●エンディング文化の時代到来
エンディング産業展の取材を終えて考えたこと。
それは、エンディング――死を楽しむ時代がやってきたということです。
「死を楽しむ」というと語弊があるかもしれませんが、要はひとりひとりが自分の人生の終え方について期待感や希望を抱く、ということです。
いつかはこの世からおさらばしなくてはいけない。
これはあらかじめそう決まっています。
だったら悲しんだり寂しがったりするだけでなく、そうした感傷も含めて、思い切って楽しんだほうが「お得」なのではないでしょうか。
少なくとも僕たち、現代の日本人ひとりひとりは、そうしたことをできる豊かな文化に包まれて生きていると思うのです。
●人生は20歳まで
じつは人生は20歳で決定しています。
20歳までの経験とそこから吸収したもの、そして喜怒哀楽の感情で人間の心身の基盤は出来上がります。
どうすれば自分は気持ちよく生きられるのか、この世の人生において何に価値を置いて生きるのか、自分が果たすべきミッションは何なのか・・・これらはもうみんな、最初の20年で僕たちの内側にしっかりインプットされます。
ただし、そのことに気づくかどうか、それらをいつ発見できるか、はその人しだいです。最期まで見つけられずに終わってしまう人も少なくない。いや、もしかしたら大半の人はそうなのではないでしょうか。
だから20歳を過ぎた大人は、自分の人生の主人公は自分であると、しっかり意識したほうがいい。
そして日々、自分の人生の台本を書いていくといい。
細かく書き込む必要はないけれど、どういう流れでどうなり、どんな大団円を迎えるのか、エンディングまで想定してプロット(筋書)を作っておくといいと思います。
もちろん、僕たちを取り巻く環境は、時代とともに刻一刻と変化していくので、日々リライトすることが必要です。
でも、ベーシックな台本があるとないとでは違います。まったく手ぶらで毎日アドリブだらけでは続きません。
でもじつは、わざわざ僕がこんなことを言わなくても、あなたも自分の人生の台本はひそかに書き進めているはずなんですよ。
耳を澄まして自分に聞いてみてください。
そして、目を凝らしてよく探してみてください。
●リライトしよう、今からでも始めよう
親やら先生やら世間一般やらの書いた台本で生きている――
もし、あなたがそう感じるのなら、そんなものは破り捨てるか、端から端までリライトして自分のものにしてしまう必要があるでしょう。
また、もう齢で今からでは手遅れだ・・という人も大丈夫です。
これまでの記憶・実績を材料に再構成することができます。
起きてしまった事実は変えられなくても、現在の自分、そして未来の自分に合わせて、その事実の意味を変えることができます。
マイナスと捉えていた事象もプラスに転換することができます。、
これもどんどんリライトしましょう。その気になれば一晩でできます。
完成度の高い台本、公開する台本(必要だと思えば見せてもいいけど)を作ることが目的ではありません。
自分が主人公であることを意識し、生きるということについてイメージを広げ、深めるためにこうした考え方をするのは有効ではないかと思うのです。
●エンディング産業を面白がろう
エンディング産業は「人の死をネタにしたお金儲け」と、胡散臭い目で見られることがまだまだ多いようですが、歴史・文化・哲学など、いろいろなことを考えさせてくれる媒体です。
そして経済と結びつくことで、世の中に大きな影響を与えていきます。
そこで提供されるあふれんばかりの商品やサービス――それこそラーメン一杯からデザート付きフルコースまで――は、すべて今を生きる人たちの心が投影されたものばかり。どれを選ぶかは自分次第だし、オーダーメイドも可能だし、どれも選ばないという選択肢だってもちろんあります。
興味と好奇心を持って覗いてみると、きっと面白いと思います。
2016・8・28 SUN
「おまえら、いいトシこいて小学生かよ~」
というのが「女子・男子」という呼び方に対する感想でした。
20代だったらいざしらず、いったいいつから中高年まで女子・男子と呼びならわすようになったのか?
たぶん少なくとも21世紀以降のこと。今ほど頻繁に使われ、定着するようになったのは、この10年くらいか? どうも前から気になっていたので、これがいったいどういう意味を持つのか考えてみました。
●間柄によってビミョーに呼び方を変換
近頃、女・男を呼び表すのって意外と難しいのです。
「女性・男性(ジョセイ・ダンセイ)」は書くのはいいけど、音声で表す場合、どうもフォーマルすぎる。改まった席や仕事の場でなら問題ないが、ちょっとくだけた場や親しい間柄で「ジョセイ・ダンセイ」と言われると違和感があります。
それならやっぱり「女・男(オンナ・オトコ)」―― 僕はこの呼び方を好むのですが、困ったことに最近、女性の中に敬遠する人が少なくない。
文脈の中でどう使うかにもよりますが、「セックスを感じて恥ずかしい」「あまり口では言いたくない」という意見があるのです。「情婦・情夫」といった漢字と結びつくのでしょうか。性を伴う愛のにおいがするのでしょう。
かなり親しい間柄でなら問題ないけど、やや親しさが希薄な友だち・仲間、あるいは仕事の同僚などに対しては、もしかしたら不愉快に感じるかな?と思ってしまうので、僕も「女の人(オンナノヒト)」といった言い方をします。(自分が男なので、男は「オトコ」でOK)。
つまり相手によってけっこう使い分けなくてはならない。いやはや、なんとも日本語は繊細で複雑でビミョーです。
それに仕事でも趣味でもプライベートでも、年齢層で分断されることなく、いろいろな年代の人間が、フラットな関係で入り混じって行動するようになったことも、こうした呼称のビミョーさに影響しているのではないかと思います。
●安心・安全なジョシ・ダンシ
そこで登場した「女子・男子(ジョシ・ダンシ)」は、かなり便利。
もともと子供・若者、あるいはスポーツ選手に対しての呼称だったので、「ジョシ」「ダンシ」と言われると、なんだか若返ったような気分になるし、カタさがなく、親しさイマイチの間柄でもOKだし、一般的な呼称としても安心して使えます。
●英語文化と日本語文化
女子・男子は英語だとGIRL・BOY。
英米ではむしろこっちのほうがセックス臭が漂いますね。
その方面のお仕事をしている人はこの呼称で呼ばれることが多いと思います。
なので普通、英米人の中高年は「GIRL」「BOY」なんて呼ばれたら腹を立てるんじゃないでしょうか。
ところが日本語―ー日本人の場合はその逆。
比較して考えると、英米が子供・若者(子供っぽさ・若さ)を下に見るのに対して、日本人には子供を神聖視したり、若さを尊ぶ精神構造があります。女子・男子×GIRL・BOYには、そうした文化の違いも見て取れします。
●女子・男子の裏にある「成長」というキーワード
もうちょっと深掘りしてみたらどうなるか・・・ということで発見したのが 5年ほど前、自分のブログで書いていた文章。これは当時、映画・TV・演劇で「三銃士」がちょっとしたブームになっており、それについて書いたものです。
いわゆる“成熟社会”となった先進諸国では“成長”は重要なキーワードだ。未熟だろうが、ダメダメなところがあろうが、成長を感じさせる、言い換えれば、未来への可能性を感じさせる人や集団や企業は、すこぶる魅力的に映る。
つまり、今、それだけ“成長”というものに希少価値があるのではないだろうか。
成熟し、伸びきってしまった大人にはそうした魅力が見出せない。しかも環境の変化のせいもあり、信頼感も失墜しているのでなおさらだ。
ちなみにこれは実年齢のことを言っているのではない。10代・20代はもちろん、50代・60代でも“成長”しなくてはならない(少なくともそういう意志を見せなくてはならない)世の中になっているのだ。
そして、若いダルタニアンと年長の三銃士のように、互いに影響を与え合いながら伸びていくことが求められている……三銃士の物語は、そうした現実を映し出す鏡のような機能を持っているのでは、と感じる。
どうもこうした意識がそのまま、僕たちの深層心理に貼りつき、いつまでも成長しきらない子供・若者の部分を形成しているのではないかと思います。
それが「女子・男子」という呼称に結びついている。
国境が溶け、世代差が溶け、リアルとバーチャルの境界が溶け、それでいながら経済や社会階級の格差が広がる今、人間として完成してしまうこと、成長しきってしまうことは、今後のことを考えるとマイナス要素にしかならない。
齢は取っても可能性は残しておきたい・・・という気持ちの表れなのかも知れません。
●僕たちはいつまでウーパールーパーか?
というわけで、ウーパールーパー。
南米のサンショウウオの一種であるこの生き物、一般的には死ぬまで成熟せず、幼体のまま一生を終えるのだそうです。
最近「1980」を謳ったCMでテレビに再登場しましたが、 確かに1980年頃、ウーパールーパーみたいな顔をした若い連中(=当時の僕たちのことです)が街の中をうようよ泳ぎ回っていました。
あれから30年以上経った今も、依然として僕らはウーパールーパーそのもの。
オトナ女子・オトナ男子として、ろくすっぽ成長することなく、結局、単に子供オバさん。子供オジさんのまんまで終ってしまう可能性は大きいのではないかと思います。
でも「今どきの若いモンは・・・」という昔の人たちが本当に尊敬に値する大人ばかりだったのか?といえば、そんなことはない。情報がたやすく手に入らなかった時代の社会では、ごまかし、カッコづけも簡単で、威張っていられましたからね。
今、成長するとはどういうことなのか? ごまかしやカッコだけでなく、大人になるってどういうことなのか・・・人生の続くかぎり、考えていこう。
2016・8・15 MON
●氷の世界の恐怖のセイウチ
子供の頃、動物図鑑で初めてセイウチの写真(イラストだったかも知れない)を見た時は、そのモンスターのような姿・形に心の底から驚愕しました。
その時の僕のセイウチのイメージは、世界の果ての暗くて冷たい氷の世界で巨大な牙をむき出しにして世にも恐ろしい咆哮を轟かせる孤独な怪物。
こわかったなぁ。
人生の中でもしこんな怪物に出会うことがなあったら、僕は一瞬のうちにカチンコチンに凍り付いて、冷凍食食品になってこいつに食べられてしまうだろうと思い、どうぞそんなことになりませんように、と、何度もお祈りを唱えました。
●夢の世界でセイウチロウと邂逅
という衝撃が消えたのはいつのことだろう?
いろいろ本を読んだりテレビを見たりするうちに、セイウチは割とおとなしくて温かい生き物。孤独ではなく、群れをつくってのんびり暮らしていることなどを知りました。
それどころか、近年は日本水族館にも住んでいて愛嬌を振りまいてくれています。
そのセイウチ君に僕もお世話になっています。
夏、お昼寝するときは涼しい水族館のイメージを抱いて横になり、水中を魚がうようよ泳いでいる中をうつらうつらしつつ彷徨っているのですが、15分ないし30分ほどすると、コツコツと頭を何かがつつく。
「おい、起きろよ、セイイチロウ」
と目を覚ますと目の前には強大なセイウチが。やつはその牙の先で僕の頭をつついいたのです。
こいつはセイウチロウといってクールな夢のアラーム係として30分経ったから起こしにくるのです。それ以上寝ちゃうと夕方まで頭が働かなってしまうので。起きない時は歌を歌って起こします。
もちろん、歌はビートルズの「I am the Walrus」。
●ビートルズフェスでセイウチ登場
そういえば昨夜、録画しておいてずっと見ていなかったNHK-BSの「BEATLESフェス」なる3時間番組を見ました。
ビートルズ来日50周年ということで、当時の逸話――ビートルズにはっぴを着せた日航のスチュワーデスさんの話やら、独占取材に成功した星加ルミコさんやら湯川レイコさんの話――昔、音楽雑誌でよく記事を読んでいましたが、音楽ジャーナリズムのリーダーだった彼女らはまだ20代の女の子だったんですね――やら、を中心に、年寄りから若者まで入り混じったスタジオトークや、ビートルズ番組お約束のリバプール―ロンドン紀行(森高千里がキャバーンクラブに行ってドラムを叩いてた)などがてんこ盛りのバラエティ。
しかし、目玉は何といっても、新旧いろいろな日本のミュージシャンたちがやるビートルズナンバーのトリビュートライブでした。
財津和夫「Yesterday」や平原綾香「Hey Jude」などは、ま、定番の、という感じ。仲井戸麗市(チャボ)の「The Long and Winding Road」はほとんど自分で歌詞を書き換えた替え歌で、清志郎へのレクイエムにしか聞こえない。歌い方もそっくりだ。やっぱ寂しいんだろうね。
その中で一番面白かったのがラブ・サイケデリコの「I am the Walrus」。
ぐにゃぐにゃしたサウンドとともに、「おまえはあいつ、あいつはおいら、おいらタマゴ男、おいらセイウチ」なんていう、ジョンのナンセンスでファンタジックでグロテスクな詩の世界がぐりぐり脳天にねじ込まれてきて、めっちゃカッコいい! こんな新鮮なアレンジでこの曲を聞けるとは思ってもいなかった。まったく感動モノでした。
オリジナルを聞いて育ったおっさん・おばさんたちは、どうしてもリスペクトが先に立ってしまってアレンジも表面的で徹底しない。けど、「むかし、ビートルズっていうバンドがいたらしいね」と言っているような若い連中は、遠慮なくぶっ壊して、さらにおいしく料理していけると思います。
ジョンやジョージがあの世から「おいおい」と言って止めに来るくらい、ガンガンすごいアレンジをしてほしい。
●セイウチロウよ永遠に
おまえはあいつ、おまえはおれ、だからあいつはおれ、おまえはセイウチロウ、ぼくはセイイチロウ、おまえはセイイチロウ? ぼくはセイウチロウ?
まだまだ暑い。北極の氷の上でごろごろ寝そべる夢を見て毎日過ごすことにいたします。またセイウチロウと会うのを楽しみにして。
2016・8・11 THU
この夏は四国をお遍路しています。
ただし、オン・マイ・マインドで。
葬儀・供養の業界誌の仕事で、ネット~メール~電話で取材しては原稿書きの日々。
四国の葬儀の風習や、お遍路についていろいろ勉強しました。
で感じたのが、やたら四国にはネコが多いな、ということ。
そういえば香川県のある島でネコがいっぱいいるのをテレビで見たことがあります。それで有名になって、観光客が出向いて、かわいい、かわいいとエサをあげまくるのでさらにネコ天国となっているようですが・・・。
一方、僕が出会うのは、お葬式・お墓関連ので話からなので、この世とあの世の境界線上でニャーニャー鳴いているネコばかり。
●四国の葬儀における猫の存在
徳島や愛媛で、家で人が亡くなると枕元にホウキや刃物などを置く、という風習があります。(正確には「あった」という過去形。日本の昔ながらの葬儀・供養の風習のほとんどは全国どこでも、この20~30年の間に9割以上消滅している)
何のためにこんなことをするかというと、ネコがご遺体の上をまたがないようにするため。ニャアとまたぐと死人が生き返って歩き出すとか、逆にネコがバケネコ化するというのです。
ということは、この辺りではネコを飼っていた家が多のか?
いや、飼っていたというよりも、ネコだのタヌキだの、動物たちが「こにゃにゃにゃちは~」と、自由にあちこちの家を出入りしていたのではないか、と思います。
昔の日本の田舎の家は戸締りもいい加減で、常にオープン状態だったし、ネズミ退治にも役立つからね。だけど、キミはやばいからお葬式の時は来ちゃだめよ、という感じでしょうか。
●日本三大化け猫伝説「お松大権現」の猫
そんなわけでネコ伝説がはびこる四国。
徳島県阿南市には「日本三大化け猫伝説」の一つに数えられている「お松大権現」という神社があります。
ここに由来するお話は、借金苦にまつわるもので現代人にとってもリアル。
むかし、困っている村人たちを救うために金貸しから多額の借金をした庄屋さんが金貸しに裏切られ、借金を残して死んでしまう。
その妻・お松は「借金はちゃんと返したのに」と異議申し立てをしたのですが、その土地の奉行(きっと金貸しとつるんでいたと思われます。これも現代に繋がる政治とカネの問題です)が「わしゃ、返してもらとらんぞ」と、それを認めず、お松と、彼女が可愛がっていたネコを死刑にしてしまうのです。
なんでネコまで処刑されるのかわからないけど、「わしの命に背く者は一族郎党皆殺しじゃ」という論理だったのでしょうか?
ネコも一族郎党に加えられてしまったのですね。
で、この手の怪談兼勧善懲悪・庶民の味方ストーリーのセオリーとして、もちろん、この後、このネコはウソつきの金貸しと、権力乱用の奉行のところに化けて出て、悪者どもを地獄に叩き落とすというオチ。
めでたし、めでたしということで、この正義のバケネコはこの神社にまつられることになったのです。
●今や霊験あらかた、招き猫だらけの観光スポット
こうした因縁話があるせいか、なんと、この神社、今では受験と勝負ごとにご利益があるとして大人気に。バケネコになったネコはリベンジを果たした結果、「猫神様」に昇華。勝負ごとにご利益と言うので、全国からギャンブラーが詣でているようです。
そして猫神様は招き猫の姿になって降臨したので、境内は招き猫だらけになっているようです。いやー、すごい。でも、借金は勝負事――ギャンブルに頼らず、地道にコツコツ返したほうがいいと思うなぁ。
というわけで、妖怪も神様になってしまう四国。
そういえば「千と千尋の神隠し」で、妖怪だか神様だかわからない者たちが湯あみに来る湯婆の湯場も愛媛の道後温泉がモデルになっていました。
四国の旅・オン・マイマインド、まだまだ続きそうです。
2016・8・6 sat
東京ビッグサイトで12日から14日まで開催されている
「ギフトショー」に行ってきました。
太田区のブースの一角で「人生まるごと回想アルバム」を
紹介しているのは、株式会社テコデコドリーム研究所です。
アルバム本来の役割を見直す
アルバムに並んだ写真を見て、
過ぎ去りし日々を楽しむというのは、ごくありふれた行為で、
どこの誰でも実践していることのように思えます。
けれども、実はちゃんと写真を整理整頓し、
他者が見ても分かるよう管理できている高齢者はごく少数。
また、それが子供世代との間でコミュニケーションツールとして
活用されている例はさらに少ないようです。
「人生まるごと回想アルバム」は
そうしたアルバムが本来持つ役割を見直し、
可能性を伸ばすことによって生まれた商品です。
医療・介護の分野で注目の「回想法」
このアルバムは回想法で利用するシーンを
想定して作られています。
回想法とは1960年代初期に
アメリカの精神科医が開発したもので、
回想し過去の記憶をよみがえらせることで脳を活性化。
さらにその記憶を他者と共有し、
分かち合うことでより元気を出せるという精神療法です。
ご存じのようにこの10年ほどの間、
超高齢社会の進展に伴って認知症患者が激増。
それによってすでに相続などの分野で
様々な問題も起こっています。
そんな状況のなかで回想法は、認知症に対する予防効果、
あるいは症状の緩和・改善が期待できる非薬物療法として、
医療現場や介護施設、自治体の介護事業、
地域コミュニティーなどにも注目されています。
心療回想士のスタッフが開発
テコデコドリーム研究所ではスタッフ全員が
この回想法の基礎を学び、
心療回想士の資格を取得。
素材として写真を用い、
その写真を編集して作るアルバムに焦点を合わせました。
どうすれば親世代(高齢者)にとって、
より楽しく記憶をよみがえらせるものにできるか、
子供世代・孫世代とのコミュニケーションに
役立つツールにできるかを考えた上で設計し、
他にはないユニークな特徴と機能を持たました。
親子で楽しめるアルバムづくり
最も大きな特徴は、マグネット式アルバムを採用したこと。
家族みんなで閲覧しようという時、
アナログの分厚く重いアルバムを手に取るのは億劫で、
一人一人気軽に回して見るのに適していません。
また、スマホやタブレットのようなデジタル端末の画面上で
写真のデータを見るというスタイルだと、
みんなで見ている、家族で親の人生を共有している、
という感覚が持てません。
1ページずつ取り外しができるマグネット式アルバムは
そうした課題をクリアし、
家族で集まれば、自由に広げてみんなで見ることができ、
ページ追加も簡単にできるといいます。
また、記憶を呼び起こすためには“可視化”が重要。
家の中で目につく場所に写真があると、
ふとしたきっかけで大事なことを思い出したり、
家族への感情が深まることがあります。
通常、アルバムはしまっておくと中身が見えませんが、
ここでもマグネット式の利点を生かし、
お気に入りの写真があるページを
スチール製の壁や冷蔵庫に貼りつけて見ることができます。
また、アルバムそのものを360度開いて
そのままフォトスタンドとして使うこともできるといいます。
子供が親のためのアルバム編集者に
こうした特徴・機能を活かして同社では
「子供世代が高齢の親にためにアルバム編集者なること」
を推奨しています。
フィルムカメラの時代は、撮影後、
現像してプリントしなければ、写真を見られませんでした。
そのため、親世代が保存している写真の量・アルバムの量は
膨大であるケースが多く、
本人が亡くなった後は、(悲しいことではありますが)
そのほとんどを破棄しなくてはならないのが現実です。
それを踏まえて、テコデコのスタッフは、
子供世代が自分で見て貴重だと思える写真、
親のことを知らない子供や縁者の人たちが見ても
楽しめるような写真などを選び出し、
この「人生まるごと回想アルバム」を使って、
世代を超えて共有できるアルバム、
親孝行のツールとなるアルバムを作ってほしいと話していました。
施設のスタッフが心のケアにも手を伸ばせる
また、このアルバムは親が
介護施設で暮らすことになった場合にも
効果を発揮します。
介護施設のスタッフは、
親を「入居者=高齢の人」としか認知できないので、
毎日の食事や排泄の世話など、身体機能面でのケアはしますが、
感情面でのケアは天気のこと・庭の花のことなど
についてしか話せません。
生まれながらの高齢者など一人もおらず、
誰しも何十年という人生の道程、
無数の喜怒哀楽を経験してそこにたどり着くのですが、
スタッフはその一つとして想像するすべがないのです。
そんな時、このアルバムで子供時代や青春時代など、
親の人生のわずかな断片でも知ることができれば
「かわいいですね」「楽しそうですね」など、自然と会話が弾み、
心の介護・感情面のケアにも手を伸ばせるのではないか。
テコデコ研究所ではそうした期待も抱いています。
ちなみに、「回想法」の効果的な会話のポイントとして
「ほめ言葉は過去形にしないで現在形で話す」そうです。
還暦スタッフの第2のスタートアップ
テコデコドリーム研究所は、
もともとキャラクターと音楽コンテンツを
メイン事業とする会社で、
かつては各種アミューズメント施設やイベントなどで
若者や家族連れの人気を集めていましたが、
いずれも家庭の主婦を兼任していた3人のスタッフが
家族の介護に専念するために一時企業活動を休止していました。
その間、代表の池尾里香さんが施設に入居した
独身の叔母の家の整理をした際に、
それまで見たことのなかった若い叔母の
いきいきした姿の写真を大量に発見。
その中から自分の目で選んで一冊にまとめたアルバムを
本人に見せたところ、認知症気味だった叔母が大いに喜び、
互いに思い出を共有できたといいます。
同社の3人は、中小企業振興公社主催の
「事業家チャレンジ道場」で約2年間、
ものづくり・最新のマーケティング技術を勉強する中、
介護経験と回想法を活かした今回の事業を考案しました。
誕生日、母の日、父の日、施設の訪問時、
米寿や喜寿のお祝い事などに、
子から親への真心こもったプレゼントに使ってほしいというのが
彼女らの提案です。
永続的な親孝行の実現をサポート
「人生まるごと回想アルバム」は、
葬儀の遺影や式場の思い出コーナーの写真などに
使えることはもちろん、
その後の法事の場でも集まった人たちに
親の人生を偲んでもらうこと、
また、孫やその後の世代に伝えていく
「ファミリーヒストリー」としても
役立てることができるといいます。
池尾さんと、実の姉である綿井さんは、
両親の法事の席で親戚一堂にこのアルバムを見てもらったところ、
たいへん盛り上がり、皆、新鮮な感動を受けたといいます。
それがまた両親に対する供養に繋がるのでしょう。
これは単にアルバムを販売するビジネスでなく、
アルバムづくりを通して、
永続的な親孝行の実現をサポートする事業
といえるかもしれません。
もしギフトショーに行かれる方は、
ビッグサイト南館にある大田区のブースで、
ぜひ実物を手に取ってみてください。
また、このアルバムのサイトはこちらです。
https://tekodekorecollection.com/
「南総里見八犬伝」は
江戸時代の作家・滝沢馬琴が書いた長編小説。
1814年に始まって、
1842年の完結まで28年かかって世に出された、
世界に誇れる傑作エンタメファンタジーです。
運命に導かれて集まった仲間が
力を合わせて敵と戦うという勧善懲悪パターンは、
神秘的かつ痛快で、この活劇をモチーフにした
コンテンツが200年の間に続々と作られました。
今日の日本のマンガ・アニメ文化の基盤を築く
一要素になったことは、疑いようがありません。
僕の八犬伝との出会いは、
小学生の時に見たNHKの人形劇でしたが、
それ以後も「八犬伝」から
いくつもの映画やマンガが生まれるのを見てきました。
いちばん最近のものは、
昨年秋に劇場公開された映画「八犬伝」でしょう。
僕は見逃していたので、先日、アマプラの配信で視聴。
公開の時は評判はイマイチだったようですが、
とても楽しめました。
虚と実、二つの世界がパラレルで進む構成で、
虚はご存じ、八犬伝の活劇世界です。
原作に忠実なのはいいのですが、
ストーリーの上っ面をサーっと撫でているという感じで、
今一つ物足りないのですが、
それでもやっぱり面白いのは、さすが八犬伝。
名刀・村雨を持つ犬塚信乃、女装の犬坂毛野、
少年剣士の犬江親兵衛などはとてもイケメンで、
画面も派手で美しい。
それに対する実の世界では、
作者・滝沢馬琴と絵師・葛飾北斎、
二人のむさいジジイの対話で進みます。
これに「東海道四谷怪談」の戯作者・鶴屋南北が絡んだりして、
彼らの創作に対する考え方・思いが伝わってきて味わい深く、
このむさいじいさん・おっさんたちから
ああした華麗な物語や絵画が生まれたのが面白い。
まるで現代人のような、滝沢馬琴の家庭の事情
(一人息子がニート状態)も描かれていて、
これも考えさせられます。
いよいよ最終章、物語がクライマックスに差し掛かったところで
馬琴は失明。目が見えなくなり、執筆できなくなります。
「八犬伝」は未完の大作に終わるかと思われたときに、
代筆者として名乗りを上げたのが息子の嫁でした。
この嫁は無学で字もろくに書けない女性なのですが、
義父である馬琴が字を教えながら、二人三脚でがんばり、
わずか8か月で残りを仕上げ、物語を完成させます。
すごく感動的なエピソードですが、
この嫁がどうして馬琴に尽くし、代筆をやろうと思ったのか?
夫を先になくして寂しかったから?
義父のことを好きだったから?
「八犬伝」が好きだったから?
そのあたりがドラマとして描かれていないので、
どうも腑に落ちないのですが、それでも物語は最期を迎え、
馬琴の仕事は成就しました。
そして、まるで最近の
ファンタジー系アニメやマンガのお約束事のように、
戦いで命を落とした犬士たちも生き返るのです。
僕も小説などを書いているので、虚実が融合し、
馬琴と八犬士が遭遇するラストシーンには、
涙を抑えきれませんでした。
不平・不満はありますが、やっぱり八犬伝は面白いし、
創作の舞台裏も描かれたこの映画には、
単なるエンタメを超えた奥深さがあると思います。
思わず聞き返したくなるような、このタイトル。
いやいやいや、やっぱ死ぬのは怖いですよ。
そうなの? じゃあチョット江東区森下までいらっしゃいよ。
ママといっしょに、あなたらしい生と死について考えましょうよ。ってなことを言っちゃうのが、
この本の著者・村田ますみさんです。
森下にあるのは「めめんともり」という、
1年前にオープンした、たぶん日本初の終活スナック。
「カラオケないけどカンオケあります」をキャッチフレーズに、
夜な夜な大人が集まって、
一杯やりながら「生きるとは?」「死ぬとは?」と語り合い、
それぞれの死生観を養っているところです。
「メメント・モリ(Memento Mori)」
=ラテン語で「死を思え」。
年齢にかかわらず、君も僕も明日死んでしまうかもしれない。
その可能性を忘れずに、今を大事にして生きろ。
悔いがないよう、好きなことをやって生きろ。
そんなメッセージとともに、
最近、わりとよく耳にする言葉ではありませんか?
