勝浦タンタンメンは、過疎化する漁師町を救えるか?

 

今週は取材でお出かけWeek。

今日は連載企画「寺力本願(じりきほんがん)」の取材で、

千葉県勝浦市へ。

 

かつては房総でも指折りの水揚げを誇っていた漁業の街、

しかし、それも昭和時代まで。

漁業の衰退によって、平成の30年間で人口は半減し、

街の中には空き家が目立つ。

 

取材先は「海の見えるお寺」として人気の妙海寺。

その住職は、まだ若いながら、勝浦の街を救おう、

100年後も200年後も栄える街にしようと奮闘。

様々な地域おこしイベントを開催し、

現在は、空き家対策として、みんぱく事業に力を入れているという。

 

最近、何かとネガティブに捉えられることの多い宗教者だが、

自治体や企業ではできないことを、

お寺という立場、一種の社会的信頼性を生かして活動している。

 

そんな住職が以前、地域おこしの一環として普及に携わり、

ご当地グルメになったという「勝浦タンタンメン」。

ひき肉と一緒にタマネギとナスが入ってて、見た目ほど辛くない。

 

冬の海で働き、冷えた漁師や海女さんのからだをあっためたという

ストーリーが、味わいを深くする。

コンビニにも「勝浦タンタンメン」食品がいっぱい。

 

ちなみに勝浦は海流の作用で、夏は涼しく、猛暑日がない。

冬も比較的穏やかで、雪の降ることはほとんどないという。

 

僕は勝浦と言うと、反射的に「勝浦温泉」と出てきて、

なんとなく熱海っぽいイメージを持っていたのだが、

よく調べると、和歌山の@「勝浦温泉」だった。

なんで勘違いしてたのだろう?

 


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74年前の原爆と47年前のアトムズと原子力の今日

 

広島原爆の日。

テレビでは例年のごとく、原爆ドームの映像が映し出される。

 

べつに自分には何の責任もないよと思うけど、

同時になぜか、どこかの誰かから問いかけられている気がする。

 

おまえ、クーラー効いた部屋で、のうのうとテレビ見ていいの?

74年前のこと、もちろん、おまえの生まれる前のことだけどさ、

ここに原爆落とされたんよ。

何万人も死んだんよ。

その時は死ななかったけど、

後遺症で死んだり、病気で何年も苦しんだ人が大勢いるんよ。

それなのに、おまえ、そういうこと何も考えずに、

のうのうと生きていいの?

 

そんなことを詰問してくるのは

いったい誰なのかわからない。

はっきり言ってめちゃくちゃうざい。

でも、耳を塞げないのだ。

 

なので、何かこれと言って行動するわけじゃないけど、

少しは原爆のことを考えようと思う。

 

で、考えていたら、

なぜかアトムズというプロ野球チームのことを思い出した。

 

そう、アトムズというチームがかつてあった。

47年ほど昔のことだ。

前身は国鉄スワローズ。現在はヤクルトスワローズ。

 

ユニフォームの肩の所に鉄腕アトムのワッペンが貼ってあった。

1960年代後半から1970年代はじめのこと。

野球マンガ「巨人の星」の時代だ。

中日球場に中日対アトムズ戦を観に行って、

ロバーツというアトムズの4番の選手が

ホームランを打ったのを憶えている。

 

当時、「アトム」とか「原子力」は未来を象徴するキーワードだった。

膨大な戦争被害を生み出した原爆は悪だ。

だが原子力自体は人類の可能性を切り開く、素晴らしいものだ。

 

未来の日本を背負って立つ子どもたち(つまり当時の僕たち)よ、

原子力の平和利用。有効利用を考えるのが君たちの務めだ――

と言われていたような気がする。

 

それから時を経て、「アトム」も「原子力」も、

世界の経済大国にのし上がった日本の過去の栄光とともに

すっかり20世紀の遺物と化した。

とどめはもちろん3・11だ。

 

福島原発のあった地域で「原子力 明るい未来のエネルギー」という

看板が掛かっていた。

 

その標語があまりにもアイロニカルで恥辱的で

脳裏にこびりついて離れない。

 

「原子力」の輝きは失われたが、

僕たちを猛暑から解放し、熱中症から救うエアコンも、

原爆ドームと平和記念公園を映し出すテレビも、

このブログを書いているパソコンも、

動力の源には、やっぱり原子力から生まれる電気が

混じっているんじゃないの?

 

おまえ、そんなことも見て見ぬふりして、

のうのうとしていていいの?

 

また、どこかの誰かが問い詰めてくる。

 

戦争の怖ろしさはもちろんだが、

74年前の原爆の中には、さらに多くのメッセージが含まれている。

それは19世紀からこっちの

人類の科学文明全般に対する審判かも知れない。

 


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いい大人が恥ずかしい電車内・ホームの暴力

 

電車内やホームでの暴力に対する

キャンペーンのポスターを

よく見かけるようになった。

 

このキャンペーンは2014年の暮れから

毎年7月と12月、年2回やっているそうだ。

 

じつは20年以上前、5年にわたって

関東私鉄協会のビデオを作っていたことがある。

 

内容は、勤務中・作業中の鉄道会社社員の

安全に対する注意を啓発するものだ。

 

その中に乗客による、車掌や駅員に対する

暴力への対処の仕方というのもあった。

 

いろんなケースの事例メモを戴いて

台本を作る。

 

注意したり、寝ているところを

起こそうとして殴られたとか、

 

乗客同士のケンカを仲介しようとして

袋叩きにあったとか、

 

そのメモに書かれている、

あまりに理不尽な暴力の実態を見て、

 

「なんで我慢しなきゃいけないの?

