●エンディング文化の時代到来
エンディング産業展の取材を終えて考えたこと。
それは、エンディング――死を楽しむ時代がやってきたということです。
「死を楽しむ」というと語弊があるかもしれませんが、要はひとりひとりが自分の人生の終え方について期待感や希望を抱く、ということです。
いつかはこの世からおさらばしなくてはいけない。
これはあらかじめそう決まっています。
だったら悲しんだり寂しがったりするだけでなく、そうした感傷も含めて、思い切って楽しんだほうが「お得」なのではないでしょうか。
少なくとも僕たち、現代の日本人ひとりひとりは、そうしたことをできる豊かな文化に包まれて生きていると思うのです。
●人生は20歳まで
じつは人生は20歳で決定しています。
20歳までの経験とそこから吸収したもの、そして喜怒哀楽の感情で人間の心身の基盤は出来上がります。
どうすれば自分は気持ちよく生きられるのか、この世の人生において何に価値を置いて生きるのか、自分が果たすべきミッションは何なのか・・・これらはもうみんな、最初の20年で僕たちの内側にしっかりインプットされます。
ただし、そのことに気づくかどうか、それらをいつ発見できるか、はその人しだいです。最期まで見つけられずに終わってしまう人も少なくない。いや、もしかしたら大半の人はそうなのではないでしょうか。
だから20歳を過ぎた大人は、自分の人生の主人公は自分であると、しっかり意識したほうがいい。
そして日々、自分の人生の台本を書いていくといい。
細かく書き込む必要はないけれど、どういう流れでどうなり、どんな大団円を迎えるのか、エンディングまで想定してプロット(筋書)を作っておくといいと思います。
もちろん、僕たちを取り巻く環境は、時代とともに刻一刻と変化していくので、日々リライトすることが必要です。
でも、ベーシックな台本があるとないとでは違います。まったく手ぶらで毎日アドリブだらけでは続きません。
でもじつは、わざわざ僕がこんなことを言わなくても、あなたも自分の人生の台本はひそかに書き進めているはずなんですよ。
耳を澄まして自分に聞いてみてください。
そして、目を凝らしてよく探してみてください。
●リライトしよう、今からでも始めよう
親やら先生やら世間一般やらの書いた台本で生きている――
もし、あなたがそう感じるのなら、そんなものは破り捨てるか、端から端までリライトして自分のものにしてしまう必要があるでしょう。
また、もう齢で今からでは手遅れだ・・という人も大丈夫です。
これまでの記憶・実績を材料に再構成することができます。
起きてしまった事実は変えられなくても、現在の自分、そして未来の自分に合わせて、その事実の意味を変えることができます。
マイナスと捉えていた事象もプラスに転換することができます。、
これもどんどんリライトしましょう。その気になれば一晩でできます。
完成度の高い台本、公開する台本(必要だと思えば見せてもいいけど)を作ることが目的ではありません。
自分が主人公であることを意識し、生きるということについてイメージを広げ、深めるためにこうした考え方をするのは有効ではないかと思うのです。
●エンディング産業を面白がろう
エンディング産業は「人の死をネタにしたお金儲け」と、胡散臭い目で見られることがまだまだ多いようですが、歴史・文化・哲学など、いろいろなことを考えさせてくれる媒体です。
そして経済と結びつくことで、世の中に大きな影響を与えていきます。
そこで提供されるあふれんばかりの商品やサービス――それこそラーメン一杯からデザート付きフルコースまで――は、すべて今を生きる人たちの心が投影されたものばかり。どれを選ぶかは自分次第だし、オーダーメイドも可能だし、どれも選ばないという選択肢だってもちろんあります。
興味と好奇心を持って覗いてみると、きっと面白いと思います。
2016・8・28 SUN
「おまえら、いいトシこいて小学生かよ~」
というのが「女子・男子」という呼び方に対する感想でした。
20代だったらいざしらず、いったいいつから中高年まで女子・男子と呼びならわすようになったのか?
たぶん少なくとも21世紀以降のこと。今ほど頻繁に使われ、定着するようになったのは、この10年くらいか? どうも前から気になっていたので、これがいったいどういう意味を持つのか考えてみました。
●間柄によってビミョーに呼び方を変換
近頃、女・男を呼び表すのって意外と難しいのです。
「女性・男性(ジョセイ・ダンセイ)」は書くのはいいけど、音声で表す場合、どうもフォーマルすぎる。改まった席や仕事の場でなら問題ないが、ちょっとくだけた場や親しい間柄で「ジョセイ・ダンセイ」と言われると違和感があります。
それならやっぱり「女・男(オンナ・オトコ)」―― 僕はこの呼び方を好むのですが、困ったことに最近、女性の中に敬遠する人が少なくない。
文脈の中でどう使うかにもよりますが、「セックスを感じて恥ずかしい」「あまり口では言いたくない」という意見があるのです。「情婦・情夫」といった漢字と結びつくのでしょうか。性を伴う愛のにおいがするのでしょう。
かなり親しい間柄でなら問題ないけど、やや親しさが希薄な友だち・仲間、あるいは仕事の同僚などに対しては、もしかしたら不愉快に感じるかな?と思ってしまうので、僕も「女の人(オンナノヒト)」といった言い方をします。(自分が男なので、男は「オトコ」でOK)。
つまり相手によってけっこう使い分けなくてはならない。いやはや、なんとも日本語は繊細で複雑でビミョーです。
それに仕事でも趣味でもプライベートでも、年齢層で分断されることなく、いろいろな年代の人間が、フラットな関係で入り混じって行動するようになったことも、こうした呼称のビミョーさに影響しているのではないかと思います。
●安心・安全なジョシ・ダンシ
そこで登場した「女子・男子(ジョシ・ダンシ)」は、かなり便利。
もともと子供・若者、あるいはスポーツ選手に対しての呼称だったので、「ジョシ」「ダンシ」と言われると、なんだか若返ったような気分になるし、カタさがなく、親しさイマイチの間柄でもOKだし、一般的な呼称としても安心して使えます。
●英語文化と日本語文化
女子・男子は英語だとGIRL・BOY。
英米ではむしろこっちのほうがセックス臭が漂いますね。
その方面のお仕事をしている人はこの呼称で呼ばれることが多いと思います。
なので普通、英米人の中高年は「GIRL」「BOY」なんて呼ばれたら腹を立てるんじゃないでしょうか。
ところが日本語―ー日本人の場合はその逆。
比較して考えると、英米が子供・若者(子供っぽさ・若さ)を下に見るのに対して、日本人には子供を神聖視したり、若さを尊ぶ精神構造があります。女子・男子×GIRL・BOYには、そうした文化の違いも見て取れします。
●女子・男子の裏にある「成長」というキーワード
もうちょっと深掘りしてみたらどうなるか・・・ということで発見したのが 5年ほど前、自分のブログで書いていた文章。これは当時、映画・TV・演劇で「三銃士」がちょっとしたブームになっており、それについて書いたものです。
いわゆる“成熟社会”となった先進諸国では“成長”は重要なキーワードだ。未熟だろうが、ダメダメなところがあろうが、成長を感じさせる、言い換えれば、未来への可能性を感じさせる人や集団や企業は、すこぶる魅力的に映る。
つまり、今、それだけ“成長”というものに希少価値があるのではないだろうか。
成熟し、伸びきってしまった大人にはそうした魅力が見出せない。しかも環境の変化のせいもあり、信頼感も失墜しているのでなおさらだ。
ちなみにこれは実年齢のことを言っているのではない。10代・20代はもちろん、50代・60代でも“成長”しなくてはならない(少なくともそういう意志を見せなくてはならない)世の中になっているのだ。
そして、若いダルタニアンと年長の三銃士のように、互いに影響を与え合いながら伸びていくことが求められている……三銃士の物語は、そうした現実を映し出す鏡のような機能を持っているのでは、と感じる。
どうもこうした意識がそのまま、僕たちの深層心理に貼りつき、いつまでも成長しきらない子供・若者の部分を形成しているのではないかと思います。
それが「女子・男子」という呼称に結びついている。
国境が溶け、世代差が溶け、リアルとバーチャルの境界が溶け、それでいながら経済や社会階級の格差が広がる今、人間として完成してしまうこと、成長しきってしまうことは、今後のことを考えるとマイナス要素にしかならない。
齢は取っても可能性は残しておきたい・・・という気持ちの表れなのかも知れません。
●僕たちはいつまでウーパールーパーか?
というわけで、ウーパールーパー。
南米のサンショウウオの一種であるこの生き物、一般的には死ぬまで成熟せず、幼体のまま一生を終えるのだそうです。
最近「1980」を謳ったCMでテレビに再登場しましたが、 確かに1980年頃、ウーパールーパーみたいな顔をした若い連中(=当時の僕たちのことです)が街の中をうようよ泳ぎ回っていました。
あれから30年以上経った今も、依然として僕らはウーパールーパーそのもの。
オトナ女子・オトナ男子として、ろくすっぽ成長することなく、結局、単に子供オバさん。子供オジさんのまんまで終ってしまう可能性は大きいのではないかと思います。
でも「今どきの若いモンは・・・」という昔の人たちが本当に尊敬に値する大人ばかりだったのか?といえば、そんなことはない。情報がたやすく手に入らなかった時代の社会では、ごまかし、カッコづけも簡単で、威張っていられましたからね。
今、成長するとはどういうことなのか? ごまかしやカッコだけでなく、大人になるってどういうことなのか・・・人生の続くかぎり、考えていこう。
2016・8・15 MON
●氷の世界の恐怖のセイウチ
子供の頃、動物図鑑で初めてセイウチの写真(イラストだったかも知れない)を見た時は、そのモンスターのような姿・形に心の底から驚愕しました。
その時の僕のセイウチのイメージは、世界の果ての暗くて冷たい氷の世界で巨大な牙をむき出しにして世にも恐ろしい咆哮を轟かせる孤独な怪物。
こわかったなぁ。
人生の中でもしこんな怪物に出会うことがなあったら、僕は一瞬のうちにカチンコチンに凍り付いて、冷凍食食品になってこいつに食べられてしまうだろうと思い、どうぞそんなことになりませんように、と、何度もお祈りを唱えました。
●夢の世界でセイウチロウと邂逅
という衝撃が消えたのはいつのことだろう?
いろいろ本を読んだりテレビを見たりするうちに、セイウチは割とおとなしくて温かい生き物。孤独ではなく、群れをつくってのんびり暮らしていることなどを知りました。
それどころか、近年は日本水族館にも住んでいて愛嬌を振りまいてくれています。
そのセイウチ君に僕もお世話になっています。
夏、お昼寝するときは涼しい水族館のイメージを抱いて横になり、水中を魚がうようよ泳いでいる中をうつらうつらしつつ彷徨っているのですが、15分ないし30分ほどすると、コツコツと頭を何かがつつく。
「おい、起きろよ、セイイチロウ」
と目を覚ますと目の前には強大なセイウチが。やつはその牙の先で僕の頭をつついいたのです。
こいつはセイウチロウといってクールな夢のアラーム係として30分経ったから起こしにくるのです。それ以上寝ちゃうと夕方まで頭が働かなってしまうので。起きない時は歌を歌って起こします。
もちろん、歌はビートルズの「I am the Walrus」。
●ビートルズフェスでセイウチ登場
そういえば昨夜、録画しておいてずっと見ていなかったNHK-BSの「BEATLESフェス」なる3時間番組を見ました。
ビートルズ来日50周年ということで、当時の逸話――ビートルズにはっぴを着せた日航のスチュワーデスさんの話やら、独占取材に成功した星加ルミコさんやら湯川レイコさんの話――昔、音楽雑誌でよく記事を読んでいましたが、音楽ジャーナリズムのリーダーだった彼女らはまだ20代の女の子だったんですね――やら、を中心に、年寄りから若者まで入り混じったスタジオトークや、ビートルズ番組お約束のリバプール―ロンドン紀行(森高千里がキャバーンクラブに行ってドラムを叩いてた)などがてんこ盛りのバラエティ。
しかし、目玉は何といっても、新旧いろいろな日本のミュージシャンたちがやるビートルズナンバーのトリビュートライブでした。
財津和夫「Yesterday」や平原綾香「Hey Jude」などは、ま、定番の、という感じ。仲井戸麗市(チャボ)の「The Long and Winding Road」はほとんど自分で歌詞を書き換えた替え歌で、清志郎へのレクイエムにしか聞こえない。歌い方もそっくりだ。やっぱ寂しいんだろうね。
その中で一番面白かったのがラブ・サイケデリコの「I am the Walrus」。
ぐにゃぐにゃしたサウンドとともに、「おまえはあいつ、あいつはおいら、おいらタマゴ男、おいらセイウチ」なんていう、ジョンのナンセンスでファンタジックでグロテスクな詩の世界がぐりぐり脳天にねじ込まれてきて、めっちゃカッコいい! こんな新鮮なアレンジでこの曲を聞けるとは思ってもいなかった。まったく感動モノでした。
オリジナルを聞いて育ったおっさん・おばさんたちは、どうしてもリスペクトが先に立ってしまってアレンジも表面的で徹底しない。けど、「むかし、ビートルズっていうバンドがいたらしいね」と言っているような若い連中は、遠慮なくぶっ壊して、さらにおいしく料理していけると思います。
ジョンやジョージがあの世から「おいおい」と言って止めに来るくらい、ガンガンすごいアレンジをしてほしい。
●セイウチロウよ永遠に
おまえはあいつ、おまえはおれ、だからあいつはおれ、おまえはセイウチロウ、ぼくはセイイチロウ、おまえはセイイチロウ? ぼくはセイウチロウ?
まだまだ暑い。北極の氷の上でごろごろ寝そべる夢を見て毎日過ごすことにいたします。またセイウチロウと会うのを楽しみにして。
2016・8・11 THU
この夏は四国をお遍路しています。
ただし、オン・マイ・マインドで。
葬儀・供養の業界誌の仕事で、ネット~メール~電話で取材しては原稿書きの日々。
四国の葬儀の風習や、お遍路についていろいろ勉強しました。
で感じたのが、やたら四国にはネコが多いな、ということ。
そういえば香川県のある島でネコがいっぱいいるのをテレビで見たことがあります。それで有名になって、観光客が出向いて、かわいい、かわいいとエサをあげまくるのでさらにネコ天国となっているようですが・・・。
一方、僕が出会うのは、お葬式・お墓関連ので話からなので、この世とあの世の境界線上でニャーニャー鳴いているネコばかり。
●四国の葬儀における猫の存在
徳島や愛媛で、家で人が亡くなると枕元にホウキや刃物などを置く、という風習があります。(正確には「あった」という過去形。日本の昔ながらの葬儀・供養の風習のほとんどは全国どこでも、この20~30年の間に9割以上消滅している)
何のためにこんなことをするかというと、ネコがご遺体の上をまたがないようにするため。ニャアとまたぐと死人が生き返って歩き出すとか、逆にネコがバケネコ化するというのです。
ということは、この辺りではネコを飼っていた家が多のか?
いや、飼っていたというよりも、ネコだのタヌキだの、動物たちが「こにゃにゃにゃちは~」と、自由にあちこちの家を出入りしていたのではないか、と思います。
昔の日本の田舎の家は戸締りもいい加減で、常にオープン状態だったし、ネズミ退治にも役立つからね。だけど、キミはやばいからお葬式の時は来ちゃだめよ、という感じでしょうか。
●日本三大化け猫伝説「お松大権現」の猫
そんなわけでネコ伝説がはびこる四国。
徳島県阿南市には「日本三大化け猫伝説」の一つに数えられている「お松大権現」という神社があります。
ここに由来するお話は、借金苦にまつわるもので現代人にとってもリアル。
むかし、困っている村人たちを救うために金貸しから多額の借金をした庄屋さんが金貸しに裏切られ、借金を残して死んでしまう。
その妻・お松は「借金はちゃんと返したのに」と異議申し立てをしたのですが、その土地の奉行(きっと金貸しとつるんでいたと思われます。これも現代に繋がる政治とカネの問題です)が「わしゃ、返してもらとらんぞ」と、それを認めず、お松と、彼女が可愛がっていたネコを死刑にしてしまうのです。
なんでネコまで処刑されるのかわからないけど、「わしの命に背く者は一族郎党皆殺しじゃ」という論理だったのでしょうか?
ネコも一族郎党に加えられてしまったのですね。
で、この手の怪談兼勧善懲悪・庶民の味方ストーリーのセオリーとして、もちろん、この後、このネコはウソつきの金貸しと、権力乱用の奉行のところに化けて出て、悪者どもを地獄に叩き落とすというオチ。
めでたし、めでたしということで、この正義のバケネコはこの神社にまつられることになったのです。
●今や霊験あらかた、招き猫だらけの観光スポット
こうした因縁話があるせいか、なんと、この神社、今では受験と勝負ごとにご利益があるとして大人気に。バケネコになったネコはリベンジを果たした結果、「猫神様」に昇華。勝負ごとにご利益と言うので、全国からギャンブラーが詣でているようです。
そして猫神様は招き猫の姿になって降臨したので、境内は招き猫だらけになっているようです。いやー、すごい。でも、借金は勝負事――ギャンブルに頼らず、地道にコツコツ返したほうがいいと思うなぁ。
というわけで、妖怪も神様になってしまう四国。
そういえば「千と千尋の神隠し」で、妖怪だか神様だかわからない者たちが湯あみに来る湯婆の湯場も愛媛の道後温泉がモデルになっていました。
四国の旅・オン・マイマインド、まだまだ続きそうです。
2016・8・6 sat
川沿いの道で長さ1メートルのヘビに遭遇。
青みを帯びた銀色に輝くボディのアオダイショウ。
カメラ目線をキメてくれた。
なかなかいい面構えでしょ?
神々しくて思わず手を合わせてしまった。
今年も残すところあと3カ月。
大将、よろしくたのんます。
ナマケモノもよろしくたのんます。
1965年にリリースされた「夢のカリフォルニア」は、
「東海岸(おそらくニューヨークを想定)は
どんより曇っていて寒いよ。
晴れててあったかいカリフォルニアに行きたいなぁ」
というかなり単純な歌だ。
けれども当時、カリフォルニア州にあるサンフランシスコ、
ロサンゼルスはヒッピー文化発祥の地。
愛と自由と平和について語り合おう、
ついでにセックスとドラッグもやっちまおう、
という精神的革命の波が押し寄せていた。
アメリカの若者のほとんどが
社会からドロップアウトするんじゃないかという
勢いさえ感じた。
そんな中で「夢のカリフォルニア」は
一種のメタファーと受け取られ、
どんより曇って寒い街は旧世界の象徴、
太陽輝くカリフォルニア
(サンフランシスコ、ロサンゼルス)こそ
われらが求める新世界――と解釈されたらしい。
と言ってもこの頃,
僕はまだ小学校に入ったばかりのガキで、
ヒッピーをリアルタイムで体験したわけではない。
後年、音楽雑誌などで当時のロック・フォークの先輩方が
「サマー・オブ・ラブ」やら「フラワーチルドレン」やらを
熱く語っているのをカッコイイなぁと思っただけだ。
そしてテレビの音楽番組で見た
1967年の「モンタレーポップフェスティバル」。
この曲を歌うママス&パパスを見て以来、
僕の中ではずっと「夢のカリフォルニア」は、
60年代のヒッピー文化の象徴として、
一種独特の響きを放っていた。
ママス&パパスはグループとしては
3年ほどしか活動していない。
他にもいくつかヒット曲はあるものの、
ほとんどこれ1曲で
1998年にロック殿堂入りを果たしたと言っていいだろう。
それほどあの時代とのマッチングは強烈だったのだ。
けれども、そろそろその幻想とも
別れを告げた方がいかもしれない。
そう思ったのは、ジャズシンガー、
ダイアナ・クラールが2015年にリリースした
カヴァーを聴いた時だった。
オリジナルのママス&パパスから60年。
言い表せない感慨が胸に広がった。
渋くてカッコよくて、
そしてあまりに懐かしさと哀愁に満ちた
「夢のカリフォルニア」。
秋の夜、聴きながら一杯飲まずにはいられない。
●夢のカリフォルニア/ダイアナ・クラール
何かを達成するのはクレイジーなエネルギーである。
フリッパ(離婚したシングルマザーの中年女性)は、
たまたま子どもの付きそいで
シェイクスピア作の「リチャードⅢ世」の舞台を見る。
それが彼女の人生を変えた。
リチャードⅢ世の霊が彼女にとりついた。
あの世からやってきたリチャードとの対話から
彼の遺骨が墓にも納められず埋もれ、
名誉を棄損されていることを知る。
そして8割方インスピレーションによって、
その遺骨の眠る場所を探り当てる。
こう書くと、荒唐無稽なオカルト映画、
あるいはインディー・ジョーンズのような
考古学者の冒険譚なのかと思うかもしれないが、
これは事実をもとに作られた映画である。
英国レスターにおいて
リチャードⅢ世の遺骨発掘が行われたのは、
わずか5年前。2,018年のこと。
国営放送BBCは、そのドキュメンタリーを作ったが、
それを劇映画化したもの。
脚色・演出はされているが、
ストーリー自体は事実そのもである。
主人公のフリッパは、
もともと考古学に縁もゆかりもないもない。
「リチャードⅢ世」は、知る人ぞ知る、
シェイクスピア劇の中でも屈指の人気を誇る作品だ。
リチャードがこの世を去って1世紀後、
シェイクスピアがその伝説をもとに造形したのが
せむしで醜く、心も歪み荒んだ極悪の王。
その残虐非道さ故、
英国歴代の正当な王とは認められていなかった。
しかし、リチャードの人柄と行為は、
彼のあとに政権を握った王朝が、
自らの正義を民衆に示すために捏造したものだった。
ちょうど明治政府が徳川幕府の政治を貶めたように。
江戸幕府の開幕時、
徳川家が豊臣家の影を消し去ったように。
フリッパはリチャード(の幻影)との対話と、
あくなき調査によってそのことを確信し、
遺棄された彼の遺骨のありかも突き止め、
孝行学者と大学を動かして発掘調査を行う。
あくまでドキュメンタリー風の作品なので、
ドキドキハラハラみたいなエンタメ感は乏しいが、
面白く、妙に感動的な映画だ。
フリッパの行動の動機は、
世紀の発見をして歴史を覆してやろうといった
崇高な目的や野心のためでもなく、
もちろん一発当ててやろうという金儲けや
損得勘定のためでもない。
本当に霊に取りつかれてしまったか、
リチャードに恋をしてしまったか、
要ははた目から見たらめっちゃクレイジーな熱意なのだ。
それでも元夫や子供たちは彼女を応援し支える。
あくまでドキュメンタリー風の作品なので、
ドキドキハラハラみたいなエンタメ感は乏しいが、
そうした家族愛もあり、面白く、妙に感動的な映画だ。
そしてもう一つ。
彼女が自分の発想で、単独で始めたことを、
世紀の大発見という成果が得られると、
ちゃっかりその手柄を横取りし、
自分たちの栄誉にしてしまおうとする
大学や学者の在り方も、
リチャードを貶めた次期王朝権力と重なって面白い。
歴史は常にその時々の勝者・成功者・権力者が
つくってきたものである。
僕たちが英雄と信じている人が、
とんでもない悪人や詐欺師だったり、
悪漢や愚者だと思っていた人が、
実は英雄だったりすることもある。
インターネットが発達した世の中では
そうした驚くべきどんでん返しも起こり得る。
世界はまだまだ神秘にあふれ、
変化していく可能性を孕んでいる。
歴史が深く、多彩な物語が眠る英国だから作り得た
と思われるこの映画は、
そんなことまで考えさせてくれる。
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「ベティ・デイビスの瞳」はもともとは
レトロジャズだったとか、
「チャイルド・イン・タイム」は実は反戦歌だったとか、
新発見がいっぱい。
卒業式ソングとして「今日の日はさようなら」を
紹介したけど、「わたしの学校では卒業式に〈誰かが風の中で〉を歌いました」なんてメールまでいただきました。
天涯孤独の木枯し紋次郎が卒業ソングとは、
なかなかワイルドな学校ですね。
来月はルー・リードの
「ワイルドサイドを歩け」を取り上げる予定です。
20世紀のポップミュージックが
人類のレガシーになった今日、
21世紀を生きていくために
ぜひとも懐メロを楽しく読み解いてみては?
この本はその参考書としてお役立ていただければ幸いです。
良い音楽、好きな音楽をあなたの人生のおともに。
●エンディング文化の時代到来
エンディング産業展の取材を終えて考えたこと。
それは、エンディング――死を楽しむ時代がやってきたということです。
「死を楽しむ」というと語弊があるかもしれませんが、要はひとりひとりが自分の人生の終え方について期待感や希望を抱く、ということです。
いつかはこの世からおさらばしなくてはいけない。
これはあらかじめそう決まっています。
だったら悲しんだり寂しがったりするだけでなく、そうした感傷も含めて、思い切って楽しんだほうが「お得」なのではないでしょうか。
少なくとも僕たち、現代の日本人ひとりひとりは、そうしたことをできる豊かな文化に包まれて生きていると思うのです。
●人生は20歳まで
じつは人生は20歳で決定しています。
20歳までの経験とそこから吸収したもの、そして喜怒哀楽の感情で人間の心身の基盤は出来上がります。
どうすれば自分は気持ちよく生きられるのか、この世の人生において何に価値を置いて生きるのか、自分が果たすべきミッションは何なのか・・・これらはもうみんな、最初の20年で僕たちの内側にしっかりインプットされます。
ただし、そのことに気づくかどうか、それらをいつ発見できるか、はその人しだいです。最期まで見つけられずに終わってしまう人も少なくない。いや、もしかしたら大半の人はそうなのではないでしょうか。
だから20歳を過ぎた大人は、自分の人生の主人公は自分であると、しっかり意識したほうがいい。
そして日々、自分の人生の台本を書いていくといい。
細かく書き込む必要はないけれど、どういう流れでどうなり、どんな大団円を迎えるのか、エンディングまで想定してプロット(筋書)を作っておくといいと思います。
もちろん、僕たちを取り巻く環境は、時代とともに刻一刻と変化していくので、日々リライトすることが必要です。
でも、ベーシックな台本があるとないとでは違います。まったく手ぶらで毎日アドリブだらけでは続きません。
でもじつは、わざわざ僕がこんなことを言わなくても、あなたも自分の人生の台本はひそかに書き進めているはずなんですよ。
耳を澄まして自分に聞いてみてください。
そして、目を凝らしてよく探してみてください。
●リライトしよう、今からでも始めよう
親やら先生やら世間一般やらの書いた台本で生きている――
もし、あなたがそう感じるのなら、そんなものは破り捨てるか、端から端までリライトして自分のものにしてしまう必要があるでしょう。
また、もう齢で今からでは手遅れだ・・という人も大丈夫です。
これまでの記憶・実績を材料に再構成することができます。
起きてしまった事実は変えられなくても、現在の自分、そして未来の自分に合わせて、その事実の意味を変えることができます。
マイナスと捉えていた事象もプラスに転換することができます。、
これもどんどんリライトしましょう。その気になれば一晩でできます。
完成度の高い台本、公開する台本(必要だと思えば見せてもいいけど)を作ることが目的ではありません。
自分が主人公であることを意識し、生きるということについてイメージを広げ、深めるためにこうした考え方をするのは有効ではないかと思うのです。
●エンディング産業を面白がろう
エンディング産業は「人の死をネタにしたお金儲け」と、胡散臭い目で見られることがまだまだ多いようですが、歴史・文化・哲学など、いろいろなことを考えさせてくれる媒体です。
そして経済と結びつくことで、世の中に大きな影響を与えていきます。
そこで提供されるあふれんばかりの商品やサービス――それこそラーメン一杯からデザート付きフルコースまで――は、すべて今を生きる人たちの心が投影されたものばかり。どれを選ぶかは自分次第だし、オーダーメイドも可能だし、どれも選ばないという選択肢だってもちろんあります。
興味と好奇心を持って覗いてみると、きっと面白いと思います。
2016・8・28 SUN
「おまえら、いいトシこいて小学生かよ~」
というのが「女子・男子」という呼び方に対する感想でした。
20代だったらいざしらず、いったいいつから中高年まで女子・男子と呼びならわすようになったのか?
