オオタカ続報。
カミさんが月に一度来るマダムの患者さんに、先日のオオタカの話をしたら、なんと!彼女はほぼ毎日会っているそうです。
どういうことかというと、そのマダムはほぼ毎日、かの公園へジョギングだかウォーキングに出かけており、タカの存在もだいぶ前から知ってたとか。
ちなみに今朝はつがいで仲良くあの木の上にいたらしい。
それどころか、「この間なんて交尾してるとこも見ちゃったわん💛」
まさかそんなおおっぴらに夜の営み、いや、朝の営みをしていたとは仰天。
空中を活動領域とする鳥類は、空気にとても敏感です。
だから人間がまだ炭酸ガスをまき散らす前の、空気のきれいな時間に朝活するのでしょう。
タカの飛行能力も獲物の捕獲力も上がるだろうし、ラブラブエネルギーもUPする。
グッモーニン・ダーリンいっちょやろか♥
いいわよウッフーン💕という気分になるのでしょうか。
オオタカみたいな本格的なモーキンまでやってきて、ますます野鳥の楽園化するわれらが公園。
卵が無事孵り、赤ちゃんが生まれて育つといいですね。
ただ、これからは葉が茂ってくるので、オオタカの姿を見られるのはあとわずからしい。
せっかく平和にラブラブしているので、お邪魔にならないよう、ましてやストレスなどかけないよう、こっそり見に行ってください。
陽気も良くてお花見日和。
近所の和田堀公園に、カミさんと赤飯ランチのお花見に出かけました。
大宮八幡宮付近はもうかなり散っていて、桜吹雪も今日が最後という感じ。
お花見の後、先日、周辺でオオタカ発見のニュースを読んだのを思い出し、確認してみようと、善福寺川沿いを五日市街道に向かって歩いていくと、熟年カメラマンたちの姿が。
「オオタカですか?」とずけずけと訊いて、ホンマにいるんかいなと見上げると、発見!
杉の木の高い枝に白いお腹をしたオオタカの雄姿。
いつ頃からこの辺に来ているのかは定かではありませんが、カメラマンさんたちの話によると、どうやら子育てもしているようです。
タカが暮らせるということは、ごはんにする獲物がいるということ。
なんといってもかつて地球を支配した恐竜族の末裔のモーキンです。
この公園は都心近くにありながら野鳥の集会所みたくなっており、それらを狩るのだろうと思われますが、一説によると主食としているのは、群を抜いて数の多いハトらしい。
善福寺川のカモなどのヒナも狙われそうです。
夜は活動しないだろうから地上のネズミを獲ることはなさそうですが、子ネコやフェレット、小型犬などはだいじょうぶなのだろうか?
タイマン張ったら叶わないだろうけど、数で圧倒しているカラスとの縄張り争いも気になるところ。
でもこんな身近なところにタカがいるなんて、ちょっと感動的です。
夕方、家に帰って小腹がすいたのでバナナを1本食べたら、ここのところの睡眠不足がたたって2時間近くZZZ。
夢をいっぱい見て、それぞれ内容は憶えていないけど、どれも面白かったイメージが残って良い気分に。
本日から新年度。縁起のいい初夢として楽しみました。
散歩がてらサクラを見に近所の大宮八幡宮に行くとネコ発見。
例によってナンパを試みたが、例によってシカトされた。
彼女には事情があった。
上の方でガサゴソ音がするので見ると、キジバトがいる。
落ち葉の中をつついて虫をほじくり出して食べているらしい。
ネコは野生の本能が刺激され、ねらっているのか?
でも、その割にはハトに対して集中力が欠けている。
自分の中でウズウズモゾモゾ本能がうずくのを気持ち悪がっているように見える。
サクラ色の首輪をつけているので、どこかの飼いネコだろう。
家に帰ればいつもの安全安心、おいしく食べやすく栄養バランスもとれてるキャットフードが待っている。
なのになんで鳥なんか狩らなきゃならんのか、
だいいち、あたしが口の周りを血だらけにして鳥やらネズミやら持って来たら、飼い主さんが卒倒しちゃう。
でも狩ったら脳からアドレナリンがドバっと出て気持ちよくなりそうだ。
ああ、でも、そんなのダメダメ・・・と、ひどく葛藤しているように見える。
飼いネコでも本能のままに生きているやつもいれば、鶏のササミや魚の切り身をあげても見向きもしないやつもいる。
イヌもそうだけど、多くの飼い主はペットに一生自分のかわいい子供であってほしいと願う。
人間じゃないんだから、大人になんかなってほしくない。
恋もしてほしくないから去勢や避妊手術を施す。
生物学的なことはよくわからないけど、そうするとホルモンもあまり分泌しなくなるだろうから、ペット動物は「子供化」して野生の本能は眠ったままになるのだろう。
一生人のそばにいて、一生キャットフードを食べて、一生本能なんぞに煩わされることなく、平和に暮らせるのがサイコーだと思っているネコもいるはずだ。
人間と一緒に都市生活をしていくにはそのほうが幸せなんだろう。
けれどもイヌと違って、ネコは本能に目覚めても人間に危害を及ぼす可能性は限りなく低い。なので「最も身近な野生」を感じさせてほしいという、人間の勝手な期待を背負わされた存在でもある。
おそらくネズミや鳥を狩ってくる飼いネコは、飼い主のそうした潜在的な希望を感じとって、本能のうずきに素直に従うのだ。
ただ、そうじゃない彼女のようなネコもいて、せっかくのんびり暮らせているのに、野生時代の先祖の血の逆流に悩まされることもあるんじゃないかと思う。
こんど道端で会ったネコに、そこんとこつっこんでインタビューしてみようと思うけど、答えてくれるかニャ~。
連荘で農業取材。
26日(月)は秋川渓谷と美しい山並みが望めるあきる野市に出向き、秋川牛とご対面。出荷前・生後30ヵ月の黒毛和牛の体重は800キロ。でかっ。
東京で唯一の肉牛生産牧場・竹内牧場では約200頭の秋川牛を飼育しています。
このあたりは、日本各地の有名なブランド牛の産地に負けず劣らず、水も空気もきれいで豊かな環境なので、牛をはじめ、豚・鶏などを育てるには持ってこいとのこと。
秋川牛は希少価値のある高価なお肉ですが、都内のホテル・レストラン・料理店なので口にするチャンスがあるかも。
一方、武蔵五日市駅にほど近い松村精肉店は、地元で生産されるこの秋川牛の認知度を上げたいと、手軽に味わえる加工品としてレトルトカレーなど製作しています。
オリンピックもあることだし、東京の名産品をアピールしていこうとブランド力UPに奮闘中です。
昨日ご紹介した磯沼牧場+多摩八王子江戸東京野菜研究会でも聞きましたが、これら多摩・八王子地域の環境はこの20年ほどで劇的に改善され、川には清流が戻り、アユなども戻ってきているとか。
今や都心で働く人たちのベッドタウンというイメージから脱却し、豊かな自然が楽しめ、農業も盛んな地域としてのイメージが高まっています。
いつまでも「東京は緑が少ないから云々」なんて、手垢のつきまくったステレオタイプのセリフをほざいていると時代に取り残されますよ。
テクノロジーとパラレルで進行する昔ながらの環境とライフスタイルへの回帰。
「むかしみらい東京」がもう始まっているのかも知れません。
東京にこんな素晴らしい牧場があったのか!
噂には聞いていたけど、なかなかタイミングが合わずに来そびれていた磯沼牧場(磯沼ミルクファーム)に25日・日曜日、初めて来場。
多摩八王子江戸東京野菜研究会とのコラボイベントで、牧場特製のチーズとベーコン、ソーセージ、野菜てんこ盛りのピッツァ作りです。
牧場主・磯沼さん手づくりの溶岩石窯で焼いたピッツァはおいしくてボリューム満点。
ランチの後は乳しぼり体験、牧場ツアー(放牧場もある)、磯沼さん×福島さん(多摩八王子江戸東京野菜研究会代表)の都市農業トークと続き、あえて取材の必要なしというところまで堪能しました。
場所は京王線・山田駅から徒歩10分弱。
新宿から1時間足らずで来れるし、横浜からも近い。
わざわざ北海道などへ行かなくても、たっぷり牧場体験ができます。
それも観光牧場でなく、リアルな生活と結びついている生産牧場で。
環境問題、動物福祉問題への取り組みなど、牧場経営のコンセプトを通じて、さりげにいろいろ勉強でき、新しいライフスタイル、これからの哲学を考えるきっかけにもなると思います。
乳しぼりをはじめ、毎週のように何らかのイベントが開かれ、牛さんをはじめ動物たちに触れあえます。
いつでもオープンなので、ぶらっと覗きに来るだけでもいい。
子供たちには超おすすめ。お年寄りにも楽しい。
ちょっと凹んでいる人、メンタルを病んでいる人も心のケアができるのではないかな。
直売所もあって、おいしいアイスクリームやプリンやヨーグルトも食べられますよ。
興味のある人はホームページやフェイスブックもあるので検索してみてください。
下の妹が飼っているチワワのハナちゃんとは、たぶん2年ぶりくらいのご対面。
前に会ったのはチビ犬の頃だったけど、ちょっとの間、くんくん嗅ぎ回って「あ、知ってる知ってる」と思ったのか、尻尾をフリフリしてくれた。
抱き上げても安心安心。僕のにおいを憶えていてくれてありがとう。
人間の子どももいろいろ情報を詰め込まれる前は嗅覚がするどい。
一度嗅いだにおいは絶対忘れない。
自分自身のことを考えてみると、視覚や聴覚では憶えていなくても、においというか空気感で憶えていることがいっぱいある。
親はもちろんだけど、周りにいる大人たちはそれぞれ独特のにおいを持っていたような気がする。
におうと言うと何だか臭くて嫌われそうな気がするが、完全ににおいを消し去ると、その人は透明人間になって、見えていても誰にも気づかない存在になる。
忍者やスパイになるならいいかも知れない。
大人になると鼻が利かなくなって、というか、においを感じる脳の部分が鈍くなって、刺激の強いものしかキャッチできなくなるようだ。
なので少しは意識してにおいを嗅ぐ練習をしたほうがいいのかもしれない。
基本はやっぱり食事。
テレビやスマホを見ながらめしを食わないこと。
そして手料理を楽しむこと。
最近はそんなものより出来合いの料理の方がよっぽどうまいと言う人も多いけど、手料理にはその家・その人独自のにおい・風味がついている。
それを知っているのと知らないのとでは随分ちがうんじゃないかな。
自分が自分である基礎とか土台みたいなものは、そういう些細な目に見えないもので出来ているのではないかと思う。
そうだよね、ハナちゃん。
八王子市の児童館で、子供たちが乳しぼり体験。
マイナビ農業の取材で、八王子界隈の酪農家の仲間たちがボランティアで提供しているイベントを見学してきました。
でっかい開閉式トラックに牛を乗せて、そこに上って子供たちが搾乳するというやり方。総勢5人の酪農家さんたちがお世話をします。
まったくこういうシステムを想像していなかったのでびっくりしました。
このお乳パンパンの牛さんはマーガレットちゃん7歳。
マーガレットちゃんの乳しぼりに挑戦するのは、幼稚園前の幼児クラス(+そのきょうだい)なので2歳児中心。たぶんその子たちの目から見たら、牛さんはゾウさん、いやもしかしたら怪獣並みの大きさだ。
そりゃこわいに決まってる。
勇気を出してぎゅっとつかめればいいのだけど、おそるおそるおっぱいに触るので、「なにやってんのよ、モ~」って、穏健温和なマーガレットちゃんもバフォンと荒っぽく鼻息をして体を揺する。
すると、もうだめです。大半の子がこわがって泣き出す始末です。
お父さん・お母さん、「うちの子は情けない」なんて言わないで。
だいじょうぶ。 一度は失敗・撤退したほうがいい。
また大きくなった時、トライしたら今度はできるから。
最初からすんなりうまくできちゃうより、やったぜ感、リベンジできた感があって、自分は成長しているんだと実感できる。
そのほうが却って自信になるんです。
子供時代はまだ長い。
人生はもっとずーっと長い。
幼稚園・保育園で、小学校で、またトライして、こんどはマーガレットちゃんのおっぱい、いっぱい搾ってね~。
ちょっと春めいた日差しがやってきたので、中野の哲学堂公園までサイクリング。
そこで哲学するネコと出会う。
ベンチの背もたれにちょこんと乗っかって、ウトウト居眠りしているのかと思ったら、目は細めているものの、ちゃんと起きている。
こういうフリーのネコと出会うと、僕はいつも果敢に対話を試みるのだが、ニャーとかミャーとか語り掛けても、まったくリアクションしてくれない。
けれども拒否されたわけではない。
20㎝くらいのところまで近づいて写真を撮っても、背中を撫でても、逃げ出すどころか微動だにしない。
その背もたれの上にさりげなく、かつ堂々と“存在”しているのだ。
まるで瞑想中の老師のようだ。さすが哲学堂。こんな大したネコがいるなんて。
僕も何度かトライしたことがあるが、瞑想というのはうまくできない。
部屋を暗くし、ヒーリング系の音楽を流し、お香などを炊いてみても、その行為に集中できない。
なんだかこんなことをやっている自分は、自分じゃなく思えてきてしまうのだ。
そこで見つけたのが「瞑想書き」。
なるべく考えようとせず、頭に思い浮かぶ言葉・イメージを手書きでノートに書き留める。ただそれだけ。
ちゃんとした文章になってなくていい。単語の羅列でも構わない。
愚痴や泣き言や頭にきたことを書き散らしてもいい。
「おまえバカじゃないの」とか「あなた賢いわ」とか、自分を分裂させてAとBの会話にしてもいい。
ただひたすら意識の流れを「見える化」する。
紙とペン(鉛筆)を見ていればいいので、集中力も保てる。
瞑想効果があるので、瞑想書き。
最初はうまくできないかも知れないけど、続けてやっていると、そのうち自然にスラスラ言葉が出てくるようになってきて、これがけっこう面白い。
手を動かすことによって脳が開き、意識の奥から情報が湧き上がる。
心の声を聴くような感覚をつかめるのだ。
自分のものにできてきたなと思ったら、テーマや目的に沿って、仕事のアイディア出しの下書きに使ったり、ブログやSNSのメッセージの下書きに利用してもいい。
もちろん、創作活動のウォーミングアップとしてもOK。
たまにやるのではなく、できれば毎日やる。
朝起きたばかりの、脳も空気もきれいな時間帯、あるいは夜眠る前の、おしりに何もやることが残っていない時間帯がベストです。
興味があったら試してみてください。
ネコの手は借りられないので、自分の手で書いてニャ。
5年ほど前に「いたちのいのち」という話を書いたことがあります。
これはフェレットとその飼い主の話。
フェレットと言うのはイタチ科の動物で、イヌより手間がかからず、ネコより愛嬌があって、ネズミよりも撫でがい、可愛がりがある――要するにとても飼いやすく、よくなついて面白いというやつです。
体型が面白くて、ダックスフントみたいにビロロロンと胴体が長く、なんだかニョロニョロしている。そのまま首に巻いて襟巻にできそうな感じ。
先祖はダックスと同じように穴に潜って野ネズミを捕まえていたらしい。
英国のエリザベス1世やビクトリア女王にも飼われていて、ハリーポッターにも「ヨーロッパケナガイタチ」として登場。ドラコ・マルフォイが魔法でこのイタチに変えられてしまう、というシーンがあります。
人間と代謝機能の何らかの数値が同じだとかで、実験動物として使われてきたという履歴(今でも使われている)を持っています。
一時期、ペットとしてブームになったようですが、 今はどうだかわかりません。少なくとも最近は連れて歩いているのを見たことがない。
なんでそんな話を書いたのかというと、純粋に個人用。
フェレットを飼っている女性がいて、彼女の「イタチくん」との生活を話すからそれをまとめて話を作ってほしいというオーダーでした。
彼女との関係やプロフィールを説明するのは面倒ですが、簡単に言うと、当時ちょっとバイトしていたところの職場の同僚。色恋とはまったく関係ないけど割と仲が良かったので、そのフェレットの話をよく聞かされました。
あるとき、しばらく(1週間くらい)来なくなり復帰したので聞いてみると、いちばんお気に入りのフェレットが死んだとのこと。
それで話を聞いているうちに、僕がライターだということも知っていたので、流れでそんなことになってしまったのです。
仕事ではないのでギャラも発生せず、一銭ももらいませんが(コーヒーは一杯おごってもらった)、こういうのもけっこう面白いなと思って1カ月くらいかけて書き上げたのが「いたちのいのち」です。
フェレットの歴史や習性の話、彼女とフェレットたちとの出会い(多頭飼いしていた)と生活、彼女の動物に対する思いをおもに書いたつもりだった。
けど、できてみるとそのストーリーの裏に見え隠れする彼女の孤独感とか、家族との不和、人間関係のうまくいかなさ加減がにじみ出てしまっていて、ちょっといたたまれない気持ちになりました。
それで原稿を見てもらおうとメールで送ったのですが、それからすぐに音信不通になり、職場にも無断で顔を出さなくなりました。
結局その後、何度かメールをしても返事はなく、二度と顔を合わせることはなくなりました。
僕もそこまで深追いはしなかった。
この話を読んだせいかな、それとも最後の一匹(一番のお気に入りが死んで、その時点で一匹だけ残っていると話していた。)も死んでしまっておっち込んでいるのかな、といろいろ考えましたが、どうにもならない。
その後、一度、少し書き直して置いてあったのですが、もう時効だと思うので、まるっきり書き直してみようと1カ月ほど前から、あれこれやっています。
動物は純粋。というか、人間が「こいつは、この子は純粋」と信じられる。
信じても差し支えない。損得勘定とも無縁の世界。
だから心を素直に胸を開いて、自分の心を映し出せるのだろうなと思います。
●ピーターラビットの農的世界への回帰現象
イギリスの田舎、農村地帯、田園地帯は日本人にやたらと人気があります。
確かにとても美しいのだけど、外国の、西洋の田舎ならフランスでもドイツでもイタリアでもスペインでもいいではないか。
なぜイギリスなのか?と考えると・・・今年のうちのカレンダーを見てハッとした。
ピーターラビットだ!
