●エンディング文化の時代到来
エンディング産業展の取材を終えて考えたこと。
それは、エンディング――死を楽しむ時代がやってきたということです。
「死を楽しむ」というと語弊があるかもしれませんが、要はひとりひとりが自分の人生の終え方について期待感や希望を抱く、ということです。
いつかはこの世からおさらばしなくてはいけない。
これはあらかじめそう決まっています。
だったら悲しんだり寂しがったりするだけでなく、そうした感傷も含めて、思い切って楽しんだほうが「お得」なのではないでしょうか。
少なくとも僕たち、現代の日本人ひとりひとりは、そうしたことをできる豊かな文化に包まれて生きていると思うのです。
●人生は20歳まで
じつは人生は20歳で決定しています。
20歳までの経験とそこから吸収したもの、そして喜怒哀楽の感情で人間の心身の基盤は出来上がります。
どうすれば自分は気持ちよく生きられるのか、この世の人生において何に価値を置いて生きるのか、自分が果たすべきミッションは何なのか・・・これらはもうみんな、最初の20年で僕たちの内側にしっかりインプットされます。
ただし、そのことに気づくかどうか、それらをいつ発見できるか、はその人しだいです。最期まで見つけられずに終わってしまう人も少なくない。いや、もしかしたら大半の人はそうなのではないでしょうか。
だから20歳を過ぎた大人は、自分の人生の主人公は自分であると、しっかり意識したほうがいい。
そして日々、自分の人生の台本を書いていくといい。
細かく書き込む必要はないけれど、どういう流れでどうなり、どんな大団円を迎えるのか、エンディングまで想定してプロット(筋書)を作っておくといいと思います。
もちろん、僕たちを取り巻く環境は、時代とともに刻一刻と変化していくので、日々リライトすることが必要です。
でも、ベーシックな台本があるとないとでは違います。まったく手ぶらで毎日アドリブだらけでは続きません。
でもじつは、わざわざ僕がこんなことを言わなくても、あなたも自分の人生の台本はひそかに書き進めているはずなんですよ。
耳を澄まして自分に聞いてみてください。
そして、目を凝らしてよく探してみてください。
●リライトしよう、今からでも始めよう
親やら先生やら世間一般やらの書いた台本で生きている――
もし、あなたがそう感じるのなら、そんなものは破り捨てるか、端から端までリライトして自分のものにしてしまう必要があるでしょう。
また、もう齢で今からでは手遅れだ・・という人も大丈夫です。
これまでの記憶・実績を材料に再構成することができます。
起きてしまった事実は変えられなくても、現在の自分、そして未来の自分に合わせて、その事実の意味を変えることができます。
マイナスと捉えていた事象もプラスに転換することができます。、
これもどんどんリライトしましょう。その気になれば一晩でできます。
完成度の高い台本、公開する台本(必要だと思えば見せてもいいけど)を作ることが目的ではありません。
自分が主人公であることを意識し、生きるということについてイメージを広げ、深めるためにこうした考え方をするのは有効ではないかと思うのです。
●エンディング産業を面白がろう
エンディング産業は「人の死をネタにしたお金儲け」と、胡散臭い目で見られることがまだまだ多いようですが、歴史・文化・哲学など、いろいろなことを考えさせてくれる媒体です。
そして経済と結びつくことで、世の中に大きな影響を与えていきます。
そこで提供されるあふれんばかりの商品やサービス――それこそラーメン一杯からデザート付きフルコースまで――は、すべて今を生きる人たちの心が投影されたものばかり。どれを選ぶかは自分次第だし、オーダーメイドも可能だし、どれも選ばないという選択肢だってもちろんあります。
興味と好奇心を持って覗いてみると、きっと面白いと思います。
2016・8・28 SUN
「おまえら、いいトシこいて小学生かよ~」
というのが「女子・男子」という呼び方に対する感想でした。
20代だったらいざしらず、いったいいつから中高年まで女子・男子と呼びならわすようになったのか?
たぶん少なくとも21世紀以降のこと。今ほど頻繁に使われ、定着するようになったのは、この10年くらいか? どうも前から気になっていたので、これがいったいどういう意味を持つのか考えてみました。
●間柄によってビミョーに呼び方を変換
近頃、女・男を呼び表すのって意外と難しいのです。
「女性・男性(ジョセイ・ダンセイ)」は書くのはいいけど、音声で表す場合、どうもフォーマルすぎる。改まった席や仕事の場でなら問題ないが、ちょっとくだけた場や親しい間柄で「ジョセイ・ダンセイ」と言われると違和感があります。
それならやっぱり「女・男(オンナ・オトコ)」―― 僕はこの呼び方を好むのですが、困ったことに最近、女性の中に敬遠する人が少なくない。
文脈の中でどう使うかにもよりますが、「セックスを感じて恥ずかしい」「あまり口では言いたくない」という意見があるのです。「情婦・情夫」といった漢字と結びつくのでしょうか。性を伴う愛のにおいがするのでしょう。
かなり親しい間柄でなら問題ないけど、やや親しさが希薄な友だち・仲間、あるいは仕事の同僚などに対しては、もしかしたら不愉快に感じるかな?と思ってしまうので、僕も「女の人(オンナノヒト)」といった言い方をします。(自分が男なので、男は「オトコ」でOK)。
つまり相手によってけっこう使い分けなくてはならない。いやはや、なんとも日本語は繊細で複雑でビミョーです。
それに仕事でも趣味でもプライベートでも、年齢層で分断されることなく、いろいろな年代の人間が、フラットな関係で入り混じって行動するようになったことも、こうした呼称のビミョーさに影響しているのではないかと思います。
●安心・安全なジョシ・ダンシ
そこで登場した「女子・男子(ジョシ・ダンシ)」は、かなり便利。
もともと子供・若者、あるいはスポーツ選手に対しての呼称だったので、「ジョシ」「ダンシ」と言われると、なんだか若返ったような気分になるし、カタさがなく、親しさイマイチの間柄でもOKだし、一般的な呼称としても安心して使えます。
●英語文化と日本語文化
女子・男子は英語だとGIRL・BOY。
英米ではむしろこっちのほうがセックス臭が漂いますね。
その方面のお仕事をしている人はこの呼称で呼ばれることが多いと思います。
なので普通、英米人の中高年は「GIRL」「BOY」なんて呼ばれたら腹を立てるんじゃないでしょうか。
ところが日本語―ー日本人の場合はその逆。
比較して考えると、英米が子供・若者(子供っぽさ・若さ)を下に見るのに対して、日本人には子供を神聖視したり、若さを尊ぶ精神構造があります。女子・男子×GIRL・BOYには、そうした文化の違いも見て取れします。
●女子・男子の裏にある「成長」というキーワード
もうちょっと深掘りしてみたらどうなるか・・・ということで発見したのが 5年ほど前、自分のブログで書いていた文章。これは当時、映画・TV・演劇で「三銃士」がちょっとしたブームになっており、それについて書いたものです。
いわゆる“成熟社会”となった先進諸国では“成長”は重要なキーワードだ。未熟だろうが、ダメダメなところがあろうが、成長を感じさせる、言い換えれば、未来への可能性を感じさせる人や集団や企業は、すこぶる魅力的に映る。
つまり、今、それだけ“成長”というものに希少価値があるのではないだろうか。
成熟し、伸びきってしまった大人にはそうした魅力が見出せない。しかも環境の変化のせいもあり、信頼感も失墜しているのでなおさらだ。
ちなみにこれは実年齢のことを言っているのではない。10代・20代はもちろん、50代・60代でも“成長”しなくてはならない(少なくともそういう意志を見せなくてはならない)世の中になっているのだ。
そして、若いダルタニアンと年長の三銃士のように、互いに影響を与え合いながら伸びていくことが求められている……三銃士の物語は、そうした現実を映し出す鏡のような機能を持っているのでは、と感じる。
どうもこうした意識がそのまま、僕たちの深層心理に貼りつき、いつまでも成長しきらない子供・若者の部分を形成しているのではないかと思います。
それが「女子・男子」という呼称に結びついている。
国境が溶け、世代差が溶け、リアルとバーチャルの境界が溶け、それでいながら経済や社会階級の格差が広がる今、人間として完成してしまうこと、成長しきってしまうことは、今後のことを考えるとマイナス要素にしかならない。
齢は取っても可能性は残しておきたい・・・という気持ちの表れなのかも知れません。
●僕たちはいつまでウーパールーパーか?
というわけで、ウーパールーパー。
南米のサンショウウオの一種であるこの生き物、一般的には死ぬまで成熟せず、幼体のまま一生を終えるのだそうです。
最近「1980」を謳ったCMでテレビに再登場しましたが、 確かに1980年頃、ウーパールーパーみたいな顔をした若い連中(=当時の僕たちのことです)が街の中をうようよ泳ぎ回っていました。
あれから30年以上経った今も、依然として僕らはウーパールーパーそのもの。
オトナ女子・オトナ男子として、ろくすっぽ成長することなく、結局、単に子供オバさん。子供オジさんのまんまで終ってしまう可能性は大きいのではないかと思います。
でも「今どきの若いモンは・・・」という昔の人たちが本当に尊敬に値する大人ばかりだったのか?といえば、そんなことはない。情報がたやすく手に入らなかった時代の社会では、ごまかし、カッコづけも簡単で、威張っていられましたからね。
今、成長するとはどういうことなのか? ごまかしやカッコだけでなく、大人になるってどういうことなのか・・・人生の続くかぎり、考えていこう。
2016・8・15 MON
●氷の世界の恐怖のセイウチ
子供の頃、動物図鑑で初めてセイウチの写真(イラストだったかも知れない)を見た時は、そのモンスターのような姿・形に心の底から驚愕しました。
その時の僕のセイウチのイメージは、世界の果ての暗くて冷たい氷の世界で巨大な牙をむき出しにして世にも恐ろしい咆哮を轟かせる孤独な怪物。
こわかったなぁ。
人生の中でもしこんな怪物に出会うことがなあったら、僕は一瞬のうちにカチンコチンに凍り付いて、冷凍食食品になってこいつに食べられてしまうだろうと思い、どうぞそんなことになりませんように、と、何度もお祈りを唱えました。
●夢の世界でセイウチロウと邂逅
という衝撃が消えたのはいつのことだろう?
いろいろ本を読んだりテレビを見たりするうちに、セイウチは割とおとなしくて温かい生き物。孤独ではなく、群れをつくってのんびり暮らしていることなどを知りました。
それどころか、近年は日本水族館にも住んでいて愛嬌を振りまいてくれています。
そのセイウチ君に僕もお世話になっています。
夏、お昼寝するときは涼しい水族館のイメージを抱いて横になり、水中を魚がうようよ泳いでいる中をうつらうつらしつつ彷徨っているのですが、15分ないし30分ほどすると、コツコツと頭を何かがつつく。
「おい、起きろよ、セイイチロウ」
と目を覚ますと目の前には強大なセイウチが。やつはその牙の先で僕の頭をつついいたのです。
こいつはセイウチロウといってクールな夢のアラーム係として30分経ったから起こしにくるのです。それ以上寝ちゃうと夕方まで頭が働かなってしまうので。起きない時は歌を歌って起こします。
もちろん、歌はビートルズの「I am the Walrus」。
●ビートルズフェスでセイウチ登場
そういえば昨夜、録画しておいてずっと見ていなかったNHK-BSの「BEATLESフェス」なる3時間番組を見ました。
ビートルズ来日50周年ということで、当時の逸話――ビートルズにはっぴを着せた日航のスチュワーデスさんの話やら、独占取材に成功した星加ルミコさんやら湯川レイコさんの話――昔、音楽雑誌でよく記事を読んでいましたが、音楽ジャーナリズムのリーダーだった彼女らはまだ20代の女の子だったんですね――やら、を中心に、年寄りから若者まで入り混じったスタジオトークや、ビートルズ番組お約束のリバプール―ロンドン紀行(森高千里がキャバーンクラブに行ってドラムを叩いてた)などがてんこ盛りのバラエティ。
しかし、目玉は何といっても、新旧いろいろな日本のミュージシャンたちがやるビートルズナンバーのトリビュートライブでした。
財津和夫「Yesterday」や平原綾香「Hey Jude」などは、ま、定番の、という感じ。仲井戸麗市(チャボ)の「The Long and Winding Road」はほとんど自分で歌詞を書き換えた替え歌で、清志郎へのレクイエムにしか聞こえない。歌い方もそっくりだ。やっぱ寂しいんだろうね。
その中で一番面白かったのがラブ・サイケデリコの「I am the Walrus」。
ぐにゃぐにゃしたサウンドとともに、「おまえはあいつ、あいつはおいら、おいらタマゴ男、おいらセイウチ」なんていう、ジョンのナンセンスでファンタジックでグロテスクな詩の世界がぐりぐり脳天にねじ込まれてきて、めっちゃカッコいい! こんな新鮮なアレンジでこの曲を聞けるとは思ってもいなかった。まったく感動モノでした。
オリジナルを聞いて育ったおっさん・おばさんたちは、どうしてもリスペクトが先に立ってしまってアレンジも表面的で徹底しない。けど、「むかし、ビートルズっていうバンドがいたらしいね」と言っているような若い連中は、遠慮なくぶっ壊して、さらにおいしく料理していけると思います。
ジョンやジョージがあの世から「おいおい」と言って止めに来るくらい、ガンガンすごいアレンジをしてほしい。
●セイウチロウよ永遠に
おまえはあいつ、おまえはおれ、だからあいつはおれ、おまえはセイウチロウ、ぼくはセイイチロウ、おまえはセイイチロウ? ぼくはセイウチロウ?
まだまだ暑い。北極の氷の上でごろごろ寝そべる夢を見て毎日過ごすことにいたします。またセイウチロウと会うのを楽しみにして。
2016・8・11 THU
この夏は四国をお遍路しています。
ただし、オン・マイ・マインドで。
葬儀・供養の業界誌の仕事で、ネット~メール~電話で取材しては原稿書きの日々。
四国の葬儀の風習や、お遍路についていろいろ勉強しました。
で感じたのが、やたら四国にはネコが多いな、ということ。
そういえば香川県のある島でネコがいっぱいいるのをテレビで見たことがあります。それで有名になって、観光客が出向いて、かわいい、かわいいとエサをあげまくるのでさらにネコ天国となっているようですが・・・。
一方、僕が出会うのは、お葬式・お墓関連ので話からなので、この世とあの世の境界線上でニャーニャー鳴いているネコばかり。
●四国の葬儀における猫の存在
徳島や愛媛で、家で人が亡くなると枕元にホウキや刃物などを置く、という風習があります。(正確には「あった」という過去形。日本の昔ながらの葬儀・供養の風習のほとんどは全国どこでも、この20~30年の間に9割以上消滅している)
何のためにこんなことをするかというと、ネコがご遺体の上をまたがないようにするため。ニャアとまたぐと死人が生き返って歩き出すとか、逆にネコがバケネコ化するというのです。
ということは、この辺りではネコを飼っていた家が多のか?
いや、飼っていたというよりも、ネコだのタヌキだの、動物たちが「こにゃにゃにゃちは~」と、自由にあちこちの家を出入りしていたのではないか、と思います。
昔の日本の田舎の家は戸締りもいい加減で、常にオープン状態だったし、ネズミ退治にも役立つからね。だけど、キミはやばいからお葬式の時は来ちゃだめよ、という感じでしょうか。
●日本三大化け猫伝説「お松大権現」の猫
そんなわけでネコ伝説がはびこる四国。
徳島県阿南市には「日本三大化け猫伝説」の一つに数えられている「お松大権現」という神社があります。
ここに由来するお話は、借金苦にまつわるもので現代人にとってもリアル。
むかし、困っている村人たちを救うために金貸しから多額の借金をした庄屋さんが金貸しに裏切られ、借金を残して死んでしまう。
その妻・お松は「借金はちゃんと返したのに」と異議申し立てをしたのですが、その土地の奉行(きっと金貸しとつるんでいたと思われます。これも現代に繋がる政治とカネの問題です)が「わしゃ、返してもらとらんぞ」と、それを認めず、お松と、彼女が可愛がっていたネコを死刑にしてしまうのです。
なんでネコまで処刑されるのかわからないけど、「わしの命に背く者は一族郎党皆殺しじゃ」という論理だったのでしょうか?
ネコも一族郎党に加えられてしまったのですね。
で、この手の怪談兼勧善懲悪・庶民の味方ストーリーのセオリーとして、もちろん、この後、このネコはウソつきの金貸しと、権力乱用の奉行のところに化けて出て、悪者どもを地獄に叩き落とすというオチ。
めでたし、めでたしということで、この正義のバケネコはこの神社にまつられることになったのです。
●今や霊験あらかた、招き猫だらけの観光スポット
こうした因縁話があるせいか、なんと、この神社、今では受験と勝負ごとにご利益があるとして大人気に。バケネコになったネコはリベンジを果たした結果、「猫神様」に昇華。勝負ごとにご利益と言うので、全国からギャンブラーが詣でているようです。
そして猫神様は招き猫の姿になって降臨したので、境内は招き猫だらけになっているようです。いやー、すごい。でも、借金は勝負事――ギャンブルに頼らず、地道にコツコツ返したほうがいいと思うなぁ。
というわけで、妖怪も神様になってしまう四国。
そういえば「千と千尋の神隠し」で、妖怪だか神様だかわからない者たちが湯あみに来る湯婆の湯場も愛媛の道後温泉がモデルになっていました。
四国の旅・オン・マイマインド、まだまだ続きそうです。
2016・8・6 sat
僕たちはメディア、エンタメが
成長してきた時代とともに生きてきた。
だから、一度も会ったことがなくても
親しみを感じたり、寄り添ったり、
自分を重ね合わせる対象が大勢いる。
芸情人、アーティスト、文化人、スポーツ選手。
そのほか、本・舞台・ラジオ・映画・テレビ・ネットの
世界のあの人たち。
彼ら・彼女らの存在や活動、発言を
心のよりどころにしている部分もたくさんある。
多くの人、特に40代~60代の人たちにとって、
中山美穂さんはその代表的な一人だろう。
まだ54歳。
人生100年時代ではまだ十分に若い。
あまりに当然の死にショックを受けている人は
少なくない。
思えば今年も20世紀カルチャーをつくった、
たくさんの有名人が亡くなった。
トシだから仕方ないかと思える人もいれば、
まさか、あの人が…という人もいる。
20世紀カルチャーは終焉し、
僕らはこれから膨大なアーカイブのなかで
心を癒しながら生きることになるのかもしれない。
と思うことがしばしばある。
あなたはどうだろうか?
終わりは急にやってくる。
人生100年という言葉・イメージは、
希望の糧であるとともに、
大きな負担・不安のタネでもある。
100年、100年と言われている間に
「ライフプラン」という体のいい言葉を考えすぎ、
老後の不安ばかり膨らませ、
老後に備えることできゅうきゅうしながら
漫然と生きることになる。
自分は本当はいくつまで生きるのか?
60か70か? 90か100か?
もちろん、それを知るすべはない。
でも、「今」に集中して、
自分を活かして毎日を生きていれば、
どこかで事前にそれを知らせる声が
脳の奥から訪れるのではないかとも思う。
おまえは十分にやったと。
物語のような妄想だけど、
心の支え・励みにはなる。
生と死は表裏一体。
どう生きるのか?
どう死ぬのか?
メディアの声より自分の声を聴け。
明日から寒くなるそうなので、
今日は今年の秋の最後の日かも、
と思って、午後から義母を連れて
近所の公園を散歩する。
遠くに行かなくても紅葉をたっぷり楽しめる。
なかなか色づかなかったイチョウが
12月になってどんどん黄色くなり、
見事なゴールデンイエローに。
ほんの少しの風で落葉が雪のように舞って、
切なくも美しい。
「ほらほら、空からまたくるくる降ってくるよ」
と、高い木の枝から回転しながら降りて来る落葉を見て、
義母に促すのだが、どうも反応が鈍い。
認知症にも関わらずというか、だからこそなのか、
この人はときどき、路傍の小さな花を見つけたりして、
小さな子どものような感性の鋭さを見せることがあるが、
紅葉・落葉に関しては全然気をそそられないようで、
僕がどれだけ「ほら見て見て」言っても、
ほとんどゴミ扱いである。
そのくせ、そのへんに落ちている
お菓子の空き袋、ポケットティッシュ、
子どもが落としていったおもちゃやアクセサリーなどは
目ざとく見つけてガメようとする。
せっかく秋を楽しみに来たのに・・・。
と文句を言っても始まらない。
しかし、今日は暖かく、お天気も良く、
気分も体調もよかったようで、
なかなか帰りたがらず、2時間近くも歩いた。
こんなによく歩いたのは久しぶりだ。
ちなみにネコのいる花屋さんでは、
秋の花が終わったらクリスマスや正月を挟んで、
もう春の花。
暖かい部屋で春を楽しんでほしいのだそうだニャ。
彼女は「お花屋さんになりたい」という
少女時代の夢をかなえた。
今はとある町の小さな花屋の女主人として、
ひとりで店を切り盛りしている。
花に関する豊富な知識、
アレンジメントのセンスと技術。
加えて人柄もよく、お店の評判は上々で、
商売はうまいこといっている。
彼女自身も毎日、
大好きな花に囲まれて仕事ができて幸せだ。
ところが、明日は母の日という土曜日の朝、
店の外に出て、びっくりした。
そこに置いてあったカーネーションの花が
ネズミに食い荒らされていたのだ。
ショックを受けた彼女は、
今後、二度と店にネズミを寄せつけないよう、
ネコを飼う決心をする。
保護猫サイトを探すと、
かわいらしい子猫たちにまじって大人のネコがいた。
人間に保護されるまで1年間、
野良猫として生き延びてきた頼もしそうな奴だ。
しかも彼は、オスの三毛猫というレアものである。
女主人は彼を引き取り、
「ダビ」と名付け、自分に言い聞かせた。
「寂しいからじゃない。癒されたいからじゃない。
ネズミよけのためにこのネコを飼うんだ」と。
そして、自分とネコとの関係を明確にするために、
雇用契約を結ぶ。
彼女は仕事の依頼主。
その報酬として彼に食事と寝床を与える。
こうして花屋の女主人と三毛猫ダビの
暮らしが始まった・・・。
花好き・ネコ好きに贈る、
楽しいなかにもピリリとスパイスの効いた中編小説。34,000字。AmazonKindleより¥500で発売中。
踊りに性別は関係ない。
誰でも踊っていいんだけど、
男はある年齢を過ぎると、踊らなくなる。
(人それぞれなので、あくまで一般論だけど)
ところが、女はいくつになっても踊る。
年齢は関係ない。
というのは、昨日、女性の友だちが
ダンス公演に出るからとお誘いを受けたので、
割と近所なので、自転車を飛ばして観に行ってきた。
場所は甲州街道沿い。
下高井戸と桜上水の間あたりにある
「G-ROCKS」という音楽スタジオである。
こんなところにこんな施設があるとは知らなかった。
ダンスというのはアフリカンダンス。
西アフリカにあるマリの民俗舞踊である。
(公演用にいろいろアレンジしているらしい)
アフリカンダンスはエネルギッシュで好きだが、
正直、マリもガーナもケニアもナイジェリアも
区別がつかない。
かつては他のアフリカ諸国同様、
フランスの植民地だったが、1960年に独立。
「マリ」とは国語である
バンバラ語で「カバ」という意味で、
首都バマコにはカバの銅像があるという。
どういう経緯で、かの国の音楽家・踊り手たちが
日本にやって来て根付き、
文化の伝達者になったのかは定かでないが、
世界的なワールドミュージックの広がりと
関係があるのかもしれない。
英米のロックミュージシャンたちの多くが
1980年代頃から、アフリカの音楽に魅せられ、
積極的に自分たちの楽曲にも取り入れるようになった。
こうした音楽ビジネスの隆盛によって、
アフリカンリズムやアフリカンダンスが
日本にも紹介されるようになり、愛好家も増えたようだ。
今では各国の音楽や文化を教える教室が
都内のあちこち(おそらく他の地域にも)あるらしく、
友だちが通っているのも、そうした教室の一つらしい。
なぜ、ガーナでもケニアでもナイジェリアでもなく、
カバのマリだったのかはわからないが、
これも「ご縁」というのものかもしれない。
司会役でもあり、歌も歌うダンスの先生は
マリ人(?)のお姉ちゃんで年齢不詳。
その生徒さんたちは、わが友をはじめ、
大半が高齢の女性。
たぶん浴衣を着て盆踊りをしていたら、
近所のおばちゃん・ばあさんといったところだが、
デザインされた民族衣装をまとって、
激しく体を動かすマリダンスをやっていると、
なんだかアフリカの民話に出てくる精霊の類に見える。
みんな、実に楽しそうに踊る。
その顔を見ていて何に似ているのかと考えていたが、
今日、近所の公園を散歩していて、
夢中になって遊んでいる女の子たちに遭遇し、
そうだ、こんな弾けるような笑顔に
似ているのだと思い至った。
ここで踊ることになるまで、
皆さんがどういう人生を歩んできたのかは
僕には知る由もないが、
せっかくここまで生き延びたのだから、
思い切り楽しんでしまおうという気概が感じられた。
失礼な言い方かもしれないが、
妻なり、母なり、愛人なりの務めを終えて、
もうセクシーであり続ける必要はないという意識が、
彼女らを良い方向へ解放している面もあると思う。
遊ぶ子供と踊る高齢女性の共通項は、
セクシーでいなくちゃという女の義務感と
社会人としての責任から自由なことだ。
もちろん、いくら齢をとっても
社会人であり続けているわけだが、
男がいくつになっても、
長年身に着けてきたプライドや役割から
逃れられないのに比べて、
最近は、女の方が第3・第4の人生を
楽しめる傾向が強くなっていると思う。
上手いか下手かなんて、どうでもよくて、
見ている側がちょっと笑っちゃえるくらいでいい。
死ぬまで笑って踊って、
かつまた、それで人を笑わせられたら、
それが最高である。
●エンディング文化の時代到来
エンディング産業展の取材を終えて考えたこと。
それは、エンディング――死を楽しむ時代がやってきたということです。
「死を楽しむ」というと語弊があるかもしれませんが、要はひとりひとりが自分の人生の終え方について期待感や希望を抱く、ということです。
いつかはこの世からおさらばしなくてはいけない。
これはあらかじめそう決まっています。
だったら悲しんだり寂しがったりするだけでなく、そうした感傷も含めて、思い切って楽しんだほうが「お得」なのではないでしょうか。
少なくとも僕たち、現代の日本人ひとりひとりは、そうしたことをできる豊かな文化に包まれて生きていると思うのです。
●人生は20歳まで
じつは人生は20歳で決定しています。
20歳までの経験とそこから吸収したもの、そして喜怒哀楽の感情で人間の心身の基盤は出来上がります。
どうすれば自分は気持ちよく生きられるのか、この世の人生において何に価値を置いて生きるのか、自分が果たすべきミッションは何なのか・・・これらはもうみんな、最初の20年で僕たちの内側にしっかりインプットされます。
ただし、そのことに気づくかどうか、それらをいつ発見できるか、はその人しだいです。最期まで見つけられずに終わってしまう人も少なくない。いや、もしかしたら大半の人はそうなのではないでしょうか。
だから20歳を過ぎた大人は、自分の人生の主人公は自分であると、しっかり意識したほうがいい。
そして日々、自分の人生の台本を書いていくといい。
細かく書き込む必要はないけれど、どういう流れでどうなり、どんな大団円を迎えるのか、エンディングまで想定してプロット(筋書)を作っておくといいと思います。
もちろん、僕たちを取り巻く環境は、時代とともに刻一刻と変化していくので、日々リライトすることが必要です。
でも、ベーシックな台本があるとないとでは違います。まったく手ぶらで毎日アドリブだらけでは続きません。
でもじつは、わざわざ僕がこんなことを言わなくても、あなたも自分の人生の台本はひそかに書き進めているはずなんですよ。
耳を澄まして自分に聞いてみてください。
そして、目を凝らしてよく探してみてください。
●リライトしよう、今からでも始めよう
親やら先生やら世間一般やらの書いた台本で生きている――
もし、あなたがそう感じるのなら、そんなものは破り捨てるか、端から端までリライトして自分のものにしてしまう必要があるでしょう。
また、もう齢で今からでは手遅れだ・・という人も大丈夫です。
これまでの記憶・実績を材料に再構成することができます。
起きてしまった事実は変えられなくても、現在の自分、そして未来の自分に合わせて、その事実の意味を変えることができます。
マイナスと捉えていた事象もプラスに転換することができます。、
これもどんどんリライトしましょう。その気になれば一晩でできます。
完成度の高い台本、公開する台本(必要だと思えば見せてもいいけど)を作ることが目的ではありません。
自分が主人公であることを意識し、生きるということについてイメージを広げ、深めるためにこうした考え方をするのは有効ではないかと思うのです。
●エンディング産業を面白がろう
エンディング産業は「人の死をネタにしたお金儲け」と、胡散臭い目で見られることがまだまだ多いようですが、歴史・文化・哲学など、いろいろなことを考えさせてくれる媒体です。
そして経済と結びつくことで、世の中に大きな影響を与えていきます。
そこで提供されるあふれんばかりの商品やサービス――それこそラーメン一杯からデザート付きフルコースまで――は、すべて今を生きる人たちの心が投影されたものばかり。どれを選ぶかは自分次第だし、オーダーメイドも可能だし、どれも選ばないという選択肢だってもちろんあります。
興味と好奇心を持って覗いてみると、きっと面白いと思います。
2016・8・28 SUN
「おまえら、いいトシこいて小学生かよ~」
というのが「女子・男子」という呼び方に対する感想でした。
20代だったらいざしらず、いったいいつから中高年まで女子・男子と呼びならわすようになったのか?