たぶん少なくとも21世紀以降のこと。今ほど頻繁に使われ、定着するようになったのは、この10年くらいか? どうも前から気になっていたので、これがいったいどういう意味を持つのか考えてみました。
●間柄によってビミョーに呼び方を変換
近頃、女・男を呼び表すのって意外と難しいのです。
「女性・男性(ジョセイ・ダンセイ)」は書くのはいいけど、音声で表す場合、どうもフォーマルすぎる。改まった席や仕事の場でなら問題ないが、ちょっとくだけた場や親しい間柄で「ジョセイ・ダンセイ」と言われると違和感があります。
それならやっぱり「女・男(オンナ・オトコ)」―― 僕はこの呼び方を好むのですが、困ったことに最近、女性の中に敬遠する人が少なくない。
文脈の中でどう使うかにもよりますが、「セックスを感じて恥ずかしい」「あまり口では言いたくない」という意見があるのです。「情婦・情夫」といった漢字と結びつくのでしょうか。性を伴う愛のにおいがするのでしょう。
かなり親しい間柄でなら問題ないけど、やや親しさが希薄な友だち・仲間、あるいは仕事の同僚などに対しては、もしかしたら不愉快に感じるかな?と思ってしまうので、僕も「女の人(オンナノヒト)」といった言い方をします。(自分が男なので、男は「オトコ」でOK)。
つまり相手によってけっこう使い分けなくてはならない。いやはや、なんとも日本語は繊細で複雑でビミョーです。
それに仕事でも趣味でもプライベートでも、年齢層で分断されることなく、いろいろな年代の人間が、フラットな関係で入り混じって行動するようになったことも、こうした呼称のビミョーさに影響しているのではないかと思います。
●安心・安全なジョシ・ダンシ
そこで登場した「女子・男子(ジョシ・ダンシ)」は、かなり便利。
もともと子供・若者、あるいはスポーツ選手に対しての呼称だったので、「ジョシ」「ダンシ」と言われると、なんだか若返ったような気分になるし、カタさがなく、親しさイマイチの間柄でもOKだし、一般的な呼称としても安心して使えます。
●英語文化と日本語文化
女子・男子は英語だとGIRL・BOY。
英米ではむしろこっちのほうがセックス臭が漂いますね。
その方面のお仕事をしている人はこの呼称で呼ばれることが多いと思います。
なので普通、英米人の中高年は「GIRL」「BOY」なんて呼ばれたら腹を立てるんじゃないでしょうか。
ところが日本語―ー日本人の場合はその逆。
比較して考えると、英米が子供・若者(子供っぽさ・若さ)を下に見るのに対して、日本人には子供を神聖視したり、若さを尊ぶ精神構造があります。女子・男子×GIRL・BOYには、そうした文化の違いも見て取れします。
●女子・男子の裏にある「成長」というキーワード
もうちょっと深掘りしてみたらどうなるか・・・ということで発見したのが 5年ほど前、自分のブログで書いていた文章。これは当時、映画・TV・演劇で「三銃士」がちょっとしたブームになっており、それについて書いたものです。
いわゆる“成熟社会”となった先進諸国では“成長”は重要なキーワードだ。未熟だろうが、ダメダメなところがあろうが、成長を感じさせる、言い換えれば、未来への可能性を感じさせる人や集団や企業は、すこぶる魅力的に映る。
つまり、今、それだけ“成長”というものに希少価値があるのではないだろうか。
成熟し、伸びきってしまった大人にはそうした魅力が見出せない。しかも環境の変化のせいもあり、信頼感も失墜しているのでなおさらだ。
ちなみにこれは実年齢のことを言っているのではない。10代・20代はもちろん、50代・60代でも“成長”しなくてはならない(少なくともそういう意志を見せなくてはならない)世の中になっているのだ。
そして、若いダルタニアンと年長の三銃士のように、互いに影響を与え合いながら伸びていくことが求められている……三銃士の物語は、そうした現実を映し出す鏡のような機能を持っているのでは、と感じる。
どうもこうした意識がそのまま、僕たちの深層心理に貼りつき、いつまでも成長しきらない子供・若者の部分を形成しているのではないかと思います。
それが「女子・男子」という呼称に結びついている。
国境が溶け、世代差が溶け、リアルとバーチャルの境界が溶け、それでいながら経済や社会階級の格差が広がる今、人間として完成してしまうこと、成長しきってしまうことは、今後のことを考えるとマイナス要素にしかならない。
齢は取っても可能性は残しておきたい・・・という気持ちの表れなのかも知れません。
●僕たちはいつまでウーパールーパーか?
というわけで、ウーパールーパー。
南米のサンショウウオの一種であるこの生き物、一般的には死ぬまで成熟せず、幼体のまま一生を終えるのだそうです。
最近「1980」を謳ったCMでテレビに再登場しましたが、 確かに1980年頃、ウーパールーパーみたいな顔をした若い連中(=当時の僕たちのことです)が街の中をうようよ泳ぎ回っていました。
あれから30年以上経った今も、依然として僕らはウーパールーパーそのもの。
オトナ女子・オトナ男子として、ろくすっぽ成長することなく、結局、単に子供オバさん。子供オジさんのまんまで終ってしまう可能性は大きいのではないかと思います。
でも「今どきの若いモンは・・・」という昔の人たちが本当に尊敬に値する大人ばかりだったのか?といえば、そんなことはない。情報がたやすく手に入らなかった時代の社会では、ごまかし、カッコづけも簡単で、威張っていられましたからね。
今、成長するとはどういうことなのか? ごまかしやカッコだけでなく、大人になるってどういうことなのか・・・人生の続くかぎり、考えていこう。
2016・8・15 MON
●氷の世界の恐怖のセイウチ
子供の頃、動物図鑑で初めてセイウチの写真(イラストだったかも知れない)を見た時は、そのモンスターのような姿・形に心の底から驚愕しました。
その時の僕のセイウチのイメージは、世界の果ての暗くて冷たい氷の世界で巨大な牙をむき出しにして世にも恐ろしい咆哮を轟かせる孤独な怪物。
こわかったなぁ。
人生の中でもしこんな怪物に出会うことがなあったら、僕は一瞬のうちにカチンコチンに凍り付いて、冷凍食食品になってこいつに食べられてしまうだろうと思い、どうぞそんなことになりませんように、と、何度もお祈りを唱えました。
●夢の世界でセイウチロウと邂逅
という衝撃が消えたのはいつのことだろう?
いろいろ本を読んだりテレビを見たりするうちに、セイウチは割とおとなしくて温かい生き物。孤独ではなく、群れをつくってのんびり暮らしていることなどを知りました。
それどころか、近年は日本水族館にも住んでいて愛嬌を振りまいてくれています。
そのセイウチ君に僕もお世話になっています。
夏、お昼寝するときは涼しい水族館のイメージを抱いて横になり、水中を魚がうようよ泳いでいる中をうつらうつらしつつ彷徨っているのですが、15分ないし30分ほどすると、コツコツと頭を何かがつつく。
「おい、起きろよ、セイイチロウ」
と目を覚ますと目の前には強大なセイウチが。やつはその牙の先で僕の頭をつついいたのです。
こいつはセイウチロウといってクールな夢のアラーム係として30分経ったから起こしにくるのです。それ以上寝ちゃうと夕方まで頭が働かなってしまうので。起きない時は歌を歌って起こします。
もちろん、歌はビートルズの「I am the Walrus」。
●ビートルズフェスでセイウチ登場
そういえば昨夜、録画しておいてずっと見ていなかったNHK-BSの「BEATLESフェス」なる3時間番組を見ました。
ビートルズ来日50周年ということで、当時の逸話――ビートルズにはっぴを着せた日航のスチュワーデスさんの話やら、独占取材に成功した星加ルミコさんやら湯川レイコさんの話――昔、音楽雑誌でよく記事を読んでいましたが、音楽ジャーナリズムのリーダーだった彼女らはまだ20代の女の子だったんですね――やら、を中心に、年寄りから若者まで入り混じったスタジオトークや、ビートルズ番組お約束のリバプール―ロンドン紀行(森高千里がキャバーンクラブに行ってドラムを叩いてた)などがてんこ盛りのバラエティ。
しかし、目玉は何といっても、新旧いろいろな日本のミュージシャンたちがやるビートルズナンバーのトリビュートライブでした。
財津和夫「Yesterday」や平原綾香「Hey Jude」などは、ま、定番の、という感じ。仲井戸麗市(チャボ)の「The Long and Winding Road」はほとんど自分で歌詞を書き換えた替え歌で、清志郎へのレクイエムにしか聞こえない。歌い方もそっくりだ。やっぱ寂しいんだろうね。
その中で一番面白かったのがラブ・サイケデリコの「I am the Walrus」。
ぐにゃぐにゃしたサウンドとともに、「おまえはあいつ、あいつはおいら、おいらタマゴ男、おいらセイウチ」なんていう、ジョンのナンセンスでファンタジックでグロテスクな詩の世界がぐりぐり脳天にねじ込まれてきて、めっちゃカッコいい! こんな新鮮なアレンジでこの曲を聞けるとは思ってもいなかった。まったく感動モノでした。
オリジナルを聞いて育ったおっさん・おばさんたちは、どうしてもリスペクトが先に立ってしまってアレンジも表面的で徹底しない。けど、「むかし、ビートルズっていうバンドがいたらしいね」と言っているような若い連中は、遠慮なくぶっ壊して、さらにおいしく料理していけると思います。
ジョンやジョージがあの世から「おいおい」と言って止めに来るくらい、ガンガンすごいアレンジをしてほしい。
●セイウチロウよ永遠に
おまえはあいつ、おまえはおれ、だからあいつはおれ、おまえはセイウチロウ、ぼくはセイイチロウ、おまえはセイイチロウ? ぼくはセイウチロウ?
まだまだ暑い。北極の氷の上でごろごろ寝そべる夢を見て毎日過ごすことにいたします。またセイウチロウと会うのを楽しみにして。
2016・8・11 THU
この夏は四国をお遍路しています。
ただし、オン・マイ・マインドで。
葬儀・供養の業界誌の仕事で、ネット~メール~電話で取材しては原稿書きの日々。
四国の葬儀の風習や、お遍路についていろいろ勉強しました。
で感じたのが、やたら四国にはネコが多いな、ということ。
そういえば香川県のある島でネコがいっぱいいるのをテレビで見たことがあります。それで有名になって、観光客が出向いて、かわいい、かわいいとエサをあげまくるのでさらにネコ天国となっているようですが・・・。
一方、僕が出会うのは、お葬式・お墓関連ので話からなので、この世とあの世の境界線上でニャーニャー鳴いているネコばかり。
●四国の葬儀における猫の存在
徳島や愛媛で、家で人が亡くなると枕元にホウキや刃物などを置く、という風習があります。(正確には「あった」という過去形。日本の昔ながらの葬儀・供養の風習のほとんどは全国どこでも、この20~30年の間に9割以上消滅している)
何のためにこんなことをするかというと、ネコがご遺体の上をまたがないようにするため。ニャアとまたぐと死人が生き返って歩き出すとか、逆にネコがバケネコ化するというのです。
ということは、この辺りではネコを飼っていた家が多のか?
いや、飼っていたというよりも、ネコだのタヌキだの、動物たちが「こにゃにゃにゃちは~」と、自由にあちこちの家を出入りしていたのではないか、と思います。
昔の日本の田舎の家は戸締りもいい加減で、常にオープン状態だったし、ネズミ退治にも役立つからね。だけど、キミはやばいからお葬式の時は来ちゃだめよ、という感じでしょうか。
●日本三大化け猫伝説「お松大権現」の猫
そんなわけでネコ伝説がはびこる四国。
徳島県阿南市には「日本三大化け猫伝説」の一つに数えられている「お松大権現」という神社があります。
ここに由来するお話は、借金苦にまつわるもので現代人にとってもリアル。
むかし、困っている村人たちを救うために金貸しから多額の借金をした庄屋さんが金貸しに裏切られ、借金を残して死んでしまう。
その妻・お松は「借金はちゃんと返したのに」と異議申し立てをしたのですが、その土地の奉行(きっと金貸しとつるんでいたと思われます。これも現代に繋がる政治とカネの問題です)が「わしゃ、返してもらとらんぞ」と、それを認めず、お松と、彼女が可愛がっていたネコを死刑にしてしまうのです。
なんでネコまで処刑されるのかわからないけど、「わしの命に背く者は一族郎党皆殺しじゃ」という論理だったのでしょうか?
ネコも一族郎党に加えられてしまったのですね。
で、この手の怪談兼勧善懲悪・庶民の味方ストーリーのセオリーとして、もちろん、この後、このネコはウソつきの金貸しと、権力乱用の奉行のところに化けて出て、悪者どもを地獄に叩き落とすというオチ。
めでたし、めでたしということで、この正義のバケネコはこの神社にまつられることになったのです。
●今や霊験あらかた、招き猫だらけの観光スポット
こうした因縁話があるせいか、なんと、この神社、今では受験と勝負ごとにご利益があるとして大人気に。バケネコになったネコはリベンジを果たした結果、「猫神様」に昇華。勝負ごとにご利益と言うので、全国からギャンブラーが詣でているようです。
そして猫神様は招き猫の姿になって降臨したので、境内は招き猫だらけになっているようです。いやー、すごい。でも、借金は勝負事――ギャンブルに頼らず、地道にコツコツ返したほうがいいと思うなぁ。
というわけで、妖怪も神様になってしまう四国。
そういえば「千と千尋の神隠し」で、妖怪だか神様だかわからない者たちが湯あみに来る湯婆の湯場も愛媛の道後温泉がモデルになっていました。
四国の旅・オン・マイマインド、まだまだ続きそうです。
2016・8・6 sat
川沿いの道で長さ1メートルのヘビに遭遇。
青みを帯びた銀色に輝くボディのアオダイショウ。
カメラ目線をキメてくれた。
なかなかいい面構えでしょ?
神々しくて思わず手を合わせてしまった。
今年も残すところあと3カ月。
大将、よろしくたのんます。
ナマケモノもよろしくたのんます。
1965年にリリースされた「夢のカリフォルニア」は、
「東海岸(おそらくニューヨークを想定)は
どんより曇っていて寒いよ。
晴れててあったかいカリフォルニアに行きたいなぁ」
というかなり単純な歌だ。
けれども当時、カリフォルニア州にあるサンフランシスコ、
ロサンゼルスはヒッピー文化発祥の地。
愛と自由と平和について語り合おう、
ついでにセックスとドラッグもやっちまおう、
という精神的革命の波が押し寄せていた。
アメリカの若者のほとんどが
社会からドロップアウトするんじゃないかという
勢いさえ感じた。
そんな中で「夢のカリフォルニア」は
一種のメタファーと受け取られ、
どんより曇って寒い街は旧世界の象徴、
太陽輝くカリフォルニア
(サンフランシスコ、ロサンゼルス)こそ
われらが求める新世界――と解釈されたらしい。
と言ってもこの頃,
僕はまだ小学校に入ったばかりのガキで、
ヒッピーをリアルタイムで体験したわけではない。
後年、音楽雑誌などで当時のロック・フォークの先輩方が
「サマー・オブ・ラブ」やら「フラワーチルドレン」やらを
熱く語っているのをカッコイイなぁと思っただけだ。
そしてテレビの音楽番組で見た
1967年の「モンタレーポップフェスティバル」。
この曲を歌うママス&パパスを見て以来、
僕の中ではずっと「夢のカリフォルニア」は、
60年代のヒッピー文化の象徴として、
一種独特の響きを放っていた。
ママス&パパスはグループとしては
3年ほどしか活動していない。
他にもいくつかヒット曲はあるものの、
ほとんどこれ1曲で
1998年にロック殿堂入りを果たしたと言っていいだろう。
それほどあの時代とのマッチングは強烈だったのだ。
けれども、そろそろその幻想とも
別れを告げた方がいかもしれない。
そう思ったのは、ジャズシンガー、
ダイアナ・クラールが2015年にリリースした
カヴァーを聴いた時だった。
オリジナルのママス&パパスから60年。
言い表せない感慨が胸に広がった。
渋くてカッコよくて、
そしてあまりに懐かしさと哀愁に満ちた
「夢のカリフォルニア」。
秋の夜、聴きながら一杯飲まずにはいられない。
●夢のカリフォルニア/ダイアナ・クラール
何かを達成するのはクレイジーなエネルギーである。
フリッパ(離婚したシングルマザーの中年女性)は、
たまたま子どもの付きそいで
シェイクスピア作の「リチャードⅢ世」の舞台を見る。
それが彼女の人生を変えた。
リチャードⅢ世の霊が彼女にとりついた。
あの世からやってきたリチャードとの対話から
彼の遺骨が墓にも納められず埋もれ、
名誉を棄損されていることを知る。
そして8割方インスピレーションによって、
その遺骨の眠る場所を探り当てる。
こう書くと、荒唐無稽なオカルト映画、
あるいはインディー・ジョーンズのような
考古学者の冒険譚なのかと思うかもしれないが、
これは事実をもとに作られた映画である。
英国レスターにおいて
リチャードⅢ世の遺骨発掘が行われたのは、
わずか5年前。2,018年のこと。
国営放送BBCは、そのドキュメンタリーを作ったが、
それを劇映画化したもの。
脚色・演出はされているが、
ストーリー自体は事実そのもである。
主人公のフリッパは、
もともと考古学に縁もゆかりもないもない。
「リチャードⅢ世」は、知る人ぞ知る、
シェイクスピア劇の中でも屈指の人気を誇る作品だ。
リチャードがこの世を去って1世紀後、
シェイクスピアがその伝説をもとに造形したのが
せむしで醜く、心も歪み荒んだ極悪の王。
その残虐非道さ故、
英国歴代の正当な王とは認められていなかった。
しかし、リチャードの人柄と行為は、
彼のあとに政権を握った王朝が、
自らの正義を民衆に示すために捏造したものだった。
ちょうど明治政府が徳川幕府の政治を貶めたように。
江戸幕府の開幕時、
徳川家が豊臣家の影を消し去ったように。
フリッパはリチャード(の幻影)との対話と、
あくなき調査によってそのことを確信し、
遺棄された彼の遺骨のありかも突き止め、
孝行学者と大学を動かして発掘調査を行う。
あくまでドキュメンタリー風の作品なので、
ドキドキハラハラみたいなエンタメ感は乏しいが、
面白く、妙に感動的な映画だ。
フリッパの行動の動機は、
世紀の発見をして歴史を覆してやろうといった
崇高な目的や野心のためでもなく、
もちろん一発当ててやろうという金儲けや
損得勘定のためでもない。
本当に霊に取りつかれてしまったか、
リチャードに恋をしてしまったか、
要ははた目から見たらめっちゃクレイジーな熱意なのだ。
それでも元夫や子供たちは彼女を応援し支える。
あくまでドキュメンタリー風の作品なので、
ドキドキハラハラみたいなエンタメ感は乏しいが、
そうした家族愛もあり、面白く、妙に感動的な映画だ。
そしてもう一つ。
彼女が自分の発想で、単独で始めたことを、
世紀の大発見という成果が得られると、
ちゃっかりその手柄を横取りし、
自分たちの栄誉にしてしまおうとする
大学や学者の在り方も、
リチャードを貶めた次期王朝権力と重なって面白い。
歴史は常にその時々の勝者・成功者・権力者が
つくってきたものである。
僕たちが英雄と信じている人が、
とんでもない悪人や詐欺師だったり、
悪漢や愚者だと思っていた人が、
実は英雄だったりすることもある。
インターネットが発達した世の中では
そうした驚くべきどんでん返しも起こり得る。
世界はまだまだ神秘にあふれ、
変化していく可能性を孕んでいる。
歴史が深く、多彩な物語が眠る英国だから作り得た
と思われるこの映画は、
そんなことまで考えさせてくれる。
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峰不二子のモデルはマリアンヌ・フェイスフルだったとか、
「ベティ・デイビスの瞳」はもともとは
レトロジャズだったとか、
「チャイルド・イン・タイム」は実は反戦歌だったとか、
新発見がいっぱい。
卒業式ソングとして「今日の日はさようなら」を
紹介したけど、「わたしの学校では卒業式に〈誰かが風の中で〉を歌いました」なんてメールまでいただきました。
天涯孤独の木枯し紋次郎が卒業ソングとは、
なかなかワイルドな学校ですね。
来月はルー・リードの
「ワイルドサイドを歩け」を取り上げる予定です。
20世紀のポップミュージックが
人類のレガシーになった今日、
21世紀を生きていくために
ぜひとも懐メロを楽しく読み解いてみては?
この本はその参考書としてお役立ていただければ幸いです。
良い音楽、好きな音楽をあなたの人生のおともに。
1976年にリリースされたイーグルスのアルバム
「ホテルカリフォルニア」は、
数あるロッククラシックの中でも
指折りのレコード、名盤中の名盤として名高い。
特にアメリカにおける存在感は抜群だ。
かのアルバム、そして、イーグルスというバンドが
そこまで持ち上げられるのは、
アルバムの最後を締めくくるのがこの曲だから、
ではないかと想像する。
表題曲の「ホテルカリフォルニア」は
60年代ロックカルチャーの商業化・低俗化を
揶揄した歌だが、皮肉なことに彼ら自身が、
アメリカで最も商業的に成功したバンドの一つとなり、
矛盾を抱えたまま半世紀間、活動してきた。
トータルセールスは2億枚を超えると言われている。
「ザ・ラストリゾート」も
そんな大いなる矛盾を拡大したかのような、
アメリカという国そのもの、
現代の文明社会そのものを批判した歌だ。
♪They call it paradise, I don't know why
彼らはそこをパラダイスと呼ぶ 私には理由が分からない
歌詞のストーリーは開拓時代を歌ったもの。
大西洋を渡ってやってきた白人の入植者たちが
広大なフロンティアを「パラダイス」と呼び、
先住民を迫害し、野生動物を殺戮し、
山を森を切り開き、自然環境を破壊し、
自分たちの街を、国家を作り上げていった。
♪We satisfy our endless needs and justify our bloody deeds
私たちは果てしない欲望を満足させて
血まみれの悪行を正義とした
In the name of destiny and in the name of God
運命という名のもとに 神の名のもとに
さらにここが「The Last Resort(最後の楽園)」だとして、
海の向こうからどんどん移住者を呼び寄せ、
この世の楽園である近代国家を作り上げた。
実際、開国時代の冒険者・開拓者たちにとって、
その活動は神の導きによる愛と正義の表現だと
信じていたのだろう。
そして20世紀を迎えて間もなく、
アメリカは世界で最も富める国・力を持つ国となり、
金さえあればどんな夢でもかなう「楽園」となった。
けれども年月を経て、楽園を築いた人々の子どもたちは
考えざるを得なくなった。
「わたしたちはどこから来て、どこへ行くのか?」
そして過去を振り返り、違和感を覚えざるを得なくなった。
「わたしたちは正しかったのか?」と。
高校生だった70年代、僕は美しく抒情的な旋律を
楽しむだけだったが、
この「ザ・ラストリゾート」は、
表題曲「ホテルカリフォルニア」と対になって、
当時の心あるアメリカの若者たちの胸に
ギリギリと食い込んだのだろうと思う。
それから50年近くを経て、人々の意識は、
先住民の歴史やマイノリティの存在、人権の尊重、
破壊してしまった自然環境などにも
向けられるようになった。
もちろん、それがイーグルスの歌のおかげだとは言わない。
でも、当たり前のようにある豊かさが
過去のさまざまな犠牲によって育まれたものだと
気付かせるきっかけにはなったのではないか。
音楽は人の心を変える。
人の心が変われば世界が変わる。
たとえ少しずつでも――
まだそんなファンタジーを信じたいと思っている。
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収録曲
57 暗黒(スターレス)/キング・クリムゾン 【1974】
58 イッツ・ア・ミステリー/トーヤ 【1981】
59パッフェルベルのカノン/ジョージ・ウィンストン【1982】
60 オン・マイ・オウン/島田歌穂 【1987】
61 長い夜/シカゴ 【1970】
62 ケイト・ブッシュ・クリスマススペシャル 【1979】
63 ジェネシス・ライブ 【1973】
64 ビー・マイ・ベイビー/ザ・ロネッツ 【1963】
65 ジェイデッド/エアロスミス 【2001】
66 リヴィング・イット・アップ/リッキー・リー・ジョーンズ 【1981】
67 冬の散歩道/サイモンとガーファンクル 【1966】
68 ごはんができたよ/矢野顕子 【1980】
69 だれかが風の中で/上條恒彦&小室等 【1972】
70 ブロークン・イングリッシュ/マリアンヌ・フェイスフル 【1979】
71 アイビスの飛行/マクドナルド&ジャイルズ 【1971】
72 今日の日はさようなら/森山良子 【1967】
73 サマータイム・ブルース/RCサクセション 【1988】
74 タイム・アフター・タイム/シンディ・ローパー【1984】
75 ピアノマン/ビリー・ジョエル 【1973】
76 そよ風の誘惑/オリビア・ニュートン・ジョン 【1975】
77 ネバーエンディングストーリー/リマール 【1984】
78 アニバーサリー/松任谷由実 【1989】
79 あなたがここにいてほしい/ピンク・フロイド 【1975】
80 私は風/カルメン・マキ&OZ 【1975】
81 ヒート・オブ・ザ・モーメント/エイジア 【1982】
82 ベティ・デイビスの瞳/キム・カーンズ 【1981】
83 チャイルド・イン・タイム/ディープ・パープル【1970】
84 さよならレイニーステーション/上田知華+KARYOBIN
【1980】
全28曲
南池袋の仙行寺というお寺を取材する。
大樹を模したモダン建築の本堂ビル。
中には高さ6メートルの「池袋大仏」が鎮座。
隣は懐かしや、20代の頃、何度か通ったシアターグリーン。
渡辺えり子の劇団300、
三宅裕司のSET(スーパーエキセントリックシター)
などを輩出した小劇場だが、
ここは仙行寺が開設したもの。
お寺の劇場だったということを今回初めて知った。
先代住職がこの地に来たのは
終戦からまだ10年かそこらの時代。
池袋は闇市の街で、めっちゃ危険で汚く貧しく、
ヤクザ・愚連隊が夜な夜な跳梁跋扈する地域だった。
(僕が演劇学校に通っていた70年代末でも
その名残は色濃く感じられた)
当時、本堂もない貧乏寺だった仙行寺の先代住職は、
まず地域の環境をなんとかしないと
布教どころではないと考え、
隣の敷地に建てたアパートの集会室を
芝居の稽古場に、さらに設備を入れて
小劇場「池袋アートシアター」をオープン。
それがのちに「シアターグリーン」となり、
演劇をやる若者が集う場になった。
荒廃した池袋に文化のタネをまいたのである。
その後、池袋には西口の東京芸術劇場をはじめ、
様々な拠点ができ、
舞台芸術の花開く街に成長した。
20年近く前に改装して、複数の劇場を持つ
シアターコンプレックスになったシアターグリーンは、
日本で最も歴史ある小劇場として
リスペクトされている。
現・住職は改装後、支配人に就任。
演劇プロデューサーでもあり、
時代劇を描く脚本家でもある。
本人の話によれば、プロデューサーも脚本家も
お寺の活動の一環として自然にやっているという。
「じゃ、こんど若い坊さんだちを集めて、
ボーズ劇団をつくったらどうですか?」
と提案したら笑ってた。
仙行寺がやってきた地域活動・文化活動は
行政も高く評価しており、
仙行寺と劇場の並ぶ通りは
「シアターグリーン通り」と名付けられた。
僕が通っていた頃と比べても、
ごちゃごちゃしていたこのあたりの地域は
とてもきれいに整備され、
夜はエロくてヤバイ公園だった南池袋公園も
きれいな芝生の公園に生まれ変わっている。
いつもご愛読ありがとうございます。
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どうぞよろしく!