正当防衛はできないんですか?」

 

と、思わず意見してしまった覚えがある。

 

とにかく、やられ放題、言われ放題。

乗客のストレスのはけ口にされている。

 

お客様だから手を出せない

というのがクライアントさんの答だった。

 

その実情は四半世紀の間、

まったく変わっていなかったようだ。

 

この電車内暴力の問題、

ほとんど酔っぱらいの仕業だろうと思っていたが、

2割くらいは素面の人が起こしているらしい。

 

そこでピンときた。

2014年からキャンペーンという形で復活したのは、

スマホの普及が関係しているかも知れない。

 

そんな予測を立てて、

総務省の情報通信白書のデータを見ると、

安の定、2011年に29・3%だった保有率は、

2012年に49・5%、2013年には62・6%に

跳ね上がっていた。

 

通路の狭い所や混んでいる所で

ちんたら歩きスマホをしている人がいると、

急いでいても前に進めない。

これは相当イラつく。

 

また、せっかく乗換案内を検索して、

ちゃんと乗り換えプランを立てて乗ったのに、

事故や故障で電車が遅れたりすると、

これもまたイラつく。

 

おまけにイヤな情報がその場で入ってきたりすると、

ますますイラつく。

 

 

それが乗客同士のトラブルに発展したり、

駅員や車掌に対する暴力になったりしているのではないか。

 

ちょっとこじつけすぎ?

 

もちろん正確な因果関係は分からないけど、

何かしらの影響はあるんじゃないかと思う。

 

狭い車内に閉じ込められているストレスと、

普段から感じているストレスが融合して

つらい状態になってるけど、

このポスターに書いてあるように

大人なら当たり前のこと守らないとね。

 

と言いつつ、今日も歩きスマホのご婦人が

前を歩いてたせいで、1本乗り損なってしまい、

「おまえのせいで~ ムカムカ」と、

心の中でキレましたが。

 

電車に乗る時は、時間と心に余裕を持ちましょう。

忙しいし、難しいんだけど。

 


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れいわ新撰組の革命第一歩

 

旧民主党による政権交代劇からかれこれ10年。

チャンスをもらった民主党の

あまりのダメさ加減。

そしてハンパない国民のがっかり感。

裏切られ感。

 

「なんだ、何もできないじゃんか」

「なんだ、何も変わらないじゃんか」

 

おまけにたび重なる内輪もめ・仲間割れ。

「和」を尊ぶ国民の目には

醜態に映った。

 

そのトラウマのせいで

国民は現状維持を希求してしまった。

 

「現状維持希望」はその時始まったことではないけど、

民主党政権に対するがっかり感は

あまりに深い傷になった。

 

人間は基本的になまけものだ。

大して良い現状でなくても、

変化することで面倒くさい思いをするくらいなら、

現状維持のほうを選んでしまう。

 

というわけで、

半ばあきらめの気持ちで、

自民党・安倍首相という選択肢を選場ざるを得ず、

無気力にだらだらと6年半の月日が流れた。

 

今回の参院選もその延長戦上で白けきったものになっていた。

選挙民のその無気力な空気を切り裂いたのが

「れいわ新撰組」だったと思う。

 

今日、当選した二人の重度身体障がい者議員のために

国会の場を物理的に改造しなくてはならないというニュースを見て

一つの「革命」を感じた。

 

れいわ新撰組は、本当に日本を変える。

変えられるかも知れない。

結局、自民党の分派に過ぎなかった旧民主党とは明らかに違う。

自民党と同じくらいダラダラしている既存野党とも明らかに違う。

 

ネット上で改めて、今回の選挙時のれいわ新撰組の動画を見てみる。

代表・山本太郎氏の言葉は、

この政党を作る以前は上滑りしていたように感じたが、

今回のは違っている。

 

二人の重度身体障がい者をはじめ、

立候補者に対する責任と、

選挙民に対する信頼感。

それらが言葉に厚みを与え、心に響く。

彼はこれから本気で政権を奪いに行くだろう。

 

政治にわくわくするものを感じたのは久しぶり――

というか、初めてかもしれない。

 

まだほんのわずかだが

れいわ新撰組は日本人の心に希望の灯をともした。

これからこの小さな灯が消えてしまうか、

大きく燃え上がるかは、僕たち次第である。

 


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京都アニメ放火殺人事件:オレのオリジナルという幻想と、パクられるという妄想

 

人は誰でも創造的で

アーティストの素養を持っている。

が、そこにこだわり過ぎると、

あらぬ妄想のとりこになってしまう。

 

「パクリやがって」

とは、いったいどう響くセリフだったのだろう?

 

自分も大やけどを負い、

倒れて意識を失う直前だったのだから、

よほど強烈な恨みを込めて叫んだのに違いない。

 

京都アニメーションの放火殺人犯に

同情するつもりも、弁護するつもりも全くない。

だけど気になるのだ。

 

あれほどの凶行に及んだ動機は

一体なんだったのだろう?