たぶん少なくとも21世紀以降のこと。今ほど頻繁に使われ、定着するようになったのは、この10年くらいか? どうも前から気になっていたので、これがいったいどういう意味を持つのか考えてみました。
●間柄によってビミョーに呼び方を変換
近頃、女・男を呼び表すのって意外と難しいのです。
「女性・男性(ジョセイ・ダンセイ)」は書くのはいいけど、音声で表す場合、どうもフォーマルすぎる。改まった席や仕事の場でなら問題ないが、ちょっとくだけた場や親しい間柄で「ジョセイ・ダンセイ」と言われると違和感があります。
それならやっぱり「女・男(オンナ・オトコ)」―― 僕はこの呼び方を好むのですが、困ったことに最近、女性の中に敬遠する人が少なくない。
文脈の中でどう使うかにもよりますが、「セックスを感じて恥ずかしい」「あまり口では言いたくない」という意見があるのです。「情婦・情夫」といった漢字と結びつくのでしょうか。性を伴う愛のにおいがするのでしょう。
かなり親しい間柄でなら問題ないけど、やや親しさが希薄な友だち・仲間、あるいは仕事の同僚などに対しては、もしかしたら不愉快に感じるかな?と思ってしまうので、僕も「女の人(オンナノヒト)」といった言い方をします。(自分が男なので、男は「オトコ」でOK)。
つまり相手によってけっこう使い分けなくてはならない。いやはや、なんとも日本語は繊細で複雑でビミョーです。
それに仕事でも趣味でもプライベートでも、年齢層で分断されることなく、いろいろな年代の人間が、フラットな関係で入り混じって行動するようになったことも、こうした呼称のビミョーさに影響しているのではないかと思います。
●安心・安全なジョシ・ダンシ
そこで登場した「女子・男子(ジョシ・ダンシ)」は、かなり便利。
もともと子供・若者、あるいはスポーツ選手に対しての呼称だったので、「ジョシ」「ダンシ」と言われると、なんだか若返ったような気分になるし、カタさがなく、親しさイマイチの間柄でもOKだし、一般的な呼称としても安心して使えます。
●英語文化と日本語文化
女子・男子は英語だとGIRL・BOY。
英米ではむしろこっちのほうがセックス臭が漂いますね。
その方面のお仕事をしている人はこの呼称で呼ばれることが多いと思います。
なので普通、英米人の中高年は「GIRL」「BOY」なんて呼ばれたら腹を立てるんじゃないでしょうか。
ところが日本語―ー日本人の場合はその逆。
比較して考えると、英米が子供・若者(子供っぽさ・若さ)を下に見るのに対して、日本人には子供を神聖視したり、若さを尊ぶ精神構造があります。女子・男子×GIRL・BOYには、そうした文化の違いも見て取れします。
●女子・男子の裏にある「成長」というキーワード
もうちょっと深掘りしてみたらどうなるか・・・ということで発見したのが 5年ほど前、自分のブログで書いていた文章。これは当時、映画・TV・演劇で「三銃士」がちょっとしたブームになっており、それについて書いたものです。
いわゆる“成熟社会”となった先進諸国では“成長”は重要なキーワードだ。未熟だろうが、ダメダメなところがあろうが、成長を感じさせる、言い換えれば、未来への可能性を感じさせる人や集団や企業は、すこぶる魅力的に映る。
つまり、今、それだけ“成長”というものに希少価値があるのではないだろうか。
成熟し、伸びきってしまった大人にはそうした魅力が見出せない。しかも環境の変化のせいもあり、信頼感も失墜しているのでなおさらだ。
ちなみにこれは実年齢のことを言っているのではない。10代・20代はもちろん、50代・60代でも“成長”しなくてはならない(少なくともそういう意志を見せなくてはならない)世の中になっているのだ。
そして、若いダルタニアンと年長の三銃士のように、互いに影響を与え合いながら伸びていくことが求められている……三銃士の物語は、そうした現実を映し出す鏡のような機能を持っているのでは、と感じる。
どうもこうした意識がそのまま、僕たちの深層心理に貼りつき、いつまでも成長しきらない子供・若者の部分を形成しているのではないかと思います。
それが「女子・男子」という呼称に結びついている。
国境が溶け、世代差が溶け、リアルとバーチャルの境界が溶け、それでいながら経済や社会階級の格差が広がる今、人間として完成してしまうこと、成長しきってしまうことは、今後のことを考えるとマイナス要素にしかならない。
齢は取っても可能性は残しておきたい・・・という気持ちの表れなのかも知れません。
●僕たちはいつまでウーパールーパーか?
というわけで、ウーパールーパー。
南米のサンショウウオの一種であるこの生き物、一般的には死ぬまで成熟せず、幼体のまま一生を終えるのだそうです。
最近「1980」を謳ったCMでテレビに再登場しましたが、 確かに1980年頃、ウーパールーパーみたいな顔をした若い連中(=当時の僕たちのことです)が街の中をうようよ泳ぎ回っていました。
あれから30年以上経った今も、依然として僕らはウーパールーパーそのもの。
オトナ女子・オトナ男子として、ろくすっぽ成長することなく、結局、単に子供オバさん。子供オジさんのまんまで終ってしまう可能性は大きいのではないかと思います。
でも「今どきの若いモンは・・・」という昔の人たちが本当に尊敬に値する大人ばかりだったのか?といえば、そんなことはない。情報がたやすく手に入らなかった時代の社会では、ごまかし、カッコづけも簡単で、威張っていられましたからね。
今、成長するとはどういうことなのか? ごまかしやカッコだけでなく、大人になるってどういうことなのか・・・人生の続くかぎり、考えていこう。
2016・8・15 MON
●氷の世界の恐怖のセイウチ
子供の頃、動物図鑑で初めてセイウチの写真(イラストだったかも知れない)を見た時は、そのモンスターのような姿・形に心の底から驚愕しました。
その時の僕のセイウチのイメージは、世界の果ての暗くて冷たい氷の世界で巨大な牙をむき出しにして世にも恐ろしい咆哮を轟かせる孤独な怪物。
こわかったなぁ。
人生の中でもしこんな怪物に出会うことがなあったら、僕は一瞬のうちにカチンコチンに凍り付いて、冷凍食食品になってこいつに食べられてしまうだろうと思い、どうぞそんなことになりませんように、と、何度もお祈りを唱えました。
●夢の世界でセイウチロウと邂逅
という衝撃が消えたのはいつのことだろう?
いろいろ本を読んだりテレビを見たりするうちに、セイウチは割とおとなしくて温かい生き物。孤独ではなく、群れをつくってのんびり暮らしていることなどを知りました。
それどころか、近年は日本水族館にも住んでいて愛嬌を振りまいてくれています。
そのセイウチ君に僕もお世話になっています。
夏、お昼寝するときは涼しい水族館のイメージを抱いて横になり、水中を魚がうようよ泳いでいる中をうつらうつらしつつ彷徨っているのですが、15分ないし30分ほどすると、コツコツと頭を何かがつつく。
「おい、起きろよ、セイイチロウ」
と目を覚ますと目の前には強大なセイウチが。やつはその牙の先で僕の頭をつついいたのです。
こいつはセイウチロウといってクールな夢のアラーム係として30分経ったから起こしにくるのです。それ以上寝ちゃうと夕方まで頭が働かなってしまうので。起きない時は歌を歌って起こします。
もちろん、歌はビートルズの「I am the Walrus」。
●ビートルズフェスでセイウチ登場
そういえば昨夜、録画しておいてずっと見ていなかったNHK-BSの「BEATLESフェス」なる3時間番組を見ました。
ビートルズ来日50周年ということで、当時の逸話――ビートルズにはっぴを着せた日航のスチュワーデスさんの話やら、独占取材に成功した星加ルミコさんやら湯川レイコさんの話――昔、音楽雑誌でよく記事を読んでいましたが、音楽ジャーナリズムのリーダーだった彼女らはまだ20代の女の子だったんですね――やら、を中心に、年寄りから若者まで入り混じったスタジオトークや、ビートルズ番組お約束のリバプール―ロンドン紀行(森高千里がキャバーンクラブに行ってドラムを叩いてた)などがてんこ盛りのバラエティ。
しかし、目玉は何といっても、新旧いろいろな日本のミュージシャンたちがやるビートルズナンバーのトリビュートライブでした。
財津和夫「Yesterday」や平原綾香「Hey Jude」などは、ま、定番の、という感じ。仲井戸麗市(チャボ)の「The Long and Winding Road」はほとんど自分で歌詞を書き換えた替え歌で、清志郎へのレクイエムにしか聞こえない。歌い方もそっくりだ。やっぱ寂しいんだろうね。
その中で一番面白かったのがラブ・サイケデリコの「I am the Walrus」。
ぐにゃぐにゃしたサウンドとともに、「おまえはあいつ、あいつはおいら、おいらタマゴ男、おいらセイウチ」なんていう、ジョンのナンセンスでファンタジックでグロテスクな詩の世界がぐりぐり脳天にねじ込まれてきて、めっちゃカッコいい! こんな新鮮なアレンジでこの曲を聞けるとは思ってもいなかった。まったく感動モノでした。
オリジナルを聞いて育ったおっさん・おばさんたちは、どうしてもリスペクトが先に立ってしまってアレンジも表面的で徹底しない。けど、「むかし、ビートルズっていうバンドがいたらしいね」と言っているような若い連中は、遠慮なくぶっ壊して、さらにおいしく料理していけると思います。
ジョンやジョージがあの世から「おいおい」と言って止めに来るくらい、ガンガンすごいアレンジをしてほしい。
●セイウチロウよ永遠に
おまえはあいつ、おまえはおれ、だからあいつはおれ、おまえはセイウチロウ、ぼくはセイイチロウ、おまえはセイイチロウ? ぼくはセイウチロウ?
まだまだ暑い。北極の氷の上でごろごろ寝そべる夢を見て毎日過ごすことにいたします。またセイウチロウと会うのを楽しみにして。
2016・8・11 THU
この夏は四国をお遍路しています。
ただし、オン・マイ・マインドで。
葬儀・供養の業界誌の仕事で、ネット~メール~電話で取材しては原稿書きの日々。
四国の葬儀の風習や、お遍路についていろいろ勉強しました。
で感じたのが、やたら四国にはネコが多いな、ということ。
そういえば香川県のある島でネコがいっぱいいるのをテレビで見たことがあります。それで有名になって、観光客が出向いて、かわいい、かわいいとエサをあげまくるのでさらにネコ天国となっているようですが・・・。
一方、僕が出会うのは、お葬式・お墓関連ので話からなので、この世とあの世の境界線上でニャーニャー鳴いているネコばかり。
●四国の葬儀における猫の存在
徳島や愛媛で、家で人が亡くなると枕元にホウキや刃物などを置く、という風習があります。(正確には「あった」という過去形。日本の昔ながらの葬儀・供養の風習のほとんどは全国どこでも、この20~30年の間に9割以上消滅している)
何のためにこんなことをするかというと、ネコがご遺体の上をまたがないようにするため。ニャアとまたぐと死人が生き返って歩き出すとか、逆にネコがバケネコ化するというのです。
ということは、この辺りではネコを飼っていた家が多のか?
いや、飼っていたというよりも、ネコだのタヌキだの、動物たちが「こにゃにゃにゃちは~」と、自由にあちこちの家を出入りしていたのではないか、と思います。
昔の日本の田舎の家は戸締りもいい加減で、常にオープン状態だったし、ネズミ退治にも役立つからね。だけど、キミはやばいからお葬式の時は来ちゃだめよ、という感じでしょうか。
●日本三大化け猫伝説「お松大権現」の猫
そんなわけでネコ伝説がはびこる四国。
徳島県阿南市には「日本三大化け猫伝説」の一つに数えられている「お松大権現」という神社があります。
ここに由来するお話は、借金苦にまつわるもので現代人にとってもリアル。
むかし、困っている村人たちを救うために金貸しから多額の借金をした庄屋さんが金貸しに裏切られ、借金を残して死んでしまう。
その妻・お松は「借金はちゃんと返したのに」と異議申し立てをしたのですが、その土地の奉行(きっと金貸しとつるんでいたと思われます。これも現代に繋がる政治とカネの問題です)が「わしゃ、返してもらとらんぞ」と、それを認めず、お松と、彼女が可愛がっていたネコを死刑にしてしまうのです。
なんでネコまで処刑されるのかわからないけど、「わしの命に背く者は一族郎党皆殺しじゃ」という論理だったのでしょうか?
ネコも一族郎党に加えられてしまったのですね。
で、この手の怪談兼勧善懲悪・庶民の味方ストーリーのセオリーとして、もちろん、この後、このネコはウソつきの金貸しと、権力乱用の奉行のところに化けて出て、悪者どもを地獄に叩き落とすというオチ。
めでたし、めでたしということで、この正義のバケネコはこの神社にまつられることになったのです。
●今や霊験あらかた、招き猫だらけの観光スポット
こうした因縁話があるせいか、なんと、この神社、今では受験と勝負ごとにご利益があるとして大人気に。バケネコになったネコはリベンジを果たした結果、「猫神様」に昇華。勝負ごとにご利益と言うので、全国からギャンブラーが詣でているようです。
そして猫神様は招き猫の姿になって降臨したので、境内は招き猫だらけになっているようです。いやー、すごい。でも、借金は勝負事――ギャンブルに頼らず、地道にコツコツ返したほうがいいと思うなぁ。
というわけで、妖怪も神様になってしまう四国。
そういえば「千と千尋の神隠し」で、妖怪だか神様だかわからない者たちが湯あみに来る湯婆の湯場も愛媛の道後温泉がモデルになっていました。
四国の旅・オン・マイマインド、まだまだ続きそうです。
2016・8・6 sat
僕たちはメディア、エンタメが
成長してきた時代とともに生きてきた。
だから、一度も会ったことがなくても
親しみを感じたり、寄り添ったり、
自分を重ね合わせる対象が大勢いる。
芸情人、アーティスト、文化人、スポーツ選手。
そのほか、本・舞台・ラジオ・映画・テレビ・ネットの
世界のあの人たち。
彼ら・彼女らの存在や活動、発言を
心のよりどころにしている部分もたくさんある。
多くの人、特に40代~60代の人たちにとって、
中山美穂さんはその代表的な一人だろう。
まだ54歳。
人生100年時代ではまだ十分に若い。
あまりに当然の死にショックを受けている人は
少なくない。
思えば今年も20世紀カルチャーをつくった、
たくさんの有名人が亡くなった。
トシだから仕方ないかと思える人もいれば、
まさか、あの人が…という人もいる。
20世紀カルチャーは終焉し、
僕らはこれから膨大なアーカイブのなかで
心を癒しながら生きることになるのかもしれない。
と思うことがしばしばある。
あなたはどうだろうか?
終わりは急にやってくる。
人生100年という言葉・イメージは、
希望の糧であるとともに、
大きな負担・不安のタネでもある。
100年、100年と言われている間に
「ライフプラン」という体のいい言葉を考えすぎ、
老後の不安ばかり膨らませ、
老後に備えることできゅうきゅうしながら
漫然と生きることになる。
自分は本当はいくつまで生きるのか?
60か70か? 90か100か?
もちろん、それを知るすべはない。
でも、「今」に集中して、
自分を活かして毎日を生きていれば、
どこかで事前にそれを知らせる声が
脳の奥から訪れるのではないかとも思う。
おまえは十分にやったと。
物語のような妄想だけど、
心の支え・励みにはなる。
生と死は表裏一体。
どう生きるのか?
どう死ぬのか?
メディアの声より自分の声を聴け。
明日から寒くなるそうなので、
今日は今年の秋の最後の日かも、
と思って、午後から義母を連れて
近所の公園を散歩する。
遠くに行かなくても紅葉をたっぷり楽しめる。
なかなか色づかなかったイチョウが
12月になってどんどん黄色くなり、
見事なゴールデンイエローに。
ほんの少しの風で落葉が雪のように舞って、
切なくも美しい。
「ほらほら、空からまたくるくる降ってくるよ」
と、高い木の枝から回転しながら降りて来る落葉を見て、
義母に促すのだが、どうも反応が鈍い。
認知症にも関わらずというか、だからこそなのか、
この人はときどき、路傍の小さな花を見つけたりして、
小さな子どものような感性の鋭さを見せることがあるが、
紅葉・落葉に関しては全然気をそそられないようで、
僕がどれだけ「ほら見て見て」言っても、
ほとんどゴミ扱いである。
そのくせ、そのへんに落ちている
お菓子の空き袋、ポケットティッシュ、
子どもが落としていったおもちゃやアクセサリーなどは
目ざとく見つけてガメようとする。
せっかく秋を楽しみに来たのに・・・。
と文句を言っても始まらない。
しかし、今日は暖かく、お天気も良く、
気分も体調もよかったようで、
なかなか帰りたがらず、2時間近くも歩いた。
こんなによく歩いたのは久しぶりだ。
ちなみにネコのいる花屋さんでは、
秋の花が終わったらクリスマスや正月を挟んで、
もう春の花。
暖かい部屋で春を楽しんでほしいのだそうだニャ。
彼女は「お花屋さんになりたい」という
少女時代の夢をかなえた。
今はとある町の小さな花屋の女主人として、
ひとりで店を切り盛りしている。
花に関する豊富な知識、
アレンジメントのセンスと技術。
加えて人柄もよく、お店の評判は上々で、
商売はうまいこといっている。
彼女自身も毎日、
大好きな花に囲まれて仕事ができて幸せだ。
ところが、明日は母の日という土曜日の朝、
店の外に出て、びっくりした。
そこに置いてあったカーネーションの花が
ネズミに食い荒らされていたのだ。
ショックを受けた彼女は、
今後、二度と店にネズミを寄せつけないよう、
ネコを飼う決心をする。
保護猫サイトを探すと、
かわいらしい子猫たちにまじって大人のネコがいた。
人間に保護されるまで1年間、
野良猫として生き延びてきた頼もしそうな奴だ。
しかも彼は、オスの三毛猫というレアものである。
女主人は彼を引き取り、
「ダビ」と名付け、自分に言い聞かせた。
「寂しいからじゃない。癒されたいからじゃない。
ネズミよけのためにこのネコを飼うんだ」と。
そして、自分とネコとの関係を明確にするために、
雇用契約を結ぶ。
彼女は仕事の依頼主。
その報酬として彼に食事と寝床を与える。
こうして花屋の女主人と三毛猫ダビの
暮らしが始まった・・・。
花好き・ネコ好きに贈る、
楽しいなかにもピリリとスパイスの効いた中編小説。34,000字。AmazonKindleより¥500で発売中。
踊りに性別は関係ない。
誰でも踊っていいんだけど、
男はある年齢を過ぎると、踊らなくなる。
(人それぞれなので、あくまで一般論だけど)
ところが、女はいくつになっても踊る。
年齢は関係ない。
というのは、昨日、女性の友だちが
ダンス公演に出るからとお誘いを受けたので、
割と近所なので、自転車を飛ばして観に行ってきた。
場所は甲州街道沿い。
下高井戸と桜上水の間あたりにある
「G-ROCKS」という音楽スタジオである。
こんなところにこんな施設があるとは知らなかった。
ダンスというのはアフリカンダンス。
西アフリカにあるマリの民俗舞踊である。
(公演用にいろいろアレンジしているらしい)
アフリカンダンスはエネルギッシュで好きだが、
正直、マリもガーナもケニアもナイジェリアも
区別がつかない。
かつては他のアフリカ諸国同様、
フランスの植民地だったが、1960年に独立。
「マリ」とは国語である
バンバラ語で「カバ」という意味で、
首都バマコにはカバの銅像があるという。
どういう経緯で、かの国の音楽家・踊り手たちが
日本にやって来て根付き、
文化の伝達者になったのかは定かでないが、
世界的なワールドミュージックの広がりと
関係があるのかもしれない。
英米のロックミュージシャンたちの多くが
1980年代頃から、アフリカの音楽に魅せられ、
積極的に自分たちの楽曲にも取り入れるようになった。
こうした音楽ビジネスの隆盛によって、
アフリカンリズムやアフリカンダンスが
日本にも紹介されるようになり、愛好家も増えたようだ。
今では各国の音楽や文化を教える教室が
都内のあちこち(おそらく他の地域にも)あるらしく、
友だちが通っているのも、そうした教室の一つらしい。
なぜ、ガーナでもケニアでもナイジェリアでもなく、
カバのマリだったのかはわからないが、
これも「ご縁」というのものかもしれない。
司会役でもあり、歌も歌うダンスの先生は
マリ人(?)のお姉ちゃんで年齢不詳。
その生徒さんたちは、わが友をはじめ、
大半が高齢の女性。
たぶん浴衣を着て盆踊りをしていたら、
近所のおばちゃん・ばあさんといったところだが、
デザインされた民族衣装をまとって、
激しく体を動かすマリダンスをやっていると、
なんだかアフリカの民話に出てくる精霊の類に見える。
みんな、実に楽しそうに踊る。
その顔を見ていて何に似ているのかと考えていたが、
今日、近所の公園を散歩していて、
夢中になって遊んでいる女の子たちに遭遇し、
そうだ、こんな弾けるような笑顔に
似ているのだと思い至った。
ここで踊ることになるまで、
皆さんがどういう人生を歩んできたのかは
僕には知る由もないが、
せっかくここまで生き延びたのだから、
思い切り楽しんでしまおうという気概が感じられた。
失礼な言い方かもしれないが、
妻なり、母なり、愛人なりの務めを終えて、
もうセクシーであり続ける必要はないという意識が、
彼女らを良い方向へ解放している面もあると思う。
遊ぶ子供と踊る高齢女性の共通項は、
セクシーでいなくちゃという女の義務感と
社会人としての責任から自由なことだ。
もちろん、いくら齢をとっても
社会人であり続けているわけだが、
男がいくつになっても、
長年身に着けてきたプライドや役割から
逃れられないのに比べて、
最近は、女の方が第3・第4の人生を
楽しめる傾向が強くなっていると思う。
上手いか下手かなんて、どうでもよくて、
見ている側がちょっと笑っちゃえるくらいでいい。
死ぬまで笑って踊って、
かつまた、それで人を笑わせられたら、
それが最高である。
久しぶりに映画館で、
倉本聰・作の映画「海の沈黙」を観る。
すごくよかった。
久しぶりにずしっと腹に応える映画を味わったなぁという感じ。
派手でわかりやすくておいしいけど、
あまり栄養になりそうにもない、
おやつみたいな映画が多い中、
これこそ主食となる、心の栄養になる映画。
「生き残り」と言ったら失礼かもしれないけど、
倉本聰さんは日本のテレビドラマ黄金期、
そして衰退傾向だったとはいえ、
まだまだ映画が娯楽の王座にいた時代を支えた
作り手の「生き残り」だ。
(こんな言い方は失礼だと思うけど)
今年で齢89歳。うちの義母と同い年。
改めて履歴を見ると、
なんと、僕が生まれる前、1958年から
ドラマ作りのキャリアをスタートさせている。
この20年ほどの間に
同じ脚本家の山田太一・市川森一をはじめ、
同時代に活躍した作家や監督や俳優が
次々とこの世を去っていったが、
倉本聰さんは依然健在で、
「どうしても書いておきたかった」と、
60年温めてきた構想を実現した。
キャリアが長けりゃいい作品が書けるわけじゃない。
ものを書くには気力も体力もなくてはできない。
体内のエネルギー量がどれだけあるかの問題なのだ。
こんな気力溢れる作品を書く力が残っているなんで、
驚きと尊敬の何物でもない。
セリフの一つ一つ、シーンの一つ一つが重く、深く、
濃厚な内容は、昭和の香りがプンプン。
サスペンスの要素もあり、画面には2時間の間、
緊張感がみなぎって面白いので、
若い人にも見てほしいが、やっぱりこういうのは
ウケないんだろうなとも思う。
かくいう僕も、20代・30代の頃に
こういう映画を見て傑作と思えたかどうかは怪しい。
やっぱり齢を取らないとわからないこと、
味わえないものがあるのだ。
出演陣も素晴らしい。
なかでも中井貴一は飛び抜けてシブい。
それに比べて、主演の本木雅弘は
いま一つ軽いかなぁという感じ。
これまで小泉今日子をいいと思ったことは一度もなく、
倉本作品に合うのかなと思ったが、最高だった。
もと「なってたってアイドル」なので、
この類の人は、何かにつけて「経年劣化」を揶揄される。
けれども最近、不自然な修正画像やアニメ顔、
整形美女の不気味な顔を見過ぎているせいだろうか、
たびたびアップになる、しわの寄った顔が、
リアルでナチュラルで美しい。
そう思ったのは、やっぱり自分も齢を取ったからだろう。
カミさんと朝イチ(といっても11時半)の回に行ったが、
僕たちを含めて、観客はシニア割の人たちばかり。
やっぱり昭和の作り手、昭和の観客の世界だ。
間もなくこうした世界はむかし話になるだろう。
でも僕は、リアルで深遠な昔ばなしを
大事にしていきたい。
神妙な顔で「人生とは・・・」とうなっている人も、
ひたすら働いて、仕事と貯金と投資に明け暮れている人も、
ただ毎日むなしい思いで時間を浪費している人も、
ぜひ、この本を読んでみてください。
たぶん元気になる。
ちょっとは心が楽になる。
サブカルチャーの担い手・みうらじゅんと
とぼけた才人・リリーフランキーの
抱腹絶倒の対談集(っつーか、飲み会の雑談のノリ)。
内容はまさしくこのタイトル通り、
ワハハとあきらめて人生を語り倒す。
さて、今年もあと1か月ちょっとだけど、
時間がないない。
10~20代の1年は、40代だと半年、50代で4カ月、
60代になるとせいぜい2カ月。
いや、1か月半かな?
