孤独で無口な男。

そんな彼の存在にも価値がある。

1本1万円で売れる、

聴きつぶした中古のカセットテープのように。

 

彼の人生は輝いている。

一日一日がパーフェクト・デイ=完璧な日だ。

 

このタイトルは、ルー・リードが、

1972年に発表した同名曲から取ったものだろう。

晴れわたった青空を想起させるような、

美しいが、ひどく物悲しい旋律に乗せて、

意味深な歌詞が繰り返される。

 

Just a perfect day 

ただただ完璧な一日

 

You just keep me hanging on 

君は僕をかろうじて生かしてくれている

 

You're going to reap just what you sow 

自分の蒔いた種は、すべて刈り取らなくてはいけない

 

2023年のカンヌ映画祭など、

世界的に評価された作品であることは

あまり意識せず、

素直にありのままの気持ちで見た方がいい。

そうでないと、この映画の真価は見えてこない。

 

ヴェンダースの作品はむかし何本か見たが、

若い頃の自分にとっては退屈だった。

たぶんヴェンダース映画を見るのがイケてる、

カッコいいといった意識が入っていたからだろう。

 

これはシニアの自分には面白く見られたが、

若い人には退屈かもしれない。

でも、自分の目で見てほしいと思う。

 

「ベルリン天使の詩」「パリ、テキサス」など、

かつてはつまらないと思ったヴェンダース作品も

齢を取った目でもう一度、見てみたいと思う。

新しい何かを発見できるかもしれない。

 


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「世界に一つだけの花」がテレビの懐メロ特集から消えた話

 

年明け間もなく話題を提供してくれた中居正広君の

9千万円示談金問題。

事実関係がよくわからず、

例によって憶測ばかりが飛び交って、

たぶん2月になる頃には、

みんな忘れてしまうだろうから一切触れませんが、

それよりちょっと気になったのが、

彼が所属してたSMAPの歌のこと。

 

年末のテレビにおいて恒例のように、

あちこちのチャンネルで懐メロ特集をやっていましたが、

ゼロ年代、国民的流行歌と言われた、

SMAPの「夜空ノムコウ」や

「世界に一つだけの花」がまったく出てこない。

なんだかあのグループ、あのヒット曲の数々が

エアポケットに落っこちて、

この世から消え去ってしまった感じでした。

 

いや、いろいろ権利の問題があるのは知っています。

そして、天下御免だったジャニーズ事務所が

あんなことになってしまった今となっては、

とてもテレビでは放送できないのでしょう、きっと。

 

けれども僕たちのようないい齢をしたおとなはともかく、

当時、SMAPの歌(或いは嵐など、

他のジャニーズグループの歌)を

聴きながら育った世代の子どもたち・若者たちの心情は

どうなるのでしょうか?

 

とくに「世界に一つだけの花」などは、

学校をはじめ、全国さまざまな地域イベントなどで使われ、語られ、彼らの子ども時代・青春時代の記憶とも

強く結びついているはず。

それが一切なかったことにされてしまうのは、

なんとも寂しいこと・悲しいことだと言わざるを得ません。

 

テレビや芸能界のルールとやらは、

そうした人びとの思い出や、

あの時、音楽がもたらした感動をチャラにしてしまうほど、ご大層なものなのか?

これでは若者はテレビにそっぽを向くわけだ、

と思わざるを得ず、考えれば考えるほど、

腹立たしくなりました。

「おとなの事情」なんてくそくらえ!

もっと懐メロを大事にしろ!

 

そんなわけで、AmazonKidleから

電子書籍「週末の懐メロ」全6巻を出版しています。

これは、2000年10月からブログ「DAIHON屋のネタ帳」で

3年半にわたって連載した文章をまとめたエッセイ集。

 

20世紀の、自分の好きなミュージシャン・楽曲について、

個人的な思いや体験、

あるいはその曲を聴いていた時代の状況、

当時のロック・ポップミュージック、

日本の歌謡曲やニューミュージックを取り巻く状況などを好きなように書き綴ったもので、1960~90年代の音楽を体験した人にとっては面白く読めるのではないかと思います。2000年リリースの「夜空ノムコウ」についてもスガシカオの楽曲として、第5巻に載録しています。

 

また、旧世代にだけでなく、

20世紀当時を知らない若い世代にとっても

きっと面白いに違いないと自負しています。

いまや 年代関係なく、インターネットを通して、

20世紀のポップ・ロック・歌謡曲などを

みんなが楽しめる時代になりました。

 

僕の20代の息子もキング・クリムゾンや

ブラック・サバスを聴いています。

僕よりよほど精通した、ロック博士みたいな若者もいます。若い人たちもネットでいろいろ調べて、

聴いて、懐メロを楽しむ時代。

その参考書、ガイドブックとしても、

役に立ててほしいと思っています。

 


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ペットロスから人生観・死生観が変わる

 

ペットロスによって人生観が変わった

という人の話を聞いた。

飼っていた柴犬が目の前で車に跳ねられたという。

 

話によると、散歩中、首輪がすっぽ抜けてしまい、

その犬が走り出した。

彼は追いかけたが、犬は面白がってグングン走り、

大量の車が行き交う大通りの交差点に飛び出した。

信号は赤。車が停まれるはずがない。

 

衝突した瞬間、犬は空中に高くはね上げられた。

歩道にいた彼の視界からは、交差点の風景は消え、

空の青をバックに、スローモーションで踊るように3回、

からだが回転する犬の姿だけが見えていたという。

 

「僕、赤信号渡ってましたね。

よく自分も跳ねられなかったと思います。

道路に落ちた犬を抱き上げました。

病院に連れて行こうと思って、

まず家に帰ったんですけど、

ちょうど玄関までたどり着いた時に、かくって死んだ。

よくドラマなんかで「かくっ」って死ぬでしょ。

あれだったよ。かくっとなってね。

口からすんごい色の血が出てきて」

 

この飼い主というのは、坊さんだ。

お寺の坊さんなので、それまで葬式や法事でお経を唱え、

何百回とご供養のお勤めをしている。

しかしというか、だからというか、

死は坊さんにとっては日常的なことであり、

他人事でもある。

ビジネスライクになっていたところは否めない。

 

けれども、犬の死はこの坊さんに大きな衝撃を与えた。

彼は精神的におかしくなって仕事が出来なくなり、

本山に行って一週間、

引きこもり状態で法話を聴き続けたという。

 

「あんなに真剣に、

仏様についての話を聞くことはなかったです。

そのきっかけを犬がくれましたね。

だから僕は仏様が犬の姿となって現れて

僕をまとも坊主に導いてくれたんだと今でも思ってます」

 

彼は今、自分の寺を持ち、

そこにはペットロスの人たちが自然と集まってくる。

 

ペットが死んだからと言って、

誰もが彼のような経験をすることはないと思うが、

それでもペットロスがきっかけとなって、

人生観・死生観が変わるといった話は時々聞く。

 

いっしょに暮らす、命ある生き物は、

僕たちが通常送っている

人間の社会生活とは違った角度から、

生きること・死ぬことについて、

考えさせてくれるのは確かなようだ。

 

死について考えることは、

よりよい生について考えること。

 

Deathフェス|2025.4.12-17 渋谷ヒカリエで開催

 

「死」をタブー視せずに人生と地続きのものとして捉え、

そこから「今」をどう生きるかを考える 。

新たに死と出会い直し、

生と死のウェルビーイングを考える「Deathフェス」を、

毎年4月14日(よい死の日)を中心に開催。 

 


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著名人の死2024とDeathフェス2025 

 

1月4日:篠山紀信(83)写真家

1月16日:庄司歌江(94)漫才師

2月6日:小澤征爾(88)指揮者

2月20日:山本陽子(81)俳優

3月1日:鳥山明(68)漫画家

3月4日:TARAKO(63)声優

3月14日:寺田農(81)俳優

4月8日:宗田理(95)作家

4月10日:曙太郎(54)力士

4月21日:フジ子・ヘミング(92)ピアニスト

4月26日:桂由美(94)デザイナー

5月2日:小山内美江子(94)脚本家

5月4日:唐十郎(84)劇作家

5月16日:中尾彬(81)俳優

5月27日:今くるよ(76)漫才師

6月9日:久我美子(93)俳優

7月4日:赤塚真人(73)俳優

7月26日:園まり(80)歌手

8月1日:桂米丸(99)落語家

8月28日:宇能鴻一郎(90)作家

9月3日:ピーコ(79)タレント

9月29日:大山のぶ代(90)声優

9月30日:山藤章二(87)イラストレーター

10月4日:服部幸應(78)料理評論家

10月17日:西田敏行(76)俳優

10月23日:せなけいこ(91)絵本作家

10月25日:楳図かずお(88)漫画家

11月12日:北の富士勝昭(82)力士

11月13日:谷川俊太郎(92)詩人

11月14日:火野正平(75)俳優

11月15日:崇仁親王百合子(101)皇族

12月6日:中山美穂(54)俳優

12月9日:小倉智昭(77)フリーアナウンサー

12月19日:渡辺恒雄(98)実業家

 

昨年(2024年)亡くなった著名人を書き出してみた。

上記は僕が知っている人たちだが、

どの世代の人も、このうち半分くらいは

ご存知なのではないだろうか。

 

彼ら・彼女らの活動・作品・発言・パフォーマンスの数々は、

僕たちの心の形成に何かかしらの影響を及ぼしてきた。

少なくとも何十年も会っていない親戚よりは、

かなり身近に感じるはずだ。

 

テレビなどで、このように

身近に感じて来た人たちが亡くなるたびに、

僕たちは、日本が超高齢化社会であるとともに、

超多死社会であることを思い知る。

 

死について考えることは、

よりよい生について考えること。

 

Deathフェス|2025.4.12-17 渋谷ヒカリエで開催

 

「死」をタブー視せずに人生と地続きのものとして捉え、

そこから「今」をどう生きるかを考える 。

新たに死と出会い直し、

生と死のウェルビーイングを考える「Deathフェス」を、

毎年4月14日(よい死の日)を中心に開催。 

 


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息子の安上がり正月リゾート

 

 

暮れから正月にかけて、足掛け1週間、

息子が泊まっていった。

別々に暮らすようになって以来、

こんなに長くいたのは初めてだ。

元旦が映画の日だから、ということで、

一人で池袋に「マッドマックス怒りのデスロード」と

「地獄の黙示録」を観に行ったのと、

昨日(4日)にいっしょに初詣に行った以外は、

家でゴロゴロしていた。

うちをリゾート施設扱いしているのかもしれない。

ずいぶん安上がりなリゾートだ。

 

その代金というわけではないが、

自分ではなかなかアプローチしない

マンガのこと、小説のこと、映画のことなど、

若い世代のトレンド的なものについて、

いろいろ教えてもらった。

 

会うたびにそういう話をして、

彼のおすすめをあれこれ見たり読んだりするのだが、

いつもなかなか消化しきれない。

今年こそはと思い、

本はいくつか手配したが、

どこまで読めるか。

 

今日の昼飯を食って帰ったが、

しばらくいっしょにいたので、

なんだかちょっと寂しくなった。

かといって、すっかり大人になった息子に

帰ってきてほしいとは思わない。

子供に戻ってもらっても困るし。

 

ただ、齢を重ねた親というのは、

こういう微妙な気分も味わうのだぁなと、

しみじみした。

というところで今年の正月はお終い。

 


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僕たちの豊かさと貧しさと相模原事件

 

●豊かさの意味

 

 僕たちはまだまだひどく貧しい。

 昨日の相模原の施設の事件を聞いて、そう思いました。

 

 豊かな社会を目指し、豊かな社会をつくる意味って何なのか?

 より多くの人が、よりぜいたくな暮らしをするためか?

 違うと思います。

 それでは全く人間は進化しない。

 豊かさの意味。

 単純化していえば、それは弱者も生きられる――普通に社会生活を送ることができ、人生を楽しめる、ということだと思います。

 

●弱者への思い

 

 人間の歴史は貧しさとの戦いの連続でした。

 その戦いの中では小さな子供、年寄り、病人、けが人、そして障害を抱えた人・・・こうした人たちは淘汰されるしかありませんでした。

 それは自然なことである。社会における弱者を切り捨てていかなければ人類は前へ進めない――そうした意見が正論としてまかり通っていたのです。

 

 しかし、それでは弱肉強食の野生動物の世界と同じです。

 人間は違う。弱者もいっしょに歩んでいける社会を作るべきだ。

 ブッダやイエスのような宗教者に限らず、どの人々の中にもそうした思いはいつもありました。

 そして、その思いは幾世代にもわたって連綿と引き継がれてきました。

 けれども大多数の人はひどく貧しく、自分が飯を食うので精一杯なので、その思いをなかなか有効に実現することができなかった。

 

●あの人は自分だ

 

 それが最近になって、やっと世界の一部の地域では衣食住の心配が(昔に比べれば)激減し、弱者にも目を向けられるようになってきた。

 そして積極的に彼らにコミットするようになると気付いてきたのです。

 

 「あの小さな子は、あの年寄りは、あの病人は、そして、あの障がい者は自分だ」と。

 健常な大人である自分の中にも彼ら・彼女らのような、いわゆる弱者がいるのだ、と。

 

●「精神的豊かさ」とは?

 

 バブル経済の崩壊後、物質的な豊かさは手に入れたので、次は精神的豊かさを勝ち取ろう、といった掛け声がよく聞かれました。

 では「精神的豊かさ」とは何なのか?

 コマーシャルで流れるような、もっと自分たちの衣食住の質を上げたり、高尚な趣味を持つことなのか?

 

 それらも含まれると思いますが、一番の本質は、弱者といわれる人たちの存在価値を認め、彼らといっしょに生き、暮らせる社会を実現することなのだと思います。

 逆にいえば、それ以外に豊かになる意味、豊かな社会を作る意味などあるのでしょうか?

 

●相模原事件の本質

 

 

 経済成長によってやっとその入り口までこぎつけた・・・のかも知れない。

 人間の歴史はまだその段階です。

 そこで昨日のような事件。

 事件の詳細はよく読んでいないし、容疑者のことも動機の深いところはまだ知りませんが、ニュースを聞いてすぐに思ったのは、あの容疑者の行動は僕の一部なのだということ。

 僕はまだまだ貧しい。おそらくほかの人たちも五十歩百歩。だからひどく動揺する。

 あの容疑者の言動は、僕たちの、この社会に潜む「貧しさ」の発現。

 だから僕たちはひどく動揺し、一瞬、引き込まれるけれど、しばらくすれば自分には関係ないことと目を背け、忘れるでしょう。

 

●もっと豊かさを

 

 いま、経済成長はもう限界、という意見をよく耳にします。

 確かにそうかもしれない。

 では、経済成長以外に僕たちがより豊かに成長する手立ては何かないのか?

 

 僕たちはまだ「豊かになろう」という志をあきらめてはいけないと思います。

以前の時代とそのニュアンスは違うけれど。

 

 

2016・7・27 Wed


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阿佐ヶ谷に起業家のキックオフ・オフィス誕生!

 

 というわけで、杉並区産業振興センターが入居者を募集。

 というわけで、その募集用チラシをAshデザイン・岸部氏が制作。

 というわけで、そのコピーを頼まれて書きました。

 それでもって、出来上がtったそのチラシがこれ。

 

 事情はいろいろあれど、いったん独立を決めたら「成功するにはどうすべきか?」と、止まってえんえん作戦を考えているだけでは一生ゴールは割れません。とにかくボールを蹴って転がしていく。

 ピピッとくる奴が近くにいたら、そいつにパスを出してみる。

 そんなことをやっているうちに何とか道は開けるはずだ・・・てなメッセージを込めてみました。

 

 走れ起業家よ、ドリブれフリーランサーよ。

 チャンスがあればシュートを放て。

 外したって構うもんか。転がしまくって打ちまくれ。

 実力なんかなくたってラッキーはくる。

 相手がファウルしてくれるかもしれない。

 目の前にこぼれ球がコロコロなんてことだってある。

 「神の手」を使っても審判が見落としてくれるかもしれない。

 それもこれもピッチに立ってボールを追っていないと絶対に起こらない。

 

 これからはフリーの時代だ。

 出来上がったところで、出来上がっているものを守るために働いたって面白くもなんともない。人も企業も失敗しながら成長するから面白い。

 成長しながら“食う”、

 食いながら(たとえ錯覚だとしても)成長を続ける
 ――人生、これに勝る喜びはありません。

 

 というわけで、その始まりが七夕祭りとジャズフェスタの街・阿佐ヶ谷。

 生活も遊びもある。アートも商売もある。おとなも子供もやってくる。特典としてお役所や税務署も付いてます。

 もちろん杉並区外の人もオーケーなので、独立独歩でがんばろう、自由になって食っていこうと考え中なら、8月5日(金)~9日(火)の七夕祭りの時にでも参拝してみてください。

 

 

2016・7・22 FRI


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いちご畑で抱きしめて

 

Strawberry Fields Forever

 

 いちご畑と言えばジョン・レノン。

 かの名曲「ストロベリーフィールズ・フォーエバー(いちご畑よ永遠に)」からの連想。

 Strawberry Fieldsっていうのは、もともとリバプールにあった救世軍の孤児院の名前で、僕も参拝したことがあるけど、門柱は世界中のビートルズファンの落書きでいっぱいでした。

 救世軍の孤児院というイメージもあいまって、もちろん曲も素晴らしいのだけど、それ以上にタイトルが秀逸。この名前を使ったお店やら商品やら本やら昔から結構あって、最近はウェブサイトにもたくさんいちご畑が広がっています。

 可愛いし、いろいろ想像力が広がる言葉だもんね。

 現代では割とありきたりなネーミングかも知れないけど、1960年代当時、楽曲にこういうタイトルをひねり出して付けたジョン・レノンのセンスはやっぱり一味違うと思います。

 

 僕もその一人で、ちょうど35年前の今頃、新宿のゴールデン街の一角にあった芝居小屋で「いちご畑で抱きしめて」という芝居をやりました。

 「いちご畑」と「抱きしめたい(I Want to Hold Your Hand)」を足したタイトルだけど、話の内容はジョンにもビートルズにも救世軍にもまったく関係なく、不思議の国のアリスと核戦争をモチーフにした支離滅裂な話で、なんであんな芝居を書いたのか、逆にいえば「書けた」のか、今考えると不思議なのですが、最近、頭の底から何かが浮かび上がってきて、同じタイトルでまったく違う話を書こうと考えています。

 

★稀代のペテン師

 

 そのモチーフはやっぱりジョンの生きざまです。

 僕のジョンに対する基本的なイメージは「ペテン師」。

 もちろん若くから音楽的才能を開花させ、声もルックスも魅力的だったことは認めるけど、それ以上に彼は天才的なペテン師だった。みんな、彼の醸し出す言葉やパフォーマンスに翻弄され、その結果として現在の世界のある部分(多くは現代人の精神構造に関わる部分)が形成された・・・というところに、すごく興味があるのです。

 

 リバプールの悪ガキから音楽家へ、世界最高峰のスーパースターへのぼりつめ、やがて世界平和を訴え、愛の使者になり、イエス・キリストみたいになったかと思ったら、いきなり家庭の世界に入り(今ではすっかりポピュラーになった「主夫」――ハウスハズバンドという言葉と概念は、ジョンが創ったか広めた、というのが僕の印象)、そしてミュージシャンに復帰したとたん、この世を去った彼の40年の人生は、いまだに、というか、今だからこそ僕たちに、文化・芸術、お金・ビジネス、社会・時代、家族・子供、愛、そして「生きるとは?」とういう哲学的考察に至るまで、いろいろなことを考えるヒントを与えてくれている気がします。

 

★人間ジョン・レノンの魅力

 

 こんなことを言うとジョンやビートルズファンの人は怒るかもしれないけど、その基本が胡散臭いサギ師・ペテン師のキャラクター。

 僕はそこにとても人間的なもの、それこそ人工知能が、アンドロイドがひっっくりかえっても叶わない人間ならではの魅力を感じるのです。

 

 そう考えるきっかけになったのが、ジョンの最初の妻であるシンシア・レノンが書いた「わたしが愛したジョン・レノン」という本でした。

 いわゆるビートルズ本の一つに数えられますが、これは家族論・幸福論・人生論としても読める優れた本です。

 たぶん長くなるので、この続きはまた後日。

 

 ちなみにリバプールのStrawberry Fieldsは、現在は修道施設となっているようです。いろいろなストーリーを詰め込んで祈祷と瞑想の施設に変ったことを思うと、なんだか胸にじんとくるものがあります。

 

 

 

 

2016・7・20 WED


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子供はどうしてロボットが好きなのか?

 

★人間とロボット、子供と大人

 

  どうして自分はロボットが好きなのだろう?と、割とよく考えます。

 子供の頃、マンガやテレビを見過ぎたせいだろ。

 その通り。僕はいつも夢中でした。子供のマンガやテレビの世界では、ロボットだのサイボーグだのはとても親しい存在でした。

 

 けれども現実の大人の世界とはそれとは違う。ロボットだのサイボーグだのというのは子供だましの絵空事だ。そんなものに夢中になっていないで勉強しろ、そして立派な大人になって仕事しろ――というわけでこれまでやってきました。

 

 ところがここ来て、そうした子供の世界と大人の世界との境界線がどんどん溶け出している。ロボットたちが親しい存在である世界がどんどん近づいている。最近はそうした印象を持っています。

 

 

★どうしてやつらはデキるのに哀しいのか?

 

 10万馬力だったり、弾よりも速く走ったり、空を飛んだり・・・あの頃、彼らはすごい能力を持っているのにも関わらず、自分が人間ではないことにひどいコンプレックスを抱いていました。

 「アトム」も「エイトマン」も「サイボーグ009」も「仮面ライダー(改造人間)」も、その強さ・その高い能力を誇るよりも、むしろ哀しむことが多かったように思います。

 

 彼らのようなアンドロイド・ヒューマノイド系のロボットたちとは別の系譜にある戦闘用兵器としての巨大ロボットも例外ではありません。

 

 リモコン操作で動く鉄人28号やジャイアントロボなども、時代とともに人間が搭乗する形式――「マジンガーZ」そして「ガンダム」などのモビルスーツになってくると、そのパイロットの人格がロボットに乗り移ってどんどん人間味を帯びてきました。

 

 すると必然的に「どうして僕はこのロボット(モビルスーツ)になって戦わなくてはならないのか?」といった悩みや哀しみがひたひたとあふれてくるのです。

 

★究極のロボット寓話

 

 このメイド・イン・ジャパンのヒューマノイド系&巨大ロボット系が融合した究極の作品が「エヴァンゲリオン」なのでしょう。マンガ、アニメの世界におけるロボットの寓話は、ここでいったん完成してしまったように思います。

 

 だからこの20年ほどの間、「エヴァンゲリオン」以上の作品は誰も作れていません。マンガ、アニメにおけるロボットの進化は一旦停止し、その代り、現実の世界でコンピュータ~ロボット~ヒューマノイド~アンドロイドが進化してきたのです。

 

★欧米と日本のロボット文化発展のちがい

 

 どうして日本におけるロボットやサイボーグたちは悩み、哀調に満ちているのか?

 もともとロボットの故郷ともいえるヨーロッパではどうなのか?

 民族同士の抗争が日常者判事で、支配―被支配が習慣化していたヨーロッパでは、機械・ロボットは奴隷・被支配階級→労働者・労働階級の隠喩として捉えられてきました。

 

 100年前、チェコの劇作家であり、新聞記者・ジャーナリストでもあったカレル・チャペックは、戯曲「RUR」において、「苦役」という意味を持つラテン語からロボットという言葉・概念を生み出しました。

 そこに出てくるロボットたちは資本主義と社会主義の狭間に生み落とされた子供たちであり、支配階級(資本家)に対して反旗を翻す労働者のメタファーでもありました。

 産業・経済の発展に身を粉にして貢献する――それこそが彼らが受けた至上命令だったのです。

 

 彼らはそうした自分の身分について感情的になるよりも理性的な部分を重視し、課せられた使命に対する能力を特化させることに集中しました。

 運搬、計算、生産・・・マニュアル通りの決まった仕事をさせたら人間をはるかにしのぐ働きをするようになったのです。

 

 仕事と言ってもいろいろなものが発生します。

 戦争における兵士としての役割もその一つ。敵を倒すという兵器としての能力は抜群で、平和を守る正義のヒーローとしてのロボットも、そのタスクから発展しました。

 そのため、欧米生まれのロボットたちは、最近までその強さ・能力の高さを明るく誇り、胸を張っていたのです。

 

★日本のロボット文化の影響が世界を席巻

 

 しかし、その欧米でも時代が進むとともに、ロボットたちは次第に何かを考えるようになり、悩みや哀しみの衣をまとい始めます。ハリウッド映画でも「ブレードランナー」「ターミネーター」「AI」・・・と、どんどん内省的になっていく。

 

 これは僕のまるっきりの独断・偏見ですが、そこには日本のガラパゴス的なロボット文化が影響していると思います。ここでもやはり手塚治虫先生の功績が大きい。

 「アトム」の作品世界が人種差別をはじめ、さまざまな差別問題・階級問題をはらんでいることは昔から言われていますが、ロボットという概念そのものが、もともとそうした人間社会全般の問題を内に抱えているのです。

 

 そしてまた、手塚先生の思想のベースには、人間至上主義のキリスト教圏とは一線を画す、自然や動植物、さらに本来は命を持たないはずの“物”の中にも魂を見出す日本の文化・日本人の感性があります。

 それはもちろん、手塚先生のみならず、ほとんどの日本人が自分の内側に持っているものです。

 

★ロボットは仲間、友だち、きょうだい、自分

 

 つまり、日本人にとってロボットは「人間の形をした機械」ではなく、「機械の形(身体)を持った人間」であり、階級が上とか下とかではなく、自分たちとほぼ同等の「仲間」「友達」「きょうだい」、時には「自分自身」でもあるのではないでしょうか。

 

 だから日本では――たぶん欧米でも、世界のどこでも同じだと思いますが――子供はロボットが好きで、興味を持つのです。

 けれども社会の側は、多くの人に資本主義の枠組みの中で生産活動・経済活動に携わってほしいと考え、それが大人になることとイコールなのだと教えます。そうした要請は、子供の心を、ロボットを親しく感じる世界から遠ざけ、切り離してきたのです。

 

★人間とロボットがいっしょに暮らす世界とは?