 

京都アニメに勤めたこともないし、

小説なりマンガなり、

自分の創作作品を公の場に出したこともないようだ。

 

少なくとも僕の知る限り、

そうした報道はされていない。

 

 

以前、シナリオライター講座に

通っていたことがある。

そこへ行くと、

 

「オレのアイデアがあのドラマでやられちまった」とか、

 

ほとんど同じプロットのストーリーを作られたとか、

 

あそこの局で企画を募集しているが、

あれは全部落選させて、

いいとこをみんなパクるんだ。

汚ねえ。

 

なんて話が、受講生の間で毎週、飛び交っていた。

 

いわゆる広告クリエイティブの世界でも、

デザインや文章をパクった・パクられた

という話は日常的に聞く。

 

また、世間に名の知れた有名作家の多くは、

初めて会う人から

 

「わたしをモデルにして書いたわね」とか、

 

「おれの人生を勝手に無断で話にしただろう」

 

とか、まったく身に覚えのない言いがかりを

つけられることがよくあるらしい。

 

かくも創作者の界隈は、そうした

「わたしは世界で一つだけの花妄想」

「ぼくの作品はスペシャル・ユニーク・オリジナル妄想」を、

集塵機のように引き寄せてしまう。

 

これだけインターネットが発達した時代だ。

小説、映画、マンガ、アニメ、音楽――

古今東西のいろんな分野のエンタメが、

誰でも手軽に、自由に楽しめるようになると、

いろんな作品の影響・刺激を受ける。

そこからクリエイターの道に入る人も

大勢いる。

 

しかし、これだけ古今東西の

創作物に関するデータが蓄積され、

そこへアクセスするのも容易になると、

世間に広く受け入れられる、

いわゆる「売れ筋パターン」が定着してくる。

 

売れるストーリー、キャラクター、メッセージ。

音楽ならメロディ、リズム、歌唱法。

 

また、「売りたいならこうするべきだ」といった

ノウハウ・法則なるものも広く伝搬する。

 

こうした要素がミックスアップされると、

どこまでが他から影響された部分で、

どこからが自分のオリジナルなのか、

わけがわからなくなってしまうのではないだろうか。

 

そしてヒット作が生まれると、

 

あれはオレが考えていたアイデア=

あいつらはそれをパクって大儲けしている。

 

といった妄想に囚われる人たちが

大量発生するのではないだろうか。

 

犯人の男が実際に創作活動をしていたのかどうか、

定かでない。、

頭の中で考えていただけという可能性は

十分にある。

 

京都アニメのある作品が、

彼が構想していたそのストーリーと

共通する部分を持っていると気づいた時、

これはパクられたのだと

脳が自動的に変換してしまったのではないか。

そんな気がする。

 

さまざまな奇行が多かったことも

考えあわせると、

自分の上手くいかない人生に対する

忸怩たる思いも堆積していたのだろう。

 

それらが混ざり合って、

絶望感と破壊衝動が生まれてしまったのか?

 

誰もがたやすく妄想の世界に浸れる時代。

しかし、24時間、365日、バーチャルな世界に

浸って生活することはできない。

あなたも僕も、腹が減って何か食べたり、

それ以上の頻度でトイレにも行く。

 

そして普通は働いてお金を稼ぎ、

家賃なりローンなりを払って家に住み、

光熱費や、ネット・電話を使うためにも支払いをする。

 

そうしたリアルな日常の細事を

バカにしていると、妄想で人生そのものが狂いかねない。

 

さえないリアルを人のせいにしたり、

あらぬ言いがかりを付けたり、

ましてや、こんなひどい事件を

起こしたりしない限り、

空想・幻想・妄想を膨らませるのは、

どこまでも自由だと思うのだけど。

 


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白鳥の引っ越し屋

 

12年前と同じ引越し屋を選んだ。

「白鳥の湖? いや、みにくにアヒルの子?」

と、首かしげたくなる、不思議にメルヘンなイラストの入った、

この会社オリジナルの段ボールも12年前のままだ。

 

内見・見積もりに来た営業のお兄ちゃんに、前も使ったよという話をしたら、

「その頃と同じスタッフかも知れません」と、やや意外な返事。

 

聞くとスタッフの高齢化が進んでいて、

若い子は入ってもすぐやめてしまい、

結局、古くから働いている社員ばかりになっているという。

 

かく言う営業マン氏は、見た感じ、30ちょっと出たとこだけど、

かなりエキゾチックな風貌で、

タイやフィリピン方面の血を感じさせる。

少なくともハーフだろう。

日本語は難なく話し、理解していたので、

たぶん日本で生まれ育ったのだと思う。

 

大手はどうだか知らないが、こうした地域の中小の引越し屋さんは、

年輩者と外国人の職場になりつつあるのかも知れない。

 

もう一つ、引っ越し絡みで聞いたのは、

今年は昨年(および従来)と比べて、ピークが平均化しているということ。

普通、引っ越しと言えば年度末と初めの3月・4月だが、

今年は5月も6月もずっと忙しいのが続いているらしい。

通勤ラッシュの緩和策――オフピーク通勤をおもぃ起こさせる。

 

どうも企業の異動が、一時期に集中しないよう、

ずらして行われているようだ。

6月に転勤して7月から新しい部署で――

というパターンが増えてきている。

これも働き方改革の一環?

 

しかし、そのおかげで引越し屋さんは休みなく働き続けることになる。

中小企業の働き方改革は後回し?

というか、最初からあんまり考えてない?