ほんとだよ。
あと20年ある、30年ある、
50年あるなんて考えない方がいい。
そんな時間はありません。
「人生100年」なんて言葉に騙されず、
あなたの短い人生を大切に。
兵庫県の知事選で当選した
斎藤元彦氏の公職選挙法違反疑惑の件。
これは斎藤氏がどうこうではなく、
広報戦略を作ったという
PR会社の女性社長がナゾナゾ。
「ほらほら、アタシがやったんですよ。
皆さん、知ってましたぁ?
あの人が復帰できたのって、
やっぱ、アタシのお手柄じゃないですかぁ」
斎藤氏の大逆転復帰劇で
舞い上がってしまったのだろうか?
自慢したい気持ちはわかる。
ビジネス拡大の大チャンス!って気持ちもわかる。
けど、SNSに自分の手柄を書いて、
見せびらかすって、ちょっとあり得ないゾ。
クライアントに対する守秘義務厳守って、
広報の仕事の基本中の基本だゾ。
それを社長自ら破ってどうする?
最近はやりのマウント大好きキラキラ女子なのか?
僕の周りには優秀な女性が多いけど、
こういう人がいるから、
「やっぱり女は・・・」なんて言われちゃう。
もっとちゃんと仕事しようよ。
電子書籍・おりべまことの
新しいノンフィクションシリーズ
「市井の賢者」(仮題)の制作にご協力いただいてる
高塩博幸さんの取材で北千住へ。
高塩さんは、新幹線のぞみ第1号の運転士。
JR東海を定年退職の直前に辞めて、
みずから映像ディレクターのスキルを学び、
シニア起業家として
映像制作の会社「ブルーオーシャンスターズ」を立ち上げた。
今日はAIの研修講師である宮田剛志さんと組んで
「30秒CM動画制作講座」を開催した。
テクノロジーの発達で、
小規模な会社でも、お店でも、個人事業主でも、
手軽にCM動画がつくれる時代は、
これからどんどん進むだろう。
動画制作のノウハウと
AIの活用法を同時に学べるお得な講座だ。
初めての講座開催とのことだったが、
JR時代に運転士の教官をやっていたという
高塩さんの指導はとても丁寧でわかりやすく、
自信に満ちていて、すでに円熟の域。
動画CM制作のノウハウと
AIの知識を同時に学べるお得な講座で、
参加者も大いに満足した様子だった。
以前、「卒業式の詩と死」という
ブログ記事を書いた。
息子の高校の卒業式で聴いた
谷川俊太郎さんの詩についての話だ。
息子が卒業したのは、都立豊多摩高校。
谷川さんの母校である。
ただし、ご本人は学校が嫌いで、
戦後の混乱期だったこともあり、
ろくに登校していなかったという。
今でいう不登校の生徒だったらしい。
その谷川さんがOBとして、
1968年の卒業生の要請を受け、
「あなたに」という長編詩を創作して贈った。
以来、半世紀以上にわたって読み継がれてきており、
2015年の息子の卒業式の時も
ラス前に演劇部の生徒が朗誦した。
長いので、最後のフレーズのみ引用する。
あなたに「火のイメージ」を贈り、
「水のイメージ」を贈り、最後に「人間のイメージ」を贈る、
という構成だ。
あなたに
生きつづける人間のイメージを贈る
人間は宇宙の虚無のただなかに生まれ
限りない謎にとりまかれ
人間は岩に自らの姿を刻み
遠い地平に憧れ
泣きながら美しいものを求め
人間はどんな小さなことにも驚き
すぐに退屈し
人間はつつましい絵を画き
雷のように歌い叫び
人間は一瞬であり
永遠であり
人間は生き
人間は心の底で愛しつづける
――あなたに
そのような人間のイメージを贈る
あなたに
火と水と人間の
矛盾にみちた未来のイメージを贈る
あなたに答は贈らない
あなたに ひとつの問いかけを贈る
けっして上手な朗誦ではない。
しかし、圧倒的な言葉の連なりに、
会場は神聖な空気に包まれた。
こんな体験ができた子供も親も
本当に幸福だったと思う。
今も胸に残響している。
半世紀経とうが、1世紀経とうが、
色褪せるどころか、ますます鮮烈になるイメージ。
命の息吹溢れる言葉、呼吸し鼓動する詩。
日本最高峰の詩人・谷川俊太郎さんの
ご冥福をお祈りします。
龍神様の水を飲むと、どんな病気でも治ってしまうそうな。
んだで、おら、母ちゃんに頼まれて、
箱根の山まで龍神様に水もらいに来ただ。
昔ばなしの孝行息子よろしく、
九つの頭を持つ龍が吐き出す
「龍神水」を汲むだけのために箱根までやって来た。
頼んだのは母ちゃんでなく、カミさんだけど。
——というのは半分うそで、
「月曜に箱根に取材に行くよ」と言ったら、
「じゃついでに箱根神社に行って水汲んできて」
と言われたのだ。
この箱根神社(九頭龍神社)は芦ノ湖のほとり。
バスと歩きで小一時間掛かったが、
朝から出かけて昼過ぎには仕事が終わったので、
ちょっと足を伸ばして出かけてきた。
水筒1本とペットボトル2本に「龍神水」を詰める。
なんでもこの水、開運の水らしい。
辰年ももうすぐ終わりだし、
この辺で運気を上げておくと、
いいことあるかもしれない。
元箱根港のバス停(土日ならその一つ手前に
「箱根神社入口」があるが、平日は通過)から
芦ノ湖沿いにてくてく行って鳥居をくぐり、
まっすぐ進んで右手が89段の階段。
箱根神社につながるこの階段を登ると
「厄(89)落とし」ができるらしい。
階段を上り切ったところにあるのが、箱根神社本殿。
その横にあるのが、九頭龍神社新宮で、
2000年、わずか24年前に出来たばかりの新しいお宮だ。
九頭龍神社の本宮はここから3キロあまり離れていて、
けっこう歩くし、時間がないと行けない。
そんな箱根の観光客のニーズに応えて(?)
こちらの境内に新宮が建てられたという。
そんなご都合主義でいいのか?
と、ちょっと疑念も湧いたが、
ここでブレててもしかたがない。
「龍神水」は箱根山から湧き出ている霊水で、
”口にすることで不浄を洗い清めてくれる”といわれている。
恋愛運、家内安全・開運につながると大人気。
と、スピリチュアル系のサイトに書いてあったが、
この日、水を汲んでいるのは僕ひとり。
次々と容れ物を取り出して、水を智めていく様子を、
回りで東南アジア系の観光客が、
ぽかんとした顔で眺めていた。
ちなみに平日の箱根は外国人観光客もりもり。
日本人は3割から、せいぜい4割くらいか。
今年も残りひと月半を切った。
初詣に行く前に、龍のいるところに行って、
締め詣でをしておくといいかもよ。
というわけで、龍神水はまだ冷蔵庫に眠っている。
せっかくわざわざ汲んできたありがたいお水なので、
使うのがもったいない。
と言って死蔵させてしまうのが一番もったいないので、
明日、手を合わせていただきます。
もう7年ほど前だが、「最期の晩餐」をテーマにした
ラジオドラマのシナリオを書いた。
ミステリー仕立てにしたのがウケたのか、
コンクールで2回最終選考まで残ったが、
いずれも受賞には至らなかった。
いずれノベライズしようと目論んでいるが、
あっという間に月日が経って、
まだそのままほったらかしにしてある。
これはやはり誰もが興味を持つ、
おいしい題材らしい。
ドイツのホスピスで食事を提供しているシェフが
「人生最後の食事」という本を出しているし、
終活関係の仕事をやっていると、
ネット上で割と頻繁に見かける。
こうしたアンケート調査には
すすんで参加したくなる人が多いようだ。
単純に自分の好物を回答する人が多いと思うが、
そこに何か自分の記憶など、精神的なものを絡めて、
「あの時、その場所で、あの人と食べた○○」
という人も少なくない。
でもきっと「あの人」がいっしょにいなければ、
その食事の味を再現するのは難しい。
時間や場所も同様だ。
いくらその食事を作るのが超一流のシェフでも、
それは絶対不可能なのだ。
人生の最後に何を食べようか。
そう思い巡らせることは、
自分の人生を振り返る究極の終活だ。
ただ、いえるのは、
「最期にあれが食べたい」と言って、
意識的に最後の食事を選択し、口にできるのは、
まれに見る幸福者である、ということ。
そもそも死を前にした人は、
食欲などない。
僕の父親も母親も、
最期の数日間はほとんど何も食べられなかった。
母の最期の時、僕は介護士に
「食べたくないのなら、
無理に食べさせようとしないでください」
と頼んだ。
人は生きるためにめしを食う。
食は生きるエネルギーの源。
これから死んでいく人には不要なものなので、
食欲など湧くはずがない。
だから「最期に何を食べたいか?」という質問自体が、
夢みるファンタジーの世界の産物なのである。
それでも人は自分に、他の人に問わずにはいられない。
「あなたは人生の最期に何を食べたいですか?」
そうして人は記憶を辿り、ファンタジーの世界に没入する。
そんなことを考えると、死ぬまで人間は面白い。
信州では精進料理や長野産長寿料理などをいただいたが、
気がつくと、最近、食に関しては、
ヴィーガンおせちやら、
グルテンフリーレストランやら、
菜食指向・ヘルシー食指向の記事ばかり書いている。
カミさんがアレルギーだの、
刺激物に弱いと言った事情があり、
付き合っているうちに自然とそちらの
ベクトルに傾いていく。
しかも義母と一緒に暮らし始めてからは、
日々の食事をどうしても彼女の好み(甘辛和食)
に寄せていくので、
あまり本来の自分の好みを主張しなくなった。
僕の本来の食味は、辛いの大好き、刺激物大好き、
こってり大好き、油物・揚げ物大好き!
のはずだった。
ところがつい2週間ほど前、
カミさんとでなく、友人と一緒だったこともあって、
「あー、今日は久しぶりに
思い切りこってりしたラーメンが食いてえ!」
という脳の奥地から響いてくる叫びに従って、
九州とんこつラーメン屋に入り、
メニューのなかでいちばんこってりしていそうな、
マー油とニンニクたっぷりのやつを食ったところ、
途中で「これはヤバイぞ」という
心の声ならぬ胃腸からのアラームが。
なんとかぜんぶ平らげたものの、
家に帰った後、胸やけがしてしかたがない。
さらにその晩から翌日にかけて
腹を下してしまった。
頭の中は、まだ10代・20代の自己イメージが躍動していて、
健康だの、ヘルシーだの、しゃらくせえ!と一蹴し、
「カレーライスを5杯おかわりするオレ」
「焼き肉をガツガツ食いまくるオレ」
「コロッケとメンチカツを交互に10個ぱくつくオレ」
「角煮が乗ったこってりラーメンに、
餃子と半ラーメンをおともにして全部たいらげるオレ」
などが思わぬ拍子に飛び出してきて大暴れする。
が、現実の胃腸はもうとてもそれについていけない。
もう昔とは違うのだ、と現実を見つめ直し、
ひどい目に遇ってから反省するのだが、
未熟者なので、幻想に翻弄される悪癖を直せずにいる。
とは言え普段は、さすがに若者向けの
肉がっつりメニューの看板を見ても
心動かされることは少なくなったが。
肉食でも、菜食でも、ジャンキー食でも、
毎日おいしく食べられることは健康の証、生きる喜び。
感謝していただきましょう。
「わたしゃ殺生しないと生きられない。
だから、ご供養のために灯篭を寄進したいのです」
そう言って人間に化け、
長野の山中から善光寺参りをしに来たのはムジナ。
ところが泊まった宿坊「白蓮坊(びゃくれんぼう)」で
お風呂に入ってうっかり正体を現したところを、
宿坊の坊さに見られ、あわてて飛び出して山へ逃げ帰ってしまった。
そんなムジナを不憫に思った住職は、
ムジナの代わりに境内に灯篭を建ててあげた。
そんな昔ばなしが残る白蓮坊には、
今、入口にかわいい「むじな地蔵」が立っていて、
人目を集める「招き地蔵」「招きムジナ」になっている。
時に妖怪扱いされるムジナには、
タヌキ説とアナグマ説がある。
どちらも雑食性なので、
他の生き物を殺生するのは同じだが、
人に化けるというパフォーマンスから考えると、
ここではタヌキ説が有力だろう。
像もやはりアナグマではなく、タヌキに見える。
いずれにせよ、
こうしたユーモラスな昔ばなしが残るほど、
善光寺は動物に対しておおらかな場所である。
さすがに本堂のなかや建物の中には入れてもらえないが、
境内にはタヌキの親戚であるイヌが大勢散歩している。
仲見世通りのお店には「招き犬(豆柴)」もいた。
ネコも何匹か住み着いていて、
夜になると出て来るらしい。
そういえば「牛に引かれて善光寺参り」という
有名なことわざも残っている。
仏さまの聖域は、どんな人間も、どんな動物も、
ウェルカム状態なのだ。
訪れたのがちょうど七五三の季節だったので、
かわいい着物を着た子どももあふれていて、
昼間は宗教施設というよりも、
子どもや犬が遊ぶポップアートゾーンみたいな
イメージのところだった。
おおらかな気持ちになることが
ごりやくにつながるのだろう、きっと。
べつにガチで信心しなくても、
近所の神社やお寺の前を通った時、
神さまなり、仏さまなりに
日常的に手を合わせていると、
いいこと、いろいろあるかもよ。
長野は唐辛子の名産地。
ということで、善光寺の門前には
江戸時代から続く唐辛子製造販売の老舗
「八幡屋磯五郎(はちまんや いそごろう)」がある。
250年の歴史を経て、近年、
ポップでお洒落な唐辛子屋に生まれかわった同店には、
これまたしゃれたカフェが併設されている。
その店「横町カフェ」で特徴的なのは、
やはり辛い物のメニューが豊富なこと。
「七味唐辛子=和のスパイスと捉えた新しさ」と、
「七味唐辛子の伝統と信州の風土」を
感じてもらう店舗づくりを心掛けているという。
というわけで頼んだのは、
あい掛けカレー。
この店には、黒・緑・赤の3種のカレーがあるが、
それぞれ、大辛・辛口・中辛という感じ。
さすがに黒=大辛は厳しいだろうと思い、
緑と赤の2種類を掛けたカレーに。
これだけでも十分からい。
以前は辛いものが大好物だったが、
最近は、カミさんと義母に食味を合わせて、
マイルドなもの・どっちかというと甘口のものばかり
食べているので、すっかり辛味に弱くなった。
こってり系・油物などにも
急速に苦手石井が芽生えている。
さてこちら、横道カフェのカレーは辛いが、
写真の通り、野菜がたっぷり乗っかっていて、
イマ風ヘルシーメニューである。
感動するほどではなうが、普通においしい。
テーブルには隣りの唐辛子屋で売っている
バラエティ豊かな唐辛子がずらり。
パッケージもポップなデザインで、
「唐辛子=和スパイス」であることを強調している。
カフェなので、辛い物ばかりでなく、
ちゃんとコーヒー・紅茶やスイーツも用意されている。
面白いお店なので、
ぜび、長野・善光寺に行ったら寄ってみてください。
長野旅行では善光寺の宿坊に泊まった。
夕食は精進料理。
特に美味しかったのが「鰻のかば焼きもどき」。
豆腐と長芋を材料にしているそうで、
さすがに鰻とは思わないが、
食感と味はそれっぽくてGood。
これなら何枚でも食べられる。
ほかに手前のお椀に入った
グレーの「そばプリン」が秀逸。
プリンという名だが、スイーツでなく、立派におかず。
茶わん蒸し的なイメージだ。
こちらの宿坊「尊勝院(そんしょういん)」は、
善光寺で39ある宿坊の一つ。
昭和の時代まではどこも大賑わいだったようだが、
最近ではあまり泊まる人がなく、
3割程度しか稼働していないらしい。
交通が発達した今日、
東京からだと善光寺参りなど、
ほとんど日帰りでOKだ。
ただ「お朝事(早朝参拝、お数珠頂戴)」
「十夜会(この時期だけやっている夜の法事)」
などは泊まらないと参加できない。
お宮だったら伊勢参り。
お寺だったら善光寺参り。
江戸時代の人たちは「一生一度」と謳ったが、
齢を取ると宗教がいいものに思えてくる。
(おかしな新興宗教には用心するけど)
さらにあんまり肉や魚を
がつがつ食いたいという欲求が薄れて
精進料理なども好きになる。
善光寺があるから、というわけではないだろうが、
長野の菜食はなかなかのクオリティである。
やはりトランプが大統領に返り咲いた。
これは僕の印象だが、
ビヨンセやレディガガの応援よりも、
イーロン・マスクの応援のほうが効果があったようだ。
Xをやっている人は、この数か月。
おそらく毎日のようにマスクの
トランプ応援投稿を目にしていただろう。
音楽や映画も大事だが、
人権や多様性や差別なき社会も大事だが、
それよりも今日のメシ、寝床、
明日・明後日・来年を暮すカネだ。
文化よりもビジネスなのだ。
寂しいことだが、そういう時代になっている。
トランプが当選したことで。
株価や仮装通貨の値が上がって、
金持ちはますます肥え太る。
マスクもそういう目論見があって、
多額の援助金を出してトランプを支持をしたようだ。
そういう意味ではアメリカ経済は成長するだろう。
けれども、一般の人はその恩恵に与れるだろうか?
難しいと思う。
政治のトップが変わったからといって、
上層のわずかな人たちが儲かり、
その下、9割方の人たちが沈んでいくという経済構造は、
ほとんど変わらないに違いない。
それはアメリカだけでなく、
日本やヨーロッパも同じだ
それでもトランプのカリスマ性は、
とりあえず、多くのアメリカ人に
一定の安心感をもたらすだろう。
経済力と伝統的な文化を尊重する
「アメリカ・ファースト」。
トランプはその思想のもとに
世界をし直そうとするだろう。
ウクライナやガザの戦争にも何らかの解決策が生まれて、
かりそめの平和が訪れる可能性も小さくない。
日本はたぶんうまく付き合っていくと思う。
それがこれからの4年間で起きること。
そして、そこまでがトランプ大統領の役割。
ではその後は?
かなり不気味だが、
今を生き延びなくては明日はない。
生き延びながら考えていくしかない。
亀戸~大島界隈で運動特化型のデイサービスをやっている
「あづまや/わかったグループ」が、
今月1日に亀戸駅前に新店舗をオープンした。
1Fは1号店と同じ、
要介護者用のサーキット方式トレーニングだが、
2Fは常圧低酸素ジム[3po」になっている。
低酸素ジムは、
もともとアスリートのために開発された施設で、
一口で言えば、高地トレーニングの環境を模し、
気圧はそのままで、
酸素濃度だけを低くするというシステムを備えている。
常圧のまま、部屋のなかを低酸素化し、
体に負荷を与えることで、細胞を良質化。
わずかな運動量で大きな運動効果を生み出すことが
最大の特徴だ。
目的を、運動選手のトレーニングから
一般の人の健康維持に変えたこの施設が
今、急速に普及し始めているという。
効果としては、
病気になりにくい。
骨折などの怪我が早く治る。
疲れにくくなる。
まら、睡眠が深くなる。
肌つやが良くなる。
血流が上がるので、体が冷えにくくなる
といった事象が報告されている。
過去10年ほどの間、この低酸素ジムの普及に努めている、
フィットネス業界の専門家の話によれば、
現在、東京では25カ所ほどが
一般向けに開設されているそうだ。
ただし、これを介護事業として展開するのは、
ここが日本で初めてとのこと。
これまで運動特化型デイサービスで
実績を上げてきた
「あづまや/わかったグループ」だからこそ、
取り組める事業とも言えるだろう。
超高齢化社会が到来し、「人生100年時代」になった。
とはいえ、寝たきり状態で長生きするのは
本人も周囲も辛い。
問題は実際の寿命よりも、
元気で動き回れ、自分の頭で考えられる
「健康寿命」であることに
異議を唱える人はほとんどいないだろう。
病気にならない。予防する。
いわゆる「未病状態」をできる限り保つ。
健康であり続ける。
この事業は、そうした高齢者・高齢者予備軍の意識に
焦点を置いた、画期的な試みといえるだろう。
ちなみにこの施設の名前
「3Po(さんぽ)」の3つのPoは、
「Potential(潜在能力を引き出す)」
「Puwerful(元気を保つ)」
「Positive(前向きに生きる)」
僕が見学したのは、プレオープンの日だったが、
実際にオープンしてどんな状況になっているのか、
また今月後半に取材に出向く予定だ。
わが「恐怖」の原点。
かつて子どものマンガに確実に
「恐怖」というジャンルがあった。
その創始者であり、第一人者であり続けたのが、
楳図かずおだった。
小学校の低学年の頃、
わりとお金持ちの、仲の良い女友だちがいて、
その家によく遊びに行っていたのだが、
そこに楳図マンガが連載されていた
「少女フレンド」(だと思った)が揃っていて、
その置き場所には怖くて寄りつけなかった。
「リング」の貞子が
テレビの中から抜け出してきたように、
雑誌の中から「へび女」とか「ミイラ先生」が
這い出してくるのを想像していたのだろうと思う。
その後、少年漫画誌で「猫目小僧」とか、
「半魚人」とか「恐竜少年」とか、
いろいろな楳図製恐怖マンガを読んだが、
なぜか少女系のほうが圧倒的に怖かった。
「女は怖い」という、僕の感情のOSは、
楳図かずおによって生成されたのかもしれない。
うちの母親がもっと美人で優しかったら、
「この人、へび女にならないだろうな」
と思ったかも‥だが、幸か不幸か、
あんまりそういう雰囲気の人ではなかったので
助かった(?)
いっしょに住んでいた若い叔母は
ちょっとその方面の雰囲気を持っていたような気がする。
それにしてもあんな怖いマンガを
毎日、描きまくっていた、
当時の楳図かずおの頭の中は
いったいどうなっていたのだろう?