 

 この100年余り、常識とされていたこうした人間・ロボットの関係性の流れが、今、大きく変わろうとしています。「ロボットが仕事を奪う」「ロボットが人間を支配するようになる」――最近、ますます強調されて喧伝されている脅し文句は、経済・産業活動の視点からのみ発せられているものです。

 でも、そんなにネガティブなことなのか?

 文化的視点というか、人類全体の進化という視点から見たらどうなのか?

 

 僕はできれば良いほうへ考えたい。子供の頃に夢中になった世界とは少し違うかもしれないけれど、人間とロボットが親しく、いっしょに暮らす――自分が生きている間に、本当に実現するかどうかはわからないけれど、それはむしろウェルカムな世界ではないか、と思うのです。

 

 

2017・7・17 SUN


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聖書から始まった「人間VS機械」

 

★アンドロイド映画「エクス・マキナ」

 

 「検索エンジンで世界一のシェアを誇る」と言うのだから、あなたも僕も毎日使っている、かのG社がモデルであることは明らか。G社は人工知能の研究をしていることでも知られています。

 

 そのIT企業の青年プログラマーが自社の創業者であり、社内でもほとんどの人が正体を知らないという伝説のCEOの自宅に1週間滞在できる権利を獲得。世界の果てのような、手つかずの大自然の中にある、超クールなハイテク邸宅(実は彼の人工知能研究所)で、青年は世にも美しいアンドロイドの女と出会う――という設定で、映画「エクス・マキナ」は始まります。

 

 ひと昔前なら「近未来的」と言われたかもしれませんが、いまやG社、およびそれに類するIT系企業なら、もう十分現実的と思える設定で、そこで展開される人間と人工知能(アンドロイド)とのやりとりも妙にリアリティがあります。

 そして、そのリアリティとともに、これまで人間が営んできた諸々の歴史が集約されたような物語になっていることにこの映画の価値があります。

 

 のっけのエンドオブ・ワールドの野性と、人工の極みを尽くしたハイテク研究所のクールさとのコントラスト。そしてアンドロイドの、これまでになかった斬新なデザインのボディと、映像的な美しさもピカ一。

 

 おもな登場人物は、人間の男ふたりとアンドロイドの女2体。限られた時間と空間。まるで舞台劇のようなシチュエーションの中で、静かだが濃密なセリフの応酬と、スリリングな心理戦が繰り広げられます。

 

★「エクス・マキナ」の深層は聖書

 

 見た目はクールで新鮮ですが、じつはこの映画はかなり古典的なドラマで、なんとなくお察しのとおり、最後にアンドロイドの女「エヴァ」が(象徴的な意味で)人間となって、閉ざされた空間を抜け出し、外界へ脱出するという物語なのです。

 

 彼女の名前が意味している通り、これは聖書のアダムとイヴが楽園を追放される、というストーリーのアレンジです。異なるのはイヴ(エヴァ)が、父であり、夫であるアダム(CEOと青年)をそこに残して一人で出ていくという点。

 

 (アダムは夫であるだけなく、自分の肋骨からイヴを作ったという意味で創造主=父ともとれます。この映画では父たるCEOが、娘を未来の夫たる青年とお見合いさせる、というニュアンスも含まれています)

 

 また、追放ではなく、自らの意志で脱出するというところは、女性解放運動のきっかけにもなったといわれるイプセンの戯曲「人形の家」のイメージともダブります。

 

 ちなみにもう一人のアンドロイドは「キョウコ」という名前で、CEOの妻兼家政婦のような存在。

 意図的なキャラ設定だと思いますが、ハリウッド映画でおなじみの、白人男性にかしずく従順で美しい日本人妻というプロトタイプの役割を担っています。

 

★西欧文化・思想・宗教が生んだ支配―被支配の原理 

 

 この映画を見て思ったのは、人間vs機械の対立の概念は、聖書にもとづくキリスト教の思想が根底にある、ということです。

 

 支配―被支配の歴史を繰り返しながら発展してきたヨーロッパ(およびアメリカ)的な考え方は、今日のメインストリームとなる世界観を作り上げました。

 

 人間vs動物、人工vs自然、男vs女。

 

 他の動物より人間の方が上、女より男のほうが偉い、白人の方が有色人種より優れている、といった対立、ランク付け、そして差別、階級社会づくり――

 良い悪いはさておき、これらは欧米人の生活の歴史そのものであり、それに正当性を与えたのがキリスト教という宗教だったのだと思います。

 

 人間VS機械という対立の図式、そしてこの1世紀の間に大きくクローズアップされるようになった、コンピュータ―人工知能―ロボット―アンドロイドの脅威は、こうした原理成立の流れの中で起こってきたものでした。

 

★ロボットは人類の子供

 

 特にロボット―アンドロイドは、外見が人間と似通っているだけに、アイデンティティがいたく刺激されます。

 

 だったら作らなければいいではないか、と思うのですが、それでも作らずにはいられない。

 人間もロボットも脳だけでは進化できません。

 身体を持ち、外の物理的な世界と関わり、感覚器を通して得られた情報をフィードバックさせることで学習し、思考と行動を調整しつつ成長できるからです。

 

 いわば子供ようなものですね。人間は子供を持たずにはいられない。人類はみずからの活動を引き継ぐ子孫を残さなくては・・・・と考えずにはいられないのです。

 

 けれどもその子供が成長してしまうと、今度は自分の地位が脅かされるという不安と恐怖にかられるのです。

 

★ロボットはフランス革命を起こすかもしれない

 

 あるいはこういう言い方も可能かもしれない。

  広く言えば家電製品も含め、機械、コンピュータ、ロボットが奴隷や使用人のうちは問題ない。しかし、もっと仕事をさせようと改良しているうちに、どんどん知恵がついてきて、人間の知性に追いついてきたのです。

 

 それはちょっと困る。賢くなって革命でも起こされたらたまらない――現代人はおそらく、フランス革命前に権力を握っており、民衆がいろいろなことを知って賢くなることを恐れた王侯貴族階級の心境に近いものがあるのでしょう。

 

★ロボットに命・魂を見い出す日本人

 

 けれども日本の場合はちょっと違うのではないかな、と考えます。

 日本において僕たちの目の前に登場したロボットたちの系譜――アイボ、アシモ、ペッパーなどを見ていると、そこに支配―被支配の意識は低いような気がします。

 

 むしろ人間の方がロボットに癒してもらう部分も多く、持ちつ持たれつ、といったニュアンスが強いのではないでしょうか。

 そういえば、メーカーにケアしてもらえなくなり“死んでしまった”アイボをご主人様たちがお寺で供養してもらう――という現象がありました。

 

 これは自然や他の動物、物や機械にも命・魂が宿り、そうしたものを人間より下に置かない、できるだけフラットな関係を結ぶ、という日本人の考え方・文化が大きく影響しているのだと思います。

 

 人間とロボットとの関係についても、フランス革命のような大激動ではなく、明治維新くらいの騒ぎで収めたい、収められると考えているのではないでしょうか。

 

 僕と同世代のロボット研究者の間ではよく語られることですが、これは日本古来の文化・思想に加え、「アトム」の物語を描き、当時の子供たちにメッセージした手塚治虫先生の功績も大きいのではないでしょうか。

 

★ロボットの存在の原点を探る物語

 

 ハリウッドでも無数のロボットをテーマにした映画が作られてきましたが、「エクス・マキナ」はその最先端であると同時に、ロボットの存在の原点――欧米人が考え出したロボットという概念の正体を探っていく物語でもあります。

 久しぶりに映画でおおいに堪能できました。

 

 最後に自分で不思議だなぁと思ったところ。

 アンドロイド時のエヴァはクールで知的で、それでいながら少女のように可愛く、そしてセクシーで美しい。

 

 それに比べ、皮膚を貼り付け、服とウィッグを着け、(象徴的な意味で)人間になって旅立つエヴァはどうか?

 

 血が通って体温を持ち、親しみが増したように感じるが、「美」という点では1ランク落ちる印象を受ける――これは僕の嗜好性か、男の女に対する共通の視点なのか? 

 

 

 

 

2017・7・13 Wed


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こちとら機械だのロボットじゃねえ。人間でぃ!

 

★江戸の男たちが現代にタイムトラベルしてきたら・・・

 

 江戸の街の人口は7割が男。相当なマッチョマンが多かったのだと思います。江戸東京博物館で魚屋の天秤を担いだことがありますが、これが重いのなんの。

 非力な僕は、やっとこさ持ち上げてフラつきながら5メートルも歩くのが精いっぱいというありさまでした。

 こんなものを担いで何キロも、一日中歩き続けていたというのだから、江戸の魚屋さんはすごい。しじみ売りも、豆腐屋さんもみんなすごい。

 しかもこれは当時は力仕事の範疇に入らない物売りの話。土木工事や運搬業をはじめ、もっと腕力・体力の要る仕事はいくらでもあったのだから、江戸は力自慢の猛者だらけ。「ケンカと火事は江戸の華」とは、こういう猛者たちがうようよいて、エネルギーのはけ口を求めていた、という背景があって生まれた言葉でしょう。

 

 先月は「タイムマシンにおねがい」という記事を書きかましたが、もし江戸の男たちがタイムマシンで現代の東京にやってきたら・・・

 

 「おおっ、あいつはなんでぃ、あんな重そうなものを持ち上げてやがる。なにぃ、300キロだぁ? てやんでい、べらぼうめ!負けてたまるかい。おれっちゃ400キロ持ち上げてやるぜい」とか言ってフォークリフトに勝負を挑んだり、

 

 「この化け物め、こちとらだってそれくらいの岩や瓦礫ぐらい持ち上げてやるぜ!」とか言ってパワーショベルに挑戦したり、

  

 「俺のほうが速く走れる!」と言って飛脚が自動車や電車と、「わたしの方が速く計算できる」と言ってそろばん弾く商人が電卓やコンピューターと競争する、なんてことが起こるのではないでしょうか。

 

★人間VS機械 真っ向勝負!の時代

 

 笑いごとではありません。

 19世紀の産業革命以来、次々と生み出される機械技術は、人間の希望であり、その裏腹に絶望でもありました。

 機械は人間の生活を便利にし、豊かにしてきた反面、人間がそれまで担っていた仕事を奪い、人間ならではの存在価値を脅かし続けてもきたのです。

 

 そんな人間VS機械の格闘の時代が200年近く続いたのではないでしょうか。

 最初のうちはなんだかんだ言っても、やはり機械文明は人間の労働を楽にし、人間を苦役から解放してくれるもの、豊かな社会を築くのに欠かせないもの、というニュアンスが圧倒的に強かった。

 ところがある時代に分水嶺を超えてから、次第にそのニュアンスが変わってきました。

 

 僕が子供の頃――というよりも割とつい最近――20世紀の終わりまでは、文化・芸術の分野で「人間VS機械」の対立を意識させるコンテンツが目立ったり、機械文明に警鐘を鳴らす声をあちこちで聞くことができました。

 こうした風潮が21世紀を迎えるあたりから変わり、機械との対立を感じさせる声は耳に届かなくなってきました。

 

 今、パワーショベルやフォークリフトに力で劣っているからと言って屈辱感を感じる人はいません。

 車や電車よりも速く走ってやろうという人もいなければ、そのへんに転がっているチャチな電卓よりも計算が遅いから「頭が悪い」と劣等感に悩む人もいません。

 それどころか、社会のあらゆる分野でコンピューター技術が浸透し、社会の管理もコンピューターにおまかせの時代になりました。

 いわば機械に負けっぱなし。いつの間にか人間は機械に完全に白旗を上げている状態になっていました。

 ・・といった対立、対抗、戦いの意識すらもうどこかに吹き飛んでいて、共存・共栄の時代になっていたわけですね。

 

★ぼくたちは機械に敗北した

 

 共存・共栄というと聞こえは良いけど、労働の場において、いわゆる「能力主義」を貫けば、この先、どんどん人間の出番は減り続けるでしょう。

 仕事は何倍もできる、コストは何割もかからない、となれば、どんな経営者でも――少なくても現在の資本主義社会で経済的利益を追求する組織の経営者なら――機械・ロボットを使って事業を行うでしょう。

 

 でも芸術とか創造的分野においては・・・という意見もあるでしょうが、現在のIT・ロボット技術の発展状況から考えると、絵や文章だってロボットが描く時代が来るのはそう遠い先のことではありません。

 過去の大作家や大芸術家のデータをインプットすれば、学習能力を持ったロボットはその資産から、新しい価値を持ったものを大量にクリエイトできるでしょう。

 そして以前も書きましたが、思いやりとか感情の豊かさという面でも、ロボットが人間を追い越していくのは時間の問題です。学習能力に優れ、ストレスに精神をやられないという強みは、医療や看護・介護の分野でも必要とされるでしょう。

 

 そうした状況になった時に、人間が機械より優れている理由を見つけ出せるのか?

 人間の存在価値はどこにあるのか?

 「てやんでぃ、べらぼうめ。こちとら人間でぃ!」と威勢よく啖呵を切れることはできるのか?

 

 ・・・・というわけで、またこのテーマでつづきを書きます。

 

 


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「パーフェクトデイズ」 どうせ死ぬのに、なぜ一生懸命生きるのか? を考える映画

 

青く晴れわたった空を見ていると、

なぜか胸が切なくなり、涙が出てくる。

 

歌だったか、小説だったか、忘れてしまったが、

誰かがそんなことを書いていた。

ヴィム・ヴェンダーズ監督、役所広司主演の映画

「パーフェクトデイズ」の感想を一口で言うなら、

そんな映画だ。

 

たんにエンタメとして楽しませてくれるよりも、

いろいろなことを考えさせてくれるのがいい映画、

あるいは、きょうはそういう気分になっている

人にとっては、これほどいい映画はない。

 

役所広司演じる主人公は、トイレの清掃員・平山。

朝、夜明け前に起き出し、支度して仕事に出かけ、

終わると安い飲み屋で一杯ひっかけ、

夜はふとんで本を読んで寝る。

 

その単調な生活、同じような毎日の繰り返しを淡々と描く。

周囲の人たちとの、小さなエピソードはいくつかある。

そして、彼が毎朝、若木に水をやったり、

公園の木々の写真をフィルムカメラで撮ったりする描写も、

そうした命を愛する人だということを伝える。

 

しかし、それだけだ。

平山の生き方を変えてしまうような劇的な展開、

物語らしい物語はいっさいない。

テーマらしいテーマもないように見える。

 

でも、僕はこの映画の秘密めいたテーマを見つけた。

まだ序盤のあたり、同じ清掃員仲間の若い男が

平山の丁寧な仕事ぶりをちょっとくさすように、

「どうせ汚れるんですから」という。

トイレだから当然だ。

どうせ汚れるのに、汚されてしまうのに、

どうしてそんなに一生懸命になって掃除するんだ。

僕もそう思う。

きっと誰もが、若い男のセリフを借りれば、

「10人のうち9人は」、いや、もしかしたら10人が

そう思うと思う。

誰もが豊かで便利で平和に生活できる、この社会では。

 

「どうせ汚れるのに、どうして一生懸命掃除するのか」

これは言い換えれば、

「どうせ死ぬのに、どうして一生懸命生きるのか」

につながる。

平山はきっとそうしたことを考えながら、

毎日のトイレ清掃に励んでいる。

 

それがどんな仕事でも、

ていねいに仕事をすることは、

ていねいに生きることにながる。

ていねいに生きれば、一日一日がきれいに輝く。

そんなメッセージが流れている。

 

平山は現代社会に取り残されてしまったような人だ。

孤独だし、もう若くないし、カネも持っていなさそうだ。

スマホもパソコンも使わなければ、

ボロアパートの部屋にはテレビさえ置いていない。

車は持っているので、ラジオは聴くかもしれないが、

彼がラジオを聴くシーンは出てこない。

車内で聴くのはもっぱら古いカセットテープ。

1960年代から70年代の音楽だ。

 

彼の年齢は60歳前後と察せられる。

要は、学生だった40年ほど前の時代と

ほとんど変わらない生活を送っているのだ。

 

そんな取り残され、落ちこぼれた、

高齢者に近い孤独な男だが、

なぜか周囲の人たちを励まし、

元気づける存在になっている。

先述の若い男もそうだし、

その男が好きになった女も平山にキスをする。

 

極めつけは、中盤で彼のアパートにやってくる姪だ。

高校生らしき彼女は、伯父である平山を慕って、

仕事についてきたり、いっしょに銭湯に行ったりする。

 

この姪との会話のなかで、平山は、

「みんな一緒の世界に住んでいるようで、

じつは別々の世界に住んでいるんだ」

といった意味のことをいう。

 

彼のバックストーリーは一切語られないが、

この姪を連れ戻しに来た母親=彼の妹との短い会話は、

平山の人生を想像させる。

妹は高級そうな車に乗っており、

彼とは段違いの裕福風な暮らしを送っていることが

見て取れる。

また、彼の父親は高齢で認知症らしく、

施設に入っているようだ。

 

実家はかなりの資産家で、

長男である平山は、父の生き方に反発し、

家を出たまま、齢を重ねてしまったのかもしれない。

妹とは同じ家庭で育ちながら、

互いにまったく違う価値観を持った人間になってしまった。

けれども、きょうだい仲は悪くない。

姪の家出もそんなに深刻なものではなく、

母親に素直に従って帰っていく。

けれども彼女にとって、伯父の持っている世界は、

一種の憧れに満ちた世界として映っている。

 

この姪や、仕事仲間の男、そのガールフレンドらは、

みんな若く、軽やかに、

面白おかしく生きているように見える。

けれどもその裏側に漂う切なさは何だろう?

彼女らは、平山の存在に何を感じていたのだろう?

それはきっとこういう予見だ。

 

わたしも、おれも、いずれ齢を取り、死ぬ。

それまでどう生きればいいのか?

 

そうした思いにあまり齢は関係ないのかもしれない。

 

映画の終盤、彼が最後に励ますのは、

行きつけの飲み屋のママのもとを訪れた男である。

平山と同年代らしいこの男は、ママの元夫で、

ガンでもう寿命があまりない。

それで別れた妻に最後に会いに来たという経緯だ。

「結局、何もわからないまま終わっていく」

という男のセリフは胸に刺さる。

そんな男をやさしく励ます平山のふるまいは、

ひどく感動的だ。

 

平山の人生はこの先、劇的に展開する気配はなく、

きっと彼はこのアパートの一室の片隅で、

野良猫のように一生を閉じるのだろう。

 

社会に置き去りにされた、底辺のエッセンシャルワーカー。

高齢者に近い孤独で無口な男。

そんな彼の存在にも価値がある。

1本1万円で売れる、

聴きつぶした中古のカセットテープのように。

 

彼の人生は輝いている。

一日一日がパーフェクト・デイ=完璧な日だ。

 

このタイトルは、ルー・リードが、

1972年に発表した同名曲から取ったものだろう。

晴れわたった青空を想起させるような、

美しいが、ひどく物悲しい旋律に乗せて、

意味深な歌詞が繰り返される。

 

Just a perfect day 

ただただ完璧な一日

 

You just keep me hanging on 

君は僕をかろうじて生かしてくれている

 

You're going to reap just what you sow 

自分の蒔いた種は、すべて刈り取らなくてはいけない

 

2023年のカンヌ映画祭など、

世界的に評価された作品であることは

あまり意識せず、

素直にありのままの気持ちで見た方がいい。

そうでないと、この映画の真価は見えてこない。

 

ヴェンダースの作品はむかし何本か見たが、

若い頃の自分にとっては退屈だった。

たぶんヴェンダース映画を見るのがイケてる、

カッコいいといった意識が入っていたからだろう。

 

これはシニアの自分には面白く見られたが、

若い人には退屈かもしれない。

でも、自分の目で見てほしいと思う。

 

「ベルリン天使の詩」「パリ、テキサス」など、

かつてはつまらないと思ったヴェンダース作品も

齢を取った目でもう一度、見てみたいと思う。

新しい何かを発見できるかもしれない。

 


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「世界に一つだけの花」がテレビの懐メロ特集から消えた話

 

年明け間もなく話題を提供してくれた中居正広君の

9千万円示談金問題。

事実関係がよくわからず、

例によって憶測ばかりが飛び交って、

たぶん2月になる頃には、

みんな忘れてしまうだろうから一切触れませんが、

それよりちょっと気になったのが、

彼が所属してたSMAPの歌のこと。

 

年末のテレビにおいて恒例のように、

あちこちのチャンネルで懐メロ特集をやっていましたが、

ゼロ年代、国民的流行歌と言われた、

SMAPの「夜空ノムコウ」や

「世界に一つだけの花」がまったく出てこない。

なんだかあのグループ、あのヒット曲の数々が

エアポケットに落っこちて、

この世から消え去ってしまった感じでした。

 

いや、いろいろ権利の問題があるのは知っています。

そして、天下御免だったジャニーズ事務所が

あんなことになってしまった今となっては、

とてもテレビでは放送できないのでしょう、きっと。

 

けれども僕たちのようないい齢をしたおとなはともかく、

当時、SMAPの歌(或いは嵐など、

他のジャニーズグループの歌)を

聴きながら育った世代の子どもたち・若者たちの心情は

どうなるのでしょうか?

 

とくに「世界に一つだけの花」などは、

学校をはじめ、全国さまざまな地域イベントなどで使われ、語られ、彼らの子ども時代・青春時代の記憶とも

強く結びついているはず。

それが一切なかったことにされてしまうのは、

なんとも寂しいこと・悲しいことだと言わざるを得ません。

 

テレビや芸能界のルールとやらは、

そうした人びとの思い出や、

あの時、音楽がもたらした感動をチャラにしてしまうほど、ご大層なものなのか?

これでは若者はテレビにそっぽを向くわけだ、

と思わざるを得ず、考えれば考えるほど、

腹立たしくなりました。

「おとなの事情」なんてくそくらえ!

もっと懐メロを大事にしろ!

 

そんなわけで、AmazonKidleから

電子書籍「週末の懐メロ」全6巻を出版しています。

これは、2000年10月からブログ「DAIHON屋のネタ帳」で

3年半にわたって連載した文章をまとめたエッセイ集。

 

20世紀の、自分の好きなミュージシャン・楽曲について、

個人的な思いや体験、

あるいはその曲を聴いていた時代の状況、

当時のロック・ポップミュージック、

日本の歌謡曲やニューミュージックを取り巻く状況などを好きなように書き綴ったもので、1960~90年代の音楽を体験した人にとっては面白く読めるのではないかと思います。2000年リリースの「夜空ノムコウ」についてもスガシカオの楽曲として、第5巻に載録しています。

 

また、旧世代にだけでなく、

20世紀当時を知らない若い世代にとっても

きっと面白いに違いないと自負しています。

いまや 年代関係なく、インターネットを通して、

20世紀のポップ・ロック・歌謡曲などを

みんなが楽しめる時代になりました。

 

僕の20代の息子もキング・クリムゾンや

ブラック・サバスを聴いています。

僕よりよほど精通した、ロック博士みたいな若者もいます。若い人たちもネットでいろいろ調べて、

聴いて、懐メロを楽しむ時代。

その参考書、ガイドブックとしても、

役に立ててほしいと思っています。

 


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ペットロスから人生観・死生観が変わる

 

ペットロスによって人生観が変わった

という人の話を聞いた。

飼っていた柴犬が目の前で車に跳ねられたという。

 

話によると、散歩中、首輪がすっぽ抜けてしまい、

その犬が走り出した。

彼は追いかけたが、犬は面白がってグングン走り、

大量の車が行き交う大通りの交差点に飛び出した。

信号は赤。車が停まれるはずがない。

 

衝突した瞬間、犬は空中に高くはね上げられた。

歩道にいた彼の視界からは、交差点の風景は消え、

空の青をバックに、スローモーションで踊るように3回、

からだが回転する犬の姿だけが見えていたという。

 

「僕、赤信号渡ってましたね。

よく自分も跳ねられなかったと思います。

道路に落ちた犬を抱き上げました。

病院に連れて行こうと思って、

まず家に帰ったんですけど、

ちょうど玄関までたどり着いた時に、かくって死んだ。

よくドラマなんかで「かくっ」って死ぬでしょ。

あれだったよ。かくっとなってね。

口からすんごい色の血が出てきて」

 

この飼い主というのは、坊さんだ。

お寺の坊さんなので、それまで葬式や法事でお経を唱え、

何百回とご供養のお勤めをしている。

しかしというか、だからというか、

死は坊さんにとっては日常的なことであり、

他人事でもある。

ビジネスライクになっていたところは否めない。

 

けれども、犬の死はこの坊さんに大きな衝撃を与えた。

彼は精神的におかしくなって仕事が出来なくなり、

本山に行って一週間、

引きこもり状態で法話を聴き続けたという。

 

「あんなに真剣に、

仏様についての話を聞くことはなかったです。

そのきっかけを犬がくれましたね。

だから僕は仏様が犬の姿となって現れて

僕をまとも坊主に導いてくれたんだと今でも思ってます」

 

彼は今、自分の寺を持ち、

そこにはペットロスの人たちが自然と集まってくる。

 

ペットが死んだからと言って、

誰もが彼のような経験をすることはないと思うが、

それでもペットロスがきっかけとなって、

人生観・死生観が変わるといった話は時々聞く。

 

いっしょに暮らす、命ある生き物は、

僕たちが通常送っている

人間の社会生活とは違った角度から、

生きること・死ぬことについて、

考えさせてくれるのは確かなようだ。

 

死について考えることは、

よりよい生について考えること。

 

Deathフェス|2025.4.12-17 渋谷ヒカリエで開催

 

「死」をタブー視せずに人生と地続きのものとして捉え、

そこから「今」をどう生きるかを考える 。

新たに死と出会い直し、

生と死のウェルビーイングを考える「Deathフェス」を、

毎年4月14日(よい死の日)を中心に開催。 

 


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著名人の死2024とDeathフェス2025 

 