要は「日本は労働者にも優しい先進的な国ですよ」ってアピールしたい、

政府のパフォーマンスだもんね。

 

日本の労働市場の実態を垣間見させる地域の引っ越しサービス。

いずれにしても、どうぞよろしくお願い致します。

 


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世界自閉症啓発デー&発達障害啓発週間と人権意識の未来

 

桜が満開になり、新年度が始まった4月2日(火)は

世界自閉症啓発デー、

そして4月2日~8日(月)までは発達障害啓発週間だった。

 

「LIGHT IT UP BLUE 」――青は希望の色として、

2007年から毎年、世界各地のランドマークを

ブルーにライトアップ。

東京タワー、東京スカイツリー、大阪の通天閣なども

真っ青な光で照らされ、各地でイベントが行われた。

 

ということを週末、ほとんど終わりかけていた頃に知った。

でも、知っただけでもいいかな。

 

平成の30年間で最も進化したのは、人権意識だと思う。

少なくとも、ほとんどの人が

「すべての人に人権がある」

ということを知り、認めるようになった。

 

昭和の時代は、パワハラ、セクハラなど、

さまざまなハラスメントや暴力が、

そういう習慣だ、常識だと、平然とまかり通っていた。

よほどのことでもない限り、

問題視されて取り沙汰されることさえなく、

泣き寝入りするしかなかった。

 

死ななければならない人も大勢いたと思う、たぶん。

 

それと比べると大きな進化だと思う。

もちろん、知ってはいても、

それがアクションに繋がっているかと言うと、

まだ全然そうなってないと思うけど。

 

すでにコンビニなどで実験が始まっているが、

これから産業界ではAI・ロボットがどんどん導入され、

多くの人間はAIの指示のもとに動くようになる。

あるいは、それまでやってきた仕事を失う。

この流れはもう止めようもない。

 

「きみの仕事はAIが、ロボットがやってくれるよ」

 

いかに経済・産業に貢献する能力があるかを競ってきた、

ほとんどの人に、アイデンティティの危機が訪れる。

 

その時に、こうした人権を尊重しよう、

それぞれの個性を尊重しようという、

何十年にもわたって続けられてきた社会活動の成果がやっと表れ、

するすると社会に染み透っていくのではないかと思う。

 

他人の人権を軽視する人は、

自分の人権も失いかねない。

そんな時代になるのではないかと思う。

 


SNSメディアはNZの事件を黙って見過ごすのか?

 インターネット社会の進展で、多くの人が、組織が、

 ネット上で自分の存在をアピールする必要に迫られるようになった。

 会社や大きな組織だけでなく、

 個人も、小さな団体も、何かしようと思ったら

 とにかく目立たなくてはいけない。

 

 ニュージーランドのテロ組織は、殺害現場を生中継した。

 犯行声明文も公開している。

 

 10年ほど前には、フィクションで起こっていた

 こうした 超・劇場型犯罪は、いまや現実の世界で普通に起こり得る。

 

 FBやTwiterはこの事件にまつわる動画の配信を

 停止したらしいが、もうかなり拡散されたんじゃないだろうか。

 

 テロはテロを引き起こす。

 目立ちたい奴、自分をアピールしたい奴は

 世界にうじゃうじゃ溢れている。

 

 ネットメディアは、もはや社会のインフラで、

 影響力は絶大だ。

 それを運営する企業には、大きな責任があると思う。

 ご利用いただければ、それでいいのか?

 

 このような暴力を抑制するために、

 今後のネット社会の方向性を示すために、

 世界に向けて、大きな声で

 自分たちの理念にもとづく

 何らかのメッセージを発信してほしい。

 


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信じたくないけど、日本は子ども虐待の多発国?

 

 息子が1歳の頃だったと思うが、転んで頭を打ってケガをした。

 あわてて小児科へ連れて行ったが、その時、なんでケガをしたのか、かなりねちっこく聞かれた。

 ははん、虐待が疑われているのだな、とすぐピンときた。

 その医者とケンカすることはなかったが、たったそれだけで、かなり頭に血が上ってカッとなった。

 

 虐待を疑われた親がひどく感情的になったり、詰問する児童福祉司などに強烈な恨み・憎しみを抱いたりするのは、そんな自分のことを思い起こすと分かる気がする。

 

 虐待を疑われるということは、その親にとっては「あなたは親の権利・資格があるのか?」と疑問視され、問い詰められているのと同じだ。

 

 一旦、親となった人間は、その親という立場を失うかもしれないと感じると、強い危惧感・恐怖心を抱くのだろう。

 

 もし「あなたには親の権利・資格はない」と、他人からドーンと言われたらどうか?

 

 「おまえは人間失格」と烙印を押されるのに等しい、屈辱的かつ絶望的なことだ。

 

 そして、なんとかアイデンティティを守ろうと、その屈辱の感情を、学校や児童相談所などの関係者、ひいては社会に対する激しい怒りと憎しみに転化するだろう。

 

 千葉県野田市の女の子の虐待死事件は、世界にも知れ渡り、国連の子どもの権利委員会で問題視されているようだ。

 

 先週、同委員会は、今回の事件をはじめ、日本で子どもへの虐待などの暴力が高い頻度で報告されているとして、政府に対策強化を求めたという。

 

 かつで幕末から明治時代にかけて、日本に駐留した欧米の学者らが、民衆が子どもをとても可愛がり、大事にする姿を見て驚嘆を覚えたと当時の記録にある。

 

 逆に言えば、当時の欧米の民衆は、子どもに対して相当ひどい扱いをしていた(産業革命時の工場での強制労働など)ということだが、それから150年たって状況は逆転してしまったのか、信じたくないけど「日本は子どもの虐待が多発する国」になっているらしい。

 

 これは日本社会全体で向き合うべき問題ではないかという指摘がされたわけで、いわゆる外圧までかかってしまった。

 

 さすがにこういうことが続くと、子どもの虐待に対する法規制の強化・厳罰化が行われるのは、そう遠い先ではないかも知れない。

 

 厳罰化には反対しないが、これは人間のエモーショナルな部分に深く関わる問題であり、へたをすると親の側の人格崩壊にも繋がりかねない。

 