ご本人は「ぜんぜん怖くなんかないですよ」と
言っていたが、自分なら気が狂いそうだ。
その後、ギャグやSFの分野でも
とんがった才気を見せつけ、傑作を量産。
しかもそうした恐怖、怪奇、ギャグ,SF、
ファンタジーなど、それぞれの要素が
重層的にクロスオーバーし、
誰にもまねできない「楳図ワールド」を構築した。
そして、その核には「人間」がいて、
人間が奥底に持つカオスのようなものについて
考えさせられる。
楳図かずおは人間の深いところを、
その不可解で不可思議な在り方を、
とことん掘りまくることによって、
最も原始的な感情である「恐怖」をベースとした
独自の世界をつくり上げたのだ。
そういう意味で
「まことちゃん」は「猫目小僧」の弟であり、
「おろち」は「へび女」の娘であり、
「漂流教室」と「14歳」「わたしは真吾」などは、
同列に展開するパラレルワールドになっている。
個人的に最も胸に刺さったのは、
連作オムニバス「おろち」の「秀才」だ。
「おろち」は、不滅の存在である少女
(萩尾望都「ポーの一族」のバンパイアに似ている)が
時空を旅して、人間界のさまざまな時代・場所で、
人間同士の感情が絡み合って起こるドラマに
関わっていくという話。
「秀才」はそのかなの一遍で、
教育ママとその息子の物語だが、
それまで持っていた「オバケマンガ」の概念を破る
深い人間ドラマに驚愕した。
読んだのが小学校高学年で、
大人のドラマに興味を持ち始めた時期だったので、
よけい感動したのかもしれない。
「秀才」は今でも十分通じるドラマで、
現代社会における母親という存在の
愛の深さゆえの罪深さを描き出した傑作だ。
まちがいなく歴史に名を留める漫画家・芸術家。
日本のマンガ文化の重要なパーツとなる孤高の作家。
そして最後まで自分のぶっ飛んだ個性を貫き通した
楳図かずお先生。
人間の怖さ・驚くべき世界を見せてくれてありがとう。
ご冥福を祈ります。
11月の花はリンドウ。
行きつけの花屋さんをモデルにした小説を書いてる。
1万字~1万5千字程度の短編にしようと
夏の暑くなり始めた頃から書き出したのだが、
いろいろ話が展開し、
途中で止まったりして、かれこれ4カ月。
2万5千字を超えたところで
やっと完成のめどが立ってきた。
年内には何とか出版できそうだ。
今年は春先に長編を1本書き上げたので、
あとは短編を2~3本書こうと思っていたが、
かなり苦戦した。
ちょっとと体力が落ちて疲れやすくなり、
感情の流れの混乱がうまく収拾できないことが増えた。
小説は普段書いている文章と違って、
事実を綴ったり、理屈をこねたりするだけでなく、
それらと合わせて
自分の感情を掘り起こす作業だと思っている。
ぜひ表現してみたい感情があって、
それを登場人物のセリフにするために、
ストーリーや場面設定を作る場合もある。
逆に思いついたストーリーに引きずられて、
すっかり忘れていた感情がよみがえったり、
まったく思いもかけなかった感情が
登場人物のセリフに乘って現れたりする。
どっちも面白いが、根気よく書き続けないと出てこない。
アスリートと同じで、
つねに体のコンディションを整えていないと、
自分の感情と格闘できないのだ。
最近は最初のプロットを作る段階で、
AIと会話してヒントを得たりする。
感情を引き出せるストーリー作りのためなら
AIに手助けしてもらうのもよし。
そうして作ったものを何本か塩漬けしてある。
僕たちは日々、
自分の感情をあまり表に出さないように
コントロールしながら生活している。
読む相手がいる限り,SNSでも
感情全開でぶちまける、というわけにはいかない。
感情を抑えつつうまくやっていくためには
いろいろな方法があるが、
小説というフィクションの形にして
表現するという仕事は、
ひとりでできるし、場所も問わないし、金もかからない。
小説はただ感情をぶちまけるのでなく、
ストーリーやキャラクターとともに
一つの作品として形にするので、
よりクリアな記録して、貴重な人生の記憶として
遺すことができる。
今、小説は誰にでも書ける。
文才なんていらない。
僕がそのいい例である。
自分で面白いと思えるアイデアがあれば、
AIの助けを借りて、
オリジナルストーリーを作ってみればいい。
それが人にウケるかどうか、
読んでもらえるかどうかは、また別の話だけど。
アメリカ大統領選は、大接戦が伝えられているが、
間近になって、トランプ圧勝の予感がしてきた。
そう感じてしまったのは、
カギを握ると言われているペンシルバニア州に住む
ベネズエラからの移民の男性が、
トランプ支持を強く訴えているのを、
テレビで見たからだ。
彼がトランプを支持する理由は、
「移民問題よりも経済対策のほうが大切だ」から。
一人の意見だが、多くのアメリカ人の意見を
代弁しているように思えた。
しかも彼は、トランプの敵であるはずの移民である。
結局、アメリカ人が選ぶのは、
理想や清潔さや国際政治に対する責任よりも、
目の前のカネと仕事の問題なのだ。
けれども、その移民の男性を批判する気にはならない。
彼、そして多くの労働者たちにとって
切実な問題だ。
貧困でまともな生活ができない状態では、
いくら正義の話や理想論を聞かされても、
前向きに考えることはできないだろう。
片や民主党は、ハリウッド俳優や大物ミュージシャンたちが
支持を表明し、応援をしている。
しかし、僕には何かむなしく見える。
ああしたセレブたちのファンは大勢いるだろうが、
一生カネに困らない大金持ちたちの訴えを
「はい、そうですね」と聞くものだろうか?
ファンであることと、投票行動は別である。
それにセレブ達に支持されるほど、
カマラ・ハリスに大物感・やり手感がない。
比べちゃ悪いが、彼女の言動を垣間見る限り、
ヒラリー・クリントンのような
強さ・リーダーシップが感じられないのだ。
アメリカ社会の実情は知らないが、
ドジャース対ヤンキースの
MLBワールドシリーズの入場券が、
外野の立見席でさえ、数十万円に値上がった
という話を聞いて、
やっぱりこの国はクレイジーだと思った。
みんなの娯楽・みんなのお祭りであるはずの野球が
金持ちじゃないとリアルに体験できない状況に、
大多数の労働者は、やってられない感を
抱いたのではないか。
格差社会の大きさ、貧困層の過酷さは、
日本の比ではないのだろう。たぶん。
それがこの4年間の民主党政権で、
好転したという話は聞こえてこない。
世界情勢も混とんとするばかりである。
トランプが再選されたら、どうなるのろう?
今後の僕たちの生き方にも
けっこう大きな影響がありそうな気がする。
「マイナビ農業」で取材・執筆した
「ヴィーガンおせち」の記事がアップされた。
https://agri.mynavi.jp/2024_10_30_286955/
千葉県香取市の「アクスクリー」
という会社が運営するお惣菜店
「畑の台所まんぷくさん」が提供。
「ヴィーガン」と銘打つからには、
卵も、バター・チーズなどの乳製品も、
かつおやいりこなどの魚のだしも、
動物由来の食品は一切使わない。
それでおいしいものを作るには、
かなり高度な調理の技術とセンスがいる。
このお惣菜店は、そのへん定評と信頼があり、
聞くところによると、先月後半から受付を始めて、
すでにけっこう注文が入っているようだ。
奇しくも今日、11月1日は「世界ヴィーガンデイ」。
ベジタリアンは食に関しての菜食主義。
動物を殺さなければOKなので、
卵や乳製品を口にすることは認められる。
対してヴィーガンは食に限らず、
“動物から搾取して生きることを否定する”という
一種の哲学・ライフスタイルの在り方のムーブメント。
なので食に限らず、
毛皮・ウール・革製品などを身に着けることも
すべてNGだ。
たぶんその他にも、動物の脂を使った製品とか、
羽毛布団やダウンジャケットなどもすべてダメだ。
そんなこと現代文明の中で可能なのか?
そう思ったあなた、そうです僕も同感です。
たまにシャレでヴィーガン料理を
体験してみる分にはいいけど、
アレルギーもないのに、
毎日、肉・魚・卵・乳なしでやってられるか!
いったい何を食えばいいんじゃ!
でも、そう考えてしまうあなたや僕は、
すでに「旧人類」「20世紀型世代」
の域に入っているのかもしれません。
近い将来、人類の蛮行を正し、
この星の平和を守るために、
地球政府の運営権をAIが握ったとしよう。
20世紀までの人類の罪業を学習したAIは、
持続可能でクリーンな社会をつくるために、
これ以上、動物から搾取することは
まかりならん!
そんなルールを設けるかもしれない。
そしたら、タンパク源やエネルギー源はすべて植物性に、
肉も魚も工場生産の
人工的なフェイクフードになるかもしれない。
つまり地球人口が皆ヴィーガンになる日が来る。
そんな可能性もゼロではない。
というのは毎度おなじみの僕の妄想だが、
時代の要請に応じて人間の脳は
いくらでも変わる。
もしも「この先、人類が地球で生き残るためには
ヴィーガンにならなくてはいけない」
という、やむにやまれぬ必要が生まれたら、
一夜にして人間はそれまでの習慣を捨て、
新しい習慣を身に着けられるだろう。
というのも、また妄想なのだけど、
新年を迎える際に新しいことに挑戦するのはいいことだ。
おせち市場はこの10年あまりで大きく成長したが、
そろそろみんな、あれこれ手を変え品を変え
出してくる高額・贅沢おせちに飽きてくるころである。
この際、2025年の正月は、
「ヴィーガンおせち」を味わいながら、
人類の未来、地球の未来に思いをはせてみては
いかがでしょう?
競争社会の中でまじめな人、
がんばる人、向学心がある人ほど、
だまされたり、ひどい目に遇いやすい。
「あなたは政府やら大企業やら、
世のなかの権力者の言うことに騙されているのです。
または昭和時代の大人が言っていた
常識に縛られているのです。
『そんなうまい話があるわけない』
『ラクして儲けられるはずがない』
『汗水たらして働くことをバカにしてはいけない』
というやつです。
これらはみんなウソか、時代遅れの人生訓です。
それに縛られている限り、人生はどん底のままです。
わたしたちはそうした呪縛から自由になり、
いまや月○百万円に稼ぐことに成功しています。
あなたはいつまで労働搾取され続けるのですか?
いつまで奴隷の身分に甘んじているのですか?
さあ、私たちと一緒に自由になって稼ぎましょう!」
と、人生のどん底から這い上がったとかいう
逆転サクセスストーリーを持つ人たちの、
こんなメッセージをちょくちょく目にする。
この20年あまりの間、
世の中に大量の自己啓発本、自己啓発セミナー、
また、それらに関連するネット情報が出された。
そのなかには、あなたは政府やら大企業やら、
社会の権力者に騙されている、
と警鐘を鳴らすものが少なくない。
それ等の元ネタに悪意はないのだろうが、
歪めて解釈してしまっている人は
大勢いるかもしれない。
そうした概念を頭に入れて、
世の中の情報を見るようになった。
搾取とか、奴隷とか、刺激的な言葉は印象に残る。
自分は大切な情報を知らないがために
大損している愚か者なのだ。
なんとか逆転しなくては。
そう考える人たちが大勢生まれてしまったのではないか?
投資サギやインチキマルチなどに引っ掛かって
大金をだまし取られたり、
人生半ば放棄して闇バイトをやっちゃう人たちの中には、
そうした「愚か者の大逆転」をもくろむ大人、
さらにその子供が大勢いるような気がする。
世の中の仕組みの真実を知るのは容易ではない。
たしかに僕たちは誰かに搾取され、
奴隷にされている部分があるのかもしれない。
そう考えて発奮するのはいいが、
またそこでだまされたり、
自己放棄、人生放棄しては、愚か者二乗である。
そうならないためには、お金以外の分野の
価値観を作ることしかないように思う。
それが何なのかは人それぞれだから、
ひとりひとりが自分にとって何が一番大事なのか
考えるしかないけど、
勝ち負けとか、金持ちか貧乏人かとかの
二元論にこだわっていると、
頭がおかしくなって、ろくなことにならない。
負けてもいいとか、夢なんか諦めてもいいとか、
資本主義社会のなかで自由に生きるとか、
ちがった意味での自己啓発をしていこう。
土曜日に亀戸に行った帰り、
立憲民主党の野田代表が
駅前で演説しているのに出くわした。
大勝おめでとう。
でもだいじょうぶかな?
15年前の政権交代。
「悪夢の民主党政治」と、
安倍元首相は繰り返し、国民に刷り込んだ。
確かに悪夢だったかもしれない。
旧民主党が失態を繰り返し、
「やっぱり変えてもだめだ~」と、
国民を失望させた罪は大きい。
もともと変わるのが大嫌いな日本人が、
ますます政治を変えることに消極的になった。
おかげであの時は、自民党のアピールが説得力を持った。
そして目先だけの経済政策がウケて、
多くの国民が安倍政権を支援した。
それに乗じてこの10年あまり、
裏金問題をはじめ、やりたい放題。
「1億総活躍社会だ!」
「みんな100まで幸福に生きよう」
なんて美談が語られる一方で、
若者も高齢者もカネのことで頭がおかしくなり、
振り込め詐欺、投資サギ、インチキビジネス、
果ては闇バイトによる強盗殺人が横行する
社会になってしまった。
「悪夢の自民党政治」の成果。
これまた「失われた10年」ではないか?
しかし、これはこの10年あまりのことだけでなく、
昭和・平成と続いてきた、
この政党の生活習慣病みたいなものである。
僕の人生に匹敵するほど
長期にわたって築きあげた利権構造は、
ちょっとやそっとで崩れない。
今回の選挙で立民が大躍進したが、
野党第一党ということで、自公政権にお灸をすえるために
仕方なく投票したという人もすくなくないだろう。
けど、「お灸をすえる」なんて、
甘っちょろい、のんびりしたことを
言っていられる状況なのか?
かつてのトラウマもあるし、
そもそも立民に野党を束ねる力がないので、
すぐに政権交代には繋がらないだろう。
これからどうなっていくのか、
まず見守るしかないのだが、
このひどい状態を作り出した最大の原因は、
53%という、前回を下まわる低投票率がある。
いくらネットが普及し、SNSが広まっても、
結局、政治のことなど、みんな他人事だから、
情報などあってもなくても同じなのだ。
だけど政治を、生活の基盤となる社会構造を
いつまでも無視できるのか?
経済問題のみならず、
ロシア、北朝鮮、中国の動きなど、
国際情勢もやばいし、
アメリカももしトランプが再選されたら・・
という不安がある。
イスラエルとパレスチナの戦争も
まったく影響がないわけがない。
そして、今回の選挙ではほとんど触れられなかった
少子高齢化問題や教育問題。
耳障りの良い美文フレーズばかり聞かされて、
こうして手をこまねいているうちにも、
僕たちはどんどん齢を取っていく。
いやがおうでも、日本にも何か大きな変化が迫っている。
自分を含め、変化がきらいな日本人も、
近いうちにまた、
何らかの悪夢を見なくてはならない。
そんな覚悟も必要なのではないかという気がしてしまう。
毎月、ウェブサイトのコラム記事で
世界の終活映画の紹介をしているが、
フランスの近年の代表的な終活映画が
「パリタクシー」だ。
あらすじはシンプルで、これから施設に入居するという
92歳のおばあちゃんが、自分が住んでいた家から施設まで
タクシーに乗り、回り道をして、自分が暮らしてきた
パリの街を周遊するという物語だ。
タクシードライバーは当然、ひと癖ある中年男。
(変な奴が絡まないと、映画として面白くない)
いいおっさんだが、年齢は彼女の半分の46。
いわば息子と孫の中間みたいな、微妙な年齢設定である。
フランスも高齢化社会が進んでいるので、
こうした設定も面白く見える。
そしてまた、彼は当然のように、人生に問題を抱え、
経済的トラブルに苛まれている。
それでも救いは、彼がなんとか家族を守りたいと
考えているところだ。
しかし、タクシードライバーのギャラでは、
とても短期間にこのトラブルを解消しようにない。
つまり、追い詰められているのである。
しかし、ご安心を。
彼はけっして闇バイトに手を染めたり、
乗客であるおばあちゃんを脅したり殺したりして
カネを奪ったりしない。
これはそうした類のブラックなドラマでなく、
コメディ要素の強いヒューマンドラマである。
だから、こうした映画のお決まりで、
最初、ぎくしゃくしていた二人の仲は
しだいに打ち解け、おばあちゃんは
自分の思い出を彼に物語るようになる。
じつはその内容が、かなりブラックである。
僕が驚いたのは、彼女が若い時代、
1950年代のフランスでは、
まだひどい女性差別がまかり通っていたことだ。
何となくではあるが、20世紀にあって、
芸術・文化が発達したフランスは、
世界で指折りの先進的な国で、
女性が大事にされていたーーというイメージがあった。
この映画で語られていることは、
たぶん史実に基づいていることだと思うので、
かなり意外だった。
ほとんど昭和日本と変わらない。
もっとひどいぐらいである。
そして、彼女がより悲惨なのは、
暴力をふるった夫だけでなく、
可愛がった息子にも裏切られてしまうこと。
息子の裏切りは、当時のフランス社会の
現実を象徴しているのだろう。
普通のおばあちゃんのように見えたのだが、
ヘヴィなドラマを抱え、社会の差別と闘って
92歳まで生き延びたのだ。
厳しい人生だったが、
それでも私は良い時代を生きたと、彼女は語る。
そんな彼女の心情を表すかのように、
全編にわたって古いジャズが心地よく流れていく。
最後はとても心あったまる終わりが待っている。
てか、こんなおとぎ話みたいなオチって、
いくらヒューマンタッチの終活映画とは言え、
今どきアリ?みたいな感じ。
でも、人生がこんなおとぎ話で終わるならいい。
観た人の多くが、きっとそう言うと思う。
今年4月に学生時代の友だちが亡くなったので、
先週、同級生を集めて「偲ぶ会」をやった。
訃報を聞いた時は、そうでもなかったが、
こうした会を開いたり、追悼文を書いたりすると、
その友だちが、この世界にいなくなったという事実が、
後を追ってじわじわと体に沁み込んでくる。
まったく思いがけないことだったが、
おかげでこの1週間ほどメンタル不調に陥った。
20歳の頃、いっしょに劇団を立ち上げた仲間だったので、
ちょっと特別な存在だった。
ただ、20代後半以降は
これといって親しく交流していたわけではない。
年賀状で近況報告をやりとりしていただけだ。
出会って5年間ぐらいがすべてと言ってもいいくらいだ。
若い時代は損得勘定抜きで、
いろんなやつと付き合っていた。
「抜き」というより、アホだったので、
どうすれば損で、どうすれば得なのかが
そもそもわかっていなかったと思う。
けれどもそうしたアホな時代の思い出こそが、
ここまで生きてくる間、
心を満たす財産になっていた。
そして、この財産は一生残り続けるのだろう。
もし、認知症になったら、
社会人としての分別や損得勘定は忘れてしまっても、
アホな連中と演劇をやった記憶だけは残るのかも。
心の底から楽しんで、一生懸命やったことは、
きっとずっとそのままだと思う。
Where is a Dog?
「犬はどこにいるの?」というのが店名。
吉祥寺にあるグルテンフリーのカフェで、
「ヴィーガンライス」を食べた。
肉に見えるのは大豆ミートだ。
日本人の主食はコメだが、
昨今のパン、麺類、パスタの人気を考えると
半分とまではいかないまでも、
主食の3~4割は小麦由来が
占めているのではないかと思う。
けれども、この小麦が
健康トラブルのもとになっている人が意外と多いようだ。
もともと小麦を主食としている欧米人が、
小麦がアレルゲンとなっていることに気付き、
グルテンフリーのムーブメントが広がっている。
それなのに、伝統的にコメと大豆を食し、
世界に冠たるグルメ大国にもなっている日本が、
この方面にひどく疎いのはなぜだろう?
しかもグルテンフリー食品は、ずいぶん高価で、
あまり気軽に手を出せるものではない。
もっと気軽にグルテンフリーや
ヴィーガン料理を食べたい・体験したい
という人は多いのではないか?
そうした人にとって、
ユニークな店が多い吉祥寺は
探索のし甲斐があるのでないかと思う。
さて、「犬はどこにいるの?」というこの店、
入ってみると、店内はネコだらけ。
でも、この中に一匹だけ犬がいる。
ぜひ一度、犬を見つけに行ってください。
東京博善の「ひとたび」というオウンドメディアで、
毎月、「世界の終活」に関するコラム記事を書いている。
その記事で毎回、最後のパートで
「終活映画」を紹介しているのだが、
その大半が、主人公が旅をする映画、
ロードムービーである。
「はじまりへの旅」/アメリカ
https://eiga.com/movie/83862/
「君を思い、バスに乗る」/イギリス
https://eiga.com/movie/96989/
「パリタクシー」/フランス
https://eiga.com/movie/98840/
「ノッキング・オン・ヘブンズドア」/ドイツ
https://eiga.com/movie/47692/
死を意識した人、人生の終わりが見えた人は、
少なくとも映画というフィクションのなかでは
皆、旅に出る。
それは過去を検証する旅、
他者とのつながりを確かめる旅、
そして、この世における自分の存在を
再認識する旅である。
「わたしは本当にこの世界で生きて来たのだ」
と、登場人物は思う。
そこに文学性・ドラマ性を見出し、
エンタメ性を掛け合わせたのが終活映画だ。
そして、彼ら・彼女らは
こんどはあちらの世界に旅立っていく。
僕たちの人生は、割とどうでもいいものに縛られ、
時間の大半を、家や仕事場に留まって
浪費しているのではないか、と思うことがある。
仕事や家族が「割とどうでもいいもの」
というのは乱暴だし、批判があると思うが、
僕たちは自分を大事にするためにも
しょーもないしがらみから逃れて、
日常から離れた「旅」を大事にした方がいい。
観光旅行のような経済の消費行動動ではなく、
自分の人生を形づくる自由な旅。
出ようと思えば、それは明日からでも出られる。
人生は思ったよりもずっと短い。
「人生の最後に旅をしよう」
そう思いついた時には、
もう頭も体も心も動かないかもしれないのだから。
葬式に来た人たちが思わず「ワハハ」と笑ってしまう
遺影がいいなと思った。
というのも、今日、義母と散歩に行ったら、
珍しく写真を撮らせてくれたからだ。
写真を撮られるのがきらいで、
これまで何度カメラ(スマホ)を向けても
そっぽを向くばかり。
しかたないので、盗撮(?)を繰り返していた。
今日は天気もよかったし、
一昨日、美容院に行って
ヘアスタイルもきれいになっていたので、
ベンチに座っていた時、
何の気なしにスマホカメラを向けてみたら、
どういう風の吹き回しか、
みずからおどけたポーズを取り、
まともに正面から撮影に応じてくれた。
おお、初めてと言っていいくらい
よいポートレート写真。
子どもみたいに
かわいくてひょうきんである。
晩飯の時に、
「これ、遺影にどう?」と言って
カミさんに見せたら、笑って大喜び。
部屋に飾るにもいい感じだ。
葬式に来た人たちが笑い、
家族の心を明るくできる、
自分のもそういう遺影がいい。
もうすでにだいぶ自由だけど、
死ぬときはもっと自由。
そう考えると、死も怖くない。
演劇をやっていたので、むかしは演劇をよく見た。
しかし最近は、
・義母の介護・面倒で、
仕事以外ではめったに家をあけられない。
・観劇料が高い。
・その割に面白くない。
あるいは面白い芝居が少ないように思える。
3つの理由で、劇場に足を運ぶことは
年に1,2度しかない。
とは言え、演劇には人一倍興味がある。
受け持つ生徒の顔と名前を一発で覚えるという
離れ業をやったのにもかかわらず、
5年生女子から「キモ先生」と言われて
意気消沈してしまった小学校の臨時教師Kくんは、
この秋、演劇発表会の演出をやっている。
彼は大学時代、サークルで演劇をやった経験があるので、
それにもとづき、5年生相手に腹式呼吸やら、
舞台に立った時の目線のことなど、
ビシバシ指導をしているというのだ。
上演する芝居の内容はよく聞いていないが、
小学校なので、もちろん全員参加。
ただ、役者をやりたくない子は、
裏方でもOKなので、
照明や小道具係などを希望するらしい。
登場人物は村人1、2.3・・・みたいな役が多く、
あまり目立ちたくない子は、やはりこれらを希望。
でも、こういう機会に超積極的な、
自己主張の強い子は必ずいる。
このテの子ども、スポーツ分野は男子が多いが、
演劇などの文化・芸能系は、圧倒的に女子だ。
話を聞くと、どうやら主役は女の子で、
魔法を使えるお姫様うんぬんと言っていたので、
「アナ雪」みたいな話なのだろうか?
やる気満々、「あたしはスターよ」
みたいな女の子が3人、
クラス内オーディションで選ばれた。
面白かったのが、女の子の役なのに、
主役の立候補者の中に、男の子がいたという。
僕たちの時代には考えらえなかった。
なかなか勇気のある子だ。
彼はセリフも演技もけっこううまかったようだが、
プロの世界ならいざ知らず、
学校教育の一環である演劇発表会で
ヒロイン役に男の子を配役するわけにはいかない。
残念ながら、彼は落っことされて、
村人1、2.3・・・にされてしまったようだが、
どんな子なのか、なんだかとても気になった。
小学5年生の演劇発表会。
どんな役を希望するのか、
どんな役・どんな係に就くのか、
何かその子のこれからの人生を
暗示しているようにも見える。
もちろん、この時点ですごく引っ込み思案で、
村人1をやっていた子が
数年先に突如覚醒し、大スターになったり、
照明係をやっていた子が
そのままメカ系の道でイノベートして
有力ベンチャーになったりとか、いろいろあり得る。
勉強やスポーツの場とは違う、
可能性の舞台が、演劇の場には広がっている。
むかし、猛毒の大腸菌O157が流行した時、
その原因がカイワレダイコンにあると報道されて
大さわぎになったことがある。
そこで誤解を解き、
カイワレダイコンの安全性をアピールするため、
当時の厚生労働大臣はじめ、政治家のお偉方が
テレビカメラの前でカイワレダイコンを食べ、
その安全性をアピールするという
パフォーマンスをやった。
正直、ちょっと無理してがんばっているなと思ったが、
(少なくともおいしそうには見えなかった)
とりあえずそれでことは収まった記憶がある。
さて、そこで今月から始まった、
高齢者に対する
「レプリコン(自己増殖型)ワクチン」の接種。
その安全性や副反応の影響が懸念されており、
「レプリコンワクチン接種者は立ち入りお断り」という
病院があちこちに現れている。
このワクチン接種者が呼吸すると、
有害な感染性生物学的毒素が大量にばらかまれ、
近くで同じ空気を共有する人の
健康を害するリスクが高まるからだ。
危険性は国内外の多くの専門家によって指摘されている。
そもそも欧米ではこのワクチンは認可されていないのに、
日本は受け入れてしまった。
でも、ただでさえ働き手が減っているのに、
働き盛りの若い年代に
健康リスクを負わせることはできない。
なら、生産性の低い高齢者
(および、基礎疾患のある人)ならどう?
高齢者なら「感染症の理数を減らせますよ」と、
理由づけられるし。
そこでなんかあっても「お齢ですから」と、
原因特定されにくいし。
ちょうどいいモルモットになるんじゃね?
それでどうなるか、様子を見ましょう。
というわけで、高齢者への接種が決まったらしい。
というのは僕が勝手にでっちあげた
バックストーリーだけど、
そんなに間違っているとは思えない。
うちにも義母のところにご案内が来たが、
受けさせるつもりはない。
これだけあちこちで「ヤバイ」と言われているので、
先に挙げたカイワレのように、
政治家のお偉方がテレビカメラの前で
ワクチンを接種して「安全・安心です」
とアピールでもすればいいのに、
その気配すらない。
ということは???