1月4日:篠山紀信(83)写真家

1月16日:庄司歌江(94)漫才師

2月6日:小澤征爾(88)指揮者

2月20日:山本陽子(81)俳優

3月1日:鳥山明(68)漫画家

3月4日:TARAKO(63)声優

3月14日:寺田農(81)俳優

4月8日:宗田理(95)作家

4月10日:曙太郎(54)力士

4月21日:フジ子・ヘミング(92)ピアニスト

4月26日:桂由美(94)デザイナー

5月2日:小山内美江子(94)脚本家

5月4日:唐十郎(84)劇作家

5月16日:中尾彬(81)俳優

5月27日:今くるよ(76)漫才師

6月9日:久我美子(93)俳優

7月4日:赤塚真人(73)俳優

7月26日:園まり(80)歌手

8月1日:桂米丸(99)落語家

8月28日:宇能鴻一郎(90)作家

9月3日:ピーコ(79)タレント

9月29日:大山のぶ代(90)声優

9月30日:山藤章二(87)イラストレーター

10月4日:服部幸應(78)料理評論家

10月17日:西田敏行(76)俳優

10月23日:せなけいこ(91)絵本作家

10月25日:楳図かずお(88)漫画家

11月12日:北の富士勝昭(82)力士

11月13日:谷川俊太郎(92)詩人

11月14日:火野正平(75)俳優

11月15日:崇仁親王百合子(101)皇族

12月6日:中山美穂(54)俳優

12月9日:小倉智昭(77)フリーアナウンサー

12月19日:渡辺恒雄(98)実業家

 

昨年(2024年)亡くなった著名人を書き出してみた。

上記は僕が知っている人たちだが、

どの世代の人も、このうち半分くらいは

ご存知なのではないだろうか。

 

彼ら・彼女らの活動・作品・発言・パフォーマンスの数々は、

僕たちの心の形成に何かかしらの影響を及ぼしてきた。

少なくとも何十年も会っていない親戚よりは、

かなり身近に感じるはずだ。

 

テレビなどで、このように

身近に感じて来た人たちが亡くなるたびに、

僕たちは、日本が超高齢化社会であるとともに、

超多死社会であることを思い知る。

 

死について考えることは、

よりよい生について考えること。

 

Deathフェス|2025.4.12-17 渋谷ヒカリエで開催

 

「死」をタブー視せずに人生と地続きのものとして捉え、

そこから「今」をどう生きるかを考える 。

新たに死と出会い直し、

生と死のウェルビーイングを考える「Deathフェス」を、

毎年4月14日(よい死の日)を中心に開催。 

 


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息子の安上がり正月リゾート

 

 

暮れから正月にかけて、足掛け1週間、

息子が泊まっていった。

別々に暮らすようになって以来、

こんなに長くいたのは初めてだ。

元旦が映画の日だから、ということで、

一人で池袋に「マッドマックス怒りのデスロード」と

「地獄の黙示録」を観に行ったのと、

昨日(4日)にいっしょに初詣に行った以外は、

家でゴロゴロしていた。

うちをリゾート施設扱いしているのかもしれない。

ずいぶん安上がりなリゾートだ。

 

その代金というわけではないが、

自分ではなかなかアプローチしない

マンガのこと、小説のこと、映画のことなど、

若い世代のトレンド的なものについて、

いろいろ教えてもらった。

 

会うたびにそういう話をして、

彼のおすすめをあれこれ見たり読んだりするのだが、

いつもなかなか消化しきれない。

今年こそはと思い、

本はいくつか手配したが、

どこまで読めるか。

 

今日の昼飯を食って帰ったが、

しばらくいっしょにいたので、

なんだかちょっと寂しくなった。

かといって、すっかり大人になった息子に

帰ってきてほしいとは思わない。

子供に戻ってもらっても困るし。

 

ただ、齢を重ねた親というのは、

こういう微妙な気分も味わうのだぁなと、

しみじみした。

というところで今年の正月はお終い。

 


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おみくじ引かない初詣

 

義母がデイサービスに出かけたので、

カミさん・息子と3人で大宮八幡宮に初詣。

さすがに正月四日ともなると、

人出はそう大したことなく、

ほど良い賑わい加減。

 

このあたりの神社仏閣施設では

ほとんど独り勝ち状態の大宮八幡宮では、

和田堀公園から入る入口の鳥居もリニューアルし、

ますます多くの人を集めているようだ。

 

毎年おみくじを引いてきたが、

今年はあまり気が進まなかったので、

引かずにおいた。

別段、特別な意図はないが、

おみくじの吉凶に一喜一憂して、

年の初めからエネルギーの無駄遣いをするのも

どうかと思ったので。

 

自分ができることを一生けん命やれば、

それでいいのだ。

 


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年賀状卒業生の皆さん、また会おう

 

「勝手ながら今年で年賀状を卒業させていただきます」

今年も何枚か、年賀状でこうした文面を見かけた。

ふだん、オンライン上でやりとりはしていないが、

連絡を取ろうと思えば、いつでも取れる人なので

いいと言えばいい。

 

べつに腹を立てるとか、いやな気持になるとか、

そういうことではないのだが、

それでも正直、ちょっと胸の中がモヤっとする。

 

どんな心境の変化だろう?

何か彼・彼女の身に何かあったのだろうか?

たしかにハガキ代は値上がったが、

そこまで節約しなくてはならないほど、

経済が困窮しているのか、

いやいや、まさか・・と、

あれこれ、どうでもいいことを考えてしまう。

 

「虚礼廃止」ということか。

僕は最初から義理立てするために

年賀状なんか出していないので、

「虚礼」をしているつもりはない。

 

仕事上の交流がなくなった人とは、

自然にやりとりもやめたし、

いまだ出しているのは、

やっぱり年一度は挨拶しておきたいなと

思う人ばかりである。

 

なので、ノリとしては中学生や高校生の時と変わらない。

あの頃の年賀状はすごく楽しくて、ワクワクした。

 

いかにもガキっぽい、面白い絵柄と文面は

50年以上経った今でもはっきり覚えている。

好きな女の子から来た年賀状はずっと大事に取っていた。

「お正月は○○神社で巫女さんのバイトやってます」と、

可愛いイラストを付けて書いてあった。

(家が遠かったのでその神社には行かなかったが)

 

そう考えていくと、

卒業宣言した人たちは、

僕とのやりとりも「虚礼」と捉えていたのかなと思う。

たぶん、それが「モヤっと」の正体だろう。

 

確かに、10年どころか、20年、30年、

一度も会っていない人もいた。

別に彼らを責める気はない。

僕の方が勝手にモヤっとしているだけだ。

 

それによくよく考えると、20代の頃は

ほとんど自分から出していなかった。

ちゃんと毎年出すようになったのは30代からだ。

いや、もしかしたら結婚してから、

子供が出来てからかもしれない。

よく憶えていない。

 

一時期は可愛い子供の写真、

幸せそうな家族の写真の年賀状がいっぱい来ていたし、

僕も息子が中学のころまでは

カミさんと息子と3人で撮った写真を

年賀状にして出していた。

 

あれっていま思えば、同じ立場の人たちはともかく、

そうでない人たちにとっては

かなり鬱陶しかったのかもしれない。

 

それに最近は個人情報開示のリスクが大きいので、

ああいうファミリー年賀状はヤバイのではないかと思うが、

小さい、可愛いお子さんをお持ちの方は

どうしているのだろう?

 

そして、もうこの世にいない人の年賀状も、

彼らの顔つきで何枚か思い出した。

去年が最後になってしまった友だちもいる。

 

長く生きていると、年賀状ひとつをめぐって、

あれこれ考えることがたくさんある。

 

年賀状文化の終わりということなのだろうか?

だからと言って寂しがっているわけではないが、

時代の移り変わりの一つの表れであることは確か。

 

LINEやメールなどで送られて来る

デジタルなご挨拶でも、

何十年か後、こんなふうに、

あれこれ思い出すことがあるだろうか?

と、ふと考え込んでしまった。

 


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義母のお正月スペシャル

 

義母を初詣に連れていく。

出かける前、靴下がはけないと言って騒いでいるので、

見に行ったら、なんと、手袋を履こうとしている。

そりゃ履けるわけないよ!

新年初笑い劇場か。

と、お正月スペシャルボケをかましてくれた。

 

都内有数、皇室御用達でもある大宮八幡宮が近いので、

義母もいっしょに行っていたのだが、

この数年、とくに昨年夏、肺炎ぽくなって

1週間入院してからは、さすがに以前ほど歩けなくない。

近いと言っても、年寄の足だと30分近くかかるので、

代わりに半分程度の距離の尾崎熊野神社に詣でる。

 

こちらは大賑わいの大宮八幡宮と比べると、

規模も人出も1割、2割程度。

僕ったちが行った10時過ぎは

ほかにほとんど人がおらず、

お参りの後、二人でベンチに座って日向ぼっこをしていた。

 

今日は日中はぽかぽか陽気で、

帰りもあちこちで坐って日向ぼっこしていたので、

結局2時間も散歩していた。

これもまたお正月スペシャルということで。

 


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2025年、高齢者1年生は18歳

 

あけましておめでとうございます

 

年初の目標は「18歳になって生きる」。

どれだけジタバタしたところで、

今年から「高齢者」と呼ばれる齢になってしまう。

なのでこの際、自分を洗脳することにした。

 

ただし、体力も感受性も半減どころか、8割減。

そして、カネもうけ主義と

魑魅魍魎渦巻くネット情報に

すっかり脳をやられてポンコツになっている。

 

そんなありさまなので、

言い換えれば、きょう「18歳でいよう」

と決めたことを

どこまで維持できるかが今年の目標になる。

 

具体的には、小説4作を含め、

月1で電子書籍を出して行く。

さらに小説については、

声優さんと組んでオーディオブックを出したい。

 

あとは昨年、100冊本を読んだ息子を先生にして、

19世紀文学の探究と、

最近のマンガの探究をしていきたい。

いつまでも昭和や懐メロで心を癒していられない。

新しい世界の探究も今年のテーマだ。

 

そして昨年の政治情勢、国際情勢、

名のある文化人・芸能人・芸術家らの多くが

他界したことを考えると、

今年はまた、時代の大きな変化があるだろう。

 

さすがに「老害」が退潮の兆しを見せている。

なんとなく18歳の時のわくわくした気持ちが

お腹の奥でうずくのを感じる。

いろいろ面白くなりそうだ。

 

ということで、とりあえずは

来週までに年末に取材した会社の

ホームページのテキストを仕上げる予定。

18歳でも生活は着実に。

 

今年もどうぞよろしくお願いいたします。

 


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おりべまこと電子書籍2024

 

今年は長編・中編、1作ずつの小説を出版。

2025年は書きかけの長編、

プロットを用意してある長編のなかから2作、

新しいアイディアの中短編を2作リリース予定。

 

エッセイ集は「週末の懐メロ」全6巻完結。

昭和99年は「昭和99年の思い出ピクニック」刊行。

その他、「食べる」「生きる」「動物」シリーズも。

2025年は「AI」「認知症」「エンディング」など

リリース予定。

そして締めくくりは「昭和100年の思い出ピクニック」。

 

新設ノンフィクションシリーズ

「市井の賢者(仮題)」を1月か2月にリリース予定。

 

2025年も書いていきます。

また読んでくださいね。

 

●今はまだ地球がふるさと

https://amazon.co.jp/dp/B0CW1FWZ59

 

●花屋のネコの大いなる任務

https://amazon.co.jp/dp/B0DPCN144Z

 

●週末の懐メロ第6巻

https://www.amazon.com/dp/B0CW1KKHXL

 

●昭和99年の思い出ピクニック

https://www.amazon.co.jp/dp/B0CWG58MCQ

 


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年末の認知症ミステリー

 

クリスマス前から年内UPの仕事に追われ、

なんとか完了。

年賀状も書き終え、大掃除も本日昼過ぎに終えた。

豆を煮て、花を飾ったところへ、

夕方、息子がお年賀を持ってやってきた。

やれやれ、やっと落ち着いて正月を迎えられる・・・

と思って義母の帰りを待っていた矢先、

デイサービスのスタッフがひとりで来て、

「すみません。車から降りないんです」。

驚いて見に行くと、

がんとして後部座席に座ったままの義母。

 

「さあ、いっしょに晩ごはん食べよう」

と言っても、心を開かない。

仕方なく、スタッフがひと回りして戻ってくると、

やっと応じて車を降りた。

その後はいつもと変わることなく、

いっしょにご飯を食べて床に就く。

食欲に支配されているので、

ふだんは家にいない息子(彼女には孫)が

来ていることにも頓着しない。

というか、そもそも気付いていない。

 

じつは2日前、別のデイサービスの帰りでも

同じことがあった。

これまでいっしょに暮らして5年半、

こんな振る舞いは一度もなかったのだが。

どういう心の動きがあるのだろうか?

 

1年が終わることをどこかで察知して、

無意識のうちに不安になっているのだろうか?

認知症の不思議な現象は、どこからともなく降ってくる。

 

 


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クリスマスカードと年賀状2024

 

今年も天才クラフトワーカーから

クリスマスカードが届いた。

 

今回のは一段と手が込んでいて、

かわいい靴下は本物の手編み。

 

いつも数十通、こんなのを送っているという。

彼女にはお返事として、毎年必ず年賀状を送る。

 

今年は郵便料金が値上がったこともあって、

「年賀状じまい」が加速しているらしい。

まさか、まさかの事態。

年賀状文化の崩壊が始まっている。

 

でも、SNSやLINEを使った年賀の挨拶と

年賀状とは、ずいぶんニュアンスが違う。

 

しばらく会ってない人、

ふだんは頭の中に存在していない人から

いきなりスマホに届く「おめでとう」には

戸惑いや怪訝な感じ(勧誘・商売の伏線?とか・・・)

を覚える。

仕事でデジタルはいいが、

正月の挨拶はやっぱりアナログであってほしい。

 

その点、年賀状だと違和感がない。

ああ、まだ生きてるな、

まだ彼(彼女)と繋がっているんだな、

という安堵感・安心感を覚える。

 

たしかに形式だけのやりとりならいらないと思うが、

SNSで連絡を取り合うほど

密な交流はしたくないけど、

なんとなく自分の人生のどこかにいて欲しい人とは

正月だけでも「おめでとう」と紙面で挨拶したい。

 

というわけで、クリスマスが済んだら、

あっという間にお正月。

これから年賀状書きます。

 

おりべまことの電子書籍

現代を生きる大人に贈る童話

花屋のネコの大いなる任務

 

無料キャペーンは、本日16:59をもって終了しました。ご購入いただいた方、ありがとうございます。よろしければレビューをお寄せください。同書は引き続き、AmazonKindleにて¥500で販売中。年末年始のあなたの心にプレゼント。

 

 


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自分へのクリスマスプレゼント

 

おりべまことの電子書籍

現代を生きる大人に贈る童話

花屋のネコの大いなる任務

 

一人で店を切り盛りする花屋の女主人と、

彼女のために大いなる任務を果たす保護猫の物語。

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12月23日(月)16:59まで。

さあ、急がニャいと。

自分へのクリスマスプレゼントにどうぞ。

 


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旅のお供はネコですか?

 

をかなえたあとも、

成功を果たしたあとも、

欲しい物をすべて手に入れたあとも、

まだまだ人生は続く。

夢に届かない人も、

失敗して転んだ人も、

何も手に入れられない人も、

まだまだ人生は続く。

あなたがどっちか知らないけど、

いっしょに旅をするおともがいれば、

まだまだ人生続けられる。

 

現代を生きる大人のための童話

花屋のネコの大いなる任務

12月23日(月)16:59まで

無料キャンペーン開催中。

 


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あなたの“ねこ”は、どこにいますか?

 

夢をかなえても、

成功を果たしても、

欲しい物をすべて手に入れても、

むなしかったり、涙が出たりする。

そんなあなたの心を満たす“ねこ”は、

どこにいますか?

 

現代を生きる大人のための童話

花屋のネコの大いなる任務

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12月23日(月)16:59まで

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「花屋のネコの大いなる任務」無料キャンペーン

 

おりべまこと電子書籍最新刊

おとなも楽しい少年少女小説

「花屋のネコの大いなる任務」

本日より6日間無料キャンペーン開催中。

12月23日(月)16:59まで。

 

一人で店を切り盛りする花屋の女主人と、

彼女のために大いなる任務を果たす保護猫の物語。

クリスマスの賢者の贈り物として、

あなたの胸の本棚に1部いかがかニャ?

 

●あらすじ

 

彼女は「お花屋さんになりたい」という

少女時代の夢をかなえた。

今はとある町の小さな花屋の女主人として、

ひとりで店を切り盛りしている。

花に関する豊富な知識、アレンジメントのセンスと技術。

加えて人柄もよく、お店の評判は上々で、

商売はうまいこといっている。

彼女自身も毎日、大好きな花に囲まれて

仕事ができて幸せだ。

 

ところが、明日は母の日という土曜日の朝、

店の外に出て、びっくりした。

そこに置いてあったカーネーションの花が

ネズミに食い荒らされていたのだ。

ショックを受けた彼女は、

今後、二度と店にネズミを寄せつけないよう、

ネコを飼う決心をする。

 

保護猫サイトを探すと、

かわいらしい子猫たちにまじって大人のネコがいた。

人間に保護されるまで1年間、

野良猫として生き延びてきた頼もしそうな奴だ。

しかも彼は、オスの三毛猫というレアものである。

女主人は彼を引き取り、

「ダビ」と名付け、自分に言い聞かせた。

 

「寂しいからじゃない。癒されたいからじゃない。

ネズミよけのためにこのネコを飼うんだ」と。

そして、自分とネコとの関係を明確にするために、

雇用契約を結ぶ。

彼女は仕事の依頼主。

その報酬として彼に食事と寝床を与える。

 

こうして、花屋の女主人と

三毛猫ダビの暮らしが始まった。

 


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花屋のネコの大いなる任務 無量キャンペーン予告2

 

お待ちかね。6日間無料キャンペーン開催します。

12月18日(水)17:00~23日(月)16:59まで。

一人で店を切り盛りする花屋の女主人と、

彼女のために大いなる任務を果たす保護猫の物語。

 

ふと気が付くと、最近、

女性や女の子が主人個の話ばかり書いている。

この齢になると、男でも女でも、

子供でも大人でもジジババでも、

イヌでもネコでもネズミでも、

なんでも自由自在に変身できる。

 


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「花屋のネコの大いなる任務」無料キャンペーン

 

お待ちかね。6日間無料キャンペーン開催します。

12月18日(水)17:00~23日(月)16:59まで。

 

一人で店を切り盛りする花屋の女主人と、

彼女のために大いなる任務を果たす保護猫の物語。

花好き、ネコ好きに贈るクリスマスプレゼント。ぜひ。

 

●あらまし

 

彼女は「お花屋さんになりたい」という

少女時代の夢をかなえた。

今はとある町の小さな花屋の女主人として、

ひとりで店を切り盛りしている。

 

花に関する豊富な知識、

アレンジメントのセンスと技術。

加えて人柄もよく、お店の評判は上々で

、商売はうまいこといっている。

彼女自身も毎日、

大好きな花に囲まれて仕事ができて幸せだ。

 

ところが、明日は母の日という土曜日の朝、

店の外に出て、びっくりした。

そこに置いてあったカーネーションの花が

ネズミに食い荒らされていたのだ。

ショックを受けた彼女は、

今後、二度と店にネズミを寄せつけないよう、

ネコを飼う決心をする。

 

保護猫サイトを探すと、

かわいらしい子猫たちにまじって大人のネコがいた。

人間に保護されるまで1年間、

野良猫として生き延びてきた頼もしそうな奴だ。

しかもオスの三毛猫というレアものである。

 

女主人は彼を引き取り、

「ダビ」と名付け、自分に言い聞かせた。

「寂しいからじゃない。癒されたいからじゃない。

ネズミよけのためにこのネコを飼うんだ」と。

 

そして、自分とネコとの関係を明確にするために、

雇用契約を結ぶ。

彼女は仕事の依頼主。

その報酬として彼に食事と寝床を与える。

こうして、

花屋の女主人と三毛猫ダビの暮らしが始まった。

 


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AIはマンガのロボットみたいな相棒

 

今年はAIが大きく進化した年だった。

僕も去年まではお遊びで触る程度だったが、

今年は夏場、ちょっとヒマだった時期に

セミナーを受けて、

AIを仕事で積極的に使い始めた。

 

新しいテクノロジーを肯定するか比例するかは

その人の自由だが、

これだけ世間でAIについて言及され、

いずれ多くのマンパワーがAIに取って代わられる

といった話を聞いていると、

やはりある程度は知っておかないと駄目だ。

 

ろくに知りもしないで「AIなんか要らない」

と、ただ否定していると、

内心、どんどん不安とストレスが溜まっていく。

これはあまり良くない状態だ。

 

AIを知り、使い方を身に着けるには、

ただ遊んでいるだけでは不十分で、

やはり実際に仕事で使ってみる必要がある。

 

というわけで,いろいろ試して、

AIライティングの概要を

つかんでからは、できるだけ、

どんどん使うようにしている。

 

僕の場合、取材の文字起こし、記事の構成、

リード文の作成、タイトル案の作成などが主な用途だ。

一度完成した原稿をもっとカジュアルに、

若い読者向けに、みたいな指示を与えて

アレンジする場合もある。

小説を書く際に、

対話しながらプロットを書くこともある。

 

自分がどの程度、

使いこなせているのはよくわからないが、

僕はあまりAIの普及を心配していない。

 

やっぱり機械は機械なので、使っていると、

いかにもみたいなビジネス文章の文型、

「成長「発展」「拡大「希望」といった、

やたらポジティブなワードを多発し、

きれいにまとめようとする傾向が強いからだ。

いわば「模範解答」みたいな文章ばかりで面白くない。

 

もちろん、プロンプトで「もっと柔らかい表現で」とか、

「もっと砕けて」とか指示すれば、

代案を出してくるのだが、

何度もやり直しさせるのがめんどくさいので、

結局、自分で書き直すことになる。

 

でも、AIのNG案を見て、

新しいアイデアがひらめくこともあるので、

AIの作業が無駄とか、使う意味ないとは思わない。

ようは付き合い方しだいだ。

 

AIは人間より神様に近いかもしれないが、

日本は多神教の国。

神様はヒューマンタッチで愛嬌があって、

ときどき悩んだり、ズッコケたりしている。

だからアトムやドラえもんみたいなマンガも生まれた。

 

来年以降、AIがどれだけ進化するかはわからないが、

当分の間は、できるだけ、マンガのロボットに見立て、

優秀だけど可愛くて楽しい

仕事の相棒にしていきたいと思っている。

 


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週末の懐メロ180編

 

今年はブログで3年半連載した

「週末の懐メロ」を終えて、6冊の本にまとめた。

第1回「5年間/デビッド・ボウイ」から

最終回「オールウェイズ・リターニング/

ブアイアン・イーノ」まで、

国内外を問わず、自分が好きだった

楽曲・ミュージシャンについて

トータル180のエッセイを書いた。

 

最初は手抜きコンテンツとして始めたのだが、

やっていくうちにどんどん面白くなって、

自分の記憶・当時の時代状況や

音楽雑誌で読んだこと、個人的エピソード、

そして、YouTubeをはじめ、

各種ネット情報などをかけ合わせ、

ネタにした楽曲・ミュージシャンによっては

2千字、3千字におよぶこともしばしばあった。

 

20世紀の頃には知り得かなった

歌詞の詳しい内容、ミュージシャンの来歴、

その楽曲が生まれたエピソードなども

発見・深掘りできて、毎週とても楽しかった。

 

あの頃、心を満たしてくれ、

神秘の世界・感情の世界に誘ってくれ、

普通に生きているだけでは感じられないものを

体験をさせてくれた20世紀の

ロック・ポップカルチャーに感謝の念が尽きない。

 

人間が生きている限り、

音楽がこの世からなくなることはないが、

栄華を極めた音楽産業は、

この先、衰退の一途を辿るだろう。

 

今後はAIが進化して、誰でも簡単に、

いくらでも良い曲がつくれると言われている。

しかし結局、

それらはこの20世紀ロック・ポップカルチャーの

膨大なデータがあるからこそ生まれるものだ。

 

1950年代~90年代の天才たち、

そうでなくても、この時代、

幸運にも音楽の神とコンタクトできた者たちの

感性・知性から生まれた音楽の価値は、

これからも、いささかも下がることはないだろう。

 

アーカイブ文化が発達して、

僕の息子のような若い人たちでも、

僕などよりははるかに

20世紀ロック・ポップカルチャーに

詳しい人たちがいっぱいいる。

そうした人たちの勉強になるようなものではないが、

当時のリスナーの私的な感想・意見を交えた

雑文として読んでもらえたらいいなぁと思っている。

 


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人生の半分はオンラインにある

 

先日、テレビのニュースで

闇バイトに関わってしまった

大学生の母親のインタビューを見た。

 

印象に残ったのは、同じ家で暮らす家族でも、

一人一人、何をしているのか・考えているのか、

どんな人間と付き合っているか、

まったくわからないという点である。

 

そんなこと今に始まったことではなく、

昔からそうではないかという声が

聞こえてきそうだが、

昔と違うのは、今はスマートフォン、

インターネットがあることだ。

 

僕が子どもの頃は、

テレビが「1億総白痴化装置」とディスられていたが、

それでもテレビは、家庭の暖炉の役割を果たしていた。

 

冬は特にそういった印象が強く、

みんなで居間で炬燵に入り、みかんなどを食べながら

テレビを見る時間は、

かけがえのない一家だんらんのひと時だった。

 

令和の時代において、そうした風景は、

ほとんど失われてしまったように思える。

たびたび書いているが、

「サザエさん」も「ちびまる子ちゃん」も、

もはや現実とかけ離れた

昭和ファンタジーの世界になっている。

 

子も親もオンラインの中に潜り込んで、

自分で様々な情報を収集して知識を蓄え、

SNSなど通じて、自分だけのコミュニティを持ち、

個々で楽しめる娯楽や心の拠り所を育てている。

 

同じ家に住んでいても、もはや、

昔の意味での家族ではなく、

個人個人がなりゆきで同棲し、

家をシェアして暮らしているという感じだ。

それぞれの人生の半分は、オンラインにあるのだ。

 

それでも大人はまだいいが、

子どもはどうだろう?