第3巻として♯57~♯84を収録。
もくじ
57 暗黒(スターレス)/キング・クリムゾン 【1974】
58 イッツ・ア・ミステリー/トーヤ 【1981】
59 パッフェルベルのカノン/ジョージ・ウィンストン 【1982】
60 オン・マイ・オウン/島田歌穂 【1987】
61 長い夜/シカゴ 【1970】
62 ケイト・ブッシュ・クリスマススペシャル 【1979】
63 ジェネシス・ライブ 【1973】
64 ビー・マイ・ベイビー/ザ・ロネッツ 【1963】
65 ジェイデッド/エアロスミス 【2001】
66 リヴィング・イット・アップ/リッキー・リー・ジョーンズ 【1981】
67 冬の散歩道/サイモンとガーファンクル 【1966】
68 ごはんができたよ/矢野顕子 【1980】
69 だれかが風の中で/上條恒彦&小室等 【1972】
70 ブロークン・イングリッシュ/マリアンヌ・フェイスフル 【1979】
71 アイビスの飛行/マクドナルド&ジャイルズ 【1971】
72 今日の日はさようなら/森山良子 【1967】
73 サマータイム・ブルース/RCサクセション 【1988】
74 タイム・アフター・タイム/シンディ・ローパー 【1984】
75 ピアノマン/ビリー・ジョエル 【1973】
76 そよ風の誘惑/オリビア・ニュートン・ジョン 【1975】
77 ネバーエンディングストーリー/リマール 【1984】
78 アニバーサリー/松任谷由実 【1989】
79 あなたがここにいてほしい/ピンク・フロイド 【1975】
80 私は風/カルメン・マキ&OZ 【1975】
81 ヒート・オブ・ザ・モーメント/エイジア 【1982】
82 ベティ・デイビスの瞳/キム・カーンズ 【1981】
83 チャイルド・イン・タイム/ディープ・パープル 【1970】
84 さよならレイニーステーション/上田知華+KARYOBIN 【1980】
義母がデイサービスに行っていないので、
昨日のリベンジでお祭りを見に行く。
一応、カミさんには声をかけてみたが、
「暑いからいかない」というお返事。
ま、わかってたので、仕事の合間に
ひとりでチャリチャリっと小一時間。
昨夜でハイライトであるお神輿の合同宮入りが終わり、
本日はエピローグモード。
あくまで印象だが、参道の露店は
コロナ前からだいぶ面子が変わった。
半分以上は変わって初出店みたいなところも多い。
値段も物価上昇の折、何割かアップ。
500円以下で飲み食いしたり、遊んだりできる店は
ほとんどない。
今年の正月は喪中だったので、久しぶりにお参りして、
幸福ガエルにもごあいさつしてきた。
帰りに川沿いをチャリチャリ走っていて、
何年もやっていた護岸工事がやっとこさ
終りかけているなぁと写真を撮っていたら、
後ろから「せんせー」と呼びかける声。
自転車とキックボードの高中小学生の女子集団が、
「大宮八幡へはどう行けばいいんですか?」
と聞いてくるので道を教えてあげた。
先生ってなんや?
でも、みんな可愛かったからうれしい。
心もドンヒャラお祭リベンジ。
電子書籍新刊予告
「週末の懐メロ第3巻」
9月20日(水)
kindeより発売予定!
おなじみの音楽エッセイ「週末の懐メロ」第3巻。
♯57:暗黒(スターレス)/キング・クリムゾンから♯84:さよならレイニーステーション/上田知華+KARYOBINまで
全28編を収録。
川沿いの散歩道に紅白の彼岸花が咲いた。
しかし、まだ真夏継続。
4年ぶりに大宮八幡宮のお祭りがまともに行われるので、
義母を連れていってあげようと思ったが、
(てか自分が行きたかったのだが)
猛暑の中、長時間(30分近くかかる)
歩かせるわけにいかない。
それにちょっと体力が落ちてきて
以前ほど、長い距離を歩けない。
というわけで今年はお祭り断念。
散歩道は木が多いので、夕方は結構涼しい風が吹くが、
蚊に食われまくる。
早く秋になってほしいが、
義母は一足早く食欲の秋モードに入って、
最近、深夜・早朝の盗み食いが激増。
ほぼ毎日、菓子パンを差し入れしている。
おりべまこと電子書籍新刊
「週末の懐メロ 第3巻」9月20日(水)発売予定。
20世紀ポップミュージックの回想・妄想・新発見!
主観9割・偏見まみれの音楽エッセイ。
昭和世代・20世紀世代はもちろん、若い世代のお宝発掘のためのガイドブックとしてもお楽しみください。
1巻・2巻も好評発売中。
1963年のヒット曲で、
60年代アメリカンポップスの人気ナンバー。
僕は四半世紀前に、ザ・ピーナッツを模した
双子の女の子歌手のショーの台本を頼まれて
書いたことがある。
彼女たちはオールディーズポップス
(50年代後半から60年代前半)
を歌うデュエットだったが、
最も得意としていたレパートリーが、
この「涙のバースディ・パーティ」だった。
その双子デュオの印象が残っているので、
「可愛い歌」「可愛い歌手」というイメージが強かったが、
この曲をヒットさせたレスリー・ゴアは、
ちょっときつそうなヤンキーねえちゃんという感じ。
中学の英語の教科書に出てくる
アメリカンファミリーのお母さんみたいな髪型を
していて、ちょっとおばさんっぽいのだが、
この頃はまだ10代だったという。
これはカバーだが彼女のデビュー曲で、
同時に、かの大プロデューサー、
クインシー・ジョーンズの若き日の
初プロデュース曲でもあった。
歌詞のストーリーは、
誕生日パーティーで恋人のジョニーがいなくなり、
一度消えて再び姿を現したジュディという女の子が
「彼の指輪をはめている」。
なんてこと!
それで「これは私のパーティー、泣きたくなったら泣くわ」
とリフレイン。
この時代の日本のレコード会社は、
女性歌手が歌っていれば、
内容に関わらず、なんでもかんでも
「悲しき○○」「涙の○○」「天使の○○」
という邦題をつけたがる傾向があった。
でもまぁ、この歌は確かに
「涙のバースディ・パーティ」だよねと納得。
女の子の失恋ソングだが、
クインシー・ジョーンズは、それを頭からノリノリの
明るいポップナンバーにアレンジ。
後世の人々が愛してやまない名曲に仕上げた。
ちなみに欧米でも、
誕生日をパーティーで祝う習慣が出来たのは、
20世紀に入ってからだという。
日本ではおそらく戦後から始まった習慣で、
まだ100年にもならない。
そう言えば僕も友だちが集まって
ワイワイやることはあったが、
家族に誕生日パーティーなんて
やってもらったことはなかった。
クリスマスとおんなじで、
「お誕生日おめでとう!」なんて言われると、
いまだにお尻がもぞもぞしてしまう。
明日9月15日は「老人の日」。
え、敬老の日じゃないの?
いえ、それは祝日法改正によって2003年(平成15年)から9月第3月曜日に変更された。
今年は来週月曜18日が「敬老の日」になる。単に3連休としか認識していない人も多いけど。
敬老の日は長寿を祝い、お年寄りを敬う日だけど、祝日から転落した「老人の日」は記念日として残されたのはいいけど、どんな役割を果たすのか?
超高齢社会の進展、100年ライフの浸透で、
老人の概念はこの20年の間にずいぶん変わった。
そもそも「老人」という言葉をあまり聞かなくなった。
今、高齢の人に「あなたは老人ですね」
なんて言ったらぶん殴られるかもしれない。
でも逆にじいさん・ばあさんが自分から
「おれはロージンだぜ」
「あたしゃロージンだよ」
なんて啖呵を切ったらカッコいいかもしれない。
この本のタイトルは、
かつて「さいたまゴールドシアター」という
高齢者劇団を率いた演出家・蜷川幸雄さんのセリフ。
ライフシフトの時代、
客観的年齢と主観的年齢は一致しない。
ロージンが舞台に立ち、スポットライトを浴びるのは
もう特別なことではなくなりつつある。
毎月13日は、6つの和食メーカーが制定した
「一汁三菜の日」。
「13」を分解して、いち、じゅう、さん。というわけ。
いろいろな料理を組み合わせて、
さまざまな栄養素がバランスよくとれる「一汁三菜」
(主食・汁物・主菜・副菜・副々菜)は
和食の基本形であるとともに、食事の理想形。
和食文化は2013年(平成25年)12月に
「和食:日本人の伝統的な食文化」として
ユネスコ無形文化遺産に登録され、
世界的にも注目されている。
とまか、そこまでしゃちほこはらないでも、
日本の食べ物は十分美味しく、
世界に自慢できるものばかり。
毎日コンビニ弁当を食ってても、
僕らは世界から「美食民族」と見做されているのだ。
そして本日のデザートには、
くだもの王国・岡山のお取引先から
いただいたブドウ。シャインマスカットとピオーネ。
おいしい秋到来で夏バテ撃退!
もう一つ、デザートにおいしく楽しく、
ちょいとスパイスを効かせた
「食べるエッセイ集」はいかが?
ただいま2冊刊行中。
京アニ放火殺人事件の初公判とジャニーズ事務所の
記者会見が話題になった今週。
会見を聞く限り、ジャニーズ事務所は
「児童虐待」「人権蹂躙」の深刻さが
イマイチわかっていない。
これは事務所だけではない。
先日、テレビがやっていた一般人への街頭アンケ―トでは
「べつに社名を変える必要はないんじゃね?」
という意見が圧倒的に多かった。
こういうところはやっぱり
日本は時代の進化・国際基準から取り残された
「ガラパゴス」と言われても仕方ない。
ジャニーズの歌やダンス、演技に関する技術は
日本のエンタメの世界では確かに
ハイレベル・ハイクオリティだと思うが、
ここまで問題が大きくなり、
改革案もあの程度の甘さで、
単なる精神論で乗り切ろうとしているのを見ると、
この先、海外進出は絶望的で、
ガラパゴスの中で生き延びるしかなさそうだ。
ファンもマスコミも、大勢保護者がついているので
当分の間はなんとかなるのかもしれないが、
なんだかこの半世紀余りの日本の芸能の歴史も
モヤモヤした暗闇に包まれて見えてくる。
京アニ事件の青葉被告も
虐待から生まれたモンスターだという。
彼は過酷な体験を克服するために
「自分はクリエイターである」という妄想に入り込み、
その妄想が行動原理になって
あんな大事件を起こしたのではないかと思われる。
「トラウマだの、アダルトチルドレンなどと
いった考え方にこだわるな。忘れろ」という人もいるが、
人はいくつになっても、
子ども時代の記憶を呼吸して生きている。
認知症にならない限り、死ぬまで。
いや、認知症になっても、それは心の芯に食い込んで
怒りや悲しみの言動となって現れる。
日本人はそうした認識がまだ全然足りない。
じつは欧米の方が、児童虐待に関しては先進国だ。
現在の資本主義社会の発達は、産業革命時代に
好きに子供を働かせ、虐待し、搾取したのが
要因になっているという一面がある。
そこでどうにか生き延びて大人になった
1~2割ぐらいの子どもたちが、
また同じことを繰り返して資本主義社会は巨大化してきた。
要するに労働者の子供は奴隷と同じだったのである。
欧米はどうやらそれを反省し、
今になってやっと児童虐待・人権を重視するようになった。
幕末から明治にかけて日本を訪れた欧米の知識人は、
日本人がとても子どもを可愛がるのを見て驚き、
「日本は妖精の国」という報告書を
本国に送った人もいるくらいだ。
だからと言って、
日本は「もともと悪いのはおまえらじゃん」
なんて、もちろん食って掛かるわけにはいかない。
資本主義の恩恵を賜って豊かになった以上、
そうした欧米の負の歴史も他人ごとでなく、
ちゃんと自分事として取り込んで変化して、
この先に進む必要があるのではないかと思う。
最寄り駅のホームから見える飲食店ビルの3階に
音楽バーがある。
その看板には「60年代・70年代のイカした音楽をアナタに」
とメッセージ。
これがなぜかいつも「イカれた音楽をアナタに」
と読めてしまうのだ。
つまり僕はイカした音楽よりも
イカれた音楽の方が好きなのだろう。
というわけで今日は抜群にイカれている
ロックの暴走列車、グランド・ファンク・レイルロード、
1973年の全米ナンバー1ヒット「WE are an American Band」。
GFRと言えば、かつてすごい伝説に包まれた
ハードロックの雄だった。
たとえばデビューの頃、
当時人気絶頂のレッド・ツェッペリンの前座を務めた際、
そのパワフルな演奏で観客を圧倒してアンコールの連続。
完全にツェッペリンを食ってしまった。とか、
1971年の初来日公演では後楽園球場
(現・東京ドーム、もちろんこの頃は屋根なし)で
雷鳴が響き、豪雨が降りしきる嵐の中で演奏し続けたとか。
僕の中学のロックの先輩たちにとって、
そんな伝説をつくり上げた英雄で、
ひたすらパワーで押しまくるGFRは、
今どきの表現ならまさしく「神バンド」で、
ハードロックと言えば、
クリームよりも、レッド・ツェッペリンよりも、
ブラック・サバスよりも、ディープ・パープルよりも、
まずグランド・ファンク・レイルロードだった。
そんなにすごかったバンドだが、
50年経ってみると、音楽的評価・格付け・知名度は、
完璧なロックレジェンドとして君臨する
レッド・ツェッペリンは別格としても、
上記のバンドよりだいぶ落ちると言わざるを得ない。
なんて言ってデイスったりすると、
「てめー、何言ってやがんだ」と
あの先輩方に怒られるかもしれないのでやめておこう。
僕自身もGFRはマイフェバリットとは言い難いが、
それまでの「ハートブレイカー」や「孤独の叫び」などの
シリアス路線から思い切り方向性を変えた
この「アメリカンバンド」は大・大・大好きだ。
誰もが楽しめる、底抜けに陽気でポップな
ハードロックの傑作。
聴けば聴くほどイカれた歌と演奏は最高だ。
天才少女ドラマーのよよかちゃんも
ノリノリでこの曲をやっている。
初めて観たのは、まだ5歳かそこらだったが、
どんどん成長してドラムもよりパワフルに。
楽しく、可愛く、世界へ羽ばたけ。
仕事が一段落し、しばし猛暑から解放されたので、
義母を連れて阿佐ヶ谷をぶらぶらしに行く。
アンティーク雑貨店のショーウィンドウに
全身アメリカンファッションのマネキンを見て、
義母と同い年(昭和10年=1935年生まれ)の
叔母のことを思い出した。
小学校の低学年の頃まで数年間、一緒に住んでいて、
甥である僕をずいぶん可愛がってくれた。
アメリカ大好きな人で、
結構ハイカラな考え方・ライフスタイルを持っている
叔母だった。
彼女がティーンエージャーだった時代、
日本はGHQ=ほぼアメリカの占領下だった。
ただし彼女が若い頃は、まともな日本人の女は、
もちろんこんな格好はできなかった。
GHQが去り、高度経済成長が始まって、
彼女は新しく生まれた自由な戦後世代を
羨望の目を持って見ていたイメージがある。
ガキだった僕を相手に
「わたしももう10年遅く生まれていれば・・・」と
呟いていたことをいまだに憶えている。
小学校の高学年になる頃には、
もう離れて住むようになっていたし、
両親もあまり彼女のことを話さなかったので、
その後の叔母の人生はよく知らない。
僕は漠然と、
いずれ彼女はアメリカに移住するのだろうと思っていたが、
まだ一般庶民がそう簡単に海外に行ける時代ではなかった。
その代り、というわけではないが、
中年になってちょっとお金持ちのおっさんの後妻になった。
その叔母は兄である父より先、15年ほど前に亡くなった。
亡くなった時は独身だった。
結婚はあまりうまくいかなかったのか?
その辺の事情は結局わかかずじまいだ。
わかっているのは彼女にとって、
憧れていたアメリカは最期まで遠い地だった、
ということだけだ。
自分も大人になってわかったが、
まだチビの甥や姪というのは、自分の息子・娘と違って、
割と無責任に甘やかし、可愛がれる、
オモチャやペットのような存在だ。
たぶん僕の中にはあの叔母に甘やかされたことが、
のちの女性観にも影響しているのではないかな、
と思うことがある。
思いがけず面影がよみがえったこの叔母の供養のために、
何か彼女をモデルにした話を書こうと思っている。
1989年リリース。90年代のダンスミュージックの女王・
リサ・スタンスフィールドの
デビューアルバム『アフェクション』の挿入歌。
「This Is The Right Time」や「All Around the World」が
大ヒットしたが、僕はこの歌が一等好きだった。
この頃は日本もバブル景気で大盛り上がりしていた時代で、
ディスコ(この頃はもうクラブって言い方をしてたっけ?)でも、こうしたゴージャス、かつ、
お洒落なダンスミュージックが本流だった。
今振り返って聴いてみると、
僕らがよく踊っていた70年代・80年代より
同じR&B系の曲でも格段に洗練され、
ダンサブルになっていた。
それが好きかどうかは、また別問題だけど。
ただ、リサ・スタンスフィールドはとにかくカッコよくて、
CDも買ってよく聴いていた。
こうしてライブを見ると、バックの演奏も最高だ。
ディスコ(クラブ)に通ったのは、この頃までだった。
芝浦の「GOLD」が最後だったように記憶している。
バブルとともに去りぬ、というところか。
29日から3日間、東京ビッグサイトで
「エンディング産業展2023」の取材をした。
インパクティブだったのは、有限会社統美のブース。
納棺師が使う保存用品・メイク用品などを開発・販売。
「人は死んだら(遺体は)どうなるか」を
ユニークなイラストで表現し、来場者に伝えている。
本来、葬儀・供養業者向けのビジネスイベントだが、
半分は、介護・看護・終活・空き家・遺品・相続など、
ソーシャル系問題のソリューション提案。
超高齢化社会、多死社会が進み、
人は嫌でも向き合わなくてはならない時代になった。
日本のエンディング産業は、世界でも注目されており、
今回の展示会には中国・台湾・韓国などから
視察隊が大勢来ていた。
ちなみに中国では近年、2008年の映画
「おくりびと」がリバイバルヒットしており、
「納棺の儀」などにも興味が集まっている。
日本だけでなく、多くの豊かな国が
老いと死の問題に直面しつつある。
夏目漱石の「坊ちゃん」を初めて読んだのは
小4か小5のときだった。
以来、何度か読んで、
最後はいつだったのか思い出せないが、
多分、高校生の時以来だろう。
ご存じ、江戸っ子口調の名調子。
これほど痛快で印象的な一人称の語り口は、
この作品とサリンジャーの
「ライ麦畑でつかまえて」ぐらいだ。
図書館のヤングアダルト文庫の棚で
ふと目にすると、あのべらんめえ文体が脳裏によみがえり、
手に取って読みたくなったのだ。
★なぜマドンナが表紙を飾るのか?
表紙にはマンガっぽいイラストで
主人公の坊ちゃんとマドンナが描かれている。
近年、なぜか「坊ちゃん」というと
表紙にマドンナが登場するパターンが多い。
内容を知らない人、
あるいは昔読んだがよく憶えていないという人は、
赴任先の松山で、名家のお嬢さんであるマドンナと
坊ちゃんが出会い、憧れ、恋をする、
というストーリーを思い描くかと思う。
ところがこれはまったくの誤解で、
主人公はマドンナに何の感情も持たない。
むしろ「うらなりから赤シャツに寝返った女」として
あまり良い感情を抱かないと言ってもいいぐらいだ。
出版社は「明治の青春小説」と銘打っているし、
明治ファッションの女性は飾りになるので、
ほとんど活躍の場がないマドンナを
表紙に載せたがるのだろう。
誤解するのは読者の勝手というわけだ。
昭和以降、特に戦後の青春小説・青春マンガには
この「マドンナ」という、男の女性幻想をかたちにした
偶像が頻繁に登場するようになった。
果ては歌謡曲のタイトルになったり、
アメリカの歌手が自分でそう名乗ったりしたので、
一般的にすっかり定着したが、
明治の頃は西洋画に精通した人以外、
マドンナなんて初めて聴く言葉で、
意味など知らないという人が大半だったと思われる。
だから日本人にマドンナの
「聖母・聖女=清く、美しく、愛し尊敬すべき女性」という
イメージを植え付けたのは、
漱石作品の中でも最も人気が高い
この小説だと言っても過言ではないだろう。
★マドンナは清さん
しかし、この定義からすれば、
坊ちゃんから見るマドンナは、
子供の頃から可愛がってくれ、
惜しみない愛情で支えてくれた清さんの方である。
そう言えば、僕が小学生の時に初めて読んだ本の表紙には、
坊ちゃんが見上げる空の向こうには、
ちょっとだけ微笑む和服姿の清さんが描かれていた。
しかし、清さんは若くてきれいなお嬢様ではなく、
坊ちゃんの家の下女、住み込みのお手伝いさんで、
しかもけっこう年寄りである。
この小説の登場人物は、主人公をはじめ、
一人も年齢が特定されていないが、
物語の舞台が発表時の
明治39年(1906年)あたりだとすると、
ほとんどは明治生まれ・明治育ちの人たちである。
ただ一人、清さんは明治維新を体験した人だ。
武士の名家の出身らしいが、
「瓦解(明治維新)の時に零落して、
ついに奉公までするようになった」というから、
おそらく50代後半~60代前半である。
いまと違ってもう立派なお婆さんだ。
しかも人生の辛酸をなめた元・お嬢さまの。
子ども頃から可愛がってもらっているのだから、
母や祖母のように慕うのはわかるが、
坊ちゃんの清さんへの感情は、
そうした家族に対するものとはまたちょっと違う。
さりとて恋愛でもない。
もっと齢が近ければ、そうなり得たかもしれないが、
あまり生々しさを伴わない、尊敬の念を交えた、
女性という偶像に対する愛情が混じっている。
子供の頃は母以上に彼を可愛がった清さんは
坊ちゃんの将来に夢を託し、
おとなになったら面倒を見てもらおうと思っている。
そういう意味では彼女の愛もけっして純粋なものではなく、
ギブアンドテイクの関係と言えなくもない。
ただし、成長した坊ちゃんは、
自分に期待を託す彼女の言うことは、かなりおかしく、
贔屓の引き倒しで、現実離れしていることに気付く。
「こんな婆さんに逢ってはかなわない。
自分の好きな者は必ずえらい人物になって、
嫌いな人はきっと落ちぶれるものと信じていた」
「婆さんは何も知らないから、年さえとれば
兄の家がもらえると信じている」
「(学校を)卒業すれば金が自然とポケットの中に
湧いてくると思っている」
などと冷静に分析し、
“もとは身分のある者でも、
教育のない婆さんだから仕方がない”清さんの
無知ぶり・夢みる少女ぶりにあきれ果てている。
それでも坊ちゃんは清さんを嗤ったりは絶対しない。
彼にとって、知識量・情報量は、
人間的な価値とは決して比例しないのだ。
子供の頃、読んだときは気が付かなったが、
この二人のやりとりは本当に面白く、笑えて哀しく、
清さんはめっちゃ可愛い。
松山で教職に就き、不快な目に会うたびに坊ちゃんは、
そんな清さんの人間的な気品・尊さに思いを巡らせるが、
痛快なストーリーの裏側で、
こうした女性への愛とリスペクトの念があるからこそ、
この小説を単なる面白ばなしでなく、
奥行きと味わいの深いものにしている。
★時代に取り残される坊ちゃん
「坊ちゃん」の読み方の一つとして、
「時代に適応できる者とできない者の物語」
という視点がある。
前者は、話の中で悪人とされる赤シャツや野だいこであり、
後者はとっちめる側の正義の坊ちゃんや山嵐だ。
マドンナも、坊ちゃんからは
うらなりから赤シャツに寝返った、
およそマドンナらしくない女と見做されるが、
彼女は若かりし頃の清さんと同じ立場にある。
この時代の女性の社会低地位は低く、
生き方は今と比較にならないほど制限されていた。
没落寸前の名家の娘として、
いくら身分があるとはいえ、
世渡り下手・自己主張ベタ・まじめなだけで面白くない
許嫁のうらなりよりも、
既に教頭職を得て、将来有望、しかも話術に長けていて
楽しませてくれそうな赤シャツのほうになびくのも
しかたがないところだろう。
下手をすれば清さんと同じく、
零落の道に転がり落ちることになるので必死なのだ。
マドンナとあだ名をつけられて、
男性の夢を壊さないよう、ホホホとおとなしく
笑っているわけにはいかない。
マドンナファンには申し訳ないが、
もしかしたら、彼女の方が赤シャツに目を付け、
誘ったのではにかとさえ思える。
楽しくて痛快な「坊ちゃん」だが、
この明治後期、時代は変わり、
価値観も急速に変わっていた。
よく読むと、それを表現するかのように、
この物語は別れの連続だ。
母が死に、父が死に、生れ育った家は人手にわたり、
兄とも別れ、いわば天涯孤独の身の上になる。
松山ではうらなり(坊ちゃんは彼を人間的に
上等と評価している)を見送り、
赤シャツ・野だいこを叩きのめして訣別するが、
相棒で親友になった山嵐とは新橋で別れる。
ちなみに幕府軍として
明治政府と最後まで戦った会津出身の山嵐は、
江戸時代のサムライ精神の象徴とも取れる。
そして帰って来た彼を涙ながらに出迎えてくれた
マドンナ清さんも、
それからいくらも経たないうちに肺炎で死んでしまう、
坊ちゃんは本当にひとりぼっちになってしまうのだ。
★坊ちゃんは何歳なのか?
