ホラー日本むかしばなし「若水」

 

日本の各地に「若水」という民話がある。

若水とは若返りの水だ。

ある村におじいさんんとおばあさんが住んでいて、

ある日、おじいさんが山のふもとで湧き水を発見して飲む。

すると白髪が黒くなり、肌のしわが取れてつやつやしてきた。

その湧き水は若返りの水だったのだ。

 

それを見て仰天したおばあさんは自分も若返りたくて、

一緒に若水が湧き出るところに行って、ごくごくと飲む。

すると、やはり同じように髪は黒々、お肌もつやつや。

 

ふたりして曲がっていた腰もしゃんとして、

これでまた元気に働けると喜んでいたが、

おばあさんは欲が出てしまった。

 

おじいさんに隠れて、こっそりと毎日、若水を飲みに行く。

どんどん若返り、まるで若い娘のようになってしまう。

 

それでおじいさんはこれでまた若い女を抱けると大喜び――

というのは僕の勝手な創作で、

原作では、もうそれ以上、若水を飲むのはやめろと言う。

 

元おばあさんは一応、おじいさんのいうことを聞くが、

一度火が付いた欲望はもう止められず、またもや若水のところへ。

 

その日、おばあさんは家に帰ってこない。

おじいさんはもしやと思って若水のところに行くと、

木々の合間から赤ん坊の泣き声がする。

 

あわてて駆け寄ってみると、

水を飲み過ぎたおばあさんは、

かわいい赤ちゃんに還ってしまっていた。

おじいさんはやむをえず、

おばあさんだった赤ちゃんを家に連れて帰り、

自分で育てることにする。

 

「若返りたい」という欲望、不老不死の欲望は、

もちろん男にもあるが、情熱と言うか執着心は、

やはり女のほうが何倍も強い。

それはたぶん、

女は自分の身体の変化を顕著に体験するからだろう。

 

子どもを産まない体から、産める体になり、

やがてもう産めない身体に変化するというのは、

どんなに身近にいても、男にはとうていわからない神秘だ。

 

現代は閉経以降も女性に活躍の場がたくさん用意されているので、

精神的にそうこたえないかもしれない。

しかし、人間も自然の摂理に従って生きていた近代以前は、

かなりリアルに自分の衰え、存在の危うさを

感じざるを得なかっただろう。

そういうところからこんな話が生まれてきたのではないかと思う。

 

若返っていくというのは自然の摂理に反することだから、

一種の恐怖であり、老いること以上に残酷であり、

したがってこの若水の話はホラーでもある。

 

このおばあさんは不思議な体験をし、平常心を失い、

欲にかられて若返ること自体が目的となってしまった

愚かな女である。

 

何のために若返るのか?

若返って自分は何をしたいのかよく考えよ。

 

そう言うのは正論だが、こうした愚かで弱いところが

人間らしいと言えば人間らしくて、すこぶる可愛い。

 

ぼくがこのおじいさんだったら、

若い娘も飛び越して、赤ちゃんに還ってしまった妻を

育てようとするだろうか?

あなたはどうですか?

 

 

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人間はひとりで生まれてこれないし、ひとりで死ねない

 

「生まれてきたときも、死んでいくときも、

しょせん人間はひとりなんだぜ」

BGMにジャズが流れるアンティークなバーで、

彼は煙草の煙をくゆらせながら遠い目をして語った。

 

「人間ひとりで生まれてきて、ひとりで死んでいくのよ」

小さなクラブでブルースを歌い終え、

ぐいっとフォアロゼのオンザロックを流し込んで一息ついた

彼女がため息交じりに言った。

 

僕が若者の頃に身を浸していた昭和の時代には、

人生の先輩方からよくそういう話を聞かされた。

 

カッコいいな。

わりと素直にそう思った。

おれも齢とってシブくなったら、

若いモン相手ににそんなセリフを吐きたいもんだぜ。

そう考えていた。

 

で、実際に、当時のその諸先輩方の年齢を超えた今、

彼らの件のセリフは単なるカッコづけだとわかった。

現実は歌や物語と違って、

もっとバタバタしてて、もっと全然みっともなくて、

孤独な男や孤高の女などやっていられない。

 

人間は一人ではこの世に生まれてこれない。

カミさんが息子を出産する時に立ち会ったが、

医者とか看護婦さんとか大勢の人が関わって、

はじめて子どもはこの世界の空気を吸える。

(僕はただデクノボーみたいに突っ立ていて、

出てきた息子を「ほれ」と抱かされただけだったけど)

 

文明社会の外だったらどうか?

森の中なり、砂漠なり、野生動物と同じように生まれ出たら?

これだって産院と同様、周囲に守ってくれる人たちが必要だ。

 

もしに誰もおらず、母親がそのまま死んでしまったら、

子どもは何日も生き延びられないだろう。

他の動物に食われるか、飢え死にするか、

暑くて死ぬか、寒さで死ぬかのどれかである。

 

死ぬときはどうか?

孤独死が社会問題になっているが、

ひとりで死んだとしても実際はそれで終わらない。

 

遺体を処理しなくてはならない。

自分の魂は抜けて、この世界のしきたりから解放されても、

遺体をそのまま放置して

腐らせるままにしておくことは許されない。

しかし、自分で自分の遺体の始末をすることは不可能なのだ。

 

「自分の葬式は必要ない」と言ってても、

必ず面倒を見る人がいる。

火葬してお骨を集めて手を合わせるぐらいのことは

“されなくては”ならない。

 

普通は肉親――遺族がそれをするが、

誰もいなければ行政の人とか、何らかの形で代理人になった人が

その仕事を引き受ける必要がある。

 

雪山や樹海に入ってそのまま消える。

おれの遺体は山犬に食わせてやる。

あるいは海に流してホオジロザメの餌になってもいい――

 

そういう夢見るユメオさんや夢子さんや

豪傑さんたちにも逢ったが、

こういう人こそ社会の大迷惑。

大変な騒ぎになって捜索隊とか出さなくてはならなくなり、

無数の人に面倒をかけることになる。

 

だから本当の意味での孤独死というものは存在しない。

生まれるときも死ぬときも人間はひとりではない。

少なくとも、こうしてパソコンやスマホで

インターネットを見られるような文明社会で

人生を送っている限りは。

 

 

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50年前の高校生たちのイキイキ「未知との遭遇」

 

UFO(未確認飛行物体=空飛ぶ円盤)は、

1960年代から頻繁に地球を訪れるようになった。

彼らは地球人に夢と希望を与えるために飛来するようになった。

あるいは「もっと賢くなれ」と警告するために?

 

きょうはテレビのミステリー番組で、

50年前、オーストラリアで起こったUFO目撃騒ぎを取り上げていた。

当時はかなり大きな話題になったようだが、すぐに忘れ去られた。

なんと言ってもUFOなんて“不要不急”の最たるものである。

 

UFO出現地点のすぐそばの高校にいた

高校生たちには緘口まで出たらしい。

「UFOを見たあんて言ってはダメ」というわけだ。

 

当時は(たぶん今でも?)教育上よろしくないとか、

反社会的だという道徳的理由があったのか、

それとも、未知の宇宙ウイルスとかがばらまかれるとか、

最悪の場合、誘拐されるかも・・・という噂が広がったのかもしれない。

 

その時のUFOを見たという高校生たちが

番組の求めに応じて集まっていた。

50年前の高校生だから、すでに全員、60代後半だ。

 

同窓会ムードも相まって、

みんな、なんだか楽しそうで、ちょっと興奮気味に

自分のUFO目撃談を話していた。

 

学校から飛び出してひとりでUFが着陸しているところまで

見に行ったという女性は、まるで17~8歳に若返ったかのように、

番組スタッフに熱意ある説明をしていた。

 

みんな50年の間に人生いろいろあったのだろうと思うが、

そのtのしそうな様子を見ていると、

「わたしはUFOを見た」という体験は、

苦しいときも哀しいときも

気づかないうちに彼ら・彼女らの心の支えになったかもしれない。

 

もしかしたらUFOとの遭遇は、就職や結婚や出産などよりも

大きな人生のイベントだったのかも知れない。

 

まじめなことや、まともなことばたかりだと人間、息切れする。

こうした傍から見たらバカげたことのほうが

人生を生き抜くエネルギーになるのではないかと思う。

 

 

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日本の子ども・高齢者の幸福度と「迷惑施設」と呼んでしまう大人のエゴ

 

国連児童基金(ユニセフ)が3日、

先進・新興国38カ国に住む子どもの幸福度を調査した

報告書を公表した。

 

これを読むと、

どうも日本の子どもはあんまり幸福ではないらしい。

「身体的健康」では1位なのに、

「精神的な幸福度」は37位と最低レベル。

めちゃくちゃアンバランスだが、

平均取ってトータルでは20位なので、いちおう中程度?

これをいったいどう読み解けばいいのか?

 

そもそもこういうランキングにどんな意味があるのか?

それぞれの国にはそれぞれの条件・生活・文化があるのだから、

国際比較することに無理があるのではないか?

—-という批判はもっともかなと思う。

 

けどやっぱり目をつむっていてはいけない。

「精神的な幸福度」は生活満足度と自殺率で

指標化されているというが、

やっぱり学校におけるいじめ問題、

また家庭における虐待問題が

大きく影響していると思う。

僕たちはもうそういう報道にも慣れて麻痺してしまって、

大した問題だとも思わなくなっているのではないか。

 

明治時代にやってきた欧米の知識人が

びっくりするほど子どもをかわいがり、

老人を敬う国だった—-という妖精の国・日本。

だが、100年後の現代日本はどうもそうなっていない。

 

子どもの保育施設、保護施設、

また、高齢者の養護施設などは

「迷惑施設」とみられることが多い。

 

東京では保育園の建設に住民の反対運動が起こったり、

虐待された児童の保護施設の建設に

「地域イメージが悪くなる」「地価が下がる」といった理由で

これまた反対運動が起こった。

 

高齢者の養護施設も、障がい者施設も同様。

先だっての7月の九州の豪雨では、

水害リスクの高い地域に建てられた高齢者施設が

浸水被害に遭い、死亡者まで出た。

 

家族が訪問しやすいように山の上や高台などではなく、

利便性の高い川沿いに作った--という前向きな理由もある。

 

けれどもこれも「迷惑施設」ということで、

あまり人の目に触れないところに作らざるを得なかった、

という経緯があるようだ。

 

土地の値段など、現実的な問題もあるので

一概にけしからんとは言わないが、

気になるのは、こうした子ども施設や高齢者施設を

「迷惑施設」と言ってしまう大人のメンタリティ。

 

自分がかつて一人では生きられない

子どもだったという記憶も失い、

生き続ける限り、いずれ老人になっていくという

想像力も働かない大人はヶく大勢、この国にはいる。

生産社会に関わらない人たちの居場所を「迷惑だ」と

行政に訴えるセンスのなさは絶望的だ。

 

政治がどうとか、制度がどうとかいう前に、

こういうひとりひとりのエゴイズムがどうにかならない限り、

子どもの幸福度が上がるはずもなく、

いずれこの国は不幸な人であふれかえることになるだろう。

 

特にコロナのせいでストレスが溜まっている昨今は

とてもとても心配になってくる。

 

 

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世界一幸福な国ブータンの輪廻転生

 

インド・中国という2つの大国に囲まれた南アジアの小国、

ヒマラヤ山中にあるブータンは

「世界一幸せな国」として世界中に知られている。

九州と同じくらいの面積の国土、高知県と同じくらいの人口。

小さくとも日本と同様、明確な四季のある美しい国らしい。

 

この国を有名にしたのは何と言っても

「世界一幸せな国」というキャッチフレーズだろう。

これは「国民総幸福量」というGDP(国民総生産)とは

まったく異なる新しい国づくりの指針から生まれた言葉でもある。

 

ブータンは1960年代まで鎖国政策をとっていたが、

1971年に国連に加盟。

その際に第4代国王が『我々の国の方針は、

国や国民の為に経済的独立、繁栄、幸福を実現し

国をまとめることと語り、GWH(国民幸福量)を取り入れた。

 

このGWHは2年ごとに、

4つの柱(持続可能な社会経済開発/環境保護/伝統文化の振興/優れた統治力)、

9つの指標(心理的幸福/時間の使い方とバランス/文化の多様性/地域の活力/環境の多様性/良い統治/健康/教育/生活水準)にしたがって約1万人を対象にした聴き取り調査が行われる。

 

その詳細はさておき、「医療や教育が無償で平等に提供されている」という福祉の手厚さと、国教であるチベット仏教に対する厚い信仰心がブータン人の幸福感の理由の基本となっているようだ。

 

チベット仏教は人々の死生観にも大きな影響を与えている。

ブータンでは輪廻転生が信じられており、

死んでもまた別の何かに生まれ変わると考えられている。

つまり現世における生や死は、

輪廻転生という悠久の時間の中で起きる小さな一コマ、

ごく自然な一つの現象と捉えられているのだ。

 

ちなみにこれだけ世界中がコロナに振り回されている時に、

コロナによる死者は今のところゼロ。

 

そんな奇跡の国ブータンの幸福も、

じわじわとインターネットによるさまざまな情報の流入で

徐々に侵されつつある・・・

 

というところまで書いてから歩きに出ると、

道にコロコロこの夏の命を終えたセミたちの死骸が転がっている。

足元のセミを見て、

なぜか自分は今度生まれ変わったらセミになリそうな気がした。

 

長年土の中で幼少時代を過ごして

やっと表で出た~と思ったら、

せいぜい数週間生きて終わて、アリの餌になる。

 

なんだか哀れにも思えるけど、

それは人間視点だから。

セミはセミでそれは幸福なセミ生なのかもしれない。

 

 

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こなきじじい と ねこなきじじい

 

●こなきじじいの出世

こなきじじじいはかなり知名度の高い妖怪である。

カッパ、天狗、のっぺらぼう、ざしきわらしなどには及ばずとも、

知名度ランキングではベスト10に入るかどうかというところまで行くのではないだろうか?

 

こなきじじじいの名を世に知らしめたのは、

なんといっても妖怪マンガの巨匠・水木しげる先生の

「ゲゲゲの鬼太郎」のおかげである。

 

こなきじじいという妖怪がいることなんて、

ぼくたちの親の世代以上の日本人はほとんど知らなかった。

鬼太郎の友だち、ファミリーの一員となったことで

こなきじじいは日本でも指折りの妖怪に昇格・出世したのだ。

 

●柳田國男が発見した「こなきじじい伝説」

なぜ、それまでほとんど知られていなかったというと、

あまりにローカルな妖怪だったからである。

 

こなきじじいは阿波の国(徳島県)の山奥の出身だ。

この妖怪を“発見”したのは、民俗学者の柳田國男である。

 

阿波の山分の村々で、山奥にいるといふ妖怪。

形は爺だといふが赤児の啼声をする。

或は赤児の形に化けて山中で啼いてゐるともいふのは

こしらへ話らしい。

人が哀れに思って抱き上げると俄かに重く放そうとしてもしがみついて離れず、しまひにはその人の命を取るなどゝ、ウ

ブメやウバリオンと近い話になって居る。

木屋平の村でゴキヤ啼きが来るといつて子供を嚇すのも、

この児啼爺のことをいふらしい。(後略)

柳田國男『妖怪談義』1956

 

この記述から、水木しげるがあの金太郎の腹掛けをした

こなきじじいの姿を描き出した。

 

僕たちはこうした妖怪の話は大昔から地域の伝説として伝わっていると思い込んでいるが、じつはそうでもなくて、

このこなきじじいの話などは割と最近のことらしい。

 

●こなきじじいの正体は実在の徘徊じいさん

以下は妖怪小説の大家・京極夏彦氏の「妖怪の理 妖怪の檻」

(角川書店/平成19年)の記載事項(を僕なりにアレンジ)。

 

上記の柳田國男の記事を読んで、

本当にこんな妖怪がいるのだろうか?

と疑問を抱いた地元・徳島の郷土研究家が

詳細な現地調査を行ったそうだ。

 

柳田國男もまたある文献をもとに記事を書いたので、

そのネタ元をもとにあちこち調べまくったというから、

すごい情熱・執念である。

 

その結果、本当にこなきじじいがいた、

❝実在していた❞〝ということが判明した。

大昔の伝説でもファンタジーでもなく、リアルな事実。

 

その正体は、赤ん坊の泣き真似が得意で、

泣き真似をしながら山の中を徘徊していた、

実在の爺さんだったのだ。

 

ある家で子どもが悪さをしたり、言うことを聞かなかったりすると

「山からじじいが来るよ」と、嚇しのネタに使っていたという。

それが妖怪こなきじじいの出生の秘密だったのだ。

まさしく驚愕の事実。

 

●年寄りなんてそんなもの

柳田國男が収集したそのネタ元が、

いったいいつの時代のものかわからないが、

話の成り行きから察するにそう大昔のものとは思えない。

昭和初期くらいの話なのではないかと思える。

こなきじじいの歴史は100年に満たないのでないか。

 

それにしても赤ちゃんお鳴きまねをして

山中を徘徊している爺さんって・・・

いまの時代ならとても放っておいてもらえないだろう。

 

変質者として通報され、警察に保護されるか、

認知症患者として病院に連れていかれるに違いない。

 

昔はよく言えばおおらか、悪く言えばいい加減だったので、

こうしたこなきじじいも自由にしていられた。

 

そもそも年寄りはそんなもの、

齢を取れば大半の人間は、生産的な現実世界とは異なる、

妖怪的な世界の住人になっていく。

そんな暗黙の了解というか、

こころやさしい認識があったのかも知れない。

 

●ねこなきじじいは令和の妖怪?

そう考えて、ふと自分のことに思い至った。

そういえば昨日も義母と散歩の途中でネコに逢い、

にゃーにゃ―ネコの鳴きまねをしていた。

 

これは僕の得意技で、

いつもこれでネコを手なづけようとしている。

(が、ほとんど効果がない)

これはもう「ねこなきじじい」ではないか。

 

将来、認知症になって、ねこなきじじいとして妖怪伝説となる———

そういう未来が待っているのかも知れないニャー。

そうしたら、ネコ娘はなかよくしてくれるだろうか?

 

 

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西城秀樹さん ラストステージの記憶

 

ユーライア・ヒープの「July Morning」、
キング・クリムゾンの「Epitaph」。
この2回、自分の好きなロックのことについて

書こうと思ったのに、なぜか西城秀樹さんの話になっていた。

 

たまたまネット上で音源を見つけたからだが、
彼がこれらの歌を歌っていたのをまったく知らなかったので、
本当に驚いてしまった。

 

そして、それが人気歌手が流行りに乗って
片手間で歌ってみました、という類のものではなく、
本気で取り組んでいたを感じて心動かされた。

 

本人はもちろんだが、
これはスタッフやバックミュージシャンも含めて、である。
西城秀樹という天才を中心に、

日本の大衆音楽を大きく育てていこう、
レベルを高くしていこうという熱いうねりが
当時はあったのだと感じる。

 

★情熱の嵐

僕は小学生から中学生の初め頃まで、
昭和の歌謡曲の世界にハマっていた。


ちなみに熱狂的な秀樹ファンである、
ちびまる子ちゃんのお姉ちゃんと同じくらいの世代である。

 

西城さんについては「情熱の嵐」「激しい恋」

「薔薇の鎖」などの振り付けが好きで、

よくマネして遊んでいた。

 

「情熱の嵐」では上着を脱いで

頭の上で振り回すアクションがあったが、
あれをマネして学校の休憩時間中、
振り回していた体操着が花瓶に当たって壊れ、
先生に怒られた記憶がある。

 

ただし、それっきり。
その後、特にファンだったわけでもないし、
レコードなどもを買わず、ライブに行ったこともない。

 

★2018年5月 青山葬儀所

けれども今回発見した「July Morning」や「Epitaph」の音源が
大阪球場や後楽園球場のライブだったことを知り、
2年前の5月、

青山葬儀所での西城さんのお葬式に行ったことを思い出した。

 

これもその時まで知らなかったが、
西城さんは1974年夏、日本人としては初めて
球場でライブをやったミュージシャンだったという。
それを記念して祭壇は大阪球場を模したものだった。
そこには「一生青春」の文字も刻まれていた。

 

日本の音楽シーンが活性化した

1970代後半から80年代、90年代にかけて
球場でライブをやることは、

そのミュージシャンがビッグになった証であり、
一つのステータスでもあったが、

その流れを作ったのも西城さんだった。

 

西城さんはさらに大きなミュージシャンとして

成長しようとしていた矢先、
病に倒れ、人生の後半は病気との闘い、リハビリの日々になった。

 

そして2018年4月の終わり、運命の日は来てしまった。

自宅で倒れ、意識不明のまま、翌5月半ばに帰らぬ人となった。

 

西城さんがアイドル、スターとして活躍した時間は、
トータルで見るとけっして長くない。
けれども凡人の何倍も濃密な時間を生きたのだと思う。
まさに太く短い人生だった。

 

葬儀が行われたのは亡くたって9日後。
僕はレギュラーワークの一つとして
葬儀・供養関連の専門誌のライターをやっているので、
その現場を取材する幸運に恵まれた。

 

 

★華やかであたたかいお葬式
式場には入らなかったが、
テレビ中継のスタッフや芸能記者たちに混ざって、
青山葬儀所内の別室にあるモニター画面で
告別式の一部始終を目にし、
野口五郎さんや郷ひろみさんらの弔辞を聴いていた。

 

告別式が終わり、真っ青なベールがかけられた棺が
真っ青な空のもとに運び出される。


黒いリムジンに乗せられた後、
MCの徳光和夫さんが集まった人たちに
「ヒデキ、ありがとうと言って送ってください」と呼びかける。

 

ファンかスタッフかわからないが最初に一人の男性が声を上げた。
「ヒデキ、ありがとう」
すると堰を切ったようにみんなが「ありがとう」と
ヒデキコールを繰り返し、火葬場へ向かうリムジンを見送った。

 

テレビやネットで観た人も多かったと思うが、
あれは本当に一世を風靡したスターらしい華やかで、
そしてあたたかいお葬式だった。

 

最後を締めた徳光さんの人柄や、
野口さん・郷さんの、あの時代の叙事詩を語るかのような
弔辞も影響しているが、
何よりもファンの、ここに来なくてはいられなかったという
思いの渦みたいなものが青山葬儀所を包み込んでいた。
(確か地方から旦那さんと泊りがけで来たという人もいた)

 

いま思えば、亡くなって10日足らずで
あれだけの規模・内容の式が出来たこと自体が奇跡のようだ。

 

企画・運営した人たちにも、
大スターの最後を飾る花道を作らなくては、
という使命感にも似た思いがあったのだろう。

 

今はがたとえ有名人が亡くなっても、
まず近親者だけで密葬をし、
あとからファンなどのためにお別れ会を開く――
といったパターンが多く、

それさえもないことも珍しくなくなった。

 

西城さんのご家族も、
気を遣わないで済む密葬(家族葬)で済ませ、
後日にお別れ会――という選択肢だって当然考えただろう。

 

しかし喪主である奥さんは、彼を支え応援してくれたファンと
悲しみを分かち合うのが義務と思ったのかも知れない。

 

また、病気を負った姿しか見ていない息子さんたちに、
父がいかに偉大なスターであり、ミュージシャンであったかを
胸に焼き付けてほしいという思いもあったのかも知れない。

 

★死してなお輝き続ける
青山葬儀所から出ていく西城さんの棺をその場で見送り、
ありがとう、さようならとコールを送った1万人の人たち。
その胸にも深い満足感と、
それまでの活躍の記憶がより深く刻み込まれただろう。


やはりテレビやネットで得られる、
効率の良い「情報」だけでは補えないものが
リアルな場にはあるのだ。

 

もしかしたら、いかなる昭和のスターでも、この先、
あんな華やかで、あたたかいお葬式はできないのでは・・・
とさえ思う。

 

ロックの話とすっかり離れてしまったが、
西城秀樹の歌は素晴らしい。
「July Morning」も「Epitaph」も、

その他、いろいろなジャンルの音楽を
自分のものして歌える才能は稀有なものではないか。

 

あの時代の音楽と、
それを糧にして育った日本人を語るに欠かせない存在して、
死してなお、西城秀樹は輝き続けるのかも知れない。

 

 

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2020DXでZoomは空前絶後の大ブレイク  そして東尋坊は夢の彼方

 

3月を最後にリアル取材をやっていない。
4月から取材はぜんぶ自宅でZoomを使ってやっています。
昨日も福井のお寺の住職さんと1時間半くらい話してました。

 

僕がはじめてZoomを使ったのは昨年の11月。
最初はSkypeで、という話だったので、用意していたら
いきなりZoomで、とURLが送られてきて、Zoomってなに?
こんだけでつながるの? ちゃんと話できるの? 
と思ったものですが、
やってみて簡単なのにびっくり。

 

ちなみにこのZoom、
僕が初体験した頃の昨年12月末時点で
1日あたりの会議参加者は約1千万人、

それが今年3月には2億人を突破、
そして4月が終わらないうちに3億人を超えるという
驚異的ペースで急増しているそうな。

コロナさまさまと言っちゃ語弊があるけど、

とにかくすごい勢いです。

 

東尋坊(断崖絶壁:自殺の名所)の入口あたりに
人生相談の出張所を出さなきゃ・・・
なんて笑い話をしていた坊さんに、
「ぜひ福井に来てくださいよ」と誘われました。

 

しかし、もはや「あご・あし・まくら」を頂いて、
大迫力の東尋坊見物をして越前ガニを賞味するなんて、
昔は当たり前だった2~3日の出張取材は、
贅沢中の贅沢、夢のまた夢に思えてきました。


ま、仕事があるだけよしとしてますが。

 

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遺体感染管理士に学ぶ、メガネ、手洗い、笑いという予防策

 

ステイホーム週間初日、月刊仏事のリアル取材。
電車を使わずガラガラの新宿を
自転車でスイスイ走っての出動です。

 

霊柩車・寝台車を提供する会社において、
日本で唯一、「遺体感染管理士」の資格を発行している
エル・プランナーの橋本佐栄子先生が緊急講座をしました。

 

残念ながら新型コロナウィルスによる死者は増加中です。
加えて肺炎で亡くなる方は昨年の3倍ともいわれており、
その中にもコロナと疑わしき死亡者は
多いのではないかと推察されます。
亡くなってしまったらもう検査はしないので、わからないまま。


だから「死者数はまだ少ない」なんて
侮らないほうがいいと思います。

 

遺体をどう扱うかは厚生労働省から
一定のガイドラインが出されており、
医療者は遵守していますが、
医学的知識があまりない葬儀業者は、
それだけでは具体的にどう対処すればいいか、よくわかりません。

 

そこで遺体搬送の仕事をする人たちに対して、
最重要ポイントである手袋の使い方を橋本先生が伝授。

 

遺体は生体と違って、飛沫感染の心配はなく、
気を遣わなくてはならないのは「接触感染」です。

そのためには棺に触る手をいかに清潔に保つか。


ウィルスが手に付着しないよう
手袋をするのはもちろんですが、
その着脱のタイミング・テクニックを
よく覚えなくてはなりません。

 

講座では参加者が具体的に手袋の着脱の練習を行いました。
たかがはめたり取ったりのことですが、
これがやってみると意外と難しい。

受講生はマネージャークラスの人たち。
現場で働く人たちの命に関わることなので皆さん真剣です。

 

今日の講義を取材して
今さらながら気づいたことがあります。
僕たちはマスクをして、手をアルコール消毒していれば、
なんとなく感染予防できていると思っていますが、
それは間違い。

 

★メガネをかけて目を守る

 

一般のマスクは感染予防というより、
もし自分が病原体を持っていたら、
うつさないようにするためのもの。
ウィルスは医療用でない限り、
マスクを透過してしまうので、
やはり人との距離を保つことが重要です。

 

加えて僕も含め、みんな口と鼻をガードする意識はあるけど、
目のことはほとんど気にしていない。

目からもウィルスは侵入します。
てか、口や鼻よりも侵入しやすい開かれた入口。

ふだんメガネを使わない人も
伊達メガネをすれば、
少なくとも正面から飛んでくる飛沫はガードできます。

 

★噴霧のアルコール消毒でなく手洗い

 

アルコール消毒液をシュッシュとしておけば、

それでOKだろうと安心してしまうもの間違い。
アルコール消毒液は液に手を浸さないと、
本当の消毒とは言えません。
噴霧は、すぐにその場で手が洗えないときの、
いわば応急処置。
これだけでウィルスが殲滅できると思うのは幻想です。

シュッシュの後はできるだけは早く石鹸と流水で手洗いを。


とにかく手を清潔に保ち、
ソーシャルディスタンスを取ることこそ
感染予防のすべてと言っていいようです。

そして体力を落とさず免疫力を落とさないこと。
そしてイラつかないで笑って楽しく面白く過ごすこと。


せっかくならステイホームを自分のために、家族のために、

実のある時間にしましょう。

 

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何を優先するのか? 何が本当に大切なのか?