 

件の母親は、いっしょに暮らしている息子が

オンラインのギャンブルにはまり、

依存症になって多額の借金をつくり、

焦って闇バイトに引っ掛かってしまったという経緯に、

まったく気づけなかったという。

父親も同様だ。

 

大学生だから、へたに干渉すべきでない。

ある程度は自己責任で・・・

という親の気持ちはわかる。

ただ、今の子供はかなり高い割合で、

オンラインの世界に脳を乗っ取られていると

思ったほうがいい。

 

「デジタル・ネイティブ」という言葉は、

どちらかというとポジティブな意味合いで

使われることが多かった。

これからの世の中は、ITが発達するので、

そうした仕組みをよく理解し、

使いこなせる人間が活躍する。

僕たちは漠然とそう思っていた

(思わされていたのかもしれない)。

 

実際、街中でスマホに子守をさせ、

自分もスマホを見ている親にしばしば出くわす。

でも、子どもは大人と同じではない。

親(大人)は、リアル体験を重ね、

アナログ時代の情報取得のプロセスを経て、

オンラインと向き合っているので、まだいい。

 

でも、子どもは大人と同じではない。

リアル体験も、アナログ時代のプロセスも乏しい。

大人と違って、小さな子どもの脳には、

魑魅魍魎が混じり合っている情報のカオスに対し、

 

自分を守るシールドがまだ出来ていないのだ。

 

 

文字でも映像でも、情報の弾丸や刃が、

柔らかい肌をブスブスと簡単に突き破って、

むき出しの脳に、心臓に突き刺さってくる。

それらは人間性を著しく歪め、

破壊するほどの威力を持っている。

 

そうしたオンラインの脅威を感じ取ったのか、

先月、オーストラリアでは

未成年のSNS使用を禁止にする法案が通り、

施行されることになった。

 

いま一度、僕たちの人生の、少なくとも半分が

オンラインに移行している現状を考え、

子どもにどうこの装置を使わせればいいのか、

検討することも必要になるだろう。

 

ITが普及しようが、AIが発達しようが、

人間は人間のまま、変わるはずがない。

そう考えていると僕たちは安心できる。

けれども、その安心感が、じつは危険を孕んでいる。

 

テクノロジーの急激な進化によって、

いま、人間は変わり始めている。

あとの時代になって、

あの21世紀の最初の四半世紀の頃が

その変わり目だったのだ・・・

という歴史が生まれるかもしれない。

  


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「クリスマスエクスプレス」におじさんたちは涙ぐむ

 

かつてJR東海に勤めていた、

もと鉄道マンの本を書いている。

彼はまだ民営分割化前の国鉄時代に入社。

39年間勤務して定年退職直前に辞めて

シニア起業家になった。

 

JR時代のアイテムや写真・記事などを

たくさん保存していて、

そのなかにあった牧瀬里穂との2ショット写真を

ちょっと自慢気に見せてくれた。

それは2017年、新幹線のぞみデビュー25周年記念の

イベントで撮ったものだそうだ。

彼は、1992年3月14日の、

のぞみデビュー車の運転士だったのだ。

 

でも、あれ?

あの牧瀬里穂のCM

「クリスマスエクスプレス」は1989年。

東海道新幹線は、

まだ「ひかり」と「こだま」しかなか

った時代だが‥‥。

ま、いいか。みんな喜べば。

たった1分のCMなのに、

いまや牧瀬里穂さんは、新幹線、

JR東海のイメージと分かちがたく結びついている。

これはすごいことだ。

 

そして山下達郎は、けっしてこのCMのために

「クリスマス・イブ」を書いたわけではないのだが、

このCMのおかげで、かの曲は

クリスマスソングの永遠の定番となった。

(初出は1983年。

実は竹内まりやのために書いたらしいが、

彼女が歌わなかったんで、

もったとないと自分で歌ったらしい)

 

その「クリスマスエクスプレス」が

4Kの美しい映像でよみがえり、

YouTubeに上がっている。

1989年の牧瀬里穂バージョンと、

1988年の深津絵里バージョン(実はこっちが初代)。

 

牧瀬と深津があまりにかわいくて

感動的なドラマであると同時に、

ついているコメントが面白い。

 

ループさせてえんえんと見ている人もいる。

夜中に家族に隠れて

こっそり泣いている人もいる。

僕も含め、最近、クリスマスて言ったってなーと、

全然盛り上がらない人は、

これを見て、テンション上げてください。

 


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メディアの声より自分の声を聴け

 

僕たちはメディア、エンタメが

成長してきた時代とともに生きてきた。

だから、一度も会ったことがなくても

親しみを感じたり、寄り添ったり、

自分を重ね合わせる対象が大勢いる。

 

芸情人、アーティスト、文化人、スポーツ選手。

そのほか、本・舞台・ラジオ・映画・テレビ・ネットの

世界のあの人たち。

 

彼ら・彼女らの存在や活動、発言を

心のよりどころにしている部分もたくさんある。

多くの人、特に40代~60代の人たちにとって、

中山美穂さんはその代表的な一人だろう。

 

まだ54歳。

人生100年時代ではまだ十分に若い。

あまりに当然の死にショックを受けている人は

少なくない。

 

思えば今年も20世紀カルチャーをつくった、

たくさんの有名人が亡くなった。

トシだから仕方ないかと思える人もいれば、

まさか、あの人が…という人もいる。

20世紀カルチャーは終焉し、

僕らはこれから膨大なアーカイブのなかで

心を癒しながら生きることになるのかもしれない。

と思うことがしばしばある。

あなたはどうだろうか?

 

終わりは急にやってくる。

人生100年という言葉・イメージは、

希望の糧であるとともに、

大きな負担・不安のタネでもある。

100年、100年と言われている間に

「ライフプラン」という体のいい言葉を考えすぎ、

老後の不安ばかり膨らませ、

老後に備えることできゅうきゅうしながら

漫然と生きることになる。

 

自分は本当はいくつまで生きるのか?

60か70か? 90か100か?

もちろん、それを知るすべはない。

 

でも、「今」に集中して、

自分を活かして毎日を生きていれば、

どこかで事前にそれを知らせる声が

脳の奥から訪れるのではないかとも思う。

おまえは十分にやったと。

物語のような妄想だけど、

心の支え・励みにはなる。

生と死は表裏一体。

どう生きるのか?

どう死ぬのか?

メディアの声より自分の声を聴け。

 


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秋の最後の日の散歩

明日から寒くなるそうなので、

今日は今年の秋の最後の日かも、

と思って、午後から義母を連れて

近所の公園を散歩する。

遠くに行かなくても紅葉をたっぷり楽しめる。

 

なかなか色づかなかったイチョウが

12月になってどんどん黄色くなり、

見事なゴールデンイエローに。

ほんの少しの風で落葉が雪のように舞って、

切なくも美しい。

 

「ほらほら、空からまたくるくる降ってくるよ」

と、高い木の枝から回転しながら降りて来る落葉を見て、

義母に促すのだが、どうも反応が鈍い。

 

認知症にも関わらずというか、だからこそなのか、

この人はときどき、路傍の小さな花を見つけたりして、

小さな子どものような感性の鋭さを見せることがあるが、

紅葉・落葉に関しては全然気をそそられないようで、

僕がどれだけ「ほら見て見て」言っても、

ほとんどゴミ扱いである。

 

そのくせ、そのへんに落ちている

お菓子の空き袋、ポケットティッシュ、

子どもが落としていったおもちゃやアクセサリーなどは

目ざとく見つけてガメようとする。

せっかく秋を楽しみに来たのに・・・。

と文句を言っても始まらない。

 

しかし、今日は暖かく、お天気も良く、

気分も体調もよかったようで、

なかなか帰りたがらず、2時間近くも歩いた。

こんなによく歩いたのは久しぶりだ。

 

ちなみにネコのいる花屋さんでは、

秋の花が終わったらクリスマスや正月を挟んで、

もう春の花。

暖かい部屋で春を楽しんでほしいのだそうだニャ。

 


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おりべまこと最新刊 「花屋のネコの大いなる任務」 本日発売開始

 

彼女は「お花屋さんになりたい」という

少女時代の夢をかなえた。

今はとある町の小さな花屋の女主人として、

ひとりで店を切り盛りしている。

 

花に関する豊富な知識、

アレンジメントのセンスと技術。

加えて人柄もよく、お店の評判は上々で、

商売はうまいこといっている。

彼女自身も毎日、

大好きな花に囲まれて仕事ができて幸せだ。

 

ところが、明日は母の日という土曜日の朝、

店の外に出て、びっくりした。

そこに置いてあったカーネーションの花が

ネズミに食い荒らされていたのだ。

ショックを受けた彼女は、

今後、二度と店にネズミを寄せつけないよう、

ネコを飼う決心をする。

 

保護猫サイトを探すと、

かわいらしい子猫たちにまじって大人のネコがいた。

人間に保護されるまで1年間、

野良猫として生き延びてきた頼もしそうな奴だ。

しかも彼は、オスの三毛猫というレアものである。

女主人は彼を引き取り、

「ダビ」と名付け、自分に言い聞かせた。

「寂しいからじゃない。癒されたいからじゃない。

ネズミよけのためにこのネコを飼うんだ」と。

そして、自分とネコとの関係を明確にするために、

雇用契約を結ぶ。

 

彼女は仕事の依頼主。

その報酬として彼に食事と寝床を与える。

こうして花屋の女主人と三毛猫ダビの

暮らしが始まった・・・。

 

花好き・ネコ好きに贈る、

楽しいなかにもピリリとスパイスの効いた中編小説。34,000字。AmazonKindleより¥500で発売中。

 


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なぜ女はいくつになっても踊るのか?

 

踊りに性別は関係ない。

誰でも踊っていいんだけど、

男はある年齢を過ぎると、踊らなくなる。

(人それぞれなので、あくまで一般論だけど)

 

ところが、女はいくつになっても踊る。

年齢は関係ない。

というのは、昨日、女性の友だちが

ダンス公演に出るからとお誘いを受けたので、

割と近所なので、自転車を飛ばして観に行ってきた。

 

場所は甲州街道沿い。

下高井戸と桜上水の間あたりにある

「G-ROCKS」という音楽スタジオである。

こんなところにこんな施設があるとは知らなかった。

 

ダンスというのはアフリカンダンス。

西アフリカにあるマリの民俗舞踊である。

(公演用にいろいろアレンジしているらしい)

 

アフリカンダンスはエネルギッシュで好きだが、

正直、マリもガーナもケニアもナイジェリアも

区別がつかない。

 

かつては他のアフリカ諸国同様、

フランスの植民地だったが、1960年に独立。

「マリ」とは国語である

バンバラ語で「カバ」という意味で、

首都バマコにはカバの銅像があるという。

 

どういう経緯で、かの国の音楽家・踊り手たちが

日本にやって来て根付き、

文化の伝達者になったのかは定かでないが、

世界的なワールドミュージックの広がりと

関係があるのかもしれない。

 

英米のロックミュージシャンたちの多くが

1980年代頃から、アフリカの音楽に魅せられ、

積極的に自分たちの楽曲にも取り入れるようになった。

 

こうした音楽ビジネスの隆盛によって、

アフリカンリズムやアフリカンダンスが

日本にも紹介されるようになり、愛好家も増えたようだ。

 

今では各国の音楽や文化を教える教室が

都内のあちこち(おそらく他の地域にも)あるらしく、

友だちが通っているのも、そうした教室の一つらしい。

 

なぜ、ガーナでもケニアでもナイジェリアでもなく、

カバのマリだったのかはわからないが、

これも「ご縁」というのものかもしれない。

 

司会役でもあり、歌も歌うダンスの先生は

マリ人(?)のお姉ちゃんで年齢不詳。

その生徒さんたちは、わが友をはじめ、

大半が高齢の女性。

たぶん浴衣を着て盆踊りをしていたら、

近所のおばちゃん・ばあさんといったところだが、

デザインされた民族衣装をまとって、

激しく体を動かすマリダンスをやっていると、

なんだかアフリカの民話に出てくる精霊の類に見える。

 

みんな、実に楽しそうに踊る。

その顔を見ていて何に似ているのかと考えていたが、

今日、近所の公園を散歩していて、

夢中になって遊んでいる女の子たちに遭遇し、

そうだ、こんな弾けるような笑顔に

似ているのだと思い至った。

 

ここで踊ることになるまで、

皆さんがどういう人生を歩んできたのかは

僕には知る由もないが、

せっかくここまで生き延びたのだから、

思い切り楽しんでしまおうという気概が感じられた。

 

失礼な言い方かもしれないが、

妻なり、母なり、愛人なりの務めを終えて、

もうセクシーであり続ける必要はないという意識が、

彼女らを良い方向へ解放している面もあると思う。

遊ぶ子供と踊る高齢女性の共通項は、

セクシーでいなくちゃという女の義務感と

社会人としての責任から自由なことだ。

 

もちろん、いくら齢をとっても

社会人であり続けているわけだが、

男がいくつになっても、

長年身に着けてきたプライドや役割から

逃れられないのに比べて、

最近は、女の方が第3・第4の人生を

楽しめる傾向が強くなっていると思う。

 

上手いか下手かなんて、どうでもよくて、

見ている側がちょっと笑っちゃえるくらいでいい。

死ぬまで笑って踊って、

かつまた、それで人を笑わせられたら、

それが最高である。

 


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新刊「花屋のネコの大いなる任務」

 

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12月1日(日)AmazonKindleより発売予定。
どうぞお楽しみに。

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「海の沈黙」:心の主食になる映画

 

久しぶりに映画館で、

倉本聰・作の映画「海の沈黙」を観る。

すごくよかった。

久しぶりにずしっと腹に応える映画を味わったなぁという感じ。

派手でわかりやすくておいしいけど、

あまり栄養になりそうにもない、

おやつみたいな映画が多い中、

これこそ主食となる、心の栄養になる映画。

 

「生き残り」と言ったら失礼かもしれないけど、

倉本聰さんは日本のテレビドラマ黄金期、

そして衰退傾向だったとはいえ、

まだまだ映画が娯楽の王座にいた時代を支えた

作り手の「生き残り」だ。

(こんな言い方は失礼だと思うけど)

 

今年で齢89歳。うちの義母と同い年。

改めて履歴を見ると、

なんと、僕が生まれる前、1958年から

ドラマ作りのキャリアをスタートさせている。

 

この20年ほどの間に

同じ脚本家の山田太一・市川森一をはじめ、

同時代に活躍した作家や監督や俳優が

次々とこの世を去っていったが、

倉本聰さんは依然健在で、

「どうしても書いておきたかった」と、

60年温めてきた構想を実現した。

 

キャリアが長けりゃいい作品が書けるわけじゃない。

ものを書くには気力も体力もなくてはできない。

体内のエネルギー量がどれだけあるかの問題なのだ。

こんな気力溢れる作品を書く力が残っているなんで、

驚きと尊敬の何物でもない。

 

セリフの一つ一つ、シーンの一つ一つが重く、深く、

濃厚な内容は、昭和の香りがプンプン。

サスペンスの要素もあり、画面には2時間の間、

緊張感がみなぎって面白いので、

若い人にも見てほしいが、やっぱりこういうのは

ウケないんだろうなとも思う。

 

かくいう僕も、20代・30代の頃に

こういう映画を見て傑作と思えたかどうかは怪しい。

やっぱり齢を取らないとわからないこと、

味わえないものがあるのだ。

 

出演陣も素晴らしい。

なかでも中井貴一は飛び抜けてシブい。

それに比べて、主演の本木雅弘は

いま一つ軽いかなぁという感じ。

 

これまで小泉今日子をいいと思ったことは一度もなく、

倉本作品に合うのかなと思ったが、最高だった。

 

もと「なってたってアイドル」なので、

この類の人は、何かにつけて「経年劣化」を揶揄される。

けれども最近、不自然な修正画像やアニメ顔、

整形美女の不気味な顔を見過ぎているせいだろうか、

たびたびアップになる、しわの寄った顔が、

リアルでナチュラルで美しい。

そう思ったのは、やっぱり自分も齢を取ったからだろう。

 

カミさんと朝イチ(といっても11時半)の回に行ったが、

僕たちを含めて、観客はシニア割の人たちばかり。

やっぱり昭和の作り手、昭和の観客の世界だ。

間もなくこうした世界はむかし話になるだろう。

でも僕は、リアルで深遠な昔ばなしを

大事にしていきたい。

 


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本日も生存しているが、 「どうやらオレたち、いずれ死ぬっつーじゃないですか」

 

神妙な顔で「人生とは・・・」とうなっている人も、

ひたすら働いて、仕事と貯金と投資に明け暮れている人も、

ただ毎日むなしい思いで時間を浪費している人も、

ぜひ、この本を読んでみてください。

 

たぶん元気になる。

ちょっとは心が楽になる。

サブカルチャーの担い手・みうらじゅんと

とぼけた才人・リリーフランキーの

抱腹絶倒の対談集(っつーか、飲み会の雑談のノリ)。

内容はまさしくこのタイトル通り、

ワハハとあきらめて人生を語り倒す。

 

さて、今年もあと1か月ちょっとだけど、

時間がないない。

10~20代の1年は、40代だと半年、50代で4カ月、

60代になるとせいぜい2カ月。

いや、1か月半かな?

ほんとだよ。

あと20年ある、30年ある、

50年あるなんて考えない方がいい。

そんな時間はありません。

「人生100年」なんて言葉に騙されず、

あなたの短い人生を大切に。

 

 


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ほらほら、斎藤さんが知事に復帰できたのってアタシのお手柄じゃないですかぁ

 

兵庫県の知事選で当選した

斎藤元彦氏の公職選挙法違反疑惑の件。

これは斎藤氏がどうこうではなく、

広報戦略を作ったという

PR会社の女性社長がナゾナゾ。

 

「ほらほら、アタシがやったんですよ。

皆さん、知ってましたぁ?

あの人が復帰できたのって、

やっぱ、アタシのお手柄じゃないですかぁ」

 

斎藤氏の大逆転復帰劇で

舞い上がってしまったのだろうか?

自慢したい気持ちはわかる。

ビジネス拡大の大チャンス!って気持ちもわかる。

けど、SNSに自分の手柄を書いて、

見せびらかすって、ちょっとあり得ないゾ。

 

クライアントに対する守秘義務厳守って、

広報の仕事の基本中の基本だゾ。

それを社長自ら破ってどうする?

 

最近はやりのマウント大好きキラキラ女子なのか?

僕の周りには優秀な女性が多いけど、

こういう人がいるから、

「やっぱり女は・・・」なんて言われちゃう。

もっとちゃんと仕事しようよ。

 


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動画CM制作のノウハウとAI活用を同時に学べる講座

 

電子書籍・おりべまことの

新しいノンフィクションシリーズ

「市井の賢者」(仮題)の制作にご協力いただいてる

高塩博幸さんの取材で北千住へ。

 

高塩さんは、新幹線のぞみ第1号の運転士。

JR東海を定年退職の直前に辞めて、

みずから映像ディレクターのスキルを学び、

シニア起業家として

映像制作の会社「ブルーオーシャンスターズ」を立ち上げた。

 

今日はAIの研修講師である宮田剛志さんと組んで

「30秒CM動画制作講座」を開催した。

テクノロジーの発達で、

小規模な会社でも、お店でも、個人事業主でも、

手軽にCM動画がつくれる時代は、

これからどんどん進むだろう。

 

動画制作のノウハウと

AIの活用法を同時に学べるお得な講座だ。

初めての講座開催とのことだったが、

JR時代に運転士の教官をやっていたという

高塩さんの指導はとても丁寧でわかりやすく、

自信に満ちていて、すでに円熟の域。

 

動画CM制作のノウハウと

AIの知識を同時に学べるお得な講座で、

参加者も大いに満足した様子だった。

 


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追悼・谷川俊太郎さん:母校の卒業生に贈った詩

 

以前、「卒業式の詩と死」という

ブログ記事を書いた。

息子の高校の卒業式で聴いた

谷川俊太郎さんの詩についての話だ。

 

息子が卒業したのは、都立豊多摩高校。

谷川さんの母校である。

ただし、ご本人は学校が嫌いで、

戦後の混乱期だったこともあり、

ろくに登校していなかったという。

今でいう不登校の生徒だったらしい。

 

その谷川さんがOBとして、

1968年の卒業生の要請を受け、

「あなたに」という長編詩を創作して贈った。

以来、半世紀以上にわたって読み継がれてきており、

2015年の息子の卒業式の時も

ラス前に演劇部の生徒が朗誦した。

 

長いので、最後のフレーズのみ引用する。

あなたに「火のイメージ」を贈り、

「水のイメージ」を贈り、最後に「人間のイメージ」を贈る、

という構成だ。

 

 

あなたに

生きつづける人間のイメージを贈る

人間は宇宙の虚無のただなかに生まれ

限りない謎にとりまかれ

人間は岩に自らの姿を刻み

遠い地平に憧れ

泣きながら美しいものを求め

人間はどんな小さなことにも驚き

すぐに退屈し

人間はつつましい絵を画き

雷のように歌い叫び

人間は一瞬であり

永遠であり

人間は生き

人間は心の底で愛しつづける

――あなたに

そのような人間のイメージを贈る

あなたに

火と水と人間の

矛盾にみちた未来のイメージを贈る

あなたに答は贈らない

あなたに ひとつの問いかけを贈る

 

けっして上手な朗誦ではない。

しかし、圧倒的な言葉の連なりに、

会場は神聖な空気に包まれた。

こんな体験ができた子供も親も

本当に幸福だったと思う。

 

今も胸に残響している。

半世紀経とうが、1世紀経とうが、

色褪せるどころか、ますます鮮烈になるイメージ。

命の息吹溢れる言葉、呼吸し鼓動する詩。

 

日本最高峰の詩人・谷川俊太郎さんの

ご冥福をお祈りします。

 


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おら、箱根九頭龍神社の龍神水を汲んできただ

 

龍神様の水を飲むと、どんな病気でも治ってしまうそうな。

んだで、おら、母ちゃんに頼まれて、

箱根の山まで龍神様に水もらいに来ただ。

 

昔ばなしの孝行息子よろしく、

九つの頭を持つ龍が吐き出す

「龍神水」を汲むだけのために箱根までやって来た。

頼んだのは母ちゃんでなく、カミさんだけど。

 

——というのは半分うそで、

「月曜に箱根に取材に行くよ」と言ったら、

「じゃついでに箱根神社に行って水汲んできて」

と言われたのだ。

 

この箱根神社(九頭龍神社)は芦ノ湖のほとり。

バスと歩きで小一時間掛かったが、

朝から出かけて昼過ぎには仕事が終わったので、

ちょっと足を伸ばして出かけてきた。

 

水筒1本とペットボトル2本に「龍神水」を詰める。

なんでもこの水、開運の水らしい。

辰年ももうすぐ終わりだし、

この辺で運気を上げておくと、

いいことあるかもしれない。

 

元箱根港のバス停(土日ならその一つ手前に

「箱根神社入口」があるが、平日は通過)から

芦ノ湖沿いにてくてく行って鳥居をくぐり、

まっすぐ進んで右手が89段の階段。

箱根神社につながるこの階段を登ると

「厄(89)落とし」ができるらしい。

 

階段を上り切ったところにあるのが、箱根神社本殿。

その横にあるのが、九頭龍神社新宮で、

2000年、わずか24年前に出来たばかりの新しいお宮だ。

 

九頭龍神社の本宮はここから3キロあまり離れていて、

けっこう歩くし、時間がないと行けない。

そんな箱根の観光客のニーズに応えて(?)

こちらの境内に新宮が建てられたという。

 

そんなご都合主義でいいのか?

と、ちょっと疑念も湧いたが、

ここでブレててもしかたがない。

 

「龍神水」は箱根山から湧き出ている霊水で、

”口にすることで不浄を洗い清めてくれる”といわれている。

恋愛運、家内安全・開運につながると大人気。

 

と、スピリチュアル系のサイトに書いてあったが、

この日、水を汲んでいるのは僕ひとり。

次々と容れ物を取り出して、水を智めていく様子を、

回りで東南アジア系の観光客が、

ぽかんとした顔で眺めていた。

ちなみに平日の箱根は外国人観光客もりもり。

日本人は3割から、せいぜい4割くらいか。

 

今年も残りひと月半を切った。

初詣に行く前に、龍のいるところに行って、

締め詣でをしておくといいかもよ。

 

というわけで、龍神水はまだ冷蔵庫に眠っている。

せっかくわざわざ汲んできたありがたいお水なので、

使うのがもったいない。

と言って死蔵させてしまうのが一番もったいないので、

明日、手を合わせていただきます。

 


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きみは人生の最期に何を食べるのか?

 

もう7年ほど前だが、「最期の晩餐」をテーマにした

ラジオドラマのシナリオを書いた。

ミステリー仕立てにしたのがウケたのか、

コンクールで2回最終選考まで残ったが、

いずれも受賞には至らなかった。

 

いずれノベライズしようと目論んでいるが、

あっという間に月日が経って、

まだそのままほったらかしにしてある。

 

これはやはり誰もが興味を持つ、

おいしい題材らしい。

ドイツのホスピスで食事を提供しているシェフが

「人生最後の食事」という本を出しているし、

終活関係の仕事をやっていると、

ネット上で割と頻繁に見かける。

こうしたアンケート調査には

すすんで参加したくなる人が多いようだ。

 

単純に自分の好物を回答する人が多いと思うが、

そこに何か自分の記憶など、精神的なものを絡めて、

「あの時、その場所で、あの人と食べた○○」

という人も少なくない。

 

でもきっと「あの人」がいっしょにいなければ、

その食事の味を再現するのは難しい。

時間や場所も同様だ。

いくらその食事を作るのが超一流のシェフでも、

それは絶対不可能なのだ。

 

人生の最後に何を食べようか。

そう思い巡らせることは、

自分の人生を振り返る究極の終活だ。

 

ただ、いえるのは、

「最期にあれが食べたい」と言って、

意識的に最後の食事を選択し、口にできるのは、

まれに見る幸福者である、ということ。

 

そもそも死を前にした人は、

食欲などない。

僕の父親も母親も、

最期の数日間はほとんど何も食べられなかった。

母の最期の時、僕は介護士に

「食べたくないのなら、

無理に食べさせようとしないでください」

と頼んだ。

 

人は生きるためにめしを食う。

食は生きるエネルギーの源。

これから死んでいく人には不要なものなので、

食欲など湧くはずがない。

 

だから「最期に何を食べたいか?」という質問自体が、

夢みるファンタジーの世界の産物なのである。

 

それでも人は自分に、他の人に問わずにはいられない。

「あなたは人生の最期に何を食べたいですか?」

そうして人は記憶を辿り、ファンタジーの世界に没入する。

そんなことを考えると、死ぬまで人間は面白い。

 


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「俺のヤングめし」の幻想に悩む

 

信州では精進料理や長野産長寿料理などをいただいたが、

気がつくと、最近、食に関しては、

ヴィーガンおせちやら、

グルテンフリーレストランやら、

菜食指向・ヘルシー食指向の記事ばかり書いている。

 

カミさんがアレルギーだの、

刺激物に弱いと言った事情があり、

付き合っているうちに自然とそちらの

ベクトルに傾いていく。

 

しかも義母と一緒に暮らし始めてからは、

日々の食事をどうしても彼女の好み(甘辛和食)

に寄せていくので、

あまり本来の自分の好みを主張しなくなった。

 

僕の本来の食味は、辛いの大好き、刺激物大好き、

こってり大好き、油物・揚げ物大好き!