自分はどう生きるのか?=どう死ぬのか?
といった哲学的な思考を、世代を問わず、
みんながいっせいに始めたのかもしれません。
そうした時代の空気から
終活スナック「めめんともり」は生まれたわけですが、
なんと、今月には早くも2号店が沖縄・那覇にオープンしました。村田さんはこの2つの終活スナックのオーナーで、
夜ごとお客さんの話を聞き、
自分の考えをまとめながら、
この本を書いたようです。
内容概略(もくじ)は下記の通り。
第1章 なぜ終活スナック?めめんともり開業のルーツを辿る
第2章 あなたの理想の死は?
第3章 棺桶に入って生まれ変わる!?
第4章 自分らしい最期を大切に
第5章 多様な選択ができることで、死の捉え方がかわる
第6章 自分らしい最期を迎えるために必要なこと
とても楽しく読めるエッセイなので、
ぜひ手に取ってみてください。
2月27日発売予定です。
ちなみに村田ますみさんは、
日本における海洋散骨のパイオニアでもあります。
以前、僕がテレビの情報番組の仕事に携わっていたころ、
多くの女性が「夫の家のお墓に入りたくない」
という声を上げ始めていました。
それから30年あまりがたち、娘世代になると、
こうした従来の葬儀供養のあり方に異を唱える
女性がますます増えています。
そして、前の世代と違うのは、
彼女らは単に不平を言うだけでなく、
勇気をもって自ら行動し、
これまでの葬儀供養にまつわる
常識・社会通念を変えようとしています。
村田さんもその一人で、
彼女の言動に共感した多くのフォロワー事業者が現れ、
あれよあれよという間に、海洋散骨は、
すっかり葬送の選択肢の一つになった感があります。
時代が変われば、生き方も、死に方も、葬送も変わる。
終活スナック開業の背景から、
理想の最期について考えるヒント、
入棺体験を通じた「生まれ変わり」のプロセス、
そして、終活の実践的なアドバイスまで、
いつか死を迎えるあなたや僕に向けて語りかけてきます。
死は恐れるものではなく、生き方を見つめ直すもの。
でも、ホントに怖くないですか、村田さん?
自分の中で特にヒーロー視する人物はいませんが、
佐野元春さんだけには注目しています。
かつて「つまらない大人にはなりたくない」
と歌っていた佐野元春ももう70に近い齢。
口だけでなく、本当につまらない大人にならなかった。
齢をとれば取るほどカッコよくなっていることは、
コヨーテバンドを率いて演奏する
彼の姿を見れば、誰もが認めるところです。
現代を生きる人間として、ある種の理想的。
He has aged badly.
座標となる「ポーラスター」です。
その佐野元春が、昨年はコヨーテとともに
「ヤングブラッズ」を、
今年は「ガラスのジェネレーション」をリメイク。
どちらも元気の出るご機嫌なロックナンバーでしたが、
いまの彼が歌うと、少し切なさを帯びた、
とても深みのある歌に聴こえてきます。
ここでニューバージョンを作ったのは、
オールドファンへのサービスなのか?
若い世代へメッセージを送ろうとしているのか?
いや、もしかしたら同世代のシニアたちに、
もう一度、「荒ぶる胸の思いをよみがえらせろ」
「つまらない大人になるな」と
鼓舞しようとしているのかもしれません。
個人的には自身のニューヨーク体験を
サウンド化した「ヴィジターズ」(1984年)が好きなので、
あのアルバムの曲をリメイクしてほしいと思っています。
特に40年前、日本人として初めてヒップホップを導入した
「コンプリケーション・シェイクダウン」。
あのクールな傑作を、
新しい歌詞で再現してくれるとうれしい。
♪フィジカルなダンス メンタルなダンス
システムの中のディスコティック
というサビの歌詞は、40年前よりむしろ現代こそ響く言葉。
佐野元春の歌を聴くと、僕もまだまだこれからだ、
時代の流れに抗って生き続けるべきだと思うのです。
おりべまこと電子書籍無料キャンペーン
2月3日(月)16:59まで
昨夜よりもっといい夢を見る方法
「生きる」をテーマにしたエッセイ第6集。
人生の半分は夜。だったらもっといい夢みなきゃな。そう思ったら読んでみてほしい。
生きるのが楽しくなる36のエッセイ。
●エンディング文化の時代到来
エンディング産業展の取材を終えて考えたこと。
それは、エンディング――死を楽しむ時代がやってきたということです。
「死を楽しむ」というと語弊があるかもしれませんが、要はひとりひとりが自分の人生の終え方について期待感や希望を抱く、ということです。
いつかはこの世からおさらばしなくてはいけない。
これはあらかじめそう決まっています。
だったら悲しんだり寂しがったりするだけでなく、そうした感傷も含めて、思い切って楽しんだほうが「お得」なのではないでしょうか。
少なくとも僕たち、現代の日本人ひとりひとりは、そうしたことをできる豊かな文化に包まれて生きていると思うのです。
●人生は20歳まで
じつは人生は20歳で決定しています。
20歳までの経験とそこから吸収したもの、そして喜怒哀楽の感情で人間の心身の基盤は出来上がります。
どうすれば自分は気持ちよく生きられるのか、この世の人生において何に価値を置いて生きるのか、自分が果たすべきミッションは何なのか・・・これらはもうみんな、最初の20年で僕たちの内側にしっかりインプットされます。
ただし、そのことに気づくかどうか、それらをいつ発見できるか、はその人しだいです。最期まで見つけられずに終わってしまう人も少なくない。いや、もしかしたら大半の人はそうなのではないでしょうか。
だから20歳を過ぎた大人は、自分の人生の主人公は自分であると、しっかり意識したほうがいい。
そして日々、自分の人生の台本を書いていくといい。
細かく書き込む必要はないけれど、どういう流れでどうなり、どんな大団円を迎えるのか、エンディングまで想定してプロット(筋書)を作っておくといいと思います。
もちろん、僕たちを取り巻く環境は、時代とともに刻一刻と変化していくので、日々リライトすることが必要です。
でも、ベーシックな台本があるとないとでは違います。まったく手ぶらで毎日アドリブだらけでは続きません。
でもじつは、わざわざ僕がこんなことを言わなくても、あなたも自分の人生の台本はひそかに書き進めているはずなんですよ。
耳を澄まして自分に聞いてみてください。
そして、目を凝らしてよく探してみてください。
●リライトしよう、今からでも始めよう
親やら先生やら世間一般やらの書いた台本で生きている――
もし、あなたがそう感じるのなら、そんなものは破り捨てるか、端から端までリライトして自分のものにしてしまう必要があるでしょう。
また、もう齢で今からでは手遅れだ・・という人も大丈夫です。
これまでの記憶・実績を材料に再構成することができます。
起きてしまった事実は変えられなくても、現在の自分、そして未来の自分に合わせて、その事実の意味を変えることができます。
マイナスと捉えていた事象もプラスに転換することができます。、
これもどんどんリライトしましょう。その気になれば一晩でできます。
完成度の高い台本、公開する台本(必要だと思えば見せてもいいけど)を作ることが目的ではありません。
自分が主人公であることを意識し、生きるということについてイメージを広げ、深めるためにこうした考え方をするのは有効ではないかと思うのです。
●エンディング産業を面白がろう
エンディング産業は「人の死をネタにしたお金儲け」と、胡散臭い目で見られることがまだまだ多いようですが、歴史・文化・哲学など、いろいろなことを考えさせてくれる媒体です。
そして経済と結びつくことで、世の中に大きな影響を与えていきます。
そこで提供されるあふれんばかりの商品やサービス――それこそラーメン一杯からデザート付きフルコースまで――は、すべて今を生きる人たちの心が投影されたものばかり。どれを選ぶかは自分次第だし、オーダーメイドも可能だし、どれも選ばないという選択肢だってもちろんあります。
興味と好奇心を持って覗いてみると、きっと面白いと思います。
2016・8・28 SUN
「おまえら、いいトシこいて小学生かよ~」
というのが「女子・男子」という呼び方に対する感想でした。
20代だったらいざしらず、いったいいつから中高年まで女子・男子と呼びならわすようになったのか?
たぶん少なくとも21世紀以降のこと。今ほど頻繁に使われ、定着するようになったのは、この10年くらいか? どうも前から気になっていたので、これがいったいどういう意味を持つのか考えてみました。
●間柄によってビミョーに呼び方を変換
近頃、女・男を呼び表すのって意外と難しいのです。
「女性・男性(ジョセイ・ダンセイ)」は書くのはいいけど、音声で表す場合、どうもフォーマルすぎる。改まった席や仕事の場でなら問題ないが、ちょっとくだけた場や親しい間柄で「ジョセイ・ダンセイ」と言われると違和感があります。
それならやっぱり「女・男(オンナ・オトコ)」―― 僕はこの呼び方を好むのですが、困ったことに最近、女性の中に敬遠する人が少なくない。
文脈の中でどう使うかにもよりますが、「セックスを感じて恥ずかしい」「あまり口では言いたくない」という意見があるのです。「情婦・情夫」といった漢字と結びつくのでしょうか。性を伴う愛のにおいがするのでしょう。
かなり親しい間柄でなら問題ないけど、やや親しさが希薄な友だち・仲間、あるいは仕事の同僚などに対しては、もしかしたら不愉快に感じるかな?と思ってしまうので、僕も「女の人(オンナノヒト)」といった言い方をします。(自分が男なので、男は「オトコ」でOK)。
つまり相手によってけっこう使い分けなくてはならない。いやはや、なんとも日本語は繊細で複雑でビミョーです。
それに仕事でも趣味でもプライベートでも、年齢層で分断されることなく、いろいろな年代の人間が、フラットな関係で入り混じって行動するようになったことも、こうした呼称のビミョーさに影響しているのではないかと思います。
●安心・安全なジョシ・ダンシ
そこで登場した「女子・男子(ジョシ・ダンシ)」は、かなり便利。
もともと子供・若者、あるいはスポーツ選手に対しての呼称だったので、「ジョシ」「ダンシ」と言われると、なんだか若返ったような気分になるし、カタさがなく、親しさイマイチの間柄でもOKだし、一般的な呼称としても安心して使えます。
●英語文化と日本語文化
女子・男子は英語だとGIRL・BOY。
英米ではむしろこっちのほうがセックス臭が漂いますね。
その方面のお仕事をしている人はこの呼称で呼ばれることが多いと思います。
なので普通、英米人の中高年は「GIRL」「BOY」なんて呼ばれたら腹を立てるんじゃないでしょうか。
ところが日本語―ー日本人の場合はその逆。
比較して考えると、英米が子供・若者(子供っぽさ・若さ)を下に見るのに対して、日本人には子供を神聖視したり、若さを尊ぶ精神構造があります。女子・男子×GIRL・BOYには、そうした文化の違いも見て取れします。
●女子・男子の裏にある「成長」というキーワード
もうちょっと深掘りしてみたらどうなるか・・・ということで発見したのが 5年ほど前、自分のブログで書いていた文章。これは当時、映画・TV・演劇で「三銃士」がちょっとしたブームになっており、それについて書いたものです。
いわゆる“成熟社会”となった先進諸国では“成長”は重要なキーワードだ。未熟だろうが、ダメダメなところがあろうが、成長を感じさせる、言い換えれば、未来への可能性を感じさせる人や集団や企業は、すこぶる魅力的に映る。
つまり、今、それだけ“成長”というものに希少価値があるのではないだろうか。
成熟し、伸びきってしまった大人にはそうした魅力が見出せない。しかも環境の変化のせいもあり、信頼感も失墜しているのでなおさらだ。
ちなみにこれは実年齢のことを言っているのではない。10代・20代はもちろん、50代・60代でも“成長”しなくてはならない(少なくともそういう意志を見せなくてはならない)世の中になっているのだ。
そして、若いダルタニアンと年長の三銃士のように、互いに影響を与え合いながら伸びていくことが求められている……三銃士の物語は、そうした現実を映し出す鏡のような機能を持っているのでは、と感じる。
どうもこうした意識がそのまま、僕たちの深層心理に貼りつき、いつまでも成長しきらない子供・若者の部分を形成しているのではないかと思います。
それが「女子・男子」という呼称に結びついている。
国境が溶け、世代差が溶け、リアルとバーチャルの境界が溶け、それでいながら経済や社会階級の格差が広がる今、人間として完成してしまうこと、成長しきってしまうことは、今後のことを考えるとマイナス要素にしかならない。
齢は取っても可能性は残しておきたい・・・という気持ちの表れなのかも知れません。
●僕たちはいつまでウーパールーパーか?
というわけで、ウーパールーパー。
南米のサンショウウオの一種であるこの生き物、一般的には死ぬまで成熟せず、幼体のまま一生を終えるのだそうです。
最近「1980」を謳ったCMでテレビに再登場しましたが、 確かに1980年頃、ウーパールーパーみたいな顔をした若い連中(=当時の僕たちのことです)が街の中をうようよ泳ぎ回っていました。
あれから30年以上経った今も、依然として僕らはウーパールーパーそのもの。
オトナ女子・オトナ男子として、ろくすっぽ成長することなく、結局、単に子供オバさん。子供オジさんのまんまで終ってしまう可能性は大きいのではないかと思います。
でも「今どきの若いモンは・・・」という昔の人たちが本当に尊敬に値する大人ばかりだったのか?といえば、そんなことはない。情報がたやすく手に入らなかった時代の社会では、ごまかし、カッコづけも簡単で、威張っていられましたからね。
今、成長するとはどういうことなのか? ごまかしやカッコだけでなく、大人になるってどういうことなのか・・・人生の続くかぎり、考えていこう。
2016・8・15 MON
●氷の世界の恐怖のセイウチ
子供の頃、動物図鑑で初めてセイウチの写真(イラストだったかも知れない)を見た時は、そのモンスターのような姿・形に心の底から驚愕しました。
その時の僕のセイウチのイメージは、世界の果ての暗くて冷たい氷の世界で巨大な牙をむき出しにして世にも恐ろしい咆哮を轟かせる孤独な怪物。
こわかったなぁ。
人生の中でもしこんな怪物に出会うことがなあったら、僕は一瞬のうちにカチンコチンに凍り付いて、冷凍食食品になってこいつに食べられてしまうだろうと思い、どうぞそんなことになりませんように、と、何度もお祈りを唱えました。
●夢の世界でセイウチロウと邂逅
という衝撃が消えたのはいつのことだろう?
いろいろ本を読んだりテレビを見たりするうちに、セイウチは割とおとなしくて温かい生き物。孤独ではなく、群れをつくってのんびり暮らしていることなどを知りました。
それどころか、近年は日本水族館にも住んでいて愛嬌を振りまいてくれています。
そのセイウチ君に僕もお世話になっています。
夏、お昼寝するときは涼しい水族館のイメージを抱いて横になり、水中を魚がうようよ泳いでいる中をうつらうつらしつつ彷徨っているのですが、15分ないし30分ほどすると、コツコツと頭を何かがつつく。
「おい、起きろよ、セイイチロウ」
と目を覚ますと目の前には強大なセイウチが。やつはその牙の先で僕の頭をつついいたのです。
こいつはセイウチロウといってクールな夢のアラーム係として30分経ったから起こしにくるのです。それ以上寝ちゃうと夕方まで頭が働かなってしまうので。起きない時は歌を歌って起こします。
もちろん、歌はビートルズの「I am the Walrus」。
●ビートルズフェスでセイウチ登場
そういえば昨夜、録画しておいてずっと見ていなかったNHK-BSの「BEATLESフェス」なる3時間番組を見ました。
ビートルズ来日50周年ということで、当時の逸話――ビートルズにはっぴを着せた日航のスチュワーデスさんの話やら、独占取材に成功した星加ルミコさんやら湯川レイコさんの話――昔、音楽雑誌でよく記事を読んでいましたが、音楽ジャーナリズムのリーダーだった彼女らはまだ20代の女の子だったんですね――やら、を中心に、年寄りから若者まで入り混じったスタジオトークや、ビートルズ番組お約束のリバプール―ロンドン紀行(森高千里がキャバーンクラブに行ってドラムを叩いてた)などがてんこ盛りのバラエティ。
しかし、目玉は何といっても、新旧いろいろな日本のミュージシャンたちがやるビートルズナンバーのトリビュートライブでした。
財津和夫「Yesterday」や平原綾香「Hey Jude」などは、ま、定番の、という感じ。仲井戸麗市(チャボ)の「The Long and Winding Road」はほとんど自分で歌詞を書き換えた替え歌で、清志郎へのレクイエムにしか聞こえない。歌い方もそっくりだ。やっぱ寂しいんだろうね。
その中で一番面白かったのがラブ・サイケデリコの「I am the Walrus」。
ぐにゃぐにゃしたサウンドとともに、「おまえはあいつ、あいつはおいら、おいらタマゴ男、おいらセイウチ」なんていう、ジョンのナンセンスでファンタジックでグロテスクな詩の世界がぐりぐり脳天にねじ込まれてきて、めっちゃカッコいい! こんな新鮮なアレンジでこの曲を聞けるとは思ってもいなかった。まったく感動モノでした。
オリジナルを聞いて育ったおっさん・おばさんたちは、どうしてもリスペクトが先に立ってしまってアレンジも表面的で徹底しない。けど、「むかし、ビートルズっていうバンドがいたらしいね」と言っているような若い連中は、遠慮なくぶっ壊して、さらにおいしく料理していけると思います。
ジョンやジョージがあの世から「おいおい」と言って止めに来るくらい、ガンガンすごいアレンジをしてほしい。
●セイウチロウよ永遠に
おまえはあいつ、おまえはおれ、だからあいつはおれ、おまえはセイウチロウ、ぼくはセイイチロウ、おまえはセイイチロウ? ぼくはセイウチロウ?
まだまだ暑い。北極の氷の上でごろごろ寝そべる夢を見て毎日過ごすことにいたします。またセイウチロウと会うのを楽しみにして。
2016・8・11 THU
この夏は四国をお遍路しています。
ただし、オン・マイ・マインドで。
葬儀・供養の業界誌の仕事で、ネット~メール~電話で取材しては原稿書きの日々。
四国の葬儀の風習や、お遍路についていろいろ勉強しました。
で感じたのが、やたら四国にはネコが多いな、ということ。
そういえば香川県のある島でネコがいっぱいいるのをテレビで見たことがあります。それで有名になって、観光客が出向いて、かわいい、かわいいとエサをあげまくるのでさらにネコ天国となっているようですが・・・。
一方、僕が出会うのは、お葬式・お墓関連ので話からなので、この世とあの世の境界線上でニャーニャー鳴いているネコばかり。
●四国の葬儀における猫の存在
徳島や愛媛で、家で人が亡くなると枕元にホウキや刃物などを置く、という風習があります。(正確には「あった」という過去形。日本の昔ながらの葬儀・供養の風習のほとんどは全国どこでも、この20~30年の間に9割以上消滅している)
何のためにこんなことをするかというと、ネコがご遺体の上をまたがないようにするため。ニャアとまたぐと死人が生き返って歩き出すとか、逆にネコがバケネコ化するというのです。
ということは、この辺りではネコを飼っていた家が多のか?
いや、飼っていたというよりも、ネコだのタヌキだの、動物たちが「こにゃにゃにゃちは~」と、自由にあちこちの家を出入りしていたのではないか、と思います。
昔の日本の田舎の家は戸締りもいい加減で、常にオープン状態だったし、ネズミ退治にも役立つからね。だけど、キミはやばいからお葬式の時は来ちゃだめよ、という感じでしょうか。
●日本三大化け猫伝説「お松大権現」の猫
そんなわけでネコ伝説がはびこる四国。
徳島県阿南市には「日本三大化け猫伝説」の一つに数えられている「お松大権現」という神社があります。
ここに由来するお話は、借金苦にまつわるもので現代人にとってもリアル。
むかし、困っている村人たちを救うために金貸しから多額の借金をした庄屋さんが金貸しに裏切られ、借金を残して死んでしまう。
その妻・お松は「借金はちゃんと返したのに」と異議申し立てをしたのですが、その土地の奉行(きっと金貸しとつるんでいたと思われます。これも現代に繋がる政治とカネの問題です)が「わしゃ、返してもらとらんぞ」と、それを認めず、お松と、彼女が可愛がっていたネコを死刑にしてしまうのです。
なんでネコまで処刑されるのかわからないけど、「わしの命に背く者は一族郎党皆殺しじゃ」という論理だったのでしょうか?
ネコも一族郎党に加えられてしまったのですね。
で、この手の怪談兼勧善懲悪・庶民の味方ストーリーのセオリーとして、もちろん、この後、このネコはウソつきの金貸しと、権力乱用の奉行のところに化けて出て、悪者どもを地獄に叩き落とすというオチ。
めでたし、めでたしということで、この正義のバケネコはこの神社にまつられることになったのです。
●今や霊験あらかた、招き猫だらけの観光スポット
こうした因縁話があるせいか、なんと、この神社、今では受験と勝負ごとにご利益があるとして大人気に。バケネコになったネコはリベンジを果たした結果、「猫神様」に昇華。勝負ごとにご利益と言うので、全国からギャンブラーが詣でているようです。
そして猫神様は招き猫の姿になって降臨したので、境内は招き猫だらけになっているようです。いやー、すごい。でも、借金は勝負事――ギャンブルに頼らず、地道にコツコツ返したほうがいいと思うなぁ。
というわけで、妖怪も神様になってしまう四国。
そういえば「千と千尋の神隠し」で、妖怪だか神様だかわからない者たちが湯あみに来る湯婆の湯場も愛媛の道後温泉がモデルになっていました。
四国の旅・オン・マイマインド、まだまだ続きそうです。
2016・8・6 sat
東京ビッグサイトで12日から14日まで開催されている
「ギフトショー」に行ってきました。
太田区のブースの一角で「人生まるごと回想アルバム」を
紹介しているのは、株式会社テコデコドリーム研究所です。
アルバム本来の役割を見直す
アルバムに並んだ写真を見て、
過ぎ去りし日々を楽しむというのは、ごくありふれた行為で、
どこの誰でも実践していることのように思えます。
けれども、実はちゃんと写真を整理整頓し、
他者が見ても分かるよう管理できている高齢者はごく少数。
また、それが子供世代との間でコミュニケーションツールとして
活用されている例はさらに少ないようです。
「人生まるごと回想アルバム」は
そうしたアルバムが本来持つ役割を見直し、
可能性を伸ばすことによって生まれた商品です。
医療・介護の分野で注目の「回想法」
このアルバムは回想法で利用するシーンを
想定して作られています。
回想法とは1960年代初期に
アメリカの精神科医が開発したもので、
回想し過去の記憶をよみがえらせることで脳を活性化。
さらにその記憶を他者と共有し、
分かち合うことでより元気を出せるという精神療法です。
ご存じのようにこの10年ほどの間、
超高齢社会の進展に伴って認知症患者が激増。
それによってすでに相続などの分野で
様々な問題も起こっています。
そんな状況のなかで回想法は、認知症に対する予防効果、
あるいは症状の緩和・改善が期待できる非薬物療法として、
医療現場や介護施設、自治体の介護事業、
地域コミュニティーなどにも注目されています。
心療回想士のスタッフが開発
テコデコドリーム研究所ではスタッフ全員が
この回想法の基礎を学び、
心療回想士の資格を取得。
素材として写真を用い、
その写真を編集して作るアルバムに焦点を合わせました。
どうすれば親世代(高齢者)にとって、
より楽しく記憶をよみがえらせるものにできるか、
子供世代・孫世代とのコミュニケーションに
役立つツールにできるかを考えた上で設計し、
他にはないユニークな特徴と機能を持たました。
親子で楽しめるアルバムづくり
最も大きな特徴は、マグネット式アルバムを採用したこと。
家族みんなで閲覧しようという時、
アナログの分厚く重いアルバムを手に取るのは億劫で、
一人一人気軽に回して見るのに適していません。
また、スマホやタブレットのようなデジタル端末の画面上で
写真のデータを見るというスタイルだと、
みんなで見ている、家族で親の人生を共有している、
という感覚が持てません。
1ページずつ取り外しができるマグネット式アルバムは
そうした課題をクリアし、
家族で集まれば、自由に広げてみんなで見ることができ、
ページ追加も簡単にできるといいます。
また、記憶を呼び起こすためには“可視化”が重要。
家の中で目につく場所に写真があると、
ふとしたきっかけで大事なことを思い出したり、
家族への感情が深まることがあります。
通常、アルバムはしまっておくと中身が見えませんが、
ここでもマグネット式の利点を生かし、
お気に入りの写真があるページを
スチール製の壁や冷蔵庫に貼りつけて見ることができます。
また、アルバムそのものを360度開いて
そのままフォトスタンドとして使うこともできるといいます。
子供が親のためのアルバム編集者に
こうした特徴・機能を活かして同社では
「子供世代が高齢の親にためにアルバム編集者なること」
を推奨しています。
フィルムカメラの時代は、撮影後、
現像してプリントしなければ、写真を見られませんでした。
そのため、親世代が保存している写真の量・アルバムの量は
膨大であるケースが多く、
本人が亡くなった後は、(悲しいことではありますが)
そのほとんどを破棄しなくてはならないのが現実です。
それを踏まえて、テコデコのスタッフは、
子供世代が自分で見て貴重だと思える写真、
親のことを知らない子供や縁者の人たちが見ても
楽しめるような写真などを選び出し、
この「人生まるごと回想アルバム」を使って、
世代を超えて共有できるアルバム、
親孝行のツールとなるアルバムを作ってほしいと話していました。
施設のスタッフが心のケアにも手を伸ばせる
また、このアルバムは親が
介護施設で暮らすことになった場合にも
効果を発揮します。
介護施設のスタッフは、
親を「入居者=高齢の人」としか認知できないので、
毎日の食事や排泄の世話など、身体機能面でのケアはしますが、
感情面でのケアは天気のこと・庭の花のことなど
についてしか話せません。
生まれながらの高齢者など一人もおらず、
誰しも何十年という人生の道程、
無数の喜怒哀楽を経験してそこにたどり着くのですが、
スタッフはその一つとして想像するすべがないのです。
そんな時、このアルバムで子供時代や青春時代など、
親の人生のわずかな断片でも知ることができれば
「かわいいですね」「楽しそうですね」など、自然と会話が弾み、
心の介護・感情面のケアにも手を伸ばせるのではないか。
テコデコ研究所ではそうした期待も抱いています。
ちなみに、「回想法」の効果的な会話のポイントとして
「ほめ言葉は過去形にしないで現在形で話す」そうです。
還暦スタッフの第2のスタートアップ
テコデコドリーム研究所は、
もともとキャラクターと音楽コンテンツを
メイン事業とする会社で、
かつては各種アミューズメント施設やイベントなどで
若者や家族連れの人気を集めていましたが、
いずれも家庭の主婦を兼任していた3人のスタッフが
家族の介護に専念するために一時企業活動を休止していました。
その間、代表の池尾里香さんが施設に入居した
独身の叔母の家の整理をした際に、
それまで見たことのなかった若い叔母の
いきいきした姿の写真を大量に発見。
その中から自分の目で選んで一冊にまとめたアルバムを
本人に見せたところ、認知症気味だった叔母が大いに喜び、
互いに思い出を共有できたといいます。
同社の3人は、中小企業振興公社主催の
「事業家チャレンジ道場」で約2年間、
ものづくり・最新のマーケティング技術を勉強する中、
介護経験と回想法を活かした今回の事業を考案しました。
誕生日、母の日、父の日、施設の訪問時、
米寿や喜寿のお祝い事などに、
子から親への真心こもったプレゼントに使ってほしいというのが
彼女らの提案です。
永続的な親孝行の実現をサポート
「人生まるごと回想アルバム」は、
葬儀の遺影や式場の思い出コーナーの写真などに
使えることはもちろん、
その後の法事の場でも集まった人たちに
親の人生を偲んでもらうこと、
また、孫やその後の世代に伝えていく
「ファミリーヒストリー」としても
役立てることができるといいます。
池尾さんと、実の姉である綿井さんは、
両親の法事の席で親戚一堂にこのアルバムを見てもらったところ、
たいへん盛り上がり、皆、新鮮な感動を受けたといいます。
それがまた両親に対する供養に繋がるのでしょう。
これは単にアルバムを販売するビジネスでなく、
アルバムづくりを通して、
永続的な親孝行の実現をサポートする事業
といえるかもしれません。
もしギフトショーに行かれる方は、
ビッグサイト南館にある大田区のブースで、
ぜひ実物を手に取ってみてください。
また、このアルバムのサイトはこちらです。
https://tekodekorecollection.com/
「南総里見八犬伝」は
江戸時代の作家・滝沢馬琴が書いた長編小説。
1814年に始まって、
1842年の完結まで28年かかって世に出された、
世界に誇れる傑作エンタメファンタジーです。
運命に導かれて集まった仲間が
力を合わせて敵と戦うという勧善懲悪パターンは、
神秘的かつ痛快で、この活劇をモチーフにした
コンテンツが200年の間に続々と作られました。
今日の日本のマンガ・アニメ文化の基盤を築く
一要素になったことは、疑いようがありません。
僕の八犬伝との出会いは、
小学生の時に見たNHKの人形劇でしたが、
それ以後も「八犬伝」から
いくつもの映画やマンガが生まれるのを見てきました。
いちばん最近のものは、
昨年秋に劇場公開された映画「八犬伝」でしょう。
僕は見逃していたので、先日、アマプラの配信で視聴。
公開の時は評判はイマイチだったようですが、
とても楽しめました。
虚と実、二つの世界がパラレルで進む構成で、
虚はご存じ、八犬伝の活劇世界です。
原作に忠実なのはいいのですが、
ストーリーの上っ面をサーっと撫でているという感じで、
今一つ物足りないのですが、
それでもやっぱり面白いのは、さすが八犬伝。
名刀・村雨を持つ犬塚信乃、女装の犬坂毛野、
少年剣士の犬江親兵衛などはとてもイケメンで、
画面も派手で美しい。
それに対する実の世界では、
作者・滝沢馬琴と絵師・葛飾北斎、
二人のむさいジジイの対話で進みます。
これに「東海道四谷怪談」の戯作者・鶴屋南北が絡んだりして、
彼らの創作に対する考え方・思いが伝わってきて味わい深く、
このむさいじいさん・おっさんたちから
ああした華麗な物語や絵画が生まれたのが面白い。
まるで現代人のような、滝沢馬琴の家庭の事情
(一人息子がニート状態)も描かれていて、
これも考えさせられます。
いよいよ最終章、物語がクライマックスに差し掛かったところで
馬琴は失明。目が見えなくなり、執筆できなくなります。
「八犬伝」は未完の大作に終わるかと思われたときに、
代筆者として名乗りを上げたのが息子の嫁でした。
この嫁は無学で字もろくに書けない女性なのですが、
義父である馬琴が字を教えながら、二人三脚でがんばり、
わずか8か月で残りを仕上げ、物語を完成させます。
すごく感動的なエピソードですが、
この嫁がどうして馬琴に尽くし、代筆をやろうと思ったのか?