ピーターラビットこそ、イギリスの、洋風田舎の代表的イメージを形作っているのではないか。
さらには近代社会において農業・農村をポジティブなイメージに価値転換したのもピーターラビットなのではないか、と。
子供向けの絵本でありながら、大人にも、というか、むしろ大人に、特に女性に大人気のピーターラビット。
人気の秘密はあまりメルヘン過ぎない上品な絵と、よく読むと割ときわどいストーリーにあります。
なにせピーターラビットのお父さんは農夫マクレガーさんの畑を荒らして捕まり、パイだかシチューだかにされて食べられてしまったのですから。
ピーターも危うく同じ目にあいそうになります。
かと言って、作者はマクレガーさんを残酷な悪者扱いにすることなく、子供向けによけいな甘味料を加えることなく、それがごく自然な人間と動物の関係として、さらりと描いています。
子供だましでない、そのストーリーテリングの見事さと、リアリズムからちょっとだけズラした絵柄とのマッチングが、唯一無二の世界観を醸し出している。
そして、その世界観が、この物語の舞台である湖水地方、さらにその向こうにあるイギリスの田舎を一種の理想郷のイメージに繋がっているのではないかと思います。
僕はこの物語の舞台であり、作者のビアトリクス・ポターが暮らしたイギリスの湖水地方には何度も行きました。
最後に行ったのは20年ほど前ですが、その時すでに地元の英国人は日本人観光客の多さに驚き、「ポターはそんなに日本で人気があるのか?」と聞かれたことがあります。
その頃からピーター=ポターの人気は不動のようですね。
19世紀の産業革命の時代、ロンドンなどの都会に住んでいた富裕層が、工業化と人口の増加で環境が悪化した都会を離れ、別荘を構えたり移住したことで湖水地方は発展した・・・という趣旨の話を最近、聞きました。
それまでの田舎・農村は貧しさや汚さ、そしてその土地に人生が縛り付けられる、といった暗いイメージと結びついており、けっして好ましい場所ではなかった。
しかし、急速な工業化・非人間的で気ぜわしい労働・環境に嫌気のさした人々が、都市・工場とは対極にある農村・田園・農業に、自然とともに生きる人間らしさ、長閑さ、幸福感とぴった高い価値を見い出したのです。
ポターの描いたピーターラビットの世界はその象徴と言えるのかもしれません。
そして産業革命から200年余りを経た今日、一種の回帰現象が起こり、再び農業に人気が集まりつつあります。
これからのライフスタイルは、工業化の時代を超えて、土に触れ、植物や動物の世話をする超リアルな農的ライフと、ネット・AI・ロボットのバーチャルな脳的ライフとに二極化し、僕たちはその間を行ったり来たりするのかなぁと、ピーターラビットのカレンダーを見ながら考えています。
年末に秋田犬となまはげとナマケモノの話を書いたら、秋田県から仕事が来ました。
ホントの話。
秋田の終活に関するお仕事です。
「月刊仏事」の仕事をやっていると、最近、終活が一大トピックになってきたのが分かります。
特に 昨年は関連ニュースも多く、専門団体の活動なども活発化した気がします。
終活と言っても、相続などの現実的な財産関係から家族の問題、心の問題まで、いろいろバラエティがあります。
そして、お金の問題も心の問題も結局ひとつながりなことも分かります。
終活と言うと、やっぱりちょっと暗いイメージがあって引く人も多いのだけど、「個人史」とか「自分ストーリー」の作成みたいな見方をすれば、ちょっと違うかも。
人生100年とか、二毛作・三毛作とか言われる時代、誰でも半ばを過ぎたかなと思ったら、終活かどうかはともかく、自分の人生・生き方を振り返ってみる必要があるのかも知れません。
秋田の仕事は楽しみです。
秋田を旅する機会があればいいなぁ。
お正月はのんびりゆったり。
最近はナマケモノの株も上がっていますが、何と言っても日本ではそれを象徴する動物はカメでしょう。
平和でのんびりイメージのカメですが、近年はワニガメ、カミツキガメ、ミシシッピアカミミガメなど、南米産の獰猛・凶悪なカメが公園の池にはびこり、ちょっとイメージが変わってしまったかも。
昨日の和田堀公園のかいぼりで絶滅寸前とか言われているイシガメがいたのにはちょっとホッとしました。
高齢化社会でそうビシバシGOGOばかりでは立ちいかないのだから、日本の「のんびりゆったりOK」を守りたいです。
ところでカメは萬年ということで、単なるのんびり屋というだけでなく、おめでたい動物なのですが、なぜか干支には入っていません。
同じく千年でおめでたい鶴も干支に入っていませんが、こちらは酉年(鳥)のカテゴリーに入れられなくもない。
しかし、カメの方は、同じ爬虫類だからと言って巳年(蛇)のカテゴリーに入れるのは無理があります。
萬年生きる寿ぎのカメは別格ということなのか、それとものろすぎて、エントリーもできなかった。除外と言うことなのか。
でも別格と言うのなら、龍だってそうです。
そもそも神獣の龍がどうして他の11匹と同じレベルにされているのか?
それに明治時代になって北海道で飼われ始めた新参者のヒツジがどうして名を連ねているのか?
謎は深まるばかり。
この1年かけて勉強します。
というわけで、僕も皆さんも干支のことを気にするのはお正月と年末くらいのものなので、きょうは干支の話をしてみました。
まだ三が日ですが、コンビニのみならず、お店はあちこち開いているようです。
お正月らしくないと文句言う人もいるけど、やっぱりあいていると嬉しいです。
働いている皆さん、お疲れ様です。
カメ年じゃないけど、心にいつもカメを。
ゆったり余裕でいきましょう。
その時、正しいこと、良いことだと信じられていることが、実は大間違いということが、ままあります。
今日は書初めなので朝から創作活動に勤しみ、お昼にちょっと外の空気を吸おうと散歩に。
近所の和田堀公園まで行ったら、なんと池の水が干上がっている!
水を抜いてかいぼりの最中です。知らなかった。
暮らしていた生き物たちが今、どこにいるのか分からないけど、カワセミも来ることで有名なこの公園、水中ではいろいろな連中がいたようで。
在来種では僕も息子がチビの頃、一緒に取った手長エビをはじめ、ナマズとかウナギまでいたらしい。
イシガメも外来種に押されながら頑張って生きていました。
さすがにワニガメやカミツキガメのような危険生物はいなかったけど、ミシシッピアカミミガメ(ミドリガメ)は一大コミュニティを築いていたようです。
よく群れになって甲羅干しをしているのを見かけました。
外来種の氾濫はもちろん、飼いきれなくなって放してしまう人間の責任です。
そういえば僕も小学生の頃、ミドリガメを飼っていたけど、最後どうしたのか憶えていない。
たぶん、近所の公園の池に放して生態系を壊すことに繋がったのだと思います。反省。
でもその頃は、ミドリガメなどは大きくなったら狭い水槽では可哀そうだから、近所の池や川に放してあげましょう、自然に返してあげましょうとアナウンスされていました。
昭和40年代は、それが正しい行い。
生き物に対する思いやりのある行い。
子どもも大人もそう信じていました。
そんな昭和の古い常識を大掃除して、捨てるものと、遺し伝えていくものとをちゃんと仕分ける――そうした時代になっているのだと思います。
もちろん、いまの知識・常識が未来永劫不変のものとは限らないけど。
良いことも悪いことも、正義も常識も価値観も、時代によってどんどん更新される。
「知らなかった」では済まないこともたくさんあります。
本質を見抜ける目を養わななくてはね。
自分にとっての、お正月の抱負です。
一昨日は酉年の話をしたので、当然、本日は来年の干支・戌年の話だワン。
この間、京王線に乗ったら全車両が秋田犬に占拠されていました。
数年前から秋田県のキャンペーンで大人気。
戌年を迎えて、ますます活躍しそうです。
その秋田犬の話によると、秋田では大みそかの夜になまはげが来るとか。
「泣いてる子はいねーが」という、あのなまはげです。
あんなのがいきなり家の中にドヤドヤ入ってきたら、そりゃ小さい子は泣いてしまうに決まっています。
子供を泣かすのが、なまはげのミッションかと思っていたのですが、なんと、大人にも!
「なまけものはいねーが」と脅すというのです。
これは知らなかった。
泣いてる子だけじゃなく、怠け者も糾弾されるとは!
もし今晩、やれやれお疲れさんと一杯やって、ゴロゴロこたつで寝転がって紅白なんかを見ている時に、いきなり「なまけものはいねーが」となまはげが入ってきたらどうする?
「いや、おれは今年一年、一生懸命がんばった。
だから今夜は疲れを癒すためにこうして飲んでる。自分へのご褒美なんだ。怠けてなどいるものか!」
と、きっとあなたは抗弁するでしょう。
けれども相手はなまはげです。
そんな言い訳など聞いてくれるわけがありません。
「本当に怠けてなかったか、胸に手を当ててよーぐ考えろ」
そう迫られたら自信がぐらぐら揺らぐに違いありません。
おれは自分では頑張っていると思ってたけど、それはただの思い込みじゃないのか?
実はすごく大切なところで怠けていたのではないだろうか?
自分がやるべきことを忘れているのではないだろうか?
そうなのです。
仕事の納期や、雑用の期限、支払い期日はしっかり守っているからと言って、人生で自分がやるべきことのタイムリミットまで守れるとは限らない。
そもそも人生の締め切りがいつなのかは分からない。
でも逆に言えば、毎日あくせく働いてるばかりじゃだめ。
たまには怠けていないと、そんな心の声を聴くこともできません。
なまはげとなまけものはナマナマコンビで良い友だちなのかも。
そういえば今年の元旦、僕のブログは「神ってるナマケモノ」の話で始まりました。
ナマケモノで始まり、ナマケモノで終わる2017年。
2018年も「翔るナマケモノ、走るナマケモノ、神ってるナマケモノ」を合言葉に怠けつつ、与太話を書いていこうと思います。
いつも読んで頂いている皆さん、どうもありがとう。
良いお年を。
酉年ももうすぐ終わり。
先月東京しゃもの取材でお会いした、生産組合の組長・浅野養鶏場の浅野さんは齢80ながら、パラグライダーで空を飛ぶ鳥人でした。
その浅野さんの言葉が耳に残っています。
「鳥のように自由に生きたかったんだ。
それを母親に言ったら『じゃあ勤め人にはおなりなさるな』と言われたんだよね。
だから自分で養鶏をやろうと思った」
いまや大学も就活工場と化す時代だけど、
戦後の混乱期・食糧難の時代を経験した人が、こんなセリフをさらりと言うとやっぱりカッコいい。
それで尊敬する専門家に話を聞きにいったところ、
空を飛ぶ鳥は体重を軽く保つ必要がある。
そのため、最小の筋肉で最大の飛翔エネルギーを生み出せるよう、身体の構造が進化した。
だから常に新鮮な酸素を必要とする。
飛べなくなった鶏もその生命の原理は同じ。
なので鶏を飼うなら常に風が良く通る土地でやるべき。
そんな話から現在の秋川の地に養鶏場を開いたといいます。
その後、日本の市場にブロイラーが入り、席巻されたけど、浅野さんはアメリカが仕掛けたブロイラー戦略に乗らず、国産の採卵鶏にこだわり、やがて東京しゃもの開発に協力。
今も生産組合の組長を務めています。
昼間は1万羽の鶏たちの世話をし、夜は絵を描き、声楽をやる芸術家的生活。
厳しいけれども楽しい、楽しいけれども厳しい。
それがフリーランスの人生。
鳥のように自由に。
僕たちには空を飛ぶための翼があることを忘れてはいけない。
なんだかトホホな顔のネコ。
よく見るとニャンと鎖でつなかれております。
今日はマイナビ農業取材で、あきる野市の「浅野養鶏場」へ。
ここは超ブランド鶏「東京しゃも」の養鶏場。
採卵用の鶏も含め、1万羽が飼われていますが、その鶏を狙って裏山からタヌキが出没すると言います。
そして、このノラネコもタヌキとともに鶏を狙って侵入したのです。
しかし主の浅野さんと愛犬・番犬のチェリーに見つかり、タヌキは山に逃げたが、ネコは逮捕。
かわいそうだが、つながれてしまいました。
浅野さんは鶏の声や表情を読み、パラグライダーで空も飛んでしまうという鳥(超)人で、大の動物好き。
鶏に手を出さなければ解放して、可愛がってくれると思うのだけど、野性の本能を抑えられるのかニャー。
うちのカミさんは子供や動物にモテる。
べつに子供や動物が大好きというわけではない。
むしろ子どもに対してはいたってクールだし、ペットを飼ったこともないし、ネズミ類などの動物は大嫌い。
だけどなぜだか子どもはよくなつくし、言うことをちゃんと聞く。
僕は道でネコに会うたびに対話を試みるが、ほとんど相手にしてくれるネコはいない。
なのに、彼女にはイヌもネコもクンクン、ニャーニャー寄ってくる。
なんで?
こういうのは生まれ持っての才能なのか?