 

月刊仏事で「世界のEnding Watch」という連載を担当している。
毎月、世界各地・各国の近年の葬祭の実情や、
葬祭文化・習俗について紹介するのだが、
来月号はさすがにコロナウィルス関連の話をやらざる得ない。

 

葬儀関係のニュースは医療問題のあとにやってくるので、

この2週間ほどでどんどん増えてきた。


イタリア、スペインやニューヨークの惨状を伝えるニュースなどを読んでいると、気分が落ち込んでくる。
他国のこととはいえ、

こんなことが起こるなんて夢にも思わなかった。

 

そんな中、今、世界的に注目を集めている

アーダーン首相のニュージーランドの対策に関する

BBCの記事が昨日上がっていた。

 

同国では現在、最も厳格な「警戒レベル4」(「不可欠な移動」以外は自宅待機など)だが、これを「レベル3」に引き下げるという。

「レベル3」では、学校は「受け入れ人数を制限」して再開される。事業も再開できるが「顧客との物理的な接触」は認められない。
また、10人までの集会は、結婚式や葬儀、
タンギハンガ(マオリ族の葬儀)に限り許可される。

 

あまり葬儀には関係ない記事だったが、上記の部分が検索に引っ掛かったらしい。
「結婚式や葬儀、タンギハンガ(マオリ族の葬儀)に限り

許可される」
というのは同国の社会における文化、歴史、価値観が反映されていて興味深い。

 

それにしても「成功例」とされているニュージーランドさえ、
まだこのレベルの厳しい措置。

ゴールデンウィーク明けの日本の緊急事態宣言解除は夢のまた夢という感じがする。

 

後半にある「経済より健康を優先」という項目は

心を奪われるものがあった。

 

新型ウイルスの最新研究について、政府に助言し定例会見にも参加してきたオークランド大学の准教授、スージー・ワイルズ博士は、アーダーン氏や政府が明確に市民の健康を最優先してきたことが、COVID-19対応の鍵だったと言う。
経済への影響を恐れて行動制限を遅らせたほかの国は現在、はるかに困難な時期に突入している。
ワイルズ氏は、「住民が死んでしまったとか、どんどん死んでしまうのは言うまでもなく、経済にとって打撃のはずだ」と述べた。

 

何を優先するのか?
何が本当に大切なものなのか?

政府や国民の普段の考え方・価値観が、

こうした災禍に見舞われた際に炙り出されてしまう。

 

日本はオリンピックのホスト国だったこと。
その経済効果をもくろんでいたことが仇になってしまった。
それが初期の段階で、
政府や国民の判断を狂わせてしまったのかも知れない。

 

てなことを今さら言っても遅いけど、
日本人の生活習慣、衛生観念は、欧米諸国に比べて
感染症に強いのではないかと希望的観測を持っている。

 

せめてこの2週間ないし1か月ほどは、
昔の日本人のような質素な暮らしを

重んじる心構えで過ごせないか。

 


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まむしの銀次、横須賀に死す

 

むかし一緒に芝居をやった友だちが亡くなった。
横須賀までお葬式に行ってきた。

 

京急・横浜中央駅では、
電車が到着するたびに
山口百恵の「横須賀ストーリー」が鳴り響く。


そして駅前通りのベンチには
演奏に疲れたジャズミュージシャンが休んでいる。

 

僕が書いて彼が出たのは、
黄泉の国から生き返った子どもが
自分の母親を求めて旅をする。
その母親の血を吸えばこの世に生まれ変るのだが・・・
というダークファンタジー系の芝居だった。

 

「まむしの銀次」という芸名だった。
やくざっぽい名前でがんばっていたが、
ずいぶんとやさしい男だった。

 

彼の役はストリッパーのヒモだった、ような記憶がある。
ずいぶん昔のことで、その台本も頭の中にしか残ってないので、
細かいところは忘れてしまった。

 

現実の世界でそのストリッパー(役)の彼女と結婚した。
おもろい夫婦だったのに、
なんでだか不幸なことがあった。

 

棺の中に愛用の藍色の作務衣と
麦わら帽子を入れたら、
元気だったころの姿がよみがえった。

最後は出棺を手伝い、霊柩車を見送った。

 

58歳。僕より若い。
みんな、ウサギのようにピョンピョン跳ねて
人生のゴールにたどり着いてしまう。
僕はカメのようにノロノロしている上に、
ときどき昼寝しているので、
まだまだゴールは遠そうだ。
またそのうち、ウサギの葬式に付き合うのかも知れない。


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なごり雪 なごみ庵 なごり花

 

最初のピアノのイントロ10秒を聴いたら、
もうそれだけで涙腺が緩む「なごり雪」。

 

3月になるとついこの懐メロを口ずさむけど、
桜も咲いたし、今年はまさか・・・と思ってたら、
なんと明日は雪予報。

今日は半袖で過ごせる暖かさだったのに、
まさかまさかの二乗です。

 

今週は月刊仏事の「寺力本願」の執筆。
今回は月曜日に取材した横浜の「なごみ庵」というお寺の巻です。

ここの住職は「死の体験旅行®」の講師として有名。


「死の体験旅行®」とは、
もともと欧米の終末医療の現場で考案されたワークショップで、
カードとペンと想像力を使って、

死を疑似体験するというプログラム。

 

ポイントは自分が大切だと思っているものを
一つ一つ捨てていくところ。
それによって最後に、

自分にとって本当に大切なものだけが残る。

それはあなたにとって何なのか?

家族? 仕事? お金? みんなの幸福?

それとも・・・

 

僕も一度体験してみないと、と思っていますが、
うちの義母と散歩すると、
彼女はもうその域を超越しているのかも、と思えます。

 

家族とか、大切だと思ってきた記憶をどんどん捨て去って、
自分にとって本当に大切なもの――
歌や花を楽しむ気持ちだけが残っている。

 

認知症だからなんだけど、
べつに認知症にならなくても、
人間の脳が行きつく先は、結局、
自分一人の宇宙なのかなぁ。

 

なんだか人生のたたみ方を教えてもらっている気がします。
明日、雪が降ったら今年の桜も終わりでしょうか?
あと何回、桜の花を見られるでしょうかね?

 


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ひとが人生の最期に後悔すること

 

「俺は子どもが3人もいたのに、
誰の入学式にも卒業式にも行かなかった。
お前が輝いて見えたよ」

 

昨日、子どもの卒業式のことを書いたら、
10年前に亡くなった同い年の友だちが、
そんなメールを送ってきたことを思い出しました。

 

ガンで入院、それもステージ4だったと聞いて、
ちょうど小学校を卒業して中学に上がる息子と
見舞いに行ったのです。

 

彼には息子がチビのころ、
何度も世話になったので、
おそらくもう会えないから顔を見せとけと言って、
いっしょに連れて行きました。

 

何を話したかよく覚えてないけど、
〇日前、小学校の卒業式だったんだ・・・
という話をしたと思います。

 

件のメールを送ってきたのは、その夜のことでした。
文面はちょっと冗談っぽく書いてありましたが、
本気で後悔していたのでしょう。

 

ひとが人生の最期に後悔することって、
ほとんどがこういうことなのかもしれません。

 

彼が特に悪い父親だったとは思わない。
しつけに厳しいところはあったけど、
子どもが好きないいやつでした。

3人の子どもの入学式にも卒業式にも出なかったのは、
もちろん仕事があったからです。

 

そして、もう一つは昭和世代的な
「男はこうあるもの・女はこうあるもの」という
役割意識を強く持っていたからだと思います。

 

要するに、男がそんな場に出るのは、
カッコ悪い、恥ずかしい、照れくさいといった
気持ちが働いたのでしょう。

 

でも逆だったらどうだっただろうか? と考えます。
子どもの入学式・卒業式に出るために
仕事をフイにしたとしたら?

 

もちろんその仕事の重要度・内容次第ですが、
その時は痛みを感じても、
あとからそんなに後悔はしなかったのではないか。

 

僕がそうでした。
息子の中学の卒業式と仕事が重なり、
やむを得ず仕事をやって、それで10万円稼ぎましたが、
後から何とか断る手段がなかったのかと後悔することしきり。
たかが10万円のために一生の不覚だった、と今でも思っています。

 

仕事をないがしろにして構わないと
言っているわけではありません。

 

ただ、たとえば明日までの命とわかっていたら、
どちらを選ぶだろうかということです。

 

仕事の失敗とか、お金の損失などは、
たとえその時に後悔しても、時間がたてば
そう大きな問題ではなかったと気づきます。

 

だけど、大事な人といっしょに過ごせなかったとか、
自分がずっとやりたいと思っていたことが

できずじまいだったとか、
絶対取り返せない後悔というものがあるのではないか。

 

10年たって僕が今、後悔しているのは、
彼のメールになんと返答してよいかわからず、
結局そのまま返信しなかったことです。

 

返信など、はなから期待していなかったと思いますが、
やっぱり何か書くべきだったなと悔やんでなりません。

 

ひとが人生の最期に後悔することって、
ほとんどがこういうことなのです。

 

まったくゼロというわけにはいかないだろうけど、
この先、できればあんまり増やさないように生きていきたい。

 

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入棺体験であなたもよみがえる?

 

レインボーカラーの棺桶に潜って、
人生初の入棺体験。

 

今日は「月刊仏事」の取材で、
江東区・住吉にある「ブルーオーシャンカフェ」へ。

こちらは本業である海洋散骨事業と合わせて、
終活相談に乗る終活コミュニティカフェとして
人気になっています。

 

そのイベントの一つが入棺体験。
中に入ってフタを締める。
真っ暗だけど、ちょっとだけ光が感じられる世界。
周囲の声が、なんだか別の宇宙から聞こえてくるようです。

子どもの頃、押入れの中に入って遊んでいたことがありますが、
ちょうどあんな感じ。


洞窟の中とか、穴倉の秘密基地とか。
ぜんぜん怖くもないし、気持ち悪くもない。

むしろずっと入っていたいくらいの心地よさ。
ちょっとクセになりそうです。

 

ちなみに生きてるときに入棺すると
寿命が延びるとか。
再生するということでしょうか。
あなたも一度お棺に入ってRebornしてみては?

 


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誕生の恐怖・思春期の恐怖・最期の恐怖

 

化け物は最初から化け物だとそんなに怖くないけど、
普通の人間だと思ってた人が化け物になってしまうと、
めちゃめちゃ怖い。

そんな恐怖を僕たちはすべからく体験しています。

 

とある子どもの本に、思春期の子どもたちにとって
体が変化することがどれだけ恐怖することか
書かれていました。

 

自分はどうなってしまうんだろう?
自分はどこへ行ってしまうんだろう?

 

僕にとってはもう遠い昔のことなので、
そんな感覚はほとんど残っていなかったのですが、
その文章によって忘れていたものが少しよみがえってきました。

 

最近はほとんどの学校できちんと性教育が行われていて、
子どもたちにも知識・情報があるわけですが、
やはり実際に自分の身に起こると、
理屈通りにはいかない。


自分もそうだけど、
周りの連中が変わっていくのも怖かった。

 

小さいころ仲が良くて、いつも子犬みたいに
じゃれあっていた幼馴染の女の子とも
まるで知らない者同士のようになってしまった。

男はまだそういう意識が希薄だけど、
女の子は劇的に変わるからなぁ。

 

ところで思春期の変化は人生の中で唯一、
記憶できる変化です。
実はそれ以前に母親の胎内から外界に出た、
つまり誕生というのも、人間の体の最初の変化。

なにぶん1回目だし、
たぶんとんでもない恐怖なんだと思います。


ほとんどの人はそんなの憶えちゃいないけど、
(しっかり憶えてたら生きちゃいられない)
潜在意識のどこかにそれは刻み込まれているんでしょう。

 

その2回の変化の恐怖を乗り越えて、
ここまでこの世で生きてきた僕たちにとって、
残された最終最大の恐怖が「死の恐怖」です。

 

でも何といっても3回目。
大人の心構えを持って準備していれば、
誕生の恐怖と思春期の恐怖に比べたら
そう大したことではないのかもしれない。

 

南に死にそうな人あれば
行ってこわがらなくてもいいといい・・・
そういうものにわたしはなりたい。
(宮沢賢治「雨ニモ負ケズ」より)

 


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生涯現役 還暦新聞少年

 

新聞少年が活躍していたのはいつ頃までだったのだろう?

 

そんな疑問に駆られたのは、今日、近所の100円ショップの
セルフサッカーコーナーで、こんな注意書きを見たからです。

 

「新聞紙は陶器を買ったお客様が使うものです。
それ以外の方がお持ち帰りするのはご遠慮ください」

 

つまり、買ったお茶碗などを包む緩衝材代わりに
置いてあるに、タダだからと何枚も持って行っちゃう人が
大勢いるらしいのです。

 

気持ちはわかります。
新聞紙ってあるとけっこう便利。
割れた陶器やガラスなどを包むのにも使えるし、
食器の油汚れなども拭き取れる。
子どもの学校でも図画工作などの時間で
かなり用途があります。

 

しかし。


こんな100円ショップの古新聞を持ち帰っちゃうってことは、
今、家の中に日常的に新聞がある家庭、
すなわち、新聞を購読している家庭が
めっちゃ少なくなっていることの表れなのではないか。

 

そもそも新聞の目的は

ガラクタの包み紙でも、汚れ落としでも、

子どもの図画工作用でもない。
情報を得る、ニュースを読む、
社会で何が起きているのかを知るためのものでした。

 

テレビやラジオと共存していた時代は、
速報性では劣るが、より深くその情報を吟味・考察するためには
新聞は不可欠なツールであると、
僕たちは教えられてきました。

 

その常識がインターネットの普及によって崩されてしまった。

かくいう僕も、前の家に引っ越したタイミングで
購読をやめてしまったので、

もう14年前に新聞を読む習慣を失ったことになります。

 

新聞を毎日読んでいるということは、
一種の知的ステータスの部分もありましたが、
もはやそれもなくなった今
(というか、もう20年近く前からなくなりつつあった)
月に4000円だか5000円だかの購読料を払って読もうという人は
激減してしまったのです。

 

ということは新聞配達員も消えゆく職業。
調べてはいませんが、かつては街の中いたるところにあった
配達所はどんどんなくなっているのではないでしょうか?

 

昭和の時代、て新聞配達は少年や若者の仕事。
その職場である配達所は、そんな少年・若者のために、
まかないが出たり、住み込みで働かせてくれるところが
たくさんありました。

たぶん、団塊の世代の人などは
小中学生の頃にアルバイトでやっていたという人も

多いのではないかと思います。

 

僕が小学生の頃(昭和40年代)は、

そうした新聞少年が活躍していていた末期の時代かもしれません。

 

確かクラスで2~3人はやっていたし、
僕も夏休みなどにその友達を手伝って、
販売所で牛乳やジュースやお菓子をもらった記憶があります。

 

また、あまり経歴を問われないので、
わけありの経歴を持つ社会のはぐれ者たちが
集まってくる職場として、

小説や映画の舞台の一つにもよく使われました。

 

いまや絶滅の危機にさらされる販売所で仕事をするのは、
最近、年寄りばかりという話です。

還暦をとっくに過ぎた、かつての新聞少年たちが、

サケのように生まれ故郷に回帰しているんでしょうか。

 

どう考えても労働条件はあんまりよくないし、賃金も安いはず。
それでも元新聞少年たちにとっては、
若かりし頃が思い出せて、ありがたい職場なのかも。

 

こうやって現在の通販→宅配と同様、
わざわざ店まで買いに行くのでなく、
家まで配達してくれる底辺の労働者がいたから、
日本の新聞ビジネス、新聞文化は栄えてきたのでしょうね。


それにしても“生涯現役”というとカッコいいけど、
要は“死ぬまで働かなアカン”という時代がもう来ています。


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大人になるための終活、 未来と一体化するためのエンディング

 

「月刊仏事」の仕事がレギュラーワークになってから
早や4年経ちました。
エンディング業界の他のメディアからもお声が掛かり、
3月からそちらも始めることになりました。

 

いつも目の前のことをこなすのが
精一杯で、じつはこの業界のことを
よくわかっているわけではありません。

そこで改めてこの業界のいろんな記事や
会社のサイトに目を通しています。

 

そこで考えてしまうのが、

一般の人たちがこれだけ葬儀だの終活だの
エンディングだのといったことを抵抗なく
口にするようになったのは、なぜだろう?
ということ。

 

すごく前向きに解釈すれば、
自分の身が滅び、自分のj終っても人生が終わっても、
子どもたち――未来の世代がいるからOKだ、安心だ
と信じられるから。

未来との一体化ができるから。

 

つまり年齢が行くことによって
エゴから解放され、1ステージも2ステージも
人間として成長する人が増える。
未来との一体化した人たちでいっぱいになる。

高齢化社会とはそういう社会である―ー


業界の企業理念の項目に書かれている文章を読んでいると、
そうしたイメージを抱きます。

 

では現実はーー
もちろんそうなっていません。

企業理念などの文言は理想論だと言ってしまえば
それまでだけど、少しはそういう境地へ向かって
進んでいこう、成長していこうとするのが、
“いい齢をした大人”の姿ではないか。

 

せっかくの高齢化社会、
せっかうの人生100年時代、
死ぬための終活ではなくて、
大人になるための終活をする人が
増えればいいなと思います。

 


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大林宣彦監督の集大成「海辺の映画館―キネマの玉手箱―」

 

大林監督は「その日のまえに」(2008年)を作ったころから、
自分の映画人人生の終活を考えていたのかもしれない。

そうでなければ、ガンで「余命3か月」の告知を受けてから
これだけの大作はできないのではないか。


――というのはあくまで推測だが、
鑑賞してそんな感想を持った。

 

月刊仏事で数活映画特集をやっている関連で、
「海辺の映画館―キネマの玉手箱―」の
マスコミ試写会に行ってきた。
六本木にある、配給会社の試写室である。

 

すでに一度、昨年10月の東京国際映画祭で上映されているが、
4月上旬の公開に向けてマスコミ向けに数回試写会が行われる。
今回はその第1回だ。

 

渡された資料の中のコメントによると、
 幼いころ、“純真な軍国少年”だったという大林監督は、
「自由に生きよ、それが平和の証だ」と父に言われ、
形見代わりに8ミリ映写機を譲られ、
終戦から10年後の東京にやってきたという。
以来、60年以上にわたる映画作り――

 

と口で言ってしまうと簡単だが、
好きなこととはいえ、ビジネスでもある。
自分の中でさまざまな矛盾と
闘わなくてはならないこともあっただろう、

その思いは、この作品のはしばしから浮かび上がってくる。


この世の中と折り合いをつけながら、
自分のやりたいことをやり続ける、
この世界で自分をだまさずに生き続けるための矛盾。

 

3時間の長尺である。
ジャンル分けすると「戦争映画」「反戦映画」
ということになるのだろう。しかし、
一般的に思い浮かべるそれらとはだいぶ趣が異なる。

 

オープニングはほとんどSF映画。
宇宙船の中から観客に話し仕掛けるのは、
語り手のひとり、「爺ファンタ」こと、
かのYMOのドラマー・高橋幸宏氏である。

 

その宇宙から懐かしい日本の現風紀が残る広島・尾道の
海辺の映画館にシーンがぶっ飛ぶ。

そこでは映画への愛とともに、
幕末の動乱・明治維新から原爆投下で終わる太平洋戦争まで、
およそ1世紀にわたる日本の近代の歴史を軸にした、
すさまじいほどのイメージコラージュが展開する。

 

戦争とは何なのか?
僕たちが教わってきた歴史は何だったのか?
それらは歴代の権力者たちが作った、
映画のようなフィクションのようなものだったのか?
公になっている史実の裏には、本当は何があったのか?

 

嫌でもそんなことを考えざるを得ない。

 

おそらく批評としては、CGがマンガのようだとか、
合成がチャちいといった意見が出ると思うが、
むしろそれは全体のメッセージを伝え、
飲み下してもらうための
監督得意の「糖衣」のように思える。

 

実際、リアルな映像ではとても見られない残酷なシーンもある。
利己的な欲望を正義の美名に乗せて、
人を殺したり、人格を蹂躙する、
人間の卑劣さ・醜悪さが醸し出す“残酷”だ。

 

大林監督はメジャーデビュー作を製作した経験から
「ジャンルを選択すれば、如何なる純文学も
商業映画になり得ることを学んだ」
と言っているが、
この作品には、合成画面の稚拙さなどを補って余りある
真摯で深いメッセージがある。

 

これは大林監督の終活であり、集大成となる作品なのだと思う。
しかし、それでありながら、もっと前に進みたいんだという
溢れんばかりの意志を感じる。


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大林宣彦監督の終活映画

 

新年早々、「終活映画」の話です。

縁起が悪いから嫌だと言う人はスルーしてください。

 

昨年末で「月刊仏事」でページ埋める企画、なんかない?

と言われて「終活映画特集」をたりましょうと提案したら、

すんなりOKが出て進行中。

 

「人間の生と死を見つめる終活映画」と題して、

黒澤明監督の「生きる」をはじめ、

先日も紹介した、現在公開中の「私のちいさなお葬式」、

そして今年公開の新作まで、1ダースほどの終活映画を

紹介する予定です。

 

その中に大林宣彦監督の

「その日のまえに」(2008年公開)という、

重松清氏の短編小説を原作に作った作品を入れました。

 

これは死という重いテーマを扱いながら、

同監督独特の笑いとファンタジーの味付けがされていて

とても楽しく、ジンと来る映画です。

 

その大林監督、ガンに侵されている事が判明。

「まだやり残していることがある」と、

闘病しながら、まさしく命がけで

新作「海辺の映画館 キネマの玉手箱」を完成させました。

 

これは昨年10月の「東京国際映画祭」で上映され、

NHKの番組(たしか「クローズアップ現代」)でも

そのメイキングが紹介されたので、

知っている人も多いかもしれません。

 

この新作自体は終活映画のカテゴリーには

入らないと思うけど、

大林監督の映画製作に取り組む姿勢が

クリエイターの終活そのもの。

 

「その日のまえに」と合わせて、ぜひ紹介させてほしいと、

配給会社と制作会社に頼んだところ、

マスコミ用試写会のご案内を戴きました。

 

これは楽しみです。

何回かありますが、

さっそく今月下旬の第1回試写会に行ってきます。

 

なお、この「海辺の映画館 キネマの玉手箱」は

今年4月に公開予定。

 

「尾道三部作」以来、

ユーモアとファンタジーの入り混じった作風で

僕たちを楽しませてきてくれた大林監督の

集大成となる戦争映画です。

 


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死もそう悪いことではないと考えると、元気に生きられる

 

年末のお休みが始まって義妹夫婦が来たので、

昨日は義父の墓参りに行った。

 

亡くなって半年余りがあっという間に過ぎ去った。

まだ今年のことなのに随分昔に起こったことのように思える。

 

親しみ深い人たちがこの世を去っていくのを

何度も目の当たりにしていると、

死に対する恐怖がだんだん薄らいでいくような気がする。

 

地球の細胞の一つに還っていくのだとすれば、

死もそう悪いことではない。

オーガニックな現象だ。

そう考えると、少し気持ちが軽くなる。

 

余計な不安や心配に惑わされたり、

見栄や他人との比較に神経を遣っているのは

人生の無駄づかい。

 

自分のやりたいこと、やるべきことを

純粋にやって元気に生きましょう。

 


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モスラが繭を作り、ギャオスが巣を張った東京タワーは、地方出身者にとって 愛すべき&憎むべき東京のシンボルなのだろうか?

 

●東京タワーの誕生日

12月23日は今年から天応誕生日ではなくなったが、

依然として「東京タワーの日」であり続けている。

 

昨日、年に一度の東京タワー詣でに行った。

この足もとのお寺に、

10年前に亡くなった友達のお墓があるので、

毎年、12月の命日あたりに墓参りに来るのだ。

 

その友だちは50で死んだが、

東京タワーはもう還暦を過ぎた。

昭和33年(1958年)12月23日竣工。

61歳におなりだ。

 

後輩の東京スカイツリーに高さも人気も

追い越された感が強いが、

まだまだ引退というわけにはいかない。

 

●金の卵と東京タワー

前回の東京オリンピックの頃、

地方から集団就職で上京してきた「金の卵」たちにとって、

東京タワーは、いまだにかけがえのない

東京のシンボルであり続けているはずだ。

 

僕はさすがにその時代のことは知らないが、

バーチャルの世界で、東京タワーが多くの人にとって

いかに巨大な存在かを思い知らされた。

 

●神のモスラ、悪魔のギャオス

昭和の時代、映画の中でこの塔はモスラに繭を作られた。

平成の時代になると、今度はギャオスに巣を張られた。

 

いずれのシーンも、そのあまりの美しさが、

特撮映画ファン、怪獣映画ファンの間で、

令和になった今も語り草になっている。

 

他にも映画だかテレビの中で、

いろいろな怪獣の攻撃目標になっていた。

 

それら、人間社会にとっての破壊と

神とも悪魔ともつかない

モンスターにとっての誕生のシーンは、

この都市に限りない愛着と、果てしない憎悪という

二律背反の思いを抱く、

地方出身者たちの心の中を映し出しているように思う。

だから東京タワーは、

彼らが、僕らが生き続ける限り、

シンボルであり続けるのだ。

 

●東京タワーが抱かせてくれる幻想

少なくとも新参者で、まだ7歳のの東京スカイツリーに

そんな幻想を被せる人はあまりいないだろう。

積み上げられた時間の差、刻み込まれた歴史の差は

いかんとも埋めようがない。

 

僕も地方出身者なのでそう感じるのだろうか?

東京タワーに特に愛着があるわけではないけれど、

年に一度、ここを訪れるたびに、

そんな妄想に取りつかれてしまう。

 


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私のちいさなお葬式(解凍された鯉) 終活と成功と幸福を考える、現代のロシア民話

 

●マトリューシュカみたいな現代のロシア民話

「終活映画」という振れこみで公開された

「私のちいさなお葬式」。

銀座の映画館に観に行ったが、チラシやサイトを見て

想像していた作品とは少し印象が違った。

 

終活映画というより、

現代のロシア民話みたいな印象を受ける。

 

映画館の販売店でお土産に

マトリューシュカを売っていたが、

マトリューシュカみたいな感じの映画――

というと雰囲気が伝わるかな。

 

●ユーモラスだけどシュール

主人公のおばあちゃん先生エレーナは、

可愛くてユーモラスなんだけど、

どこかシュールな不気味さも持っている。

 

だいたい、まだ死んでもいないのに

検死医のところへ死亡診断書を書かせたり、

自分で役所に行って埋葬許可証を出させたり、

棺桶を買い込んで、自分で自分の葬式の準備をする。

めちゃくちゃシュールなキャラである。

 

いわゆる終活映画の半分くらいはコメディだ。

その理由は、やっぱり人間、

行き着く所までたどり着くと、

社会人として活動していた頃には陰に隠れていた、

どうしようもなく滑稽な部分が現れるからだと思う。

 

それに加えて、わけのわからない

シュールでアバンギャルドな部分も

むき出しになってくる。

 

年寄りは敬うべきだけど、

それと同時に僕はいつも笑っている。

うちの90歳の母も、84歳の義母も、

オーガニックなボケをかまして、

僕を面白がらせてくれる。

 

●鯉は秘密の隠し味

もう一つ、この映画の民話っぽさというか、

シュールなおとぎ話感を演出しているのが、

余命宣告を受けたエレーナが、

その帰り道で出会う「鯉」である。

 

この鯉は、これも彼女の教え子だった、

偏屈そうなおっさんが、

湖で釣り上げ、頭をボコボコに打ち付け、

気絶させたのをあげると言って、

ほとんど無理やり押し付けるのだ。

 

彼女はしかたなく受け取って家に帰り、

そのまま冷蔵庫の冷凍室に押し込める。

 

ロシア料理については、

ボルシチ以外よく知らなかっので調べてみたら、

「ウハー(Уха)」という魚のスープがあって、

これによく鯉が使われるという。

あんまりおいしそうではないが・・・。

 

最初はなんでこんな鯉のエピソードを引っ張るのだろう?

と思って見ていたが、

この鯉が、実はこの映画の大きなキーポイントなのだ。

 

後から気が付いたのだが、

「私のちいさなお葬式」というのは邦題で、

原題は「Thawed Carp」――「解凍された鯉」。

メタファー感、寓話感たっぷりのタイトルである。

 

●成功=幸福なのか?