今回、読み返してみて、最大の疑問として残ったのは、
この物語を語っている時の坊ちゃんは、
いったい幾つなのだろうということ。
東京に帰って来た彼は街鉄(電車)の技手になり、
清さんと一緒に暮らし始めたもののが、
最後に清さんは「今年の2月に死んでしまった」とある。
ニュアンス的に、仕事に慣れ、生活も落ち着いてきた矢先に
亡くなってしまったと読めるから、
新しい仕事に就いてから1,2年後くらいだろうか。
そしてそれから半年ほど経ってから、
自分の人生を振り返った時、
松山での経験と、清さんという存在の大きさを
語ってみたくなったということだろう。
だとしても、坊ちゃんはまだ20代の溌剌とした若者だ。
その後、彼がどうしたのか、
兄や山嵐と再会する機会はあったのか、
結婚して家庭を持ったのか、興味津々である。
でもきっと、どれだけ年をとっても
この物語のような名調子は消えなかっただろう。
坊ちゃんという人物は、時代に適応できない者の代表格で、
自分の価値観に固執するあまり、教職を失ったが、
それでも新しい職を得て、一人でも生きる道を見出した。
★死ぬまで続く名調子
この頃と同じく、
最近も時代に合わせる
必要性・適応する柔軟性が強調されるが、
人間だれしも、
生まれながらの「自分のリズム」を持っている。
それをないがしろにして、周囲に合わせようとすると、
やっぱりろくなことにならないのではないか。
たとえ得になる生き方だとしても、
損をしない人生だとしても、
それが自分のリズム・語り口・文体と相いれないものなら
気持ち悪くて、長続きなどしない。
世間に通用してもしなくても、
坊ちゃんのように自分のべらんめえを並べ立てて
生き抜いた方がうんと気持ちいいのではないだろうか。
気分が凹んだときの活力剤として、
「坊ちゃん」は、はるか1世紀を超えた過去から
今でも僕たちにいろんなことを教えてくれていると思う。
いつの間にか、日が短くなり、
朝晩はマツムシが鳴いているのに気付く。
今年も淡々と夏を過ごして
特に思い出に残るようなことはしていないが、
なぜか夏の終わりになると、
いろいろな感情が心のうちに押し寄せてくる。
1970年リリース、サンタナの名盤「天の守護神」の挿入歌。
オリジナルはニューヨーク出身の音楽家で「マンボの王様」
と言われたティト・ブエンテの楽曲。
ジャンルとしてはキューバ発祥の音楽
チャチャチャの曲だったが、
サンタナが斬新なアレンジを施してカバー。
ラテンロックという新たなジャンルの代表曲として、
世界中で聴かれるようになった。
サンタナは、ギタリスト
カルロス・サンタナをリーダーとするバンド名だが、
このグループの楽曲には思い出がある。
初めて東京に出てきた1978年の夏から秋にかけて、
生まれて初めて水商売のバイトをした。
池袋西口の繁華街・ロマンス通りの「ロサ会館」
というビルの地下にあった「サムシング」という店だ。
当時はバーでもスナックでも、
店にウィスキーのボトルをキープ(マイボトル)することで
自分の行きつけの店を作り、というか、
店側のシステムに乗っけられて酒を飲むのがトレンドだった。
なので酒飲みのおっさんたちはみんな、
自分がどれだけマイボトルを持っているか
自慢し合っていた。
ここもそうしたボトルキープの店で、
僕は黒服を着てウェイターをやっていたが、
あまり水商売らしくない店長と、
いかにも水商売やってます風の副店長と、
キツネ型とタヌキ型の女の子コンビと、
5人で回す日が多かった。
マイボトルに関する裏話は面白いが、
またの機会に。
名称はパブ「サムシング」。
パブと言っても英国のパブとは大違いで、
ちょっとした食事もできる、
やや大きめのバーのことを
当時の日本ではそう呼んでいたのだ。
特徴としては、ディスコというほどではないが、
10人程度なら踊れる、ミラーボール付きの
小さなダンスホールがあった。
何と言っても70年代、昭和後期の池袋なので、
ちょっと怪しい客が多く、
この店には演歌の世界に出てくるような
わけありカップルが大勢来ていて、
よくチークダンスを踊っていた。
女を酔っぱらわせて、そのまんま近所のラブホに
連れ込む男もほぼ毎日いたと記憶している。
もう一つの特徴は、専属のバンドがいて、
30分おきに生演奏を披露していたこと。
このバンドのレパートリーの半分くらいがサンタナだった。
この曲を初め、
「君に捧げるサンバ」「ブラックマジックウーマン」
「哀愁のヨーロッパ」(チークタイムの定番!)などを
いつも演奏しており、未だに耳に残っている。
なのでサンタナを聴くと、あの店の客やスタッフのこと、
そこで起こったいろいろな出来事を思い出すのだ。
働いていたのは3カ月か4ヵ月程度だったが、
いろいろ社会勉強・人生勉強をさせてもらって、
今では感謝の気持ちを持って思い出す。
というわけで、
実際のサンタナとは全然ちがう話になってしまったが、
この映像はオンラインで世界各地の音楽家を結ぎ、
みんなで名曲を協奏するというプロジェクト
「プレイング・フォー・チェンジ」によるバージョン。
サンタナのロックテイストにプラス、
オリジナルであるチャチャチャのニュアンスも
色濃く出ていて、めっちゃカッコいい。
「僕のリズムを聴いとくれ」という邦題がぴったりだ。
もちろん、南国の空に響き渡る
カルロス・サンタナのギターソロは圧巻。
あのサムシングのバンドリーダーは、
今もまだサンタナを聴いてギターを弾いているのだろうか?
17日間連続となった夏休み無料キャンペーンは
本日16時を持って無事終了。
ご購入いただいた方々、ありがとうございました。
よろしければレビューをお寄せください。
今後も月1ペースでKindleで小説・エッセイを
UPしていく予定です。
今後ともよろしくお願いいたします。
夏はまだまだto be continue。
岡山県真庭市・湯原温泉郷の「はんざき祭り」は、
本日が本祭。
「ハンザキを喰った話」なんて本を書いていたのに、
こんなお祭りが60回も行なわれてるなんて、
ついこの間までちーとも知らなかった。
ちなみに本来は8月7日が前夜祭、8日が本祭。
今年は台風接近のリスクを避けて日程を変更した。
今年は無理だったが、いつか行きたい。
ハンザキ愛にあふれた湯原温泉郷の人たちのお話を
ぜひ聞いてみたいと思う。
じつは「ハンザキを喰った話」は、
岡山でなく他県のハンザキ生息地の人のお話を
モチーフに書いた。
どう見てもグロいとしか思えない地球最大の両棲類だが、
日本各地において、その“グロかわいさ”は
時代を超えた人気を獲得し、
歌に、キャラクターに、お土産物に、お祭りに
大活躍している。
まさに日本の誇り、日本の宝。
そしてどこかSDG'sのシンボルのようにさえ見え、
世界中から愛される勢いさえ感じられる。
これからの時代、ますます
ハンザキ、ハンザケ、オオサンショウウオに注目だ。
はんざき祭り開催につき、さらに延長
親子で読もう!
夏休み無料キャンペーン最終弾
ハンザキを喰った話
8月24日(木)15:59まで
オオサンショウウオに変態した100歳の発明家をめぐる怪異幻想譚。
岡山県真庭市・湯原温泉はんざき祭り開催につき、
さらに延長
親子で読もう!夏休み無料キャンペーン最終弾
ハンザキを喰った話
8月22日(火)16時~8月24日(木)15:59まで
ハンザキに変態した発明家をめぐる怪異幻想譚。
はんざき祭りは本日前夜祭。明日本祭。
光り輝く黄金のハンザキが温泉街を練り歩く!
認知症、あるいは認知症介護が
現実のものになると人生観が変わる。
先日、「回想療法士」を取材した。
回想療法とは古い写真などを見て、
認知症患者、また認知症でなくても元気のない高齢者と
いっしょに思い出を共有するというメソッド。
通信講座で取れる民間の認定資格だが、
ルールを覚えればそう難しいものでもなく、
たとえばカラオケで懐メロを歌うだけでも
回想療法になるらしい。
ただし療法といっても、これで認知症が治るわけではない。
予防になったり、
軽度の段階なら進行を遅らせることは可能らしく、
その辺もまだ研究の最中ということだ。
僕が取材した人たちは回想療法を活かした
商品を作っているのだが、
病院や介護施設の一部でも活用されているらしい。
ちょっと前まで認知症は、痴呆症、老人ボケなどと言われ、
これになったら半死人、ほとんど廃人みたいな扱いだった。
そうした認識がこの10年ほどの間に激変した。
理由は簡単で、当事者、
つまり自分ごとと考える人が増えたからだ。
他人ごとのうちはボケとか軽口を叩いたり、
廃人扱いしても心が痛むことなどなかったが、
身内や大切な人が発症して介護者になったり、
自分自身もなるかもと考えると、そうはいかない。
いまや認知症はポピュラーになり、
嫌な言い方かも知れないが、
多くの人のビジネスのネタになるようになった。
認知症をネタにした本を書いている僕も
その一人といえる。
次の段階としては、これからまだまだ増えるであろう
認知症患者を、どう役に立つようにするかが、
大きな社会課題になっていくだろう。
親子で読もう!
夏休み無料キャンペーン第6弾
ざしきわらしに勇気の歌を
8月22日(火)16時59分まで
認知症になった寅平じいさんの人生最後のミッション。それは最強の妖怪「むりかべ」に立ち向かうざしきわらしのきょうだいを得意の歌で応援することだった。笑ってちょっと不思議な気持ちになる、妖怪幻想譚。
好評につき延長
親子で読もう!夏休み無料キャンペーン第6弾
「ざしきわらしに勇気の歌を」
8月20日(日)17時~8月22日(火)16時59分まで
認知症になった寅平じいさんの人生最後のミッション。
それは最強の妖怪「むりかべ」に立ち向かう
ざしきわらしのきょうだいを
得意の歌で応援することだった。
笑ってちょっと不思議な気持ちになる、妖怪幻想譚。
1979年、オンシアター自由劇場が上演した音楽劇
「上海バンスキング」のテーマ曲。
昭和10年代(1930年代後半から40年代前半)の
上海租界を舞台に、
享楽的に生きるジャズマンをめぐる物語で、
劇中演奏されるのはジャズのオールドナンバーだが、
オープニングとクロージングを飾るこの曲はオリジナル。
主人公のまどか役で歌手の吉田日出子は
小劇場界では名の知れた魅力的な女優だったが、
この芝居まで歌手としての経験はほとんどなかった。
また、ジャズマンたちも串田和美(シロー)や
笹野高史(バクマツ)をはじめ、楽器は素人同然。
にもかかわらず、演奏はノリにノってて素晴らしかった。
それはもちろん、この物語がとてつもなく面白く、
感動的だったからである。
僕は「上海バンスキング」の初演を見た。
当時、オンシアター自由劇場の拠点劇場は、
外苑東通りと六本木通り(首都高3号)とが交わる
六本木交差点からすぐ近くの雑居ビルの地下にあった。
キャパ100人の小さな劇場(というよりも芝居小屋)には
観客が溢れかえり、
広さ8畳程度の狭い舞台には、
主演級の他、楽器を携えた楽団員役を含め
20人を超えるキャストが出入りして熱演した。
あんな狭いところでいったいどうやっていたのか、
思い出すと不思議で仕方がない。
舞台となるのは、まどかとシロー夫妻の家の広間だが、
舞台セットなどは椅子とテーブルがあるだけ。
そこが突如ジャズクラブに変貌したりするシーン構成、
いろいろな登場人物が錯綜するストーリー展開、
そして時代が日中戦争、さらに太平洋戦争へ続いていく
ドラマの流れは、リアリズムをベースに、
時にファンタジーが入り混じり、
さらに歴史の残酷さを描き出す叙事詩にもなるという、
舞台劇の醍醐味に満ちていた。
ジャズと笑い・ユーモアに彩られながらも、
「上海バンスキング」はけっしてハッピーな物語ではない。
後半は戦争の暗雲が登場人物たちの人生を狂わせていき、
終盤、自由を、仲間を、そして音楽を失ったシローは、
アヘンに溺れ、やがて廃人になってしまう。
変わり果てた夫を抱きしめて、まどかは最後に
「この街には人を不幸にする夢が多過ぎた」と呟く。
ひどく苦い結末を迎える悲劇なのだが、
追憶の中、二人の心によみがえる「ウェルカム上海」は、
思わず踊りだしたくなるほど陽気で軽やか。
その楽しいスウィングは、
同時に哀しく美しい抒情に包まれる。
劇作家・斎藤憐はこの作品で
演劇界の芥川賞とされる岸田國士戯曲賞を受賞。
オンシアター自由劇場は
1979年の紀伊国屋演劇賞団体賞を受賞。
再演するごとに人気は高まり、
キャパ100人の劇場は連日満員で客が入りきらなくなり、
やがて大きな劇場で何度も再演されることになる。
それまで演劇など見たことのなかった人たちでさえも
虜にし、1984年には、深作欣二監督、
松坂慶子・風間杜夫の主演で映画化。
20世紀の終わりまで上演され続ける
日本の演劇史に残る名作になった。
オールドファンとしては、
吉田日出子をはじめとするオリジナルキャストの
歌・演奏・演技はあまりにも印象的で忘れ難いが、
新しい若いキャストで今の時代に再演しても
ヒットするだろうと思う。
不幸のリスクを背負っても夢を求めるのか、
夢など見ずに幸福(というより不幸ではない状態)を
求めるのか、
いつの時代も、いくつになっても、
人生の悩みと迷いは変わらないのだ。
もう一度、舞台で「ウェルカム上海」を聴いてみたい。
夏休み無料キャンペーン第5弾
「ポップミュージックをこよなく愛した僕らの時代の妄想力」
8月20日(日)16時59分まで
ポップミュージックが世界を覆った時代、ホームビデオもインターネットもなくたって、僕らはひたすら妄想力を駆使して音楽と向き合っていた。
心の財産となったあの時代の夢と歌を考察する音楽エッセイ集。
おりべまこと11日間連続
親子で読もう!夏休み無料キャンペーン第5弾
「ポップミュージックをこよなく愛した
僕らの時代の妄想力」
8月18日(金)17時~8月20日(日)16時59分
ロックが劇的に進化し、ポップミュージックが
世界を覆った時代.
ホームビデオもインターネットもなくたって、
僕らはひたすら妄想力を駆使して音楽と向き合っていた。
僕らのイマジネーションは音楽からどれだけの影響を受け、
どんな変態を遂げたのか。
心の財産となったあの時代の夢と歌を考察する
音楽エッセイ集。
もくじ
●八王子・冨士森公園のスローバラード駐車場で、
ポップミュージックをこよなく愛した僕らの時代の妄想力について考える
●純情ストーカー男と純心DV願望女の昭和歌謡
●悲しいことなんてぶっとばすロックンロールバンドのモンキービジネス
●21世紀のビートルズ伝説
●義弟のアナログレコードと帰ってきたカレン・カーペンター
●森田童子の思い出:僕らの時代の子守唄
ほか全33編
事件の真相は、初恋の中に沈んでいる――。
宣伝コピーがカッコいい「ザリガニの鳴くところ」は、
全世界で累計1500万部を売り上げた
ディーリア・オーエンズの同名小説の映画化。
1969年、ノースカロライナ州の湿地帯で、
将来有望な金持ちの青年が変死体で見つかる。
殺人事件の容疑者として逮捕されたのは、
「湿地の少女」と呼ばれる孤児の女の子。
彼女を裁く陪審員裁判で事件の真相が明かされていく。
しかし、本当の真実が明かされるのは
それから半世紀のちの現代(映画のエピローグ)。
人生の結論はすぐには現れず、
目に見えないところに深く沈み、
思いがけない時に浮かび上がってくる。
原作小説は一昨年、読んでいた。
作者のオーエンズは動物学者で、
その知見をふんだんに活かし、
湿地の生態系について詳しく描写しており、
それと人間ドラマとがブレンドされて、
詩的でスケールの大きな物語になっている。
湿地という土地自体がミステリアスで、
様々な暗喩に満ちており、
人間の心のなかの世界を表現しているかのようだ。
ただ、ミステリー映画という頭で見ると、
正直、論理的に甘い部分が気になるかもしれない。
冒頭の宣伝コピーも
実際の内容とはちょっとズレてる感じが否めない。
映画化に際してストーリーは単純化され、
殺人事件の真相解明に焦点が絞られているが、
アメリカ社会に深く根を張った
児童虐待・家庭崩壊の問題も
もっと突っ込んで描いてよかった気がする。
アマプラで見た(今でも見られる)が、
陸と海との境界となっている雄大な湿地帯の風景と、
そこで暮らす人々のライフスタイルは、
映画館のスクリーンサイズで見たかった、という印象。
その映像をバックにしたプロローグとエピローグの
ナレーションもしびれるほど詩的でイマジネーティブ。
「ザリガニの鳴くところ」というタイトルの意味も分かる。
そして、ラブシーンがいい。
ドラマの文脈、映像の美しさ。
若い俳優さんがあまり美男美女過ぎないのもいい。
こんなきれいなラブシーンは久しぶりに見た気がして、
年甲斐もなく、ムズムズソワソワしてしまった。
夏休み無料キャンペーン 第4弾
ちち、ちぢむ
8月18日(金)15時59分まで
ろくでなしだけど大好きなお父さんが
「ちっちゃいおじさん」に!
人新世(アンドロポセン)の時代を生きるアベコベ親子の奇々怪々でユーモラスな冒険と再起の物語
親子で読もう!
夏休み無料キャンペーン 第4弾
ちち、ちぢむ
8月16日(水)16時~8月18日(金)15時59分
ろくでなしだけど大好きなお父さんが
「ちっちゃいおじさん」に!
将来、生物学者をめざす秀才ケントは、
これはオタマジャクシの時よりも小さくなってしまう
アベコベガエルと同じく、
アポトーシス(細胞の死)による
変異が起こっていると解析。
社会の役に立たないハンパな男たちが
こぞって縮んでしまう怪現象は、
人類による環境破壊を阻止しようとする
地球の意志なのだろうか?
人新世(アンドロポセン)の時代を生きる
アベコベ親子の奇々怪々でユーモラスな冒険と再起の物語。
終戦記念日。
日本人として78年前のあの惨劇に向き合う日。
――というのは正論だが、
「戦争を知らない子どもたち」が
8割以上を占めてしまった今の日本では、
なかなかできないことだろう。
そんな時にこの本をおススメ。
戦争に負けたからと言って日本が滅ぶわけでも、
日本人が皆殺しにされるわけでもない。
みんなの人生は続くし、国も世界も続く。
8月15日だって玉音放送を聞いて、
日本国民が全員、泣き崩れ、
茫然自失していたわけでもない。
負けたと分かった瞬間から復興は始まったのだ。
戦後の復興について知るのに、
政治や社会情勢から入るのは厳しいが、
映画・演劇・音楽・出版・スポーツなどの
娯楽の分野からなら入りやすいのではないか。
この本はタイトル通り、
1945(昭和20)年8月15日以降の4ヵ月半の間、
映画・演劇・音楽・出版・スポーツなど、
各分野の文化の担い手たちがどう再起し、
娯楽産業を復興していったかの記録だ。
著者の中川右介は、文学・音楽・映画などの
評伝・評論を書いている人で、
膨大な資料を調べ上げ、
あくまで客観的な事実を重視したスタンスと、
むやみに感動を煽ったりしない、
淡々としたジャーナリスティックな筆致で綴っている。
それが却って胸にしみてくるのだ。
これらの娯楽産業は、コロナ禍や災害時に言われる
「不要・不急な」分野なのだが、
日本中が不安と飢えと貧困にあえぐ中、
わずか4ヵ月半で、いわゆる主要産業よりも先に
復興へ歩み出していたことに驚く。
なぜ文化の担い手たちにはそんな力が合ったのか?
そのエネルギーはどこからやってきたのか?
映画・演劇・音楽・出版・スポーツなどが
人の生活にどんな役割を果たしているのか?
そんなことを考えるのも楽しい。
最近、またもや世間は昭和ブームとかで、
懐メロや昔ばなし、昔の映像がしょっちゅう
テレビやネットで流れているが、
その源流となる1945年について知ると
もっと面白くなるかもしれない。
夏休み無料キャンペーン第3弾
昭和96年の思い出ピクニック
8月16日(水)15時59分まで
みんなが愛して憎んで生きた昭和時代を1960(昭和35)年生まれの著者が探検する面白まじめエッセイ集。
終戦記念日には昭和のことに思いを馳せよう。
おりべまこと夏休み無料キャンペーン第3弾
昭和96年の思い出ピクニック
8月14日(月)16時~8月16日(水)15時59分まで
みんなが愛して憎んで生きた昭和時代を
1960(昭和35)年生まれの著者が探検する
面白まじめエッセイ集。
終戦記念日には昭和のことに思いを馳せよう。
もくじ
・西城秀樹さんのお葬式:青春の同窓会
・ちびまる子ちゃんとサザエさんはいつまで続くのか?
・昭和オカルト大百科
・新聞少年絶滅?物語
・死者との対話:父の昭和物語
・社会全体の児童虐待と「晴れた空」
ほか30編
真夏。川沿いの道、木々の間を歩くと、
セミの命の限りの鳴きっぷりに心打たれる。
今日は台風の影響で朝から断続的に
土砂降りになっているが、
その短いやみ間、晴れ間を有効活用して
セミは懸命に鳴く。
5分、10分の時間も無駄にするものかという姿勢は
チョコザップみたいだ。
そのセミも先週あたりから選手交代が目立つようになった。
道端には命尽きたアブラゼミがコロコロ転がるようになり、
代わりにツクツクボウシの鳴き声が混じって来た。
朝早くと夕方遅くはヒグラシの独特の鳴き声も響く。
ヒグラシのゆったり伸るような声を聞くと、
なぜか怪談を連想する。
まだまだ暑いけど、
ツクツクボウシとヒグラシの声が増えると、
夏も後半に入ったなという感じがする。
長いと思っていた夏休みも半分終わり、
後半戦に入るとあっという間に過ぎ去る。
人生も同じく、後半戦に入ったと思ったら、
光陰矢の如し。
セミのように短い命を鳴き通そう。
親子で読もう!おりべまこと11日間連続
夏休み無料キャンペーン第2弾
いたちのいのち
8月14日(月)15時59分まで
小学生の女の子カナコと、彼女が世話をしているフェレットとの楽しいお話。
夏休みの読書感想文にもどうぞ。
夏休み無料キャンペーン第2弾
いたちのいのち
8月12日(土)16時~14日(月)15時59分まで
カナコは10歳。小学4年生。お母さんと二人暮らし。
しかしもう一人、というか一匹、
いっしょに暮らす同居者がいる。
その名は「イタチ」。ペットのフェレットだ。
学校でも家でも口をきかないカナコにとって、
イタチは唯一、心を開いて話ができる親友であり家族だ。
天使だったイタチは、
人間として地球に生まれることを望んでいが、
天国の〈地球いきもの派遣センター〉の
手続き上のミスによって人間になるのを諦め、
その代わりにフェレットとして
ワンサイクルの命をまっとうすることになった。
子どもからちょっとおとなに変わっていくカナコと、
そのそばで天使の目を持ったまま生きる
フェレットのイタチ。
それぞれの日常生活と事件の数々、
そして別れまでを描く動物ファンタジー。
今日もディスコ!ダンスダンスダンス!
マイケル・ジャクソンのプロデューサーとしても
おなじみのクインシー・ジョーンズ、
1981年リリースの大フィーバー曲。
ちなみに歌っているのはデューン(チャールズ・メイ)と
パティ・オースティンという人で、
クインシー・ジョーンズはドピンクのシャツを着て
ウロウロしている黒人のおっさんです。
この曲、つい昨日までジョーンズのオリジナルだと思っていたが、
実はチャズ・ジャンケルという歌手が
前年に出した曲のカバーだった。
しかも、もと歌もそんなに変わらないディスコビート。
それでもこの頃、すでに巨匠だった
クインシー・ジョーンズが取り上げ、
世界中のディスコで響きわたり、
若者たちが踊りまくったことで、
すっかりこのバージョンが定着してしまった。
戦前生まれ(1933)のクインシー・ジョーンズは、
ジャズミュージシャン、アレンジャーとして、
60年代前半から音楽業界で大活躍。
マイルス・デイヴィスやフランク・シナトラらの
プロデュースを手がけたり、
映画やテレビドラマのサントラも多数つくっている。
そして80年代以降はソウル系ポップ・ロックの
大ボスとしてマイケル・ジャクソンはじめ、
世界のスターミュージシャンらに多大な影響を及ぼした。
「愛のコリーダ」というタイトルは、
邦題ではなく、オリジナルのまんま。
1976年に大島渚監督が発表した映画から
いただいたものだ。
大島渚の最も有名な代表作は
1983年の「戦場のメリークリスマス」だが、
戦メリ以前の大島監督の代名詞と言えば、
初の海外進出作で、カンヌ国際映画祭で賞を取った
「愛のコリーダ」だった。
同作は戦前の日本社会を騒然とさせたエロ猟奇殺人事件
「阿部定」を題材とした問題作だが、
歌の方はべつに映画の内容とは関係ない。
(猟奇殺人の歌で踊ってたら、やっぱヤバい)
強いて言えば「究極の愛」について歌っているから
同じ題名にしたのか。
「愛」は日本語、
「コリーダ」はスペイン語で「闘牛」の意味だから、
アメリカ人にとってはエキゾチックなムードが
出せるのだろう。
愛し合い、いっしょに踊る男女を
闘牛と闘牛士に見立てたのかもしれない。
かつてのディスコミュージックの帝王は、
90歳になる今も健在で、
元気に音楽活動を続けているようだ。
グレート。
親子で読もう!夏休み無料キャンペーン
オナラよ永遠に
8月12日(土)15時59分まで
一発の小さなオナラから巻き起こる
愛と笑いと冒険のSFファンタジー。
親子で読もう! 夏休み無料キャンペーン
オナラよ永遠に
8月10日(木)16時~8月12日(土)15時59分
ぼくは小学5年生の救太郎。
かわいいあの子を守るために、
学校の教室で彼女が漏らしたオナラの罪をかぶって
「ヘコキ虫」と、いじめられるハメに。
でも、それだけじゃなかった。
未来からタイムスリップして来たサイボーグ・プ―太郎に
「君は救世主だ」と決めつけられ、
人類を脅かす恐るべき敵との戦いに巻き込まれてしまう。
一発の小さなオナラから巻き起こる
愛と笑いと冒険のSFファンタジー。
親子で読もう!明日10日(木)から
おりべまことKindle夏休み無料キャンペーン2023
子どもが読める、大人も楽しい電子書籍
8月10日(木)16:00~12日(土)15:59
「オナラよ永遠に」
小学5年生の小松救太郎は、ぬきうちテストの最中にオナラをもらし、クラス中からいじめられる。しかし、その真犯人は彼の好きな女の子だった。一発のオナラから巻き起こる愛と笑いのSFファンタジー。
12日(土)16:00~14日(月)15:59
「いたちのいのち」
小4の女の子カナコと天使の目を持ったペットのフェレット
「イタチ」との日常とファンタジーを行き来する物語。
14日(月)15:59~16日(水)15:59
「昭和96年の思い出ピクニック」
みんなが愛して憎んで生きた時代を1960(昭和35)年生まれの著者が探検する面白まじめエッセイ集。
16日(水)16:00~18日(金)15:59
「ちち、ちぢむ」
お父さんが「ちっちゃいおじさん」に!
役立たずの男たちが縮んでしまう怪現象は地球の意志なのか? アベコベ親子の奇々怪々でユーモラスな物語。
18日(金)16:00~20日(日)15:59
「ハンザキを喰った話」
オオサンショウウオの不思議な生命力に人生を左右されることになった明治・大正の発明家と、昭和・平成のライターの怪奇な運命の物語。
今日のNHKのニュースで、
長崎原爆資料館の展示物の表記を
原爆が「投下された」から「さく裂した」に
変えると聞いた。
僕は違和感を感じ、なんで?と思った。
「投下」は主体がはっきりしている。
原爆を搭載した米軍機が飛行するイメージが浮かぶ。
米軍が投下した。米軍が原爆を投下した。
Atomic Bomb was Droped.(by U.S. Army)
U.S. Army droped Atomic Bomb.