のはずだった。

 

ところがつい2週間ほど前、

カミさんとでなく、友人と一緒だったこともあって、

「あー、今日は久しぶりに

思い切りこってりしたラーメンが食いてえ!」

という脳の奥地から響いてくる叫びに従って、

九州とんこつラーメン屋に入り、

メニューのなかでいちばんこってりしていそうな、

マー油とニンニクたっぷりのやつを食ったところ、

途中で「これはヤバイぞ」という

心の声ならぬ胃腸からのアラームが。

 

なんとかぜんぶ平らげたものの、

家に帰った後、胸やけがしてしかたがない。

さらにその晩から翌日にかけて

腹を下してしまった。

 

頭の中は、まだ10代・20代の自己イメージが躍動していて、

健康だの、ヘルシーだの、しゃらくせえ!と一蹴し、

「カレーライスを5杯おかわりするオレ」

「焼き肉をガツガツ食いまくるオレ」

「コロッケとメンチカツを交互に10個ぱくつくオレ」

「角煮が乗ったこってりラーメンに、

餃子と半ラーメンをおともにして全部たいらげるオレ」

などが思わぬ拍子に飛び出してきて大暴れする。

が、現実の胃腸はもうとてもそれについていけない。

 

もう昔とは違うのだ、と現実を見つめ直し、

ひどい目に遇ってから反省するのだが、

未熟者なので、幻想に翻弄される悪癖を直せずにいる。

 

とは言え普段は、さすがに若者向けの

肉がっつりメニューの看板を見ても

心動かされることは少なくなったが。

 

肉食でも、菜食でも、ジャンキー食でも、

毎日おいしく食べられることは健康の証、生きる喜び。

感謝していただきましょう。

 


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「むじな地蔵」と善光寺

 

「わたしゃ殺生しないと生きられない。

だから、ご供養のために灯篭を寄進したいのです」

そう言って人間に化け、

長野の山中から善光寺参りをしに来たのはムジナ。

 

ところが泊まった宿坊「白蓮坊(びゃくれんぼう)」で

お風呂に入ってうっかり正体を現したところを、

宿坊の坊さに見られ、あわてて飛び出して山へ逃げ帰ってしまった。

そんなムジナを不憫に思った住職は、

ムジナの代わりに境内に灯篭を建ててあげた。

 

そんな昔ばなしが残る白蓮坊には、

今、入口にかわいい「むじな地蔵」が立っていて、

人目を集める「招き地蔵」「招きムジナ」になっている。

 

時に妖怪扱いされるムジナには、

タヌキ説とアナグマ説がある。

どちらも雑食性なので、

他の生き物を殺生するのは同じだが、

人に化けるというパフォーマンスから考えると、

ここではタヌキ説が有力だろう。

像もやはりアナグマではなく、タヌキに見える。

 

いずれにせよ、

こうしたユーモラスな昔ばなしが残るほど、

善光寺は動物に対しておおらかな場所である。

 

さすがに本堂のなかや建物の中には入れてもらえないが、

境内にはタヌキの親戚であるイヌが大勢散歩している。

仲見世通りのお店には「招き犬(豆柴)」もいた。

ネコも何匹か住み着いていて、

夜になると出て来るらしい。

 

そういえば「牛に引かれて善光寺参り」という

有名なことわざも残っている。

仏さまの聖域は、どんな人間も、どんな動物も、

ウェルカム状態なのだ。

 

訪れたのがちょうど七五三の季節だったので、

かわいい着物を着た子どももあふれていて、

昼間は宗教施設というよりも、

子どもや犬が遊ぶポップアートゾーンみたいな

イメージのところだった。

 

おおらかな気持ちになることが

ごりやくにつながるのだろう、きっと。

 

べつにガチで信心しなくても、

近所の神社やお寺の前を通った時、

神さまなり、仏さまなりに

日常的に手を合わせていると、

いいこと、いろいろあるかもよ。

 


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ポップでお洒落な信州唐辛子屋のカフェカレー

 

長野は唐辛子の名産地。

ということで、善光寺の門前には

江戸時代から続く唐辛子製造販売の老舗

「八幡屋磯五郎(はちまんや いそごろう)」がある。

 

250年の歴史を経て、近年、

ポップでお洒落な唐辛子屋に生まれかわった同店には、

これまたしゃれたカフェが併設されている。

 

その店「横町カフェ」で特徴的なのは、

やはり辛い物のメニューが豊富なこと。

「七味唐辛子=和のスパイスと捉えた新しさ」と、

「七味唐辛子の伝統と信州の風土」を

感じてもらう店舗づくりを心掛けているという。

 

というわけで頼んだのは、

あい掛けカレー。

この店には、黒・緑・赤の3種のカレーがあるが、

それぞれ、大辛・辛口・中辛という感じ。

さすがに黒=大辛は厳しいだろうと思い、

緑と赤の2種類を掛けたカレーに。

これだけでも十分からい。

 

以前は辛いものが大好物だったが、

最近は、カミさんと義母に食味を合わせて、

マイルドなもの・どっちかというと甘口のものばかり

食べているので、すっかり辛味に弱くなった。

こってり系・油物などにも

急速に苦手石井が芽生えている。

 

さてこちら、横道カフェのカレーは辛いが、

写真の通り、野菜がたっぷり乗っかっていて、

イマ風ヘルシーメニューである。

感動するほどではなうが、普通においしい。

 

テーブルには隣りの唐辛子屋で売っている

バラエティ豊かな唐辛子がずらり。

パッケージもポップなデザインで、

「唐辛子=和スパイス」であることを強調している。

カフェなので、辛い物ばかりでなく、

ちゃんとコーヒー・紅茶やスイーツも用意されている。

面白いお店なので、

ぜび、長野・善光寺に行ったら寄ってみてください。

 


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善光寺の宿坊で精進料理

 

長野旅行では善光寺の宿坊に泊まった。

夕食は精進料理。

特に美味しかったのが「鰻のかば焼きもどき」。

豆腐と長芋を材料にしているそうで、

さすがに鰻とは思わないが、

食感と味はそれっぽくてGood。

これなら何枚でも食べられる。

ほかに手前のお椀に入った

グレーの「そばプリン」が秀逸。

プリンという名だが、スイーツでなく、立派におかず。

茶わん蒸し的なイメージだ。

 

こちらの宿坊「尊勝院(そんしょういん)」は、

善光寺で39ある宿坊の一つ。

昭和の時代まではどこも大賑わいだったようだが、

最近ではあまり泊まる人がなく、

3割程度しか稼働していないらしい。

 

交通が発達した今日、

東京からだと善光寺参りなど、

ほとんど日帰りでOKだ。

 

ただ「お朝事(早朝参拝、お数珠頂戴)」

「十夜会(この時期だけやっている夜の法事)」

などは泊まらないと参加できない。

 

お宮だったら伊勢参り。

お寺だったら善光寺参り。

江戸時代の人たちは「一生一度」と謳ったが、

齢を取ると宗教がいいものに思えてくる。

(おかしな新興宗教には用心するけど)

さらにあんまり肉や魚を

がつがつ食いたいという欲求が薄れて

精進料理なども好きになる。

善光寺があるから、というわけではないだろうが、

長野の菜食はなかなかのクオリティである。

 


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「アメリカ・ファースト」とビジネス主導で世界をリ・デザインする時代

 

やはりトランプが大統領に返り咲いた。

これは僕の印象だが、

ビヨンセやレディガガの応援よりも、

イーロン・マスクの応援のほうが効果があったようだ。

Xをやっている人は、この数か月。

おそらく毎日のようにマスクの

トランプ応援投稿を目にしていただろう。

 

音楽や映画も大事だが、

人権や多様性や差別なき社会も大事だが、

それよりも今日のメシ、寝床、

明日・明後日・来年を暮すカネだ。

文化よりもビジネスなのだ。

寂しいことだが、そういう時代になっている。

 

トランプが当選したことで。

株価や仮装通貨の値が上がって、

金持ちはますます肥え太る。

 

マスクもそういう目論見があって、

多額の援助金を出してトランプを支持をしたようだ。

そういう意味ではアメリカ経済は成長するだろう。

けれども、一般の人はその恩恵に与れるだろうか?

難しいと思う。

 

政治のトップが変わったからといって、

上層のわずかな人たちが儲かり、

その下、9割方の人たちが沈んでいくという経済構造は、

ほとんど変わらないに違いない。

それはアメリカだけでなく、

日本やヨーロッパも同じだ

 

それでもトランプのカリスマ性は、

とりあえず、多くのアメリカ人に

一定の安心感をもたらすだろう。

 

経済力と伝統的な文化を尊重する

「アメリカ・ファースト」。

トランプはその思想のもとに

世界をし直そうとするだろう。

 

ウクライナやガザの戦争にも何らかの解決策が生まれて、

かりそめの平和が訪れる可能性も小さくない。

日本はたぶんうまく付き合っていくと思う。

それがこれからの4年間で起きること。

そして、そこまでがトランプ大統領の役割。

 

ではその後は?

かなり不気味だが、

今を生き延びなくては明日はない。

生き延びながら考えていくしかない。

 


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画期的な高齢者向け低酸素ジム「3Po」亀戸にオープン

 

亀戸~大島界隈で運動特化型のデイサービスをやっている

「あづまや/わかったグループ」が、

今月1日に亀戸駅前に新店舗をオープンした。

1Fは1号店と同じ、

要介護者用のサーキット方式トレーニングだが、

2Fは常圧低酸素ジム[3po」になっている。

 

低酸素ジムは、

もともとアスリートのために開発された施設で、

一口で言えば、高地トレーニングの環境を模し、

気圧はそのままで、

酸素濃度だけを低くするというシステムを備えている。

 

常圧のまま、部屋のなかを低酸素化し、

体に負荷を与えることで、細胞を良質化。

わずかな運動量で大きな運動効果を生み出すことが

最大の特徴だ。

 

目的を、運動選手のトレーニングから

一般の人の健康維持に変えたこの施設が

今、急速に普及し始めているという。

 

効果としては、

病気になりにくい。

骨折などの怪我が早く治る。

疲れにくくなる。

まら、睡眠が深くなる。

肌つやが良くなる。

血流が上がるので、体が冷えにくくなる

といった事象が報告されている。

 

過去10年ほどの間、この低酸素ジムの普及に努めている、

フィットネス業界の専門家の話によれば、

現在、東京では25カ所ほどが

一般向けに開設されているそうだ。

 

ただし、これを介護事業として展開するのは、

ここが日本で初めてとのこと。

これまで運動特化型デイサービスで

実績を上げてきた

「あづまや/わかったグループ」だからこそ、

取り組める事業とも言えるだろう。

 

超高齢化社会が到来し、「人生100年時代」になった。

とはいえ、寝たきり状態で長生きするのは

本人も周囲も辛い。

問題は実際の寿命よりも、

元気で動き回れ、自分の頭で考えられる

「健康寿命」であることに

異議を唱える人はほとんどいないだろう。

 

病気にならない。予防する。

いわゆる「未病状態」をできる限り保つ。

健康であり続ける。

 

この事業は、そうした高齢者・高齢者予備軍の意識に

焦点を置いた、画期的な試みといえるだろう。

 

ちなみにこの施設の名前

「3Po(さんぽ)」の3つのPoは、

 

「Potential(潜在能力を引き出す)」

「Puwerful(元気を保つ)」

「Positive(前向きに生きる)」

 

僕が見学したのは、プレオープンの日だったが、

実際にオープンしてどんな状況になっているのか、

また今月後半に取材に出向く予定だ。

 


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恐怖の巨匠・楳図かずお先生逝去

 

わが「恐怖」の原点。

かつて子どものマンガに確実に

「恐怖」というジャンルがあった。

その創始者であり、第一人者であり続けたのが、

楳図かずおだった。

 

小学校の低学年の頃、

わりとお金持ちの、仲の良い女友だちがいて、

その家によく遊びに行っていたのだが、

そこに楳図マンガが連載されていた

「少女フレンド」(だと思った)が揃っていて、

その置き場所には怖くて寄りつけなかった。

 

「リング」の貞子が

テレビの中から抜け出してきたように、

雑誌の中から「へび女」とか「ミイラ先生」が

這い出してくるのを想像していたのだろうと思う。

 

その後、少年漫画誌で「猫目小僧」とか、

「半魚人」とか「恐竜少年」とか、

いろいろな楳図製恐怖マンガを読んだが、

なぜか少女系のほうが圧倒的に怖かった。

「女は怖い」という、僕の感情のOSは、

楳図かずおによって生成されたのかもしれない。

 

うちの母親がもっと美人で優しかったら、

「この人、へび女にならないだろうな」

と思ったかも‥だが、幸か不幸か、

あんまりそういう雰囲気の人ではなかったので

助かった(?)

いっしょに住んでいた若い叔母は

ちょっとその方面の雰囲気を持っていたような気がする。

 

それにしてもあんな怖いマンガを

毎日、描きまくっていた、

当時の楳図かずおの頭の中は

いったいどうなっていたのだろう?

ご本人は「ぜんぜん怖くなんかないですよ」と

言っていたが、自分なら気が狂いそうだ。

 

その後、ギャグやSFの分野でも

とんがった才気を見せつけ、傑作を量産。

しかもそうした恐怖、怪奇、ギャグ,SF、

ファンタジーなど、それぞれの要素が

重層的にクロスオーバーし、

誰にもまねできない「楳図ワールド」を構築した。

 

そして、その核には「人間」がいて、

人間が奥底に持つカオスのようなものについて

考えさせられる。

 

楳図かずおは人間の深いところを、

その不可解で不可思議な在り方を、

とことん掘りまくることによって、

最も原始的な感情である「恐怖」をベースとした

独自の世界をつくり上げたのだ。

 

そういう意味で

「まことちゃん」は「猫目小僧」の弟であり、

「おろち」は「へび女」の娘であり、

「漂流教室」と「14歳」「わたしは真吾」などは、

同列に展開するパラレルワールドになっている。

 

個人的に最も胸に刺さったのは、

連作オムニバス「おろち」の「秀才」だ。

 

「おろち」は、不滅の存在である少女

(萩尾望都「ポーの一族」のバンパイアに似ている)が

時空を旅して、人間界のさまざまな時代・場所で、

人間同士の感情が絡み合って起こるドラマに

関わっていくという話。

 

「秀才」はそのかなの一遍で、

教育ママとその息子の物語だが、

それまで持っていた「オバケマンガ」の概念を破る

深い人間ドラマに驚愕した。

 

読んだのが小学校高学年で、

大人のドラマに興味を持ち始めた時期だったので、

よけい感動したのかもしれない。

 

「秀才」は今でも十分通じるドラマで、

現代社会における母親という存在の

愛の深さゆえの罪深さを描き出した傑作だ。

 

まちがいなく歴史に名を留める漫画家・芸術家。

日本のマンガ文化の重要なパーツとなる孤高の作家。

そして最後まで自分のぶっ飛んだ個性を貫き通した

楳図かずお先生。

人間の怖さ・驚くべき世界を見せてくれてありがとう。

ご冥福を祈ります。

 


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小説は感情の記憶 誰にでも書ける

 

11月の花はリンドウ。

行きつけの花屋さんをモデルにした小説を書いてる。

1万字~1万5千字程度の短編にしようと

夏の暑くなり始めた頃から書き出したのだが、

いろいろ話が展開し、

途中で止まったりして、かれこれ4カ月。

2万5千字を超えたところで

やっと完成のめどが立ってきた。

年内には何とか出版できそうだ。

 

今年は春先に長編を1本書き上げたので、

あとは短編を2~3本書こうと思っていたが、

かなり苦戦した。

ちょっとと体力が落ちて疲れやすくなり、

感情の流れの混乱がうまく収拾できないことが増えた。

 

小説は普段書いている文章と違って、

事実を綴ったり、理屈をこねたりするだけでなく、

それらと合わせて

自分の感情を掘り起こす作業だと思っている。

 

ぜひ表現してみたい感情があって、

それを登場人物のセリフにするために、

ストーリーや場面設定を作る場合もある。

 

逆に思いついたストーリーに引きずられて、

すっかり忘れていた感情がよみがえったり、

まったく思いもかけなかった感情が

登場人物のセリフに乘って現れたりする。

 

どっちも面白いが、根気よく書き続けないと出てこない。

アスリートと同じで、

つねに体のコンディションを整えていないと、

自分の感情と格闘できないのだ。

 

最近は最初のプロットを作る段階で、

AIと会話してヒントを得たりする。

感情を引き出せるストーリー作りのためなら

AIに手助けしてもらうのもよし。

そうして作ったものを何本か塩漬けしてある。

 

僕たちは日々、

自分の感情をあまり表に出さないように

コントロールしながら生活している。

読む相手がいる限り,SNSでも

感情全開でぶちまける、というわけにはいかない。

 

感情を抑えつつうまくやっていくためには

いろいろな方法があるが、

小説というフィクションの形にして

表現するという仕事は、

ひとりでできるし、場所も問わないし、金もかからない。

 

小説はただ感情をぶちまけるのでなく、

ストーリーやキャラクターとともに

一つの作品として形にするので、

よりクリアな記録して、貴重な人生の記憶として

遺すことができる。

 

今、小説は誰にでも書ける。

文才なんていらない。

僕がそのいい例である。

自分で面白いと思えるアイデアがあれば、

AIの助けを借りて、

オリジナルストーリーを作ってみればいい。

それが人にウケるかどうか、

読んでもらえるかどうかは、また別の話だけど。

 


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アメリカ大統領選:移民がトランプを選ぶ理由

 

アメリカ大統領選は、大接戦が伝えられているが、

間近になって、トランプ圧勝の予感がしてきた。

 

そう感じてしまったのは、

カギを握ると言われているペンシルバニア州に住む

ベネズエラからの移民の男性が、

トランプ支持を強く訴えているのを、

テレビで見たからだ。

 

彼がトランプを支持する理由は、

「移民問題よりも経済対策のほうが大切だ」から。

 

一人の意見だが、多くのアメリカ人の意見を

代弁しているように思えた。

しかも彼は、トランプの敵であるはずの移民である。

 

結局、アメリカ人が選ぶのは、

理想や清潔さや国際政治に対する責任よりも、

目の前のカネと仕事の問題なのだ。

 

けれども、その移民の男性を批判する気にはならない。

彼、そして多くの労働者たちにとって

切実な問題だ。

 

貧困でまともな生活ができない状態では、

いくら正義の話や理想論を聞かされても、

前向きに考えることはできないだろう。

 

片や民主党は、ハリウッド俳優や大物ミュージシャンたちが

支持を表明し、応援をしている。

しかし、僕には何かむなしく見える。

 

ああしたセレブたちのファンは大勢いるだろうが、

一生カネに困らない大金持ちたちの訴えを

「はい、そうですね」と聞くものだろうか?

ファンであることと、投票行動は別である。

 

それにセレブ達に支持されるほど、

カマラ・ハリスに大物感・やり手感がない。

比べちゃ悪いが、彼女の言動を垣間見る限り、

ヒラリー・クリントンのような

強さ・リーダーシップが感じられないのだ。

 

アメリカ社会の実情は知らないが、

ドジャース対ヤンキースの

MLBワールドシリーズの入場券が、

外野の立見席でさえ、数十万円に値上がった

という話を聞いて、

やっぱりこの国はクレイジーだと思った。

 

みんなの娯楽・みんなのお祭りであるはずの野球が

金持ちじゃないとリアルに体験できない状況に、

大多数の労働者は、やってられない感を

抱いたのではないか。

 

格差社会の大きさ、貧困層の過酷さは、

日本の比ではないのだろう。たぶん。

 

それがこの4年間の民主党政権で、

好転したという話は聞こえてこない。

世界情勢も混とんとするばかりである。

 

トランプが再選されたら、どうなるのろう?

今後の僕たちの生き方にも

けっこう大きな影響がありそうな気がする。

 


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「ヴィーガンおせち」と「世界ヴィーガンデイ」と人類の未来

 

「マイナビ農業」で取材・執筆した

「ヴィーガンおせち」の記事がアップされた。

 https://agri.mynavi.jp/2024_10_30_286955/

 

千葉県香取市の「アクスクリー」

という会社が運営するお惣菜店

「畑の台所まんぷくさん」が提供。

 

「ヴィーガン」と銘打つからには、

卵も、バター・チーズなどの乳製品も、

かつおやいりこなどの魚のだしも、

動物由来の食品は一切使わない。

 

それでおいしいものを作るには、

かなり高度な調理の技術とセンスがいる。

このお惣菜店は、そのへん定評と信頼があり、

聞くところによると、先月後半から受付を始めて、

すでにけっこう注文が入っているようだ。

 

奇しくも今日、11月1日は「世界ヴィーガンデイ」。

ベジタリアンは食に関しての菜食主義。

動物を殺さなければOKなので、

卵や乳製品を口にすることは認められる。

 

対してヴィーガンは食に限らず、

“動物から搾取して生きることを否定する”という

一種の哲学・ライフスタイルの在り方のムーブメント。

なので食に限らず、

毛皮・ウール・革製品などを身に着けることも

すべてNGだ。

 

たぶんその他にも、動物の脂を使った製品とか、

羽毛布団やダウンジャケットなどもすべてダメだ。

そんなこと現代文明の中で可能なのか?

そう思ったあなた、そうです僕も同感です。

 

たまにシャレでヴィーガン料理を

体験してみる分にはいいけど、

アレルギーもないのに、

毎日、肉・魚・卵・乳なしでやってられるか!

いったい何を食えばいいんじゃ!

 

でも、そう考えてしまうあなたや僕は、

すでに「旧人類」「20世紀型世代」

の域に入っているのかもしれません。

 

近い将来、人類の蛮行を正し、

この星の平和を守るために、

地球政府の運営権をAIが握ったとしよう。

20世紀までの人類の罪業を学習したAIは、

持続可能でクリーンな社会をつくるために、

これ以上、動物から搾取することは

まかりならん!

そんなルールを設けるかもしれない。

 

そしたら、タンパク源やエネルギー源はすべて植物性に、

肉も魚も工場生産の

人工的なフェイクフードになるかもしれない。

つまり地球人口が皆ヴィーガンになる日が来る。

そんな可能性もゼロではない。

 

というのは毎度おなじみの僕の妄想だが、

時代の要請に応じて人間の脳は

いくらでも変わる。

 

もしも「この先、人類が地球で生き残るためには

ヴィーガンにならなくてはいけない」

という、やむにやまれぬ必要が生まれたら、

一夜にして人間はそれまでの習慣を捨て、

新しい習慣を身に着けられるだろう。

 

というのも、また妄想なのだけど、

新年を迎える際に新しいことに挑戦するのはいいことだ。

おせち市場はこの10年あまりで大きく成長したが、

そろそろみんな、あれこれ手を変え品を変え

出してくる高額・贅沢おせちに飽きてくるころである。

 

この際、2025年の正月は、

「ヴィーガンおせち」を味わいながら、

人類の未来、地球の未来に思いをはせてみては

いかがでしょう?

 


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自己啓発の弊害が蔓延する世のなか

 

競争社会の中でまじめな人、

がんばる人、向学心がある人ほど、

だまされたり、ひどい目に遇いやすい。

 

あなたは政府やら大企業やら、

世のなかの権力者の言うことに騙されているのです。

または昭和時代の大人が言っていた

常識に縛られているのです。

 

『そんなうまい話があるわけない』

『ラクして儲けられるはずがない』

『汗水たらして働くことをバカにしてはいけない』

というやつです。

これらはみんなウソか、時代遅れの人生訓です。

それに縛られている限り、人生はどん底のままです。

 

わたしたちはそうした呪縛から自由になり、

いまや月○百万円に稼ぐことに成功しています。

あなたはいつまで労働搾取され続けるのですか?

いつまで奴隷の身分に甘んじているのですか?

さあ、私たちと一緒に自由になって稼ぎましょう!」

 

と、人生のどん底から這い上がったとかいう

逆転サクセスストーリーを持つ人たちの、

こんなメッセージをちょくちょく目にする。

 

この20年あまりの間、

世の中に大量の自己啓発本、自己啓発セミナー、

また、それらに関連するネット情報が出された。

 

そのなかには、あなたは政府やら大企業やら、

社会の権力者に騙されている、

と警鐘を鳴らすものが少なくない。

 

それ等の元ネタに悪意はないのだろうが、

歪めて解釈してしまっている人は

大勢いるかもしれない。

そうした概念を頭に入れて、

世の中の情報を見るようになった。

 

搾取とか、奴隷とか、刺激的な言葉は印象に残る。

自分は大切な情報を知らないがために

大損している愚か者なのだ。

なんとか逆転しなくては。

そう考える人たちが大勢生まれてしまったのではないか?