エミーナとともにもうひとりの主人公とも言えるのが、

息子のオレクである。

僕もそうだが、まだ終活するには早い男は、

たぶん彼の立場から、彼の視線で、この映画を観ると思う。

これはこの息子が再生する物語で阿もある

 

彼は故郷を後にし、母親から離れ、

都会で暮らすビジネスマン。

それも成功して、お金持ちになっている風の男で、

自己啓発セミナーを主催し、

講師として、成功したい人々を導く―

そんな役割を担っている。

言ってみれば、お母さんと同じ「先生」なのだ。

 

ところがこの成功者であるはずの彼が、

あんまり、というか全然、幸福そうに見えない。

 

「居心地のいいところに安住していてはいけない。

目標をしっかり掲げて前を向いて進まなくてはいけません」

と彼はセミナーで集まった受講生らに説く。

僕もビジネス書・啓発本の類で聞き覚えのある言葉だ。

 

ところが、受講生の一人の女性から

「わたしの目標は幸福になることです」

と返されると、なぜかしどろもどろになってしまう。

講義の内容とは裏腹に、

彼自身がもう目標を見失ってしまっているかのようだ。

 

成功と幸福はちょっと違うものなのだろう、たぶん。

いや、まったく違うのだ、きっと。

 

日本でこういう成功セミナーをやったり、

本を書いたりしている人はどうなんだろうな?

と、ふと思いがよぎった。

 

これはこの息子が再生する物語でもある。

「解凍された鯉」とは、彼のことなのかもしれない。

 

●若くても観たら面白い

観に行ったのは、平日の昼間だったこともあり、

お客は年輩の、それも女性ばっかりだったが、

ちらほら若い人も見かけた。

 

「終活映画」という触れ込みだからしかたないと思うが、

自分には関係ないと思って無視するには、ちょっともったいない。

 

それほど、いろんな示唆と寓意に溢れた、

笑って深く考えられる、

大人のおとぎ話のような映画である。

若い人も観たらいいのではないかと思う。

 


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笑って泣ける終活映画「私のちいさなお葬式」公開

 

今や世界中で大きな関心事となっている「終活」は、

ヒューマンドラマのテーマとしても重視され、

近年、次々と映画が製作されている。

 

2017年製作のロシア映画「私のちいさなお葬式」は、

モスクワ国際映画祭で上映されて大反響を呼び、

観客賞を受賞。

 

余命わずかと告げられた73歳の

チャーミングな元・女性教師を主人公とした

コミカルタッチの、笑って泣ける佳作だ。

 

12月6日(金)の、シネスイッチ銀座における

ロードショー初日初回では、

(一社)終活カウンセラー協会提供の

エンディングノートが入場者にプレゼントされた。

 

また、公式サイトには同協会の会長・武藤頼胡氏のコメントも掲載されている。

2019年12月から2020年2月にかけて

全国の劇場で順次公開される。

 


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2020喪中はがきと終活年賀状

 

4月に義父が亡くなったので、

毎年、年賀状を戴いている人たちには

今月初めに喪中はがきを出した。

 

というわけで今年(じゃなくて来年:2020年)は

年賀状1回休み。

もうここ10年ほど、

かつてのように年賀状に一生懸命にもなってなかったので、

特に感慨はないが、

1枚も来ないと思うと、やっぱりちょっと寂しい気もする。

 

そんな折、「終活年賀状」のニューズを聞いた。

「来年から年賀状を辞退させていただきます」

といった一文を添えて、それっきりにするらしい。

 

昨年、鎌倉新書がマーケティング会社に登録する

65歳以上のモニター約200人を対象に調査を行った。

 

その調査によると

「終活年賀状を受け取ったことがある」

という人は57%いるという。

 

受け取った時、受け取ることを想像した時の気持ちについて、7割近くが「さびしい」と回答した。

 

「出したことがある」は6%だが、

「送ろうと思っている」と答えた人は半数近くに上った。

理由は「付き合いを身近な範囲にとどめたい」「年賀状作成の負担が大きい」「体力に自信がなくなった」など。

 

終活年賀状には、挨拶文内に

「これまでのお付き合いへの感謝」

「年賀状をとりやめる理由」

「今後も年賀状以外のお付き合いをお願いする」

という3つの要素を入れるのが基本だという。

 

今年はウェブサイトで印刷屋さんが

終活年賀状の文例を紹介している。

 

自分も受け取ることをちょっと想像してみたが、

たぶん上記の7割の回答者と同じく「さびしい」と思うだろう。

 

僕も年賀状のやりとりは年々減ってきて、

今年、喪中はがきを出したのは40人弱。

学校の1クラス分だ。

 

その8割以上は、

リアルでもネットでもほとんど会う機会がない。

連絡を取ろうと思えばすぐ取れるけど、

会っても話すことないし、昔話ばっかしてもなぁ・・・・

と思ってて、会わずにずるずる。

中にはもう30年以上会っていない人もいる。

 

それでも年賀状が来るとほっとする。

最近は虚礼のカテゴリーに入って、

不必要と言う人が多いみたいだけど、

年賀状というのは良い日本の文化だと思う。

 

というわけで僕は死ぬまで終活年賀状は出しません。

たぶん。

 


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夏狩の太郎・次郎滝  富士の水湧く瞑想空間

 

昨日訪れた、山梨県都留市の耕雲院は、

富士急行・大月と河口湖の間のちょうど真ん中にある

「東桂(ひがしかつら)」という駅にある。

 

寺の界隈は「夏狩(なつかり)」という地名で、

副住職の話によると、かつて源頼朝が

夏になるとこの辺りに狩りに来ていたので、

そうした地名が付いた――

という言い伝えがあるらしい。

 

この界隈一帯にはゴォゴォと水の流れる音がひびいている。

さらに、副住職が子供だった30年余り前

――昭和の終わり頃までは、

この辺りは織物産業が盛んだったそうで、

家のあちこちから織機のガタンガタンという音が聞こえ、

水の音と相まって「うるさい~」と思ってたと言う。

 

 

しかし東京の大学に行っていた彼が戻ってきた頃には

織機の音は途絶え、水の音だけが残っていた。

ゴォゴォゴォゴォ・・・

人の暮らしや仕事は変わっても、

自然はそれっぽっちの短い時間では変わらない。

ここは霊山・富士山からの湧水が流れる地域なのだ。

 

その中心になっているのが、

「太郎・次郎滝」という美しい二本の滝のある場所。、

ここは「平成の名水百選」に選ばれており、

隠れたパワースポットにもなっているらしい。

 

本当に気持ちの良い所で、

少年だった副住職も、

織機のノイズが溢れる町の中から逃げてきて、

夏はここでよく川遊びに興じたと言う。

 

 

「夏狩」が源頼朝ゆかりの名なので、

太郎・次郎というのは源氏の武士か、

何かこの辺りの村人を救った英雄の名かと思ったら、

なんとこの二人は兄弟の盗賊。

 

盗みに入ったところを村人に見つかり追い詰められて、

この滝から飛び降りて死んでしまったという。

兄の太郎が飛び降りたところが太郎滝。

弟の次郎が飛び降りたところが次郎滝。

 

しかしそんな賊でありながら、

死して滝として名を遺してもらい、

今や「平成の名水百選」になっているのだから、

果報者の兄弟と言わざるを得ない。

 

 

それにしても、周囲の紅葉も相まって

本当に美しく、聖性さえ感じさせる場所だ。

 

特に空気の澄んだ朝早い時間とか、

ここで耕雲院のお坊さんと瞑想などやったら

心が洗われ、脳もリフレッシュされるだろうと思った。

 

また、この近くにはワサビ園もあり、

良質な水を活かして、

大正時代から100年以上にわたり、ワサビを栽培している。

 

仕事の取材に来て、思いがけず

こうした美しい風景に出会えるのは幸運で嬉しい。

 


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映画「典座」の主役を訪ねて

 

ビデオクリップ➔短編➔長編➔カンヌ

「寺力本願」の取材で、映画「典座」に主演した
河口智賢さんの耕雲院(山梨県都留市)を訪ねた。
悩みつつ、いろんな社会活動に取り組む
若いお坊さんと話すのは楽しい。
 
この映画は、当時、河口さんが副会長を務めていた
曹洞宗青年会が製作したインディーズ映画だ。
 
当初はちょっとしたビデオクリップのようなものを・・・
という話だったのが、短編映画になり、長編映画になり、
カンヌ映画祭に招待される作品として仕上げられた。
●ロングバージョンを期待
「上映時間1時間というのはちょっと物足りないです」
と正直に言ったら、
「そういう反響は多くあります」とのこと。
 
明解な解決とか、感動的エンディングとか、
オチがなく、問題提起のみで終わっているのも
物足りなさの一因でもある。
 
それはいいのだが、せっかく映像が美しく、
僧侶らの心情も丁寧に描かれているので、
多少中だるみがあってもいいから、
もうちょっと映画の世界に浸っていたかった、という感じ。
監督が上手にまとめ過ぎたのかもしれない。
 
女性老師との対話のシーン
(この部分は完全なドキュメンタリー)などは
2時間以上カメラを回したというので、
機会があれば、この部分だけでドキュメンタリー作品にするとか、
90分くらいのロングバージョンを作ってもいいと思う。
●高齢僧は批判、若僧・坊守は絶賛
賛否両論いろんな反響があったようだが、
面白かったのは、同じお坊さんの反応。
 
若い人がおおむね好意的なのに対し、
年齢が上がるにつれて
「僧侶があんな悩んでる姿を見せては信頼を損ねる」
といった批判が出たと言う。
 
片や、住職の奥さん方を集めた上映会などでは、
河口さんが自分の奥さんをやや邪険に扱うシーンや、
別の坊さんがお酒を飲んで酔っ払うシーンなどを観て
「現実はあんなもんじゃないわよ」と言って
盛り上がるなどして、エールを戴いたと言う。
 
ちなみに住職の奥さんを「坊守(ぼうもり)さん」と
呼ぶらしいが、
これは坊主のお守と言う意味なのだろうか?
子どものお守みたいでもある。
 
いずれにしても。そうした話を聞いて、
さもありなんと思ってしまった。
とってもわかりやすい。
昭和・平成の日本は、そういう社会だったのだ。
 
これから原稿にするので、
ちょっとまだここでは書けないが、
映画製作の裏話などもいろいろ聞けて面白かった。
 
「うんうん、映画人だったら、ドラマ性を狙って
最初はそういう脚本でやりたがるよ」という感じ。
●世界での反響と宗教者の未来
「典座」はカンヌやマルセイユ(フランス)、
カルタゴ(チュニジア)の国際映画祭、
ロンドン(英国)やベルギーなどでも上映されており、
日本国内よりも海外での関心が高いようである。
 
「宗教」と「食」を一緒に描いているところが、
日本食に興味津々の外国人に響くのだろう。
 
テクノロジーの進化によって、
宗教は現実の世界と乖離し、
だんだん生活に必要とされなくなってきた。
 
そうした環境において宗教者は、
威厳を持って上から教え説く者でなく、
俗世間の人々に混じって、
苦悩しならも明るく生きる自分の姿をさらさないと、
人々の心を引き寄せ、信頼を得られないのではないか。
 
話を聞いて、そんなことを思った。
 
AI・ロボットによる新たな社会の仕組みづくりが進み、
「人間とは何か?」の時代が深まっていくにつれて、
彼らの活動は少しずつ社会にしみていくのかも知れない。
 
そして、従来のお坊さんとは違った存在感を示すことが
できるようになるのかも知れない。

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あなたや僕が死んだら、サイバー空間の存在証明と お金にならない自分の財産はどこへ行くのか?

 

●遺された文章

フェイスブックから送られてくる、

友達のお誕生日のお知らせ。

昨日来たお知らせはスルーせざるを得なかった。

なぜなら、その人はもうこの世にいないから。

 

そっと覗いてみたら、今年も何人かのおめでとうメッセージが

入っていて、何とも奇妙な気持ちになった。

 

ついでに、と言っては何だが、

10年前に亡くなった友達のアメブロも覗いてみた。

最後の更新からすでに3700日近く経っているが、

こちらも依然として存在している。

 

●きっとそれは遺産

フェイスブックは、生前に追悼アカウント管理人を

指定しておけば、後始末を任せられる。

ただ、他の財産管理と同様、条件は厳しく、

本人が確かに認めたという証明も必要とされるので、

かなり面倒だし、責任も重い。

たかがSNS、たかがブログと侮れない。

 

そう考えると、いま書いているこのサイバー空間の文章も、

あなたや僕のアイデンティティの証であり、

世界の一つだけの存在証明であり、

お金にはならないけど貴重な遺産・財産なのだ。

 

●だけど運営会社が潰れたら・・・

ただし、それも運営会社次第と言えるのかもしれない。

もしフェイスブックやアメブロが倒産したり、

「もう仕事辞めます」と言って閉鎖したら、

いったいどうなるのだろう?

 

煙のように消えてしまうのだろうか?

 

最近、「デジタル終活」という言葉をよく聞くようになり、

故人が持っていた仕事上のデータ、

金銭がらみのアカウントなどどう処理すればいいのか、

大きな問題になっている。

 

SNSやブログの文字や映像がお金になることは

滅多にないと思うが、

その人の生きた証をどうと扱うか、

これもまたデジタル社会が進むにつれて

大きなテーマになっていくだろう。

 

●そして文は永遠に残る

こう書いてみて思うのは、

いまや人生の半分はパソコンやスマホの中の

サイバー空間に入っているんだなぁということ。

 

そして、それが残っている限り、

肉体は滅んでも、

僕たちは永遠に生き続けるのではないかということ。

 

レッド・ツェッペリンの歌に

「The Song Remains the Same(永遠の詩)」

というのがあったが、まさしくそれだ。

 

自分を取り巻く世界が、

ますます奇妙で不思議なものに見えてくる。

 


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ガンで死ななきゃカネが入らん

 

知らなかった!

ガンを患っていた人が死んでも、

その死因がガンだとは限らない。

 

限らないどころか、その確率はせいぜい4割。

つまり、ガンで亡くなったと思っても、

半数以上の人の直接の死因は、

肺炎だとか心不全といった

他の病気になってしまうのだ。

 

それで何が問題になるかと言うと「保険」。

ガン保険は、死亡診断書に「ガンが死因」と

書かれないと、保険金が下りないらしい。

 

いや、とんだ落とし穴があるもんだ。

 

他にも「四大疾病ナントカ」とか、

的を絞った保険がいろいろあるけど、

すでに入っている人、

これから入ろうと考えている人は、

説明書きをよく読んで、

くどいほどその会社に訊きまくって、

よーく考えてから入ったほうがいいと思います。

 

くれぐれも「せっかくガン保険に入ったんだから、

ガンにならなきゃ損だ」と考えたり、

医者に「センセイ、お願いですから死因は

ガンと書いてください」

と、頼みこんだりしないように。

 

ちなみに、長崎で小さな葬儀屋さんをやっている

このチヨさんのブログは面白い。

日々死者と向き合っている彼女は、

さまざまな現実を目にしている。

 

彼女の前歴はCA。かつての呼び名ならスチュワーデス。

かの1985年の日航ジャンボ墜落事故で、

遺族対応をされれていた人だ。

 

そんなキャリアも影響してか、

彼女の死を巡る状況を見つめる目は鋭く、ユニーク。

そして人間への愛とユーモアが溢れている。

 


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ネコとロンリーハートと正義のロンリー

 

最近、うちの近所はネコ通りが少ない。

イヌ通りはワンさかあるのだが、

ネコはいったいどこにいるんニャ?

と思ってたら、今日は雨上がりの

公園の散歩道で遭遇。

 

木の上の獲物か何かをにらんで

野性味たっぷり。

と思いきや、おニャカがポヨヨン、

タポタポ状態。

 

赤ちゃんをはらんでいるのか、

それともメタボなのか。

いずれにしてもお腹が重そうで、

ついに木の上には跳び上がれずじまいだった。

 

頻繁にエサを上げに来る人がいるらしく、

むかしこの辺にいたネコは糖尿病になって

死んでしまったらしい。

 

もちろん、エサをあげるのはよくないこと、

人の迷惑にもなるし、

結果的にネコを不幸にするのかも知れない。

 

けど、ネコに癒しを求める

ひとり暮らしのお年寄りとかに、

そういう正義の味方の論理が通じるのか、と思う。

 

ひとり暮らしの年寄りでなくても、

寂しい心を抱えた人は増えている。

そんな現代人を救うのに

ネコほど適した動物はいない。

 

人とネコとの関係は、割とDEEPに考えるべき問題だ。

 


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認知症の義母の価値はどうやって見つけるか?

 

認知症の義母とこの4ヶ月一緒に暮らしているが、

昨日と今日はいない。

施設のショートステイに預けたのだ。

特に理由はないのだが、いわゆる「ならし」で

一度、利用してみようと思った。

 

将来的に、もし自分たちで面倒を見られなくなったら、

施設に預ける―ーその伏線でもある。

 

認知症患者専用のフロアには

魂の抜けたようなばあちゃんたちが大勢いた。

(なぜだか圧倒的に女性が多い)

比べるのは悪いが、義母は比較すると相当元気だ。

 

残していく時にはちょっと胸が痛く、

逃げるように出てきた。

 

久しぶりにカミさんと二人だったので、

新宿に行って映画を見てきた。

 

義母がいないと気楽だし、仕事もはかどるが、

ちょっと寂しい。

 

これはどういうわけだろう?

 

義母はもう社会の役には立たない人だ。

それでも一生懸命、僕らの役にたとうと

料理や掃除を手伝いたがり、洗い物や片づけを手伝う。

 

効率性を考えると、少々邪魔なこともあるが、

「手伝わなくいいよ」とは言えない。

 

役にたちたいというのは、

人間の本能の次に来るものだ。

自分の存在の証明でもある。

 

小さい子どもも役に立たないが、

子どもは「可愛さ」それ以上に「未来」という

大人にとって圧倒的にありがたいプレゼントをくれる。

 

残念ながら、老人にはそれがない。

子どものようになってしまっても、子どもではなく、

子どもと同じ価値もない。

 

ほとんど役に立たず、わがまま、マイペース。

おまけに認知症だとトンチンカン。

明日迎えに行ったとき、

はたして僕やカミさんのことを憶えているかも怪しい。

しかし、言葉にできないが、価値はあるのだ。

 

彼女といかに楽しく暮らし、

そのまたとない価値を見出せるかが、

僕の生きるテーマとなりつつある。

 


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葬儀屋さんの黒にんにく

 

黒にんにくって初めて食べたけど、うまい!

これは隠し味的調味料として最高です。

チャーハン、野菜炒め、トマトスープ、ミートソースなどに

入れてみたが、いずれもGood。

甘みと酸味と、ちょっと苦味があって、料理にコクが出る。

 

黒にんにくは、生のにんにくを高温高湿の環境で

2~3週間、熟成発酵させて作る。

アミノ酸が凝縮され、老化の原因となる活性酸素を

除去する力があると言う。

 

実はこの黒にんにくを作っているのは葬儀屋さん。

先週、取材に行った山梨の葬儀社「コーリング」では、

後継者不足で休耕地になった畑で

黒ニンニクのもとになる

ジャンボにんにくを生産している。

 

このニンニクを賞品かしたら大いに当たって、

「じゃん丸くん」としてブランド化。

地域の名産品になり、

ファーム事業部も社内に設けた。

 

葬儀社のファーム事業部って、

ちょっと妙な感じもするが、

真っ当なビジネスになるのであればOK。

地域貢献にもなるし、

ニンニク商売が媒体となって

本業にも良い影響を及ぼしていると言う。

葬儀屋だから、農家だからと専門にこだわらす、

チャンスが出来れば、いろんな分野の仕事を

柔らかくやっていけるといい。

 


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映画「典座―TENZO―」はおいしい精進料理映画

 

全国曹洞宗青年会が映画を製作した。

今年のカンヌ映画祭・特別招待部門に出品された作品だ。

 

タイトルの「典座(てんぞ)」とは、

禅宗の寺院で僧侶や参拝者の食事を司る役職。

平たく言うと「調理師」「料理番」だ。

 

曹洞宗では日常におけるすべての行いが修行の一環であり、

修行堂において、典座職は特に重んじられている。

そしって典座の教え(典座訓)は調理のみならず、

仏道を歩むうえで非常に大切な教えをたくさん含んでいるという。

 

主人公は修行時代、その典座職を経験した二人。

3・11で寺も檀家も家族も失い、

今は瓦礫撤去の土木作業に携わる僧侶と、

その弟弟子で、

ひどい食物アレルギーの息子を抱えて暮らす僧侶。

 

とても人間臭い若僧らが日々の生活に苦闘しながら、

一般人からの電話での「人生相談」に応じる姿には、

とても美しいものを見た気がした。

 

宗教臭い、小難しい映画ではない。

映像はあくまで美しく、今を生きる人間の呼吸を感じられる。

 

もちろん、いわゆるエンターテインメントではないが、

「おいしい精進料理映画」といった趣だ。

 

同青年会が映画製作を思い立った理由として、

3・11以降、自分たちが「求められる」と感じており、

世に活動を見せたい、奮闘する姿を知らせたいという思い、

また、自分たちを鼓舞したいという思いががあるようだ。

 

彼らの思いとは違って、

僕には世界の宗教離れはますます進んでいると感じている。

江戸の昔、地域のお寺には人生のすべてが詰まっていたが、

今は子育ても、教育も、医療も、人生相談も、冠婚葬祭も、

すべてが産業化されてしまった。

 

その中で僧侶は、、お寺は、いかにして生きていくのか?

社会のために働けるのか?

大きな課題となっている。

 

実は月刊仏事の連載企画「寺力本願(じりきほんがん)」で

この映画の主人公を演じた、

山梨のお寺の僧侶を取材することになっている。

 

この映画を体験した意義、

日本の、世界の観客の反応について訊いてみたい。

 


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津島市・観音寺の仏画アート

 

月刊仏事の取材で愛知県津島市へ出張。

名古屋から電車で30分ほど。

 

駅からほど近い観音寺は小さなお寺だが、

ここの若き副住職は以前、

マンガ家のアシスタントをやっていて

ご覧のような仏画を描き始めた。

 

ガレージを改造したギャラリーで公開中。

 

 

 

この仏画を入れた御朱印をネットで公開したら

大評判となり、

全国から、海外からも御朱印目当てで人が来る。

 

彼自身はまだまだ僧侶として修行中の身で、

アートはあくまでお寺・仏教に

興味を持ってもらう入口と話す。

 

この画力を法力にして、若い仲間と

新しいお寺づくり・地域づくりに取り組む。

応援してます。

 


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時が止まった部屋レビュー 「現代の聖職者による現代人必読の書」

 

先日、出版社の編集者から「Amazonレビュー、トップです」とお礼メールを戴いた。

 

遺品クリーンサービスの小島美羽さんが書いた

「時が止まった部屋 ~遺品整理人がミニチュアで伝える孤独死のはなし~」のレビューである。

 

じつはあんまりAmazonで本を買わないので、

レビューを書く資格がない。

というわけで、その編集者さんにメールで送ったら、

ご家族の名前で載せて戴いた。

 

べつに提灯記事ではなく、本当に良い本だな、みんなに読んでほしいなと思ったので、割と熱を込めて書いた。

 

ちょっと照れるけど、おおぜいの人に

「役に立った」と言われると、単純に気分がいいものです。

 

著者であり、ミニチュア作家の小島さんの人柄も素晴らしい。

僕のレビューを読んで(読まなくてもいいけど)

興味を持ったら、ぜひ読んでみてください。

 


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死ぬまでの自由研究の時間

 

●それなりの幸福

 今の日本という国では、あなたも僕も含め、

だいたいの人が、

それなりに幸福に暮らせるようになっている。

 

「それなりの幸福」とは何か?

命が危険にさらされることが少なく、

自分は80、90まで生きられるだろう、と

漠然と予測できるからだ。

 

もちろん異論はあるだろうし、

色んな問題は山積みだけど、

少なくとも上記の意味で、

こんな社会は人類史上初めてだと思う。

 

過去と照らし合わせて、歴史的にもそうだし、

世界の他の国と比較しても間違っていないだろう。

  

●真っ白な灰になっちまったよ

 もちろん、安全や長生きに大した価値を感じない人もいる。

「いや、俺は太く、短く生きるんや!」と、

かなり無茶なことをやる人もいる。

僕の若い頃はそういう人が結構大勢いたような気がする。

 

芸術家や文学者らの間では、

のうのうと、平々凡々と長生きするより、

酒や博奕や女に溺れて、破天荒な生き方をして、

短時間で命を燃やし尽くすような人生を送るのが

美徳だったと思う。

 

まだ20歳前だった矢吹丈(あしたのジョー)の遺言は、

「真っ白な灰になっちまったよ」

 

僕もそういうのに憧れたことがあったが、

そんな度胸はからきしなかったので、やめた。

 

いいか悪いかはさておき、

平成の30年の間に、そうした破天荒な人はずいぶん減った。

 

戦争もなく、医療が発達し、社会がシステム化されて安定した。

 

子どもや若者の死亡率が高かった時は、

「人間、いつ死ぬかわからない」という気持ちが、

大多数の人々の心の中にあったので、

破天荒な生き方はカッコよく映った。

 

今だって人間、いつ死ぬかわからないのだが、

みんな、そうは思ってない。

 

というわけで、破天荒な生き方、

短時間で命を燃やし尽くす人生の価値は下がった。

それに伴い、ひとりひとりの人生はスケジュール化された。

 

●新しいタスクがスケジュールに組み込まれた

 生まれてから入学、受験、卒業、就職、結婚、出産、

子どもの成長、そしてまた入学、受験、卒業・・・・・と、

定型的な人生のスケジュールを

僕たちはこなして生きてゆく。

 

現実にそうなるかどうかはともかく、

少なくとも周囲からはそう求められるし、

自分の頭の中にもそのスケジュールのイメージが

一つのフォーマットとして設定されている。

 

さらに今、以前の時代、それまで僕たちが親しんできた世界と

大きく変わったのは、

子どもが成人・独立して以後、死ぬまでの時間がかなり伸びたことだ。

 

その死ぬまでの時間は、ここ数年で、

新たなタスクとして、人生のスケジュールに組み込まれた。

 

夏休みの宿題は一通りやり終えた。

あとは自由研究という課題が残っている、という感じ。

 

もちろん、この自由研究も

生活をしながらなので、

ごく一部を除き、僕を含め大多数の人は

まだまだお金を稼ぐ仕事をする必要がある。

 

それに事情は人それぞれだから、

家族の介護などをやらなくてはいけない人もいる。

 

そうした中で、

何でも好きにやっていいという自由研究に取り組むのは、

思いのほか難問だ。

  

●自由研究の時間こそ人生の本番

 今までのことは準備運動とか、リハーサルの類。

この自由研究の時間こそ本番であり、

人生の本質が秘められているといっても過言ではない。

 

そういう時代になった。

みんなが長生きできる社会。

幸福だけど、生き辛いパラドックスのような人生。

 

とりあえずパパッと紙に手書きで一本線を引いて、

左端に「生まれる」、右端に「死ぬ」と書く。

 

「死ぬ」がいやなら、終でも完でも了でもいい。

ENDでもFINEでもいい。

 

天皇陛下のご年齢を考えると、

令和は20年から30年。

自由研究の時間に入った方は、

この令和でどんな課題をやるのか、が問われる。

 

べつにサボりたきゃサボって

未提出ということでもいいんだけどね。

 


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2020年はSF社会の開幕年か?

 

●月2回の日本橋通い

ひと月に2回ほど、日本橋(八重洲)に詣でる。

エンディング業界(葬儀・供養・終活・高齢者ケアなど)の

業界誌・月刊仏事のライターをやっているので、

その発行元の株式会社鎌倉新書で

打ち合わせやゲラ校のチェックをする。

 

鎌倉新書は葬儀社のポータルサイト「いい葬儀」を開発。

葬儀社・石材店・仏壇手店などを

インターネットで葬儀社を選べる

メディアを作ったパイオニアで、上場企業となった。

 

小一時間で仕事を済ませ、外に出ると、

もう街中は黄昏色。

そう言えば、明日はもう彼岸の入りだ。

 

●ビジネスマン向け丸善BOOKS探検

いつも利用する東京メトロ日本橋駅B3出口は、

丸善と続いているので、時間に余裕のある時は

15分ほどブラブラ本を物色してから帰る。

 

ビジネスマン御用達の書店なので、

平月にされているのは、経済・社会分野の本が多い。

やっぱり手に取ってページをめくりたくなるのは、

ダイヤモンド社の本かなぁ。

 

●スケジュールはもう2020

地下では文房具を売っているが、

「2020」という数字がデデンとおでまし。

早くも来年の手帳コーナーが設けられている。

 

秋のお彼岸ともなれば、

ビジネスマンの脳は。すでに2020に向けて

動き出しているというわけか。

 

●2020とZOZOのSF的符号

「2020」という字の並びを見ると、

先日Yahoo!に売却された「ZOZO」を想起する。

2020とZOZO。

この符号は何かの暗喩みたいだ。、

 

記者会見でおそろいのTシャツを着ていた、

前澤さんと孫さんは、

僕には宇宙ビジネスとロボットビジネスの

SFキャラコンビに見えた。

 

●ウルトラQもあるでよ

そして2020のSFといえば、

やっぱりウルトラQのケムール人の来襲を

怖れずにはいられない。

ブオッフォッフォッフォフォ・・・

とうとう来るのか、「2020年の挑戦」が。

 

一体どんな年になるのだろう?