ところが「さく裂」だと主体があいまいだ。
飛行機の姿も見えない。
原爆がさく裂した。
Atomic Bomb was Exploded.
そこに(by U.S. Army)が入る余地はない。
原爆が自然にさく裂したのか?
原爆がみずから意思を持ってさく裂したのか?
あるいは、どこか別の惑星から地球外生命体がやってきて
さく裂させたのか?
そんなはずはない。
そんなのわかっているだろ。
おまえの言っていることはおかしい。
くだらんツッコミを入れるな。
と言われるかもしれない。
ニュースの内容は以下の通り。
長崎市の原爆に関連して「11時2分」という
時刻について、
長崎原爆資料館では一部の展示物で
原爆が「投下された」時刻と表記されています。
これについて被爆者の一部からはより正確に
「さく裂した」という表記にあらためるべきだ
との意見が出ていることなどから、
長崎市は今後、展示物の表記を見直す方針です。
被爆者の人の指摘なら仕方ないかとも思うが、
主語は大切にした方がいい。
主語があいまいになると、責任もあいまいになる。
そもそも「投下された」という受動態も変だ。
当たりが柔らかくなるからか、
責任をボカした方が都合がいいからか、
日本人はやたらと受動態の文章を好み、
人ではないモノ、概念などを主語にしてしまう
ケースが多い。
同資料館が子どもが原爆について学ぶ場であり、
後世に伝えていく施設であるなら、
“誰が”原爆を投下したのか、
“誰が”この暴力・殺戮を行使したのか、
言わずもがなにせず、
一読ではっきり事実と責任が
わかるように表現すべきではないかと思う。
「米軍が投下した原爆が、
11時2分に長崎市上空でさく裂した」
仕事としてライターをやりたいのなら、
まず書くことを楽しむこと。
書くことを楽しむことなく、
良い文章・りっぱな文章・人に褒められる文章を
書こうとしても、絶対に続きません。
そしてライターの仕事のうち、書くことは半分だけ。
あとの半分はクライアントや取材相手と
良い人間関係を築くことです。
これができないと仕事はあなたのところには来ません。
まずこの二つを踏まえて、
ライターの仕事に興味のある人は読んでみてください。
薬にはなりませんが、
サプリメントくらいの効用はあるかも。
実用的なマニュアルっぽいものもいくつかありますが、
基本的には自分の感想・考察などを綴った
エッセイなので、
「ふーん、こういうやり方・考え方もあるのか」
と思って気楽に読んでみてください。
もくじ
・まえがき みんなライター あなたも物書き
・メディアにおけるメールを利用した取材について
・追記:リモート取材
・メモ帳活用ライティング
・自伝を書いて脚色する
・ライターの仕事の半分以上は取材
・代筆業の進め方 具体例
・AIライター・ロボットライター
・人に見せない、自分だけの秘密の文章を書く
・「継続は力なり」を今頃やっと実感
・ライターという職業の面白さ
・マルチなわらじと自分マネージメント術
・取材はイベントにしたい
・ビジネスのための本気の企業理念
・デジタル時代ならではのアナログ手書き写本トレーニング
・企業ブランディングとストーリーテリング
・世界は代筆でできている
・ホームページに心のこもったお手入れを
・インタビュー術「あなたの健康の秘訣は?」
・文章力よりも相手のいいところを発見する力
・「みみずくは黄昏に飛び立つ」は書き手・聞き手のバイブル
・本を出したい人は心の地図を開いてブログを書こう
・春の小川流さらさら仕事術
・自動書き起こしソフトから生まれた地球のメッセージ?
・日本人はデジタルに心を求める
・あとがき 村上・キング方式をマネる
Kindleより本日発売。¥300
先週開催の有名花火大会に行った知人が
コロナで高熱を出して寝込んでしまった。
もうほとんどの人が気にしておらず、
感染者数もわからないし、報道もされない。
しかし、コロナは確実に広がっていると思う。
この3年間、
真夏は真冬をしのぐほど感染者数が跳ねあがり、
重症者数・死者数も年間のピークだった。
今年だって例外ではない。おそらく。
5類移行で行動制限がなくなったということは、
「今後はすべて自己責任でお願いします」ということ。
家族などに感染させるリスクも、医療施設の治療費も、
何でも自己負担しなくてはならない。
それに昨年まではコロナになったと言えば、
「たいへんだね」「しかたないよね」と
社会的な同情・共感(?)も得られたが、
今年からは周囲の反応も冷たいだろう。
「なんであたしだけが」「おれだけが」と、
メンタルがへこみやすくもなる。
お祭りムード・夏休みモードに水を差す気はないし、
遊びに行くなという気もない。。
混んでるのはいやだと言う人は多いが、
その一方で、わいわい賑やかじゃなきゃ面白くない、
気分が盛り上があらないというのもまた事実。
ただ、相変わらずリスクはあるんだということは
頭のどこかに留めておいて、
自己防衛策はちゃんとしたほうがいい。
真夏に感染者が増えるのは、
おそらく冷房で換気が不十分になりがちだからだろう。
コロナウィルスはインフルエンザと違って
高温も気にしないので、年間通して活発に動けるようだ。
この猛暑で熱中症のリスクも気になるが、
やはり換気はちゃんとこまめにした方がいいいだろう。
換気の良くない場所には長時間いないこと。
人ごみに揉まれた後で、換気の悪い店で一杯、
というのが一番やばいパターンかも。
暑いけどリスクが気になる人は
マスクも付けた方がいいだろうし、
手洗いをこまめにするのは必須。
今週はお盆で帰省ラッシュになる。
人混むのを楽しむのは、お祭りに共通して、
日本人独特の感性みたいなものだが、
コロナにかかって後々苦しむことのないよう
しっかり防衛策を。
シティポップのミックスを聴いていたら偶然の再会。
かなり遠い昔、
高校時代にラジオで1度聴いたきりの曲で、
曲名も歌手の名前も全然知らなかったが、
さわやかで親しみやすく、ちょっとだけメロウな旋律と
「シュワっとはじけて」という夏っぽいフレーズが、
頭の奥の引き出しに録音されていた。
1977年リリース。
マザー・グースは金沢出身の女性3人組バンド。
この曲は彼女らのオリジナル曲で、一度、
前年発売のデビューアルバムに収められていたが、
それを山下達郎が編曲・プロデュースを手掛け、
シングル盤として新たに発売した。
当時まだマイナーな存在だった
(伝説の「シュガーベイブ」というバンドをやっていた)
山下達郎にとって初めてのプロデュース作だったらしい。
すごいのは山下をはじめとするバックの演奏陣で、
ティンパンアレイの林立夫、細野晴臣、鈴木茂、
そしてまだ無名のスタジオミュージシャンだった
坂本龍一など、日本のポップミュージックシーンを築いた
若き日のビッグネームたちがこぞって参加している。
「貿易風」とは聞き慣れない言葉だが、
横浜などの貿易港のイメージなのだろう。
改めて聴くと、女性がオトコ目線で歌う歌詞は
ユニークで楽しく、ちょっと不器用感があって、
そこがまたひどくみずみずしくて印象的だ。
世界で人気のジャパニーズ・シティポップは、
80年代の曲がメインだが、
そこまできらびやかでなく、
イマイチ洗練されきっていない、
70年代後半感が漂うサウンドは、とても気持ちいい。
ちなみにこの頃はシティポップも、
J-POPという言葉もなく、
やっと「ニューミュージック」という言葉が
広がり出したころだ。
いずれにしても、いつまでもみずみずしさを失わない、
不思議な魅力のある歌。
ジャパニーズ・シティポップの隠れた名曲として
より大勢の人が聴いて楽しんでくれるといいと思う。
これは「物書きをめざす人」と
「物書きを続ける人」に向けた本である。
ブログで時々、仕事についての話を書いているが
割と覗いてくれる人が多い。
数年前の記事でもちょくちょくアクセスがある。
それで興味を持つ人のために一度、まとめてみた。
この本で物書きと言うのは、
職業としてのライター(執筆業)はもちろんだが、
職業としていなくても、
何らかの文章を書く人・書きたい人全般を指している。
書くという行為は、本能とまではいわないまでも、
かなり人間の本質的な部分から起こす行動だと
思うからだ。
特に情報化が進んだ世の中で生きる現代人にとって、
この表現活動は生活の一部であり、人生のなかでけっこう大きな部分を占めていると思う。
毎日SNSで何かしら自分の意見を
発信している人だって、
自分の文章に責任を持てる人であれば
ライターと呼んでもいいし、
名乗ってもいいかもしれない。
逆に言えば、ライターと名乗ることで
発信のしかたも変わってくるのではないだろうか。
そんなわけで僕のブログの仕事の話に
興味を持ってくれる人は、みんな物書きであり、
ライターと言ってもいいと思っている。
現代社会では人は皆、自分の意思次第で
「人生の中でいつか物書きになることをめざす人」
にもなれるし、
「一生物書きをやり続ける人・物書きであり続ける人」
にもなれるのだ。
僕はもう還暦を過ぎているが、
ライターと名乗って仕事を始めてから、
かれこれ30年以上経つ。
もともと演劇やテレビ・ラジオドラマの
脚本を書いていて、最近は小説なども手掛けているが、
ここでは基本的にビジネス関係
(書籍出版・雑誌・ウェブ記事)の
執筆活動の話をまとめてみた。
特に取材・インタビューについての話が多いので、
そうした方面の仕事がしたい人・している人には
ちょっと面白く、役に立つかもしれない。
実用的なマニュアルっぽいものもいくつかあるが、
基本的には自分の感想・考察などを綴った
エッセイなので、
「ふーん、こういうやり方・考え方もあるのか」
と思って気楽に読んでほしい。
8月6日(日)発売予定。
子供の頃、戦後復興世代の両親に
よく話を聞かされたせいか、
僕にとって8月は戦争・戦後のイメージに包まれている。
終戦はこの世に生まれる15年も前
(でもたった15年前!)のことで、
まったく未経験だが、
わりと鮮明に過去のビジョン(とでもいうべきもの)が
脳裏に刻まれている。
復興期が自分の青春期ともろに重なっていた父親は、
事業で成功して家を建てた後は、
あちこち旅行に行ったり、
美術品や骨董品を集めていたが、
仕事を辞めるとそれにも飽きて、
晩年はしきりに昭和20年代から30年代前半のことを
回想していたフシがある。
そういえば8月は父の誕生日もある。
焼け野原の中で軍需工場での仕事も失い、
17歳の誕生日を迎えた少年は
何を考えていたのだろう?
今ならそこをピンポイントで聴いてみたいところだが、
もう遅すぎる。
めっちゃ大変だったが、めっちゃ面白かった時代。
戦争・戦後を語る際、
悲劇・惨劇・怒りばかりが強調されて伝えられるのは
しかたないことだ。
「面白かった」なんて言おうものなら、
つるし上げを食らいそうだが、
大半の日本人は、実はそう思っていたのではないだろうか。
それくらいの元気がなければ、
ここまで経済成長はできなかっただろうし、
これほど百花繚乱の昭和文化は生まれなかっただろう。
平成・令和と時代が進むにつれて
そうした印象を強くする人は
むしろ増えているのではないだろうか。
たんなる懐メロでなく、ノスタルジーでもなく、
昭和は未来まで、ルネッサンスのような
面白い時代として記憶されるに違いない。
そんな思いもあって
気まぐれで昭和シリーズのエッセイを書いている。
第2弾は「昭和99年」、
3弾は「昭和100年」の出版を予定しているが、
考えてみたらもうすぐそこだ。
1ヶ月ほど前、義母の要介護度認定更新の調査があり、
きょうその査定結果を聞いた。
要介護度は上がらず下がらず、
いっしょに暮らす前と変わらず3のまま。
これでまた次の4年間を送ることになった。
認知症の認定を受けたのは10年ほど前からだが、
その10年ほど前、
つまり20年ほど前から症状はすでに始まっていたらしい。
そう言われていま思い返すと、
まだチビだった息子を連れて訪ねた時、
ところどころおかしな言動が見受けられた。
その頃は今ほど認知症が“認知”されておらず。
まだ「ボケ」とか「痴呆症」と呼ばれていた
時代だったので、
いっしょに暮らしている家族としては、
そんなことを認めたくなかったのだと思う。
これまでのデータでは、
認知症は発症から10年ほどで死に至る病とされているが、
そこだけ考えるとずいぶん長期間、
おとなの人間としての機能が維持できている。
引きこもりの人が朝の散歩を始めて、
花の匂いを感じたり、鳥の声を聞いたり、
風を肌に受けたりすることで、
しだいに気分がやわらぎ改善した、
という話を聞いたが、認知症の場合もそれと同じで、
日常的に川沿いを歩くことなどで
脳に良い影響を与えているのかもしれない。
ただ、いずれにしても介護は大変で、
カミさんと二人でやっているから何とか持っているが、
一人ならとっくの昔につぶれている。
ヤングケアラー、ビジネスケアラーも
これから大勢発生するだろう。
この先、10年・20年、
日本社会(そしてほとんどの先進国)にとって、
介護はますます大きなテーマになっていきそうだ。
未来を担う人たちを育てる子育てもそうだが、
これまで社会のために功労してきた人たちを
介護することも、その家族にとっては一大事業なのである。
本日は電子書籍の新刊予告。
エッセイ集:仕事「書く人に効くサプリメント」
ブログで気まぐれで書いている
ライター業に関するエッセイ・書き方マニュアルなどが
割とよく読まれているようなので、
電子書籍にまとめて発売することにしました。
ライターの仕事をやっている方、めざしている方、
本を書いている方、書きたい方のための
「薬」とまでは言いませんが、
サプリメントくらいにはなるかも。
参考にしてお役立ていただければ幸いです。
今週中に発売予定。どうぞお楽しみに。
僕たち70年代の若者は、みんなこの曲で踊り狂って、
精神が宇宙まですっ飛んで行っていた。
日本における70年代ディスコミュージックの代表曲、
アース・ウィンド&ファイアーの「宇宙のファンタジー」。
1977年リリースのアルバム『太陽神』からの
シングルカット。
アース・ウィンド&ファイアーは、
ファンクを主軸にしたポップミュージックの
金字塔を打ち立てたスーパーバンドで、
当時、世界中を席巻した。
なぜかアメリカではあまり売れなかったらしいが、
日本ではEWFと言えば、
やはり「セプテンバー」とこの曲だ。
ディスコでかかると、ミラーボールがギュンギュン回り、
照明が点滅して、フロアは宇宙空間に早変わりして、
僕らはみんなスペーストラベラーだった。
いやー、アホみたいに汗をかきかき踊った踊った。
作詞・作曲はバンドリーダーで、
ドラム&ヴォーカルのモーリス・ホワイト。
当時はなんにも考えすに踊っていたが、
歌詞は超ポジティブ&超スピリチュアルだ。
♪ 誰の心の中にも宇宙がある
世界に消されることのないファンタジーがある
僕らの船 ファンタジー号に乗り込もう
君の夢はすべて叶うんだ 今すぐに
あらゆる思考は夢であり
流れの中を駆け抜けて行き
僕たちの王国に命をもたらすだろう
滑走しろ 大きく足を踏み出して
その風と共に 空へ飛び立ち
唇に微笑みを浮かべ 言うんだ
僕は自由なのだと
今 自分の道を歩んでいると ♪
引き寄せてる、引き寄せてる
これを引き寄せの術と言わずして何と呼ぼう。
このライブの後半ではバンドのメンバーは
全員テンション上がりまくって、
宇宙までピョンピョン飛んでいる。
笑っちゃうけど楽しいぞ、最高だぞ。
へんな自己啓発セミナーに通ったり、
わけのわからない引き寄せ法則の勉強なんぞにハマって
おカネをはたいているぐらいなら、
毎日繰り返し、この「宇宙のファンタジー」を
聴いて、歌って、踊っていたほうが
よっぽど自己発見できるよ。
気分は上がって元気が出るし、
それでもって、またみんなでディスコに行きたいね。
井上ひさしの「手鎖心中」は
歌舞伎にもなった直木賞受賞作。
この作品も面白いのだが、
併載されている「江戸の夕立」が
表題作に輪をかけてめっちゃ面白い。
長めの中編というか、短めの長編というか、
そこそこボリュームもあるので、
読みごたえもたっぷり。
主人公は大商店の放蕩息子の若旦那と
そのご祝儀目当てでベタベタお世辞を連発しながら
くっついて歩く太鼓持ち。
平和な江戸の街で、ぬくぬくした環境で生まれて育って、
軽薄短小な人生を謳歌する二人組の軽妙なやりとりで、
ハリウッド映画ばりの波乱万丈の物語が綴られていく。
はでに買い物したり、花魁遊びが出来たのも序盤まで。
その後は江戸を離れ、東北地方を放浪するはめに。
しかもそれは暴力、漂流、バクチ、友情、裏切り、
奴隷労働、疫病、借金、旅芸、女狂い、家庭崩壊など、
現代の、僕らの人生でも起こり得る、
あらゆる災厄のてんこ盛り。
笑いとユーモアの味付けで救われているが、
まさに地獄めぐりの旅である。
そんなひどい目に遭いながらも
人間的に成長するわけでなく、
放蕩していた頃のろくでなしのまま、
9年をかけてやっと江戸の街に帰ってきた二人。
ところがその故郷はなんと・・・という展開で、
けっしてハッピーエンドとはいえない、
かなり苦み走ったラストを迎える。
ただ、このラストが僕は好きである。
すべてを失った代わりに、
彼らは生きるための何かを得た、
その思わせてくれる、心に響く結末だ。
井上ひさしはお芝居もたくさん書いていて、
ユーモア・人情を描く作家だと思われている。
しかしその実、彼が人生・人間社会を見る目は
かなりシニカルで、だからこそユーモア・人情が映え、
胸に深く沁み込んでくる。
地獄の奴隷労働の仲間が死の間際、
「女の裸が見てえ」という願いをかなえるために
キリシタンの娘が一肌脱ぐシーンなどは
涙が止まらんかった。
いくら齢を取ったって人間、
大して成長するわけではない。
バカはバカのまま、ろくでなしはろくでなしのまま。
だから笑えて泣ける。だからいいのだ。
最近やたらと多い感動の美談、
人間ってすばらしい!と讃えるストーリーに
食傷気味の方におすすめです。
アマプラで「シン・仮面ライダー」を見た。
すごいなと思ったのは、敵であるショッカーの設定。
悪の組織であるはずのショッカーは、
なんとこの作品では「人間の幸福を追求する組織」である。
フルネームだと「Sustainable Happiness Organization with Computational Knowledge Embedded Remodeling」。
「計画的知識を埋め込んで改造した持続可能な幸福の組織」
とでも訳せばいいのか。
それぞれの頭文字をつなげて「SHOCKER」。
もちろん、これは庵野監督の創作である。
怪人(改造人間)のモチーフが昆虫であるところを
考え合わせると、地球環境との調和も追求しているようだ。
当然、この幸福の追求は、
一般社会で生活する人間にとっては
歪んだおぞましいものだが、
主人公の仮面ライダー・本郷猛も、
ラスボスであるショッカーの首領も、
不条理な無差別殺人事件によって父や母を奪われた遺族である。
彼らの立場になって考えていくと、
つまり見方を変えると、ショッカーが目指すものこそ
正義と捉えてみてもおかしくない。
もちろん、本当のご遺族の方が
こうした考えを持つようになるということではないが、
原典の「仮面ライダー」が持つテーマ性を深堀りして、
現代に新たな世界観を築き上げた
庵野秀明監督の想像力・創造力はやはり尊敬に値する。
ゴジラやウルトラマンと違って、
仮面ライダーは等身大のヒーローであり、
この話は、僕たちの人生とごく身近な、
家族・友人・その周りの社会をめぐる物語とも言える。
1号・本郷猛と2号・一文字隼人との
人間関係・信頼関係の成り立ちも良い。
登場人物の中ではヒロインのルリ子がとてもよかった。
演じているのは、今やっている朝ドラのヒロイン役
(牧野博士の妻)の浜辺美波。
狂言回しのような役柄で、
彼女のセリフと行動によって
この話の世界観・構造が語られていくのだが、
彼女と彼女に対する本郷の愛あっての
「シン・仮面ライダー」という感じがする。
僕はテレビの「仮面ライダー」が始まった頃、
すでに小学校の高学年だったので、
やや冷めた目で見ていて、
初期シリーズ(1号・本郷猛のシリーズ)を
半分ほど見ただけだ。
ウルトラシリーズと違ってほとんど思い入れがないので、
今回も期待せず、事前情報もほとんど仕入れていなかった。
結局、劇場に行かず、アマプラで見てしまったのだが、
すばらしかった。
「幸福のために人間を改造する」というテーマのもとで
これだけの物語を作り得るのはすごいことだ。
「仮面ライダー」なんて知らない・興味ないという人も
ぜひ観て見るといいのでは、と思う。
1989年の世界的大ヒット曲。
最初、ヨーロッパで大流行し、秋に日本でリリース。
翌年1990年の夏まで、
当時のディスコやカフェバーではもちろん、
街中のいたるところで流れていた記憶がある。
「ランバダ」とは男女ペアで踊るダンスの名前でもあるが、
これがご覧の通り、めっちゃセクシー。
体を密着させて腰をくねくね動かし、
ひざをパートナーの股の間に入れて
お互いの股間(局部)を太股で刺激するように
擦り合わせながら腰をすり寄せる。
セクシーで情熱的で、疑似セックス、
エロダンスと言ってもいいくらい。
バブル華やかし時代の日本は、
僕たちのような(むかしの)若い連中が
みんな色気づいていたが、
さすがにこのダンスを踊れる人・踊ろうとする人は
日本人の中にはほとんどいなかったらしい。
この曲を演奏している「カオマ」というバンドのことは
よく知らなかったが、
セネガル出身の「トゥレ・クンダ」という
グループのメンバーに
フランス人やブラジル人らを加えた多国籍音楽集団である。
踊りはダメだが、世界的大ヒット曲なので、
カバーに挑戦する日本人歌手は大勢いた。
かの大御所・加藤登紀子が歌っていたのにはびっくり。
うーん、でもやっぱラテン系の血を注入しないと、
シャイな日本人には向いてない?
岡山県でAI開発をやっているビアンフェ.の岡野さんから
今年もモモが送られてきた。
ちょっとまだ固いようなので、
両親と義父にお供えして追熟。
連日の猛暑でバナナもアボカドも
ちょっと青っぽいのを買ってきてもすぐに熟すので、
明日あたりには柔らかくなっていただけるだろう。
岡山は桃太郎の故郷なので、モモは名産。
桃太郎と言えば鬼。
「鬼滅の刃」の鬼は、ヨーロッパの吸血鬼と同じく、
太陽の光を浴びると、存在が崩壊してしまうが、
この夏はまさしく鬼を見習って、
太陽が照りつける日中は外出しないほうがいいようだ。
コロナ禍があけて、街も海も山も大賑わいのようだが、
仕事の時以外、とても出かける気にならない。
基本的に毎日家の中で仕事して、
夕方、日光の勢いが弱くなり、
ちょっと気温が下がったのを見計らって
義母を連れて川沿いを散歩する———
ほとんどコロナ時と変わらない生活を続けている。
それにしても連日の猛暑は気温35℃を軽くクリアし、
37℃、38℃にもあまり驚かなくなり、
そのうち40℃くらいが標準になりそうな気配も漂っている。
テレビでは「クーラーを夜通しつけっぱなしにして
寝てください」なんて、
ひと昔前には非常識だったことが常識になってしまい、
日本の夏は(世界の夏も)
これからどうなってしまうんだろうと、
ちょっと不安を抱かざるを得ない。
それに加えて物価高騰のダブルパンチ。
食べ物もずいぶん値上がりしているが、
へたに節約して栄養不良になったら
免疫力が落っこちて、コロナなどにやられかねない。
べつにごちそうは要らないが、
毎日ちゃんとしたものを食べて
バテないようにしたい。
というわけで、おいしいモモで
夏を乗り切る体力を養います。
ありがとう。
★70年代のモンスターアルバム
1976年リリース。
世界中で1千万枚以上のセールスを記録した
70年代ロックアルバムの金字塔が
ピーター・フランプトンの
「フランプトン・カムズ・アライブ」。
本国イギリスよりもアメリカで売れ、
ビルボードで合計10週にわたって1位を独走。
発売から3ヶ月でプラチナ・ディスクに認定される
モンスターヒットとなった。
もちろん日本でもめちゃ売れ。
2枚組ライブアルバム(当時5千円近くした)で
このセールスはすごい!
「ショー・ミー・ザ・ウェイ」はその中に収録され、
最初にシングルカットされた曲で、これもやはり大ヒット。
長きにわたって、押しも押されぬ
ロックの名盤と“されていた。”
★いまや過去の名盤?
あえて過去完了形にしたのは、最近になって、
この「フランプトン・カムズ・アライブ」の
名盤としての地位が危うくなっているというのだ。
21世紀も20年以上を過ぎ、
英米のいろんな音楽メディアの間で
ロック・フォーク・ポップの楽曲・アルバムの価値を
現代的視点を強めて見直してみようじゃないか、
という動きが活発化しているらしい。
詳しいことはまた別の機会に譲るが、
簡単に言うと、見直しのテーマは、
今ある音楽文化の真の貢献者は誰か?
21世紀以降もより多くの音楽家・リスナーに
影響を及ぼしている作品は何か?
といった「歴史的価値」により焦点が当てられていること。
そのテーマに沿って、20世紀に作られ、流通していた
「名盤ランキング」も再検討が図られている。
ビートルズ、ローリングストーンズ、ボブ・ディラン、
デビッド・ボウイ、レッド・ツェッペリンなど、
今も変わらぬ不動の地位を築いている
アーティストがいる一方で、
昔は人気があった・売れた・高評価だったけど、今は???
というアーティスト・作品も少なくない。
「フランプトン・カムズ・アライブ」は、
その「昔はすごかったけどねグループ」の
代表格に挙げられている。
★再聴フランプトン・カムズ・アライブ
考えてみれば、ピーター・フランプトン自身、
レジェンド化されるスーパースターとは言い難く、
後世のアーティスト・リスナーに
それほど認められていない感じがする。
つまり、時代の流れ・その時の勢いで売れた
アーティストというイメージが
強まってしまったのかもしれない。
また、イケメンなので女の子に人気があっただけかもね、
という男姓評論家のそれとない嫉妬心も
いくらか混じっているような気がする。
なんだかひどくディスって申しわけないが、
僕自身もかつて大好きだったというわけではない。
今、どう感じるか、ほぼ45年ぶりくらいに
「フランプトン・カムズ・アライブ」を聴き直してみた。
この曲をはじめ、普通に良い曲・万人受けする
ポップでスイートな楽曲がバランスよく揃っていて、
割と気持ちよく聴ける。
しかし、聴いている途中でどうしてこのアルバムに
かつて良い印象を持たなかったのか、思い出した。
それはオリジナル曲の合間にマイフェーバリット、
ローリング・ストーンズの
「ジャンピン・ジャック・フラッシュ」を
やっているからだ。
カバーするのに文句を言うつもりはないが、
アレンジもパフォーマンスも気に食わない。
「このジャンピンはちがうっ!」
と強く憤った思いがよみがえった。
こうした感情は何十年たっても変わらない。
まぁ、当時ほどとんがっていなにので
さすがに今は「許せん」とまでは言わないけど、
やっぱあんまり感心せんな、このカバーは。
★きみを求めて=ベイビー・アイ・ラブ・ユア・ウェイ
というわけで結局、またディスることになってしまったが、
それでも平均的に見て良いアルバムですよ、
「フランプトン・カムズ・アライブ」は。
特にあまりゴリゴリのロックが苦手で、
基本的には甘いポップロックでありながら、
ところどころスパイス効かせて
ギンギンやっちゃう、というのが
好きな人にはおすすめです。
おわびというわけでもないけど、もう1曲、
「ショー・ミー・ザ・ウェイ」とともに
リコメンドするのが、
これもシングルカットされてヒットした
「きみを求めて」というアイドル系ラブソング。
女の子の人気が高かったのがわかる気がする。
●きみを求めて/ピーター・フランプトン
あれ、どっかで聴いたことあるぞという人も多いはず。
そうそう、こちらは1994年に
レゲエバンドのビッグ・マウンテンが
レゲエバージョンに仕立て上げ、
原題「ベイビー・アイ・ラブ・ユア・ウェイ」として
世界的な大ヒットとなった。
暑い夏を吹っ飛ばす会心のレゲエナンバーを聴きながら、
オリジナルを歌ったピーター・フランプトンの名を
ぜひ胸に刻んでほしい。
●ベイビー・アイ・ラブ・ユア・ウェイ/ビッグマウンテン
頭にお皿、背中に甲羅、口はくちばし状、手足に水かき、
からだは人間の子ども(幼児~小学校低学年)
くらいの大きさで、
皮膚がヌメヌメしていて体色は緑系。
いたずら好きで、キュウリが大好物。
過去100年くらいで、
日本人の間にそんなカッパのイメージが定着した。
地域によってまちまちだった呼び名も、
かの芥川龍之介が、死の間際、
そのものズバリ「河童」という小説を書いてから
統一された感じがする。
そのカッパは実在するのか否か?