夫を先になくして寂しかったから?
義父のことを好きだったから?
「八犬伝」が好きだったから?
そのあたりがドラマとして描かれていないので、
どうも腑に落ちないのですが、それでも物語は最期を迎え、
馬琴の仕事は成就しました。
そして、まるで最近の
ファンタジー系アニメやマンガのお約束事のように、
戦いで命を落とした犬士たちも生き返るのです。
僕も小説などを書いているので、虚実が融合し、
馬琴と八犬士が遭遇するラストシーンには、
涙を抑えきれませんでした。
不平・不満はありますが、やっぱり八犬伝は面白いし、
創作の舞台裏も描かれたこの映画には、
単なるエンタメを超えた奥深さがあると思います。
思わず聞き返したくなるような、このタイトル。
いやいやいや、やっぱ死ぬのは怖いですよ。
そうなの? じゃあチョット江東区森下までいらっしゃいよ。
ママといっしょに、あなたらしい生と死について考えましょうよ。ってなことを言っちゃうのが、
この本の著者・村田ますみさんです。
森下にあるのは「めめんともり」という、
1年前にオープンした、たぶん日本初の終活スナック。
「カラオケないけどカンオケあります」をキャッチフレーズに、
夜な夜な大人が集まって、
一杯やりながら「生きるとは?」「死ぬとは?」と語り合い、
それぞれの死生観を養っているところです。
「メメント・モリ(Memento Mori)」
=ラテン語で「死を思え」。
年齢にかかわらず、君も僕も明日死んでしまうかもしれない。
その可能性を忘れずに、今を大事にして生きろ。
悔いがないよう、好きなことをやって生きろ。
そんなメッセージとともに、
最近、わりとよく耳にする言葉ではありませんか?
自分はどう生きるのか?=どう死ぬのか?
といった哲学的な思考を、世代を問わず、
みんながいっせいに始めたのかもしれません。
そうした時代の空気から
終活スナック「めめんともり」は生まれたわけですが、
なんと、今月には早くも2号店が沖縄・那覇にオープンしました。村田さんはこの2つの終活スナックのオーナーで、
夜ごとお客さんの話を聞き、
自分の考えをまとめながら、
この本を書いたようです。
内容概略(もくじ)は下記の通り。
第1章 なぜ終活スナック?めめんともり開業のルーツを辿る
第2章 あなたの理想の死は?
第3章 棺桶に入って生まれ変わる!?
第4章 自分らしい最期を大切に
第5章 多様な選択ができることで、死の捉え方がかわる
第6章 自分らしい最期を迎えるために必要なこと
とても楽しく読めるエッセイなので、
ぜひ手に取ってみてください。
2月27日発売予定です。
ちなみに村田ますみさんは、
日本における海洋散骨のパイオニアでもあります。
以前、僕がテレビの情報番組の仕事に携わっていたころ、
多くの女性が「夫の家のお墓に入りたくない」
という声を上げ始めていました。
それから30年あまりがたち、娘世代になると、
こうした従来の葬儀供養のあり方に異を唱える
女性がますます増えています。
そして、前の世代と違うのは、
彼女らは単に不平を言うだけでなく、
勇気をもって自ら行動し、
これまでの葬儀供養にまつわる
常識・社会通念を変えようとしています。
村田さんもその一人で、
彼女の言動に共感した多くのフォロワー事業者が現れ、
あれよあれよという間に、海洋散骨は、
すっかり葬送の選択肢の一つになった感があります。
時代が変われば、生き方も、死に方も、葬送も変わる。
終活スナック開業の背景から、
理想の最期について考えるヒント、
入棺体験を通じた「生まれ変わり」のプロセス、
そして、終活の実践的なアドバイスまで、
いつか死を迎えるあなたや僕に向けて語りかけてきます。
死は恐れるものではなく、生き方を見つめ直すもの。
でも、ホントに怖くないですか、村田さん?
自分の中で特にヒーロー視する人物はいませんが、
佐野元春さんだけには注目しています。
かつて「つまらない大人にはなりたくない」
と歌っていた佐野元春ももう70に近い齢。
口だけでなく、本当につまらない大人にならなかった。
齢をとれば取るほどカッコよくなっていることは、
コヨーテバンドを率いて演奏する
彼の姿を見れば、誰もが認めるところです。
現代を生きる人間として、ある種の理想的。
He has aged badly.
座標となる「ポーラスター」です。
その佐野元春が、昨年はコヨーテとともに
「ヤングブラッズ」を、
今年は「ガラスのジェネレーション」をリメイク。
どちらも元気の出るご機嫌なロックナンバーでしたが、
いまの彼が歌うと、少し切なさを帯びた、
とても深みのある歌に聴こえてきます。
ここでニューバージョンを作ったのは、
オールドファンへのサービスなのか?
若い世代へメッセージを送ろうとしているのか?
いや、もしかしたら同世代のシニアたちに、
もう一度、「荒ぶる胸の思いをよみがえらせろ」
「つまらない大人になるな」と
鼓舞しようとしているのかもしれません。
個人的には自身のニューヨーク体験を
サウンド化した「ヴィジターズ」(1984年)が好きなので、
あのアルバムの曲をリメイクしてほしいと思っています。
特に40年前、日本人として初めてヒップホップを導入した
「コンプリケーション・シェイクダウン」。
あのクールな傑作を、
新しい歌詞で再現してくれるとうれしい。
♪フィジカルなダンス メンタルなダンス
システムの中のディスコティック
というサビの歌詞は、40年前よりむしろ現代こそ響く言葉。
佐野元春の歌を聴くと、僕もまだまだこれからだ、
時代の流れに抗って生き続けるべきだと思うのです。
おりべまこと電子書籍無料キャンペーン
2月3日(月)16:59まで
昨夜よりもっといい夢を見る方法
「生きる」をテーマにしたエッセイ第6集。
人生の半分は夜。だったらもっといい夢みなきゃな。そう思ったら読んでみてほしい。
生きるのが楽しくなる36のエッセイ。
小さな劇場の何もない舞台は、想像力が刺激される、
自由で可能性に満ちた空間です。
今日はここで「星の王子さま」の舞台を見ました。
原作はもちろん、サン・テグジュペリの童話。
壁面全体にしわをつけたベージュの模造紙を張り付け、
あの物語の舞台になる砂漠のイメージを表現しています。
内容は原作をなぞるものではなく、
生演奏やダンスが随所に交じる、
音楽劇風・イメージコラージュ風の構成。
前半は、王様、実業家、のんべえ、点灯夫など、
へんな大人がいる星をめぐる旅など、
原作に出てくるエピソードを仮面劇で見せたり、
後半は王子様とキツネがともに
パリと東京を合わせたような、
きらびやかな都会の街を探索したり、
地下にある死の国をめぐり歩く
オリジナルのエピソードを取り入れたりと、
自由自在な展開で、不思議な世界に引き込まれました。
王子様役の女性はクラシックバレエの心得があるようで、
随所で王子の心情をダンスで表現します。
彼女のビジュアルは、絵本のイラストそっくりでありながら、
不思議なエロシティズムと、
物語全体を包む切なさ・寂しさが感じられて魅力的でした。
上演したのは、
カミさんの仕事仲間である鍼灸師の奥さんが主宰する
「クリスタルレイク」というグループ。
この奥さんというのは、もともと新劇俳優で、
劇団新人会のメンバーだった人だそうです。
大ベテランですが、キツネ役として登場した
彼女の動きはキレがよく、
せりふ回しもクリアで「生涯現役」を感じさせました。
僕たちはこうした小劇場演劇に感化された世代ですが、
昨今の舞台演劇は、
やる側も見る側もシニア世代のものになりつつあるようです。
これも時代の趨勢なのでしょうが、
若い人たちにも、こうした変幻自在の小さな空間で描かれる
リアルでアナログな演劇の空気を、
若い人たちにも、ぜひ体験してほしいと思います。
おりべまこと電子書籍無料キャンペーン
2月3日(月)16:59まで
昨夜よりもっといい夢を見る方法
「生きる」をテーマにしたエッセイ第6集。
人生の半分は夜。だったらもっといい夢みなきゃな。そう思ったら読んでみてほしい。
生きるのが楽しくなる36のエッセイ。
今日、1月31日は「愛妻の日」です。
「日本愛妻家協会」なる団体が
1(アイ)・31(サイ)という、
かなり苦しい語呂合わせから生み出した記念日です。
これをネタにした
「愛妻家・愛夫家は人生の成功者?」という
エッセイを2年前に書きました。
拙著「昨夜よりもっといい夢を見る方法」の
最初に採録しています。
人生の成功と言えば、大金を稼いで大金持ちとか、
仕事で大活躍とか、有名になったとか、
たくさんの人に認められたとか、
社会的に高い地位に就いたとか、
通常語られるのはそうしたことです。
若い時代には、おそらくそこに
「恋愛の成就」「結婚」というものも
含まれると思います。
しかし、これはいったん手にして齢を取ると、
かつての輝きを失って色あせてしまうことが多いようです。
そして進行すると、妻ネグレスト、夫ネグレストになります。
それでも互いの利害のためにするずる関係を続けるのは、
人生全体から見ると、
離婚より始末が悪いことになりかねません。
最近は投資ばやりですが、
このエッセイで書いたのは、
いつまでも妻を愛せる、夫を愛せることは、
人生において、最大のリターンが見込める、
最高の投資ではないか―ーということです。
器用でどんな仕事も楽々こなせる人と、
不器用で何をやっても下手な人とがいるように、
モテモテなのに、誰ともうまく関係が結べない人と、
モテないけど、苦もなくよい恋愛・結婚関係を
結べる人とがいるようです。
異性としての魅力に加え、人間性、相性、
運・タイミングなど、多様な要素が絡むので難しいのですが、
最近の若い衆は自分のライフプランにこだわりすぎたり、
周囲の情報に振り回されすぎではないかと思います。
恋愛・結婚こそ、人生最大の勘どころ。
ひとの意見やアドバイスを取り入れるのが
全部ダメとは言いませんが、
あくまで自分の直観力を信じて、
相手とともに迎える未来を想像しながら
挑むべきではないでしょうか。
おりべまこと電子書籍無料キャンペーン
2月3日(月)16:59まで
昨夜よりもっといい夢を見る方法
「生きる」をテーマにしたエッセイ第6集。
人生の半分は夜。だったらもっといい夢みなきゃな。そう思ったら読んでみてほしい。
生きるのが楽しくなる36のエッセイ。
あなたの心にゆらぎを送り、
あなたの人生をほんのり照らす。
「生きる」をテーマにした
おりべまことエッセイ第6集。
本日より2月3日(月)16:59まで
無料キャンぺーン実施中!
人生の半分は夜。だったらもっといい夢みなきゃな。
そう思ったら読んでみてほしい。
生きるのが楽しくなる36のエッセイ。
ブログ「DAIHON屋のネタ帳」
2022年9月から23年末のなかから抜粋。
もくじ
・愛妻家・愛夫家は人生の成功者?
・「芝浜」と女落語家
・名古屋の母と母校の話
・入学祝いはやっぱり桜
・百年生きるホモサピの世界はこれから
・リンゼイ・ケンプのダンスの記憶
・これからどうやって旅に出るか?
・自分の未来、世界の未来、子どもの未来
・母の日・父の日に感謝のプレゼントなんかいらない
・ときにはダンゴより花
・4630万円の振り込み
・なぜ宝くじに当たるとほとんどの人が破産するのか?
・井上ひさしと笑いについて
・人生は長くて短い
・「南の島でのんびり」なんてFIREしなくてもすぐできる
・潮騒の音楽を楽しむための海
・アナログマジックの残暑お見舞いとデジタル発信の効用
・いい夢を見る方法
・なぜ30年前のトレンディードラマには お彼岸が出てこなかったのか?
・親より先に死んではいけません
・余命7年で行こう
・女じゃなくなる恐怖
・おとなの言うことなんか聞かなくても 人生、春は来る。
・おすすめ本「なんで家族を続けるの?」
・こっそりカメ走
・人生は地中に埋もれた化石のようなもの
・アーカイブ世代のクロニクル研究
・なぜ名古屋人は福井・鯖江産の純金製メガネを買うのか?
・ロンドンライフと労働・カネ・芸術の話
・9月15日はロージンの日?
・お祭リベンジ
・同窓会の話
・地球の重力に逆らうべからず
・地球家族の「争族」を辞めさせるための宇宙人待望論
・京都で考えた観光立国ニッポンの生き方
・美しきニューヨークのカレンダー
認知症の義母は、夫(義父)の遺影を見ると、
いつも「この人だれ?」ときいてきます。
何十年も夫婦としていっしょに暮らしてきたのに、
まったく覚えていないのです。
ある仕事で人生相談の相談文を頼まれたので、
このことをネタにして女性(娘)の悩みを書いてみました。
「あんなに仲の良い夫婦だったのに、
父のことをすっからかんに忘れてしまった母が
憎いやら、悲しいやら、やるせないやら・・・」
と、えんえん自分の心情を吐露し、
「結局、愛し合うってどういうことなのでしょう?
どうして人と人とは愛し合うのでしょうか?」
と、相談者に問いかける文章です。
20世紀・21世紀生きる僕たちは、
生まれてから、テレビ、映画、マンガ、小説、ゲームなど、
毎日いろいろなコンテンツに触れているので、
「永遠の愛」とか「不滅の絆」なんて
ドラマチックなものを信じてしまいがちです。
しかし、実はそれは作られたもので、
人間の真実の姿とは
かけ離れたものではないかと思うのです。
すっかり子供みたいになってしまった
義母の相手をしていると、つくづくそう感じます。
結局、寒くもなく暑くもない、
適度に衛生的で快適な環境に身を置いて、
毎日うまいものを食べて、
面倒を見てくれる誰かがそばにいれば、万事OK。
幸福に、満ち足りて眠りに落ちる。
それが人間の本質なのだと、
義母には教えてもらっているようです。
けれどもみんながそんな本質的な部分だけで生きていたら、
人間の社会生活はままなりません。
というか、そもそも人間社会というもの
が成り立たなくなります。
僕たちには、愛とか夢とか自由とか理想とか、
そういう美しい幻想が必要です。
それは個人的なものでなく、
むしろ社会的な要求です。
生きるとは、ひとりひとりが
死ぬまでそうした幻想を抱き続けること。
僕も願わくば、最期までそうありたいので、
そのために毎日、
こうしていろいろな
文章をこねくりまわしているような気がします。
電子書籍無料キャンペーン
1月30日(木)17:00~2月3日(月)16:59
昨夜よりもっといい夢を見る方法
「生きる」をテーマにしたおりべまことエッセイ第6集。人生の半分は夜。だったらもっといい夢みなきゃな。そう思ったら読んでみてほしい。
生きるのが楽しくなる36のエッセイ。
ブログ「DAIHON屋のネタ帳」2022年9月から23年末のなかから抜粋。
10時間超のフジテレビの会見。
全部見ていたわけではありませんが、
僕にとっては遠藤副会長の
「間違った万能感を植え付けられた」
という言葉がとても印象に残りました。
昨日、壇上に上がって記者会見を行った役員は、
フジテレビ黄金時代をつくり上げた
ディレクター、プロデューサーの皆さんです。
35年ほど前、僕はADやリサーチャーをやっていて、
テレビ番組の制作現場にも少し携わっていましたが、
当時は「フジテレビの仕事に携わっている」というだけで
誇らしいこと、優越感を持てることでした。
彼らはいわば業界人のリスペクトを集める敏腕クリエイター、
まさに万能神だったのです。
それがあんなさらし者にされるとは・・・。
昨日の記者会見は、
輝いていたテレビ界の落日を見るかのようでした。
そして同時に、ひどい矛盾も感じました。
これだけみんながカネ、カネ、カネと言っている
世の中でありながら、
「カネもうけより人権が大事」??
どんな業界の会社にもそれが求められているというのです。
でも、本当にそれが実現されている日本の会社は、
フジテレビに限らず、まだほとんどないでしょう。
昭和末期から平成前期、
「カネもうけより人権が大事」なんて言おうものなら
笑いものにされました。
「大事にしてほしけりゃ、面白いもの、
ウケるものを作ってみろ」
そういうなかで勝ちあがってきたのが、あの役員さんたちです。
変わろうにも変われるはずがありません。
新刊の「昨夜よりもっといい夢を見る方法」には
「なぜ30年前のトレンディードラマには
お彼岸が出てこなかったのか?」
という一編があります。
まだあの時代を懐かしがっています。
残念ながら、僕もフジテレビの役員さんたち同様、
あの時代の残像に支配され、
まだ頭がちゃんとアップデートされていないようです。
過去を清算し、頭をクリーンアップするためにも、
この際、しばらくの間、
彼らが作ったフジテレビ黄金時代の番組を
地上波で一挙に放送してみてはどうでしょう?
出演者の権利問題もあるので、可能な分だけですが。
人が変わるのは、とても難しい。
人が集まって作る組織が変わるのは、さらに難しい。
フジテレビだけじゃありません。
どこの会社も明日は我が身です。
電子書籍無料キャンペーン
1月30日(木)17:00~2月3日(月)16:59
昨夜よりもっといい夢を見る方法
「生きる」をテーマにしたおりべまことエッセイ第6集。人生の半分は夜。だったらもっといい夢みなきゃな。そう思ったら読んでみてほしい。
生きるのが楽しくなる36のエッセイ。
ブログ「DAIHON屋のネタ帳」2022年9月から23年末のなかから抜粋。
是枝裕和監督の映画「怪物」を見た。
息子を愛するシングルマザー、
生徒思いのまじめな小学校教師、
そして無邪気な子どもたちが送る平穏な日常。
それがある小さな事件がきっかけでガラガラと崩れる。
その背後にいるのは、正体不明の怪物。
ひとことで言えば、
タイトルの「怪物」とは誰か?何か?を追究する物語だ。
それは親なのか? 教師なのか?
学校という組織なのか?
それとも子供たちなのか?
いったい何なのか?
前半は学校と家、地域を舞台とした、
リアルでドキドキするサスペンス。
そして後半からクライマックスは、
それが一種のファンタジーにまで昇華する。
還暦を超えても全く衰えを感じさせない
是枝監督のクリエイティビティに舌を巻く。
音楽は最晩年の坂本龍一。
坂本龍一と言われなければ、
わからないくらい主張は少ないが、
随所でとてもいい味を出している。
そして脚本は坂元裕二。
いまや日本を代表する脚本家だが、
彼は1987年に初めて行われた
「フジテレビヤングシナリオ大賞」の受賞者。
つまり、フジテレビが発掘した才能だ。
1991年の、あのフジ・トレンディドラマの代表作
「東京ラブストーリー」の脚本を手掛けた人でもある。
坂元氏はその後、テレビ業界が嫌になり、
一時的にテレビドラマの脚本を書かなかったこともあり、
最近はもうプロフィールにも
「東京ラブストーリー」については触れられていない。
そんな大昔のことなど持ち出す必要もなく、
クオリティの高い作品をコンスタントに手がけ、
充実した活動を展開しているからだろう。
この作品は、第76回カンヌ国際映画祭の
コンペティション部門で脚本賞も受賞している。
そんな坂元氏を輩出した1990年代のフジテレビは、
恋愛を中心としたトレンディから
先鋭的なサイコサスペンスまで、
ドラマの制作能力がとても高く、
TBSと競い合うように傑作・問題作を次々と放送していた。
それはもうすっかり過去の話だが、
そうしたコンテンツ制作の資産は残っているはずだ。
サザエさんや、ちびまる子ちゃんや、
ガチャピン&ムックもいる。
このままダメになるのは、あまりに惜しい。
けれども再出発のためには今いる、
過去の栄光に浴した経営陣営陣ではダメなことは明らか。
なんとか改革して、また優れたコンテンツ、
動画配信をしてほしいと願う。
フジテレビの話に傾いてしまったが、
是枝映画「怪物」はほんとに傑作。
カンヌで認められた、なんて話はどうでもいいので、
ぜひ、このドラマの奥に潜む怪物を
自分の目で発見してほしい。
中居問題・フジテレビ問題がこんなことになって、
なんだか嫌な気持ちになっています。
芸能界とかテレビって、もともと一般社会とは隔絶した、
理不尽だったり、いい加減だったりする世界だったはず。
そして、そうした世界で成功し、活躍できる、
エンターテインメントの才に長けた人たちは、
常人離れしたエネルギーを持っている人たちです。
普通の人たちは、毎日お祭りやっているような
「ハレ」の日ばかりだと疲れちゃって、
とても持たないけど、
あの世界の人たちは、それができちゃうわけです。
で、一般ピープルもそういう「ハレ」の部分を楽しんだり、息抜きとして利用していたと思うのですが・・。
ということをいうと、
中居君がやったことやフジテレビの疑惑を
肯定しているかのように思われるかもしれません。
そうではないのですが、
かつての「面白くなければテレビじゃない」
「きっかけはフジテレビ」みたいなノリは、
一般社会とは異なる、理不尽だったり、
いい加減だったりすることころから
出てきたのだと思います。
あの時代のフジのドラマやバラエティも、
つくる側のそうしたエネルギーと、
視聴者側の「ハレ」を楽しみたい気分が合致して
質の高いものになっていたのではないでしょうか。
あれから30年~40年あまり。
社会が成熟し、そんな面白ノリよりもっと大事な
人権やモラルが優先される世のなかになった
ということでしょう。
それはきっといいことなのだと思います。
ただ、僕は正直言って、
そういう空気に何とも言えない息苦しさも
感じてしまうのです。
少なくとも、詳しい事実関係もわからずに
「中居は、フジは」と、声高に糾弾する気にはなれません。
話はちょっと飛ぶけど、
今年初めのNHKスペシャル「ネオ・ジャポニズム」で
マンガの特集をやっていました。
今、日本のマンガは欧米の先進国だけでなく、
アジアやアフリカなどの新興国、
また、戦場になっているウクライナなどでも
読まれているといいます。
番組ではその理由について、
日本のマンガの世界の中に「心の解放区」が
あるからでないか、と表現していました。
かつてのフジのドラマやバラエティ番組に代表される
「テレビ的なるもの」は、
まさにその「心の解放区」だったのでしょう。
今、その役を担うのは、テレビではなく、
マンガやアニメ、ネットの世界なのかもしれません。
中居君と被害女性の間で、本
当は何があったのかは、本人同士でないと分からないし
、互いの心情を客観的に判断するのは難しいと思います。
ただ言えるのは、芸能がらみの世界でずっと続いてきた、
そして、当たり前と思われてきた、
(実力・才能がある)男がおいしい思いをできるという
習慣というか、文化は、
今後、わりと速い速度で廃れていくのは確かでしょう。
その先にやってくる新しい常識の世界がどんなもなのか、
まだちょっとクリアには想像できませんが。
1月21日は誕生日なので、
何人かの方からメッセージをいただきました。
ありがとうございます。
ただ、これからの方のために言っておくと、
65歳の誕生日は、
本人にとってそんなにおめでたいものではありません。
単純に1つ齢を取った、ではなく、
「さあ、あんたも高齢者の仲間入りだよ」ということを
嫌でも思い知らされるからです。
具体的に言うと、役所から介護保険証が送られてきます。
年金のナンタラ通知も到着します。
その他、体力測定を受けたり、
健康診断の通知も次から次へときそうです。
会社員の場合は、当然、定年退職の手続きもあるでしょう。
ありがたいやら、鬱陶しいやらですが、
これら一つ一つの事象が、
ボディーブローのように効いてくる感じがします。
ちょっと気にし過ぎなのかもしれません。
「へっ、そんなもの気にしちゃいねえぜ。
おれは今まで通り、おれだぜ」
と、ロックンロールなセリフが吐ければいいのですが、
そんなに強くもカッコよくもないので、
ちょっとため息を漏らしています。
これをお読みのあなたは、
もっとしっかりしていると思いますが、
自分の時のために
「あいつ、65の誕生日の時に
こんなこと言ってビビってたな」
と、心に留めておいてください。
ちょっとは心構えが違ってくると思うので。
というわけで、あまりおめでたくもない誕生日ですが、
数日前、カミさんに新しいコートを買ってもらったので、
ごきげんで生きてます。
あなたにとっても、
これを読んだ日が、良い日になりますように。
おりべまこと電子書籍新刊
昨夜よりもっと
いい夢を見る方法
「生きる」をテーマにしたおりべまことエッセイ第6集。
人生の半分は夜。だったらもっといい夢みなきゃな。
そう思ったら読んでみてほしい。
生きるのが楽しくなる36のエッセイ。
AmazonKindleから発売中。¥360
受験シーズン。
かつては受験について「四当五落」
という言葉がありました。
これは「4時間睡眠なら合格・5時間だと落ちる」
つまり、合格したけりゃ寝る時間を削って勉強しろ!