 なので本気でやるのなら、不幸な親子を増やさないためにも、同時に、あるいは事前に、社会全体への十分な啓蒙活動・認知活動が必要なのではないか。

 

 なぜ子どもの虐待問題に、社会全体で向き合わなくてはならないのか。

 なぜ虐待をする親が重い罰が科せられるのか。

 そもそもなぜ子どもをそんなに大切にするのか。

 

 こうした問いに対する答えはたぶん、僕たちの社会の未来のビジョンを思い描くことにもなると思う。

 


いい人のサービス残業問題

 

  「働き方改革」のおかげでサービス残業が増えたと言う人が増えているらしい。

 タイムカードをがっちゃんこした後にパートさん、バイトさんが「もうちょっとだけお願い」されてしまうという。

 

 今日だけ。ちょっとだけ。最後まで片付けて帰らないとあなたも気持ち悪いでしょ。

 そうだな、忙しいからしかたないかな。

 

 そんな感じで、デートがあろうが、家族が待っていようが、子供の誕生日だろうが、自分の将来のための勉強の時間が潰れようが、まじめな人、責任感の強い人、いい人は引き受けてしまう。

 

 そこまでいい人してどうする?

 

 本当に1回だけ、ちょっとだけで済むならいいけど、こういうことってえてして常習化しがちだ。

 

 あの人は頼めばやってくれる。

 いったん会社側にそうインプットされて、習慣になってしまうと、頼む方も罪悪感がなくなって、やってくれて当然になってしまう。

 

 なんだかドラッグ中毒に似ている。

 

 記録に残らないということは法規外。

 なので会社としては大助かり。

 正規社員じゃないことも都合がいい。

 何かあったとしてもいくらでも言い逃れできそうだ。

 「いや、うちはちゃんと就業規定守ってます。

 彼(彼女)はいつも定時で上がってますよ」

 

 最近はパートだってバイトだって責任ある仕事を任されることがままある。それはいい。

 でも、それなら相応の対応をしてもらわなければいけない。

 

 サービス残業で過労死――では、洒落にならない。

 その仕事に命を賭けてる、人生を捧げてるから、お金なんて関係ないんだ!

 みんな、ありがとうと言ってくれるし、助かる~と喜んでくれるし。

 ――と言って、あなたが満足・納得してるなら、よけいなお節介はしませんが。

 


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グローバル化時代の英雄、故郷に錦を飾る(はずだったけど)

 

 「私が倒産寸前だったあの会社を立て直したからこそ、日本で電気自動車や自動運転の技術が発展したのです」

 

 2016年8月5日、オリンピックの聖火を掲げて、リオデジャネイロのコパカバーナ海岸沿いを走るカルロス・ゴーン氏の脳裏には、人生第3幕のシナリオが渦巻いていた。

 そのオープニングを飾るのは、ブラジル大統領選の立候補演説。

 

 2022年までルノー・日産・三菱自動車のトップを務め、日産と三菱をルノー化して筆頭株主のフランス政府に恩を売って後ろ盾につければ、勝算は十分だ。

 

 レバノンで青春時代を送り、フランスでキャリアを積み、日本でついにトップの座、さらにKINGの座に着いた。

 誰もが彼をグローバル化社会の、経済産業分野の英雄と呼ぶ。

 その英雄が地球を一周して生まれ故郷の南米大陸に帰ってきた。

 そしてここが人生の終着点、集大成の地だ。

 

 「私が当選した暁には、必ずやこの国を世界の先進国と肩を並べる経済大国に育て上げます。この国の民衆にはそれができる。

 やっちゃえブラジル。Yes、We Can!」

 

 しかし残念ながらここまで書き上げたシナリオの草稿はもう使えないだろう。

 せっかくブラジルにもベイルートにも家を買ったのに。

 ベルサイユ宮殿で結婚式を挙げて箔も付けたのに。

 

 この問題はゴーン氏個人のストーリーにとどまらず、ルノー対日産、さらにはフランス政府対日本政府という、まさしくグローバルなストーリーに発展しそうだ。

 


外国人労働者とロボットと徒弟制度

 「

 もうすぐクリスマスだね」「あといくつねたらお正月だね」と言う人はいっぱいいるけど、「いよいよ勤労感謝の日ですね」という人はあまりいない。

 

 だからあえて言ってみよう。

 いよいよ勤労感謝の日ですね。

 勤労感謝の日と言えば、外国人労働者受け入れ問題ですね。

 

 日本の外国人労働者に対する扱いは、基本的にこの20~30年変わってない気がする。

 最近特に思うのは、グローバル化がどうこうより、これはロボットまでの「つなぎ」なのかな、ということだ。

 

 日本の産業界(他の国も同様かとは思うが)、つまり労働力を必要としている職場は、本当はロボットを求めている。

 ロボットなら優秀で効率よく働けるし、低コストで済むし、人権がどうの保険がこうのなんて面倒くさいことも言わない。

 ロボットならスムーズに仕事がはかどって、使う側はストレスが低減できる。

 

 ぶっちゃけ、外国人労働者はそれまでのつなぎみたいな意識なのではないか。

 欲しいのは「労働力」であって、人間ではないのだから。

 

 ついでに言うと「実習生」という言葉からは日本に根付いている「徒弟制度」のニュアンスがある。

 徒弟は仕事を教えてもらう立場にある「半人前」の人間なので、給料も半分でガマンすべき、掃除も雑用もすべて修行にコミコミだよ、というわけだ。

 

 日本人の多く――少なくとも、僕も含めて現在の40代以上のほとんどは、この長らく続いてきた考え方に洗脳されているので「おまえは半人前だから「給料も少ないよ」と言われたら容易に納得してしまうだろう。