それまでの残り3ヶ月、

僕たちはどう準備をしていけばいいいのだろう?

 


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般若心経(cho Ver)は21世紀のプログレ

 

エンディング産業展のイベント「次世代僧侶オブザイヤー」で知った。

坊主バンド、昨年末のアジアツアーライブ。

世界は宗教から離れつつある。

それを人々のもとに取り返そうという試み。

 

てか、そんなリクツはどうでもいい。

これはすごい。カッコいい。

僕に言わせれば、これぞ現代のプログレッシブロック。

若い坊さん、面白いじゃないか。

 


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岩渕さんのお葬式

 

息子が小学生の頃、「和泉親児の会」に参加していたが、

その頃の先輩メンバーだった岩渕さんが亡くなった。

まだ60代の前半だったそうだ。

骨のガンだったとのことだが、

1か月ほど前まで元気に働いていたと言う。

現役だったので、お通夜・葬儀は結構大勢の参列者があった。

 

昨夜のお通夜には「親児の会」のメンバーも

たくさん来ていた。

なんだか懐かしい顔ぶれだ。

同じ小学生だった子どもは、もうとっくに成人している。

 

みんな老けたと言えば老けたが、いい具合に齢を取っている。

何よりも、あまりストレスにやられている感じがしない。

岩渕さんはどうだったのだろうか・・・。

できればストレスニやられず、皆さん長生きを。

 

元気だった頃のお顔を思い出しつつ、

親児の人たちの健康を祈りつつ、

香典返しとして頂戴したマロングラッセをいただく。

岩渕さんのご冥福をお祈りします。

 


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現代の聖職者による、現代人必読の書:「時が止まった部屋」レビュー

 

 僕が初めてエンディング産業展(毎年8月に東京ビッグサイトで開催)で、著者・小島美羽さんの孤独死・ゴミ屋敷の現場のミニチュア展示を見たのは昨年のこと。

 その時、小島さんが独学で作ったミニチュア作品の素晴らしさとともに心を奪われたのが、そこに添えられている自筆の説明文だった。

 淡々と、朴訥にそこで見たこと、感じたことを綴った文章の奥には、小島さんの人間の生と死に対する想いが、人生や家族というものに対する誠実な考え方が、にじみ出ていた。

 

 そして今年、彼女のいる「遺品整理クリーンサービス」のブースを覗いてみると、この本が平積みされていた。おお、やっぱり。よくぞ書いてくれたという感じ。

 マスメディアなどでも多数紹介されていたようなので、出版は意外ではなかった。

 著者本人に聞いてみると、テーマがテーマだけにコンタクトはしてきても、いまいち本気でないところが多かったと言う。その中で、この出版社だけがミニチュアはもちろん、小島さんの仕事と、この現実を伝えたいという思いに貴重な価値を見出し、真摯に出版を持ちかけたと言う。

 

 「孤独死」「ゴミ屋敷」は、僕のストーリー、あなたのストーリーでもある。

 人は必ずいつか死ぬ。

 誰もが知っているけど、誰も認めたくない現実。

 特に孤独死なんていう、悲惨で寂しい最期は、自分には縁のないものと、何の根拠もなく思っている。

 

 何か月も、時には何年も放置され、誰にも顧みられることがない。遺体は傷み、原型をとどめないことさえある。まさか自分がそんなことになるなんて・・・。

 でも、自分のライフスタイルを大切にしている人、家族も含め、他人に煩わされるのをよしとしない人なら、将来、そうなる可能性が5割くらいはあると思っていい。

 少なくとも僕自身はそうである。

 僕は現在、59歳で家族とともに暮らしているが、自分も孤独死し、この聖職者にお世話になるかもしれないと思う。

 

 遺品整理・特殊清掃は、技術さえあれば誰にもできるという仕事ではない。ましてやお金を稼ぐという目的だけではとても続かない。

 小島さんも、そして彼女の勤める会社のた社長さん(創業者)も、自分の中にあるストーリーの必然によって、この仕事を始めたのではないか。悲惨な現場に携わる者ならではの「伝えたい」という思いが強く伝わってくる。

 「現代の聖職者」とは、いささか大げさな呼び名だが、この本を読めば、その一端が分かる。

 社会の裏側をえぐる壮絶なドキュメンタリーとかルポルタージュなどとは趣が異なり、ミニチュアの写真を多数載せた、とても読みやすい本になっていることも特徴だ。

 

 いま、この社会で生き、死んでゆく人たちの人生を描いた叙事詩のようだと僕は感じた。

 


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勝浦タンタンメンは、過疎化する漁師町を救えるか?

 

今週は取材でお出かけWeek。

今日は連載企画「寺力本願(じりきほんがん)」の取材で、

千葉県勝浦市へ。

 

かつては房総でも指折りの水揚げを誇っていた漁業の街、

しかし、それも昭和時代まで。

漁業の衰退によって、平成の30年間で人口は半減し、

街の中には空き家が目立つ。

 

取材先は「海の見えるお寺」として人気の妙海寺。

その住職は、まだ若いながら、勝浦の街を救おう、

100年後も200年後も栄える街にしようと奮闘。

様々な地域おこしイベントを開催し、

現在は、空き家対策として、みんぱく事業に力を入れているという。

 

最近、何かとネガティブに捉えられることの多い宗教者だが、

自治体や企業ではできないことを、

お寺という立場、一種の社会的信頼性を生かして活動している。

 

そんな住職が以前、地域おこしの一環として普及に携わり、

ご当地グルメになったという「勝浦タンタンメン」。

ひき肉と一緒にタマネギとナスが入ってて、見た目ほど辛くない。

 

冬の海で働き、冷えた漁師や海女さんのからだをあっためたという

ストーリーが、味わいを深くする。

コンビニにも「勝浦タンタンメン」食品がいっぱい。

 

ちなみに勝浦は海流の作用で、夏は涼しく、猛暑日がない。

冬も比較的穏やかで、雪の降ることはほとんどないという。

 

僕は勝浦と言うと、反射的に「勝浦温泉」と出てきて、

なんとなく熱海っぽいイメージを持っていたのだが、

よく調べると、和歌山の@「勝浦温泉」だった。

なんで勘違いしてたのだろう?

 


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エンディング産業展2019「葬式・戒名・墓――どこまで省けるのか?」

 

エンディング産業展2019終了。

今日は宗教学者・島田裕巳氏のセミナーが面白かった。

タイトルは「葬式・戒名・墓――どこまで省けるのか?」

 

「お葬式はいらない」などの著書で有名な島田氏が、

なんで葬儀やお墓の業者や僧侶が集うエンディング産業展に招かれたのか?

 

かなり挑発的なタイトルだが、

「私があれこれ言わなくても、

一般の人はもう気が付いて“省いてます”」。

 

詳しい内容は月刊仏事の記事にするので、ここでは書けないが、

要は、高齢化社会への移行で、人々の死生観が変わったということ。

 

ついこの間まで、人生が40年から50年程度だった時代。

人間ははいつ死ぬかわからない、という前提で生きていた。

寿命は伸びていたが、10年ほど前までは、

みんな、その社会通念のもとに生きていた。

 

しかし、人生が80年、90年、100年以上続く時代になった今はちがう。

僕たちはそれだけ長く生きることを前提に人生を考える。

そして社会もその考え方に合わせて動く。

もう設定自体が変わってしまったのだから、年金が破綻するのも当然だ。

 

もちろん「いつ死ぬかわからない」ということは本質であり、

変らないはずだ。

今だって、僕たちはいつ死ぬかわからない。

 

しかし、人生の概念はすでに100年ライフに変わっている。

50歳や60歳、あるいそれより若く死ぬのは、

あくまでイレギュラーなケースだ。

 

そんな社会になると何が起こるかと言えば、

人々の心を救済していた宗教が衰退し、機能しなくなる。

 

また、みんな、人生をスケジューリングする。

まだ幼いことから将来を見据えて勉強し、進学に就職に、

スケジュールを組み立てて、一つ一つこなしていこうとする。

そのスケジュールの最後には、もちろん死が用意されている。

スケジュールをこなすための人生。

 

これから死のポイントは変わるという。

多くの人にとって、肉体的な死の前に、社会的なエンディングがある。

 

たとえば施設などに移らなくてはならなくなった時、

人はこの世界と切り離され、

実質的にはもうそこで人生は終わってしまうのはないか。

なのに、そこに葬式・戒名・墓は、本当に必要とされるのか・・・。

 

島田氏の言葉は、聴講に集まった人たち

――まだ前の時代の死生観で仕事に励む

エンディング業界人の胸に波紋を起こす。

 

その波紋はこれからじわじわと広く、社会に広がっていくのはないか。

そんな感想を抱いた。

 


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時が止まった部屋:遺品整理人がミニチュアで伝える孤独死のはなし  本日発売編

 

今日から3日間、東京ビッグサイトで

エンディング産業展が開催されている。

例によって「月刊仏事」の取材で有明通い。

メインは毎日行われるセミナーやイベントの取材だが、

ブースの方も覗いてみる。

 

昨年、最も衝撃を受けたのは「遺品整理クリーンサービス

(㈱ToDo-Company)」のミニチュア展示。

 

孤独死の現場・ゴミ屋敷の様子を、

遺品整理人(特殊清掃)が、写真ではなく、

ミニチュアで伝えるというもの。

各メディアでも、たびたび取り上げられているようなので、

ご存知の人も多いかも知れない。

 

しかもその遺品整理人がうら若き、かわいい女性。

 

しかもしかも、アートの学校や講座に通っていたとかいうわけではなく、

現実を伝えるには、こういう手段がいいだろうということで

仕事の合間に、いきなりこうしたミニチュアを作ってしまった。

 

しかもしかもしかも、話していると気負ったところもなく、

純粋に、まっすぐに、

彼女のこの仕事に対する思いが伝わってくる。

 

というわけで、トリプルインパクトを受けたのが1年前。

 

今年も出しているのかな~と思って覗いてみたら、

出してた!

しかも本を出していた!

本日、8月20日発売だ。

 

彼女――小島美羽さんの作るミニチュアの魅力は、

じつはそこに添えられる文章によるところが大きい。

 

けっして文章がうまいとか、表現力に長けているわけではない。

その部屋の清掃・整理に実際に携わった時の感想・

湧き出てくる思いを淡々とつづっているだけだ。

 

しかし、その語り口がいい。

彼女が語り部になると、その部屋の悲惨な情景から、

人生のストーリーが形となって響いてくる。

 

まるで、この21世紀の日本の社会で、

生まれて生きて、そして死んでゆく、

僕らの人生を映し出す叙事詩のようだと思った。

 

当然、本にする価値、大ありでしょう!

昨年はブログにも書いたし、ちょっとだけ仏事の記事にもしました――

 

という話を、当の小島さんが他のお客さんと話してたので、

本を売りに来てた出版社の人にしたら、

1冊、献本していただいてしまった。

 

ありがとうございます。

これはちゃんと読んで、夏休み読書感想文にします。

 

でも、読む前からわかっている。

これは素晴らしい本だ。価値のある本だ。

孤独死やゴミ屋敷に興味があれば、ぜひ、手に取ってみてください。

 


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認知症の義母と神頼みの散歩

 

「いいの、手なんか握って?」

「だって手をつながないと危ないよ」

「いいの本当に? 奥さんはいらっしゃるの?」

「はい、いますけど」

「わあ、どうしよう? 奥さん、怒らないかしら?」

「だいじょうぶです。公認ですから」

「わあ、うれしい。こうしたこと一生忘れないわ」

「喜んでもらえて何よりです」

 

認知症の義母と散歩に行くと、こういう会話になる。

言ってもわからないので、

「奥さんはあなたの娘ですよ」

なんて説明はわざわざしない。

 

僕のことは「お兄さん」と呼ぶ。

まぁ確かに義母より25も若いけど、

お兄さんというほど、若い男に見えているのだろうか?

 

亡夫(つまり僕の義父)は、

「女は三歩下がって」という考え方の

関白亭主だったらしいので、

男と手をつないで

公道を歩くのに慣れていないらしく、

ちょっと恥ずかしそうにする。

 

義母には昨日も明日もない。

小さな子どもと同じで、

「いま、この瞬間」があるだけだ。

 

「いま、この瞬間」がずうっと繋がって、

僕たちの人生があり、この世界があるわけだが、

そんなこと、ふだん僕たちはまったく考えない。

 

僕たちはいつも、これまで何をしてきたか、

少しでも多くの記憶をキープし、

自分のビッグデータを作って、

何があるかわからない明日に備え、

サバイバルしようとする。

 

ところが義母は昨日なにがあったかも忘れているし、

明日どうなるのか不安に脅えることもない。

もうボケちゃってるわけだから、

齢を取ってボケたらどうしようと怖がることもない。

 

でも時々、時計を見て

「もう家に帰らなきゃ」とか言い出す。

「ここがあなたの家だよ。

あそこにあなたの部屋があるでしょ」

と言うと、「ああ、「そうか」と

一応、納得するのだが、

数分後にはまた「帰らなきゃ」と言い出す。

 

まだ一緒に暮らし始めて1週間たたないから

しかたないのだろうが、

彼女はいったいどこに帰りたいのだろう?

 

僕は認知症についてはまったく不勉強だ。

てか、あんまり余計な先入観を持って関わるのは

よくないんじゃないかと思って、

あえて最小限の知識・情報しか入れてない。

 

人それぞれいろんなパターンがあると思うが、

認知症になると、

その人本来のキャラクターや

人生の中で培ったストーリーが

集約されて表現されるようで、

義母を見ている限り、

不謹慎な言い方かもしれないけど、

とてもとても興味深い。

 

それにしても、

いったいこれからどうなるのか?

 

同じ「いま、この瞬間」を生きる人間でも

小さい子どもはこれから成長が見込める、

いわば、のびしろのある存在だが、

認知症の高齢者はそうではない。

 

「お兄さん」としては、

とにかく少しでも、

その瞬間瞬間の積み重ねを、

幸福感・安心感を持って

過ごしてもらいたいだけだ。

 

ふだんは宗教心なんて欠片もないが、

義母に関してはもう神さまに祈るばかり。

 

大宮八幡は立派な神宮で、

初詣やお花見や秋祭りで毎年来ている。

この季節は七夕飾りが美しい。

 

すっかり通い慣れたお宮だが、

義母と一緒にいると、

不思議と素直で新鮮な気持ちでお参りできる。

やっぱ人間、最後の最後は神頼みやで。

 


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食と祈りの店 自由が丘・田の実

 

ここのところずっと、葬儀供養と農業の仕事をやっているが、昨日取材したのは、そのふたつが一体化したお店。自由ヶ丘に先々週オープンしたばかりの「田の実」だ。
コンセプトは日本人の稲作文化の中で育まれた「食と祈り」。
1階は全国の農産物などの食品と四季の行事を彩る雑貨のショップ。2階はカフェ&レストラン。3階はイベントスペース。
ランチに出る汁ものは仙台の名店「ゆきむら」のシェフの作品で、日本人の脳の深淵に届く美味しさだ。

実はこの店の経営母体は、「手のしわとしわを合わせて、しあわせ」の、お仏壇のはせがわ。
「手を合わせるとはどういうことか?」を追究していったら、食と農にたどり着いたという。
さすがリーディングカンパニーと感心する話だった。
オープンしてからまだ2
週間だが、早くも自由ヶ丘の大人気店になりつつある。駅から3分なので、そっち方面に行くことがあれば、ぜひ寄ってみてください。

 


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サンゲノヨル:仏教式罪の告白

 

「あのやろう、うまいことやりやがって」と妬んだり、

「失敗しろ。不幸になれ」と呪ったり、

道行く女の子に劣情を起こしたり、

気に食わないことに逆ギレしたり、

暴飲暴食に走ったり、

やるべきこともやらずゴロゴロ怠けていたり・・・

 

人間は日々、罪を犯している。

そこで神さまの前で自分の罪を白状するのが「懺悔」だ。

 

これはキリスト教の話だと思っていたら、仏教にもある。

同じようにお釈迦様の前で罪を認め、

仏教では「さんげ」と読む。

 

月に一度「サンゲノヨル」を開いているお寺があると聞いて、

一昨日、取材で出かけて行った。

神楽坂にある圓福寺だ。

 

まだ30代の若い住職様にインタビュー。

幕末に伝わり、この寺に祀られている夜光鬼子母神の話、

その鬼子母神絡みで妊活講座が行われている話、

住職がIT企業に勤めていた時の話など聞いて、

メインの「サンゲ」。

 

これは実際に体験してみた。

 

500円払ってお守り(懺悔守り)を購入し、

その中に自分の犯した、

あるいは犯していそうな罪を書く。

 

自分は悪いことしてなくても、遠い先祖が

騙し・欺き・裏切り・虐待・泥棒や人殺しなどの

大罪を犯している可能性もある。

 

因果応報。

過去の罪が、現在につながって、

あなたの人生で表現されている。

こうした考え方は、仏教ならではという感じがする。

 

書き入れたお守りは持ち帰るのではなく、

この寺の祖師像に奉納する。

奉納したら、あとはひたすら

心の中で罪を詫び、お経を唱える。

 

先祖が罪を犯したのかどうかはわからないので、

とりあえず自分の罪だけ思い起こした。

一応、善良な市民のつもりではいるが、

生きていると、どうしてもいろいろあるからねぇ。

ズルもしてるし、迷惑もかけてるし、

人を傷つけたりもしています。

 

ありがたいのは「懺悔」すると「三化」が起こるということ。

①健康運・②仕事運(金運)に恵まれるようになり、

③ 良縁にも恵まれる。 

これはもう、信じるしかないねぇ。

 

それに夜(僕が行ったのは5時過ぎでまだ明るかったけど)、

お堂の中にいると、厳かな気分になり、精神的にも良い刺激になる。新鮮な空気が身体の中に入ってくる感じだ

月に一度くらい、こうした体験をするのはいいと思う。

 

500円で懺悔守りを購入するのは最初だけで、

そのあと、2回目以降は自由。

リピーターも大勢いて、僕がいた時間だけでも10人くらいやってきた。

男よりも女のほうが多いという。

女のほうが男よりも罪深いのだろうか?

 

毎月、第一水曜日、夕方5時から8時までやっている。

こうした懺悔の概念を大事にして、

積極的に打ち出しているお寺はかなり少ない。

(少なくとも、僕は初めてだった)

 

あなたも秘密めいた体験として、

一度やってみると面白いと思う。

 

神楽坂・圓福寺。

サンゲノヨルは、お参りした後、

神楽坂に立ち並ぶ飲み屋でハシゴ・・・となったら、

またまたそこで罪を犯し、

翌月、ふたたび通うことになって永遠の循環に陥るかもね。

 


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葬儀・供養に関する「昭和システム」の呪縛

 

つましい生活をしていた高齢者が亡くなってみたら、何千万円ものタンス預金を残していて、びっくり! ――という話をよく聞く。

なんで?

そんなにお金があるんなら、貧乏に甘んじず、もっと裕福に暮らせたろうに・・・と思っていたが、今回、義父の死に触れて「そりゃ当然だな」と納得してしまった。

 

お葬式をするのも、お寺さんにお経を唱えてもらって戒名をいただくのも、納骨してお墓を建てるのも、従来の、いわゆる「昭和システム」にのっとってやっていたら、いくらお金があっても足りない。

あっという間に数百万、ちょっと見栄を張ったら1千万くらいすぐに使ってしまう、と思う。

 

これに前後の医療費やケアのお金を入れれば、そりゃたしかに何千万円も持ってなきゃ、安心して老後を暮らせないし、安らかに眠ることもできない。

 

けっして日本の仏教文化、葬儀供養の文化を軽んじるわけではないが、「昭和システム」の葬儀供養を遂行するのは、今や、よほどのお金持ちでなければ無理である。

 

「無理をしてでもやるべきだ」という宗教心の厚い人、伝統的な習慣を重んじる人の意見もあると思う。

否定するつもりはない。

 

ただ、伝統的な習慣と言っても、みんながこれだけお金の掛かる供養葬儀をやるようになったのは、高度経済成長時代からだ。

 

現代のように、広く自由に情報が飛び交う時代ではなかったので、業者などに「そういうものだ」と言われれば、「そういうものか」と選択肢もなく、無理をしてでもそうせざるを得なかった面もあるだろう。

 

要は一般庶民にも裕福な人が大勢増えて、昔の武士階級・貴族階級・地域の名士など、社会的地位の高い人たちの真似をしたくなっただけではないのだろうか。

 

現代はお葬式にしても、お墓にしても、供養の仕方にしても、多様な選択肢がたくさんある。

無理なく、納得でき、大事な人を心から偲べるやり方は、いくらでも自分たちで創ることができる。

 

盛大なお葬式をして、りっぱなお墓を立てて、遺された家族がみんなハッピーになれるなら、それでいい。

 

けれどもそうでなく、精神的にも経済的にも負担が増えるばかりで、心から偲ぶこともままならないリスクを背負いそうなら、昭和の習慣の呪縛から自由になったほうがいい。

 


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義父の葬儀

 

昨日は所沢斎場で義父の葬儀を行った。

葬儀と言っても、火葬の前に少しの間だけお別れをする、

いわゆる「直葬」である。

 

義父の妻である義母、その娘であるカミさんと僕と息子(孫)、

そして妹夫婦の6人が参列。

身内だけでゆっくりお別れができた。

 

退職して25年経つので、仕事関係の人たちとはもう縁が切れているし、

ずっと親しく付き合っていたらしき友人もいないし、

親戚も無理に呼べば呼べたかもしれないが、

やめておこうという話になった。

 

ずっと親しく付き合っていたらしき友人もいない。

もしかしたら、いたかも知れないが、

どう連絡を取っていいかわからなかった。

 

懇意にしているお寺もないし、義父から宗教的なニュアンスの

話も聞いたことがない。

 

簡素で安価な葬儀にすることには何のためらいもなかった。

 

遺体を引き取りに行った警察署で出入している葬儀社のリストには

5社くらい載っていて、カミさんが直接電話で連絡。比較検討した。

 

こういうところ、うちのカミさんはカンが鋭く、賢い。

他の所はベーシックな値段は安いが、

オプションで2倍・3倍以上に膨れ上がりそうだ――

という匂いを感じ取って、結局、地元の小さな葬儀社を選んだ。

 

結論的には大正解で、

とてもとても誠実で丁寧で良心的な葬儀屋さんで、たいへん助かった。

感謝に絶えない。

 

たぶんポータルサイトでレビューが書けるので、

良い評判を広げたいと思う。

 

お金の話をするのはどうかと思うが、気になる人が多いと思うので

参考になるよう、あえて書いておくと、すべて込みで32万円弱でした。

内訳も明瞭で本当に良かった。

 

結局、お葬式は、大規模に立派にやるにしても、

つつましく、ささやかにやるにしても、

遺族の満足感・納得感の問題だと思う。

 


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義父は最期まで弱音を吐かずじまいだった

 

義父は胃がんを手術で、前立腺がんを放射線治療で完治させ、

克服してきた強い人だった。

 

そして関白亭主で、奥さん――義母をアゴで使っていた。

家のことは一切やらず、お茶も自分では淹れない。

けれども5~6年ほど前から義母が認知症になってから、

その生活ぶりが変わっていった。

 

義母は2年ほど前からお茶を淹れる以外、

家のことが出来なくなってきた。

もう自分でやるしかない。

 

「家族に迷惑をかけたくない」と言うのは、

最近の高齢者全般の口癖だが、

義父の場合はその最たるものだった。

 

迷惑というか、絶対に人に弱みを見せない

というのが信条だった。

たとえ相手が家族でもだ。

 

カミさんも義妹も電話で義父の話を聞くばかりだったので、

2人とも結構元気なものと思っていたらしい。

 

そしてとにかく器用なので、やる気になれば何でもできた。

 

掃除も洗濯も裁縫もやっていた。

 

ただ、さすがに料理だけは、にわか仕込みではダメで、

レンジでチン食が主食だったようだ。

 

それに加え、義母を病院につれて行ったり、

薬の管理をしたり、迷子にならないようにしたり。

まめまめしく世話をしていたらしい。

認知症介護士の資格も取ろうとしていたようだ。

 

弱音を吐かないことは立派だが、

本当にそれでよかったのかという思いが残る。

 

強い男の生き方ももう限界に近づいていたのかもしれない。

それでも娘たちのところへはSOSは出さなかった。

その矢先の突然の死だった。

 

部屋の中にある様々なメモや生活の痕跡を見ながら、

怖くて厳しく君臨していた昭和の関白亭主が、

最期にはまるで恩返しか、贖罪をするかのように、

少女のようになってしまった女房を

甲斐甲斐しく面倒を見ている姿が脳裏に浮かんだ。

 

ヘンな言い方だが、終わってみれば、二人の夫婦関係が

最終的にはチャラになったような印象がある。

 

なんだか人生うまくできているものだなと思う。

それなりの長さを生きれば、

ずっとラッキー、ハッピーもなく、

アンラッキー、アンハッピーもなく、

最期には何でもチャラになるのではないかという気がする。

 


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義父の棺に競馬研究ノート

 

カミさんと僕と息子、義妹夫婦の5人で

亡くなった義父の遺品整理をした。

義父は若い頃、自衛官で、

退官後は自動車教習所の教官を務めていた人だ。

 

めちゃくちゃ怖い教官だったらしく、

娘たちに対してもかなり怖い父親だったらしい。

 

特に長女のカミさんは昭和男の

「女に教育は要らない」式の躾をされ、

かなり圧力をかけられ、自由を制限されていたようだ。

 

しかしそれが逆にバネになったのか、

成人する頃には、如才なく親をやりこめる才覚を表し、

その後、海外で働きながら旅をするなどして、

自由で独立した生活を獲得した。

人間とは面白いものだと思う。

 

義父は自営官時代に身に着けた習慣があって、

身の回りの管理術に長けていた。

何でもこまめにメモを残し、

几帳面に整理する癖を持っている。

 

近年、遺産相続や遺品整理に困っている遺族に対する

サービス業が繁盛しているが、それもうなずける。

離れて暮らしていた遺族が、生前の生活状況を把握し、

遺品・遺産の整理をするのは大変な作業だ。

 

おそらくこの義父ほど几帳面にメモを残し、

管理を実践している高齢者はそう多くはないだろう。

それでも、どこかにメモがあるだろうと思っていた

キャッシュカードの暗証番号だけは

ついにわからずじまいだった。

役所への届けとともに、口座は凍結されることになる。

それでも葬儀代など、当面必要なお金の分は

ちゃんと現金でしまってあった。

 

僕と反対で、多趣味で何でも器用にこなすことができた。

三味線やギターを弾き、日曜大工もお手のもの。

教官だったので、もちろん自動車の運転はプロドライバー。

ボウリングもプロに近いアベレージだったと言う。

高齢になってから始めたパソコンも器用に操っていた。

 

「だけど器用貧乏なのよ」とカミさんは言っていた。

 

何でもすぐにマスターできるので、

執着心がなく、すぐに飽きてしまうのだという。

名取りにまでなった三味線もすっかり辞めてしまっていた。

自分にとってこれだ!というもの、

とことん追求したいと思えるものは、なかったのかもしれない。

 

晩年は競馬が趣味で、これも雑誌や新聞などを参考に

めちゃくちゃ研究していたようだ。

 

自前のノートに膨大な分析データが残されていた。

おかげでけっこう勝率は高く、

確実に小遣いを稼ぎ続けていたようだ。

 

けれども大穴を当てたという話は聞かないので、

そう派手に儲けることはできなかったらしい。

いろいろデータ分析するのを楽しんでいたのだ。

 

死の2日前の天皇賞(平成最後の天皇賞だ)も

少額だが獲っていた。

 

手垢のしみこんだ競馬関連のノートなどは火葬の時、

棺に入れてあげようと思う。

 


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平成最後のショック

 

平成最後の日の朝、85歳の義父が亡くなった。

しばらく会っていなかったが、元気だと聞いていた。

自宅で寝ている間の急死。

死因が特定できないため、遺体は救急病院から警察に移された。

(カミさんの)自宅にも検死調査が入った。

明日、警察まで引き取りに行く。

火葬場の都合で2~3日は葬儀屋さんに

安置してもらうことになりそうだ。

期待せずとも、人生、変る時は変わる。

 


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さいみょうくん・さいみょうちゃん

 

お寺のオリジナルキャラクターというのに初めてお目にかかった。

「さいみょうくん」と「さいみょうちゃん」。

一昨日、「寺力本願」の取材で伺った川越・最明寺のキャラである。

 

開かれたお寺づくり――とくに女性・子どもに親しんでもらえる

お寺を目指して、平成元年生まれ・インド修行帰りの

若き副住職のプロデュースのもと、

仏像キャラ専門のデザイナーが考案した。

 

ご本人は否定したが、男の子のさいみょうくんは、

当の副住職をモデルにしたのではないかと思われる。

(理知的で優しい顔立ちのイケメンである)

 

女の子のさいみょうちゃんは「小悪魔風」のキャラ付がされていて、

そこはかとなくドキンちゃんを連想させる。

それにしても、仏像キャラなのに、小悪魔って、どーゆーこっちゃ!