根性出してぶっ倒れるまでガンバレ! という意味です。
さすがに今どき、こんなことを言ったら、
ひんしゅくを買ったり、笑われたりしますが、
昭和世代の人たちは、受験でも仕事でも、
「ねたら負け」神話に洗脳されていました。
僕も21世紀のはじめ頃までは、夜中、
いつもふらふらになりながら仕事をやっていました。
「俺は徹夜でやっている!」
「みんな、徹夜でがんばろう!」
テレビ・イベント・映像制作などの職場だったので、
そんな空気が社内に充満し、
おかしな自己満足と、一種のイベント感がありました。
若かったので、それなりに楽しかったのですが、
もちろん、今はもう無理です。
マインドセットが「ねないでガンバレ」から
「ねなきゃダメダメ」に変わったのは、割と最近。
ここ10年ほどか、
せいぜい平成後半からではないでしょうか?
睡眠の重要さは、さかんに唱えられるようになりましたが、それに付随して、
夢の重要さが語られることはあまりありません。
夜でも明るくなった現代、とくに都市部では、
世界の半分、人生の半分が夜であること、
さらにその大半である睡眠時間は、
自分の意識を離れた夢の世界であることは
忘れられがちです。
夢から文学や芸術を生み出す人がいます。
夢から仕事のヒントを得るひとがいます。
夢から自分の運命を考え、人生を変える人もいます。
昔の人はかなり「夢のお告げ」
みたいなものを重要視しました。
そう考えると、
昼間の仕事や生活に閉塞感を感じている人は、
もっと夢みることを大切にしていいのではないかと
思います。
それにいい夢を見ると、
単純に幸福で元気な気持ちになれますよ。
そんな思いから書いた「いい夢を見る方法」をはじめ、
何をすれば人生楽しくなるか、
世の中がちょっとは面白くなるかについて、
自身のブログで綴った36のエッセイを電子書籍にしました。「生きる」をテーマにしたシリーズの第6弾です。
読めば、人生がちょっと元気に、楽
しくなるかもしれません。
本日1月20日から発売。
おりべ まこと 電子書籍新刊
「昨夜よりもっといい夢を見る方法」
AmazonKindleから発売中。¥360
「生きる」をテーマにしたエッセイ第6集。
人生の半分は夜。だったらもっといい夢みなきゃな。
そう思ったら読んでみてほしい。
生きるのが楽しくなる36のエッセイ。
ブログ「DAIHON屋のネタ帳」
2022年9月から23年末のなかから抜粋。
●もくじ
・愛妻家・愛夫家は人生の成功者?
・「芝浜」と女落語家
・名古屋の母と母校の話
・入学祝いはやっぱり桜
・百年生きるホモサピの世界はこれから
・リンゼイ・ケンプのダンスの記憶
・これからどうやって旅に出るか?
・自分の未来、世界の未来、子どもの未来
・母の日・父の日に感謝のプレゼントなんかいらない
・ときにはダンゴより花
・4630万円の振り込み
・なぜ宝くじに当たるとほとんどの人が破産するのか?
・井上ひさしと笑いについて
・人生は長くて短い
・「南の島でのんびり」なんてFIREしなくてもすぐできる
・潮騒の音楽を楽しむための海
・アナログマジックの残暑お見舞いとデジタル発信の効用
・いい夢を見る方法
・なぜ30年前のトレンディードラマには
お彼岸が出てこなかったのか?
・親より先に死んではいけません
・余命7年で行こう
・女じゃなくなる恐怖
・おとなの言うことなんか聞かなくても 人生、春は来る。
・おすすめ本「なんで家族を続けるの?」
・こっそりカメ走
・人生は地中に埋もれた化石のようなもの
・アーカイブ世代のクロニクル研究
・なぜ名古屋人は福井・鯖江産の純金製メガネを買うのか?
・ロンドンライフと労働・カネ・芸術の話
・9月15日はロージンの日?
・お祭リベンジ
・同窓会の話
・地球の重力に逆らうべからず
・地球家族の「争族」を辞めさせるための宇宙人待望論
・京都で考えた観光立国ニッポンの生き方
・美しきニューヨークのカレンダー 全36篇
おりべ まこと 電子書籍新刊
「昨夜よりもっといい夢を見る方法」
1月20日、AmazonKindleから発売予定。¥360
「生きる」をテーマにしたおりべまことエッセイ第6集。
人生の半分は夜。だったらもっといい夢みなきゃな。
そう思ったら読んでみてほしい。
生きるのが楽しくなる36のエッセイ。
ブログ「DAIHON屋のネタ帳」
2022年9月から23年末のなかから抜粋。
●もくじ
・愛妻家・愛夫家は人生の成功者?
・「芝浜」と女落語家
・名古屋の母と母校の話
・入学祝いはやっぱり桜
・百年生きるホモサピの世界はこれから
・リンゼイ・ケンプのダンスの記憶
・これからどうやって旅に出るか?
・自分の未来、世界の未来、子どもの未来
・母の日・父の日に感謝のプレゼントなんかいらない
・ときにはダンゴより花
・4630万円の振り込み
・なぜ宝くじに当たるとほとんどの人が破産するのか?
・井上ひさしと笑いについて
・人生は長くて短い
・「南の島でのんびり」なんてFIREしなくてもすぐできる
・潮騒の音楽を楽しむための海
・アナログマジックの残暑お見舞いとデジタル発信の効用
・いい夢を見る方法
・なぜ30年前のトレンディードラマには
お彼岸が出てこなかったのか?
・親より先に死んではいけません
・余命7年で行こう
・女じゃなくなる恐怖
・おとなの言うことなんか聞かなくても 人生、春は来る。
・おすすめ本「なんで家族を続けるの?」
・こっそりカメ走
・人生は地中に埋もれた化石のようなもの
・アーカイブ世代のクロニクル研究
・なぜ名古屋人は福井・鯖江産の純金製メガネを買うのか?
・ロンドンライフと労働・カネ・芸術の話
・9月15日はロージンの日?
・お祭リベンジ
・同窓会の話
・地球の重力に逆らうべからず
・地球家族の「争族」を辞めさせるための宇宙人待望論
・京都で考えた観光立国ニッポンの生き方
・美しきニューヨークのカレンダー
今朝はとても美しい夢を見てめざめた。
最近、何かいいことあったっけ?
と振り返ってみたが、特に思いつないので、
未来方面に目を向け、近々いいことがあるのかな?
と期待してしまう。
たかが夢でこんなに良い気分になるなんて、
ほとんど記憶がない。
もしかしたら人生を変える夢になるかもしれないと、
ちょっと大げさなことまで考えた。
そして「良い夢を見る方法」
なんてものがあるのだろうかと思って、
学者・研究者のサイトを検索してみたが、
とくにそういうものはないようだ。
強いていれば悩みごとを抱え込まないとか、
良い睡眠をとるとか、
その程度のごくごく当たり前のことしか書かれていない。
「良い睡眠をとる方法」と
[良い夢を見る方法」とは別だと思う。
記憶がどうこう、潜在意識がどうこうなど、
いろいろ説明はできるようだが、
結局、科学的に解明できないし、
メソッドなんて誰も編み出せない。
だから夢は面白い。
そこで今朝の夢を参考に、
自分で「良い夢を見る方法」を考えてみた。
・自分にウソをつかないこと。
・ある程度、人を慮って丁寧に接すること。
・好きなものは好き、面白いものは面白いと、
声に出したり、紙に書き出したりすること。
・自分を見失わないよう、
いつも、できるだけ心の中を整理整頓しておくこと。
要は本来の自分を大切にして、自分らしく生きるという、
ごくありきたりのことばっかりだけど、
夢が人生を映し出すとすれば、こうなるのだと思う。
夢は潜在意識からの贈り物だ。
潜在意識は、無意識の領域の一部であり、
無意識は個人的なもののほかに「集合的無意識」がある。
個人の経験による無意識よりも深く、
太古の時代からの無数の人々の
体験や記憶などが含まれており、
夢や神話の起源とも考えられている。
そして、過去ばかりでなく、
未来の誰かが体験する記憶であるとも考えられる。
僕たちは、人類、さらには地球の、
何百年か何千年か何万年か続く、
ストーリーの一部になっているのかもしれない。
眠りの中でそうしたストーリーの断片を時々、
見ているとしたら、
夢の世界にはもっと可能性が見いだせるだろう。
もうすこし経って、また科学が進歩し、AIが進化したら、
そうした夢の研究が進み、解析が行われるかもしれない。
そして、国家とか、企業とか、財閥とかの支配層が、
最後に残されたフロンティアを開拓するために、
「ためになる夢、役に立つ夢、利用しがいのある夢」
を見るメソッドを開発し、
ドリームマシンみたいなものを作り出して、
夢を征服しよう・管理しよう・搾取しようと
するかもしれない。
——という夢の話、というかSF的妄想もふくらんでくる。
でも願わくば夢は夢として、
「ああ、良い夢みたな」と楽しくなって、
後は忘れてしまいたい。
いずれにしても良い夢、
美しい夢を見られることは幸福なこと。
あなたも初夢だけでなく、
年中たくさん良い夢を見られますように。
おりべまこと電子書籍新刊
エッセイ集「生きる」シリーズ6
「良い夢を見る方法」
1月20日(月)AmazonKindleより発売予定。¥300
今日は義母の90歳の誕生日でした。
90歳の長寿祝いは「卒寿(そつじゅ)」です。
由来を調べてみると、
卒の字の略字「卆」が九十と読めるからと、
ダジャレみたいなことをもっともらしく書いてありますが、
いやいや、やっぱり「そろそろ人生卒業ですよ」
という意味だとしか思えません。
だって、そもそも「卒」という字を使っているんですから。
「卒」とは終わるっていう意味ですよ。
60歳の還暦で赤いちゃんちゃんこを着るのは、
もう一度、赤ちゃんに返って
人生やり直すというという意味が
含まれているとのこと。
そこから30年経って再び成人し、
卒業して今度はどこに行くのでしょうか?
ちなみにこの後の長寿祝いは、
99歳の「白寿(はくじゅ)」。
百から一を引くと「白」になることに由来。
なんて、これまた、ほとんどダジャレ。
白紙に戻るということでしょうか?
僕は「あしたのジョー」の
「まっ白な灰になっちまったよ」
というセリフを連想しました。
正式には白と紫の帽子とちゃんちゃんこを着るようです。
天台宗の坊さんは、いちばん下っ端は赤い袈裟で、
位が上がるにつれて、色が変わっていくのですが、
白とか紫の袈裟は、たしか、かなりの高僧です。
あの衣装の習わしはそこから来ているのでしょうか。
本人は認知症で何もわかっていないので、
さすがにそんな儀式などやらず、
お昼に助六寿司をごちそうしてお祝いしました。
生の魚が嫌いなので、お寿司は安上がりな
いなり・巻きずし・玉子しか食べません。
お誕生ケーキは成城石井のチーズケーキ。
これはどっちかというと、僕とカミさんが好物なので。
食べたらいつものように公園を散歩。
認知症でもまだまだ食べるし、歩けるし、
道行く人・犬・子どもに笑顔をふりまくことができる。
今日も「パーフェクト・デイ」。
人生卒業はもうちょっと先だと思います。
青く晴れわたった空を見ていると、
なぜか胸が切なくなり、涙が出てくる。
歌だったか、小説だったか、忘れてしまったが、
誰かがそんなことを書いていた。
ヴィム・ヴェンダーズ監督、役所広司主演の映画
「パーフェクトデイズ」の感想を一口で言うなら、
そんな映画だ。
たんにエンタメとして楽しませてくれるよりも、
いろいろなことを考えさせてくれるのがいい映画、
あるいは、きょうはそういう気分になっている
人にとっては、これほどいい映画はない。
役所広司演じる主人公は、トイレの清掃員・平山。
朝、夜明け前に起き出し、支度して仕事に出かけ、
終わると安い飲み屋で一杯ひっかけ、
夜はふとんで本を読んで寝る。
その単調な生活、同じような毎日の繰り返しを淡々と描く。
周囲の人たちとの、小さなエピソードはいくつかある。
そして、彼が毎朝、若木に水をやったり、
公園の木々の写真をフィルムカメラで撮ったりする描写も、
そうした命を愛する人だということを伝える。
しかし、それだけだ。
平山の生き方を変えてしまうような劇的な展開、
物語らしい物語はいっさいない。
テーマらしいテーマもないように見える。
でも、僕はこの映画の秘密めいたテーマを見つけた。
まだ序盤のあたり、同じ清掃員仲間の若い男が
平山の丁寧な仕事ぶりをちょっとくさすように、
「どうせ汚れるんですから」という。
トイレだから当然だ。
どうせ汚れるのに、汚されてしまうのに、
どうしてそんなに一生懸命になって掃除するんだ。
僕もそう思う。
きっと誰もが、若い男のセリフを借りれば、
「10人のうち9人は」、いや、もしかしたら10人が
そう思うと思う。
誰もが豊かで便利で平和に生活できる、この社会では。
「どうせ汚れるのに、どうして一生懸命掃除するのか」
これは言い換えれば、
「どうせ死ぬのに、どうして一生懸命生きるのか」
につながる。
平山はきっとそうしたことを考えながら、
毎日のトイレ清掃に励んでいる。
それがどんな仕事でも、
ていねいに仕事をすることは、
ていねいに生きることにながる。
ていねいに生きれば、一日一日がきれいに輝く。
そんなメッセージが流れている。
平山は現代社会に取り残されてしまったような人だ。
孤独だし、もう若くないし、カネも持っていなさそうだ。
スマホもパソコンも使わなければ、
ボロアパートの部屋にはテレビさえ置いていない。
車は持っているので、ラジオは聴くかもしれないが、
彼がラジオを聴くシーンは出てこない。
車内で聴くのはもっぱら古いカセットテープ。
1960年代から70年代の音楽だ。
彼の年齢は60歳前後と察せられる。
要は、学生だった40年ほど前の時代と
ほとんど変わらない生活を送っているのだ。
そんな取り残され、落ちこぼれた、
高齢者に近い孤独な男だが、
なぜか周囲の人たちを励まし、
元気づける存在になっている。
先述の若い男もそうだし、
その男が好きになった女も平山にキスをする。
極めつけは、中盤で彼のアパートにやってくる姪だ。
高校生らしき彼女は、伯父である平山を慕って、
仕事についてきたり、いっしょに銭湯に行ったりする。
この姪との会話のなかで、平山は、
「みんな一緒の世界に住んでいるようで、
じつは別々の世界に住んでいるんだ」
といった意味のことをいう。
彼のバックストーリーは一切語られないが、
この姪を連れ戻しに来た母親=彼の妹との短い会話は、
平山の人生を想像させる。
妹は高級そうな車に乗っており、
彼とは段違いの裕福風な暮らしを送っていることが
見て取れる。
また、彼の父親は高齢で認知症らしく、
施設に入っているようだ。
実家はかなりの資産家で、
長男である平山は、父の生き方に反発し、
家を出たまま、齢を重ねてしまったのかもしれない。
妹とは同じ家庭で育ちながら、
互いにまったく違う価値観を持った人間になってしまった。
けれども、きょうだい仲は悪くない。
姪の家出もそんなに深刻なものではなく、
母親に素直に従って帰っていく。
けれども彼女にとって、伯父の持っている世界は、
一種の憧れに満ちた世界として映っている。
この姪や、仕事仲間の男、そのガールフレンドらは、
みんな若く、軽やかに、
面白おかしく生きているように見える。
けれどもその裏側に漂う切なさは何だろう?
彼女らは、平山の存在に何を感じていたのだろう?
それはきっとこういう予見だ。
わたしも、おれも、いずれ齢を取り、死ぬ。
それまでどう生きればいいのか?
そうした思いにあまり齢は関係ないのかもしれない。
映画の終盤、彼が最後に励ますのは、
行きつけの飲み屋のママのもとを訪れた男である。
平山と同年代らしいこの男は、ママの元夫で、
ガンでもう寿命があまりない。
それで別れた妻に最後に会いに来たという経緯だ。
「結局、何もわからないまま終わっていく」
という男のセリフは胸に刺さる。
そんな男をやさしく励ます平山のふるまいは、
ひどく感動的だ。
平山の人生はこの先、劇的に展開する気配はなく、
きっと彼はこのアパートの一室の片隅で、
野良猫のように一生を閉じるのだろう。
社会に置き去りにされた、底辺のエッセンシャルワーカー。
高齢者に近い孤独で無口な男。
そんな彼の存在にも価値がある。
1本1万円で売れる、
聴きつぶした中古のカセットテープのように。
彼の人生は輝いている。
一日一日がパーフェクト・デイ=完璧な日だ。
このタイトルは、ルー・リードが、
1972年に発表した同名曲から取ったものだろう。
晴れわたった青空を想起させるような、
美しいが、ひどく物悲しい旋律に乗せて、
意味深な歌詞が繰り返される。
Just a perfect day
ただただ完璧な一日
You just keep me hanging on
君は僕をかろうじて生かしてくれている
You're going to reap just what you sow
自分の蒔いた種は、すべて刈り取らなくてはいけない
2023年のカンヌ映画祭など、
世界的に評価された作品であることは
あまり意識せず、
素直にありのままの気持ちで見た方がいい。
そうでないと、この映画の真価は見えてこない。
ヴェンダースの作品はむかし何本か見たが、
若い頃の自分にとっては退屈だった。
たぶんヴェンダース映画を見るのがイケてる、
カッコいいといった意識が入っていたからだろう。
これはシニアの自分には面白く見られたが、
若い人には退屈かもしれない。
でも、自分の目で見てほしいと思う。
「ベルリン天使の詩」「パリ、テキサス」など、
かつてはつまらないと思ったヴェンダース作品も
齢を取った目でもう一度、見てみたいと思う。
新しい何かを発見できるかもしれない。
年明け間もなく話題を提供してくれた中居正広君の
9千万円示談金問題。
事実関係がよくわからず、
例によって憶測ばかりが飛び交って、
たぶん2月になる頃には、
みんな忘れてしまうだろうから一切触れませんが、
それよりちょっと気になったのが、
彼が所属してたSMAPの歌のこと。
年末のテレビにおいて恒例のように、
あちこちのチャンネルで懐メロ特集をやっていましたが、
ゼロ年代、国民的流行歌と言われた、
SMAPの「夜空ノムコウ」や
「世界に一つだけの花」がまったく出てこない。
なんだかあのグループ、あのヒット曲の数々が
エアポケットに落っこちて、
この世から消え去ってしまった感じでした。
いや、いろいろ権利の問題があるのは知っています。
そして、天下御免だったジャニーズ事務所が
あんなことになってしまった今となっては、
とてもテレビでは放送できないのでしょう、きっと。
けれども僕たちのようないい齢をしたおとなはともかく、
当時、SMAPの歌(或いは嵐など、
他のジャニーズグループの歌)を
聴きながら育った世代の子どもたち・若者たちの心情は
どうなるのでしょうか?
とくに「世界に一つだけの花」などは、
学校をはじめ、全国さまざまな地域イベントなどで使われ、語られ、彼らの子ども時代・青春時代の記憶とも
強く結びついているはず。
それが一切なかったことにされてしまうのは、
なんとも寂しいこと・悲しいことだと言わざるを得ません。
テレビや芸能界のルールとやらは、
そうした人びとの思い出や、
あの時、音楽がもたらした感動をチャラにしてしまうほど、ご大層なものなのか?
これでは若者はテレビにそっぽを向くわけだ、
と思わざるを得ず、考えれば考えるほど、
腹立たしくなりました。
「おとなの事情」なんてくそくらえ!
もっと懐メロを大事にしろ!
そんなわけで、AmazonKidleから
電子書籍「週末の懐メロ」全6巻を出版しています。
これは、2000年10月からブログ「DAIHON屋のネタ帳」で
3年半にわたって連載した文章をまとめたエッセイ集。
20世紀の、自分の好きなミュージシャン・楽曲について、
個人的な思いや体験、
あるいはその曲を聴いていた時代の状況、
当時のロック・ポップミュージック、
日本の歌謡曲やニューミュージックを取り巻く状況などを好きなように書き綴ったもので、1960~90年代の音楽を体験した人にとっては面白く読めるのではないかと思います。2000年リリースの「夜空ノムコウ」についてもスガシカオの楽曲として、第5巻に載録しています。
また、旧世代にだけでなく、
20世紀当時を知らない若い世代にとっても
きっと面白いに違いないと自負しています。
いまや 年代関係なく、インターネットを通して、
20世紀のポップ・ロック・歌謡曲などを
みんなが楽しめる時代になりました。
僕の20代の息子もキング・クリムゾンや
ブラック・サバスを聴いています。
僕よりよほど精通した、ロック博士みたいな若者もいます。若い人たちもネットでいろいろ調べて、
聴いて、懐メロを楽しむ時代。
その参考書、ガイドブックとしても、
役に立ててほしいと思っています。
ペットロスによって人生観が変わった
という人の話を聞いた。
飼っていた柴犬が目の前で車に跳ねられたという。
話によると、散歩中、首輪がすっぽ抜けてしまい、
その犬が走り出した。
彼は追いかけたが、犬は面白がってグングン走り、
大量の車が行き交う大通りの交差点に飛び出した。
信号は赤。車が停まれるはずがない。
衝突した瞬間、犬は空中に高くはね上げられた。
歩道にいた彼の視界からは、交差点の風景は消え、
空の青をバックに、スローモーションで踊るように3回、
からだが回転する犬の姿だけが見えていたという。
「僕、赤信号渡ってましたね。
よく自分も跳ねられなかったと思います。
道路に落ちた犬を抱き上げました。
病院に連れて行こうと思って、
まず家に帰ったんですけど、
ちょうど玄関までたどり着いた時に、かくって死んだ。
よくドラマなんかで「かくっ」って死ぬでしょ。
あれだったよ。かくっとなってね。
口からすんごい色の血が出てきて」
この飼い主というのは、坊さんだ。
お寺の坊さんなので、それまで葬式や法事でお経を唱え、
何百回とご供養のお勤めをしている。
しかしというか、だからというか、
死は坊さんにとっては日常的なことであり、
他人事でもある。
ビジネスライクになっていたところは否めない。
けれども、犬の死はこの坊さんに大きな衝撃を与えた。
彼は精神的におかしくなって仕事が出来なくなり、
本山に行って一週間、
引きこもり状態で法話を聴き続けたという。
「あんなに真剣に、
仏様についての話を聞くことはなかったです。
そのきっかけを犬がくれましたね。
だから僕は仏様が犬の姿となって現れて
僕をまとも坊主に導いてくれたんだと今でも思ってます」
彼は今、自分の寺を持ち、
そこにはペットロスの人たちが自然と集まってくる。
ペットが死んだからと言って、
誰もが彼のような経験をすることはないと思うが、
それでもペットロスがきっかけとなって、
人生観・死生観が変わるといった話は時々聞く。
いっしょに暮らす、命ある生き物は、
僕たちが通常送っている
人間の社会生活とは違った角度から、
生きること・死ぬことについて、
考えさせてくれるのは確かなようだ。
死について考えることは、
よりよい生について考えること。
Deathフェス|2025.4.12-17 渋谷ヒカリエで開催
「死」をタブー視せずに人生と地続きのものとして捉え、
そこから「今」をどう生きるかを考える 。
新たに死と出会い直し、
生と死のウェルビーイングを考える「Deathフェス」を、
毎年4月14日(よい死の日)を中心に開催。
1月4日:篠山紀信(83)写真家
1月16日:庄司歌江(94)漫才師
2月6日:小澤征爾(88)指揮者
2月20日:山本陽子(81)俳優
3月1日:鳥山明(68)漫画家
3月4日:TARAKO(63)声優
3月14日:寺田農(81)俳優
4月8日:宗田理(95)作家
4月10日:曙太郎(54)力士
4月21日:フジ子・ヘミング(92)ピアニスト
4月26日:桂由美(94)デザイナー
5月2日:小山内美江子(94)脚本家
5月4日:唐十郎(84)劇作家
5月16日:中尾彬(81)俳優
5月27日:今くるよ(76)漫才師
6月9日:久我美子(93)俳優
7月4日:赤塚真人(73)俳優
7月26日:園まり(80)歌手
8月1日:桂米丸(99)落語家
8月28日:宇能鴻一郎(90)作家
9月3日:ピーコ(79)タレント
9月29日:大山のぶ代(90)声優
9月30日:山藤章二(87)イラストレーター
10月4日:服部幸應(78)料理評論家
10月17日:西田敏行(76)俳優
10月23日:せなけいこ(91)絵本作家
10月25日:楳図かずお(88)漫画家
11月12日:北の富士勝昭(82)力士
11月13日:谷川俊太郎(92)詩人
11月14日:火野正平(75)俳優
11月15日:崇仁親王百合子(101)皇族
12月6日:中山美穂(54)俳優
12月9日:小倉智昭(77)フリーアナウンサー
12月19日:渡辺恒雄(98)実業家
昨年(2024年)亡くなった著名人を書き出してみた。
上記は僕が知っている人たちだが、
どの世代の人も、このうち半分くらいは
ご存知なのではないだろうか。
彼ら・彼女らの活動・作品・発言・パフォーマンスの数々は、
僕たちの心の形成に何かかしらの影響を及ぼしてきた。
少なくとも何十年も会っていない親戚よりは、
かなり身近に感じるはずだ。
テレビなどで、このように
身近に感じて来た人たちが亡くなるたびに、
僕たちは、日本が超高齢化社会であるとともに、
超多死社会であることを思い知る。
死について考えることは、
よりよい生について考えること。
Deathフェス|2025.4.12-17 渋谷ヒカリエで開催
「死」をタブー視せずに人生と地続きのものとして捉え、
そこから「今」をどう生きるかを考える 。
新たに死と出会い直し、
生と死のウェルビーイングを考える「Deathフェス」を、
毎年4月14日(よい死の日)を中心に開催。
暮れから正月にかけて、足掛け1週間、
息子が泊まっていった。
別々に暮らすようになって以来、
こんなに長くいたのは初めてだ。
元旦が映画の日だから、ということで、
一人で池袋に「マッドマックス怒りのデスロード」と
「地獄の黙示録」を観に行ったのと、
昨日(4日)にいっしょに初詣に行った以外は、
家でゴロゴロしていた。
うちをリゾート施設扱いしているのかもしれない。
ずいぶん安上がりなリゾートだ。
その代金というわけではないが、
自分ではなかなかアプローチしない
マンガのこと、小説のこと、映画のことなど、
若い世代のトレンド的なものについて、
いろいろ教えてもらった。
会うたびにそういう話をして、
彼のおすすめをあれこれ見たり読んだりするのだが、
いつもなかなか消化しきれない。
今年こそはと思い、
本はいくつか手配したが、
どこまで読めるか。
今日の昼飯を食って帰ったが、
しばらくいっしょにいたので、
なんだかちょっと寂しくなった。
かといって、すっかり大人になった息子に
帰ってきてほしいとは思わない。
子供に戻ってもらっても困るし。
ただ、齢を重ねた親というのは、
こういう微妙な気分も味わうのだぁなと、
しみじみした。
というところで今年の正月はお終い。
「勝手ながら今年で年賀状を卒業させていただきます」
今年も何枚か、年賀状でこうした文面を見かけた。
ふだん、オンライン上でやりとりはしていないが、
連絡を取ろうと思えば、いつでも取れる人なので
いいと言えばいい。
べつに腹を立てるとか、いやな気持になるとか、
そういうことではないのだが、
それでも正直、ちょっと胸の中がモヤっとする。
どんな心境の変化だろう?
何か彼・彼女の身に何かあったのだろうか?