 

 徒弟制度の在り方は日本の伝統文化の一つと言って過言ではない。

 基本的には職人や芸事の世界での習慣だったが、サラリーマン社会にも広く普及してきたと感じる。

 

 そういった習慣・文化は雇う側だけが守ってきたわけではない。

 同じ雇われる側も「なんで先輩でスキルアップしているオレと、新入りの何もできないあいつが同じ(あるいは大差ない)給料なんだ」とツッコミを入れる。

 そういうこともあって雇う側は素直に徒弟制度を受け入れてしまう。

 仕事がろくにできないやつにまともな給料は払えない。

 人権だの保険だのプライベートがどうのこうの言う奴なんかいらない。

 でも人出不足だから忙しい間だけ働いていけ―― それが雇う側のスタンスなのだ。 

 しかし、日本人でも若い連中はこれを「搾取」と呼んで拒否し始めている。

 徒弟制度は、いつか自分も一人前になって独立できるという夢と希望と、師匠である店とか人とか会社がそれを援助してくれるという温かい心の絆、信頼関係があってやっと成り立っていた。

 だから働く人たちは厳しい仕打ち、理不尽な扱いにも耐えられた。

 少なくともそれが「搾取」だとは露ほども思わなかった。

 ま、いわば宗教みたいなもので、信じる者は救われたのである。

 

 成長の時代をとうに過ぎて、そうした夢も希望も信頼関係も失われ、経済効率オンリー、ロボット求むのメンタリティになった現代にはもう通用しないのではないだろうか。日本の文化を理解できない外国人にはなおさらだ。

 

 ギリシャ時代、かの国では労働とは奴隷がすることで、人間の仕事と見なされていなかった。

 人間とは労働のために動かすことなく、政治や社会や芸術について考える人たちのことだった。

 日本を含め先進国の人間のメンタリティはだんだんそこに近づいているのではないかという気がする。

 


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利権ファーストで子どもの夢を蹂躙するオリンピックって・・・

 

 オリンピックはアスリートにとって夢の舞台。

 子供のころからすべてを賭けて競技に打ち込んでいると思います。

 それをグダグダとした「大人の事情」で奪っていいはずがない。

 これは夢殺しであり、選手の人生を蹂躙する行為です。

 

 しかも彼女がそれこそ命がけで表明したことを「あれはウソ」ってどういうこと?

 

 利権ファーストの人たちは自分の子供や孫の人生が潰されたらどう思うのでしょうか?

 いや、その前に彼ら彼女らも、かつてはアスリートとして純粋な気持ちで頑張っていた人たち。

 権力をふるえる立場になると、そうした過去もきれいさっぱり忘れてしまうのだろうか。それって自分の栄光を蹂躙してしまうことにならないのだろうか。

 

 2020東京オリンピックは、確か「日本をもっと元気にするために」とかいう大義があったと思います。

 でもねぇ、こんなことがゾロゾロ続くと逆効果。「結局またそれかよ」とシラケちゃって却って元気を失くしそうです。

 

 選手が夢を奪われ、市民も純粋に心から応援できないオリンピックにどんな意味や価値があるのだろう?

 特に若い連中はそう思っているんじゃないのかな。

 


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孤独死の現場・ゴミ屋敷の実態をミニチュアで見せる

 

 孤独死の現場・ゴミ屋敷の実態――誰もが目を背けたくなる現実をミニチュアにして表現。

 べつにアート作品ではありません。

 エンディング産業展で出展した「遺品整理クリーンサービス」という会社(板橋区)の展示です。

 今年のブースで最も印象的だったものの一つです。

 

 毎年エンディング産業展では葬儀やお墓・仏具仏壇を扱う企業のブースが大きく華やかで目立ちますが、年を追うごとに終活・遺品整理・遺族対応といったカテゴリーの業務を行う企業や団体のブースが増えています。

 

 これらの業務は実際に展示する物がないので、パンフレットや販促物をわたすしかありません。

 

 この会社も自分たちの仕事をアピールするには、写真や動画で表現するしかなかったのですが、やっぱりそういうものは見たくないという人が多い。

 

 しかし、こうしたミニチュアを使って表現すると、不思議と抵抗感が薄れます。それどころか、あまりの出来栄えにコミュニケーションが弾みます。

 

 作ったのは小山さんという入社4年目の20代の女性。

 事務などの後方支援をやっているのかと思ったら、ズカズカ前線にも出動するそうで、こんなことを言うと差別と取られそうですが、思わず「え、こんなかわいい女の子が!」と驚いてしまい、20分ばかりその場でインタビューしてしまいました。

 

 前職はアート関係だったのか、趣味としてこうしたものを作っていたのかと訊いたら、まったく違っていて、ある日こういう表現方法があるのではないかとひらめき、生まれて初めて作ってみた――というから、さらにオドロキ。

 

 普段の業務をやりながら空いた時間で作っているので、さすがに最初の作品は完成までに4ヶ月かかったといいますが、それにしても感心することしきりです。

 

 仕事に情熱を持ち、使命感を持ってやっている人には、何か神様に近いものが降りてきて、隠れていた才能を開かせるのかも知れません。

 

 どうしてこの仕事に就こうと思ったのか、どんな気持ちで仕事をしていけるのか、遺体の処理など抵抗ないのかと無遠慮にどんどん質問をぶつけましたが、気負うことなく屈託のない笑顔で答えてくれました。

 

 孤独死、ゴミ屋敷というと悲惨なイメージばかりで、どうしてとか、何とかならなかったのかと、普通の人は思うでしょうが、現場を知る彼女やこの会社の人たちは、ちょっと異なるイメージを持っているようで、非常に考えさせられました。