 

―ーといったツッコミが入るのも織り込み済みなのだろう。

プロデューサー/デザイナーの遊び心が窺えて楽しい。

 

可愛いだけじゃなく、高貴な品格も感じさせてくれて、

僕はたちまちファンになってしまった。

 

 

最明寺は先週、世界自閉症啓発デー/発達障害啓発週間に合わせて、

1週間、お寺をブルーにライトアップし、

本堂では障がいを持つ子どもたちの絵画展をはじめ、

地元のアーティストやアイドルが出演するイベントを開催。

市や商工会の人たちも巻き込んで大いに盛り上がった。

 

また、10月には毎年、乳がん検診啓発の「ピンクリボン運動」に参加。

この時はピンクでライトアップし、」同様に各種イベントを繰り広げるという。

これをやっているのは今までのところ、

最明寺と京都の清水寺だけだ。

 

2人のキャラクターのカラーリングは、

それぞれのライトアップを表したものなのだ。

 

最明寺の社会活動とそれに連動したイベントもあって、

小江戸でにぎわう川越は、ますます活気づいているもよう。

あなたも川越方面に出向くことがあれば、

ぜひ西川越まで足を伸ばして、

さいみょうくん・さいみょうちゃんに

会いに行ってください。

僕もまた行きたいと思ってます。

 


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高級住宅街のど真ん中の斎場

 

 日曜日のことだが、月刊仏事の仕事で、代々幡斎場へ行った。

 場所は京王線・幡ヶ谷と、小田急線(+東京メトロ千代田線)の中間点にある渋谷区西原というところ。

 

 結構な豪邸が並ぶ高級住宅街のど真ん中に、火葬場併設の葬儀場が、どーん!と立つ。そのギャップがすごい。

 

 どうしてこんな一等地に火葬を行う斎場が・・と思ってしまうが、これは話が逆。

 

 ここでは江戸時代からいくつかの寺院が合同して火屋(火葬場)を運営していた。

 明治になって 東京市区改正条例(都市計画法の前身)が施行され、1889(明治22)年5月20日より都市計画施設として稼働。

 

 1921(大正10)年から東京博善株式会社(現・廣済堂グループ)が所有することになり、以後、1世紀にわたって運営を担い続けている。

 名称は、所在地がかつて「豊多摩郡代々幡町」という名の町だったことに由来する。

 

 戦後、これを囲むように住宅が次々と建てられ、やがて都内でも指折りの高級住宅街として発展していった。

 

 約四半世紀前まで外観は大型の寺院風で、瓦葺きの屋根に煙突が立っているが特徴的だったが、1996年(平成8年)11月に全面改築され、明るく近代的な快適性と、人生最終の大礼に相応しい荘厳さを兼ね備えるとともに、環境問題にも配慮した無煙無臭火葬システムも導入。3階建ての総合斎場に生まれ変わった。

 

 この日は3月最後の日曜で友引。

 ということで、初めての地域感謝イベントが開かれ、花見や落語が行われていた。

 館内には明るい笑い声が響き、とても火葬場だとは思えない。

 渋谷区も後援につき、町会も開催に協力したようだ。

 

 高齢化社会が進み、こうした施設も、人間の自然な営みとして、敬遠せずに街が受け入れる――令和は、そうした時代になりそうだ。

 


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異業種からの葬儀供養業参入ストーリー

  

 小さな会社でも社内で新規事業を立ち上げ、

 一つのブランドとして展開させるケースが増えてきた。

 

 レギュラーで仕事をしている鎌倉新書の月刊仏事では、

 毎月、葬儀・供養業界(この頃は終活とかシニア問題なども加わる)の

 ニュース記事を書いており、いろいろネタをリサーチするのだが、

 そういうケースによく出会う。

 

 10年余り前、「おくりびと」という映画が公開されるまで、

 やはりまだ葬儀屋さんに対する世間の差別意識は強かったと思う。

 

 それがたった10年で、高齢化社会・多死社会の進展とともに、

 みんなが参入したがる成長産業になった。

 

 ちなみに鎌倉新書も僕が最初に訪れた時は、

 小伝馬町の小さなビルの1フロアにある小さな会社だったのだが、

 あかれよあれよという間に成長して、

 八重洲の一等地のビルにオフィスを構える

 東証一部上場企業になった。

 

 お金儲けがしたくて、もともと畑違いの会社が安易に入ってくる――

 という批判的な見方もできる。

 でも、これはちょっと一面的過ぎる。

 

 たとえば以前「ラストドライブ日本版」の記事で紹介した

 タウという埼玉の会社は、

 事故車の買い取りをして海外へ輸出する事業をしている。

 

 ここが「願いのくるま」という法人を立ち上げ、

 ターミナルケアを 受けている人を希望の場所に車で連れて行く、

 という事業をボランティアでやっている。

 

 高齢者が増えたことによって、

 こうしたケアや葬儀・供養に関する社会的ニーズが激増中なのだ。

 

 また、それだけでなく、社会通念が変わり、

 死を仕事にする人たちを忌み嫌う風潮がかなり弱くなった。

 

 こうした理由から異業種からの参入者が増えているのだと思う。

 

 とは言え、いきなりそれだけで新しく会社を起こすのは

 あまりにリスキーなので、社内の事業単位で

 独立したブランドを作るのだろう。

 

 異業種から参入するからには、

 いろんなストーリーがありそうだが、

 残念ながら、ホームページを見ているだけだと、

 なんでこの会社が葬儀事業を???

 と、分からないことが多い。

 

 仏事の新連載企画として、異業種からの参入ストーリー

 というのをやってみようかと思っている。

 


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記憶を伝える「おもかげ復元師の震災絵日記」

 

 彼女が遺体安置所を訪れると「おくりびとが来た」

 と人々がどよめいた。

 

 この本と出会ったのは、震災から3年くらい経ったころだ。

 女性納棺師である笹原留似子さんが被災地を回って

 300人以上の遺体を復元した。

 

 もちろんボランティア。寝るのは車の中。

 1日の終わりに、その日、復元した人たちの顔を思い浮かべて

 スケッチとメモを残していた。

 

 それがどういう経緯でか、翌年の夏、

 ポプラ社から絵本として出版された。、

 僕がこの本と出会ったのは、それからまた1年くらい経ったころだ。

 

 彼女の簡素な絵と言葉が、現場の状況と

 人々の感情を描き出していて、胸に迫ってくる。

  

 どうしてこんな仕事ができたのか?

 この時、彼女の手には神様が降りていたとしか思えない。

 

 3・11の記憶を後世に伝えるとともに、

 納棺師という仕事の尊さ、

 ひとりひとりの心に寄り添う仕事の重さを

 普遍的に伝える本。

 


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ガーナのお葬式は、泣き女、棺桶ダンス、ポップアート棺桶

 

 ガーナと言えば某菓子メーカーのチョコレート。おいしい。

 チョコレートの原料はカカオ豆。

 西アフリカのガーナ共和国は世界有数のカカオ産出国。

 意外だったが、ほかにGOLDや石油の産出量も有数だ。

 

 そしてサッカーファンはご存じ、アフリカのチームとしてはトップクラスの実力を持っている。だ。

 しかし、もう一つ、世界に冠たるすごいものがある。

 それはお葬式であり、棺桶だ。、

 

 ここのところ、アフリカ諸国の生活文化に興味を持って、仕事の合間にちょこちょこネットで調べている。

 

 「月刊仏事」でエンディング関係の記事を書いているので、どうしても葬式とか供養のことが気になるのっだが、どうもガーナのお葬式の派手さはアフリカだけでなく、世界でも断トツらしい。

 

 ガーナはかつてイギリスの植民地だったこともあり、約7割がクリスチャン。

 大都市に暮らす富裕層はもクリスチャンが大半のようで、彼らは一般人の平均年収の4倍から10倍にあたる費用を葬式に使うらしい。

 故人が亡くなってから遺体を冷凍保しておき、約3ヶ月後、満を持して週末3日間かけて盛大に、飲んで食って、歌って踊って、お祭り騒ぎをするというのだ。

 

 この国には葬式を盛り上げるために「泣き屋」、そして棺桶の「担ぎ屋」がいて、このプロフェッショナル達が、まさしくプロの技を見せる。

 

「泣き屋」は一般的には女の団体で、「泣き師協会」というものもあるらしい。

 静かな啜り泣きから、地面に転がっての号泣、謎の「シマリス泣き」というものまで豊富なmメニューを取り揃え、時間やシーン、人出などに合わせて会場を盛り上げるために変幻自在の泣きパフォーマンスを披露するという。

 

 「泣き屋」が女の仕事なら、「担ぎ屋」は男の仕事。

 スーツを着込んだダンディーな奴らがお神輿よろしく棺桶を担ぐ。

 と言ってもただ担いで練り歩くだけではない。

 陽気でリズミカルなハイライフミュージックに合わせて、棺桶を担ぎながら踊る、いや、踊りながら担ぐのか。

 とにかくこれがえらくカッコいい。

 

 周囲には演奏するバンドマンやダンサーたちもわんさかいて、いつ果てるともないビッグパーティーが続く。

 

 ガーナでは人は死後、異なる世界でふたたび新たな人生が始まると信じられており、「死」は「新たな始まり」と捉えられるのだそうだ。

 したがって葬式とは、故人の死は悲しむものでなく、新たに生き始める故人をみんなで祝福するための儀式なのだ。

 

 

 さらにもう一つすごいのが、その棺桶。

 ガーナの棺桶は世界一ユニークと言っても過言ではない。

 

 ガーナ人は、故人の人生にちなんだ棺桶をオーダーメイドする。

 たとえば、パイナップルの形をした棺桶は、パイナップル農家。

 魚の形をした棺桶は、漁師の棺、

 

 仕事だけでなく、自分の人生に幸をもたらしてくれたもの、叶わなかった夢や希望などを様々な形にして棺桶を作るというのだが、これがポップで可愛くてファンキーだ。

 

 

 いわゆるアート作品として海外からの評価も高く、プロのアート館桶屋が 何人もいるようで、希望があれば海外からの注文も受けるという。

 

 備えあれば憂いなし。ガーナのアート棺桶。終活している人はオーダーメイドを選択肢に入れておいてもいいのでは?

 


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アート&カルチャーのご縁寺in六本木〈西麻布〉

 

   午前中、日差しがポカポカしてて、おお、きょうは小春日和だね~いやいや違った。小春日和は晩秋だ。今日は早春サイクリングだ!と思い立って、六本木まで自転車を漕いでいった。

 

 月刊仏事「寺力本願」の第2回の取材は西麻布3丁目の妙善寺。

 六本木ヒルズのすぐそばというか、通りを挟んでホテル・グランドハイアットの真ん前というアーバンなロケーション。

 

 江戸時代、囲碁寺として知られ、このあたりの町人がぶらっと寄って楽しく囲碁を打っていたとか。

 

 そうした歴史を下敷きにして、近年はまだ30代の住職様が、若いアーティストや芸人などに開放して、演劇、ダンス、音楽などの公演を開いている。

 

 聞けばこの住職様、若い頃、お笑い芸人をやってた経験があるそうで、そこから演芸系いオーラが発せられるせいか、インディペンダントなアーティスト系・カルチャー系の人たちが引き寄せられてくるようだ。まさに「ご縁」である。

 ここではいろいろな文化系の催しや教室、秋には自主映画の映画祭も開催されている。

 お寺という空間は、日常とは一味違ったリラックス感があって、自然と非日常的な世界へ脳もトリップできるのかもしれない。

 

 こうした活動を通して、人々が自然に仏教的なものをライフスタイルの中に採り入れていったら、もっと生きやすくなるのでは・・・というお話を、柔和で福々しい笑顔でっ語ってくれた。

 

 お昼を回ったころ、取材を終えて外に出てみたら、激さむ。

 早春のサイクリングだったはずなのに、お昼を回ったころにはどんよりと空は曇り、ぐんぐん気温が下がっている。行きはよいよい、帰りはこわい。

 真冬に逆戻りして明日は大雪という情報も。

 


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銀河の死なない子供たちへ:人生は無限ではないという幸福

 

 息子の推薦図書。またマンガ。

 「ヨルとネル」の作者・施川ユウキの作品。

 

 「1万年前、わたしはこの星空を見ている。

 1万年後も、わたしはきっと同じ星空を見ている」

 というモノローグから始まる、タイトルそのまんま、とうの昔に人類が絶滅した地球で生きる、なぜか不老不死になった子どもの物語だ。

 

 手塚治虫の名作「火の鳥」をリスペクトしたマンガであることは一読して明らか。

 作者みずからネタばらしのコマもある。

 

 何といってもすごいのはストーリーと絵柄のギャップ。

 「火の鳥」に匹敵する神話的・宗教的な超シリアスなストーリーであるにも関わらず、かわいいギャグ漫画タッチの絵柄で、悠久の世界をありふれた日常のように描いているところが、不思議な寓意を醸し出す。

 

 物語の最も肝になるのは、ロケットで不時着した宇宙飛行士の女が赤ん坊(ミラ)を産み、主人公のきょうだい(πとマツキ)がその子を育て、家族のように暮らす下り。

 

 これは壮大な家族愛の物語でもある。

 

 ミラは普通の人間の子どもとして成長し、πとマツキを追い越して大人になり、不死になれる可能性を拒んで、やがて死んでいく。

 

 そのあたりを読むと、不老不死とは何と残酷で救いがないのだろう、それに対して限りある短い人生は、はかなくはあるが何と幸福なのだろう、という感慨を抱く。

 

 いたずらに長編にすることなく、2巻ですっきり完結するところも良い。

「ヨルとネル」と同じく、思い出してはページを繰りたくなる人生の常備薬のようなマンガだ。

 


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「悠々自適の幸福な未来」が待ってるはずだった

 

 定年退職とも退職金とも縁がないその日暮らしを続けているので、どうもピンと来なかったが、あるご婦人の話を聴いて、定年後のご夫婦の暮らしをリアルに感じた。

 

 旦那さんが退職して約10年。彼は昔ながらの日本の男、わりと大きな会社のもと企業戦士である。

 

 まるでドラマのキャラクター設定のマニュアル通りで、家事など一切しない。

 特に熱を入れてる趣味もなく(疲れちゃってそうそう身を入れて取り組めないらしい)、あまりどこかに出かけるということもなく、三度が三度、家で食事をする上に、レトルトや冷凍食品を使った手抜きは許さない。

 毎晩、晩酌をするのでつまみも必要。かわきものはNG。

 お茶も自分で淹れない。

 そしてもちろん、奥さんが自分を置いて外出するのには嫌な顔をする。

 

 日々の生活習慣から生じるストレスというのは怖ろしい。

 おかげで奥さんは溜まったストレスによって、体調を崩してしまった。

 

 旦那さんは自分が原因であるとはつゆほども考えない。

 べつにギャンブル狂いでもなく、愛人をつくったわけでもなく、まじめに勤め上げて、退職金も年金もいただいて、夫婦で悠々自適の生活を送っているはずだった――、いや、現に送っている。

 なのに妻の口から出てくるのは恨み節でしかない。

 

 「いったい何の不満があるのか」と、男が論理を滔々と説いても、女には通用しないんだろうな、やっぱり。

 

 でも定年退職した時点で、少なくとも2~3年のうちに、奥さんからも何か旦那さんが生き方を変えられるように働きかけをしなくてはならなかったんじゃないの?  と思えてならない。

 

 日本中にこういうご夫婦が増えているのだろうか。

 それで「人生100年」なんて言われた日には、ゼツボー感で気が遠くなってしまいそうだ。

 

 「悠々自適」という口当たりのいい言葉は、大いなる幻想を含んでいる。

 僕のようなその日暮らしも困るだろうけど、明日のために今日を犠牲にするような生き方が本当にいいのかどうか、よく考えなきゃいけない時代になっている。

 


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世界初・英国孤独問題担当相 いわくつきの誕生から1年

 

 孤独というパーソナルな問題に国政レベルで、つまり国家の税金を使って取り組む――その実現は当初、世界を驚かせたが、背景には政治的な環境が整っていたようだ。

 

 2016年6月16日、ウエストヨークシャー州リーズ近郊でEU離脱の是非を問う国民投票集会の準備中、残留を呼び掛けていた労働党のジョー・コックス議員が右翼の男性に銃撃され命を落とした。このコックス議員が進めていたのが、孤独を撲滅するための政策作りだった。

 

 彼女は自分の選挙区には低所得者層、退職者層が多く暮らしており、孤独が大きな問題になっていることを知って、政治力でこの問題を解決するべきと考えていたという。

 そうした考えが形成されたのは、彼女の生育歴に関係するところがあったのかも知れないが、詳しいことはわからない。

 

 彼女の死後、遺志を継ぐ形で「ジョー・コックス孤独問題委員会」が保守党・労働党共同で組織化された。同委員会は13の非営利組織と協力しながら孤独についての調査を実施。

 

 2017年末、その調査結果が発表され「1日15本のたばこを吸うのと同じくらい健康に有害」「英国経済に320億ポンド(約4・5兆円)の損失を与える」などのデータを示した上で、孤独の慢性化はうつ病や心疾患、認知症などのリスクを高め、人間関係構築にも悪影響を及ぼすと指摘。そして政府のリーダーシップ、継続的なデータの必要性などを訴えた。

 

 引き続き翌年――2018年1月になってメイ首相は孤独問題担当大臣を新設すると発表。スポーツ・市民社会担当国務次官を務めていたトレーシー・クラウチ氏がその初代大臣に就任した。

 

 2018年10月に発表された政府戦略では、コミュニティーで人が集うスペース(パブやカフェ、アートスペースなど)を増やすための基金の拠出や、郵便会社ロイヤルメールと協力した配達員による見守りサービス、職場での社員の孤独に対する企業の取り組み、かかりつけ医が孤独を感じる患者に対して、必要な地域のサービスにつなげる取り組み、そして進展状況を記した年次報告書の発行などを盛り込んだ。 

 

 孤独の問題は高齢化や貧困、健康問題とも深く結びついており、英国のみならず世界中の国々(特に経済発展を終えた先進国)が抱えるテーマだ。

 もちろん高齢者が年々激増している日本でも目を離せない。

 誰にもみとられることなく自宅で亡くなる孤独死のニュースが伝えられるようになって久しいが、最近は日本郵便や新聞販売店などが見守りサービスを行う地域が増えている。

 また、葬儀社や終活関連のコンサルタント業者が地域の団体と協力し、高齢者向けに同種のサービスを提供するケースも一般的になってきた。

 

 一つ一つのアクションは地域社会や民間団体が日常的に実施するものだが、それを国政の一環として展開させていくところが現代的と言えるのかもしれない。

 皮肉な見方をすれば、そこまでやらないと人々が関心を向けようとしないのだろう。

 

 この英国政府の取り組みは、あまりに些細な事のように見える。

 バカバカしいと思ったり、余計なお世話をするな、同じ税金使うなら他にもっとやることあるだろ、と怒り出す人も少なくないだろう。

 

 それにもともと欧米人って、独立した自我を持つよう育てられ、孤独なんて当たり前と思っている民族じゃなかったか?

 

 でも僕は、これは今後の人間社会全般の大きな変化の呼び水になっていくのではないかと思う。

 人の孤独に心を配るという、ささやかで、日常的な蓄積が少しずつ人々の心を変え、やがて劇的に社会を変える――そんな可能性を秘めているというと大げさすぎるだろうか。

 


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僕たちは罪を背負わされている

 

 先日書いたラジオドラマの脚本「ばんめしできたよ」のリライト版は、は、人間の罪悪感がテーマになった。

 

 時々、現代人の人生は、は罪悪感から逃れるためにあるのではないかと思える。

 情報社会型・資本主義的罪悪感。

 

 子どもをいい学校に行かせられないあなたは罪悪を犯しています。

 

 子どもにちゃんとして結婚式を挙げさせてやれないあなたは罪悪を犯しています。

 

 家族に満足な医療を受けさせられないあなたは罪悪を犯しています。

 

 大事な家族が亡くなったのにまともなお葬式を挙げられないあなたは罪悪を犯しています。

 

 お金で幸福は買えないかも知れないけど、少なくとも得体のしれない罪悪感からは逃れられる。

 そう考えて、みんな一生懸命にお金を稼ごうとする。

 

 でも、その「あなたは罪悪を犯している」という情報の多くは、もとをたどっていくと、学校なり、学習塾なり、ホテルや結婚式場なり、病院なり、葬儀屋さんなりがビジネスをするための宣伝メッセージだったりする。

 

 それに気が付く人は少ない。

 だから、あなたも僕も何とか義務を果たそうとする。

 本来は義務でも何でもないことなのに。

 

 そもそも「人間は生まれながらに罪を背負っている」という「原罪」の教えが、キリスト教を広めるための広告(だから神を信じて魂を清めよ)だ。

 

 何が本当に人間として抱かざる得ない罪悪感なのか。

 それはひとりひとりちがう部分もあれば、共通する部分もある。

 

 情報化社会のいたるところから送られてくる大量のメッセージを、いくらかやり過ごすことも罪を意識しないですむ方法の一つかも知れない。

 


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100年ライフの条件と自分ストーリー

 

●みんなの認識は「人生は100年」

 

 リンダ・グラットン/アンドリュー・スコットの「LIFE SHIFT」を読んだのは一昨年の正月のこと。それから2年、あっという間に「人生100年」巷に広がった。

 社会通念というのは怖ろしい。

 こうなるともう現在の平均寿命がいくつかなんて関係ない。

 みんなの認識は「人生は100年」である。

 それが喜ばしいことなのか、困ったことなのかはさておいて。

 

 僕の場合、20歳の頃の自分が現在の、50代の自分なんてまったく想像できなかったのと同様、100歳になった自分なんて思いもよらない。

 いったいどうなっているんだろう?

 

 当然体力は相当衰えているだろう。

 精神の状態はどうか?

 たぶんよけいな欲などが消え去って、割と清楚――いわば子どもに近づいているんじゃないかと考える。

 逆に言えば、そうありたいし、そうじゃないと100年ライフは辛い。

 

●100まで生きる人間の条件

 

 僕は100まで生きる人間には条件が2つあると思う。

 

 一つは幸福であること。

 客観的にどうこうではなく、自分が幸福だと思っているか――自分の人生に納得し満足しているかということである。

 周囲の人からそれなりに愛情を受けているか、といったことも含まれるだろう。

 そうでない人はおそらくストレスにやられてしまう。

 

 もう一つは生き続けるためのミッションを持っているかということ。

 たとえば、自分の戦争体験を後世に伝えるとか・・・

 ビジネスであるかどうかはともかく、「これが自分の仕事」というものを持ち続けることが重要なのではないか。

 

 このどちらか、あるいは両方の条件を満たしている人が100まで生き延びる。

 

●自らの持っているストーリーを探っていく

 

 僕の母親は正月の2日に90歳になったが、10年前に亡くなった父が、最期に「おまえのおかげで良い人生だった。ありがとう」と言い残したらしく、それを心の支えにして今も健康に生きている。

 実家に帰るたびに何回も同じ話を聞かされるが、これはもう両親のためにちゃんと聞かねばならない。

 

 100まで生きるかどうかはともかく、還暦を過ぎたあたりからは準備は必要になってくると思う。

 

 脳は齢を追うごとにどんどん脱皮を繰り返して「100歳の自分」へ向かっていく。

 

 最近は終活ばやりで自分史を書くことなどもポピュラーになってきたようだが、べつに終活じゃなくても、自分史などを作って、自分は本来何者なのか、自らの持っているストーリーを探っていくことが必要なのではないかと思う。

 


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「ばんめしできたよ2019」執筆の三が日

 

 お正月3が日にほとんど家にこもりきりで執筆に取り組んだ。

 昨年、NHK名古屋の創作ラジオドラマ脚本募集で拙作「ばんめしできたよ」がファイナルステージまで上がって「着想はいいんだけどね~」といった講評をいただいた。

 一押ししてくれた審査員もいたというので、それじゃ書き直しに挑戦してみるかと思ったのだ。

 

 あらすじはほぼそのまんまで、登場人物と出てくる施設の設定を大幅に変えた。

 3日で書けたわけじゃなくて、昨年末から1か月以上かけてやっとこさできたという感じ。

 

 ライティング・イズ・リライティング。

 昨日の脳と今日の脳と明日の脳は違うので、書き直しはきりがないし、楽じゃない。

 

 それでも何とかできてよかった。

 物語としてより面白く、より深くなったと、とりあえず自画自賛。

 もちろんリベンジを期して、また別のところのコンペに出します。

 

 おかげで充実したお正月になりました。

 今年もコツコツがんばります。

 


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「安楽死を遂げるまで」:自殺幇助という安楽死

 

 今年読んだ中で最も衝撃を受けた一冊。

 「安楽死を遂げるまで」宮下洋一(小学館/2017年12月発行)。

 

 著者の宮下氏は欧州南部を拠点として活動する国際ジャーナリスト。

 スイス、オランダ、ベルギー、スペイン、アメリカ、そして日本を巡り、各国の安楽死事情をルポルタージュしたこの本は、第40回講談社ノンフィクション大賞を受賞している。

 

●外国人も頼りにするスイスの安楽死事情

 

 世界で初めて安楽死が認められた国はスイスである。この国における安楽死は「自殺幇助」という形で行われる。

 正確には法的に認められているのではなく、刑法に照らし合わせて「罪に問われない」のが実情だ。

 それでも最初の幇助団体が生まれたのが1982年だから、すでに30年以上の歴史がある。

 そして特筆すべきはその団体に会員登録すれば外国人でも措置を受けられることだ。実は近年、日本人の登録者も少なくないという。

 

●「自殺幇助」という手段

 

 以前、安楽死には『積極的安楽死』と『消極的安楽死』の2つがあると書いたが、これに『セデーション』が加わる。これは終末期患者に対して薬を投与して昏睡状態に落とし、その後、水分や栄養を与えず死に向かわせること。いわば延命措置をやめる『消極的安楽死』の一つとも捉えられる。これらの措置はすべて医師が手を下す点で共通している。

 

 これらと大きく異なる安楽死の手段が「自殺幇助」だ。医師ではなく、患者=自殺(安楽死)志望者がみずからの手でみずからの命を終わらせる。これが行われているのは現在のところスイス一国だ。

 (※ただし、アメリカ・オレゴン州で認められている『尊厳死』は、呼称は違うものの実態は自殺幇助と同じとされている)

 

●満たすべき4つの条件

 

 スイスで自殺幇助を受けるには、それを管理運営する団体(いずれも中心メンバーは医療関係者)に会員登録する必要がある。

 しかし会員になれば誰でもすぐに死ねるわけではない。国内に3つある団体はそれぞれ少しずつ規約が違うが、審査の基準――幇助を許可される条件は同じで厳正に守られている。(これらの条件は積極的安楽死の場合も共通している)。

 

1.耐えられない痛みがある。

2.回復の見込みがない

3.明確な意思表示ができる。

4.治療の代替手段がない。

 

 この4つの条件が認められて初めて自殺幇助が行われるのだ。

 

●どのように幇助するのか?