(彼女はその才能を活かして、小児鍼という、子供を診る鍼をやっている)
子供や動物を愛してやまないという人ならわかるが、どうも納得できない。
なんだか不条理だ。
長らく僕にとって人生のミステリーとして濃い影を落としている。
なにかコツとか、ノウハウとか、心がけとかあるのかと聞くと、
「そんなもの、あるわけなでしょ」と一蹴される。
思えばこの20数年、そうしたやりとりを繰り返して暮らしてきた。
長く生きて、いろいろ経験を積めば、その謎が解けていくのではないか。
なるほど、そういうことだったのかと、いつかすべての霧が晴れる日が訪れるのではないかと漠然と思っていたが、どうもそういうものではないらしい。
わからないやつには一生わからない。
バカは死ななきゃ治らない。
これはそういう類の事象だ。
ネコにすり寄られようが、無視されようが、人生の大きな損失になるわけじゃないのだが、やっぱりちょっと悔しい。
でも彼女が子供やイヌ・ネコにモテた話を聞いたり、目の当たりにするのは悪くない気分である。
人間も世の中も理路整然とはしていない。
ロジックにとづいて動いている物事はむしろ少なく、大事なことは不条理だから面白かったりもする。
すべてのミステリーが解決して、空には一片の曇りもなく、影もなく霧も出ない人生はかなりつまらなそうだ。
いずれにしても、そういう才能に恵まれなかったぼくも、しゃーないから少しは努力しようという気になる。
そしてたまにネコとのコミュニケーションに成功したりすると、得も言われぬ幸福感・充実感に包まれるのである。
祇園にある京都最古の禅寺・建仁寺の法堂天井画の「双龍」。
すごい迫力だが、どちらもどことなく愛嬌のある顔をしています。
京都の神社仏閣を訪ねると、やたらとあちこちに龍がいます。
思わず「います」と言いたくなる存在感・実在感が京龍にはあります。
このお寺ではほかに桃山時代に描かれた襖絵の雲龍もいます。
そんな大昔の絵なのにずいぶんきれいだなと思ったら、この寺ができて800年の記念事業の一環で、京都文化協会とキヤノンの協力で、全部で50面ある襖絵を高精細デジタルで複製したということ。
現代のテクノロジーの力で復活した京龍。まさしく日本のジュラシックパーク。
嵐山にある天龍寺の法堂の天井にも「雲龍」がいます。
こちらは撮影禁止でしたが、八方にらみの龍で、円に沿って堂内を一周すると、どこに行っても龍に睨まれている感じがします。
けれども、これもまた睨まれて怖いというより、いつも見守ってくれているという安心感を感じます。
この天井画の雲龍は、もともと明治時代の日本画家の筆によるもの。
龍は水の守り神。
海がない代りに豊かな水を湛えた琵琶湖が控えています。
明治維新後、天皇は東京に移り住むことになり、いっしょに公家や大名も去って京都は都の地位を喪失。経済的にも大ダメージを被りました。
お得意様をなくした町人たちは、自分たちの手で京都の街を再建し、生活の糧を得なくてはならなくなったのです。
敢然と立ちあがった京の明治人たちは、脳も筋肉もフル回転。
その再建事業の一つとして、永年夢見た琵琶湖の利用開発に着手。
豊かな水を利用して運河を開いたり、水力発電を行うことに成功しました。
明治時代に描かれた龍は、この明治の京都人たちの意気地と、琵琶湖疎水の象徴だったのかも知れません。
二つの天井画は、天龍寺の「雲龍」が2000年に、建仁寺の「双龍」が2002年に、それぞれ著名な日本画家によって新しく描き直されました。
明治の龍がどんな筆致だったのかは分からないけど、豪壮で勇ましく権威を感じさせる龍から、優しくし親しみやすい守り神のような龍に変わったのではないかと想像します。
京都の水はやわらかくて、おいしい。
だから21世紀の京龍は、Lovdelyなのかなぁ。
ピキー、キキキキ、ピー!
と、バタバタする生後3週間の子豚ちゃん。
べつにいじめているわけじゃないけど、元気良すぎて、だっこされて子供たちが触ると大騒ぎしちゃうのです。
ちなみに体重は3~4キロくらい。
小型犬くらいの大きさで、かわいいったらありゃしない。
今日は西多摩郡の瑞穂町にある都立瑞穂農芸高校の学園祭(瑞高祭)。
例によって「マイナビ農業」の取材に行ってきました。
この学校は都内で唯一、畜産科学科のある高校で、広大な敷地の校内には畑などの農地とともに、豚や牛をはじめとする動物がいっぱいいます。
ちょっと学園祭の様子を覗いてレポートさせていただくだけで・・・と軽い気持ちで出かけたのですが、思いがけず、良い意味でヘヴィな取材になって大充実。
酪農、養豚、それぞれのリーダーの生徒(3年生)、校長先生、社会科の先生にインタビューしたり、牛舎ツアーに参加したりしました。
生徒の皆さんの話はとてもしっかりしていて、ツアーのガイダンスも素晴らしい。
この学校では動物や植物の世話なども学業の一環となっていて、話を聞くと毎日めちゃくちゃ忙しそうだけど、とても軽やかに楽しくやっているのが印象的です。
この瑞穂祭、人出もものすごく、毎年2日で4千人も訪れるとか。
畜産科学科のこうした動物ふれあいコーナーの他、手づくりのミルクやキャラメル、トン汁などの販売、園芸科の野菜やじゃがバタの販売、食品加工科の手作りみそやジャム、肉まん・あんまんなどの販売と、美味しいものも盛りだくさん。
この地域の人たちにとっては秋の大きな楽しみの一つになっているようです。
しかし、ただ楽しく――だけじゃなく、テーマは「生命に学ぶ」。
人間の食糧となる豚や牛を育て、親しんでいる高校の学園祭だけに、言葉だけでなく、お腹にずしっとくるものがあります。
晴れた秋空同様、すごく爽やかな一日でした。
良い記事にしますぞ!
ちょっと前、息子の小学生時代のPTA仲間だった女性に、僕が書いたコラムが面白くてずっと冷蔵庫に貼っていた、とお褒めの言葉を頂きました。
でありながら失くしてしまったので、あれ残っていない?と言われて家探ししてみました。
かれこれ10年くらい前のもので、彼女が読んでいるということは、PTAの広報誌に違いない、それならほとんどファイルしてある(なにせ小中で7年間、広報委員をやったので、30冊以上作った)ので見つかるはずだと思ったのですが、どこのページをめくってもそれが見つからない。
いったいどこに何を書いたのだろう?
しばらくの間、考え続けたが、そうそうヒマでもないので探すのはやめました。
でも、彼女の話を聞いて、なんとなく内容は思い出した。
「動物占いについて」です。
「動物占い」は生年月日(プラス血液型もあったかな?)で12か13の動物(タイプ)に分かれる。
ヒョウとか、オオカミとか、ウサギとかあったような気がするが、うちでやってみたら、妻と息子は同じ「ライオン」で、僕は「コアラ」だった。
ライオンタイプの人たちは、やたら外面が良くて、あの人はデキる人とか、一目置かれるような人たちに見られるらしい。
その反面、家の中とか、内内ではグテグテにだらしなくて、そのギャップがすごく激しいということ。
僕はコアラなので、外でもうちでもマイペースタイプ。
しかし2頭のライオンと暮しており、その2頭が揃って「きょうも褒められちゃった~、デヘヘ、グテグテ~」となっているので、子守熊よろしくその面倒を見なきゃいけない損な役回りだ~。
といったことを書いたのだと思います。
どういうふうにまとめたかは憶えてないけど、だいたいこんな内容。
しかもその暮らしぶりは基本的には10年経っても変っていません。
チビライオンがでかくなってしまったので、グデグデしていられると、以前にもまして邪魔でしゃーないけど。
でもまぁ、ライオンたちに助けられているところもあるので、お互いさま、というか、共依存関係かな。
だけどNさん、面白がってわざわざ冷蔵庫に貼ってくれてありがとう。
また10年経ってもさらに面白いものが書けるよう精進します。
●大好物のフィッシュ&チップス
イギリスの「フィッシュ&チップス」が大好きで、昔、かの地で暮らしていた時はよく食べました。
いわゆるファーストフードで、要は魚の天ぷらとフライドポテトなのですが、これに盛大に塩とビネガーを振ってかぶりつく。
日本でもたまに見かけるので食べたことがありますが、全然ダメ。
なんというかお上品すぎる。カッコよく英国風に・・・をコンセプトにするせいかもしれませんが、スカしたラーメン屋がうまくないのと同じで、労働者階級の食物は、あんまり洗練されたアレンジメントでは味が出ません。
世界一の食大国・日本のセンス・技術が裏目に出てしまうのです。
フィッシュ&チップスの材料は主に白身魚で、タラを中心に、ヒラメやスズキなどが多かったように思いますが、なんでも最近、英国近海ではこれらの魚――特にタラが不漁で、安く提供できなくなっているとのこと。
そこで代わりにメインになりつつあるのが、イカ!
●愛するイカ
昔、読んだ本の中に「ヨーロッパ人はイカやタコを『悪魔の魚』として怖れ、嫌うので、食べることはない」と書かれていました。
その頃(30年ほど前?)はまだあんまりイタリアンも広まっておらず、僕は、ふーん、そうなんだ、あんなうまいものを食わないのかと思っていました。
ちなみに僕はイカ・タコが大好物で、名古屋人なので、よく「えびふりゃー好きでしょ」と言われるのですが、えびふりゃーより、イカふりゃーやカキふりゃーの方が断然好きです。
イカは刺身も寿司も天ぷらも、イカスミスパゲティも大好きです。
●イカ・タコを食べるヨーロッパと食べないヨーロッパ
ところが、さにあらず、イタリアをはじめ、スペイン、ポルトガル、ギリシャなどの南欧諸国ではかなり日常的にイカ・タコを食べていることが判明。
これらの国々を旅していた時は、毎日のようにイカ・タコを食べて命をつないでいました。
なので、その本の中で書かれていたヨーロッパ人とは、イギリスとかオランダとか北欧とか、北ヨーロッパ系の人のことらしい。
確かにイギリス人とイカ・タコはミスマッチという気がするし、ドイツ人やフランス人もあんまりイカ・タコを食べているイメージがない。
イカを食べるヒトラーとか、
タコを食べるマリーアントワネットとか・・・
想像すると面白いけど。
●地球環境の変化と市場の変化
つまり昔は、北の方の海ではイカ・タコがあまり生息しておらず、漁獲量もわずかだったので市場に出回らなかった。
見慣れない物は食えるかどうか、うまいかどうかわからない。
皮をむいたウサギや、にっこり笑ったブタの頭が、肉屋の店先にぶら下がっているのは「おいしそー」と思うけど、イカやタコが魚屋にあのままの姿形で並んだりすると、なんだか見た目気持ちわるーい・・・と、かの国の人たちは感じるわけです。
けれども地球の海が暖かくなり、それまで北にいた魚がさらに北へ、そして南にいた魚が北に上ってくる。
すると、英国近海でタラの代わりにイカが大量に採れるようになり、せっかくいっぱい採れるから売ってみるか、ということで市場に出回るようになり、じゃあこれを材料にするか・・・ということでお店で使ってみたら、お客にも好評。安いし、結構デリシャスじゃん、ということで、イカのフィッシュ&チップス(正確にはスクイド&チップス?)がポピュラーになりつつある・・・ということらしい。
●日本食やイタリア料理でイカ好き増加?
というわけで、昔ながらの食習慣も環境の変化があれば、割と簡単に変ってしまう。
フィッシュ&チップスが変わったのも、昔と比べて、日本食やイタリア料理・南欧料理が社会に浸透し、グルメ情報が大量に流通するようになって、イギリスの人たちの間でイカ・タコに抵抗感がなくなったからではないでしょうか。
これもまたグローバル化現象?
いずれにしても皆さん、脂肪たっぷりのお肉の食事は少々控えて、タウリンたっぷりのイカ・タコ食べて、健康になってくださーい!
というわけでイカ大歓迎。やっぱり本場で食べたいフィッシュ&チップス。
来年あたり、久しぶりに行こうかな。
夜、ぺたっとガラス窓や壁に貼りついているヤモリ。
年に1~2回はヤモリに遭遇します。
僕がこれまで住んできた家にはたいていヤモリもいるのです。
ぎょっとする人、はっきり言って気持ち悪いと感じる人は、少なくないと思いますが、僕はけっこう親近感を持っていて、かわいいと感じています。
ヤモリは「家守」。縁起のいい生き物。
という刷り込みがあるせいかもしれません。
実際、シロアリやカ・ハエなどの害虫を食べてくれるので、そう悪いやつではありません。
それによく見ると、本当に愛嬌のある顔をしていて、
他の爬虫類に見られる「冷血さ」を感じない。
かわいく、さりげなく守り神。
ヤモリがキャラクターとして登場する物語はたぶんあまりないと思うので、いずれ書きたいと思っています。
ここでよくカエルのことを書いているせいか、もしかしたら、僕はカエル男化しているのではないだろうか?
と最近、疑念にかられることがある。
9月に八王子でイベントの仕事があるので、今日は午後からいろいろ下見と打ち合わせをやってきた。
1時に京王堀之内駅に着くと、青空が広がり、気温37度超。
思わず駅のコンビニでウィルキンソンの炭酸水を買ってシュワシュワのやつをゴクゴク飲み干した。
が、台風が来た時のひどい蒸し暑さと違って、割とカラッとしていると感じる。
みんな数字を聞いて大騒ぎするけど、僕としては32~3度を超えちゃうと、それより上はそう大して変わらない感じがする。
これが40度ちかくなればまた違うのだろうけど。
で、堀之内駅からプロデューサー氏といっしょに車で5分ほどのガーデンデザイナーのお店を下見し、14時半ごろ、再び車に乗って20分ほど走って八王子駅方面へ。
八王子駅からほど近い冨士森公園というのが、9月のイベントの会場なのだが、そこで降りると20分前とは空気がガラッと変わっていた。
日差しがなくなったのでさっきより気温は下がっている感じがするのだが、湿気をたっぷり含んだ空気がじとっと肌にまつわりつくのである。
カエルなら跳び上がって喜んでケロケロっと鳴き出すところだが、僕にとってはただ気持ち悪いばかりで、「もうすぐ降ってくる」と訴えた。
で、公園を歩き回って10分もたたないうちに落ちてきて、3時のおやつの時間には思いっきりザアザアぶりに。
他愛のない話だけど、自分の肌が天気の急変に鋭敏に反応したことは、ちょっと面白かった。
皮膚は第2の脳と言われています。
子どもの直観力が鋭いのも、皮膚が繊細で鋭敏だから。
言語化されない、可視化できない無数の情報をキャッチすることができる。
子どもと同等に――とまではいかないだろうけど、自分の皮膚感覚を信頼することは、ネットなどで溢れる情報の洪水に流されないためにも割と大事なことだと思います。
カエル男・カエル女になるのも悪くない。
余談ですが、荷物の2ヶ口、3ヶ口というのを「にケロ、さんケロ、よんケロ、ごケロ」と呼ぶ人たちといっしょに働いています。
みんなケロケロ言って、カエルの合唱をしているような職場で僕は大好きです。
昨日、吉祥寺に行ったら、駅ビルの「キラリナ」で動物写真家・岩合光昭さんのネコグッズ販売所がありました。
岩合さん撮影のネコの写真を使った雑貨グッズが、ずらりと取り揃えてあります。
岩合さんは言わずと知れた、ネコミュニケーションの達人。
「海辺のカフカ」(村上春樹の小説)に登場する、ネコ探し名人のナカタさんのように、ネコ語が話せるのではないかと思うくらいです。
ネコは人間にとっていちばん身近な野性。
野生のネコ(つまり野良猫)と、一部の飼いネコ――「ずーっと人間の家にいるのはたいくつだニャ~」という好奇心旺盛な奴や、 「エサとねぐらは頂戴するが、人間の言うとおりになんかしニャいぜ」という志の高い奴など――は、毎日のように人間の世界と野性の世界とを行きつ戻りつしています。
野生の世界にはぽっかりと空いた時空の穴、通称「アリスのうさぎ穴」みたいなものもあって、不思議の国に迷い込むネコも後を絶ちません。
最近、永福町界隈で頻発している飼いネコ失踪事件も、その不思議の国に迷い込んでしまったのでは・・・という噂が立っています。
いずれにしても、ネコたちは野生の世界や、その他のわけのわからない世界から、いろいろ情報を持ち帰り、共有しているとのこと。
人間にはわからない、地球の生物界に起こっているいろいろな出来事についても探究している模様です。
インターネット上のろくでもないクズ情報はもううんざりなので、ネコネットワーク経由で、そうした貴重な情報を取得できはしまいか、いずれネコたちとの座談会や冒険好きネコのロングインタビューができはしまいかと、日々、ネコミュニケーションの研鑽を積んでいるのです。
が、さっぱり上達しませんニャ。
泣き声は結構自信あるんだけどニャ~。
そもそもどう努力すればいいのかにゃあ。
フニャーゴロゴロゴロ・・・
と雷雨になってきたので、これでおしまい。
にゃんころり。
暑いので近所のプールへ行こうと外へ出たら、道ばたでカラスが何かくわえてズリズリと引きずっています。
どこかからゴミを拾ってきたのかと思ったら、その引っ張られているやつはバタバタともがている。
近寄ってよく見ると、ガマガエルでした。あちゃー!