 

 この話はまたおいおいここで書いていきます。

 


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戦争の記憶と戦争文化体験

 

 戦争のことを話すのに日づけは関係ないと思いますが、やっぱり8月15日:終戦記念日は特別です。

 メディアはこの日が近づくと、戦争の記憶を伝えるために、どこそこではこんなイベントが行われました・・・といった報道を必ず行います。

 それはほとんど義務のようなものであり、責任であると考えているのでしょう。報道をすれば日本国民の多くは戦争のことを思い起こし、平和の尊さを改めて噛みしめる、という前提のもとに。

 それに異論があるわけではないのですが・・・。

 

 しかしぶっちゃけ、戦争体験者はもちろん「戦後体験者」も少なくなってきた昨今、こうした慣習がどこまで人の心に響いているのか、よくわかりません。

 

 やめてもいいとは思わないけど、実際どれだけの人が耳を傾けているのだろう?

 

 そういう自分の中でも「8月15日?ああ終戦記念日ね」と、たやすくスルーしてしまう程度の軽い存在でしかないのです。

 

 と同時に1960年生まれの僕は、限りなくパーセンテージは低いけど「戦後体験者」といえるかもしれない・・・と思っています。

 

 もの心ついたときはもう高度経済成長も終わっていたけど、子供の頃はほんのわずかながら、戦後の空気が残っていたような気がします。

 「戦争文化」とでも言えばいいのか、そういうものです。

 戦争体験者であるおとなたちがまだ若く、元気に社会を回していたせいでしょう。

 「戦後体験者」というより「戦争文化体験者」というほうが的確かもしれません。

 

 ♪きさまとおれとは同期のさくら~ 

 といった軍歌も歌っていたし、ゼロ戦・戦車・戦艦などはプラモデルの定番人気アイテムだったし、マンガやオモチャの分野でも「戦争」は一つのジャンルを作っていました。

 

 障がい者となった傷病兵の人たちが、街角でアコーディオンやハーモニカを演奏して通行人からお金をもらっているのも、よく目にしていました。

 

 そして、原爆や沖縄戦、大空襲などの話は、現代と比べて段ちがいの迫力・悲惨さ・リアルさを持って語られていました。

 何よりもごく身近で聞く親の体験談(名古屋空襲・戦中戦後の生活など)は、自然に身体に沁みてきました。

 

 そうした文化はけっして楽しいものではなく、できれば誰にとっても思い出したくない、触れたくないものなので、だんだん風化していってしまうのはやむを得ないのかも知れません。

 

 それに今の子供たちや若い世代は、情報・データとしては知っているけれども、自分の五感で感じ取ったものは一切ありません。

 これはもうどうにもならないギャップです。

 

 風化させないよう、記憶を引き継いでいくには、従来のような報道の仕方や、ストレートな体験談を語るだけでは全然追いつかない。

 そろそろ子供たちや若い世代の心にもよく響く新しい表現方法、新しい「日本の戦争文化」のようなものを作ることが必要になっているのではないのか、と思います。

 なにせもう73年も経ってしまったのだから。

 


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「生産性」という言葉が怖い・重い

 

 「生産性を上げよう」はビジネス現場の合言葉。

 ところが近年、この「生産性」という言葉に負のイメージがまとわりつくようになりました。

 ついこの間、「LGBTには生産性がない」と発言して炎上した杉田水脈議員。

 僕があのニュースを聞いてすぐに連想したのが、2年前の2016年7月、相模原市の施設で園で障がい者殺傷事件を起こした植松容疑者です。

 

 植松容疑者は「障がい者は生産性がない。だから社会に不必要。彼らのためにお金を使うのは無駄遣い」という恐るべき「正義」を振りかざして人を殺しました。

 おまけにネット上では彼の唱える「正義」に賛同する者も続出しました。

 

 杉田議員がどういう人かはよく知りませんが、おそらくLGBTの人たちに良いイメージを持っておらず、最近、彼ら・彼女らの声が大きくなってきたのを感情的にガマン出来ず、いかにも正論めいた発言を雑誌に載せたのではないかと推察します。

 

 対象が障がい者・LGBTという違いはあれど、「生産性」という資本主義社会の歪んだ正義のもとにマイノリティを差別し、あわよくば排除しようという根っこの精神は同じ。

 でもこれはこの二人に限ったことでなく、多くの人が潜在的に持っている感情なのではないかと思います。

 

 だからまたフォロワーが出てくるに違いないと踏んでいたのですが、今回はネット上でも杉田議員の発言を肯定する意見は今のところ、ほとんどありません。

 

 ちょっと違和感を感じ、なんで今回は出ないのか考えてみたところ、2年前の事件から「生産性」という言葉にマイナスイメージが貼りつき始めたからではないかと思うのです。

 

 僕を含め、多くの人は「生産性」という言葉を心の中でとても怖れています。

 「おまえは生産性がない・低い」と言われてしまったらどうしよう。

これは「おまえは社会に不必要な人間だ」と言われているのとほぼ同じ。

 太宰治じゃないけど「生きていてすみません」と謝りたくなってしまう。

 

 そのうち、ビジネス現場にも「生産性の高い」AI・ロボットマネージャーが登場し、生産性の低い人間の僕たちはこき使われるのでないか・・・という不安もだんだん膨らんでいます。

 

 その上、杉田議員のように子供を産む・産まないという分野にまで「生産性」という工業・機械・経済などのイメージをまとった言葉を持ちこまれたら、LGBTじゃなくても自然と拒否反応も起こってくるでしょう。

 

 平成の30年間の最も大きな成果・社会の進化は、人権意識が育ち、どんな人にも人間性を認め、尊重することが当然になったということだと思います。

 それはより自分らしく生きることが可能になった、少なくともなり始めている、ということ。

 

 国が貧しい時代は生き続けるのが困難だった人たちが、普通に生きて社会生活が送れるようになったーーその意味をもっとじっくり考えてみるべきではないかと思います。

 


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オリンピックをオワコンにするのはインターネット?  それとも「夢よもう一度」の利権執着昭和人?