たしかにハガキ代は値上がったが、
そこまで節約しなくてはならないほど、
経済が困窮しているのか、
いやいや、まさか・・と、
あれこれ、どうでもいいことを考えてしまう。
「虚礼廃止」ということか。
僕は最初から義理立てするために
年賀状なんか出していないので、
「虚礼」をしているつもりはない。
仕事上の交流がなくなった人とは、
自然にやりとりもやめたし、
いまだ出しているのは、
やっぱり年一度は挨拶しておきたいなと
思う人ばかりである。
なので、ノリとしては中学生や高校生の時と変わらない。
あの頃の年賀状はすごく楽しくて、ワクワクした。
いかにもガキっぽい、面白い絵柄と文面は
50年以上経った今でもはっきり覚えている。
好きな女の子から来た年賀状はずっと大事に取っていた。
「お正月は○○神社で巫女さんのバイトやってます」と、
可愛いイラストを付けて書いてあった。
(家が遠かったのでその神社には行かなかったが)
そう考えていくと、
卒業宣言した人たちは、
僕とのやりとりも「虚礼」と捉えていたのかなと思う。
たぶん、それが「モヤっと」の正体だろう。
確かに、10年どころか、20年、30年、
一度も会っていない人もいた。
別に彼らを責める気はない。
僕の方が勝手にモヤっとしているだけだ。
それによくよく考えると、20代の頃は
ほとんど自分から出していなかった。
ちゃんと毎年出すようになったのは30代からだ。
いや、もしかしたら結婚してから、
子供が出来てからかもしれない。
よく憶えていない。
一時期は可愛い子供の写真、
幸せそうな家族の写真の年賀状がいっぱい来ていたし、
僕も息子が中学のころまでは
カミさんと息子と3人で撮った写真を
年賀状にして出していた。
あれっていま思えば、同じ立場の人たちはともかく、
そうでない人たちにとっては
かなり鬱陶しかったのかもしれない。
それに最近は個人情報開示のリスクが大きいので、
ああいうファミリー年賀状はヤバイのではないかと思うが、
小さい、可愛いお子さんをお持ちの方は
どうしているのだろう?
そして、もうこの世にいない人の年賀状も、
彼らの顔つきで何枚か思い出した。
去年が最後になってしまった友だちもいる。
長く生きていると、年賀状ひとつをめぐって、
あれこれ考えることがたくさんある。
年賀状文化の終わりということなのだろうか?
だからと言って寂しがっているわけではないが、
時代の移り変わりの一つの表れであることは確か。
LINEやメールなどで送られて来る
デジタルなご挨拶でも、
何十年か後、こんなふうに、
あれこれ思い出すことがあるだろうか?
と、ふと考え込んでしまった。
義母を初詣に連れていく。
出かける前、靴下がはけないと言って騒いでいるので、
見に行ったら、なんと、手袋を履こうとしている。
そりゃ履けるわけないよ!
新年初笑い劇場か。
と、お正月スペシャルボケをかましてくれた。
都内有数、皇室御用達でもある大宮八幡宮が近いので、
義母もいっしょに行っていたのだが、
この数年、とくに昨年夏、肺炎ぽくなって
1週間入院してからは、さすがに以前ほど歩けなくない。
近いと言っても、年寄の足だと30分近くかかるので、
代わりに半分程度の距離の尾崎熊野神社に詣でる。
こちらは大賑わいの大宮八幡宮と比べると、
規模も人出も1割、2割程度。
僕ったちが行った10時過ぎは
ほかにほとんど人がおらず、
お参りの後、二人でベンチに座って日向ぼっこをしていた。
今日は日中はぽかぽか陽気で、
帰りもあちこちで坐って日向ぼっこしていたので、
結局2時間も散歩していた。
これもまたお正月スペシャルということで。
あけましておめでとうございます
年初の目標は「18歳になって生きる」。
どれだけジタバタしたところで、
今年から「高齢者」と呼ばれる齢になってしまう。
なのでこの際、自分を洗脳することにした。
ただし、体力も感受性も半減どころか、8割減。
そして、カネもうけ主義と
魑魅魍魎渦巻くネット情報に
すっかり脳をやられてポンコツになっている。
そんなありさまなので、
言い換えれば、きょう「18歳でいよう」
と決めたことを
どこまで維持できるかが今年の目標になる。
具体的には、小説4作を含め、
月1で電子書籍を出して行く。
さらに小説については、
声優さんと組んでオーディオブックを出したい。
あとは昨年、100冊本を読んだ息子を先生にして、
19世紀文学の探究と、
最近のマンガの探究をしていきたい。
いつまでも昭和や懐メロで心を癒していられない。
新しい世界の探究も今年のテーマだ。
そして昨年の政治情勢、国際情勢、
名のある文化人・芸能人・芸術家らの多くが
他界したことを考えると、
今年はまた、時代の大きな変化があるだろう。
さすがに「老害」が退潮の兆しを見せている。
なんとなく18歳の時のわくわくした気持ちが
お腹の奥でうずくのを感じる。
いろいろ面白くなりそうだ。
ということで、とりあえずは
来週までに年末に取材した会社の
ホームページのテキストを仕上げる予定。
18歳でも生活は着実に。
今年もどうぞよろしくお願いいたします。
今年は長編・中編、1作ずつの小説を出版。
2025年は書きかけの長編、
プロットを用意してある長編のなかから2作、
新しいアイディアの中短編を2作リリース予定。
エッセイ集は「週末の懐メロ」全6巻完結。
昭和99年は「昭和99年の思い出ピクニック」刊行。
その他、「食べる」「生きる」「動物」シリーズも。
2025年は「AI」「認知症」「エンディング」など
リリース予定。
そして締めくくりは「昭和100年の思い出ピクニック」。
新設ノンフィクションシリーズ
「市井の賢者(仮題)」を1月か2月にリリース予定。
2025年も書いていきます。
また読んでくださいね。
●今はまだ地球がふるさと
https://amazon.co.jp/dp/B0CW1FWZ59
●花屋のネコの大いなる任務
https://amazon.co.jp/dp/B0DPCN144Z
●週末の懐メロ第6巻
https://www.amazon.com/dp/B0CW1KKHXL
●昭和99年の思い出ピクニック
https://www.amazon.co.jp/dp/B0CWG58MCQ
クリスマス前から年内UPの仕事に追われ、
なんとか完了。
年賀状も書き終え、大掃除も本日昼過ぎに終えた。
豆を煮て、花を飾ったところへ、
夕方、息子がお年賀を持ってやってきた。
やれやれ、やっと落ち着いて正月を迎えられる・・・
と思って義母の帰りを待っていた矢先、
デイサービスのスタッフがひとりで来て、
「すみません。車から降りないんです」。
驚いて見に行くと、
がんとして後部座席に座ったままの義母。
「さあ、いっしょに晩ごはん食べよう」
と言っても、心を開かない。
仕方なく、スタッフがひと回りして戻ってくると、
やっと応じて車を降りた。
その後はいつもと変わることなく、
いっしょにご飯を食べて床に就く。
食欲に支配されているので、
ふだんは家にいない息子(彼女には孫)が
来ていることにも頓着しない。
というか、そもそも気付いていない。
じつは2日前、別のデイサービスの帰りでも
同じことがあった。
これまでいっしょに暮らして5年半、
こんな振る舞いは一度もなかったのだが。
どういう心の動きがあるのだろうか?
1年が終わることをどこかで察知して、
無意識のうちに不安になっているのだろうか?
認知症の不思議な現象は、どこからともなく降ってくる。
今年も天才クラフトワーカーから
クリスマスカードが届いた。
今回のは一段と手が込んでいて、
かわいい靴下は本物の手編み。
いつも数十通、こんなのを送っているという。
彼女にはお返事として、毎年必ず年賀状を送る。
今年は郵便料金が値上がったこともあって、
「年賀状じまい」が加速しているらしい。
まさか、まさかの事態。
年賀状文化の崩壊が始まっている。
でも、SNSやLINEを使った年賀の挨拶と
年賀状とは、ずいぶんニュアンスが違う。
しばらく会ってない人、
ふだんは頭の中に存在していない人から
いきなりスマホに届く「おめでとう」には
戸惑いや怪訝な感じ(勧誘・商売の伏線?とか・・・)
を覚える。
仕事でデジタルはいいが、
正月の挨拶はやっぱりアナログであってほしい。
その点、年賀状だと違和感がない。
ああ、まだ生きてるな、
まだ彼(彼女)と繋がっているんだな、
という安堵感・安心感を覚える。
たしかに形式だけのやりとりならいらないと思うが、
SNSで連絡を取り合うほど
密な交流はしたくないけど、
なんとなく自分の人生のどこかにいて欲しい人とは
正月だけでも「おめでとう」と紙面で挨拶したい。
というわけで、クリスマスが済んだら、
あっという間にお正月。
これから年賀状書きます。
おりべまことの電子書籍
現代を生きる大人に贈る童話
花屋のネコの大いなる任務
無料キャペーンは、本日16:59をもって終了しました。ご購入いただいた方、ありがとうございます。よろしければレビューをお寄せください。同書は引き続き、AmazonKindleにて¥500で販売中。年末年始のあなたの心にプレゼント。
おりべまことの電子書籍
現代を生きる大人に贈る童話
花屋のネコの大いなる任務
一人で店を切り盛りする花屋の女主人と、
彼女のために大いなる任務を果たす保護猫の物語。
無料キャンペーン間もなく終了。
12月23日(月)16:59まで。
さあ、急がニャいと。
自分へのクリスマスプレゼントにどうぞ。
夢をかなえたあとも、
成功を果たしたあとも、
欲しい物をすべて手に入れたあとも、
まだまだ人生は続く。
夢に届かない人も、
失敗して転んだ人も、
何も手に入れられない人も、
まだまだ人生は続く。
あなたがどっちか知らないけど、
いっしょに旅をするおともがいれば、
まだまだ人生続けられる。
現代を生きる大人のための童話
花屋のネコの大いなる任務
12月23日(月)16:59まで
無料キャンペーン開催中。
夢をかなえても、
成功を果たしても、
欲しい物をすべて手に入れても、
むなしかったり、涙が出たりする。
そんなあなたの心を満たす“ねこ”は、
どこにいますか?
現代を生きる大人のための童話
花屋のネコの大いなる任務
https://www.amazon.co.jp/dp/B0DPCN144Z
12月23日(月)16:59まで
無料キャンペーン開催中。
おりべまこと電子書籍最新刊
おとなも楽しい少年少女小説
「花屋のネコの大いなる任務」
本日より6日間無料キャンペーン開催中。
12月23日(月)16:59まで。
一人で店を切り盛りする花屋の女主人と、
彼女のために大いなる任務を果たす保護猫の物語。
クリスマスの賢者の贈り物として、
あなたの胸の本棚に1部いかがかニャ?
●あらすじ
彼女は「お花屋さんになりたい」という
少女時代の夢をかなえた。
今はとある町の小さな花屋の女主人として、
ひとりで店を切り盛りしている。
花に関する豊富な知識、アレンジメントのセンスと技術。
加えて人柄もよく、お店の評判は上々で、
商売はうまいこといっている。
彼女自身も毎日、大好きな花に囲まれて
仕事ができて幸せだ。
ところが、明日は母の日という土曜日の朝、
店の外に出て、びっくりした。
そこに置いてあったカーネーションの花が
ネズミに食い荒らされていたのだ。
ショックを受けた彼女は、
今後、二度と店にネズミを寄せつけないよう、
ネコを飼う決心をする。
保護猫サイトを探すと、
かわいらしい子猫たちにまじって大人のネコがいた。
人間に保護されるまで1年間、
野良猫として生き延びてきた頼もしそうな奴だ。
しかも彼は、オスの三毛猫というレアものである。
女主人は彼を引き取り、
「ダビ」と名付け、自分に言い聞かせた。
「寂しいからじゃない。癒されたいからじゃない。
ネズミよけのためにこのネコを飼うんだ」と。
そして、自分とネコとの関係を明確にするために、
雇用契約を結ぶ。
彼女は仕事の依頼主。
その報酬として彼に食事と寝床を与える。
こうして、花屋の女主人と
三毛猫ダビの暮らしが始まった。
お待ちかね。6日間無料キャンペーン開催します。
12月18日(水)17:00~23日(月)16:59まで。
一人で店を切り盛りする花屋の女主人と、
彼女のために大いなる任務を果たす保護猫の物語。
ふと気が付くと、最近、
女性や女の子が主人個の話ばかり書いている。
この齢になると、男でも女でも、
子供でも大人でもジジババでも、
イヌでもネコでもネズミでも、
なんでも自由自在に変身できる。
お待ちかね。6日間無料キャンペーン開催します。
12月18日(水)17:00~23日(月)16:59まで。
一人で店を切り盛りする花屋の女主人と、
彼女のために大いなる任務を果たす保護猫の物語。
花好き、ネコ好きに贈るクリスマスプレゼント。ぜひ。
●あらまし
彼女は「お花屋さんになりたい」という
少女時代の夢をかなえた。
今はとある町の小さな花屋の女主人として、
ひとりで店を切り盛りしている。
花に関する豊富な知識、
アレンジメントのセンスと技術。
加えて人柄もよく、お店の評判は上々で
、商売はうまいこといっている。
彼女自身も毎日、
大好きな花に囲まれて仕事ができて幸せだ。
ところが、明日は母の日という土曜日の朝、
店の外に出て、びっくりした。
そこに置いてあったカーネーションの花が
ネズミに食い荒らされていたのだ。
ショックを受けた彼女は、
今後、二度と店にネズミを寄せつけないよう、
ネコを飼う決心をする。
保護猫サイトを探すと、
かわいらしい子猫たちにまじって大人のネコがいた。
人間に保護されるまで1年間、
野良猫として生き延びてきた頼もしそうな奴だ。
しかもオスの三毛猫というレアものである。
女主人は彼を引き取り、
「ダビ」と名付け、自分に言い聞かせた。
「寂しいからじゃない。癒されたいからじゃない。
ネズミよけのためにこのネコを飼うんだ」と。
そして、自分とネコとの関係を明確にするために、
雇用契約を結ぶ。
彼女は仕事の依頼主。
その報酬として彼に食事と寝床を与える。
こうして、
花屋の女主人と三毛猫ダビの暮らしが始まった。
今年はAIが大きく進化した年だった。
僕も去年まではお遊びで触る程度だったが、
今年は夏場、ちょっとヒマだった時期に
セミナーを受けて、
AIを仕事で積極的に使い始めた。
新しいテクノロジーを肯定するか比例するかは
その人の自由だが、
これだけ世間でAIについて言及され、
いずれ多くのマンパワーがAIに取って代わられる
といった話を聞いていると、
やはりある程度は知っておかないと駄目だ。
ろくに知りもしないで「AIなんか要らない」
と、ただ否定していると、
内心、どんどん不安とストレスが溜まっていく。
これはあまり良くない状態だ。
AIを知り、使い方を身に着けるには、
ただ遊んでいるだけでは不十分で、
やはり実際に仕事で使ってみる必要がある。
というわけで,いろいろ試して、
AIライティングの概要を
つかんでからは、できるだけ、
どんどん使うようにしている。
僕の場合、取材の文字起こし、記事の構成、
リード文の作成、タイトル案の作成などが主な用途だ。
一度完成した原稿をもっとカジュアルに、
若い読者向けに、みたいな指示を与えて
アレンジする場合もある。
小説を書く際に、
対話しながらプロットを書くこともある。
自分がどの程度、
使いこなせているのはよくわからないが、
僕はあまりAIの普及を心配していない。
やっぱり機械は機械なので、使っていると、
いかにもみたいなビジネス文章の文型、
「成長「発展」「拡大「希望」といった、
やたらポジティブなワードを多発し、
きれいにまとめようとする傾向が強いからだ。
いわば「模範解答」みたいな文章ばかりで面白くない。
もちろん、プロンプトで「もっと柔らかい表現で」とか、
「もっと砕けて」とか指示すれば、
代案を出してくるのだが、
何度もやり直しさせるのがめんどくさいので、
結局、自分で書き直すことになる。
でも、AIのNG案を見て、
新しいアイデアがひらめくこともあるので、
AIの作業が無駄とか、使う意味ないとは思わない。
ようは付き合い方しだいだ。
AIは人間より神様に近いかもしれないが、
日本は多神教の国。
神様はヒューマンタッチで愛嬌があって、
ときどき悩んだり、ズッコケたりしている。
だからアトムやドラえもんみたいなマンガも生まれた。
来年以降、AIがどれだけ進化するかはわからないが、
当分の間は、できるだけ、マンガのロボットに見立て、
優秀だけど可愛くて楽しい
仕事の相棒にしていきたいと思っている。
今年はブログで3年半連載した
「週末の懐メロ」を終えて、6冊の本にまとめた。
第1回「5年間/デビッド・ボウイ」から
最終回「オールウェイズ・リターニング/
ブアイアン・イーノ」まで、
国内外を問わず、自分が好きだった
楽曲・ミュージシャンについて
トータル180のエッセイを書いた。
最初は手抜きコンテンツとして始めたのだが、
やっていくうちにどんどん面白くなって、
自分の記憶・当時の時代状況や
音楽雑誌で読んだこと、個人的エピソード、
そして、YouTubeをはじめ、
各種ネット情報などをかけ合わせ、
ネタにした楽曲・ミュージシャンによっては
2千字、3千字におよぶこともしばしばあった。
20世紀の頃には知り得かなった
歌詞の詳しい内容、ミュージシャンの来歴、
その楽曲が生まれたエピソードなども
発見・深掘りできて、毎週とても楽しかった。
あの頃、心を満たしてくれ、
神秘の世界・感情の世界に誘ってくれ、
普通に生きているだけでは感じられないものを
体験をさせてくれた20世紀の
ロック・ポップカルチャーに感謝の念が尽きない。
人間が生きている限り、
音楽がこの世からなくなることはないが、
栄華を極めた音楽産業は、
この先、衰退の一途を辿るだろう。
今後はAIが進化して、誰でも簡単に、
いくらでも良い曲がつくれると言われている。
しかし結局、
それらはこの20世紀ロック・ポップカルチャーの
膨大なデータがあるからこそ生まれるものだ。
1950年代~90年代の天才たち、
そうでなくても、この時代、
幸運にも音楽の神とコンタクトできた者たちの
感性・知性から生まれた音楽の価値は、
これからも、いささかも下がることはないだろう。
アーカイブ文化が発達して、
僕の息子のような若い人たちでも、
僕などよりははるかに
20世紀ロック・ポップカルチャーに
詳しい人たちがいっぱいいる。
そうした人たちの勉強になるようなものではないが、
当時のリスナーの私的な感想・意見を交えた
雑文として読んでもらえたらいいなぁと思っている。
先日、テレビのニュースで
闇バイトに関わってしまった
大学生の母親のインタビューを見た。
印象に残ったのは、同じ家で暮らす家族でも、
一人一人、何をしているのか・考えているのか、
どんな人間と付き合っているか、
まったくわからないという点である。
そんなこと今に始まったことではなく、
昔からそうではないかという声が
聞こえてきそうだが、
昔と違うのは、今はスマートフォン、
インターネットがあることだ。
僕が子どもの頃は、
テレビが「1億総白痴化装置」とディスられていたが、
それでもテレビは、家庭の暖炉の役割を果たしていた。
冬は特にそういった印象が強く、
みんなで居間で炬燵に入り、みかんなどを食べながら
テレビを見る時間は、
かけがえのない一家だんらんのひと時だった。
令和の時代において、そうした風景は、
ほとんど失われてしまったように思える。
たびたび書いているが、
「サザエさん」も「ちびまる子ちゃん」も、
もはや現実とかけ離れた
昭和ファンタジーの世界になっている。
子も親もオンラインの中に潜り込んで、
自分で様々な情報を収集して知識を蓄え、
SNSなど通じて、自分だけのコミュニティを持ち、
個々で楽しめる娯楽や心の拠り所を育てている。
同じ家に住んでいても、もはや、
昔の意味での家族ではなく、
個人個人がなりゆきで同棲し、
家をシェアして暮らしているという感じだ。
それぞれの人生の半分は、オンラインにあるのだ。
それでも大人はまだいいが、
子どもはどうだろう?
件の母親は、いっしょに暮らしている息子が
オンラインのギャンブルにはまり、
依存症になって多額の借金をつくり、
焦って闇バイトに引っ掛かってしまったという経緯に、
まったく気づけなかったという。
父親も同様だ。
大学生だから、へたに干渉すべきでない。
ある程度は自己責任で・・・
という親の気持ちはわかる。
ただ、今の子供はかなり高い割合で、
オンラインの世界に脳を乗っ取られていると
思ったほうがいい。
「デジタル・ネイティブ」という言葉は、
どちらかというとポジティブな意味合いで
使われることが多かった。
これからの世の中は、ITが発達するので、
そうした仕組みをよく理解し、
使いこなせる人間が活躍する。
僕たちは漠然とそう思っていた
(思わされていたのかもしれない)。
実際、街中でスマホに子守をさせ、
自分もスマホを見ている親にしばしば出くわす。
でも、子どもは大人と同じではない。
親(大人)は、リアル体験を重ね、
アナログ時代の情報取得のプロセスを経て、
オンラインと向き合っているので、まだいい。
でも、子どもは大人と同じではない。
リアル体験も、アナログ時代のプロセスも乏しい。
大人と違って、小さな子どもの脳には、
魑魅魍魎が混じり合っている情報のカオスに対し、
自分を守るシールドがまだ出来ていないのだ。
文字でも映像でも、情報の弾丸や刃が、
柔らかい肌をブスブスと簡単に突き破って、
むき出しの脳に、心臓に突き刺さってくる。
それらは人間性を著しく歪め、
破壊するほどの威力を持っている。
そうしたオンラインの脅威を感じ取ったのか、
先月、オーストラリアでは
未成年のSNS使用を禁止にする法案が通り、
施行されることになった。
いま一度、僕たちの人生の、少なくとも半分が
オンラインに移行している現状を考え、
子どもにどうこの装置を使わせればいいのか、
検討することも必要になるだろう。
ITが普及しようが、AIが発達しようが、
人間は人間のまま、変わるはずがない。
そう考えていると僕たちは安心できる。
けれども、その安心感が、じつは危険を孕んでいる。
テクノロジーの急激な進化によって、
いま、人間は変わり始めている。
あとの時代になって、
あの21世紀の最初の四半世紀の頃が
その変わり目だったのだ・・・
という歴史が生まれるかもしれない。
かつてJR東海に勤めていた、
もと鉄道マンの本を書いている。
彼はまだ民営分割化前の国鉄時代に入社。
39年間勤務して定年退職直前に辞めて
シニア起業家になった。
JR時代のアイテムや写真・記事などを
たくさん保存していて、
そのなかにあった牧瀬里穂との2ショット写真を
ちょっと自慢気に見せてくれた。
それは2017年、新幹線のぞみデビュー25周年記念の
イベントで撮ったものだそうだ。
彼は、1992年3月14日の、
のぞみデビュー車の運転士だったのだ。
でも、あれ?
あの牧瀬里穂のCM
「クリスマスエクスプレス」は1989年。
東海道新幹線は、
まだ「ひかり」と「こだま」しかなか
った時代だが‥‥。
ま、いいか。みんな喜べば。
たった1分のCMなのに、
いまや牧瀬里穂さんは、新幹線、
JR東海のイメージと分かちがたく結びついている。
これはすごいことだ。
そして山下達郎は、けっしてこのCMのために
「クリスマス・イブ」を書いたわけではないのだが、
このCMのおかげで、かの曲は
クリスマスソングの永遠の定番となった。
(初出は1983年。
実は竹内まりやのために書いたらしいが、
彼女が歌わなかったんで、
もったとないと自分で歌ったらしい)
その「クリスマスエクスプレス」が
4Kの美しい映像でよみがえり、
YouTubeに上がっている。
1989年の牧瀬里穂バージョンと、
1988年の深津絵里バージョン(実はこっちが初代)。
牧瀬と深津があまりにかわいくて
感動的なドラマであると同時に、
ついているコメントが面白い。
ループさせてえんえんと見ている人もいる。
夜中に家族に隠れて
こっそり泣いている人もいる。
僕も含め、最近、クリスマスて言ったってなーと、
全然盛り上がらない人は、
これを見て、テンション上げてください。
僕たちはメディア、エンタメが
成長してきた時代とともに生きてきた。
だから、一度も会ったことがなくても
親しみを感じたり、寄り添ったり、
自分を重ね合わせる対象が大勢いる。
芸情人、アーティスト、文化人、スポーツ選手。
そのほか、本・舞台・ラジオ・映画・テレビ・ネットの
世界のあの人たち。
彼ら・彼女らの存在や活動、発言を
心のよりどころにしている部分もたくさんある。
多くの人、特に40代~60代の人たちにとって、
中山美穂さんはその代表的な一人だろう。
まだ54歳。
人生100年時代ではまだ十分に若い。
あまりに当然の死にショックを受けている人は
少なくない。
思えば今年も20世紀カルチャーをつくった、
たくさんの有名人が亡くなった。
トシだから仕方ないかと思える人もいれば、
まさか、あの人が…という人もいる。
20世紀カルチャーは終焉し、
僕らはこれから膨大なアーカイブのなかで
心を癒しながら生きることになるのかもしれない。
と思うことがしばしばある。
あなたはどうだろうか?
終わりは急にやってくる。
人生100年という言葉・イメージは、
希望の糧であるとともに、
大きな負担・不安のタネでもある。
100年、100年と言われている間に
「ライフプラン」という体のいい言葉を考えすぎ、
老後の不安ばかり膨らませ、
老後に備えることできゅうきゅうしながら
漫然と生きることになる。
自分は本当はいくつまで生きるのか?
60か70か? 90か100か?
もちろん、それを知るすべはない。
でも、「今」に集中して、
自分を活かして毎日を生きていれば、
どこかで事前にそれを知らせる声が
脳の奥から訪れるのではないかとも思う。
おまえは十分にやったと。
物語のような妄想だけど、
心の支え・励みにはなる。
生と死は表裏一体。
どう生きるのか?
どう死ぬのか?