 

 幇助のやり方はおもに2通りあり、一つは用意された致死薬をコップで飲み干す方法。

 もう一つは点滴で血液内に注入する方法。後者の場合はストッパーをかけておき、患者が自分でそれを開封する。

 いずれもその団体に所属する医師の立会いのもとに実行される。

 

 ちなみにオランダなどにおける積極的安楽死では医師が致死薬を注射する方法が一般的だが、スイスではこれを行うと犯罪になる。

 

●外国人の需要と日本人の登録

 

 スイス連邦統計局のデータ (複数の幇助団体から集めた推定値) によれば幇助数は2015年で1014人。2000年にはまだ100人にも満たなかったので、その増加率の高さがわかる。しかもこの数値は国内在住のスイス人のみが対象だ。

 

 ヨーロッパ大陸の中央に位置し、WHO世界保健機関や国連欧州本部など、さまざまな国際機関の本部が置かれたスイスは昔から外国人の行き来が非常に多い国だ。

 

 そうした背景もあり、3団体のうち2団体は外国人に対しても門戸を開いている。少なくとも表立って安楽死(自殺幇助)の措置を受けられるのは、世界で唯一スイスだけなのだ。

 

 ある団体では会員の4分の3を外国人が占め、世界各国から自殺幇助の申請に訪れると言う。その審査はスイス人以上に厳しく、自国の医療機関での診断書をはじめ、精密で膨大な書類の提出が求められる。

 また現地の医師とスムーズにコミュニケーションできるだけの語学力も必要とされる。

 

 登録者の中には日本人の会員も相当数いるようだが、そのうち何人が実際に自殺幇助を申請し、何人が認められて死んだのかは公表されていない。

 

●グローバル化・高齢化の中で

 

 欧米では1970年代から安楽死について活発に議論が交わされ、一部の国では法整備が進められた。

 スイスでは自殺幇助という形でそれが発展してきたわけだが、近年、幇助団体の外国人受け入れに関する情報が世界に行きわたり、スイスへの自殺ツアーが組まれているというニュースまで報じられるようになってきた。

 こうした現象を見て、安楽死に反対する組織・人々がスイスの各団体に厳しい視線を向け始めている。

 

 安楽死の容認・合法化は今や世界的な潮流だが、その是非をめぐっては半世紀を経て再び大きな論争を巻き起こしそうだ。

 今や日本もその枠外ではない。

 欧米各国の動向は、日本人の死に対する考え方に少なからぬ影響を及ぼすに違いない。

 


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「酒、タバコ、やめて100まで生きたバカ」の最後の晩餐は、雪のように真っ白なごはん

 

   人生は思いのほか短い。

 折り返し地点を過ぎると、そのスピードは倍速になる。

 やはり40歳あたりがミッドポイントで、自分のことを振り返ると「健やかに中年」と、年賀状に大きく書いて宣言したことを憶えている。

 そして、その宣言とともに25年間吸っていたタバコをやめた。

 

 「酒、タバコ、やめて100まで生きたバカ」を目指して人生の復路を走りながら頭に浮かぶのは、ゴールする前に何を食べるのか――最後の食事は何がいいのかということである。

 

 これまでおかずのことばかり考えていたが、先日、いや、これはおかずではないな、ということに気が付いた。

 

 お米のごはんだ。

 雪のように真っ白な、炊きたてのホカホカの極上のごはんだ。

 それだけ。

 味噌汁くらいはついていてもいい。

 またはバリエーションとして、そのごはんで握ったおにぎりがあってもいい。

 

 それだけだ。

 そう思いつくと、これぞ日本人の正しい「最後の晩餐」だと疑えなくなってきた。

 

 まぁ、食い物に正しいも間違ってるもないんだけど。

 

 人間は真っ白で生まれて、真っ白で帰っていく。

 これは美しい。

 

 でも本当にそうなるかどうかは、タイムマシンで、未来の、死ぬ間際の自分に会って聞いてみないとわからない。

 

 ちなみに酒はまだやめてないし、100まで生きるかどうかも当然わからない。

 


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悟りを開いてお寺で婚活

 金剛院では婚活専門会社とコラボでして、2ヵ月に3回くらいの割合で婚活パーティーをやっているという。

 最近は婚活もただ飲み食いするだけの会では人が集まらない。

 ○○×婚活で、共通の趣味・指向性を持つ人同士なら話も合いやすいと言うのだ。

 

 というわけで御住職の発想で登場したお寺で婚活。略してテラコン。

 「悟り婚」という名称も使っていた。

 サトリコンとは、なんだかすごい婚活に思える。

 

 婚活パーティーにはナンパ目的の変な奴も構混じって来るらしいが、さすがに仏様のおひざ元であるお寺には仏罰を恐れてか、そういう奴は来ないそうだ。

 

 この日参加したのは220代後半から40代前半の男性15人、女性14人。

 受付スタッフに聞いてみると、テラコンには時間をちゃんと守り、対応も7きちんとしている、いわば紳士・淑女が多いようだ。

 個人情報保護のため、参加者の職業は不明だが、明らかにお坊さんという人も二人いた。

 

 会場は約50畳の広さの客殿。

 廊下からは小さいながら日本庭園や石庭も見え、ちょっとした京都気分。

 ここに集まって最初に写仏をやった。

 

 テラコンにも説法婚活、瞑想婚活、念誦づくり婚活などいろいろ細かいカテゴリーがあるそうだが、この日は「写仏婚活」。

 全員で最初30分弱の時間、仏様の絵を描いて(といっても下絵をなぞるだけ)気持ちを落ち着けるのだ。

 

 と、緊張気味だった室内の空気が不思議とリラックスしたものに変わってきた。さすが寺力(じりき)はすごい。

 その後、閑静な雰囲気の客殿内には賑やかな話し声が溢れ、トークタイム、カップリングと続いた。

 

 御住職に聞いた話で面白かったのが、この写仏について、

 「バリバリ仕事をやっている今時のビジネスマンは、こういうものをやらせてもすごく速い。理解度も抜群で、まるで仕事のようにスピーディーにこなし、成果を上げる。

そういうものとはは違った世界、異なる価値観が持てなくなっている。そういう人にこそちゃんとじっくりやってもらい、見えない大切なものに気付いてもらいたい。」

 

 仕事の領域で評価されても、それはそのまま人生の幸福にはつながらないと言うことか。うーん、さすがサトリコンは奥が深い。

 


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魔除け・招福の猪目と寺力本願

昨日はお寺で婚活パーティーををやるというので出向いてみた。

 もちろん参加者としてでなく取材です。

 境内に入ると、おお、さすが婚活。

 落ち葉でハートマークを作るというイキな演出。

 

 ではなくて、じつはこれは「猪目(いのめ)」という日本古来の文様で、仏教と関係が深く、寺院魔よけや招福のしるしとして用いられているとのこと。

 べつに来たる年が亥年だから・・・・ということとは関係ありません。

 

 猪目とはそのまんま「猪の目」のことだけど、 実物のイノシシの写真を見てみたが、ハート形の目はしていない。そういうイノシシがいたのかなぁ。

 

 それにしても虎の目でも竜の目でもなく、なんで猪の目が魔よけなのかと一瞬訝ったけど、ジブリ映画「もののけ姫」で乙事主(オッコトヌシ)という猪の神様が出てきたことを思い出した。

 田畑を荒らしたり、街中に下りてきて騒ぎを起こす嫌われ者の猪にも聖なる神の一面があるということか。

 

 ん?いや、ここは神社でなくてお寺・・・ややこしくなるのでこれについてはまた後日研究。

 

 

 何でこのお寺に来たかというと、「世界のEnding Watch」に続いて月刊仏事で2つめの連載を持つことになった。

 お寺に関する取材記事が欲しいということで「寺力本願(じりきほんがん)」という企画を出したらGOとなった。

 

 内容はお寺の本業以外の、いわゆるCSR活動(社会貢献)がテーマ。

 ま、お寺は営利企業ではないので、CSRはむしろ本業なのかも知れませんが。

 

 以前にも増して宗教離れが進み、今や葬儀にお坊さんのお経は要らない、戒名もいらない、当然お布施も出さない、お墓も建てない、」面倒見れないからやめちゃうetc.

 

 というわけで、いまやお寺やお坊さんは社会における存在意義を問われている。

 

 けれどもそうした状況に危機感を覚えて、お寺を積極的に開放し、壇家以外の人にも説法をしたり、寺子屋を設けたり、モダンなカフェやギャラリーを開いたり、イベントをやったりして、より多くの人たちに親しみを持ってもらおうとがんばっでいるご住職、地域のカルチャーステーションとして機能しているお寺もたくさんある。

 

 この金剛院(正式には蓮華山 金剛院 沸性寺)は、そうした近年のCSR寺院(とあえて言ってみる)の草分け的存在で、現在のご住職が30年前から地域の人たちに活用してもらおうと様々な取り組みを行っている。

 

 4年前に椎名町の駅の改築に伴って駅前が再開発され、敷地内も大幅に整備。イベント用の多目的スペースやお洒落なカフェもつくられ、とてもきれいで居心地の良いお寺になった。

 

 最近の若い衆は物質的な世界よりも、目に見えない世界に関心を抱く人が多く、このお寺における婚活は結構な人気なのだそうである。

 

 というわけで取材に来たのだが、前置きが長くなってしまったので、そのエピソードはまだ明日。

 


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星のおじいさま 完成

 

 今年もコンペにラジオドラマ脚本の新作を送った。

 「星のおじいさま」。

 

 毎度のことながら本当に最後まで出来るのか、ハラハラしたが、かわいい二人の娘が跳ねてくれたおかげで楽しくできた。

 リライトも十分できた。

 ジュンちゃん、マナちゃん、ありがとう。

 評価はどうだか分からないけど、例によってとりあえず自己満足。

 というわけで、以下あらすじ。

 

 13歳。子供から大人になろうとしている中1女子ジュンの心を占めるのは「地球に生まれてきて幸運だったか?」という自身への問いかけ。

 そこで彼女は小学校時代からの親友マナとともに葬式を巡り「故郷の星へ帰っていく人たち」を見て回っている。

 

 そんなジュンは偶然、終活サポート業の中塚(43)と出会い、彼を介して、ひとり暮らしでハーモニカ吹きの老人・和泉(73)を知る。孤独死予備軍の和泉に興味を引かれたジュンは「星のおじいさま」というあだ名をつけ音信不通の父や死んだ祖父のイメージを重ね合わせる。そして家に出入りするようになり、次第に親しさを深めていく。

 

 その一方で彼女はマナとのセクシャルな交遊をこれ以上続けるのをやめようとしていた。それに抵抗し嫉妬したマナは、ジュンと和泉が不純な関係を結んでいるというスキャンダラスな噂を流し、会えないようにする。

 

 しかしそれを契機に二人は互いを必要としていることを強く感じ、好奇の目に晒される怖れのない競馬場で再会。レースに託して人生を賭けた勝負を敢行する。ジュンの唱えるまじないによって和泉は勝利し大穴を当てるが、その直後、心臓発作を起こして倒れる。

 

 和泉が運び込まれた病院に現われたのは、30年前に別れた息子の小峰仁(43)。彼はジュンと中塚が信じていた、和泉の家族や仕事についてのストーリーがすべてウソだったと明かす。それでもジュンは和泉を救うために、再びまじないの言葉を唱える。

 

 その効力か、奇跡的な回復を果たした和泉は退院し、ハーモニカ吹きとして生きると決める。ジュンはそんな和泉に対し、大人になったらまた会いに来ると言って別れる。

 

 子供だからこそ持ち得た力。それを使い果たしたことに気づいたジュンは、ギターを練習し始め、マナと今しばらく甘え合いながら新しい人生の旅へ出る支度を始める。

 


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宝島社企業広告:樹木希林さん最後のメッセージの衝撃

昨日、朝日新聞と読売新聞に掲載された、樹木希林さんのインタビューをもとにした宝島社の企業広告に衝撃を受けた。これはすごい。面白い。

思わず自分は死ぬ時にこれだけのことが言えるかと思ってしまった。

死して残すこれだけの洒落というかユーモアというか・・・僕が祈らずとも御冥福は間違いない。

 


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高齢者を書くということについて

  

 最近、高齢者・老人のイメージ・概念そのものが本当に大きく変わって

しまった。

 若い世代との交流の仕方もすっかり変わったという印象がある。

 本格的にエイジレスの時代が始まっている。

 

 なので脚本を書いていて、70代とか80代の高齢者を登場させるとセリフ

の書き方に戸惑う。

 もうかつてのように「わしは・・・じゃ」なんて感じでは書けない。

 サザエさんの波平さんや、ちびまる子ちゃんの友蔵さんみたいなのは

現代では通用しない。

 

 かなりマンガっぽいキャラ(白髭の○○博士とか○○師匠とか)ならそれ

でもOKなんだろうけど、ある程度リアル感を追求すると、ぱっと読んだ

だけでは年齢が分からないセリフになってしまう。

 いわばじいちゃんぽく・ばあちゃんっぽくならない。

 

 かつては頑固じじい、性悪ばばあなどもいたけど。基本的にお年寄りと

言えば、人畜無害で善良な市民か、よぼよぼの老いぼれか、師範や大先生

といった人生を極めた人、博士のように専門を極めた人が大半だった。

 

 でも今の高齢者と言えば、時代の変化に翻弄されて迷い、戸惑い、生き

ることにも死ぬことにも怯えながら、それでも自分の人生を肯定したくて

頑張っている人たち――それが全体的なイメージだ。

 

 どんな生き方をしてきたのか、現在どんな状況にあるのか(健康なのかそ

うでないのか、仕事をしているのかしていないのか、家族はいるのかいな

いのか、どこに住んで何を食っているのか・・・)、で、人のセリフは違っ

たものになってくる。

 高齢者を書こうとすると、それがいっそう顕著になるので、バックスト

ーリーを相当作り込まないとまったく書けない。

 

 今は穏やかに静かに暮らしているじいちゃんでも、かつてはゴロツキど

もを震え上がらせた任侠ヤクザだったかも知れない。

 

 今はケチなごうつくなばあちゃんでも、かつては男どもをイチコロにし

た女神さまだったのかも知れない。

 

 一口にじいちゃん・ばあちゃんと言っても、また、たとえそれが架空の

人物でも、それなりの歴史・それなりの世界を持った人間にしっかり向き

合い、人間像を構築していくのはなかなか骨が折れる仕事だ

 ま、それもこれも当たり前の話なんだけど。

  


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旅する仏壇、またの名をお弁当仏壇

 

 エンディング産業展で、遺品整理クリーンサービスとともに特に気に入ったのが「旅する仏壇」です。

 何と言ってもネーミングが最高で、出展ブースの名前が並んでいるだ

けの資料を見たときは、一体なんだろう?と思ったが、現物を見て納得

。おお、こういうものだったのか。

 

 この仏壇というか、ご供養セットはお弁当箱みたいにコンパクトに収

まるようになっていて、どっかへ行くときにバッグに入れて携帯できる

。いわば置き電から携帯電話へ、パソコンからスマホへ、の発想です。

 

 たとえば死んだ親父と温泉旅行に行きたい、おふくろが好きだった花

畑を見せてやりたい、あるいはワンコの散歩コースをまた歩きたいと思

ったら、この旅する仏壇を持って行ってチーンとやれば、思い出に浸れ

るわけです。

 人間の脳はうまいことできているので、たったそれだけでも失った家族に対する回想の深度は段ちがいになるでしょう。

 

 作ったのは若い仏壇職人や木工工芸士のチーム。こうした人たちは結

構すごい技術を持っているのだけど、産業の変化でそれを発揮できる機

会がめっきり減っています。

 せっかく手につけた職を生かすには自分たちで企画を作るしかない・

・と生まれたのが「旅する仏壇」というわけ。

 

 「あの世にいるお父さん・お母さんと旅に出よう」なんてキャッチフ

レーズが似合うかもね。

 


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孤独死の現場・ゴミ屋敷の実態をミニチュアで見せる

 

 孤独死の現場・ゴミ屋敷の実態――誰もが目を背けたくなる現実をミニチュアにして表現。

 べつにアート作品ではありません。

 エンディング産業展で出展した「遺品整理クリーンサービス」という会社(板橋区)の展示です。

 今年のブースで最も印象的だったものの一つです。

 

 毎年エンディング産業展では葬儀やお墓・仏具仏壇を扱う企業のブースが大きく華やかで目立ちますが、年を追うごとに終活・遺品整理・遺族対応といったカテゴリーの業務を行う企業や団体のブースが増えています。

 

 これらの業務は実際に展示する物がないので、パンフレットや販促物をわたすしかありません。

 

 この会社も自分たちの仕事をアピールするには、写真や動画で表現するしかなかったのですが、やっぱりそういうものは見たくないという人が多い。

 

 しかし、こうしたミニチュアを使って表現すると、不思議と抵抗感が薄れます。それどころか、あまりの出来栄えにコミュニケーションが弾みます。

 

 作ったのは小山さんという入社4年目の20代の女性。

 事務などの後方支援をやっているのかと思ったら、ズカズカ前線にも出動するそうで、こんなことを言うと差別と取られそうですが、思わず「え、こんなかわいい女の子が!」と驚いてしまい、20分ばかりその場でインタビューしてしまいました。

 

 前職はアート関係だったのか、趣味としてこうしたものを作っていたのかと訊いたら、まったく違っていて、ある日こういう表現方法があるのではないかとひらめき、生まれて初めて作ってみた――というから、さらにオドロキ。

 

 普段の業務をやりながら空いた時間で作っているので、さすがに最初の作品は完成までに4ヶ月かかったといいますが、それにしても感心することしきりです。

 

 仕事に情熱を持ち、使命感を持ってやっている人には、何か神様に近いものが降りてきて、隠れていた才能を開かせるのかも知れません。

 

 どうしてこの仕事に就こうと思ったのか、どんな気持ちで仕事をしていけるのか、遺体の処理など抵抗ないのかと無遠慮にどんどん質問をぶつけましたが、気負うことなく屈託のない笑顔で答えてくれました。

 

 孤独死、ゴミ屋敷というと悲惨なイメージばかりで、どうしてとか、何とかならなかったのかと、普通の人は思うでしょうが、現場を知る彼女やこの会社の人たちは、ちょっと異なるイメージを持っているようで、非常に考えさせられました。

 

 この話はまたおいおいここで書いていきます。

 


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エンディングライターinエンディング産業展2018

 

 「エンディングライター」として、鎌倉新書の仕事でこの三日間、東京ビッグサイトに通い、恒例のエンディング産業展を取材してきました。

 高齢化社会が進んで、向こう20~30年は毎年、死亡者が増える時代。葬儀関係・お墓関係・仏具関係の業界は活況を呈し、その周辺の終活、相続、遺品整理、遺族対応といった新しい仕事も次々と生まれ、人間だけでなくペットの葬儀なども激増しています。

 

 2008年に公開され、大ヒットした映画「おくりびと」の中ではまだ葬儀屋さんが職業差別を受ける様子が描かれていましたが、10年後の今、この賑わいを見ていると、あれがはるか遠い異国の昔話のようにも思えます。

 

 社会に必要とされ、産業として発展し、経済が拡大するとはこういうことなんだと言えばそれまでですが、やっぱり人の死をネタにお祭りをやっているようで、心の片隅にこびりついた違和感はぬぐえません。

自分もそのエンディング産業・経済の参画者のひとりなんだけどね。

 

 ただし事態はそう単純でなく、活性化する反面、葬式もお墓も仏壇も坊さんも無用論が広がっており、業界は従来の仕事のやり方――というよりも、自分たちの存在意義の見直しを迫られています。

 

 いずれにしてもこの先当分、エンディング産業は、僕たちに「生きるとは何か、死ぬとはどういうことか」を、いろいろ考えさせてくれそうです。

 あなたも機会があればこの業界に目を向けてみてください。

 


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ロンドン旅行記④:メモリアルベンチのある風景

 

 自分が愛した公園で人々と一緒に過ごしたいという故人の思い、あるいはその遺族の思いを表現し寄贈したメモリアルベンチ。

 この世を去った人たちと、その後も生き続ける人たち、新しく生まれてきた子や孫の世代の人たちが、ごく自然に同じ場所で憩い、語らい、ひとときを楽しむ。

 ロンドンではそんな風景を見ることができます。

 

●故人の名前とメッセージを刻んだベンチ

 

 イギリスの公園を歩くと、あちこちに座って休めるベンチが置いてあります。

 その背もたれの部分などをよく見ると名前と生没年、メッセージが彫り込まれていたり、それらを書いた金属プレートが埋め込まれていたりします。

 これは、その公園やガーデン、その場所に通っていた(あるいは縁のある)亡き人を想い、家族や友人たちが寄贈したもので「メモリアルベンチ」と呼ばれています。

 

●80以上のメモリアルベンチが置かれたHolland Park

 

 このメモリアルベンチが80以上も設置されているのが、ロンドン西部のケンジントン地区にあるHolland Park(ホーランドパーク)です。

 広さは日比谷公園ほど。四季の花が咲く庭園やバラ園が設けられ、雑木林ではリスが遊ぶ愛らしい公園で、カフェやギャラリー、子供のための遊び場・施設、ちょっとしたイベントステージなども設けられており、地域のコミュニティの中心として活用されています。

 

 公園の散歩道沿いに、あるいは花壇の周囲などに設置されてあるベンチのメッセージを読んでいくと、見も知らぬ故人の人柄・家族や友人との間柄を偲ぶことができます。

 

 おじいちゃん・おばあちゃんのために、孫を含めた家族が寄贈というケースが多いようですが、中には30代半ばで昨年亡くなった青年のために彼の婚約者らが贈ったもの、あるいはわずか1歳足らずで亡くなったわが子のことを忘れないために両親が贈ったものもあります。

 

●文字から滲み出す切実な思い

 

 老齢の人のものは「IN LOVONG MEMORY OF・・・」といった比較的穏やかな文章が綴られていますが、若い人や子供の場合は、「Funny、warm、loving、thoghful and uniqe」とか、「the most gorgeous baby in the world」など、かなり強い言葉が用いられています。

 

 自分たちが愛した彼もしくは彼女のことを、何とか表現して伝えなくては癒されない遺族の切実な思い、その裏にある無念さ、喪失感の大きさが文字から滲み出していて、ついその場で立ち止まってしまいます。

 

●メモリアルベンチの聖地

 

 このHolland Parkは、僕がむかし働いていた店のすぐそばにあり、休憩時間などに行ってよく散歩していました。

 今ほど数は多くありませんでしたが、当時からこうしたベンチが置かれており、その頃は「何だろう?」とよく意味がわからなかったのですが、そのうちガイドブック内の小さなコラムでメモリアルベンチの話を読んで、そうだったのかと認識した次第です。

 

 そんな思い出もあってロンドンに来るたびに、観光スポットでもないこの公園を訪れるのですが、なんだか毎回、このベンチが増えているような気がします。

 僕にとっては「メモリアルベンチの聖地」とも言えるところです。

 

 先々月から雑誌で「世界のEndong Watch」という連載コラムを書いており、今回はこのことをぜひ紹介したいと思い、泊ったところも歩いて15分くらいのところだったので、じっくり散策・取材出来ました。

 

●自然に風景の一部に

 

 僕がこのメモリアリベンチが好きなのは、飾られている感がまったくなく、ごく普通にベンチとして使われていることです。

 

 座って何か熱心に語り合っているグループもいれば、子どもたちが遊び回るのを眺めているお母さんもいる。

 

 一人で本を読む人、新聞を広げて読む老人もいれば、ジョギングの合間の休憩でドシャーッと寝そべっている若者もいる。

 いちゃついているラブラブカップルもいるし、一緒に座ってアイスクリームを食べているイヌと飼い主もいる。

 時々、リスもちょろちょろと空いているベンチの上で遊んでいる。

 

 毎日いろいろな人たちが(プラス動物も)この公園で楽しみ、何の気兼ねもなくベンチを利用する。

 

もしかしたらその中の何人かは、背もたれのメッセージに気づき、誰かに愛され、少し前に命を終えたその人の暮らしをぼんやりと想像してみたりするのかもしれません。

 

メモリアルベンチの存在はごく自然に風景の一部になっており、この愛らしい公園をより愛の溢れた場所にしているかのようです。

 

●設置の手続き

 

 このメモリアルベンチを設置する手続きは 、住んでいる地区のカウンシル(自治体)に申し込んで料金を支払えば、ベンチの購入からメッセージの彫り込み(あるいはプレートの制作)、設置まで手配してもらえるようです。

 

 費用はその地区によって異なりますが、ロンドンの公園ではだいたい1000ポンド(約15万円)前後であることが多く、ベンチが破損しても10年間は無料で修理してくれるといいます。

 

 ただし、お金さえ払えば作れるというわけではなく、その人(家族)が長年その地域に暮らし、しかも地域のためにどんな貢献をしたか(寄付やボランティア活動などの実績)が問われるようです。

 

●生き続ける人たち・生まれてくる人たちのために

 

 この習慣がいつ頃から始まったのはか定かではありませんが、Holland Parkで見つけたベンチの中で最も古いのは、1983年に亡くなった人のものでした。

 僕がここをウロついていたのは、1985~87年頃だったので、あの頃はまだ始まったばかりだったのかも知れません。

 

 散歩好き・公園好きなイギリス人らしい発想であり、この世から去った後も公共の場で、生き続ける人々・新しく生まれてくる人々の憩い・語らい・楽しみのためにさりげなく役立ちたい・・・。

 

 そんな心象が表現された、とてもチャーミングなエンディングワークが、自然な風景として溶け込んでいるのが、ロンドンの魅力の一つになっています。

 


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西城秀樹さん葬儀:青春の同窓会

 

 「月刊仏事」の取材で西城秀樹さんの葬儀に行って来ました。

 朝9時半、会場の青山葬儀場最寄りの乃木坂駅に着いたら、ホームに黒い服の人たちが溢れ返っています。

 改札横の女子トイレには長蛇の列。

 恐縮しながら喪服のマダムらの列を掻き分けて男子トイレまで辿り着き、あせって身支度を済ませました。

 

 ちょっと話を聞いたところでは、地方から出てきて一泊し、通夜・葬儀と連荘で参加したという人も。

 

 葬儀や出棺の様子はニュースやSNSでいっぱい上がっているので書きませんが、野口五郎・郷ひろみ両氏の弔辞や昭和のスーパースターならではの演出には心打たれるものがありました。

 

 葬儀から出棺の間、葬儀場前を走る青山通りの向こう側までファンがびっしりで、向かいのデニーズの表階段にまで人が溢れているのにはガチびっくりでした。

 

 こうなるとお葬式とは言っても一種のイベントで、同じ時代を生き、ヒデキに胸をときめかせて青春を送った50代や60代の人たちにとっては、ファン同士で顔を合わせる「同窓会」的なノリの人もたくさんいたようです。

 

 ちょっと不謹慎にも聞こえますが、「ヒデキ」がみんなを結びつけるメディア、コミュニケーション媒体になっているのだなぁと思いました。

 

 大勢の人を楽しませ、夢を与えるエンターテイナーとして生きてきたのですから、最期に身を挺してまでその仕事がまっとうでき、「ヒデキ、カンゲキ!」と言いつつ旅立っていけたのではないかと思います。

 

 終わった後もしばらくの間、みんな名残惜しくて、なかなか立ち去れません。

 本当の寂しさはきっとこの後、家に帰った頃にやってくるのでしょう。

 

 おそらくこれから、どんどん昭和のアイドルやスターだった人たちが亡くなっていくわけですが、そのたびにこうしたイベントになるのだろうなと、ちょっとフクザツな気持ちになりました。

 

 ちなみに葬儀参列者への返礼品の一部はハウス食品さんが提供。

 西城さんのCMによる、家庭のカレー普及への貢献度は相当大きかったようです。

 

 でも一緒だった若い女性スタッフは「ヒデキ、カンゲキ!」は知らないそうで「何ですか、それ?」と聞かれて説明しなくてはなりませんでした。

 バーモントカレーは好きだそうですが。

 


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孤独死に備えて

   

 シナリオにするか小説にするか、まだわからないけど、ちょっと新作の卵が育ってきた。

 「孤独死に備えて」。

 

 真面目に人生考えすぎてだんだんおかしくなっちゃう年寄りと、ちょっとイカれた子供と、その間にいるまともな社会人(だけどブレちゃう)大人――との間の愛をめぐる物語。

 実際はこんな堅苦しいタイトルじゃなく、どっちかちゅうとコメディっぽくしたいと思っています。

 

 で、それについて考えていたら、あらぬ妄想にとりつかれ、ここ1週間ほど頭がイカれてしまったというか、タマシイが放浪の旅に出ちゃっていました。

 

 一応なんとか仕事はこなしていましたが、こんな時間が長く続くと、社会生活も日常生活もまともに送れなくなるなという不安感に苛まれ、ブログも手につかないありさまでした。

 

 でも考えてみると20代の頃、一人暮らししていた時代は、時々こんな状態に陥ることがあったと思います。

 その頃の記憶と言うか、生活習慣みたいなものがよみがえって、久しぶりに妄想のるつぼにハマってしまった感じ。

 

 カミさんと暮らし始めてから(結婚するちょっと前から一緒に住んでいるので)そろそろ四半世紀。いい悪いの問題じゃないけど、いわゆる「孤独」を忘れてしまっているのだなぁと感じました。

 

 物語の世界にアクセスしようとすると、自分の中にあるいろいろな感覚が復元出来て面白い。と同時に、ちょっとずつ狂っていきそうで、おっかないのです。

 


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リメンバーミー:「わたしを忘れないで」のメッセージ

 

 昨年見た映画「はじまりへの旅」は、コメディでありながら妙に感動的な作品だった。

 

 文明生活に反してワイルドライフを送る父と子供たちが、都会暮らしで、精神疾患が原因で死んだ(らしい)妻(母親)の遺体を奪還。

 遺言通りに家族自らの手で火葬し、遺灰をトイレに流す、というのがストーリーだ。

 

 この家族はオートメーション化し、形骸化した現代社会の慣習に対する反抗精神を持って生きてきた。

 かつてのいヒッピー世代、フラワーチルドレンのメタファーのように思える。

 