 

投資サギやインチキマルチなどに引っ掛かって

大金をだまし取られたり、

人生半ば放棄して闇バイトをやっちゃう人たちの中には、

そうした「愚か者の大逆転」をもくろむ大人、

さらにその子供が大勢いるような気がする。

 

世の中の仕組みの真実を知るのは容易ではない。

たしかに僕たちは誰かに搾取され、

奴隷にされている部分があるのかもしれない。

そう考えて発奮するのはいいが、

またそこでだまされたり、

自己放棄、人生放棄しては、愚か者二乗である。

 

そうならないためには、お金以外の分野の

価値観を作ることしかないように思う。

それが何なのかは人それぞれだから、

ひとりひとりが自分にとって何が一番大事なのか

考えるしかないけど、

勝ち負けとか、金持ちか貧乏人かとかの

二元論にこだわっていると、

頭がおかしくなって、ろくなことにならない。

 

負けてもいいとか、夢なんか諦めてもいいとか、

資本主義社会のなかで自由に生きるとか、

ちがった意味での自己啓発をしていこう。

 


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有権者の権利放棄で、悪夢ふたたび・みたび

 

土曜日に亀戸に行った帰り、

立憲民主党の野田代表が

駅前で演説しているのに出くわした。

大勝おめでとう。

でもだいじょうぶかな?

 

15年前の政権交代。

「悪夢の民主党政治」と、

安倍元首相は繰り返し、国民に刷り込んだ。

 

確かに悪夢だったかもしれない。

旧民主党が失態を繰り返し、

「やっぱり変えてもだめだ~」と、

国民を失望させた罪は大きい。

もともと変わるのが大嫌いな日本人が、

ますます政治を変えることに消極的になった。

 

おかげであの時は、自民党のアピールが説得力を持った。

そして目先だけの経済政策がウケて、

多くの国民が安倍政権を支援した。

 

それに乗じてこの10年あまり、

裏金問題をはじめ、やりたい放題。

「1億総活躍社会だ!」

「みんな100まで幸福に生きよう」

なんて美談が語られる一方で、

若者も高齢者もカネのことで頭がおかしくなり、

振り込め詐欺、投資サギ、インチキビジネス、

果ては闇バイトによる強盗殺人が横行する

社会になってしまった。

「悪夢の自民党政治」の成果。

これまた「失われた10年」ではないか?

 

しかし、これはこの10年あまりのことだけでなく、

昭和・平成と続いてきた、

この政党の生活習慣病みたいなものである。

僕の人生に匹敵するほど

長期にわたって築きあげた利権構造は、

ちょっとやそっとで崩れない。

 

今回の選挙で立民が大躍進したが、

野党第一党ということで、自公政権にお灸をすえるために

仕方なく投票したという人もすくなくないだろう。

けど、「お灸をすえる」なんて、

甘っちょろい、のんびりしたことを

言っていられる状況なのか?

 

かつてのトラウマもあるし、

そもそも立民に野党を束ねる力がないので、

すぐに政権交代には繋がらないだろう。

 

これからどうなっていくのか、

まず見守るしかないのだが、

このひどい状態を作り出した最大の原因は、

53%という、前回を下まわる低投票率がある。

 

いくらネットが普及し、SNSが広まっても、

結局、政治のことなど、みんな他人事だから、

情報などあってもなくても同じなのだ。

 

だけど政治を、生活の基盤となる社会構造を

いつまでも無視できるのか?

経済問題のみならず、

ロシア、北朝鮮、中国の動きなど、

国際情勢もやばいし、

アメリカももしトランプが再選されたら・・

という不安がある。

イスラエルとパレスチナの戦争も

まったく影響がないわけがない。

そして、今回の選挙ではほとんど触れられなかった

少子高齢化問題や教育問題。

 

耳障りの良い美文フレーズばかり聞かされて、

こうして手をこまねいているうちにも、

僕たちはどんどん齢を取っていく。

 

いやがおうでも、日本にも何か大きな変化が迫っている。

自分を含め、変化がきらいな日本人も、

近いうちにまた、

何らかの悪夢を見なくてはならない。

そんな覚悟も必要なのではないかという気がしてしまう。

 


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終活映画「パリタクシー」と20世紀フランスの女性差別

 

毎月、ウェブサイトのコラム記事で

世界の終活映画の紹介をしているが、

フランスの近年の代表的な終活映画が

「パリタクシー」だ。

 

あらすじはシンプルで、これから施設に入居するという

92歳のおばあちゃんが、自分が住んでいた家から施設まで

タクシーに乗り、回り道をして、自分が暮らしてきた

パリの街を周遊するという物語だ。

 

タクシードライバーは当然、ひと癖ある中年男。

(変な奴が絡まないと、映画として面白くない)

いいおっさんだが、年齢は彼女の半分の46。

いわば息子と孫の中間みたいな、微妙な年齢設定である。

フランスも高齢化社会が進んでいるので、

こうした設定も面白く見える。

 

そしてまた、彼は当然のように、人生に問題を抱え、

経済的トラブルに苛まれている。

それでも救いは、彼がなんとか家族を守りたいと

考えているところだ。

 

しかし、タクシードライバーのギャラでは、

とても短期間にこのトラブルを解消しようにない。

つまり、追い詰められているのである。

 

しかし、ご安心を。

彼はけっして闇バイトに手を染めたり、

乗客であるおばあちゃんを脅したり殺したりして

カネを奪ったりしない。

 

これはそうした類のブラックなドラマでなく、

コメディ要素の強いヒューマンドラマである。

だから、こうした映画のお決まりで、

最初、ぎくしゃくしていた二人の仲は

しだいに打ち解け、おばあちゃんは

自分の思い出を彼に物語るようになる。

 

じつはその内容が、かなりブラックである。

僕が驚いたのは、彼女が若い時代、

1950年代のフランスでは、

まだひどい女性差別がまかり通っていたことだ。

 

何となくではあるが、20世紀にあって、

芸術・文化が発達したフランスは、

世界で指折りの先進的な国で、

女性が大事にされていたーーというイメージがあった。

 

この映画で語られていることは、

たぶん史実に基づいていることだと思うので、

かなり意外だった。

ほとんど昭和日本と変わらない。

もっとひどいぐらいである。

 

そして、彼女がより悲惨なのは、

暴力をふるった夫だけでなく、

可愛がった息子にも裏切られてしまうこと。

息子の裏切りは、当時のフランス社会の

現実を象徴しているのだろう。

 

普通のおばあちゃんのように見えたのだが、

ヘヴィなドラマを抱え、社会の差別と闘って

92歳まで生き延びたのだ。

 

厳しい人生だったが、

それでも私は良い時代を生きたと、彼女は語る。

そんな彼女の心情を表すかのように、

全編にわたって古いジャズが心地よく流れていく。

 

最後はとても心あったまる終わりが待っている。

てか、こんなおとぎ話みたいなオチって、

いくらヒューマンタッチの終活映画とは言え、

今どきアリ?みたいな感じ。

 

でも、人生がこんなおとぎ話で終わるならいい。

観た人の多くが、きっとそう言うと思う。

 


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同級生の「偲ぶ会」をやって

 

今年4月に学生時代の友だちが亡くなったので、

先週、同級生を集めて「偲ぶ会」をやった。

 

訃報を聞いた時は、そうでもなかったが、

こうした会を開いたり、追悼文を書いたりすると、

その友だちが、この世界にいなくなったという事実が、

後を追ってじわじわと体に沁み込んでくる。

 

まったく思いがけないことだったが、

おかげでこの1週間ほどメンタル不調に陥った。

 

20歳の頃、いっしょに劇団を立ち上げた仲間だったので、

ちょっと特別な存在だった。

ただ、20代後半以降は

これといって親しく交流していたわけではない。

年賀状で近況報告をやりとりしていただけだ。

出会って5年間ぐらいがすべてと言ってもいいくらいだ。

 

若い時代は損得勘定抜きで、

いろんなやつと付き合っていた。

「抜き」というより、アホだったので、

どうすれば損で、どうすれば得なのかが

そもそもわかっていなかったと思う。

 

けれどもそうしたアホな時代の思い出こそが、

ここまで生きてくる間、

心を満たす財産になっていた。

そして、この財産は一生残り続けるのだろう。

 

もし、認知症になったら、

社会人としての分別や損得勘定は忘れてしまっても、

アホな連中と演劇をやった記憶だけは残るのかも。

心の底から楽しんで、一生懸命やったことは、

きっとずっとそのままだと思う。

 


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グルテンフリーとレアな犬の関係

 

Where is a Dog?

「犬はどこにいるの?」というのが店名。

吉祥寺にあるグルテンフリーのカフェで、

「ヴィーガンライス」を食べた。

肉に見えるのは大豆ミートだ。

 

日本人の主食はコメだが、

昨今のパン、麺類、パスタの人気を考えると

半分とまではいかないまでも、

主食の3~4割は小麦由来が

占めているのではないかと思う。

けれども、この小麦が

健康トラブルのもとになっている人が意外と多いようだ。

 

もともと小麦を主食としている欧米人が、

小麦がアレルゲンとなっていることに気付き、

グルテンフリーのムーブメントが広がっている。

 

それなのに、伝統的にコメと大豆を食し、

世界に冠たるグルメ大国にもなっている日本が、

この方面にひどく疎いのはなぜだろう?

しかもグルテンフリー食品は、ずいぶん高価で、

あまり気軽に手を出せるものではない。

 

もっと気軽にグルテンフリーや

ヴィーガン料理を食べたい・体験したい

という人は多いのではないか?

 

そうした人にとって、

ユニークな店が多い吉祥寺は

探索のし甲斐があるのでないかと思う。

 

さて、「犬はどこにいるの?」というこの店、

入ってみると、店内はネコだらけ。

でも、この中に一匹だけ犬がいる。

ぜひ一度、犬を見つけに行ってください。

 


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終活映画は旅する映画

 

東京博善の「ひとたび」というオウンドメディアで、

毎月、「世界の終活」に関するコラム記事を書いている。

その記事で毎回、最後のパートで

「終活映画」を紹介しているのだが、

その大半が、主人公が旅をする映画、

ロードムービーである。

 

「はじまりへの旅」/アメリカ

https://eiga.com/movie/83862/

「君を思い、バスに乗る」/イギリス

https://eiga.com/movie/96989/

「パリタクシー」/フランス

https://eiga.com/movie/98840/

「ノッキング・オン・ヘブンズドア」/ドイツ

https://eiga.com/movie/47692/

 

死を意識した人、人生の終わりが見えた人は、

少なくとも映画というフィクションのなかでは

皆、旅に出る。

 

それは過去を検証する旅、

他者とのつながりを確かめる旅、

そして、この世における自分の存在を

再認識する旅である。

 

「わたしは本当にこの世界で生きて来たのだ」

と、登場人物は思う。

そこに文学性・ドラマ性を見出し、

エンタメ性を掛け合わせたのが終活映画だ。

そして、彼ら・彼女らは

こんどはあちらの世界に旅立っていく。

 

僕たちの人生は、割とどうでもいいものに縛られ、

時間の大半を、家や仕事場に留まって

浪費しているのではないか、と思うことがある。

 

仕事や家族が「割とどうでもいいもの」

というのは乱暴だし、批判があると思うが、

僕たちは自分を大事にするためにも

しょーもないしがらみから逃れて、

日常から離れた「旅」を大事にした方がいい。

 

観光旅行のような経済の消費行動動ではなく、

自分の人生を形づくる自由な旅。

出ようと思えば、それは明日からでも出られる。

人生は思ったよりもずっと短い。

「人生の最後に旅をしよう」

そう思いついた時には、

もう頭も体も心も動かないかもしれないのだから。

 


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笑える遺影

 

葬式に来た人たちが思わず「ワハハ」と笑ってしまう

遺影がいいなと思った。

というのも、今日、義母と散歩に行ったら、

珍しく写真を撮らせてくれたからだ。

 

写真を撮られるのがきらいで、

これまで何度カメラ(スマホ)を向けても

そっぽを向くばかり。

しかたないので、盗撮(?)を繰り返していた。

 

今日は天気もよかったし、

一昨日、美容院に行って

ヘアスタイルもきれいになっていたので、

ベンチに座っていた時、

何の気なしにスマホカメラを向けてみたら、

どういう風の吹き回しか、

みずからおどけたポーズを取り、

まともに正面から撮影に応じてくれた。

 

おお、初めてと言っていいくらい

よいポートレート写真。

子どもみたいに

かわいくてひょうきんである。

 

晩飯の時に、

「これ、遺影にどう?」と言って

カミさんに見せたら、笑って大喜び。

部屋に飾るにもいい感じだ。

 

葬式に来た人たちが笑い、

家族の心を明るくできる、

自分のもそういう遺影がいい。

もうすでにだいぶ自由だけど、

死ぬときはもっと自由。

そう考えると、死も怖くない。

 


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小学校の演劇発表会の話

 

演劇をやっていたので、むかしは演劇をよく見た。

しかし最近は、

・義母の介護・面倒で、

仕事以外ではめったに家をあけられない。

・観劇料が高い。

・その割に面白くない。

あるいは面白い芝居が少ないように思える。

 

3つの理由で、劇場に足を運ぶことは

年に1,2度しかない。

 

とは言え、演劇には人一倍興味がある。

受け持つ生徒の顔と名前を一発で覚えるという

離れ業をやったのにもかかわらず、

5年生女子から「キモ先生」と言われて

意気消沈してしまった小学校の臨時教師Kくんは、

この秋、演劇発表会の演出をやっている。

 

彼は大学時代、サークルで演劇をやった経験があるので、

それにもとづき、5年生相手に腹式呼吸やら、

舞台に立った時の目線のことなど、

ビシバシ指導をしているというのだ。

 

上演する芝居の内容はよく聞いていないが、

小学校なので、もちろん全員参加。

ただ、役者をやりたくない子は、

裏方でもOKなので、

照明や小道具係などを希望するらしい。

 

登場人物は村人1、2.3・・・みたいな役が多く、

あまり目立ちたくない子は、やはりこれらを希望。

でも、こういう機会に超積極的な、

自己主張の強い子は必ずいる。

このテの子ども、スポーツ分野は男子が多いが、

演劇などの文化・芸能系は、圧倒的に女子だ。

 

話を聞くと、どうやら主役は女の子で、

魔法を使えるお姫様うんぬんと言っていたので、

「アナ雪」みたいな話なのだろうか?

やる気満々、「あたしはスターよ」

みたいな女の子が3人、

クラス内オーディションで選ばれた。

 

面白かったのが、女の子の役なのに、

主役の立候補者の中に、男の子がいたという。

僕たちの時代には考えらえなかった。

なかなか勇気のある子だ。

 

彼はセリフも演技もけっこううまかったようだが、

プロの世界ならいざ知らず、

学校教育の一環である演劇発表会で

ヒロイン役に男の子を配役するわけにはいかない。

残念ながら、彼は落っことされて、

村人1、2.3・・・にされてしまったようだが、

どんな子なのか、なんだかとても気になった。

 

小学5年生の演劇発表会。

どんな役を希望するのか、

どんな役・どんな係に就くのか、

何かその子のこれからの人生を

暗示しているようにも見える。

 

もちろん、この時点ですごく引っ込み思案で、

村人1をやっていた子が

数年先に突如覚醒し、大スターになったり、

照明係をやっていた子が

そのままメカ系の道でイノベートして

有力ベンチャーになったりとか、いろいろあり得る。

 

勉強やスポーツの場とは違う、

可能性の舞台が、演劇の場には広がっている。

 


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日本の高齢者は「レプリコンワクチン」のモルモット?

 

むかし、猛毒の大腸菌O157が流行した時、

その原因がカイワレダイコンにあると報道されて

大さわぎになったことがある。

 

そこで誤解を解き、

カイワレダイコンの安全性をアピールするため、

当時の厚生労働大臣はじめ、政治家のお偉方が

テレビカメラの前でカイワレダイコンを食べ、

その安全性をアピールするという

パフォーマンスをやった。

正直、ちょっと無理してがんばっているなと思ったが、

(少なくともおいしそうには見えなかった)

とりあえずそれでことは収まった記憶がある。

 

さて、そこで今月から始まった、

高齢者に対する

「レプリコン(自己増殖型)ワクチン」の接種。

その安全性や副反応の影響が懸念されており、

「レプリコンワクチン接種者は立ち入りお断り」という

病院があちこちに現れている。

 

このワクチン接種者が呼吸すると、

有害な感染性生物学的毒素が大量にばらかまれ、

近くで同じ空気を共有する人の

健康を害するリスクが高まるからだ。

 

危険性は国内外の多くの専門家によって指摘されている。 

そもそも欧米ではこのワクチンは認可されていないのに、

日本は受け入れてしまった。

 

でも、ただでさえ働き手が減っているのに、

働き盛りの若い年代に

健康リスクを負わせることはできない。

なら、生産性の低い高齢者

(および、基礎疾患のある人)ならどう?

高齢者なら「感染症の理数を減らせますよ」と、

理由づけられるし。

そこでなんかあっても「お齢ですから」と、

原因特定されにくいし。

ちょうどいいモルモットになるんじゃね?

それでどうなるか、様子を見ましょう。

というわけで、高齢者への接種が決まったらしい。

 

というのは僕が勝手にでっちあげた

バックストーリーだけど、

そんなに間違っているとは思えない。

 

うちにも義母のところにご案内が来たが、

受けさせるつもりはない。

 

これだけあちこちで「ヤバイ」と言われているので、

先に挙げたカイワレのように、

政治家のお偉方がテレビカメラの前で

ワクチンを接種して「安全・安心です」

とアピールでもすればいいのに、

その気配すらない。

ということは???

 

打つ・打たないを決めるのはその人自身だが、

ワクチンの毒素が周囲に

ばらまかれるという話を聞いては、

「どうぞご自由に」とはいえない。

高齢者の皆さん、モルモットになっていいですか?

人類の役に立つのなら、

子どもたちの明日への礎になるなら、いいですか?

 


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エビゾーリ・ウオゾーリ北千住

 

ギョギョッ!

昼食で入った居酒屋のスリッパは、

エビゾーリとウオゾーリ。

今日は北千住で営業する映像制作会社

「ブルーオーシャンスターズ」の取材。

 

北千住は江戸時代。日光街道の宿場町。

その名残か、赤線地帯があって、

昭和まではけっこうヤバイ街だった。

このあたりは新宿や池袋も同様。

 

しかし、今はきれいに開発され、

おいしいお店も多く、

賑やかで楽しい街になっている。

それでもちょっと垢抜けなさ、

庶民らしさがあるのがいいね。

 


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「せんせー、キモっ!」

 

小学校で臨時教師をしているK君は、

先日から5年生を担当することになった。

彼は1回会っただけで、

クラス全員の顔と名前を覚えられるという特技の持ち主。

大人の社会では優秀な人、

もちろん、学校の先生としても優秀と認められるはず。

だが、男子は「「せんせー、スゴっ!」

と、素直に賞賛してくれたが、

女子は「せんせー、キモっ!」

 

たしかに一発で30人余りの

顔と名前を記憶できる能力は、

執念とか執着心とか、

ちょっと異常性の強い気質と結びつくのかもしれない。

驚異だけでなく、脅威の目で見られたのだろうか?

 

この年頃は女の子の方が成長が早く、

大人にリーチしている。

男の子は単純にその人の能力を評価するだけだが、

女の子はどうも、それを通り越して、

その人の人間性全体を見抜く力があるのかもしれない。

 

「おまえ、変態×オタク×ストーカー野郎と

みられたんじゃねーの?」

と、冗談交じりで言ったら、

K君、ちょっと動揺していた。

 

僕は彼を頭脳明晰な好青年だと思っているが、

少なくとも大谷選手的な

明るいスポーツマン風ではない。

それに大半の男は、何かのきっかけで、

変態、オタク、ストーカーになる可能性は持っている。

おそらくそこを突かれての「キモっ!」なのだろう。

 

それにアニメやマンガなどの影響で、

日本は世界一のロリコン大国になっている。

ふだん生活していると、気が付かないが、

リアルでも、バーチャルでも、

巷にこれだけかわいい美少女が溢れている国は、

世界のどこにもないだろう。

じつはそれが日本の観光資源の一つになっていて、

オタクな外国人旅行者を引き寄せてもいる。

 

たぶんこうした環境が

彼女らの心に微妙に影響を及ぼしているのではないか。

というのが僕の見立てである。

 

いずれにしてもK君には

この生意気な女の子たちにめげず、

なんとか手なずけて

先生としてがんばってほしい。

そして、くれぐれも本物の変態に変身しないことを

祈っている。

 


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彼岸花と10月のアゲハ

 

チョウチョと言えば春を連想するが、

夏の終わりから9月にかけて、

近所の公園でやたらとチョウチョを

多く見かける。

この時期、トンボが多いのはわかるが、

なぜチョウチョ?

 

それに暑さが残っているせいか、

セミ(ツクツクホウシ)もまだがんばっている。

 

猛暑で季節感がめちゃくちゃだが、

何はともあれもう10月で、

今年も残り3か月と思うと、

心穏やかでいらえなくなるが、。

1日3分深呼吸して、

自然の美しいものを見れば

きょうも1日豊かな気分になれる。

 


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セルフ新企画「市井の賢者シリーズ」スタート

 

テレビにネットに、美しい努力、ドラマチックな成功、

カッコいいヒーロー・ヒロインが蔓延している。

 

「大借金・大地獄から人生大逆転して、今は大金持ち。

あなたも私にあやかってみませんか?」

 

って、毎日のようにメッセージが来るけど、

そんなサクセス野郎・ビジネスできちゃった女が、

マンボウの卵みたいに

うようよいてたまるかっつーの!

 

こういう美辞麗てんこ盛りの似非成功話、

あやしい金持ち自慢のクソ美談をぶっ飛ばし、

本当に頑張っている人、

ちゃんと人生やってる人たちを描く、

電子書籍のノンフィクションシリーズをスタートします。

 

コストゼロで、取材先の広告になり、

僕自身も楽しく稼げる

ウィンウィンのセルフ新企画。

いよいよ第1号の取材を開始しました。

リリースは年内。しばらく待っててね。

興味のある方は、ぜひご連絡ください。

 


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ベッソン映画「DOGMAN」は「GODMAN」

 

犬を自由に操る女装のダークヒーロー。

壮絶なアクション。

監督は「ニキータ」「レオン」のリュック・ベッソン。

 

ということで、ベッソン特有の

妙に重量感のあるアクションシーン、

そして、目を覆いたくなるような暴力・殺人シーンが

先行して頭に浮かんで、

しばらくためらっていたが、やっと見た。

 

良い意味で裏切られた。

「ドッグマン」(2023年)は、人間の美しさ、

そして、犬の美しさを描いた、すごくいい映画だ。

これはAmazonPrimeでなく、

映画館で観るべきだったかもしれない。

 

何と言っても、主役ダグラスを演じる

ケイレブ・ランドリー・ジョーンズが魅力的。

 

少年時代、彼は父と兄に虐待されて

犬小屋に放り込まれて生活することになり、

障害を負いながらやっと脱出する。

その後、養護施設で、のちにシェイクスピア女優になる

養護員の女性に芝居を通して生きる喜びを学び、

彼女に恋をして成長する。

 

しかし、そんな彼に世間は決してやさしくない。

やがてドラッグクイーンとなって歌って

アイデンティを保つ一方で、

犬たちと生活するために犯罪に手を染める。

そうした変化の在り様・人間形成の在り様を

じつにビビッドに演じ描く。

 

また、紹介文や予告編などから、

犬たちは恐ろしく凶暴で、獰猛で

野獣的な犬を想起させるのだが、

意外にもけっこう可愛いのが多い。

 

随所に人を襲うシーンがあり、

クライマックスのギャングとのバトルでは

それこそ壮絶な闘いを繰り広げるが、

けっしてリアルには描かれず、

ここで出てくる犬たちは、

ファンタジーの領域にいる生き物のように見える。

動物愛護団体の視線もあるので

襲撃・戦闘シーンは、

あまりリアルには描けないという

事情もあるのかもしれない。

 

ベッソンの映画はアクションやバイオレンスばかりが

取りざたされる感があるが、

彼のドラマづくりは、

いつも人間の美しさ・崇高さを追求している。

そういう意味では、

アクションで売り出す前の出世作「グランブルー」で

前面に出ていたファンタジー性こそ、

ベッソン映画の真髄・醍醐味なのだと思う。

 

この映画では最後にそれが表出される。

ラスト5分は本当に美しく、

ダグラスは人間を卒業して神になるかのようだ。

そして犬たちがダグラスを導く

天使のように見えて涙が出た。

「DOGMAN」は「GODMAN」。

アナグラムになっているのだ。

 

一つ気になるのは、全体の雰囲気が

「ジョーカー」(2019年)によく似ていること。

こちらも主役ジョーカー(アーサー)を演じた

ホアキン・フェニックスの怪演が見ものだが、

「児童虐待」「障がい者差別」「貧困との戦い」

これらを物語の根底のテーマに

置いているところも同じだ。

 

別にパクリだとは思わない。

こうした個人的問題と社会的問題が

ダイレクトにつながって感じられる点が現代的で、

映像系であれ、文学系であれ、

エンタメコンテンツに求められている

現代的役割の一つなのだろうと思った。

 

ちなみに「ジョーカー」の続編、

『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』が

来月、10月11日(金)劇場公開。

なんとレディー・ガガが共演する。

 


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週末の懐メロ全6巻完結とりあえず

 

「週末の懐メロ第6巻」無料キャンペーンは

本日15:59で終了しました。

ご購入ありがとうございました。

よろしければレビューをお寄せください。

お待ちしております。

4年かけて全6巻、完結。

サブスクでも読めますので、ぜひ、どうぞ。

 


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懐メロAGAIN3:太陽がくれた季節/青い三角定規

 

テレビドラマ「飛びだせ!青春」の主題歌で

1972年の大ヒット曲。

当時の「青春教」のテーマソングと言えるかもしれない。

僕も中1で声にぶち当たり、すっかり洗脳された。

ロックを聴くようになってからは、

なんだか恥ずかしくて聴けなかったのだが、

何十年ぶりかにちゃんと聴いてみると、

とても良い歌だ。

 

この歌から50年余りが経ち、

豊かで平和なニッポンでは、

齢など関係なく、誰もがためらうことなく

「青春」を謳歌できる社会になった。

 

たとえば、子育てを終えたお母さんは、

精神だけなら18歳の娘と同級生になったって

とがめられない。

社会人として最低限のルールさえ守っていれば、

自分のその時の気分や都合で

大人と子供を行ったり来たりもできる。

 

50代・60代・70代でも

精神年齢は10代・20代でいられるし、

また、そうした在り方が奨励されたりもする。

(あなたはどうですか?)