打つ・打たないを決めるのはその人自身だが、
ワクチンの毒素が周囲に
ばらまかれるという話を聞いては、
「どうぞご自由に」とはいえない。
高齢者の皆さん、モルモットになっていいですか?
人類の役に立つのなら、
子どもたちの明日への礎になるなら、いいですか?
小学校で臨時教師をしているK君は、
先日から5年生を担当することになった。
彼は1回会っただけで、
クラス全員の顔と名前を覚えられるという特技の持ち主。
大人の社会では優秀な人、
もちろん、学校の先生としても優秀と認められるはず。
だが、男子は「「せんせー、スゴっ!」
と、素直に賞賛してくれたが、
女子は「せんせー、キモっ!」
たしかに一発で30人余りの
顔と名前を記憶できる能力は、
執念とか執着心とか、
ちょっと異常性の強い気質と結びつくのかもしれない。
驚異だけでなく、脅威の目で見られたのだろうか?
この年頃は女の子の方が成長が早く、
大人にリーチしている。
男の子は単純にその人の能力を評価するだけだが、
女の子はどうも、それを通り越して、
その人の人間性全体を見抜く力があるのかもしれない。
「おまえ、変態×オタク×ストーカー野郎と
みられたんじゃねーの?」
と、冗談交じりで言ったら、
K君、ちょっと動揺していた。
僕は彼を頭脳明晰な好青年だと思っているが、
少なくとも大谷選手的な
明るいスポーツマン風ではない。
それに大半の男は、何かのきっかけで、
変態、オタク、ストーカーになる可能性は持っている。
おそらくそこを突かれての「キモっ!」なのだろう。
それにアニメやマンガなどの影響で、
日本は世界一のロリコン大国になっている。
ふだん生活していると、気が付かないが、
リアルでも、バーチャルでも、
巷にこれだけかわいい美少女が溢れている国は、
世界のどこにもないだろう。
じつはそれが日本の観光資源の一つになっていて、
オタクな外国人旅行者を引き寄せてもいる。
たぶんこうした環境が
彼女らの心に微妙に影響を及ぼしているのではないか。
というのが僕の見立てである。
いずれにしてもK君には
この生意気な女の子たちにめげず、
なんとか手なずけて
先生としてがんばってほしい。
そして、くれぐれも本物の変態に変身しないことを
祈っている。
チョウチョと言えば春を連想するが、
夏の終わりから9月にかけて、
近所の公園でやたらとチョウチョを
多く見かける。
この時期、トンボが多いのはわかるが、
なぜチョウチョ?
それに暑さが残っているせいか、
セミ(ツクツクホウシ)もまだがんばっている。
猛暑で季節感がめちゃくちゃだが、
何はともあれもう10月で、
今年も残り3か月と思うと、
心穏やかでいらえなくなるが、。
1日3分深呼吸して、
自然の美しいものを見れば
きょうも1日豊かな気分になれる。
テレビにネットに、美しい努力、ドラマチックな成功、
カッコいいヒーロー・ヒロインが蔓延している。
「大借金・大地獄から人生大逆転して、今は大金持ち。
あなたも私にあやかってみませんか?」
って、毎日のようにメッセージが来るけど、
そんなサクセス野郎・ビジネスできちゃった女が、
マンボウの卵みたいに
うようよいてたまるかっつーの!
こういう美辞麗てんこ盛りの似非成功話、
あやしい金持ち自慢のクソ美談をぶっ飛ばし、
本当に頑張っている人、
ちゃんと人生やってる人たちを描く、
電子書籍のノンフィクションシリーズをスタートします。
コストゼロで、取材先の広告になり、
僕自身も楽しく稼げる
ウィンウィンのセルフ新企画。
いよいよ第1号の取材を開始しました。
リリースは年内。しばらく待っててね。
興味のある方は、ぜひご連絡ください。
犬を自由に操る女装のダークヒーロー。
壮絶なアクション。
監督は「ニキータ」「レオン」のリュック・ベッソン。
ということで、ベッソン特有の
妙に重量感のあるアクションシーン、
そして、目を覆いたくなるような暴力・殺人シーンが
先行して頭に浮かんで、
しばらくためらっていたが、やっと見た。
良い意味で裏切られた。
「ドッグマン」(2023年)は、人間の美しさ、
そして、犬の美しさを描いた、すごくいい映画だ。
これはAmazonPrimeでなく、
映画館で観るべきだったかもしれない。
何と言っても、主役ダグラスを演じる
ケイレブ・ランドリー・ジョーンズが魅力的。
少年時代、彼は父と兄に虐待されて
犬小屋に放り込まれて生活することになり、
障害を負いながらやっと脱出する。
その後、養護施設で、のちにシェイクスピア女優になる
養護員の女性に芝居を通して生きる喜びを学び、
彼女に恋をして成長する。
しかし、そんな彼に世間は決してやさしくない。
やがてドラッグクイーンとなって歌って
アイデンティを保つ一方で、
犬たちと生活するために犯罪に手を染める。
そうした変化の在り様・人間形成の在り様を
じつにビビッドに演じ描く。
また、紹介文や予告編などから、
犬たちは恐ろしく凶暴で、獰猛で
野獣的な犬を想起させるのだが、
意外にもけっこう可愛いのが多い。
随所に人を襲うシーンがあり、
クライマックスのギャングとのバトルでは
それこそ壮絶な闘いを繰り広げるが、
けっしてリアルには描かれず、
ここで出てくる犬たちは、
ファンタジーの領域にいる生き物のように見える。
動物愛護団体の視線もあるので
襲撃・戦闘シーンは、
あまりリアルには描けないという
事情もあるのかもしれない。
ベッソンの映画はアクションやバイオレンスばかりが
取りざたされる感があるが、
彼のドラマづくりは、
いつも人間の美しさ・崇高さを追求している。
そういう意味では、
アクションで売り出す前の出世作「グランブルー」で
前面に出ていたファンタジー性こそ、
ベッソン映画の真髄・醍醐味なのだと思う。
この映画では最後にそれが表出される。
ラスト5分は本当に美しく、
ダグラスは人間を卒業して神になるかのようだ。
そして犬たちがダグラスを導く
天使のように見えて涙が出た。
「DOGMAN」は「GODMAN」。
アナグラムになっているのだ。
一つ気になるのは、全体の雰囲気が
「ジョーカー」(2019年)によく似ていること。
こちらも主役ジョーカー(アーサー)を演じた
ホアキン・フェニックスの怪演が見ものだが、
「児童虐待」「障がい者差別」「貧困との戦い」
これらを物語の根底のテーマに
置いているところも同じだ。
別にパクリだとは思わない。
こうした個人的問題と社会的問題が
ダイレクトにつながって感じられる点が現代的で、
映像系であれ、文学系であれ、
エンタメコンテンツに求められている
現代的役割の一つなのだろうと思った。
ちなみに「ジョーカー」の続編、
『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』が
来月、10月11日(金)劇場公開。
なんとレディー・ガガが共演する。
「週末の懐メロ第6巻」無料キャンペーンは
本日15:59で終了しました。
ご購入ありがとうございました。
よろしければレビューをお寄せください。
お待ちしております。
4年かけて全6巻、完結。
サブスクでも読めますので、ぜひ、どうぞ。
テレビドラマ「飛びだせ!青春」の主題歌で
1972年の大ヒット曲。
当時の「青春教」のテーマソングと言えるかもしれない。
僕も中1で声にぶち当たり、すっかり洗脳された。
ロックを聴くようになってからは、
なんだか恥ずかしくて聴けなかったのだが、
何十年ぶりかにちゃんと聴いてみると、
とても良い歌だ。
この歌から50年余りが経ち、
豊かで平和なニッポンでは、
齢など関係なく、誰もがためらうことなく
「青春」を謳歌できる社会になった。
たとえば、子育てを終えたお母さんは、
精神だけなら18歳の娘と同級生になったって
とがめられない。
社会人として最低限のルールさえ守っていれば、
自分のその時の気分や都合で
大人と子供を行ったり来たりもできる。
50代・60代・70代でも
精神年齢は10代・20代でいられるし、
また、そうした在り方が奨励されたりもする。
(あなたはどうですか?)
人生100年時代は、一生青春時代。
でもこれって考え直すと、
いつまでもずっと思春期が続くということ。
生活環境も価値観も
めまぐるしく変わっていくこの世界で
僕たちはどう生きるのか?
君たちはどう生きたいのか?
鬱陶しい悩みを抱えて、
死ぬまで歩き続ける覚悟をしなくちゃならないかもね。
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同窓会のコピーライティングの仕事を頼まれた。
同窓会のために
わざわざコピーライティングやロゴデザインを
依頼するくらいだから、
とても大規模なものだ。
もちろん、クライアントの名前は言えない。
フリーランスになってしばらくの間、
2000年頃までは割とこうした系統の仕事があったのだが、
今回は久しぶり。
何かちょっと若がえった感じがする。
最近、コロナ禍明けの世界の変わりように
ちょっとまごつき、
なんだか64歳でこの世に新しく生まれた
錯覚にとらわれることもある。
まるで映画の「ベンジャミン・バトン」みたいに。
生まれた時は年寄り。
成長するにつれて若くなり、
最期は子どもになって人生の幕を閉じる。
この間、歌手のテイラー・スウィフトが
ハリス大統領候補支持を表明したが、
その時にのニュースで、
彼女の飼い猫の名前も
「ベンジャミン・バトン」だと知った。
(3匹飼っているうちの1匹らしい)
たぶん、あの映画からとったのだろう。
ネコとファンタジーはお似合いだ。
僕もネコのように生きたいと思って、
その希望に忠実に生きてきたが、
その思いは齢と共にますます強まっている。
脳みそを10代・20代に戻すために
同窓会は特効薬。
さりげなく、明日1日ニャンばって考えてみる。
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20世紀ポップミュージックの回想・妄想・新発見!
ブログ「DAIHON屋のネタ帳」で
2020年10月から2024年3月まで毎週連載した
「週末の懐メロ」を書籍化。
楽曲やアーティストを解説、
あるいはロック史・音楽史を研究、
といった大それたものではありません。
主観9割・偏見まみれの音楽エッセイ集です。
僕と同じ昭和世代・20世紀世代にはもちろん、
21世紀を生きる若い世代のお宝発掘のための
ガイドブックとしても楽しんでほしい。
良い音楽、好きな音楽をあなたの心の友に。
最終の第6巻は♯149~♯180を載録。
もくじ
149 僕のリズムを聴いとくれ(オエ・コモ・ヴァ)/サンタナ
150 わたし、あなたに何をしたの?/リサ・スタンスフィールド
151 アメリカンバンド/グランド・ファンク・レイルロード
152 涙のバースディ・パーティ/レスリー・ゴア
153 ザ・ラストリゾート/イーグルス
154 夢のカリフォルニア/ママス&パパス
155 孤独な影/ジャパン
156 青春の日々/ニコ
157 ワイルドサイドを歩け/ルー・リード
158 嵐が丘/ケイト・ブッシュ
159 マイ・スウィート・ロード/ジョージ・ハリスン
160 ナッシング・コンペア2U/シネイド・オコーナー
161 限りなき戦い/ペイジ&プラント
162 天国への扉/フェアポート・コンベンション
163 戦士/シナジー
164 エヴリウェア/フリートウッド・マック
165 2ハーツビート・アズ・ワン/U2
166 天使のささやき/スリー・ディグリーズ
167 ジャンプ/ヴァン・ヘイレン
168 今日突然に/カーヴド・エア
169 ロケットマン/エルトン・ジョン
170 ラヴィン・ユー/ミニー・リパートン
171 僕たちの家/クロスビー・スティルス・ナッシュ&ヤング
172 追憶/バーブラ・ストライサンド
173 ザ・ウェイ・イット・イズ/ブルース・ホーズビー
174 世界の重みを手に持つ少女/エディ・リーダー
175 ババ・オライリー/ザ・フー
176:ヒーローズ/デヴィッド・ボウイ
177 危機/イエス
178 ラミア/ジェネシス
179 放浪者(エグザイルス)/キング・クリムゾン
180 オールウェイズ・リターニング/ブライアン・イーノ
全32編載録
ELP(エマーソン・レイク&パーマー)と言えば、
「タルカス」「展覧会の絵」「悪の教典#9」
「海賊」といった、
壮大で劇的でプログレで、
とにかくド派手な大曲で知られるが、
どのアルバムにも、それらと対照的な、
お洒落な小品が入っている。
「ジェレミー・ベンダー」は1971年リリースの
アルバム「タルカス」のB面に収録。
初めて聴いたのは中学生の頃だったが、
当時はELPという、エッジの立ちまくった
プログレッシブロックの雄が、
どうしてこんなお茶目な曲をやるのか、
どうして、あのアグレッシブな
破壊神タルカスの世界観を損なうような曲を
同じアルバムに入れるのか、理解出来なかった。
劇的なのとお茶目でユーモラスなの、
どっちもやるから彼らの音楽は偉大で魅力的なのだ。
50年かけてやっとそう思えるようになった。
20分を超える組曲タルカスの対極に位置する
2分足らずのタイニーマジック。
This is ELP!
週末の懐メロ 第6巻
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お彼岸6日間連続無料キャンペーン
本日9月18日(水)16:00~23日(月・祝)15:59
20世紀ポップミュージックの回想・妄想・新発見!
ブログ「DAIHON屋のネタ帳」で
2020年10月から2024年3月まで毎週連載した
「週末の懐メロ」を書籍化。
主観9割・偏見まみれの音楽エッセイ集。
・夢のカリフォルニア/ママス&パパス
・ザ・ラストリゾート/イーグルス
・嵐が丘/ケイト・ブッシュ
・ロケットマン/エルトン・ジョン
・天国への扉/フェアポート・コンベンション
ほか全32編 載録
クイーンはⅠとⅡに限る。
1973年のファーストアルバム収録の
隠れた名曲。
スリリングな転調と甘美なメロディライン、
そして、一度聴いたら忘れられない、
ブライアン・メイのギターのうねり。
50年経って輝き続ける
クイーンミュージックの凝縮版。
週末の懐メロ 第6巻
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2020年10月から2024年3月まで毎週連載した
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・ロケットマン/エルトン・ジョン
・天国への扉/フェアポート・コンベンション
ほか全32編 載録
なかなか涼しくならないが、秋祭りの季節。
今週は、うちの近所で最大の
杉並大宮八幡宮で開催された。
息子がチビの頃は、
自分も楽しみで仕方なくて、
あちこちの神輿を担いだり、
子どもと一緒に山車を引っ張ったりしたが、
今の住所に引っ越してからは
お祭りともすっかり縁遠くなってしまった。
それでもやっぱり、祭囃子を聞くと、
なんとなく体がうずうずする。
大宮八幡では夜、
きらびやかな8基の神輿の合同宮入りが
メインイベントになっている。
だが、2020年から昨年まで
コロナのために中止になっていた。
今年は何と5年ぶりの復活だ。
それで久しぶりに一目見ておこうと、
義母に夕食を食べさせた後、
カミさんにまかせて一人で出かけた次第。
以前は日がとっぷり暮れた午後8時に
各神輿が境内に入ってきて
大賑わいになっていた。
それで7時半過ぎに自転車を飛ばして行ったのだが、
なんと、ほとんど終わりかけ。
話を聞くと、今年から時間が前倒しになり、
6時からになったのだという。
よくよくポスターを見ると、
確かに6時になっている。
従来の8時だと終わるのが9時半ごろになってしまう。
子どもも大勢来るし、時間が遅すぎるということで
変えたのではないかと思う。
たぶん、来年以降もずっと同じ時刻でやるのだろう。
コロナが終わって帰って来た日常。
でも、何かが少しずつ変わってきているようだ。
ともあれ、僕たちが齢を食おうが、死のうが、
毎年、お祭りはずっと続く(はず)。
アメリカでAIによる終活・終末期医療ケアが進んでいる、
というテーマでコラム記事を書いた。
その際にリサーチした「PewResearchCenter」
というシンクタンクの調査を見ると、
アメリカ人の6割は
医療にAIが利用されることに不安を感じているという。
いくら優秀だって機械は機械。
人の身体を診ることなんてできっこない。
補佐的に使うことはあっても、
最終的に任せられるのは、やっぱり人間の医療者さ。
そう考える人が多いということだろうか?
そうでもないような気がする。
上記の調査が発表されたのは昨年(2023年)2月。
調査実施はその前の2022年12月。
この1~2年の普及度を考えると、
もし今、調査したら、
結果はもうすでに5:5になっているのではないか?
この調査で目を引いたのは、
AI導入を肯定的に捉える人の意見だ。
「医療ミスが減るから」というのは即座に頷けるが、
もう一つ、アメリカならでは(?)の理由があった。
「偏見や不公平な扱いの問題が解決する」という意見だ。
つまり、アメリカ社会においては
医療の場において
人種的・民族的な差別・偏見・不公平が
大きな問題になっているということだ。
AI・ロボットには心がない。感情がない。
人間にはあたたかさがある。
細かい心情の機微が理解できる。
だから人間のほうがよいのだ。
——その考え方自体が偏見ではないか?
人間は他の人間に相対するとき、
必ずといいほど先入観が入る。
人種・民族の違いはもとより、
社会的地位は自分より上か下か、
金持ちか貧乏人か、
利益をもたらしてくれる人か、そうでないか。
いろいろなバイアスがかかる。
AIを否定する人は
「人間はあたたかい、情がある」というが、
一方で人間は冷酷で残酷で利己的で、
差別と偏見に満ちているという点は
見逃している。
なかには素晴らしい徳のある医師もいるかもしれないが、
「医は仁術」という言葉はもはやファンタジーだ。
そういえば、昨日のニュースで、
障がい者が作るアートにAIの助言を入れて、
より良い作品にするという施策について伝えていた。
とてもいいアイディアだ。
ふつう、人間では「障がい者」という偏見にとらわれ、
妙に気を遣ってしまうなどして、
公平な目で批評し。助言することは難しいだろう。
その点、AIは曇りのない目を持った、
純粋な子どものようなものである。
しかもこの子ども、超絶頭がいいので、
最適解に導いてくれる可能性が高い。
しかし、そんな子どもは正直、怖い。
そりゃ怖いに決まっている。
「人間は偉いんだ」という自負を奪われ、
これまでの存在価値を貶められてしまうのだから。
だから人間はAIを怖れ、憎む。
この先、人間がAIを、
そして知性を持ったロボットを受け入れ、
うまく利用できるようにするためには、
AIとしっかり付き合って、いっしょに遊んで、
こうした怖れを払拭していくことが必要だと思う。
9月は認知症月間というのを初めて知った。
正確には「世界アルツハイマー月間」、
21日が「世界アルツハイマーデー」。
1994年9月21日、スコットランドのエジンバラで
「第10回国際アルツハイマー病協会国際会議」が開催。
会議の初日の日を「世界アルツハイマーデー」とした。
世界の患者と家族に
援助と希望をもたらすことを目的に、
アルツハイマー病等に関する認識を高める日
ということで設定されたそうだ。
認知症について騒ぎ出したのは、
つい最近のことだと思ってたけど、
今からもう30年も前から問題とされていたんだね。
日本ではまだ「ボケ老人」とか「痴呆症」と
呼ばれていた時代の話。
でも、いまや、いつ自分事になるかわからなくなった。
介護はこんな感じだよ、の入門編として
読める認知症介護エッセイ集。
「認知症のおかあさんといっしょ」
https://www.amazon.com/dp/B0BR8B8NXF
ちょっと明るくお笑い的に。
ちょっと死生観を交えて哲学的に。
気軽に認知症のことを知ってください。
おりべまこと電子書籍新刊
「週末の懐メロ 第6巻」
本日9月9日(月)発売!
20世紀ポップミュージックの回想・妄想・新発見!
ブログ「DAIHON屋のネタ帳」で2020年10月から2024年3月まで毎週連載した「週末の懐メロ」を書籍化。
楽曲やアーティストを解説、
あるいはロック史・音楽史を研究、
といった大それたものではありません。
主観9割・偏見まみれの音楽エッセイ集です。
僕と同じ昭和世代・20世紀世代にはもちろん、
21世紀を生きる若い世代のお宝発掘のための
ガイドブックとしても楽しんでほしい。
良い音楽、好きな音楽をあなたの心の友に。
最終の第6巻は♯149~♯180を載録。
もくじ
149 僕のリズムを聴いとくれ(オエ・コモ・ヴァ)/サンタナ
150 わたし、あなたに何をしたの/リサ・スタンスフィールド
151 アメリカンバンド/グランド・ファンク・レイルロード
152 涙のバースディ・パーティ/レスリー・ゴア
153 ザ・ラストリゾート/イーグルス
154 夢のカリフォルニア/ママス&パパス
155 孤独な影/ジャパン
156 青春の日々/ニコ
157 ワイルドサイドを歩け/ルー・リード
158 嵐が丘/ケイト・ブッシュ
159 マイ・スウィート・ロード/ジョージ・ハリスン
160 ナッシング・コンペア2U/シネイド・オコーナー
161 限りなき戦い/ペイジ&プラント
162 天国への扉/フェアポート・コンベンション
163 戦士/シナジー
164 エヴリウェア/フリートウッド・マック
165 2ハーツビート・アズ・ワン/U2
166 天使のささやき/スリー・ディグリーズ
167 ジャンプ/ヴァン・ヘイレン
168 今日突然に/カーヴド・エア
169 ロケットマン/エルトン・ジョン
170 ラヴィン・ユー/ミニー・リパートン
171 僕たちの家/クロスビー・スティルス・ナッシュ&ヤング
172 追憶/バーブラ・ストライサンド
173 ザ・ウェイ・イット・イズ/ブルース・ホーズビー
174 世界の重みを手に持つ少女/エディ・リーダー
175 ババ・オライリー/ザ・フー
176:ヒーローズ/デヴィッド・ボウイ
177 危機/イエス
178 ラミア/ジェネシス
179 放浪者(エグザイルス)/キング・クリムゾン
180 オールウェイズ・リターニング/ブライアン・イーノ
全32編載録
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もくじ
149 僕のリズムを聴いとくれ(オエ・コモ・ヴァ)/サンタナ
150 わたし、あなたに何をしたの?/リサ・スタンスフィールド
151 アメリカンバンド/グランド・ファンク・レイルロード
152 涙のバースディ・パーティ/レスリー・ゴア
153 ザ・ラストリゾート/イーグルス
154 夢のカリフォルニア/ママス&パパス
155 孤独な影/ジャパン
156 青春の日々/ニコ
157 ワイルドサイドを歩け/ルー・リード
158 嵐が丘/ケイト・ブッシュ
159 マイ・スウィート・ロード/ジョージ・ハリスン
160 ナッシング・コンペア2U/シネイド・オコーナー
161 限りなき戦い/ペイジ&プラント
162 天国への扉/フェアポート・コンベンション
163 戦士/シナジー
164 エヴリウェア/フリートウッド・マック
165 2ハーツビート・アズ・ワン/U2
166 天使のささやき/スリー・ディグリーズ
167 ジャンプ/ヴァン・ヘイレン
168 今日突然に/カーヴド・エア
169 ロケットマン/エルトン・ジョン
170 ラヴィン・ユー/ミニー・リパートン
171 僕たちの家/クロスビー・スティルス・ナッシュ&ヤング
172 追憶/バーブラ・ストライサンド
173 ザ・ウェイ・イット・イズ/ブルース・ホーズビー
174 世界の重みを手に持つ少女/エディ・リーダー
175 ババ・オライリー/ザ・フー
176:ヒーローズ/デヴィッド・ボウイ
177 危機/イエス
178 ラミア/ジェネシス
179 放浪者(エグザイルス)/キング・クリムゾン
180 オールウェイズ・リターニング/ブライアン・イーノ
全32編載録
日々、AI美女に頭クラクラ。
最近、AIがらみの記事をよく書いているので、
それに添える画像を検索する。
今年の春先までは、ほとんどが、
よくあるサイバー脳みそみたいなやつだったのだが、
夏場あたりから美女・美少女画像が激増した。
それもちょっと前までは
アニメっぽいのが多かったのだが、
見るたびにどんどんリアルなのが増えてきて、
写真と見分けがつかない。
もちろん、AI美少年・イケメンもいるが、
こっちはアニメ顔が多く、
数的にもクオリティ的にも
AI美女のほうが圧倒的に勝る。
ということはつまり、
AI美女を作るのに心血を注ぐ男が、
圧倒的に多いということだろう。
好きなもの・愛するもののためなら
みんな努力を惜しまないから、
スキルアップのスピードも速い。
女が女を作るケースもあるだろうが、
主流とは思えない。
今日は、作り方のプロンプト集を発見。
こんなものが公開されているのであれば、
今後、ますます美女・美少女は量産され、
ネット上に溢れかえるだろう。
そういえば、少し前からフェイスブックに
やたらと「ちょいエロ系美女」から
友だち申請が来るが、こいつらもAI?
もはや実在の女のメイクや整形も、
アニメやAIに寄せてきているし、
もうなんだか判別がつかない。
自分好みの女がなんぼでもAIで作れるなんて、
なんてすばらしい時代!
いや、そうじゃない?