その他、柳田国男の「遠野物語」をとっかかりに
東北の民話の世界を探検し、
登場する怪異・妖怪の類の秘密を解き明かそう
というのがこの本「荒俣宏妖怪探偵団 ニッポン見聞録」
の趣旨である。
おなじみ、この手の妖怪学・博物学の大家・
荒俣宏先生を中心に、
小説家・理学博士がチームを組んで、
東北各地の大学教授・学者、博物館などの研究員、
郷土研究家、お寺の住職などを訪ねて回る。
面白いのは、たとえばカッパに話を絞れば、
みんな、カッパの実在を肯定していること。
ただ、そのカッパとされる妖怪は、
“現代人の視点で見ると”、
どれも別の様々な生き物であるという点だ。
あるところではそれはウミガメだったり、
あるところではイモリ、あるところではカワウソ、
あるところではネコだったりする。
それら爬虫類・両棲類・鳥類・哺乳類にまでまたがる
多種多様な生き物が、
「カッパ」という妖怪・生き物に
ひとくくりにカテゴライズされていたのだ。
どういうことかというと、
人間は自分(あるいは自分を取り巻く社会)が持っている
知識・情報の埒外にあるものと遭遇したとき、
「わけのわからないもの」としておくことができず、
それを分類するために
特定のファイルみたいなものを必要とする。
その一つに「カッパ(地域によって呼び名は異なる)」と
題されたファイルがあり、
「これは何だ?わからん」と思ったものをみんな、
とりあえずそのカッパファイルの中に突っ込んでいたのだ。
だからそれぞれの動物の特徴・生態・イメージが、
そのファイルのなかで混ざり合い、繋がり合い、
時には化学変化を起こして、
カッパという妖怪の形になって
多くの人々の頭のなかに生息するようになり、
民間伝承として伝えられるようになった。
そしてまたその伝承・民話をもとにして
時代ごとに絵師などがカッパの姿を絵として描き上げた、
ということらしい。
僕たち現代社会で生きる人間は、
科学的に解明された知識・情報を
すでに頭のなかに仕入れてあるので、
これは犬とか、カエルとか、ウサギであると知っている。
だから、なんでカメやイモリやカワウソやネコを
カッパだなんて思ったんだろう、と不思議がるが、
それは逆で、カッパというファイルの中から
Aタイプが実はカメで、Bタイプがカワウソで、
Cタイプがネコだった・・と、
後で(だいたい明治以降~昭和初期の間に)
分類・整理されたのである。
言い換えれば、江戸時代以前の日本人にとって、
奇妙な野生動物は皆、UMA(未確認動物)であり、
ほんの150年ほど前まで日本の海も山も里もUMAで
溢れかえっていたのである。
この本ではカッパ以外にも
いろいろな妖怪・民俗学的伝承が紹介されているが、
そうした昔と今の人間の心の地図の違いについて
気付かせてくれることに重要な価値があると思う。
荒俣宏妖怪探偵団 ニッポン見聞録 東北編
著者:荒俣宏/荻野慎諧・峰守ひろかず
発行:学研プラス 2017年
幻視なのかどうかよくわらないが、
認知症の義母のところには、
もう一緒に暮らしていない家族がよく現れる。
昨日は食事の時に「あれ、赤ちゃんはどこ行ったの?」
と言い出したので、カミさんが
「もう大人になって会社に行って働いています」
と答えたら、
「ああ、そうか」と納得した様子を見せた。
なんともシュールなやりとりで笑ってしまった。
彼女が最近、家の中で見た赤ちゃんと言えば、
僕らの息子のことである。
食卓上に20数年の時間が風のように過ぎ去った感じだ。
義母が見る家族は、何十年も会っていない人たち。
カミさんによるとそのきょうだいの人たちは
ほとんど亡くなっている。
さらに謎の男の子・女の子も現れる。
いつも通っているデイサービスの
スタッフのことかなと思うが、
そうでないこともあるようだ。
経験上、子どもが成長する時は
なだらかな曲線を描くのでではなく、
ある日突然、ガン!とステップアップする。
それと同じで、人生の下り坂も
ガン!とステップダウンするようで、
最近、認知度の劣化が目立つ。
話す言葉が意味不明なことが多く、
コミュニケーションしづらくなってきた。
自分の誕生日も、このクソ暑い今がどういう季節かも
よくわからなくなってきている。
また、先週・先々週あたりは
ちょっとしたことでキレまくったり、
デイサービスでは風呂に入るのを頑なに固辞したり、
かなり手を焼いて、こっちもキレそうになった。
あとどれくらい一緒に暮らせるのだろう?
「洗たく女の空とぶサンダル」では
主人公のアカネに教わったことがある。
それはいつでも、どんな時でも空を見ること。
僕たちは空を飛べないけど、見続けることはできる。
この星で暮らす限り、みんな、この空の下で生きている。
空には未来があり、ビジョンがある。
そしてまた空は僕たちの心の中を映し出している。
うまく行かないときは空を見るといい。
雲がどう動いていくのか見るといい。
朝と昼間と夕方は違った顔をしているし、
星が広がる夜空はまた別の世界だ。
潜在意識がどうとか、瞑想術がこうとか、
そんものを学ばなくても、ただ空を見上げるだけで、
これまで見えていなかったものが見えてくる。
できたら毎日。
今日もひどく暑そうだが、
ちょっとの間なら外に出てもいいだろう。
あれば木陰に入って晴れた空を眺める。
空は世界であり、自分自身でもある。
洗たく女の空とぶサンダル
無料キャンペーンは昨日終了しました。
ご購入いただいた方、ありがとうございました。もしよければレビューをよろしくお願いします。
引き続きAmazonKindleで販売しています。他の本も読み放題サブスクもあります。今後も洗たく女を応援してください。
「洗たく女の空とぶサンダル」に出てくる
路上で靴を並べるアーティストは、
むかしロンドンで暮らしていた頃に遭遇した
ストリートアーティストをモデルにしている。
僕がロンドンの日本食レストランで働いていたのは、
1985年から87年にかけて。
当時、英国病・老大国化を克服し、
「ふたたび強大なイギリスを」と訴えた
マギー・サッチャーの新自由主義政策によって、
イギリスの公的福祉はバッサバッサと切り捨てられていた。
要するに国は自分で稼がない人・稼げない人の
面倒などこれ以上見ないということである。
その影響で街には失業者・ホームレースがあふれ、
ロンドンの中心部を歩いていると、
「10ペンスめぐんで下せえ」と、よく小銭をせびられた。
ストリートや地下鉄の構内にはそうした物乞い以外に、
「アート」を提供する芸術家もたくさんいた。
音楽家たちはその筆頭で、みんな、ギター、サックス、
バイオリンなどを持ち出し、街頭音楽を聴かせたり、
寸劇やダンス、パントマイムなどを見せていた。
また、路上で詩集のような本を売ったり、
奇妙なオブジェを並べて
人々の関心を引こうとする者もいた。
不思議なことに、その作品やパフォーマンスの
出来・不出来に関わらず、
彼ら・彼女らの顔はどこか自信にあふれていた、
という風に見えた。
たまに目を見張るような面白いもの・
芸術的な価値があるなと思えるものもあったが、
9割以上は投げ銭稼ぎのガラクタの類だ。
それでもロンドンには世界中から
観光客が集まってくるので、
ガラクタみたいな音楽やアートでも面白がられ、
投げ銭でいくらかは稼ぐことができたのかもしれない。
まともな頭で考えれば、そんなことをするより、
非正規だろうが何だろうが、
ちゃんと職に就いて安定的に稼げるのは明らか。
“選り好みさえしなければ”、
少なくとも食っていくのに何とかなる程度
稼げる仕事はあったと思う。
事実、僕の勤めていたレストラン経営の会社でも、
ロンドン出店の条件の一つとして雇用対策を打ち出し、
ほぼ年中、スタッフを募集していた。
それでも少なくとも僕がいた間、
イギリス人で応募してくる者は皆無で、
実際にスタッフになったのは、全員が外国人労働者だった。
みんな「イギリス人は怠け者だからダメだ」と言っていた。
当時のイギリス人の間では、
やっぱり東洋人に対する差別意識があったと思うので、
成りあがりの日本人の会社の支配下に置かれるのは、
プライドが許さなかったということもあるろう。
今、振り返ってみると、あの頃のイギリス人を
バカだ、怠け者だと非難する気にはなれない。
それは人間というのは、
一度、豊かな生活———まわりに文化的な環境があり、
なんとか食っていけるといった状況を体験してしまうと、
必死になってカネを稼ぐだけの生活には
もう二度と戻れないのではないか、と思うからだ。
言い換えると、肉体だけでなく、精神もメシを食いたがり、
その結果、自己表現の欲求が抑えられなくなる。
文化や芸術などなくても生活していけそうなものだが、
文明国で生まれ育った人間には、
それはどだい無理な話なのだ。
労働・カネ・芸術。
これからを生きる人間にとって、
この三つに折り合いをつけるのは
大きな課題であり、ある種の楽しみなのかもしれない。
日本の社会が40年近く前のイギリスと
似たような状況になった今、
しみじみとそうしたことを感じる。
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「洗たく女の空とぶサンダル」に出てくる
洗たく屋の社長は、
「人の手足を使って昔ながらのお洗濯をします」と訴え、
超富裕層に向けて「ぬくもりランドリー」
というサービスを始めて大ヒット。
見事に成功を果たした洗たくビジンス界の寵児である。
・・・という設定である。
今年はチャットGPTの登場で、
まだもうちょっと先ではないかと言われていた
AIの実用化が広範囲に広まり、
ビジネスのデジタル化が急激に加速した。
そして多くの人が仕事を奪われるのではないかと
戦々恐々としている。
けれでもご心配なく。
肉体労働は当分間の間、なくならない。
どうしても働きたい・働かなきゃという人は、
涼しいオフィスで坐っておらずに、
体を動かし、汗を流して働けばいいのだ。
それにこれからますます消費生活がデジタル化すると、
「昔はよかった、生活の中に人のぬくもりがあった」
と言い出す人が必ず出てくる。どんどん出てくる。
なのでお金のある人は、
ちゃんとしてるけど味気ない、
機械化されたサービスではなく、
アナログで、人のぬくもりを感じられるサービス、
昔ながらの人力労働を求めるようになるだろう。
ちょっとぐらい失敗してくれた方が、
人間らしくてありがたい、とさえ思うかもしれない。
だから、たとえ高いお金を払っても、
いや、お金なんかいくらでも払えるからこそ、
その人力労働を買おうとする。
時代設定は現代ということにしてあるが、
そういう意味では、これは近未来SFなのかもしれない。
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久しぶりにバービーボーイズを聴いて、
こんなにもパワフルだったっけか?と驚いた。
リリースは1987年。
バービーには他にも面白い曲がいっぱいあるが、
この曲のセクシーでスリリングなカッコよさは断トツ。
何と言ってもヴォーカル杏子が女ぎつねそのもので、
キツネサインを掲げてしなを作ったり、
スカートを翻してクルクル踊り回る姿には
完全にイカれちゃうな。
実際に売れていた若い頃の映像も見たが、
なんだかちょっとガキっぽくて、
演奏のクオリティもステージパフォーマンスも
齢を取ったこの頃(2009年らしい)のほうが
抜群にキレていて色気もたっぷりだ。
バラードっぽい曲でのデュエットはよくあるが、
ロックでこうした男女で掛け合いをする
ツインヴォーカルスタイルはかなり独特で、
他にあまり思い当たらない。
このバンドが活躍したは80年代後半から90年代初めは、
いわゆるバブルの頃で、
時代の勢いに乗ってた感じもするが、
いま聴いたほうがその真価がよりビビットに伝わってくる。
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先日、若い女の子がゴミ回収の仕事を
やっているところに出くわし、びっくりした。
女子がそうした仕事に就くことに何の異論もないが、
彼女はびしっとメイクしていて、
帽子からはみ出た髪はきれいにサラサラしていて、
ほとんどアイドルみたい。
朝、この仕事でバイトして、作業着から普段着に着替えて
芸能事務所なりロケ現場に行くのだろうか・・・
と勝手に想像した。
本当のところはもちろん知らないが、
その労働する姿とルックスとのギャップに
いたく心癒された。
ご本人はそんなつもりはカケラもないと思うが。
3K的な肉体労働の現場でも、
昔と違って女性がバリバリ働いている。
経済が成長していく時代は、
女はどんな職業・職場でも、
女は日々働く男たちを慰労する役割が中心で、
実際の労働の価値はその副産物でしかなかった。
時は流れ、経済が落ち込み、
男だけじゃダメだということで社会進出が当たり前になり、
今では経済・産業の世界において
女性が主役を務めることも少なくない。
しかし誤解を恐れず言えば、
それでも職場で女は男を癒し、
多かれ少なかれ夢を施している。
これは人間社会が女と男で成り立っている以上、
仕方ないことだと思うし、
それで職場のテンションが上がればいいことだと思う。
ただ、その現実と夢のバランスが崩れると、
世の中ではいろいろ事件が起きる。
「洗たく女と空とぶサンダル」は当初、
足の大きい女性を主人公にして話にしようと
思っていたのが、
いつの間にか、この資本主義社会において
そうした労働に勤しむ女についての幻想が入り込み、
奇妙なファンタジー物に化けた。
はたらく女性と
はたらく女性を愛する男性に読んでもらいたい一冊です。
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洗たく女の 空とぶサンダル
まるで足だけガリバー旅行記。
人並外れて足が大きいアカネは、その大足のせいでかわいい靴が履けないし、
人生何をやってもうまくいかないと思いこんでいた。
けれども、そんなコンプレックスのタネだった
大足のおかげで彼女は救われる。
DV夫の顔面にガリバーキックをかましてKO。
離婚して自由になると、足で洗たくをする、
富裕層御用達の洗たく屋に就職し、
ずんずん人生を切り開く。
洗たく女として日々働くようになったアカネは、
ある日、街中で足の向くまま歩いていくと
名誉に迷い込み、靴アートの芸術家に遭遇。
その芸術家が、自分の作品に興味を抱いてくれたお礼に、と贈ってくれた一足のサンダルは、魔法の空飛ぶサンダルで、そこから人々の命の“洗たく”をする
アカネの新しい仕事が始まる。
はたらく女の夢と希望、そして歪んだ現実との格闘・逃走を描く労働ファンタジー。3万2千字。中編小説。
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はらたく女の夢と希望、
そして歪んだ現実との格闘・逃走を描く労働ファンタジー。
3万2千字中編小説。この機会にぜひ読んでみてくださいね。
昨夜の大河ドラマ「どうする家康」では、
家康の妻・瀬名(築山)の最期が描かれた。
ドラマが終わった後の一口情報コーナーで、
江戸時代に多くの歴史書が改ざんされたとの
アナウンスにびっくり。
どうも男社会になった江戸時代に権力に都合よく
それまでの歴史書が書き替えられ、
北条政子や築山殿など、
男を差し置いてまつりごとにしゃしゃり出た女どもは、
みんなとんでもない悪女だった———
ということにされ、
女は家で炊事・洗たく・子育てしててね、
ということになったらしい。
それにしてもNHKがそれを堂々と言うのか?
一生懸命歴史を研究してきた学者さんたちは
その研究・分析の材料である歴史書自体が
フェイクだったなんて言われたら
どうなっちゃうの?と心配になった。
「どうする家康」は史観を無視していると、
さんざんバッシングを食らっていて、
とくに築山に関しては、
家康がベタぼれで、まるで聖女あつかい。
あの戦国時代にユートピアを思い描いた夢子さん、
なんてネットでコテンパンに言われていた。
昨日の情報コーナーはそれに真っ向から
対抗するかのような解説がされ、
NHKドラマ制作部の気合を感じた。
僕は大河ドラマは、史実のプロット(すじがき)に沿って
創り上げるファンタジーだと思っているので、
今年の「家康」は大胆な新解釈を取り入れていて、
素晴らしい出来と思っている。
脚本も昨年の「鎌倉殿」以上によくできている。
歴史のミステリー部分を曖昧にまかさず、
ちゃんとオリジナリティのある説明をつけていて、
ファンタジーでありながら納得がいく話になっている。
江戸時代に改ざんされたのが本当なのか?
それがどの程度度なのかはわからないが、
少なくとも権力者の都合のいいように書かれてきたり、
ご機嫌を損ねないよう忖度して作らてきたのは
確かではないだろうか。
家康が妻子を処刑するという、
謎に満ちた築山事件についても、
このドラマで描かれた事情・感情のほうが
より真実に近いのでは、と思える。
また、そう思った方が楽しめる。
以前も書いたけど、この大河ドラマは、
家康はいい人だったから天下を取れたという
ホワイトファンタジーだ。
また、同時に戦国では
女が賢く、活躍したというドラマでもある。
築山事件を持ってきた前半の最終章は、
半年後にやってくる全体の最終章と対をなす
ドラマ構造になっている。
家康の最期の敵は、秀吉でも秀頼でもなく、
その母の淀殿である。
そして淀は、かつて家康が少年時代に
恋したお市の娘である。
その淀がラスボスとなって家康と闘うのがクライマックス。
まだドラマでお市は生きており、
淀(茶々)は子どもなので未発表だが、
この淀役はお市と母子2代の二役で
北川景子にほぼ確定——。
と僕が思い込んでいるだけだが、
もうすでに十分いに伏線が張られているので、
絶対やってくれるだろう。
その他、信長や秀吉の活躍と最期についても、
いろいろ新解釈が出てきそうで、
「どうする家康」の後半は本当に楽しみである。
本日7月1日(土)新発売になりました!
おとなも楽しい少年少女小説
「洗たく女の空とぶサンダル」
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まるで足だけガリバー旅行記。
人並外れて足が大きいアカネは、
その大足のせいでかわいい靴が履けないし、
人生何をやってもうまくいかないと思いこんでいた。
けれども、そんなコンプレックスのタネだった
大足のおかげで彼女は救われる。
DV夫の顔面にガリバーキックをかましてKO。
離婚して自由になると、
足で洗たくをする、富裕層御用達の洗たく屋に就職し、
ずんずん人生を切り開く。
洗たく女として日々働くようになったアカネは、
ある日、街中で足の向くまま歩いていくと
靴アートの芸術家に遭遇。
その芸術家が、自分の作品に興味を抱いてくれたお礼に、
と贈ってくれた一足のサンダルは、
魔法の空飛ぶサンダルで、
そこから人々の命の“洗たく”をする
アカネの新しい仕事が始まる。
はらたく女の夢と希望、
そして歪んだ現実との格闘・逃走を描く労働ファンタジー。
3万2千字。中編小説。¥500
ぜひ手に取って読んでみてください。
70年代グラムロックといえば、
マーク・ボラン率いるT.レックス。
1973年にリリースし、
大ヒット曲となった「20th Century Boy」は、
20世紀の終わりにそのまんま和訳「20世紀少年」という、
浦沢直樹のマンガになり、その後、映画化もされた。
何となく意味深なタイトルだが、
歌詞には大した意味がなく、
「おれ、カッコいいだろ。
おまえの男になりたいんだ」みたいな歌。
ギターのリフはいま聴いても抜群にイカしているが、
それと同時に、このタイトルのせいか、
20世紀は本当に昔ばなしになってしまった感があって、
なんだかしみじみしてしまう。
グラムロックの始祖はデビッド・ボウイだが、
ボウイは時代ごとにファンキーになったり、
プログレっぽくなったり、
ダンスミュージックっぽくなったり、
さまざまに変化して多彩な顔と音楽を創り出した。
対してT.レックスは、グラムで世を席巻し、
グラムのままで終わった。
というのもグラムロックは70年代後半には人気が下落し、
T.レックスもすっかり影が薄くなっていた。
そんな矢先の1978年、マーク・ボランが交通事故で死亡。
T.レックスはほとんどボランのバンドだったので、
そのまま消滅してしまったのだ。
それでもほんの短い間だったが、鮮烈なヒット曲を連発し、
ロック史に貴重な足跡を残したT.レックスは
2020年にロック殿堂入りを果たしている。
ちなみにマーク・ボランが死んだのは30歳になる2週間前。
60年代から70年代前半、ロックに心酔する若者たちの間では
「30過ぎは信じるな」という言葉が浸透したが、
まるでそれを体現するかのような最期。
かつて大スターだったボランは、
ほんの数年で見る影もなく、酒や麻薬のせいで
激しく劣化していたらしい。
もちろん、自殺などではなく、
再起を目指している最中の自動車事故だったのだが、
この頃のアーティストたちには
潜在意識のなかに「30歳の壁」があったのかもしれない。
それにしても50年後も
やっぱりカッコいいT.レックスのロック。
残された音源・映像のなかで
ボランは永遠の「20世紀少年」として
ギターをかき鳴らし、歌い続ける。
明日7月1日(土)
AmazonKindleより発売!
おとなも楽しい少年少女小説
洗たく女の
空とぶサンダル
おりべまこと
魔法のサンダルを履いた
はたらく女のものがたり
おりべまことKindle新刊
おとなも楽しい少年少女小説
「洗たく女の空とぶサンダル」
~魔法のサンダルを履いた はたらく女のものがたり~
1日延びて明後日7月1日(土)発売予定になりました。
当初、1万5千~2万字程度の短編にするつもりだったけど、
やっているうちに3万字超えの中編に育ってしまった。
小説はまとまった時間が必要で大変だけど、
書いているうちに生き物のように踊り出して楽しい。
主人公のアカネちゃん、どうもありがとう。
おとなも楽しい少年少女小説・新作
「洗たく女の空とぶサンダル」
バカ夫と離婚した大足のアカネは、
富裕層の洗たくものをガシガシ足で洗う
洗たく女の仕事に就き、新たな人生をスタートさせた。
そんなある日、路上の迷路で
靴アートの芸術家と出逢い、
魔法の赤いサンダルをプレゼントされる。
はたらく女の夢と希望と現実の物語。
6月30日(金)Kindleより発売予定。
読み終わってまず思ったのが、
40年前の
「世界の終わりとハードボールドワンダーランド」は、
本当に本当に、すごい作品だったな、
また読み直さねば、ということ。
いちばん好きな作品なので、完全に主観、
贔屓の引き倒しだけど。
著者本人があとがきで割とそっけなく
あの作品を書いた時のことを回想しているが、
本当に2本立てなんて手法をよくぞ思いついたものだ。
「ハードボールドワンダーランド」は、
レイモンド・チャンドラーもどきの
スリリングでミステリアスな探偵もので、
あの時代に脳科学を探究した、
めっちゃSFでプログレなエンタメ小説だった。
それが「世界の終わり(=今回の作品のセカンドバージョン)」と共鳴し合うことで、プログレ感二乗。
インスピレーションの大渦巻きが起こった。
結局、村上春樹の小説って
「風の歌」「ピンボール」を序章として、
「羊をめぐる冒険」
「世界の終わりとハードボールドワンダーランド」
「ノルウェイの森」という、
彼の表現スタイルを確立した初期3作で
オールドファンの心は支配されている。
10代・20代であの3作に出逢ってしまった人たちは、
もうそこから離れられないのだ。
本人も言っているように、クオリティ・完成度は
後年の作品の方が高いし、
文章の濃密度は相当増していると思う。
けど、それが作品の魅力と比例するかというと、
どうもそうではない。
何というか、村上さんはさっぱり成長しない
僕のような読者を置き去りにし、
どんどんキャリアを積み上げ、進化したんだろうなと思う。
僕は40年前からカタツムリ程度にしか進んでいないのだ。
そんなわけでこの作品の第1部における
少年と少女のシーンには、
懐かしさとみずみずしさがないまぜになって
思わず涙が出た。
少女はどこか「ノルウェイの森」の直子を想起させた。
けれども「ノルウェイ」のような恋愛ものや、
「羊」や「ハードボイルド」のようなエンタメ感を
この作品に求めるのは間違っている。
そして第1部を読み終えた時に、
前々から思っていた疑問が氷解した。
なぜこんなに村上春樹の小説が売れるのか?
自分も含めてなぜみんな、恋愛でもエンタメでもない、
こんなわけのわからない話を毎度読みたがるのか?