もうあきまへん、炎天下、あわれカラスの餌食にされるのか、グロいシーンに出くわしたかと思いきや、どうもカラスの方は食ってやろうという気はなく、逃げようとするガマの足を引っ張って引きずり回して離して、引っ張って離して・・・を繰り返し、なにやら弄んでいる様子。
カラス:カカカカ、ほれほれほれ。
ガマ:わあっ、やめてください。たすけてください。
カラス:カカッカカ、助かりたいか、ほれほれ。
ガマ:なんてことするんです。やるなら一気にバッサリやって、ちゃんと煮るなり食うなりしてください。
カラス:バーカ、おまえみたいなまずいカエルなんか食べられるか。
おいらは毎日、人間の食い残しをたっぷり食ってお腹いっぱいなんだもーん。
ガマ:じゃあ何でこんなことするんです?
カラス:いじめてやっているんだよ。カカカカ、おいら弱い者いじめ、だーいすき! おまえの仲間もいっぱいいじめ殺してやったぜよ。
その時、ガマの心の中で何かがゲコッ!と弾けた。
よみガエル、よみガエル、
その体に代々受け継がれてきた千年ガマのパワーがよみガエル。
それまで敵に背中を向けて、ひたすら逃げようとしていたガマ、くるりと前を向いた。
およよよ・・・
ちょっといきなり向かい合って、ちょっとびっくりした様子のカラス。
ガマ:このファック野郎!おとなしくしてりゃつけ上がりやがって、おい、こら。
いきなり啖呵を切ったガマにビビッてあとずさるカラス。
カラス:おお、なんだなんだ、おまえ本気か?やるっていうのか?
ガマ:あたりめーだろ、焼き鳥野郎。俺を誰だと思っているんだ。この永福界隈のカエル仲間じゃちっとは知られた、千年ガマの末裔、その名もガマン。けどなぁ、もうブチ切れた。我慢するのもここまでだぜ。
ガマ、じりじり一歩二歩、カラスに向かってゆく。
カラス、ビビっていったん空へ逃げる。
ガマ:おう、逃げるのか。おれと勝負できねーってか。
空を見上げ、吠えるガマ。
これは写真を撮っておこうと、ここで僕はきびすを返し、家に戻ってカメラ(携帯)を取ってきた。この間、約1分。
ところが現場に戻ってみると、通りすがりのおばあさんが持っていた杖でガマをちょいちょいと突いている。
どうやら再びカラスが地上に降りてひと悶着あったようで、おばあさんが「早くお逃げ」とガマを助けている様子。
しかし、ガマは納得できない。
「おい、ばあさん、邪魔すんな。助けてもらわなくても俺はあんなヘタレガラスになんか負けねえ。
あんなやつ、俺のほうが焼き鳥にして食ってやらぁ!」
そんな啖呵もむなしく、おばあさんの仲介によって、結局、勝負は痛み分け。カラスはどっかに行っちゃった。
でも、前後の様子を知る僕には、臆することなく果敢にカラスに立ち向かい、見事に撃退したガマの大いなる勝利に見えたのです。
おばあさんが去り、写真に撮る僕の前で、えっちらおっちらと道端の排水溝に辿り着いたガマは、そのまま小さな排水溝の穴から地下へとダイブした。
ドボン!
ガマガエル 負けるな 飛び込む 水の音
パクリで一句決めて、僕はプールへ行ってゲコゲコとカエル泳ぎをしてきました。
恋の季節なのか、最近、近所でやたらと「猫が迷子です」という貼り紙を見かけます。
飼い猫が家に帰ってこなくなってしまって、飼い主さんが捜しているのです。
どこかの猫とラブラブになって、駆け落ちしちゃったということなら、まぁ、達者で暮らせよ、と諦めもつくでしょうが、どこぞの人間に連れ去られてしまったのでは・・・と考え出すと、そりゃいてもたってもいられません。
村上春樹の「海辺のカフカ」に「ナカタさん」という猫探しの名人が出てくるのですが、ああいう人がうちの近所にもいればいいのにな、と思います。
ナカタさんは子供の頃、秀才だったのですが、戦時中の疎開先で遭遇した事件がもとで知的障害になり、その代り、猫の言葉がわかる能力を得たという設定で、この物語の中でも数奇な運命を辿ります。
このナカタさんが頼まれて探していた三毛猫の「ゴマちゃん」を見つけ出し、無事、飼い主のコイズミさんのお宅に届けたら、コイズミさん一家が狂喜した・・・という場面が、僕は大好きです。
何度読んでもすごくいいんだよね。
その一方、いろいろなドラマを経てゴマちゃんを救い出した(そうなんです。おぞましい世界からの救出劇があるのです)のに、お礼がたったの3000円って、どうなの? と思ってしまいます。里芋の煮っ転がしがおまけについてきましたが。
救出劇のことはコイズミさんも知らなかったのでしゃーないけど、現実的に考えても、行方不明の猫を探し出してくるという、そんじょそこらの凡人にはない、稀少な職能です。
しかも家族に大いなる幸福をもたらす仕事をしたのだから、もっと報酬弾めよ。 結婚式のご祝儀だって30,000円くらい出すだろう、と言いたくなります。
でもまぁ、ナカタさんは職業で猫探しをやっているのではないし、金銭欲もまったくない人なので、これでいいのかも。
貼り紙出している人は、見つけたらいくら報酬を出すのだろう?
ちょっと気にはなりますが。
ネコ写真家の岩合さんも猫と話ができるのだろうな。
僕はと言えば、長年、道ばたで猫と遭遇すると、会話をしようと試みるのですが、さっぱり見向きもされません。
ごくたま~~に相手にしてくれる奇特な猫もいますが。
ナカタさんとまではいきませんが、少しはネコが心を開いてくれる人間になるのが、今後の目標の一つです!・・・かな。
●でめ金がない
友だちとメールでやりとりしていて「でめ金がない」というセリフを送ってきたので、「デメキン? 金魚すくいに行きたいの?」と返しました。
気が利かないやつなので、まともに「『でもカネがない』って書いたんだよ」と返してきましたが。
そんなわけで、そのメールを見たら、頭の中に出目金が現れ、泳ぎ出しました。
僕には出目金の思い出がある。
ひらひら尾びれをゆらめかして金魚鉢の中を行ったり来たりしていた黒い出目金。
子供の頃、出目金に対して最初に抱いた疑問は、なんで他の金魚は赤いのに出目金は黒いんだろう? でした。
なぜか、なんで目が飛び出しているんだろう? という疑問はあとから出てきた。
●金魚のフリークス
それで金魚の図鑑を調べたら、出目金だけじゃなく、ヘンな金魚がいっぱいいる。
リュウキンなんかはあちこちのヒレがやたら長くてゆらゆらしていて、それなりにきれいだと思ったけど、背びれがなくてブヨッとした体形のランチュウとか、頭にイボだかコブみたいなものをいっぱいくっつけているオランダシシガシラなんてのは、どうみても気持ち悪い。
出目金も含め、どうやらこのへんのやつらは自然発生したんじゃなくて、人間の手で作られたらしい。
なんでこんなヘンなサカナを作ったんだろう? と、ふくらんだ疑問に対して自分で見つけた答は、みんな赤いフツーの金魚(和金)ばかりじゃ、金魚すくいをやっても面白くないから――ということで、お祭りの金魚すくい屋が、もっとお客を呼ぶために、いろんな変わった金魚を創り出したのだ――というものでした。
●金魚すくいの出目金
もちろん、そんな気概のある金魚すくい屋はいないし、ランチュウやオランダシシガシラは希少価値のある、高価な金魚なので、金魚すくいなんかに使えない。
でまぁ、赤い和金とのコントラスト――いわば賑やかしのために、黒い出目金が「変わり者代表」として、金魚すくいの舞台で活躍することになったわけです。
概して子供は目のデカい生き物が好き。
だから出目金も人気がありました。
僕も金魚すくいに行くと、たいてい出目金を狙っていました。
からだが大きめで、なんとなく動きがほかの連中よりのろく、からだも大きめなので、カンタンに救える気がするのですが、そう甘くはありません。
それでもがんばって何匹かすくって、家に持って帰って飼うんだけど、出目金はなぜかみんな早死にしちゃうんだよね。
目玉が飛び出しているので、ケガをしやすいと本に書いてあったけど。
●「でめきんちゃん」のこと
ついでに――とう言っては失礼だけど、もう一つ思い出したのが「でめきん」というあだ名の女の子がいたこと。小学校の同級生でした。
目が大きく、ちょっと出っ張っていて、まぶたが脹れぼたかった。
それで、でめきん。
僕はべつに特別な感情を持っていたわけじゃないけど、彼女とは同じクラスの同じ班になったり、そろばん塾でもいっしょだったりしました。
どっちかというと真面目でおとなしい、目立たないタイプで、べつだん愛嬌のあるキャラではありません。
それなのに顔の特徴の一部をあげつらった、そんなあだ名をつけられて、さぞや不愉快・不本意だったと思います。
なんと言っても女の子だなんだからね。
僕もいま思うと、申し訳ないことしてたな、と反省しきり。
最近はもう少しまともなのかも知れませんが、その時分の小学生の男のガキどもは、まったくそういうところにはデリカシーのかけらもありませんでした。
でも、彼女は確か卒業文集の自己紹介の「あだ名」を書く欄で、ちゃんと「でめきん」と書いていた。
不本意・不愉快ではあったけど、受け入れていたということなのか?
それとも、あだ名がないよりはあったほうがいいと考えていたのかなぁ?
いずれにしても小学生とは言え、もう高学年だったので、容姿のことは気にしていたと思うけど、その後どうしたのだろう?
まだ子供だったから当然、大きく変わっているでしょう。
あの頃のバカ男子どもの目玉が飛び出すほどの美人になった、という可能性だってあり得ます。
どんな人生を辿ったのかはわからないけど、いずれにしても幸せになってくれているといいなぁ。
・・・と、少しでも罪悪感を感じないですませたいので、そう願います。
●でめきんの顛末
メールを送ってきた、給料日前で“でめ金がない”、しょーもない誤字メールを送ってきた友だちとは会って、昼飯をごちそうしました。
せっかくなので魚メインの定食屋へ。
しらす丼とまぐろメンチカツ定食。
カマスの塩焼きとさくらエビ入りコロッケ定食。
つごう1,820円なり。うまかった。
6月と言えばカエルです。
いや、断然カタツムリだ!と言う人もいるかも知れない。
紫陽花の葉っぱの上をもそもそやっているカタツムリもきらいではないけど、なんといってもサイレントです。
だけど、カエルはトーキーだ。
ケロケロ、ゲロゲロ、美しいとまでは言わないまでも、ユーモラスに鳴いてくれます。
カエルの歌は雨を呼ぶ歌。雨がしとしと降ると、田んぼが潤い、稲が育ち盛りの子供のようにすくすく伸びる。
これが正しい日本の梅雨の季節なのです。
最近は昨日みたいなゲリラ豪雨が多くて、そんな情緒もどこかへ吹っ飛んでしまっているけど。
だから日本人はけっこうカエルが好きです。
西洋では化け物や悪魔扱いされることが多いけど、日本ではベビーフェイスで、健気ないいやつらということになっています。
ガマガエルは悪役俳優だけど、人間や農業に危害を及ぼすわけではないし、心底嫌われているわけではない。
彼らはお百姓さんたちにとって、田んぼや小川や池で遊ぶ、お百姓さんのかわいいペットだったのです。
西洋人の耳には秋の虫の声はノイズにしか聞こえないと言うけれど、カエルの声もそうなのでしょうか?
ただのうるさいゲロゲロ声なのだろうか?
従来の日本人には心地よい音楽に聞こえていたはず。
だから「カエルの歌」なんて輪唱曲もでき、小学校唱歌になったのだけど、まだ愛されているのだろうか?
調べてみたら、なんとあの曲、もともとはドイツ民謡でした。
ドイツではどんな時に歌われていたのかわからないけど、日本の作詞家はきっと里山でカエルの歌がどんどん広がり、いつまでも響いているような、そして、それが来る秋には黄金色の稲穂が実り、美味しいお米がどっさり収穫されるというところまでイメージして、輪唱の歌にしたのでしょう。
今年は水害が起こらない程度にやさしく雨が降って、たくさんお米ができてほしい。
カエルはそれを祈願する歌い手なのだ。ケロケロ。
●裸のワンちゃん・着衣のワンちゃん
「あのイヌ、裸だ」
昨夜、近所の夜道で散歩しているイヌに会った時、そう思ってしまいました。
人間だったら大事だけど、イヌです。ベージュのトイプードル。
服を着ていないのは当たり前、というか、こっちが普通のはずだったのですが・・・。
最近、服を着て散歩している犬をすっかり見慣れてしまったせいです。
特にトイプー、チワワ、ポメラニアン、ミニチュアダックスなどの小型犬の着衣率は、かなり高いという印象を持っています。
うちの近所の永福町・明大前界隈もそうですが、このあいだ仕事で行った、横浜の「港の見える丘公園」とか、元町界隈では超わんダフルなファッションのイヌたちがいっぱいお散歩していました。
やっぱりあの界隈は裕福な家が多いんだなと、ワンちゃんたちに教えてもらった感があります。
●犬服の効用は?
イヌのしつけマニュアルや動物関係の広報誌・サイトの仕事をやっていた時分は、よく犬服について調べていましたが、それに関連してサイト上では必ず「イヌに服を着せるなんてアホか」「イヌがかわいそうだ」「病気になる」、極端なのになると「虐待に相当する」といった意見まで見られました。
僕がいっしょにやっていた、しつけの先生は
「いや、毛が飛散するのを防ぐなど、犬服にはメリットが多い」という賛成説を取っていました。
ペット用品業界にスポンサーになってもらっているという立場があって、悪いことは言えないという、おとなの事情もあったようですが。
ただ、僕の知る限り、服を着せるのが健康を著しく損なうとか、病気になるとかいう科学的な根拠はないようです。
ネットで犬服の悪口を書く人は、やっぱりイヌをよく思っていなかったり、そういう可愛がり方をする飼い主が嫌いなんでしょうね。
●ファッショナブルになってリーダーを幸せにする
僕も「イヌに服が必要か?」と問われれば、要らないとは思いますが、当のワンちゃんたちはどうなんでしょうか?