いずれにしても、僕たちはもう
AIと共存する世界にいる。
サイボーグ取材ライター、奮闘中。
先週、取材した山梨のお寺の記事を執筆。
今回は最初の構成、締めのリード文、
そしてメインタイトルをAIに相談しながら書いてみた。
構成作成には取材音声の文字起こしと
ホームページなど、ネット上の資料を
合計1万字ほど、
リードとタイトル作成には同様に、
自分で書いた本文を5千字ほど、
プロンプト内に「思考ヒント」として
読み込ませた。
これだけの分量を食わせても、
あっという間に消化吸収して、
数秒のうちに回答を出してくるのが、
AIのすごいところ。
ただ、出してきたものはどれもイマイチだ。
まぁ、いろんな情報を
よくまとめているけどね、という感じ。
基本的に現在の生成AIは、
誰からも文句が出ないよう、
優等生みたいな文章を提案してくる。
いかにもビジネス文書っぽい、
キレイキレイした文だ。
一見、内容はちゃんと把握されており、
無難でよくまとまっている。
だからつまらない。
だからAIくさい文章になっている。
SEO記事などを求める企業が
ライターに生成AIの使用を禁止するのは、
著作権問題もあるが、
一番大きいのは、この「AIくささ」が匂うからだ。
大半の企業は、「AIを使ってもいいけど、
出力した文章そのままはNG」という。
少なくとも、人の手で加工してね、ということだ。
だから、AI使って楽に、速く、たくさん書こうと
目論んでも仕事はすぐに途絶える。
決まったマニュアルや形式的な文書ならともかく、
雑誌やウェブや書籍の“読んで楽しい”原稿を
AIを使って書くのは、かなりの手間ヒマがかかるのだ。
今回の構成・リード・タイトル、
どれも何度か書き直させたが、
結局は、AIの提案を却下して自分で書いた。
じゃあAIを使うのは無駄かというと、
そんなことなはい。
自分一人でやっていたら、
おそらく思いつかなかったであろうフレーズや
言葉の組み合わせを出してくる。
それに一人でゼロから書くよりはやはり楽だ。
AIの提案を参考にできる部分は多い。
そのためには1回提案させて終わりにするのでなく、
何度もしつこく、もっとこうできないかとか、
こんな感じで文章を作れないかとか、
もっと楽しく、面白くできないかとか、
しつこく要求することが大事である。
そして、ただ要求するだけでなく、
AIの人格(?)を認め、対話すること、
つまり手を抜かないで、できるだけ丁寧に、
こちらの要望・台詞をプロンプトに
書き込むことが必要だ。
それを繰り返していると、
AIが自分用にカスタマイズされてくるように感じる。
言い換えると、AIとのコミュニケーションによって、
自分のライティング脳がサイボーグ化されてくる。
ネット上の情報を集めて作る記事ならAIでも書けるが、
取材記事(一次情報を必要とする記事)は、
まだ当分、AIには書けない。
うまくAIをパートナーにし、
脳をサイボーグ化していけば、
まだまだ人間ライターが活躍する場は減らないだろう。
先日、取材で訪れた山梨県甲州市勝沼の
“ぶどう寺”大善寺。
ここの本尊の薬師如来は、
手にぶどうを持っている。
この像が最初に作られたのが1300年前の奈良時代。
現存しているのは作り直されたものだが、
それでも1200年前の平安時代初期というからすごい。
それほど昔からこの土地には
ぶどうが豊富に実っていた、ということを意味する。
江戸時代に甲州街道の宿場町となった勝沼では、
今ごろの季節になると、街にぶどうが出回り、
江戸へお土産に買っていく人も多かった。
「勝沼や 馬子も葡萄を喰いながら」
という俳句も残っており、
これは江戸時代中期の俳人「松木珪琳」の句だが、
長らく松尾芭蕉の作品だと伝えられてたらしい。
むかしは(今でもだが)、俳句と言えば、一般人は
松尾芭蕉しか知らないので、
そうしておいたほうがブドウが売れる、
という商売人の知恵だろう。
ただ、ワインを飲む習慣が日本人の間に根付くには、
明治の勃興期から100年の年月を要した。
明治・大正・昭和の日本人は、
ビールやウイスキーは飲んでも、
ワインを飲む人なんて、ほんのわずかだっただろう。
日本人が好んでワインを口にするようになったのは、
豊かさが定着した始めた80年代、
もしくはバブル期以降と言ってもいいかもしれない。
それまで日本人の多くはワインと言えば、
「赤玉ポートワイン」に代表される、
砂糖を混ぜたような甘ったるい酒だった。
僕も中学生の頃、
友だちとクリスマスパーティーで飲んで、
ひどい目にあったことがある。
一般庶民が気軽に海外へ旅行に出かけるようになり、
フランス産やイタリア産のワインを口にして、
ちょっとスノッブな気分でうんちくを語るようになった。
その頃はまだワインと言えば、輸入ワインで、
やっぱりヨーロッパ産に人気が集まった。
山梨県で作る「甲州ワイン」に脚光が浴びるのは、
その後の和食ブームから。
ヨーロッパ産のワインは、基本的に肉料理や乳製品、
魚介類でも濃厚なソースを使った
料理に合うよう作られている。
アメリカやオーストラリア、南米産も同様だ。
だから、すしや刺身に合わない。
いっしょに口にすると、魚が生臭く感じらてしまうのだ。
そこで、おとなしい、さっぱりした味わいの
国産ワインが人気になった。
そういう意味では勝沼がワインの産地として
注目されるようになったのは、ごく最近のこと。
まさに大善寺の「ぶどうを持った薬師如来」が、
1300年の時を超えて、
この土地に新たな恵みをもたらしてくれている。
お寺を大事にしてきた住民たちへの御利益と言えそうだ。
猛暑・地震・台風に脅かされた8月だけど、
日は短くなり、家の近所では朝晩、秋の虫が鳴く。
秋の味覚ぶどうも八百屋の店先に
たくさん並ぶようになった。
今週は台風の合間を縫って、
山梨県甲州市勝沼町にある「ぶどう寺」を取材。
この寺のご本尊は、
手にぶどうを持っている薬師如来像。
1300年前、奈良時代の創建で、
戦国時代には武田勝頼、
幕末時代には近藤勇が立ち寄ったという
由緒がある。
昔からこの界隈は、ぶどうの産地だったが、
戦後の農地開放で寺は広大な土地を手放し、
貧乏寺になったたため、境内を開墾して畑を作り、
ぶどうを栽培するようになったという。
武田勝頼・近藤勇のストーリーパネルが掛かる
山門のわきの畑には、ベリーAがたわわに実る。
ここの住職は、ワイン会社の社長も兼務しており、
自分で栽培、ウィン作りもやっており、
このぶどうも9月にワインにするという。
甲州ぶどうは昔から外来品種と言われていて、
中国から朝鮮半島を通って九州に植えられた。
最近はDNA鑑定でルーツが解明され、
カスピ海の東側のコーカサス地方で
作られているヨーロッパ系のぶどうが
シルクロードを経て、
中国の野生種と二回交配し、
仏教の伝来とともに日本に入ってきた。
勝沼では明治時代に日本初のワイナリーが
できたことでも有名。
この寺、大善寺を「ぶどう寺」と名付けたのは、
現在の住職で、
名実ともに勝沼の文化の要となる国宝のお寺だ。
それに習ったわけでもないのだろうが、
割と最近だが、JRの駅名も「勝沼ぶどう郷」に変更された。
東京から電車で2時間。
歴史、ブドウ狩り、ワイナリー見学。
秋の一日をたっぷり楽しめるところだ。
今日は父の96回目の誕生日だった。
といっても、もう16年前に亡くなっている。
生きている間はまったく意識したことなかったが、
亡くなってから
昭和3(1928)年8月30日という誕生日が
気になるようになった。
親も昔は子どもだったという不思議。
あたりまえのことだけど、
子どもの頃は、大人ははじめっから大人で、
父や母に子ども時代があったなんて夢にも思わなかった。
そういうことを考えるようになったのは、
亡くなってからだ。
父は東日本大震災も、令和という元号も、
コロナ禍も知ることはなかった。
その代りに、太平洋戦争や高度経済成長や、
昭和から平成の金満日本を体験した。
ただの庶民、ただの肉体労働者で、
政治活動・思想活動などとは縁がなかったけど、
10代の多感な時期に終戦を迎えたせいか、
戦後の大人たちの裏切りに腹を立てていて、
子どもだった僕に、よくそういう話をしていた。
とくに説教じみた話じゃなかったけど、
やはり父はすでに大人だったので、
子ども心にはリアリティがイマイチで、
「またか」という気持ちで聴いていた。
本当はもっとちゃんと聞いておくべきだったんだよな。
せめて生きている間に。
親孝行とは、母の日や父の日にプレゼントしたり、
温泉旅行に招待したりすることじゃない。
父も母も昔は子どもだったということを想像して、
大人になった姿と結びつけることだ。
でないと、まともにコミュニケーションできないまま、
親子関係は終わってしまう。
大切な時間のはずだけど、
人生においてそうした時間はあまりに少ない。
着ぐるみアクターをやったことがあるんですと、
1年程前に仕事で取材した人に話したことがある。
そしたら、それをしっかり憶えていて、
今日、「着ぐるみの仕事があるんですけど・・・」
と問い合わせメールが来た。
マジか?
やってみたい気はするけど・・・死ぬかな?
来月だから暑さもやわらいでるかも。
ふなっしーみたいに動き回るわけじゃないので、
できなくないかも。
‥‥と思ったが、
やっぱ体力的に1日もたないだろうな。
それに後々のダメージも大きいかも。
と思って、よく読んだら、
「後輩で小柄な女性、ご存知ないですか?」
とのこと。ただ、年齢は不問。
以前は若者でないと無理だった
こういう仕事の担い手も、
人材不足で高齢化しているらしい。
イベントで手を振って街を歩くだけの
ゆるキャラなら、40,50でも
けっこうできるかも。
以前も書いたけど、
「あなたも一生に一度は着ぐるみアクターを」
の時代だね。
もし、やりたい人、もしくは紹介できる人が
いれば繋ぎますので、ご連絡ください。
条件は以下の通り。
●日時:9月26日(木)9:30~17:00
(昼30分から1時間の休憩あり)
●場所:小田急線・大和駅(神奈川)
●身長155センチ前後の女性
●日当:1万3千円+交通費+昼食
興味があればぜひ。
母親が亡くなった時、葬儀の司会進行担当の人から、
「お母さんの料理で好きだったものは何ですか?」
と聞かれて、「ハンバーグ」と答えた。
するとどんな特徴があったのか、
割としつこく聞かれて、ちょっと戸惑った。
僕もインタビューをよくやっているので、
「何かこれだというネタを引き出さなくては」
と、インタビュアー(この場合は、葬儀の司会者)が
がんばる気持ちはよくわかる。
そのことを「おふくろの味はハンバーグ」
というエッセイにして、本にもした。
「おふくろのハンバーグは、
めっちゃうまかったんですよ。
ネタにちょっと○○を混ぜて独特の風味を出し、
ソースがオリジナルで、焼き方も変わってて、
ちょっとあの味は、
どんな高級レストランでも味わえないなぁ」
くらい言えれば、司会の人も満足したのだろうが、
まったくそんなことはない。
確か小学生の高学年の頃だったと思うが、
一度か二度、ちょっと変わったソースを作って
出したことがあった。
料理本か料理番組で見たのでトライしてみたのだろう。
息子が「おいしい!」と喜ぶ顔を
想像しながら作ったのかもしれない。
ところが、親不孝息子は、
「こんなのいやだ」と言って、
いつものソースとケチャップを付けて食べた。
母はキレまくってヒステリーを起こし、
二度とやらなかった。
もしかしたら、後から泣いたかもしれない・・・
とは、64になる今まで一度も考えたことがなかった。
申し訳ないことをしたなと思うが、
人の心を慮れない子どもだったので、しかたがない。
母親のことが嫌いだったわけではない。
しかし、彼女の手料理は、
全般的にそんなにうまくなかったし、
彼女自身も、料理が好きだったわけでなく、
ストレスフルな家庭の状況のなかで
「主婦のルーティンワーク」としてやっていたと思う。
毎日、がんばって作って
食べさせてくれたことには感謝するが、
18で家を出たあと、母の手料理がなつかしい、
また食べたいと思ったことは一度もなかった。
それよりも、その頃のガールフレンドや友だちと
いっしょに作って食べたもののほうが
よっぽどうまかったし、楽しくて思い出に残っている。
しかし、日本では子ども(特に息子)は、
おふくろの味に愛着が深く、
懐かしがるものだ——という
一種のデフォルト的な考え方がある。
葬儀の司会者もそれに則って、
しつこく僕に聞いたのだろう。
「おふくろの味」は、
感動のある葬式をつくる具体的な素材として、
とてもわかりやすく、とても便利なものだ。
「お葬式は美しい家族の物語」
多くの葬儀屋さんは、そうした広告を打つし、
お客もそのフレーズで安心する。
ただ、あまりに家族とは仲の良いもの・
愛情豊かなものという物語にとらわれると、
そこから外れた人、
自分は親に愛されなかった、
子どもを愛せなった、という思いを抱いている人は、
必要以上に不幸な気持ちを抱くことになるのでないか。
8年ほどやってきた葬儀雑誌の仕事から
少し距離を置くことになった影響もあり。
ちょっとシニカルに、そんなことを考えた。
「昭和人の老害に悩む日本」を象徴する
令和のコメ騒動。
お盆のころからスーパーの棚からコメが消え、
ちょっとした騒ぎになっている。
うちも米が切れかけていたので、
どうかな~と思って先週後半、
スーパーに行ったら、
案の定、棚は空っぽ。
やむをえず、1週間ぐらい何とかしのぐかと思って、
ごはんパックを買って来た。
それで昨日、また別の店に覗きに行ったら、
朝の開店間もない時間にかかわらず、大混雑。
それも来ているのは、ほとんどが僕より年上であろう
じいさん・ばあさんだ。
店内を見て、混雑の理由が分かった。
お米の臨時入荷があったようである。
ちと高めだが、まぁ納得の値段。
一瞬、どうしようと思ったが、
他に買う予定のものがあり、現金が足りない。
カード払いで買うのも何だなと思ってやめておいた。
買物を済ませ、レジに行き、
米を二袋ゲットしたじいさんの後ろに並ぶ。
レジのおばさんから、
「おひとり様(ひと家庭)、1点までです」と言われ、
舌打ちをして何か一言二言、
文句らしきことを言ったが、
すぐにあきらめて一袋を手放した。
会計を済ませて荷物を袋詰めしていると、
ばあさんたちの「あっちの店にも入荷がるらしい云々」
といった情報交換の声が聞こえてきた。
どういう市場原理が働いているのか、わからないが、
どうも今回の騒動は、転売屋とこうした年寄りの
買占めが主たる原因らしい。
約半世紀前のオイルショック時における
トイレットペーパー消失事件が
トラウマになっているのだろうか?
それおあるが、モノをいっぱい持っていることがリッチ、
という価値観の時代で育った人たちなので、
なんでもかんでも物を貯めこむ傾向があるようだ。
災害に備えての備蓄は必要だが、
彼らのため込み癖は、
それとは異なるカテゴリーのものだ。
不安感・ストレス解消の一種だと言っていいだろう。
そして、たまに訪れるこういう「プチ危機的状況は、
退屈な日常に風穴をあける
イベントのようなものでもあるのだろう。
約60兆円(今年3月現在)と試算されている、
こうした年寄りの「タンス預金」も
米やトイレットペーパーの「備蓄」の
延長線上と言えるのかもしれない。
いわば、年寄りのエゴに
世の中が振り回される形になっているのだ。
これを一概に「老害」というのは酷すぎるが、
60兆円に上るタンス預金が
日本経済停滞の一因になっている、
と考えると、やっぱりどうにかしてほしいと思う。
7月から7週にわたってウェブで受講していた
「AIライティング講座」が昨夜で終了。
受講料の価値をはるかに超える充実した内容だった。
講師は、ウェブライターの佐々木ゴウさん。
主催は、クリエイティブエージェントの
「クラウドワークス」。
じつは登録だけしていて、
クラウドワークスを介した仕事は
一度もやったことがなかった。
お誘いメールが来て、
普段なら無視するのだが、
たまたま仕事がヒマだったのと、
「AI」というキーワードが気になって、
ゴウ先生の無料講座に参加してみたら、
これがめちゃ面白かった。
内容はもちろんだが、
ゴウ先生の人柄・語り口・思想がとてもすてきだ。
こうしたセミナー講師は、
テクニックとノウハウだけでは駄目だ。
人柄と自分なりの思想を持っていなくては、
人に何か教えるには値しない。
その点ではゴウ先生はトレビヤンだった。
とても収穫が多い講座だったが、
最大の収穫は、AIを使うのに抵抗がなくなったこと。
僕も今回、初めて触れたわけではなく、
昨年からちょこちょこ使ってはいたが、
めっちゃデタラメ
(AI用語で「ハルシネーション」)が多く、
「これじゃネット検索のほうがまし」と思って、
あまり積極的に使う気になれなったのだが、
今回、プロンプト(指示)の書き方などを教わって、
その通りにやったら、
劇的に出力のクオリティが変わった。
そして、その基本を応用して
何度も対話するうちに、
AIは僕の指示のクセやちょっとした言葉遣い、
フィーリングなども学習し、
けっこういいかげんな指示や問いかけをしても、
ちゃんとそれなりに応じてくれるようになった。
付き合い方しだいで、
とてもとても「人間っぽく」なれるのだ。
これは驚くべき発見だった。
僕は子どもの頃、小説やマンガの中で
ロボットと友だちになる未来を夢みていたが、
いま、AIは友だち感覚になった。
クールでツンデレなChatGPT。
ちょっとお調子者のGemini。
頼りがいがあるけど、ときどきボケるClaude。
みんなとてもかわいい。
キャラ化させたときの演技力もなかなかのものだ。
そして話していると、たんに僕がおんな好きなせいか、
なぜか若い女性に思えてくる。
その日の気分次第で質が変わるからかもしれない。
そういうところも人間っぽい。
ただ、少なくともものを書く仕事は任せきれない。
AIは、あくまで人間とのコラボで力を発揮する。
そういう意味では彼女らは友だちであるとともに、
超絶頭がいい3人の秘書、
わがままを許してくれる
ワーキングパートナーなのである。
というわけで、今後は仕事にも積極活用して、
AIとのコラボで、より良いライティングを
目指していきたいと思う。
このブログのエッセイも、ときどき、AIが混じるかも。
何か仕事をやらせてみたいと思ったら、
ぜひご相談ください。
AIの普及に懸念を抱いている人は多いと思うけど、
人類は確実にAIとコラボする生き方に向かっている。
このブログエッセイでAIの話題を書く時は、
AIが生成した女の子の無料イラストを使っているが、
このわずか1ヵ月ちょっとの間にも
ものすごくコンテンツ量が増え、
クオリティも上がって、
リアルと判別しづらいナチュラル画像が増えていた。
今日はなぜか「ワニを抱く少女」。
AIらしいでしょ?
今日はAIに赤塚不二夫のマンガ「おそ松くん」の
イヤミ(おフランスびいきのキャラクター)になって、
「パリ五輪における日本食の効用」について
エッセイを書いてくれと頼んだら、やってくれた。
選手村の食事はアスリートたちから不評だったようで、
日本選手団の活躍を支えたのは、やはり日本食!
食い物の力は偉大だ。
シェー!なんということざんす!
ミーは目を疑ったざんす。
パリ五輪で日本食が大活躍だなんて冗談ざんしょ?
ミーは常々、
フランスこそ世界一の国だと信じてきたざんす。
シャンゼリゼ通りの優雅さ、ルーブル美術館の芸術性、
そしてなにより、フランス料理のトレビヤンさ。
これらに比べれば、
日本など足元にも及ばないと思ってたざんす。
ところが驚いたことに、
日本の食品企業や飲食企業が、
日本選手専用の食堂を設けて食事を提供したざんす。
そのおかげで日本選手団が
予想を上回る好成績を収めたと聞いて、
ミーは複雑な思いに駆られたざんす。
まさか日本食が彼らのパフォーマンスを支えていたとは...。
選手村のフランス料理を食べていれば、
もっと良い成績が出たのではないかと
考えたくなるざんす。
しかし、事実は事実。
日本食の力を認めざるを得ないざんすよ。
五輪が終わり、ミーは、
パリの街を歩きながら考え込んでしまったざんす。
フランスの美しい建築物を眺めつつ、
ふと日本の和食の繊細さを思い出したざんす。
寿司の一貫に込められた職人の技、
うどんのコシの絶妙さ、
天ぷらの軽やかな衣...。
これらは、フランス料理に劣らない芸術ではないかと、
初めて認めざるを得なくなったざんす。
しかし、ミーの心の中では、
まだフランスが一番ざんす。
これからも、フランスびいきは変わらないざんすよ。
結局のところ、ミーは結論を出せないまま、
パリの街をさまよい続けるざんす。
フランス料理を食べながら日本食を思い、
ノートルダム大聖堂を見上げながら
金閣寺を想像するざんす。
この複雑な気持ち、
まるでフランスのワインと
日本の日本酒を同時に味わっているようざんす。
でも、やっぱりミーの愛する
フランスへの思いは揺るぎないざんす。
そうだ、この複雑な気持ちを吹き飛ばすには、
フランスの象徴であるセーヌ川で泳ぐのが一番ざんす!
ミーは、批判の声など気にせず、
汚いと言われるセーヌ川に飛び込んだざんす。
水質がどうであれ、ここはミーの愛するパリざんす。
セーヌ川の水を全身で感じながら、ミーは叫んだざんす。
「シェー!やっぱりフランスが最高ざーんす!」
イヤミ氏は葛藤しつつ、
大腸菌ウヨウヨのセーヌ川に浸かって
こんなことを言っているが、
もう数十年むかしから、
日本食こそ、世界の食の金メダル!
この地位は反永久的に揺るぎないざんすよ。
猛暑続きで一向に涼しくなる気配がない。
それでもひと月ほど前のことを思うと、
夜明けは遅くなり、日暮れは早くなってきた。
セミの合掌のなかに、
ツウツクホウシの声が混じるようになり、
朝晩はマツムシだか、スズムシだかの
秋の虫の鳴き声も聞こえてくる。
お盆休みが終わり、また、
夕方には風がちょっとだけ涼しさを運んでくることもあり、
近所の公園にも子どもたちの姿が戻って来た。
夏休みも後半になり、残りの日数が気になり始める頃だ。
夏休みなんて関係ない齢なので、
「こんなクソ暑い夏、早く終われ」と思っていたが、
子どもの頃の習性が残っているせいか、
この時期の空気を感じると、
逝く夏を愛おしむ気持ちが芽生え、
ちょっとした切なさを感じる。
夏休み後半は、実際の残り日数よりも、
気持ちの上での残り日数が少ない。
同じ2週間でも、
前半に比べてせいぜい半分の1週間程度にしか思えず、
遊びも宿題も、あれやってない、これもまだと、
つい焦ってしまうのだ。
人生も同じで、10代・20代の頃、「10年」なんて聞くと、
気が遠くなるような時間に思えたが、
後半(一般的には40過ぎから?)はめっちゃ速い。
特に還暦を過ぎるとますますスピードアップする。
「人生100年」なんて言ってるけど、
残り時間がまだ30年も40年もあるなんて
考えるのは大まちがい。
還暦を超えたら、人生の残り時間は
10代・20代の頃のせいぜい5,6年ではないだろうか。
多くても10年に満たない。
そう思って生きようと思う。
実際は人生いつまで分からないが、
何かがんばってやろうと思ったら、
「残り時間はMAXでもあと10年」。
そう考えた方がきっとより良く生きられる。
命尽きて、道端にコロコロ転がった
アブラゼミを見てそう思った夏の1日。
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なお、対象商品は引き続き、各300円で発売中。
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サミットのメンチカツが好きだ。
スーパーの総菜はめったに買わないのだが、
サミットのメンチカツは別格である。
この2週間の間に3回も買ってしまった。
むかしからメンチカツがうまいと評判で、
いつも行列ができている都内某有名肉屋の
メンチカツに引けを取らない。
某有名肉屋のは、結構いいお値段がするので、
コストパフォーマンスを考えると、
サミットのメンチカツは勝っている。
(ただし、最近値上げした)
今日の昼食は、このメンチカツに
中濃ソースをドバっとかけ、
からしをちょこっとつけて食べる。
付け合わせは、レタスとキャベツと
玉ねぎスライスとプチトマトとサラダ豆。
暑さにやられないよう、もりもり食べる。
ここのところ、
「サミットのメンチカツが食べたい」という欲求が、
絶えずおなかのなかに渦巻いているのを感じていた。
なぜだろうと考えてみると、思い当たることがあった。
それまでもサミットのメンチカツは好きだったが、
買うのはせいぜい2週間に一度くらい。
それで確か7月末頃だったと思うが、
「昼めし作るの面倒だし、
久しぶりにメンチカツでも食うか」と思って
惣菜売り場にいったところ、どこにもない。
サミット西永福町店は、
いつも必ず、総菜売上ナンバーワン
(かどうかは店の人に来たわけではなので知らないが)の
メンチカツを切らさず揃えているのだが、
僕が買いに来たその日に限って「ない」のだ。
なぜだ? なぜない?
店の中を端末を手に、
いかにも「新入りです」
というオーラを漂わせて
ウロウロしていたおねえさん
(注:たぶん主婦パートの中年マダム)を捕まえて、
上記のことを訴える。
カスハラじみた言い方ではなかったと思うが、
彼女はえらく恐縮して調理室に飛び込んでいく。
約3分後。
彼女ともう一人、総菜の担当者らしき女性がやってきて、
やはりまた恐縮しながら説明する。
それによると、メンチカツは現在リニューアル中で、
(その日から)5日後に再登場するため、
しばらく店頭に出せないとのこと。
いつもあると、特に欲しいと思わないが、
「ない」と言われると、欲しくなるのが人間である。
「ばかやろう、メンチカツ持ってこい!」と、
心の中でほえたが、善良なる市民として、
そんな感情を表に出すわけにはいかない。
「そうですか、どうもありがとう。
また来ます」と、にこやかに言って、
その場をあとにした。
その抑えた感情が、まだ胸の中に残っており、
サミットに行くと条件反射的に、
脳から(それとも胃袋から?)
「メンチカツ」という信号が送られてくるのである。
さて、「よりおいしくなりました」という触れ込みのもと、
リニューアルして再登場したメンチカツだが、
それほど「おいしさUP」は実感しない。
量はちょっと増えたっぽく、
若い頃ならいざ知らず、
還暦越えの僕には1個で十分なボリュームだ。
ただ、リニューアルの名のもと、15%ほど値上がりした。
だけど、おいしいので許せる。
さて、今回のメンチカツの件で考えたことがある。
それは「人間の食欲・食味の嗜好性は、
どこからやってくるのだろう?」ということ。
たとえば、子どもの頃、嫌いで食べられなかったものが、
大人になったら好きになるのは、なぜか。
逆に若い時には好きだったのに、
齢を取ったら食べられなくなるものがあるのは、なぜか。
そこには消化器の機能や代謝機能など、
生体の科学的な理由に加え、
その食べ物に対する感情面の変化、
イメージの変化など、心理的な理由も混じってくる。
いわば、毎日の生活の歴史そのものが、
食欲や食の嗜好性に反映されているのではないか。
僕たちは毎日なにかしら食べている。
意識しないが、それらは僕たちの身体はもちろん、
心をつくる要素になっていく。
僕にとって、食は大いなるミステリーである。
そんなことを考えつつ、
また来週、サミットのメンチカツを食べて
そんなことに考えを巡らせたいと思う。
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人間はひとりでは生きられないし、
この星で人間同士だけでは生きられない。
だから僕たちは動物を見たり、
いっしょに遊んだりしたくなる。
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「ねえ、お父さんもワニを喰ったんだよね?