それも日本だけでなく、全世界的傾向だ。
その疑問が第1部を読み終えた時に、
するっとわかった。
村上春樹が書く物語の中には、魂の拠り所があるのだ。
自然から離反し、伝統的な民俗からも離反した、
この200年あまりで形成された、欧米由来の現代文明。
そのなかで人生を送る人間は、
現実的な社会生活を送る心身と、
より深いところで息づく魂とが明らかに分離している。
魂は行き場を失っていつもどこかをウロウロしているのだ。
しかし、村上春樹の物語の中には、
その行き場、魂が落ち着く環境が整っている。
著者自身はそんなこと意識していないと思うが、
僕たちの世代の大勢の読者が、そのことを発見したのだ。
なので、村上小説を読むことは
どこか宗教の信仰に近いものがあるのかもしれない。
それから40年あまり。
日々、とほうもない量のコンテンツが
出されるようになったが、
現代人の魂の拠り所になり得るものは依然として少ない。
需要と供給のバランスは大きく崩れたままだ。
数年に一度刊行される村上春樹の長編は、
その需要に応えられる、
数少ないブランドものコンテンツなのだ。
という視点で読み進めていくと、
第2部は、まさしく魂の拠り所を失った
現代人の放浪の物語になっている。
魂の拠り所を求めて中年になった人と老年になった人、
そしてその下の若い世代の人のことが描かれ、
第3部では中年は再び魂の故郷へ帰っていく。
ただしそこは「故郷」という言葉からイメージされるような
やさしい場所でも、暖かい場所でもない。
「不確かな壁がある街」は、
安全で便利な環境のなかで生活する
現代人の心の中にある街なのだ。
村上春樹はこの20年余りのインタビューやエッセイで、
「世界の終わりとハードボールドワンダーランド」を
書き直したいと、つねづね言っていた。
「街とその不確かな壁」のファーストバージョンは、
それ以前に雑誌に発表したものなので、
今回の執筆は彼にとって、
まさに「3度目の正直」と言えるのだろう。
正直、面白かったとか、感動したとかという感想はない。
ただ、近年の作品にはない、独特の色合いを持った
「純・村上春樹作品」といった印象を受けた。
「海辺のカフカ」も「1Q84」も「騎士団長殺し」も
最初読んだときは違和感だらけだったが、
時間が経ち、何度か読み返すうちに面白くなった。
この作品を通して、村上春樹は、なぜ自分は物語を
紡いできたのかを探究・確認したかったのだと思う。
次に行くために踏まなくてはならないステップ、
超えなくてはならない
「40年間の壁」だったのだろうと思う。
それを果たした今、これから先は
集大成に匹敵する作品に取り組むのだろうか。
というわけでこの本がいいのかどうかの結論は先送り。
正直、面白かったとか、感動したとかという感想はない。
不満を言えば、読んでいて笑える、
ユーモラスな部分がないのが、ちとさびしい。
それから周囲から女の描き方について言われたせいか、
珍しく濡れ場がない。
それとは逆に、近年の作品にはない、独特の色合いを持った
「純・村上春樹作品」といった印象がある。
「海辺のカフカ」も「1Q84」も「騎士団長殺し」も
最初読んだときは違和感だらけだったが、
時間が経ち、何度か読み返すうちに面白くなった。
「街とその不確かな壁」も読み手の変化に応じて
これから先、全然違う作品になり得るだろう。
そして、いつものことだが、村上小説は
「まだおまえの人生には秘められた可能性があるよ」
と感じさせてくれる不思議な力がある。
それこそが単なるエンタメを超えた文学の力だと思う。
今年、ロック殿堂入りを果たしたケイト・ブッシュ。
彼女のようなタイプの音楽は、
あまりこうした権威にウケが悪いし、
ファンも殿堂入りがどうこうなんて気にしていない。
しかし昨年(2022年)、
1985年に発表した「神秘の丘」が、
ドラマ「ストレンジャーシングス」の挿入歌に使われ、
世界中で前代未聞のリバイバル大ヒット。
ロック殿堂側もこれ以上、
彼女を無視していられなくなったというのが
正直なところなのだろう。
「クラウドバスティング」は「神秘の丘」と同じく
5枚目のアルバム「愛のかたち(Hounds of Love)」の
挿入歌。
楽曲としては言うまでもなく、
80年代のミュージックビデオとして、
さらにその後、40年弱のポップミュージック史を見ても、
最高レベルの作品である。
「クラウドバスティング」 は本屋で見かけた
ピーター・ライヒという人が書いた本
「ブック・オブ・ドリームス」に
インスパイアされて作りました。
とても変わった美しい本で、
子供のころの父親を見る視線で、
親子の特別な関係について書かれていました。
お父さんは本当にかけがえのない人だったのです。
ケイト・ブッシュがそう語るピーター・ライヒとは、
オーストリア出身で、
精神分析学の権威フロイトの弟子だった
ヴィルヘルム・ライヒの息子である。
この楽曲が描くのは、父ヴィルヘルムと息子ピーターが、
オカルティックな生命エネルギーを駆使して
「クラウドバスター」というマシンを動かす物語。
ミュージックビデオは、
レトロっぽいSF短編映画のようなつくりになっている。
ヴィルヘルムを演じるのは、ハリウッドの名優
ドナルド・サザーランド。
そして息子ピーターはケイト・ブッシュ自身。
この頃、彼女は他の楽曲では成熟した女性の魅力を放ち、
かなり色っぽかったのだが、ここでは髪を切って
一転、男の子に。
父の意志を成し遂げようとする少年に扮し、
美しい丘を駆け上がっていくシーンには
完全にしびれてしまった。
「嵐が丘」「神秘の丘」――
彼女の音楽の世界で、丘は魔法の舞台である。
ヴィルヘルム・ライヒは精神分析家・精神科医というより、
人間の心のありかの研究者・思想家として
20世紀前半に活躍した人。
社会運動にも関わり、
『ファシズムの大衆心理』(1933年)などの著作で
後世にも影響を与えている。
第2次世界大戦が勃発する前にアメリカに移住したが、
その頃からかなりオカルトめいた思想を抱くようになり、
「生命体(organism)」と「オーガズム(orgasm)」を
組み合わせた「オルゴンエネルギー」という
生命エネルギーの概念を打ち出した。
そして1940年、
そのオルゴンを集めるというオルゴン集積器を作り、
ガン患者に効果があると主張し。
これが原因でアメリカ食品医薬品局から
弾圧を受けることになる。
秘密組織の黒服の男たちに拘束される下りは、
そのあたりのドキュメントをドラマ化したものだ。
ここで登場する「クラウドバスター」という
サイケでスチームパンクっぽい怪物マシンは、
オルゴンエネルギーによって雲を創り出し、
大地に雨を降らせるという代物。
連れ去られた父に代わって、
息子がその目的を実現するというストーリーになっている。
雲を作り出すのにクラウドバスター(雲を蹴散らす)
という名は矛盾しているのだが、
これはオルゴンエネルギー(生命エネルギー)が
心の暗雲を払って生命体に潤いをもたらすといった思想の
暗喩になっているのかもしれない。
いずれにしてもこんな虚実ないまぜのSFじみた話から
途方もなくパワフルで美しい楽曲を編み出した
ケイト・ブッシュの才能はすごいの一言。
そしてこのビデオのラストシーンーー
丘の頂上で怪物マシンを稼働させた少年のシルエットは、
ケイト・ブッシュの音楽を表すアイコンとしても
長らく愛されてきた。
2015年にピーター・ライヒの
「ブック・オブ・ドリームス」が
再発売されたが、その表紙にはなんと
このビデオのラストシーンがデザインとして使われている。
さらに2010年からはケイト・ブッシュの
トリビュートバンドが活動。
そのバンド名が「クラウドバスティング」だ。
どうやら本人公認らしく、演奏もパフォーマンスも
単なるカバーをはるかに超えて、
「こんにちは地球」など、
彼女がライブでやったことのない楽曲も見事に再現。
21世紀にケイト・ブッシュの
新しい音楽世界を創り出している。
●こんにちは地球/クラウドバスティング
契約更新して「あづま家デイサービス亀戸」の
取材を1年続行。
運動特化型のデイサービスで、全サーキット型。
パワーリハビリ、ストレッチベンチ、ハイトレックス、
バイク、ウォーターベッドなど、
豊富な運動メニューを揃え、個別運動指導も行っている。
オープンから2ヵ月近く過ぎたが、
利用者が70名を超え、うれしい悲鳴を上げている。
デイサービスは開所から2ヵ月程度なら
10名そこそこの利用者が獲得できれば御の字
と言われているので、この数字はかなり驚異的だ。
これはアクティブなシニアのマインドをつかんだ
社長のプランニングの勝利。
若者に人気の高いインテリアデザイナーと
イラストレーターを登用して
これまでなかったお洒落なデイサービスを作り上げた。
スタッフも好感度が高い。
デイサービスはこんなもの。
高齢者にはこの程度の落ち着いた感じ、
程よいダサさが似合っている。
そうした常識をぶち破った。
斬新ではあるが、
けっして突飛でもエキセントリックでもはない。
これからここを真似たようなところが増えるだろう。
今後、高齢者を対象とする施設を作ったり、
ビジネスをやろうという人は
お手本にするといいかもしれない。
いつまでも従来の高齢者というイメージを
刷新できずにいると淘汰されるだろう。
昨日・今日とパシフィコ横浜で
葬祭事業の展示会
「フューネラル・ビジネスフェア」をやっていた。
今年はコロナ明けということで活気があった。
中でも目を引いたのが、
岡山の「ビアンフェ.」のブース。
ここの社長の岡野裕子さんはもともと葬式のナレーターで、
25年間蓄積したナレーション原稿をもとに、
AIによる自動ナレーション生成システム
「IKIRU」を作り上げた。
今年はそのシステムをアレンジした姉妹バージョン
「ルーベン」をお披露目。
こちらのシステムは、
群馬の「ひさよ斎場(㈱富品)」のAIサービスだ。
社長の荻原久代さんも岡野さんと同等の
ナレーターとしてのキャリアと原稿を蓄積しており、
今回、半年余りをかけて1万部に及ぶ原稿をデータ化し、
「ルーベン」を完成させた。
ルーベンには「ライフ・ストーリー」という
クローズドSNS風のシステムもついている。
インターネット上で亡くなった人の
葬儀の特別サイトが期間限定で設けられ、
招待された人はそこに写真やコメントを投稿でき、
交流もできる。
13年前、死んだ友だちがブログを書いていて、
その最後の投稿に1年後までえんえんと
コメントが寄せられ、
一種のコミュニティを形成していたが、
そのことを思い出した。
あの頃より格段に進化したITを使えば、
故人のお別れ会をネタに、
古いコミュニティが復活・再生する
新しい土壌になりそうだ。
それにしても、今年はチャットGPTの登場で、
あっという間にAI時代に突入してしまった。
葬式のナレーションに関して言えば、
岡野さんや荻原さんのようなキャリアを積める人は
もうほとんど出てこられないと思う。
ナレータに限らず、どの職業でも今後、
長い時間をかけた修行や勉強、経験の蓄積は、
あまり意味をなさなくなるだろう。
社会が、経済の仕組みが、もうそれを許してくれない。
大きな目で見れば、蓄積が美徳であることは変わりないが、
商売のために日々の業務をこなしていくには、
修行中の人や勉強中の人は役に立たず、
手鶏足取りきちんと育てているヒマなどない。
AIを上手に使いこなすとか、
旧来の方法に代わるスキルアップが求められるのだと思う。
ビアンフェ.は、
20代の開発リーダー・中原海里氏が中心となって、
複数の大学の教授陣と組んで、
次なる異次元のAI開発に取り組んでいるという。
この秋にはさらに進化した、
汎用性の高いものが登場するので、
期待してほしいとのことだった。
新しいマイナビ農業の記事が上がりました。
「日本最大級のミニトマト生産拠点が茨城県に!」
農業に興味をお持ちの方、
ミニトマトが好物の方、
そして、茨城県にお住まいの方、
ご家族・ご友人のおられる方、
別に知り合いはいないけど、
茨城県を愛しているよ・応援しているよという方は、
ぜひご一読くださいな。
茨城県南西部に位置する常総市。そこに総敷地面積約45ヘクタールの農業拠点「アグリサイエンスバレー常総」が誕生し、2023年5月26日に「まちびらきセレモニー」を開催しました。セレモニーには関係者100名超が集い、その注目度と熱意が感じられました。未来の地域創生モデルプロジェクトとして、拠点内でスタートした日本最大級のミニトマト栽培施設や、アグリサイエンスバレー常総について紹介します。
目次
官民連携のまちづくり「アグリサイエンスバレー常総」
夏越し栽培で差別化を図る
農業分野に特化したシステム開発
栽培ロボットの開発に期待
目指す未来の「農業のまち」
ちょっと前に息子から新しいガンダムが
面白いと薦められたので、
「機動戦士ガンダム 水星の魔女」を見てみた。
去年の秋に1クールやっていて、
今年の春から2クール目をやっている。
現在は2クール目の途中だが、
かなりハマってこの3日ほどで21話をイッキ見。
ガンダム伝統のSF戦争ものに、
少女マンガ(学校・恋愛・仲間・LGBT)と
ビジネスドラマ(企業の宇宙経済圏・M&A・ベンチャー起業)を掛け合わせたつくりになっていて、
ちょっと「エヴァンゲリオン」を匂わせる要素も
入っており、とても見ごたえがある。
ガンダムは息子がチビの頃、「ガンダムSEED」など、
3作ほどいっしょに見ていただけで、
その歴史についてはよく知らないが、
今回のは新機軸らしく、主人公が女の子だ。
この主人公のスレッダというのが、
昔ながらの少女マンガのヒロインを彷彿とさせる、
純情で、ちょっとドジでヘタレな田舎娘というキャラで、
かわいい。
最初の方はガンダムで学園少女マンガをやるのか?
魔女だの魔法使いだのって、ハリーポッターの路線なのか?
というノリで始まったが、
さすがに世界観とキャラクター紹介を済ませた
1クール目の終盤から
ハードでシリアスなガンダムらしい展開になってきて、
オールドファンはほっとしただろう。
スレッダちゃんも話が進むにつれ、
単なる純情娘でなく、
過酷な運命を背負っていることがわかってきて、
ガンダムの主人公らしくなっていく。
「水星の魔女」というメインタイトルが示す通り、
ほかの登場人物も、圧倒的に女が多く、
キャラクターも女のほうが魅力的だ。
特にすごいのが、レディ・プロスペラという
スレッダちゃんの母親で、
新興のモビルスーツ企業の経営者。
しかもこの女性は、
ガンダムシリーズの名物の仮面キャラである。
彼女の復讐劇が、この物語の重要な軸になっているようだ。
シャア・アズラブル由来の仮面キャラは、
仮面をつけているというだけで、
相当ガンダムファンが期待し、
作る側のプレッシャーも大きいと思うが、
脚本のセリフも声優さんの演技も素晴らしく、
見事にそれに応えている。
序盤のビジネスシーンで、
「水星の地場に顔と腕を持っていかれた」と言って、
仮面(実際には目元まで隠すヘッドギア)と
義手を付けている理由を説明するが、
娘と会話する時は普通に外して素顔を晒している。
べつに顔面が崩れて醜くなっているとか、
外見上の異常は見られない。
なので、どうもこの仮面(ヘッドギア)を
装着すること自体になにか秘密があって、
ふつうに「働いているお母さん」
というわけではなさそうだ。
そのあたりは後半でどんでん返しをやるのだろう。
最後はやはり母と娘の対決になるのか?
女同士で戦うのを見るのはちょっと怖いので、
あまり凄惨なシーンにはしてほしくないけど。
この物語ではまた、社会格差や世代格差、
毒親など、親子間の問題なども
巧みに取り入れていているが、
究極のテーマは、
おそらく「母の愛」ということになるのだと思う。
それもかなり怖くて、狂気を秘めた愛。
従来のこうしたロボットもの・戦闘ものでは、
女性は、かわいかったり、お姫様だったり、
女神様だったり、色っぽい悪魔だったり、
やさしいお母さんだったり、
いわゆる「男が求める女性」として、
あまく描かれることが多かったが、
エヴァンゲリオン以来、だいぶ変わってきたようだ。
それにしても今さらながら、
最近のアニメは作劇術も画像表現も質が高い。
いろんな意味で楽しめ、
今の世の中の在り方・若い世代の思考タイプも学べる。
モット・ザ・フープルは、
ヴォーカルのイアン・ハンターを中心とした
70年代前半に活躍したイギリスのグラムロックバンド。
いわゆるグラムロックとしては、
デヴィッド・ボウイ、Tレックスの
次くらいに名前が上がるだろう。
デヴィッド・ボウイはこのバンドがお気に入りで、
自らプロデュースを申し入れ、ボウイ作の
「すべての若き野郎ども」が1972年に大ヒットし、
スターバンドに駆け上がった。
1974年リリースのアルバム「ロックンロール黄金時代」は、
アルバムタイトルのこの曲をはじめ、
「マリオネットの叫び」「あばずれアリス」
「野郎どもの襲撃」「あの娘はイカしたキャディラック」「土曜日の誘惑」など、
邦題マジック満開の名曲が並び、充実度抜群。
クセのある香辛料を効かせたロックンロールがたまらない、
文句なしの名盤である。
ジャケットデザインも一度見たら忘れられない
強烈なインパクト。ロック史上、屈指のカッコよさだ。
モット・ザ・フープルは、
ビートルズ亡き後の70年代前半、
レッド・ツェッペリンやローリング・ストーンズ、
プログレ四天王などに比べると、
やや格落ちするB級バンド感がいいじゃん、
いうことで、日本でも結構人気があった。
たしか1975年の「ミュージックライフ」の人気投票では、
バンド部門で15位前後だったと記憶している。
ただ、このアルバムを最後にスタープレイヤーの
イアン・ハンターが抜け、
バンドはなかば空中分解。
その後は人気を盛り返せることなく、
70年代後半に解散してしまった。
このアルバムに参加したメンバーで、
キーボーディストのモーガン・フィッシャーは、
80年代後半から日本に活動拠点を移し、
過去の栄光にこだわることなく、
まったく違ったスタイルの音楽を追求。
それは当時、新しい音楽の潮流となった
アンビエントミュージック(環境音楽)だった。
ヒーリングミュージックと言ってもいいが、
シンセサイザーを駆使し、
日常の中で瞑想を喚起するような音楽を創り出した。
フィッシャーは環境音楽家として、
90年、91年と京都・大阪で開かれた
大規模イベントに出演したのだが、
僕はその時、演出スタッフとして関わっていた。
それで打ち合わせなどで何度か言葉を交わしたことがある。
「モット・ザ・フープル、好きでした」とコクると、
彼はいきなり、ダダダダダダダ、ダダダダダダダ・・・と、
この曲の出だしのピアノ連打のフレーズを口ずさんだ後、
「フーッ、やれやれ」という感じで、
やや自嘲的な笑みを浮かべて、
「そう言や、そういうバンドもやってたね」
みたいなポーズを見せた。
たぶんその頃は、
自分の新しい音楽を作るのに躍起になっていて、
「もうあんなの昔ばなしだから勘弁してくれ」
という気持ちだったのではないかと思う。
ところが、フィッシャーはその後、
日本のみ発売のモット・ザ・フープルの
トリビュートアルバムを作ったり、
2018年・19年には、イアン・ハンターらと共に
モット・ザ・フープルを再結成。
ヨーロッパやアメリカで大々的なツアーまで行った。
ちなみに彼はモット以外にも
ジョン・レノンの楽曲の
カバーアルバム(オノ・ヨーコが参加)を作ったり、
クイーンのサポートキーボーディストとして、
ツアーに参加したり、CM音楽や映画音楽を製作するなど、
長年にわたって多彩な活躍を見せている。
最近のインタビューを読むと、
日本で暮らすことが音楽活動にとてもプラスに働き、
安定したキャリアを築くことに成功したようだ。
現在もコンスタントに音楽づくりを続ける
モーガン・フィッシャー。
彼の音楽は僕も気に入っていて、
仕事のBGMとしてよく聴いている。
特に「Refresh」というアルバムは、
単なるヒーリングミュージックを超えた、
ユーモアとフューチャー感があふれる傑作で、
BGMとしてはもちろん、
日常生活に心地よい刺激を与える
プログレッシブな音楽としても素晴らしい。
すべての人におすすめだ。
日本有数の農業専門サイト
「マイナビ農業」でも随時、記事をUPしています。
先月末はフードテックについての一編をUP。
農業・食品関係の事業をやっている方にはためになるかも。
ご興味があれば、ご一読ください。
話題沸騰のフードテックを徹底解説!
背景や農業での活用事例なども紹介
フードテックとは
「Food(フード)」と「Technology(テクノロジー)」を
掛け合わせた食の最先端技術を指す言葉。
「サイエンスとエンジニアリングによる食のアップグレード」という定義も。(経済産業省)
飲食店のモバイルオーダーや、
大豆ミートの開発などもフードテック。
また、農業ではアグリテックと呼ばれる分野も含まれ、
人手不足を解消するロボットの開発や、
生産の効率化を促すAI・ICTの活用などもフードテック。
食料不足やフードロス(食品廃棄)などの
課題解決への期待を込めて盛り上がる
フードテックの世界を探索します。
目次
フードテックとは?
フードテックが注目される背景
フードテックで解決できる問題
フードテックの主なテクノロジー例
農業でのフードテックの事例
フードテックで広がる食と農の可能性
都内で6つの火葬施設付きの斎場を運営する東京博善の
オウンドメディア「ひとたび」で、
毎月、「世界の葬祭文化」というコラムを連載しています。
今月は第3回
「欧米で話題の水火葬〈アクアメーション〉とSDG's」。
今世紀に入ってから欧米の人々の間で
いわゆる「エコ葬」への指向が強まっています。
エコ葬にもさまざまな種類がありますが、
「アクアメーション(日本では「水火葬」と訳されることが多い)」もその一つ。
特に2015年、国連サミットでSDG’sが採択されて以来、
認知度が上がり、
合法的な葬法として認める国・地域が増えているのです。
今回は水火葬とはどういう葬法なのか、
その背景や発展の経緯を含めて紹介していきます。
もくじ
・世界的人権活動家の最期の選択
・アルカリ加水分解葬
・火ではなく“水”で遺体を分解
・SDG'sの浸透が普及の追い風に
・先駆的事業者のポジティブなイメージづくり
・ハワイ先住民の伝統葬法だったという一説も
・合法化された国・地域
人の命の終末には、
私たちはどう生きたいのか、
どう生きるべきなのか、
と、国や地域を問わず、
今を生きる人々の考えが反映されています。
ご興味があればご一読ください。
福井の鯖江と言えば国産メガネの聖地。
1905年に始まった鯖江のメガネ作りは、
100年の間に一大地場産業に発展。
いまや日本のみならず、
世界的にもメガネの産地としての地位を築き上げている。
先日、富山出張の際に会った福井在住の
経営コンサルタントの話によると、
その鯖江で純金のメガネを作って売り出したところ、
最も注文が多かったのは、東京でもなく大阪でもなく、
わが故郷・名古屋だったという。
金は柔らかいので実際に日常的にかけるには適さない。
観賞用か、投資の意味を含んでいると思うが、
妙に納得できてしまう話である。
お値段も末広がりの88万円というのも
名古屋人受けしたのだろう。
名古屋市の市章は漢字の「八」の字をアレンジしたもの。
サッカーJリーグの名古屋グランパスも、
創設当初の正式名称は「名古屋グランパスエイト」だった。
これは市章と、
メインスポンサー「トヨタ」のカタカナの総画数が
「8」であることのダブルミーニングから付けられた。
そこまで末広がりにこだわったのに、
いや、こだかわったがために、
Jリーグでの順位が毎年8位前後だったことで、
2008年に「エイト」を外したという経緯がある。
このあたりのちょっとマヌケなエピソードも
わが故郷・名古屋っぽくて面白れーでいかんわ。
話を純金メガネに戻すと、
日本の中心に位置し、
信長・秀吉・家康という三英傑を輩出しながらも、
都は東京(江戸)に作られ、
文化面の人気では京都・大阪に遠く及ばず、
お洒落感でも横浜・神戸に太刀打ちできない
名古屋人のコンプレックスが、
この88万円・純金鯖江産メガネへの購買に
結びついていると思う。
おそらくは金ピカの茶室・茶器も作った
秀吉以来の伝統なのだと思うが、
お城のしゃちほこも金ピカにしちゃうなど、
金を使った造形物が大好きな名古屋人。
この見え張り・成金趣味は、
経済的には恵まれているのに、
イマイチ感・凡庸感に甘んじざるを得ない
名古屋人にかけられた呪いのようなものかもしれない。
というわけで、
どえりゃーわが故郷をディスってまったけど、
純金メガネを購入された方で、
「おみゃーさん、いっぺん拝ませたるで、こっち来やぁ」
とお声がけ下さる方がいらしたら、ぜひともご連絡を。
ついでに自叙伝でも書かせていただきますで。
お待ちしとるでよ。
6月は夏至。
雨や曇りの日が多いせいであまり気が付かないが、
夜明けがとても早くやってくる季節になった。
「夜明けのスキャット」は、
1969年に由紀さおりが歌って
大ヒットした昭和歌謡の代表曲。
タイトルは夜明けだが、
歌の中で、時計は夜明け前で止まり、
星は永遠に消えず、ふたりは愛の世界に生きる。
捉えようによっては相当エロい歌だ。
子どもの頃はそんなエロさなど分からなかったが、
聴いていて「なんだ、この歌は?」と
異常なインパクトを受けたことを、
いまだにありありと憶えている。
ルルルとか、ラララとか、パパパばっかりで
全然歌詞が出てこない!
いま聴けば2番はちゃんと歌詞があって、
それなりにバランスが取れているのだが、
子どもの頃は、スキャットのみの部分が
とんでもなく長く感じられて、
他の歌にはまったくない、
唯一無二の不思議感がずっと残っていた。
それからすでに半世紀以上。
その不思議感は半永久的な生命力を持って、
歌詞の通り、時のない愛の世界にリスナーを連れていく。
その透き通るようなファンタジー性は、
いまや世界中に響き、アメリカのジャズオーケストラ
「ピンクマルティーニ」をはじめ、
世界中の様々なミュージシャンが
この曲をリスペクトし、カバーしている。
昭和歌謡の代表曲は、
時計を止めて、国境を越えた名曲になった。
子どもの目にはとても色っぽい大人の女性に見えた
由紀さおりは、この当時まだ21歳。
自分とひと回りしか齢が違わなかったことにも、
ちょっと驚き。
最近、聴いたギリシャのエレクトロポップデュオ
「マルシュー」のリミックスバージョンが、
「夜明けのスキャット未来編」といった趣で素晴らしい。
こちらを聴いていると、
なんだかミステリアスなSF映画の主題歌のようだ。
先週後半から週末にかけて地方の取材と
母の一周忌の法事、帰って来てまた連荘取材と、
久しぶりに長距離移動が激しく、
いささか疲れてた。
実家に帰ったのは昨年の49日以来、
およそ10か月ぶり。
法事をやって昼飯を食べた後、
そろそろ帰るかなと思ってた矢先、
カミさんが写真撮ったらと言い出したので、
あまり抵抗することもなく、すんなり
両親の遺影の前できょうだい三人で写真を撮った。
考えてみれば、三人揃って写真を撮るなんて、
還暦過ぎて人生初体験である。
じつは末っ子の妹は、実のきょうだいでなく、
本当はいとこ(父の弟の子)なのだが、
事情があって1歳のときに両親が引き取って育てた。
そんなわけで齢が離れていることもあり、
子どもの頃も1枚も3人そろっての写真なんか
撮ってなかったのである。
そうでなくても昭和の時代は、
カメラもフィルムもプリントも高価だったので、
今のようにホイホイ手軽に写真は撮れなかった。
というわけで上のふたりは還暦過ぎての撮影。
人生は短い。
子どもにきょうだいがいる人は、
今のうちにバシバシ並べて写真を撮っておくと良い。
それにしても父と母のみちびきなのか、
50代、60代になってきょうだい写真を撮るなんて
まったく思いもよらなかった。
なんだかひどく照れ臭かったが、
なかなか気分がいいものだ。
新しい人生のフェーズが始まったような気分になっている。
現代アメリカ社会の欺瞞・腐敗・不条理をえぐる
吟遊詩人ボブ・ディランが1976年発表した
アルバム「欲望」のトップナンバー。
ギターに合わせてフィドル(バイオリン)がうねり、
ベースとドラムがロックなリズムを刻む中、
無実の罪を着せられた60年代の黒人ボクサー
ルービン“ハリケーン”カーターの物語を歌い綴る。
紛れもない、ディランの最高傑作だ。
惨劇を告げるオープニングから見事に構成された長編詩は、
8分以上にわたって聴く者の胸にひたすら
熱情溢れた言葉の直球を投げ続け、
“ハリケーン”の世界に引きずり込む。
殺人罪で投獄されたカーターは
獄中で自伝「第16ラウンド」を書いて出版し、
冤罪を世に訴えた。
その本を読んだディランは自らルービンに取材して、
この曲を書き上げたという。
その冤罪がいかにひどいものであったかは
曲を聴いての通りで、
人種差別がまだ正々堂々とまかり通っていた時代とはいえ、
こんなでっち上げがまかり通っていたことに驚くばかり。
けれども半世紀以上たった今も
実情は大して変わっていないのかもしれない。
そしてまた、昔々のアメリカの人種差別、
黒人差別の話だから僕たちには関係ないとは
言っていられないのかもしれない。
冤罪はどこの国でも起こり得る。
もちろん日本でも。
かの「袴田事件」が今年3月、
ようやく無罪決着になったのは、
事件から57年もたってからのこと。
失われた時間は二度と戻らない。
僕の子ども時代、日本の警察は
「刑事事件の検挙率世界一」
「世界で最も優秀な警察組織」と喧伝されていたが、
その検挙率を高く維持するために
相当数のでっち上げがあったのではないかと推察する。
権力者やその親族などが、
裏工作で罪を免れられるというのは、
昭和の時代では、広く認識されていたのでないか思う。
当然、その犠牲となった人も少なくないだろう。
人間の世界では表通りを見ているだけでは計り知れない
さまざまな事情・感情・思惑が絡み合って冤罪が生まれる。
人の一生を台無しにするほどの年月を費やした
「袴田事件」はそれでも無実が明らかにされた分、
まだマシと言えるのか?