 したがって遺灰をトイレに流すという行為(=流してほしいという遺言)は、その反抗精神の表現であると同時に、逆説的に「わたしを忘れないで」という妻(母親)のメッセージでもあり、家族の記憶の中に永遠にとどまりたい、という思いが込められている。

 

 こうした映画が生まれた背景は、やはり少子高齢化社会だ。

 

 半世紀前、ロック文化が盛り上がり、「Dont Trust Over Thirty」と皆が叫んでいた時代、アメリカの人口は、およそ半分が25歳以下だった。

 

 その圧倒的多数のベビーブーマー世代が高齢化し、自分のエンディングを意識せざるを得なくなった今、ハリウッド映画もそうした社会状況を反映するものが増えている。

 

 世界最高峰のアニメを送り出すディズニー/ピクサーもまたしかり。

 その最新作「リメンバー・ミー」は、メキシコの「死者の日」という民俗をモチーフに作られた。

 

 「死者の日」は毎月11月はじめに行われ、家族や友人達が故人・先祖への思いを馳せて語り合うために、みんなで集まるという。

 

 日本のお盆に共通する伝統文化であり、欧米のハロウィーンの原型とも言われている。

 

 死者の精霊が帰ってくるその日は、家々に先祖を祭る祭壇が飾られ、街は華やかで賑やかなお祭りムードに包まれる。

 

 「リメンバー・ミー」は、その雰囲気を映画表現に置き換え、世にも美しいカラフルでゴージャスな死者の国で、ガイコツの人々が“いきいきと”“楽しく”生活している。

 暗いムード、おどろおどろしいムード、また神聖な雰囲気などみじんもない。

 

 つまりこの死者の世界は、生者の世界と同時に存在するパラレルワールドになっていて、年一度の「死者の日」にだけ2つの間に橋が架かり、死者たちは生者の世界に里帰りする。

 

 こうした設定はメキシコの死生観が下敷きにされているという。

 

 メキシコは16世紀にスペインに征服され、以後、約300年間植民地化。19世紀にそこから独立して新たな国を作ったという経緯から、現在はカトリック教徒が多いが、植民地化される前のアステカ帝国の文化を引き継いでいる。

 

 このアステカ文化の影響で、死を象徴するものが独自の発展を遂げており、「死は、新たな生へと巡る過程のひとつ」という考え方が社会生活の基盤になっている。

生の世界と死の世界を分け隔てる壁がとても薄く、行き来することもそう難しくないと考えられているのだ。

 

 映画ではそこにもう一つ、「二度目の死」という設定を作っている。

 生者の世界で、誰一人としてその人の記憶を持つ者がいなくなってしまったら、その人は死者の世界からも消滅してしまうのである。

 

 テーマである「家族・先祖・伝統」に則った世界観の設定で、とても普遍的なものだが、同時にタイトル通り、そして「はじまりの旅」と同様に「わたしを忘れないで」という、ベビーブーマー世代の強い自己主張を感じる。

 

 ・・・といった面倒なことなど、あれこれ考えなくても、極上のエンターテインメントとして単純に楽しめちゃうところが、ディズニー/ピクサー映画のすごさであり、ハリウッド映画の底力である。

 

 観客対象はもちろん家族向けだけど、お父さん・お母さんとだけじゃなく、おじいちゃん・おばあちゃんも一緒に連れて見に来てね、というメッセージもこめられているんだろうなぁ。

 


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とん平流「こうすればうまくいく」

 

  どんな人でもお葬式になると「いい人でした」「立派な人でした」で、きれいにまとめられてしまうのだけど、さすが先日の左とん平さんのお別れ会は違っていた。

 

 発起人代表の里見浩太朗さんは、お別れの言葉(弔辞)として、祭壇にデン!と据えられた190インチの大画面に映し出された遺影に向かって思い出を語りかけた。

 

 とん平さんと里見さんはゴルフ友達で、一緒にゴルフに出かけるとき、里見さんはとん平さんの家に朝、迎えに行くことがちょくちょくあったという。

 ところがある朝迎えに行くと、昨日麻雀をしに出掛けたきり帰って来てないという。

 その足で麻雀屋へ行くと、とん平さんはまだ麻雀を打っていて「よぉ浩ちゃん、ちょっと待ってて」なんて言う。

 

 「とんちゃん、ゴルフに行くのになんで朝の8時に麻雀屋にいるんだよ」

 と語り掛けると、会場が思わず笑いでほころんだ。

 

 喜劇役者だと、こんなエピソードも輝かしい勲章だ。

 参列者にとっても、在りし日のとん平さんの人柄が、ひとしお心に沁みる。

 

 これだけで終わらず、里見さんはこのエピソードに、しみじみと感慨を込めてこう付け加えた。

 

 「でもそんなときに限って、とんちゃん、すごくスコアがいいんだよねぇ」

 

 とん平さんのゴルフ好き・麻雀好きは有名だったようだ。

 どっちも全力でやっていたのだろう。

 好きなことをダブルでやっていると、ツボが刺激され、相乗効果が起こるらしい。

 徹マンで寝不足だの何だのなんて関係ない。

 集中力がアップし、運も手伝って自己ベストに近いパフォーマンスが生まれる。

 

 仕事でもそうだ。

 好きなことに没頭して気分が乗れば、常識的なマニュアルに則ったやり方よりも何倍も高いパフォーマンスができる。

 

 人間はひとりひとり違うツボをもっている。

 ロボットじゃないのだから、世にはびこる「こうすればうまくいく」式のマニュアルから出てくる能力はごくささやかなものだ。

 

 個々の人間は神秘に溢れた面白い存在である。

 それを無視して一般的な公式、他人の作ったマニュアルに囚われていると、本当の自分の力は発揮できない。

 

 とん平さんと里見さんの最後の対話はそんなことを考えさせられた。

 


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鎌倉新書と新連載企画の話

 

 月に一度、鎌倉新書の打ち合わせで日本橋・八重洲方面に出向きます。

 鎌倉新書というのは葬儀供養業界のWebや雑誌を作っている会社。

 以前は仏教書を出版していたのですが、現会長が社長になった20年ほど前から、機械化とかITテクノロジーとか、非人間的なイメージを嫌うこの業界において、いち早くインターネットでの情報発信にシフトしました。

 

 「いい葬儀」という、消費者と葬儀社とを仲介するポータルサイトを開設したところ、業界内では当初、白い目で見られ、あの会社は代替わりしてダメになったと言われたらしいのですが、そこは時代の趨勢であれよあれよという間に市場に浸透。

 

 特に僕が本格的に関わり出した2年半ほど前から株はうなぎのぼりで、一昨年末にこの八重洲の一等地に引っ越したと思ったら、それから1年も経たないうちに東証一部上場を果たしました。

 

 とは言え、利益分はいろいろ始めた新事業のほうに回っているようで、外部ライターである僕のギャラが上がるわけではありません。

 

 正直、割に合わんなーと思うことが多いのですが、興味のある分野だし、ある意味、高齢化・多死化代社会に関する最先端情報(テクノロジーなどではなく、社会心理的流れとしての情報)にも触れられるので、引き続き、業界誌の月刊仏事で記事を書き、時々Webの方もやっています。

 

 その月刊仏事から新しい連載企画をやりたいけど何かない?と言われたので、以前、このブログで書き散らしたネタを思い出し、「世界の葬儀供養・終活・高齢者福祉」なんてどうですか?と提案したら、じゃあぜひ、とあっさり通って取り組むことに。

 

 国内の出張費も出ないのに「海外出張費出ますか?」なんて聞くこともできず、ネット頼りの仕事になるのは必至。

 でもイラストを描いてくれる人もいるらしいので、伝統文化と最新事情をごった煮にして分析を交えた読物風の話にしようと思っています。

 ごく個人的なことでもいいので、情報あったらお知らせくださいな。

 


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かわいい叔母さん

 

 父も母も昭和ヒトケタ生まれ。貧乏人の子沢山でそれぞれ8人兄弟だ。

 ぼくが生まれる前に死んでしまった人を除き、そのきょうだい、および、その伴侶の全部はしっかり顔や言動を憶えている。

 僕が子供の頃は行き来が盛んだったので、みんなインプットしている。

 

 しかし、9年前に父が亡くなったのをきっかけに、毎年バタバタと後を追うように亡くなり、大半がいなくなった。

 今年もまたひとり、先日、ヨリコ叔母さんが亡くなったと聞いた。

 

 母方は女系家族で8人のうち、7番目までが女で末っ子だけが男。

 ヨリコ叔母さんは7番目。つまり7姉妹のいちばん下の妹だ。

 

 幼稚園の時だったと思うが、結婚式に出た記憶がある。

 きれいなお嫁さんで、チビだったぼくを可愛がってくれた。

 そのチビの目から見ても、なんだかとてもかわいい人だった。

 

 6人も姉がいて、4番目の母(母は双子の妹)とさえ12歳違う。

 いちばん上のお姉さんとは16歳以上違うはずだ。

 なのでほとんどは姉というよりチーママみたいなものだ。

 母もよく子守をしたというし、日替わりでみんなが面倒を見てくれていたようだ。

 

 母の家はお父さん(僕の母方の祖父)が早く亡くなったので、女が協力して貧乏暮らしからぬけ出そうとがんばってきた。

 でもヨリコ叔母さんは小さかったので、そうした苦労が身に沁みず、物心ついたのは、お母さんやお姉さんたちのがんばりのおかげで暮らし向きも上がってきた頃だった。

 そうした中で一家のアイドルとして可愛がられて育った。

 

 そうした成育歴はくっきり刻まれ、そのせいで彼女は、ほかの姉妹らの下町の母ちゃん風の雰囲気とは違う、お嬢さん風の雰囲気を持っていた。

 だから、おとなになってもどことなくかわいいし、ちょっと天然も入っていた。

 

 最後に会ったのは父の葬儀の時。

 さすがに外見はそろそろばあちゃんっぽくなっていたが、中身はほとんど変わっておらず、ぼくをつかまえて

 「せいちゃん、大きくなったねー」と言った。

 

 50間近の男に向かって大きくなったねーはないもんだけど、そう笑顔で屈託なく声を掛けられるとすごく和んでしまった。

 その時の会話が最後の印象として残ることになった。

 

 叔母とはいえ、中学生以降はめったに会うこともなかったので、彼女がどんな人生を送っていたのはわからない。

 

 もちろん少しは苦労もあったと思うけど、べつだんお金持ちではないにせよ旦那さんは真面目で優しくユーモアもある人だったし、特に悪い話も聞かなかった。

 嬉しそうに小さい孫娘の面倒を見ていたのも印象的だった。

 

 たぶん美化しているし、これは僕の勝手な想像であり願いだけど、おそらくそれなりに幸せに過ごしてきたのだろう。

 

 不幸な目に遭ったり、理不尽な苦労を強いられたり、他人にあくどく利用されたり、自分の欲に振り回されたり・・・

 人生の中のそんな巡りあわせで、人間は簡単に歪んでしまう。

 

 でも、できるだけそうしたものに心を損なわれないで、ヨリコ叔母さんのようにかわいい人にはいくつになっても、ずっと素直にかわいくいてほしいなぁと願ってやまない。

 


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星のおじい様と孤独なエイリアン

 

 その少女は一人暮らしの老人と友達になった。

 老人は近隣から奇異な目で見られている。

 彼は特殊な能力を持っており、それで人助けをしたりもするのだが、普通の人たちにはそれが気味悪く映る。

 だから少女にも、あの老人の家へ行くな、近寄るなと言う。

 両親にとってもそれは家族の一大事と受け取られていた。

 

 少女はなぜその老人にひかれるのか?

 老人の語る宇宙の話、昔の話、妄想のような話が好きなのだ。

 彼女は老人がじつは宇宙人で、永年地球で過ごし、近いうちに故郷の星へ帰ろうとしているのではないかと思っている。

 

 老人には少女以外にもう一人だけ訪ねてくる人がいる。

 それは彼の身元保証人だ。

 老人はちゃんとお金を払ってその会社と契約し、自分の死後の後始末をつけてくれるよう段取りしている。

 彼は宇宙人なんかではない、まっとうな人生を歩んで齢を取り、社会人として最期まで人に迷惑をかけずに人生を終えようと考えている、普通のおじいさんなのだ。

 

 そうした現実を知っても、少女は彼がやっぱり本当は宇宙人なのではないかと疑念をぬぐえない。

 彼女はしだいに何とか老人の秘密を探りたいと考えるようになる。

 

 しかし、そんな彼女の行動を心配した両親は、それ以上、老人に近づくことを許さず、彼女を学習塾のトレーニング合宿に送り込んでしまう。

 

 数日を経て帰ってきた少女は両親の目を盗み、再び老人に会いに行くが、彼は呼び鈴を押しても出てこない。と同時に何か気になる匂いがする。

 彼女は身元保証人を電話で呼び、家の中に入る。

 そこには布団の中で孤独死した老人の遺体が横たわっていた。

 

 少女には老人が物理的に死んだことは分かったが、地球から消滅したとは映らない。

 彼女は遺体を運ぶ人たちが到着するまでの間、その老人――「星のおじい様」の時間軸に入り込み、孤独なエイリアンとして、奇妙な冒険に出掛ける。

 


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孤独な老人は本当に可哀そうな存在か?

 

 一人暮らしの高齢者というと、最近はすぐに「孤独死」が連想され、何やらくら~いイメージがつきまとう。

 そうでなければ、家族がなく、身寄りがなく、孤独で可哀そうとか、同情される。

 いずれにしてもネガティブなイメージであることに変わりない。

 

 でも本当にそうなのだろうか?

 彼らはけっこう孤独を楽しんでいるのではないか。

 本当にいっしょにいたいと思う家族ならいいけど、ただ同じ屋根の下にいるだけ、同じ空気を吸っているだけの家族なんて鬱陶しいと思ったりしていないのだろうか?

 

 血が繋がっていたって形だけの家族はいっぱいいる。

 財産などをあてにしてすり寄ってくる家族や親族なんかに、あれこれ気を遣ってもらったって不愉快なだけ。

 

 メディアの「家族は素晴らしい」「家族がいないと気の毒だ」といった大合唱もなんだか胡散臭いね。

 

 それよりも最期まで一人でやっていく、という気概のある生き方をを見せるほうがいい。

 あるいは、血縁にこだわらない、常識にとらわれない、損得勘定抜きの、心の深いところで繋がり合える人たちとの暮らし。

 齢を取ったからこそ、そうした自由や愛情に満ちたものを優先できるという面もある。

 

 幸いにも、そうした人たちをサポートするセーフティネットはあちこちにでき始めているようだ。

 

 「家族の絆」という美名のもとに隠した損得勘定や惰性的な繋がりよりも、自分の意思に基づいて生き、死ぬ「個の尊厳」を優先する時代がすぐそこまで来ている。

 


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ラストドライブ日本版 出発

 

 わたしを思い出の場所に連れてって――

 そんな末期患者の願いをかなえるのが「ラストドライブ」。

 この数年、ヨーロッパで静かに広がってきた、いわゆる終活支援です。

 

 昨年夏、ドイツでの事例を取材したドキュメンタリー番組がNHK-BSで放送されました。たまたまそれを見て感想をブログに書いたら、その時だけアクセス数が5倍くらいに跳ね上がってびっくりしました。けっこう関心の高い人が多いようです。

 

 じつは今年から日本でもこれと同様の終活支援サービスが始まりつつあります。

 さいたま市の「タウ」という会社がCSR(社会貢献事業)として始めた「願いの車」がそれ。余命少なく、一人では外出困難な患者を希望の場所に無料送迎するというものです。

 

 タウは事故車の買い取り・販売を手掛ける会社で、社長がかの番組に心を揺すられ、「自分たちも車を扱う仕事をしているので」と、立ち上げました。

 当面は近隣の病院やホスピスに声をかけて説明し、希望者を募るというやり方で進めていくそうです。

 

  あらかじめ民間救急会社と提携しており、車両は酸素ボンベ、吸引機、自動体外式

 除細動機(AED)などを装備した民間救急車を使用。外出には看護師やボランティ

アが同行。ただし外出は日帰りのみ。

 主治医の了承と、家族の同意を得た上で送迎です。

  

 僕は「月刊仏事」の記事を書くために電話で広報の方と話したのですが、この事業に誇りを持ち、かといって気負うこともなく、たいへん美しい応対だったことにも心惹かれました。

 

 今後、提携先を県内の病院などに広げ、将来的には、活動に理解を示す企業からの協賛も。2019年には公益社団法人にして全国的活動を目指すそうです。

 

 これも高齢化社会・多死化社会における一つの文化になり得るでしょう。 これからの展開が楽しみです。

 


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白滝さんと校庭芝生の本

 

 8年前の今頃、息子が通っていた小学校の校長室に毎週土曜日、10人以上のメンバーが集まり、原稿を手にえんえん編集会議をやっていた。

 校庭の芝生の本を出版するためだ。

 僕はライターの一人だったので、当然、毎回出席。

 一行一行、ああでもない、こうでもないと、時に大激論になる。

 

 基本的に午前中から昼過ぎまで3時間くらいが定時だが、ランチが運び込まれ、日が暮れる時間まで「残業」したこともしばしば。

 いつも芝生の面倒を見ていた、そのメンバーらの本への思い入れはハンパない。

 取りまとめ役の若き編集者Mくんは、おっさん・おばさんたちの執念にヒーコラ音を上げていた。

 

 3月になって本は無事完成し「悠雲舎」という小さな出版社から出版。

 わずかながら書店にも並んだ。

 その悠雲舎の社長が白滝一紀さんだった。

 白滝さんはもともと銀行マンだったが教育方面にも熱心で、出版社も経営し、学校支援本部の本部長も引き受け、当時の校長も頼りにしていた。

 この本の企画にも無償で、全面的に協力してくれた。(発行人は白滝さんの名前がクレジットされている)

 

 その白滝さんが5日前の2月13日、82歳で亡くなったのを聞き、今日はご葬儀に出席した。

 

 永福町駅近辺を歩いている姿が目に浮かぶ。

 ちょっとガニ股の、特徴的な歩き方は遠目でもすぐにわかる。

 僕と会うと、いつも「ヨッ!」と手を挙げて笑って話しかけてきた。

 

 「気のいい近所のおっちゃん」を絵に描いたような人だったが、秋田から上京し、早稲田を出て、有名銀行・有名保険会社の要職を次々と務めた、そうそうたる履歴の持ち主である。

 

 葬儀は神式で行われ(神式に出席するのは確か2回目。焼香でなく、玉串を祭壇に供える)、宮司が祝詞でその履歴を唱えるのだが、あの独特の雅やかな節回しにかの大学・銀行・企業の名前が乗っかると、白滝さんのキャラと相まって、面白かわいく感じ、不謹慎ながら、つい下を向いて笑ってしまった。

 

 校庭芝生の小学校はその後、隣の中学、他の小学校と統合され、杉並和泉学園に。そこでも白滝さんは引き続き、最期まで学校支援本部長を務められた。

 

 当時、音を上げていたM君=エディター三坂氏は、今、僕の仕事のパートナーになっている。

 彼も語るように、あれは本当に貴重な経験だった。

 そして何より、とびきり楽しい思い出――まさか子供の学校であんなことが起こるなんて思ってもみなかった。

 

 いろいろなご縁を作ってくれた白滝さんに感謝。

 どうぞゆっくりお休みください。

 


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北千住の葬儀相談サロンと帰りそびれたウルトラマン

 

 近年は「葬儀相談所」とか「終活相談所」が増えています。

 本日オープンの「葬儀相談サロン ティア北千住」もその一つ。

 ティアというのは名古屋発祥の葬儀社(本社はうちの実家のすぐ近く)で、昔ながらの葬儀屋とは一線を画す、イマ風の垢ぬけた葬儀屋さんです。

 

 オープン記念でこの3連休、一般向け見学会を実施――というので覗いてみると、まだ午前中にも関わらず、結構お年寄りが遊びに来ている。

 中は小ぶりのカフェくらいの広さで、確かに相談サロンとしては狭すぎず、広すぎず、ちょうどいいスペース感。仏壇だの線香だの、いろいろ物販もやっています。

 

 ひと昔前は「縁起が悪い」と敬遠されたこうした葬儀関連の施設も、高齢化社会が進むにつれて抵抗がなくなり、街にもなじんできた感じがします。

 

 そんな感想を抱きつつ、取材を終えた帰り道で会ったのは、オヤジ化したウルトラマン。首から金モールをかけて、昼間っからそば屋でビールを飲んでいます。

 

 もうヒーローとして戦えなくなって、現役を引退して久しいけれど、過去の栄光が忘れられなくて、飲んだくれているうちに光の国に帰りそびれてしまったという感じ。なんだかこれからティアへ自分の葬式の相談にでも行きそうな風情です。

 

 でも、この帰りそびれたオヤジウルトラマンも不思議とこの街になじんでいるのです。

 めっちゃ久しぶりに来たけど、北千住、なかなか味わい深い、探検し甲斐がある街ではないかと思いました。

 


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孤独担当相の誕生

 人は一人で生まれてこれないし、一人で死ぬこともできない。

 「私は一人で生きてきたから孤独でいいのだ」というのは、その人の驕りだと思います。

 

 孤独担当相。Lonely Minister。

 これはジョークか、ファンタジーか、未来小説か、。

 まず抱いたのはそんな感想。

 政治の世界にミスマッチなこのネーミングのセンスは好きです。

 なんかイギリスらしいなという感じがするし。

 

 先日、政府がこの孤独担当相を新設。

 英国社会に影を落とす孤独の問題に取り組むと言います。

 当初、僕が見た報道では「高齢者の孤独死問題に」という形で採り上げられていました。

 割合的にはそれが大きいのかもしれないけど、それだけに限らず、この孤独の問題は全世代にわたっている社会問題のようです。

 うつ病、引きこもり等、精神疾患にまつわる要素もはらんでいるのでしょう。

 

 もちろん、大きなお世話だ、とも思います。

 そんな個人的なことに政府が介入するのか、とも。

 

 そもそもみんながイメージするほど、孤独というのは暗いものでも悲惨なものでもない。

 

 高齢者の孤独死も、本人にしてみたら可哀そうでも不幸でもないのかも知れません。

 可哀そうだ、不幸だというのは周囲の勝手な思い込みで、その人はやっと煩わしい人間関係から解放され、人生の最後に、自由に、のびのびと孤独を楽しむ時間が出来て嬉しいのかも知れません。

 

 孤独の何が悪いんじゃ。ほっといてくれ。よけいなお節介するな。

 

 日本でも英国でも、若かろうが年寄りだろうが、半分以上はそういう人ではないでしょうか。

 

 でも僕は政府がこうして孤独の問題に向き合うと宣言するのは悪いことではないと思います。

 世の中を動かす政治が、現代の社会の中でそれだけ個人個人の在り方を尊重し、手を掛ける価値のあるものとして捉えている――と思うからです。

 

 近代になって自立精神、独立独歩の生き方が理想とされ、そうアナウンスされ続けてきたけど、もしかしたら、それがもう限界に来ていて、何かケアしないと社会がこのままではもたないのかもしれません。

 

 

 「孤独の何が悪い」「よけいなお世話だ」という人は、また、人間生まれるときも死ぬときも一人なんだと言います。

 

 僕は違うと思う。

 人間、周囲の誰かの手を借りなければ生まれてこられないし、たとえ生まれたとしてもすぐ死んでしまう。

 

 死ぬ時だってそう。

 孤独死するのは本人はそれでよくても、自分で自分の遺体を処理できない限り、結局は誰かの手を煩わせ、迷惑をかけることになる。

 

 僕もべたべたした繋がりや面倒くさい人間関係、形にとらわれた付き合いは苦手で、孤独が好きな部類に入ると思うけど、社会が孤独について意識する姿勢を作る、そのきっかけとして孤独担当相なる大臣が登場するのは、アイデアとしていいなと思うのです。

 フィクションみたいで面白いしね。

 どこまで実効性・持続性があるのか、わからないけど、今後ちょっと注目してみたいです。

 


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うおぉぉぉ おれは燃えているぜ!(追悼・星野仙一さん)

 「うおぉぉぉ おれは燃えているぜ!」

 

 河合じゅんじが小学館のコロコロコミックに連載していた「かっとばせ!キヨハラくん」。

 野球ギャグマンガですが、その初回に「中日ドラポンズ」の「ホジノ監督」が、カチカチ山のたぬきみたいに火のついた薪を背負って、このセリフを言いながら登場するシーンに大爆笑しました。

 

 河合じゅんじは同じ名古屋出身の友達なので、プレゼントしてもらった本にいつもマンガのキャラとサインを書いてもらっていました。

 それでいの一番に書いてもらったのが、カチカチ山のホジノ監督。

 

 数々の栄光に包まれた星野投手&監督だけど、僕の記憶にあるのは、

 

 ルーキー当時、巨人にめった打ちを食らってボロボロになって投げていたんだけど、どういうわけかベンチがちーとも替えなかったこと。

 (ラジオ中継でアナと解説が「どうして交替しないんでしょう?」としきりと言っていた)

 

 完全に打ち取って凡フライに仕留めたのに、そのフライを宇野勝選手が頭に当ててヒットにしてしまい、キレまくったこと。(球史に残るボーンヘッド「ヘディング事件」)

 

 阪神の監督時代の日本シリーズ、甲子園で3連勝して嬉し泣きしちゃったのに、その後全部負けて、結局、日本一になれなかったこと。

 

 本人にとってはろくでもないところが印象的なんだよね。

 けどもちろん、ドラゴンズが優勝した時は僕も泣きました。

 楽天でついに日本一監督になった時も嬉しかったなぁ。

 

 しばし名古屋にいましたが、名古屋のテレビは星野さん追悼のニュースだらけでした。

 やっぱり星野がいた時代のドラゴンズは面白かったでよ~(強かったというより、面白かったという印象が強い)。

 名古屋人にとって、やっぱり星野さんは阪神・日本代表・楽天はオマケみたいなもので、中日ドラゴンズの♪星野仙一、強気の勝負~(「燃えよドラゴンズ」より)なんだがや。

 

 もう一つ、星野さんは女性にもめっぽう人気があった。

 それは愛妻家だったからだと思います。

 妹が、奥さんを亡くした時の、憔悴した星野さんのニュース映像をよく憶えていました。

 野球なんてまったく興味を持ったことがない妹ですが、女はそういうところをよく見ていて、星野人気の隠し味になっていたようです。

 

 野球――特に日本のプロ野球にはすっかり興味を失って、最近は、高校野球と大リーグの日本人選手の活躍をちょろっと見るくらい。

 星野さんが亡くなって、ますますプロ野球が遠くなりそうです。

 

 もう一度、「かっとばせ!キヨハラくん」を読んでホジノ監督の激闘ぶりを笑って偲ぼうと思っています。

 


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秋田犬と終活スト―リー

 

年末に秋田犬となまはげとナマケモノの話を書いたら、秋田県から仕事が来ました。

ホントの話。

秋田の終活に関するお仕事です。

 

「月刊仏事」の仕事をやっていると、最近、終活が一大トピックになってきたのが分かります。

特に 昨年は関連ニュースも多く、専門団体の活動なども活発化した気がします。

終活と言っても、相続などの現実的な財産関係から家族の問題、心の問題まで、いろいろバラエティがあります。

そして、お金の問題も心の問題も結局ひとつながりなことも分かります。

 

終活と言うと、やっぱりちょっと暗いイメージがあって引く人も多いのだけど、「個人史」とか「自分ストーリー」の作成みたいな見方をすれば、ちょっと違うかも。

 

人生100年とか、二毛作・三毛作とか言われる時代、誰でも半ばを過ぎたかなと思ったら、終活かどうかはともかく、自分の人生・生き方を振り返ってみる必要があるのかも知れません。

 

秋田の仕事は楽しみです。

秋田を旅する機会があればいいなぁ。

 


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安崎暁さん感謝の会 取材

 

先週、日経新聞に建設機械メーカー、コマツの元社長・安崎暁さんが広告を出しました。

 がんに侵され、余命が短いことを医者に宣告されたとのと。

 延命治療はしないと決めて、それならと元気なうちにご縁のあった人たちにお会いしたいので、「感謝の会」を開くという内容。。

 企業のトップを極めた人の、まだあまり前例のない、ご本人主催のいわゆる「生前葬」です。

 

 というわけで「月刊仏事」も記事にしたいというので、今日は赤坂アークヒルズ「ANAインターコンチネンタルホテル」へ取材に。

 大宴会場に約700人のお客さんが訪れました。

 

 メジャーな新聞に広告を出したので(ご本人は広告はやりすぎだったかも・・・と後からおっしゃっていましたが)、このクラスの人になると社会的反響もすごく、ネット上で「カッコいい」とか「豪傑」とか言うこと言葉が行き交いました。

 それだけ終活に興味を持つ人が増えているということでしょうか。

 