メディアの声より自分の声を聴け。
明日から寒くなるそうなので、
今日は今年の秋の最後の日かも、
と思って、午後から義母を連れて
近所の公園を散歩する。
遠くに行かなくても紅葉をたっぷり楽しめる。
なかなか色づかなかったイチョウが
12月になってどんどん黄色くなり、
見事なゴールデンイエローに。
ほんの少しの風で落葉が雪のように舞って、
切なくも美しい。
「ほらほら、空からまたくるくる降ってくるよ」
と、高い木の枝から回転しながら降りて来る落葉を見て、
義母に促すのだが、どうも反応が鈍い。
認知症にも関わらずというか、だからこそなのか、
この人はときどき、路傍の小さな花を見つけたりして、
小さな子どものような感性の鋭さを見せることがあるが、
紅葉・落葉に関しては全然気をそそられないようで、
僕がどれだけ「ほら見て見て」言っても、
ほとんどゴミ扱いである。
そのくせ、そのへんに落ちている
お菓子の空き袋、ポケットティッシュ、
子どもが落としていったおもちゃやアクセサリーなどは
目ざとく見つけてガメようとする。
せっかく秋を楽しみに来たのに・・・。
と文句を言っても始まらない。
しかし、今日は暖かく、お天気も良く、
気分も体調もよかったようで、
なかなか帰りたがらず、2時間近くも歩いた。
こんなによく歩いたのは久しぶりだ。
ちなみにネコのいる花屋さんでは、
秋の花が終わったらクリスマスや正月を挟んで、
もう春の花。
暖かい部屋で春を楽しんでほしいのだそうだニャ。
彼女は「お花屋さんになりたい」という
少女時代の夢をかなえた。
今はとある町の小さな花屋の女主人として、
ひとりで店を切り盛りしている。
花に関する豊富な知識、
アレンジメントのセンスと技術。
加えて人柄もよく、お店の評判は上々で、
商売はうまいこといっている。
彼女自身も毎日、
大好きな花に囲まれて仕事ができて幸せだ。
ところが、明日は母の日という土曜日の朝、
店の外に出て、びっくりした。
そこに置いてあったカーネーションの花が
ネズミに食い荒らされていたのだ。
ショックを受けた彼女は、
今後、二度と店にネズミを寄せつけないよう、
ネコを飼う決心をする。
保護猫サイトを探すと、
かわいらしい子猫たちにまじって大人のネコがいた。
人間に保護されるまで1年間、
野良猫として生き延びてきた頼もしそうな奴だ。
しかも彼は、オスの三毛猫というレアものである。
女主人は彼を引き取り、
「ダビ」と名付け、自分に言い聞かせた。
「寂しいからじゃない。癒されたいからじゃない。
ネズミよけのためにこのネコを飼うんだ」と。
そして、自分とネコとの関係を明確にするために、
雇用契約を結ぶ。
彼女は仕事の依頼主。
その報酬として彼に食事と寝床を与える。
こうして花屋の女主人と三毛猫ダビの
暮らしが始まった・・・。
花好き・ネコ好きに贈る、
楽しいなかにもピリリとスパイスの効いた中編小説。34,000字。AmazonKindleより¥500で発売中。
踊りに性別は関係ない。
誰でも踊っていいんだけど、
男はある年齢を過ぎると、踊らなくなる。
(人それぞれなので、あくまで一般論だけど)
ところが、女はいくつになっても踊る。
年齢は関係ない。
というのは、昨日、女性の友だちが
ダンス公演に出るからとお誘いを受けたので、
割と近所なので、自転車を飛ばして観に行ってきた。
場所は甲州街道沿い。
下高井戸と桜上水の間あたりにある
「G-ROCKS」という音楽スタジオである。
こんなところにこんな施設があるとは知らなかった。
ダンスというのはアフリカンダンス。
西アフリカにあるマリの民俗舞踊である。
(公演用にいろいろアレンジしているらしい)
アフリカンダンスはエネルギッシュで好きだが、
正直、マリもガーナもケニアもナイジェリアも
区別がつかない。
かつては他のアフリカ諸国同様、
フランスの植民地だったが、1960年に独立。
「マリ」とは国語である
バンバラ語で「カバ」という意味で、
首都バマコにはカバの銅像があるという。
どういう経緯で、かの国の音楽家・踊り手たちが
日本にやって来て根付き、
文化の伝達者になったのかは定かでないが、
世界的なワールドミュージックの広がりと
関係があるのかもしれない。
英米のロックミュージシャンたちの多くが
1980年代頃から、アフリカの音楽に魅せられ、
積極的に自分たちの楽曲にも取り入れるようになった。
こうした音楽ビジネスの隆盛によって、
アフリカンリズムやアフリカンダンスが
日本にも紹介されるようになり、愛好家も増えたようだ。
今では各国の音楽や文化を教える教室が
都内のあちこち(おそらく他の地域にも)あるらしく、
友だちが通っているのも、そうした教室の一つらしい。
なぜ、ガーナでもケニアでもナイジェリアでもなく、
カバのマリだったのかはわからないが、
これも「ご縁」というのものかもしれない。
司会役でもあり、歌も歌うダンスの先生は
マリ人(?)のお姉ちゃんで年齢不詳。
その生徒さんたちは、わが友をはじめ、
大半が高齢の女性。
たぶん浴衣を着て盆踊りをしていたら、
近所のおばちゃん・ばあさんといったところだが、
デザインされた民族衣装をまとって、
激しく体を動かすマリダンスをやっていると、
なんだかアフリカの民話に出てくる精霊の類に見える。
みんな、実に楽しそうに踊る。
その顔を見ていて何に似ているのかと考えていたが、
今日、近所の公園を散歩していて、
夢中になって遊んでいる女の子たちに遭遇し、
そうだ、こんな弾けるような笑顔に
似ているのだと思い至った。
ここで踊ることになるまで、
皆さんがどういう人生を歩んできたのかは
僕には知る由もないが、
せっかくここまで生き延びたのだから、
思い切り楽しんでしまおうという気概が感じられた。
失礼な言い方かもしれないが、
妻なり、母なり、愛人なりの務めを終えて、
もうセクシーであり続ける必要はないという意識が、
彼女らを良い方向へ解放している面もあると思う。
遊ぶ子供と踊る高齢女性の共通項は、
セクシーでいなくちゃという女の義務感と
社会人としての責任から自由なことだ。
もちろん、いくら齢をとっても
社会人であり続けているわけだが、
男がいくつになっても、
長年身に着けてきたプライドや役割から
逃れられないのに比べて、
最近は、女の方が第3・第4の人生を
楽しめる傾向が強くなっていると思う。
上手いか下手かなんて、どうでもよくて、
見ている側がちょっと笑っちゃえるくらいでいい。
死ぬまで笑って踊って、
かつまた、それで人を笑わせられたら、
それが最高である。
久しぶりに映画館で、
倉本聰・作の映画「海の沈黙」を観る。
すごくよかった。
久しぶりにずしっと腹に応える映画を味わったなぁという感じ。
派手でわかりやすくておいしいけど、
あまり栄養になりそうにもない、
おやつみたいな映画が多い中、
これこそ主食となる、心の栄養になる映画。
「生き残り」と言ったら失礼かもしれないけど、
倉本聰さんは日本のテレビドラマ黄金期、
そして衰退傾向だったとはいえ、
まだまだ映画が娯楽の王座にいた時代を支えた
作り手の「生き残り」だ。
(こんな言い方は失礼だと思うけど)
今年で齢89歳。うちの義母と同い年。
改めて履歴を見ると、
なんと、僕が生まれる前、1958年から
ドラマ作りのキャリアをスタートさせている。
この20年ほどの間に
同じ脚本家の山田太一・市川森一をはじめ、
同時代に活躍した作家や監督や俳優が
次々とこの世を去っていったが、
倉本聰さんは依然健在で、
「どうしても書いておきたかった」と、
60年温めてきた構想を実現した。
キャリアが長けりゃいい作品が書けるわけじゃない。
ものを書くには気力も体力もなくてはできない。
体内のエネルギー量がどれだけあるかの問題なのだ。
こんな気力溢れる作品を書く力が残っているなんで、
驚きと尊敬の何物でもない。
セリフの一つ一つ、シーンの一つ一つが重く、深く、
濃厚な内容は、昭和の香りがプンプン。
サスペンスの要素もあり、画面には2時間の間、
緊張感がみなぎって面白いので、
若い人にも見てほしいが、やっぱりこういうのは
ウケないんだろうなとも思う。
かくいう僕も、20代・30代の頃に
こういう映画を見て傑作と思えたかどうかは怪しい。
やっぱり齢を取らないとわからないこと、
味わえないものがあるのだ。
出演陣も素晴らしい。
なかでも中井貴一は飛び抜けてシブい。
それに比べて、主演の本木雅弘は
いま一つ軽いかなぁという感じ。
これまで小泉今日子をいいと思ったことは一度もなく、
倉本作品に合うのかなと思ったが、最高だった。
もと「なってたってアイドル」なので、
この類の人は、何かにつけて「経年劣化」を揶揄される。
けれども最近、不自然な修正画像やアニメ顔、
整形美女の不気味な顔を見過ぎているせいだろうか、
たびたびアップになる、しわの寄った顔が、
リアルでナチュラルで美しい。
そう思ったのは、やっぱり自分も齢を取ったからだろう。
カミさんと朝イチ(といっても11時半)の回に行ったが、
僕たちを含めて、観客はシニア割の人たちばかり。
やっぱり昭和の作り手、昭和の観客の世界だ。
間もなくこうした世界はむかし話になるだろう。
でも僕は、リアルで深遠な昔ばなしを
大事にしていきたい。
神妙な顔で「人生とは・・・」とうなっている人も、
ひたすら働いて、仕事と貯金と投資に明け暮れている人も、
ただ毎日むなしい思いで時間を浪費している人も、
ぜひ、この本を読んでみてください。
たぶん元気になる。
ちょっとは心が楽になる。
サブカルチャーの担い手・みうらじゅんと
とぼけた才人・リリーフランキーの
抱腹絶倒の対談集(っつーか、飲み会の雑談のノリ)。
内容はまさしくこのタイトル通り、
ワハハとあきらめて人生を語り倒す。
さて、今年もあと1か月ちょっとだけど、
時間がないない。
10~20代の1年は、40代だと半年、50代で4カ月、
60代になるとせいぜい2カ月。
いや、1か月半かな?
ほんとだよ。
あと20年ある、30年ある、
50年あるなんて考えない方がいい。
そんな時間はありません。
「人生100年」なんて言葉に騙されず、
あなたの短い人生を大切に。
兵庫県の知事選で当選した
斎藤元彦氏の公職選挙法違反疑惑の件。
これは斎藤氏がどうこうではなく、
広報戦略を作ったという
PR会社の女性社長がナゾナゾ。
「ほらほら、アタシがやったんですよ。
皆さん、知ってましたぁ?
あの人が復帰できたのって、
やっぱ、アタシのお手柄じゃないですかぁ」
斎藤氏の大逆転復帰劇で
舞い上がってしまったのだろうか?
自慢したい気持ちはわかる。
ビジネス拡大の大チャンス!って気持ちもわかる。
けど、SNSに自分の手柄を書いて、
見せびらかすって、ちょっとあり得ないゾ。
クライアントに対する守秘義務厳守って、
広報の仕事の基本中の基本だゾ。
それを社長自ら破ってどうする?
最近はやりのマウント大好きキラキラ女子なのか?
僕の周りには優秀な女性が多いけど、
こういう人がいるから、
「やっぱり女は・・・」なんて言われちゃう。
もっとちゃんと仕事しようよ。
電子書籍・おりべまことの
新しいノンフィクションシリーズ
「市井の賢者」(仮題)の制作にご協力いただいてる
高塩博幸さんの取材で北千住へ。
高塩さんは、新幹線のぞみ第1号の運転士。
JR東海を定年退職の直前に辞めて、
みずから映像ディレクターのスキルを学び、
シニア起業家として
映像制作の会社「ブルーオーシャンスターズ」を立ち上げた。
今日はAIの研修講師である宮田剛志さんと組んで
「30秒CM動画制作講座」を開催した。
テクノロジーの発達で、
小規模な会社でも、お店でも、個人事業主でも、
手軽にCM動画がつくれる時代は、
これからどんどん進むだろう。
動画制作のノウハウと
AIの活用法を同時に学べるお得な講座だ。
初めての講座開催とのことだったが、
JR時代に運転士の教官をやっていたという
高塩さんの指導はとても丁寧でわかりやすく、
自信に満ちていて、すでに円熟の域。
動画CM制作のノウハウと
AIの知識を同時に学べるお得な講座で、
参加者も大いに満足した様子だった。
以前、「卒業式の詩と死」という
ブログ記事を書いた。
息子の高校の卒業式で聴いた
谷川俊太郎さんの詩についての話だ。
息子が卒業したのは、都立豊多摩高校。
谷川さんの母校である。
ただし、ご本人は学校が嫌いで、
戦後の混乱期だったこともあり、
ろくに登校していなかったという。
今でいう不登校の生徒だったらしい。
その谷川さんがOBとして、
1968年の卒業生の要請を受け、
「あなたに」という長編詩を創作して贈った。
以来、半世紀以上にわたって読み継がれてきており、
2015年の息子の卒業式の時も
ラス前に演劇部の生徒が朗誦した。
長いので、最後のフレーズのみ引用する。
あなたに「火のイメージ」を贈り、
「水のイメージ」を贈り、最後に「人間のイメージ」を贈る、
という構成だ。
あなたに
生きつづける人間のイメージを贈る
人間は宇宙の虚無のただなかに生まれ
限りない謎にとりまかれ
人間は岩に自らの姿を刻み
遠い地平に憧れ
泣きながら美しいものを求め
人間はどんな小さなことにも驚き
すぐに退屈し
人間はつつましい絵を画き
雷のように歌い叫び
人間は一瞬であり
永遠であり
人間は生き
人間は心の底で愛しつづける
――あなたに
そのような人間のイメージを贈る
あなたに
火と水と人間の
矛盾にみちた未来のイメージを贈る
あなたに答は贈らない
あなたに ひとつの問いかけを贈る
けっして上手な朗誦ではない。
しかし、圧倒的な言葉の連なりに、
会場は神聖な空気に包まれた。
こんな体験ができた子供も親も
本当に幸福だったと思う。
今も胸に残響している。
半世紀経とうが、1世紀経とうが、
色褪せるどころか、ますます鮮烈になるイメージ。
命の息吹溢れる言葉、呼吸し鼓動する詩。
日本最高峰の詩人・谷川俊太郎さんの
ご冥福をお祈りします。
龍神様の水を飲むと、どんな病気でも治ってしまうそうな。
んだで、おら、母ちゃんに頼まれて、
箱根の山まで龍神様に水もらいに来ただ。
昔ばなしの孝行息子よろしく、
九つの頭を持つ龍が吐き出す
「龍神水」を汲むだけのために箱根までやって来た。
頼んだのは母ちゃんでなく、カミさんだけど。
——というのは半分うそで、
「月曜に箱根に取材に行くよ」と言ったら、
「じゃついでに箱根神社に行って水汲んできて」
と言われたのだ。
この箱根神社(九頭龍神社)は芦ノ湖のほとり。
バスと歩きで小一時間掛かったが、
朝から出かけて昼過ぎには仕事が終わったので、
ちょっと足を伸ばして出かけてきた。
水筒1本とペットボトル2本に「龍神水」を詰める。
なんでもこの水、開運の水らしい。
辰年ももうすぐ終わりだし、
この辺で運気を上げておくと、
いいことあるかもしれない。
元箱根港のバス停(土日ならその一つ手前に
「箱根神社入口」があるが、平日は通過)から
芦ノ湖沿いにてくてく行って鳥居をくぐり、
まっすぐ進んで右手が89段の階段。
箱根神社につながるこの階段を登ると
「厄(89)落とし」ができるらしい。
階段を上り切ったところにあるのが、箱根神社本殿。
その横にあるのが、九頭龍神社新宮で、
2000年、わずか24年前に出来たばかりの新しいお宮だ。
九頭龍神社の本宮はここから3キロあまり離れていて、
けっこう歩くし、時間がないと行けない。
そんな箱根の観光客のニーズに応えて(?)
こちらの境内に新宮が建てられたという。
そんなご都合主義でいいのか?
と、ちょっと疑念も湧いたが、
ここでブレててもしかたがない。
「龍神水」は箱根山から湧き出ている霊水で、
”口にすることで不浄を洗い清めてくれる”といわれている。
恋愛運、家内安全・開運につながると大人気。
と、スピリチュアル系のサイトに書いてあったが、
この日、水を汲んでいるのは僕ひとり。
次々と容れ物を取り出して、水を智めていく様子を、
回りで東南アジア系の観光客が、
ぽかんとした顔で眺めていた。
ちなみに平日の箱根は外国人観光客もりもり。
日本人は3割から、せいぜい4割くらいか。
今年も残りひと月半を切った。
初詣に行く前に、龍のいるところに行って、
締め詣でをしておくといいかもよ。
というわけで、龍神水はまだ冷蔵庫に眠っている。
せっかくわざわざ汲んできたありがたいお水なので、
使うのがもったいない。
と言って死蔵させてしまうのが一番もったいないので、
明日、手を合わせていただきます。
もう7年ほど前だが、「最期の晩餐」をテーマにした
ラジオドラマのシナリオを書いた。
ミステリー仕立てにしたのがウケたのか、
コンクールで2回最終選考まで残ったが、
いずれも受賞には至らなかった。
いずれノベライズしようと目論んでいるが、
あっという間に月日が経って、
まだそのままほったらかしにしてある。
これはやはり誰もが興味を持つ、
おいしい題材らしい。
ドイツのホスピスで食事を提供しているシェフが
「人生最後の食事」という本を出しているし、
終活関係の仕事をやっていると、
ネット上で割と頻繁に見かける。
こうしたアンケート調査には
すすんで参加したくなる人が多いようだ。
単純に自分の好物を回答する人が多いと思うが、
そこに何か自分の記憶など、精神的なものを絡めて、
「あの時、その場所で、あの人と食べた○○」
という人も少なくない。
でもきっと「あの人」がいっしょにいなければ、
その食事の味を再現するのは難しい。
時間や場所も同様だ。
いくらその食事を作るのが超一流のシェフでも、
それは絶対不可能なのだ。
人生の最後に何を食べようか。
そう思い巡らせることは、
自分の人生を振り返る究極の終活だ。
ただ、いえるのは、
「最期にあれが食べたい」と言って、
意識的に最後の食事を選択し、口にできるのは、
まれに見る幸福者である、ということ。
そもそも死を前にした人は、
食欲などない。
僕の父親も母親も、
最期の数日間はほとんど何も食べられなかった。
母の最期の時、僕は介護士に
「食べたくないのなら、
無理に食べさせようとしないでください」
と頼んだ。
人は生きるためにめしを食う。
食は生きるエネルギーの源。
これから死んでいく人には不要なものなので、
食欲など湧くはずがない。
だから「最期に何を食べたいか?」という質問自体が、
夢みるファンタジーの世界の産物なのである。
それでも人は自分に、他の人に問わずにはいられない。
「あなたは人生の最期に何を食べたいですか?」
そうして人は記憶を辿り、ファンタジーの世界に没入する。
そんなことを考えると、死ぬまで人間は面白い。
信州では精進料理や長野産長寿料理などをいただいたが、
気がつくと、最近、食に関しては、
ヴィーガンおせちやら、
グルテンフリーレストランやら、
菜食指向・ヘルシー食指向の記事ばかり書いている。
カミさんがアレルギーだの、
刺激物に弱いと言った事情があり、
付き合っているうちに自然とそちらの
ベクトルに傾いていく。
しかも義母と一緒に暮らし始めてからは、
日々の食事をどうしても彼女の好み(甘辛和食)
に寄せていくので、
あまり本来の自分の好みを主張しなくなった。
僕の本来の食味は、辛いの大好き、刺激物大好き、
こってり大好き、油物・揚げ物大好き!
のはずだった。
ところがつい2週間ほど前、
カミさんとでなく、友人と一緒だったこともあって、
「あー、今日は久しぶりに
思い切りこってりしたラーメンが食いてえ!」
という脳の奥地から響いてくる叫びに従って、
九州とんこつラーメン屋に入り、
メニューのなかでいちばんこってりしていそうな、
マー油とニンニクたっぷりのやつを食ったところ、
途中で「これはヤバイぞ」という
心の声ならぬ胃腸からのアラームが。
なんとかぜんぶ平らげたものの、
家に帰った後、胸やけがしてしかたがない。
さらにその晩から翌日にかけて
腹を下してしまった。
頭の中は、まだ10代・20代の自己イメージが躍動していて、
健康だの、ヘルシーだの、しゃらくせえ!と一蹴し、
「カレーライスを5杯おかわりするオレ」
「焼き肉をガツガツ食いまくるオレ」
「コロッケとメンチカツを交互に10個ぱくつくオレ」
「角煮が乗ったこってりラーメンに、
餃子と半ラーメンをおともにして全部たいらげるオレ」
などが思わぬ拍子に飛び出してきて大暴れする。
が、現実の胃腸はもうとてもそれについていけない。
もう昔とは違うのだ、と現実を見つめ直し、
ひどい目に遇ってから反省するのだが、
未熟者なので、幻想に翻弄される悪癖を直せずにいる。
とは言え普段は、さすがに若者向けの
肉がっつりメニューの看板を見ても
心動かされることは少なくなったが。
肉食でも、菜食でも、ジャンキー食でも、
毎日おいしく食べられることは健康の証、生きる喜び。
感謝していただきましょう。
「わたしゃ殺生しないと生きられない。
だから、ご供養のために灯篭を寄進したいのです」
そう言って人間に化け、
長野の山中から善光寺参りをしに来たのはムジナ。
ところが泊まった宿坊「白蓮坊(びゃくれんぼう)」で
お風呂に入ってうっかり正体を現したところを、
宿坊の坊さに見られ、あわてて飛び出して山へ逃げ帰ってしまった。
そんなムジナを不憫に思った住職は、
ムジナの代わりに境内に灯篭を建ててあげた。
そんな昔ばなしが残る白蓮坊には、
今、入口にかわいい「むじな地蔵」が立っていて、
人目を集める「招き地蔵」「招きムジナ」になっている。
時に妖怪扱いされるムジナには、
タヌキ説とアナグマ説がある。
どちらも雑食性なので、
他の生き物を殺生するのは同じだが、
人に化けるというパフォーマンスから考えると、
ここではタヌキ説が有力だろう。
像もやはりアナグマではなく、タヌキに見える。
いずれにせよ、
こうしたユーモラスな昔ばなしが残るほど、
善光寺は動物に対しておおらかな場所である。
さすがに本堂のなかや建物の中には入れてもらえないが、
境内にはタヌキの親戚であるイヌが大勢散歩している。
仲見世通りのお店には「招き犬(豆柴)」もいた。
ネコも何匹か住み着いていて、
夜になると出て来るらしい。
そういえば「牛に引かれて善光寺参り」という
有名なことわざも残っている。
仏さまの聖域は、どんな人間も、どんな動物も、
ウェルカム状態なのだ。
訪れたのがちょうど七五三の季節だったので、
かわいい着物を着た子どももあふれていて、
昼間は宗教施設というよりも、
子どもや犬が遊ぶポップアートゾーンみたいな
イメージのところだった。
おおらかな気持ちになることが
ごりやくにつながるのだろう、きっと。
べつにガチで信心しなくても、
近所の神社やお寺の前を通った時、
神さまなり、仏さまなりに
日常的に手を合わせていると、
いいこと、いろいろあるかもよ。
長野は唐辛子の名産地。
ということで、善光寺の門前には
江戸時代から続く唐辛子製造販売の老舗
「八幡屋磯五郎(はちまんや いそごろう)」がある。
250年の歴史を経て、近年、
ポップでお洒落な唐辛子屋に生まれかわった同店には、
これまたしゃれたカフェが併設されている。
その店「横町カフェ」で特徴的なのは、
やはり辛い物のメニューが豊富なこと。
「七味唐辛子=和のスパイスと捉えた新しさ」と、
「七味唐辛子の伝統と信州の風土」を
感じてもらう店舗づくりを心掛けているという。
というわけで頼んだのは、
あい掛けカレー。
この店には、黒・緑・赤の3種のカレーがあるが、
それぞれ、大辛・辛口・中辛という感じ。
さすがに黒=大辛は厳しいだろうと思い、
緑と赤の2種類を掛けたカレーに。
これだけでも十分からい。
以前は辛いものが大好物だったが、
最近は、カミさんと義母に食味を合わせて、
マイルドなもの・どっちかというと甘口のものばかり
食べているので、すっかり辛味に弱くなった。
こってり系・油物などにも
急速に苦手石井が芽生えている。
さてこちら、横道カフェのカレーは辛いが、
写真の通り、野菜がたっぷり乗っかっていて、
イマ風ヘルシーメニューである。
感動するほどではなうが、普通においしい。
テーブルには隣りの唐辛子屋で売っている
バラエティ豊かな唐辛子がずらり。
パッケージもポップなデザインで、
「唐辛子=和スパイス」であることを強調している。
カフェなので、辛い物ばかりでなく、
ちゃんとコーヒー・紅茶やスイーツも用意されている。
面白いお店なので、
ぜび、長野・善光寺に行ったら寄ってみてください。
長野旅行では善光寺の宿坊に泊まった。
夕食は精進料理。
特に美味しかったのが「鰻のかば焼きもどき」。
豆腐と長芋を材料にしているそうで、
さすがに鰻とは思わないが、
食感と味はそれっぽくてGood。
これなら何枚でも食べられる。
ほかに手前のお椀に入った
グレーの「そばプリン」が秀逸。
プリンという名だが、スイーツでなく、立派におかず。
茶わん蒸し的なイメージだ。
こちらの宿坊「尊勝院(そんしょういん)」は、
善光寺で39ある宿坊の一つ。
昭和の時代まではどこも大賑わいだったようだが、
最近ではあまり泊まる人がなく、
3割程度しか稼働していないらしい。
交通が発達した今日、
東京からだと善光寺参りなど、
ほとんど日帰りでOKだ。
ただ「お朝事(早朝参拝、お数珠頂戴)」
「十夜会(この時期だけやっている夜の法事)」
などは泊まらないと参加できない。
お宮だったら伊勢参り。
お寺だったら善光寺参り。
江戸時代の人たちは「一生一度」と謳ったが、
齢を取ると宗教がいいものに思えてくる。
(おかしな新興宗教には用心するけど)
さらにあんまり肉や魚を
がつがつ食いたいという欲求が薄れて
精進料理なども好きになる。
善光寺があるから、というわけではないだろうが、
長野の菜食はなかなかのクオリティである。
やはりトランプが大統領に返り咲いた。
これは僕の印象だが、
ビヨンセやレディガガの応援よりも、
イーロン・マスクの応援のほうが効果があったようだ。
Xをやっている人は、この数か月。
おそらく毎日のようにマスクの
トランプ応援投稿を目にしていただろう。
音楽や映画も大事だが、
人権や多様性や差別なき社会も大事だが、
それよりも今日のメシ、寝床、
明日・明後日・来年を暮すカネだ。
文化よりもビジネスなのだ。
寂しいことだが、そういう時代になっている。
トランプが当選したことで。
株価や仮装通貨の値が上がって、
金持ちはますます肥え太る。
マスクもそういう目論見があって、
多額の援助金を出してトランプを支持をしたようだ。
そういう意味ではアメリカ経済は成長するだろう。
けれども、一般の人はその恩恵に与れるだろうか?
難しいと思う。
政治のトップが変わったからといって、
上層のわずかな人たちが儲かり、
その下、9割方の人たちが沈んでいくという経済構造は、
ほとんど変わらないに違いない。
それはアメリカだけでなく、
日本やヨーロッパも同じだ
それでもトランプのカリスマ性は、
とりあえず、多くのアメリカ人に
一定の安心感をもたらすだろう。
経済力と伝統的な文化を尊重する
「アメリカ・ファースト」。
トランプはその思想のもとに
世界をし直そうとするだろう。
ウクライナやガザの戦争にも何らかの解決策が生まれて、
かりそめの平和が訪れる可能性も小さくない。
日本はたぶんうまく付き合っていくと思う。
それがこれからの4年間で起きること。
そして、そこまでがトランプ大統領の役割。
ではその後は?
かなり不気味だが、
今を生き延びなくては明日はない。
生き延びながら考えていくしかない。
亀戸~大島界隈で運動特化型のデイサービスをやっている
「あづまや/わかったグループ」が、
今月1日に亀戸駅前に新店舗をオープンした。
1Fは1号店と同じ、
要介護者用のサーキット方式トレーニングだが、
2Fは常圧低酸素ジム[3po」になっている。
低酸素ジムは、
もともとアスリートのために開発された施設で、
一口で言えば、高地トレーニングの環境を模し、
気圧はそのままで、
酸素濃度だけを低くするというシステムを備えている。
常圧のまま、部屋のなかを低酸素化し、
体に負荷を与えることで、細胞を良質化。
わずかな運動量で大きな運動効果を生み出すことが
最大の特徴だ。
目的を、運動選手のトレーニングから
一般の人の健康維持に変えたこの施設が
今、急速に普及し始めているという。
効果としては、
病気になりにくい。
骨折などの怪我が早く治る。
疲れにくくなる。
まら、睡眠が深くなる。
肌つやが良くなる。
血流が上がるので、体が冷えにくくなる
といった事象が報告されている。
過去10年ほどの間、この低酸素ジムの普及に努めている、
フィットネス業界の専門家の話によれば、
現在、東京では25カ所ほどが
一般向けに開設されているそうだ。
ただし、これを介護事業として展開するのは、
ここが日本で初めてとのこと。
これまで運動特化型デイサービスで
実績を上げてきた
「あづまや/わかったグループ」だからこそ、
取り組める事業とも言えるだろう。
超高齢化社会が到来し、「人生100年時代」になった。
とはいえ、寝たきり状態で長生きするのは
本人も周囲も辛い。
問題は実際の寿命よりも、
元気で動き回れ、自分の頭で考えられる
「健康寿命」であることに
異議を唱える人はほとんどいないだろう。
病気にならない。予防する。
いわゆる「未病状態」をできる限り保つ。
健康であり続ける。
この事業は、そうした高齢者・高齢者予備軍の意識に
焦点を置いた、画期的な試みといえるだろう。
ちなみにこの施設の名前
「3Po(さんぽ)」の3つのPoは、
「Potential(潜在能力を引き出す)」
「Puwerful(元気を保つ)」
「Positive(前向きに生きる)」
僕が見学したのは、プレオープンの日だったが、
実際にオープンしてどんな状況になっているのか、
また今月後半に取材に出向く予定だ。
わが「恐怖」の原点。
かつて子どものマンガに確実に
「恐怖」というジャンルがあった。
その創始者であり、第一人者であり続けたのが、
楳図かずおだった。
小学校の低学年の頃、
わりとお金持ちの、仲の良い女友だちがいて、
その家によく遊びに行っていたのだが、
そこに楳図マンガが連載されていた
「少女フレンド」(だと思った)が揃っていて、
その置き場所には怖くて寄りつけなかった。
「リング」の貞子が
テレビの中から抜け出してきたように、
雑誌の中から「へび女」とか「ミイラ先生」が
這い出してくるのを想像していたのだろうと思う。
その後、少年漫画誌で「猫目小僧」とか、
「半魚人」とか「恐竜少年」とか、
いろいろな楳図製恐怖マンガを読んだが、
なぜか少女系のほうが圧倒的に怖かった。
「女は怖い」という、僕の感情のOSは、
楳図かずおによって生成されたのかもしれない。
うちの母親がもっと美人で優しかったら、
「この人、へび女にならないだろうな」
と思ったかも‥だが、幸か不幸か、
あんまりそういう雰囲気の人ではなかったので
助かった(?)