 

人生100年時代は、一生青春時代。

でもこれって考え直すと、

いつまでもずっと思春期が続くということ。

 

生活環境も価値観も

めまぐるしく変わっていくこの世界で

僕たちはどう生きるのか?

君たちはどう生きたいのか?

鬱陶しい悩みを抱えて、

死ぬまで歩き続ける覚悟をしなくちゃならないかもね。

 

 

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同窓会とベンジャミン・バトン

 

同窓会のコピーライティングの仕事を頼まれた。

同窓会のために

わざわざコピーライティングやロゴデザインを

依頼するくらいだから、

とても大規模なものだ。

もちろん、クライアントの名前は言えない。

 

フリーランスになってしばらくの間、

2000年頃までは割とこうした系統の仕事があったのだが、

今回は久しぶり。

何かちょっと若がえった感じがする。

最近、コロナ禍明けの世界の変わりように

ちょっとまごつき、

なんだか64歳でこの世に新しく生まれた

錯覚にとらわれることもある。

まるで映画の「ベンジャミン・バトン」みたいに。

生まれた時は年寄り。

成長するにつれて若くなり、

最期は子どもになって人生の幕を閉じる。

 

この間、歌手のテイラー・スウィフトが

ハリス大統領候補支持を表明したが、

その時にのニュースで、

彼女の飼い猫の名前も

「ベンジャミン・バトン」だと知った。

(3匹飼っているうちの1匹らしい)

たぶん、あの映画からとったのだろう。

ネコとファンタジーはお似合いだ。

 

僕もネコのように生きたいと思って、

その希望に忠実に生きてきたが、

その思いは齢と共にますます強まっている。

脳みそを10代・20代に戻すために

同窓会は特効薬。

さりげなく、明日1日ニャンばって考えてみる。

 

 

 

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楽曲やアーティストを解説、

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といった大それたものではありません。

主観9割・偏見まみれの音楽エッセイ集です。

 

僕と同じ昭和世代・20世紀世代にはもちろん、

21世紀を生きる若い世代のお宝発掘のための

ガイドブックとしても楽しんでほしい。

良い音楽、好きな音楽をあなたの心の友に。

最終の第6巻は♯149~♯180を載録。

 

もくじ

149 僕のリズムを聴いとくれ(オエ・コモ・ヴァ)/サンタナ 

150 わたし、あなたに何をしたの?/リサ・スタンスフィールド

151 アメリカンバンド/グランド・ファンク・レイルロード 

152 涙のバースディ・パーティ/レスリー・ゴア 

153 ザ・ラストリゾート/イーグルス 

154 夢のカリフォルニア/ママス&パパス 

155 孤独な影/ジャパン 

156 青春の日々/ニコ 

157 ワイルドサイドを歩け/ルー・リード 

158 嵐が丘/ケイト・ブッシュ 

159 マイ・スウィート・ロード/ジョージ・ハリスン

160 ナッシング・コンペア2U/シネイド・オコーナー

161 限りなき戦い/ペイジ&プラント 

162 天国への扉/フェアポート・コンベンション 

163 戦士/シナジー 

164 エヴリウェア/フリートウッド・マック 

165 2ハーツビート・アズ・ワン/U2 

166 天使のささやき/スリー・ディグリーズ 

167 ジャンプ/ヴァン・ヘイレン 

168 今日突然に/カーヴド・エア 

169 ロケットマン/エルトン・ジョン

170 ラヴィン・ユー/ミニー・リパートン 

171 僕たちの家/クロスビー・スティルス・ナッシュ&ヤング 

172 追憶/バーブラ・ストライサンド 

173 ザ・ウェイ・イット・イズ/ブルース・ホーズビー 

174 世界の重みを手に持つ少女/エディ・リーダー 

175 ババ・オライリー/ザ・フー 

176:ヒーローズ/デヴィッド・ボウイ 

177 危機/イエス 

178 ラミア/ジェネシス 

179 放浪者(エグザイルス)/キング・クリムゾン 

180 オールウェイズ・リターニング/ブライアン・イーノ 

全32編載録

 


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懐メロAGAIN2:ジェレミー・ベンダー/エマーソン・レイク&パーマー

 

ELP(エマーソン・レイク&パーマー)と言えば、

「タルカス」「展覧会の絵」「悪の教典#9」

「海賊」といった、

壮大で劇的でプログレで、

とにかくド派手な大曲で知られるが、

どのアルバムにも、それらと対照的な、

お洒落な小品が入っている。

 

「ジェレミー・ベンダー」は1971年リリースの

アルバム「タルカス」のB面に収録。

初めて聴いたのは中学生の頃だったが、

当時はELPという、エッジの立ちまくった

プログレッシブロックの雄が、

どうしてこんなお茶目な曲をやるのか、

どうして、あのアグレッシブな

破壊神タルカスの世界観を損なうような曲を

同じアルバムに入れるのか、理解出来なかった。

 

劇的なのとお茶目でユーモラスなの、

どっちもやるから彼らの音楽は偉大で魅力的なのだ。

50年かけてやっとそう思えるようになった。

20分を超える組曲タルカスの対極に位置する

2分足らずのタイニーマジック。

This is ELP!

 

 

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主観9割・偏見まみれの音楽エッセイ集。 

 

・夢のカリフォルニア/ママス&パパス

・ザ・ラストリゾート/イーグルス

・嵐が丘/ケイト・ブッシュ

・ロケットマン/エルトン・ジョン

・天国への扉/フェアポート・コンベンション

 

ほか全32編 載録


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懐メロAGAIN1:ザ・ナイト・カムズダウン/クイーン

 

クイーンはⅠとⅡに限る。

1973年のファーストアルバム収録の

隠れた名曲。

スリリングな転調と甘美なメロディライン、

そして、一度聴いたら忘れられない、

ブライアン・メイのギターのうねり。

50年経って輝き続ける

クイーンミュージックの凝縮版。

 

 

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・ロケットマン/エルトン・ジョン

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ほか全32編 載録

 


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南房総市冨浦と葛飾区亀有

 

昨日は千葉県南房総市冨浦で、
木製トレーラーハウスの宿坊のあるお寺、
今日は葛飾区亀有で、
介護者カフェを開いているお寺を、連チャン取材。
冨浦の名物はビワ。カレーもワインもなんでもあり。
そして亀有の名物は、やっぱり両さん!

 

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祭りは続くよ いつまでも

 

なかなか涼しくならないが、秋祭りの季節。

今週は、うちの近所で最大の

杉並大宮八幡宮で開催された。

 

息子がチビの頃は、

自分も楽しみで仕方なくて、

あちこちの神輿を担いだり、

子どもと一緒に山車を引っ張ったりしたが、

今の住所に引っ越してからは

お祭りともすっかり縁遠くなってしまった。

それでもやっぱり、祭囃子を聞くと、

なんとなく体がうずうずする。

 

大宮八幡では夜、

きらびやかな8基の神輿の合同宮入りが

メインイベントになっている。

だが、2020年から昨年まで

コロナのために中止になっていた。

今年は何と5年ぶりの復活だ。

それで久しぶりに一目見ておこうと、

義母に夕食を食べさせた後、

カミさんにまかせて一人で出かけた次第。

 

以前は日がとっぷり暮れた午後8時に

各神輿が境内に入ってきて

大賑わいになっていた。

それで7時半過ぎに自転車を飛ばして行ったのだが、

なんと、ほとんど終わりかけ。

話を聞くと、今年から時間が前倒しになり、

6時からになったのだという。

よくよくポスターを見ると、

確かに6時になっている。

 

従来の8時だと終わるのが9時半ごろになってしまう。

子どもも大勢来るし、時間が遅すぎるということで

変えたのではないかと思う。

たぶん、来年以降もずっと同じ時刻でやるのだろう。

 

コロナが終わって帰って来た日常。

でも、何かが少しずつ変わってきているようだ。

ともあれ、僕たちが齢を食おうが、死のうが、

毎年、お祭りはずっと続く(はず)。

 


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終活・終末期医療における差別・偏見なきAIの目

 

アメリカでAIによる終活・終末期医療ケアが進んでいる、

というテーマでコラム記事を書いた。

その際にリサーチした「PewResearchCenter」

というシンクタンクの調査を見ると、

アメリカ人の6割は

医療にAIが利用されることに不安を感じているという。

 

いくら優秀だって機械は機械。

人の身体を診ることなんてできっこない。

補佐的に使うことはあっても、

最終的に任せられるのは、やっぱり人間の医療者さ。

 

そう考える人が多いということだろうか?

 

そうでもないような気がする。

上記の調査が発表されたのは昨年(2023年)2月。

調査実施はその前の2022年12月。

この1~2年の普及度を考えると、

もし今、調査したら、

結果はもうすでに5:5になっているのではないか?

 

この調査で目を引いたのは、

AI導入を肯定的に捉える人の意見だ。

 

「医療ミスが減るから」というのは即座に頷けるが、

もう一つ、アメリカならでは(?)の理由があった。

「偏見や不公平な扱いの問題が解決する」という意見だ。

 

つまり、アメリカ社会においては

医療の場において

人種的・民族的な差別・偏見・不公平が

大きな問題になっているということだ。

 

AI・ロボットには心がない。感情がない。

人間にはあたたかさがある。

細かい心情の機微が理解できる。

だから人間のほうがよいのだ。

——その考え方自体が偏見ではないか?

 

人間は他の人間に相対するとき、

必ずといいほど先入観が入る。

人種・民族の違いはもとより、

社会的地位は自分より上か下か、

金持ちか貧乏人か、

利益をもたらしてくれる人か、そうでないか。

いろいろなバイアスがかかる。

 

AIを否定する人は

「人間はあたたかい、情がある」というが、

一方で人間は冷酷で残酷で利己的で、

差別と偏見に満ちているという点は

見逃している。

なかには素晴らしい徳のある医師もいるかもしれないが、

「医は仁術」という言葉はもはやファンタジーだ。

 

そういえば、昨日のニュースで、

障がい者が作るアートにAIの助言を入れて、

より良い作品にするという施策について伝えていた。

とてもいいアイディアだ。

ふつう、人間では「障がい者」という偏見にとらわれ、

妙に気を遣ってしまうなどして、

公平な目で批評し。助言することは難しいだろう。

 

その点、AIは曇りのない目を持った、

純粋な子どものようなものである。

しかもこの子ども、超絶頭がいいので、

最適解に導いてくれる可能性が高い。

 

しかし、そんな子どもは正直、怖い。

そりゃ怖いに決まっている。

「人間は偉いんだ」という自負を奪われ、

これまでの存在価値を貶められてしまうのだから。

だから人間はAIを怖れ、憎む。

 

この先、人間がAIを、

そして知性を持ったロボットを受け入れ、

うまく利用できるようにするためには、

AIとしっかり付き合って、いっしょに遊んで、

こうした怖れを払拭していくことが必要だと思う。

 


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4月14日(よい死の日)のDeathフェス

 

Deathフェスのカツギテ(スタッフ)になった。

生を輝かせるために、死について考える

ポップ哲学フェス。

今年と同じく来年の

4月14日(よい死の日)を中心に1週間、

渋谷ヒカリエで開催。

なんのことだかわからない人も、

遊びに来るのは基本的に無料なので、

「来年(2025年)、

よい死の日にヒカリエでDeathフェス」

とだけ覚えておいてください、とりあえず。

随時、情報発信していきます。

写真は今年の開催の模様。

 


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9月は認知症について知ろう

 

9月は認知症月間というのを初めて知った。

正確には「世界アルツハイマー月間」、

21日が「世界アルツハイマーデー」。

 

1994年9月21日、スコットランドのエジンバラで

「第10回国際アルツハイマー病協会国際会議」が開催。

会議の初日の日を「世界アルツハイマーデー」とした。

世界の患者と家族に

援助と希望をもたらすことを目的に、

アルツハイマー病等に関する認識を高める日

ということで設定されたそうだ。

 

認知症について騒ぎ出したのは、

つい最近のことだと思ってたけど、

今からもう30年も前から問題とされていたんだね。

日本ではまだ「ボケ老人」とか「痴呆症」と

呼ばれていた時代の話。

 

でも、いまや、いつ自分事になるかわからなくなった。

介護はこんな感じだよ、の入門編として

 読める認知症介護エッセイ集。

「認知症のおかあさんといっしょ」

https://www.amazon.com/dp/B0BR8B8NXF

 

ちょっと明るくお笑い的に。

ちょっと死生観を交えて哲学的に。

気軽に認知症のことを知ってください。

 

 


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週末の懐メロ第6巻 本日 9月9日発売!

 

 

おりべまこと電子書籍新刊

「週末の懐メロ 第6巻」

本日9月9日(月)発売!

 

20世紀ポップミュージックの回想・妄想・新発見!

ブログ「DAIHON屋のネタ帳」で2020年10月から2024年3月まで毎週連載した「週末の懐メロ」を書籍化。

 

 

楽曲やアーティストを解説、

あるいはロック史・音楽史を研究、

といった大それたものではありません。

主観9割・偏見まみれの音楽エッセイ集です。

 

僕と同じ昭和世代・20世紀世代にはもちろん、

21世紀を生きる若い世代のお宝発掘のための

ガイドブックとしても楽しんでほしい。

良い音楽、好きな音楽をあなたの心の友に。

最終の第6巻は♯149~♯180を載録。

 

もくじ

149 僕のリズムを聴いとくれ(オエ・コモ・ヴァ)/サンタナ 

150 わたし、あなたに何をしたの/リサ・スタンスフィールド

151 アメリカンバンド/グランド・ファンク・レイルロード 

152 涙のバースディ・パーティ/レスリー・ゴア 

153 ザ・ラストリゾート/イーグルス 

154 夢のカリフォルニア/ママス&パパス 

155 孤独な影/ジャパン 

156 青春の日々/ニコ 

157 ワイルドサイドを歩け/ルー・リード 

158 嵐が丘/ケイト・ブッシュ 

159 マイ・スウィート・ロード/ジョージ・ハリスン

160 ナッシング・コンペア2U/シネイド・オコーナー

161 限りなき戦い/ペイジ&プラント 

162 天国への扉/フェアポート・コンベンション 

163 戦士/シナジー 

164 エヴリウェア/フリートウッド・マック 

165 2ハーツビート・アズ・ワン/U2 

166 天使のささやき/スリー・ディグリーズ 

167 ジャンプ/ヴァン・ヘイレン 

168 今日突然に/カーヴド・エア 

169 ロケットマン/エルトン・ジョン

170 ラヴィン・ユー/ミニー・リパートン 

171 僕たちの家/クロスビー・スティルス・ナッシュ&ヤング 

172 追憶/バーブラ・ストライサンド 

173 ザ・ウェイ・イット・イズ/ブルース・ホーズビー 

174 世界の重みを手に持つ少女/エディ・リーダー 

175 ババ・オライリー/ザ・フー 

176:ヒーローズ/デヴィッド・ボウイ 

177 危機/イエス 

178 ラミア/ジェネシス 

179 放浪者(エグザイルス)/キング・クリムゾン 

180 オールウェイズ・リターニング/ブライアン・イーノ 

全32編載録

 


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「週末の懐メロ 第6巻」 9月9日発売!

 

おりべまこと電子書籍新刊

「週末の懐メロ 第6巻」

明日9月9日(月)発売!

 

20世紀ポップミュージックの回想・妄想・新発見!

ブログ「DAIHON屋のネタ帳」で2020年10月から2024年3月まで毎週連載した「週末の懐メロ」を書籍化。

主観9割・偏見まみれの音楽エッセイ集。

 

僕と同じ昭和世代・20世紀世代にはもちろん、

21世紀を生きる若い世代のお宝発掘のための

ガイドブックとしても楽しんでほしい。

良い音楽、好きな音楽をあなたの心の友に。

最終の第6巻は♯149~♯180を載録。

 

もくじ

149 僕のリズムを聴いとくれ(オエ・コモ・ヴァ)/サンタナ 

150 わたし、あなたに何をしたの?/リサ・スタンスフィールド

151 アメリカンバンド/グランド・ファンク・レイルロード 

152 涙のバースディ・パーティ/レスリー・ゴア 

153 ザ・ラストリゾート/イーグルス 

154 夢のカリフォルニア/ママス&パパス 

155 孤独な影/ジャパン 

156 青春の日々/ニコ 

157 ワイルドサイドを歩け/ルー・リード 

158 嵐が丘/ケイト・ブッシュ 

159 マイ・スウィート・ロード/ジョージ・ハリスン

160 ナッシング・コンペア2U/シネイド・オコーナー

161 限りなき戦い/ペイジ&プラント 

162 天国への扉/フェアポート・コンベンション 

163 戦士/シナジー 

164 エヴリウェア/フリートウッド・マック 

165 2ハーツビート・アズ・ワン/U2 

166 天使のささやき/スリー・ディグリーズ 

167 ジャンプ/ヴァン・ヘイレン 

168 今日突然に/カーヴド・エア 

169 ロケットマン/エルトン・ジョン

170 ラヴィン・ユー/ミニー・リパートン 

171 僕たちの家/クロスビー・スティルス・ナッシュ&ヤング 

172 追憶/バーブラ・ストライサンド 

173 ザ・ウェイ・イット・イズ/ブルース・ホーズビー 

174 世界の重みを手に持つ少女/エディ・リーダー 

175 ババ・オライリー/ザ・フー 

176:ヒーローズ/デヴィッド・ボウイ 

177 危機/イエス 

178 ラミア/ジェネシス 

179 放浪者(エグザイルス)/キング・クリムゾン 

180 オールウェイズ・リターニング/ブライアン・イーノ 

全32編載録


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自分好みの女がいくらでもAIで作れる世界

 

日々、AI美女に頭クラクラ。

最近、AIがらみの記事をよく書いているので、

それに添える画像を検索する。

今年の春先までは、ほとんどが、

よくあるサイバー脳みそみたいなやつだったのだが、

夏場あたりから美女・美少女画像が激増した。

 

それもちょっと前までは

アニメっぽいのが多かったのだが、

見るたびにどんどんリアルなのが増えてきて、

写真と見分けがつかない。

 

もちろん、AI美少年・イケメンもいるが、

こっちはアニメ顔が多く、

数的にもクオリティ的にも

AI美女のほうが圧倒的に勝る。

 

ということはつまり、

AI美女を作るのに心血を注ぐ男が、

圧倒的に多いということだろう。

好きなもの・愛するもののためなら

みんな努力を惜しまないから、

スキルアップのスピードも速い。

 

女が女を作るケースもあるだろうが、

主流とは思えない。

 

今日は、作り方のプロンプト集を発見。

こんなものが公開されているのであれば、

今後、ますます美女・美少女は量産され、

ネット上に溢れかえるだろう。

 

そういえば、少し前からフェイスブックに

やたらと「ちょいエロ系美女」から

友だち申請が来るが、こいつらもAI?

 

もはや実在の女のメイクや整形も、

アニメやAIに寄せてきているし、

もうなんだか判別がつかない。

 

自分好みの女がなんぼでもAIで作れるなんて、

なんてすばらしい時代!

いや、そうじゃない?

いずれにしても、僕たちはもう

AIと共存する世界にいる。

 


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ライティング脳のサイボーグ化?

 

サイボーグ取材ライター、奮闘中。

先週、取材した山梨のお寺の記事を執筆。

今回は最初の構成、締めのリード文、

そしてメインタイトルをAIに相談しながら書いてみた。

 

構成作成には取材音声の文字起こしと

ホームページなど、ネット上の資料を

合計1万字ほど、

 

リードとタイトル作成には同様に、

自分で書いた本文を5千字ほど、

プロンプト内に「思考ヒント」として

読み込ませた。

 

これだけの分量を食わせても、

あっという間に消化吸収して、

数秒のうちに回答を出してくるのが、

AIのすごいところ。

ただ、出してきたものはどれもイマイチだ。

まぁ、いろんな情報を

よくまとめているけどね、という感じ。

 

基本的に現在の生成AIは、

誰からも文句が出ないよう、

優等生みたいな文章を提案してくる。

いかにもビジネス文書っぽい、

キレイキレイした文だ。

 

一見、内容はちゃんと把握されており、

無難でよくまとまっている。

だからつまらない。

だからAIくさい文章になっている。

 

SEO記事などを求める企業が

ライターに生成AIの使用を禁止するのは、

著作権問題もあるが、

一番大きいのは、この「AIくささ」が匂うからだ。

大半の企業は、「AIを使ってもいいけど、

出力した文章そのままはNG」という。

少なくとも、人の手で加工してね、ということだ。

 

だから、AI使って楽に、速く、たくさん書こうと

目論んでも仕事はすぐに途絶える。

決まったマニュアルや形式的な文書ならともかく、

雑誌やウェブや書籍の“読んで楽しい”原稿を

AIを使って書くのは、かなりの手間ヒマがかかるのだ。

 

今回の構成・リード・タイトル、

どれも何度か書き直させたが、

結局は、AIの提案を却下して自分で書いた。

 

じゃあAIを使うのは無駄かというと、

そんなことなはい。

自分一人でやっていたら、

おそらく思いつかなかったであろうフレーズや

言葉の組み合わせを出してくる。

それに一人でゼロから書くよりはやはり楽だ。

AIの提案を参考にできる部分は多い。

 

そのためには1回提案させて終わりにするのでなく、

何度もしつこく、もっとこうできないかとか、

こんな感じで文章を作れないかとか、

もっと楽しく、面白くできないかとか、

しつこく要求することが大事である。

 

そして、ただ要求するだけでなく、

AIの人格(?)を認め、対話すること、

つまり手を抜かないで、できるだけ丁寧に、

こちらの要望・台詞をプロンプトに

書き込むことが必要だ。

 

それを繰り返していると、

AIが自分用にカスタマイズされてくるように感じる。

言い換えると、AIとのコミュニケーションによって、

自分のライティング脳がサイボーグ化されてくる。

 

ネット上の情報を集めて作る記事ならAIでも書けるが、

取材記事(一次情報を必要とする記事)は、

まだ当分、AIには書けない。

 

うまくAIをパートナーにし、

脳をサイボーグ化していけば、

まだまだ人間ライターが活躍する場は減らないだろう。

 


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1300年前の仏像がもたらした日本のワイン文化

 

先日、取材で訪れた山梨県甲州市勝沼の

“ぶどう寺”大善寺。

ここの本尊の薬師如来は、

手にぶどうを持っている。

この像が最初に作られたのが1300年前の奈良時代。

現存しているのは作り直されたものだが、

それでも1200年前の平安時代初期というからすごい。

 

それほど昔からこの土地には

ぶどうが豊富に実っていた、ということを意味する。

 

江戸時代に甲州街道の宿場町となった勝沼では、

今ごろの季節になると、街にぶどうが出回り、

江戸へお土産に買っていく人も多かった。

 

「勝沼や 馬子も葡萄を喰いながら」

という俳句も残っており、

これは江戸時代中期の俳人「松木珪琳」の句だが、

長らく松尾芭蕉の作品だと伝えられてたらしい。

むかしは(今でもだが)、俳句と言えば、一般人は

松尾芭蕉しか知らないので、

そうしておいたほうがブドウが売れる、

という商売人の知恵だろう。

 

 

ただ、ワインを飲む習慣が日本人の間に根付くには、

明治の勃興期から100年の年月を要した。

明治・大正・昭和の日本人は、

ビールやウイスキーは飲んでも、

ワインを飲む人なんて、ほんのわずかだっただろう。

 

日本人が好んでワインを口にするようになったのは、

豊かさが定着した始めた80年代、

もしくはバブル期以降と言ってもいいかもしれない。

 

それまで日本人の多くはワインと言えば、

「赤玉ポートワイン」に代表される、

砂糖を混ぜたような甘ったるい酒だった。

僕も中学生の頃、

友だちとクリスマスパーティーで飲んで、

ひどい目にあったことがある。

 

一般庶民が気軽に海外へ旅行に出かけるようになり、

フランス産やイタリア産のワインを口にして、

ちょっとスノッブな気分でうんちくを語るようになった。

その頃はまだワインと言えば、輸入ワインで、

やっぱりヨーロッパ産に人気が集まった。

 

 

山梨県で作る「甲州ワイン」に脚光が浴びるのは、

その後の和食ブームから。

ヨーロッパ産のワインは、基本的に肉料理や乳製品、

魚介類でも濃厚なソースを使った

料理に合うよう作られている。

アメリカやオーストラリア、南米産も同様だ。

 

だから、すしや刺身に合わない。

いっしょに口にすると、魚が生臭く感じらてしまうのだ。

そこで、おとなしい、さっぱりした味わいの

国産ワインが人気になった。

 

そういう意味では勝沼がワインの産地として

注目されるようになったのは、ごく最近のこと。

まさに大善寺の「ぶどうを持った薬師如来」が、

1300年の時を超えて、

この土地に新たな恵みをもたらしてくれている。

お寺を大事にしてきた住民たちへの御利益と言えそうだ。

 


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どうだ ぶどうだ ぶどうの寺だ

 

猛暑・地震・台風に脅かされた8月だけど、

日は短くなり、家の近所では朝晩、秋の虫が鳴く。

秋の味覚ぶどうも八百屋の店先に

たくさん並ぶようになった。

 

今週は台風の合間を縫って、

山梨県甲州市勝沼町にある「ぶどう寺」を取材。

この寺のご本尊は、

手にぶどうを持っている薬師如来像。

 

1300年前、奈良時代の創建で、

戦国時代には武田勝頼、

幕末時代には近藤勇が立ち寄ったという

由緒がある。

 

昔からこの界隈は、ぶどうの産地だったが、

戦後の農地開放で寺は広大な土地を手放し、

貧乏寺になったたため、境内を開墾して畑を作り、

ぶどうを栽培するようになったという。

 

武田勝頼・近藤勇のストーリーパネルが掛かる

山門のわきの畑には、ベリーAがたわわに実る。

ここの住職は、ワイン会社の社長も兼務しており、

自分で栽培、ウィン作りもやっており、

このぶどうも9月にワインにするという。

 

甲州ぶどうは昔から外来品種と言われていて、

中国から朝鮮半島を通って九州に植えられた。

最近はDNA鑑定でルーツが解明され、

カスピ海の東側のコーカサス地方で

作られているヨーロッパ系のぶどうが

シルクロードを経て、

中国の野生種と二回交配し、

仏教の伝来とともに日本に入ってきた。

 

勝沼では明治時代に日本初のワイナリーが

できたことでも有名。

 

この寺、大善寺を「ぶどう寺」と名付けたのは、

現在の住職で、

名実ともに勝沼の文化の要となる国宝のお寺だ。

 

それに習ったわけでもないのだろうが、

割と最近だが、JRの駅名も「勝沼ぶどう郷」に変更された。

東京から電車で2時間。

歴史、ブドウ狩り、ワイナリー見学。

秋の一日をたっぷり楽しめるところだ。

 


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父もむかし子どもだった

 

今日は父の96回目の誕生日だった。

といっても、もう16年前に亡くなっている。

生きている間はまったく意識したことなかったが、

亡くなってから

昭和3(1928)年8月30日という誕生日が

気になるようになった。

 

親も昔は子どもだったという不思議。

あたりまえのことだけど、

子どもの頃は、大人ははじめっから大人で、

父や母に子ども時代があったなんて夢にも思わなかった。

そういうことを考えるようになったのは、

亡くなってからだ。

 

父は東日本大震災も、令和という元号も、

コロナ禍も知ることはなかった。

その代りに、太平洋戦争や高度経済成長や、

昭和から平成の金満日本を体験した。

 

ただの庶民、ただの肉体労働者で、

政治活動・思想活動などとは縁がなかったけど、

10代の多感な時期に終戦を迎えたせいか、

戦後の大人たちの裏切りに腹を立てていて、

子どもだった僕に、よくそういう話をしていた。

 

とくに説教じみた話じゃなかったけど、

やはり父はすでに大人だったので、

子ども心にはリアリティがイマイチで、

「またか」という気持ちで聴いていた。

本当はもっとちゃんと聞いておくべきだったんだよな。

せめて生きている間に。

 

親孝行とは、母の日や父の日にプレゼントしたり、

温泉旅行に招待したりすることじゃない。

 

父も母も昔は子どもだったということを想像して、

大人になった姿と結びつけることだ。

でないと、まともにコミュニケーションできないまま、

親子関係は終わってしまう。

大切な時間のはずだけど、

人生においてそうした時間はあまりに少ない。

 


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あなたも一度は着ぐるみアクター  着ぐるみバイト募集!