イヌはタテ社会の習性が身体の芯まで備わっており、ボス・リーダーの役に立ち、喜んでもらうことに無上の幸せと安心感を感じる動物です。
そんな彼ら・彼女らのほとんどは、ほとんど物心つく頃から飼い主さんの家族に育ててもらい、いっしょに暮らしています。
だから飼い主さんは自分のボスであり、リーダー。
よしんば服を着るのが少々窮屈だなと思っても、そのボス・リーダーが「〇〇ちゃん可愛い!」と喜んでくれれば、幸せを感じるのではないでしょうか。
あるいは、自分はイヌというよりも人間か、それに近い存在だと思っているので、表に出掛ける時は服を着るのは当たり前だと思っているのではないかなぁ。
昔のイヌはともかく、いまの家庭犬・愛玩犬って、飼い主さん家族を癒し、幸せにするのが仕事みたいなもの。
それに小さい頃からそういう生活をしていれば、おのずと脳も服を着ることに対して、ひどい不快感はかんじなくなるのではなかなぁ。
ま、残念ながら、イヌにインタビューしたことはないので、いずれも想像の領域を出ませんが。
●犬のエロス
そういうわけで、ここ10年くらいですっかりポピュラーになった犬服ですが、そのせいで昨夜みたいに夜道で「ヌード犬」に出会うとびっくりしてしまう。
大型犬でも毛の長い犬はいいけど、毛の短いラブラドールで、しかも人の肌色に近いベージュ系のヌード犬を見ると、ちょっとエロチックでドキッとするワン。
「きみ、丸出しだけどだいじょうぶ?」って、つい心の中で問いかけてしまうのです。
「よけいなおせワンよ」と言われそうですが。
★ペット葬・ペット供養
葬儀・供養業界の雑誌の仕事をしているのいで、その方面の話を聞くと、反応するようになっています。べつに信心深いわけではないのですが。
最近、興味を抱いたのが、動物慰霊の話。
人間の方は、お葬式をしないでそのまま焼場に送ってしまう直葬が激増。
お葬式なんて形式的なものにお金をかけられない、という傾向が全国的に広がっていますが、その反面、ペット葬儀・ペット供養の件数は年々増え、手厚く弔うようになっています。
これだけ聞くと、「人間より動物の方が大事なのか!」
と怒り出す人もいそうですが、
「その通り」とまでは言わないけど、
日本のように動物の霊魂を認め、ちゃんと供養する文化を持つ国は稀少――というか、ほとんど唯一と言っていいようです。
★肉になる動物の供養:畜霊祭
ペットの場合は心の癒し――いわば、精神の栄養になってくれるけど、肉体の栄養になってくれるのが、僕たちが毎日食べているお肉です。
僕のロンドン時代の職場(日本食レストラン)の仲間にダテ君というのがいて、彼は高校卒業後、しばらくの間、食肉関係の会社に勤めていたそうです。
そこでは必ず年に一度、「畜霊祭」というのを行い、自分たちが屠った牛や豚や鶏などを供養していたとのこと。
もちろん、お坊さんが来てお経を唱えるし、参列者も喪服かそれに準じる服装をし、人間の法要と変わることなく、ちゃんとした儀式として行なうそうです。
そして、社長など代表の人が祭詞を読み上げます。
「人間のために貴重な命を捧げてくれて感謝の念に堪えません云々・・・」
ダテ君の話を聞いたのはずいぶん昔のことなので、すっかり忘れていましたが、最近、この畜霊祭のことが書かれてある本を読んで思い出しました。
さらにインターネットで調べてみると、びっくり。
実際に屠畜に関わる食肉会社はもとより、家畜の飼料を作る会社とか、直接屠畜に関わるけではないところも、とにかく家畜関係のビジネスをやっているところは、みんな、こうした畜霊祭、牛供養、豚供養、鶏供養などを行っているんです。
家畜のおかげで収入を得て暮らしていける。感謝してしかるべき。
そういう考えかたなのです。
その本の著者によれば、こんなことをやっているのは世界中で日本だけ。まさしく日本独自の文化。
★イルカもクジラも魚も、動物園も水族館も、実験動物も
この話をすると、欧米人は信じられないとか、奇異な目で見て、嗤う輩もいるらしい。
バカヤロ。
彼らがよくやり玉に上げるクジラやイルカはもちろんのこと、「魚魂祭」といって魚の供養をするところだって全国津々浦々にあるのです。
さらに言えば、9月の動物愛護週間には、全国各地の動物園で「動物慰霊祭」が行われるし、水族館ではやはり魚魂祭が行われます。
そして実験動物も。
マウスやモルモットをはじめ、動物実験を行っている研究所・医療機関も動物供養を行っています。
僕たちは割と当たり前だと思っているけど、こうした施設においてちゃんとした動物供養をする国も、どうやら世界で日本だけのようです。
★敬虔な気持ち、感謝の心に基づく文化
だから日本人は立派だ、という気はありません。
ナナメから見れば、いくらでも批判できます。
ペット業者も食肉業者も動物園も、みんな商売の一環でそうしているんだ。
他のところがやっているから右へ倣えでやってるだけだ。
実験動物だって、一部の動物愛護家がうるさいからだろ。
カタチだけで魂なんかこもっちゃいない・・。
とも言えるかもしれません。
でも、そうした命や自然に対する敬虔な気持ち、哀れに思う気持ちと感謝の心に基づく文化があることは確かだし、知っておいたほうがいい。
そして機会があれば、外国の人にも伝えられればいいと思うのです。
少なくとも、畜霊祭や魚魂祭のこをおかしがって嗤う輩に
「クジラやイルカを殺して食うとは、かわいそう。日本人はザンコクだ」
なんて言われたくないよね。
ここのところ、頭の中を一匹のブタがピイピイ、ブーブー言いながら徘徊している。
彼(彼女かも知れない)は、まだ子供のブタ。
仕事場を求めてさすらう、中世のイングランドの石工の家族が、いざという時のための財産として連れ歩いていたブタか、
あるいは戦国時代の薩摩軍が兵糧のために戦場で放牧していたブタか。
まだ子供なので、毎日ごはんを食べさせてくれる人間が大好き。
たらふく食べてどんどん大きくなると、みんながほめてくれてうれしくなる。それでまた食べる。
でもある日、彼(彼女)は自分の運命に気づく。
なぜ人間が自分を可愛がり、太るままにしてくれるのか。
逃亡を画策するが、生まれながらの食いしん坊のブタは、自由の身になるには食えなくなるかも知れないというリスクを負うことも悟る。
思春期のブタは思い悩みながら、自分の命運を握る人間たちを鋭い目で観察する。
「食べられる者の目」で、人間がどんな暮らしをしながら何を、どうやって、どんな気持ちで食べるのか、見る。
という具合で、次作は「食」をテーマにした作品。
でも、このブタがどういう役回りになるのかはまだわかりません。
とりあえずファーストストローク(初稿)は3ヵ月でやってみようと思っていますが、どれくらいの旅になるのやら。
脳の奥にあることはブタに訊く。
きっとブタがほじくり返してくれる。ここ掘れブヒブヒ。
今日、2月9日は「肉球の日」だったそうです。
ワンちゃん・ネコちゃんを飼っている方はやさしく肉球をなでなでしてあげてください。というか、なでなでされて癒してもらう方だろうか?
僕は肉球というと、ガンでなくなった友人のことを思い出します。
「おまえの肉球でなでなでしてくれぇ~」
と、入院していた彼は娘が見舞いに来ると、嬉しそうに頼んでいました。
当時、専門学校生だった彼の長女はちょっとふっくらしていて、手もふっくらぷにょぷにょしていました。
それで背中をマッサージしてもらうと、彼はアリスに出てくるチェシャ猫のようににんまり笑うのです。
薬がなくても苦痛を忘れられるひと時。
本当に気持ち良かったんだろうなぁ。
イヌのマッサージ屋、ネコのあんま屋に対抗できる、肉球を持った娘。
もちろん、それでガンが治ったわけではありませんでしたが・・・。
どこぞの宗教ではないけど、人の手には癒しのパワーがある。
あなたや僕の手にも、ひと時でも人を痛み・苦しみから解放させられる、見えざる肉球がついている、きっと。
カミさんの5本指ソックスを洗濯したら、「この絵柄はバンザイしているオバケなのかな?」と思いました。
履く人の目線から見るとそう見える。
もしかしら、おでこに模様のあるキューピーかもしれない。
そう思って見つめると、ますますそう見えてきます。
ところが、この靴下を履いた人と向き合った人の目から見ると・・・
バンザイおばけはワンちゃんなのでした。
そういえば、他の指にはイヌの足あとが。
文字通り、立場がひっくり返れば、同じものが違うものに見える。
うーん、こんなところで哲学を勉強させていただくとは・・・。
カミさんは鍼灸師で小児鍼をやっているので、この靴下は子供の患者さんにウケるのだそうです。
逆バージョンで、バンザイおばけ靴下だったらウケるかなぁ。
今年もお年玉年賀はがきは1枚も当たりませんでした。
僕にはこういうくじ運はないようです。
でも、年賀状を見返していると、脳にふくらし粉が入ったように、ぷうっと妄想が膨らみました。
今年の年賀状でお友達の犬が2匹、犬を卒業したことを知りました。
片や、以前作った「犬のしつけマニュアル」に出演してくれた、ますみさんちのなずなちゃん(ポメラニアン)。
片や、一度もあったことなかったけど、毎年、干支にちなんだコスプレで楽しませてくれたチエさんちのゴン太くん(柴犬、それともミックス?)
ささやかながら、お世話になった2匹の犬にどうもありがとう、とつぶやいた後、犬を卒業した犬はどこへ行くのだろう?そして次は何になるのだろう? という疑問にとらわれました。
もしかしたら人間になって、今度は自分が犬を飼うのでしょうか?
それとも天使になって、飼い主を見守ってくれるのでしょうか?
あるいは先祖返りしてオオカミになって、荒野を駆けるのでしょうか?
それともやっぱりまた犬に生まれ変わるのでしょうか?
あれこれ学校教育を批判する人は大勢いますが、それでも日本人は学校というものが大好きです。
その大きな理由の一つに「卒業」があるからです。
卒業して次のステージに行く。もう一つ高いところへ昇る。
大空のように無限の可能性が広がる世界。
――もしかしたら、そうした卒業という夢を抱くために、学校というものの存在価値があるのかもしれません。
「卒業」という言葉を口にするとき、僕たちの心の中には、涙雨の後に過去と未来とをつなぐ大きな大きな虹がかかるのです。
それは本当に美しい虹です。
だから僕たちは、悲しい別れにも、いや、だからこそ「卒業」という言葉を使う。良いことだと思います。
最近は、人間の場合も「人間卒業」とか「人生を卒業する」とか言います。
人間は卒業したらどこへ行くのだろう?
次は何になるのだろう?
ロボットはロボットを卒業したら人間になるのでしょうか?
これはストーリーとしてスジが通るなぁ。
でも、品行方正で正しいことしかしなかったロボットが人間になったら、
「これが人間らしさだ」とか言って、悪さをいっぱいしたり、自堕落な生活を送るかもしれない。
ネコはどうだろう?
なんとなく、犬は人間より下なので、卒業して人間になるというのは道理にかなっている気がしますが、ネコは人間と対等、それどころか、人間より上、というフシもありますね。
全国各地でネコがニャアと神通力のようなものを使ったり、神秘的なお導きをしかおかげで、人間を救ったという話は枚挙にいとまがありません。
だから猫神様として祀られたり、招き猫になったりする。
ネコはもともと神様に近いので、ネコを卒業せず、ずっとネコのままなのかもしれません。
楽しい妄想をさせてくれて、なずなちゃん、ゴン太くん、本当にありがとう。
わん。
昨日の動物病院からは残念ながらお断りの通知をいただきました。
案の定、更新回数を増やしてアクセス数を増やしたかったそうです。
でも、僕の提案は受け入れてもらえませんでした。
手間暇をかけずに何とかしてほしい、というニーズなんでしょうね。
以前は何としてでもお客の要望に応えるのがプロの務め、と思っていましたが、最近は「これはできないので自分で書いて。そのほうがいいから」と言うのもライターの仕事の一つかな、と考えています。
特にお医者さんなどはその人柄が勝負になる。
患者さんとの相性もあります。
ブログなどはそれを伝える絶好のツールなので、絶対自分でやったほうがいいと思うのだけど。
マーケティングの本などでよくブログは毎日書かなければいけない、とか言われているけど、その提言を鵜呑みにして、中身のない記事、義務感で書いている記事、ほとんど同じパターンの記事を、いくら毎日上げていても、またこれかとスルーされるだけ。
みんな忙しいので、そんなものに構っちゃいられません。
ヘタでも何でもちゃんと心を込めて自分で書いたものを週1で、でも途切れないように継続してUPしていけばいいと思います。
これからのネット社会、ますます言葉の力・文章力が重要視されます。
世界の半分以上―――過去の歴史も、未来の計画も、書かれた言葉・文章によって出来上がっています。
だから、作家やライターの仕事はなくならないし、ライターでなくても文章力を磨くことは人生をよりよくつくっていくためにも、とても大事だと思います。
皆さん、どんどん感じたこと・考えたことを書いてスキルアップしましょう。
編集マン・M氏から動物病院のサイトに載せるコラム記事を書いてくれないか、という依頼がありました。
そのサイトを見ると、院長と3人のスタッフの獣医がやっているところで、たいへん素晴らしい、充実した内容。
ペットを飼っていない僕でも引き込まれたので、これなら飼い主さんの信頼を得られるでしょう。
その分、これは安易に取り組めないな、と思いました。
いちおう、犬のしつけコーチの代筆で、しつけマニュアルの本を書いたり、動物学校連盟の機関誌の記事などを書いたりして、多少はかじったことがあるものの、動物に関する習性や医療の知識など、素人レベル。
そんな素人のライターが、そのへんの本やネット上から拾ってきた知識を貼り合わせた文章を載せても、共感も信頼も得られないと思います。
文章のうまい・へたではないのです。
この動物病院の例で言えば、現場で日々、診療にあたっているスタッフだからこそ書けること・醸し出せる味があるのです。
それに地域情報やこの病院ならではの仕事感も感じられたので、関係のない外部の人間が1から書くのは困難でしょう。
それで僕が知りたかったのは、クライアントさんは外部のライターに何を期待されておられるのか?ということ。
このサイトのブログの欠点を挙げれば、更新回数が少ない。
とても丁寧に書いてあるので、忙しい日々の業務の中、4人いても頻繁に更新するのはたいへんです。
だいたい平均すると週1くらい。
あいてるときは月2~3回。
頑張っている時で週2回。
それで回数を上げたいけど、人手が足りないので・・というのが主な理由だと思います。
取材に行ければよいのですが、遠いのでそう頻繁に足を運ぶこともできず、メール中心のやりとりにならざるを得ないのは必至。
で、「以下のようなやり方ならお役に立てるかもしれません」と返答しました。
●日々の医療の中で感じたこと・考えたこと・エピソードなどをもとに、それぞれの記事の企画はスタッフ自身に立てていただく。
読者に何を伝えたいかもできるだけ明確に。
●それをメモ書きにして送って頂く。専門的な医学知識を入れるならその疾患名・キーワードなども。独自の知見があればその説明を。一般的なことでよければこちらで調べる。
●いただいた企画メモをもとに、読み物として面白くなるよう、こちらで構成・肉付けを考え、文章化する。
ざっとこんな感じ。
僕は基本的にブログなどは、そのサイトのオーナなり、スタッフなりが自分で書くべきだと思います。
たとえばあなたが自分の会社やお店でサイトを持っていて、うまく書けないから、ライターにアウトソーシングしたい場合は、そうすることでいったいどんなメリットがあるのか、デメリットはないのか、よくよく吟味したほうがいい。
どんなに優秀なライターでも、有名な作家でも、あなた自身の発信は、あなた以上によく書けません。
僕も4~5年前は、SEO対策として、指定キーワードを入れて、社長ブログの代筆をする・・・といった仕事をよくやっていました。
でも、もうそんな時代ではないと思う。
読んでいる人たちもネットリテラシーが上がって、ブログなど、少しまとまった文章なら、ヘタでも本人の書いた信頼できる文章か、他のライターが代筆した、まとまっているけどカッコだけの文章か、すぐ見破られると思います。
なんだか自分の仕事を減らす自虐ネタみたいになってしまったけど、みんな、自分の言葉・自分の文章を大事にしたほうがいい。
それを心得たうえで、どこを自分以外の人に書かせるか、考えるといい。
長くなりそうなので、また明日、この続きを書きます。
お寿司屋さんで鳥の絵を見ました。
カミさんの誕生日が週の真ん中で、いったんスルーしてしまったので、今日はその代わりにハッピーバスデー。
ということで、寿司でもテイクアウトして食うかと思って近所のお寿司屋に行ったら、直径1メートルくらいありそうな巨大な絵皿。
そこにはおめでたい象徴として鳥が描かれている。
目玉模様の羽と全体のイメージはクジャクだが、その顔つき、鋭い目、胸の筋肉、そして逞しい足の蹴爪は、猛禽そのもの。
美しさと強さを併せ持つ合成鳥ということでしょうか。
で、 今さらのように思い出したけど、今年は酉年。
普通、酉といえばニワトリで、いただいた年賀状には可愛いいタマゴやヒヨコやコッコちゃんが多かったけど、そんな飛べないコケコッコじゃサマにならん、ということで、特に社会的影響力の強い人は拡大解釈し、「鳥」という大きなカテゴリーで捉えたがるようです。
やっぱ、政治家とか企業経営者など、威勢のいいことを言いたい人たちは、
「今年は大空を飛ぶ鳥のように飛躍する1年に」とか、
「鳥のように全体像を俯瞰することが大事だ」とか、
「不死鳥のように灰の中からよみがえる!」とか、
カッコいい比喩表現をスピーチに混ぜられるから、とてもありがたい。
こうした人たちの頭の中では、酉年の鳥は、龍や虎と並ぶ、鳳凰・朱雀・火の鳥・不死鳥などのイメージなのでしょう。
青龍、白虎、朱雀・・・
ついでに「玄武」のカメ年というのがあればよかったですね。
去年は「申年ですからウッキッキーと楽しい1年に」
来年は「戌年ですからクンクンと鼻をきかせる1年に」
再来年は「亥年ですから、ブタのように肥え太る1年に」
・・・というスピーチをやってくれると面白いと思うけど、たぶんダメなんだろうな、やっぱり。
年末年始はナマケモノになる。
と決めていたのですが、結局、大みそかの昼まで仕事をして、半日、最低限の掃除をしてやっとこさ静かな夜を迎えました。
久しぶりに紅白歌合戦を頭から最後まで見ました。
今までなんとも思っていなかったけど、SMAPの不在は大きい。
失ってみて、その存在感の大きさをひしひしと感じました。
さて、あけましておめでとう、となってしまいましたが、ナマケモノの話。
超過労働の人が増えているのか、最近、この動物のファンが急増しているということです。
僕もファンというわけではないけど、そのライフタイルには興味を持っています。
英語名はそのものズバリ、「Sloth―怠惰」。
これはキリスト教の教義では傲慢、強欲、暴食、淫乱、憤怒、嫉妬と並ぶ七つの大罪の一つ。の動物は存在そのもの、生き方そのものが罪であり、否定すべきものなのです。
つまり、敬虔なキリスト教徒の西洋人にとってこ
そのため、南米大陸で発見され、研究者によって生態がわかってくると、侵略―植民地政策―帝国主義―資本主義という歴史を突き進んできた、野心溢れる西洋人にとって侮蔑の対象となりました。
地上最低のノロマで低能な生き物だと、19世紀・20世紀を通じてバカにされてきたわけです。
ところが近年、21世紀になる頃には風向きが変わり、彼らの省エネでエコな生き方こそ、現代人が見習うべきではないかと意見があちこちから聞かれるようになりました。
同時にあくせく働くこと(働かされること)に嫌気がさし、そうしたストレスフルな人生に疑問を抱く人々の心をつかむようになりました。
そのナマケモノ、毎日ぶら下がっているだけの人畜無害な「いい人」だからと言って、厳しい自然はそんなことで容赦なんかしてくれません。
しめしめ、おいしいごはんがぶら下がっている、と空から、地上から、狙ってくる猛禽・肉食獣がいっぱいいます。
そんな時、彼はどうするのか?