いっしょに住んでいた若い叔母は
ちょっとその方面の雰囲気を持っていたような気がする。
それにしてもあんな怖いマンガを
毎日、描きまくっていた、
当時の楳図かずおの頭の中は
いったいどうなっていたのだろう?
ご本人は「ぜんぜん怖くなんかないですよ」と
言っていたが、自分なら気が狂いそうだ。
その後、ギャグやSFの分野でも
とんがった才気を見せつけ、傑作を量産。
しかもそうした恐怖、怪奇、ギャグ,SF、
ファンタジーなど、それぞれの要素が
重層的にクロスオーバーし、
誰にもまねできない「楳図ワールド」を構築した。
そして、その核には「人間」がいて、
人間が奥底に持つカオスのようなものについて
考えさせられる。
楳図かずおは人間の深いところを、
その不可解で不可思議な在り方を、
とことん掘りまくることによって、
最も原始的な感情である「恐怖」をベースとした
独自の世界をつくり上げたのだ。
そういう意味で
「まことちゃん」は「猫目小僧」の弟であり、
「おろち」は「へび女」の娘であり、
「漂流教室」と「14歳」「わたしは真吾」などは、
同列に展開するパラレルワールドになっている。
個人的に最も胸に刺さったのは、
連作オムニバス「おろち」の「秀才」だ。
「おろち」は、不滅の存在である少女
(萩尾望都「ポーの一族」のバンパイアに似ている)が
時空を旅して、人間界のさまざまな時代・場所で、
人間同士の感情が絡み合って起こるドラマに
関わっていくという話。
「秀才」はそのかなの一遍で、
教育ママとその息子の物語だが、
それまで持っていた「オバケマンガ」の概念を破る
深い人間ドラマに驚愕した。
読んだのが小学校高学年で、
大人のドラマに興味を持ち始めた時期だったので、
よけい感動したのかもしれない。
「秀才」は今でも十分通じるドラマで、
現代社会における母親という存在の
愛の深さゆえの罪深さを描き出した傑作だ。
まちがいなく歴史に名を留める漫画家・芸術家。
日本のマンガ文化の重要なパーツとなる孤高の作家。
そして最後まで自分のぶっ飛んだ個性を貫き通した
楳図かずお先生。
人間の怖さ・驚くべき世界を見せてくれてありがとう。
ご冥福を祈ります。
11月の花はリンドウ。
行きつけの花屋さんをモデルにした小説を書いてる。
1万字~1万5千字程度の短編にしようと
夏の暑くなり始めた頃から書き出したのだが、
いろいろ話が展開し、
途中で止まったりして、かれこれ4カ月。
2万5千字を超えたところで
やっと完成のめどが立ってきた。
年内には何とか出版できそうだ。
今年は春先に長編を1本書き上げたので、
あとは短編を2~3本書こうと思っていたが、
かなり苦戦した。
ちょっとと体力が落ちて疲れやすくなり、
感情の流れの混乱がうまく収拾できないことが増えた。
小説は普段書いている文章と違って、
事実を綴ったり、理屈をこねたりするだけでなく、
それらと合わせて
自分の感情を掘り起こす作業だと思っている。
ぜひ表現してみたい感情があって、
それを登場人物のセリフにするために、
ストーリーや場面設定を作る場合もある。
逆に思いついたストーリーに引きずられて、
すっかり忘れていた感情がよみがえったり、
まったく思いもかけなかった感情が
登場人物のセリフに乘って現れたりする。
どっちも面白いが、根気よく書き続けないと出てこない。
アスリートと同じで、
つねに体のコンディションを整えていないと、
自分の感情と格闘できないのだ。
最近は最初のプロットを作る段階で、
AIと会話してヒントを得たりする。
感情を引き出せるストーリー作りのためなら
AIに手助けしてもらうのもよし。
そうして作ったものを何本か塩漬けしてある。
僕たちは日々、
自分の感情をあまり表に出さないように
コントロールしながら生活している。
読む相手がいる限り,SNSでも
感情全開でぶちまける、というわけにはいかない。
感情を抑えつつうまくやっていくためには
いろいろな方法があるが、
小説というフィクションの形にして
表現するという仕事は、
ひとりでできるし、場所も問わないし、金もかからない。
小説はただ感情をぶちまけるのでなく、
ストーリーやキャラクターとともに
一つの作品として形にするので、
よりクリアな記録して、貴重な人生の記憶として
遺すことができる。
今、小説は誰にでも書ける。
文才なんていらない。
僕がそのいい例である。
自分で面白いと思えるアイデアがあれば、
AIの助けを借りて、
オリジナルストーリーを作ってみればいい。
それが人にウケるかどうか、
読んでもらえるかどうかは、また別の話だけど。
アメリカ大統領選は、大接戦が伝えられているが、
間近になって、トランプ圧勝の予感がしてきた。
そう感じてしまったのは、
カギを握ると言われているペンシルバニア州に住む
ベネズエラからの移民の男性が、
トランプ支持を強く訴えているのを、
テレビで見たからだ。
彼がトランプを支持する理由は、
「移民問題よりも経済対策のほうが大切だ」から。
一人の意見だが、多くのアメリカ人の意見を
代弁しているように思えた。
しかも彼は、トランプの敵であるはずの移民である。
結局、アメリカ人が選ぶのは、
理想や清潔さや国際政治に対する責任よりも、
目の前のカネと仕事の問題なのだ。
けれども、その移民の男性を批判する気にはならない。
彼、そして多くの労働者たちにとって
切実な問題だ。
貧困でまともな生活ができない状態では、
いくら正義の話や理想論を聞かされても、
前向きに考えることはできないだろう。
片や民主党は、ハリウッド俳優や大物ミュージシャンたちが
支持を表明し、応援をしている。
しかし、僕には何かむなしく見える。
ああしたセレブたちのファンは大勢いるだろうが、
一生カネに困らない大金持ちたちの訴えを
「はい、そうですね」と聞くものだろうか?
ファンであることと、投票行動は別である。
それにセレブ達に支持されるほど、
カマラ・ハリスに大物感・やり手感がない。
比べちゃ悪いが、彼女の言動を垣間見る限り、
ヒラリー・クリントンのような
強さ・リーダーシップが感じられないのだ。
アメリカ社会の実情は知らないが、
ドジャース対ヤンキースの
MLBワールドシリーズの入場券が、
外野の立見席でさえ、数十万円に値上がった
という話を聞いて、
やっぱりこの国はクレイジーだと思った。
みんなの娯楽・みんなのお祭りであるはずの野球が
金持ちじゃないとリアルに体験できない状況に、
大多数の労働者は、やってられない感を
抱いたのではないか。
格差社会の大きさ、貧困層の過酷さは、
日本の比ではないのだろう。たぶん。
それがこの4年間の民主党政権で、
好転したという話は聞こえてこない。
世界情勢も混とんとするばかりである。
トランプが再選されたら、どうなるのろう?
今後の僕たちの生き方にも
けっこう大きな影響がありそうな気がする。
「マイナビ農業」で取材・執筆した
「ヴィーガンおせち」の記事がアップされた。
https://agri.mynavi.jp/2024_10_30_286955/
千葉県香取市の「アクスクリー」
という会社が運営するお惣菜店
「畑の台所まんぷくさん」が提供。
「ヴィーガン」と銘打つからには、
卵も、バター・チーズなどの乳製品も、
かつおやいりこなどの魚のだしも、
動物由来の食品は一切使わない。
それでおいしいものを作るには、
かなり高度な調理の技術とセンスがいる。
このお惣菜店は、そのへん定評と信頼があり、
聞くところによると、先月後半から受付を始めて、
すでにけっこう注文が入っているようだ。
奇しくも今日、11月1日は「世界ヴィーガンデイ」。
ベジタリアンは食に関しての菜食主義。
動物を殺さなければOKなので、
卵や乳製品を口にすることは認められる。
対してヴィーガンは食に限らず、
“動物から搾取して生きることを否定する”という
一種の哲学・ライフスタイルの在り方のムーブメント。
なので食に限らず、
毛皮・ウール・革製品などを身に着けることも
すべてNGだ。
たぶんその他にも、動物の脂を使った製品とか、
羽毛布団やダウンジャケットなどもすべてダメだ。
そんなこと現代文明の中で可能なのか?
そう思ったあなた、そうです僕も同感です。
たまにシャレでヴィーガン料理を
体験してみる分にはいいけど、
アレルギーもないのに、
毎日、肉・魚・卵・乳なしでやってられるか!
いったい何を食えばいいんじゃ!
でも、そう考えてしまうあなたや僕は、
すでに「旧人類」「20世紀型世代」
の域に入っているのかもしれません。
近い将来、人類の蛮行を正し、
この星の平和を守るために、
地球政府の運営権をAIが握ったとしよう。
20世紀までの人類の罪業を学習したAIは、
持続可能でクリーンな社会をつくるために、
これ以上、動物から搾取することは
まかりならん!
そんなルールを設けるかもしれない。
そしたら、タンパク源やエネルギー源はすべて植物性に、
肉も魚も工場生産の
人工的なフェイクフードになるかもしれない。
つまり地球人口が皆ヴィーガンになる日が来る。
そんな可能性もゼロではない。
というのは毎度おなじみの僕の妄想だが、
時代の要請に応じて人間の脳は
いくらでも変わる。
もしも「この先、人類が地球で生き残るためには
ヴィーガンにならなくてはいけない」
という、やむにやまれぬ必要が生まれたら、
一夜にして人間はそれまでの習慣を捨て、
新しい習慣を身に着けられるだろう。
というのも、また妄想なのだけど、
新年を迎える際に新しいことに挑戦するのはいいことだ。
おせち市場はこの10年あまりで大きく成長したが、
そろそろみんな、あれこれ手を変え品を変え
出してくる高額・贅沢おせちに飽きてくるころである。
この際、2025年の正月は、
「ヴィーガンおせち」を味わいながら、
人類の未来、地球の未来に思いをはせてみては
いかがでしょう?
競争社会の中でまじめな人、
がんばる人、向学心がある人ほど、
だまされたり、ひどい目に遇いやすい。
「あなたは政府やら大企業やら、
世のなかの権力者の言うことに騙されているのです。
または昭和時代の大人が言っていた
常識に縛られているのです。
『そんなうまい話があるわけない』
『ラクして儲けられるはずがない』
『汗水たらして働くことをバカにしてはいけない』
というやつです。
これらはみんなウソか、時代遅れの人生訓です。
それに縛られている限り、人生はどん底のままです。
わたしたちはそうした呪縛から自由になり、
いまや月○百万円に稼ぐことに成功しています。
あなたはいつまで労働搾取され続けるのですか?
いつまで奴隷の身分に甘んじているのですか?
さあ、私たちと一緒に自由になって稼ぎましょう!」
と、人生のどん底から這い上がったとかいう
逆転サクセスストーリーを持つ人たちの、
こんなメッセージをちょくちょく目にする。
この20年あまりの間、
世の中に大量の自己啓発本、自己啓発セミナー、
また、それらに関連するネット情報が出された。
そのなかには、あなたは政府やら大企業やら、
社会の権力者に騙されている、
と警鐘を鳴らすものが少なくない。
それ等の元ネタに悪意はないのだろうが、
歪めて解釈してしまっている人は
大勢いるかもしれない。
そうした概念を頭に入れて、
世の中の情報を見るようになった。
搾取とか、奴隷とか、刺激的な言葉は印象に残る。
自分は大切な情報を知らないがために
大損している愚か者なのだ。
なんとか逆転しなくては。
そう考える人たちが大勢生まれてしまったのではないか?
投資サギやインチキマルチなどに引っ掛かって
大金をだまし取られたり、
人生半ば放棄して闇バイトをやっちゃう人たちの中には、
そうした「愚か者の大逆転」をもくろむ大人、
さらにその子供が大勢いるような気がする。
世の中の仕組みの真実を知るのは容易ではない。
たしかに僕たちは誰かに搾取され、
奴隷にされている部分があるのかもしれない。
そう考えて発奮するのはいいが、
またそこでだまされたり、
自己放棄、人生放棄しては、愚か者二乗である。
そうならないためには、お金以外の分野の
価値観を作ることしかないように思う。
それが何なのかは人それぞれだから、
ひとりひとりが自分にとって何が一番大事なのか
考えるしかないけど、
勝ち負けとか、金持ちか貧乏人かとかの
二元論にこだわっていると、
頭がおかしくなって、ろくなことにならない。
負けてもいいとか、夢なんか諦めてもいいとか、
資本主義社会のなかで自由に生きるとか、
ちがった意味での自己啓発をしていこう。
土曜日に亀戸に行った帰り、
立憲民主党の野田代表が
駅前で演説しているのに出くわした。
大勝おめでとう。
でもだいじょうぶかな?
15年前の政権交代。
「悪夢の民主党政治」と、
安倍元首相は繰り返し、国民に刷り込んだ。
確かに悪夢だったかもしれない。
旧民主党が失態を繰り返し、
「やっぱり変えてもだめだ~」と、
国民を失望させた罪は大きい。
もともと変わるのが大嫌いな日本人が、
ますます政治を変えることに消極的になった。
おかげであの時は、自民党のアピールが説得力を持った。
そして目先だけの経済政策がウケて、
多くの国民が安倍政権を支援した。
それに乗じてこの10年あまり、
裏金問題をはじめ、やりたい放題。
「1億総活躍社会だ!」
「みんな100まで幸福に生きよう」
なんて美談が語られる一方で、
若者も高齢者もカネのことで頭がおかしくなり、
振り込め詐欺、投資サギ、インチキビジネス、
果ては闇バイトによる強盗殺人が横行する
社会になってしまった。
「悪夢の自民党政治」の成果。
これまた「失われた10年」ではないか?
しかし、これはこの10年あまりのことだけでなく、
昭和・平成と続いてきた、
この政党の生活習慣病みたいなものである。
僕の人生に匹敵するほど
長期にわたって築きあげた利権構造は、
ちょっとやそっとで崩れない。
今回の選挙で立民が大躍進したが、
野党第一党ということで、自公政権にお灸をすえるために
仕方なく投票したという人もすくなくないだろう。
けど、「お灸をすえる」なんて、
甘っちょろい、のんびりしたことを
言っていられる状況なのか?
かつてのトラウマもあるし、
そもそも立民に野党を束ねる力がないので、
すぐに政権交代には繋がらないだろう。
これからどうなっていくのか、
まず見守るしかないのだが、
このひどい状態を作り出した最大の原因は、
53%という、前回を下まわる低投票率がある。
いくらネットが普及し、SNSが広まっても、
結局、政治のことなど、みんな他人事だから、
情報などあってもなくても同じなのだ。
だけど政治を、生活の基盤となる社会構造を
いつまでも無視できるのか?
経済問題のみならず、
ロシア、北朝鮮、中国の動きなど、
国際情勢もやばいし、
アメリカももしトランプが再選されたら・・
という不安がある。
イスラエルとパレスチナの戦争も
まったく影響がないわけがない。
そして、今回の選挙ではほとんど触れられなかった
少子高齢化問題や教育問題。
耳障りの良い美文フレーズばかり聞かされて、
こうして手をこまねいているうちにも、
僕たちはどんどん齢を取っていく。
いやがおうでも、日本にも何か大きな変化が迫っている。
自分を含め、変化がきらいな日本人も、
近いうちにまた、
何らかの悪夢を見なくてはならない。
そんな覚悟も必要なのではないかという気がしてしまう。
毎月、ウェブサイトのコラム記事で
世界の終活映画の紹介をしているが、
フランスの近年の代表的な終活映画が
「パリタクシー」だ。
あらすじはシンプルで、これから施設に入居するという
92歳のおばあちゃんが、自分が住んでいた家から施設まで
タクシーに乗り、回り道をして、自分が暮らしてきた
パリの街を周遊するという物語だ。
タクシードライバーは当然、ひと癖ある中年男。
(変な奴が絡まないと、映画として面白くない)
いいおっさんだが、年齢は彼女の半分の46。
いわば息子と孫の中間みたいな、微妙な年齢設定である。
フランスも高齢化社会が進んでいるので、
こうした設定も面白く見える。
そしてまた、彼は当然のように、人生に問題を抱え、
経済的トラブルに苛まれている。
それでも救いは、彼がなんとか家族を守りたいと
考えているところだ。
しかし、タクシードライバーのギャラでは、
とても短期間にこのトラブルを解消しようにない。
つまり、追い詰められているのである。
しかし、ご安心を。
彼はけっして闇バイトに手を染めたり、
乗客であるおばあちゃんを脅したり殺したりして
カネを奪ったりしない。
これはそうした類のブラックなドラマでなく、
コメディ要素の強いヒューマンドラマである。
だから、こうした映画のお決まりで、
最初、ぎくしゃくしていた二人の仲は
しだいに打ち解け、おばあちゃんは
自分の思い出を彼に物語るようになる。
じつはその内容が、かなりブラックである。
僕が驚いたのは、彼女が若い時代、
1950年代のフランスでは、
まだひどい女性差別がまかり通っていたことだ。
何となくではあるが、20世紀にあって、
芸術・文化が発達したフランスは、
世界で指折りの先進的な国で、
女性が大事にされていたーーというイメージがあった。
この映画で語られていることは、
たぶん史実に基づいていることだと思うので、
かなり意外だった。
ほとんど昭和日本と変わらない。
もっとひどいぐらいである。
そして、彼女がより悲惨なのは、
暴力をふるった夫だけでなく、
可愛がった息子にも裏切られてしまうこと。
息子の裏切りは、当時のフランス社会の
現実を象徴しているのだろう。
普通のおばあちゃんのように見えたのだが、
ヘヴィなドラマを抱え、社会の差別と闘って
92歳まで生き延びたのだ。
厳しい人生だったが、
それでも私は良い時代を生きたと、彼女は語る。
そんな彼女の心情を表すかのように、
全編にわたって古いジャズが心地よく流れていく。
最後はとても心あったまる終わりが待っている。
てか、こんなおとぎ話みたいなオチって、
いくらヒューマンタッチの終活映画とは言え、
今どきアリ?みたいな感じ。
でも、人生がこんなおとぎ話で終わるならいい。
観た人の多くが、きっとそう言うと思う。
今年4月に学生時代の友だちが亡くなったので、
先週、同級生を集めて「偲ぶ会」をやった。
訃報を聞いた時は、そうでもなかったが、
こうした会を開いたり、追悼文を書いたりすると、
その友だちが、この世界にいなくなったという事実が、
後を追ってじわじわと体に沁み込んでくる。
まったく思いがけないことだったが、
おかげでこの1週間ほどメンタル不調に陥った。
20歳の頃、いっしょに劇団を立ち上げた仲間だったので、
ちょっと特別な存在だった。
ただ、20代後半以降は
これといって親しく交流していたわけではない。
年賀状で近況報告をやりとりしていただけだ。
出会って5年間ぐらいがすべてと言ってもいいくらいだ。
若い時代は損得勘定抜きで、
いろんなやつと付き合っていた。
「抜き」というより、アホだったので、
どうすれば損で、どうすれば得なのかが
そもそもわかっていなかったと思う。
けれどもそうしたアホな時代の思い出こそが、
ここまで生きてくる間、
心を満たす財産になっていた。
そして、この財産は一生残り続けるのだろう。
もし、認知症になったら、
社会人としての分別や損得勘定は忘れてしまっても、
アホな連中と演劇をやった記憶だけは残るのかも。
心の底から楽しんで、一生懸命やったことは、
きっとずっとそのままだと思う。
Where is a Dog?
「犬はどこにいるの?」というのが店名。
吉祥寺にあるグルテンフリーのカフェで、
「ヴィーガンライス」を食べた。
肉に見えるのは大豆ミートだ。
日本人の主食はコメだが、
昨今のパン、麺類、パスタの人気を考えると
半分とまではいかないまでも、
主食の3~4割は小麦由来が
占めているのではないかと思う。
けれども、この小麦が
健康トラブルのもとになっている人が意外と多いようだ。
もともと小麦を主食としている欧米人が、
小麦がアレルゲンとなっていることに気付き、
グルテンフリーのムーブメントが広がっている。
それなのに、伝統的にコメと大豆を食し、
世界に冠たるグルメ大国にもなっている日本が、
この方面にひどく疎いのはなぜだろう?
しかもグルテンフリー食品は、ずいぶん高価で、
あまり気軽に手を出せるものではない。
もっと気軽にグルテンフリーや
ヴィーガン料理を食べたい・体験したい
という人は多いのではないか?
そうした人にとって、
ユニークな店が多い吉祥寺は
探索のし甲斐があるのでないかと思う。
さて、「犬はどこにいるの?」というこの店、
入ってみると、店内はネコだらけ。
でも、この中に一匹だけ犬がいる。
ぜひ一度、犬を見つけに行ってください。
東京博善の「ひとたび」というオウンドメディアで、
毎月、「世界の終活」に関するコラム記事を書いている。
その記事で毎回、最後のパートで
「終活映画」を紹介しているのだが、
その大半が、主人公が旅をする映画、
ロードムービーである。
「はじまりへの旅」/アメリカ
https://eiga.com/movie/83862/
「君を思い、バスに乗る」/イギリス
https://eiga.com/movie/96989/
「パリタクシー」/フランス
https://eiga.com/movie/98840/
「ノッキング・オン・ヘブンズドア」/ドイツ
https://eiga.com/movie/47692/
死を意識した人、人生の終わりが見えた人は、
少なくとも映画というフィクションのなかでは
皆、旅に出る。
それは過去を検証する旅、
他者とのつながりを確かめる旅、
そして、この世における自分の存在を
再認識する旅である。
「わたしは本当にこの世界で生きて来たのだ」
と、登場人物は思う。
そこに文学性・ドラマ性を見出し、
エンタメ性を掛け合わせたのが終活映画だ。
そして、彼ら・彼女らは
こんどはあちらの世界に旅立っていく。
僕たちの人生は、割とどうでもいいものに縛られ、
時間の大半を、家や仕事場に留まって
浪費しているのではないか、と思うことがある。
仕事や家族が「割とどうでもいいもの」
というのは乱暴だし、批判があると思うが、
僕たちは自分を大事にするためにも
しょーもないしがらみから逃れて、
日常から離れた「旅」を大事にした方がいい。
観光旅行のような経済の消費行動動ではなく、
自分の人生を形づくる自由な旅。
出ようと思えば、それは明日からでも出られる。
人生は思ったよりもずっと短い。
「人生の最後に旅をしよう」
そう思いついた時には、
もう頭も体も心も動かないかもしれないのだから。
葬式に来た人たちが思わず「ワハハ」と笑ってしまう
遺影がいいなと思った。
というのも、今日、義母と散歩に行ったら、
珍しく写真を撮らせてくれたからだ。
写真を撮られるのがきらいで、
これまで何度カメラ(スマホ)を向けても
そっぽを向くばかり。
しかたないので、盗撮(?)を繰り返していた。
今日は天気もよかったし、
一昨日、美容院に行って
ヘアスタイルもきれいになっていたので、
ベンチに座っていた時、
何の気なしにスマホカメラを向けてみたら、
どういう風の吹き回しか、
みずからおどけたポーズを取り、
まともに正面から撮影に応じてくれた。
おお、初めてと言っていいくらい
よいポートレート写真。
子どもみたいに
かわいくてひょうきんである。
晩飯の時に、
「これ、遺影にどう?」と言って
カミさんに見せたら、笑って大喜び。
部屋に飾るにもいい感じだ。
葬式に来た人たちが笑い、
家族の心を明るくできる、
自分のもそういう遺影がいい。
もうすでにだいぶ自由だけど、
死ぬときはもっと自由。
そう考えると、死も怖くない。
演劇をやっていたので、むかしは演劇をよく見た。
しかし最近は、
・義母の介護・面倒で、
仕事以外ではめったに家をあけられない。
・観劇料が高い。
・その割に面白くない。
あるいは面白い芝居が少ないように思える。
3つの理由で、劇場に足を運ぶことは
年に1,2度しかない。
とは言え、演劇には人一倍興味がある。
受け持つ生徒の顔と名前を一発で覚えるという
離れ業をやったのにもかかわらず、
5年生女子から「キモ先生」と言われて
意気消沈してしまった小学校の臨時教師Kくんは、
この秋、演劇発表会の演出をやっている。
彼は大学時代、サークルで演劇をやった経験があるので、
それにもとづき、5年生相手に腹式呼吸やら、
舞台に立った時の目線のことなど、
ビシバシ指導をしているというのだ。
上演する芝居の内容はよく聞いていないが、
小学校なので、もちろん全員参加。
ただ、役者をやりたくない子は、
裏方でもOKなので、
照明や小道具係などを希望するらしい。
登場人物は村人1、2.3・・・みたいな役が多く、
あまり目立ちたくない子は、やはりこれらを希望。
でも、こういう機会に超積極的な、
自己主張の強い子は必ずいる。
このテの子ども、スポーツ分野は男子が多いが、
演劇などの文化・芸能系は、圧倒的に女子だ。
話を聞くと、どうやら主役は女の子で、
魔法を使えるお姫様うんぬんと言っていたので、
「アナ雪」みたいな話なのだろうか?
やる気満々、「あたしはスターよ」
みたいな女の子が3人、
クラス内オーディションで選ばれた。
面白かったのが、女の子の役なのに、
主役の立候補者の中に、男の子がいたという。
僕たちの時代には考えらえなかった。
なかなか勇気のある子だ。
彼はセリフも演技もけっこううまかったようだが、
プロの世界ならいざ知らず、
学校教育の一環である演劇発表会で
ヒロイン役に男の子を配役するわけにはいかない。
残念ながら、彼は落っことされて、
村人1、2.3・・・にされてしまったようだが、
どんな子なのか、なんだかとても気になった。
小学5年生の演劇発表会。
どんな役を希望するのか、
どんな役・どんな係に就くのか、
何かその子のこれからの人生を
暗示しているようにも見える。
もちろん、この時点ですごく引っ込み思案で、
村人1をやっていた子が
数年先に突如覚醒し、大スターになったり、
照明係をやっていた子が
そのままメカ系の道でイノベートして
有力ベンチャーになったりとか、いろいろあり得る。
勉強やスポーツの場とは違う、
可能性の舞台が、演劇の場には広がっている。
むかし、猛毒の大腸菌O157が流行した時、
その原因がカイワレダイコンにあると報道されて
大さわぎになったことがある。
そこで誤解を解き、
カイワレダイコンの安全性をアピールするため、
当時の厚生労働大臣はじめ、政治家のお偉方が
テレビカメラの前でカイワレダイコンを食べ、
その安全性をアピールするという
パフォーマンスをやった。
正直、ちょっと無理してがんばっているなと思ったが、
(少なくともおいしそうには見えなかった)
とりあえずそれでことは収まった記憶がある。
さて、そこで今月から始まった、
高齢者に対する
「レプリコン(自己増殖型)ワクチン」の接種。
その安全性や副反応の影響が懸念されており、
「レプリコンワクチン接種者は立ち入りお断り」という
病院があちこちに現れている。
このワクチン接種者が呼吸すると、
有害な感染性生物学的毒素が大量にばらかまれ、
近くで同じ空気を共有する人の
健康を害するリスクが高まるからだ。
危険性は国内外の多くの専門家によって指摘されている。
そもそも欧米ではこのワクチンは認可されていないのに、
日本は受け入れてしまった。
でも、ただでさえ働き手が減っているのに、
働き盛りの若い年代に
健康リスクを負わせることはできない。
なら、生産性の低い高齢者
(および、基礎疾患のある人)ならどう?