 

 ここ数日、テレビをひねってニュースを見ると、終戦関連のニュース、猛暑・台風などの気象ニュースのほかは、民放は日本ボクシング連盟の山根明会長の独壇場と化しています。

 

 昨年末の日馬富士の暴力事件に端を発する大相撲のお家騒動や、先だっての日大アメフト部の問題など、スポーツ関連のスキャンダルはウケるのでと徹底的に深掘りしていくのが近年のマスメディアのお家芸になっているようです。

 

 本来、クリーンであるべきはず(というかクリーンであってほしい)スポーツの理想と、全然そうなっていない現実とのギャップが面白く、視聴者が舞台裏を楽しめちゃうからでしょう。

 いわば「バックステージツアー」ですね。

 

★利権の匂い

 

 さて、渦中の山根会長、床屋さんへ行くのに日の丸のついた日本代表のトレーニングウェアなんぞ着て登場したせいか、報道の裏からはオリンピックの利権の匂いがぷんぷんと漂ってきます。

 

 もちろん、これは今に始まったことでなく、例の新国立競技場やエンブレムの問題からすでに腐敗臭がダダ漏れしていました。

 オリンピックというおいしいメロンを、あっちこっち、みんなで撫でまわしているうちに、本来の食べごろのはるか前から完熟を通り越して腐ってきちゃった、という印象を受けます。

 

 こんなこと言うと、オリンピック目指して頑張っている選手の皆さんや周囲の関係者の皆さん、ファンの皆さんに申し訳なんだけど、2年後、僕たちは本当に純粋にハッピーでエキサイティングな気持ちでオリンピックを迎えられるのか心配になります。

 

 まぁ、そういう気持ちで迎えなくちゃいけないよ、という国民の義務はないので、どうでもいいといえば、どうでもいいんですけど。

 

 試しにインターネットで「オリンピック、利権」とキーワードを入れてみると、ぞろぞろいろんな記事が大量に出てきて、こんなのを読んでいるうちに、国民の何割かは心が離れて行ってしまうのでは・・・と、またまた心配になります。

 

 心からオリンピックを楽しみたいと思っている人は、ニュースはNHKだけに絞って見たほうがいいかもしれません。

 

★56年前の夢よ もう一度

 

 僕が思うにオリンピック運営の上層部にいる昭和人たちは、1964年の

前回開催のイメージが頭にこびりついていて離れないのでは?

 

 時代は高度経済成長の真っただ中。

 「オリンピックを開催してもっともっと豊かになろう、世界の人たちに敗戦からみごとに立ち直って新しい国づくりに成功した日本を見てもらおう」

 と明るく言えば、「よっしゃあ!」と、国民の心は容易くまとまるし、実際にますます景気は良くなり、経済成長していけました。

 

 それにインターネットという、どこの誰ともわからぬ国民が言いたいことを言いまくって発信する鬱陶しい装置もありませんでした。

 テレビ・ラジオ・新聞で当局に都合のいい情報だけを世の中に広めることも簡単にできちゃったわけです。

 

 1964年大会が「若き高校球児」だとすれば、2020年大会は「引退目前まで追い詰められて必死に踏ん張ろうとしているロートルプロ野球選手」のようなもの。

 

 前時代的な利権執着昭和人の「夢よ もう一度」のために、なんで俺たちも付き合わなくちゃいけないのか・・・

 と考える人たちが大勢出てきてもおかしくないでしょう。

 

 最近の進行状況を見ていると、利権で儲けられる人は大儲けできそう、そうでない人はボランティアという美名のもと酷暑の中をこき使われそう、といった現代の格差社会の写し絵的世界が展開する様相です。

 もちろん、純粋にハッピーでエキサイティングな気持ちで、ボランティアとして参加できるのならいいのですが。

 

★オリンピックはこの先も必要なコンテンツなのか?

 

 そもそも近代オリンピックというコンテンツ自体が、国力の見せつけだったり、金儲けの道具だったりしたわけで、果たして今、そういった必要をどれくらいの人が認めているのか?

 1964年を体験した昭和の大衆と同じように、人生に刻印されるべき価値

あるイベントになりうるのか?

 

 また、今回の東京大会のドキュメントが大量にネット情報として発信されるので、それに触れた世界の人たちが、今後、自国でオリンピックをやりたい!と、純粋にハッピーでエキサイティングな希望を持てるのか?

 

 実際、莫大な予算がかかる関係で、IOCは東京以後の開催地候補があまりに少なくて困っているという話も聞きます。

 

 とは言っても、青春をかけるアスリートや、スポーツに元気をもらって生きている人たちにとってオリンピック・パラリンピックは、希望の星。そう簡単にオワコン(終わったコンテンツ)にするわけにはいきません。

 

 ただ、どうしたらもっと希望の持てるイベントにできるのか、どこかで再生手術をする必要があるだろうと感じます。

 オリンピックをオワコンにするのもインターネット、よみがえらせるのもインターネットなのでしょうか・・・。

 


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