普段はのんびりウスノロだけど、いざ窮地に陥ればすごいパワーを出して敵に牙をむく、あるいは想像もつかなかったスピードを出してピンチから脱出する。
・・・なんて大逆転劇はまったくありません。
狙われたら最期、何の抵抗をすることもなく、逃走を試みることもなく、ただ諦める。
そして全身の筋肉を弛緩するのです。
つまり、「あ、ねらわれちゃった」と思ったとたんに「はい、これまでよ」となり、「どうお召し上がりください」と、単なる肉塊と化してしまうのです。
ああ、なんて情けないと思うでしょうか?
やっぱりこいつらは史上最低のノロマで低能でダメダメなのでしょうか?
けれども不思議なことに、そんな最低・最弱な哺乳類のナマケモノは進化の勝者。
生き残るためにどんどん強く、速く、大きくなっていった動物たちが次々と進化の途上で滅びていく中で、ナマケモノは太古から連綿とその遺伝子を伝え続けている稀有な動物なのです。
考えようによっては、狙われたとたんに全身の筋肉を弛緩させる。つまり、完全にリラックスした状態にできるなんて、ほとんど神技。
人間にも他の動物にもできない芸当なのではないでしょうか。
今年の、いや、もう昨年になりますが、流行語になった「神ってる」です。
もしや彼らは低能どころか、あまりにも高度な頭脳、崇高な魂を持っていて、自らの哲学を実践し、この世の生の終わりを悟り、命を捧げることで逆に捕食者の命を飢餓から救っているのかもしれない。
また、筋肉を弛緩させることで、襲われる恐怖と肉体を引き裂かれる苦痛から自由になり、精神を解放するのかも知れない。
そして、食われることで捕食者と同化し、猛禽となって大空を翔たり、肉食獣となってジャングルを駆け回るのではないでしょうか。
翔るナマケモノ、走るナマケモノ、神ってるナマケモノ。
というわけでナマケモノの生き方に思いをはせつつ、三が日は僕も神って怠けていようと思います。
2017・1・1 SUN
彼女の名前はタマというらしいけど、ねこネタでもアザラシネタでも、ましてや下ネタでもありません。
人生、なんでもたまたま当たったもので変わってしうなぁーというお話。
●赤い服の少女
子供の頃、楳図かずおの短編で「赤い服の少女」という作品を読みました。
なにせ怖いマンガを描かせたら右に出る者なし。そこに本が転がっているだけで、中からにょろにょろっとヘビ女が出てくるんじゃないかと想像して、震え上がってしまう楳図先生の作品です。
ドキドキしながら読んでいくと・・・
主人公の少女は女優だかダンサーだかの志望で、ライバルと競い合っていました。
実力もルックスもほぼ互角のこの二人が、映画だかミュージカルだかの主役のオーディションを受けることに。
その運命の日が迫ってきたある日、主人公は街のブティックのショーウィンドウに飾ってある赤い服を目撃し、直観がピーン!
「あの服よ。あの赤い服を着ていけば、私はオーディションに勝てる!」
しかし、彼女の家はそう裕福ではなかったので、お母さんに頼んでもすぐに買えない。どうやってかき集めたんだか、なんとかお金を作ってそのブティックに駆け込むと、タッチの差でその服は売れてしまっていた。しょぼーん。
そして後日、オーディション会場に行くと、なんと!ライバルがあの赤い服を着ているではありませんか。SHOCK!
で、監督だか演出家だかの心に刺さり、ライバルはみごと合格。主人公は落選し、みるも無残に落ち込んでしまった。
ところがまた後日、驚愕の知らせが。
その仕事で海外へ旅立ったライバルは、なんと飛行機事故で落命してしまう・・・というっ結末。主人公の少女は「もし私があの服を先に買っていたら・・・」と思いをめっぐらせて終わるのです。
細かいところがあやふやですが、だいたいこんなお話です。
なんやこれ? ヘビ女も猫目小僧もミイラ先生も出てこんがな、つまらんな・・・と思ったことが妙に記憶に残っていました。
実は怖い思いをせずに済んでホッとしていたのですがね。
子供の僕には分からなかった。おとなになってやっとその奥深さが味わえるようになった作品なのでした。
●人生も世界もタマタマでできている
じつは最近これとよく似た話を最近聞きました。
その人の人生もその日、たまたま着ていた服の色で人生が変わってしまいました。
この漫画に引っ掛けていえば、もし、その人が31年前のその日、赤い服を着ていたら、今の仕事に就いていなかったかも知れない。したがって僕とも会っていなかったかも知れない。
そう考えていくと、現在のあなたも僕も、星の数ほどの「タマタマ」の積み重ねで今、こうして出会い、お話を読んでもらっているわけです。面白いね。
「運も実力のうち」というけれど、迷い込んできたネコを手なづけるみたいに、タマタマ出会ったものをいかに活かし、うまく自分の中に取り込むか(あるいは嫌なタマなら、いかにうまく断ち切るか)が人生の操作術であり、醍醐味と言えます。
あと20日あるので今年もまだ、よいタマに出会えますように。にゃ~。
2016・12・9 FRI
この100年~150年の間に、人間はずいぶんといろいろなものを手に入れ、生活を変えてきましたが、いちばん大きいのは、夜の世界を手に入れたということではないかと思います。
文明開化まで夜の世界の9割方は、江戸のような大都市と言えど、死と隣り合わせの妖怪・魑魅魍魎の世界。神様と妖怪が混在する日本では、人間がおいそれと足を踏み入れられない神々の世界だったとも言えます。
それをすっかり塗り替えた文明の光。いまや人間の活動時間は昼夜問いませんが、やはり夜の半分程度は未知と神秘の世界です。
そんな思いに駆られたのは、先日、雨上がりの夕方にお目にかかったヘビ。近所を自転車で走っていると、3メートルほど前の道路(裏道なので幅4~5メートル程度)をスルスルスルと横切ったのです。
その間、わずか1~2秒。向かって左側の家のどこかかから出てきて、右側の家のガレージのシャッターの隙間(たぶん)に入っていきました。もちろん、写真など撮っているスキはありません。
美しい蛇でした。ちょっと緑っぽい色をしていたので、たぶんアオダイショウでしょう。まだヤングな若青大将といったところでしょうか。近くに水(川)があることも関係しているのか、杉並区の住宅街もなかなかワイルドです。
ヘビが生息しているということは、当然、そのエサになるカエルやらネズミやらの小動物もいろいろこのあたりにいるということ。たまたま日の光のもとに現れましたが、普段は夜の世界で動物たちのいろいろなドラマが繰り広げられているのでしょう。
そうした別の世界がごく身近に人間の目に触れないところにある、人間が9割以上、跳梁跋扈している昼間世界と空間をシェアしている――そんなふうに想像すると、ちょっと怖いのと同時に、自然なもの、神秘的なものがちゃんと保たれているといった、なんだか妙な安心感を覚えるのです。
たぶん人間はそうしたアナザーワールドと完全に切り離されたら、生きていけないというか、頭がおかしくなってしまうのかもしれません。
それにしてもあの家の人はヘビが入ってきたことなんて、とんと気が付かないだろうな。「神様の使い」が来てくれた・・・と思ってくれればいいけど、やっぱり知らぬが仏でしょう。
2016・8・21 SUN
「おまえら、いいトシこいて小学生かよ~」
というのが「女子・男子」という呼び方に対する感想でした。
20代だったらいざしらず、いったいいつから中高年まで女子・男子と呼びならわすようになったのか?
たぶん少なくとも21世紀以降のこと。今ほど頻繁に使われ、定着するようになったのは、この10年くらいか? どうも前から気になっていたので、これがいったいどういう意味を持つのか考えてみました。
●間柄によってビミョーに呼び方を変換
近頃、女・男を呼び表すのって意外と難しいのです。
「女性・男性(ジョセイ・ダンセイ)」は書くのはいいけど、音声で表す場合、どうもフォーマルすぎる。改まった席や仕事の場でなら問題ないが、ちょっとくだけた場や親しい間柄で「ジョセイ・ダンセイ」と言われると違和感があります。
それならやっぱり「女・男(オンナ・オトコ)」―― 僕はこの呼び方を好むのですが、困ったことに最近、女性の中に敬遠する人が少なくない。
文脈の中でどう使うかにもよりますが、「セックスを感じて恥ずかしい」「あまり口では言いたくない」という意見があるのです。「情婦・情夫」といった漢字と結びつくのでしょうか。性を伴う愛のにおいがするのでしょう。
かなり親しい間柄でなら問題ないけど、やや親しさが希薄な友だち・仲間、あるいは仕事の同僚などに対しては、もしかしたら不愉快に感じるかな?と思ってしまうので、僕も「女の人(オンナノヒト)」といった言い方をします。(自分が男なので、男は「オトコ」でOK)。
つまり相手によってけっこう使い分けなくてはならない。いやはや、なんとも日本語は繊細で複雑でビミョーです。
それに仕事でも趣味でもプライベートでも、年齢層で分断されることなく、いろいろな年代の人間が、フラットな関係で入り混じって行動するようになったことも、こうした呼称のビミョーさに影響しているのではないかと思います。
●安心・安全なジョシ・ダンシ
そこで登場した「女子・男子(ジョシ・ダンシ)」は、かなり便利。
もともと子供・若者、あるいはスポーツ選手に対しての呼称だったので、「ジョシ」「ダンシ」と言われると、なんだか若返ったような気分になるし、カタさがなく、親しさイマイチの間柄でもOKだし、一般的な呼称としても安心して使えます。
●英語文化と日本語文化
女子・男子は英語だとGIRL・BOY。
英米ではむしろこっちのほうがセックス臭が漂いますね。
その方面のお仕事をしている人はこの呼称で呼ばれることが多いと思います。
なので普通、英米人の中高年は「GIRL」「BOY」なんて呼ばれたら腹を立てるんじゃないでしょうか。
ところが日本語―ー日本人の場合はその逆。
比較して考えると、英米が子供・若者(子供っぽさ・若さ)を下に見るのに対して、日本人には子供を神聖視したり、若さを尊ぶ精神構造があります。女子・男子×GIRL・BOYには、そうした文化の違いも見て取れします。
●女子・男子の裏にある「成長」というキーワード
もうちょっと深掘りしてみたらどうなるか・・・ということで発見したのが 5年ほど前、自分のブログで書いていた文章。これは当時、映画・TV・演劇で「三銃士」がちょっとしたブームになっており、それについて書いたものです。
いわゆる“成熟社会”となった先進諸国では“成長”は重要なキーワードだ。未熟だろうが、ダメダメなところがあろうが、成長を感じさせる、言い換えれば、未来への可能性を感じさせる人や集団や企業は、すこぶる魅力的に映る。
つまり、今、それだけ“成長”というものに希少価値があるのではないだろうか。
成熟し、伸びきってしまった大人にはそうした魅力が見出せない。しかも環境の変化のせいもあり、信頼感も失墜しているのでなおさらだ。
ちなみにこれは実年齢のことを言っているのではない。10代・20代はもちろん、50代・60代でも“成長”しなくてはならない(少なくともそういう意志を見せなくてはならない)世の中になっているのだ。
そして、若いダルタニアンと年長の三銃士のように、互いに影響を与え合いながら伸びていくことが求められている……三銃士の物語は、そうした現実を映し出す鏡のような機能を持っているのでは、と感じる。
どうもこうした意識がそのまま、僕たちの深層心理に貼りつき、いつまでも成長しきらない子供・若者の部分を形成しているのではないかと思います。
それが「女子・男子」という呼称に結びついている。
国境が溶け、世代差が溶け、リアルとバーチャルの境界が溶け、それでいながら経済や社会階級の格差が広がる今、人間として完成してしまうこと、成長しきってしまうことは、今後のことを考えるとマイナス要素にしかならない。
齢は取っても可能性は残しておきたい・・・という気持ちの表れなのかも知れません。
●僕たちはいつまでウーパールーパーか?