 でもご本人はそんな気負った風情もなく、にこやかに宴を楽しまれていたようです。

 中締めで、東京最古の連による「阿波踊り」も登場(ご出身が徳島なので)。会場を巻き込んで大盛り上がり。

 でも途中、お囃子が「ふるさと」のメロディーラインに変わり、長老がソロで踊るシーンがあってちょっと泣けた。

 

 開会中は取材・インタビュー禁止だったので、終宴後、別の部屋で記者会見。

 

 最後に僕が「一個人に戻って何かやり残したことはありますか? この後、残された時間でやりたいことは?」と質問するとゴルフの話になり、「ホールインワンはヘタくそな人ができえるんです。僕は今までホールインワンを4回やった。5回目やったらホテルオークラのが大宴会場を貸し切ってぢパーティーをやる予定だったんだけど・・・・」と笑顔で語ってくれました。

 

 人の顔は本当に好きな事の話をするとき、何とも言えない輝きを放つ。

 幻になった5回目のホールインワンを胸に、充実した最後の日々を送っていただきたいと思います。

 


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「ばんめしできたよ」ができたよ

 

 新しいラジオドラマ脚本「ばんめしできたよ」ができました。

 主役のヒロコちゃん、お疲れ様。最初は男だったけど、途中で性転換しました。

 おかげでちょっと色っぽい話も盛り込めた。

 予定よりずいぶん延びてしまったけど、出来てしまうと何だか寂しい。

 コンペに出したので、とりあえず結果待ちします。

 

 あらすじはこんな感じです。

 

 「あなたは人生最後の食事に何を食べますか?」

 ホスピス「虹の彼方」に入居した余命わずかの人たちに、若き女性天才料理人と中年紳士の給仕人はそう問いかける。

 

 食事は人生で最も大きな喜びの一つ。ここでは最期にその喜びを味わってもらうために「最後の晩餐」を用意する。

 料理人ヒロコが入居者からそれぞれの人生の物語を聞いてメニューを考え、最後にふさわしい料理を作るのだ。

 そして給仕人のモリヤは、その料理に仕上げのスパイスをかけて提供する。

 

 「ただ食うために生きてきた」

 今回、「虹の彼方」に入居してきたのはフジムラという末期がんの患者。

 真面目に会社勤めをして定年を迎えた孤独な彼は、恋も夢も家族を持つことも諦め、ただ働いて生き長らえてきたことを後悔している。

何も欲せず、人を傷つけないようにしてきたのに、どうしてこんな病気になったのかと取り乱す。

 そしてまた、自分は食べたい物など何もないと、メニュー作りに協力しようとしない。

 

 そんなフジムラに対し、ヒロコはホスピスへの思いや将来の展望など、自分自身をさらけ出して奮闘。

 彼の恋の記憶を引っ張り出し、実は彼も料理人になる夢を持っていたことを思い出させ、やっとメニューを作り上げる。

 

 その日。食卓に並んだヒロコ渾身の作品。

 しかしそこでフジムラは、これを最後の晩餐にしたくない、なぜならヒロコに恋してしまったからだと、胸の内を打ち明ける。

 モリヤは土壇場で生への執着を持ってしまった彼を諭し、何とか食事をさせようとする。

 

 そこでヒロコは気づく。以前から心の片隅に抱いていた疑念が解け、確信に変わり、彼女はモリヤと対峙する。

 そしてこのホスピスの成り立ち、最後の晩餐の奥にある秘密、それを取り仕切る給仕人モリヤが本当は何者なのかを問いただす。

 


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国境なき医師団に遺贈の問い合わせ急増

 

 先月末から今月初めにかけて有楽町・交通会館で開かれた「学べる終活テラス」。

 月刊仏事の取材で出向きましたが、実行委員会の代表に話を聞くと、最近、国境なき医師団の日本支部へ「資産を遺贈したいのだが・・・」というメールだか電話だかが頻繁に来るとのこと。

 それで実行委員会にどうしたものかと相談が来て、その結果、今回のイベントをすることになったのでそうです。

 

 お金も予約も要らず、誰でもフラッと立ち寄れる、というのがコンセプト。そして注力テーマは遺贈。

 高齢者人口の高い有楽町という場所が良かったのが、結構集客できたようで、今日来たメールでは、4日間でのべ約400人が参加したそうです。

 

 どうも貧乏人はお金さえあれば人生OKと考える傾向がありますが、あればあったでいろいろ心配事や面倒なことも多そうです。

 そしてまた、それまで私利私欲に走っていた人も、いざ人生を締め括る段になると、自分がやってこなかったことに関して、あれこれ悩むことになるのでは・・・。

 

 いずれにしてもお金の余っている人、血を分けた家族同士の血で血を洗う「争続」を見たくない人は、すすんでこうした社会活動に遺贈してほしいと思います。

 自分の財産がみんなのために、未来のために生きれば、こんなに幸せなことはないよね。

 


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安楽死できる国は幸せか?

●安楽死を合法化したオランダ

 

 以前、安楽死を題材にしたドラマを書いたことがある。

 「近未来SF」と評された(その頃はまだ「近未来」という言葉が結構流行っていた。今世紀になって以降、死語になった)が、20年あまりたった今、その近未来は、完全に現実に結びついた感がある。

 

 「月刊仏事」の新企画で「世界のエンディング事情」のリサーチを進めていたら、もうすでに安楽死が合法化されている国があった。

 2002年、すでに15年前、世界で最初に安楽死法を施行したのはオランダである。

 

 オランダは不思議な国だ。ドラッグも売春も安楽死も、悪徳ではないかと思えることをどんどん合法化していく。

 

 自由な意思を尊重している。

 

 と言えるが、見方を変えると、人間はどうしようもなく愚かで弱くて悪徳から逃れらえない存在である、という一種の諦観のような考え方が根底にあるのではないか。

 

 だから、たまには現実なんか忘れてラリりたいし、いろんな女とやりたいし、痛いのや苦しいのをガマンするのはイヤだから、助からないと分かったらさっさと死にたいし・・・といった素直な思いをみんな受け入れましょう、ということで、国が運営されているのかも知れない。

 

 一度、受け入れ、許されたものは再び戻ることなない。

 アムステルダムの飾り窓が観光の呼び物の一つとして定着してしまったように、安楽死もかの国の生活の中に溶け込んでいていく。

 

 そしてオランダに続いてベルギー、ルクセンブルグが安楽死を合法化している。

 ヨーロッパの中でも、どちらかというとマイナーな存在のベネルクス3国がこうした先進的(?)な社会を作っているのはとても興味深い。

 

●家族主体の日本ではやっぱNG?

 

 日本はどうか。これに倣って安楽死合法化は難しいと思う。

 日本の場合、根底に死は個人のものでなく、その周囲のもの――家族あるいは医療者に委ねられるものという暗黙の了解があるからだ。

 

 自分の命は自分の自由にしていい、という考えは許されない。

 

 そもそも安楽死するかどうかを決めるのはその人本人でなく、“させるかどうか”を決めるのは家族だ。

 

 生死を決する際は、家族の気持ちが個人のそれよりも強く働き、尊重されるようになっている。

 そうした歴史が続いてきて、ひとつの文化になっているから変わりようがない。

 

●安楽死の近未来

 

 しかし、それも僕の思い込みに過ぎないのかも知れない。

 

 最近の、人の内面を動かす時計の廻り方はとても激しく、最近は「個人」がずいぶん強調されるようになっている。

 もしかして10年後くらいには安楽死の合法化が、少なくとも検討されるところまではいくかもしれない。

 

 ちなみにオランダでは、安楽死数は2006年に約1900人だったが、2012年には約4200人までに増えているというデータがある。

 これは同国の年間死亡者数の3%に上る数でだという。

 ここから5年経った現在ではどうなのだろう?

 増えこそすれ、減っているとはとても思えない。

 聞くところによると最近では“安楽死専門クリニック”まであるようだ。

 1990年代に書いた僕のドラマの世界は、とっくに追い越されている。

 


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ロボットが社会に出てくるからこそ、人間の在り方について考えられる

 

 先月の「エンディング産業展2017」では、ロボット導師(お経を唱えるお坊さんPepperくん)がセンセーションを巻き起こしました。

 

 じつはここ数日、その提案を行なった企業とやりとりしていたのですが、聞くところによると、反響・問い合わせがものすごく、その大半はかなりネガティブなものだったようです。

 「死者を冒涜している」とかね。

 

 目立つし、エンターテイメンタブルなのでメディアにとっては格好の素材。

 面白おかしく、なおかつ、「これからの葬式はどうなっちゃうんだ~」みたいな煽るような報道をするので、ひどい誤解を受けた、とその企業の人は語っていました。

 

 ゆるキャラ的な領分でならいいけど、やはり人々はロボットが社会に入ってくるのを快くは思っていないようです。

 それが葬儀のような、心に深く関わる領域、人間の尊厳に触れる領域に顕れたので、そういう感情が露呈されたのだと思います。

 

 僕も以前、そのうち、美男美女の看護士アンドロイドとか登場するのでは・・・と書いたことがあったけど、医療・介護・葬祭などの分野では割とロボットが活躍するシーンが多くなるのでは、と考えています。

 

 なんというか、人間よりもロボットに面倒見てもらったほうが気がラクだ~、癒される~という人も結構多いのではないかな。

 お葬式もロボットにやってもらいたいという人だって割といるかも。

 亡くなる本人はそれでよくても、遺族が許さないだろうけど。

 

 人間の心、尊厳に触れる領域で、ロボットやAIを使うのには相当抵抗があるというのが現在の社会通念だけど、坊さんや牧師さんがロボ化するかどうかはともかく、これからIT技術が入り込んでいくことは必至。

 

 だからこそ「人間の尊厳とは何か?」という議論が巻き起こる。

 それって、むしろ良いことだと思います。

 

 というか、これから先は「人間の在り方とは?」「人間にしかできにことって何だ?」を考え、議論するのが、どんな職域でも人間のメインの仕事になるのではないか・・・そんなふうに思えるのです。

 


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エンディング産業展2017おまけ:一生消費者で終わらないために

 

 今年のエンディング産業展は、けっこうあちこちでニュースとして採り上げられ、話題になっていたようです。

 「最後の成長産業 年間売上○兆円の大市場」とかね。

 

 マスメディアの採り上げ方はどうしても皮相的になるので、ロボットの坊さんとか、ネットを使った遺影サービスとか、きらびやかなお墓や仏壇とか、やっぱりそういうのになってしまう。

 

 わいわい面白がるのはいいけど、葬式とかお墓の世界がこんなに明るく楽しくなっちゃっていいのか? いったい世の中どうなっちゃうんだ?

 といった違和感を抱く人も多いのではないでしょうか。

 

 僕も業界情報誌のライターという立場上、あちこちのブースを回って出展者と話す会話は、

 「売上、すごく伸びてるみたいですね」

 「ずいぶんシェアが広がりましたね」

 「そんなにそのニーズが大きいんですか?」

 「マーケティング戦略はどうですか?」

 

 といった感じで、改めてふり返ると、なんだかすごい違和感を感じるのです。

 

 ビジネスの世界なんだから当たり前だけど、提供する側も受け取る側も、それだけに終始していると、これらの商品やサービスを使う人はみんな「お客様」であり、「消費者」になってしまう。

 

 僕らは現代の消費社会では、市民とか人間とかではなく、「消費者」と呼ばれるのにふさわしいけれど、最期までそれでいいと思っている人は、そういないはず。

 

 これからやってくるエンディング=死について思いを巡らすことは、今ある生をより充実させることです。

 最期まで消費者として終わって満足・納得だ、という人はいいけど、そうでない人は、自分の人生をこれかえら終わりに向けてどうしていくのか、エンディング情報をきっかけにリ・クリエイトしていければいいのでは、と思います。

 


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エンディング産業展2017 3日目:この業界の面白さ

 

 鎌倉新書の仕事を初めてやった5年前には、エンディングやら終活やら、といった言葉がここまでポピュラーになるとは思わなかった。

 

 ここでメインになるのは経済・産業の話だが、そこに文化やら歴史やら宗教やらがかなり濃密に関わってくるのが、この業界の面白いところ。

 

 これまでは「葬式・お墓ってみんなこんなもの」と思っていたけど、最近はお決まりのテンプレートの中にはめ込まれて、「いい人でした」「立派な人でした」「家族思いでした」といった定型文でまとめられて人生チャンチャン!にされてしまうことに、みんな我慢ができないのだ。

 そんなものにお金を払いたくないのだ。

 特に今、70より下の戦後生まれの人たちは。そうですよね?

 

 だから文化やら歴史やら宗教やらに関する知識やら感性やらが、大きな価値になる。

 個人個人の話を聞き、思いに応えられrることが大きな価値になる。

 そうした価値をいかに経済に変換できるか

 

 ・・・てなことを考えた3日間でした。

 でもきっとこれは、この業界に限った話じゃないね、きっと。

 


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エンディング産業展2017 2日目:石造キティと出会い、巨大石臼ひきを体験

 

 エンディング産業展に併設というか、インクルードというか、されているのが「ジャパン・ストーンショー2017」。

 

 墓石業界も苦境を打開しようとPRに必死。

 斬新なデザインのお墓、ユニークなデザインのお墓がいろいろ提案されています。

 

 そのおへそに陣取る日本石材協会のブースでは、東日本大震災や熊本地震の際にボランティア活動をした関係で、熊本物産展もジョイント。

 

 昨日はなんと、くまもんも応援にやってきて、大騒ぎだったらしい。

 

 しかし僕はセミナー取材の時間と重なっていたたため、くまもんにはお目にかかれなかった。ざんねん。

 

 その代わりと言っちゃ申し訳ないけど、ビッグでロックなキティちゃんと2ショット。

 巨大石臼もぐりぐり回しました。

 

 


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●エンディング産業展2017 レッツ・ラーニングは世界の潮流

 

 今日から東京ビッグサイト(国際展示場)で「エンディング産業展2017」が始まりました。

 昨年に引き続き、鎌倉新書(この産業展のメディアパートナーになっている)の仕事で、25日・金曜まで3日間取材漬け。

 

 今年は「教育」「学び」が大きなテーマになっており、大小併せて100を超えるさまざまなセミナーがすべて無料受講できることになっています。

 

 もちろん、ビジネスチャンスを作る場ではあるのだけど、そのためにもこれまでの常識や古いノウハウに頼っていないで、この機会に新しいことを勉強し始めてください、というわけ。

 

 エンディング産業界に限らず、世の中、あらゆることが学び直し・勉強し直しの時代に入っているということです。

 

 今日にの取材のメインは、11:00から2時間半にわたって行われた東アジア国際葬送シンポジウム。

 中国、台湾、マレーシア、韓国の4ヶ国の葬祭関連の教育機関、研究施設の代表者を招聘し、自国における人材育成の実態について話しました。

 

 どの国も日本を追って発展し、近代化してきましたが、そのスピードはすさまじく、この葬祭関連の人材育成という文太では、すでに日本をしのいでいます。

 

 韓国では関連学部を設けている大学もあり、エンディングを実務のみならず、総括的に、アカデミックに扱い、死について――命について勉強している。

 こうした潮流が世界的に広がっており、それは近々、日本にも波及してくると思います。

 


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ロボットみたいなプロフェッショナルより、ヘタで未熟な若僧のほうが好印象という話を聞いた

●あえて若者を使うという葬儀社の社長

 

 現場の担当者はできるだけ若い社員に任せるようにしています。

 ベテランがやったほうが安心感はあるのですが、あまりに手慣れた感じ、こなれたやり方で仕事をすると、ルーティンワーク的、ビジネスライク的といった印象を与え、マイナス評価に繋がってしまいます。

 それよりも息子・娘・孫のような若者が一生懸命奮闘している姿を見せたほうが年輩の喪主の胸に響く。

 少々の失敗も大目に見てくれます。

 

  「月刊仏事」の電話インタビューで、こんなことを話してくれたのは秋田の老舗葬儀社の社長さん。

 話し声からはのんびりした感じのキャラかなと思ったが、なかなか経営者としてキレてる、と見た。

 すごく納得できる話だ。

 僕がお客の立場でもまったく同じように感じると思う。

 

 若者よ、失敗をおそれず、がんばれ!

 おじさん、おばさんはきみらに甘いよ、やさしいよ。

 逆に言えば、若いということは、ただそれだけで大目に見させる才能があるということです。

 ただ30も半ばを過ぎちゃうと、なかなかそうはいかなくなるけどね。

 

●あなたのやっている仕事、磨いた技術は本当に価値があるのか?

 

 もうひとつ―ー

 なんだか仕事に対する価値観が変わってきているような気がする。

 この話と似たようなことを、以前、民家での看取り看護をやっている人からも聞いたことがあります。

 

 いわく「葬儀屋さんはプロだから、なんでもテキパキ仕事をこなしちゃう・・・」

 

 その人から見れば、あまりに無駄のない、スムージーなその仕事ぶりが、なんだか心がカラッポのロボットの動作のように映ってしまったのです。

 実際にやっているスタッフはちゃんと心を込めているつもりでも、長年培った技術は自然と身体を合理的に動かしてしまう。

 

 難しいものです。

 きっと人は心のどこかで、昔あった隣組の人情というか、近所の人たち(もちろん素人)が集まって、みんなで亡くなった人を送ってあげる――そうしたお金を介さない、心だけでやる仕事ぶりを葬儀屋さんに求めているのかな?と考えました。

 

●これは葬儀屋さんだけの問題?

 

 さらに、これは葬儀屋さんだけの問題だろうか?とも考える。

 

 従来はうまくスムーズにテキパキ仕事をこなすのがプロだし、「できる人」だったが、今はそうとは限らない。

 

 特にサービス業では、そういうのは嫌われちゃったり、つまらないと思われたりして、むしろ素人っぽい感じでやったほうが受けたりもする。

 

 文章なんかでもやたら流麗だったり、きっちりまとまった文章よりも、へたくそだったり不器用だったり、ちょっと拙いくらいのほうが気持ちが伝わる、と言われたりもする。

 その場合、気持ちを伝えるのが最終目標なので、うまい文章よりヘタな文章のほうが価値が高い、となるのです。

 

●もしダメなら勇気を出してリセットできるか?

 

 もちろん業種やその仕事の種類やTPO、お客さんが究極的に何を求めているかに寄るんだけど、人の心に響く、本当に人の役に立つ「プロの仕事」ってどういうものか、

 自分のスキルは今の状態、あるいは自分がより磨き上げようと指向している方向でいいのか、

 考え直す時代がきているのではないかと思います。

 

 そして多くは勇気を持ってリセットする必要があるのかも。

 


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長く生きるのは、それだけで価値がある――と誰もが思えるように

 

 いつもやっている「月刊仏事」の仕事。今回は秋田・山形の特集。

 東北地方はどの県も宮城を除き、人口減少率・高齢化率が全国ワーストクラスという厳しい現実と闘っています。

 

 今回、両県の民俗資料を調べていたら、土葬をしていた時代の野辺送り(葬列)について詳しく書かれていました。

 

 秋田県小阿仁村(「マタギの里」として有名らしい)の資料では、大正時代、昭和30年代、昭和50年代と、3つの時代の事例が載っていました。

 

 ビジュアルがなく、文字だけなので、なかなか想像しづらいのですが、それでも比較してみると時代ごとの移り変りが分って、なかなか面白い。

 

 その中で「柳」というのがあり、これは何だろう?と思って読んでみると、こんな解説。

 

 柳とは亡くなった人が80歳以上の時、作るもので、小瓶に入れた酒や菓子を柳の木にぶら下げ、墓に行くまでに近所の人たちに取ってもらうのである。この酒を飲んだり、菓子を食べたりすると長生きできると言われている。

 

 小瓶に入れた酒や菓子を柳の木にぶら下げ――というのを想像してみると、東北という土地のイメージも手伝って、なんだか「遠野物語」のような、ジャパニーズファンタジーの世界が広がります。

 

 前回、福島・茨城の時も、長生きし、大往生した祝いとして、葬儀における銭撒き・餅撒きの風習があった(現在もわずかだが、ある)ことを発見しましたが、山形・秋田でも同じ趣旨の風習が伝えられていたのは興味深い。

 

 ビジュアルをイメージすると、まさしく「人生の卒業祝い」という感じがします。

 

 最近のお葬式ははなるべく目立たないよう、残されたごく親しい人たちだけでひっそり行なうことが主流になりつつあります。

 

 それはそれでいいのだけど、一方で、こうした卒業祝い的なセレモニーーー故人はこんな人生を送ったんですよ、という表現は、あったほうがいいのではないか、と思います。

 そんなにお金をかける必要はありませんが、できる範囲で。

 

 特に高齢で亡くなった場合。

 現代は80歳以上生きるのはごく当たり前になってきて、希少な価値は薄くなりました。

 定年退職して仕事から離れて久しい人、社会的な活動をしていなかった人だと、なおさらその価値は認めにくいでしょう。

 

 それでも長くこの世で生きて、大勢の人に影響を与えたことは尊重され、周囲の人たちによって何らかの形で表現されるべきなのでは、と感じます。

 生きるということは、たとえその人がどこにいても、どんな状況であっても、それだけの時間、出会った人たちの生に影響を与えているということなのだから。

 

 誰でも生きて存在している限り、誰かとつながり響き合っている。

 また、誰もがそのような意識を持って、自分が生きている意味と価値を感じられるような社会であってほしい、そうしたいな、と思います。

 


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映画やテレビドラマの世界では高齢の犯罪者が増えている?

 

 何かデータがあるわけでなく、あくまで個人的な印象に過ぎないのだけど、最近の映画やテレビドラマでは高齢の犯罪者が多く登場しています。

 

 もちろん昔でも、ヤクザの親分とか、ギャングのボスとか、政財界の黒幕は高齢だったのですが、最近は下っ端の実行犯や、普通の市民の犯罪者も高齢者というパターンが増えている気がするのです。

 

●老人=善人のイメージの崩壊

 

 物語を作る立場で考えていくと、かつては基本的に老人=心穏やかで優しき善人、頑固だったり、ちょっとヘンテコだったりしても愛すべき心の広い善良な人、「悟っている」とは言わないまでも、世の中を達観した、それなりの領域に達した人間というイメージが強かった。

 

 作り手の思い込みもあるけれど、それ以上に、高齢者に対する社会通念と言うか、世の中の常識というものが厳然と存在していました。

 

 つまり、老人と言えば、容貌の衰えに反比例して精神は美しく磨かれた善人か、たとえ悪人でも、人の上に立つ者、大勢の部下の尊敬なり畏怖なりを勝ち取っている者でなければ、見る側の観客が納得してくれなかったのです。

 

 それはまた、人間が年齢を重ねるとともに、現世における欲望の渦とか、負の感情の濁流から徐々に遠ざかり、真の大人になっていく、人間的に完成していく・・・という、人々が共有する信念でもありました。

 

 つまり、精神の円熟した立派な大人が、同情するに価する、やむを得ない事情がない限り、殺人などをはじめとする社会を混乱させる重罪に手を染めることはないーーそう考えるのが基本でした。

 

 けれども最近は事情が変わり、影の裏ボスみたいなのに、いいように操られる高齢犯罪者が急増しています。

 彼ら・彼女らの中には、不治の病で余命いくばくもない運命で、人生の夢が絶たれてしまった人、未来をみずから絶ってしまった人も。

 それなら最後に何かでかいことをやって名を残したい・・・といった、とんでもなく自己チューな動機で犯罪に手を染める人、他人を巻き添えにして自殺してしまうような人が目立つのです。あくまでドラマの世界のことでだけど。

 

●洗脳も簡単

 

 例えば、IS(イスラミック・ステーツ)などのテロ組織は、言葉巧みに若者を洗脳して、自爆テロの犯人に仕立てあげます。

 

「この腐った社会を正すんだ」とか、

「これでキミの命が輝く」とか、

「価値ある人生にできる」とか、

「本当に人の役に立つにはこういうことをしなくちゃいけない」とか・・・

 

 まるでどこぞの自啓発セミナーで頻発しているようなセリフですが、個人のパーソナリティに合わせて、こうしたセリフを吹き込むことで、現代なら、いい齢をした高齢者でも簡単に洗脳できちゃえるのではないかと思います。

 

●現実の反映

 

 再び作り手の立場に立てば、推理ドラマ・犯罪ドラマを作る際、従来の年功序列のパターンより、若者や子供、あるいは人類の子供たる人工知能に指示されて、高齢者が犯罪を犯すーーといった物語のほうが目新しくて面白い。

 そして今ではそれが、観客も納得するリアリティを持ち得る。

 

 言うまでもなく、こうした映画やテレビドラマで起きる現象は、肥大した自己といつまでも続く欲求不満を抱え、永遠に大人になれない高齢者が急増している現実世界の反映です。

 

 肥大した自己といつまでも続く欲求不満を抱え、永遠に大人になれない高齢者は、怖ろしい犯罪の予備軍ともなり得る。

 あまり認めなくないことですが、そう遠くない未来に仲間入りする僕も、そうした現実を変えていく努力をコツコツやっていかないとなぁ、自分を大切にしないとなぁ、と思っています。

 


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ラストドライブ:人生最後の旅

 

 昨日、たまたまテレビ(NHK-BS)で「ラストドライブ」というドキュメンタリー番組を見ました。

 

 ドイツのあるボランティア組織の話で、死にゆく人のために、最期に訪れたいところに車に乗せて連れて行く。そしてスタッフが一緒に一日を過ごし、彼もしくは彼女の最期の願いをかなえるというもの。

 

●最後の願いをかなえる小旅行

 

 ある高齢の女性は、何年も前にこの世から先立った夫と一緒に行ったというオランダの海岸へ。

 夫婦間のとても美しい思い出がそこに満ちているのかと思いきや、到着して彼女の口から出てきたのは、長い間、自分を家に閉じ込め、浮気をしていたという夫に対する、呪いにも似た不平不満でした。

 

 けっして幸せな結婚生活を送ったわけでなく、子供をもうけることもなかった。

 なのに、それでも死ぬまで添い遂げた。

 一体なぜなのだろう?

 自分が犠牲にしてきた感情は、ただ安心して人生を過ごすための取引だったのか?

 でもそれだけじゃない・・・。

 そうした問答の繰り返しの果てに、オランダの海を見れば、最期にその答えが見つかるかもしれない――

 彼女はそう考えたのかもしれません。

 

 もう一人、まだ中年の男性は、現在の恋人と一緒に過ごした湖へ――と願い出ました。

 その彼女とはいずれ結婚を考えていたが、1年前に病気が見つかり、断念したとのことでした。

 まだ人生半ばだと思っていたのに、すべてが手遅れになってしまった・・・。

 

 そんな悔恨の思いがあったのかも知れません。

 こちらのカップルの場合は、スタッフはできるだけ二人だけでそっとしておこうとしていました。いつまでも一緒に湖を見ている二人の後姿が印象的でした。

 

 いずれも、このラストドライブが終わって1ヵ月経たないうちにこの世を去りました。

 

 感動を押し付けたり、人間の良心を謳い上げるような演出をするわけでなく、ゴロンとありのままを転がしたような作品で、とても素直に見られました。

 

●スタッフにとってのラストドライブ

 

 組織のスタッフの一人――60代の男性は、なぜこの仕事をしているのか、との質問に、家庭で暴力(おそらく父親から)振るわれたという話をしました。

 定年退職後、そうした幼少期の体験から人の幸せに貢献することをしたいと強く思うようになったから・・・と語っていました。

  

 また、別のスタッフ――母親の、自分の子供たちにこの仕事について説明している姿も印象的でした。

 

 ちょっと聞き逃してしまったのですが、このラストドライブ――人生最後の小旅行を実践するスタッフは登録制で、たまたま日にちが合った人が出向くそうです。

 中には休職中の看護師や介護士の人もいるようですが、特別な資格が必要なわけでなく、説明会とちょっとした研修を受ければ、誰でもできるようです。

 

●新しい社会の潮流

 

 こうした福祉(そして医療の一種でもある)サービスが、社会でどの程度浸透しているのかはよくわかりません。

 しかし番組内で出てきたオランダの海岸やドイツ国内の湖畔のレストランでは、ごく自然にこうした人たちを受け入れている様子が見て取れました。

 さすが成熟社会のヨーロッパ、さすがドイツと思わざるを得ません。

 

 現在の日本ではこうしたサービスが行われることはまだ考えにくいですが、そう遠くないうちにスタートし、定着してくるように思います。

 それくらいニーズは高いと思うし、スタッフをやりたという人も少なくないでしょう。

 これはほとんどの先進国がいずれ体験する、新しい社会の潮流なのだと思います。

 

 人間は最期まで不可思議で不条理な存在。

 死に瀕して、人が何を望み、何を語り、何を悟るのか。

 それを死に行く人が、支え送る人が、互いに直視し、実感することは、人間の未来全体のスープの素になるのではないのかな。

 


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