高齢者なら「感染症の理数を減らせますよ」と、
理由づけられるし。
そこでなんかあっても「お齢ですから」と、
原因特定されにくいし。
ちょうどいいモルモットになるんじゃね?
それでどうなるか、様子を見ましょう。
というわけで、高齢者への接種が決まったらしい。
というのは僕が勝手にでっちあげた
バックストーリーだけど、
そんなに間違っているとは思えない。
うちにも義母のところにご案内が来たが、
受けさせるつもりはない。
これだけあちこちで「ヤバイ」と言われているので、
先に挙げたカイワレのように、
政治家のお偉方がテレビカメラの前で
ワクチンを接種して「安全・安心です」
とアピールでもすればいいのに、
その気配すらない。
ということは???
打つ・打たないを決めるのはその人自身だが、
ワクチンの毒素が周囲に
ばらまかれるという話を聞いては、
「どうぞご自由に」とはいえない。
高齢者の皆さん、モルモットになっていいですか?
人類の役に立つのなら、
子どもたちの明日への礎になるなら、いいですか?
小学校で臨時教師をしているK君は、
先日から5年生を担当することになった。
彼は1回会っただけで、
クラス全員の顔と名前を覚えられるという特技の持ち主。
大人の社会では優秀な人、
もちろん、学校の先生としても優秀と認められるはず。
だが、男子は「「せんせー、スゴっ!」
と、素直に賞賛してくれたが、
女子は「せんせー、キモっ!」
たしかに一発で30人余りの
顔と名前を記憶できる能力は、
執念とか執着心とか、
ちょっと異常性の強い気質と結びつくのかもしれない。
驚異だけでなく、脅威の目で見られたのだろうか?
この年頃は女の子の方が成長が早く、
大人にリーチしている。
男の子は単純にその人の能力を評価するだけだが、
女の子はどうも、それを通り越して、
その人の人間性全体を見抜く力があるのかもしれない。
「おまえ、変態×オタク×ストーカー野郎と
みられたんじゃねーの?」
と、冗談交じりで言ったら、
K君、ちょっと動揺していた。
僕は彼を頭脳明晰な好青年だと思っているが、
少なくとも大谷選手的な
明るいスポーツマン風ではない。
それに大半の男は、何かのきっかけで、
変態、オタク、ストーカーになる可能性は持っている。
おそらくそこを突かれての「キモっ!」なのだろう。
それにアニメやマンガなどの影響で、
日本は世界一のロリコン大国になっている。
ふだん生活していると、気が付かないが、
リアルでも、バーチャルでも、
巷にこれだけかわいい美少女が溢れている国は、
世界のどこにもないだろう。
じつはそれが日本の観光資源の一つになっていて、
オタクな外国人旅行者を引き寄せてもいる。
たぶんこうした環境が
彼女らの心に微妙に影響を及ぼしているのではないか。
というのが僕の見立てである。
いずれにしてもK君には
この生意気な女の子たちにめげず、
なんとか手なずけて
先生としてがんばってほしい。
そして、くれぐれも本物の変態に変身しないことを
祈っている。
チョウチョと言えば春を連想するが、
夏の終わりから9月にかけて、
近所の公園でやたらとチョウチョを
多く見かける。
この時期、トンボが多いのはわかるが、
なぜチョウチョ?
それに暑さが残っているせいか、
セミ(ツクツクホウシ)もまだがんばっている。
猛暑で季節感がめちゃくちゃだが、
何はともあれもう10月で、
今年も残り3か月と思うと、
心穏やかでいらえなくなるが、。
1日3分深呼吸して、
自然の美しいものを見れば
きょうも1日豊かな気分になれる。
テレビにネットに、美しい努力、ドラマチックな成功、
カッコいいヒーロー・ヒロインが蔓延している。
「大借金・大地獄から人生大逆転して、今は大金持ち。
あなたも私にあやかってみませんか?」
って、毎日のようにメッセージが来るけど、
そんなサクセス野郎・ビジネスできちゃった女が、
マンボウの卵みたいに
うようよいてたまるかっつーの!
こういう美辞麗てんこ盛りの似非成功話、
あやしい金持ち自慢のクソ美談をぶっ飛ばし、
本当に頑張っている人、
ちゃんと人生やってる人たちを描く、
電子書籍のノンフィクションシリーズをスタートします。
コストゼロで、取材先の広告になり、
僕自身も楽しく稼げる
ウィンウィンのセルフ新企画。
いよいよ第1号の取材を開始しました。
リリースは年内。しばらく待っててね。
興味のある方は、ぜひご連絡ください。
犬を自由に操る女装のダークヒーロー。
壮絶なアクション。
監督は「ニキータ」「レオン」のリュック・ベッソン。
ということで、ベッソン特有の
妙に重量感のあるアクションシーン、
そして、目を覆いたくなるような暴力・殺人シーンが
先行して頭に浮かんで、
しばらくためらっていたが、やっと見た。
良い意味で裏切られた。
「ドッグマン」(2023年)は、人間の美しさ、
そして、犬の美しさを描いた、すごくいい映画だ。
これはAmazonPrimeでなく、
映画館で観るべきだったかもしれない。
何と言っても、主役ダグラスを演じる
ケイレブ・ランドリー・ジョーンズが魅力的。
少年時代、彼は父と兄に虐待されて
犬小屋に放り込まれて生活することになり、
障害を負いながらやっと脱出する。
その後、養護施設で、のちにシェイクスピア女優になる
養護員の女性に芝居を通して生きる喜びを学び、
彼女に恋をして成長する。
しかし、そんな彼に世間は決してやさしくない。
やがてドラッグクイーンとなって歌って
アイデンティを保つ一方で、
犬たちと生活するために犯罪に手を染める。
そうした変化の在り様・人間形成の在り様を
じつにビビッドに演じ描く。
また、紹介文や予告編などから、
犬たちは恐ろしく凶暴で、獰猛で
野獣的な犬を想起させるのだが、
意外にもけっこう可愛いのが多い。
随所に人を襲うシーンがあり、
クライマックスのギャングとのバトルでは
それこそ壮絶な闘いを繰り広げるが、
けっしてリアルには描かれず、
ここで出てくる犬たちは、
ファンタジーの領域にいる生き物のように見える。
動物愛護団体の視線もあるので
襲撃・戦闘シーンは、
あまりリアルには描けないという
事情もあるのかもしれない。
ベッソンの映画はアクションやバイオレンスばかりが
取りざたされる感があるが、
彼のドラマづくりは、
いつも人間の美しさ・崇高さを追求している。
そういう意味では、
アクションで売り出す前の出世作「グランブルー」で
前面に出ていたファンタジー性こそ、
ベッソン映画の真髄・醍醐味なのだと思う。
この映画では最後にそれが表出される。
ラスト5分は本当に美しく、
ダグラスは人間を卒業して神になるかのようだ。
そして犬たちがダグラスを導く
天使のように見えて涙が出た。
「DOGMAN」は「GODMAN」。
アナグラムになっているのだ。
一つ気になるのは、全体の雰囲気が
「ジョーカー」(2019年)によく似ていること。
こちらも主役ジョーカー(アーサー)を演じた
ホアキン・フェニックスの怪演が見ものだが、
「児童虐待」「障がい者差別」「貧困との戦い」
これらを物語の根底のテーマに
置いているところも同じだ。
別にパクリだとは思わない。
こうした個人的問題と社会的問題が
ダイレクトにつながって感じられる点が現代的で、
映像系であれ、文学系であれ、
エンタメコンテンツに求められている
現代的役割の一つなのだろうと思った。
ちなみに「ジョーカー」の続編、
『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』が
来月、10月11日(金)劇場公開。
なんとレディー・ガガが共演する。
「週末の懐メロ第6巻」無料キャンペーンは
本日15:59で終了しました。
ご購入ありがとうございました。
よろしければレビューをお寄せください。
お待ちしております。
4年かけて全6巻、完結。
サブスクでも読めますので、ぜひ、どうぞ。
テレビドラマ「飛びだせ!青春」の主題歌で
1972年の大ヒット曲。
当時の「青春教」のテーマソングと言えるかもしれない。
僕も中1で声にぶち当たり、すっかり洗脳された。
ロックを聴くようになってからは、
なんだか恥ずかしくて聴けなかったのだが、
何十年ぶりかにちゃんと聴いてみると、
とても良い歌だ。
この歌から50年余りが経ち、
豊かで平和なニッポンでは、
齢など関係なく、誰もがためらうことなく
「青春」を謳歌できる社会になった。
たとえば、子育てを終えたお母さんは、
精神だけなら18歳の娘と同級生になったって
とがめられない。
社会人として最低限のルールさえ守っていれば、
自分のその時の気分や都合で
大人と子供を行ったり来たりもできる。
50代・60代・70代でも
精神年齢は10代・20代でいられるし、
また、そうした在り方が奨励されたりもする。
(あなたはどうですか?)
人生100年時代は、一生青春時代。
でもこれって考え直すと、
いつまでもずっと思春期が続くということ。
生活環境も価値観も
めまぐるしく変わっていくこの世界で
僕たちはどう生きるのか?
君たちはどう生きたいのか?
鬱陶しい悩みを抱えて、
死ぬまで歩き続ける覚悟をしなくちゃならないかもね。
20世紀ポップミュージックの回想・妄想・新発見!
音楽エッセイ集
週末の懐メロ 第6巻
9月23日(月・祝)まで
無料キャンペーン実施中!
同窓会のコピーライティングの仕事を頼まれた。
同窓会のために
わざわざコピーライティングやロゴデザインを
依頼するくらいだから、
とても大規模なものだ。
もちろん、クライアントの名前は言えない。
フリーランスになってしばらくの間、
2000年頃までは割とこうした系統の仕事があったのだが、
今回は久しぶり。
何かちょっと若がえった感じがする。
最近、コロナ禍明けの世界の変わりように
ちょっとまごつき、
なんだか64歳でこの世に新しく生まれた
錯覚にとらわれることもある。
まるで映画の「ベンジャミン・バトン」みたいに。
生まれた時は年寄り。
成長するにつれて若くなり、
最期は子どもになって人生の幕を閉じる。
この間、歌手のテイラー・スウィフトが
ハリス大統領候補支持を表明したが、
その時にのニュースで、
彼女の飼い猫の名前も
「ベンジャミン・バトン」だと知った。
(3匹飼っているうちの1匹らしい)
たぶん、あの映画からとったのだろう。
ネコとファンタジーはお似合いだ。
僕もネコのように生きたいと思って、
その希望に忠実に生きてきたが、
その思いは齢と共にますます強まっている。
脳みそを10代・20代に戻すために
同窓会は特効薬。
さりげなく、明日1日ニャンばって考えてみる。
20世紀ポップミュージックの回想・妄想・新発見!
音楽エッセイ集
週末の懐メロ 第6巻
9月23日(月・祝)まで
無料キャンペーン実施中!
お彼岸6日間連続無料キャンペーン実施中
9月23日(月・祝)15:59まで。
この機会をお見逃しなく!
20世紀ポップミュージックの回想・妄想・新発見!
ブログ「DAIHON屋のネタ帳」で
2020年10月から2024年3月まで毎週連載した
「週末の懐メロ」を書籍化。
楽曲やアーティストを解説、
あるいはロック史・音楽史を研究、
といった大それたものではありません。
主観9割・偏見まみれの音楽エッセイ集です。
僕と同じ昭和世代・20世紀世代にはもちろん、
21世紀を生きる若い世代のお宝発掘のための
ガイドブックとしても楽しんでほしい。
良い音楽、好きな音楽をあなたの心の友に。
最終の第6巻は♯149~♯180を載録。
もくじ
149 僕のリズムを聴いとくれ(オエ・コモ・ヴァ)/サンタナ
150 わたし、あなたに何をしたの?/リサ・スタンスフィールド
151 アメリカンバンド/グランド・ファンク・レイルロード
152 涙のバースディ・パーティ/レスリー・ゴア
153 ザ・ラストリゾート/イーグルス
154 夢のカリフォルニア/ママス&パパス
155 孤独な影/ジャパン
156 青春の日々/ニコ
157 ワイルドサイドを歩け/ルー・リード
158 嵐が丘/ケイト・ブッシュ
159 マイ・スウィート・ロード/ジョージ・ハリスン
160 ナッシング・コンペア2U/シネイド・オコーナー
161 限りなき戦い/ペイジ&プラント
162 天国への扉/フェアポート・コンベンション
163 戦士/シナジー
164 エヴリウェア/フリートウッド・マック
165 2ハーツビート・アズ・ワン/U2
166 天使のささやき/スリー・ディグリーズ
167 ジャンプ/ヴァン・ヘイレン
168 今日突然に/カーヴド・エア
169 ロケットマン/エルトン・ジョン
170 ラヴィン・ユー/ミニー・リパートン
171 僕たちの家/クロスビー・スティルス・ナッシュ&ヤング
172 追憶/バーブラ・ストライサンド
173 ザ・ウェイ・イット・イズ/ブルース・ホーズビー
174 世界の重みを手に持つ少女/エディ・リーダー
175 ババ・オライリー/ザ・フー
176:ヒーローズ/デヴィッド・ボウイ
177 危機/イエス
178 ラミア/ジェネシス
179 放浪者(エグザイルス)/キング・クリムゾン
180 オールウェイズ・リターニング/ブライアン・イーノ
全32編載録
ELP(エマーソン・レイク&パーマー)と言えば、
「タルカス」「展覧会の絵」「悪の教典#9」
「海賊」といった、
壮大で劇的でプログレで、
とにかくド派手な大曲で知られるが、
どのアルバムにも、それらと対照的な、
お洒落な小品が入っている。
「ジェレミー・ベンダー」は1971年リリースの
アルバム「タルカス」のB面に収録。
初めて聴いたのは中学生の頃だったが、
当時はELPという、エッジの立ちまくった
プログレッシブロックの雄が、
どうしてこんなお茶目な曲をやるのか、
どうして、あのアグレッシブな
破壊神タルカスの世界観を損なうような曲を
同じアルバムに入れるのか、理解出来なかった。
劇的なのとお茶目でユーモラスなの、
どっちもやるから彼らの音楽は偉大で魅力的なのだ。
50年かけてやっとそう思えるようになった。
20分を超える組曲タルカスの対極に位置する
2分足らずのタイニーマジック。
This is ELP!
週末の懐メロ 第6巻
https://www.amazon.com/dp/B0CW1KKHXL
お彼岸6日間連続無料キャンペーン
本日9月18日(水)16:00~23日(月・祝)15:59
20世紀ポップミュージックの回想・妄想・新発見!
ブログ「DAIHON屋のネタ帳」で
2020年10月から2024年3月まで毎週連載した
「週末の懐メロ」を書籍化。
主観9割・偏見まみれの音楽エッセイ集。
・夢のカリフォルニア/ママス&パパス
・ザ・ラストリゾート/イーグルス
・嵐が丘/ケイト・ブッシュ
・ロケットマン/エルトン・ジョン
・天国への扉/フェアポート・コンベンション
ほか全32編 載録
クイーンはⅠとⅡに限る。
1973年のファーストアルバム収録の
隠れた名曲。
スリリングな転調と甘美なメロディライン、
そして、一度聴いたら忘れられない、
ブライアン・メイのギターのうねり。
50年経って輝き続ける
クイーンミュージックの凝縮版。
週末の懐メロ 第6巻
https://www.amazon.com/dp/B0CW1KKHXL
お彼岸6日間連続無料キャンペーン
本日9月18日(水)16:00~23日(月・祝)15:59
20世紀ポップミュージックの回想・妄想・新発見!
ブログ「DAIHON屋のネタ帳」で
2020年10月から2024年3月まで毎週連載した
「週末の懐メロ」を書籍化。
主観9割・偏見まみれの音楽エッセイ集。
・夢のカリフォルニア/ママス&パパス
・ザ・ラストリゾート/イーグルス
・嵐が丘/ケイト・ブッシュ
・ロケットマン/エルトン・ジョン
・天国への扉/フェアポート・コンベンション
ほか全32編 載録
なかなか涼しくならないが、秋祭りの季節。
今週は、うちの近所で最大の
杉並大宮八幡宮で開催された。
息子がチビの頃は、
自分も楽しみで仕方なくて、
あちこちの神輿を担いだり、
子どもと一緒に山車を引っ張ったりしたが、
今の住所に引っ越してからは
お祭りともすっかり縁遠くなってしまった。
それでもやっぱり、祭囃子を聞くと、
なんとなく体がうずうずする。
大宮八幡では夜、
きらびやかな8基の神輿の合同宮入りが
メインイベントになっている。
だが、2020年から昨年まで
コロナのために中止になっていた。
今年は何と5年ぶりの復活だ。
それで久しぶりに一目見ておこうと、
義母に夕食を食べさせた後、
カミさんにまかせて一人で出かけた次第。
以前は日がとっぷり暮れた午後8時に
各神輿が境内に入ってきて
大賑わいになっていた。
それで7時半過ぎに自転車を飛ばして行ったのだが、
なんと、ほとんど終わりかけ。
話を聞くと、今年から時間が前倒しになり、
6時からになったのだという。
よくよくポスターを見ると、
確かに6時になっている。
従来の8時だと終わるのが9時半ごろになってしまう。
子どもも大勢来るし、時間が遅すぎるということで
変えたのではないかと思う。
たぶん、来年以降もずっと同じ時刻でやるのだろう。
コロナが終わって帰って来た日常。
でも、何かが少しずつ変わってきているようだ。
ともあれ、僕たちが齢を食おうが、死のうが、
毎年、お祭りはずっと続く(はず)。
アメリカでAIによる終活・終末期医療ケアが進んでいる、
というテーマでコラム記事を書いた。
その際にリサーチした「PewResearchCenter」
というシンクタンクの調査を見ると、
アメリカ人の6割は
医療にAIが利用されることに不安を感じているという。
いくら優秀だって機械は機械。
人の身体を診ることなんてできっこない。
補佐的に使うことはあっても、
最終的に任せられるのは、やっぱり人間の医療者さ。
そう考える人が多いということだろうか?
そうでもないような気がする。
上記の調査が発表されたのは昨年(2023年)2月。
調査実施はその前の2022年12月。
この1~2年の普及度を考えると、
もし今、調査したら、
結果はもうすでに5:5になっているのではないか?
この調査で目を引いたのは、
AI導入を肯定的に捉える人の意見だ。
「医療ミスが減るから」というのは即座に頷けるが、
もう一つ、アメリカならでは(?)の理由があった。
「偏見や不公平な扱いの問題が解決する」という意見だ。
つまり、アメリカ社会においては
医療の場において
人種的・民族的な差別・偏見・不公平が
大きな問題になっているということだ。
AI・ロボットには心がない。感情がない。
人間にはあたたかさがある。
細かい心情の機微が理解できる。
だから人間のほうがよいのだ。
——その考え方自体が偏見ではないか?
人間は他の人間に相対するとき、
必ずといいほど先入観が入る。
人種・民族の違いはもとより、
社会的地位は自分より上か下か、
金持ちか貧乏人か、
利益をもたらしてくれる人か、そうでないか。
いろいろなバイアスがかかる。
AIを否定する人は
「人間はあたたかい、情がある」というが、
一方で人間は冷酷で残酷で利己的で、
差別と偏見に満ちているという点は
見逃している。
なかには素晴らしい徳のある医師もいるかもしれないが、
「医は仁術」という言葉はもはやファンタジーだ。
そういえば、昨日のニュースで、
障がい者が作るアートにAIの助言を入れて、
より良い作品にするという施策について伝えていた。
とてもいいアイディアだ。
ふつう、人間では「障がい者」という偏見にとらわれ、
妙に気を遣ってしまうなどして、
公平な目で批評し。助言することは難しいだろう。
その点、AIは曇りのない目を持った、
純粋な子どものようなものである。
しかもこの子ども、超絶頭がいいので、
最適解に導いてくれる可能性が高い。
しかし、そんな子どもは正直、怖い。
そりゃ怖いに決まっている。
「人間は偉いんだ」という自負を奪われ、
これまでの存在価値を貶められてしまうのだから。
だから人間はAIを怖れ、憎む。
この先、人間がAIを、
そして知性を持ったロボットを受け入れ、
うまく利用できるようにするためには、
AIとしっかり付き合って、いっしょに遊んで、
こうした怖れを払拭していくことが必要だと思う。
9月は認知症月間というのを初めて知った。
正確には「世界アルツハイマー月間」、
21日が「世界アルツハイマーデー」。
1994年9月21日、スコットランドのエジンバラで
「第10回国際アルツハイマー病協会国際会議」が開催。
会議の初日の日を「世界アルツハイマーデー」とした。
世界の患者と家族に
援助と希望をもたらすことを目的に、
アルツハイマー病等に関する認識を高める日
ということで設定されたそうだ。
認知症について騒ぎ出したのは、
つい最近のことだと思ってたけど、
今からもう30年も前から問題とされていたんだね。
日本ではまだ「ボケ老人」とか「痴呆症」と
呼ばれていた時代の話。
でも、いまや、いつ自分事になるかわからなくなった。
介護はこんな感じだよ、の入門編として
読める認知症介護エッセイ集。
「認知症のおかあさんといっしょ」
https://www.amazon.com/dp/B0BR8B8NXF
ちょっと明るくお笑い的に。
ちょっと死生観を交えて哲学的に。
気軽に認知症のことを知ってください。
おりべまこと電子書籍新刊
「週末の懐メロ 第6巻」
本日9月9日(月)発売!
20世紀ポップミュージックの回想・妄想・新発見!
ブログ「DAIHON屋のネタ帳」で2020年10月から2024年3月まで毎週連載した「週末の懐メロ」を書籍化。
楽曲やアーティストを解説、
あるいはロック史・音楽史を研究、
といった大それたものではありません。
主観9割・偏見まみれの音楽エッセイ集です。
僕と同じ昭和世代・20世紀世代にはもちろん、
21世紀を生きる若い世代のお宝発掘のための
ガイドブックとしても楽しんでほしい。
良い音楽、好きな音楽をあなたの心の友に。
最終の第6巻は♯149~♯180を載録。
もくじ
149 僕のリズムを聴いとくれ(オエ・コモ・ヴァ)/サンタナ
150 わたし、あなたに何をしたの/リサ・スタンスフィールド
151 アメリカンバンド/グランド・ファンク・レイルロード
152 涙のバースディ・パーティ/レスリー・ゴア
153 ザ・ラストリゾート/イーグルス
154 夢のカリフォルニア/ママス&パパス
155 孤独な影/ジャパン
156 青春の日々/ニコ
157 ワイルドサイドを歩け/ルー・リード
158 嵐が丘/ケイト・ブッシュ
159 マイ・スウィート・ロード/ジョージ・ハリスン
160 ナッシング・コンペア2U/シネイド・オコーナー
161 限りなき戦い/ペイジ&プラント
162 天国への扉/フェアポート・コンベンション
163 戦士/シナジー
164 エヴリウェア/フリートウッド・マック
165 2ハーツビート・アズ・ワン/U2
166 天使のささやき/スリー・ディグリーズ
167 ジャンプ/ヴァン・ヘイレン
168 今日突然に/カーヴド・エア
169 ロケットマン/エルトン・ジョン
170 ラヴィン・ユー/ミニー・リパートン
171 僕たちの家/クロスビー・スティルス・ナッシュ&ヤング
172 追憶/バーブラ・ストライサンド
173 ザ・ウェイ・イット・イズ/ブルース・ホーズビー
174 世界の重みを手に持つ少女/エディ・リーダー
175 ババ・オライリー/ザ・フー
176:ヒーローズ/デヴィッド・ボウイ
177 危機/イエス
178 ラミア/ジェネシス
179 放浪者(エグザイルス)/キング・クリムゾン
180 オールウェイズ・リターニング/ブライアン・イーノ
全32編載録
おりべまこと電子書籍新刊
「週末の懐メロ 第6巻」
明日9月9日(月)発売!
20世紀ポップミュージックの回想・妄想・新発見!
ブログ「DAIHON屋のネタ帳」で2020年10月から2024年3月まで毎週連載した「週末の懐メロ」を書籍化。
主観9割・偏見まみれの音楽エッセイ集。
僕と同じ昭和世代・20世紀世代にはもちろん、
21世紀を生きる若い世代のお宝発掘のための
ガイドブックとしても楽しんでほしい。
良い音楽、好きな音楽をあなたの心の友に。
最終の第6巻は♯149~♯180を載録。
もくじ
149 僕のリズムを聴いとくれ(オエ・コモ・ヴァ)/サンタナ
150 わたし、あなたに何をしたの?/リサ・スタンスフィールド
151 アメリカンバンド/グランド・ファンク・レイルロード
152 涙のバースディ・パーティ/レスリー・ゴア
153 ザ・ラストリゾート/イーグルス
154 夢のカリフォルニア/ママス&パパス
155 孤独な影/ジャパン
156 青春の日々/ニコ
157 ワイルドサイドを歩け/ルー・リード
158 嵐が丘/ケイト・ブッシュ
159 マイ・スウィート・ロード/ジョージ・ハリスン
160 ナッシング・コンペア2U/シネイド・オコーナー
161 限りなき戦い/ペイジ&プラント
162 天国への扉/フェアポート・コンベンション
163 戦士/シナジー
164 エヴリウェア/フリートウッド・マック
165 2ハーツビート・アズ・ワン/U2
166 天使のささやき/スリー・ディグリーズ
167 ジャンプ/ヴァン・ヘイレン
168 今日突然に/カーヴド・エア
169 ロケットマン/エルトン・ジョン
170 ラヴィン・ユー/ミニー・リパートン
171 僕たちの家/クロスビー・スティルス・ナッシュ&ヤング
172 追憶/バーブラ・ストライサンド
173 ザ・ウェイ・イット・イズ/ブルース・ホーズビー
174 世界の重みを手に持つ少女/エディ・リーダー
175 ババ・オライリー/ザ・フー
176:ヒーローズ/デヴィッド・ボウイ
177 危機/イエス
178 ラミア/ジェネシス
179 放浪者(エグザイルス)/キング・クリムゾン
180 オールウェイズ・リターニング/ブライアン・イーノ
全32編載録
日々、AI美女に頭クラクラ。
最近、AIがらみの記事をよく書いているので、
それに添える画像を検索する。
今年の春先までは、ほとんどが、
よくあるサイバー脳みそみたいなやつだったのだが、
夏場あたりから美女・美少女画像が激増した。
それもちょっと前までは
アニメっぽいのが多かったのだが、
見るたびにどんどんリアルなのが増えてきて、
写真と見分けがつかない。
もちろん、AI美少年・イケメンもいるが、
こっちはアニメ顔が多く、
数的にもクオリティ的にも
AI美女のほうが圧倒的に勝る。
ということはつまり、
AI美女を作るのに心血を注ぐ男が、
圧倒的に多いということだろう。
好きなもの・愛するもののためなら
みんな努力を惜しまないから、
スキルアップのスピードも速い。
女が女を作るケースもあるだろうが、
主流とは思えない。
今日は、作り方のプロンプト集を発見。
こんなものが公開されているのであれば、
今後、ますます美女・美少女は量産され、
ネット上に溢れかえるだろう。
そういえば、少し前からフェイスブックに
やたらと「ちょいエロ系美女」から
友だち申請が来るが、こいつらもAI?
もはや実在の女のメイクや整形も、
アニメやAIに寄せてきているし、