というわけで、ウーパールーパー。
南米のサンショウウオの一種であるこの生き物、一般的には死ぬまで成熟せず、幼体のまま一生を終えるのだそうです。
最近「1980」を謳ったCMでテレビに再登場しましたが、 確かに1980年頃、ウーパールーパーみたいな顔をした若い連中(=当時の僕たちのことです)が街の中をうようよ泳ぎ回っていました。
あれから30年以上経った今も、依然として僕らはウーパールーパーそのもの。
オトナ女子・オトナ男子として、ろくすっぽ成長することなく、結局、単に子供オバさん。子供オジさんのまんまで終ってしまう可能性は大きいのではないかと思います。
でも「今どきの若いモンは・・・」という昔の人たちが本当に尊敬に値する大人ばかりだったのか?といえば、そんなことはない。情報がたやすく手に入らなかった時代の社会では、ごまかし、カッコづけも簡単で、威張っていられましたからね。
今、成長するとはどういうことなのか? ごまかしやカッコだけでなく、大人になるってどういうことなのか・・・人生の続くかぎり、考えていこう。
2016・8・15 MON
●氷の世界の恐怖のセイウチ
子供の頃、動物図鑑で初めてセイウチの写真(イラストだったかも知れない)を見た時は、そのモンスターのような姿・形に心の底から驚愕しました。
その時の僕のセイウチのイメージは、世界の果ての暗くて冷たい氷の世界で巨大な牙をむき出しにして世にも恐ろしい咆哮を轟かせる孤独な怪物。
こわかったなぁ。
人生の中でもしこんな怪物に出会うことがなあったら、僕は一瞬のうちにカチンコチンに凍り付いて、冷凍食食品になってこいつに食べられてしまうだろうと思い、どうぞそんなことになりませんように、と、何度もお祈りを唱えました。
●夢の世界でセイウチロウと邂逅
という衝撃が消えたのはいつのことだろう?
いろいろ本を読んだりテレビを見たりするうちに、セイウチは割とおとなしくて温かい生き物。孤独ではなく、群れをつくってのんびり暮らしていることなどを知りました。
それどころか、近年は日本水族館にも住んでいて愛嬌を振りまいてくれています。
そのセイウチ君に僕もお世話になっています。
夏、お昼寝するときは涼しい水族館のイメージを抱いて横になり、水中を魚がうようよ泳いでいる中をうつらうつらしつつ彷徨っているのですが、15分ないし30分ほどすると、コツコツと頭を何かがつつく。
「おい、起きろよ、セイイチロウ」
と目を覚ますと目の前には強大なセイウチが。やつはその牙の先で僕の頭をつついいたのです。
こいつはセイウチロウといってクールな夢のアラーム係として30分経ったから起こしにくるのです。それ以上寝ちゃうと夕方まで頭が働かなってしまうので。起きない時は歌を歌って起こします。
もちろん、歌はビートルズの「I am the Walrus」。
●ビートルズフェスでセイウチ登場
そういえば昨夜、録画しておいてずっと見ていなかったNHK-BSの「BEATLESフェス」なる3時間番組を見ました。
ビートルズ来日50周年ということで、当時の逸話――ビートルズにはっぴを着せた日航のスチュワーデスさんの話やら、独占取材に成功した星加ルミコさんやら湯川レイコさんの話――昔、音楽雑誌でよく記事を読んでいましたが、音楽ジャーナリズムのリーダーだった彼女らはまだ20代の女の子だったんですね――やら、を中心に、年寄りから若者まで入り混じったスタジオトークや、ビートルズ番組お約束のリバプール―ロンドン紀行(森高千里がキャバーンクラブに行ってドラムを叩いてた)などがてんこ盛りのバラエティ。
しかし、目玉は何といっても、新旧いろいろな日本のミュージシャンたちがやるビートルズナンバーのトリビュートライブでした。
財津和夫「Yesterday」や平原綾香「Hey Jude」などは、ま、定番の、という感じ。仲井戸麗市(チャボ)の「The Long and Winding Road」はほとんど自分で歌詞を書き換えた替え歌で、清志郎へのレクイエムにしか聞こえない。歌い方もそっくりだ。やっぱ寂しいんだろうね。
その中で一番面白かったのがラブ・サイケデリコの「I am the Walrus」。
ぐにゃぐにゃしたサウンドとともに、「おまえはあいつ、あいつはおいら、おいらタマゴ男、おいらセイウチ」なんていう、ジョンのナンセンスでファンタジックでグロテスクな詩の世界がぐりぐり脳天にねじ込まれてきて、めっちゃカッコいい! こんな新鮮なアレンジでこの曲を聞けるとは思ってもいなかった。まったく感動モノでした。
オリジナルを聞いて育ったおっさん・おばさんたちは、どうしてもリスペクトが先に立ってしまってアレンジも表面的で徹底しない。けど、「むかし、ビートルズっていうバンドがいたらしいね」と言っているような若い連中は、遠慮なくぶっ壊して、さらにおいしく料理していけると思います。
ジョンやジョージがあの世から「おいおい」と言って止めに来るくらい、ガンガンすごいアレンジをしてほしい。
●セイウチロウよ永遠に
おまえはあいつ、おまえはおれ、だからあいつはおれ、おまえはセイウチロウ、ぼくはセイイチロウ、おまえはセイイチロウ? ぼくはセイウチロウ?
まだまだ暑い。北極の氷の上でごろごろ寝そべる夢を見て毎日過ごすことにいたします。またセイウチロウと会うのを楽しみにして。
2016・8・11 THU
この夏は四国をお遍路しています。
ただし、オン・マイ・マインドで。
葬儀・供養の業界誌の仕事で、ネット~メール~電話で取材しては原稿書きの日々。
四国の葬儀の風習や、お遍路についていろいろ勉強しました。
で感じたのが、やたら四国にはネコが多いな、ということ。
そういえば香川県のある島でネコがいっぱいいるのをテレビで見たことがあります。それで有名になって、観光客が出向いて、かわいい、かわいいとエサをあげまくるのでさらにネコ天国となっているようですが・・・。
一方、僕が出会うのは、お葬式・お墓関連ので話からなので、この世とあの世の境界線上でニャーニャー鳴いているネコばかり。
●四国の葬儀における猫の存在
徳島や愛媛で、家で人が亡くなると枕元にホウキや刃物などを置く、という風習があります。(正確には「あった」という過去形。日本の昔ながらの葬儀・供養の風習のほとんどは全国どこでも、この20~30年の間に9割以上消滅している)
何のためにこんなことをするかというと、ネコがご遺体の上をまたがないようにするため。ニャアとまたぐと死人が生き返って歩き出すとか、逆にネコがバケネコ化するというのです。
ということは、この辺りではネコを飼っていた家が多のか?
いや、飼っていたというよりも、ネコだのタヌキだの、動物たちが「こにゃにゃにゃちは~」と、自由にあちこちの家を出入りしていたのではないか、と思います。
昔の日本の田舎の家は戸締りもいい加減で、常にオープン状態だったし、ネズミ退治にも役立つからね。だけど、キミはやばいからお葬式の時は来ちゃだめよ、という感じでしょうか。
●日本三大化け猫伝説「お松大権現」の猫
そんなわけでネコ伝説がはびこる四国。
徳島県阿南市には「日本三大化け猫伝説」の一つに数えられている「お松大権現」という神社があります。
ここに由来するお話は、借金苦にまつわるもので現代人にとってもリアル。
むかし、困っている村人たちを救うために金貸しから多額の借金をした庄屋さんが金貸しに裏切られ、借金を残して死んでしまう。
その妻・お松は「借金はちゃんと返したのに」と異議申し立てをしたのですが、その土地の奉行(きっと金貸しとつるんでいたと思われます。これも現代に繋がる政治とカネの問題です)が「わしゃ、返してもらとらんぞ」と、それを認めず、お松と、彼女が可愛がっていたネコを死刑にしてしまうのです。
なんでネコまで処刑されるのかわからないけど、「わしの命に背く者は一族郎党皆殺しじゃ」という論理だったのでしょうか?
ネコも一族郎党に加えられてしまったのですね。
で、この手の怪談兼勧善懲悪・庶民の味方ストーリーのセオリーとして、もちろん、この後、このネコはウソつきの金貸しと、権力乱用の奉行のところに化けて出て、悪者どもを地獄に叩き落とすというオチ。
めでたし、めでたしということで、この正義のバケネコはこの神社にまつられることになったのです。
●今や霊験あらかた、招き猫だらけの観光スポット
こうした因縁話があるせいか、なんと、この神社、今では受験と勝負ごとにご利益があるとして大人気に。バケネコになったネコはリベンジを果たした結果、「猫神様」に昇華。勝負ごとにご利益と言うので、全国からギャンブラーが詣でているようです。
そして猫神様は招き猫の姿になって降臨したので、境内は招き猫だらけになっているようです。いやー、すごい。でも、借金は勝負事――ギャンブルに頼らず、地道にコツコツ返したほうがいいと思うなぁ。
というわけで、妖怪も神様になってしまう四国。
そういえば「千と千尋の神隠し」で、妖怪だか神様だかわからない者たちが湯あみに来る湯婆の湯場も愛媛の道後温泉がモデルになっていました。
四国の旅・オン・マイマインド、まだまだ続きそうです。
2016・8・6 sat
「かえるくん、東京を救う」というのは村上春樹の短編小説の中でもかなり人気の高い作品です。
主人公がアパートの自分の部屋に帰ると、身の丈2メートルはあろうかというカエルが待っていた、というのだから、始まり方はほとんど恐怖小説。
ですが、その巨大なカエルが「ぼくのことは“かえるくん”と呼んでください」と言うのだから、たちまちシュールなメルヘンみたいな世界に引き込まれてしまいます。
この話は阪神大震災をモチーフにしていて、けっして甘いメルヘンでも、面白おかしいコメディでもないシリアスなストーリーなのですが、このかえるくんのセリフ回しや行動が、なんとも紳士的だったり、勇敢だったり、愛らしかったり、時折ヤクザだったりして独特の作品世界が出来上がっています。
しかし、アメリカ人の翻訳者がこの作品を英訳するとき、この「かえるくん」という呼称のニュアンスを、どう英語で表現すればいいのか悩んだという話を聞いて、さもありなんと思いました。
このカエルという生き物ほど、「かわいい」と「気持ち悪い」の振れ幅が大きい動物も珍しいのではないでしょうか。
でも、その振れ幅の大きさは日本人独自の感覚のような気もします。
欧米人はカエルはみにくい、グロテスクなやつ、場合によっては悪魔の手先とか、魔女の使いとか、そういう役割を振られるケースが圧倒的に多い気がします。
ところが、日本では、けろけろけろっぴぃとか、コルゲンコーワのマスコットとか、木馬座アワーのケロヨンとか、古くは「やせガエル 負けるな 一茶ここにあり」とか、かわいい系・愛すべき系の系譜がちゃんと続いていますね。
僕が思うに、これはやっぱり稲作文化のおかげなのではないでしょうか。
お米・田んぼと親しんできた日本人にとって、田んぼでゲコゲコ鳴いているカエルくんたちは、友だちみたいな親近感があるんでしょうね。
そして、彼らの合唱が聞こえる夏の青々とした田んぼの風景は、今年もお米がいっぱい取れそう、という期待や幸福感とつながっていたのでしょう。
カエル君に対するよいイメージはそういうところからきている気がします。
ちなみに僕の携帯電話はきみどり色だけど、「カエル色」って呼ばれています。
茶色いのも黄色っぽいもの黒いのもいるけど、カエルと言えばきれいなきみどり色。やっぱ、アマガエルじゃないとかわいくないからだろうね、きっと。
雨の季節。そういえば、ここんとこ、カエルくんと会ってないなぁ。ケロケロ。
動物漫画家の麻乃真純さんから絵本が届きました。
今月下旬の発売「アタシ、ママの子?」
今月、出版されたのをプレゼントしてもらいました。
彼女が愛犬の死期が迫っていることを悟って書いた本です。
最近は犬やネコを飼う人が増えたみたいですが、「お別れの日」が来ることを覚悟して飼うことが大前提。ちゃんと看取ってあげることまでが飼い主の義務になっています。
彼女はなんと16年もこの愛犬と暮しているから(犬の16歳って、人間なら100歳近い?)、随分と思いが深いのでしょう。
麻乃さんとは以前やった「幸せになる犬の愛し方・愛され方」――家庭犬のしつけのコーチングや、最近は犬の幼稚園の園長さんをしている先生の、犬のしつけマニュアルの仕事でご一緒しました。
僕が文を書いて、彼女がイラストを描いていたのです。
たまたまだけど、住んでいるのが隣町だったので、彼女の愛犬にも会い、ちょっと出演もしてもらいました。
けっこう気性の激しいお嬢さん(♀)で、チャオ!とやったら吠えまくられましたが・・・。
ぼくは犬を飼ったことはありませんが、その仕事以来、なんとなく犬の気持ちがわかるような錯覚に陥って、道ですれ違ったりすると、飼い主さんにあまり気づかれないよう、いろいろサインを送って対話を試みたり、勝手にその犬のツイッターをやっています。
この本は彼女の愛犬のつぶやき、つまりモノローグで綴られていて、かわいいけど切なさいっぱいになります。
きっと犬や猫を飼っている人は、僕よりもこういう子供たちの声がよく聞き取れるのではないでしょうか。
麻乃さんは個人の犬や猫のイラストなども描いています。亡くなったわが子の面影をもとめて頼まれることも多いようです。
興味ある方は彼女のアトリエ(ホームページ)も覗いてみてください。 http://www.nazuna.jp/
珈琲と羊羹。この意外なマッチングにぴょん!と跳びはねました。
本日は、個人の飲食店を応援する新しいメディアを作ろう!ということで、エディターのM氏と企画打ち合わせ。
今、個人店が復活の兆しを見せています。自分らしい生き方を表現する場。
文化的情報を発信するコミュニティ基地。
それでいながらちゃんと商売としてやっていける・・・
そんなお店をやる人を応援し、そこのお客さんに「いいね」と思ってもらえる仕掛けを作っていきます。
この企画の打ち合わせなのに、チェーン店やフランチャイズ店はないだろうと、やってきたのが井の頭線・高井戸駅から歩いて2~3分。新緑のきれいな神田川沿いにたたずむ「白兎珈琲店」です。
うさぎと言ってもメルヘンなかわいいうさちゃんでなく、神話や昔話で活躍しそうな、賢くて凛々しいうさぎくんのイメージ。
店内も昔の喫茶店のにおいがする、おとなのムードが漂います。
けっして個性を押し付けるような店づくりではありませんが、メニューのお菓子のページに定番のケーキなど並んで「ようかん」が。
珈琲店で羊羹を食べたという記憶がなかったので、これは面白いと思って頼んでみました。
おいしい。
眠気が吹っ飛ぶような、ビターな「黒兎ブレンド」(ちなみに基本はマイルドな「白兎ブレンド」)に、羊羹のさっぱりした甘さがグットマッチング。
苦味と甘味が口の中で心地よいハーモニーを奏でます。
さりげに個性をアピールするメニューのおかげで話が弾み、打ち合わせも快調でした。
帰りに領収書をもらったら、ハンコもうさぎさんのかたち。LIKE!
近所の道端で御用を足して、飼い主さんにお尻をふきふきしてもらっているワンちゃんに会いました。
このときのワンちゃんは皆、一様に「テヘヘヘヘ・・・」という顔をしています。
今日会ったのはポメラニアンの女の子(服装から判断)だったけど、これはラブラドールだろうが、ダックスだろうが、トイプーだろうが、シバだろうが、ほんとにおんなじような顔をしているので面白い。
「ちょこっと恥ずかしいけど、ハッピー♡」といった感じでしょうか。
僕はこの「テヘヘヘ・・・」の顔を見るのが大好きで、できれば何時間でもそこに立ち止まって見ていたいのですが、そんなことをすると失礼だし、飼い主さんにぶん殴られないとも限らないので、5秒ほど目を合わせて、ウィンクして去っていきます。「テヘヘ」のまま、じっと僕を見送るワンちゃんの視線がまたたまらない。
ところで、このとき、お尻を拭いている飼い主さんは決まって女の人で、男の人にはお目にかかったことがない。
たまたまなのか?
男はお尻の世話までしないのかなぁ?