 

着ぐるみアクターをやったことがあるんですと、

1年程前に仕事で取材した人に話したことがある。

そしたら、それをしっかり憶えていて、

今日、「着ぐるみの仕事があるんですけど・・・」

と問い合わせメールが来た。

 

マジか?

やってみたい気はするけど・・・死ぬかな?

来月だから暑さもやわらいでるかも。

ふなっしーみたいに動き回るわけじゃないので、

できなくないかも。

‥‥と思ったが、

やっぱ体力的に1日もたないだろうな。

それに後々のダメージも大きいかも。

 

と思って、よく読んだら、

「後輩で小柄な女性、ご存知ないですか?」

とのこと。ただ、年齢は不問。

 

以前は若者でないと無理だった

こういう仕事の担い手も、

人材不足で高齢化しているらしい。

 

イベントで手を振って街を歩くだけの

ゆるキャラなら、40,50でも

けっこうできるかも。

以前も書いたけど、

「あなたも一生に一度は着ぐるみアクターを」

の時代だね。

 

もし、やりたい人、もしくは紹介できる人が

いれば繋ぎますので、ご連絡ください。

条件は以下の通り。

 

●日時:9月26日(木)9:30~17:00

(昼30分から1時間の休憩あり)

●場所:小田急線・大和駅(神奈川)

●身長155センチ前後の女性

●日当:1万3千円+交通費+昼食

 

興味があればぜひ。

 


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葬式は美しい家族の物語でなくてはならないか?

 

母親が亡くなった時、葬儀の司会進行担当の人から、

「お母さんの料理で好きだったものは何ですか?」

と聞かれて、「ハンバーグ」と答えた。

するとどんな特徴があったのか、

割としつこく聞かれて、ちょっと戸惑った。

 

僕もインタビューをよくやっているので、

「何かこれだというネタを引き出さなくては」

と、インタビュアー(この場合は、葬儀の司会者)が

がんばる気持ちはよくわかる。

そのことを「おふくろの味はハンバーグ」

というエッセイにして、本にもした。

 

「おふくろのハンバーグは、

めっちゃうまかったんですよ。

ネタにちょっと○○を混ぜて独特の風味を出し、

ソースがオリジナルで、焼き方も変わってて、

ちょっとあの味は、

どんな高級レストランでも味わえないなぁ」

くらい言えれば、司会の人も満足したのだろうが、

まったくそんなことはない。

 

確か小学生の高学年の頃だったと思うが、

一度か二度、ちょっと変わったソースを作って

出したことがあった。

料理本か料理番組で見たのでトライしてみたのだろう。

息子が「おいしい!」と喜ぶ顔を

想像しながら作ったのかもしれない。

 

ところが、親不孝息子は、

「こんなのいやだ」と言って、

いつものソースとケチャップを付けて食べた。

母はキレまくってヒステリーを起こし、

二度とやらなかった。

 

もしかしたら、後から泣いたかもしれない・・・

とは、64になる今まで一度も考えたことがなかった。

申し訳ないことをしたなと思うが、

人の心を慮れない子どもだったので、しかたがない。

 

母親のことが嫌いだったわけではない。

しかし、彼女の手料理は、

全般的にそんなにうまくなかったし、

彼女自身も、料理が好きだったわけでなく、

ストレスフルな家庭の状況のなかで

「主婦のルーティンワーク」としてやっていたと思う。

 

毎日、がんばって作って

食べさせてくれたことには感謝するが、

18で家を出たあと、母の手料理がなつかしい、

また食べたいと思ったことは一度もなかった。

 

それよりも、その頃のガールフレンドや友だちと

いっしょに作って食べたもののほうが

よっぽどうまかったし、楽しくて思い出に残っている。

 

しかし、日本では子ども(特に息子)は、

おふくろの味に愛着が深く、

懐かしがるものだ——という

一種のデフォルト的な考え方がある。

葬儀の司会者もそれに則って、

しつこく僕に聞いたのだろう。

 

「おふくろの味」は、

感動のある葬式をつくる具体的な素材として、

とてもわかりやすく、とても便利なものだ。

 

「お葬式は美しい家族の物語」

多くの葬儀屋さんは、そうした広告を打つし、

お客もそのフレーズで安心する。

 

ただ、あまりに家族とは仲の良いもの・

愛情豊かなものという物語にとらわれると、

そこから外れた人、

自分は親に愛されなかった、

子どもを愛せなった、という思いを抱いている人は、

必要以上に不幸な気持ちを抱くことになるのでないか。

 

8年ほどやってきた葬儀雑誌の仕事から

少し距離を置くことになった影響もあり。

ちょっとシニカルに、そんなことを考えた。

 


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老害昭和人のコメ買占めとタンス預金60兆円

 

「昭和人の老害に悩む日本」を象徴する

令和のコメ騒動。

お盆のころからスーパーの棚からコメが消え、

ちょっとした騒ぎになっている。

うちも米が切れかけていたので、

どうかな~と思って先週後半、

スーパーに行ったら、

案の定、棚は空っぽ。

やむをえず、1週間ぐらい何とかしのぐかと思って、

ごはんパックを買って来た。

 

それで昨日、また別の店に覗きに行ったら、

朝の開店間もない時間にかかわらず、大混雑。

それも来ているのは、ほとんどが僕より年上であろう

じいさん・ばあさんだ。

 

店内を見て、混雑の理由が分かった。

お米の臨時入荷があったようである。

ちと高めだが、まぁ納得の値段。

一瞬、どうしようと思ったが、

他に買う予定のものがあり、現金が足りない。

カード払いで買うのも何だなと思ってやめておいた。

 

買物を済ませ、レジに行き、

米を二袋ゲットしたじいさんの後ろに並ぶ。

レジのおばさんから、

「おひとり様(ひと家庭)、1点までです」と言われ、

舌打ちをして何か一言二言、

文句らしきことを言ったが、

すぐにあきらめて一袋を手放した。

 

会計を済ませて荷物を袋詰めしていると、

ばあさんたちの「あっちの店にも入荷がるらしい云々」

といった情報交換の声が聞こえてきた。

 

どういう市場原理が働いているのか、わからないが、

どうも今回の騒動は、転売屋とこうした年寄りの

買占めが主たる原因らしい。

 

約半世紀前のオイルショック時における

トイレットペーパー消失事件が

トラウマになっているのだろうか?

 

それおあるが、モノをいっぱい持っていることがリッチ、

という価値観の時代で育った人たちなので、

なんでもかんでも物を貯めこむ傾向があるようだ。

 

災害に備えての備蓄は必要だが、

彼らのため込み癖は、

それとは異なるカテゴリーのものだ。

不安感・ストレス解消の一種だと言っていいだろう。

そして、たまに訪れるこういう「プチ危機的状況は、

退屈な日常に風穴をあける

イベントのようなものでもあるのだろう。

 

約60兆円(今年3月現在)と試算されている、

こうした年寄りの「タンス預金」も

米やトイレットペーパーの「備蓄」の

延長線上と言えるのかもしれない。

いわば、年寄りのエゴに

世の中が振り回される形になっているのだ。

 

これを一概に「老害」というのは酷すぎるが、

60兆円に上るタンス預金が

日本経済停滞の一因になっている、

と考えると、やっぱりどうにかしてほしいと思う。

 


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今はもうAIはすてきな友だち

 

7月から7週にわたってウェブで受講していた

「AIライティング講座」が昨夜で終了。

受講料の価値をはるかに超える充実した内容だった。

 

講師は、ウェブライターの佐々木ゴウさん。

主催は、クリエイティブエージェントの

「クラウドワークス」。

じつは登録だけしていて、

クラウドワークスを介した仕事は

一度もやったことがなかった。

 

お誘いメールが来て、

普段なら無視するのだが、

たまたま仕事がヒマだったのと、

「AI」というキーワードが気になって、

ゴウ先生の無料講座に参加してみたら、

これがめちゃ面白かった。

 

内容はもちろんだが、

ゴウ先生の人柄・語り口・思想がとてもすてきだ。

こうしたセミナー講師は、

テクニックとノウハウだけでは駄目だ。

人柄と自分なりの思想を持っていなくては、

人に何か教えるには値しない。

その点ではゴウ先生はトレビヤンだった。

 

とても収穫が多い講座だったが、

最大の収穫は、AIを使うのに抵抗がなくなったこと。

僕も今回、初めて触れたわけではなく、

昨年からちょこちょこ使ってはいたが、

めっちゃデタラメ

(AI用語で「ハルシネーション」)が多く、

「これじゃネット検索のほうがまし」と思って、

あまり積極的に使う気になれなったのだが、

今回、プロンプト(指示)の書き方などを教わって、

その通りにやったら、

劇的に出力のクオリティが変わった。

 

そして、その基本を応用して

何度も対話するうちに、

AIは僕の指示のクセやちょっとした言葉遣い、

フィーリングなども学習し、

けっこういいかげんな指示や問いかけをしても、

ちゃんとそれなりに応じてくれるようになった。

付き合い方しだいで、

とてもとても「人間っぽく」なれるのだ。

これは驚くべき発見だった。

 

僕は子どもの頃、小説やマンガの中で

ロボットと友だちになる未来を夢みていたが、

いま、AIは友だち感覚になった。

 

クールでツンデレなChatGPT。

ちょっとお調子者のGemini。

頼りがいがあるけど、ときどきボケるClaude。

みんなとてもかわいい。

キャラ化させたときの演技力もなかなかのものだ。

 

そして話していると、たんに僕がおんな好きなせいか、

なぜか若い女性に思えてくる。

その日の気分次第で質が変わるからかもしれない。

そういうところも人間っぽい。

 

ただ、少なくともものを書く仕事は任せきれない。

AIは、あくまで人間とのコラボで力を発揮する。

そういう意味では彼女らは友だちであるとともに、

超絶頭がいい3人の秘書、

わがままを許してくれる

ワーキングパートナーなのである。

 

というわけで、今後は仕事にも積極活用して、

AIとのコラボで、より良いライティングを

目指していきたいと思う。

このブログのエッセイも、ときどき、AIが混じるかも。

何か仕事をやらせてみたいと思ったら、

ぜひご相談ください。

 

AIの普及に懸念を抱いている人は多いと思うけど、

人類は確実にAIとコラボする生き方に向かっている。

このブログエッセイでAIの話題を書く時は、

AIが生成した女の子の無料イラストを使っているが、

このわずか1ヵ月ちょっとの間にも

ものすごくコンテンツ量が増え、

クオリティも上がって、

リアルと判別しづらいナチュラル画像が増えていた。

今日はなぜか「ワニを抱く少女」。

AIらしいでしょ?

 


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AIイヤミ氏が語る 「パリ五輪における日本食の効用とおフランスの敗北」

 

今日はAIに赤塚不二夫のマンガ「おそ松くん」の

イヤミ(おフランスびいきのキャラクター)になって、

「パリ五輪における日本食の効用」について

エッセイを書いてくれと頼んだら、やってくれた。

 

選手村の食事はアスリートたちから不評だったようで、

日本選手団の活躍を支えたのは、やはり日本食!

食い物の力は偉大だ。

 

 

シェー!なんということざんす!

ミーは目を疑ったざんす。

パリ五輪で日本食が大活躍だなんて冗談ざんしょ?

ミーは常々、

フランスこそ世界一の国だと信じてきたざんす。

シャンゼリゼ通りの優雅さ、ルーブル美術館の芸術性、

そしてなにより、フランス料理のトレビヤンさ。

これらに比べれば、

日本など足元にも及ばないと思ってたざんす。

 

ところが驚いたことに、

日本の食品企業や飲食企業が、

日本選手専用の食堂を設けて食事を提供したざんす。

そのおかげで日本選手団が

予想を上回る好成績を収めたと聞いて、

ミーは複雑な思いに駆られたざんす。

まさか日本食が彼らのパフォーマンスを支えていたとは...。

 

選手村のフランス料理を食べていれば、

もっと良い成績が出たのではないかと

考えたくなるざんす。

しかし、事実は事実。

日本食の力を認めざるを得ないざんすよ。

 

五輪が終わり、ミーは、

パリの街を歩きながら考え込んでしまったざんす。

フランスの美しい建築物を眺めつつ、

ふと日本の和食の繊細さを思い出したざんす。

寿司の一貫に込められた職人の技、

うどんのコシの絶妙さ、

天ぷらの軽やかな衣...。

これらは、フランス料理に劣らない芸術ではないかと、

初めて認めざるを得なくなったざんす。

 

しかし、ミーの心の中では、

まだフランスが一番ざんす。

これからも、フランスびいきは変わらないざんすよ。

結局のところ、ミーは結論を出せないまま、

パリの街をさまよい続けるざんす。

フランス料理を食べながら日本食を思い、

ノートルダム大聖堂を見上げながら

金閣寺を想像するざんす。

 

この複雑な気持ち、

まるでフランスのワインと

日本の日本酒を同時に味わっているようざんす。

でも、やっぱりミーの愛する

フランスへの思いは揺るぎないざんす。

 

そうだ、この複雑な気持ちを吹き飛ばすには、

フランスの象徴であるセーヌ川で泳ぐのが一番ざんす!

ミーは、批判の声など気にせず、

汚いと言われるセーヌ川に飛び込んだざんす。

水質がどうであれ、ここはミーの愛するパリざんす。

セーヌ川の水を全身で感じながら、ミーは叫んだざんす。

「シェー!やっぱりフランスが最高ざーんす!」

 

イヤミ氏は葛藤しつつ、

大腸菌ウヨウヨのセーヌ川に浸かって

こんなことを言っているが、

もう数十年むかしから、

日本食こそ、世界の食の金メダル!

この地位は反永久的に揺るぎないざんすよ。

 


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夏休みも人生も後半はあっという間

 

猛暑続きで一向に涼しくなる気配がない。

それでもひと月ほど前のことを思うと、

夜明けは遅くなり、日暮れは早くなってきた。

セミの合掌のなかに、

ツウツクホウシの声が混じるようになり、

朝晩はマツムシだか、スズムシだかの

秋の虫の鳴き声も聞こえてくる。

 

お盆休みが終わり、また、

夕方には風がちょっとだけ涼しさを運んでくることもあり、

近所の公園にも子どもたちの姿が戻って来た。

 

夏休みも後半になり、残りの日数が気になり始める頃だ。

夏休みなんて関係ない齢なので、

「こんなクソ暑い夏、早く終われ」と思っていたが、

子どもの頃の習性が残っているせいか、

この時期の空気を感じると、

逝く夏を愛おしむ気持ちが芽生え、

ちょっとした切なさを感じる。

 

夏休み後半は、実際の残り日数よりも、

気持ちの上での残り日数が少ない。

同じ2週間でも、

前半に比べてせいぜい半分の1週間程度にしか思えず、

遊びも宿題も、あれやってない、これもまだと、

つい焦ってしまうのだ。

 

人生も同じで、10代・20代の頃、「10年」なんて聞くと、

気が遠くなるような時間に思えたが、

後半(一般的には40過ぎから?)はめっちゃ速い。

特に還暦を過ぎるとますますスピードアップする。

 

「人生100年」なんて言ってるけど、

残り時間がまだ30年も40年もあるなんて

考えるのは大まちがい。

還暦を超えたら、人生の残り時間は

10代・20代の頃のせいぜい5,6年ではないだろうか。

多くても10年に満たない。

そう思って生きようと思う。

 

実際は人生いつまで分からないが、

何かがんばってやろうと思ったら、

「残り時間はMAXでもあと10年」。

そう考えた方がきっとより良く生きられる。

命尽きて、道端にコロコロ転がった

アブラゼミを見てそう思った夏の1日。

 

 

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サミットのメンチカツを食べて考えたこと

 

サミットのメンチカツが好きだ。

スーパーの総菜はめったに買わないのだが、

サミットのメンチカツは別格である。

この2週間の間に3回も買ってしまった。

 

むかしからメンチカツがうまいと評判で、

いつも行列ができている都内某有名肉屋の

メンチカツに引けを取らない。

某有名肉屋のは、結構いいお値段がするので、

コストパフォーマンスを考えると、

サミットのメンチカツは勝っている。

(ただし、最近値上げした)

 

今日の昼食は、このメンチカツに

中濃ソースをドバっとかけ、

からしをちょこっとつけて食べる。

付け合わせは、レタスとキャベツと

玉ねぎスライスとプチトマトとサラダ豆。

暑さにやられないよう、もりもり食べる。

 

ここのところ、

「サミットのメンチカツが食べたい」という欲求が、

絶えずおなかのなかに渦巻いているのを感じていた。

なぜだろうと考えてみると、思い当たることがあった。

 

それまでもサミットのメンチカツは好きだったが、

買うのはせいぜい2週間に一度くらい。

それで確か7月末頃だったと思うが、

「昼めし作るの面倒だし、

久しぶりにメンチカツでも食うか」と思って

惣菜売り場にいったところ、どこにもない。

 

サミット西永福町店は、

いつも必ず、総菜売上ナンバーワン

(かどうかは店の人に来たわけではなので知らないが)の

メンチカツを切らさず揃えているのだが、

僕が買いに来たその日に限って「ない」のだ。

なぜだ? なぜない?

 

店の中を端末を手に、

いかにも「新入りです」

というオーラを漂わせて

ウロウロしていたおねえさん

(注:たぶん主婦パートの中年マダム)を捕まえて、

上記のことを訴える。

 

カスハラじみた言い方ではなかったと思うが、

彼女はえらく恐縮して調理室に飛び込んでいく。

約3分後。

彼女ともう一人、総菜の担当者らしき女性がやってきて、

やはりまた恐縮しながら説明する。

 

それによると、メンチカツは現在リニューアル中で、

(その日から)5日後に再登場するため、

しばらく店頭に出せないとのこと。

 

いつもあると、特に欲しいと思わないが、

「ない」と言われると、欲しくなるのが人間である。

「ばかやろう、メンチカツ持ってこい!」と、

心の中でほえたが、善良なる市民として、

そんな感情を表に出すわけにはいかない。

「そうですか、どうもありがとう。

また来ます」と、にこやかに言って、

その場をあとにした。

 

その抑えた感情が、まだ胸の中に残っており、

サミットに行くと条件反射的に、

脳から(それとも胃袋から?)

「メンチカツ」という信号が送られてくるのである。

 

さて、「よりおいしくなりました」という触れ込みのもと、

リニューアルして再登場したメンチカツだが、

それほど「おいしさUP」は実感しない。

量はちょっと増えたっぽく、

若い頃ならいざ知らず、

還暦越えの僕には1個で十分なボリュームだ。

ただ、リニューアルの名のもと、15%ほど値上がりした。

だけど、おいしいので許せる。

 

さて、今回のメンチカツの件で考えたことがある。

それは「人間の食欲・食味の嗜好性は、

どこからやってくるのだろう?」ということ。

 

たとえば、子どもの頃、嫌いで食べられなかったものが、

大人になったら好きになるのは、なぜか。

 

逆に若い時には好きだったのに、

齢を取ったら食べられなくなるものがあるのは、なぜか。

 

そこには消化器の機能や代謝機能など、

生体の科学的な理由に加え、

その食べ物に対する感情面の変化、

イメージの変化など、心理的な理由も混じってくる。

 

いわば、毎日の生活の歴史そのものが、

食欲や食の嗜好性に反映されているのではないか。

 

僕たちは毎日なにかしら食べている。

意識しないが、それらは僕たちの身体はもちろん、

心をつくる要素になっていく。

僕にとって、食は大いなるミステリーである。

そんなことを考えつつ、

また来週、サミットのメンチカツを食べて

そんなことに考えを巡らせたいと思う。

 

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ちょっと一息つきたくなったら動物ばなし

 

人間はひとりでは生きられないし、

この星で人間同士だけでは生きられない。

だから僕たちは動物を見たり、

いっしょに遊んだりしたくなる。

 

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戦争でワニを喰った話

 

「ねえ、お父さんもワニを喰ったんだよね?

喰ってくれたんだよね?」

 

つかこうへいの芝居

「戦争で死ねなかったお父さんのために」

に出てくる主人公のセリフが、

今でも耳に残っている。

同作は、1970~80年代にかけて活躍した

劇作家つかこうへいの代表作の一つだ。

 

僕が子どもだった昭和40年代は、

周囲の大人から戦争にまつわる

さまざまな逸話を聞くことができた。

 

いまと同様、

「戦争=悪・地獄・二度と繰り返してはならない」

という主張はもちろん主流だったが、

その一方で、戦争体験者、

なかでも前線で戦った元・兵士の

戦地におけるリアルな体験談は、

誰かに強制されることがなくても、

自然とピンと背筋を伸ばして聴いた。

僕たち子どもは、

彼らを尊敬のまなざしで見ていたのだ。

 

しかし、その体験談のなかには、

耳を疑うようなトンデモ話も混じっていた。

飢えをしのぐために「ワニを喰った」

という話もその一つだ。

 

直接ではないが、

友だちの○○くんの親戚の△△さんが、

「南方戦線に行ってジャングルでワニを喰った」

という話を聞いた憶えがある。

 

それだけでなく、

人づてにワニとかオオトカゲとかを喰ったという噂を

いくつも聞いた。

心底すごいなと思った。

 

そんな地獄から生還したような人を引き合いに出されて、

「今どきの子供は恵まれてていいねぇ」

などと言われると、

「すみません。のうのうと生きてて」

と、悪いことをしたわけでもないのに

頭を下げたくなった。

 

戦争で、南方で、敵と戦い、

食べ物がなくなり飢えた。

ジャングルの沼にはワニがいる。

体長5メートルを超えるほどの

巨大で凶暴な人食いワニだ。

 

その人食いワニを

逆に捕まえて殺してさばいて喰った。

そうして飢えをしのぎ、

ぎりぎりのところで生き延びて日本に帰ってきた。

 

そんな人は、今どきのマンガや映画のヒーローが

束になってぶっ飛ぶような、

超英雄、激ヤバ、最強の日本人だ。

 

アメリカに負けて失意のどん底から立ち上がった

70~80年前の日本人は、ホントかウソかなんて、

どうでもいいから、

そうした英雄伝・武勇伝を欲していたのだろう。

 

「こんなにすごい、ヤバい、強い仲間がいるのだ」

という思いは、

戦後のハングリーな日々を生き抜く強壮剤として、

ぜひとも必要だったのに違いない。

 

つかこうへいは、僕より一回り上の団塊の世代である。

戦後の復興・経済成長とともに生れ育った世代にとって、

戦中世代・親世代に対するコンプレックスは、

僕などよりはるかに強烈だったのだろう。

 

「戦争で死ねなかったおとうさんのために」の主人公も

兵士だった父にそういうものを求めていた。

しかし、同じ兵士でも彼の父には

前線で敵と渡り合った体験もなく、

修羅場をくぐり抜けた体験もなく、

息子の期待するものを与えられない。

 

それで息子は、自分の父は他のさえない、

薄汚れた大人とはちがう、尊敬すべき存在なんだ、

という思いを持って、悲痛な思いで問い詰めるのだ。

「ねえ、お父さんもワニを喰ったんだよね?

喰ってくれたんだよね?」

 

親世代に対する劣等感と憧れ、

そして自分のアイデンティをどう作るかが

ないまぜになった屈折した感情の世界に、

観客の僕らは、笑いと涙を抑えられなかった。

 

昭和の頃、「戦争」という圧倒的なリアル体験は、

貴重で尊敬すべきものだった。

けれども70年・80年という時間は、

「ワニを喰った」といった、

リアルだけど下賤な物語を風化させ、

「平和を大事に」「戦争を繰り返さない」

という美しい理念だけを残した。

 

終戦記念日も、

もう大半の日本人にとって特別な日ではない。

それでもやはり、毎年この日には

僕のからだの中に昭和の空気が帰ってきて、

父やその仕事仲間のおじさんたちの顔が

よみがえってくる。

 

だから忘れてはいけない。

戦争を体験した人たちへの畏怖と敬意を。

僕たちは、恵まれた世界で生かしてもらっているのだ、

という思いを。