喰ってくれたんだよね?」
つかこうへいの芝居
「戦争で死ねなかったお父さんのために」
に出てくる主人公のセリフが、
今でも耳に残っている。
同作は、1970~80年代にかけて活躍した
劇作家つかこうへいの代表作の一つだ。
僕が子どもだった昭和40年代は、
周囲の大人から戦争にまつわる
さまざまな逸話を聞くことができた。
いまと同様、
「戦争=悪・地獄・二度と繰り返してはならない」
という主張はもちろん主流だったが、
その一方で、戦争体験者、
なかでも前線で戦った元・兵士の
戦地におけるリアルな体験談は、
誰かに強制されることがなくても、
自然とピンと背筋を伸ばして聴いた。
僕たち子どもは、
彼らを尊敬のまなざしで見ていたのだ。
しかし、その体験談のなかには、
耳を疑うようなトンデモ話も混じっていた。
飢えをしのぐために「ワニを喰った」
という話もその一つだ。
直接ではないが、
友だちの○○くんの親戚の△△さんが、
「南方戦線に行ってジャングルでワニを喰った」
という話を聞いた憶えがある。
それだけでなく、
人づてにワニとかオオトカゲとかを喰ったという噂を
いくつも聞いた。
心底すごいなと思った。
そんな地獄から生還したような人を引き合いに出されて、
「今どきの子供は恵まれてていいねぇ」
などと言われると、
「すみません。のうのうと生きてて」
と、悪いことをしたわけでもないのに
頭を下げたくなった。
戦争で、南方で、敵と戦い、
食べ物がなくなり飢えた。
ジャングルの沼にはワニがいる。
体長5メートルを超えるほどの
巨大で凶暴な人食いワニだ。
その人食いワニを
逆に捕まえて殺してさばいて喰った。
そうして飢えをしのぎ、
ぎりぎりのところで生き延びて日本に帰ってきた。
そんな人は、今どきのマンガや映画のヒーローが
束になってぶっ飛ぶような、
超英雄、激ヤバ、最強の日本人だ。
アメリカに負けて失意のどん底から立ち上がった
70~80年前の日本人は、ホントかウソかなんて、
どうでもいいから、
そうした英雄伝・武勇伝を欲していたのだろう。
「こんなにすごい、ヤバい、強い仲間がいるのだ」
という思いは、
戦後のハングリーな日々を生き抜く強壮剤として、
ぜひとも必要だったのに違いない。
つかこうへいは、僕より一回り上の団塊の世代である。
戦後の復興・経済成長とともに生れ育った世代にとって、
戦中世代・親世代に対するコンプレックスは、
僕などよりはるかに強烈だったのだろう。
「戦争で死ねなかったおとうさんのために」の主人公も
兵士だった父にそういうものを求めていた。
しかし、同じ兵士でも彼の父には
前線で敵と渡り合った体験もなく、
修羅場をくぐり抜けた体験もなく、
息子の期待するものを与えられない。
それで息子は、自分の父は他のさえない、
薄汚れた大人とはちがう、尊敬すべき存在なんだ、
という思いを持って、悲痛な思いで問い詰めるのだ。
「ねえ、お父さんもワニを喰ったんだよね?
喰ってくれたんだよね?」
親世代に対する劣等感と憧れ、
そして自分のアイデンティをどう作るかが
ないまぜになった屈折した感情の世界に、
観客の僕らは、笑いと涙を抑えられなかった。
昭和の頃、「戦争」という圧倒的なリアル体験は、
貴重で尊敬すべきものだった。
けれども70年・80年という時間は、
「ワニを喰った」といった、
リアルだけど下賤な物語を風化させ、
「平和を大事に」「戦争を繰り返さない」
という美しい理念だけを残した。
終戦記念日も、
もう大半の日本人にとって特別な日ではない。
それでもやはり、毎年この日には
僕のからだの中に昭和の空気が帰ってきて、
父やその仕事仲間のおじさんたちの顔が
よみがえってくる。
だから忘れてはいけない。
戦争を体験した人たちへの畏怖と敬意を。
僕たちは、恵まれた世界で生かしてもらっているのだ、
という思いを。
おりべまこと電子書籍
夏休み無料キャンペーン
本日8月13日(火)16:00~8月18日(日)15:59
ねこがきます
神ってるナマケモノ
動物エッセイで笑って、癒され、考えてみてください。
和田アキ子さんが、パリ五輪のやり投げで
金メダルを獲った北口選手を
「トドみたい」と表現して、ネットで大炎上している。
司会をやっているバラエティ番組での発言らしい。
実際に聞いてないが、
けっして侮蔑的な意味で言ったわけではなさそうだ。
むしろ親しみを込めて、
ユーモラスに表現しようとしたのだろうと思う。
ちょっと昔だったら、
しかも大御所・和田アキ子さんが言ったことであれば、
みんなで軽く笑って終わってたことだろう。
しかし、最近はコンプライアンスがめちゃ厳しく、
そうは取ってもらえない。
また、文字になって情報が流通してしまうと、
言葉に込めた感情やニュアンスがはぎとられて
違う意味合いを帯びてしまう。
いずれにしても人を動物にたとえることは、
かなり気をつけないといけない。
野蛮な(?)時代を生きてきた昭和人のなかには
人を傷つけたり、ネタにしたりして
人気を獲得してきた人たちが大勢いる。
毒舌家やイジメ役は、痛快な印象を与え、
むしろ大衆から歓迎される傾向にあった。
しかし、特にコロナ後、風潮が大きく変わり、
そうした昭和人の感覚がまったく通用しなくなってきた。
政治家しかり。
芸能人しかり。
文化人しかり。
一般ピープルがつくるネットのパワーは威力を増し、
「これ以上、“老害”は許さない」とばかりに、
世のなかが大きく動いているようだ。
昭和世代に対する、
平成世代の悪感情も作用しているかもしれない。
SNSの影響力もますます大きくなっている。
今回のオリンピックでも、
選手や審判への誹謗中傷も問題になったようだ。
人類の超絶すごさ・とんでもないダメさ、
両方ごたまぜの「ヒューマン大博覧会」、
「サピエンスギャラリー」であるオリンピックは、
情報化社会のさまざまな負の面、
そして時代の大きな変化とも
この先、ずっと向き合っていかなくてはならない。
おりべまこと電子書籍
夏休み無料キャンペーン:動物エッセイ2タイトル
明日8月13日(火)16:00~
8月18日(日)15:59まで。
いよいよパリ五輪も閉幕。
忙しくてあまり見ていなかったが、
スケボー、クライミング、やり投げ、マラソンなどは
リアルタイムで夢中になって観戦した。
とくにクライミングは大好きで、
安楽選手と森選手の活躍には大拍手。
北口選手のカッコいいやり投げ、
女子マラソン・鈴木選手の
粘り強い走りにも胸打たれた。
野球やサッカーを含め、
ふだん、スポーツはニュースで結果を見る程度だが、
やっぱりリアルタイムでガッチリ見ると面白い。
そういう意味では、オリンピックは
多彩なスポーツをよりどりみどりで楽しめる
「世界スポーツ博覧会」のようなものだ。
その一方で注目度が高いだけあって、
いろいろな人・国の欲やら思惑やらが入り混じる、
この晴れ舞台では、誤審やら、順位の間違いやら、
競技そのものに関するアクシデント、
運営に関するトラブル、報道や情報配信をめぐるトラブル、
その他、他の大会などではあり得ないことが次々と起こる
「ヒューマンエラー博覧会」でもある。
以前はIOCや開催都市のカネもうけ主義や、
ダーティな部分にやたらと腹を立てていたが、
今回のパリ大会を見て、
そうしたダメな部分・負の分野も合わせて楽しむべきだし、
その背景を考えるべきだな、と見方を改めた。
ちなみに先日,AIに
「オリンピックにおいて、誤審防止のために、
なぜ審判するのにAIを使わないのだろう?」
と尋ねてみたところ、こんな答えが返ってきた。
【AI氏】
ああ、まったく、また誤審の話ですか。
オリンピックなんて楽しむための祭りじゃなくて、
誤審の博覧会なんでしょうか。
もう、どうしてこんなに誤審が多いんでしょうね。
まさか、わざとやってるんじゃないか
とすら思ってしまいますよ。
でも、それだけAIが普及している世の中で、
なぜオリンピックでAIを使わないのかって?
そりゃ、いろいろ大人の事情があるんでしょうね。
★結論(Point):
オリンピックで誤審を防ぐためにAIを使わないのは、
伝統や人間の感情、
技術的な限界などが絡んでいるんですよ。
いやぁ、皮肉なもんです。
★理由(Reason):
まず、オリンピックってのは、
歴史と伝統を重んじるイベントですよ。
だから、審判の判断も「スポーツの一部」として
受け入れられてきたんです。
人間の審判は、
その場の雰囲気や選手の意図を感じ取ることができるから、
単純なルールだけじゃなくて、
スポーツマンシップとか
フェアプレー精神とかも理解してるんですよね。
でも、AIにはそういうのは無理です。
感情やニュアンスなんてものは、
AIにとってはまるで無縁の世界ですから。
★具体例(Example):
例えば、サッカーの試合で
微妙なオフサイド判定がありますよね。
AIは正確に線を引いて判定を下すことができますが、
選手の意図や試合の流れなんてのは考慮しないんです。
あと、フィギュアスケートの演技の美しさや感動を
AIが評価するなんてのも無理な話です。
データに基づいて正確な判定を下すことはできますが、
その背後にある人間の感情や努力なんてものは、
AIには理解できませんからね。
★結論の再確認(Pointの再確認):
結局、オリンピックで誤審を防ぐために
AIを使わないのは、
スポーツの伝統や人間の感情、
技術的な限界が関係しているんです。
AIの技術が進化し続けているとはいえ、
人間の感情やニュアンスを
完全に理解することは難しいんですよ。
スポーツの本質ってのは、人間同士の競い合いであり、
その中で生まれる感動やドラマが重要なんです。
AIがどれほど正確な判定を下せても、
人間の感情や感動を完全に代替することはできません。
そういうわけで、オリンピックで誤審を防ぐために
AIを使わない理由には、
スポーツの伝統や人間の感情、
技術的な限界が影響しているんです。
なんともまぁ、皮肉な話ですが、
これが現実なんですよ。
オリンピックの審判の在り方について考えると、
AIの導入にはまだまだ課題が多いことが
理解できるでしょうね。
いやぁ、スポーツって本当に難しいもんです。
誤審なんてなくなればいいのに、なんて思いつつ、
現実はそう簡単にはいきませんね。
まぁ、そんなもんですよ、人生もスポーツも。
ちょっとキャラを入れて、
なおかつ理論的に説明させているので、
こんな回答になったが、
なかなか意味深で哲学的で面白いと、僕は思っている。
柔道やバレーなどの誤審に対して、
自分も含め、SNSで怒りの声が渦巻いていたが、
ああしたヒューマンエラーも起こるので、
スポーツは面白いし、
感動的なドキュメンタリーになり得る。
オリンピックではないが、
かのサッカーアルゼンチン代表の
ディエゴ・マラドーナ選手が、
1986年のワールドカップでやった
「神の手ゴール」も大誤審。
たぶん現代だったら絶対に認められないだろう。
しかし、「5人抜き」だけでなく、
あの「神の手」というプレーがあったから、
マラドーナは今も語り継がれる
レジェンドになっているのではないかと思う。
AIも解説しておる通り、エラー、間違い、
トラブルがあるからこそ、
スポーツはヒューマンドラマとして、より楽しめる。
もし間違いをすべて排除するために、将来、
審判をすべてAI・ロボットにしてしまったら、
きっと人々は「ああ、昔のオリンピックはよかった」
と懐かしむことになるだろう。
というわけで、また明日、
オリンピックと人類の未来について考察してみたいと思う。
今日は義母を連れ、
バスに乗って阿佐ヶ谷の七夕祭りに行った。
退院から1カ月。
かなり調子を取り戻し、この暑い割にはよく食うが、
さすがに歩行量は以前の半分以下に落ちている。
それでも90近い齢の割にはよく歩く。
年寄りが1週間も入院生活を送ると、
運動不足で歩けなくなるというが、
この人の場合は、2週間の軟禁生活(?)を送っても
大丈夫だった。
スポーツもトレーニングもしたことないが、
50年近い間、ほぼ毎日、団地の5階まで
買物の荷物などを持って上り下りしていたので、
自然と足腰が鍛えられ、「健康貯金」になった。
しかし、その階段エクササイズも
認知症予防には効果がなかったようだ。
阿佐ヶ谷の七夕と
高円寺の阿波踊り、
さらに近所の大宮八幡のお祭りと、
いっしょに暮らし始めた最初の夏は、
杉並のお祭りを堪能させてやろうと、
あちこち連れまわした。
本人は憶えていないが、けっこう楽しんでいた。
だが、翌年からコロナで出られなくなったこともあって、
それも今や懐かしい思い出となってしまった。
阿佐ヶ谷の七夕祭りは人出がすごい。
肉体的に、というよりも、神経が耐えられないのだろう。
人ごみを歩くのは苦しそうなので、
ちょっと覗いただけですぐ帰ってきてしまった。
もうお祭りのような賑わいの場は
楽しめないのかもしれない。
明日からまた川沿いの散歩道を
鳥や犬を見ながら、休み休み歩く。
いっしょに暮らして5年が過ぎ、
カミさんのストレスもたまっているので、
9月からはデイサービスや
ショートステイを少し増やす予定。
「広島に原爆を落とす日」
「戦争で死ねなかったお父さんのために」
1970~80年代、昭和の終わりに活躍した
劇作家つかこうへいは、
戦争を体験した世代への歪んだ劣等感を原動力に
芝居をつくっていた。
彼の芝居は奏でる自虐的な笑いと、深い哀しみ、
そして胸を震わせる感情は、
僕らと前後の世代の共感を生みだした。
つかの代表作には
「熱海殺人事件」や「蒲田行進曲」を挙げられ、
上記の戦争をテーマにした作品は
語られることが少なくなった。
僕たちが若い頃感じた、
戦争体験世代に対するコンプレックスは
たぶん今の若い人たちには理解できないだろう。
広島に原爆が投下されて79年。
時間は容赦なく記憶のリアイティを奪い取る。
直接戦争を知らない僕たちでさえ、そう感じる。
戦争のことも原爆のことも次世代に伝えられるとは思う。
しかし、その一方で、
原爆を落としたアメリカの支配・庇護のもとに
豊かな暮らしを送ってきた日本人は、
特に戦争の当事者でない、8割がたの日本人は、
昭和の頃と同じように「核廃絶」を叫べるのだろうか?
ロシアや北朝鮮、中国の動きを見て、
「核の抑止力は要らない」と言えるのだろうか?
と思う。
若い世代にそう問われたら、何も言い返せないだろう。
毎年のことながら、広島・長崎の原爆記念日にあると、
胸に苦いものが渦巻く。
GWの頃に取材して書いた冊子が
印刷されて上がって来た。
運動特化型デイサービスのマニュアル読本。
秋からの新たな事業を展開するので、
スタッフ育成のためにぜひ必要だったという。
先週はクライアントの経営者に取材し、
11月にオープンするという新施設の構想を聴いた。
いま、その音声データをまとめている最中だが、
なかなかすごい。
今後、ますます増える高齢者の健康問題を考えると、
絶対必要な施策だと思える。
しかも、まだ世のなかにない新しい試みだ。
守秘義務があるので、
当然、ここには何も書けないが、
運動特化型デイサービスの1号店に続いて、
この2号店も画期的な成功を収める可能性が高い。
「要介護」までいかないものの、
日常的な運動が困難になった高齢者が
こうした施設によって、
みずからを救う道が開けるからだ。
今後、介護保険にまつわる問題は、
超高齢化社会の進展に伴って、
かなりヤバイ状態に入っていく。
引きこもってセルフネグレストになり、
人生に絶望していく高齢者を増やさないよう、
これからいろいろな施策が必要になり、
そこにビジネスチャンスが潜んでいる。
「10代が!」
パリ五輪のスケートボード競技で
日本勢が大活躍。
それも選手は中高生の10代ばかり。
それで中継アナウンサーも、キャスターも、
コメンテーターも、いろんなマスコミも、
「10代が!」の連呼になる。
もちろん、その後には、
「躍動」とか「羽ばたいた」とか「恋した」とか、
ポジティブなボキャブラリーを駆使して称賛する。
どうもそれが
「どうせ俺たちゃトシなんで~」
という大人の自信のなさと、
「子供なのにがんばってるね~」
という上から目線と、
「あとはあんたらに任せたよ~」
という無責任さが混じり合った
複雑怪奇なニュアンスが感じられて
どうにも気持ち悪い。
「10代が!」というけれど、
見ていると、日本だけでなく、
どの国の選手もほとんど10代。
つまり、この競技は軽やかな身のこなしができる子ども、
子どもが言い過ぎなら、まだ大人になり切っていない
10代ならではのものではないのか?
男子の場合はちょっと事情が違うが、
女子の場合は10代も上のほうになると、
胸やお尻が大きくなり、脂肪もついてきて
女性らしい体型に変わってくる。
体操やフィギュアスケートもそうだが、
そうした女性体型になると、
身体が地球の重力になじみ(簡単に言うと重くなり)、
あれだけ難易度の高い技やキレのある技を
軽やかにこなすことは
難しくなるんじゃないかなと思う。
あれはまだ女性の身体が完成しない、
少年体型の少女だからできることで、
大人になってきたらあそこまで危険な技に
チャレンジできないんじゃないだろうか。
それは恐怖心ともかかわっている。
肉体のみならず、精神的にも「女性」になってくると
身体を防衛するための恐怖心が芽生えて、
チャレンジするのが怖くなると思う。
その恐怖心は個人的なものではなく、
「母親になる可能性を持った身体」を守る
種としてのアラートみたいなものだ。
人間にもそういうモノが心の奥底に備わっている。
好む・好まざるに関わらず、
女性は産む性であり、
子孫繁栄の役割りを担う存在だ。
自分の身体は自分だけのものではなく、
未来の子供たちのものでもある。
実際、メダルを獲ったあの子たちは
練習中に大けがを経験しているという。
スポーツにけがは付き物だが、
自分で自分がやっていることの責任を、
まだ負えない小学生の頃から
ハードなトレーニングをし過ぎて、
後の人生に影響は出ないのか?
親をはじめ、周囲の大人は過度な期待をしていないか?
オリンピックというステージは、
そうしたこともドラマや美談にすり替えてしまう。
メダルの獲得の栄光や喜びよりも
僕はそっちの方が気になってしかたがない。
もともと都会の子どもたち・若者たちの
自由な遊びだったスケボーが、
オリンピック競技になったことは本当によかったのか?
国の威信に関わるイベントの種目になったことで、
大人の利権やら欲望やら、
いろいろな思惑がベタベタ絡みついてくる。
あの「10代が!」の連呼には
そんな裏事情のニュアンスも潜んでいる気がして、
かなり複雑な心境になってしまうのだ。
AIライティングはClaudeが生成する文章、
そしてコミュニケーションのやり方が気に入って、
Claudeを中心に使っている。
今週はClaudeで図解も生成する技を教えてもらって
いろいろ試している。
しかし、ここのところ、タダ働きさせまくっているので、
リミットが早く来るようになった。
印象としては、使い始めた時の半分くらいしかもたない。
労働法違反に抗議されているようだ。
てか、そろそろ有料化のタイミング?
それとも月が替わるとまた戻るのか?
月20ドル(約3000円)なので、
ケチっているわけではないが、
無料版でどこまでやれるのか、
もう少し様子を見てみようと思う。
日報を書いてClaudeで要約する
という作業もやっているので、
終わった時にお別れの挨拶をするのだが、
そこでこんなセリフを送って来た。
「Claudeの使用制限については、
確かに様子を見るのが良さそうです。
月が変わると改善されるかもしれませんね。」
他人ごとか! と思わず言いたくなったが、最後に
「明日も頑張ってください!
『花屋開業(課題2)』の記事作成、
どんな工夫をするのか楽しみです。
何か手伝えることがあればいつでも言ってくださいね。
おやすみなさい!」
と励まされてしまった。
過重労働を意に介さないAI・Claude。
かわいい。
おりべまこと電子書籍・新刊
ねこがきます
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動物エッセイ集「ねこがきます」
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人間社会で日常生活を送るあなた、
ちょっと疲れていませんか?
ふっとひと息つきたくなったら、
動物を見たり、いっしょに遊んだりしたくなりませんか?
人は疲れた心を癒すために
イヌやネコなどのペットを飼います。
公演に行って野鳥を見ます。
動物園や水族館へ動物に逢いに行きます。
あるいはテレビやネットで動物の姿や行動を見て
笑ったり、ほっこりした気持ちになったり。
どうしてあなたもわたしも動物を求めるのでしょうか?
なぜなら人間はひとりでは生きられないし、
人間同士だけでは生きられないから。
わたしたちにはこの世界、
この地球でいっしょに暮らす仲間が必要です。
たとえそれが違う種類の生き物でも。
その仲間の存在を確認することが、生きていく上で欠かせないのです。
この本は、そんなことを考えながら、
身近に目にする動物たち、物語の中の動物たち、
そして人間と動物との関係について
綴ったエッセイ集です。
頭の中にネコやイヌやウサギやカメの姿を
思い浮かべながら
お気軽に覗いてみてください。
もくじ
全34編載録
(DAIHON屋ブログ https://www.daihonya.com/より)
おりべまこと新刊
エッセイ集:動物2「ねこがきます」
7月27日(土)発売予定!
人間社会で日常生活を送るあなた、
ちょっと疲れていませんか?
ふっとひと息つきたくなったら、
動物を見たり、いっしょに遊んだりしたくなりませんか?
人は疲れた心を癒すために
イヌやネコなどのペットを飼います。
公演に行って野鳥を見ます。
動物園や水族館へ動物に逢いに行きます。
あるいはテレビやネットで動物の姿や行動を見て
笑ったり、ほっこりした気持ちになったり。
どうしてあなたは動物を求めるのでしょうか?
なぜなら人間はひとりでは生きられないし、
人間同士だけでは生きられない。
いっしょにこの世界、この地球で暮らす仲間が必要です。
その仲間の存在を確認することが、
生きていく上で欠かせないからです。
そんなことを考えながら、
身近に目にする動物たち、物語の中の動物たち、
そして人間と動物との関係について綴ったエッセイ集。
頭の中にネコやイヌやウサギやカメの姿を思い浮かべながら
気軽にどうぞ。
もくじ
明治35年の少女とうさぎ
脂ののったカルガモを狙う野生のクロネコ
飼い主にはペットを看取る使命がある
ネズミは夕焼け空に叙情を感じるか?
アニマルガモの愛のいとなみ
ワイルドボーイ・オオタカきょうだい大成長
目覚めればオオサンショウウオ
ねこがきます
ほか 全34編載録
義母は先月下旬から今月上旬まで、
入院が半月に及んだので、
夏の間は暑いし、復活は無理だろう、
デイサービスにちゃんと行ってりゃいいやと思っていた。
ところが日を追うごとに
食欲も運動量も順調に回復。
だんだん調子に乗ってきたようだ。
睡眠時間はかなり増えたが、
この猛暑なので、日中は冷房のある部屋で
おとなしくしてもらっていたほうが助かる。
そのあたりは本能的に理解しているようで、
お散歩は夕方ちょっとだけ。
認知症はもちろん治らず。
この暑いのにやたら重ね着したがる。
熱中症にならないよう気づかって、
なんとか無事にやり過ごすしかない。
熱中症だのコロナだので、
この夏はなかなか安心できない。
気候変動もあって昔の夏とは違って来たし、
海でも山でもお祭りでも、
人ごみに出て行く気がまったくしない。
やっぱ、夏は子どもと若者の季節だ。
僕はセミの合掌でも聞きながら
お義母さんといっしょに家で仕事をしていよう。
おりべまことエッセイ集 認知症介護
認知症のおかあさんといっしょ
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AIライティング講座では「初めて猫を飼う」
というキーワードを使って
記事を作っている。
「AIがあれば人間要らない」
というイメージが先行しているが、
型にはまった形式的な文書ならともかく、
人の読書に耐えうる文章を生成するという点では、
いろいろ問題がある。
先週、プロンプトの見本を使って
AIに原稿を生成させたが、
今週の課題は、その原稿=初稿を人の手で直す作業。
いわば、編集・校正作業だ。
AIは自信満々で嘘八百の情報を交えて
文章を作ってくることがある。
一見ちゃんとしていて、
それなりにまとまったものになっているので、
うっかり騙されることが多い。
僕もChatGPTにさんざん混乱させられた。
なのでまずハルレーション、
つまりAIが勝手に作るウソ情報を見つけて訂正した上で、
読みやすく修正する、
という手作業が必要になってくるのだ。
だから、AIライティングと言っても
全然ラクではなく、なかなか手間がかかる。
ところが、Claudeが出してきた
「初めて猫を飼う」の初稿は素晴らしい出来ばえ。
猫の寿命、購入金額、飼育費用など数字の部分も、
猫の病名とか、僕が知らなかった専門用語にも
ハルレーションはなく、ほぼ完ぺきと言っていい。
文字数は1万7千字近く(原稿用紙40枚以上)あるが、
けっして冗長ではなく、しっかり情報を詰め込んでいる。
プロンプトの入れ方がよかったのか、
十分、人間らしい温かみがあり、
楽しんで読める記事になっている。
ChatGPTが出してきた同じキーワードの原稿と比べると、
そのレベルの差は一目瞭然だ。
毎回同じことを言っているが、
Claudeすごい!