泣き寝入りするしかなかった人たち、
最悪、闇に葬られた人たちは
いったいどれくらいいるのだろう?
どの国でも無実の罪を着せられるのは、
社会的に弱い立場にある人たちであることに変わりない。
「忖度」が大切にされるこの国では、令和の世になっても、
権力者やその親族などが罪を犯した場合、
たとえ裏からの命令や強制力が働かなくても、
周囲の「空気」によって冤罪を被ることもあり得そうだ。
ディランは痛烈に歌う。
「こんな国に暮らしていて恥ずかしい」と。
カーターは黒人であることに加え、
よくある話として、11歳の時に窃盗で捕まり、
少年院に入っていた履歴などが偏見として働き、
冤罪を生んだ。
ただ、幸運?(皮肉な言い方)なことに
社会の流れを変えた公民権運動と結びついて、
また、彼が名を知られたボクサーだったこともあって、
社会から注目されたのだ。
その後、支援者たちの尽力で、
彼に有利な証拠が隠蔽されていたこと、
彼に不利な証言をした証人が
偽証していたことなどがわかり、
1988年、20年間の獄中生活を経て、
ついにカーターの無実は認められ自由の身になった。
世界チャンピオンにもなれた男の夢は
とうの昔に潰えていたけれども、
1993年、世界ボクシング評議会(WBC)は、
彼に世界ミドル級名誉チャンピオンの称号と
チャンピオンベルトを授与した。
1999年、彼の半生とこの事件のドキュメントは
デンゼル・ワシントンが主演する
映画『ザ・ハリケーン』となった。
主題歌にこの曲が選ばれたことは言うまでもない。
その後、冤罪救済活動団体の責任者となった
“ハリケーン”は、最期まで冤罪と闘い続けた。
2014年、カナダ・トロントで死去。享年77歳。
先週だったと思うが、
スーパーや飲食チェーン店の野菜サラダに
カエルが混入していたニュースがあり、
そのせいかやたらとブログのアクセスが増えた。
そう言えば、カエル食とか、カエルのから揚げとか、
カエル女とか、カエル男とか、
カエル石とか、カエル君とか、
よくカエルのことを書いている。
カエルに魅入られる人は少なくない。
やはり地球に生きる生物としては、
人間よりはるかに大先輩であり、
学ぶべき点がいっぱいある。
そもそも子ども時代の生き方と
大人になってからの生き方が
まるっきり違っているのが面白い。
むかしのSF小説で
「両棲人間」というのを読んだことがあるが、
人間は心のどこかで両棲類に憧れているフシがある。
そう言えば、ウーパルーパやオオサンショウウオのことも
書いたことがある。
オオサンショウウオは小説まで書いてしまった。
このへんはみんな、むかしは食糧になっていたようだ。
カエルは最も身近な両棲類で、
日本人にとって大事なお米を育てる田んぼの
妖精みたいな存在である。
梅雨の季節、カエルに会えた人はラッキーかも。
野菜サラダのカエルに当たっちゃった人も、
あまり怒らずに「幸福ガエル」に当たったと思って
ケロッとやりすごそう。
カエルサラダのおかげでこの夏はいいことあるかもよ。
善福寺川の川べりでアジサイが色づいた。
早や季節は夏。
写真に撮れなかったが、夕方、ジョギングに出たら
川には先日、歩道から3メートル下の川岸へ
仰天ダイブを見せたチビガモたちが元気に泳いでいた。
カラスも飛び回っているし、
この間の雨で増水もしていたし、
食われるか、流されるかして
何羽か減っているだろうと思って数えてみたら・・・
あれっ?9羽もいる。
たしか前見た時は8羽だったような。
いつの間に1羽増えたのか???
いずれにしてもみんな元気で生きていて
すごいスピードで泳ぎまくって遊んでいる。
生きているのが面白くてしかたない。
そんなチビガモたちにお散歩の人たち、
みんな感激。
写真は13日前の生まれたてのチビたち。
(やっぱりこの時は8きょうだい)
今はちょっと大きくなって、
顔も体もヒヨコ色の部分が減って、
全体にカモ色(茶色)っぽくなってきた。
小学生レベルかな。
もうちょと大きくなれば、
カラスも簡単に手が出せないぞ。
がんばれチビ。
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テイスト・オブ・ハニー等、読みどころいっぱい。
基本的に自分の人生のテンションを上げる
ドラッグみたいな感覚で書いていますが、
何割かは同世代の人たちと記憶を共有したい、
そして、若い世代の人たちにこんな曲があって、
こんな歌手・バンドが活躍してたって知ってほしい。
このエッセイであなたの人生に
素晴らしいインスピレーションをもたらす歌を
見つけてください。
無料キャンペーンのタイムリミットは明日16時59分まで。
目次を見て気になる楽曲・アーティストがいたら、
このチャンスにペラッと読んでみてくださいね。
第2巻は♯29~♯56まで28篇を収録しています。
もくじ
29 サパーズレディ/ジェネシス【1972】
30 ララ・ミーンズ・アイ・ラブ・ユー/スウィング・アウト・シスター【1994】
31 シュガー・ベイビー・ラブ/ザ・ルベッツ【1974】
32 パンク蛹化の女/戸川純とヤプーズ【1984】
33 ジョニー・B・グッド/チャック・ベリー【1958】
34 雨のクロール/森田童子 【1975】
35 ナッシング・トゥ・ルーズ/U.K. 【1979】
36 雨音はショパンの調べ/小林麻美【1984】
37 紅い月/佐野元春&ザ・コヨーテバンド【2015】
38 ワイルドワン/スージー・クアトロ【1974】
39 ダンシング・ウィズ・ミスターD/ザ・ローリング・ストーンズ【1973】
40 真夏の出来事/平山みき(代官山ミラクルキャバレー)【1971】
41 カナリア諸島にて/大滝詠一【1981】
42 秘密の花園/松田聖子【1983】
43 ラヴ・ラヴ・ラヴ/ザ・タイガース【1969】
44 少年ヴィーナス/ビョーク【1993】
45 Summer/久石 譲【1999】
46 イエローサブマリン音頭/金沢明子【1982】
47 ああ青春/中村雅俊+ゴーイング・アンダーグラウンド 【1975】
48 今夜はブギ・ウギ・ウギ/テイスト・オブ・ハニー 【1978】
49 永遠の調べ/キャメル【1976】
50 エニウェア・イズ/エンヤ 【1995】
51 サンシャイン・ラブ/クリーム【1967】
52 ノーモア“アイ・ラブ・ユーズ”/アニー・レノックス 【1995】
53 スリラー/マイケル・ジャクソン【1982】
54 ロックバルーンは99/ネーナ 【1983】
55 アローン・アゲイン/ギルバート・オサリヴァン【1971】
56 ホワット・ア・フィーリング/アイリーン・キャラ 【1983】
おりべまこと電子書籍新刊「週末の懐メロ 第2巻」
5月29日(月)16:59まで
発売記念無料キャンペーン実施中!
主観9割。偏見まみれ。20世紀ポップミュージックの回想・妄想・新発見のエッセイ集。
このエッセイは基本的に自分の
人生のテンションを上げるための
ドラッグみたいなもの。
でも、何割かは同世代の人たちと
記憶を共有したいという思い、そして、
若い世代の人たちに知ってほしいという
思いを抱いて書いています。
きっとあなたを元気にする歌、
あなたの人生にインスピレーションを与える歌が
一つや二つはあるはず。
目次を見て気になる楽曲・アーティストがいたら、
この機会にペラッと読んでみてくださいね。
第2巻は♯29~♯56まで28篇を収録しています。
もくじ
29 サパーズレディ/ジェネシス【1972】
30 ララ・ミーンズ・アイ・ラブ・ユー/スウィング・アウト・シスター【1994】
31 シュガー・ベイビー・ラブ/ザ・ルベッツ【1974】
32 パンク蛹化の女/戸川純とヤプーズ【1984】
33 ジョニー・B・グッド/チャック・ベリー【1958】
34 雨のクロール/森田童子 【1975】
35 ナッシング・トゥ・ルーズ/U.K. 【1979】
36 雨音はショパンの調べ/小林麻美【1984】
37 紅い月/佐野元春&ザ・コヨーテバンド【2015】
38 ワイルドワン/スージー・クアトロ【1974】
39 ダンシング・ウィズ・ミスターD/ザ・ローリング・ストーンズ【1973】
40 真夏の出来事/平山みき(代官山ミラクルキャバレー)【1971】
41 カナリア諸島にて/大滝詠一【1981】
42 秘密の花園/松田聖子【1983】
43 ラヴ・ラヴ・ラヴ/ザ・タイガース【1969】
44 少年ヴィーナス/ビョーク【1993】
45 Summer/久石 譲【1999】
46 イエローサブマリン音頭/金沢明子【1982】
47 ああ青春/中村雅俊+ゴーイング・アンダーグラウンド 【1975】
48 今夜はブギ・ウギ・ウギ/テイスト・オブ・ハニー 【1978】
49 永遠の調べ/キャメル【1976】
50 エニウェア・イズ/エンヤ 【1995】
51 サンシャイン・ラブ/クリーム【1967】
52 ノーモア“アイ・ラブ・ユーズ”/アニー・レノックス 【1995】
53 スリラー/マイケル・ジャクソン【1982】
54 ロックバルーンは99/ネーナ 【1983】
55 アローン・アゲイン/ギルバート・オサリヴァン【1971】
56 ホワット・ア・フィーリング/アイリーン・キャラ 【1983】
1996年5月に出たPUFFYのデビュー曲にして大ヒット曲。
作詞は井上陽水、作曲は彼女らの
プロデューサーでもある奥田民生。
当初、CMソングとしても使われていたけど、
ついこの間もリバイバルCMソングに
なっていたことも記憶に新しい。
歌詞はまったく意味不明だが、
これは井上陽水の言葉遊びの世界。
漠然としたアジアのイメージをもとに
自由に、パワフルに音楽が広がっていく感じが楽しい。
「アジアの純真」と言いながら、
歌に出てくる単語のなかでアジアの地名や
アジア産のものは半分程度。
ベルリンはドイツ、ダブリンはアイルランドの都市。
リベリアはアフリカの国。
バラライカはロシアの民俗楽器と、
ワールドワイドにイメージが飛び交う。
高校の地理の授業で、
この歌詞のなかからアジアの地名でないもの、
アジアと関係ないものを挙げよ、
なんてやっていたこともあるらしい。
PUFFYの活躍もワールドワイドで、
デビュー後まもなくアジアキャンペーンをやって人気拡大。
2004年には彼女らをモデルにしたアニメ
『ハイ!ハイ! パフィー・アミユミ』がアメリカでブレイク。
その後、活動は全世界に広がった。
いま振り返ってみると、
この曲のハチャメチャでカオスな世界観は、
ネット情報が地球を覆い、
それぞれの文化が絶えずクロスオーバーする、
現在の世界の状況を表現しているようにも思える。
いつ聴いても明るくて楽しくて元気。
初めて観たけど、
このオリジナルMVも遊び心いっぱいで面白くて大好き。
まるで27年前に見た予知夢のようだ。
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「週末の懐メロ 第2巻」
20世紀ポップミュージックの回想・妄想・新発見!
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ブログ連載 ♯29~♯56まで、全28篇を収録。
お気に入りの曲やアーティストがいれば覗いてね。
もくじ
29 サパーズレディ/ジェネシス 【1972】
30 ララ・ミーンズ・アイ・ラブ・ユー/スウィング・アウト・シスター 【1994】
31 シュガー・ベイビー・ラブ/ザ・ルベッツ 【1974】
32 パンク蛹化の女/戸川純とヤプーズ 【1984】
33 ジョニー・B・グッド/チャック・ベリー 【1958】
34 雨のクロール/森田童子 【1975】
35 ナッシング・トゥ・ルーズ/U.K. 【1979】
36 雨音はショパンの調べ/小林麻美 【1984】
37 紅い月/佐野元春&ザ・コヨーテバンド 【2015】
38 ワイルドワン/スージー・クアトロ 【1974】
39 ダンシング・ウィズ・ミスターD/ザ・ローリング・ストーンズ 【1973】
40 真夏の出来事/平山みき(代官山ミラクルキャバレー)【1971】
41 カナリア諸島にて/大滝詠一 【1981】
42 秘密の花園/松田聖子 【1983】
43 ラヴ・ラヴ・ラヴ/ザ・タイガース 【1969】
44 少年ヴィーナス/ビョーク 【1993】
45 Summer/久石 譲 【1999】
46 イエローサブマリン音頭/金沢明子 【1982】
47 ああ青春/中村雅俊+ゴーイング・アンダーグラウンド 【1975】
48 今夜はブギ・ウギ・ウギ/テイスト・オブ・ハニー 【1978】
49 永遠の調べ/キャメル 【1976】
50 エニウェア・イズ/エンヤ 【1995】
51 サンシャイン・ラブ/クリーム 【1967】
52 ノーモア“アイ・ラブ・ユーズ”/アニー・レノックス 【1995】
53 スリラー/マイケル・ジャクソン 【1982】
54 ロックバルーンは99/ネーナ 【1983】
55 アローン・アゲイン/ギルバート・オサリヴァン 【1971】
56 ホワット・ア・フィーリング/アイリーン・キャラ 【1983】
ここのところ、一緒に暮らしている認知症の義母のもとに、
ざしきわらしが頻繁に出没しているようだ。
ほぼ毎日、朝昼晩問わず
「あのちっちゃい子どこ行った?」とか
「こっちの部屋に来てない?」とか言ってくる。
「いないね~」と言いつつ、
いっしょに探したりもするのだが、
いないんだとわかるとすぐ忘れてしまう。
ところがまた、しばらくすると
バタバタバタと同じことを言いにやって来るのである。
この間、ある本を読んでいたら、
マンガ家の水木しげるさんの話が出ていて、
彼は睡眠至上主義を謳い、
長年、1日10時間睡眠を実践していたという。
晩年はともかく、
何本も雑誌の連載を抱えていた時代なんか
ほんとうにそんな時間が確保できたのかと疑問だが、
よく寝て休息することで集中力が増し、
却って仕事が速くできたのかもしれない。
奥さんにも子供が寝ている時は無理に起こすなと
厳しく言っていたようだから、筋金入りだ。
水木さんの場合、睡眠を多くとるのは休息とともに、
異世界との交信という重要な意味合いが
あったのではないかと思う。
睡眠至上主義が、世界に冠たる、
あの妖怪マンガを産み出したのだと思うと、かなり面白い。
そう言えば義母も1日10時間くらいは寝ている。
異世界との交信によって、
自由自在にざしきわらしを呼びよせられるのか?
だとすれば認知症、おそるべし。
またネタをいただいて、なんかお話書こうかな。
電子書籍amazon kindleおりべまこと新刊
週末の懐メロ 第2巻 5月25日(木)発売予定。
ブログ連載。毎週、懐メロについて綴る
9割主観・偏見まみれの音楽エッセイ集。
あなたのお気に入りがあれば、ぜひ覗いてみてください。
♯29~♯56まで 全28篇収録。
もくじ
29 サパーズレディ/ジェネシス 【1972】
30 ララ・ミーンズ・アイ・ラブ・ユー/スウィング・アウト・シスター 【1994】
31 シュガー・ベイビー・ラブ/ザ・ルベッツ
【1974】
32 パンク蛹化の女/戸川純とヤプーズ 【1984】
33 ジョニー・B・グッド/チャック・ベリー
【1958】
34 雨のクロール/森田童子 【1975】
35 ナッシング・トゥ・ルーズ/U.K. 【1979】
36 雨音はショパンの調べ/小林麻美 【1984】
37 紅い月/佐野元春&ザ・コヨーテバンド
【2015】
38 ワイルドワン/スージー・クアトロ 【1974】
39 ダンシング・ウィズ・ミスターD/ザ・ローリング・ストーンズ 【1973】
40 真夏の出来事/平山みき(代官山ミラクルキャバレー)【1971】
41 カナリア諸島にて/大滝詠一 【1981】
42 秘密の花園/松田聖子 【1983】
43 ラヴ・ラヴ・ラヴ/ザ・タイガース 【1969】
44 少年ヴィーナス/ビョーク 【1993】
45 Summer/久石 譲 【1999】
46 イエローサブマリン音頭/金沢明子 【1982】
47 ああ青春/中村雅俊+ゴーイング・アンダーグラウンド 【1975】
48 今夜はブギ・ウギ・ウギ/テイスト・オブ・ハニー 【1978】
49 永遠の調べ/キャメル 【1976】
50 エニウェア・イズ/エンヤ 【1995】
51 サンシャイン・ラブ/クリーム 【1967】
52 ノーモア“アイ・ラブ・ユーズ”/アニー・レノックス 【1995】
53 スリラー/マイケル・ジャクソン 【1982】
54 ロックバルーンは99/ネーナ 【1983】
55 アローン・アゲイン/ギルバート・オサリヴァン 【1971】
56 ホワット・ア・フィーリング/アイリーン・キャラ 【1983
先週、息子の誕生日だったのでお祝いした。
ついこの間までチビだったはずだが、もう20代後半。
あっという間の4半世紀。
子どもができるとエネルギーを吸収されて、
どんどん人生が短くなっていく感じがする。
よく本を読む子どもだったが、
今ではすっかり読書量でははるかに追いつかなくなった。
最近は昭和史だの、SF史だのの
近代クロニクル(歴史・年代史)にハマっているという。
最近は本でもネットでもアーカイブが充実してきて、
平成・昭和はもとより、20世紀全般、
さらにその前の産業革命時代から
この200年余りの人類社会の歴史が、
政治や産業・経済だけでなく、
生活・文化のかなり広い範囲まで、けっこう詳細に、
誰でも調べられ、その気になれば、
かなり深く研究できるような環境ができつつある。
文学・映画・マンガ・音楽だって、
僕らよりもよっぽど詳しい奴らがわんさかいる。
しかもあらかじめクロニクルがわかるので、
体系だって勉強できるのだ。
息子に限らないが、最近の20代・30代(もっと若い子も)は
そうしたアーカイブで勉強・研究している輩が大勢いる。
僕たちのような昭和を体験した年長者が、
かなり主観・先入観のフィルターをかけて
過去の事象を見ているのに対し、
彼らは体験がない分、客観的に歴史を俯瞰し、
クールに分析・考察できる力に長けていると思う。
「近頃の若いもんはリアルな体験がないからだめじゃー」
と、偉そうななことを言っている間に、
あっという間に知識の質・量の面で
アーカイブ勉強派に凌駕されてしまいそうだ。
青年負いやすく、学成り難し。
こっちも勉強し直さないといかなーと思う。
和訳するとしたら「青天の霹靂」というところか。
「アウト・オブ・ザ・ブルー」は
ロキシーミュージックの代表曲の一つ。
1974年リリースの4枚目のアルバム
「カントリーライフ」のトップナンバーだ。
一度聴いたら忘れられないブライアン・フェリーの、
ダンディだけどどこかマッドな香りが漂う
個性的なヴォーカルを中心に、
通常のギター、ベース、ドラムに加え、
シンセ、バイオリン、サックスが絡み合って
独特のグラマラスなサウンドが広がる。
まさに70年代ロック界の「青天の霹靂」だった
ロキシーミュージック。
このバンドはリーダーのフェリー以外、
メンバーチェンジが激しく、それに応じて、
時期によってまったく違う音作りをしている。
デビュー当初は、
アンビエントミュージック(環境音楽)の元祖となった
ブライアン・イーノが在籍しており、
音もヴィジュアルも斬新でアバンギャルドで
エッジが立ちまくっていた。
一般的に最も人気のある後期は、
「フレッシュ&ブラッド」や「アヴァロン」で
洗練された大人のポップミュージックを聴かせた。
そして、この曲を含む中期は、
グラムロックとプログレッシブロックを掛け合わせたような
イメージを醸し出しながらも、
他のプログレバンドなどにはない、
ポップでキャッチーで、
何とも言えない色気のある楽曲が充実。
この時期の「カントリーライフ」と「サイレン」、
そしてライブ盤「ビバ!ロキシー」は、
僕が最も好きな3枚だ。
イーノに代わるキーボーディストとしてメンバーとなった
エディ・ジョブスンは、バイオリンも演奏。
この曲は彼のエレクトリックバイオリンが炸裂する後半が
ハイライトになっている。
ここではキング・クリムゾンを脱退したばかりの
ジョン・ウェットンがベーシストとして参加しており、
ジョブスンとウェットンはこの後、
新たなプログレバンド「U.K.」を結成する。
ちなみにロキシーミュージックは70年代前半、
十分革新的な音楽づくりをしていたのに、
なぜかプログレバンドとしては認識されず、
どちらかというとグラムロックに
カテゴライズされることが多い。
もう一つのロキシーミュージックの特徴は、
アルバムジャケットにある。
どのアルバムも、一度見たら忘れられない、
セクシーで個性的な美女がジャケットを彩っている。
中でも裸の女の子が二人並んだ「カントリーライフ」は、
当時、わいせつではないかと物議を醸しだし、
各国でジャケットが差し替えられたりもした。
日本はその方面は寛大なのか、
そのまま発売された。
僕もいまだにそんなにエッチだとは思わない。
この時期のレコードにはもっときわどいのが
いっぱいあったような気がする。
ただ、そんなことがあっても、
ロキシーの抜群に美しいアルバムジャケットは、
圧倒的なインパクトがあり、
70年代・80年代の日本の広告アートなどにも
大きな影響を及ぼしたのではないかと思う。
ロキシーミュージックは2019年にロック殿堂入りを果たし、
その式典ライブでは当然のごとく、
この「アウト・オブ・ザ・ブルー」も演奏された。
2017年に盟友・ジョン・ウェットンがこの世を去って、
自らも音楽界からの引退を表明していた
エディ・ジョブスンもパフォーマンスに参加。
美青年だった若き日とまったく遜色ない
バイオリンソロを聴かせてくれたのは、
うれしい限りである。
都内の民営火葬場を営む東京博善の
オウンドメディア「ひとたび」で
毎月、「世界の葬祭文化」というコラムを連載しています。
第2回の今月は、“SDG's・DX・ミニマリズムの葬儀・供養
~「新しい生き方」が「新しい死に方」に~”。
「21世紀の葬儀・供養」と聞いて、
どんな形のお葬式やお墓をイメージするでしょうか?
そのイメージの鍵となるのは、SDG's・
DX(デジタル・トランスフォーメーション)・
ミニマリズムです。
近年、盛んに提唱されている
ライフスタイルやビジネスのテーマは、
エンディングにおいても重視され、
欧米各国ではこれまでの歴史・伝統とは離れた
新しい葬儀・供養の在り方が提案されています。
もくじ
・作家の想像力よりもビジネスの創造力
・映画で描かれる“自然に還る”葬儀
・世界で進む火葬普及の流れ
・地球環境に配慮したSDG'sな葬儀の数々
・20世紀を生きた人々のエンディングが変貌する
ご興味があれば、下記リンクから
ぜひご覧になってみてください。
善福寺川添いの散歩道でカルガモ親子に遭遇。
いままで3メートル下の川の中や中州、
岸でしか見たことがなかった。
こんな間近で見たのは初めて。
どうやらこのお母さん、
このあたりの草むらで卵を産んで孵したらしい。
散歩の犬などがよく草むらをかき分けて
クンクンやったりしているのに
よくぞ無事に生まれたものだ。
ひなは8ぴき。
でも、こんなところでのんびりしていたら、
たちどころにカラスや蛇のごはんになってしまう。
お母さんは一生懸命川に降りられる場所を探す。
子ガモたちはピイピイ言いながら、
押し合いへし合い、必死になってついていく。
やっと橋のたもとで降りられそうな場所を見つけた。
母はダイブ。
母はいい。何と言っても大人だし、飛べるし。
「早くみんな来なさい!」
グワグワグワと下からがなり立てる。
「ひえー、お母ちゃん、そんなこと言ったって、
こわいよこわいよ」ピーピーピー。
「はよ来い、ボケカス!」グワグワグワ―!
いやいや、人間だって飛び降りるのはこわい3メートル。
子ガモの体に換算したら、こりゃドバイの超高層ビルから
地上まで飛び降りるのに匹敵するんじゃないのか?
それでも行かなくては、この先、生きることはできない。
あっという間にカラスのごはんだ。
えいっ!
勇気ある一匹がダイブ!
もちろん飛べないので、そのまま落っこちる。
斜面をひたすら転げ落ちる。
でも大丈夫だ、生きている。
おれたちは死なないぜ、きょうだい!
ピーピー言いながら、
みんな「ナムアミダブツ」と唱えつつ、
つぎつぎとダイブ。
護岸工事がされたコンクリの岸に
たたきつけられてもなんのその。
それ行けとばかりに川に飛び込みむと
ぷかぷか浮かんでいる。
さすがカモ!
みんなよくがんばった。
きみらの勇気と冒険に大感動だ。
(この間、つれてきた義母はほったらかし)
しかし油断大敵。
ごちそうを前によだれをたらしながら
カラスが近づいてくる。
必至に交戦し、追い払うお母さん。
しかし、シングルマザー1羽で
チビガモ8兄弟を守るのは至難の業だ。
一昨年はオスかメスかわからないけど、
複数のおとなが協力してヒナを守ったおかげで、
抜群に生存率が高かったという。
みんなで子育てに協力してチビたちを守ってくれ!
きょうは西城秀樹さんの命日。
5年前、芸能記者でもないのに、
たまたま青山葬儀所での
お葬式を取材させていただいたことは
何とも幸運なことだった。
ご家族の願いとファンの願いが一つになって、
本当に忘れられないほど盛大で感動的で、
心に残るものだった。
あの時も、もうこの先、芸能人と言えども
これほどのお葬式はやらないのではないかと思ったが、
その通りになってしまった。
昭和のスーパースターの最後のお葬式。
改めてご冥福をお祈りします。
その時のエッセイなどを以下の2冊に収録しています。
いずれもamazon kindleより発売中。各¥300
おりべまことエッセイ集:昭和
昭和96年の思い出ピクニック
・西城秀樹さんのお葬式:青春の同窓会
・西城秀樹さんのお葬式で感じたこと:女の涙は子どもと夢の人のために
おりべまことエッセイ集:音楽
ポップミュージックをこよなく愛した
僕らの時代の妄想力2
・七月の朝とユーライア・ヒープと西城秀樹
・エピタフとキング・クリムゾンと西城秀樹
・西城秀樹さん ラストステージの記憶