クラゲ切りとは、要するに石切りのクラゲ版ということです。
うちの小僧くんは石切りが得意です。
で、石切りは川、海ならクラゲで、とうわけなのです・・・・
といわれても、「何のこっちゃ?」と、わけがわからないよという声が聞こえてくるので解説します。
うちの小僧くんがチビの頃は毎年、鎌倉や湘南の海へ行っていた。
彼の仲のいい友達も含め、3~4人のガキどもをまとめて連れて行った。
小学4年生くらいまで夏休みの恒例行事だった。
その日はまだ8月初旬だった。
江ノ電で終点の鎌倉から三つ手前の「由比ガ浜駅」に到着。いよいよ海だ!
波もほどほどにあり、ガキどももサーフィンの真似事などをして大はしゃぎ。
けれども僕は入ってしばらくすると異変を感じた。
そう、クラゲである。異変とはミズクラゲがうようよいることだった。
ところが、小僧たちはこのクラゲたちを捕まえて、クラゲ切りを始めた。
クラゲを平たい石に見立て、海面へ向かって石切りのごとく投げるのである。
「クラゲが石のように跳ねるわけねーだろ」と、ふつう思うが、しかし!
小僧がサイドスローから繰り出したクラゲは、ピッピッピッピツピッと、5回ほど(スピードが速くて数え切れない)海面を跳ねたあと、海中に沈んだ。
「まさか、あり得ねー」という光景が目の前で展開する。
それはTVゲームの黎明期を飾った、かのスペースインベーダーが宇宙空間ををスキップしているかのようなするかのような動きだった。
ガキどもは次々とクラゲを切りまくり、多いときには7回でも8回でも海面上をクラゲが跳ねた。
そう言えば、いとうひろしの「おさるのまいにち」というお話で、南の島で平和に暮らすおさるたちが毎日、バナナ食って、おしっこして、カエル投げをして遊ぶ・・・・というフレーズがあったが、あの「カエル投げ」というのはこれと似たもんだ、とこのとき、初めてリアルに理解した。
のんびりぷかぷか浮いていたクラゲにしてみればいい迷惑だと思うが、意外と、滅多にないスリリングな体験ができて楽しかったのかもしれない。
そのあたりの気持ちはクラゲに聞いてみないと分からない。
というわけで遊んで、帰りも江ノ電に乗り、夕暮れの海に別れを告げて帰宅。小僧とその友だちは家に泊まり込んで大騒ぎの状態だった。
子供らを連れて海に出かけたのは、これが最後だったのではないかと思う。
というわけで・・・いま振り返ってもすごい。
「うちの子、天才!」と親ばか丸出しで叫びたいくらいでした。
「クラゲ切りワールドカップ」があったら絶対優勝できると、その時思いました。
この類まれなる才能を伸ばすため、僕は「クラゲ切り養成ギプス」を開発しようと思ったくらいです。
それはさておき、やはり、どんな子どもにも必ず一つは秀でた才能があるものです。
問題はうちの場合、それが「クラゲ切り」という、世の中で何の役にも立たないようなものだった、ということです。
でも、あんなエンターテインメントは一度きり。
もう生涯見られないと思います。
あれで少なくとも親父には十分に親孝行してもらったので、あとは自分のために生きてほしい。
ところで万が一、これ読んで自分もクラゲ切りをやってみようと思ったら、クラゲは白いミズクラゲですよ。
毒のあるクラゲには注意してくださいね。
掃除をしていたらチビチビのカップヌードルを発見。
これは数年前に、横須賀にあるJAMSTEC(海洋研究開発機構)で取材したとき、水圧の実験台になったヌードルくんです。
深度何メートルだったか忘れてしまったけど、深海と同じ圧力をかけられる装置があり、それでプレッシャーをかけると、あっという間にこれくらい(5分の1くらい?)に縮小してしまうのです。
人間もこれくらいに縮小できたら面白い、なんて考えますが、もちろんその前に死んでしまいます。
JAMSTECには潜水艦などもあって、なかなか見応えがあります。
確か夏休みなんかは一般の見学ツアーなんかもできるのでは。
子どもは喜ぶと思います。
ここのところ、「深海」にイメージが向いており、後ろの本「鯨の王」(藤崎慎吾)を読書中。
深海に生息する古生代?の鯨のストーリー。
いわば現代版・深海版の「白鯨」です。
音波や水圧の科学的なディテールも満載でめっちゃ面白いです。
先日、ずいぶん久しぶりに生のバニーガールさんに会いました。
レストランでサービスして頂いたわけで、僕も外見おとなの男の社会人なのでニコニコ平静を装っていましたが、かなり内心デレデレメロメロでした。
(べつにHなところではありません、念のため)
勇気を奮ってこの文章を書くまで1週間以上のクールダウン期間が必要でした。
そしてやはり「男はキュートでセクシーなバニーガールが好きだ!」という、勝手に自分の好みを一般化する結論に達したことをご報告する次第です。
で、女性はどうなんだろう?
そーいえばコスプレ大会ななかでよくバニーの衣装を着ている娘が(および年輩も)いるが・・・と思って調べてみたら、やはりかなりの割合でそういう人が多いようです。
そう言えば、女の子はすべからくウサギが好きです。
ミッフィー、シルバニア、ピーターラビット・・・
イヌヤネコと比べてどうだかは分からないが、少なくとも好きな動物のトップ5、かわいいの定番であることは違いありません。
「いいや、わたしはライオンやオオカミが大好き!」
「ゾウさんやカバさんの方がかわいい」という人がいてもいいのですが、まだお目にかかったことがありません。
(もしそう言う方はご意見ください)
今や、エポック社のシルバニアファミリー(ウサギ中心の森の動物ファンタジー)などは女性親子3世代がお客さん対象になっています。
この女性とウサギとの相関関係について突っ込んでみたいのですが、長くなるので、またおいおい。
ちなみにバニーガールの歴史は1960年代のアメリカの雑誌「プレイボーイ」のイベントがその始まりのようです。
僕が先日行った「エスカイヤクラブ」は1964年創業時よりこのバニーガールを採用。もちろん日本で最初だそうですよ。
ついでに英語のウサギ――RabbitとBunnyってどう違うのか?
Bunnyは犬を「ワンちゃん」とかネコを「ニャンコ」とか呼ぶニュアンスの呼称で、「ウサコ」とか「ウサちゃん」って感じでしょうか。
その他、野兎は「Hare」で、これはワイルド感を強調した、ちょっと男っぽい?呼び名のようです。
ヒトはむかしサカナじゃった・・・
ちゅうわけで、こういう進化もあり得たかも知れんのぅ。
向かいの公園で子どもらがわいわい遊んでいる声を聞きながら、
わしは今日も、この地球上における魚と人間との関係について哲学しちょる。
京王線・代田橋駅近く、世田谷区大原の日本アートマーケットギャラリーまで来ればわしと語り合えるがいかがじゃろうかな?
ふぉっふぉっふぉっふぉっ・・・。
では皆の衆、Have a Good day、Have a Good Weekじゃ。
街中でネコと出会うと果敢に対話を試みます。
10匹中、8匹くらいは無視するか逃げますが、1匹はちょっとだけ関わってくれる、1匹くらいはナデナデされせてくれます。
この方の場合は「やあ、こんにちは」というと、ビミョーに距離を保って、でもちょっと僕に興味ありげで「ま、写真だけニャらどーぞ」ということで撮影許可をいただきました。
「ニャンとも日なたは気持ちいいニャ~」
●バス停のお見送り犬
「クゥーン、クゥーン」と、朝のバス停に“お見送り犬”の切ない鳴き声が響く。そのたびに僕は初恋をした少年のようにキュッと胸を締めつけられる。
うちの小僧くんはバス通学をしているので時々見送りにいくのだが、たいていいつもベージュ色のプードルちゃんが同じバスに乗って出発する飼い主の娘さん(高校生)を見送っている。
窓から手を振る娘さんを、お母さんにだっこされたプードルちゃんはドラマチックに涙して別れを惜しむ。ブォーンと音を立ててターミナルからバスが出発し、その後姿が小さくなっていく。
やっと鳴くのをやめ、それでも見えなくなるまでじーっと見送り続ける。
そして、お母さんに地面に下ろされ、やっと納得したように家路に向かう。
娘さんとは夜になればまた会えるはずなのだが、犬の寿命は人間のおよそ5~6分の1程度。会えない時間は犬にしてみれば一週間近くに相当するのかも知れない。
プードルは犬の中でも抜群に頭がいいとされている。
もともと狩猟犬なので、自立して行動する力が優れている。
獲物を取るために自分で行動をコントロールできるのだ、
そうした自立心と人間の主人に対する忠義心とのバランスがとてもよいのだという。
それが最近、とみに人気が高い秘密なのかも知れない。
ちなみに農林水産者が認定している法人組織ジャパンケンネルクラブに登録されている犬種(=実質的に日本で飼われている犬種)の人気ベスト3は、2010年2月の時点で、1位プードル、2位チワワ、3位ダックスフンド。
確か2年ほど前まではダックスが1位、プードルが3位だったので、人気が逆転したようだ。
僕は個人的にはダックスフンドが好きだ。あの胴長短足体系でチョコチョコ歩く姿は本当に可愛い。
ただ、あの体系ゆえ、腰などを悪くして健康障害に陥るパターンが多く、それがやや飼いにくい一因にもなっているらしい。
●ダックス×アナグマ
ダックスフンドと言えばアナグマである。何のことかと言うと、ダックスフンドはもともとアナグマ狩り用として開発された狩猟犬なのである。
昨日、テレビでたまたまアナグマが出ていたので、そのことについて小僧くんと話し合った。アナグマはその名の通り、地面に穴を掘って暮らす動物だ。ヨーロッパではそのモグラ攻撃で、農家の畑の作物を荒しまくり、しかもけっこう獰猛なので、とんでもない厄介者扱いされていた。
しかし、退治するためには奴らが潜り込む狭い穴に入らねばならないが……ということで研究開発されたのが、狭くて深い穴にも入っていける犬・ダックスフンドだったわけだ。あの可愛い胴長短足体型は、狭い地下の穴の中で、獰猛なアナグマと血みどろの戦闘をするために肉体改造されたものなのである。
●犬をめぐる不思議と人間の認識能力
この「アナグマの穴に入っていける犬を作っちゃえ!」という人間の発想、および、研究開発力って、よく考えたらものすごい。
いったい犬の交配の技術というのは、どのように編み出され、発展してきたのだろう? ちょっとだけ調べようとしたことがあるのだが、一般の書籍でもインターネットでも、そうした交配技術に関して書かれたものにはまだお目にかかっていない。
これは何か専門書とか、秘伝の書みたいなものがあるのだろうか?
ブリーダーになる人はそうした交配の歴史なども専門知識として学ぶのだろうか?
さらに考えていくと摩訶不思議なのが、僕たち人間の犬に対する認識だ。他の動物、身近なところで、たとえばネコなどは異なる種類でも、せいぜい大きさ・体毛や尻尾の長さなどが違うだけで、そんなに外見上の変わりはない。ところが、犬のバリエーションはとんでもなく幅広い。
いったい僕たちはどうして、プードルもチワワもダックスフンドも、ラブラドールレトリバーもブルドッグも秋田犬もセントバーナードも、みんな同じ“犬”であると認識できているのだろう?
どうしてキツネやタヌキやオオカミは、仲間ではあるけれども犬とは別の生き物だと分かっているのだろう?
いったい犬を犬たらしめているものは何なのだろう? みんな、もともとはオオカミなんですよ、と言われて納得できるだろうか?
こんなに身近にいるのに、いや、身近だからこそ、犬はミステリアスな存在である。
複雑怪奇な人間という生き物と同じ社会の中で長い間付き合っているので、彼らも複雑怪奇になってしまったのか?
単に可愛いとか役に立つだけではない。いまや犬の存在は、宇宙のように広くて深いものになっている。
2011・6・3 MON
「ネコつえぇ~~」
と、うちの小僧がTwitした。ネコが何にどう強いのかと言うと、震災のストレスに対して、という意味でだ。
●大地震でパニックになったイヌと冷静沈着なネコ
ちょっと前のことになる。
うちで鍼灸師のカミさんがGWに医療ボランティアとして被災地に行ったときの話。
泊めていただいた宮城の鍼灸師のお宅ではイヌとネコを両方飼っていた。
イヌはもともと雑種の捨て犬だったのだが、しっかりしつけてあり、とてもいい子になっていた。
それまでワンワン吠えたり、家の中の家具などを噛むような事はなかったという。
ところが、あの震災に遭遇して以来、ストレスで過去のトラウマが噴出するようになったらしい。
事あるたびに怯えたように吠えまくり、部屋のカーテンも噛みまくってビリビリにしてしまったと言う。余震が来るたびに大騒ぎなのだそうだ。
その反面、ネコの方はおっとりしていて冷静沈着そのもの。
「おいおい、大丈夫だ。そんなにパニクるなよ」
と、イヌをなだめるような仕草までするらしい。
そんなこんなの話を先日うちでしながら、家族でイヌとネコに関する議論をしていたのである。
もちろん、一概にイヌ・ネコといっても一匹一匹キャラクターが違うので、一概に「イヌよりネコの方がストレスに強い」とは言えないだろう。
しかし、僕の周りで聞いた話では、イヌの方がよりストレスに晒されやすい傾向にあるようだ。
●人間に対する依存度と独立性
イヌは人間の心に寄り添って生きる動物だからだろう、と勝手に推測している。
飼い主=育ての親とも言える人間が地震に恐怖を感じ動揺すれば、
イヌも「これはタダゴトではない。もしかしてボクの命も危ないかも……」と、
不安感を抱いてしまうのではないだろうか。
件のワンちゃんは飼い主に捨てられた、という幼少期のトラウマを抱えているらしいので、よけいそうなったのかも知れない。
野生の状態でならともかく、人間社会で生活するにおいて、イヌの方が人間に対する依存度が強く、ネコの方が独立性が高いのだ。
ネコは一匹で街中をフラフラ歩いていても何とも思われないが、イヌは飼い主といっしょじゃないと違和感を持たれる……
いい悪いではなく、そういう存在として、僕たち人間に深く認識されているのだ。
●イヌは子供で、ネコはおとな?
僕は子どものいない頃は、完全ネコ派だった。
ネコの独立性・自由度にシンパシーを感じていたのは、自分自身が子どもだったせいかも知れない。
しかし、子どもが出来て親になってからは、だんだんイヌに親しみを感じるようになった。
とくに数年前に「イヌのしつけマニュアル」なるものを書く仕事をするため、イヌについてコンパニオアンアニマルとなった歴史や本来の習性等について、いろいろ勉強してからはイヌ派に大きく傾いた。
飼い主さんといっしょに楽しそうに街や公園をお散歩しているイヌを見ていると、可愛くて胸がキュンとする。
どちらも飼ったことがないので、詳しいことは分からないが、イヌはどんなに齢を取って老犬になっても自分の子どもとして可愛がれるのだろう。
それに対して、ネコの方はビミョーな距離感がありそうな気がする。
こちらが子どもとして接していても、もう向こうはすっかり大人になってしまっていて、人間の「可愛がりたい」という気持ちに適当に合わせている、という感じさえするのだ。
先日、朗読した「100万回生きたねこ」でも、ネコが大好きなのは自分であって、飼い主である王様だとか船乗り、おばあさんや子どもなんか嫌いだ、と、のたまっていた。
●イヌ時代からネコ時代へ
さて、この話に合わせて人間の子どもはどうかというと……
人間の子どもは、オチビの頃はイヌのようにじゃれついて可愛いが、長じるとこのようにネコ化する。
小学校低学年ぐらいまでは「イヌ時代」、
小学校中学年から中1あたりまでは「イヌネコ混合時代」、
それ以降、親離れして家を出て行くまでは「ネコ時代」と言えるかも知れない。
(うちは男子=息子なのでこんな感じだが、女子=娘の場合はもっと前倒しになるかも……)
15歳になったうちの小僧もその典型で、いまは単に家についているみたいだ。
だから、というわけでもないのだが、先日の誕生日のプゼントにネコの絵の入ったマグカップと茶碗を贈った。
イラストに描かれたこのネコの顔は、うちの小僧そのものである。
2011・5・20 FRI
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