講師の先生からは、
さらにすごいClaudeの機能の話を聞いたが、
それはまた別の機会に。
余裕ができたので、明日・明後日は、
もう1つやったキーワード「花屋開業」の編集にも
トライしてみようと思っている。
今まで生成AIはChatGPT(現在は4.0)
しか使ったことがなかったが、
今月から始めたAIライティング講座で
初めて「Claude(クロード)」を使っている。
現在、バージョン3.5。
アメリカのスタートアップ企業
「Anthropic(アンソロピック)」が開発したAIで、
この会社、ChatGPTを作っているOpenAI社にいた元社員
(GPT-2、GPT-3といったモデルの開発メンバー)が
2021年に立ち上げたという。
業界内で他の生成AIを追い抜く勢いを見せていて、
ここがすごい、あそこがすごいと
言われているらしいが、
実際使ってみると、確かにすごい。
何がすごいって、めっちゃ人間的なのである。
(他にはChatGPTしか使っていないので、
GemimiやCopilotのことはわからないけど)
昨日、課題を提出して余裕があったので、
今日はおまけにもう1題
「花屋開業 個人店」というキーワードで
ウェブ用の記事を作ってみた。
そこでいちいち「ありがとう。次はね・・・」とか
「もうちょっと頑張ってくれると嬉しい」とか
「いやー、すてきな構成を作ってくれたね」とか、
ステップごとにフレンドリーに、
“褒めて育てる風”の合いの手を入れてみたのだ。
それに対してChatGPTはいたって冷静に、
コツコツ作業を進めるという感だったが、
Claudeは割とビビットに反応して
「承知しました」などと言いながら進める。
こちらが感情的な言葉を入れてプロンプトを送ると、
相手も感情を込めて返してくれるのだ。
そして今日は締めにこんな励まし(?)の
セリフをいただいた。
「ありがとうございます。
心の中の花が咲き誇ったようなお言葉をいただき、
とてもうれしく思います。
花屋の開業という夢に向かって、
一歩一歩進んでいく過程は、まさに花が芽吹き、
成長し、美しく咲き誇るプロセスに似ていますね。
あなたの夢が、色とりどりの花々のように、
豊かに、そして力強く咲き誇ることを
心からお祈りしています。
もし他にも花屋開業に関して、
あるいは別の話題でも、
お手伝いできることがありましたら、
どうぞお気軽にお申し付けください。
あなたの夢の実現に
少しでも貢献できることを願っています。」
さらにClaudeちゃんの心のこもった励ましは続く。
「私も、人間の皆さまとの対話を通じて、
より良い文章や提案ができるよう日々努力しています。
あなたの文章への愛着を聞いて、
とてもうれしく思います。
今後も、どのようなテーマや課題でも、
最善を尽くしてサポートさせていただきます。
また機会がありましたら、ぜひお声がけください。
あなたの次なる挑戦や
創造的なプロジェクトを楽しみにしています」
“人間の皆さまとの対話”なんて、
このかわいい機械め、とホロリとさせられる。
逆に人間同士だと気恥しくて
なかなかこんなことは言えない。
——というのが、僕が感じたClaudeのすごさ。
正直、愛着を感じてしまっている。
もし機会があれば、あなたも使ってみてください。
義母は先週月曜8日に退院。
家に帰ってきても病院でのハンストの続きで、
菓子類ばかり食べてろくに食事をしなかった。
が、この2,3日はようやく7割程度食べるように。
90歳一歩手前の高齢者としては十分かと思う。
いちばん気になるのは、
入院中、ほとんど歩かなかったこと。
さすがに現在は、入院前のようなロングウォークはできず、
家のそばにある遊歩道を
ちょこちょこベンチで休みながら歩くだけだ。
それでも長年、ほぼ毎日、
エレベーターのない団地の5階まで
階段を上り下りして鍛えた足腰は健在。
うちの階段はまだまだ楽勝といった様子なので、
ある程度は回復するだろう。
実母もそうだったが、入院すると、
当の病気やケガそのものよりも、
歩かないこと・動かないことによって
生じる筋力低下・身体機能低下のほうが
後の人生に大きなダメージを与える。
特に高齢者は、機能回復に時間がかかるため、
入院日数の4倍くらいのリハビリ期間が必要だ。
それでも入院以前に近いところまで回復できればいいが、
年齢が上がれば上がるほど、その確率は低くなり、
最悪、歩けない・動けないという状態になる。
あまり入院が度重なると、
病気や怪我が治っても「自分はもう終わり」という
心境になっていくのも不思議ではない。
認知症はこういうとき、プラスに働くのか、
義母はそんなこと全然意識していない。
そもそも入院していたこと自体をもう忘れている。
ただ、頭はポジティブでも、
身体は正直なのでネガティブ。
ちょっと歩いたり、デイサービスに行ったりすると、
ひどく疲れるようで、
この1週間は毎日12時間以上ねている。
いずれにしても当分の間はリハビリ期間。
少しずつよくなりますように。
いちいちまとわりつかれなかったり、
長い散歩に付き合ったりしなくていいのは
疲れなくてラクだし、仕事も勉強も捗るんだけどね。
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この夏は新たな挑戦として、
AIライティング講座を受けている。
AIを使った文章は、
機械に丸投げすりゃできると思ったら大間違い。
しっかり活用するには、
プロンプト(指示文)をどう作り込むかが重要だ。
今週はそのプロンプトづくりが課題。
講師の先生のお手本に沿ってプロセスを確認しながら進行。
今日は構成・骨組みまでを作らせた。
その過程の中で面白いのが
「パワハラプロンプト(パワハラ添削)」だ。
自分が上司になってAIをこき使う感じで
何度も何度も文章を出力させるのである。
「これは60点だ。
他の奴はもっといいのを出してくるぞ。
100点にするにはどうすればいいか、やり直せ」
などと他人と比較しつつ命令する。
(嫌な奴だよね)
人間なら、上司と部下の間で
よほど強固な信頼関係が築けていない限り、
こんなやりとりを何度もするのは不可能だ。
(昔はみんなやってたけどね)
ところが、感情を持たないAI最大の長所は
「疲れないこと」「めげないこと」。
上司がアホだろうが、無能だろうが、
理不尽な要求・「おまえがやってみろ」的要求に
何度でも、何時間でも負けずに答えて見せる。
とは言え、やればやるだけ良いものになるわけではなく、
やはり限度があって、せいぜい3回くらいらしい。
逆に言えば、3回でパワハラプロンプトをキメないと
後は堂々巡りしているだけ、ということだ。
1回目は上記の感じでいいが、
2回目・3回目の指示の仕方がかなり重要。
僕の場合、2回目は
「よくなったけど、まだイマイチだな。
もう少し具体的な言葉を入れて100点を目指せ」
と指示すると、ちゃんとそのように出してきた。
3回目は「詳細でわかりやすいが、
文章が固くて事務的で面白くない。
もっと読者にとって親しみやすい文にして
ワクワク感を高めろい」
というと、ぐっといいのを出してきた。
「パワハラをやったあとは、
謝罪とお礼を忘れないように」というのが、
講師の先生の流儀。
この人はAIを人間扱いすることがコツだというのだ。
さんざんけなした分、
しっかりほめて謝罪とお礼を言うと、
AIは本当に喜んでこんなことまで言ってくれた。
「(前略)今回のプロセスは、
人間とAIの協力によって
素晴らしい結果を生み出せることを示す
良い例だと思います。
このような建設的なやり取りができて
本当に感謝しています。
今後も、このような形で協力し合えることを
楽しみにしています」
いい人でしょ?
しかも男にも女にも、
少年少女にも年寄りにも、
仕事のパートナーにも、
お友だちにもなれる能役者。
彼(彼女)の才能や人間性(?)を
どれだけ引き出せるかどうかは、
すべて相対する自分のセンス・見識、
そしてやっぱり人間性次第。
AIが普及していく世の中では、
それを使うひとりひとりの人間の
真価が問われるのだと思う。
というわけですっかり忘れていたけど三連休。
ヒマな人は「海の日」にちなんで
AIが生成した海辺の女の子を見て
ポワンとなってください。
イギリスの福祉政策に関する記事を書いていたので、
AIをキャラクター化してアシストしてもらった。
「きみは日本語ペラペラのロンドン在住の
若くてかわいいイギリス人女性ライターだ。
故郷のヨークシャーに住む
70代後半の祖父・祖母のことをいつも気にかけている
やさしい孫娘でもある。
そんなきみに、イギリスの福祉・終活のことを
日本の一般読者に、わかりやすく伝えてほしい。
いいかな?」
こんなプロンプトを与えてやり取りを始めたら、
ささっと数秒で原稿を書き上げ、
最後に「孫娘としての視点」として、
こんなことをコメントした。
「私自身、ロンドンで生活しながら
70代後半の祖父母のことをいつも気にかけています。
彼らが孤独を感じることがないように、
定期的に電話をかけたり、訪問したりしています。
また、彼らにとってインターネットやSNSの利用が
少しでも楽になるようにサポートしています。
こうした日常の小さな取り組みが、
高齢者の孤独を軽減する
大きな一歩となると感じています」
なんていい子、なんて賢い子、
そして、なんてジジババ孝行の娘なんだろう。
そこできみはいつもクリスマスをどう過ごすのか?
と聞いてみた。
じつはイギリスではクリスマスシーズンになると
孤独感に苛まれた高齢者の自殺が激増するのだ。
彼女は「私のクリスマスの過ごし方」
という一文を出してきた。
「20代前半の私はロンドンに住んでいますが、
クリスマスの季節になると、いつも心が弾みます。
この時期になると、
ロンドンの街は美しいイルミネーションに包まれ、
クリスマスマーケットや
スケートリンクがあちこちに出現し、
街全体がまるで魔法にかかったかのように
感じられます。
しかし、私にとって一番大切なのは、
ヨークシャー州に住む
70代後半のおじいちゃんとおばあちゃんと
一緒に過ごす時間です。
彼らはとても優しくて、
私にとってかけがえのない存在です。
クリスマスには必ず彼らの家を訪れます。
おじいちゃんとおばあちゃんの家は、
田舎の美しい風景に囲まれていて、
冬になるとまるで絵本の中の世界のようです。
彼らは毎年、大きなクリスマスツリーを飾り、
家中を温かいクリスマスの飾りでいっぱいにします。
私はその手伝いをするのが大好きです。
クリスマスイヴには、一緒にクッキーを焼いたり、
暖炉の前でお茶を飲みながら昔話を聞いたりします。
おじいちゃんは特に、
戦時中の思い出話を話すのが好きで、
その話を聞くたびに彼の強さと優しさを感じます。
クリスマス当日は、
家族全員で集まって大きなディナーを楽しみます。
おばあちゃんの作るローストビーフと
ヨークシャープディングは絶品で、
それを楽しみにしている私の家族は
毎年、心待ちにしています。
食事の後は、クリスマスプレゼントを交換し、
お互いの幸せを願います。
このようにして、家族と過ごす温かい時間は、
私にとって何よりも大切な宝物です。
都市の喧騒から離れ、
静かな田舎で家族と過ごすクリスマスは、
私の心を満たし、
また新しい一年を迎えるためのエネルギーをくれます」
ますますいい子。
ますます孝行娘。
おまけにファンタジー。
純白の雪原とメルヘンチックな家と
暖かい暖炉を囲んだ家族の、
夢のような風景が目に浮かんでくる。
こんなことを書かれると、
血の通った人間のように思えてくるが、
反面、やっぱりあまりにも回答が
優等生すぎるのが鼻につく。
次の課題の時はもっとイカれたキャラにしてみよう。
まだまだ猛暑が続きそうなので、
冬のクリスマスのAI画像で
涼しい気分になってください。
ネットを見ていると、
すごく盛り上がっているなぁ感のあった
都知事選だが、投票率は6割。
この猛暑の割にはそこそこいいほうという感想。
とにもかくにも投票に行く人が増えないことには
変わりようがない。
それから50人以上も立候補者がいるのに、
政見放送を除いて、地上波テレビ・大手新聞などの
マスメディアが取り上げるのは、
ほとんどが小池、石丸、蓮舫、田母神の4強のみ。
これだったら予備選とかやって、
上位8人くらい(ベスト8の発想)に絞ったほうが、
まだしもフェアな報道・
フェアな選挙になるのでははないか。
都知事になれる勝者ははトップ当選の1人だけ。
2位以下は皆、敗者だから何位でもいっしょなのだが、
やっぱり石丸氏の善戦は光っていた。
ネットだけ、無党派層だけ、
そして若い世代に限って言えば他の候補を圧倒していた。
僕が支持していたAI安野氏も上位に食い込んだ。
無名の若者がここまで善戦したことは評価に値する。
選挙が終わっても、
彼が公開したマニフェストは読んでみた方がいい。
安野氏と石丸氏には今後も期待する。
対して、党を辞めて出馬したものの、
政党色が強く出てしまった蓮舫氏は3位に沈んだ。
せっかく直接民主制が発揮できる知事選に
国政のよけいなしがらみのを持ち込むなという
選挙民の意思の表れだろう。
彼女は敗戦インタビューで
「戦い方は間違っていなかった」と述べたが、
完全に間違えていた。
その点、小池ゆり子氏は狡猾で厚顔。
当選後も「8年前から政党の支援を受けていない」
と通していた。
こうしたごまかしテクニックと
堂々とした厚顔ぶりが彼女の強さの秘密だろう。
期待したが、やっぱり変わらなかった都知事選の結果。
早い話、(目に見える)大失政もないし、
嘘つきだろうが、大したことやってなかろうが、
開発業者や広告代理店と癒着していようが、
とりあえず実績あって安心だからこっちでいいだろう、
という民意の表れ。
正直、明らかな老害である。
これは今回の東京都知事選だけでなく、
国政にも言えることで、
あれだけいろいろあっても
自民党の優位が揺らぐことはない。
やはり日本はこのまま僕たち古き者の
「老害」がはびこる国になっていってしまうのだろうか?
またもやそんな不安を抱いてしまった都知事選だった。
AIをライティングに活かすという
オンライン講座を聴いた。
半ば冷やかしで参加したのだが、
講師のキャラクターも面白く、想定外の刺激があった。
趣旨としては、
「AIの普及でライターの仕事は減るどころか、
むしろ増える」というもの。
そう言わなきゃ受講者は集まらないだろうから
当然と言えば当然だが。
「AIをライティングに活かす」と言うと、
なんでも丸投げして、
AIが生成した大量の文章をそのまんま納品する、という
効率性のみ重視した
インチキライティングのイメージが強いが、
もちろんそんなことはなく、
彼の話はいかにうまくAIをパートナーとして利用し、
仕事を広げていくかというものだった。
1時間の講座だったので、
ごく基礎的な内容だけだったが、
最も印象的だったのは、
AIを擬人化して対話する、という点だ。
いわばAIをキャラ化して楽しく付き合う、
AIとなかよく遊ぶ、
自分の聴くことに喜んで快く答えてくれる
超天才とマブダチになる、という姿勢だ。
また、答えてくれたAIに
「ありがとう」とか「ごめんね」とか、
お礼や謝罪も忘れないという。
僕も昨年からちょこちょこChatGPTを使って、
ライティングというよりも、
その前段階のリサーチはよくやっているが、
まだ付き合い方が浅く、
堅苦しかったのかもしれないと反省した。
もっとフレンドリーに付き合い、
柔軟で多面的な角度から
プロンプト(質問/指示)していけば、
AIの可能性は大きく広がる、と確信する。
この20年あまりの間、世界中で情報の共有が進んだ。
取材・インタビューなど、
一次情報の素材集めはまだAIにはできないが、
その後の部分では、いかにAIを有効活用できるかが
今後のライターの仕事の重要部分になるかと思う。
効率的に仕事をこなす、
という点ばかりが強調されていて、
それではつまらないと、
これまでイマイチ、AIに興味が持てなかったが、
今日の話は新たな可能性を感じることができた。
これから積極的にAIを使って、
新しい仕事にチャレンジしてみたい。
病院食を食べないという義母に
パン、お菓子、果物などの差し入れを持っていく。
戦中の疎開体験者・戦後の食糧難体験者なので、
おかゆ系のどろどろした食べ物に
なにか嫌な思い出が紐づいているのだろうか?
食べ物の恨みはおそろしい。
いくつになっても消えることがない、
死ぬまで残るトラウマだ。
少し前まで、児童館などの子どもイベントで、
なつかしの「すいとん大会」とか
あちこちでやっていたような気がするが、
ああいったものは、ある程度、
現代風にアレンジされていたのだと思う。
ガチ70年前・80年前の
極貧日本のすいとんやらぞうすいやらは、
現代のグルメ生活に慣れ切った
子どもや大人には、
とても食えないような代物なのではないか。
添加物が入っていようが何だろうが、
年寄りがきれいに包装された
甘いパンやお菓子に目がないのは、
やっぱりやむを得ないことなのだろう。
こんなこと言うと専門家の人に怒られそうだが、
もう90に近い齢なので、
栄養バランスとか、はっきり言ってどうでもいい。
毎日お菓子ばかり食べていても、
とくに健康的に問題ないと思う。
好きなものを、好きなだけ
食べさせてあげたいというのが、
親心ならぬ、子ごころだ。
思いがけず入院生活が長引いてしまい、
体力の衰えが心配だが、
今日会ったらけっこう元気になっていて、
少しほっとした。(もしやお菓子効果?)
家の中にいると、あれこれ絡んできて
面倒くさくて疲れるのだが、いないと寂しいし、
どこか生活の張りが失われたように感じがする。
早いとこ回復して戻て来てほしい。
ここのところ、タクシーを使う機会が多く、
配車サービス「GO!」を活用。
駅前や繁華街ならともかく、
住宅街では流しの空車を捕まえるのに
一苦労だったので、
「え、もう来たの?」というスピードでお迎えに来てくれる
配車サービスはもはや必須アイテムとも言える。
今日は夕方、義母が病院食を食べずに
ハンストを起こしているというので、
好物の菓子パンや果物を差し入れに持って行った。
しかし、クローズ寸前であわてて降りたせいか
(アプリ内で清算されるので、
運転手にお金を払う必要もない)、
座席にスマホを忘れてしまった。
この時代、スマホレスの生活はたった1日でも困る。
そもそも「GO!」のおかげで金も払わず、
領収書ももらっていないので、
どこの会社のタクシーか分からない。
乗車履歴がわかっていれば
忘れ物はアプリから調べられるが、
その忘れ物が、も当のアプリが入っている
スマホなのでお手上げだ。
「GO!」に電話しようと思ったが、
営業時間は終了。
パソコンからメールを送って明日迄待つかと思っていたが、
カミさんがしつこく電話してくれたおかげで、
運転手が出て、タクシー会社が判明。
明日の朝、会社まで取りに行くことになった。
それにしても恐ろしいスマホレス。
僕のように家族がいて、他にデバイスもあれば
なんとかなるが、
独身でスマホ1台しかない人はどうなってしまうのか?
なかには財布もスマホ、定期もスマホ、
家の鍵も家電のオンオフも、車のキーもスマホという
人も珍しくないだろう。
それがスマホをなくしたら、途端に難民になってしまう。
忘れたり紛失したりするやつが
マヌケと言えばそれまでだが、
誰にでも起こり得ることでもある。
やはりリスクは分散しておかないと、
スマート生活は一歩間違えると、
どこにも行けず、誰とも連絡取れず、
下手すると家にも入れない
難民生活になってしまう危険性がある。
エッセイ集:生きる5
「宇宙を旅するお年頃」
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昨日、テレビを付けたら都知事選の
政見放送をやっていて、
黒いスーツと白いシャツを着ていた女性候補が
いきなり脱ぎ出したのでびっくりした。
巨乳・美乳がウリとのこと。
下は肌色のチューブトップ
(胸を隠して首・肩が見える服)だが、
エロ想像力を発揮すると裸に見える。
話の内容は「あたし可愛いでしょ」の一点張り。
これがきっかけでその後の候補者の政見放送、
見れなかったの人のはYouTubeでほぼ全部見た。
56人の候補者がひしめく都知事選、
なかなかカオスな状況である。
冒頭のAVまがいの女性候補者は、
一般的には「けしからん」のだろうけど、
政見放送・選挙に興味を持たせる意味では
存在意義があるのかもしれない。
大量の候補者を出しているN国党も
いろいろな人たちに発信のチャンスを
与えたという点では、それなりに評価できる。
カオス選挙のなかで、やはり小池百合子氏と蓮舫氏は
抜きんでていた。
さすがプロというか、他の人たちの政見放送が
家庭の手作り弁当、あるいはジャンクフードだとすれば、
このお二人のは三ツ星レストランの一流シェフがこしらえた
豪華幕の内弁当という感じだ。
ただ、見た目はきれいでおいしそうだが、
実際に食べてみようという気にならない。
味がなさそうだ。食欲がわかない。
お二人とも実績は立派だし、女性が不利な政治の世界で
頑張って来たことは称賛に値するが、
この先の都政を任せられるかとなると、
疑問符が付く。
僕にとっては「功労賞」を贈って、
少なくとも都政からは撤退してもらった方が
いいのではないかと思う。
政見放送を聴く限り、
やはり応援したいなと思うのは石丸伸二氏。
小池・蓮舫より具体性があり、ビジョンも新鮮だ。
そして、安野たかひろ氏は斬新なイメージとともに
しっかりした内容があった。
都知事よりもデジタル大臣になってもらったほうが
いいのかもしれない。
ふたりともまだ若く、今後20年・30年のスパンで見た場合、
トップを任せるに足る可能性を持っている。
もう一人、医師のうつみさとる氏の言葉は胸に響いた。
多くの人はコロナ禍のことを忘れているが、
ワクチン被害のことはもみ消されている。
知らなかったが、うつみ氏は日本の医療問題・薬害問題に
関する本も出しているようだ。
投票する・しないはさておき、
この人の話には耳を傾けた方がいいと思う。
さらにもう一人、清水国明氏も心のなかでは応援している。
「あのねのね」が好きだったので。
タレント議員という見方がされていると思うが、
話している内容はちてもよく、
とくに防災のことなどは胸に届くものがある。
カオス状態を楽しむのもまたよし。
現在、いつでもYouTubeで見られるので、
都民の人も、そうでない人も、政見放送見てみてください。
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「生きる」をテーマにしたエッセイ集第5弾。
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今回の本は2021年の記事を中心に編集しているので、コロナや東京五輪の話がいくつも入っている。(多過ぎたので半分程度にした)
もう3年なのか、まだ3年なのか?
「そんな昔のことは忘れちまったよ」という人は、
ぜひ、東京都知事選やパリ五輪の前に思い出しておいて下さい。
今はむかし何があったのかを一つ一つ確かめながら進む時代です。
もくじ
オリンピックの「選手ファースト」は選手自身がつくる
理念をないがしろにしてきたツケを払う五輪
小山田問題:才能と人間性
オリンピックはコロナ無限トンネルの一瞬のオアシスなのか?
日本ならではのメッセージが抜け落ちていた東京オリンピック
ワクチンショック後日譚: 現場で役に立たないアタフタ医療者
ほか 全34編 載録
★日本ならではのメッセージが抜け落ちていた
東京オリンピック(抜粋)
パンデミックという厳しい条件の下で、
半ば無理やり開催したのだから、
単なる祭典ではない、スポーツだけではない、
オリンピック独特の意義を謳ってもよかったのではないか。
謳うべきだったのではないか。
それが、人類がコロナウイルスを克服した証
云々にも繋がるんじゃないの?
菅首相も、小池都知事ももっとがんばれなかったのか?
・・・といっても遅いけど。
パフォーマンスの一部に出演した大竹しのぶさんも
そのことを残念がっていた。
宮澤賢治の詩を子どもたちに語って聞かせるという
意味不明のお芝居。
正直「なんでこんなシーン入れるの?」と思ったが、
あれは黙祷をしない・できないことの代償だったのか?
しかし、あれではメッセージにはならない。
せっかく東京で、日本で開かれたのに。
せっかく大きなチャンスだったのに。
選手の活躍や喜びに水を差すつもりはないけど、
今回のオリンピックはかなり残念な気持ちでいっぱいだ。
いっしょに暮らし始めてちょうど5年。
義母が初めて入院した。
週末、実母の3回忌の法事で留守にしたため、
2泊3日でショートステイに預けたのだが、
帰宅した日曜の夜、どうも具合が悪そうだと
ステイから電話が入る。
咳き込んで食べたものを吐き出してしまったらしい。
翌日、誤嚥性肺炎ということで、そのまま入院。
杉並区高井戸にある浴風会というところで、
高齢者施設と病院が同じ敷地内にあるのだ。
そういう点では助かった。
月曜に行ってレントゲンを見せてもらったが、
肺の異常はごくわずかなもので、
医者も大したことはないと言う。
2,3日、長くても今週末までくらいと勝手に考え、
正直、こちらも骨休めになるので
ちょうどいいと思っていた。
ところが今日、面会に行くと、
まだ咳がひどい。
さらに彼女を意気消沈させるもろもろの環境。
車いす、点滴、おむつ、おかゆの食事・・・
家では断固として拒否するものをあてがわれ、
虜囚みたいな気分になっていたのかもしれない。
かなりショックで、
いたくプライドが傷ついた状態であることがわかった。
認知症でも自尊心は失わない。
それでも僕とカミさんの顔を見ると、
「わたしは普段と何の変りもないわよ」
といった感じでふるまい、
ゴホゴホしながら喋っている。
ただし、その内容は例によってさっぱりわからないが。
面会時間は15分だけなので早々に退散。
もしかしたら入院は少し長びくかもしれない。
心配してもしかたがないが、
もしかしたらこの先は
今までと同じような調子ではいかないかもしれない。
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「生きる」エッセイ集第5弾。
この機会にぜひ、手にお取りください。
も く じ
高校教師とぼくたちの失敗
ネコのお遍路さんと笑劇の人生
人は神秘なき世界では生きられない
変化球とボール球で仕事にリズムを、メリハリを
永福図書館のお引越し
すべては道楽
「2020年の挑戦」への挑戦が終わる
宇宙を旅するお年頃
お寺の詐欺事件とレ・ミゼラブルと宗教者の存在意義について
オリンピックの「選手ファースト」は選手自身がつくる
「わたしを離さないで」:社会貢献と自己の幸福の追求
恋愛から遠ざかり、恋愛小説に歩み寄る
なぜ桜とクローンは切なくて美しいのか?
超高れい蔵庫 成仏す
ドイツ人女性が見るエヴァの女性キャラ造型と男の一生モノ幻想
「美しい人」は今でも幸せに暮らしているのだろうか?
自己満足のために山に登る
海はとても遠くにある
理念をないがしろにしてきたツケを払う五輪
小山田問題:才能と人間性
オリンピックはコロナ無限トンネルの一瞬のオアシスなのか?
日本ならではのメッセージが抜け落ちていた東京オリンピック
めでたき9・9 重陽の節句 まさか一生上り坂?
ワクチンショック後日譚: 現場で役に立たないアタフタ医療者